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運ちゃん
性別:
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職業:
リーマン
趣味:
バイクとタバコと読書
自己紹介:
非活になって、早10年。
創価学会の事や公明党の事、そして仏法などを常識目線で考えていく努力をしています。
おかしいものは、おかしいと言えなきゃダメですね。
あと自分の頭で良く考えましょう。
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想学サロン2.0
非活の壮年部が、今の組織についてつづります 
ようこそ!!
「想学サロン2.0」へようこそ。
過去には一生懸命活動に励んでいた時期もありましたが、十年程前に
創価学会っておかしくないかい??
という疑問を持ち始めてかr、少しづつ活動から遠ざかり、今では非活の壮年部となり、組織ではアンタッチャブルな存在となっています。

このブログでは、僕が日常考えている事や感じる事を、僕の目線で綴って行きます。
お時間のある方は、是非ともお立ち寄り下さい。
ついでにコメントを残していただけるとうれしいです。

このブログでは、以下の事は禁止とします。
1)口汚く罵る行為
2)いわゆる「荒し」の行為
3)無意味な「理屈をこねるだけの議論」
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こんばんは。
ちょうど一週間前に統一地方選挙の前半戦が終了しました。

前の記事のコメントや談話室のスレッドでも話題になっていましたが、この統一地方選挙の結果を見て、すこし僕なりの概観について書いてみたいと思います。

聖教新聞紙上では、やはりというか想定とおり「大勝利」という単語が出ていましたが、今回の選挙は本当に大勝利であったのでしょうか?

ざっくりですが、全体の得票数を確認してみたのですが、2007年の選挙と比較して、以下の状況を確認しました。

●県会議員選挙
前回(2007年)票総数:約3,816万票
今回(2011年)票総数:約3,349万票(約13%減)

●政令指定都市選挙
前回(2007年)票総数:約859万票
今回(2011年)票総数:約788万票(約8%減)

今回の統一地方選挙で言えば、やはり東日本大震災の影響もあってか、全体的には投票総数は減少している傾向が顕著であったようです。

その中で主要政党(自民党・民主党)と公明党の得票数と議席数について、だいたい以下の状況でした。

●県会議員選挙得票・議席数
1)自民党
 2007年得票数:約1,466万票 1,309議席
 2011年得票数:約1,255万票 1,212議席
 票数:-211万票 議席:-97議席
2)民主党
 2007年得票数:約627万票 375議席
 2011年得票数:約584万票 346議席
 票数:-43万票 議席:-29議席
3)公明党
 2007年得票数:約295万票 181議席
 2011年得票数:約254万票 171議席
 票数:-41万票 議席:-10議席

●政令指定都市選挙得票・議席数
1)自民党
 2007年得票数:約229万票 276議席
 2011年得票数:約190万票 222議席
 票数:-39万票 議席:-54議席
2)民主党
 2007年得票数:約185万票 194議席
 2011年得票数:約135万票 147議席
 票数:-50万票 議席:-47議席
3)公明党
 2007年得票数:約139万票 169議席
 2011年得票数:約123万票 157議席
 票数:-16万票 議席:-12議席

この内容を見ると、公明党はけして「大勝利」という事ではないというのは一目瞭然です。

要は投票率が低下する中、既成政党というのはのきなみ議席を減らしているという事が見てわかります。全体をみても「諸派」「みんなの党」などの新政党への議席流出が顕著み見て取れる状況でした。ただ議席数の現象に歯止めをかけたのは、やはり低投票率であったのではないかと推察します。

でもそういう中で公明党は「現職2議席落選」で住んだと言っていますが、みても解るように恐らく候補者を絞り込みをする中で、2議席落選という事で押さえ込んだという事ではないでしょうか?

