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杉山登志さんと初めてお会いしたのは、神戸常雄さんとのACC年鑑での鼎談だったから、1967年だと思う。
杉山さんは、真っ黒い顔から少し恥ずかしそうにニッと白い歯をのぞかせて「あなたの仕事はみんな見てますよ。油断ならない人だから」と言ってくれた。後年、資生堂にいらした中尾良宣さんが「杉さんが、小田桐さんの年鑑の檄文を読んで、面白い人がいると言ってましたよ」と話してくれた。光栄なことだ。
鼎談の方は、何しろ僕なんか比べ物にならないほどの、圧倒的な仕事をしていた杉山登志さんだから、僕もあがっていて何を話したのか覚えがない。杉山さんも論理的に喋ることも得意じゃないらしく、メチャクチャな話を神戸さんがもっともらしくまとめてくださったのを覚えている。
それ以来、杉山さんとはパーティーやスタジオで会うと話をしたり、ダビング中のスタジオに招き入れて制作中のフィルムを見せてくれたり、そんな付き合いだった。
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馬場啓二・石岡瑛子編による
「CMにチャンネルをあわせた日−杉山登志の時代」
(PARCO)から、彼の死を報じた記事。 |
1973年、年も暮れようという時、杉山登志が死んだというニュースが入って、僕たちはそれこそ仰天した。
新宿のお寺には、急を聞いて駆けつけた人たちでいっぱいだった。社長の伊庭長之助さんが、ことさら明るく「故人が賑やかなのが好きなので、賑やかに飲んでやってください」と挨拶されたけれど、ひどい喪失感を漂わせていて、声をおかけするのも憚れるほどだった。子どものいない伊庭さんは、杉山さんを子どものように可愛がっていた。
杉山さんの死後、伊庭さんの経営方針に反発するように多くの人たちが「日天」を出ていった。僕には、伊庭さん自身が、杉山登志のいなくなった「日天」に、急速に愛情を失っていったように見えた。
後年、東北新社の植村伴次郎さんが「日本天然色映画」の名を惜しんで買収され、目も眩むような才能がひしめきあい、ある時代を築いた「日天」の歴史が閉じた。
杉山さんの死は、数日して朝日新聞に”「のんびり行こうよ」破産“というタイトルで報じられた。
彼の遺した「リッチでないのに、リッチな世界などわかりません……「夢」がないのに「夢」を売ることなどは…とても。嘘をついてもばれるものです」という短い言葉と一緒に報じられていた。いかにも、薄っぺらな商業主義のお先鋒担ぎとしてのCMマンの挫折、として書かれているようだった。
同じ仕事をしている人間にとっては、悲しい報道のされ方だった。
「ブレーン」誌の編集部から、彼の死について書けと言われた。
「杉山登志の死は”CM“に裏切られたのではない。僕たちはもっとしたたかなはずだ。杉山登志の仕事はそれを証明している。この仕事に命を削ったけれど、この仕事に絶望したのではない。彼の死は別の理由だ」と書いた。
杉山さんの親がわりのようだった画家の永田力さんは、後に「杉山登志の死を曲げようとしている者がいる」と怒っておられた。それは、僕のことだった。
1997年だったと思う。銀座のガスホールで「今、杉山登志を見る」を企画した。
資生堂の中尾良宣さんのアイデアで、若い人たちに35ミリのフィルムで大きなスクリーンで見せようということになった。当時、「ニッテン・アルティ」の会長をされていた今井篤志さんが、ちょうど良い機会だからとネガを探して補修し、ネガのないものは、資生堂にある初号試写用のポジからネガを起こして、美しい杉山登志の世界を再現してくださった。
杉山登志の美しい画面とアイデアは、25年も時を経ているのに、今なおまばゆいばかりで、嫉妬というより、ただやっぱり凄いなあと思うばかりだった。そして、いつものように、杉山登志がもし生きていたら、とぐずぐず思った。
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