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検証・大震災:自衛隊員10万人、史上最大の作戦(その1)

 ◇想定外の大津波、広大な被災地、原発暴走 最悪の危機、米軍と連携、苦闘40日

 東日本大震災で10万人態勢を敷いて災害派遣にあたった自衛隊。被災地支援から原発事故対処まで能力を総動員し、実員のほぼ半数を投入して戦後最悪の災害に挑んだ。ピークを越え、月末にも態勢見直しへと向かう中、「史上最大の作戦」を展開し、米軍との共同対処を実施した自衛隊の活動を検証する。【震災検証取材班】

 ◆出動

 ◇米「何でも言ってくれ」 首相「まず日本がやる」

 東北地方の防衛や災害派遣の重要拠点である宮城県の陸上自衛隊多賀城駐屯地は、仙台港から約1キロの平地にある。3月11日午後2時46分、災害派遣の初動対処部隊である第22普通科連隊第4中隊に所属する木下茂之・1曹(37)は地震発生で、ドーンという衝撃に体を揺さぶられた。出動に備えてすぐに無線機や資材を運び出し、グラウンドには小型トラックが次々と並び始めたその時だった。

 「津波が来るぞ!」。3階建て隊舎の屋上まで一気に駆け上がった直後、どす黒い約1・5メートルの波が正門に押し寄せてきた。小型トラックなど13台が瞬く間に水につかった。「うわー。子どもが波にさらわれたかもしれない」。大声で泣く40代の男性隊員がいた。励ましながら、木下さんも携帯電話で連絡の取れない家族に思いをはせた。「これからどうなるのか」。涙がボロボロと頬を伝った。

 「とにかく行け」。国友昭連隊長(48)の指示でボートで順次救出に出動。津波は隊員のマイカー約500台をのみ込んでいた。水没した国友連隊長の公用車のナンバーは震災発生時刻を指す「1446」だった。

   ◆

 太平洋・石巻湾を望む宮城県の航空自衛隊松島基地は捜索・救助の拠点。雪が降る中、救難ヘリUH60など2機が飛び立つ準備を始めていた午後3時54分、津波が襲った。停電を受け、予備電源で防衛省航空幕僚監部と交信しようとしたが途切れた。優先的に着信だけできた杉山政樹司令(52)の携帯電話が唯一の通信手段となり、孤立状態が続いた。夜になり真っ暗な作戦室で杉山司令は「水没して機材が使えないな」と救援に支障が出ることへの懸念を口にした。

 UH60や滑走路脇に駐機していたF2戦闘機など計8機が数百メートル流され、庁舎などに突っ込んだ。曲芸飛行で知られる「ブルーインパルス」用のT4練習機が使う格納庫のシャッターも壊れた。基地全域が水没し、航空機は塩水で使用不能になった。航空機の被害総額は28機で最大二千数百億円に上る。津波を想定したヘリの緊急発着訓練も実施していたが、その余裕はなかった。杉山司令は「最初は隊員の生命を守るぐらいしかできなかった」と唇をかんだ。

   ◆

 大震災発生直後、東京・市ケ谷の防衛省A棟地下3階にある中央指揮所(CCP)に作戦室が設置され、自衛隊員や事態対処課員ら約70人が参集した。体育館半分ほどの広さのCCPには複数の巨大モニターが並び、偵察ヘリから送られる被災地のライブ映像が映し出された。一方、中江公人防衛事務次官ら背広組幹部は11階の省議室に陣取った。机を楕円(だえん)形に並べ替え、生中継のテレビを映す大型モニター3台を設置し、急ごしらえの危機管理室を開設した。

 発生後約10分で監視飛行中の海上自衛隊P3C哨戒機など陸海空の航空部隊が次々と被災地に向かい、出港可能な全艦艇40隻以上が神奈川県・海自横須賀基地や青森県・大湊基地などを離れ、救難活動が始まった。

 95年の阪神大震災では初動の遅れが問題となった。しかし、今回、初動はスムーズだった。三陸沖での海溝型地震への対処マニュアルを、3月末の完成に向け作成していた最中で、陸自幹部は「案はできており、初動はそれに従った」と証言する。海自幹部は「04年12月のスマトラ沖地震・インド洋大津波での災害派遣の経験が生かされた」という。だが、地震と津波の規模は予想をはるかに超えていた。その後の活動は手探りとなった。

   ◆

 「できる限りのことをやるので、何でも言ってくれ」。3月11日の震災直後、東京・米空軍横田基地にある在日米軍司令部のフィールド司令官が折木良一統合幕僚長に電話で支援を申し出ると、すぐに連携が始まった。在日米軍司令部は連絡要員3人を防衛省に急派。統幕8人と「日米共同班」を設置、合同作戦のプランを練った。

 「救援のため速力を上げて三陸沖に向かっている」。同じころ、西太平洋を航行していた米原子力空母ロナルド・レーガンに米国防総省から災害派遣命令が出されたことが、首相官邸や外務省に報告された。空母派遣は日本の要請ではなく、米国の自発的な申し出だった。米軍の人道支援「トモダチ作戦」はこうして始まった。

 11日夜、東京・赤坂の駐日米大使館からは、A4判紙2枚に提供可能な支援内容約20項目を書いた「オファーリスト」が何度もファクスで外務省北米局に送られてきた。無人偵察機など原発対応の装備も含まれていた。

 これに対し、菅直人首相は官邸内での打ち合わせで「日本でできることは、米国に頼む前にまず日本がやる」と漏らした。危険な仕事を米国に押しつけるわけにはいかないというのが真意だったが、発言は外務・防衛当局に伝わり、「首相は米国の支援を断った」との曲解情報として流布される伏線になった。

