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[25530] インスタント勇者はダンジョンが嫌い
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/01/21 00:23
まえがき
□ 本SSは一応異世界召喚物です。
  一応前作としてxxx板に「インスタント勇者はハーレムがお好き」がありますが
  基本的に読まなくても良いようにしております。
  私の力量不足により分かり辛い部分があるかもしれませんが、そういった部分は
  追々改訂していくかもしれません。
□ 本SSには多少のグロテスクな描写や下品な言葉が書かれています。
  苦手な方は注意してください。
□ 本SSの目的は習作として、はっちゃけた感触を得たいと考えております。
  設定考察や説明に走り長くなりがちな自分の文章を確認し直して、最強物の調理法を
  模索しながらいくつか練習したいと考えております。
□ 具体的には以下が練習ポイント
  ・一話5000~7000字程度に纏める構成力
  ・アホっぽい展開、柔らかい文体を身につけたい
  ・前作を裏設定的に取り扱い、色の違う作品を作ってみる

■ 指摘により、わかりにくい人用として「インスタント勇者はハーレムがお好き」を追加投稿しました。
  ただし、15禁となっております。
  又、18禁verを編集しただけですので、不適切な表現と思われる物がありましたら
  ご一報いただけるとたすかります。





[25530] インスタント勇者はハーレムがお好き【今北用・15禁】
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/03/19 12:24





インスタント勇者はハーレムがお好き





01 喚起

 気絶するのは生まれて初めての体験だった。

 キッカケは何でもない日。
 たしか、かなりかったるいと思ってた木曜日。
 時間は午後5時。
 夏休み明けのテストが終わり、高校から下校中に僕は突然『喚起』されてしまった。
 喚起、というのは……まあ、日本人であれば召喚と受け取ってもいいかも。
 僕を喚んだ人によれば、本来『召喚』は降霊術みたいな物で "あちら側" の人間に誰かの精神を喚び出して憑依させる行為らしい。
 それとは別に、肉体ごと喚びだす行為、つまりゲームなんかでよくみる『召喚』は本来魔術的には喚起、と呼ぶそうだ。
 まあ、そんなことはどうでもいいのだけど。
 兎にも角にも、喚び出された先は職員室でも国会議事堂でもなく、ホワイトハウスでもクレムリン宮殿でも、バチカンでもない。
 勿論日本ではないし、多分地球でもない。
 地名は*****・*********・*・*****************。
 未だに発音が難しい地名だったり。
 多分、世界地図には載っていない地名。
 と、いうか見せて貰った世界地図は笑ってしまうくらい古めかしく、それでいて見覚えがあるような代物だった。
 そこにはユーラシア大陸も、アメリカ大陸も無く、でっかい亀の絵に器が描かれてそこに大地があり、端から水がじゃばじゃばと漏れていたのだから。
 一瞬、それを見たときに恐ろしい程手の込んだTV番組の撮影か、どこかのお金持ちの道楽で僕をからかっているのかと思ってしまったのは良く覚えている。
 国名なんて、さらに凄いもので、矢鱈と長ったらしい横文字。
 僕はその横文字を覚える事ができても当然まともに口に出すのは億劫で、他の皆がそうしているように縮めてこう呼んでいる。
 『グラズヘイム』と。
 グラズヘイムは王国で "あった" らしく、この亀の世界地図全体の名前らしい。
 他に国という物は無く、必然この世界? の名前として認知されているようだった。
 いや、他に国がないというのはすこし語弊があるのかもしれない。
 どういう事なのかと言えば、現在グラズヘイムは群雄割拠の時代を迎え、各地では領主達が勝手に王様として君臨しているのだとか。
 つまり、グラズヘイムは現在バラバラの小さな国々の集まりとなってしまっていて、争いが絶えない状態というわけだ。
 僕が呼び出されたのはその中の一つ、グリムワ領という小さな、すごく小さな場所。
 グラズヘイムの中央に位置するらしく、周囲の列強国から明日にでも攻め滅ぼされそうな弱小中の弱小国、それがグリムワ領。
 そんなちっぽけな土地に喚ばれた僕は、初めはワケもわからぬまま、暗い地下室のような場所に閉じ込められてしまっていた。
 忘れもしない、僕がグラズヘイムに喚ばれた瞬間。
 テストがやっと終わり、自転車に乗って早く家に帰って友達に借りたゲームをやろうと思っていた時。
 いきなり視界が激しく揺れて、ぐるぐると回り、気がついたら僕は妙な台の上に仰向けになっていた。
 なんだ?! と驚いて上体を起こすと、傍らにRPGゲームで出てきそうな半裸の妖艶な格好をしたおねーさんが居て。
 その向こうにはこれまた、RPGゲームで出てきそうな兵士が槍の穂先を僕に向けて。
 で、その後ろからチラチラとこちらをのぞき見る、やっぱりRPGゲームで出てきそうなドレスを着た金髪の綺麗な女の子。

「******? *****」

 混乱して、何が何だか理解できずにキョロキョロとしていた僕に、おねーさんがしゃべりかけてくる。
 すごく良い香りがしたのだけど勿論、どう見ても外国人っぽいおねーさんの言葉はわからない。
 発音は英語っぽくもあったが、単語は何一つ聞き取れはしなかった。
 その内おねーさんは僕から目を逸らし、兵士の後ろの女の子が何やら話し始めて、やがて口論のような激しさで言葉らしき物を交わし始めた。
 僕はその間ずっと二人の様子を眺めながらまだ、ぐらぐらと揺れていた頭の痛みに耐えて状況の把握に努めていたのだけれど。
 まったく、わからない。
 なにが、と更に問われれば、すべてが、としか答えようが無い程わからない。
 まず、照明は蛍光灯ではなく、壁に直接たいまつのような物を設置して、火を灯している。
 あぶねぇ、火事にでもなったらどーすんだ? 等と考えていた所で、そこが天井も壁も床もすべて無骨な石で出来た部屋で在る事に気がついた。
 部屋の作りはそれだけでなく、あちこちにゲームのCGなんかで見る、欧州の中世風お城の地下魔法部屋っぽいナニカがそこかしこに散乱していた。
 僕はその部屋の中央、石造りの奇妙なベッドの上に寝そべって居たらしく、辺りは夏にもかかわらずヒンヤリとしている。

「**********! **! *****?!!」
「***。******、***」

 おねーさんと女の子の口論は相も変わらず何を言っているのかわからなったけれど、二人が仲良く世間話をしているのではない位は判断できた。
 僕は僕で、激しい頭痛と混乱の最中状況がまったく見えてこず、取り乱す事すら忘れてただただ、状況に流され目の前の光景を眺める事しかできなかった。
 その甲斐あってか、不意に。
 綺麗な半裸のおねーさんが、女の子との口論、もしくは会話を打ち切って上体を起こしたままの僕の方へ振り向いて。
 その大きな胸の谷間から何やら、サイコロのような黒い四角いものを取り出し僕へと差し出した。
 少しかがんだ彼女の胸の谷間に思わず目を奪われそうになりつつも、僕はそれをつい、受け取ってしまい。
 そして、僕はソレに "体と何かを奪われた" 。
 手のひらに乗っていたサイコロはまるで、氷が高速で溶けるように形を崩し、皮膚から僕の体内へと侵入してきたのだ。

「あ――が、うが、が、あ、ああ、うがああああああああああああああああああああ!!」

 激痛が手のひらから全身へと広がり、思わず悲鳴をあげてしまう。
 その痛みは、過去に経験したどんな大けが(といっても自転車で無茶して骨折した位だけど)よりも痛く。
 過去に想像したことのある、どんな苦しみよりも苦しくて。
 何より、僕の中のなにか大事な物が奪われるような体験だった。
 激痛はどのくらいの時間続いたのか、よく覚えてはいない。
 一瞬であったのかもしれないし、丸一日であったのかもしれない。
 とりあえず、痛みのあまりもう一度意識を失ったのは確かな事らしく、気がつくと僕は再びあの石のベッドに寝かされていたのだった。
 前回と違うのは、傍らにあのちょっとエロい衣装を着たおねーさんはいたものの、兵士と女の子が居なくなっていた事くらいか。

「ふむ、起きたようじゃの。儂の言葉がわかるかの?」

 おねーさんは今度はやけにじじむさい日本語で僕に語りかけてきた。
 僕は目が開いて徐々に頭が覚醒してはいたものの、まだ少し喋るのがきつくてそのまま一度だけ、コクリとうなずく。

「よし、CFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)のコントロールユニットはきちんと動いとるようだの」
「……しーえふ? コントロールユニッ、ト?」
「お主に先程手渡した、あの四角い奴じゃよ。ちと痛んだようじゃが、元々適合型では無かったんじゃ、仕方なかろう」

 おねーさんはそう言って、ひひひと笑った。
 その仕草はまるで魔女のようで、僕は少しだけ、こいつ、頭大丈夫か? などと考えて顔を引きつらせる。

「少年、お前の考えている事はわかるぞ? まあ、良いのだが。わしを痛い人と見るのはかまわんが、この状況では他に確かめるべき事があるのではないかの?」

 おねーさんはすこし意地悪な表情を浮かべ、そう、僕に言ってニタリと笑う。
 その顔は邪悪そのもので。
 でも、ゾクゾクとする程凄艶で。
 胸元や太ももが露わになった衣装は、恐ろしい程に肉欲をかき立てられて。
 黒く長い髪はゆらゆらと揺れて、僕を誘うようで、一時彼女に見とれてしまっていたのだけど。
 言葉に僕ははっと我に返り、勢いよく上体を起こして、おねーさんに矢継ぎ早に質問をあびせかけたのだった。
 彼女は、その質問に親切にも嘘偽りなく答えてくれて。
 結果、僕は激しく取り乱し、なかば錯乱して暴れてついには。
 彼女がどこから取り出したか、棍棒のようなでかい杖でしこたま頭を殴られ、その日僕は三度目の気絶を体験する事になった。
 そこまでが、僕がグラズヘイムに喚び出されて、まだ何も知らなかった時の記憶。
 次に目覚めたとき、僕は選択を迫られるのだけれど、それはむしろ選択ではなくて、確認であったのかもしれない。
 すなわち、平和な日本で平凡な人生を送るのか、戦乱のグラズヘイムで勇者としての人生を送るのか。
 後者を選んだ場合、決して敗北もせず、地位も女の子もよりどりみどりであると付け加えられたら、それはもう選択ではないじゃないかと思う。
 オトコノコならば、僕でなくてもだれしもがその選択をしてしまうのは、必然ではないか。
 こうして僕は "何か" をあの四角いモノに奪われたまま、グラズヘイムの勇者となった。

 奪われた物は、故郷の日本で17年育てた僕のモラルと、少しひ弱な大切な体だった。




















02 閉じた世界

 どうせなら、何もかも感情の赴くままにしてやろう。

 小松雷蔵(コマツ・ライゾウ)は三度目の目覚めを迎えた後、今度は暗い牢獄の中でそう考えるに至った。
 手枷と首輪からは鎖が伸びて、硬く壁に取り付けられている。
 雷蔵は冷たい石畳の上に胡座をかき、目の前に立つ妖艶な美女の説明をつい先程まで聞いていたのだった。
 目の前に立つ妖艶な美女はふふん、と不敵に笑い、彼の答えに満足げにうなずく。
 雷蔵は――
 彼女が彼を喚び出した理由を聞き、そこが何処で、どういう場所で在るのかを知り、自分が何をしなくてはならないのかを半信半疑ながら理解はしていた。
 そして出した答えが、『肯定』である。
 彼は目を覚ました時から鎖で繋がれた格好であり、お世辞にも人道的に扱われては居なかったのだが。
 しかし、雷蔵は自分を殴りつけ、ワケも分からぬままこの場所に喚び出した彼女の提案を、受け入れたのだった。
 その、提案とは。



「う……」

 暗い闇の奥に光を見た気がして、小松雷蔵は覚醒する。
 酷く頭が痛んだが、今回はなんともすっきりとした目覚めである。
 次いで、体に違和感を感じ、確認しようと腕を動かす。
 同時に、じゃらり、と金属がこすれ合うような音がして、雷蔵はそこで始めて今の状況を認識した。

「目が覚めたか?」

 頭上より、女の声。
 雷蔵は首と腕に冷たい鉄の拘束具がはめられている事に驚いたまま、なんとか顔を上げる。
 そこに、あの妖艶な黒髪の美女が、変わらず露出度の高い衣装を身に纏い、片手を腰にあてて立っていた。

「おまっ、痛っ……」
「まだ頭が痛む筈じゃ。まったく、暴れなければ手荒な事もせずにすんだのじゃがの」
「う、五月蠅い! 僕を、ここから出せ! 警察につきだしてやる!」
「ひひ、警察、ときたか」
「何がおかしい!」
「先程、といってももう数時間経っとるが、説明したじゃろ? お主は今 "閉じた世界" におる」
「信じられるか! コレを外せ!」
「そんな事言っても、のう? また暴れられても厄介じゃし。きちんと、落ち着いて話せるなら別じゃが」

 女はそう言って、ニタリと笑った。
 その笑いは凄まじい妖艶さを伴い、雷蔵は思わず劣情を覚えて一度だけ、ゴクリと唾を飲み込む。

「のう、ソレは後で外してやる。儂の話を聞いた後でなら、お主を自由にしてやってもいいし、家にも帰してやる。慰謝料が欲しいなら、ほれ」

 表面積の少ないその衣装の何処に持っていたのか、女は紙の束のような物を雷蔵の胡座を組んだ足下に放り投げた。
 ドサドサと音を立てて転がった紙の束は、雷蔵がTVの中でしか見た事のない一万円の札束である。
 そのあまりに気安い紙幣の扱いに、雷蔵は思わず目の前の人物は何かヤバい人なのかと考えて、今度は生唾ではなく言葉を呑み込んだ。

「くく、心配すな。お主がもし、儂の話を聞いて尚帰りたいと思うならば、そいつも手土産にくれてやる」
「こんな、――あんた、なんのつもりだ?」
「それを説明する前にお主が暴れ回ったのでな。これこの通りの状況になっておる。どうじゃ、話を聞く気になったかえ?」

 綺麗だったが、冷たい女の言葉に雷蔵は少し考えて小さく、黙ってうなずく。
 信用は出来なかったが、彼女の「家に返してやる」という言葉に一先ずは心を落ち着かせたからだ。
 雷蔵のその様子に女は満足げにうなずいて、その大きな胸を更に強調するように腕を組み、早速本題に入ったのだった。

「まずは、おさらいといこうかの。先にお主の質問に答えてやる」
「……ここは?」
「グラズヘイムという、閉じた世界。その中央にある、グリムワという地方じゃ」
「……お前は?」
「お主を魔法で此処に喚んだ者。平たく言えば、魔女じゃな」
「……どうして僕を?」
「さあ? 運命に干渉して、確率因子を嬲ったらお主が選ばれた。恐らくは、それが最適解であったのじゃろ」
「……なんの目的でこんな事を?」
「わしは此処で雇われた魔女での。『救いの者』を喚び出してくれと頼まれたで、仕事をしただけじゃ」
「……ふざけてるのか?」
「おおマジメじゃ。報酬はつまらんが、儂も都合があって必死じゃて」

 女はそう言って、ひひ、と笑った。
 暗い牢の中雷蔵と女の二人きり。
 何かの香水を付けているのか、女の甘い体臭が満ちて雷蔵の鼻を突く。

「信じられない」
「が、事実じゃ」
「話を聞いたぞ? コレを外して、僕を家に帰してくれ」
「アホウ、まだじゃ。ここからが本番なんじゃし? おさらいじゃと言ったろ? 先はここでお主が暴れたのではないか」
「……続けろよ」
「くく、怖い目じゃのう。他者の憎悪はほんに、ソソられるわい」
「続けろって言っただろ!」

 女の小馬鹿にするような態度に、雷蔵は激高してつい声を荒げた。
 無理もない。
 いきなりワケも分からぬ場所へ放り込まれ、危害を加えられ、非人道的に拘束までされているのだから。
 これが相手がいかつい男であったならば、萎縮してしまい、そうはならなかっただろうが。
 生憎と自分を今の状況に追い込んだ目の前の犯人は、か弱い女であった。
 その事実が雷蔵に必要以上に恐怖を薄れさせ、怒鳴り声を出す胆力を与えていたのである。
 雷蔵はこの時、知らなかった。
 女がどれほど恐ろしい存在なのか、毛程も。
 あらゆる魔道に精通し、高い存在の位階にあって運命を嬲る悪魔の、超越者の名を。

「ひひ、威勢がよいの。では、続けるとしようか。その前に」
「……なんだよ」
「お主、無敵のヒーローとなって、地位も名誉も、あらゆる女もよりどりみどりとなりたいと思うか?」

 質問は予想外で、しかも身も蓋も無い程バカバカしいものであった。
 雷蔵は不機嫌な声をうわずらせ、思わずはぁ? と聞き返す。

「だからの、無敵の勇者になってだな。可愛い女の子を好きなだけ、侍らせたいか? と聞いておる」
「……意味がわからない」
「む? 言葉は通じておるようじゃが?」
「ちがう! 僕を拉致してまで、どうしてそんな話になるんだよ!」
「なんじゃ、儂の体をみて簡単に欲情するような小僧のくせに、細かいところを気にするの」
「細かくない!」
「ふん、何事もシモで考える年頃だというに、つまらん奴じゃ。まあいい。つまりの? お主が無敵の勇者として誰かを助けんじゃよ」
「バカにしてるのか?」
「いんや、大真面目な話じゃよ。ま、目的は己の野望を満たす、とかでもなんでもよいがの。」
「意味がわからねえよ……」
「解らぬならとりあえず黙って聞け、バカタレ。での、その見返りにお主には富も名誉も、女も手に入る。しかも危険はそう無い。どうじゃ?」
「どう、じゃってあんた……」
「くく、ちと、心が揺らいだか。それでこそオトコノコじゃ」

 女はそう言って、くつくつと笑った。
 その笑いは雷蔵を再び不快にさせたが、それよりも自分に一切のペナルティがない、奇妙な申し出に今度が深く猜疑心が働いていた。
 危険は "そう" 無い、って言ったって。
 信じられるか? いや、無理。無理無理。信じられねえよ。
 リターンと比べて、リスクが低すぎる。
 ぜってぇ、なんか裏があるから、こうやって拉致されてんじゃねえか?
 ……でも、な。何を……
 元々好奇心の強い性格なのか、雷蔵は彼女の言葉裏に潜むリスクを最大限推理して、しかしその内容に興味を抱き始める。
 そんな彼の心情を悟ってか、女はニヤリと笑い、話を続ける。

「とりあえず、詳しい話を聞く気にはなったようだの?」
「……聞くだけならな」
「ふふん、それでよい。話を聞き終える頃には、考えも変わるじゃろうて」

 そう言って、女は満足げに頷き微笑む。
 雷蔵にはその顔はまるで、契約を持ちかける悪魔のように見えて、どこか得体の知れない不安感をかき立てられた。
 女はそんな彼の心情を読み取りながらも、更に凄艶な微笑みを浮かべ甘い声色で言葉を吐き出す。
 果たして、女の話とは。
 閉じた世界『グラズヘイム』は、元々よくある小さな宇宙(セカイ)であった。
 ただ、ある時。
 どういった理由か、色んな平行宇宙の知的生命体の思念が流れ込んきて、 "ここ" に溜まり、澱んだ。
 澱みはこの小さな宇宙が広がらぬよう、閉ざしてしまい。
 そして、グラズヘイムは『閉じた世界』となって、密閉されたまま長い年月が流れた。
 閉ざされた小さな宇宙は、広がる事も、縮む事も出来ずに時を止めてしまっていたのだったが。
 どういうわけか、ある時その止まったはずの時間が動き始める。
 やがて小さな世界に命が芽生え、更に止まった筈の時を重ねて、一つの王国が出現した。
 それが、何百年か前に王制が崩壊し、現在の群雄割拠の世界となっていると魔女は語る。
 グラズヘイムの地形は起伏に富んではいるが、地球とは違い、大陸は一つで。
 その大陸の中央に雷蔵が喚び出されたグリムワ領があるのだった。
 グリムワ領は元々大きな勢力であったが、数ヶ月前、領内で相次いで反乱が起こり今や滅亡寸前らしい。
 そんな状況を打破すべく、グリムワの領主は一か八かのあるカケに出る。
 それは、その地方に伝わるありふれた救国の勇者伝説に縋り、魔導士を捜し出して喚起するよう依頼したのだった。
 それが……

「それで喚ばれたのがお主じゃ」
「……もしかして、これ、ドッキリ?」
「残念ながらガチじゃ。くく、ここの領主は運がよい。なにせ、わしはこの閉じた世界では唯一の本物の魔導士じゃからの」
「それで? まさか、政治も、銃も、話術も、なにもできない僕にこの世界を平定しろっていうのか?」
「ま、そうじゃの。ちなみに、銃は数少ないぞ? 武器は鉄をよく研いだ棒っきれじゃ。あと、ちょっとしたデカいトカゲは居るがの」
「……話は終わりか?」
「もうちょっとかの。ここからは、儂の話じゃ。のう、少年。儂に協力せんか?」
「はぁ?」
「実は儂もの、この世界の人間ではない。とある事情での、この閉じた世界を解き放つ必要があってな」
「意味がわからないんだけど?」
「理解はせんでよい。ただの、儂に協力すれば、お主を元の場所、元の時間、元の体にして戻してやる」
「協力って、さっきの話とは別なのか?」
「いんや。やる事はかわらん。お主は無敵の勇者になって、このグリムワ領を救い、ついでにグラズヘイム平定する。で、そのついでのついでに各地の王族からある物を回収して欲しいんじゃ」
「やっぱり、カメラがどっかに……」
「何、難しい事ではない。各地の王族のな、妙齢の女子の体内には "時放つ世界のかけら" という、宝石のような物が封印されておってな」
「……ガチ?」
「ガチじゃ。大まじめじゃ。続けるぞ? での、これを全て回収できれば、この閉じた世界は『時放たれる』んじゃよ」
「……言ってる事の意味がわからないし、信じられない」

 雷蔵はそう言って、首を振る。
 当たり前の話だ。
 だれが聞いたって、信じられるはずがない。
 え? ホント!? じゃあ、やる!! 等とはなるはずもない程突拍子のない話であった。

「……まあ、おいおい信じてくれればいい。お主が勇者として活躍できるよう、力も "既に与えておる" 」
「え?」
「それよりも、じゃ。どうする? 儂に協力すれば、栄光と女と名誉が手に入る。ついでに、条件を満たしさえすれば元の世界にも戻れるようにしてやろう。それも、お主がここへやって来る直前の時間と状態にしての」
「……どういうことだ?」
「なに、お主がここで何年、何百年と過ごそうとも、元の世界では時間は進まぬようにしてやるというわけじゃ」
「そんな事が」
「できる。儂は『時の魔女』という、渾名があるくらいじゃて。たやすい事じゃの」
「そんな凄い事できるなら、自分で何とかすればいいじゃないか」
「物事には手順というものがあっての。皮肉にも、儂くらい存在の位階が高くなると、迂闊に "閉じた世界" に直接干渉は出来ぬのじゃ」
「……わけがわからん」
「だから、ゆーとろーが。勇者になって、誰もが夢見るような人生を送りたいか? それとも、その金を持って元の世界に変えるか?」

 暗い牢内は、一時静寂が転がる。
 雷蔵はなぜかこの時、故郷に、両親に、あの生活に帰りたいとは、そんなに強く感じていなかったからだ。
 おかしい。
 どう考えても、こんな話、信じられるはずがないのに。
 そんな彼に、目の前の女は追い打ちをかけるようにして、言葉を重ねる。

「ちなみに。儂に協力するなれば、お主が "時放つ世界のかけら" を一つ、回収する度に一時帰国をさせてやろうぞ?」
「え?」
「それだけではない。 "時放つ世界のかけら" が全て揃えば、儂はこの世界とお主の世界を自由に行き来できるようになる」
「だから?」
「つまり、その時にもう一度、此処に英雄として永遠に残るか、地球に帰ってあの日あの時間あの場所に戻るかを選択させてやると言う事じゃな」
「……でも」
「心配すな、たわけ。此処ではお主は年を取らぬ。それどころか、不死に近い存在に "してやった" んじゃからの」
「はぁ?! それ、どういう……」
「……はぁ、煮え切らぬ奴じゃのう。これだけ、やりたい放題に出来るとゆーとるのに。もういい、いま決めよ。帰るか? 残るか?」

 女は突然、呆れたような物言いとなり、雷蔵を突き放したように言った。
 雷蔵はさらに迷いを深める。
 答えなんて、初めから出ている。
 だけど、なぜ?
 なぜ、 "俺" はこんな……
 ―― "こんな美味しい話を迷っているんだ?"
 話に乗ってみて、判断すればいいじゃないか。
 どのみち、ここで帰ると言っても本当に家に帰してくれる保証なんて無い。
 話自体も、今のところこちらにハイリスクな物は無い。
 どうせなら、何もかも感情の赴くままに行動してやればいいじゃないか。
 そもそも、自分程度の人間など、掃いて捨てる程もいる。
 必然、なにか特殊な、難しい事をやらされるわけでもなさそうだ。
 ならば……
 雷蔵は思考を重ねて、しかし気がつかない。
 自分の精神が、いつの間にか少しだけ、だが重要な部分が変わってしまっている事に。
 少し気弱な "僕" が薄れて、 "俺" となってしまってる事に。
 己の中に巣喰った、あの得体の知れないナニカに、大事な部分を奪われてしまった事に気がつかないまま。
 雷蔵は短く、縦に首を振った。
 それを見た女はニタリとあの妖艶な笑みを浮かべて、満足げに口を開く。

「つまり、それは。儂に協力し、此処に残る事を選ぶと言う事じゃな?」

 雷蔵はもう一度、短く無言で頷いた。
 女はくく、とくぐもった笑いを漏らし、それから徐に跪いて、雷蔵と視線を合わせた。

「よし、契約成立じゃ。儂の名はノルン。『時の魔女』ノルンじゃ。お主は?」
「小松……小松雷蔵」
「そうか。よろしくな、ライゾウ」
「……こちら、こそ。なぁ、話が纏まったんだから、コレ、外してくれないか?」
「まだじゃ。コレが、終わってからの」

 ノルンと名乗った魔女は、そう言って不意に雷蔵の口をふさいだ。
 生暖かい舌の感触と彼女の甘い体臭が口中に広がる。
 雷蔵は驚いたが、抵抗が出来ず、間もなく牢内にぴちゃりという水音と、荒い息使いが響きはじめた。
 それから。
 女の手が雷蔵の下腹部へと伸びて、器用に着ていたズボンのベルトを外していく。
 雷蔵は何度目かの混乱に陥り、やっとの思いで女の口から脱出してすこし、上ずった声をあげた。

「な、なな、何を!」
「何をって、お主、此処までされて儂がナニをしようとしておるのかわからんのか?」
「そうじゃない! なんで!」

 慌てる雷蔵の顔を間近で見詰め、ノルンは目を細めてニタリとあの表情を浮かべた。

「 "時放つ世界のかけら" は、各地におる王族の、妙齢の女子の体内にあるとゆうたろ?」
「え? あ、ああ」
「それを取り出すにはの、まぐわう必要があるんじゃよ」
「え? まぐわ……」
「つまり、今からわしがそのやり方を教えてやると言う事じゃ。まあ、そうでなくともヤりまくる羽目になるんだろうが」
「おい! ちょ、ど、どこ、さわって!」
「ひひ、元気が良いの。若い分旨そうじゃ。童貞を喰うのも久しぶりじゃしの、覚悟せいよ?」

 ノルンはそう言って、雷蔵の股間にいきなり顔を埋める。
 雷蔵は羞恥と混乱を一層深めて、その瞬間、思わず情けない声をあげてしまった。
 やがて牢内は悦楽の声と音が満たされた部屋となり。
 こうして、小松雷蔵は最後の "大事な物" を魔女に奪われて、閉じた世界『グラズヘイム』の勇者となる。
 幸か不幸か、取引した相手は悪魔のような魔女であると、この時少年は認識しては居なかった。
 つまり、 "何と引き替えに" 彼女と取引をしたのかを。

 そう、既にこの時雷蔵は、恐ろしい悪魔にその代価の支払いを済ませていたのだった。




















03 インスタント勇者

 小松雷蔵は驚きのあまりしばし、 "傾国" (ケイコク)を横に構えたまま自失した。

 彼だけでなく、遠巻きに彼を見ていたグリムワ領主である、アスティア姫と彼女が率いる千にも満たない軍勢、そして。
 姫の隣に馬を並べ、依頼通り "勇者" を喚び出した証拠を提示してみせた魔女はくつくつと笑う。
 勇者は。
 馬にも乗らず、 "傾国" と名付けられた奇妙な形の片刃の剣を振って、その日遂に攻め入って来た隣領カタスの軍勢を全て打ち倒していた。
 たった独り、ほんの僅かな時間で、だ。
 その光景は。
 正に伝説に相応しい物であった。
 正に新たな伝説に相応しい物であった。
 今正に攻め滅ぼされようとしていた、グリムワの兵士達は正に奇跡を目の当たりにして、歓声を上げる。
 狂ったかのように、酒に酔ったかのように、皆言葉にならないような叫びを上げて、勇者を称える。
 そんな大歓声を背に受けて、小松雷蔵は我に返った。
 目の前には累々とした敵の死骸。
 すべて彼一人で屠ったにも関わらず、雷蔵は。
 ただただ、それを成した事よりも、それを成して "何とも思わない" 自分の心に驚いていた。
 初めて人を、刃物で斬りつけたのに。
 初めて戦場に出たのに。
 初めて、人を殺したのに。
 心は後悔と自責に沈むどころか、高揚感とこの後手に入れる『最初の女』に向いて雷蔵を昂ぶらせていく。
 おかしい。
 なんで……
 なんで、普通の日本人で、高校生だった "俺" が、こんな事ができるんだ?!
 混乱は尚も続き、やがてある心当たりに気がつき、この時やっと背後を振り返る。
 視線の先には雷蔵の人生の中で、初めての女となった魔女ノルンがいて、視線がぶつかった。
 魔女は、雷蔵が何を言いたいのかを察したように、あの蠱惑的な笑いを浮かべて。
 そしてこの時初めて雷蔵は理解した。
 この、この世界で全てを手に入れられる力と引き替えに、自分はいくつかの心を奪い取られたのだと。
 なぜそれが対価であるのか、理由は分からない。
 だが間違いなく、殺人への禁忌やいくつかの道徳といった、元の世界で暮らす人としての当たり前の感情がスッポリと消えてしまっていたのだ。
 雷蔵はその事実に気がついて、しかし。
 彼女の隣に居る、若きグリムワ領の領主であるアスティア姫へと視線を移すや、それは必然であるのかもしれないと考えた。
 雷蔵にとって、最初の『戦利品』である彼女は美しく、初めての勝利に昂ぶる胸の内に激しい劣情をかき立てる。
 そうだ。
 俺は、僕は、決めたんだ。
 どうせなら、何もかも感情の赴くままにしてやろうと。
 ここは、多くの思念が作り出した、閉じた世界グラズヘイム。
 そうしなくては、僕は、俺は、『勇者』では居続けられないのだ
 この閉じた世界を救うため、それは仕方ないのだ。
 そう、雷蔵が考えるようになる少し前、この日彼は初陣を飾った。



 雷蔵が閉じた世界グラズヘイムに喚び出されて数日後。
 彼はノルンが逗留していた、グリムワ領領主の城の地下より初めて外へと出た。
 魔女との契約をした後、拘束から解き放たれた彼は数日かけて一通りの情勢や閉じた世界グラズヘイムの "正体" について話を聞いた後。
 最後にと、漆黒の拵えである一振りの日本刀を手渡され、いよいよ勇者としてお披露目をされる事となったのだった。

「……なあ、ノルン。俺、思ったんだけど」
「なんじゃ?」
「ここ、どっちかって言うと西洋文化っぽい世界だよな? あ、わかる? 西洋文化」
「心配いらん。儂も一応、お主と同じ地球育ちじゃしの。まあ、言いたい事はわかるんじゃが……」
「なんで日本刀なんだ?」
「この世界の文明レベルは説明したな?」
「ん、まあ……。話自体まだあんま信じてないけど」
「外に出ればイヤでも信じるわ、たわけ」
「あー、はいはい。ま、銃や大砲は一応あるけれど、槍とか弓とか、そういった物が主力なんだろ?」
「そうじゃ。ついでに、地球にはおらぬ生き物もおるで。……たまに、生きてないのもおるが」
「まあ、ファンタジーの世界だと思えばいいってのはしっくり来たんだけど」
「なら、何が問題じゃ?」
「これだよ、これ」

