2011年4月20日14時52分
父の右手を左の肩に乗せ、散歩に出る。そんな少年の日常を震災が奪った。気仙沼市の永沼千尋(ちひろ)君(8)が母と共に行方不明になったままだ。全盲の両親が「目の代わり」と言う頼もしい息子だった。「どこかで生きていてくれ」。父は手がかりを待ち続ける。
父靖浩さん(45)は市内の整形外科医院のマッサージ師だ。19歳で緑内障を発症し、視力を失った。26歳の時、仙台市の盲学校で知り合った千春さん(44)と結婚。千春さんは病弱だったが、10年後に待望の子どもを授かった。夫婦の名前の読みを一字ずつとって「千尋」と名付けた。
3月11日、2年生だった千尋君は鹿折(ししおり)小学校の教室で震災に遭った。津波から逃れるため、職員や児童約300人は高台へ避難し、多くの親が子供を引き取りに来た。その中に千春さんもいた。坂道を下りていく親子が目撃されている。
千尋君は毎週末、岩手県陸前高田市の祖母の家に泊まることになっていた。迎えの祖母は、いつも金曜日の午後2時15分にJR鹿折唐桑駅に着いていた。家で待っているだろう義母を案じ、妻は千尋君とともに帰宅したのかもしれない。靖浩さんは思う。
家と学校は歩いて約15分。大きな津波が三陸海岸に達したのは、午後3時20分ごろだった。
前日10日夜、千尋君が書道で初段を取ったお祝いに、家族3人で千尋君の大好きな回転ずしを食べた。「次、何食べる?」。両親の好みを聞いては注文していた。漢字の書き取りも得意で、昨春からは新聞を読み始め、分からない字があると辞書を引いたり、両親に尋ねたりしたという。
テレビの天気予報では、気仙沼市は画面表示だけで読み上げられないことも多い。千尋君は「明日、午前中は雪か雨のマークが出ているから、傘を持って行った方がいいよ」と親に伝えた。「小さいのに。色々気がつく子になった」。靖浩さんは成長を喜んでいた。
千尋君の担任だった新沼玲奈さん(36)は夕方、千尋君が家の近くで母の手を引き、買い物に出かける姿をよく見ていた。「まさに両親の目となり、手となっていたんでしょう」
3学期、生活科の授業で自分の生い立ちを記すアルバムを作った。最後のページに千尋君はこう書いた。
「野球選手になってメジャーリーグに入るのが夢。お父さんとお母さんを試合に招待したい」
仕事中に被災した靖浩さんは、同僚や患者ら約20人とビル最上階の7階で一夜を明かした。同市中心部は津波で流れ出た油があちこちで炎上。建物が崩れる音と油の臭いが一晩中続いた。「妻と子は無事か。自分はこのまま焼け死ぬのか……」。翌日、自衛隊のヘリに救助されたが、千春さん、千尋君と義母の3人には会えないままだ。
4月3日、靖浩さんは仕事に復帰した。「下を向いていてもしょうがない。患者さんと話せば、情報も得られる」。家族を捜しているなじみの患者もいた。「自分だけじゃない」と少しだけ前向きになれた。
「どこかで無事でいる」。そう信じて、患者の体と心を丁寧にもみほぐしている。(伊藤宏樹)