   ◆

 北沢俊美防衛相は11日夜までに陸海空合わせて約8400人に出動を命令していた。だが、翌12日中に一気に10万人規模に膨れ上がる。主導したのは菅首相本人だった。12日早朝、東京電力福島第1原発を視察した菅首相は仙台市の陸自霞目駐屯地で大型輸送ヘリCH47チヌークに乗り込み、宮城県沿岸部を上空から約40分視察した。

 「自衛隊を増やしてください」。官邸に戻り、緊急災害対策本部で菅首相は開口一番、「5万人」への増派を要請。夜にはさらに「安心感を与えるため、まとまった数字を国民に言いたい」と北沢防衛相をせかし、相談を受けた折木統幕長が「10万人」をはじき出した。自衛隊史上最大の災害派遣展開はこうして始まったが、不安もあった。統幕幹部は述懐する。「うまく機能するか、走りながらの作戦立案だった」

 ◆不信

 ◇防護隊の前で3号機爆発 「東電情報信じられぬ」

 日本の首都防衛を担う陸上自衛隊朝霞駐屯地。東京都練馬区や埼玉県朝霞市など4区市に広がる敷地の一角に防衛相直属の中央即応集団(CRF)司令部がある。米同時多発テロなどを受け07年に創設されたばかり。有事やテロの際に展開する精鋭部隊集団だ。

 「長丁場になるぞ」。震災発生直後、宮島俊信司令官は隊員らに気合を入れた。三陸沖地震を想定した独自の事態対処マニュアルに従い、千葉・木更津駐屯地の第1ヘリコプター団のUH60とCH47を輸送任務のため派遣した。このヘリ部隊が、後に実施される「ヘリ放水作戦」の主役を演じることになる。

 間もなく司令部に新たな緊張が走る。福島第1原発の燃料冷却系が大津波で停止。このままでは「原発崩壊」につながるおそれがあった。11日午後7時半、北沢防衛相は自衛隊法に基づき初の原子力災害派遣命令を発令。放射性物質対処能力を持つ中央特殊武器防護隊(中特防)の約110人と化学防護車4両などが除染作業支援などのため埼玉・大宮駐屯地から原発近くの福島県大熊町にあるオフサイトセンターに向け順次出発した。

   ◆

 「CNNではチェルノブイリ原発事故に匹敵すると言っているじゃない」。12日、神奈川・米軍横須賀基地で家族らを対象に開かれた「震災説明会」。放射能への恐怖を隠せない子供連れの親たちから不安の声が相次いだ。

 福島第1原発で12日、1号機で起きた水素爆発の瞬間の衝撃的な映像が全世界に流れた。家族が求めたのは米軍による「正確な情報」と米政府からの正式な「退避指示」だった。

 だが、米政府にも情報はなかった。「もう少し時間が必要だ」。基地幹部は情報過疎に置かれた立場を繰り返すしかなかったが、家族らの不安は米軍が独自情報入手に乗り出すきっかけともなった。

 ルース駐日米大使が福島第1原発から半径50マイル(約80キロ)以内に居住する米国人に避難勧告を出したのは17日未明だった。東京・米軍横田基地からは19日に233人の家族と9匹のペットを乗せた「退避便」の第1陣が離陸、同日中に米シアトルに到着した。その後も日本全国の米軍基地から少なくとも7800人以上が政府チャーター機で米国に退避することになる。

   ◆

 福島第1原発の暴走は急激に加速。12日午前には1号機の格納容器内部の圧力を減らすためのベント実施で放射性物質が広範囲に飛び散り、午後に1号機の建屋上部が水素爆発で吹っ飛んだ。13日には2号機でもベントが実施され、14日早朝には4号機の使用済み燃料プール水の温度の上昇が確認された。

 放射能対応の専門部隊、中特防が原発で任務に就いたのは14日朝だったが、東電側は打ち合わせで「状態は安定している」と太鼓判を押した。最初の任務は3号機への給水支援。「作業を手短に行えば健康被害は避けられる」。隊員らは東電の見立てを信用し、現場へは放射線測定器を備えた化学防護車ではなく普通車両で行くことになり、中特防隊長を乗せた小型トラックを先頭に、2人ずつが乗り込んだ水タンク車2台(各水3・5トン)が続いた。

 3号機建屋に近づき停車し、隊長が下車しようとした瞬間だった。午前11時1分、爆発音がとどろいた。3台とも横転し、降ってきたコンクリートの固まりやがれきの中に埋まった。小型トラックのフロントガラスは粉々に砕け、水タンク車のタンク部分が大きくへこんだ。隊員らは、がれきをかき分けて脱出。化学防護服が破れた隊員もいた。

 東京・練馬のCRF司令部が異常事態を知ったのは、水素爆発が起き、「自衛隊員行方不明」を報じるテレビのテロップだった。「安否を確認しろ!」「つながりません」「何とかしろ」。オペレーションルーム内は怒号が飛び交った。携帯電話はつながらず、無線も機能しない。緊張は高まるばかりだった。

 6人中4人が負傷し、千葉県の放射線医学総合研究所に搬送された。放射線量は20ミリシーベルト程度で内部被ばくはなく、大事に至らなかったとの報告が司令部に届き、宮島司令官らはようやく胸をなでおろした。

 この後、防衛省・自衛隊は東電への不信感を強める。中特防隊員ら約180人は14日夜、約60キロ離れた陸自郡山駐屯地(福島県郡山市)へと後退した。CRFは「しばらく給水はできず、除染所の場所選定作業を急ぐため」と説明したが、陸幕幹部は振り返る。「東電が『大丈夫です』というから部隊を出した。一歩間違えば命を落としていた。東電の情報は信じられなくなった。正確な情報がないと部隊は動かせない」

毎日新聞 2011年4月22日 東京朝刊

 

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