 雷蔵はそういって、手にした日本刀を掲げてみせる。
 鞘も柄も鈍く輝く黒いそれは、美しいが地球で言うところの西洋文化風の建物の中にあって、異質な存在感を放つ。

「なんで『日本刀』なんだよ?」
「 "傾国" (ケイコク)という銘じゃ。かっこええじゃろ?」
「いや、そうだけど……こういうのって普通、両手剣とか両刃の剣とか使うのが勇者っぽくないか?」
「む? ああ、そういうことか。いや、何。ソレはの、儂の趣味じゃ、趣味。まい・ふぇいばりっとと言う奴じゃよ」
「なんだそれ」
「ま、気にするな。無くされでも大事じゃしの。大事にしろよ? 決して折れず、曲がらぬよう儂が加工してあるで」
「……ま、いっか」
「くく、大分聞き分けがよくなったの。ここ数日、たっぷりと精を絞った甲斐があったわい」

 くぐもった笑い声を発する魔女の最後の台詞に、雷蔵は言葉をだしかけて口をつぐむ。
 いまだ半信半疑ながらも、閉じた世界グラズヘイムについて話を聞いていたこの数日間。
 幾度も彼女に襲われる形で肌を重ねており、その淫蕩な記憶がよみがえったからだ。
 が、魔女はそんな雷蔵の反応にすこし不満があるのか、ふんと鼻を鳴らしついてこいと言って足早に歩き始めた。
 雷蔵は慌てて彼女について行こうとしたが、視界に入った半裸とも言える彼女の後ろ姿をみて、思わず立ち止まり頭を振る。
 その形の良い、細い腰と相まって強調される尻を見て、まだ新しい記憶に張り付いていた昨夜の乱れたノルンを思い起こしてしまい、欲情しかけた自分がいたのだ。
 ノルンはそんな雷蔵に気がついて立ち止まり、ニタリ、と振り返りながら笑う。

「なんじゃ?」
「べ、つに」
「ここでヌいてやろうか? 儂は上でも下でもかまわんが」
「いいよ! て、時と場所を考えろって!」

 この女は本気だ。
 例えここが街中の歩行者天国であろうと、顔色一つ変えずにヤってみせるのが、この魔女だ。
 雷蔵は慌てながらも、早く案内しろとばかりに手を振る。
 一方、ノルンは面白くなさそうにもう一度鼻を鳴らし、再び彼の前を歩き始めた。
 向かう先は雷蔵達が使用していた城の上階。
 つまり、領主の謁見室である。
 雷蔵はその建物の中を歩く内に、半信半疑であったノルンの話が本当であるという実感を得ていた。
 狭い地下の石畳みの廊下は地上部分に向かうにつれ、広く赤い敷物が施され。
 一定間隔で立つ西洋風の甲冑を身につけ槍を持つ兵士は、どう見ても本物で。
 すくなくとも、無名の一般人を騙すTV番組にしては大がかりすぎるような内部だ。
 ――そもそも、もしそうであっても、数日間暗い地下室に監禁し、美女に犯されるような映像をTV番組制作に使えるはずもないのだが。
 なによりも。
 上階へと登るにつれて、窓の外に見える町並みはどう見ても日本の物ではない。
 ノルンの話を疑うならば、残る可能性は超絶金持ちの道楽で拉致され、これから男娼とされるのか。
 はたまた、犯人がマフィアであり臓器を奪われ売られてしまうのか。
 しかし、例えそうであっても腑に落ちない事ばかりで、いまだ、魔女の話を肯定も否定も出来ずに彼女の後を歩く雷蔵であった。
 やがて、両脇に兵士が立つ大きな両開きの扉の前でノルンが立ち止まり、雷蔵を見てここじゃ、と口にする。

「よいか? 偉そうにしてふんぞり返るのじゃぞ?」
「……本当に、ここじゃ勇者の方がエラいんだろうな?」
「うむ。ここでの勇者は全ての為政者よりもエラいんじゃ」
「未だによくわからん。覇王とか、そういうんじゃないんだろ?」
「ああ、そうじゃ。勇者は基本的にワガママ言って、周りがそれを叶えるという、美味しい職業じゃからの」

 そう言いながらノルンは、扉の脇に立っている兵士に合図を送った。
 兵士は頷きもせず、事務的に扉を開いて見せ二人を中に入るよう促す。
 謁見室は意外と狭く、しかし細長い作りで奥に置いてある豪華な椅子には金髪の女の子が座っていた。
 雷蔵が初めて喚び出されたときに見た、あの少女である。
 両脇にはずらりと兵士が並び、皆ジロリといぶかしげるような視線を雷蔵に向けている。
 入り口から女の子までは約10メートル。
 その中程までノルンと共に歩くと、突然兵士に槍で制止させられ、そこで初めて女の子は口を開いた。

「魔女殿。新しい勇者はいかがした? 妾の目には、魔女殿が連れてこられた勇者殿が先日の者と同じようにみえるのだが」
「アスティア姫。新しい勇者など、存在せぬよ。あの時説明したであろ?」
「ばかな! そのような、いかにもひ弱な者が勇者であるなどと!」

 女の子は居丈高な口調で、初めて見た時のようにノルンに食ってかかる。
 その様子を見て恐らくは、あの時も同じ内容で口論をしていたのだろうと雷蔵は考えていた。

「ひ弱、とは意外じゃの。見た目で判断せぬ方がよろしいぞ? アスティア姫」
「だがそのような細い体で何が出来る?!」
「ひひ、そうじゃのう。姫の体をこの場で造作もなく押さえ込み、兵士の制止など意に介さず慰み者に出来る程には、この者は強いかの?」

 ガシャ! といくつもの鎧が擦れ鳴る。
 兵士達が一斉に雷蔵達に向けて、槍を構えたからだ。
 アスティア姫と呼ばれた少女は、ノルンの台詞に顔を真っ赤に染め上げ、ワナワナと震えている。
 一方、何も知らない雷蔵でさえ、暴言としか思えない言葉を吐いたノルンは涼しげにひっひ、と下品な笑いを漏らしていた。

「ぶ、ぶぶ、無礼者!」
「無礼はそちらじゃろ? のう、姫。そもそも、勇者とはなんじゃ?」
「何を!」
「儂は請われて勇者を喚起した。この、グラズヘイムを平定するためのな。もっと言えば、グリムワから再び真の王を産む為に、じゃ」
「だが、喚び出されたのはそのような」
「見た目など、姫の好みに合うかどうかの問題じゃろ?」
「だが!」
「大体、わかっていたはずじゃ。勇者を呼びださばグリムワを、グラズヘイムの平定と引き替えに、その身を捧げる必要がある事くらいの」
「なぬ?!」

 それまで黙って成り行きを見守っていた雷蔵は、ノルンの台詞に思わず声を上げて反応してしまう。
 ノルンはそんな彼に情けなさそうに視線を送り、どいつもこいつもといった調子でため息をつく。

「……勇者殿、何を驚かれる。グラズヘイムのすべてはもやはお前様のもの。お気に召したなら、早速アスティア姫と閨へ」
「黙れ魔女め! 妾は認めぬ!」
「では姫。このまま座して滅びを待つのかの? 先日聞いた、今こちらに進軍しておるカタス軍は約3000なんじゃろ?」
「……カタスの軍勢は、我らのみで」
「は! たかだか数百の手勢で、戦も知らぬ姫がどうやって追い返す? 明後日の夜にはカタス公の閨で慰み者になるのがオチじゃろうな」

 謁見室に重く沈黙が横たわる。
 雷蔵はノルンとアスティア姫の会話を聞いて、どうもかなり切羽詰まった状況であるとなんとなく、理解する。
 しかし。
 理解はしたものの、どこかそれは他人事と感じて。
 それどころか、戦に巻き込まれる恐怖などまったく沸いて来ず。
 それはまるで、自分が難なく出来る事を他人が絶対に無理だと語り合うような、そんな感触で。
 雷蔵はその時、初めて己の内の違和感に気がついたのだった。
 思えば。
 先程兵士に槍を向けられた時も、ここへ3000もの軍勢が向かっていると聞いた時も、不思議と出てくるべき感情が沸いてはこなかった。
 そもそも、未だにここが異世界であると実感も無いままそこに立っていた雷蔵は。
 ソレがただ、認識が現実に追いついていないだけだと思っていたのだ。
 しかしそれは、認識が現実に追いついていないのではなく、彼の心の在り方が変質してしまっている事を意味しており。
 そして、雷蔵は間もなくソレを実感する事になる。
 魔女の苛烈な言葉に、アスティア姫がならばと口にした、ほんの数時間後に。



 グリムワ領の城は、西欧の城のように城下の町をぐるりと城壁で囲んで、その外には田園が広がっていた。
 規模はそれ程大きくはなく、城門も一つである。
 周囲には田園の他、なだらかな丘陵が続き視界は広い。
 時刻は既に夕刻。
 茜色の太陽が、のどかな田畑を染めながら地の果てに沈み行く頃合いである。
 形だけは立派な城門から数キロほど移動した街道で、グリムワの兵士達は陣を敷いていた。
 籠城戦ではなく野戦を選んだのは、ひとえにその領主の民を巻き込まぬという志の尊さ故であろう。
 街道の先は、先程反乱を起こしたグリムワ領主の元臣下達の領地へと続いている。
 アスティアの父である、先の領主が亡くなった折、彼らは示し合わせたかのように反乱を起こして忠誠でなく剣を主君の娘に向けた。
 彼らは互いに争いもせず、皆早い者勝ちとばかりに執拗に僅かに残ったグリムワ領へ侵攻し、今では本拠であるグリムワ城を残すのみであった。
 そして、一番乗りにグリムワ城へ迫っていたのが、反乱を起こした元臣下の中で最大の勢力を誇るカタス将軍の軍である。
 その数3000。
 騎兵を中心とした部隊で、かつては周辺の領主達の侵攻をことごとく打ち破った精鋭であった。
 対するグリムワ軍は歩兵を中心とした部隊で、500名程。
 度重なる防衛戦で消耗し、装備もバラバラの寄せ集めであった。
 兵士達は皆士気も低く、諦めと僅かな、ほんの、芥子粒ほどの希望を抱いて街道上に陣を敷き迫り来るであろう騎兵を待ち受ける。
 そんな、彼らから更に数百メートル離れた位置に、馬に跨がった魔女の隣に徒歩の雷蔵は、彼女から貰った日本刀を手に持ち立っていた。
 魔女は馬から下りもせず、雷蔵を見下ろしてこの圧倒的に不利な状況下でニヤニヤとし、初陣の勇者に語りかける。

「くく、腕の見せ所じゃの」
「……なぁ」
「む? ああ、流石に今此処ではムリじゃ。ヤっとる最中に敵がやってきてしま」
「違う! 色ボケもいい加減にしろ!」
「ひひ、冗談じゃ」
「冗談に聞こえねえって。……なあ、お前、俺に何かしただろ?」
「む? そりゃあ、色々としたが……」
「だから!」
「勘違いするな、たわけ。アレ以外にも、勿論お主には "色々" としとるよ。さすがの儂も、元が只の童貞小僧のお主がいきなり勇者の真似事が出来るとはおもわん」
「だよな……。状況はすっげえ良くないはずなのに、全然、その……」
「怖くないじゃろ? くく、その刀を抜けば "何故恐怖を感じないのか" がわかるぞ? あああ! こら、今抜くでない」

 魔女の言葉に、雷蔵は早速ソレが如何なる物かを確かめようと手にしていた刀の柄に手をかけた。
 そんな彼を珍しく魔女は慌てて、触らぬように制止する。
 雷蔵は不満げにノルンを見上げ、刀の柄から手を下ろしながら顎をしゃくった。

「……そんなこったろうと思った。話せよ、さっさと。どうすりゃいいんだ?」
「何、簡単な事じゃ。その刀は、儂がお主に仕込んだアレやコレを発動させるための、鍵を兼ねとるで」
「敵がやって来たら、抜けばいいって事か?」
「まあ、そういうことじゃ。今はやけに状況に馴染んでいる自分に戸惑いを覚えてもおろうが、それも儂がお主に仕込んだ事じゃて、きにすな」
「……何を仕込んだんだよ、一体。 "俺" 、この年でジャンキーにはなりたくないぞ?」
「何、クスリなどではない。お主、一番始めに儂が手のひらに乗せたアレ、覚えておるか?」
「ああ、あのサイコロみたいなの、な。すげえ痛かったぞ」
「あれはな、CFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)と言ってな。……早い話が、誰でも強くなれる兵器じゃ」
「兵器?」
「むー、ちと違うが……簡単に言えば体内に微少の機械を入れて、力を増幅したりデータベースを参照して知識を取り出したり、怪我を治したりする機械じゃな。勿論、脳内物質のコントロールも出来るぞ?」
「な! そんなもんを俺に」
「怒るな。基本無害じゃし。それとも、今此処で取り除いてやろうか?  "元" に戻れるぞ?」

 さらりととんでもない事を口にした馬上の魔女をにらみつけ、雷蔵は他に選択肢が無い事を確認した。
 そうだ。
 今更、元に戻せなどと言えたような状況ではない。
 が、それでも自分に一切の説明も了解もなく、体をイジられた悔しさはあって愚痴に近い恨み言が口を突いた。

「……あとで覚えてろ」
「ひひ、楽しみにしておるよ。アスティア姫と一緒に楽しむのも、悪くなかろうの」
「そっちの意味じゃねえ!」
「そっちの意味じゃなくとも、そうせざるを得ぬようになるがの」
「え?」
「ま、お主とCFMMは相性が良くないようじゃから、能力の10%も出ておらんがそれでも十分じゃろ。一応、出来るだけ早く終わらせるようにの。ほれ、敵が来たぞ?」

 魔女はそう言い残し、馬首を返して後方に展開するグリムワ軍の陣に馬を走らせ去っていった。
 前方ではいつの間にか大量の騎馬が迫ってきていたらしく、遠く土煙が地平線に沿って上がっている。
 初めて見るその迫力に雷蔵は圧倒され、少しだけ気圧されたがやはりこの期に及んでも恐怖や緊張は感じなかった。
 果たして、手にした刀一本であの軍勢をどう、止めるというのか。
 雷蔵はその答えをつかめぬまま、不思議とそれが出来るような気持ちになり刀の柄に手をかける。
 騎馬軍の先頭は既に形が見える程接近して見えて。
 その距離は見る間に縮まり、グリムワの陣を確認してかその勢いは更に増し、馬上の兵士が手に持つ武器が夕日に照らされ煌めいていた。
 精鋭は雄叫びを上げ、手始めに雷蔵を馬で押し潰さんと進軍速度もそのままに迫る。
 只独り街道の真ん中に立ち、精強の騎馬隊の前に立ち塞がったひ弱な日本人は、しかし、刀の柄に手を添えたまま動かない。
 彼の頭の中では『どうすればよいか』という情報がこの時、体内に埋め込まれた機械が初めて示していた。
 その、極小の機械達は雷蔵の脳内物質の分泌をも支配し、突然の起動に困惑する間も与えず。
 そして平凡な少年に、勇者としての力が宿る。
 カタス軍の騎馬隊の先頭が、正に進路上にて棒立ちとなった雷蔵を踏み潰さんとしたその時。
 白く細い閃光が長く横に一筋出現した。
 それは、数百メートル離れたノルンとアスティア姫の目にもはっきりと見えて。
 それを追いかけるように、爆音が響き、暴風が吹き荒れる。
 その切っ先は如何なる速度を出したのか、衝撃波を伴って雷蔵の眼前に迫る軍隊を蹂躙してゆく。
 まるで、水面に広がる波紋のように馬と人の波をバラバラに引き裂きながら広がり、やがて静寂が訪れ勇者の目の前には地獄絵図が浮かび上がった。
 その様は、群衆の中に絨毯爆撃を行ったような凄惨な光景で、小さな機械に感情を制御されていた雷蔵であっても息を飲ませる光景だ。
 只一振り。
 それだけで作り出されたその暴虐に、勇者は引き抜いたばかりの "傾国" をしばし横に構えたまま自失した。
 そして、理解する。

 己は、機械によって感情を抑えられているのではなく、いくつかのそれをあの魔女に奪われているのだと。




















04 最初の戦利品

 グリムワ城下は、その夜街をあげての乱痴気騒ぎとなっていた。

 無理もない話である。
 お伽話のような救国の勇者伝説が現実となり、正にその日、街が救われたからだ。
 その武勇は尾ヒレに背ビレが付いて、瞬く間に全ての住民達の耳に届き、更に華美に装飾された話が拡散してゆく。
 新たな伝説は狼煙が最大速の情報である社会にあって、信じられない程の速さで街の外へ、領地の外へと広まった。
 雷蔵が兵士達にもみくちゃにされながらも城下に戻ると、どこで聞きつけたか勇者の凱旋を街の住民総出で祝福し迎え。
 城では一早く宴の準備が終えられて、時を置かず至る所で酒宴が開かれていた。
 街の者は老若男女問わず酒に溺れ、幼子までもが雷蔵の武勇に酔いしれて、夜を徹し勇者の再臨に人々は歓喜し続ける。
 その有様は主役である雷蔵が辟易とする程のものであり、終いには人気のない城の裏庭へ勇者は逃げ込む羽目となる程であった。
 グリムワの城下はその夜戦乱の閉じた世界グリズヘイムに在って、信じられない程の歓喜の坩堝と化し乱痴気騒ぎが果てしなく続いていく。
 ただ独り、グリムワ領領主アスティア姫を除いて。



「なんじゃ、ここに居たのか」

 突如背後から声をかけられ、雷蔵は肩を跳ね上げて驚く。
 行く先々で握手を求められ、酒を勧められ、お守りとばかりに髪の毛を引っこ抜かれていた雷蔵は、城の裏庭の草むらに避難していたのだった。
 時刻は夜も更け、もう少しで日付が変わる頃であろうか。
 いまだ城の内外からは勝利に酔いしれる人々の歌声が響き、宴は終わる気配を見せはしない。
 雷蔵は焦ったように背後に振り向きながら、覚えのある声に少し安心してその姿を確認し胸をなで下ろした。

「なんだ、ノルンか」
「なんだとは随分じゃの、勇者殿?」
「やめろよ、それ。当分その呼び方をされたくない気分だ」
「ひひ、随分と街の娘らに言い寄られておったのぅ。勇者様、勇者様、と慕われて満更ではなさそうであったが?」
「まあ、そうなんだけど……言い寄られるなら、出来れば酒臭くない方がよかった」
「む。……ああ、そうか、そう言えばそうじゃの」
「ん? 何がだ?」
「いやの、あの娘らは別に酒臭いばかりではないんじゃ。ただ、毎日風呂に入る習慣が無いから……」
「……なるほど、な」

 魔女の言葉に、雷蔵はあの強いニオイの正体に思い至って納得した。
 それは酒のニオイとばかり思っていたのだったが、実際は少女達……というか、この世界で生活する全ての者はそれなりの体臭を放つらしい。
 むしろ、毎日体を洗うのが普通である現代日本で暮らしていた雷蔵の方が、過剰な程ニオイに敏感なのかもしれない。

「むぅ。王族とて、毎日ではないからの。これは盲点じゃった。勇者殿のヤる気に関わるかも、しれんの」
「は? 何がだ?」
「まあ、儂にはその必要が無いのだが……こまった」
「だから、何がだよ?」
「ん、まあ、こっちの事じゃ。それよりも。アスティア姫が折り入って話があるとお主を探しておったぞ? 自室で待っているらしい」
「……あからさまに話題変えてんじゃねぇよ、気になるな。大体、お前には色々と言いたい事が」
「気にするな、たわけ。それよりも、儂との約束、覚えておろうな?」
「……時放つなんとかって奴か?」
「 "時放つ世界のかけら" じゃ。アスティア姫は王家の血筋じゃからの、その体内に宿しておるはずじゃて」
「……ダメかもしれないぞ? あの子、ずっと俺の事睨んでいたし」
「ダメもクソもあるか。良いか? ここでの勇者は全ての権力の頂点じゃ。何をしても許される。勿論、誰を何処で押し倒そうとな」
「信じらんねぇって、それ」
「なれば、信じさせてやろう。ついてこい、勇者殿」

 ノルンはそう言って、踵を返しつかつかと歩いて行く。
 雷蔵は少し考えて、彼女の後を追う事にした。
 二人はそのまま城の最上階まで移動し、衛兵一人いない暗く長い廊下を歩いて行く。
 兵も女官も、城の中庭で繰り広げられている乱恥気騒ぎに参加しているのだろう。
 城内において、領主のプライベートな部屋の多い上階は眼下の街とは対照的に人気を感じなかった。

「ここじゃ。ほれ、お待ちかねじゃぞ?」

 かがり火に照らされた一際豪華な扉の前で魔女は立ち止まり、雷蔵に顎をしゃくって見せた。
 その仕草は優雅であり、先程迫られた町娘達とは比べものにならない程の甘い香りがふわりと勇者の鼻をつく。
 薄く赤い唇の端を引き浮かべた悪魔のような笑みは、いつものように彼女の妖艶な美貌を禍々しい物に変えていた。
 雷蔵は魔女に促されるまま、ゴクリと唾を飲み込んで、扉に手をかける。
 呑み込んだ物は、扉の向こうにいる者の意図が解らないためか、目の前の魔女に欲情したためか。
 重く豪華な扉はぎ、ぎ、と重苦しい音を立てて開き、雷蔵はその隙間に体を滑り込ませた。
 中は広く薄暗く、豪華作りの調度品がそこかしこに置いてある。
 特に目についたのは、薄絹の天蓋が幾重にも張り巡らせた、巨大なベッド。
 否。
 雷蔵の目を引いたのは、そのベッドではなく。
 その手前に立つ、女であった。
 女は毛先に少しウェーブのかかった黄金の髪を下ろして、首に、胸元に、腕に、腰に、指に、同じように黄金の装飾品を纏っている。
 黄金は部屋の明かりを受けて鈍く光り、彼女の美しさを一層際立たせていた。
 その、アスティア姫の女神のような立ち姿に雷蔵は思わず息を飲み。
 そして、徐に、部屋の扉をもう一度あけて静かに退室する。
 部屋の外では魔女が意外そうな顔をして、戻って来た雷蔵を出迎えた。

「なんじゃ? もう話は終わったのか?」
「な、なななな」
「な?」
「何も着てなかった! あの子、何も着てなかったぞ!」

 そう。
 部屋の中で雷蔵を迎えたアスティア姫は、正に女神像のごとく装飾品以外に何も身につけて居なかったのである。
 雷蔵はその状況に理解が付いて来ず、思わず元来た扉を開いていたのだった。
 ノルンはそんな彼に呆れたようにため息を一つついて、首を振る。

「当たり前ではないか。もとより、 "その" つもりでお主を呼んだのじゃろうし」
「そのつもり、ってお前! いくら何でもおかしすぎるぞ?! あの子目に涙貯めて憎悪を込めて俺の事睨んでたし!」
「そりゃ、当然じゃろ。なにせお主は毛嫌いされておろうしの」
「ワケわかんねぇよ!」

 声を潜めて雷蔵は怒鳴った。
 別にノルンがムカついていたとか、アスティア姫の意図が見えない事が気にくわないというわけではない。
 ただただ、混乱していただけである。

「わからなくとも、ヤることはわかろ? なにせ儂がたっぷりと手ほどきしたで」
「そういうんじゃなくて! お互いの、同意というか、大事な事が色々とあるだろうが!」
「なんじゃ? お主、もしかしてママと一緒でなくては閨に入れないタイプか? こまったのう……」
「ちがう!」
「じゃあ、いきなり儂と3人でヤりたいと? おいおい、儂はかまわんが、男なら純潔を散らす乙女の気持ち位汲んでやらねば」
「それもちがう! この色ボケ! なんで、あの姫さんが! いきなり僕を呼びつけて裸で待ってるんだっつってんだ!」
「そりゃ、お前。儂が『勇者を喚び出した時、その身を弄ばれる必要があるが良いか?』と条件を付けてお主を喚んだからの」
「お前か! お前が原因か!!」
「当たり前じゃろ? 儂の目的は複数の "時放つ世界のかけら" じゃ。あんな、一穴主義を強要しそうな小娘に邪魔をされたくはないからの」

 魔女はそう言ってくくと笑った。
 雷蔵は内心、それであの態度であったかと得心が言ったが、状況の心苦しさにいまだ戸惑い続ける。
 勇者となれば好きなだけ女を抱ける。
 更に、美女ばかり、お姫様ばかりとくれば、だれしもが心ときめくであろう。
 雷蔵自身も好きなようにしてやると意気込んでいたものの、まさか最初に手に入れた女が、憎悪を持って閨に招くなど考えた事もなく。
 故に何故か残されていた気弱な感情が、彼を気後れさせていた。
 それを残したのは、魔女の趣味であろうか。
 ノルンはあの、邪悪な笑みを浮かべたまま雷蔵に顔を近づけ、よいか? と前置きした。

「のう、勇者殿? 勘違いしてはならぬぞ?」
「な、なにがだよ!」
「勇者、とは清廉潔白、武芸に秀でた人格者の意ではない。少なくとも、ここではな」
「……どういう意味だ?」
「何。救世主ではあるがの、逆に言えば、救った世界を好きに出来る者が、勇者なんじゃ」
「俺は、ちがう!」
「くく、そこは好きにせい。儂は "時放つ世界のかけら" が手に入りさえばそれでよい。だがの?」
「な、なんだよ」

 徐々に近寄ってくる魔女の顔は妖艶で、あの甘い体臭が強く雷蔵に淫靡な空気を感じさせ、言葉を詰まらせた。
 そんな彼の事などお構いなしに、時の魔女は吐息を勇者の鼻先に吹きかけ言葉を紡ぐ。

「儂が何のためにお主の心から、殺戮の禁忌を取り上げ、その刀を与えたと思う?」
「や、やっぱりお前!」
「何の、為に、CFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)などという兵器を植え付けたと思う?」
「……何が言いたいんだよ」
「そこまでせねば、お主はこの世界で勇者として生きては行けぬからよ。わかるか?」
「……わかんねえよ」
「勇者とは、敵がおるから勇者なのじゃ。あの力は、それらを蹴散らす力じゃ。お前の欲望を叶えるための力じゃ」
「てめ! 話が」
「違わん。お前は間違いなく無敵であり、女を侍らせる事が出来る。富も名声も思いのままじゃ。 "流れに身を任せるかぎりはの" 」

 魔女はそう囁いて、くくと笑う。
 唇はいつの間にか顔を逸らした雷蔵の耳の側に在って、かつて聖人に囁いた悪魔のように甘美な言葉を更に吐き出していった。

「よいか? あの力は強力じゃが一分しか持たぬ。それを過ぎれば、只の人間にお主は戻るのじゃ」
「な?!」
「発動できるのは一日に一度。もし、使えば日を跨ぐまで、その刃は鞘から抜けはせぬ」

 言葉に雷蔵ははっとして、手にしていた "傾国" を引き抜こうとした。
 しかし、魔女の言葉通りにあれほど軽く引き抜けた刀はびくともしない。
 ノルンはその様子を目を細めながら確認し、甘く残酷な声色で勇者に囁き続ける。

「わかったか? CFMMは今も働いておるが、最低限の機能しか発揮してはおらん。これを一時的に活発化させるのが、その "傾国" なんじゃ」
「……どういうつもりなんだよ、お前」
「何。儂はの、お主に保険をかけたんじゃ」
「保険だと?」
「そうじゃ。妙な里心を出されて、途中で独りの女にうつつを抜かされては敵わんからの」
「……だからって、こんな」
「おっと、話を最後まできくがよいぞ、勇者殿? その "傾国" の制限は、ある条件で緩和されるで」
「条件?」
「つまり抱いた女の数だけ、使用回数が伸びる。今日は儂一人分で一度だけ剣が抜けた。今夜、アスティア姫を抱けば明日から二度。わかるか?」
「はぁ?! なんだよ、そのバカバカしい条件は!」
「ひひ、儂の趣味じゃ。ああ、ちなみに無秩序にヤりまくってもダメじゃぞ? お主が抱きたい、と思った女でないと意味を成さぬ」
「この、色ボ」
「それと、抱いた女の数が "傾国" に適用されるのも、前日の回数だけじゃ。ひひ、妙な所で暗殺でもされたくなければ、精々いい女をそろえて回数を稼がねばの」

 魔女はそう言って、ハムと雷蔵の耳を噛み心底楽しそうにくつくつと笑い始める。
 雷蔵はただただ、困惑をして。
 耳を噛む悪魔に抗えず、じわりと背に走る甘いしびれに体が支配され、思考だけが動き続けていた。
 つまり。
 魔女の言葉が正しければ、雷蔵は勇者としての力を振るうには毎日彼が欲しいと思う女を抱く必要があり。
 更にあの強力な力を幾度も発揮するためには、複数の女が必要で。
 その先に富と栄光、そして結果的に美女の群れが待っているのは確かに嘘ではないが。
 逆にそれ以外は、選択肢は無い事を意味していた。
 『勇者』になりそれらを望んだ雷蔵にとって、その事実は果たして。

「まあ、深く考えるな。最初に決めたとおり、欲望の赴くままにしておれば良い」
「……俺をハメやがったな?」
「ひひ、ハメられたのは儂の方じゃがの。……ではないか、儂から喰ったんじゃった」
「この、色ボケ! 俺をなんだと」
「ふむ。CFMMは正常のようじゃの。気付いておるか? お主、感情が高ぶると "俺" とゆーとる事を」
「それが一体何」
「何、ソレと相性の悪いお主の体内で、本当に動いておるのか不安での」

 魔女はそう言って、不意に雷蔵の耳から口を離し、あの妖艶な笑みを消してふん、と一つ鼻を鳴らす。
 彼女の甘い呪縛から解放された雷蔵は、人心地付かせながら、しかし強く魔女をにらみつけた。
 ノルンのやり方に、強く怒りを感じていたからだ。

「まあ、そう怒るな。平凡な学生風情のお主が、素面で勇者となり人を殺しまくって、好いてくる女も憎悪してくる女も片っ端から抱くなどできるわけがなかろ? 儂とて目的がある。それはお主でなければ達成できぬ。なれば、それなりの手段を講じるのは自然でないか」
「だけどな!」
「なんなら、お主の精神そのものを書き換えても良かったのだぞ?」

 言葉は冷たく、先程の甘さなど何処にも感じられない声だった。
 雷蔵はこの時、初めて帰らなかった事を少し後悔してうつむく。
 一瞬にして氷のような雰囲気を醸し出していた魔女は、そんな彼にため息を一つついて、いつもの空気を再び身に纏う。
 それから不意にアスティア姫の扉に手をかけ、今夜だけは協力してやるからの、と言い残し中へ入っていった。
 彼女の意図を読み取れない雷蔵は、きょとんとしてその場に立ち尽くし続ける。
 扉の向こうからは何やら話をする声がして、それはしばらくの間続いた。
 やがて。
 ノルンが中から出てくると、一言 "納得してもらった" とだけ雷蔵に伝え、そのままスタスタと何処ぞへ去っていく。
 言葉が何の事か理解できない雷蔵は、少し考えて気を取り直し、意を決して再びアスティア姫の私室へと足を踏み入れた。

「……あの、色ボケ女ぁ!」

 心中であげた、その雄叫びを。
 どうやったのか、正確に魔女は聞き取り、下へと降りる階段の途中でくく、と笑い声を漏らす。
 つまり、雷蔵がその部屋で目にしたソレは。

 視線が合わぬよう、豪華なベッドに手を付いて露わになった尻を高く掲げたアスティア姫の姿であった。




















05 堕落の宮殿

「早い内に宮殿を造る必要があるのぅ」

 お前バカだろ?
 魔女の突拍子もない言葉に返した、雷蔵の言葉である。
 勇者としてカタス軍を一蹴し、 "旧" グリムワ領に凱旋した日から丁度一月後のよく晴れた日。
 時刻は昼に近く、人々は少し浮ついていたがいつも通りの日常を送っている。
 目まぐるしく動き始めた閉じた世界グラズヘイムの情勢の中で、その中心とも呼べる雷蔵はその日ものんびりと城の一室で過ごしていた。
 つい先程まで魔女と睦んでいた彼はベッドの上、一糸纏わぬ魔女の蠱惑的な、飽きの来ない肉体を眺めながらじっとりと視線を送る。
 そんな視線など気にも留めずに、『時の魔女』ノルンは裸のまま乱れた髪を鏡の前で整えて、不意にそう口にしたのだ。

「たわけ。いずれお主の女は増えてゆくのだぞ? この城に入りきれるとおもうてか」
「だからって、いきなり『宮殿』ってなんだよ」
「ふん、小さいのう。 "あっち" は幾分か人並み以上だというのに。これはその内、尻の穴まで広げてやらねばの」
「や、やめろ! もしそんな事してみろ! お前を "傾国" でぶった斬ってやる!!」

 雷蔵の焦ったかのようなその声色が、魔女は痛く気に入ったらしく珍しくうふ、と小さく吹き出してしまう。
 それから裸のまま、股の間から勇者の劣情の証が垂れるのも気に止めず、つかつかと部屋の端まで歩きそこに掛けてあったローブを羽織った。
 彼女に散々体を貪られ気怠くその様子を見ていた雷蔵は、その凛とした気品と洗練された仕草にもう一度、彼女を汚してやりたい衝動に襲われて首を振る。
 魔女はローブの袖に細い腕を通しながら、今度はナイトテーブルまで歩き設えてあった酒をグラスに注ぎ一気に傾けた。
 酒は勢いよく彼女の口に流れ込み、口の端から僅かに漏れた滴が女の白い喉を伝っていく。
 狙ってやっているのか、それとも只粗雑に呑んだだけなのかは解らないが、雷蔵にはそれが己の肉欲をかき立て縛る呪術のように見えた。

