伝統的な名前とは対照的な名前と言うのが現在の日本国内には、ある。
山田太郎(やまだ・たろう)とか鈴木一朗(すずき・いちろう)とか言う名前は、一度で読めるし、耳で聞いただけで直ぐに漢字で書ける。
実に良い名前である。
小和田雅子(おわだ・まさこ)さん、とか、川嶋紀子(かわしま・きこ)さんとか言うお名前の方もかつては日本国内に居た。居らしゃった。現在、名字はないけれど。
以上、四名のお名前は、当然だけど、読めるし、書ける。
前提条件として、義務教育を終えた日本人として、であるけれど。
(あり得るエラーの一例として、○「一朗」→×「一郎」と書く、「紀子」を○「きこ」← ×「のりこ」と読むという程度だろうか。)
昨今、名付け親以外は読めないし、書けないと言う名前のある事例が多数、出ている。
個別の事例を挙げることは、ここでは避ける。
とは言え、「例えば」、と言うことで、雰囲気だけは伝えようと思う。
例えば、アニメのキャラクターのような名前。
例えば、石之森章太郎原作の初代仮面ライダーから派生した仮面ライダーの亜流のライダーのような名前。
例えば、日本企業の松田自動車で販売している自動車の車両ような名前。
これらの名前を、ひらがなやカタカナではなく、わざわざ日本国で使用されている漢字で書く。
呉智英(くれ・ともふさ)氏は以上のような、「他人には読めない名前のこと。古くからあった難読姓、難読名ではなく、親などによって「無理読み」で付けられた名前をたとえていう」名前を「暴走万葉仮名」と呼んでいる、ようだ。
名付け親以外は、読めないし、書けない。
実に、はた迷惑である。
役場で混乱しているし、企業で混乱している。
当然、学校でも混乱している。
賛否については、両論ある。
しかし、今日、混乱の現場を目の当たりにして、実感したのであるが、
「頼む!これ以上の混乱が起きるようなことは止めてもらいたい。」
このことを声を大にして、言いたい。
役所の役人も、学校の先生も、読み手は大人である。
当然、彼、彼女たちは、それ相当の教育は受けてきたし、習熟してきた筈の大人である。
だから、「暴走万葉仮名」と出会ったとして、「読めないのは私個人の責任ではない。読めないのは名付け親の責任である。」と瞬時に判断できるのである。
しかし、である。
今日、小学校の現場で、ある時間のある場面に出くわした。
学区内の、ある地区の子ども達がまとまって帰る練習をする時間。いわゆる集団下校の訓練の時間のこと、である。
地区のリーダーの役割を担う、小学校六年生がいる。そして、新しくこの学区に加入した、新一年生の名前を元気よく読み上げる、筈、の場面、である。
六年生は、リーダーとして面目を保ちたいところである。
一年生は、元気よく返事をして、地区の先輩達に認めてもらいたいところである。
ところが。
六年生は一年生の名前が正しく読めないのである
一年生は六年生に正しく読んでもらえないのである。
悲しいのは、六年生として義務教育を六年間、真面目に終えていても、一年生の名前が読めないのである。真面目に学習していれば、いるほど、読めないのである。
今まで僕たち、私たちが勉強してきたことって何だろうかと思うに違いないのである。
こんな情けないことってあるだろうか。
山田太郎、鈴木一朗だったら、決してこんな結果にはならないのである。
読めない名前のお陰で。
一年生も悲しい。
六年生も悲しい。
先生も悲しい。
お願いだ。もうこれ以上、こんな悲しいことを増やさないでほしい。
世の中の親たちよ!
お願いだから、もうこんな馬鹿な真似、やめてくれ。
自分勝手な名前を我が子につけて、周囲を迷惑と混乱と不幸に巻き込むようなことはもう止してくれ。
たくさんの漢字の知識なんて(「バラ」を「薔薇」と書けるとか、「しょうゆ」を「醤油」と書けるとか)、本当はそんなに必要無いんだ。
世の中で本当に、本当に、必要のは、義務教育程度のほんのちょっとの知識。
そして、ほんのちょっとの(本当に「ほんのちょっと」)の他人を思いやる気持ち、いわゆる想像力なんだ。