これは戦略勝ちという事だとは思いますが、大勝利という姿とは違うと思います。

でもまあ地方選挙というのは国政と違い、地元の利権誘導が強く絡む選挙でもあり、動きは少し異なると思います。

ちなみにですが実名は伏せつつ、今回、僕の地元の公明党地方議会議員は当選を果たしました。
地元では1週間前に「追い詰められ説」や「危機説」が組織の中で流布をしまして、うちのヨメなんかもそれを聞いて慌てていました。
しかし僕は「絶対に公明党の●●さんは当選するよ、そうだなぁ・・・票数は×万×千票は絶対でるから大丈夫。それよりも民主党や自民党が慌てているんじゃないのかな?」と話をしました。

そして投票日の夜、開票結果は僕の読み通りの票数で当選をしていました。
まあそれでも前回選挙よりは票は減少していましたが、それは他党の候補も同じ事。

何故、僕がここまで票を読めたか?

これは数年前に僕は地元の企画室にいて、候補者の人となり、そして地元の自治会の支援状況を知っていたので、それをベースに考えたからです。

地方議会の議員選挙は「国家の動き」というよりは「どこそこのカーブミラーをどうする」とか「道路の整備」とか、細かい生活に基づいた要望を実現できるかどうかにかかって来ます。

そして候補者がそれを実現する事で、地元自治会を始め有力者の動きが変わってきます。創価学会組織の票数というのは基礎票であり、実際にはそうあまり動かないものです。

そして地元自治会の評判を聞いても、この地元の公明党議員の評判はけして悪いものではなく、フットワークの軽い議員という評判でした。

だから僕は、数年前の票数を割る事はないと確信をしていましたし、結果としてはそうだったという事です。

つまり議員がしっかり議員の活動をしていれば、基盤を築く事ができるという事でしょうね。

その一方で、ある県会議員は毎回「超激戦区」指定を受けています。

この県会議員、地元の組織幹部の中ではすこぶる評判が悪い。なぜならば態度が傲慢で横柄だという事。

そのために毎回「超激戦区」の指定を受けて、様々なところから支援が入り、当選を勝ち取っているという状況です。

はっきり言って、こういう議員はさっさと落選させるべきなのですが、なぜか「超激戦区」を毎回受けていて、評判が幹部の中で悪くても、「公明党議員」という事だけで、全国各地から支援がはいるんですよね・・・・

こういう縮図が実は公明党を腐らせている一因であるという事、創価学会の活動家も気づくべきです。

でも結局、選挙戦が「信仰の活動」であり根底に「池田先生にお応えする戦い」「功徳の大きい戦い」という事で、こんな言葉は悪いですが「クソ」みたいな議員も当選回数を重ねていき、地元の公明党議員団の中でも幹部になっていってしまいます。

こんなバカみたいな選挙活動なんて、さっさと止めればいいのに、今も統一地方選挙の後半戦に向けて、各地の創価学会の現場では選挙活動を開始しています。

さて、殴り書きの様な今回の記事ですが、最後に少し概観をまとめてみたいと思います。

 ・公明党の勢力は少しずつ確実に減退しているし、それが止まる
  兆候は全然無い。
 ・しかしそれを表立って見えない様にしているのは、立候補者数
  を絞る事で「落選数」を目立たない様にしている為。
 ・信仰をベースにした支援活動のため、「クソ」の様な地方議員も
  当選を続けている事実は変わらない。

こんなとことでしょうか。

まあこんな記事を書いたところで、実際に現場の活動家幹部は気づかないのでしょうし、己の行動を否定されたくはないのでしょうが・・・そろそろ現実に気づくべきではないでしょうか?