「そもそも、じゃ」
「んだよ」
「お主は何もわかっておらん」
「だから、何をだ」
「多くの女を囲うとはどういう事なのかを、じゃ」

 ベッドで未だ、気怠く上体を起こしたままの雷蔵の方を見もせず、魔女は再びグラスに酒を注ぎながらそう言った。
 雷蔵は彼女の台詞の真意が読み取れず、続くであろう言葉をそのまま待つ。
 部屋は沈黙と静寂を拒否するかのように、コポコポと酒がグラスに注がれる音だけが響いていた。

「よいか? 女を囲うとは……ハレムを持つという事はの。詰まるところ、力の質を表す事なのじゃよ」
「はぁ? 金とか、権力とか、そういうのか?」
「ま、そうかの。一概にハレムと言っても、世継ぎの生産・継承システムを指したり、女の庇護や出世の機会の場であったりするかの」
「……それと俺が何の関係があんだよ」
「お主が求めておるのは、そういうモノではなかろ?」

 問いかけに、勇者は無言で答えた。
 ノルンが何を言いたいのか、良く理解出来なかったからだ。
 そんな雷蔵の沈黙の意味を見越してか、魔女は当たり前のように話を続ける。

「恐らくは、お主は半裸の美女が大勢浴場にでも群れて、お主を手招きするような光景位しか考えておらんかっただろうの」
「ま、な」
「一方、肝心のお主といえば、力を得て勇者になったものの、奸計巡らす知恵者になったわけでもあるまい?」
「……だから、何が」
「つまり、じゃ」

 言葉と同時に魔女は雷蔵の眼前にその美貌を近づけ、ニタリと微笑む。
 それからいつの間にその口に含んだか、雷蔵の口を吸って舌と共に酒を流し込んだ。
 未経験と言うわけではなかったが、未だ飲み慣れぬ酒を口中に流し込まれた雷蔵は、少しむせかけて慌てて液体を飲み干し顔を魔女から逸らす。
 ノルンはケホケホとむせる彼を変わらず邪悪に笑いながら、ゆっくりと離れて見下ろし、徐にベッドに腰掛け足を組んだ。

「ハレムにはの、莫大な労力と政治的な手腕、あと金が必要で、さらに権威も運営の知識も必要なんじゃ」
「けほ、そん、なもん、僕に関係あるわけないだろ」
「うむ。お主は座して望むハレムが出来るのを待っておれば良い。そもそも、ハレムを造る能力など、端から無いのだからの」
「お前、何が言いたいのかよくわからねえよ」
「ニブイのう。つまりじゃ。ただ、敵を殺しまくって女を集めたところで、ハレムなどできはせんと言っておる」
「……それで?」
「しかし、お主にはハレムを作る能力など、ありはせん。ならば、誰が作る?」
「……わかったよ、口出しするなっつぅ、事なんだな?」
「そういうことじゃ。儂とて、お主にキバって貰わねばならん」
「でも、そんなに沢山囲っても僕の体は一つだしな。宮殿じゃなくても、この城で十分じゃないか?」
「そんなワケあるか、たわけ。この先力を幾度も行使する事になるのだぞ?」
「でも、そんなに沢山……」
「心配するな。何度でも "撃てる" よう都度回復はするはずじゃて」
「んなワケあるか!」
「でもないぞ? 気がつかなんだか? お主に埋め込んだCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)は元々、医療用の機械での、回復力を常時底上げするくらいは "傾国" を抜かずとも効いとるはずじゃ」

 魔女の言葉に、雷蔵は思い当たる節を感じて心中ではそれで、と納得した。
 この一月、彼は毎日のようにノルンと肌を重ねていたにも関わらず、その勢いは一向に衰えず疲労もすぐに回復していたからだ。
 今の今までは望外に美女を好きなだけ抱ける環境にあって、それにハマっているものと考えていたのだが。
 ……どうやら物理的に回復させられていたらしい。
 その事実は新鮮な驚きをもたらしはしたものの、自分でも性豪とも思えていた営みの回数が、機械の助力によっての物だと知った勇者は。
 領主の部屋にあるベッドと比べ、負けず劣らずに豪華な寝台の上で肩を落とし凹むのであった。
 女はそんな男にくく、とくぐもった笑いを浮かべつつ、にじり寄りその頬に白い手を這わせる。
 そして、ゆっくりと体に舌を這わせながら、再び言葉を紡ぐ。

「ともかく、早い内に宮殿を造る必要があるのぅ」

 今度は言葉を返す事も出来なかった雷蔵は、甘い毒蛇のような舌の感触に痺れてそのまま押し倒されてしまうのであった。



 宴に沸いたその夜が明けると、グリムワを取り巻く環境は一変した。
 勇者の圧倒的な力の前に屠られたカタス将軍の領地を始め、離反していた旧グリムワ領の領主達がこぞって恭順の意志を示してきたのだ。
 最早かつての領地を回復する事も出来ぬと一度は諦めていたアスティア姫であったが、その呆気ない失地回復に何を想ったか。
 兎にも角にもしぶしぶながらに彼女は雷蔵を認め、幾日かに一度は勇者の元を訪れてはその体を差し出し続けていたのだったが。
 しかしやはりわだかまりは残り続けて、幾らその体を貪られても嫌悪感しか湧かず、その反動からかこの一月は政務へと彼女を駆り立てていた。
 良く晴れたその日も、アスティアは執務室で老いた父の重臣達と旧領への対応や他の領主への対応を協議していたのだったが。
 彼女の現実逃避は儚くも、勇者とその身の回りの世話をしている魔女の乱入によって中断を余儀なくされる。
 昼間に見る久々の雷蔵の顔は、何故かアスティアに初めての夜、不思議な出来事を思い出させた。
 あの時。
 魔女に脅しに近い言葉で説得されたとは言え、好きでもない男と肌を重ねる気は更々無かったアスティア姫は。
 せめてもの抵抗として男に背を向けたままの姿勢で、この身を嬲れと言い放った後。
 果たして勇者は少し躊躇した後、自分の腰に手を当てて、程なく後ろから貫かれたその時。
 不思議な事に破瓜の痛みと同時に臍の辺りから一粒、ルビーのような宝石が転がって、勇者はそれを拾いあげていた。
 あれは一体、なんであったか。

「姫? 勇者殿の顔に何かみえるのかの?」

 魔女の言葉に、アスティアはハっとして頬を染め惚けていた自分を恥じた。
 そんな彼女の表情を勘違いしてか、雷蔵は少し頬をほころばせる。
 一方、突如領主の執務室に入ってきて話があると口にした魔女と勇者を、グリムワの重臣達は何事かと視線を投げつけた。

「これは、勇者様にノルン殿。このような政務の場に一体、なんの……」
「アスティア姫。実は、勇者殿が折り入って話があるとおっしゃるのでお連れしたのです」
「それはそれは……勇者どの?」

 雷蔵はノルンに促され、一歩前に出た。
 目の前には彼の父親よりも遙かに年を重ねた重臣と美姫が、救国の英雄が何を言うのかと待ち構えている。
 ……言えない。
 まさか、女を囲う大宮殿を建ててくれなんて、言えるはずがない。
 雷蔵は冷や汗を掻き、ノルンに促されるままこの場に来た事を後悔した。
 当然であろう。
 今まで政治どころか、生徒会にすら参加した事のない少年が、本物の政務の場で巨大な宮殿を建造してくれ! などと言えよう筈がないのだ。

「……勇者様? いかがなさいました?」
「ふむ。勇者殿はお優しい。アスティア姫。勇者殿は一刻も早く、姫をこのような政務から解放すべきであると申したいのですよ」

 なぬ?! と雷蔵は弾かれたように隣に立つ魔女を見た。
 つい先程まで宮殿がいると言えばよい、程度の話しかしておらず、そのような内容は初耳であったからだ。
 早い話、打ち合わせすらしていない事を魔女は口にしていた。

「まあ、そうですの? 勇者様」

 心底驚いたようなアスティア姫の美しい顔に、雷蔵はとりあえずコクコクと必死で話を合わすべく頷く。
 彼が知る彼女は、幾度と肌を重ねていても決して首に腕を回してこず、拒絶するかのような雰囲気であったのだが。
 この時初めて警戒するような空気が消え、唯々驚愕のみをその美貌に張り付かせていた。
 次いでほんの僅かに警戒を戻し、彼女は初めて雷蔵に柔らかに笑いかけ、首を振った。

「お心遣い、嬉しいですわ勇者様。しかし、今の我が領地では政務をおろそかに出来る状態ではありませんの」
「姫。勇者殿はそこの所も、ちゃんと考えておられます」
「ノルン殿? それは一体……」
「勇者殿はこれより、北のヴォルニア領に攻め入るおつもりなのです」
「なぬ!?」

 今度は声が出た。
 ヴォルニアとは、現在のグリムワより北に位置する大国である。
 長年西の豪族と争って南のグリムワにまでは手が回らず、近年は衝突していなかったが間違いなく今のグラズヘイムでは最大の国家であった。

「ばかな! 今の状態で遠征など……しかも、北のヴォルニアとは――自殺行為です!」
「問題ありません。勇者殿のお力があればこそ、勝利は約束されたも同然でしょう?」
「しかし、戦は! いかに勇者様がこちらにおわすとは言え……」

 ノルンに食ってかかるように声を荒げたのは、その場にいた老いた重臣達である。
 彼らは更に、占領軍はどうするのか、兵糧は? 敵が二面作戦に出たらどうするのか、等とまくし立てる。
 その全ては素人である雷蔵にもわかる程当たり前の事であり、うんうんと彼らの言に頷いて魔女にもう喋るなと目で訴える勇者。
 だが。
 魔女の妖しく不敵な笑みは消えず、あろう事か。

「心配召さるな。こちらから出征する人数は3名。それだけで、あの大国はグリムワの物となるでしょう」
「な?!」
「そんな事が……」
「正気の沙汰では!!」

 大国ヴォルニアをたった、3名で落とすなどと口にしたのだ。
 その内1名はまず間違いなく、雷蔵本人である。
 多分、もう1名は魔女ノルンであろう。
 残る1名は心当たりがないとは言え、それがどんな戦士であろうと恐らく雷蔵が安心する事はない。
 如何に超絶的な力があるとは言え、一日に一分、アスティアが居ても二分しか使えないその力は何の役に立つというのか。
 当然、雷蔵と魔女に重臣達の制止と非常識な言葉への非難が集まる。
 しかし魔女は、その笑みを崩さず不意に低く呟くように形の良い唇を動かした。

「まったく。勇者殿の言葉に異を唱えられるとは、貴殿達はいつからそんなに偉くなられたのでしょうか?」

 ピシ、と音をたてて場が凍る。
 ノルンの声色は、氷そのものであった。
 出しかけた言葉を呑み込んで黙り込み、決して自分と目を合わせようとしない老人達の様子から、この世界での『勇者』とは絶対者であるのは間違いないらしいと雷蔵は理解する。
 そんな彼らを助けるかのように、黙っていたアスティアは冷たくなった空気を暖めるかのように、ある質問を口にした。

「魔女殿。勇者様は、如何なる方法でかの大国を寡兵で落とそうと言うのです?」
「ここでは詳しくは。毒蛇が何処に潜んでおるのか解りませぬ故」
「では、私どもも、協力のしようが……。政務を疎かにするわけにもいきませぬし」
「姫。勇者殿は最初に申されたではないですか。一刻も早く、姫をこのような政務から解放すべきである、と」
「それは、どういう……」
「つまりです。勇者殿と、私、そしてアスティア姫の3名でかの国を手中に納めるのですよ」

 さすがのアスティア姫も息を飲んだ。
 それから、ノルンと雷蔵を交互に見てその読みやすい表情には、みるみる内に恐怖と嫌悪を貼り付けていく。
 そんな彼女の表情に心底同意しつつも、雷蔵はなぜ宮殿が必要だという話をするはずが、こんな事になったのかを必死で推理し続けた。
 が、記憶を手繰れば。
 勇者は隣に居る魔女の考えている事を、今まで一度でも当てたためしが無い事を思い出して。
 いつの間に身についたのか、思考を停止して魔女の言う事に身を任そうと早々に決めてしまった。
 それは現実逃避に近く、生来の彼にしてみればそこまで駄目な人間では無いはずであったのだが。
 グラズヘイムに喚ばれて一ヶ月、小松雷蔵は混乱と快楽ばかりの、ただれた生活にすっかり堕落しつつあったのである。
 ただ一つ。

 いつか魔女に聞かされた、 "流れに身を任せるかぎりはすべて思い通りに行く" という言葉は、何故か確信できる勇者であった。





















06 銀騎士

 『北の最強』ヴォルニア王国。

 グラズヘイムの北方の多くを領有し、最大の版図と軍事力を有している強国である。
 果たして星であるのか、それども奇妙な空間であるのかはっきりしない閉じた世界グラズヘイムは、比較的温暖な気候であったが高山が集中する北方は他の地方と比べ寒冷である言えよう。
 一つの国家であった、古グラズヘイム王国が崩壊してより幾星霜。
 ヴォルニア王国は西の諸王国連合との戦いにただ一国で争い続け、そのことが皮肉にも隣接する小国を生きながらえさせ戦乱を長引かせていた。
 南方でも同様に、いくつかの国家が均衡を保ちながら衝突を繰り返し、戦乱は泥沼の様相を深めている。
 そんな折、大陸の中央、古グラズヘイム王国の名ばかりの直系が統治するグリムワ王国領で、一つの奇跡が発現した。
 かつて、混沌としていたグラズヘイムを一つにまとめ上げ、千年王国と呼ばれた古グラズヘイム王国を興した "救国の勇者" が再臨したのだ。
 今日では "王の聖祖" とされる古の勇者は死の間際、国が乱れるとき再び我蘇れりと予言したと伝えられている伝説である。
 勇者再臨の噂は瞬く間にグラズヘイム全土に広まり、『北の最強』ことヴォルニア王国東の果て、モーリスティアの城にまで轟いた。
 深い森林地帯が広がるこの地方は、ヴォルニア王国が西の諸王と戦う為にこの辺りの隣接する小国群とは不可侵協定を結んでおり、比較的安全な地域である。
 その為か戦火に巻き込まれた歴史は皆無で、領民も穏やかであり治安も良く、領主の住まう城も戦とは無縁な、優美な外観をしていた。
 何よりその地は古の勇者生誕の地と言われ、森深い現在からは想像も付かないが、古グラズヘイム王国の王都が置かれた歴史深い地でもあった。
 そんな、深い森の地モーリスティアに勇者の再臨の噂が届いてより約一月後。
 森は炎に包まれ、名城として名高いモーリスティア城はおびただしい兵士に囲まれて壊滅の瀬に立っていたのである。
 時は夕刻。
 攻城戦も終局を向かえ、飛翔する矢は少なく門を打ち破らんと攻城兵器が城へゆっくりと近寄っていく。
 その様子を、数キロ離れた崖の上から遠く眺める黒瞳があった。

――よいぞ

 誰も居ない崖の上、どこからともなく響くその声に雷蔵は。
 手にしていた "傾国" の鍔をゆっくりと押し上げキン、と音を鳴らし、次の瞬間にはその場から履き消えていた。



 ヴォルニア王国第五王位継承者であるイグナート王子は、モーリスティア城の中庭での指揮を切り上げ、城内の私室で私物の整理をしていた。
 城門からは未だ彼の忠実なる兵士が、敵を追い払おうと奮迅を重ねている。
 あまり戦闘向きでないモーリスティアの城が、約一月に渡って持ちこたえてきたのもひとえに彼の才能のなせる技であろう。
 年は20を少し越えた程の若き王子は、その才気とカリスマ故に兄王子達に疎まれ、謀略の果てにこのような僻地の領主へと封じられていた。
 王家の証である銀髪は絹糸のようであり、青い瞳が目立つ整った顔立ちは気品と共に僅かな幼さを感じさせる。
 又勇者の直系でもあるヴォルニアの血は、彼に溢れんばかりの政治、軍略、武芸の才能を与え、巷ではヴァルニア王国勃興の祖、イワン大帝の再来とまで言わしめた。
 だが美貌の王子には唯一奸計の才は恵まれず、そのまっすぐで誠実な性格につけ込まれ、兄達にこのような僻地に追われてしまう。
 今城を責め立てている兵も彼の兄の兵で、その理由も王都から遠く離れたこの地で反乱を企てている、という根も葉もない嫌疑からである。
 美貌の王子はその才を世に羽ばたかせる事無く、このような地で果てる事に果たして何を想うのか。
 彼は少ない私物を暖炉にくべて、そのまま項垂れ外での剣劇の音に耳を澄ませ続ける。

「くく、流石の『銀騎士』もこの兵力差ではお手上げかの」

 声に王子は姿勢を低くして剣を抜き払いつつ振り向いた。
 同時に一閃。
 白い剣閃が煌めき烈風のような音が鳴る。
 が、そこには敵の姿は無く。

「そう、慌てるな。敵ではない。どちらかと言えば、味方やもしれんな。くく」

 再び女の声。
 王子はその声の主を確認し、思わず宝石のような青い目を開いて驚く。
 声の主は、黒い猫であった。
 猫は王子の質素な寝台の上にうずくまりながら、器用にニタリと笑う。

「何奴!」
「大声を出すな。儂は使者じゃ」
「使者、だと?」
「そう、使者じゃ。話せる時が少ない故手短に伝えるが……お主、勇者と共に征かぬか?」
「勇者……だと?」

 奇妙な黒猫は名も口にせず、一方的に本題に入る。
 イグナート王子はその非常識で信用に値しないその言葉に、しかし一瞬でその思考内では黒猫が語らなかった、足りない部分を補強していた。

「勇者とは、グリムワの勇者の事か?」
「うむ。……意外じゃの、もうちょっと疑ったりはせんのか? 儂は暗殺者やも、しれんのだぞ?」
「その必要はない。この城はあと一時間もしない内に堕とされるし、逃げ場はないからな」
「くく。それで?」
「グリムワはその立地から、四方を敵に囲まれている。先の内乱で戦力も低下していよう。大方、私の脱出を手引きして配下に加われ、といった所ではないか?」

 イグナート王子の思考は果たして。
 勇者を取り巻く状況を推測し、その要するであろう戦力の不足を正確に予知していた。
 足りないのは金や兵よりもまず、人であると。
 幾ら無双の強さを誇るという話であるとはいえ、他領の広大な土地を占領し政治を行うにはグリムワでは小さすぎるのだ。

「くく、初対面の喋る、奇妙な猫を目の前に良いところまで考えるの」
「ふん、喋る猫など、大道芸でやる者がいくらでもいる」
「……失礼な奴じゃ。儂のは本物だというのに」
「悪いが時間がない。答えは『否』だ。お引き取り願お」
「ああ、まてまて。そうではない。儂が勇者殿の名代としてお主に会いに来たのは、質問の為じゃ」

 猫はそう言って、くくと笑う。
 その飄々とした態度に王子は死の運命を目の前に、少しだけ興味を胸に宿らせた。
 城門の方からは未だ攻城兵器が門を穿つ音はしてこない。
 彼はこの時、悪魔を目の前に魔が差したのか、もう少しだけ奇妙な話に付き合ってやろうという気を起こしてしまう。

「手短にな。最後に中々良くできた大道芸を見せてくれた礼だ」
「おうおう、ありがたい。では、聞くがの。王子よ。お主、世界を統べてみぬか?」

 黒猫の言葉は、聡明な王子の予想の遙か高くを超えていた。
 世界を統べる。
 それは、戦乱の世に生まれた王家の者として、抱かぬ者は無い夢である。

「……意味がわからないな。お前は先程、『勇者と征かぬか?』と私に質問したではないか」
「そうじゃ。が、勇者殿の目的は別にグラズヘイムの平定でも、古き王国の再建でもないで」
「……どういう事だ?」
「彼の者の望みは、争いの無いグラズヘイムに只君臨せんが為。美しい妻を幾人か侍らせ、食うに困らぬ程度の平和な生活を送りたいだけじゃ」

 は? とイグナート王子は思わず聞き返した。
 目の前の使者が本物か偽物であるかは定かではなかったが、その話の内容があまりにも俗っぽかったからだ。
 彼はてっきり、散らす命ならば勇者と共に在れ! 共にこの大地を平定しようぞ! 位の檄を飛ばされるものとばかり考えていた。
 だがこれでは只の……

「ま、早い話勇者殿は愚者でな。本人が政や軍事の才が無い事を自覚しておっての」
「そんな奴が勇者とは……私の忠誠も安く見られたものだ」
「何、忠誠を誓う必要は無い。ただ、勇者の代わりにお主が王としてグラズヘイムを治めよと言っておるんじゃ」
「……なんだ、それは」
「早い話がの。勇者殿はグラズヘイム平定など面倒くさいからしたくないと言っておられるのじゃ。それだけの力がありながら、の」
「な?!」
「での。めぼしい才ある者にその責任を押しつけて、勇者殿はその手助けを行い、おこぼれに宮殿一つと美女が集うハレムがあれば良いと言っておるんじゃよ」
「馬鹿な! みすみす、聖王の座を手放すと言うのか?!」
「うむ。平定後はお主が王家を興せ。領地もいらん。宮殿一つあればよい。ああ、少しの贅沢が出来る程度には金をもらうがの?」

 申し出は、王家に生まれたイグナートにとって信じられないものであった。
 彼には理解できなかったのだ。
 古グラズヘイム王国が在った時代、唯一の王は幾百の宮殿と数万の美女を集め、贅の限りを尽くしていた。
 神のごとく権力を振るい、その指先を向けるだけで百万の兵士が取るに足らない罪を犯した領主を街ごと滅ぼし。
 あらゆる財宝が王の元へ届けられ、人が考え得る全ての行為を許される。
 それが聖王であり、勇者の特権であるはずなのだ。
 しかし、目の前の勇者の使いが話した内容は。
 恐らくはある程度の力を持っている豪族ならば直ぐにでも叶えてしまえるであろう、王にしてはあまりにも矮小な願い事である。
 美女など、王族であれば求めずともいくらでも寄ってこよう。
 宮殿など、王族であれば規模の差こそあれ、生まれたその日に与えられるような物である。
 贅沢など、たった一つの宮殿でできる事はたかが、しれている。
 更に。
 勇者とは、王族の祖を意味し、その権威はこの世界では如何なる王よりも上であると言って過言ではない。
 もし、この黒猫の主が本物だとして。
 その権威すら必要ないと言い切り、平定した王国を他の者に差しだし、王家を他の者に興せなど言う彼の者とは。
 イグナート王子はもし、猫が話す勇者が本物であるならば会ってみたいと考えて口元をほころばせる。

「ふふ、中々面白い話であった、道化よ」
「ぬ?」
「お前の話がもし、本当ならば願ってもない申し出だ。が、私はここを独り逃げ出すつもりもないのでな」
「ああ、そういう事か」
「兵達は私を慕い、この死地まで付き合ってくれた。それに応えず逃げるなど出来るわけがなかろう」
「うむ、うむ。それでこそ、勇者殿が見込まれた御仁じゃの」
「どうやってこの城に入り込んだのかは知らぬが、早く立ち去れ。もうじき門は破られよう」

 王子は落ち着いた声でそう、無礼な黒猫に語りかける。
 声色に澱みはなかったが、あきらめと覚悟に彩られた綺麗な声であった。
 そんな彼の声を台無しにするかのように、黒猫は浅ましくくつくつと笑いながら少し陽気に言葉を吐く。

「のう、王子。もしの? もし、あの外におる敵を勇者殿が蹴散らしたならば、儂の話を受けてくれるかの?」
「はは! いいだろう。先の話のような "慎ましい" 勇者殿であるならば、忠誠すら誓おう! もし、本当であるならな!」

 王子の言葉に、黒猫は鋭い犬歯をむき出しにして、ニタリと邪悪な笑いを浮かべた。
 同時に門が破られたのか、ズドンと大きな音がして雄叫びと剣戟の音が近く聞こえてくる。
 イグナート王子が窓辺に立ち外を見ると、城門が攻城兵器によって打ち壊され、わらわらと兵士が城へと殺到する姿が見えた。
 更に城壁の向こうからも敵がハシゴか何かで上がってきていて、見る間に弓を射ていた守備隊を蹂躙していく。
 ――もはや、ここまでか。
 初陣で大きな戦果をあげ、『銀騎士』と称えられた美貌の王子はこの時、最期まで戦い抜く覚悟を再確認して腰の剣に手を掛ける。

「くく、丁度よい。そのままそこで門の方を見ておれ」

 最期の時まで彼の清廉な意志を汚そうとするかのような、不快な声。
 王子は振り向き何を、と言いかけて言葉を呑む。
 背後の黒猫の姿は既に消えて、声だけが残っていたらしい。
 何から何まで信じられない話であったが、王子には不思議とその話が不快でなく楽しい与太話であったと感じられ。
 剣を抜き部屋を後にする前に、声の通り窓越しに打ち破られた門へ視線を流す。
 その、視界の先で。
 あの強固な城壁が。
 破られた門が、その向こうの数千の軍勢が、森が、土が紙吹雪のように吹き飛んだ。
 次いで轟音が追いつき、地が揺れる。

「うお、おおお?! な、何事だ?!」

 思わず漏れた声に応える者はいない。
 イグナート王子は凄まじい衝撃波に窓ごと弾かれて、ガラスの破片を浴びながら部屋の床に投げだされた。
 しかし、直ぐに立ち上がって切った頬の事など気にも留めず、何が起きたのかともう一度あの窓から外を見る。
 そして、『銀騎士』が見た光景は。

「ば、か、な……そんな、そんな!」

 敵の軍勢が消え失せた、むき出しの大地であった。
 城門ごと、城壁ごと、森ごと、豊かな土ごと綺麗に消えていたのである。
 まるで、ミニチュアの箱庭を手で綺麗に払ったように。
 そこにはえぐれた大地が在るばかりで、何も無かったのだ。
 否。
 ただ一点、城門のあった辺り、ポツンと黒点のように独りの少年の姿。
 美貌の王子は悟る。
 黒猫の話は真実であると。
 あの者こそが、グラズヘイムの勇者であると。
 そして、自分が仕えるべき者が現れたのだと。

 王子はこの時、己の新たな運命に想いを馳せ、歓喜に震えるのであった。





















07 得たものは宮殿と

「なにをむくれとるんじゃ」

 呆れたような魔女の声が、広い浴場でこだました。
 湯殿は広くいくつもの湯が張られた浴槽と、様々な装飾が施された柱や、大理石の女神像がそこかしこに置かれている。
 これから比較的寒い冬を迎える地方にもかかわらず、湯殿には蒸気が満ちて春のような暖かさであった。
 白く霞む湯殿の中央には、幾人かの人影
 足湯に腰掛けた雷蔵と魔女ノルンである。
 否。
 少し離れた、おなじ巨大な湯船に女がもう一人。
 女の名はアスティア・ライラ・ウーシパイッカ。
 グラズヘイムの中央に位置するグリムワ領の領主、アスティア姫である。
 彼女は勇者を喚び出すため、魔女と契約して己の操と引き替えに己の願いを叶えた。
 そして、願いは確かに叶えられていたのだったが、心は決して勇者へとは向かず。
 肌を幾度と重ねていても、それは義務感による儀式のようであり、だからこそか。
 彼女の心の変化を雷蔵は敏感に読み取り、心中を荒ませていた。

「アスティア。こっちにこい」

 ノルンの言葉を無視して、雷蔵は冷たくそう言い放つ。
 可憐な姫は小さく、はい、と答えながら露わになった肌を隠そうともせず、湯船から立ち上がり雷蔵の元へと歩み寄る。
 その行為はそれまでの彼女とは打って変わり、従順で積極的であった。
 そんな彼女の変化に雷蔵は更に苛ついて、凶暴に猛り狂った己の欲望を八つ当たりするように彼女へと叩き付けるべく、乱暴に手を引く。
 魔女はそんな雷蔵にため息をつきながら、内心では勇者の変化にニタリと笑い、二人の睦みに参加すべくアスティアの口を吸い始めるのだった。



 キッカケは一月程前。
 『北の最強』と呼ばれるヴォルニア王国を手中に納める為、たった三人でヴォルニアの東、モーリスティアへ赴いた折。

「魔女殿。そろそろお聞かせ願いますか? 私達3名で、一体どのようにしてヴォルニア王国を手に入れるのです?」
「何、簡単な話じゃ。姫、勇者殿の力は今更疑いようもないであろうが、その他はどう思われる?」
「? 意味がわかりませぬが」

 アスティアは馬をノルンの乗る馬の隣に進めならが、首をかしげた。
 深い森の中を進むノルンの馬には、雷蔵の姿もある。
 馬を操れない雷蔵は、魔女の駆る馬の後ろに跨がって、暢気にも間抜けな寝顔を晒していた。
 荷物は魔女がどこからともなく出し入れするためか、二人の馬は軽装である。

「つまりじゃ。姫、勇者殿をどう思われる?」
「どう、とは……」
「くく。早い話、勇者殿は確かに人智を超えた力を発揮するが、それだけである、とは思いませぬか?」

 魔女の言葉にアスティアはう、と顔を僅かに引きつらせた。
 それは彼女が常日頃から感じていた、雷蔵の評価である。
 当たり前だ。
 喚び出して一月の間、勇者はグリムワの王座に座るわけでもなく、各地に恭順せよと檄を飛ばすわけでもなく。
 していた事といえば、ひがな、この妖艶な魔女とまぐわい夜は己の体を貪るだけであったのだから。

「……勇者様には勇者様の思惑が、あると」
「ひひ、そのような物はないない。勇者殿はの、いい女を沢山抱ければそれでよいのじゃ」
「魔女殿。それではあまりに……」
「何。儂は別に勇者殿をけなしているわけではない。逆に、己を知っておると評価しておるんじゃよ」
「それは?」
「単刀直入に言えば、勇者殿には領地を統治する能力も、有能無能な部下を使う能力も、軍を率いる能力も無いんじゃな、これが」
「……魔女殿。私は」
「くく、まあ、まてまて。確かにそれでは勇者殿はグラズヘイムの平定など出来ぬ。だからこそ、ヴォルニアへ向かっておる」
「つまり、どういうことでしょう?」
「つまりな。勇者殿が持っては居ない能力を持った部下を手に入れ、そ奴に勇者殿の旗を振らせようというわけじゃな」

 アスティアはその姑息な意図を察して、眠る雷蔵に冷めた目を向けた。
 勿論、雷蔵本人が考えたものではなかったが、彼女にしてみれば魔女の言葉は雷蔵の意志である為幻滅されるのも仕方がないのかもしれない。

「それで? どのようにしてヴォルニア王国を我らの手に?」
「我ら、ではなく "勇者殿の手に" 、じゃ。まあ、よいか。アスティア姫、『銀騎士』をご存じか?」
「……たしか、この辺りを治めているヴォルニア王国の王子と聞き及んでおります。才豊かで戦上手なお方とも」
「うむ。ついでに、兄王子に疎まれ今現在攻め滅ぼされそうになっておるんじゃな」
「それは……本当ですか?」
「儂の情報網を姫のそれと一緒にして欲しくはないのう。ひひ、信頼できる話じゃ」
「……それで、その『銀騎士』様を勇者様の?」
「そうじゃ。あの王子の才覚は戦乱のグラズヘイムを平らげるに十分じゃしの。ただ、ちと奸計には通じておらんのが珠に傷じゃが」
「では! 勇者殿の代わりにヴォルニアの王子などに平定したグラズヘイムを治めさせるのですか!」
「うむ? そうじゃが? 姫、何を突然?」
「約束が違います! 私は、勇者様に "グリムワ領" からグラズヘイム平定をして頂き、世継ぎを我が家から……聖王を生み出したいのです!」
「ひひ、その為に好きでもない男と夜な夜な励んでおるしの」
「茶化さないでくださいまし!」
「おお、怖い。しかし……アスティア姫は何か勘違いしておられなんだか?」
「何を!」
「くく、そういきり立つな小娘」

 突然。
 魔女の声は氷の刃ように冷たく、飄々としたものから凄絶な殺気すら感じられる程の強さと静けさを伴って少女に叩き付けられた。
 アスティアのその豹変と冷たさにゾクリとして、激高しかけた頭から一気に血の気を引かせる。
 魔女はニタリと笑った美しい顔を崩しもせず、そのまま同じ声色で話を続ける。

「良いか? 勇者殿にしてみれば、グリムワもヴォルニアも同じ "自分の物" にすぎぬ。儂がそなたと契約したのは、グリムワを救う勇者を喚起する事」
「――しか、し!」
「アスティア。そなたはグラズヘイムを統一し、国名をグリムワとせよと申すのか?」
「え?」
「それとも、統一した王国の重臣をグリムワのあの、無能な老人どもを起用せよともうすのか?」
「……それは」
「そなたが正室となり、無能な勇者殿のかわりにこの広大な世界を治めるのか? あの、小さな領地すら守れなかったお主が」

