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マル暴環境 下町育ち
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子持ち学生奮闘記
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ガッツ石松番外編
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キャリアの指導員・署長の彼女?がキャリアの嫁に
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採用ポスターのモデルに
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東京無人ベイサイト 全裸のアベツク
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ハイジャツク出動 滑走路をほふく前進
〔準備中〕
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署長は友達・単身赴任 ゴルフ・カラオケいつでも一緒
〔準備中〕
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エリートからの転落
〔準備中〕
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方面本部は鬼より怖い お布施がわりのビール券がいっぱい
〔準備中〕
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馬鹿らしくてやってらんねえ・・・気ままな観察官
〔準備中〕
12,
母死す・・・見せられなかったね「署長の姿」
〔準備中〕
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さようなら警視庁 しばらくは言わざる 書かざる
〔準備中〕
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その他、有り余る警察回顧録を随時掲載していきます。拝命同期諸氏が、署長や本部課長になっている今日、「警察がんばれ」の投稿としたいが、時として批判的内容の時はご容赦ご容赦・・・
■ マル暴環境 下町育ち
(2000.5.30作成)
私が警察官と言う「思いもよらない職業」を選択したのには幾つかの理由がある。一つは就職時、ほとんどの採用試験で面接までいくが、片親・戸籍の複雑(里子による改性など)さを面接官が決まって聞いてくる事。そして一流企業不合格の理由がそこにあると思った事。母親が「地道な公務員」を望んだ事。当時飲食店を営んでいたがその常連に母と同郷の刑事さんがおり日参され「警察は努力次第でドンドン偉くなれる。」と勧奨された事等々である。
その飲食店は「学生同棲」まで始めてしまった私自らが経営していたが、就職が近くなったと言い母の手を借りていたものである。上野からすぐ近く、まだ競輪場のあった後楽園の利権に巣食う暴力団達が昼間からお茶を飲みに来る絶好?の場所にあった。中学生までの同級生はダフ屋として・・或いは昼間から雀荘・パチンコ・ビリヤードに出入り。そして奴らに「昔のよしみ」でツケをさせないように目を配る。
小さい頃、銭湯の一番風呂で体に石鹸を塗りたぐりガランを競って滑っていると「うるせいぞ。ガキ」と決まって刺青のお爺さんから怒鳴られる。口答えしようものなら裸のまま逃げ出す・・・そんな社会教育?も珍しくはなかつた。
2度目の養父が「明治の時計職人」。顔じゅうにはやしたヒゲをなでながらジロっとにらんだときは手にした道具のかなずちが飛んで来るとき、脱兎のごとく神社の裏山に逃げ込み防空壕の残骸がしばしの非難場所となったものである。
その神社は今でこそ「つつじの名所」として紹介されているが、悪がきどもの成長の場所であった。
野球以前の「ゴロべース」と言う球技やめんこビー玉での「幼い」遊びが、喧嘩、番長対決・学校集団暴行に発展する。今の時代なら死人の出そうな争いでも、そこには一定のルールがあった。また暗闇の神社は思春期にはほのかな香りを期待させる場所ともなった。
上野・浅草・池袋をアジトとする暴力団員はこの至近の下町に大勢居住しており、縁日や祭礼でおのずと顔見知りとなってしまうのである。ましてや元気な子には予備軍としての「声」がかかり、いつしか「その道」を進んでいる友も少なくなかつた。