本日はここまでとします。

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こんばんは。

震災の復興はまだまた道遠くという感じですね。

鉄道ダイヤや計画停電だけを見ると、何か落ち着いて来た感を覚えたりしますが、これから夏へ向けての電力需要や、原発問題、そして被災地のまだまた厳しい現状を見るに付け、まだまだ時間を必要とする現実に打ちのめされる感じがします。

さて最近のニュースを見ると、アメリカでコーランを燃やした事がきっかけで、アフガニスタンでかなりの騒ぎになっているとありました。

またリビアの問題も沈静化してませんが、この世界の火薬庫と呼ばれる中近東の問題の根底には、根強く宗教問題が絡んでいます。

あとヨーロッパやアメリカを見ても、大きく見ればカソリックとプロテスタントの違いで様々な事もありますし、キリスト教の原理主義なんかもあったりして。

また日本でも創価学会の問題もそうですが、一時期話題になったエホバの証人やら、小さいとこでは顕正会だとかパナウェーブだ統一教会だアレフ(元オウム)だとか、、、、様々ありますね。

僕の好きな小説に田中芳樹の「銀河英雄伝説」がありますが、中に登場するヤン・ウェンリーという人物の台詞で以下の言葉がありました。

「人類には大きく二つの思想がある。ひとつは”命より大切なものがある”という思想と、もうひとつは”命より大切なものは無い”という思想だ。そして人類は前者によって戦争を始め後者により戦争を終わらせてきた。人類の歴史はこの繰り返しであるといっても良い。」

なかなか含蓄深い言葉だと思います。確かに人類の歴史はこの繰り返しです。またこの背景で、その思想を補完してきたのが、世に言う宗教だと思いますが、どうなんでしょうか。

僕が活動家であった頃、宗教を持たない日本人は「根無し草のような民族だ」と先輩から教えられました。世界では宗教を持つことが当たり前であり、宗教を持たない人間は信用もされないと。

でも世界を見ると、その宗教が故に戦争が起き、人はその中で宗教に救いを求めていたりします。また宗教が故に人を殺し、宗教が故に考える事を放棄したりもします。

いったい宗教とは何なのでしょうか?

なぜ日蓮さんが謗法を攻め、四箇の格言で他の宗教を徹底して攻めたのか?
学会の先輩からは「間違えた宗教は人を狂わせるから」と過去に聞いたことがあります。でもそうなのでしょうか?

たとえばキング牧師やマザーテレサはキリスト教でしょう。ガンジーはヒンズー教徒でした。ダライ・ラマはチベット仏教です。

宗教は様々あれど、行いが尊く、人間的にも素晴らしい人は歴史上でたくさんいます。

その一方で創価学会は「絶対正義」とかいいますが、内部で人格者を探すほうが難しいですよね。

そういった事から言えるのは、実は宗教というのが正しいとか間違っているとかは関係ないのではないか、、、つくづくそう思います。

だから日蓮さんが他宗を攻めたという事も、実は学会が理解している事とは違う事だと考えています。まあこのあたりの結論については御書を通しながら自分なりに答えを見つけようと思います。

ただここで、仏法の上からは一つのヒントが在るように思えます。

たとえば釈迦ですが、出家をしたのちに六師外道の教えを学んだとありました。
当時のインドは様々な新興宗教があり、釈迦もそこに先ずは答えを求めたという事でしょう。つまり古い宗教は見限っていたとも考えられます。
そして新しい宗教はどうであったか、、結果はやはり「得るものは無かった」として新興宗教を捨て去っています。
そしてそのあと、釈迦は菩提樹の下で瞑想に入り、数多くの過去世を省みつつ瞑想を続けた結果、悟りを開いたと言います。ある人がいうには「悟りを開いた」ではなく「知った」という事らしいです。

また日蓮さんは御本尊を「観心之本尊」として顕し、お題目を唱える事を実践法として示しました。ポイントは「観心」、、、心を観じる。

あるチベット仏教の高僧は「チベット死者の書」のなかで、「悟りとは当たり前のようにそこにある。」と言い、当たり前過ぎて誰も気づかないと言っていました。

こういう事を考えると、「宗教のドグマ(教義)」になんの意味があるのかと思います。

全ての宗教には「教え」があります。創価学会でいえば「師弟不二」ですね。また先に挙げたイスラム教ではコーランがあり、キリスト教には聖書があります。また当たり前ですが、仏教にも経典があります。

