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松浦敏明さんは、電通映画社時代、みんなから「松兄い」とか「親分」とかと言われていた。体も大きく、腕力も酒も、そしてバクチもめちゃくちゃ強いので、みんなから親しみと尊敬を込めてそう呼ばれていたのだ。
「電通映画社の二本松」と言えば、松尾・松浦のことで、松尾はもちろんあの早逝した松尾真吾さんのことである。
初期の電通のCMの大半を、演出家として質量ともに支えたのはこのおふたりの力による。
松尾さんは、日大映画科を出て企画から演出になり、松浦さんは東京写真大学を出て、制作から演出になった。
松尾さんは、演出に転向してすぐに「レナウンイエイエ」でグランプリを獲り、トップディレクターとして地位を固めた。松浦さんは、松尾さんより2年ほど早く演出になり「トヨタコロナ・ドラム缶」で、力感あふれる編集をしてみんなをびっくりさせた。
松尾さんは、松浦さんより2つ年上だけど同期入社ということもあって、それに演出の先輩でもあったので、お互い一目おきながら二人は最後まで仲が良かった。
この二人が、現在までも途切れることなく優れた演出家を輩出し続けた「テック」(電通映画社)演出企画室のルーツと言って良いだろう。橋本日出世さんを長兄として、関谷宗介さん、川崎徹さん、本田昌広さん、福田素久さん、黒田秀樹さん、山内健司さん、瓦林智さん、関口現さんなど数え上げたらキリがないほどだ。
電通映画社は、戦前はニュース映画を制作する会社だったから、「日天」などとは違って、どちらかといえば泥くさく、実写を中心とした、昔ながらのいわゆる活動屋の名残が色濃く残っていて、僕なんかは、それが少し嫌だった。
しかし、広告代理店のクリエイティブを無視するかのような「日天」の隆盛は、僕たちにとっては屈辱的なことで、電通映画社と一緒になって、いつか追い落とすんだと心に誓っていた。だから、松浦さんも松尾さんも特別大切な「戦友」だった。
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1970年の終わり頃、松浦さんとハリウッドスタジオで。松下電器のカラーテレビの撮影だったと思う。 |
特に、松浦さんとは長い付き合いになった。
初めての仕事がSEIKOで、その後カルピス、松下電器と、僕が現場を離れるまで続いた。おそらく僕の仕事の3分の1くらいは彼との仕事だ。
シャイなところのある松浦さんは、あまり人間の演出はうまくない。でも、編集のうまさは天才的なものがあった。なんというか、コマとコマの間の、空気のようなものを素早く見つける特別な才能があるのだと思う。
大林宣彦さんも編集はうまかったが、松浦さんは、手でラッシュを広げて、口でベリッと噛み切ってつなぐだけなのに、あんなに生き生きとフィルムが動き出すのは、松浦さんをおいて他にいなかったと思う。
松浦さんとは、ロケ中も編集室でも、随分長い間一緒にいた。それでも飽き足らなくて、よく一緒に酒を飲んだり、遊びもしていて、同い年ということもあって、兄弟のように遠慮のない付き合いだった。
しかし、よく喧嘩もした。
外見に似合わず、彼の心はガラスのようにデリケートな部分もあって、時々うっかりそこに足を踏み込んでしまうと、思いがけない強い反撃を受けることもしばしばだった。大体、それは僕のほうが悪くて、「なんだこんなの!」とラッシュを見て、つい言ってしまったりするからだ。
特に松浦さんは、「差別」ということにとても敏感だった。「電通」という同じ名がついているのに、映画社とは平等でないことをいつも憎んでいた。僕が、どんなに兄弟のような仲だといっても、厳然とある「差別」を絶対に許していなかった。そんな激しさが、あののんびりした顔の裏にあるのを知って、僕はいつも衝撃を受けていた。
松尾さんは、そんなことをおくびにも出さない人だった。電通の人たちが持ってくる、難しいクライアントの仕事を黙々と、しかも少しも質を落とさずに作り続けていた。やがて常務にもなり、電通映画社がどんなふうに変わるのだろうと皆が期待していた時に、突然ホテルで倒れ、そのまま亡くなられた。
亡くなる寸前まで「松ちゃんをよろしく」と僕に言っていた。松浦さんの、あの傷つきやすさを心配していたのだろう。と同時に、あの天衣無縫で自由で、のびのびとした松浦さんの才能を守り続けたいとも思っていたのだろう。
僕たちには分からない、固い友情が二人の間にあったのだと思う。
1987年に、思いがけなく電通映画社に出向を命ぜられた。
ショックだったのは、僕より松浦さんのほうだったらしく「どうして小田さんが 」と僕を非難するように言った。
僕たちは「進駐軍」と陰で言われ、映画社の人たちからは憎しみの対象にもなっていた。松浦さんは、僕がその憎しみの対象になるのがガマンできなかったのだろう。
社名も「プロックス」と変わり、僕は2年間、ただひたすらプロックスとプロックスの人たちのこれからのことだけを考えて働いた。それを支えてくれたのが松浦さんだった。
電通映画社の代名詞だった松浦さんはもう引退してしまい、「プロックス」も「テック」に変わってしまった。
あの「二本松」から始まった、電通映画社の企画演出室の血脈は、これからも続いて行くのだろうか。
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