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 「今、杉山登志を見る」の翌日に、内田健太郎さんが僕のデスクにみえた。岡康道さんと中島信也さん、それに黒田明さんをスピーカーにお願いしたわけだけれど、珍しく憤慨したように「若い人たちは杉山登志の本当の凄さを知らない」と少し声を荒げて言った。いつもは、自分のあごひげを撫でながら、小さな声で「モグモグ…グフフ…」と不気味に笑われるのだが、その日だけは少し違っていた。
 内田健太郎さんは、きっと杉山登志さんと同い年ぐらいだと思う。
 僕がSEIKOで初めてグランプリをもらった1965年のACC年鑑には、もうあのあまりにも有名な「ボーエンだよ、ワイドだよ」というアサヒペンタックスが金賞として載っている。
 その頃は、第一企画にいらして「イチキにウチケンあり」とすでに有名だった。同じ広告代理店勤めということもあって、気になる存在だった。
 僕はウチケンさんが作るウイットの利いたCMが大好きで「七人の刑事」という人気番組に挿入される「三菱レーヨン」のCMは、それこそ穴のあくほど見た。ライバルというよりは、ファンと言った方がいいだろう。
 パロディ好きで、「本家」が思いっきりずっこける巧さは、痛快そのものだった。
杉山登志さんの
「MG5・金と銀」

ウチケンさんの
「ボンネルカジュアル・NG5」

杉山登志さんの
「MG5・洗濯」

ウチケンさんの
「トリコットシャツ・男一代」
 「ボンネルカジュアル」では、その頃人気の「レナウンイエイエ」をからかい、資生堂の「MG5」をからかっている。ボンネル娘にすれ違うのが、MG5のキャラクターのダルメシアン犬とタレントらしき男性。ところが、足元を見ると下駄をはいていて、おまけに振り向くと背中はつぎはぎだらけ。
 すると、すかさず杉山登志さんは、次のようなMG5を作った。
 「お互い男同士、清潔を大事にしよう」、ダルメシアンの体を洗っているタレントをパンすると、額にバンソウコウを貼ったジェリー伊藤がランニングに下駄ばきで洗濯をしている。これはウチケンさんの代表作「トリコットシャツ・男一代」の洗濯シーンそのまんま。
 杉山登志さんのユーモアと余裕ある見事な打ち返しは、僕たちを喜ばせたけど、きっと世間の人たちも、この二人の打ち合いをやっぱり楽しんだのではないかと思う。なんでも「効率」と「競争」でしか語られない今と比べれば、確かに良い時代であったと言えるのだろう。
 ある時、ウチケンさんが自主制作映画を作ったというので、杉山登志さんと、資生堂で素晴らしいCM音楽を作り続けていた桜井順さんと3人で観に行ったことがある。観終わった後、銀座で串焼きを食べながら「やっぱり、CMの方がキレがいいね」と、ウチケンさんのCMを大いに語った。杉山登志さんも、ウチケンさんのCMが好きだったのだ。 
 このお二人は、遂に顔を合わすことがなかったが、どこかで強い友情を感じ合っていたようだった。杉山登志の生前の業績を称えた「杉山賞」の3回目くらいをウチケンさんはもらっている。
 やがて、第一企画を辞めフリーのディレクターとなって、ようやく僕たちとも仕事をできるようになって面白くてヘンな仕事を随分させていただいた。松下電器や堀井さんの仕事でもいい仕事を随分されている。海外での受賞数も、おそらく日本では何本かの指に入るだろう。
 1998年の夏頃だったと思う、長女のかんぬちゃんから電話が入って、ウチケンさんが喉頭がんで入院し、あまり良くない状態であることを告げられた。
 かんぬちゃんは、カンヌにちなんでつけたお名前で、絵コンテの勉強をさせたいということで、半年ほど僕のチームでお預かりしたことがある。
 かんぬちゃんから電話があったのは、ウチケンさんから預かっていた全作品のリールから、僕が「内田健太郎ショーリール」を編集することを約束し、そのリストがようやくできて彼にそれを送っていたからだ。
 制作者の世代も変わり、内田健太郎を知る人も少なくなり、実際、その10年間ほど、ほとんど仕事らしい仕事がない状態が続いていた。そして、そのことがまた、彼の体を蝕んでもいた。もう一度ウチケンに仕事をさせたい。いや、僕があの「ウチケンのCM」を見たい、そう思って引き受けていたのだ。
 その約束を果たす間もなくその秋、大好きだった黒澤明の後を追うようにして亡くなった。淋しい死だった。


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