 魔女は悪魔のように笑いながら、容赦無く少女の心を穿つ。
 少女は胸に手を当てながら、目に涙をためていた。
 勇者を喚び、共に手を取り、世界を救ってその、勇者の妻となる。
 領地での危急時、最後の手段であったもののそんな暖かな夢が未だ少女の心の奥底に燻っていた。
 しかし、現実に喚び出された勇者は。
 少女は幻滅し、その反動から心が必要以上に冷めていく。
 必然と言うべきか、結果アスティアの興味はグラズヘイムの平定後、己が宿すであろう子供へと向いた。
 その種はグリムワ家の血を引き、聖王の座に座る。
 ただ、それだけを望み他の事など考えていなかったが為、アスティアはノルンの言葉に反論ができなかった。

「勘違いするなよ? そなたは既に勇者殿に捧げられた、肉の奴隷に過ぎぬ。契約は儂との間で有効であって、勇者殿には何も関係ない」
「そんな……」
「古の聖王と同じく、既にこの世は勇者殿のもの。それを誰に統べさせようが壊そうが、勇者殿の思し召し一つじゃ」

 言葉にアスティアの、金の髪と同じ色をした大きな瞳からは大粒の真珠のような涙がこぼれ落ちていた。
 王家の血を引く者として、また乱世に生きる女として。
 幸せな結婚など初めから諦めていたし、望まぬ肉体関係も目的の為ならばとそれ程苦ではなかった。
 だが、これでは。
 いつの間に肉の奴隷と揶揄される程、自分は墜ちてしまったのか。
 少女は苛烈な言葉を浴びて、絶望に打ちのめされ気がつくと嗚咽が口を突き始めていた。
 そんな彼女に魔女は一片の慈悲もなく、言葉をさらに叩き付ける。

「これからは勇者殿の閨も賑やかになろう。アスティア。今のままでは、世継ぎを産む事すらあやういぞ?」
「う、うう、ぐ」
「くく、精々、勇者殿の寵を逃さぬよう、必死で腰を振るが良いぞ?」

 そこで会話は途切れ。
 雷蔵が目を覚ます少し前まで、アスティアの嗚咽は止まらなかった。



 そんな彼女に心境の変化が訪れたのは、『銀騎士』イグナート王子が勇者の部下となってからである。
 モーリスティアで窮地に陥っていた王子を助けるため、城の外壁ごと敵を屠った後。
 城内の残敵を掃討し終えたイグナートはぽつねんと更地となった城門跡地にたたずむ勇者の元へ、配下の兵とともに向かう。
 その両隣には黒と金の美女が侍り、なんともその場には似つかわしくない組み合わせであった。
 イグナートは想像とはまるでかけ離れた細い雷蔵の姿に、拍子抜けした印象を抱きつつも、あの黒猫との約束を果たさんが為膝をつく。
 その様子を見ていた後方の兵士達も、雷蔵が何物かを察して主君と共に跪いた。
 もとより、圧倒的なその力を目の前に彼の正体を疑う余地などない。

「御身は勇者殿とお見受けいたします。我が城の危機に此度の力添え、誠に痛み入ります」
「あ、えっと?」
「我が名はイグナート・ガヴリロヴィチ・パノフ。ヴォルニア王国第五王位継承権を持つ者でございます」
「勇者殿。この者こそ、先程説明した『銀騎士』。あなた様の片腕に相応しき才の持ち主でございます」

 足下にひざまずく、銀の鎧を纏ったやたら清涼な雰囲気の青年に戸惑う雷蔵へ、傍らに立っていた魔女ノルンは助け船を出した。
 その声に聞き覚えがあったのか、頭を垂れていたイグナートははっと顔を上げ、その妖艶な笑みを見て得心する。
 この者こそが先の猫だったか、と。
 少し肌寒い季節に差し掛かろうとしているにもかかわらず、戦場では目の毒となりそうなほどの蠱惑的な服を身に纏う若い女は。
 あの声の主の正体にしてはあまりにも異質で、目の前の頼りない雰囲気である勇者よりもそちらに驚きを感じていた。

「えっと、イグナート、さん? 僕、その、何をしたら」
「ご心配めさりますな。そこに控えておわす……」
「『時の魔女』じゃ。魔女と呼べ」
「は。――魔女殿との約定により、今よりこの身は勇者殿の為に」
「え、あ、あの……」

 沈黙。
 後方の兵士達には、突然の主君の言葉に動揺が走りかけていたが、勇者の出現によって死地に命を得た事により "主君と勇者の間に何かがあった" と見て黙って成り行きを見守っている。
 雷蔵はそんな緊迫したような厳かな雰囲気に呑まれ、内心では居心地の悪さを覚えどう振る舞えばよいのか、戸惑いを表情ににじませた。
 イグナートの慧眼はそんな勇者の様子を見抜き、しかしそれを好意的に受け取る。
 彼の目には、そこに邪な物は感じられず、むしろ兄達や他の王族にはない、無欲な清廉さを感じてさえいた。
 ――もっとも、彼ら王族と平凡な地球人の学生である雷蔵との間に「贅沢」の価値観が絶望的なまでに違うだけである話なのだが。
 つまり、この王子にとって勇者雷蔵は限りなく、 "白い" 存在に見えたのだ。
 彼はその印象を確かめるように、先程魔女と話した内容を目の前の勇者に確認する事にした。

「勇者殿。先にそちらの魔女殿に伺った話ですが……」
「あ、うん。僕、政治とか、軍事とかわからないから全部、おまかせします」
「……本当によろしいのですか? 私が何時、勇者殿の寝首を掻くか」
「うぇ?! それは困ります!」

 ぶは! と思わず吹き出したのは、雷蔵の脇に控えその大きな胸を強調するかのように腕を組んでいた魔女である。
 それから顔を後ろへ向け、小刻みに肩を振るわせる。
 余程雷蔵の反応が気に入った様子であった。

「……おい」
「魔女殿?」
「くく、いや、すまぬ。まさか、そこで『いや! こまります!』となるとは思ってもみなくての」
「うるせえ」
「もしかして、あの話は……」
「いやいやいや! イグナートさん! 僕の話は本当です!」
「はぁ……」

 再び、ぶふっ! と魔女は後ろを向いたまま吹き出した。
 雷蔵の必死な言葉に思うところがあったのだろう。
 イグナートも予想外の勇者の卑屈な態度に面食らい、顔を引きつらせる。
 が、不意に顔を引き締め美貌の王子は立ち上がり、後ろの兵士達の方へ振り向いた。

「聞け! 我が兵士よ!」

 場の空気が一気に引き締まる。
 ……くく、くく、と未だ笑い続ける魔女の笑い声がそれを台無しにしていたが。
 空気を読んだ雷蔵は慌ててノルンの頭を小突き、怪訝な視線を送ってくる兵士達へイグナートの背後からペコペコと頭を下げた。
 そんな勇者の情けない姿などイグナートは見る事もなく、大きな声を兵士に投げる。

「私は勇者殿と征く! その先はヴォルニア王国でも、ヴォルニア王国によるグラズヘイムの平定ではない!」

 ざわ、と跪いていた兵士達にどよめきが走った。
 彼らはてっきり、勇者の力添えによりこのままヴォルニア王都へ向けて進軍するものと考えていたのだ。
 兄王子達からの計略により、このような僻地に押し込まれ、命まで落としかけたのだから。

「勇者殿はこう仰せになった! 己は僅かな土地も必要とせず、只多くの妻と静かに暮らせる宮殿が一つあればよいと!」

 ちょ、まって!
 そんな大層な事こんな場で!
 言いかけて雷蔵は思わずイグナートの背に手を伸ばす。
 その向こう側、跪いた兵士達はざわめき一斉に雷蔵へと視線を集めた。
 それは、怒り、軽蔑、嫉妬などではなく。

「うそ、だろ? 勇者だぞ? 宮殿がたった一つでいいなんて……」
「土地も要らないって……じゃあなにか? 伝説の女狩りもしないってのか?」
「なんて欲の無い方なんだ……前の勇者は国中の処女を狩り集めたっていうのに……」

 ちょっとまて。
 兵士達のざわめきを聞き取り、雷蔵はもう一度その言葉を脳裏に浮かべる。
 彼らの話を聞けば、伝説にある勇者とは。

「なあ、ノルン。もしかして勇者って」
「く、くく、く」
「いつまで笑ってんだよ!」
「す、すまぬ。ツボに、ぐぇほ、ゲホ!」
「……もう一発ブンなぐるぞ?」
「ひ、ひ、わかった。わかったから。……そうじゃ、前に出現した勇者は、中々に好きな事をやりまくっておったらしいの」
「うわぁ……。僕、てっきり。これじゃ、悪党の代名詞じゃねえか」
「そうでもないぞ? 国を統一して長きにわたる安定をもたらしたのは事実じゃし。アレな逸話は残っておるが、そういうのもだと認知されとるかの」

 あまりにかけ離れた勇者のイメージに、がくっと肩を落とす雷蔵。
 しかし、兵士達の視線は確かに驚きと敬意に近い物であった。

「諸君! 私は勇者殿と共に征く! この方が興す、新たな王朝の為に!」

 わ、っと歓声が兵士達の間で上がった。
 皆一様に攻城戦の疲れや怪我を抱えていたが、そんな事などお構いなしに歓喜の声を上げ続ける。
 続いて、俺も殿下と共に勇者様と征くぞ! と声が立て続きに上がり。
 やがて、勇者万歳、殿下万歳と鬨の声が上がり始めた。
 イグナートは兵士達の様子に微笑んで、再び振り向き、勇者の足下に片膝をつく。

「む、よいのか? 王子。勇者殿は宮殿さえ維持しておればよいでの。王朝など、お主が興して新グラズヘイム王国を作ればよいではないか」
「良いのです。それに、血の系譜で言うなれば、私の子と勇者殿の御子の婚約を行えば済む事。それに……」
「な、なんでしょう?」
「勇者殿。この、私めにあなた様のすべての軍を指揮し、世界を治めさせていただけるのでしょう?」
「え? あ、ええ。僕にそんな事、できませんし……」
「なれば。この才を生かすのに、これ程素晴らしい舞台はありますまい。存分に勤めさせていただきます」
「くく、勇者殿? お気をつけなされ。この者の才はその気になれば、勇者殿の土地を乗っ取る事など、たやすいでしょうぞ?」
「かまわないよ。僕、その……は、ハーレム作れればそれでいいし」
「くく、そうじゃの。が、ちっとは美女を残してやれよ? この色男にお主の宮殿まで乗っ取られてはたまるまい?」
「うげ! それは、困る!!」

 うぶ! と魔女は三度後ろを向いて吹き出した。
 雷蔵の足下に跪く美貌の騎士も、苦笑いを浮かべて勇者の顔を見上げる。
 彼のまっすぐな青い瞳をまともにのぞき込んでしまった雷蔵は、その高貴さに思わず気圧された。

「勇者殿。その心配は無用です。グラズヘイムを統一したとして、その後私が勇者殿を廃したならば再びこの地は戦乱に沈むでしょう」
「そ、そう、なんですか?」
「はい。それに……もし、野心を持ったところで勇者殿は宮殿一つとハレムがあればよろしいのでしょう?」
「え、ええ、まあ……」
「なれば。勇者殿を廃するよりも、そのまま引きこもって貰う方が好都合と考えましょう。つまり、どちらにしろ結果はかわりませぬ」
「ちょっとまってください!」

 雷蔵とイグナート王子の会話に割り込んだのは、アスティア姫であった。
 声は強く、その顔は憎悪に近い感情が張り付いている。

「あ、え、アスティア、ひめ?」
「勇者様! 勇者様をお喚びしたのは私でございます。この体を捧げ続けるのも、勇者様の御子をもうけ次代の聖王とするため」
「あ、えと……」
「この、このような者に、勇者様の持ち物を全て託すなど!」

 言葉を紡ぐ程に激高してゆくアスティアは、顔を雷蔵に近づけ半ばヒステリー気味に叫んでいた。
 彼女は、必死であったのだ。
 己が只、この地に勇者を喚ぶキッカケであっただけの存在とはなりたくなかった。
 王族の姫として生まれ、ひょんな事から世界を統べる聖王の母となる機会を手にして。
 彼女なりに我を押し殺し、ひたすらに恥辱に耐えてきた矜持もある。
 森で魔女になじられてから、ずっとふさぎ込んでいた彼女はこの時。
 目の前の『銀騎士』に、己の最期の希望まで持っていかれる気がして遂にその感情が爆発したのだ。
 気がつくとアスティアは雷蔵に食ってかかり、その大きな瞳からポロポロと涙を流してしまっていた。

「勇者殿。こちらのご婦人は?」
「え? ああ、えと、グリムワで世話になった、アスティア姫です」
「おお。貴女がグリムワの」

 勇者の足下に跪いていた『銀騎士』は、得たばかりの主を庇うように二人の間に割り込んで、徐にアスティアの手を取り再び跪く。
 アスティアはなぜか、彼の行為を見守り、グスグスと涙を流し続けていた。

「アスティア姫。貴女のお言葉とお気持ちはよく、解ります」
「何が! あなたなんかに」
「姫。こう考えてはいかがでしょう? 私は勇者殿の名代として、この大地を治める事になります。その後釜に姫の御子に継がせればよいではないですか」
「……え?」
「私はいわば、権限の強い宰相のようなものです。聖王の名は、勇者殿にしか名乗れませぬ」
「あの、王様もイグナートさんに、やってほしいなあ、なんて」

 遠慮がちな声で会話に割り込んだ雷蔵は、キっと涙目のアスティア姫に睨まれ後ずさった。
 その様子をくく、と笑う声。
 イグナート王子はそんな主君を庇うように、アスティアの視界に己の顔を写し込んで、柔らかに笑い言葉を続けた。
 その邪気のない笑顔はアスティアにはまぶしく見え、アスティアはこの時初めて『銀騎士』の美貌を間近に見ていた。

「姫。こういたしましょう。姫の御子と、私の子を婚姻させるのです。そうすれば確実に次の聖王は姫の御子となります」
「あ……」
「姫の御子とはすなわち、勇者殿の御子。こうすれば此処にいる三者の利害が完全に一致するのではないでしょうか?」
「くく、そうじゃの。勇者殿は端より、王朝などお主にくれてやる気でおったしの。ふむ、それは中々の手じゃ」
「魔女殿。勘違いなされぬよう。私は忠義から、そう提案しているのです」
「ふん、どっちでも良いわ。利害の面でももっともリスクの少ない手じゃて」

 ひひ、と魔女は銀騎士に茶々を入れ笑う。
 イグナート王子は黙り込んでしまったアスティア姫の表情を確認し、肯定と受け取って再び雷蔵へ跪き直す。

「勇者殿。私の事はこれからはイグナート、と呼び捨てに願います」
「え?、うん、わかった」
「これからの事ですが、とりあえずはこの城に御逗留願います」
「のう、銀騎士。たしか、この地より南に行った所に、かつての聖王の宮殿があったろ?」
「ラムル宮のことですか?」
「うむ。そこを勇者殿の仮住まいとしたいのじゃが?」
「……宮殿は今では朽ちて無人となっております。復旧には限度がありますれば、よろしいですか?」
「あ、え! はい、住めればなんでも」
「湯と閨。それだけはしっかり頼む。あと、一応身の回りの世話をする侍女や兵士も。勿論」
「女性だけで、できれば見た目麗しく、ですね?」

 いきなり話を振られ、慌ててしまう雷蔵にイグナートはニヤリとしてみせる。
 ノルンのソレとは違い、彼のすこし悪戯っぽい笑みはどこか親しみをもてるような物であった。
 それから間もなく、勇者の要望を叶えるため銀騎士は、いまだ鬨の声を上げる兵の方へ去っていき戦後処理を始めた。
 雷蔵はそんな彼を見送り、胸に宿る黒い感情に気がつく。
 それは、新たに加わった部下への、嫉妬であった。
 銀の髪と美しい容貌。
 高貴な生まれに、気品に溢れたたたずまい。
 溢れんばかりの才能は目の当たりにしてないが、軍事・政治とこの世界を丸投げ出来る程のものであるのは間違いない。
 そう、彼は雷蔵に無い全てを持っていながら、雷蔵の部下となったのだ。
 その事実は、力をある日与えられ、淫蕩な望みを叶えるべく隣の魔女に言われるまま、流れに身を任せるままにする自分と重ね合わせ。
 先程までの己の態度が、ものすごく矮小で、情けないものであったと思いだし。
 強く、焦がすような嫉妬を胸に生み付けていた。
 更にそれは黙り込んだアスティア姫を見た時に、激しい渦となって雷蔵の中の何かを変質させる。
 頬に涙の後を残したアスティア姫は。
 今まで見た事のない、上気した表情を浮かべて、銀騎士の後ろ姿を見送っていたのだ。

 雷蔵はこの時、初めて己の中の独占欲を認識し、本当の嫉妬を覚えたのである。




















08 男の勘違い

 冬が始まった。

 グラズヘイムの北方、最大の版図を誇っていたヴォルニア王国は僅か二月の間に国土の半分を失いつつあった。
 切っ掛けはヴォルニア王国第五王位継承者である、『銀騎士』イグナート王子の "反乱" である。
 その才を疎まれ、西部戦線を指揮する兄王達の謀略により東の外れモーリスティア地方に封じらていたこの王子は。
 反乱の嫌疑の元、兵を向けられてモーリスティアの古城で果てる筈であった。
 が、この王子を助けた者が現れたのである。
 『閉じた世界』グラズヘイムの中央、グリムワで再臨したと噂される勇者だ。
 噂に留まっていたその力は噂で聞く話よりもすままじく、城を包囲する軍勢を一瞬で消し去った。
 そして、イグナート王子は勇者の元へ下り。
 あろう事か、聖王の軍事・政務の名代である "枢機" に任命されるのであった。
 これは異例中の異例であり、枢機とは即ち勇者の名の下に何をしてもよい、と言う事を意味する。
 すなわち。
 各地で略奪や虐殺を繰り返そうが、許可無しに兵を動かし法を定めようが一切の不忠とは受け取られぬ地位なのだ。
 一体、如何なる経緯を持って勇者と『銀騎士』はそのような関係となったか。
 憶測は勇者の更なる武勲と共にグラズヘイム全土へと広がった。



 モーリスティアの南方にある、ラムル宮。
 古グラズヘイム王国の聖王が、その王国の末期に建造した避暑用の宮殿 "跡" であった。
 現在は一部に簡単な修復と改修が施され、勇者の仮住まいとして使用されている。
 主である勇者、その腹心と言われる妖艶な魔女、勇者の後宮である一人の女以外には、数十の女官と百に近い女騎士達が暮らす質素な宮殿だ。
 『銀騎士』の窮地を助けた勇者は、ラムル宮を改修する間、当初はモーリスティア城に逗留して、行動を共にしていた。
 イグナート王子の兵は未だ少数であり、兄の一人、グレゴリー王子の領地である隣領へと攻め上がる折、同行する必要があったからだ。
 戦は一方的な展開を見せ、僅か5日でイグナート王子はグレゴリー王子を討ち取って見せた。
 その報は衝撃を伴って瞬く間にヴォルニア王国全土に広がり、日を置かず周辺の領地は次々と銀騎士の率いる勇者軍への恭順を表明する。
 そんな諸侯のあまりに早い恭順には理由があった。
 なにせ、グレゴリー王子の軍がことごとく勇者一人によって全滅していたのだ。
 敗走でも壊滅でもなく "全滅" である、とイグナート王子が各地に走る報に細工をしていた事も、諸侯の態度に影響した。
 事実、兵を差し向け戦場に到着すると同時に瞬滅された様子を、戦場付近の農民達が目撃しており、噂の裏付けにも事書かない状況である。
 果たして、勇者がヴォルニア王国に現れて一月もした頃には、イグナート率いる兵は数万にふくれあがり、雷蔵が戦場に出る事も少なくなっていた。
 何故か。
 勇者の力は数千の兵士を一瞬で屠り、城を紙細工のように吹き飛ばすその力は必ず勝利をもたらす。
 が、それよりも占領すべき建物の損害があまりに激しすぎて修復に手間取る事、兵士の投降する機会すら与えられないため、死傷者の数が両軍がまともに戦った時よりも多い等が理由にあった。
 従って、戦力が纏まったイグナート王子は極力勇者の力を使用せず、その威名を巧みにちらつかせて諸侯へ恭順を迫る戦略に出たのである。
 そのおかげか戦力の整った時点で、雷蔵は忙しく戦場に引っ張り回されていた生活が終わる事となった。
 現在では改修は終わっていないが、住めるようになったラムル宮へと生活の場を移していた。
 そして勇者は、久しぶりのゆったりとした生活を楽しむ筈であったのだが……

「勇者殿は何処か?」

 深夜、宮殿の内部。
 蠱惑的な衣装に身を包んだ魔女は、警備に当たっていた女騎士を呼び止め宮殿の主の居場所を尋ねた。
 女騎士は二人一組で巡回中であったらしく、槍を手に背筋を伸ばしかかとを鳴らして、勇者のもう一人の名代とも言える魔女に敬礼を行う。

「はっ! アスティア姫の部屋におわします」
「……またか。風呂場でも一緒であったというに」
「お呼びいたしましょうか?」
「いや。勇者殿はここの所虫の居所が悪い。主らも心証を害したくはなかろ?」

 魔女の返答に、騎士達は内心胸をなで下ろす。
 彼女らは皆、そこそこには見た目良く、言うなれば女官達を含めて雷蔵のハレムを構成する女達でもあった。
 宮殿で働く女達は、容姿や素性、年齢の選考はあるものの基本的には志願者で構成される。
 もし、雷蔵に抱かれた者があれば晴れてハレムの一員として、後宮での贅沢な暮らしが行えるようになるのだ。
 その為、彼女達は虫の居所の悪い雷蔵にはあまり関わろうとはしない。
 ノルンはそんな彼女達の心中を察してそう言ったのではなかったが、今の雷蔵を見ていると、同情を掛けてやりたくもなっていたのである。

「まったく。……一応聞くが、勇者殿は未だ、誰にも手を出してはおらんのだよな?」
「は。そのような話は」
「やれやれ、困ったものだ。もう少し愚鈍であると思っていたのだったが……」

 魔女は深くため息をつき、踵を返してアスティア姫の私室へ向かう事にした。
 一方、魔女が足を運ぶ先、アスティア姫の私室。
 室内は冬であるにもかかわらず、暖炉の火と男女の体温で少し蒸している。
 調度品はすべて質実剛健なヴォルニア様式の物だったが、大きなベッドだけは古グラズヘイム様式であり華美な装飾を施されていた。
 室内は香を焚かれ、ランプの淡い灯火が4つ。
 暖炉とランプの炎はゆらゆらと揺れ、激しく動く人影を映し出している。
 人影は、雷蔵とアスティアの物であった。
 影は重なり、分かれ、二人が睦みの最中であることを示している。
 しかし。
 雷蔵の心中は肉の悦びに染まることなく、それどころか行為の最中じわり憎悪が支配しつつあった。
 ――この、女は。
 俺に体を差し出していながら、今俺には抱かれていない。
 今、彼女を乱しているのは、その心に、脳裏に、目に焼き付けているあの、銀の王子だ。
 こいつは、こいつは、こいつは!
 今、俺でなく、あのイグナートにきっと。
 ――抱かれているんだ。
 雷蔵はそう考えて更に心と下腹部をたぎらせ、一層憎悪の炎を燃え上がらせる。
 気に入らない。
 アスティアの行動一つ一つが気に入らない。
 思考を進める程に暗い感情が更に強く、濃く、闇となって勇者の心に巣くう。

「勇者殿。そこまでにしておきなされ。CFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)の無い姫にはもう限界じゃろうて」

 何時の間に部屋に入ってきていたのか、突如魔女の制止の声がベッドにかけられた。
 しかし雷蔵は慌てるでもなく、気怠げに声のする方を振り向いてゆっくりと首を振った。

「ノルン……いや、まだだ」
「アスティア姫。あとは儂に任せて湯殿へ行くがよい」

 魔女は今度は雷蔵の言葉を無視し、アスティアに体を洗って来るよう助け船を出した。
 しかし、彼女もまた、ノルンの言葉など届いていないかのように、雷蔵の求めに応じようとその首に腕を回そうとする。
 勇者と一介の魔女であれば、当然勇者の命令に従うべきだと判断したのだろう。
 ノルンは鼻からため息を抜いて、遂に言葉もなく、冷たい視線で雷蔵を見下ろした。
 その目は雄弁に語り、辛辣な非難を無言の内に勇者へと送る。
 雷蔵はもう一度その目をしばらく真っ向から見ていたが、やがて視線を逸らし。

「……もう、いい。アスティア、体を洗ってこい」
「……はい、勇者様」

 冷たく抑揚のない声で、雷蔵は折れた。
 解放の言葉に、アスティアは力なくベッドから降りて、ローブを羽織りながらもよろよろと部屋を後にする。
 その後ろ姿を魔女は見送り、もう一度冷たくベッドに寝そべったままの雷蔵を睨む。

「まったく。丸一日あれほど激しくまぐわり続けるなど、殺す気か?」
「……あれは、俺の女だ。どうしようが、関係ない」
「ま、そうなんじゃがの。が、勘違いが甚だしいのは見ておれんぞ?」

 ノルンはそう言って、ベッドに腰掛け腕を組みながら、呆れたように雷蔵を睨んだ。

「勘違い、だって?」
「そうじゃ。お主、性交などで女の心を支配出来るとおもうてか?」
「……どういう意味だよ」
「薬を使えばわからんが、女を性交では支配できぬよ。この一月でようわかったろ?」

 雷蔵はノルンの言葉に目を閉じ、胸に溜まったドス黒い感情を持てあましながらもきつく口を結んだ。
 悔しさや嫉妬といった、どうにもならない感情のはけ口として彼女の体を貪り、それによって彼女の中から銀騎士を追い出そうとしていたおのれの行為の醜さを自覚していたが故に。
 勿論、そんな事をしても彼女の心を操れるわけはなく、逆にその行為は雷蔵を打ちのめす結果となり。
 勇者はいつの間にか、女官達が近寄るに近寄れない程、荒んだ精神状態となっていたのである。

「ま、おなごの味を知ったばかりの者がよく陥る勘違いじゃし、仕方なかろうがの」
「……薬を」
「たわけ。儂の作る媚薬はガキには過ぎた代物よ」
「誰がガキっ」

 激高しかけたが、魔女の冷たく鋭利な視線をまともにみてしまい、雷蔵は思わず言葉を呑み込んだ。

「ふん。女を抱いた程度でその存在全てを手に入れたなどと錯覚するのは、ガキの恋愛とかわらんよ」
「……そんな、こと」
「ま、こうなると見越して『銀騎士』を部下に引き入れたのもあったんじゃが……お主、意外と感傷的なんじゃの」
「な?! お前」
「困るんじゃ。一人の女に執着されるのはの。女の心に誰が住んでいようが、かまわず己の槍を突き刺すような強さが必要じゃて」
「なんで……」
「お主は半端なのじゃよ。欲望の赴くままに女を抱くにも、何かを成すにも、な」
「そんな事、どうだって……」
「小娘一人に執着し、体だけの関係と割り切れぬ男がハレムなど、楽しめるとおもうてか?」
「それは」
「大体、力を他者より与えられ、何一つ己の中に誇れるモノを持たぬお主が。いったい、何故、惚れてもらえると思うてか?」

 魔女はそう言って、先程までの強い視線をふにゃりとゆるめ、くくと悪戯っぽく笑う。
 くぐもったその笑いは、優しげで、しかし悪魔のようで。
 少年はなぜか、その笑いを聞いて、堰を切ったように胸に渦巻く黒い心を叫びに変えて口から吐き出しはじめた。
 グチャグチャになっていたその感情はまるで、魔女の言葉によってえぐられた傷から吹き出る血のようであり。 
 懺悔するかのように、己の醜い嫉妬を。矮小な才を。卑屈な性格を、全てあの銀騎士と比較しながら、少年は己を責め立てて。
 その全てを魔女は黙って聞き、漏れた感情を拾いあげるように、優しくその頭をなで続ける。

 人の醜さを愛する悪魔はそのまま、勇者の気が済むまでそうしていたのであった。



















09 ものは考えよう

 雷蔵が簡易に改修されたラムル宮殿へ移って、3ヶ月が経っていた。

 宮殿の改修工事は未だ、ヴォルニア王国の攻略中であるイグナート王子が都度資金や技術者を派遣して来ており続行中である。
 派遣された人材の中には王子と敵対する勢力からの間者が紛れている事も多々あったが、何故か直ぐに見つかり処分されてもいた。
 そのような情勢下、雷蔵は執拗にアスティア姫の肌を求めていた先月とは打って変わり。
 今度は自室に閉じこもりっきりとなって、何やら考え込む日々を過ごしていた。
 流石に勇者としての力の維持のためにノルンが毎夜、雷蔵の部屋に訪れては淫らな一夜を過ごしてはいたが。
 勇者がアスティア姫を抱く事は、決してなかったのだ。
 それは……

「勇者殿。そろそろ機嫌を直さぬか?」
「……別に、そういうんじゃねぇよ」
「そうかの? 折角宮殿を手に入れたというのに、ハレムの女が儂とアスティア姫の二人だけなど、話にならぬではないか」
「そうなんだけど……こう、踏ん切りがつかねぇんだ」

 雷蔵の言葉に魔女はため息を深くつく。
 時刻は深夜。
 いつものように、いや。
 一方的にノルンから雷蔵の肌を求め、重ね、事務的な作業を行ういたって淡泊な寝物語の後である。
 部屋は飾り気がなく、ベッドの脇に立てかけられた "傾国" を除けば他にある大量の空き部屋と変わらぬ調度品であった。
 明かりは無し。
 暖炉の火だけが部屋を照らす光源だ。
 流石に豪奢なベッドの上、雷蔵は裸のまま寝そべり天蓋を見詰めて。
 上体を起こし、豊かな双丘を何かの小動物の毛皮で作られた毛布を引っ張り上げて隠す魔女は、呆れたように勇者を見下ろす。

「……『銀騎士』からの書簡での。先日、遂にヴォルニア王国の王都を陥落させたそうじゃ」
「へぇ」
「まあ、西方の兄王子達がおるで、戦は続くがの。で、戦後処理に彼奴の政敵を粗方粛正し終えた折、お主への献上品を救出できたそうでな」
「献上品?」
「銀騎士の妹らしい。政敵に人質にされそうになっておった所で、支援者である有力貴族の庇護の元、王都で匿われていたそうじゃ」
「そう、なんだ」
「勿論王族じゃて。 "時放つ世界のかけら" を持っておろう。直、こちらに送られてくる。わかるな? 儂が何を言いたいのかを」
「……ああ」

 返事を返して、雷蔵は黙り込んだ。
 が、その雰囲気は不機嫌なモノではなく、どこか悩みの解法を見つけてどう、切り出そうかといった具合であった。
 ノルンはやれやれ、と慈母のような笑みを作り、内心では手間がかかると愚痴を吐いて。
 見え透いた勇者の背を押して、もう少しだけ甘やかす事にしたのだった。

「勇者殿。何を悩んでおる?」
「言ったろ? 気持ちの整理が付きそうで、つかねぇんだ」
「アスティア姫の事か?」
「……ま、な。僕が何をしても、あの王子に敵うものが無いのはもう、わかってるし諦めてる」
「それは」
「だから、あきらめが付いてるって。だからさ」
「お?」
「こう、何か一つでいいんだ。僕が、誇れるようなもんが欲しいんだ」

 呟くようにいって、むふぅ、とため息をつきながら雷蔵は寝返りを打ち魔女に背を向けた。
 つまり、こいつは。
 浅ましくも、己とあの王子を比較して、勝てぬならばせめて此処だけは優れていると縋りたいわけか。
 くく、『勇者』であるその身と力をより所にせぬ辺りは、己をわかっておるのじゃろうな。
 魔女は男の背を眺め、そう分析した。
 それから少しの間、何やら考えて不意に男の背をつい、となぞる。

「ひうわ! な、なんだよ急に! 今そんな気分じゃ」
「のう、勇者殿。他者に誇れる物が欲しいなら、既にもっておるではないか?」
「はぁ?」
「勇者殿。この地をどうおもう?」
「どうって……」
「つまりの。地球と比べてどう、思う?」
「んー、何百年か前の世界みたいだとは思うかな。電気ないし」
「そこじゃ。そこが、あの銀騎士と勇者殿の決定的な差ではないか?」

 魔女の言葉に雷蔵は思わずはぁ?! と声を裏返させて返した。

「勇者殿。忘れてはおらぬか?  "時放つ世界のかけら" を手に入れる度に、一時帰国させてやるという約束を」
「あ、ああ。忘れちゃ居ないけれど」
「どうじゃろう。一時あちらに戻り、地球の品をアスティア姫に贈っては?」