そして人々はその教えに束縛され、、いや、自ら進んで束縛され、それが自分の命や他者の命よりも尊いと錯覚し、行動してしまう。
また智慧のある小賢しい人物は、されを利用し人を思いのまま操ろうとします。そして操られている人が、その自覚も無いまま自ら進んで操られてしまっています。

これが宗教の負の側面であり、もしかしたら人類にとって一番の悲劇なのかもしれませんね。

宗教の「ドグマ」に振り回されてはいけない。

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こんにちは。

ようやく春らしくなってきましたね。
近所の桜の花も少しずつですが、開き始めています。

こういったものを見るたびに、「人間の社会の動きはともかく、自然の動きというのは留まる事も無く淡々と動き続けている。所詮は人間社会の事というのは大した事ではないのかなぁ・・・」と深く考えさせられてしまいます。

なんか日本の政治の動きを見ると、自民党の谷垣総裁を首相にして大連立を組むという話もあったり、でも統一地方選挙は来週に投票日があるので、いま組織の中では「不在者投票」を進めていたり、民主党を悪しく語ったり、共産党を仮想敵としていたりと、またそれを大法戦として必死に進めているんですよね。。。

所詮は人間社会の中の「日本」という国、「秋津嶋」の小さな社会で繰り広げられている事にしか過ぎない些細な事ではないかと、、、最近の僕は考えています。

そんな中ですが今日の記事では「創価学会の永遠の三指針」について、少し考えた事を記事にしてみたいと思います。

創価学会の永遠の三指針は、第二代の戸田会長が亡くなる少し前に示された指針であるといわれています。

曰く
・『一家和楽の信心』
・『各人が幸福をつかむ信心』
・『難を乗り越える信心』
この内容に第三代の永遠の指導者は2項目(。「健康長寿の信心」である。そして「絶対勝利の信心」)を追加して永遠の五指針なるものを2008年に提示していましたが、変な内容ですね。

まあ永遠の五指針は無視するにしても、永遠の三指針という名称も変なものです。

創価学会は「永遠の~」という事が好きなのでしょうか?
時代は変遷するし、動き行くもの。そういった中に「永遠」というだけ絶対不動のものがどれだけあるのか?

法華経にしても、示す法は「永遠」というものかもしれませんが、その顕れ方については変遷しゆくものです。

まあここで創価学会の教学を元に説明すると、不軽菩薩の唱えた「二十四文字の法華経」「妙法蓮華経」「摩訶止観」「南無妙法蓮華経」など、法華経にしても様々あると言っています。

では先にあげた「永遠の三指針」なるものも「永遠」という名にふさわしいものであるか・・・・どうなんでしょうか?

まあそれは後々に評価されるものとして、ここでは論じる事もないと思いますので止めにしますが、この創価学会の三指針の内容について再度確認をしてみたいと思います。

・一家和楽の信心
 これは説明するまでもなく、一家家族が「和楽」、つまり平和に楽しく暮らしていくという事を言っていますね。

・各人が幸福をつかむ信心
 これは信仰する全ての人が「幸福」となる事、そしてこの「幸福」というのは創価学会で言えば「絶対的幸福」をつかむという事を言っています。

・難を乗り越える信心
 この「難」というのは「困難」という事を指していると思います。人生には困難はつき物であり、それを乗り越える信心という事なんでしょう。

こう見ていくと、これにはそれぞれ順序があるのかもしれません。

まず基本になるのは「難を乗り越える」という事。
人生というのは、様々な困難があると思ってもいいかと思います。いま大河ドラマでは「江」をやっていますが、この中で北大路欣也が演じている徳川家康の言葉で有名な言葉があります。

「人の一生は重き荷を負うて遠き道に行くが如し」

まさに人生というのは「重き荷」を背負いながら生きていくという、まさに名言ですね。

そういった人生の中にある、幾多の困難を一つひとつ乗り越えていく。これが「生きる」という事でしょうし、人生なのではないでしょうか。
その「乗り越える」為の信心、つまり御本尊を信じる心で乗り越えていこうというのが、第一の指針の指すところではないかと思います。