そんな環境の出身。警察学校同期のほとんどが地方出身、数人の東京出身がいても私のような環境の者は一人もいない。この経験がその後の警察生活をある意味「面白いと感じさせた」のかも知れない。
教官に代わって「博打」の講義をしたり、月に1〜2度の外出で吉原・堀の内・歌舞伎町へうぶな級友を案内したものである。
■ 子持ち学生奮闘記
(2000.6.5作成)
新卒の4月入校とは少し遅れて、10月に入校となった警察学校のクラス(教場と言う)は大卒中途採用と言うこともあって前代未聞の教場であった。年齢は採用上限ギリギリの28歳からどういう訳か短大卒大学卒実力と言う21歳の者までいたそして5人の妻帯者がおりこの処遇がここで紹介する話である。
警察官は試験的採用の入校時まで、執拗なまでの身辺調査が行われる。私の場合は私すら会った事のない「実父」の所在を調査し面接をしたと後になって母から聞いた事がある。母は放蕩の「実父」が犯罪者になっていなくて良かったとも話していた。もし本人、身内にある種の既往症や前科・前歴、特殊思想やイデオロギーがあったならばまった無く不採用である。そんな訳で当然入校当時9ケ月の身重の妻を持つ私の履歴を知って「採用」したのである。他の4人の妻帯者もそれぞれ妻と別居の「全寮生活」を承知で来てはいるが「塀の中の生活」は考えている程甘いものではなかった。
最初の1週間、それまで好きかってに昼と夜とが逆転していた生活の私には相当過酷な日課であった。朝5時の起床から夜10時までの消灯はすべて分きざみの時間割、途中の移動も整列・服装を整え・敬礼目礼の作法である。「どうせ最初の1週間だろう」とたかをくくっていたが、校内の生活はまさに映画に見る軍隊?のそれであった。そして1週間の後、晴れて学生としての本入学。それからは今まで以上の厳しさを教官・助教と言う2人の担当から教えられていくのである。しかし本入学以前の1週間で荷物をまとめ去って行く姿もあった。
さて、本入学も済み10日以上も経過したのに、外出や外泊の知らせがない。5人の妻帯者はそれぞれに何やらヒソヒソ話。とどのつまりは「外出・外泊について」誰一人として応募の時点から今まで聞いていなかったのである。私も執拗に勧奨してくれた母と同郷のデカさんに、「普通の会社と同じだから」程度の話しか聞いておらず、全員が「この件」については確認していなかったのである。
教場には場長と副場長・会計の3役がおり会計の私以外の2人は警察官の息子であった。私はその2人を煽動し「妻帯者に外泊を」との提案を出させたのである。ところがその提案の張本人が私である事は歴然、その日から妻帯者5人を代表して教官・助教の説得、室長、教養部長、副校長等々と怖いもの知らずの交渉・・・その人達が警部・警視・警視正等々の上官との認識が全くなかった「めくら蛇」であった。
約2週間の直談判や、お願い、説明、泣き落し・・・やっと勝ち得た「隔週の外泊」であった。この件でも私がこの年初めての早大出と言う期待料が加味されていたことを後になって知った。
それから約1ケ月後、助教の教える「教練」の実技訓練。校庭で揃わぬ行進や隊列編成を遠くで珍しく教官が見学していた。「へえ・・たまには助教の教えぶりも見るんだ」と思っていたが、終了のベルが鳴ると私を手招きするのである。礼法通りの挨拶をして近ずくと「子供が生まれたぞ、女の子だ」「行って来るか?特別だぞ」と言って当日授業後の特別外出を許可されたのである。その後4ケ月「子持ちの学生」として何かにつけ注目を浴びる中野警察学校生活だったのである。
■ ガッツ石松番外編
(2001.6.10作成)
6ケ月間の警察学校での軟禁状態?から開放され初めて実務に就いたのが「池袋署」である。今でこそ東西口に広がる盛り場は城北地区最大で街並みも良く整備されておりサンシャインやメトロポリタの施設をはじめ、縦横への大きな道路もよく完備している。
当時は、駅前のロータリーだけ整備されたのみで、その先は東西口とも薄暗い異様な雰囲気であった。私の初めての交番勤務は東口から少し離れた、立教大学との分かれ道にある「二又交番」で今でもそのままである。
「交番制度」は地域の治安維持に極めて効果的と世界的にも評価されている制度で、KOBANの文字そのままで認知されている程のものである。
しかし、第一等交番と言われる駅前の極めて忙しい交番と、ただそこに交番があるから配置しなくてはならない様な交番とさまざまであった。新任の頃は誰でも忙しい交番を望むものであるがその配置にも序列があり、まずはそこそこの交番からスタートさせられるのである。
それでも「二又交番」は東口から流れる人波がまだ続く場所にあり、喧嘩やもめごとの多発するロサ会館まですぐの場所、何なら駅前近くまで「警ら(巡回)」し実績を上げるのに事かかない交番であった。