 提案は雷蔵にとってキッカケとなったらしい。
 勇者はおお! という表情を一瞬うかべ、しかしまてまてと何やら考え込む。

「……でもそれ、お前の力じゃねえか」
「何何。うでっこきの商人が持ち寄る、二つと無い宝石も別にその商人が掘り出したわけではあるまい?」
「そりゃ、そうだけど」
「それにな。お主の自信に繋がるキッカケとなればそれでよい。このまま考えても埒はあくまい?」
「……そう、かな」
「うむ。そうじゃ。そうさな、あちらの下着などどうじゃろう?」
「し、下着?!」
「うむ。こちらにはああいった品は無いでの。儂もこちらでの生活が長い故ついでに欲しいし、見た目にもお主には良い刺激になろう?」
「ううむ……下着……」
「金は用意してやる。サイズも儂が調べておいて進ぜよう。どうじゃ? 恐らくは喜ばれるぞ?」

 魔女の提案に、雷蔵はしばし考え込む。
 物で女の心を釣るような真似は、いささか矜持に触れてしまうのだけれど。
 しかし、ノルンの言う事も一理ある。
 それに……
 それで、あの姫が喜んでくれるならば。
 身勝手な自分がした事への、罪滅ぼしに多少なりともなるのではなかろうか?
 何より。
 ……確かにこれならば、自分にしか出来ない事だ。
 いや、ノルンにはたやすい事なんだろうけども。
 それでも、この世界で地球の物を知り、用意出来るのは自分だけだ。
 いや、それだけじゃない。
 あちらの知識を、こちらの世界で生かせれば……
 だめか。電気、無いもんな……
 いやいや。
 素人の自分でも、生かせる物だけでいいんだ。
 例えば……

「勇者殿?」
「うぇ? あ、ああ。ごめん」
「くく、何か、良い手がかりを得たようじゃの?」
「ああ。なあ、ノルン。その、一時帰国なんだけどさ。僕、やってみようと思う」

 表情は。
 久しぶりに見る、穏やかな物であった。
 雷蔵の言葉にノルンはニタリと笑い、返事をせずにゆっくりをその体に覆い被さる。
 勇者は今度は拒否をするでもなく、吸われるがままに口を許し。
 魔女の長い黒髪が広いベッドの上に散らばり、悦楽の吐息が部屋に広がっていった。



 翌日。
 雷蔵は一夜の間に、地球へ戻り買い物を済ませて、再び『閉じた世界』グラズヘイムへと戻って来ていた。
 飢えたように体を貪って来た魔女との性交の後、何処に隠していたのか喚ばれたときに着ていた高校の制服を用意され雷蔵は。
 地球へ一時帰国を果たし、あの日の夕方午後5時の、下校中の自転車の上に戻っていたのであった。
 その感覚は奇妙で、長い空想に耽っていたのかとさえ思えたが、ポケットに入っていた一万円の札束と下着のメモが幻覚でないと彼に教える。
 もはや懐かしいとさえ思える慣れた通学路を自転車で帰り、雷蔵は数ヶ月ぶりに家族と再会して久しぶりの "平凡" な生活を楽しんだ。
 あらかじめノルンから言い渡された時間は二日。
 一日、間があるのは気分転換も兼ねてこいという意図もあったのだろう。
 雷蔵は翌金曜は普通に学校へ登校し、新学期最初の授業をこなしてその日もつい数ヶ月前まで行っていた生活を送ったのだった。
 久しぶりに会う両親や友人達は雷蔵の心を暖かくしたが、不思議と強い郷愁は感じず、少しだけ彼を惑わせる。
 恐らくはそういった心すらあの悪魔に嬲られているのだろう。
 が、不思議と不快には思えず、クラスの女子を眺めながらノルンやアスティアがどれ程の美女かを再確認するだけの余裕すら雷蔵にはあった。
 そして、更に翌日の土曜。
 久しぶりに一人で寝る惰眠を貪ったあと、雷蔵はかなり離れた街へ電車で移動して、気まずい買い物を行う事になる。
 サイズはよく解らなかったが、気を利かせ綺麗な日本語で書かれた魔女のメモを店員に渡し。
 ただ、その商品の会計を済ませるだけであった雷蔵だったが。
 店を出る頃には耳まで赤く染め上げて、周囲の視線を過剰に感じながら走り去る勇者の姿がそこにあった。
 それから、過剰にあまった金でいくつかの買い物を済ませ、そういえば帰る時はどうやって喚ばれるのだろうと考えた折。
 前触れもなく再び雷蔵の視界が歪んで気を失ってしまい、再び気がつくとそこは既に、ラムル宮の私室であった。
 目を覚ました時、傍らに立つノルンはすでに雷蔵が抱えていた荷物を開け、己の分の下着を鼻歌交じりに試着しており。
 頭痛にうめき、上体を起こす雷蔵をその時初めて一別して一言、アスティアは私室でふさぎ込んでおるからさっさと行けと口にした。
 雷蔵は素っ気ない魔女の態度に僅かな不満を抱きつつも、アスティアに渡す包みを手に部屋を後にする。
 時刻は既に昼に近いのか、宮殿内は冷たい外の空気と暖かな太陽の光を称えて、つい先程居た繁華街とはまるで違った雰囲気であった。
 幾人かの女官や女騎士達とすれ違い、程なくアスティア姫の私室の扉の前に立った雷蔵は、躊躇する心を抑えてノックを二度する。
 僅かな沈黙の後、中から細くどうぞと声が聞こえて扉を開けると、そこにはあの、金の美女の姿があった。
 アスティアは窓辺に設えられた椅子に座り、外を眺めていたのだろうか。
 約一月ぶりに見る彼女は変わらず美しく、しかし少し痩せていた。

「勇者、様?」
「あ、えと。アスティア姫。その……」
「勇者様!」

 予想外に。
 扉を閉め、遠慮がちにアスティア姫に近寄る雷蔵に、女は抱きついて来た。
 雷蔵の鼻に、彼女の香水と体臭が混じったニオイが届いて、その強さはしかし言いつけ通りに毎日湯浴みをしている事を示した。

「あ、えっと、アスティア?」
「勇者様。申してくださいまし」
「え?」
「私は何をしたのでしょうか? 何故、勇者様のお情けをいただけなくなったのでしょうか?」

 アスティアは雷蔵の胸に顔を埋めた後、目に涙をためながら雷蔵を見上げた。
 そこに、あの強い視線は影も形もなく。
 ただただ、不安だけがそこにあった。

「……いや。アスティアは何もしてないよ。何かをしたのは、僕の方なんだ」
「そんな! ならば何故!」
「ねぇ、アスティア。僕は……君の心に気がついている」
「――え?」
「その、なんとなくだけど。君がイグナート王子に惹かれている事を、知っているんだ」
「それ、は……」
「ああ、えっと。それを怒ってるとか、そう言うんじゃないんだよ。ただ、さ。なんか、悔しくて」

 雷蔵はそう言って、腰に手を回しているアスティアの腕をゆっくりとふりほどき、天幕を捲ってベッドに腰掛けた。
 アスティアは驚きと不安をその表情に張り付かせたまま、無言で雷蔵をじっと見詰め続けている。
 ただ。
 雷蔵が君はイグナート王子に惹かれている、と口にした言葉を彼女は否定せず。
 その事は雷蔵自身、やはりと思わせじくり、と心に暗いものが湧くのを実感させた。

「それで、先月は君にあんな……」
「いえ、勇者様。それは私も望む所です」
「いや、あんなの。ねぇ、アスティア。僕はさ。ノルンの言うとおり、この世界なんて、どうでもいいんだよ」
「勇者、様?」
「その、女の子とさ。シて、だらだらと暮らせればそれで満足できるんだ。イグナートみたいに、カッコよくないし、才能だって」
「あの……」
「つまりさ。嫉妬してたんだ。イグナートに。だってさ、あいつ俺よりずっと『勇者』っぽい奴だろ?」

 雷蔵はそう言って、たははと気恥ずかしそうに頭を掻いて笑った。
 アスティアは勇者の態度や言葉の真意を未だ理解出来ず、しかし話の続きを聞くべく雷蔵の隣に腰掛け、じっとその顔をのぞき込んだ。
 その瞳は美しく、当初見せていた敵意も先程見せていた不安も消えて、ただ吸い込まれそうな程透き通ったもので。
 思わずその美しさから目を背けた雷蔵は、なぜか幾度も肌を重ね続けた相手に照れて、頬を掻き視線を逸らす。
 考えてみれば、彼女とまともに話す事はこれが初めてかもしれない。
 否。
 こちらの世界に来て、ノルン以外の女とまともな会話を交わすこと自体、これが初めてであったと気がつく雷蔵であった。

「で、さ。僕、考えたんだ。その、君さえよければ、あいつの所に……」
「勇者様?! それは」
「あ、いやいやいや! ちがう! えっと、勿論王国は君の子に……」
「……勇者様。あなたは、わかっておられません」
「アスティア?」
「勇者様の再臨が起きた今、この戦乱の地を平定し、その後も治め続けるのは勇者様の血が必要不可欠なのです」
「……でも。君は好きな人と一緒になりたいとは思わないのかい?」
「私は、身も心も、勇者様に」
「嘘だ」

 雷蔵は、アスティアの言葉を強く遮る。
 色々と中途半端な己の中で、それだけは確かな事実として受け入れたからか。
 その嘘だけは、聞き捨てならなかった。
 アスティアは雷蔵の言葉に、少しうつむいて。

「……勇者様、私は」
「――いいんだ。君の事情も分かってるし、僕も最初から体だけの関係を楽しんでた」
「では、なぜ」
「いつの間にかさ。心まで捧げられていると勘違いしちゃって。えっと、僕の国じゃさ。基本的に、心を捧げた相手としか、体を重ねないから」
「私の心を勇者様に捧げぬ限り、抱かない、と?」
「ううん。違う。ただ、そういうのは割り切れないって話。僕の中でね。あ、勿論、君の気持ちも大事なんだけど」

 気まずい静寂が部屋を覆う。
 雷蔵もアスティアも、ベッドに腰掛けお互いを見もせず、じっと宙の一点を見詰めていた。
 が、その沈黙は思考を重ねる時間であったか。
 口を開いたのは、アスティアであった。

「勇者様。私は、勇者様の御子を宿しとうございます」
「アスティア?」
「勇者様の世界では男女は "そう" なのでしょう。しかし、ここでは違います。特に、王族は」
「それは、わかっているけれど……」
「いいえ、おわかりになっておりません。勇者様。――私の心は、確かにあの銀騎士様に向いています。しかし、それとこれとは別」
「……ごめん、僕、そういうのがどうも割り切れなくて」
「では、こう考えませんか? ここに集う女達は勇者様の獣欲をお慰みする使命を持った女達であると」
「……どういうこと?」
「早い話が、性欲を処理する為だけに存在する、奴隷のような "物" であると」
「それは!」
「良いではありませぬか。このような宮殿に住まい、この世で最も権威と力のある男に庇護され、何不自由無い生活を送れる。どこに不満が?」
「……心を偽らせてまで、縛りたくはない」
「あら。私はもう、偽ってはおりませんわ? なんでしたら、望む者には出て行く許可も与えればよいではないですか」
「え?」
「私は出てはゆきませぬ。次代の聖王を産む為に。……もし、懐妊したらわかりせぬが、引き留められればいくらでもお側に居させて頂きます」
「アスティア……」
「ものは考えようです。側室をお迎えになるならばともかく、後宮の女などその程度でよいのです。皆胸の内に何かを抱えて服を脱ぐのですから」

 アスティアはそう言って、初めて雷蔵にニッコリと微笑んだ。
 その笑顔は花のようであり。
 雷蔵は初めて、この時彼女を見て胸を高鳴らせた。
 その言葉は勇者の心をどう、動かしたのか。
 雷蔵は何か、吹っ切れたかのような気がして、アスティアに詫びの品である下着を手渡し。

 程なく、その着心地に目を丸くして驚く彼女から、あっさりと下着を剥ぎ取ってしまうことになるのであった。




















10 欲しい物は権力、名誉、待遇?

 雷蔵がグラズヘイムに喚び出されて、半年が経った。

 冬が本格化したラムル宮殿。
  "質素な" 勇者の生活の為に改修が続けられているこの宮殿では、小さな変化が訪れていた。
 如何なる心情の変化があったのか、雷蔵が宮殿で働く女官や女騎士達に手を出し始めていたのだ。
 それも、かなり節操なく。
 皮肉にも体に埋め込まれたCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)のお陰で雷蔵の体力は無尽蔵となっており、その事も彼の無節操な性行為の相手選びに拍車を掛けた。
 宮殿で働く女達に手を出す事自体は元々 "その為" に、未だ西方へと軍を進めるイグナート王子が集めた女達である為問題は無い。
 しかし、手を出した後にいささか問題が発生しつつあった。

「さて。どうしたものか」
「困りましたね……」
「アスティア……お前、随分と慣れたな……」

 夜、ラムル宮殿内のとある広い一室。
 現代の地球にあっても、暖房性能としてはかなり高い部類である暖炉に火が入って、赤くうっすらと室内を灯していた。
 部屋は他の部屋と同じく、豪華な調度品に天蓋と薄絹の天幕が垂れた巨大なベッドが配置されていたが、ただ一つ。
 暖炉のぬくもりも届かぬ部屋の隅に、約4メートル四方程の長さからなる立方体の物体が白く輝いて在った。
 その物体は、恐らくは雷蔵と同じ地球の、日本に住まう者ならば誰しもが見覚えのある物であろう。

「勇者様、私だって最初は驚きましたけれど、何度も見ていれば慣れますわ」
「じゃの。姫も白痴じゃないんじゃし、そう毎回目を丸くしてアレはなんですか?! これはどういう仕組みですか?! とはしゃぐまいて」
「まあ、そうなんだけど。それにしても……」

 立方体の内部で、雷蔵は背を丸くしながらじっとりと同席するアスティア姫と魔女を見やる。
 彼女達は雷蔵と同じく背を丸め、煌々と白く輝く『蛍光灯』の明かりの下、『こたつ』の中に肩まで入らんとする勢いだ。
 丁寧にもおそろいの赤い『丹前(どてら)』まで羽織り、どこからどう見ても日本のアパートで暮らす日本かぶれの外国人にしか見えない。
 その光景は、およそ『閉じた世界』グラズヘイムに在ってどうしようもなく異質で、しかし雷蔵には懐かしい光景であった。
 なぜ電気も無いグラズヘイムでこのような品を三人が利用しているのか。
 キッカケは雷蔵がたまたまノルンの部屋に訪れた折。
 めっきり寒くなってきたここ数日、魔女の姿を見かけなくなって不安と不信に陥った雷蔵が、ノルンの部屋に無断で入った事から始まる。
 果たして勇者はその部屋の隅にある、信じられない物を見てしまったのだった。
 ソレはまるでショールームの一角のような、四方に柱と障子が建てられて。
 床から60cm程上がった位置に畳が敷き詰められ、いかにも暖かそうなこたつとこたつ布団が完備され。
 丁寧にその上には籠に盛られたみかんまであり、黒髪の悪魔がどてらを羽織りこたつの卓台に顔を置いて、その妖艶な美貌が全て消え去るような表情で涎だまりを作りながら寝ている姿であった。
 「なんじゃぁこりゃあ!」 と叫び、魔女の眠りを覚ました雷蔵は、特に悪い事をしてはいない彼女の細い肩をガクガクと揺らして、どういう事かと思わず詰問してしまう。
 魔女は勇者の問いに、珍しく睡魔の魔力にあらがいたがい表情を浮かべながら、あまりに寒いのでこれらの品々を地球から持ち込んだと答えた。
 彼女のあまりやる気の感じられない回答に、電気とかどうしてんだ?!
 と、雷蔵。
 銀騎士が捕らえた政敵等を貰い受け、宮殿地下に特別に拵えた人力発電機の巨大発電用ホイールを24時間2交代体制で回させておる。
 と、魔女。
 誰がそいつらを見張ってるんだよ!
 と、雷蔵。
 儂特製のゴーレムに鞭を持たせて見はらせておる。それに、ホイールが停止したらトラを数匹閉じ込めたの檻の扉が開く仕組みじゃて、ひひ。
 と魔女。
 いくら何でもそれはあんまりじゃないか? と眉をひそめる雷蔵であったが、その後の魔女の指摘によってあっさりと納得してしまった。
 即ち魔女の指摘とは、奴隷を使って豊かな生活をするのも、強い国が弱い国を搾取して豊かな生活を送るのも変わらない、といった趣旨である。
 言われてみればなるほど、故郷である日本の豊かさは他の貧しい国々に支えられての物であるといった内容のTV番組を思い出していた。
 突き詰めて考えれば、生まれ出た地の差や、そうであっても目に見える非情な現実を否定する行為の尊さによって状況は変わるのだが。
 そもそもは聖人君子でもなく既に幾千の命を殺めている勇者は、目の前の "文明" をそれでも否定する程厚顔でも清廉でもなかった。
 その後、なぜか我が事のように自慢しようとアスティア姫を連れて再びノルンの部屋を訪れた雷蔵であったが、予想外にアスティア姫がノルンのそれを気に入り、馴染んでしまって今日に至っているというわけだ。

「そんな事よりもじゃ。どうするかのう」
「困りましたね……」
「あ、アスティア。僕のみかんも剥いて?」
「はい。あ、これ、食べかけですけど半分食べますか? これは甘かったですよ」
「さんきゅ」
「こりゃ、勇者殿。まったりとしている場合ではなかろ? お主のハレムがギスギスした女の園になっても良いのか?」

 こたつに骨抜きにされつつある、ノルンの力ないツッコミに雷蔵はむぅ、とみかんを口に放り込みながらも考え込んでしまう。
 彼らが話し合っている問題とは、雷蔵がここ一月の間に手を出した女達の事であった。
 雷蔵と体を重ねた者はハレムの一員として贅沢な生活を約束される決まりだったが、あまりに多く手をだした為、労働力が足りなくなったのだ。
 更に彼女達は皆見た目麗しくはあったがその中身は違ったようで、後宮に入るや今までの同僚達に傲慢に接するようになり、中にはハレムの女帝のように振る舞う者まで出てきていた。
 必然、宮殿内では派閥や醜い争いが散見されるようになり、見かねたノルンがイグナートに適当な仕事を用意させ、雷蔵が手を出した女達を全て放逐してしまったのである。

「まったく。勇者殿ももうちょっと女を管理出来るようになれば儂も楽になるのだがのぅ。」
「う……だってさ」
「私は約束を守って頂ければそれで良いのですが」
「くく、アスティア姫。勇者殿が "いつ" そのような約束を? 果たしてハッキリ約束をしておったかの?」
「え?!」
「やめろよ、ノルン。アスティア、じゃ、今約束する。君の子を次の聖王になってもらう」
「勇者様……」
「ひひ、守る保証などないがの。おっと、そのまま盛るならあっちのベッドで頼むぞ? ここは狭いでの」
「やめろって。それよりも、どうしよ? アスティアはともかく、これからは他の王女もハレムに加わるしな」
「そうじゃのう……エーリャ王女の到着が雪で遅れとる間に対応を決めとかねばのう」
「しかし、丁度良かったのかもしれません。補充の女官達もエーリャ王女と共に来るのでしょう?」
「まあの。勇者殿は銀騎士の妹君に早く会いたかったようじゃが、そこは儂らが文字通り体を張って埋め合わせれば済むで」
「そうですわね。何せ、勇者様は果てがございませんもの。寵をいただけるのは嬉しいのですが、たまにむつみ殺されるかと思う時がありますわ」

 アスティアはそう言って、ノルンがいつもするようにニタリと雷蔵に笑いかける。
 無論、からかってそう言ったと雷蔵にはわかっていたが、同時に彼女の態度が上から目線であると感じ取り少しだけ不快感を感じた。
 ただ、彼女の高貴さはその行為により雷蔵へ如実に伝わり、肌を重ねる段となった時に "汚してやった" という感覚が一層強く感じられ、結果勇者を強く昂ぶらせてもいたのだった。
 それは彼女なりの策略か、はたまた意図しない行為なのかは雷蔵にはわからなかったが、この時の言動の効果は十分であろう。

「……くそ。二人ともあとで覚えてろ。しかし、考えれば考える程難しいよな、これ」

 雷蔵は半分ふて腐れ、もう半分で強引に話題を元に戻す。
 一同は何度目かのうーむという声を上げて、こたつに丸くなりながら考え込んだ。
 が、そこに緊張感はない。
 アスティアは余程みかんが気に入ったのか、先程から考えながらも黙々とみかんの皮を剥いて口の中に放り込んでいる。
 ノルンと雷蔵はそんな彼女が皮を剥き終わるタイミングを計って、いくつかのみかんを分けてくれとせがむ。
 二人の要求にアスティアは気を悪くするでも無く応じ、残り少なくなった剥いたばかりのみかんを口中に放り込み再びみかんに手を伸ばす。
 傍目には本当に悩んでいるのかすら怪しい絵面ではあったが、当人達は至って真剣であった。
 やがてこたつの卓台に頬を押しつけ、ももも、とみかんを頬張っていた魔女は口中の果実を呑み込み、満足のため息と一緒に言葉を吐く。

「まあ、これから増える王女達の事ならば、実はそう問題はないんじゃがな」
「どゆこと?」
「イグナートの方からの、面白い提案はあっての」
「……僕は面白くない」
「ひひ、そう嫉妬すな。アスティア姫、今夜は "荒れそう" じゃから、二人同時で伽をするかの」
「うるせ。それで?」
「なんでもの、グラズヘイム平定後は基本的に勇者殿への恭順を示した各地の諸侯の領土は、安堵するらしいのじゃ」
「ん? あんど?」
「土地を取り上げたり、為政者を変えたりしない、といった意味ですわ勇者様」
「んでの。聖王の為政に切り替えた後……まあ、実質はイグナートが宰相となるんじゃが、その後はアスティア姫の御子が聖王となるじゃろ?」
「ん」
「その更に後の聖王は、各地の諸侯に選帝権を与えて聖王を選ぶ仕組みにするらしいんじゃ」
「選帝権って……早い話、諸侯の中から聖王を選ぶってやつ? 大丈夫かそれ?」
「大丈夫じゃろ。それに勇者殿の目的は後の世まで安定した為政の基礎を作ることではあるまい?」
「……ま、な」
「そういった事はイグナートやアスティア姫がこれから身籠もる子に任せて置けばよいのじゃ」
「あ、そういうことですか」
「ん? なに、アスティア」
「銀騎士様の思惑がわかりました。つまり、魔女殿。各地の王女に勇者様の御子を宿らせて、その子を選帝権のある領主に据えるわけですね?」
「ま、そうじゃろうな。勇者殿の血が入っておれば、どの領主も聖王となる権利を得られる。必然、恭順してくる者も増えようて」
「……フン、どうせそのせいでまた争いの種が生まれて、内乱とか起きるのが関の山さ」
「くく、勿論そうならぬよう『銀騎士』は他にも手を打つじゃろうさね。文句があるならば、勇者殿が直々に親政を行うかや?」

 少し意地悪な魔女の言葉に、雷蔵は唇を尖らせながら黙り込む。
 イグナートへの嫉妬を認め、暗い感情を会話中素直に話せる程には和らいだ雷蔵であったが、やはり気に入らない物は気に入らない。
 が、かといって今更色々と背負い込む気も無く、精々、ノルンが報告してくるイグナートの政策に無責任なケチを付けて、憂さ晴らしをする勇者であった。
 そんな子供のような反応を見せる雷蔵にアスティアはやや呆れ気味に笑い、諭すように声をかける。

「勇者様。後の世の事は、後の世で生きる者達に託すしかございませんわ。何が正解かなど、誰にも」
「姫。違うぞ? 勇者殿はただ単純に嫉妬しておるだけじゃ。姫が『銀騎士』を褒めたのでな」
「まあ」
「うっせ。それより、問題に集中しろって。俺、このままじゃ迂闊に女官や騎士の人らに手をだせねーだろ」
「くく、 "俺" になっとるの。ま、そう頭に血を上らすな。しかし、確かにその問題は難しいのう」
「……あの。一つ、案がございます」
「なんだ? アスティア」
「王女以外で勇者様のお手を付けられた者には、この生活を保障してみてはいかがでしょう?」
「この?」
「生活?」
「はい。つまり、魔女殿のこの部屋での生活です。その、ここでの生活は王族である私ですら体験出来なかったような物ですので……」
「ふむ。姫。つまり、 "これ" はお手つきになった者にとって、十分な特権となると言われるか?」
「はい。このような部屋をいくつか用意して、その者らにあてがい、逆に身分は変えず仕事も続けさせるのです」

 しばし、沈黙が続く。
 アスティアの意見は雷蔵にとってどうにもピンと来ず、そこに価値を見いだせなかったのだ。
 魔女も同様に、否、他の事で躊躇しているのかもしれなかったが、どうした物かと悩んでいる様子を見せた。

「……そんなんで納得するかな? 僕はこういう部屋をあてがうだけ、というのは少し疑問に思う、かな。」
「恐らくは大丈夫かと。今現在の生活自体、あの者達には "贅沢" でありますし。その上、勇者様が喚ばれる前に体験していた、このような……まるで天上での暮らしとなれば……」
「ふむ。面白いかもしれぬの。じゃが、それだけではのう……」
「ダメでしょうか? 魔女殿」
「連中は姫のような高貴な生まれでない。育った環境もあるし、どうしても卑屈な部分があろう。ただ、暮らしが良くなる、珍しい暮らしが出来る、だけではの」

 つまり、暮らし以外にも誇れる何かが必要、って事か。
 雷蔵はこたつの熱にぼんやりと眠気を覚えつつ、ノルンの言葉をそう受け取った。
 その台詞はつい先日までの自分の無自覚な卑屈さを思い起こされ、何となくであったが今は放逐されてしまった女官達の事を思い出させる。
 あの子らは。
 勇者に抱かれたと心底喜び、誇っていた。
 ……が、それが行きすぎて、権力みたいなものまで得たと勘違いして、端から見ても増長が甚だしかったけれど。
 要は、権力じゃなくて名誉だけを与えるようにすればいいのかもしれない。
 例えば……例えば、えーと。
 指輪、とか?

「なあ、それじゃ待遇だけでなくて、何か持ってるだけで自慢できる物もあげたらどうかな?」
「物?」
「ほら、名誉っていうか。身につけて居れば、勇者に認められた証になる、みたいな」
「ふむ。品で自尊心を煽ろうというわけか」
「そ。政治的な、こう、野心みたいなのを抱かせず、仕事も今まで通りにして貰ってそれでいてみんなに自慢出来ればいいんだろ?」
「……いいかもしれませんね、それ」
「くく。勇者殿、中々に言うようになったの。儂も悪くないと思うぞ」
「だろ? 僕だってやれば出来るんだよ?」
「まぁ、勇者様ったら。ふふ、では具体的に如何なる物を差し上げれば良いと思われますか?」
「やっぱり、こう、目立つ物がいいと思うんだ。例えば指」
「おお! そうじゃそうじゃ! くく、勇者殿。それは儂に任せて頂きたい」
「輪……て、ノルン?」
「魔女殿?」
「ひひ、ほんに此度の勇者殿のひらめきは素晴らしいの。いや、正直侮っておったがどうしてどうして」
「……侮られてたのは最初から知ってたけどな」
「まあ、そう言うな。姫、ここは勇者殿の言を採用しようぞ。品も王女達の物と、手を出された使用人達の物の二種、儂が用意しよう」

 魔女はやけにノリノリでそう口にするや、こたつから出て暖炉まで歩いて行き、薪を多量に放り込んで何やらブツブツと呟いた。
 瞬間、暖炉の火は一瞬で強くなり、部屋の全てとは行かないまでも近くにあるベッド位までなら仄かに空気を暖かく感じさせるようになる。
 その様子を満足げに確認すると、徐に丹前と服を脱ぎ捨て、先日雷蔵が購入した下着姿となりベッドに腰掛け髪をかき上げた。

「さ、勇者殿。問題は解決したでの。先の言葉、よもや忘れてはなかろ?」
「なにをだよ?」
「先程『二人ともあとで覚えてろ』と言うたではないか。のう、アスティア姫?」

 そう言って、長くほっそりとした美脚を組んで見せ、ニタリと妖艶に魔女は笑う。
 同時にアスティアもこたつから抜け出て、先程ノルンがそうしたように服を脱ぎ散らし、ベッドに登って下着を着けたまま、誘うように尻を突きだし雷蔵の方を見た。
 その表情もまた、いつから身に付けたのか、魔女のような妖艶な笑みを浮かべ勇者を誘う。

「さあ、勇者様? 無礼な口をきいた私どもに、思い知らせていただけるのでしょう?」

 言葉と一緒に、二種の笑いが広い部屋に小さく響く。
 雷蔵はふと初々しかったアスティアを思い起こし、女はこうも変わる物かと考えながらも、いきり立つ下腹部の熱に気がついてこたつから出る事にした。
 それから二人の体に手を触れる僅かな間に、今度やってくる銀騎士の妹、エーリャ王女はきっと、初々しい反応を見せてくれるのだろうと考えて心を弾ませる。
 後日、そのエーリャ王女がラムル宮殿に到着した折に見た物とは。

 黄金で見事な装飾を施された、愛玩動物用の首輪をして出迎えた魔女とアスティア姫の姿であった。




















11 勇者の第一印象

 エーリャ・パノフが運命の日を迎えたのは、雪が降る冬の日。

 『北の最強』と呼ばれるヴォルニア王国の王女である彼女は、『銀騎士』の異名を持つ英傑イグナート王子と同腹の妹である。
 古の聖王の血を色濃く現す兄と同じ銀髪は長くキメが細かく、端正な顔立ちと凛とした佇まいは見る物全ての目を奪った。
 その生い立ちから性格はいささか兄に依存する趣はあったが、女だてらに剣技に秀でた才を有する故か、サッパリとした所が目立つ。
 また、ドレスを身に付け黙って立っていれば美姫として宮廷の噂にも登ったであろうが、彼女が得ていた評判は "変わり者" であった。
 普段から兄を誇るあまりか、男装に身を包み腰に剣を下げていたあった為、もっぱら男勝りのお転婆な姫君としての評価が先立っていたのだ。
 しかしそんな彼女でも、別に男として扱って欲しい、とか女である前に剣士として認めて欲しい、などと思っているわけではない。
 一応は一通りの姫君としての教育も受けていたし、所作もやろうと思えばいくらでもできた。
 兄同様に母親の身分の低さ故、幼き頃より他の王族に疎まれさげすまれ、何かと目の敵にされる機会が多かったが為の行動である。
 つまり、『王女』として目立たぬよう、あえて相応しくは無い行動をとって、余計な敵を作らぬよう計っていたというわけだ。
 その甲斐があってか、兄が王国に反旗を翻した時も、王都に身を置く彼女に直ぐには粛正の手が伸びては来なかった。
 結果、密かに兄を支援する貴族に庇護を受ける時間を得ることが出来、無事『銀騎士』と再開を果たせたのである。
 が、長年の男のような生活が祟ってか、はたまた暗殺を警戒する日々を過ごした為か。
 17才になりやっと男装を辞め、慣れぬドレスに身を包む日が訪れても剣を側に置くことだけは辞められなかったエーリャであった。

「まったく。勇者殿の元へ輿入れだと言うのに……そのドレスの装飾には剣はあわないぞ、エーリャ」
「そうでしょうか? 私は『銀騎士』の妹ですし。他の姫君とは違う、こういった個性を見せてもいいのではないでしょうか」
「うーん、確かに "あの" 勇者殿ならば気にしそうに無いが……」
「兄上。勇者様はどのようなお方ですか?」

