「原子力発電反対」と言えば、一見「良い人」のように思われがちだ。
「原子力発電賛成」と言えば、「とても悪い人」のように思われがちだ。
「Fukushima」原発事故の後だから、なおさらのことだ。
「原発反対か、原発推進か」といった二者択一の問題でもないことも、当たり前だ。

こういった不毛の争いは、1979年のアメリカTMI(スリーマイルアイランド)事故の後にも、80年代を通じて、しばらく続いたのだ。

1979年と言えば、今のイランでイスラム革命が起きて、当時も中東情勢が不安定になっていた。

この1979年のイラン革命を境に、それまで1バーレル12ドルくらいだった原油価格が、一挙に1バーレル32ドル前後に急騰した。

アメリカ・スリーマイルアイランドの電力会社は、エネルギー価格急騰の中で、手持ちの原子力発電所をフル回転していた。
そして、起きたのが、アメリカスリーマイルアイランド事故だ・・・。

70年代は世界で初めて資源ナショナリズムが吹き荒れた時代だった。
2010年〜2011年さながらに、資源エネルギー価格が急騰したのが、1970年代だった・・・。

そして、先進国経済が戦後初めて、グローバリゼーションの嵐にのみ込まれたのが、1970年代だ。
当時のアメリカ経済は、日本や台湾などの中進国の追い上げにあって、スタグフレーション(不況の中の物価高)に苦しんでいた。
なにやら、今の21世紀の世界経済にオーバーラップしているようにも思える。
そういった時代に、日本・台湾に追い上げられて不況にあえいでいたアメリカで起きてしまったのが、アメリカTMI(スリーマイルアイランド)事故なのだ。

2011・3・11の日本の「Fukushima原発」事故は、ある意味、起こるべくして起きた必然の事故だったのかもしれない。


スタジオ・ジブリの宮崎駿氏は、アニメの「ハウルの動く城」の中で、熱心に、「それでも原子の火を絶やしてはいけない」との強いメッセージを、見る者に送っている。

人は生きてゆくためには、エネルギーが必要だ。
エネルギーが無くては人は生きてゆけないのだ。
さらには、よりよく生きてゆくためには、エネルギーが是非とも必要なのだ。

宮崎アニメの「ハウルの動く城」では、カルシファーという名の「原子の火」が、若い二人の主人公に寄り添うように名わき役として始終登場している。
実は、若い主人公:ハウルとソフィーの「世代間闘争」のアニメが、「ハウルの動く城」なのだ。
このアニメでは、「原子の火:カルシファー」が、この若い二人に始終寄り添って、この二人の暮らし向きや、恋愛や、既得権との戦いに、大いに手助けしているのである。

宮崎アニメの「ハウルの動く城」の中で、「原子の火:カルシファー」も幾度も消されてしまいそうになる。
カルシファーは、最後の土壇場では、過去の人生で贅沢三昧を味わいつくした、余命いくばくもない老婆に、究極のアンチエージング目的のためだけに、飲み込まれそうになったりもする。
けれども、「原子の火:カルシファー」はなんとかサバイバルして、ひとときの平和を取り戻した世界で、再び、若い二人の再出発に静かに寄り添うのである。こうして宮崎アニメ「ハウルの動く城」の物語は終わる。


1980年ごろと同じように、「原子の火を絶やせ!」「原発廃絶!」と唱えることは、たやすいことだ。

とくに、人生で既にやり残したことはほとんど残っていないような中高年や高齢者で、科学力のない人々が、原子力発電反対・廃絶を唱えると、その人は、とても賢いように見られがちである。その人は、優れた判断力と暖かい魂を保有しているように勘違いされがちだ。

そして、いつの世も、アンチ・原発、アンチ・文明の急進派たちは存在する。

そして、「アンチ・原発の急進派たち」と、「酸いも甘いも、この世の喜びも悲しみも贅沢も貧困もすべてを味わいつくしたような中高年や高齢者たち」とは、いつの世も、なぜかしら親和性が高い。
中高年や高齢者たちは、アンチ・原発の急進派たちの頭の悪いアジテーションに、なぜかしら、いつの世も、いとも簡単になびいてしまう。


そして、いつの世も、原発肯定論者は、「原発を肯定する!」と大きな声では言えないような、そんな空気が存在している。

そんな空気の中で、「けれども、少なくとも、『原子の火』を絶やそうとすることは、この上なく身勝手で傲慢である」ことを、スタジオ・ジブリと宮崎駿は、「原子の火:カルシファー」というキャラクターにそっと暗号として忍ばせて、アニメの中に始終強いメッセージとして残している。

「ハウルの動く城」は、2004年の製作。
今から7年前の作品である。


人生の喜びも悲しみも幸せも不幸もほとんど味わい尽くしてしまったような年配の人間が、残り短い人生を安心して暮らしたいと言う身勝手な老婆心から、寄ってたかって集まって、「原子の火を絶やそうとすること」は、いつの世も、未来ある若者たちに対して、大変罪深いことなのである。

「原子の火」をたやすことは、とてもとても恥ずかしいことなのだ。


藤井 まり子