そしてその「困難」を一つひとつ乗り越えていく行き方の中に、実は「各人が幸福をつかむ」という事につながるのではないでしょうか。

この「幸福」という事については、いまの僕には異論があります。

創価学会では「絶対な幸福境涯」といい「生きている事が楽しくて楽しくてしょうがない・・・そういう境涯になる事」と言っていますが、「楽しい」というのは所詮は天界の一分にしか過ぎません。恐らく創価学会でいう「境涯」という事で言うならば「無色界の天界」の一分にしか過ぎないと思えてならないのです。

僕は困難を乗り越える中、自分自身の人生の流れの中に、実は己が生命の動きと連動している部分を感じ、そこを通して己の中の「仏界」を感じ行く事、、、、少し漠然とした表現かもしれませんが、それこそが「幸福」という事を指していると思うのです。

けして「笑顔はじける生き方」ではなく、生きていく中では喜びもあれば悲しみもある、そして苦悩もあれば恐怖もある・・・・そう、様々な感情があると思うのです。

日蓮さんの御本尊を授持しようとも、この現実は一切変わる事なんてありません。

でもそういう生き方を通す中で、じつは自分の心の奥底に、何物にも粉動される事もなく、己の人生の中核をなすものが存在する事を感じ、何物にも打ちひしがれる事もなく、生き抜いていける。

こういった事を「幸福」と呼べば、「幸福をつかむ信心」の指針には意味があると思えます。

そして最後に「一家和楽の信心」ですね。

「一家=家庭」というのは、信心をしていようがしていまいが、続くものは続くし、壊れてしまうというものは壊れてしまいます。

そして信心をしていく目的、、いや生きていく目的として「家庭の維持」というのは絶対条件ではありません。

しかし「一家」というのを「縁を持つ人たち」として捉えた場合、この指針の読み方というのは少し変わってくると思います。

つまり「縁をする人たちが和楽で過ごしていける信心」、つまりそういった信仰を目指していくという事を指針としているのではないでしょうか?

でもそのためには困難を乗り越え、己の中にある不動なるものを確信できる、そういった信仰が大事だという事ではないかと思うのです。

その上で縁する一人ひとりが和楽で生きていく事ができる。

創価学会は本来、そういう事を目指そうとしていたのかもしれませんね。

でもまあ「永遠の三指針」について、そこまで深読みする活動家幹部はいないでしょう。

実は現場の活動家幹部はこの「永遠の三指針」について、うわべだけサラッと考えて「ふーん、そうだね」で終わっていると思います。

つまり信仰者といいながら、実は人生を生きていくという事について、あまり深く思索をしている人は無い。

実際はそんなところなんでしょうね。

もしいれば現場でもっと語られていると思いますよ。「永遠の三指針」ですから。

ここでは自分なりに「永遠の三指針」を考えてみましたが、人生を生きるという意味を深く思索する事について、創価学会の首脳は望んでいないと思います。

なぜならば、そんな事を考える人が組織内で増加すれば、恐らく信濃町界隈の指示を聞く人は少なくなり、「永遠の指導者」という事を受け入れる人は激減してしまいます。

つまり過去において「二十一世紀の哲人だれ!」という指導を出していましたが、一人ひとりが哲人であれば、公明党も支援をしなくなるであろうし、永遠さんが数多くの顕彰をされればされるほど離れていき、結果として聖教新聞の購読率も低迷し、民音なんて誰も見向きもしなくなるでしょう。
創価大学に進学しようとする学生も減少し、結果として創価学会の組織は低迷の憂き目にあう・・・・

だから深く思索をするという事を軽んじているのかもしれませんね。

創価学会活動家幹部、特に現場で動いている一人ひとりに問いたいです。
「創価学会の永遠の三指針」について考えた事ありますか?

そしてその思索の先に見えるものと、現実の創価学会はどれだけ乖離がありますか?

少し想像してみませんか?