 めでたくも未来のヴォルニア "元" 王国領領主の母となるべく、勇者の元へ輿入れの為に王都を出立する折、兄と交わした会話だ。
 ラムル宮へ向かう馬車の中、エーリャは他にする事もない為か兄イグナートが答えた勇者の評を思い起こす。
 曰く。
 その体は恐ろしい力を内に秘めているとは微塵も外へ感じさせず。
 その瞳には欲も野心も輝きを放つような英知は宿らず、怯えや困惑ばかりが目立ち。
 その雰囲気は覇気を纏うでもなく、柔らかく優しげで。
 彼が何者かと知らなかったならば、視界に留めておくことすら困難な小人に見えるだろうと『銀騎士』は評した。
 どういう事だろう?
 思い起こす度に、兄譲りの明晰なエーリャの思考は疑問に満ちる。
 彼女が半ば神聖視している兄を想えば、そのような力だけが取り柄の男に敬愛する『銀騎士』が忠誠を誓うとは考えられなかったからだ。
 兄が力に屈して忠誠を誓うような男ならば、とうの昔に兄王子達の軍門に下っている。
 かといって勇者を利用し、グラズヘイム王国を再興してから王国を乗っ取る算段をするような、謀を巡らせる兄でもない。
 命を救われた恩義から忠誠を捧げた?
 ……あり得ない事ではないが、それだけで此処まであっさりと肉親を後宮に送り出すだろうか。
 そもそも、兄上はそう言った謀自体を嫌い、得意でもなかった。
 ……なぜか反乱を起こしてからは、悉く相手側の謀を手玉に取っては居たが、それと何か関係があるのだろうか。
 彼女の疑問は雪によって足止めされている間も、ラムル宮殿が進む先に見えた時も、決して晴れはしなかった。
 やがて、来る日も来る日も乗り続けていた豪華な馬車は、まだ日が高いにもかかわらずガコンと少し揺れて停止する。
 遂にラムル宮殿へと到着したのだ。
 エーリャは直接勇者に会えば、その疑問は解けるであろうと考えて、御者が扉を開けるのを待ち続ける。
 程なく、馬車の扉は開かれて。
 立ち並ぶ護衛として同行した騎士達と、宮殿を守る女騎士の列のむこうに勇者の姿をエーリャは確認した。
 ――なるほど、兄が言っていたようにどこか落ち着かなく、視線を泳がせてとてもではないが勇者には見えない。
 得心が行くと同時に、その背後に侍る二人の美しい女の姿を見て、エーリャは激しい嫌悪に襲われる。
 彼女達はこともあろうか、愛玩動物がするような細めの首輪をしていたのだ。
 白く細い首に巻かれたそれは一見チョーカーのようであり、遠目にもわかる程見事な黄金の装飾を施されてはいたが、間違いなく人が身に付けるような装飾品ではないとわかった。
 首輪には鎖にでも繋ぐのか、一つだけ黄金のリングが取り付けられていて鈍く光り、その輝きが清涼としたエーリャの心を黒く濁す。
 かくして、銀騎士の妹が抱いた勇者の第一印象は、あまり良い物にはならなかった。



「なあ、ノルン。正直に白状しろよ。お前、僕をハメただろ?」

 エーリャ王女が到着してより数時間後。
 雷蔵は宮殿に詰める女騎士のみで構成される『ラムル宮殿騎士団』の練兵場の片隅で、酷く顔を腫らしながらニヤつく魔女を強く睨む。
 騎士達の詰め所と共にラムル宮の片隅に設置された練兵場は広く本格的で、馬術や剣術の訓練に使われる施設なども敷設されていた。
 雷蔵が居る "決闘場" もそこにあり、新たなハレムの住人を迎えたその日、勇者は早速甘い菓子に手を出す筈であったが。
 何故か模擬剣片手にしこたま全身を打ち据えられ、顔にアザとこぶをこさえて不満を吐露する羽目に陥っていた。

「散々儂とハメといてその言とはいやはや、非道い言いがかりじゃのぅ勇者殿」
「言いがかりなもんか! あの子、すっげえ強い――っ痛ぅ! アスティア、もうちょっと、優しくお願い?」
「はい」

 ワザとらしく心外だと表情を浮かべた魔女は、大げさに肩をすくめて見せて恨めしげな勇者の視線を受け流す。
 騎士達が剣技を競う為に使用される決闘場の広さは約10メートル四方で、周囲には膝下ほどの高さにロープが張り巡らされている。
 そのロープの外側に沿うように、幾人かの女官と非番の女騎士達が立って事の成り行きを興味深げに見物していた。
 雷蔵は彼女達の視線の先、雪が積もる決闘場の端に腰掛けて、雪を腫れた顔に押しつけてくるアスティアにその力を弱めるよう懇願する。
 ロープの内側には雷蔵と魔女ノルン、手当を行っているアスティアの他にもう一人。
 エーリャ王女が着慣れた男装を身に付け、木製の模擬剣を地に突き立てて雷蔵が座り込む場所から少し離れた位置に立っていた。
 その青い瞳は冷たく、侮蔑するように雷蔵を見下している。
 何故このような状況となったのか。
 始まりは、エーリャ王女が到着し宮殿内での歓待の席での発言。
 一通りの食事を終え彼女は、突如雷蔵に頼みがあると持ちかけたのだ。
 美しい王女を見ながらその後の淫蕩な情事に思いを馳せていた雷蔵は、鼻の下を伸ばしその内容に耳を傾ける。
 エーリャ王女は言う。
 『銀騎士』の妹として生きてきた自分には、ある夢があると。
 それは、自分よりも強い男性を伴侶とする事であり、伴侶とは少し違うが今回の輿入れの話は願ってもない事であったと。
 だから――

「大体、なんでいきなり剣術のけの字も出来ない僕が、彼女と試合をしなきゃならないんだよ?」
「そう言うな。初夜の前に是非勇者殿の力を是非体験したい、と言い出したの王女の気持ちも汲んでやらねばなるまい?」
「なあ、ノルン。正直に白状しろよ。お前、僕をハメただろ?」
「ひひ、くどいのう。幾ら儂が王女のささやかな夢を叶えるためこの場を設けたとはいえ、そのような疑いを持たれるとは心外じゃ」
「嘘だ! お前、僕が模擬剣でブン殴られるのを見て楽しみたいだけだろ! 何が "CFMMを宿す勇者殿なら問題無い" だよ!」
「嘘では無いと言うに。 "傾国" を抜かばその機能は完全解除されるが、そうでなくとも普段作用している機能だけでも十分勝てる相手じゃぞ?」
「あの、しぃえふえむえむ、とはなんですか?」
「勇者殿が宿した神秘の力の事じゃよ、姫」
「まぁ。そのようなお力が勇者様のお体に?」
「うむ。勇者殿があれほどの力を発揮し、姫が一晩に幾度も気をやる程激しく責め立てる事ができるのも、ひとえにその力あっての事じゃて」
「じゃあ、なんでその僕がエーリャ王女に一瞬でボコボコにされるんだよ?! ていうか、あの子なんか怒ってるし」
「ふむ。なぜかのぅ」
「……恐らくは魔女殿が食事の前に『勇者殿の側室に入った者は、これを身に付ける習わしとなっておる』と、この首輪を渡した時からではないでしょうか?」
「やっぱりお前か! なあ、ノルン。お前、絶対僕をハメただろ?!」
「くく、しつこいのう。ネチっこいのは夜の営みだけにして欲しいものじゃ。それとアスティア姫。首輪ではなくチョーカーと呼ばんか」
「……まぁ、私は気にはしませんが。勇者様にも確かに猛って寵を頂くようになりましたし」
「勇者様! 二本目、お相手よろしいか!」

 三人の取り留めのない会話にしびれを切らしたのか、はたまた数度勇者を打ち据えただけでは気が済まなかったのか。
 エーリャ王女は怒気を含んだ声を上げ、試合の再開を促してきた。
 雷蔵は心なしか目を更につり上げる彼女に、慌ててもう少しだけ待ってくれと声を掛け、魔女にもっと近寄れと指を曲げる。

「何とかしてくれよ! 痛いのはイヤだ!」
「ひひ、ここは男の見せ所であろ? 姫君の為にボロボロになりながらも立ち上がる勇者……なんとも、女心に響く姿ではないか」
「僕をボロボロにしているのがその姫君じゃねぇか!」
「ふむ。つまり、勇者殿はあの王女の鼻っ柱をへし折ってまずそのプライドから屈服させたいと? くく、嫌いではない。中々儂と趣味があうのぅ」
「ちがう!」
「違うのか? しかし、結果は一緒じゃぞ?」
「いいから! 何とかできないのか?!」
「くく、何とか、のぅ。……勇者殿、王女の剣筋、しかと見たかの?」
「何だよ、急に。剣筋ってのはよくわからないけど、体中をしこたま打たれたからイヤでも見てたよ!」
「ならば大丈夫じゃ。勇者殿。次からは勝てようぞ?」
「はぁ?! そんなワケないだろ! さっっきだって一方的にボコボコにされたのに、なんで勝てるんだよ!」
「くく、まぁそう怒らずに。次はただ相手の動きをよく見て、 "突き" を狙ってみるとよいぞ? ひっひ、おなごに突きを繰り出すのは得意であろ?」

 魔女はニヤニヤしながらそう言って、近づけていた顔を離し立ち上がった。
 その甘い残り香が雷蔵の鼻を突いて、ヒソヒソと言い争いをしていた顔の距離が如何に近かったか、今更ながらに自覚する。
 それは名残惜しくもあるような距離であったが、打たれた顔や体の痛みが雷蔵を現実に引き戻した。

「勇者様!」

 二度目のエーリャ王女の急かす声には怒気の他、いらつきが混じる。
 雷蔵は急かされ慌てて立ち上がり、恨めしげにノルンを睨みつつも、最初そうしたように決闘場の中央でエーリャ王女と対峙した。
 手にした模擬剣は重く、同じ物を細い腕で軽々と操るエーリャ王女の顔を見て、雷蔵は更に暗澹とした気持ちとなってしまった。
 王女の貌は。
 唇は怒りに燃えたように赤く、整った眉は屈辱に寄せられ、青い瞳は闘志を宿し、切っ先には雷蔵でもわかる程殺気が乗せられている。

「では。二本目、行きますぞ、勇者様」

 審判は居ないため、開始の宣言はエーリャ王女が行った。
 同時に、剣気と言うべきかエーリャ王女から感じる威圧感が数倍にも膨らみ、未だこの状況に逃げ道を探す雷蔵は気圧され思わず距離を取る。
 が、そのような逃げ腰を見逃す程、王女は愚鈍ではない。
 普段の彼女であれば、圧倒的な彼我の実力差がある試合では見逃していたであろうが、怒りがそれを許さなかった。
 そう、彼女はこの時、外見からは想像も付かない程怒り狂っていたのだ。
 その怒りとは。
 律儀にも懐にしまっている、首輪が火種となり。
 一瞬で一軍を灰燼に帰する程の力を持ちながら、 "ワザと負けた" 勇者の侮辱で発火し。
 数度打ち据えられた体を、妾に手当てさせ、試合の合間に長ったらしくイチャついて見せる姿に燃え広がり。
 今も情けなく逃げるように距離を置く姿勢を目の当たりにして烈火に油を注がれ、エーリャ王女の怒りは爆炎のごとく爆ぜていた。
 なんだその構えは!
 なんだその態度は!
 なんだその弱気は!
 なんだあの首輪は!
 なんだあの女達は!
 これが! こんなものが兄が、『銀騎士』が忠誠を誓う男か!
 これが私の操を捧げるべき男の姿か!!
 私はこんな男の子を身籠もらねばならぬのか?!
 雷蔵との距離を詰めながら、エーリャ王女は怒りに頭を白濁させる。
 裏腹に、体は一分の無駄もなく手にした模擬剣を奔らせて、憎悪すら感じるその顔へ叩き付けるように払った。
 剣技においては兄に匹敵すると言わしめ、半ば達人の域に達しようとしていたエーリャ王女の剣は疾風となり雷蔵に襲いかかる。
 が、偶然かそれとも激しい感情が剣先に影響を与えたのか。
 必殺とも言えたエーリャ王女の剣は空を斬る。
 未熟!
 エーリャ王女は舌打ちをして、激情に剣先を狂わせた己に苛立ち、二の剣を振るう僅かな間に白濁とした思考を冷やした。
 高い軌道を奔っていた彼女の剣は、未だ体勢を崩す雷蔵の体に今度は袈裟に斬りつけるべく、剣先に殺気を乗せる。
 が。
 再び剣は虚しく空を斬り、感じるべき手応えを伝えることはない。
 今度は思考は挟まず、そのまま三の剣として王女は突きを繰り出す。
 ――当たらない。
 なぜ――
 一瞬無にしていた思考を再開したが、突如途切れてしまう結果となった。
 エーリャ王女の視界がいきなり回転したからだ。
 その異変に王女が気がついた時には、勝負は呆気なく付いていた。
 三の剣として突きを繰り出すと同時に、何時攻撃に転じていたのか、雷蔵の剣先が己の肩へと伸びてきていたのである。
 雷蔵の攻撃はカウンターとなり、王女は肩に衝撃を感じ自身の剣戟の勢いのまま、くるりと体を回して気がつくと地に倒れていたのだった。
 え?
 一体、何があった?
 数瞬前までは憎悪を向けていた男の姿を映していた瞳に、青い冬の空が映し出されている。
 遅れて肩に激痛が走り、エーリャ王女がうめき声を思わずあげると同時に、視界に広がる青空を遮るように勇者の顔が映し込まれた。

「大丈、夫?」

 恐る恐る声を掛けてくるその顔は、先程の殴打によって赤黒く腫れ始めて、困惑と心配を覗かせている。
 まさか!
 私は負けたのか?!
 何時?!
 肩が――あの突きに合わせられた?!
 バカな! あんな構えと体勢から?!
 予想だにしなかった結果がエーリャ王女に与えたものは、混乱する思考だった。

「あの……?」
「あ……、ああ。いや、大丈夫、です。勇者様、一本取り返されましたね。流石でございます」

 王女は様々な疑問が飛び交う思考を悟られぬよう、意図的に表情を取り繕いながら立ち上がり心配そうにする勇者に笑顔を作って見せた。
 それから、私は大丈夫ですので三本目、お願いしますと口にして、三度決闘場の中央へ移動を始める。
 混乱はその間も続き、開始の宣言を行うのも忘れ、なぜか困惑の表情をうかべて対峙する雷蔵としばし無言で向き合う結果となった。
 敗北を喫する事自体は勇者の力を話の上ではあるが知っている彼女にとっては、予測の範疇であった。
 したがって、彼女が混乱する理由は勇者の力に驚いたわけではなく。
 あの、基本もなっていないような構えに、あんな及び腰で、あのような身のこなしで。
 なぜ自分の攻撃が三度も回避され、しかもカウンターまで取られた事実が理解の外であったからだ。
 いくら "遊ばれている" としても、あのような動きはありえない。
 如何なる達人であっても手を抜こうがわざと負けようが、それなりの動きは見せるはずであるし、こちらも "わかる" 。
 だがあの勇者の動きはどうだ。
 まるで、女子供の素人剣術のような動きの中、どうしてあんな風に……

「あの、エーリャ……王女?」
「――あ。申し訳ございませぬ。先の勇者様の一撃、殊の外お見事でありました故、惚けておりました」
「肩、痛むならもう辞めた方がいいんじゃ」
「心配無用! では三本目、行きますぞ、勇者様!」

 時間が経ち、顔を益々腫らしながらも他人の心配をする雷蔵に、エーリャ王女は苛立ちを感じて再び剣の先に心を乗せた。
 口にした開始の合図は、先程と同じように勇者を後退させる。
 ――が、やはり。
 王女が見て取るその佇まいに現れる実力は、素人以下だ。
 未だ胸に残る怒りと失望の炎にその身を焦がしつつも、この時エーリャ王女が思い起こしたのは、敬愛する兄の言葉であった。
 曰く。
 その体は恐ろしい力を内に秘めているとは微塵も外へ感じさせず。
 その瞳には欲も野心も輝きを放つような英知は宿らず、怯えや困惑ばかりが目立ち。
 その雰囲気は覇気を纏うでもなく、柔らかく優しげで。
 彼が何者かと知らなかったならば、視界に留めておくことすら困難な小人に見えるだろうと。
 兄『銀騎士』は勇者をそう評した。
 まさに、これか。
 王女はこの時始めて目の前の勇者の姿に納得を覚えながらも、前に出た。

 結果、二度目の敗北を味わい、彼女は勇者を知ることとなったのだった。




















12 決別と決意

 魔女は雷蔵に埋め込んだCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)の事を "兵器" と言った。

 時空の壁を自在に越え、『時の魔女』と自らうそぶく彼女をしてそう言わしめるそれは。
 元々は他の用途に使うモノであるらしかったが、雷蔵にしてみれば強力無比な兵器そのものでしかなかった。
 兵器は "傾国" と名付けられた日本刀を鞘から抜き放った後一分間だけ、その全機能が解放され。
 その力は万軍を一瞬で壊滅させる力を持つ。
 ただし、 "傾国" を鞘から抜き放つには制限があり、その制限とはおよそ、兵器の鍵の役目を果たすにはふざけすぎたものであった。
 つまり、一分間CFMMの全機能を発動させるには、女を一人抱く必要があり。
 次の一分には一度鞘に刀を納めてからもう一度引き抜かねばならず、その日に女を抱いた回数しか引き抜けない、といったものだ。
 魔女の説明では、雷蔵は元々CFMMとの相性が良くなく、そういった制限を付けておかねば直ぐに "呑み込まれてしまう" らしい。
 そこに "女を抱く" という行為の必然性があるのか甚だ疑問に思う雷蔵であったが、唯一CFMMの事を知る本人がそう言うのだから信じるほかは無い。
 又、CFMMは普段から全機能を凍結しているわけでなく、雷蔵の体を常に良いコンディションに保つ程度には働いているとも魔女は言った。
 その為か雷蔵は、性交によって失われた体力た体液、更には怪我や病気の回復が常人よりも遙かに早い。
 他にも微少機械群のネットワークを利用した量子計算による知識のプールおよび利用といった物や、物質の分解・再構成といった物もあるらしいが、どうやるのか見当も付かない雷蔵には無縁であった。
 しかしそんなCFMMにもデメリットはあって、体調管理機能のために食事を多量に摂る必要がある事と、兵器故か力の発現時には幾つかの感情が制御されるらしい。
 その辺りの説明を魔女は行わなかったが、少なくとも "傾国" を抜いた時の雷蔵には殺戮への禁忌は消え失せて、そうでないときも脳内物質を "だれか" の意図的にか、はたまた自動的にかコントロールされている節を雷蔵は感じとっていた。
 ともかく。
 雷蔵が勇者で在り続ける為には、ひたすらに女を抱き、 "傾国" を抜く必要があるのだが……

「つまりの? わざと体にダメージを受け、活性化したCFMMの機能を量子計算に振り分ける事によって "近未来選択" が可能となるんじゃよ」

 雷蔵が決闘場でエーリャ王女に勝利してより、二日後。
 ラムル宮殿の主の私室にて、魔女はそうCFMMの説明を付け加えていた。
 説明を受けている勇者は、一人ベッドに寝たまま不機嫌な表情を浮かべている。
 その顔は数日前に行われたエーリャ王女との剣術試合によってひどく腫れ上がっていた筈だったが、今ではすっかり元通りとなっていた。

「もっと早く教えてくれよ。一本目にブン殴られたの、すっげえ痛かったんだぞ?」
「くく、同じじゃよ。お主では一度CFMMの活動を無理繰りに活性化させねば、機能の一部すら使えぬでな」
「……他に方法があったはずだと思う。 "傾国" をちょっとだけ抜くとか」
「あほう。力のコントロールもままならぬお主がそんな事をすれば、 "傾国" を振らずとも一瞬でエーリャ王女は挽肉になっとるわ」
「……ちょっとだけ、ナイフかなにかで手のひらに傷をつけるとか」
「流石にそれだけではお主が利用出来る程活性化せんじゃろ」
「……絶対、なんか方法があったと思う」
「小さいことを気にするな。それともなにか? あの場で二、三発 "抜いた" 方が良かったか?」

 おお、むしろソッチの方がよかったのう、と魔女は付け加えながらくつくつと笑う。
 雷蔵はベッドに寝て上体だけ起こしたまま、そんな彼女にじとりと疑いの眼差しを送り続けていた。
 ノルンはひとしきり笑った後、無言の抗議を視線に乗せて送ってくる雷蔵を見て、しかし、と口にしてニタリと笑みを表情に貼り付ける。
 その悪魔的な微笑みは相も変わらず凄艶に見え、劣情をかき立てられて、丸二日女に触れていない勇者に彼女との性交の記憶を呼び起こさせた。

「しかし、じゃ。お主、本当に情けないといったらないのぅ。二日も寝込んで輿入れたばかりの美姫を放っておくとは」
「うるせぇ。もっと良い方法が無かったから、ブン殴られて体中に青タンこさえて、熱が出たんだよちくしょう」
「くく、たわけ。CFMMを持つ者が病気や怪我で寝込むか。たとえ毒を1ガロン飲んでも死にはしない優れものなんじゃぞ?」
「じゃあ、なんであの後いきなりぶっ倒れる程の熱が出るんだよ!」
「そりゃあ、あれじゃ。 "傾国" の支援無しでCFMMをつこうたからじゃ。アレがないと、CFMMの活動にはお主の体に負担が行くからの」
「……くそ。貧弱でわるかったな!」
「そうイジけるでない。男のくせにみっともない。最初に言うたろ? お主はCFMMとは相性が良くないんじゃ。 "傾国" 無しで意図的に機能を使わば、しわ寄せが来るのは当然であろ」

 魔女はそう言って、ニィと口の端をつり上げて白い歯を見せた。
 それから徐にベッドに腰掛け、雷蔵の首筋に細くしなやかな指を走らせる。
 女の仕草は男の獣欲をかき立てるように艶めかしく、首筋から僅かに伝わる刺激は背を伝って勇者の全身へと広がった。
 刺激はたやすく雷蔵の股間を熱く怒張させて、更には鼻にあの甘く痺れるような匂いが届き勇者の理性を瞬時に剥ぎ取る。
 雷蔵はこの時、自分でも驚く程凶暴な昂ぶりを覚えて、飽きぬその身体を味わうために魔女の腕を取ろうとした。
 が、予想外にも彼女の細い腕はするりと離れて、雷蔵の手は虚しく空を掴む。

「ふむ。どうやらCFMMは正常に戻っておるようだの。どうじゃ? もう熱は引いとると思うが」
「ノルン……お前、わかっててやってんだろ?」
「ひひ、このくらい、女の嗜みという奴じゃ。殿方を焦らして理性を奪うのは、初歩の初歩、じゃよ」
「……こっちに来い」
「アホか。儂より先に相手をすべき者がおろう?」

 ベッドから降りながら魔女はいつもの笑みを浮かべ、見下したような目で雷蔵を見下ろす。
 その瞳は冷たく光ってはいたが、なぜか更に雷蔵をたぎらせて、痛い程に下腹部を硬くしてゆく。
 そんな雷蔵の状態を知ってか知らずか、ノルンは室外に控えている侍女を呼びつけ、エーリャ王女を呼ぶよう指示を出した。

「ひひ、その劣情は王女にぶつけるがよい。元々はその為にお主はここにいるのであろう?」
「まあ、な。でも、エーリャ王女がすんなりとその……相手してくれるかな?」
「心配すな。お主は寝込んでおったから知らぬだろうが、中々に甲斐甲斐しくなっておったぞ?」
「そ、そう? あの子が?」
「うむ。では "時放つ世界のかけら" の回収を頼んだぞ? ひひ、そうそう。その後はちゃんとアスティア姫も相手をしてやるようにの」

 魔女はそう言い残して、雷蔵の私室を後にした。
 残された雷蔵は、己の芯に残った燃えるような性欲を持てあまして、なんとか甘いその苦しみから逃れようと考え事を探し始める。
 そしてふと、脳裏にある疑問が浮かんだのだった。
 あの妖艶な魔女が集める "時放つ世界のかけら" とは一体なんだろうか、と。

――とある事情での、この閉じた世界を解き放つ必要があってな

 思い起こされる魔女の言葉は雷蔵の疑問を更にかき混ぜる。
 『閉じた世界』を解き放つ?
 その為に "時放つ世界のかけら" が必要……なのだろう。
 でも。
  "解き放つ" とはどういう事だ?
 一体、『閉じた世界』を解き放つとどうなるんだ?
 疑問はこの時、さして価値を得なかったがしかし。
 雷蔵の中にそれは残り続けて、いつまでも引っかかり続けていく。
 果たしてそれは魔女の言う、 "流れに身を任せるかぎりはすべて思い通りに行く" 行為であるのか、無いのか。
 疑問を持つこと自体どうであるか特に気に留めなかった勇者であったが、後日彼はその答えを知る事となるのだ。
 探し出した考え事は功を奏して勇者に時間を忘れさせ、魔女が立ち去ってからどれ程の時間が経ったのか。
 雷蔵の私室の扉が遠慮がちにノックされ、エーリャ王女が姿を現した。



「勇者様。その後、お具合は如何でしょうか?」

 雷蔵と向かい合うようにソファに腰掛け、少しうつむいて遠慮がちにエーリャ王女はそう尋ねてきた。
 決闘場での姿とは打って変わり、冬にもかかわらず白いビスチェドレスに身を包んだ彼女からは、あの強い威圧感は消え失せている。
 美しく整った顔からも険は消えて、それどころか憂いが見え隠れする表情は雷蔵の胸を高鳴らせた。
 つい先程まで湯浴みをしていたのか、真冬にもかかわらず肩と背を大きくあけたドレスを着て、その首筋はうっすらと桜色に染まっている。
 それは、これから雷蔵と何をするのかを意識しての姿なのか。
 エーリャ王女はどこか落ち着かない様子で雷蔵の返事を待った。

「うん、もう大丈夫、だと思う」
「そう、ですか。それは良かった。しかし驚きました。ああも虚を突く攻撃をされるとは。一本目、わざと負けるなんて……勇者様もお人が悪い」
「はは……ゴメン。でも、一本目はエーリャ王女の剣筋を見ようとしてあっさりボコボコにされちゃたし。本物の剣を使ってたら、僕の負けだったよ」

 嘘である。
 雷蔵はただ、魔女の言葉通りに動いて勝利を手にしたに過ぎない。
 一本目にワザと攻撃を受けCFMMの活動を活性化させ、本来回復に向かうべき機能を量子計算による "近未来選択" へと切り替えたのだ。
 次も意図的にその機能を使うことが出来るのか雷蔵には解らなかったが、少なくとも何が起きたか今では理解していた。
 エーリャ王女が斬り込んできたあの瞬間。
 雷蔵の思考の内に突如、いくつもの "結果が見えた" 。
 つまり、エーリャ王女に打ち据えられ悶える自身や、一撃目を躱し二撃目で打ち据えられ気絶する自身の姿などを見たのだ。
 雷蔵は突然の "視点" に困惑しながらも、その中から一つ王女に勝つ己の姿を見いだして、その未来を選択する。
 結果、 "予定通り" に身体を動かし、エーリャ王女の必殺の気合いが込められた斬撃を躱して突きを合わせる事ができたのだった。
 無論それは雷蔵の実力などではなかったが、エーリャ王女の目には勇者の実力は計り知れない物として映る結果となる。
 王女はあまり誇れた物ではない種明かしを知る雷蔵の態度に、痛く感銘を覚えたらしく今度は青い瞳を輝かせて雷蔵の言葉を否定した。
 が、それも一時の事で不意に王女は黙り込んでしまい、部屋にはどこか気まずい沈黙が横たわる。

「えと……肩、大丈夫?」
「え? あ、はい。少し痛みましたが、魔女殿に用意して頂いた膏薬を塗ったところ、たちどころに」
「ああ、それはよかった。でも、気を付けた方がいいよ? あいつ、ロクな事しないし。膏薬に妙なもん混ぜられてるかもしれない」
「ほ、本当ですか?!」
「い、いや。その、まあ、なんだ。多分、大丈夫とは思うけれど。ノルンはそういうとこあるって話」

 沈黙に耐えかねて話題を提供した雷蔵であったが、予想外にエーリャ王女が過剰反応してかみ合わず、室内は再び静寂に支配された。
 ……どこか、きまずい。
 いまから "そういう事" に及んでも……いいんだよな?
 よく考えたら、そのための雰囲気作りや誘い文句とか、知らないや。
 アスティアの時はいきなりだったし、女官達の時は命令というか、「どう?」で通じたし、ノルンの時は……ま、アレはな。
 こういうときは、とりあえず何か共通の話題からなんだろうけど……
 TVとか昔の映画の話題とかは当然無理だし。
 ここでの共通の話題といえば……銀騎士? ――絶対、いやだ。
 雷蔵は己の話題の引き出しの浅さに苦悩して、ボリボリと頭をかきむしる。
 エーリャ王女も同様に続かない会話をなんとかしようと思っているのか、思い詰めたようにうつむいて何事か考え込んでいた。

「あの、勇者様」

 先に沈黙を破ったのは王女の方。
 意を決したかのように顔を上げ、瞳に意志を宿らせてじっと雷蔵を見詰める。
 彼女は徐に、あの金の装飾を施された首輪と短剣を取り出して、ソファテーブルに置きながら立ち上がり、雷蔵の隣へと歩を進めた。
 ソファは広く一脚で数人は腰掛けられるような物であったが、エーリャ王女は雷蔵と肩が触れ合う程直ぐ隣に腰掛ける。
 雷蔵はいよいよかと期待しつつも、ソファテーブルの上に置かれた品の意味を理解出来ず、直ぐ隣にやって来た果実を押し倒しもせず、ただ成り行きを見守ってしまう。
 間近で見る彼女はやはり湯浴みをしてきたのだろう、覚えのある花の香りがエーリャ王女の長い髪から漂い、直ぐ近くに見える彼女の鎖骨が雷蔵に強く女を感じさせた。
 王女はやがて、雷蔵の顔をじっと見詰めながらテーブルの上に置いた首輪を手に取り、頬を染め絞り出すように言葉を発した。

「勇者様。お願いがございます」
「なん、何?」
「これを私に着けてください」
「え?」
「魔女殿に聞きました。ここでは、勇者殿の寵を受けた者がこれを身に着ける習わしであると」
「あ、え、うん。そうだけどそれ、ノルンが勝手に……どっちかと言えば女官達用に考えた物って言うか、僕は指輪でいいと思うというか……」
「……ダメ、でしょうか?」
「いや! いやいやいや! ……でも、さ。嫌ならいいんだよ? 王家の人は。それにエーリャ王女、最初怒ってたみたいだし?」
「……はい。しかし、今は違います」
「どうして?」
「決闘場で直に触れた勇者様の剣。あれがどうしても忘れられず……あれは、正に私が求める達人の域であると、思い至ったのです」
「えと、それと首輪にどんな関係が……」
「ああ! 申し訳ございません。その、勇者様が伏せっておられる間、ずっと考えて居たのです」

 エーリャ王女はそう言うや、視線に熱を灯してその想いを口にした。
 彼女の小さな口から漏れ出すのは、雷蔵への讃辞と畏敬。
 その言葉の全てに慕情が込められ、苦く雷蔵の喉の奥に刺さってゆく。

「――と、いうわけで私はあのような剣を会得した勇者様に感服し、この身も心も……己の剣をも捧げようと考えたのです」
「そ、そう、なんだ?」

 雷蔵は徐々に声と身体に熱を帯びてくるエーリャ王女に後ろめたさを感じて、思わず彼女から視線を逸らしてしまった。
 決闘場のアレは、雷蔵にしてみれば只のインチキであったからだ。
 先程ついた嘘も、只単に力の秘密を知られたくは無かったが為。
 本来の自分は、あの悪魔のような女に頼り放しの、只の好色な未成年に過ぎない。
 そんな自分が、なぜこんな綺麗な女の子の好意を寄せられる資格があろう。
 虎の威を借りる鈍感さも、真実を話す勇気も持てない勇者はこの時、いつか銀騎士に対して抱いたような暗い感情が再び芽生えつつあった。
 同時に。
 一つ、新たに渇望が勇者の内に産声を上げる。
 それはひらめきを伴って、行き場の無い惨めな心に喰らいつき、雷蔵に天啓を与えた。
 そうだ。
 あるじゃないか。
 僕にしか、持ち得ないモノが。
 こんな惨めで矮小な自分にしか、出来ない事が。

「勇者様?」

 エーリャ王女はそんな雷蔵の様子に首をかしげ、不興を買ったかと少し心配そうな表情を浮かべた。
 雷蔵は慌てていつの間にか内へと向かっていた思考を切り替えて、なんでもない、と言って笑う。
 その胸には、久しぶりに希望のような暖かさの種火が灯り、僅かな自信を生み出す。
 自信はほんの僅かな物であったが、雷蔵にはそれで十分であった。
 そんな勇者の少し明るくなった様子にエーリャ王女は安堵を覚えて、雷蔵の手を取り、手にしていた首輪を持たせてもう一度促した。

「お願いでございます。どうか、これを」

 声は甘く雷蔵の胸の種火にまとわりつく。
 勇者は無言で頷き、エーリャ王女の細く白い首に金の拘束具を取り付けた。
 首輪は金の装飾が鈍く光り、王女の白い首筋に映えて倒錯的な感覚を呼び起こす。
 更にその行為は "これは己の所有物だ" という実感を与えて、勇者は先頃感じていた淫靡な獣欲を再び猛らせた。
 偶然か必然か、ふとしたキッカケで抱える問題の解決の糸口を掴んだ雷蔵は、己の使命と欲望を思い出し、節操なくも気を逸らせる。
 しかし予想外にも、エーリャ王女の懇願はそこで終わらず、男を焦らす結果となった。
 王女はするりと押し倒そうとする雷蔵の腕を抜けながら、今度はテーブルの上に置いたナイフを手にとり、勇者に手渡す。

「もう一つ、勇者様。どうかこれで私の髪を短く斬ってくださいまし」
「……へ? どうして?!」
「私の意志の表れでございます。身体を捧げ、剣を捧げ、心を捧げた証として。その主が女奴隷にするように、髪を斬って欲しいのです」