そんな「二又交番」での新任時代間もなくの頃、第二当番と言う翌朝までの勤務日の午後10時すぎ、一番いやな立番勤務(交番の直前に立ち四囲への警戒をするだけ)のさなか、「ピピーピ」と受令機に管内事件発生の指令が入った。内容を指令のまま再現するとこうなる「警視庁から各移動、池袋管内複数の喧嘩、場所池袋3丁目15公園の近く、けが人が出ている模様各移動にあっては受傷事故防止の上速やかに急行されたい!!」。
「班長班長、3丁目の公園の近く、喧嘩だって、行って来るよ!」と休憩中の年配班長に言い残し、脱兎のごとく自転車に飛び乗り向かったのである。現場付近は細い道が続き番地も不明確で所管区とは言えすぐに目的地にたどりつけなかったそれでも「おまわりさん、あっちあっち」との目撃者の誘導でなんとか到着すると、10数人の乱闘である「やめろ!やめろ!警察だ!」と中に割って入ろうとすると、良く見れば1対10数人の乱闘なのである。
公園の金網を背に1人の男が、10数人の攻撃をかわしながら私の姿を見ると「おまりさん、俺の事知ってるだろ!こいつら大変なんだ、言うこときかねえんだ」とひたすら攻撃をかわしているのであった。ところが暴漢グループの方は制服姿の私を見ても、一向にやめる様子もなく仲裁に入っている私にまで攻撃してくる始末である。ほんの数秒なのであろうが若かったわたしも、その男に対して、「これじゃだめだやっちゃえ・・」と言ってしまったのである。
それから数分後、パトカーや同僚の勤務員が到着するまで、制服は破られるは受令機は飛ばされる制帽は無くなるは大変な騒動であったが、その男は何処を負傷するでもなく平然として本署に同行されて行ったのである。傷ついたほうは10数人の暴漢側で、顔に数針縫う者が続出していた。
「その男」がガッツ石松氏であったと分かったのは、数分後本署から「みんなが手柄の様に同行して来たが、第一臨場の君が来なければ状況が分からない」と上司からの電話。
一応全員を「相互暴行」の現行犯人として検挙し、逮捕手続書を作成した時であった。「それじゃあ強い訳だよ」今売り出し中の三度笠ボクサー。
犯行状況の中でガッツ氏が防戦一方だった事実が認められ「ライセンス剥奪」にならなかった事件であるが、あの時「喧嘩両成敗ですよ」との逮捕手続書を書いたら、後の世界チャンピォンは誕生しなかったのである。
その後間もなく、東洋チャンピオンになったと配置変更先の西口交番を訪れ「屋台のホットドック」を差し入れてくれたのは、なんともガッツ氏らしいと思った。
■ キャリアの指導員・「署長の彼女?」がキャリアの嫁に
(2001.6.15作成)
この記事は関連する前後の関係で「その女性」の嫁ぎ先から、高名な現キャリアの名が判ってしまうのでかなりあいまいな記述に終始する事を容赦下さい。
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国家公務員上級職試験を合格し、「官僚」の道を歩く人の中で「警察」を選考する人は、ある意味「欲のない人」と言えるかも知れない。
後藤田、亀井、秦野、下稲葉等々警察官僚から政界を志すと言うのであれば警察を選考するのも一つの方法かも知れない。
私は現職中二人の「警察官僚」の指導員と一人の「警察官僚」上司に仕えた事がある。
その三人に共通しての認識は、学問的に卓越している事は当然だが、学者タイプ・鷹揚であくせくしていない・畑が違うとの事であった。
「見習」のため見せかけは警部補の階級章だが、正式身分は「警視待遇」であり署長はじめノンキャリアの幹部が腫れ物にでも触るかの扱いをするのである。
その内の一人とは、2当番の交番勤務(計8日間)の指導に当たり年齢も同じくらいであったのでズケズケ思う事を聞いたものである。
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他官庁との調整(肩ならべ)を意味しての配置
やはり「官僚」は東大出を中心とする学閥である。私が指導についた「官僚」は京大卒の人であったが、警察を選考した理由の中に「警察が他の官庁と同じ目線でものを言うには、同じくキャリアでなければダメ」と言い切ったのである。
いくら、数々の昇任試験を突破し、先んじてより大きな責任を与えられたとしてもノンキャリアのポジションはキャリアの相当下に位置せざるを得ないのである。
警視庁でも、本富士・神田などの警察署は歴代キャリアの署長を配している。そんな30代そこそこの署長でもこちらはキャリア、実務に疎くても行く末は総監や長官になる人材であり、署内の副署長・課長ポジションには有能な実務家を配し「保護」しているのも当然なのである。
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キャリアが万能?
