こんにちは。
ようやく春らしくなってきましたね。
近所の桜の花も少しずつですが、開き始めています。
こういったものを見るたびに、「人間の社会の動きはともかく、自然の動きというのは留まる事も無く淡々と動き続けている。所詮は人間社会の事というのは大した事ではないのかなぁ・・・」と深く考えさせられてしまいます。
なんか日本の政治の動きを見ると、自民党の谷垣総裁を首相にして大連立を組むという話もあったり、でも統一地方選挙は来週に投票日があるので、いま組織の中では「不在者投票」を進めていたり、民主党を悪しく語ったり、共産党を仮想敵としていたりと、またそれを大法戦として必死に進めているんですよね。。。
所詮は人間社会の中の「日本」という国、「秋津嶋」の小さな社会で繰り広げられている事にしか過ぎない些細な事ではないかと、、、最近の僕は考えています。
そんな中ですが今日の記事では「創価学会の永遠の三指針」について、少し考えた事を記事にしてみたいと思います。
創価学会の永遠の三指針は、第二代の戸田会長が亡くなる少し前に示された指針であるといわれています。
曰く
・『一家和楽の信心』
・『各人が幸福をつかむ信心』
・『難を乗り越える信心』
この内容に第三代の永遠の指導者は2項目(。「健康長寿の信心」である。そして「絶対勝利の信心」)を追加して永遠の五指針なるものを2008年に提示していましたが、変な内容ですね。
まあ永遠の五指針は無視するにしても、永遠の三指針という名称も変なものです。
創価学会は「永遠の~」という事が好きなのでしょうか?
時代は変遷するし、動き行くもの。そういった中に「永遠」というだけ絶対不動のものがどれだけあるのか?
法華経にしても、示す法は「永遠」というものかもしれませんが、その顕れ方については変遷しゆくものです。
まあここで創価学会の教学を元に説明すると、不軽菩薩の唱えた「二十四文字の法華経」「妙法蓮華経」「摩訶止観」「南無妙法蓮華経」など、法華経にしても様々あると言っています。
では先にあげた「永遠の三指針」なるものも「永遠」という名にふさわしいものであるか・・・・どうなんでしょうか?
まあそれは後々に評価されるものとして、ここでは論じる事もないと思いますので止めにしますが、この創価学会の三指針の内容について再度確認をしてみたいと思います。
・一家和楽の信心
これは説明するまでもなく、一家家族が「和楽」、つまり平和に楽しく暮らしていくという事を言っていますね。
・各人が幸福をつかむ信心
これは信仰する全ての人が「幸福」となる事、そしてこの「幸福」というのは創価学会で言えば「絶対的幸福」をつかむという事を言っています。
・難を乗り越える信心
この「難」というのは「困難」という事を指していると思います。人生には困難はつき物であり、それを乗り越える信心という事なんでしょう。
こう見ていくと、これにはそれぞれ順序があるのかもしれません。
まず基本になるのは「難を乗り越える」という事。
人生というのは、様々な困難があると思ってもいいかと思います。いま大河ドラマでは「江」をやっていますが、この中で北大路欣也が演じている徳川家康の言葉で有名な言葉があります。
「人の一生は重き荷を負うて遠き道に行くが如し」
まさに人生というのは「重き荷」を背負いながら生きていくという、まさに名言ですね。
そういった人生の中にある、幾多の困難を一つひとつ乗り越えていく。これが「生きる」という事でしょうし、人生なのではないでしょうか。
その「乗り越える」為の信心、つまり御本尊を信じる心で乗り越えていこうというのが、第一の指針の指すところではないかと思います。
そしてその「困難」を一つひとつ乗り越えていく行き方の中に、実は「各人が幸福をつかむ」という事につながるのではないでしょうか。
この「幸福」という事については、いまの僕には異論があります。
創価学会では「絶対な幸福境涯」といい「生きている事が楽しくて楽しくてしょうがない・・・そういう境涯になる事」と言っていますが、「楽しい」というのは所詮は天界の一分にしか過ぎません。恐らく創価学会でいう「境涯」という事で言うならば「無色界の天界」の一分にしか過ぎないと思えてならないのです。
僕は困難を乗り越える中、自分自身の人生の流れの中に、実は己が生命の動きと連動している部分を感じ、そこを通して己の中の「仏界」を感じ行く事、、、、少し漠然とした表現かもしれませんが、それこそが「幸福」という事を指していると思うのです。
けして「笑顔はじける生き方」ではなく、生きていく中では喜びもあれば悲しみもある、そして苦悩もあれば恐怖もある・・・・そう、様々な感情があると思うのです。
日蓮さんの御本尊を授持しようとも、この現実は一切変わる事なんてありません。
でもそういう生き方を通す中で、じつは自分の心の奥底に、何物にも粉動される事もなく、己の人生の中核をなすものが存在する事を感じ、何物にも打ちひしがれる事もなく、生き抜いていける。
こういった事を「幸福」と呼べば、「幸福をつかむ信心」の指針には意味があると思えます。
そして最後に「一家和楽の信心」ですね。
「一家=家庭」というのは、信心をしていようがしていまいが、続くものは続くし、壊れてしまうというものは壊れてしまいます。
そして信心をしていく目的、、いや生きていく目的として「家庭の維持」というのは絶対条件ではありません。
しかし「一家」というのを「縁を持つ人たち」として捉えた場合、この指針の読み方というのは少し変わってくると思います。
つまり「縁をする人たちが和楽で過ごしていける信心」、つまりそういった信仰を目指していくという事を指針としているのではないでしょうか?
でもそのためには困難を乗り越え、己の中にある不動なるものを確信できる、そういった信仰が大事だという事ではないかと思うのです。
その上で縁する一人ひとりが和楽で生きていく事ができる。
創価学会は本来、そういう事を目指そうとしていたのかもしれませんね。
でもまあ「永遠の三指針」について、そこまで深読みする活動家幹部はいないでしょう。
実は現場の活動家幹部はこの「永遠の三指針」について、うわべだけサラッと考えて「ふーん、そうだね」で終わっていると思います。
つまり信仰者といいながら、実は人生を生きていくという事について、あまり深く思索をしている人は無い。
実際はそんなところなんでしょうね。
もしいれば現場でもっと語られていると思いますよ。「永遠の三指針」ですから。
ここでは自分なりに「永遠の三指針」を考えてみましたが、人生を生きるという意味を深く思索する事について、創価学会の首脳は望んでいないと思います。
なぜならば、そんな事を考える人が組織内で増加すれば、恐らく信濃町界隈の指示を聞く人は少なくなり、「永遠の指導者」という事を受け入れる人は激減してしまいます。
つまり過去において「二十一世紀の哲人だれ!」という指導を出していましたが、一人ひとりが哲人であれば、公明党も支援をしなくなるであろうし、永遠さんが数多くの顕彰をされればされるほど離れていき、結果として聖教新聞の購読率も低迷し、民音なんて誰も見向きもしなくなるでしょう。
創価大学に進学しようとする学生も減少し、結果として創価学会の組織は低迷の憂き目にあう・・・・
だから深く思索をするという事を軽んじているのかもしれませんね。
創価学会活動家幹部、特に現場で動いている一人ひとりに問いたいです。
「創価学会の永遠の三指針」について考えた事ありますか?
そしてその思索の先に見えるものと、現実の創価学会はどれだけ乖離がありますか?
少し想像してみませんか?
本日はここまでとします。
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