きょうのコラム「時鐘」 2011年4月21日

 確認された金大医学部の前身「彦三種痘所」は、加賀藩が約150年前に種痘を始めた場所だから、北陸の近代医学発祥の地ともいえる

古地図から特定した赤祖父(あかそふ)・北陸医史学会長の「自由な町人地内にあるのが自然」との言葉が印象的だった。現在の金沢市武蔵ケ辻交差点の近くで近江町市場とも指呼の間。庶民を救うための種痘所跡は今も庶民の街である

病院は病に苦しむ庶民に便利な場所に作られるのが当然であり、京都や大阪の種痘所も町人地だったという。医学が大衆に目を向け始めた時代の証しとも言えようか。近代日本の幕開けとなった幕末維新の背景が、この種痘所の存在からも分かる

種痘所を動かした黒川良安(まさやす)と高峰譲吉の父・精一は今の富山県生まれで金沢に移った。加賀藩の近代化は富山にとっては「頭脳流出」にも映るだろうが、加賀藩の種痘も福井藩から苗を譲ってもらって始まったように、幕末は既存の境界線を乗り越える時代だった

郷土史発掘は望遠鏡で異世界を見るのと似ている。彦三種痘所の小さな穴から見えたのは、幕末の若き赤ヒゲたちの志だったように思える。