もう一人の上司であったキャリア、もうじき30歳になるが一人身の気軽さから休日はボサボサ頭でパチンコ通い。女性関係も無縁の風貌。ただ法理論・刑事手続きなどは抜群のキレ・・・さすが東大出の官僚である。実務家の刑事連中との大きな違いは「文章力(作成・読解)」である。事件記録の書類は斜め読みするかのごとく指摘する。机上の学問をした者としない者との差が歴然と現れるところである。
そんなキャリアが別の所属に転勤後間もなく、当時その署では「署長のガールフレンド」と噂され、「あの婦警には滅多な事を言うな」と囁かれていた婦人警察官と結婚したのである。同女にしてみれば将来は総監・長官を約束された人物との結婚。まさに玉の輿である。
最近「警察不祥事問題」の国会答弁で、そのキャリアの姿を見た時「懐かしさ」で当時の思い出が頭をよぎったのである。
■ 採用ポスターのモデルに
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警視庁警察官採用ポスター
警視庁警察官の採用ポスターは誰でも街頭でみかける事があるでしょう。今のポスターはモデルを使い大きな庁舎や白バイを配し見事な出来栄えになっていますが、約30年前の採用募集にはこんな事もあったのです。
警察官も他の公務員同様「不況の時には良い人材」が応募するのですから、バブル以降には以前と比べ「良い人材」が受験しているものと思います。
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「学校募集」とポスター
私の応募した時はまだこんな採用事情ではなく、「でも警官」と言って、「警察官にでもなるか」と言う程度の人材を「街頭」でも募集していたのです。しかし人の自由を拘束するという特別な「権限」を持っている警察官が、こんな「でも警官」ではおかしいのです。色々な採用手段を考えた一つに「学校募集」という方法があったのです。卒業生自らが卒業校の就職説明会へ勧誘に行くというもので、その時に作られたのが、勧誘用のパンフレットです。
当時は前記のような大々的ポスターは「警視庁全般」のものが一、二度あっただけで「採用独自のポスター」といえるものは有りませんでした。(そう思う)
そのパンフレットは大卒募集専用のものだったのですが、10数名の卒業生が自らの現在と抱負をメッセージした内容で、一応は卒業生の中でトップ昇任の者が選ばれていたのです。
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たった一人の卒業生
もっとも、私の学校は私前後の数年にノンキャリアで警視庁を応募し採用された者が私一人しかいなく、当然私がモデルと言う事なのです。後日そのパンフレットを携えて「学校募集」に望んだ時、「警視庁」の番が来ると会場の後輩たちがいそいそと席を立っていった惨めさを今でも覚えています。
好景気に沸いていた昭和40年当時、好き好んで薄給の公務員を選択する者、まして軍隊のイメージとさほど変わらない「警察官」を選択する方が奇異だったのかも知れなかったのです。
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これ一度の現職モデル
警察官個人の顔・氏名・現在をポスターにし配布したのは後にも先にもこれ一度だけであった。その職務柄、適当ではないとの判断で現職警察官をモデルにしないのであるが、その後の極左学生事件やオウム事件を考えると当然と言えるものである。
たった一度の現職モデルポスター、警察官であったことの足跡をこれ程しるしたものはない良い記念である。
■ 東京無人ベイサイド 全裸のアベック
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名物署長との縁
大好きな海を管内に、舟艇課という海上専門の特殊な部署を持っている東京水上警察の仕事は警察生活の中で最も楽しい時期であった。
初級幹部として初めての着任、その後の昇任時にも同様の事があったが「警察礼式」にのっとって着任の挨拶をすると、にこにこ顔のS署長が座れ座れと・・・私の「経歴書」を手元におき、いきなり「うちの息子が今年君の大学に入ったんだよ」と息子の自慢話なのである。
警察官としては数少なかった大学の卒業生しかも、苦難の受験戦争を突破した息子の先輩・・・この事だけでこの署長からも絶大なる信頼を得たのである。特に「訓受」と言う毎朝の話について、今回のはどうだったか?私に意見を求めるのが恒例で、「話の上手なS署長」の威厳をいつも確認しておきたい様子だったのである。
その頃は「警察での処世術」も少々心得ていましたので、部分的に賛美を送りくすぐると「そうかそうか」と喜んでいたものである。
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臨海地域すべてが管内
水上署は海面の管轄以外に7つの行政区を管内に持つとほどで、まだ整備されず各区に移管されていない広大な陸地を担当していたのである。
今でこそウオーターフロントの盛り場として賑わっている「お台場」エリアも、材木置き場として人影もなく僅かに「船の科学館」だけがポツリと存在しているだけであった。
造成用の残土がうず高くつまれた埋立地は、自転車モトクロスの格好の場所となり、無資格操船という「船の無免許」を日光浴を兼ねて一日中張り込み、年に100体近にも及ぶ「水死体」の収容も苦にはならず、毎日が潮風に触れる楽しい職場であった。
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アベックの別天地
埋立地とはいえ、先々の開発に備え道路だけは当初から十分整備されていた。こんな場所では犯罪が起きれば決まって重要犯罪。海上警ら隊との名称だが10人ほどの部下を持ち、水上艇とジープと言う「水陸両方」からの警らである。
そんな立派な道路に、道に迷い或いは故意に迷い、多くの車が入ってくるのである。道に迷った車は滑らかな走行であちこち走り周り、そのうち出口を見つけて立ち去るが、「故意に迷って?」きた車はすべてがアベックである。
二人だけの場所を求めて来るのであるが、そんな感情がエスカレートして「全裸で抱き合う」事になってしまうのである。
警らを開始した当初は、道路の解放に伴って「無免許での練習場所」として定着、立てたばかりの電柱や覆いのはずしていない標識が彼らの被害者?・・・、果ては警視庁でも有数の「無免許重点地域」となり、ついで京浜地区の暴走族のい集場所となり、さらには認知度の向上と共に「アベックの別天地」となってしまったのである。
共用が開始されるまでの「防護柵」はアベックにとって「彼らを防護する柵」と勘違いされたのである。