 雷蔵には知る由はなかったが、グラズヘイムでは男が女の髪を短剣で切り落とすという行為は、主に性奴隷に対して行われる風習であった。
 エーリャ王女はあえてそれを懇願し、勇者に己の矜持も名誉も、王女という肩書きすら全て捧げる覚悟を示したのである。
 そんな王女の覚悟の重さにも気がつかず、請われる願いに雷蔵は少しだけ戸惑い。
 結局は理性を保つにはいささか苦しいたぎる肉欲には勝てず、雷蔵は意を決してエーリャの長く美しい髪に短剣をあてがった。
 程なく白く細い体躯を組み伏せ、一つとなった時にふと目に入ったその髪の束は。
 まるで雷蔵の決意の証のようで。
 
 腕の中でどん欲に身体を貪られ、苦悶が混じる甘い声で鳴くエーリャの温もりは、勇者の種火を激しく燃え上がらせた。




















13 門出

 厳しい北の冬がほんの少し和らいでくる季節。

 雷蔵がグラズヘイムで勇者となって七ヶ月が過ぎたある朝。
 勇者はラムル宮殿から遠く離れヴォルニア王国の西の果て、城砦都市クイシャンテへと足を運んでいた。
 『北の最強』と謳われる広大な王国の領土を、東の端から西の端へと移動した為約一月程の行程である。
 城砦都市クイシャンテはヴォルニア王国と長年争ってきた西方の列強諸国の一つ、ダリス聖教国に面した国境の町で、領土を隔てる大河の中州にその城は建てられていた。
 街自体はヴォルニア王国側の川岸に広がり、中州の城とは一本の巨大な石橋が数百メートルもの長さで掛けられて、中々に勇壮な城だ。
 大河には度々ダリス聖教国の大軍勢がその船を浮かべ侵攻してきたが、城の守りは堅く、対岸の街も河岸広域に展開された大砲と城壁によって長年難攻不落を誇っている場所でもあった。
 地形の関係から西方からヴォルニア王国へ侵攻できるルートは二通りしかなく、城砦都市クイシャンテを墜とす意外には北側の大雪原を通過するという選択肢しかない。
 その為、長い戦乱の歴史の中で幾度も戦火に見舞われてきた街ではあったが、只一度の落城も経験していないせいか、街は比較的安定した様相を見せていた。
 雷蔵はそんな城砦都市で最も攻撃に晒されて来た、中州のクイシャンテ城へ続く石橋を進みながら高揚と開放感、そして不安を胸に馬を進める。
 元々馬が乗れなかった勇者であったが、長旅を機にエーリャやアスティアに乗り方を教わり、中々様になった乗りこなしである。
 先頭を行く雷蔵の馬の後方には二騎、旅用に設えた厚手のマントを羽織ったエーリャとアスティアが駆る馬の姿。
 彼女達の更に後方には十数騎からなる、ラムル宮殿騎士団の精鋭が乗った馬が整然と隊列を組んで、三人の後をゆっくりと進む。
 しかし。
 そこに、魔女の姿はなかった。



 きっかけは約一月前、エーリャとの初夜の後。
 たっぷりと少し青い果実を味わった雷蔵は、果てのない行為に気を遣り、そのまま泥のように寝てしまった美姫を置いてノルンの部屋にやって来ていた。
 その手には血のように赤い宝石と "傾国" が握られ、いつものように煌々と光る部屋の隅で丸くなる魔女はめざとく宝石を見つけニタリと笑う。
 雷蔵はそんな彼女の表情など気にも留めずに、コタツに足を差し込みながら卓台に手にした宝石を置いた。
 宝石の名は "時放つ世界のかけら" という。
 どのような関わりがあるのか不明であるが、『閉じた世界』グラズヘイムと何かしら重大な関わりがあるらしい。
 魔女はその宝石を手に取り、徐に口に含んでそのまま呑み込んだ。
 元々はエーリャの体内にあった物であるから、本当に "宝石" だとは思って居ない雷蔵であったが、魔女のその行為には少し面食らってしまい思わずおい、大丈夫か? と声を掛けて目を丸くした。

「おぅ? ああ、そうか。お主はコレを見るのは初めてじゃったな」
「……幾ら大事なもんだとしても、腹壊すぞ?」
「大丈夫じゃ。コレは宝石の形をした……そうじゃのう、鍵みたいなものじゃからの」
「鍵?」
「うむ。ま、お主には関係ないことじゃて。とりあえず、きちんと仕事をしてくれて儂はうれしいぞ」

 くつくつと魔女は満足げに、再びコタツの卓に突っ伏して笑う。
 雷蔵はそんな彼女を眺めながらも、ふと胸に宿ったある想いを口にすべく自分自身を表情に現した。
 思えば、状況に流される事が多かった勇者の黒瞳に、これ程の意志が宿った事があったろうか。
 魔女はニタつきながらもその意志を読み取って、コタツの卓から顔をあげ何じゃ? と興味深げに整った口の端をつり上げる。
 果たして、それは。

「ノルン。折り入って頼みがあるんだ」
「ほう、頼み、か。元の世界に帰りたくなったかの?」
「……いや」
「美女を宛がわれ、力を与えられ、宮殿まで用意したというにまだ何を欲する? くく、強欲じゃの」
「……なあ、 "俺" はお前に協力する。お前は俺に力と女と、富と名誉を与えてくれるって約束だったよな?」
「む? 今更ながらそうじゃ。何やら昂ぶっているようじゃが、何か気にいらん事でもあるのかえ?」
「 "これ" は自分の意志でそう言ってるだけだよ。なあ、ノルン。約束以外の事を頼んじゃだめか?」
「ふむ、内容によるの。お主の目の前で自慰をせよ言われれば問題は無いが、今すぐこの世界を滅ぼせと言われれば断るしのぅ」
「茶化すなよ。俺、やっとわかったんだ」
「何をじゃ?」
「自分が、この世界でどんな在り方をしたいのかって事」
「ほう?」
「俺、自分がが思うような『勇者』になりたい」
「……は?」

 赤く薄い唇から思わず漏れた言葉は、彼女には珍しい疑問符であった。
 魔女からは張り付いていた妖艶な笑いは消え失せ、艶めかしく動かす舌が見える程口をあけて呆気にとられている。
 雷蔵はかまわず、先程エーリャを抱く前に得た天啓のような考えを懺悔するかのように真摯に語り始めた。

「考えたんだ。この世界には勇者は俺だけだろ? ……まあ、この世界の勇者ってのは相当なもんだけどさ。俺、自分が思うような勇者になりたいんだ」
「意味がわからんが……早い話、地球でのお伽話に出てくるような、アレになりたいと言っておるのか?」
「うん」

 雷蔵は問いに彼には珍しく、キッパリと返事をして首を縦に振る。
 ノルンはその様子に内心は驚き、しかしその意外な行動に心を踊らせた。
 なんとなんと。何を言い出すかと思えば。
 肉欲を満たしておけば良いだけの、操り人形ではイヤだというわけか。
 それも、『勇者』になりたい、だと?
 くく、敵を幾千も殺し、女を囲い、己の手を汚さず才ある者に支配者としての責務を丸投げする者が、今更『勇者』か!
 これだけ汚れておきながら、自身でも気がつかぬ程汚れていながら、今更品性正しく正義を愛する勇者になりたいと?!
 思考は魔女の顔に再び悪魔のような笑みを浮かべさせた。
 雷蔵の身勝手な、未熟な、見ようによっては醜いその考えは、人の醜さを愛する魔女をいたく悦ばせていたのである。
 が、悪魔は。
 その申し出には直ぐには飛びつかず、まるでその意志を更に強固に踏み固めようとするかのように、否定してみせる。
 美しいその顔に、笑みを浮かべたまま。

「……そうは言ってものう。ハッキリというが、お主はその器ではないぞ?」
「それはわかってる。だからさ、最初は真似事でもいいんだ」
「なんとも、随分な欺瞞じゃの」
「うるせ。それでも、俺の出来る範囲でいいからそうなりたいんだ」
「そんなもの、ここで女を抱いて偶に戦場に出て敵を蹴散らせばよかろうが」
「それだけじゃ、イヤなんだよ。何か自分で得た物が欲しいんだって」
「……面倒くさい奴じゃのう。早い話が、今の生活に飽きたと言うワケかの?」
「そう言うんじゃないけど……とにかくだ。その為にもお前に頼みがあるんだよ」
「ふむ。ここからが本題というわけか」
「ああ。あのな? 俺にCFMMの使い方を教えて欲しいんだ」
「……は?」

 それも又、時を見通す彼女にとっては予想外の言葉であった。
 てっきり、 "傾国" の制限を外すよう申し出て来ると踏んでいたからだ。
 魔女は益々闇色の心を弾ませて、雷蔵が何を言い出すのかと注意深く耳をかたむける。

「色々できるんだろ? これ」
「まぁの。が、前も言ったとおりお主は相性が悪い。使いこなすなど無理じゃ」
「全部じゃなくていい。この前やった "近未来選択" とかを出来るようになるだけでいいんだ」
「たわけ。アレはアレで高度な機能じゃぞ?」
「う……そうなのか?」
「当たり前じゃ。……そうさのう、お主にできそうな事と言えば、CFMMによる体調管理による肉体の強化と幾つかの "再現" くらいかの」
「再現?」
「うむ。CFMMはプログラム化した技術を再現させる事もできての。元々は兵士に埋め込み、訓練無しで戦地に送り出す為の機能なんじゃが……」
「おお! それ! そういうのでいいんだよ!」
「……それでも、使わばやはり体調を崩すがの」
「意味ねぇ……」
「だから何度も言うとろう? お主は適正が低い。 "傾国" 無しではなんも出来ぬ、ロクデナシにすぎんのじゃ」

 容赦無い言葉に雷蔵は、うぐと嗚咽を呑み込みながらしょんぼりとしてしまった。
 魔女はそんな、情けない勇者にため息を一つついて、首を振り、しかし内心ではひひと笑う。
 つまりは借り物の力を、与えられた力を使いこなして『勇者』と胸を張りたいと言うことか。
 なんとも矮小で、志の低い申し出であろうか。
 いきなり "傾国" の制限を外せと言わない辺り、すばらしく小賢しくも欺瞞に満ちた判断が伺えて。
 そこの所に気がつかない厚顔な申し出は、魔女を更に悦ばせる。
 果たして、『勇者』とは対極に位置する心根を持つ男の願いに『時の魔女』ノルンは。

「まったく。ほんに、難儀な奴じゃ。まあ、欲望を全て叶えてやるのは吝かでないしの。こんなつまらんことで臍を曲げられても敵わん」
「ノルン?」
「条件がある。ハレムは維持してもらうぞ?  "時放つ世界のかけら" は必要じゃし、お主が各国の姫君を都度口説いてその身体を貪れるとは思えんでな」
「あ、ああ! それはかまわない」
「傾国を貸せ。契約のやり直しをしてやろう」
「ほら。……ありがとうな」
「まったく……」

 吐いた愚痴は偽りである。
 本心では、その偽りの力を手に入れた『勇者』がどう苦しむのか、あるいはどれほど醜く堕ちるのか、興味が湧き出てほくそ笑んでいた。
 魔女は雷蔵から "傾国" を受け取り、一見不機嫌にブツブツと呟いて、直ぐに刀を雷蔵に差し出して返した。
 恐らくは契約とやらのやり直しをしているのであろうが、その呆気ない行為に雷蔵は少し困惑して差し出された刀を受け取る。
 次いで雷蔵の頬に手を当て、いきなりその唇を雷蔵の口に押し当て舌を差し込み、甘い唾液を流し込みながら蛇のように舌を絡ませた。
 雷蔵は魔女の突然の行動に驚きながらも、何か意味のある物であろうと判断し、為すがまま身体の芯を熱くしながらも絡める舌を動かす。
 やがて、ノルンは口を離し、舌の先から糸を引く唾液をペロリと舐めとってよし、とつぶやきいつもの笑みを浮かべた。

「よいか? 説明するぞ? まず "再現" じゃが、お主の体内のCFMMにとある剣豪の経験を書き加えた」
「おお! で、どうやって使うんだ?」
「そのまま刀を抜けば良い。あとはCFMMを通じて、剣豪の経験を "再現" できるはずじゃ。最初は "再現" できる時間は短いじゃろうが、慣れてくればいくらかは長くなろう」
「わかった。じゃ、いままでの奴は?」
「従来の勇者の力を発揮するときは『汝、力を示せ』と言葉を発してから刀を抜けば、今までのような力が発揮できるように変更しておいた。その場合、剣を抜く場合の条件は今までと変わらんからの?」
「そか。あ、 "再現" の方もなんか条件あるのか?
「当然じゃ。 "再現" の方は基本的に身体へ大きな負荷が掛かってくる事は変わらん。別にお主とCFMMの相性が良くなったわけではないからの。だから、 "後払い" としておいたから、気を付けろよ?」
「……どういうことだよ」
「ひひ、つまりじゃ? モノを斬った回数だけ、その日中に女を抱かねば、数日寝込むことになる」

 雷蔵は思わず、ブっと吹き出した。
 そんな勇者を見て、魔女はくくと楽しそうに笑い歯を剥いて見せる。

「なんでそんなルールにすんだよ!」
「なんでって、魔女との取引なんじゃからそれ位のペナルティには目を瞑らんか。ああ、そうそう。なるべく寝込む方を選ばぬよう、 "再現" 後は多少凶暴になるようCFMMをイジっておいたからな? 女であれば手当たり次第に襲うように感情制御が成されるが、気にするなよ」
「お前バカだろ?! 本当はすっげえバカなんだろ?!」
「くく、知らんのか? 智を得ながらバカとなるのは、至難の業であるのじゃぞ?」
「んなことあるか! そもそも、なんでそんな条件にすんだよ!」
「なんでって、言われてものう。CFMMを兵器目的で使うなら当然じゃろ? 戦場に出た兵士の感情は制御されねばならん。他人を斬るのにモラルなど邪魔でしかないでの。お主もそうじゃ。勇者としての力を欲するならば、そこを克服する必要がある。が、悠長に餓鬼の成長を見守るような儂でもないからの」
「だからってなあ!」
「何。常にエーリャ王女や女騎士どもを側に置いておけばよいではないか。女を襲うようにしたのも、CFMMの発動による精神汚染や操作の影響を逸らす目的もあるしのぅ」
「……他に方法は本当に無いのか?」
「さあ? 男を襲うようにした方がいいか?」
「……わかったよ、それでいいよ」
「ひひ、聞き分けの良い相手でよかったわい」
「この際だから聞いておくけど、CFMMの事で他に俺に隠していることはないか?」

 雷蔵に疑いの眼差しを向けられながらも、魔女は笑みを浮かべたまま、楽しそうに腕を組んで考える仕草をした。
 勇者に知らせては居ない秘密が山程あるのは事実だが、それを話して先の楽しみを潰したくはない。
 が、もう無い、と応えても目の前の少年は納得はしないだろう。
 ノルンはいくつか、今の雷蔵に話しても良さそうな事を思い浮かべて、話してやることにしたのだった。

「ふむ。そうじゃの。アスティア姫の前ではあまり言えぬが、まず子供は出来にくい。それと、 "傾国" を抜いて全機能の解放を行うと一時的に戦場では不要なモラルを消し去るんじゃが、その後遺症として機能の再凍結後も多少精神汚染が残る、くらいか」
「うげ! それ、すっげえやばそうじゃねぇか!」
「まあの。が、都度儂がこっそりと外からCFMMを操作して脳内物質を調整し、汚染の影響を抑えとるしそうでなくとも微々たるものじゃから心配すな」
「……なんかそれが一番ひっかかるんだけど?」
「ひひ、そうか? ま、 "僕" から "俺" に変わる程度じゃ。そう気にすることもないぞ。それよりも、どうじゃ? この程度の『勇者の力』でよいかの? 流石に近未来予測や物質の創造などを自在に操らせろというのは無理じゃが……」
「ああ、これでいいよ。あとは俺次第だし」
「主次第、とは言うが、具体的にその力で何をするつもりなんじゃ?」
「う……そこまでは考えてない……」
「なんともまあ、行き当たりばったりじゃのう」
「うるせ! けれど、CFMMを上手く操れるようになれば、自信に繋がるし、『勇者』らしい事もやりやすくなると思うんだ」
「この前は地球のモノを手配するとかなんとか言ってなかったか?」
「それもあるんだけど、やっぱり直接的に自分から関わりたいんだよ」
「ま、力だけでなく知恵も必要だとは思うが、無いよりかはマシか。儂としても自信を身に付け次々とおなごを食い散らかす位が望ましいし?」

 そう言って、魔女は嗤い続ける。
 勇者はその笑みの奥に潜む暗い光に気付くことはない。
 それは悦びの光であり、雷蔵の言い出した『勇者』とは、只の自己満足に過ぎないものであると看破して尚、本人の決心を祝う光であった。
 そして魔女は、『勇者』としてこの世界に在ろうと初めて自ら行動を起こした少年に、一つの贈り物をする。

「のう、『勇者』殿。一つ提案なんじゃがの」
「ん? なんだよ?」
「実はの、今丁度『銀騎士』がお主の力を借りたいと申し入れてきての」
「イグナートが? 苦戦してるのか?」
「いやいや。苦戦というか、戦場ではないんじゃ。平定した国内もそろそろ落ち着いて、西方諸国連合へ本格的な侵攻を開始すると報告を受けとったのじゃが、その折にの、勇者殿にはある都市にその身を置いて欲しいんじゃと」
「ん? それって……そこを守って欲しいってことか?」
「ほ! 今宵の勇者殿は冴えとるの。その通りじゃ。西方諸国への侵攻ルートは二つあっての。その内の一つの要衝を勇者殿に守って貰いたいと言うわけじゃ」
「そりゃ、かまわないけど……そんなの、前もちょくちょくあっただろ? それのどこが提案なんだ?」
「くく、何。此度のこの要請は勇者殿の独力で挑んでもらおうかと思うての?」
「へ?」

 今度は、先程ノルンが上げたような声を雷蔵が上げる番となった。
 雷蔵はその言葉に呆気にとられて、幾度か瞬きを繰り返す。

「何。驚くことはあるまい? 『勇者』として独力で何かを成し遂げてみたい、と言い出したのはお主であろう?」
「そう、だけどさ。俺、力はあっても、その、政治や交渉事なんて出来ないぞ?」
「何。その辺りはアスティア姫やエーリャ王女に補佐して貰えばよい。細かい実務は銀騎士が有能な部下を送り込んでこよう」
「……なあ、ノルン。お前、まさか俺が自分でやりたいだなんていいだしたものだから」
「ひひ、うぬぼれるな。逆にこのくらいで嫉妬などする感情が残っておるならば、それは喜ばしいことぞ。それよりもどうじゃ? 『銀騎士』が西方を攻め落とすまでの間、そこで儂抜きに、『勇者』としてやってみぬか? 無論、使命を忘れて貰ってはこまるが」

 勇者は即答をせず、思わぬ魔女の誘いにしばし考え込んだ。
 彼の思考によぎるのは、コレまでグラズヘイムで経験した出来事の数々である。
 その中で醜い嫉妬や惨めに感じた出来事がよぎり、やがて決心を再確認し意を決するに至る。
 魔女は雷蔵の門出を意味する頷きに、悪魔の笑みを浮かべて応じた。

 こうして勇者はその足で歩み始め、冒頭に戻るのであった。




















14 持病

「ほんと、すいませんでした」

 雷蔵はそう言ってかかとを揃えて跪き、両手を赤い絨毯の上に突いて見せて額を左右の手の間にこすりつけて見せた。
 いわゆる土下座、という奴である。
 グラズヘイムではそのような謝罪の仕方は存在しなかったが、エーリャ達にはその意味するところは正確に伝わったらしい。
 情けない勇者の姿を見て、慌てて足下にうずくまる雷蔵の頭上からやめてください! と王女の声がふりかかる。
 同時に、側に控えていた幾人かの鎧を身に着けていない、ラムル宮殿騎士の女性がそうですよ! と王女の言葉に同調し勇者の肩を引っ張った。
 が、雷蔵は頑なに抵抗し、頑として土下座を辞めようとしない。
 そんな様子をアスティアは、鎧を身に着けたラムル宮殿騎士達と共にじっと睨んでいる。
 アスティア姫の視線は氷のように冷たく、軽蔑しきったものであった。
 その視線の先では質素な服を着たエーリャ王女と私服の女騎士達が、必死で雷蔵の土下座を辞めさせようと共に勇者の腕を引っ張り上げている。

「……あなたたち。とりあえず、決してこの部屋に人を近づけないよう、取りはからいなさい」
「は! パム! テアン! 二人ずつ連れてこの部屋に誰も近づかないよう、廊下を封鎖しろ!」
「了解であります!」
「は!」
「まったく。まさか勇者様の "持病" がこれ程のものとは……」
「……私も驚きました。まさか、あのお優しい勇者様が……」
「アドラ。とりあえず今日から数日、エーリャ王女の代わりに隊を取り仕切りなさい。ドルチア伯への報告は任せますが、それとは別に後日私からも説明いたします」
「はっ!」

 ガシャ! と音を立ててアドラを呼ばれた女騎士はアスティアに敬礼し、周りにいた他の騎士達を率いて部屋を後にした。
 街での一件について、領主であるドルチア伯へ報告する為にだ。
 室内は勇者の私室に宛がわれて居るためか元々広かったが、先程まで居た騎士達が退出した為か殊更広く感じられる。
 そんな空間にアスティアは一息で己のため息を満たすがごとく、深く深く、息を吐いて肩を落とした。
 この時、彼女の胸に思い出されていたのは、ラムル宮殿を出立する折にエーリャと共に魔女から聞いた、勇者の持病についてである。

 ――よいか? 実は勇者殿は "傾国" を抜くと、性格が変わる程女を欲する "病" を煩っておる。普段は儂が押さえておったが、此度は任せましたぞ?

 何を任せられたのだろう?
 あの時はそう思ったけれど、その意味が今はっきりとわかりましたわ、魔女殿。
 思い浮かべるその姿は、憎々しげに笑いそうであろ? とアスティアに語りかけていた。
 その声は耳元で囁かれたかのようにはっきりと聞こえ、彼女の苛立ちを更に募らせてゆく。

「いや、その……俺自身もどうしてあんな事を……」
「もう良いのです、勇者様。この身はあの夜、あなた様に捧げられたモノであるのですから」
「そ、そうでございます! 我々ラムル宮殿騎士も髪の毛一本に至るまで、勇者様が好きにして良い存在なのですし!」
「ですから! そのような振る舞いはどうかご容赦を!」
「でも、さあ? エーリャも皆も、すっげえ嫌がってじゃないか。あれ、殆ど強」
「いいえ! あれは……その、勇者様の "持病" を和らげる為の……そう! 演出です!」
「そ、そうですよ、勇者様。あたし、勇者さまをお慰めできて嬉しかったです!」
「リュー、お前、ボロボロに泣いてたじゃんか……」
「そんな事はないですって! ですから、どうか!」

 視線の先、やいのやいのと騒ぐ一団をアスティアは睨み、もう一度ため息を吐き出した。
 ああやって己を恥じ、心からの謝罪をしようとするその心根は、恐らくは清く尊いものであろう。
 しかし。
 もうすこし、『勇者』としておおらかに構える事はできないだろうか。
 彼は、小事に拘りすぎる。
 今更ながら大軍を一瞬で屠る人間と同一人物とは思えない程だ。
 勇者の権威は、どこで何をしようと許される程強大なものなのに。
 なのに……
 そこまで考えてアスティアは、やはり流石に "それは無い" か、と思い直し、被害女性に手を突いて謝る勇者をもう少し眺めることにしたのだった。



 城砦都市クイシャンテに勇者がやって来て幾日が過ぎ、北の冬にも春の気配が僅かに感じられるようになった頃。
 『銀騎士』の率いる勇者軍の総大将の来訪に、領主であるドルチア伯は一行を丁重にもてなし、その宴は数週間もの間続いた。
 次いで、街の行政や軍の指揮系統について混乱せぬよう、勇者の滞在中はどれ程の裁可を求めるべきか等の実務の打ち合わせに数日かかり。
 果たして雷蔵が解放された頃には、実に一月が過ぎていたのだった。
 その間、今まではノルンに任せきりであった各有力者との面会や、閲兵、街の視察などをアスティアとエーリャの補佐を受けつつもなんとかこなしていた雷蔵であったが。
  "それら" は雷蔵が考える『勇者』の姿とはほど遠く、どちらかと言えば視察にやってきた有力な政治家のような趣であった。
 無論、雷蔵の役目は勇者として、大河の対岸で虎視眈々と都市を狙うダリス聖教国への牽制が主である。
 が、そこに居るだけで敵への牽制となる勇者は、文字通りそこにいるだけでよいものらしく、雷蔵にしか出来ない事は限られ必然、連日連夜の会合を強いられいた。
 そんな生活に辟易して、とうとうこっそりと城を抜け出し人気の無い中庭の隅で昼寝を決め込もうとした、ある日の事。

「ここにおわせられましたか、勇者様」

 背後からいきなりかけられたエーリャの声に、雷蔵は肩を跳ね上げて飛び起きた。
 見上げるその姿はラムル宮殿騎士が身に付ける軽鎧に剣を履いて、短く整えられた銀の髪が逆光に煌めいている。

「勇者様。もうすぐカルサ男爵を交えたドルチア伯との会食のお時間ですが?」
「……なあ、エーリャ。俺に忠誠を見せてくれないか?」
「忠誠を、ですか?」
「そう、忠誠だ。いま、ここで」

 雷蔵はウンザリとした表情を作り、暗に見逃せと言った。
 が、本人にしてみれば上手い具合に言い回したつもりだったのだが、エーリャには別の意味に受け取られたらしい。
 勇者に随行するラムル宮殿騎士団団長にいつのまにか就任した王女は、辺りを伺い表情に朱を差しながら徐に鎧と服を脱ぎ始めた。

「わ、そうじゃない、エーリャ!」
「え?! ちがうのですか?」
「ちがう! わ、わ、人が来る前に早くズボン履いて!」
「そ、そうでしたか。申し訳ございませぬ」
「ほら、鎧! 手伝ってやるから!」
「あり、ありがとうございます」

 すっかり雷蔵との情事に慣れて居たためか、元来盲目的な部分があったエーリャのその行動は素早く、迷いを抱くことは少ない。
 従って雷蔵が止める頃には、あっという間に鎧とズボンを脱ぎ去っていた彼女は、慌てるその声でやっと勘違いだと悟り、こちらも慌てて脱いだ服を着るのであった。

「すいません。てっきり、その、会食前に鬱憤を晴らしたいのかと……」
「鬱憤は晴らしたいってのはあってるけれど、いくら俺でも、な?」
「う……それはそうですが、勇者様。いつもお誘いを頂く時は、先程のそれとあまり変わらない調子ですので……」
「そ、そう? ゴメン。違う時は次からハッキリ言うよ」
「そうしていただけると助かります。――して、私はどのように忠誠をお見せすればよろしいのでしょうか?」

 そう言ってエーリャは気を取り直し、咳払いを一つしてからニコリと笑う。
 『銀騎士』の妹だけあってその姿は凛々しく、笑顔に思わず見とれかける雷蔵であったが、他の者に見つからぬ内にとある命令を口にする。
 それはつまり、会食を欠席して街へと遊びに行こう、という物であった。
 城へやって来た当初は律儀にも精力的に会食や会合へ顔を出していた雷蔵であったが、ここの所勇者としてはそのような会は出なくても良いのではないか、と思い始めていたのである。
 なぜならば、その内容は政治的な内容よりも、勇者を称え、名を覚えて貰えるよう近寄って来る者が設けた会合である事が殆どであったからだ。
 中には娘を是非側室、になどといった申し出る者も居たが、ラムル宮殿での女官や騎士達にすら及ばぬ容姿では勇者の食指が動く筈もなく、気まずい思いばかりを強いられて、雷蔵はすっかりそういった物が嫌いになっていた。
 そんな雷蔵の気持ちを理解出来るのか、エーリャは苦笑いを浮かべ今日だけですよ? と釘を刺し、近くで待機していた数名の部下に同行を命じてこの日勇者は初めてクイシャンテの街へ繰り出すこととなったのだった。
 雷蔵はこの時の事を思い返し、確認する。
 確かにこの時まではほのぼのとした雰囲気で、自身も今思えばなんと幸せな気分であったか、と。
 そう、思えば自分は浮かれていた。
 よくよく考えてみれば、街に繰り出し遊ぶことなどこの時が初めてであったのだ。
 いつもの倍、いや三倍は笑顔であったのだろう。
 記憶に残る随伴したエーリャや騎士達の顔は、自分のその様子にとても嬉しそうで。
 そう、この時までは現在のように、 "あの出来事" を思い返す度に思わずうわああ! と声を上げてしまうような、忌まわしい記憶が無くて。
 何故、自重しなかったのか。
 俺のバカ野郎!
 と、雷蔵はエーリャや同行した騎士達に土下座をしたその夜、珍しく一人で過ごすベッドの中。
 頭をかきむしり、声を枕の中に向けて幾度も発っしながらも深い後悔の念に陥っていた。
 不思議な物で、忘れたい事柄程頻繁に思い返されるらしく、ベッドの上で悶える雷蔵は幾度目かのフラッシュバックのような記憶を反芻する。
 それは、クイシャンテの街の市場の外れでの事。
 流石に勇者の顔などは知れ渡っては居ないらしく、誰しもが雷蔵の事などを無視して、あるいは美しいエーリャを連れて歩く雷蔵に向けられた羨望の眼差しを浴びながら、一通り市場を見て回った後だ。
 不意に、薄暗く人通りの少ない路地から、若い女の声が雷蔵の耳を突いた。
 その声は何かを不快に感じているのか、必死にやめてください、と繰り返して勇者の足を止めさせる。
 雷蔵は元々正義感の強い方ではなかったが、『勇者』としての在り方を決めた昨今、これを無視する理もある筈はない。
 気がつくとエーリャ達を置いて、考えるよりも早く足がそこへと向かっていた有様で、果たして路地の奥では複数の男に少女が取り囲まれていたのだった。
 男の数は5人。
 腰には護身用か、剣を帯びており皆一目でマトモな人格をしては居ない、とわかるような人相である。
 絵に描いたような、か弱い女性の危機を目の当たりにした雷蔵は、これぞ『勇者』の出番ではないかと昂ぶり、少し声を上ずらせて男達に問う。

――お前達はここで何をやっているんだ?

