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“表現の自由”が奪われかねない法規制の動きは業界の自業自得?
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2010.11.30 |
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レーティングの制度がすでに定着しているのに、「暴力ゲームを子供に売ってはならない!」と声高に叫び、法規制を強めようと息巻くアメリカの政治家たち。連邦最高裁では、カリフォルニア州議会で通過した法案が違憲かどうかをめぐって審議が続いているところ。もしかしたら、ゲームをめぐっては“表現の自由”が保証されなくなるかもしれない。
そんな、大きな痛手にもなりかねない事態を招いたのは「ほかならぬゲーム業界自身であり、自業自得だ」と、猛省をうながす人がいる。ニュースサイト“Eurogamer”のジョン・テティ記者だ。
テティ記者によれば、ゲームは政治家の思想に関係なく得点稼ぎに利用されてしまっている。法規制を訴える政治家はなにも保守派ばかりではなく、例えば、法案の発起人であるリーランド・イー議員はリベラルな地区の選出だし、保守とリベラルが拮抗するカリフォルニア州議会においても、法案は22対9の大差で通過している。そして、この法案にサインしたアーノルド・シュワルツェネッガー知事は、共和党の中でもやや左寄り。
このようにゲームが標的になる傾向は、ゲーム企業が今まで近視眼的なマーケティングや広報活動を闇雲に続けてきたために高まったのだという。
「ゲームは芸術」とは口先ばかりで、実際には、新作をたくさん売ることしか頭にない。トレイラー映像で衆目を集め、細切れのプレビュー情報をプレスに流し、発売後はさっさと次のタイトルの売り込みに移行する。レビュースコアと売上本数でゲームを評価する風潮も増していく。こんなことをくり返していけば、芸術的観点が薄れていくのは当たり前。目先の利益を追って自然を破壊する焼き畑農業と同じだ。
一方、アメリカの映画業界に目を移せば、毎年恒例のアカデミー賞において、過去1年、あるいはその前にさかのぼる作品の芸術性が語られる。新作映画やテレビ番組の公開時には、クリエイターや出演者たちがメディアに大きく露出して作品を語り、アーティストとしての顔を印象付ける。ところがゲーム業界はというと、毎年のE3でこれから先発売されるタイトルの売り込みにばかり必死。ゲーム開発者の露出も、一部の有名クリエイターを除いて限定的だ。
映画は時代を超えた芸術で、ゲームは使い捨ての消耗品――そうみなされてもしかたがないのではないか? ゲームを取り上げるメディアもレビュースコアによる評価を改める必要がある、というのがテティ記者の立場。
テティ記者はさらに、新作『Medal of Honor』にまつわる騒動でのElectronic Arts社の対応を強く批判している。
この騒動は、同作のマルチプレイモードで、タリバン兵がプレイ可能キャラであったことに端を発して起きたもの。これに対しEA広報は「ケイドロで警察を演じる子供もいれば、泥棒を演じる子供もいる。本作ではタリバンを演じるプレイヤーがいるというだけのことです」とコメントした。しかし、「アフガニスタンの戦闘を子供の遊びにたとえるのか」と反発はかえって高まり、しまいには英国防相が自国での発売禁止を要請する事態に。結局タリバンの名称は“敵対勢力”に変更された。
記者はこの進展について「EAのコメントは、近視眼的な企業が世間の反応に不意をつかれたことを如実に示すものだ」とばっさり。「“ゲームは芸術”との認識が本当にあれば、挑発的な内容の正当性を訴えることもできたのではないか? 企業は開発者に自分の言葉を語らせ、芸術性を世間に認めさせ、世間を味方につける努力を払うべきだ」と言っている。
海外ではこれまで「ゲームは芸術か否か?」という議論が活発だったが、実はゲーム業界はそんな議論をする余裕もないくらい、崖っぷちに追いやられていたのかもしれない。
(中島理彦) |