本日はここまでとします。

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こんにちは。

東北関東大震災から2週間が経過しました。
震災の被災地では、未だに復興の目処も見えず、関東近郊でも浦安方面なんかは、まだまだ復旧がままならないようです。

ただし、僕の住んでいる箇所では鉄道も変則ダイヤながら運行しており、JR線についても運行がなされています。

ガソリンについても先週初めまでは、スタンド前に3キロ程度の渋滞ができていたり、スーパーマーケットでは品薄状態でしたが、ここ2~3日の間には以前の状況に戻りつつある様です。

でもそうはいいながら。計画停電は今後も続きますし、これから夏場にかけても大変な時期はあるような気がしますね。

(続き・・・)

そんな中、先日の聖教新聞では「我らには師匠という太陽がある」だそうです。

この国難ともいう状況の中、いまだに「太陽たる師匠」は姿を見せませんが、どういう状況なんでしょうね?

春季彼岸勤行法要でも、第二別館で祈ったとありますが、写真すら出ていません。
本部幹部会の同時中継にしても然りです。

これに対しては2つの仮定があると思います。

1)実は永遠の指導者は、写真にも出せない様な悲惨な状況か、もしくはもう昏睡状態である。

2)実は永遠の指導者は健在だが、後継を完全に任せる意味もあって、完全隠居を決め込んでいる。

いったいどちらの状況なんでしょうか?

もし「1)」の状況を想定した場合、まあ可能性は一番高いと思いますが、この状況では以下の問題があります。

・はたして「メッセージ」とか、そういったものの中で本人が書いたものはどれだけあるんでしょうか?いままでの人間革命、新・人間革命も代筆というのが、ほぼ明らかになっていますが、被災地では「永遠の指導者のメッセージだ」という事を信じきっているんですよね。これはある意味で、詐欺行為ではないですか?
また永遠さんの戸田会長は3・16の記念式典には車架に載ってでも、衰弱しきった体を支えられながらも、常に第一線に出ていましたよね?どれをしないで本人が「師弟不二」を叫んでいいんでしょうか?それともそれ以上の状況??であればやはり信濃町首脳幹部の責任は大きいのではないでしょうか?

そして「2)」の状況を想定した場合、もうこれは論外でしょう。

・この国難に近い状況の中、本人がメッセージだけという事、これは許されるものなのでしょうか?本来であれば「パブコメ」とともに、第一線に出てくる姿にこそ「指導者」としての使命があると思えます。

でも多分「2)」はありえませんね。
おそらくは「1)」の状況の範疇かと思いますよ。

であればやはり、原田・正木体制の創価学会首脳部の責任というのは重大でしすね。
「師弟不二」を叫びながら、その「不二の師匠の現状」を報告すらしないんですからね・・・・

さてこういう状況にあって、僕が最近考えているのは「立正安国論」を再度、じっくりと読み込んでみようという事。

今の日本の状況はまさしく「国難」といっても過言ではありません。
世界についても同様です。
リビアへの攻撃で象徴されていますが、世界はより動乱期に入っていく感じもします。

そういう中で再度「立正安国論」と対峙して、その中にあるものを自分自身でつかんでみたいと思います。

「そんな事いって、時間なんてあるの?」

確かに時間はありません。
斯く言う自分自身も、仕事の関係で今、重大な岐路に立っています。
でも、だからこそ再度読み込んでみたい、そういう風に思っています。

前の記事にトニーさんが「退転発表」でしたっけ?やっていましたよね。
この今の創価学会を離れたからといって、人生が「悲惨の二字」に晒される事なんて絶対にない。
そういう姿を示して行きたいと思っています。(トニーさん、まねしてスミマセン)

ちなみに立正安国論を読んだ内容については、ポータルサイトに少しづつですが記載をしていきます。

http://heartland.geocities.jp/sougaku_salon/gosho/goshoindex.html
(↑ここに追記をしていきます)

これは僕自身の「闘争宣言」かもしれませんね。・・・ちょっと大業ですか?

本日はここまでとします。


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