 雷蔵の問いに対して、男達は言葉ではなく剣を引き抜いて答えた。
 一瞬緊張が雷蔵を支配したが、身の危険は彼の体内にあるCFMMのスイッチとなったらしい。
 じわりと沸いてきそうであった恐怖や緊張は立ち所に薄れていき、かわりに高揚感と軽い興奮が雷蔵を危険へと駆り立てる。

――やめろ。お前達では、俺に勝てやしない。

 調子に乗っている、とはこういう事を言うのだろう。
 雷蔵はその時の自分の姿を想像し、ベッドの中で更に悶えた。
 なんだよ、そのキザったらしい言葉は。
 黙ってりゃいくらかマシだったのに。
 枕に埋めた口から、あうあうあうあわわわと羞恥による奇声が漏れる。
 が、無情にも過去の己へのツッコミを無視して、繰り返される約半日程前の記憶は次の映像を映し出していく。
 つまり、雷蔵の挑発を真に受けて記憶の中の男達は剣を振り上げ襲いかかってきたのだ。
 雷蔵は迫り来る相手に慌てもせず、静かに "傾国" の柄へ右手を添えた。
 瞬間、身体の隅々までにとある剣技のイメージが行き渡る。
 恐らくはそれこそが、魔女から得た新たな力 "再現" という機能であろう。
 驚いた事に雷蔵は、この時初めて "再現" を使用していたのだった。
 そう。
 一度、どこかで "再現" がどういう物か使って見るべきだったのだ。
 魔女がその力の発現に課した制約が、代償が、どういう物か知っておくべきだったのだ。
 雷蔵はこの後思い知ることとなる。
 己が如何に荒事に対して麻痺してしまっていたのかと。
 一振りで万軍を蹴散らす力に、如何に慣れてしまっていたのかと。
 魔女が与える力は、そのどれもがロクでもない物であるのだと。
 言い訳をする余地があるのならば、この時雷蔵の後方からはエーリャ王女達が勇者の後を追って来ていた。
 その事実が、雷蔵の心に余裕を持たせ、気軽に力を使わせても居たのかもしれない。
 兎も角。
 雷蔵は "再現" を発動し、狭い路地に甲高い鍔鳴りの音が一度だけ響いた。
 同時に、剣を振り上げて雷蔵へ迫っていた男達の動きが止まる。
 振り上げた剣に異変を感じたからだ。
 瞬間、五人の男達が握る五本の剣は音もなく鍔の根本からポロリと地に落ちて。
 各々が驚き、その切り口の鮮やかさに我を忘れていると、少し遅れて五人全員のズボンがストンと地に落ちた。

――去れ。でなければ次は身体に当てる。

 抜いた筈の刀身を刹那に見せぬまま、 "傾国" の柄に右手を当てた体勢を変えずに記憶の中の自分はそう低く言った。
 死ね! 死んでしまえ!
 そんな勇者に悪態をつくのは、その台詞を思い出した本人である。
 実際はそのような事を言われてしまう程、自己陶酔が透けて見えるような物ではない。
 その証拠に、ひぃ! と悲鳴を上げて逃げ出す男達とは対照的に、丁度追いついてその絶技を目の当たりにしたエーリャ王女と騎士達や、助けられた女の子などは頬を染めてしまう程、様になった台詞であった。
 が、その後の騒動を思い起こすと、雷蔵はそう罵倒せずには居られなかった。
 そして、記憶の中でソレは再現される。

――大丈夫だった? 変な事されなかった?
「あ、ありがとうございます! 私は大丈夫です」
――よかった。じゃ、俺はこの辺で。気を付けて帰りなよ?
「……あの、剣士さま。お名前を教えていただけますでしょうか?」
――え? あ、うん。俺、小松雷蔵。剣士じゃなくて、『勇者』さ。……だから服を脱げ
「……はい?」

 頬を染め、感謝と憧れを交えた表情を浮かべていた少女の顔が一瞬で恐怖に歪む。
 その表情に、雷蔵は初めて己の異変に気がついた。
 両手は知らず少女の両肩をつかみ、息を荒げ、いつの間にか押さえきれぬ程強く凶暴な情欲が全身を支配していたのだ。
 な、なんだ "コレ" ?!
 まて!
 この子は "ちがう" !
 ハレムの子じゃない!
 雷蔵は己が何をしようとしていたのか察し、押さえがたい欲望に必死で抵抗した。
 しかし、少女の肩に置いた手を自力で退けることすら敵わず、精々力を緩める程度の抵抗にしかならない。
 それでも少女にしてみればそれで十分だったらしく、僅かな隙をついて身体をするりと躱し、悲鳴を上げて雷蔵の脇を走り抜け、表通りの方へ逃げていく。
 後ろ姿に雷蔵はホっとしながらも、沸き上がる劣情は更に増して、はち切れんばかりとなった股間に痛みすら感じ、思わずその場で膝を折った。
 尋常な様子でない勇者の異変に、後ろからエーリャが勇者様、どうなさいましたか?! と声を掛け白い手を恐る恐る肩に掛けた時。
 雷蔵の理性が消え失せた。
 自分でも驚く程の速さと膂力で肩に手を置いたエーリャの腕を引っ張るや、路地の壁に彼女の身体を押しつけてあっという間にその衣服を引き裂いてしまっていたのだ。
 エーリャも何が何だかわからぬまま悲鳴を上げてしまい、その声に幾人かの野次馬が路地へとやってくる。
 雷蔵は自分が何をしているのか理解してしかし、制御できぬ身体を何とか止めようと吹き飛んだ理性を必死に拾い集める。
 だが、そんな努力も虚しく両の手は後ろからエーリャを抱いてその胸を、細い腰を、秘部をまさぐり感触を確かめて下腹部を更にたぎらせた。

「う、っ、ゆ――勇者さ、ぁ、ま?!」
「エー、リャ! 俺、これ、一体……」

 エーリャは尋常でない程興奮している雷蔵と増えてくる野次馬に焦りを覚え、なんとか場所を変えて貰えるよう懇願をする。
 が、勇者は息も荒く、彼女の言葉など最早耳には届いては居ない様子であった。
 焦りは更に増大し、せめて、とエーリャは呆気にとられている部下の騎士達に息を切らせながらも人払いを命じた。
 騎士達は命令にはじめて我にかえったのか、増えつつあった野次馬を剣を抜いて追い払い、路地の出口に見張りを数人たててオロオロとしてみせる。
 とりあえずは人目を……騎士達はいるが、気にしなくて良くなったエーリャは、安堵の中にふと信じられない物を見つけた。
 乱暴に身体中をまさぐられながらも、その感触は甘く彼女の芯を痺れさせ、信じられないことに僅かだがそのまま続けて欲しかったとも感じたのだ。
 ばかな?! 私は……あの魔女ではあるまいし、そんな、淫らな……
 思わず否定した瞬間、その魔女の言葉がエーリャの脳裏に呼び起こされる。

 ――よいか? 実は勇者殿は "傾国" を抜くと、性格が変わる程幾人も女を欲する "病" を煩っておる。普段は儂が押さえておったが、此度は任せましたぞ?

 それは、ラムル宮殿を出立する折にアスティア姫と共に魔女から聞いた言葉。
 なぜ、もっと早く思い出さなかったか?!
 今の勇者様は……

「リ、リュー」
「はい!」
「勇者さま、あっ、のこれ――は持病、だ!」
「……はい?」
「あっ……あとで、説明する。この後お前達も無理矢理に、はぁ、相手をさせられる筈だ」
「は、はい!」
「いいか? 一人城に返して――!! 着替えを、人数分と帰りの馬車を、用意させろ。路地の見張り――は交代で行え」
「わかりました!」

 指示を聞いてか、リューと呼ばれた女騎士は他の者を連れ立ってその場を離れた。
 同じ女としてせめてもの心遣いか、その場からなるべく離れて指示を他の騎士に伝えている。
 路地を構成する建物の窓からは視線を感じるものの、それでもエーリャにとっては彼女達の心遣いは嬉しかった。
 それはほんの僅かな安堵であったが、同時に先程否定した筈の感覚を再び覚える余裕となって、王女を困惑させる。
 この、異常な状況になぜ、私は。
 答えは、彼女の内に既にあったのかもしれない。
 結局この後、勇者の "持病" を鎮める為に、それから更に三人の騎士が雷蔵の相手をする事となる。

 それは丁度、雷蔵が斬った剣の数であった。




















15 勇者と暗殺者

 雷蔵がクイシャンテの街で騒動を起こしてから、数日後。

 新たに一人、勇者のハーレムに加わった者がいた。
 彼女の名はリリ。
 短めに揃えた赤い髪と赤い瞳が印象的な、小柄な体躯と相手を射るような鋭い視線が印象的なうら若い少女であった。
 一体どのようにして雷蔵と彼女が知り合ったのか、当人達以外は誰も知らない。
 というのも、リリは城に勤める侍女と言うわけでもなかったし、城下の街で出会うにも雷蔵は先日の騒動以来城から出ては居なかったからだ。
 更に怪しいことに、アスティアやエーリャがいくら問い詰めても、当の勇者は口を濁すばかりでリリの方に至っては一言も口を訊かないのである。
 彼女はその日の朝、いつものように挨拶をする為勇者の部屋にやって来たアスティアとエーリャの目の前に突然現れたのであった。
 それも、全裸で。
 呆気にとられる二人を尻目に雷蔵は、挨拶もそこそこに、リリに服を用意するよう同行していた女騎士に命じた。
 エーリャが一同を代表し何故? と尋ねると、雷蔵は少し焦ったように、乱暴に服を破いてしまって、と更に歯切れ悪く言葉を濁す。
 勇者はいぶかしげるアスティアやエーリャに、ひたすら引きつった笑い浮かべ、必死にごまかそうと、それよりも、と強引に話題を変えた。

「まずは朝食にしないか? 俺、腹減っちゃって。昨日の夕食後はアスティアにエーリャ、アドラにパムにリューといつもより多かったし」
「……その上その、リリとかいう娘もしっかりと可愛がられたようですしね」
「勇者様……うぅ、やはり街中でたった一度寵を賜った位で気をやってしまう程度の忠誠では、勇者様に信頼して頂けないのだろうか……」
「そ、そんな顔するなよアスティア! エーリャも! コレには深い理由があるんだよ!」
「その訳をお聞かせ願うわけには?」
「う……それ、は」

 雷蔵はアスティアの冷めた視線に、思わず隣に居るリリの方へ視線を投げて口をつぐんだ。
 リリは変わらず無表情に誰と視線を合わせることなく、まるで人形のように虚空を見詰めている。
 そんな二人の様子を見たアスティアは、一つ大きなため息をついて首を振った。

「わかりましたわ、勇者様。これ以上は余計な詮索はいたしません」
「ごめん。ありがと、アスティア」
「朝食にしましょうか。その娘の待遇は如何致しましょう? 銀の首輪を身に付けさせておられるので、とりあえずは何処かの王族ではないようですが」
「あ、うん。しばらくは俺付きの侍女として身の回りの世話をして貰おうと思う」
「……かしこまりました。朝食は持って来させましょうか?」
「うん、そうして。あ、リリにもなにかお願い」
「……同席させますの?」
「あ。え、えっと……その。ちょっと、な? もう少し彼女と "二人でお話" をしたいなと思ってさ」
「うう、勇者様ぁ……もう、私の事は……」

 意外にも。
 雷蔵の言葉に強く反応を示したのは、もっとも嫉妬から縁遠そうなエーリャであった。
 エーリャはこの時、美麗の剣士然とした佇まいと男勝りな行動力を持ち合わせていた普段の彼女はナリを潜めて、情けなくも目に涙を貯め今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。
 もっとも、元々兄である『銀騎士』に依存していた所もあり、人一倍強い雷蔵への忠誠心を持つ彼女である。
 案外彼女の本質は、何かに強く依存してしまう性質なのかもしれない。

「わ! な、泣く事ないだろエーリャ! 心配しなくても、この後はたっぷりお前と "お話" をするから!」
「本当、ですか?」
「ああ! 本当だとも! アスティアもな?! 頼むよ、ワケ有りなんだって」

 勇者が初めて彼女達に見せる必死さは、美姫達に驚きと不信の種を蒔いて、それ故に "ワケ有り" という言葉がすんなりと受け入れられた。
 グス、と鼻を啜るエーリャと冷たい視線を投げかけてくるアスティアは、言葉に一応の納得を得たようで、互いに視線を交わし頷き合う。
 それから間もなく、エーリャは背後に控えていた数名の女騎士達になにやら言葉をかけて、ぞろ部屋から出て行ってしまった。
 ……部下に慰められながら。

「……わかりました。それでは、後ほど彼女の朝食も一緒に持ってこさせましょう」

 抑揚の無い、しかしあからさまにわかる程不機嫌な声でアスティアはそう言うと、エーリャの後を追い彼女もまた勇者の私室を出て行く。
 何とも後味の悪い朝の挨拶であった。
 雷蔵は閉じる部屋の扉を見送り、ほぅ、と大きくため息をついて肩を落としもう一度リリをみやる。
 まだ幼さを残す小さな少女は、やはり雷蔵を見もせずただ虚空を見詰めて表情を顔に表してはいない。
 勇者はやれやれ、と首を振り腰に手を当ててそのまま何やら考え事を始める事にした。
 室内に妙な緊張感と沈黙が横たわり、なんとも居心地の悪い空気が漂う。
 やがて先程服を用意するよう言われた女騎士が部屋に戻ってきて、騎士従者の服ですが、と断りながらも雷蔵に服を手渡し先程のアスティア達と同じ表情を浮かべながら彼女もまた直ぐに部屋を後にした。

「ほら、これ着ろよ。そのナリじゃ、逃げるにも逃げられないだろ」

 雷蔵は手渡された服を少女に渡しながらそう言って、どうしたものかと再び考え事を再開する。
 リリは黙って服を受け取り、恥じらいをみせるでもなくその場でたたまれた服を床に投げて、下着から身に付け始めた。
 しばらくはそのまま衣擦れの音だけが部屋に響いていたが、不意にリリが口を開き、雷蔵に語りかける。
 その声は見かけの年齢とは不釣り合いな、低い声であった。

「……なぜ庇う? 貴様が約束さえ守ってくれれば、オレはどうなろうとかまわん」
「なぜって……さっきも言っただろ。俺もお前に非道い事したから、おあいこだよ」
「ふん、あの位。貴様の命と私の躯が釣り合うとは思えんがな」
「お前だって好きで俺を殺しに来たワケじゃ無いんだろ?  "恨みはないが一族の為に死ね" とか言ってたし」
「随分と甘いな。心臓に毒の短剣を突き立てられて平然としている化け物の台詞とは思えん」
「あれは痛かった」
「……それだけか? 一滴で巨獣をも殺す猛毒だぞ?」
「それだけだよ。ムカつきはしたけれど、お前を押し倒した辺りからどうでもよくなってたし」
「化け物め」
「うっせ。それよか、逃げるならとっとと逃げろよ。今がチャンスだろ?」
「貴様、オレがこの首輪を自ら嵌め、普通は絶対に漏らさぬ依頼者と己の名、そして殺しの理由を明かした意図を理解していながらそう言っているのか?」
「だったら協力してくれよ! アスティアやエーリャにお前の正体バレたら、俺庇いきれる自信ないぞ!?」

 雷蔵は情けない表情を浮かべながらリリに詰めより、うが! と吠えた。
 リリは僅かに眉を寄せ、面倒くさそうに鼻を鳴らす。
 それから一言、わかった、とだけ "暗殺者" は答えたのであった。



 時間は少し遡って、エーリャが初めてリリを見た朝より六時間程前の深夜。
 相も変わらず街での一件の苦い記憶に悩み、寝付けなかった勇者はやっとの思いでうつらうつらとして、睡魔にその身をゆだねようとしていた。
 季節は春の気配を感じさせては居たが、やはり朝夕は寒く暖炉には火が灯って広い部屋を暖めている。
 室内は暗く、薪が燃える音以外はやっと安らかになった雷蔵の寝息だけが静寂をかき乱していた。
 不意に。
 胸に激痛が走り、雷蔵は眠りの深淵より浮かび上がり、目を開いて声にならぬ声を上げた。
 視界にまず入ったのは、いつからそこに居たか黒いローブを纏った人影。
 顔は頭までかぶったフードの闇の奥に在る為か見えず、次いで確認するは痛みの元となっている、胸に根本まで刺さった短剣の柄。
 人影は一瞬、闇の奥で確かに雷蔵と視線を合わせた後、胸に刺した短剣を引き抜き勇者の視界から消え去った。
 ――これ、は
 暗殺者か! と雷蔵は意識の奥底で認識し、次の瞬間体中の力が抜けてベッドの上に再び脱力する。
 急速に眠りから覚醒した意識は同じ速さで薄れて、早くも消え去ろうとしていた。
 ――ああ、こんな、呆気ない最期とか。
 雷蔵が最後にそう考えて、意識の闇の中に身をゆだねかけた時。
 勇者はどういうわけか、魔女のあの不快な笑い声を聞いた。
 同時に、力が身体に戻って来る。
 恐らくは体内のCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)が緊急起動でもしたのであろう。
 雷蔵はベッドからそのまま転げ落ちるようにして降り、側にあった "傾国" を手にとって暗殺者の姿を探した。

「……驚いたな。なぜ、心臓を貫かれて生きていられる?」

 声は雷蔵の背後から。
 CFMMによる "再現" が既に発動していたのが幸いであった。
 雷蔵は意識するよりも疾く、前へと跳んで身体を回転させ先程まで自分が居た場所を確認する。
 そこにはあの黒いローブを身に纏った人影が、ナイフを先程雷蔵がいた場所……丁度、首のあった場所を掻いていた。

「何?!」

 焦りを見せた声は低く、しかし若い女の物である。
 勇者の元に差し向けられる暗殺者は、相当な手練れであろう。
 この時の雷蔵の動きは、そんな凄腕の暗殺者に驚愕の声を上げさせる程のものであった。
 広い室内に両者はそのまま対峙して、互いに距離を測る。
 雷蔵は名も無き剣豪の力を "再現" し、鞘に収まったままの刀の柄に手を添え腰を落としていた。
 頭に浮かぶイメージは、刃の結界。
 その中に敵が入った瞬間、神速の剣閃が走り敵を両断する居合い術のようなものである。
 暗殺者にもそのイメージが見えているのか、じりと移動し、しかし距離を詰められずにいるようだ。
 状況は雷蔵に有利。
 いや、彼が声を上げるだけで兵士が部屋になだれ込み、騒動は収まるであろう。
 しかし、雷蔵は声を上げはしなかった。
 何故かはわからない。
  "再現" した力を振るいたいという誘惑に駆られているのか。
 はたまた、女の声を聞いてその素顔を見たいと思ったのか。

「……時間は無い。貴様に恨みはないが一族の為に死ね」

 暗殺者はそう言って、ゆらりと一瞬身体を揺らした後ふと、雷蔵の視界から履き消えた。
 否。
 消えたように見えて、床すれすれに身体を低くし、雷蔵の喉を掻き斬らんと短剣を突き出してきていた。
 その烈火のような一撃は、雷蔵の刃の結界を超えて既にのど元まで迫っている。
 恐らくは実力者故に "再現" による雷蔵の力がわかるのであろう。
 繰り出した一撃は、捨て身の、相打ち覚悟のものであった。
 勇者はその気迫と技量に背筋を凍らせて、キン、と音を立て刀を鞘に "納める" 。
 瞬間。
 暗殺者の持つ短剣は根本より折れ、その身に纏っていたローブは細切れとなった。
 影を作り出していたローブの中からは、赤い髪の少女が姿を表す。
 暗殺者は己に何が起きたのか理解出来ぬまま、折れた短剣の柄を手に渾身の一撃を繰り出した勢いで雷蔵にぶつかってしまった。
 雷蔵は胸に飛び込んで来る形となった少女を抱き留め、そのままゴロゴロと床を転がり隙を見て彼女に馬乗りとなる。
 そこまでが一瞬の出来事であったが、雷蔵にとっては驚く程長く感じられた刹那でもあった。

「殺せ」

 しばしの静寂の後。
 赤髪の少女はそう短く言った。
 恐らくは体術の心得もあったのだろうが、圧倒的な力の差で敗北したせいか声には諦めが混じって抵抗するそぶりは無い。
 暖炉の火は随分と小さくなっていたが、それでも僅かに部屋を照らしこの時初めて雷蔵はその光によって彼女の髪の色がわかったのだと確認する。
 組み敷いた少女は、まだあどけない部分を残し赤い髪と赤い瞳が印象的で、無表情に雷蔵を見詰めていた。
 勇者はそのままの姿勢で、今更ながらにどうした物か、と悩み始める。
 何故、自分は人を呼ぼうとしなかった?
 どうして、一息にこの子を斬らなかった?
 それらの内なる問いかけが、雷蔵を暗殺者の正体以上に惑わせる。
 何より今、彼を最も惑わせていたものは。

「殺せ。何を躊躇う」
「なぁ」
「オレは何も喋らない」
「……一族の為に死ねってどういう事?」
「何も喋らないと言った。殺せ」
「お前、もしかしてすっげえ困ってるんじゃないか?」
「何を馬鹿な」
「……俺が、助けてやろうか?」

 言葉に少女の目が開かれる。
 彼女が見上げる勇者の顔は、その言葉が本心からの物であると知らせていた。
 なんだ、こいつは。
 何故……
 暗殺者は流石に戸惑いを覚え、思わず視線を逸らした。
 雷蔵はそんな彼女の様子を見て、不意にその身体を解放し、ベッドの脇まで移動して小物入れからある物を取り出す。
 それから徐に、ゆっくりと立ち上がっていた少女へと遠慮がちにそれを差し出した。

「これ、理由を話す気になったら首に巻いてくれ。俺が助けてやる」
「……何の真似だ」
「もし俺の助けが要らないって言うなら、今日は見逃してやるから逃とけ」
「一体、何の真似だと聞いて」
「だってさ、お前、泣いてるんだもん」

 遠慮がちにそう言った雷蔵の言葉に、少女はこの時初めて己の涙に気がついた。
 恐らくは、その力の差に敗北を感じとって、己以外のだれかの "その後の事" が脳裏に浮かんでの事であろう。
 少女は指摘に生まれて初めて動揺を表に出し、涙を拭った。

「なんか、ワケありなんだろ?」
「黙れ! 貴様に何が」
「だからさ、話してみろって。少しは楽になるかもしれないぞ?」
「ふん……今日、オレを身逃したことをいずれ後悔させてやる」
「……逃げるのか。次は助ける保証なんてないからな? あと、服を脱げ」
「……は?」

 わけがわからない、といった少女の声と、しまった! と表情を曇らせる勇者。
 一拍おいた、次の瞬間。
 雷蔵は意に反して、少女の身体を再び床に押し倒していた。
 その動きは先程の物とは比べものにならぬ程俊敏で、獣のように予想のつかないものであったらしく、暗殺者に身構える隙すら与えられない。
 勇者は少女を床に押し倒した姿勢のまま、再び馬乗りとなり、ローブの下に着ていた彼女の服を素手で引き裂き始めた。

「……なんの真似だ? ふん、所詮お前も下種な男というわけか」
「ちが、う。 こ、れは、力を使った、代、しょう」
「何を取り繕っている。……かまわん、好きにしろ。敗者をなぶり者にするのは勝者の特権だからな」
「い、や、なら、声を上げ、ろ! すぐ、 "代わり" が、やって、来る」
「この位。拷問にもならん」
「だめだ! こんな、の、『勇者』じゃ、ない!」

 男は少女の衣服を文字通り剥ぎ取りながら、必死に抗う声を上げる。
 その様を組み伏せられ衣服を剥ぎ取られていく少女は、表情一つ変えずに見詰め続けた。
 しかし、その表情の奥では少女の感情が渦を巻いて揺らぎ、暗殺者としての本能を押しのけ思考を加速させていく。
 こいつは、一体なんなのだ?
 ……言葉に偽りはない。
 オレにはわかる。
  "助けてやる" と言ったのも、本心だった。
 しかし……これが、『勇者』なのか?
 あの下種な連中が心から恐れていた『勇者』がこれなのか?
 粗方衣服を破り終え、身体に、首に、未だ膨らみきっていない胸に舌を這わせ始めた男を、少女は見下ろしながら冷静に考える。
 自分は任務に失敗した。
 それも、絶対に失敗が許されぬ任務に、だ。
 この後受ける辱めや拷問で依頼主の名を出さぬよう、今此処で舌を噛み死ぬべきだろう。
 だがしかし。
  "これ" はそもそも、意に沿わぬ仕事だ。
 真っ当な仕事であるならば、自害することに躊躇はしない。
 それが我が一族の生き様でもある。
 だが。
 ……どうせ任務自体、意にそぐわぬものだ。
 そもそも、この任務もきちんとした契約ですらない。
 奴らの為にここで、自害してやる程義理を果たす事もないだろう。
 ならば。
 ――ありえぬ希望に縋るのも、わるくはない、かもしれん。

「おい。まだ理性は残っているか?」

 問いかけに、男の動きが一瞬止まる。
 答えとしては少女にとってそれだけで十分であった。
 暗殺者は男の反応に答えを得て、押し倒された折近くに投げ出されていた首輪のような物を手に取り、己の首に巻いてみせる。

「見えるか? 先程の言葉、縋らせてもらうぞ。これは契約だ。代償に我が身をお前に捧げる。オレの名は――」

 彼女は一端、そこで言葉を切った。
 勇者は首輪を確認するように顔を上げ、契約の言葉を確かに聞きながらその身体を這い上がってきて。
 その瞳に理性は残っている風には見えなかったが、暗殺者は確信をもってその名を告げる。

「オレの名はリリ。お前に頼みたい事がある」

 少女はこの時、生まれて初めて他者に縋った。
 そして、胸の内に秘めた頼み事を全て話し終えた後。
 為すがままになりつつもリリはふと、ある事実に気がついて、己の判断は恐らくは後悔しないだろうと思いを馳せる。

 涙が、いつの間にか止まっていたからだ。




















16 意外な特技

 ダリス聖教国はヴォルニア王国と争う西方の列強諸国の一角を担う、宗教国家だ。

 初代聖王、つまり最初の勇者を神の使いと崇める聖ブレイブ教の一派であるダリス聖教がそのまま政府として機能するこの国は、閉鎖的で有名である。
 その狭い国土と少ない兵数は、ヴォルニア王国との国境を接するにあまりに無力で、それ故西方諸国の軍事同盟に参加してはいたのだったが。
 時代時代によっては大河を渡り城砦都市クイシャンテへと西方連合軍の国内通過を許可したりしたものの、基本的にはおなじ同盟国であっても相互不干渉を貫き、その内情を知ることは困難とされている。
 一般的には貧しく、国民の殆どは聖ブレイブ教徒であるとされ、 "今の" 勇者の出現を受けてすぐに勇者軍への恭順を示す物と思われていた。
 しかし、長い教団の歴史は組織の腐敗と教義の一人歩きが起きていたらしい。
 教団は雷蔵を信仰対象の再臨と認めず、以前と同じように『銀騎士』率いる元ヴォルニア王国軍を主体とした勇者軍と剣を交えていた。
 また、国力自体は取るに足りない小国で在るにもかかわらず、西方諸国での地位は意外と高い。
 その理由に教団の長い歴史の中で広まった、他国の信徒からの援助による経済力や恐ろしい暗殺組織を抱える所にあった。
 無論、莫大な布施は貧しい国民に硬貨一枚たりとも施されはしない。
 教団を牛耳る支配者達は、大軍団による国土の防衛ではなく、暗殺と賄いに特化して行き、狭い国土にいびつな富の偏在を享受して乱世以前から肥え太っていたのだ。
 リリはそんなダリス聖教国の暗殺組織の一角を担う、とある一族の出であると語った。
 自ら勇者の所有物である事を示す首輪を巻き、我を保てぬ勇者に躯を贄として差し出した時の事だ。
 殺しは生活の一部であり、貧しい生活の中、あらゆる肉体的な苦痛を訓練として教育され、暗殺者として育てられた少女は。
 当然、対象を籠絡させる事も覚え込まされ、物心ついた頃より精神的、肉体的な陵辱と房中術もたたき込まれてもいた。
 その記憶は壮絶な物であったのであろうが、それが世界の全てであった彼女にとって、取るに足らぬ問題でありむしろささやかな幸せを見つけ出す余裕すらあったのだが。
 そんなリリにとって、いや彼女の一族にとっ、,ある日突然に転機が訪れる。
 グラズヘイム大陸の中央、グリムワ領で勇者が再臨したのだ。
 勇者はヴォルニア王国東の端の辺境で挙兵し、瞬く間に『北の最強』を平らげ、彼らが属する大陸西方へと押し寄せてくる。
 しかし、聖ブレイブ教を信仰する彼らにとってそれは脅威ではなく、むしろ喜んで恭順すべき事態でもあった。
 だが彼ら一族を統べるダリス聖教は、ヴォルニア王国と争っていた西方諸国とおなじく、雷蔵を偽物と断じ勇者軍との徹底抗戦を選ぶ。
 この時のダリス聖教国としては、今更新たに現れた勇者に己の教義を弄られたくはないという思惑が働いていたのだ。
 そして、リリを育てた一族は選択を迫られる。
 つまり、己が信じる勇者への恭順か、長年一族を保護してきた支配者への忠誠か、を。
 果たして長老達が出した答えは前者。
 つまり、教義を信じるのではなく、信仰対象であった勇者が本物であると信じることにしたのだ。
 如何に彼らは長年狂信的にまで信仰してきた教団の教えを捨てさせてまで、再臨した勇者を本物であると信じたのか?
 それは、悉く失敗する『銀騎士』の暗殺に因るところが大きい。
 なにせ、放つ刺客がすべて国境を超えて直ぐに捕縛されるのだ。
 しかもまるで予め、その日そこを暗殺者が通る事を知っているかのように、である。
 更に、勇者本人への暗殺者に至っては、国境を越える前に逆に暗殺をされてしまう始末でもあったのだ。
 そんな勇者軍の対応は、長老達に人智を超えた物が存在するかのように見せて、教義ではなく勇者本人への信仰と畏怖を植え付けていた。
 真相は己の目的が為、勇者や手足となり大陸を平定する『銀騎士』を暗殺者や謀から守らんと、勇者の腹心である魔女が裏から手を回していただけであったのだが。
 兎にも角にも、リリの一族は腐敗したダリス聖教国を早々に見切りを付けて、密かに勇者軍への恭順を画策していたのである。
 しかし。

「内通者がいたのだろうな。長老達の決定後、直ぐにダリス聖教国正規軍が村にやってきて、女子供以外は全て殺されてな」
「そう、なんだ」
「奴らはオレに言った。一族を根絶やしにされたくなければ、つとめを果たせ、と。で、オレはお前の命を狙ったわけなのだが」
「でもさあ、なんでお前なんだ?」
「一族で残された戦士はオレを含め数名。その中でもっとも腕の立つ者がオレだったというわけだ」

 リリは雷蔵とたき火を挟み、そういって抱えていた膝をすこし強く抱いた。
 二人が城砦都市クイシャンテを夜分に紛れて出立してより、二度目の夜での事である。
 その顔は変わらず無表情ではあったが、雷蔵には彼女の心の内の動きを何となく感じ取れた。
 目の前の炎は森の闇を押しのけて、未だ凍える外気を払い二人を暖め続ける。
 雷蔵は今頃抜け出した城では皆が大騒ぎをしているだろうな、等と考えながらも、目の前の少女がする幾度目かの話を反芻した。

「んー、でもさあ。なんか、釈然としねえ。なんでお前なんだ? いくら何でも若すぎないか?」
「貴様、オレを侮っているのか? こう見えても高位の戦士なのだぞ?」
「それはそうかもしれないけどさ。本当にお前より年上で強い奴とか居なかったのか?」
「居るには居たが、さっき言ったとおり、男は皆殺されていたし、オレよりも上位の女戦士は……兵士どもに、な。 "壊されて" しまったし」
「あ……」
「自慢にもならんが、オレの一族の女は見た目はいい。だからこそ、性技を磨き相手を籠絡して情報を集め暗殺もしやすくなる。が、一端虜となれば悲惨な運命を辿るのは必然であろう?」
「……だろうな」
「オレも房中の心得はあるが、やはり幼く見えたのだろう。……いや、庇われたのかもしれん。15に満たぬ女は皆何もされなかったしな」
「15、て……リリ、お前いくつなんだ?」
「オレか? 12だ」

 瞬間、雷蔵はぐおお! とうめき手を頭にあててかきむしった。
 雷蔵にとってその年齢は、性の対象として見るにはあまりにも反道徳的であったからだ。
 グラズヘイムではその辺りは比較的まちまちで、地方によっては幼児愛好家の為の娼館まで存在するのではあるが、勇者には知る由もない。

「何を取り乱している?」
「何をって、俺、子供に手ぇ出してたのかよ!」
「子供? オレがか?」
「そうだよ畜生! これで俺は犯罪者の仲間入りじゃねえか!」
「そのような法を制定したのか?」
「んな事は知らん! 俺が育った所じゃ、立派な犯罪で、しかも変態扱いだ!」
「なんだ、そんな事か。法など、好きなように作り替えればいいではないか。貴様の権力はそういったものだろう?」
「んな問題じゃないって! ああ、俺、なんだか『勇者』からどんどんかけ離れた事をしているような気がしてきた……」
「……心配するな。オレの一族は、女は皆5つの時から性技を仕込まれる。まあ、 "下" を使い始めるには流石に時期はまばらだがな」
「やかましい! 真顔でそんな事言う奴は一人で十分だ!」
「む? オレ以外にそう育てられた暗殺者を抱えてるのか?」
「……暗殺者じゃねえけどな。すっげぇ性格悪いのが一人、いんだよ。今は遠くにいるけど」
「そうか。ま、子供扱いしたいならそれでも良いさ。好きにしろ」

 リリは雷蔵の反応に特に気にした風でもなく、相も変わらずに無表情でそう口にしてたき火を見詰めた。
 たき火はパチパチと生乾きである枝が爆ぜて、しばしばそんな風に沈黙を繰り返す二人の間を取り持っている。
 雷蔵は今度はリリの表情からは何も感じ取れず、しかし何となく気分を害したのかもしれないと思って話題を変えることにした。

「なあ、俺はとにかく、お前の村に一緒に行ってそいつらを蹴散らせばいいんだよな?」
「ああ。オレの一族は戦士としては優秀で暗殺に長けてはいるが、軍が相手となると流石にな。……それに、男達は皆殺されたし」
「……残された人らはどうするんだ?」
「好きにするだろうさ。残りたい奴は残るだろうし、そうでなければ……貴様について来るだろう」
「ついて、って……」
「なんだ? 勇者軍は恭順する者には寛容だと聞いていたが、あれは嘘なのか?」
「そんなワケじゃないけど。いきなり、敵側の川沿いから突如消えた勇者がひょっこり、沢山の人を連れて表れたらアスティア達は怒るだろうなぁ、なんて」
「その時はオレが守ってやる。この命で貴様の心の平穏が購えるならば喜んで差し出すさ」
「ぶ、物騒な事言うなよ」

 真顔でそういったリリに、雷蔵は慌てて彼女の言葉を否定した。
 それから、改めて目の前の少女と自分は見ている世界、価値観、生きてきた環境が違いすぎるのだと実感する。
 幾度か繰り返す沈黙は、その度に気まずさを増して雷蔵から落ち着きをうばった。
 意味もなくソワソワとしてしまう勇者の様子を、リリはどう思ったのか。
 彼女は突如、ぽつりと身の上話を始めるのであった。

「……オレには5才になる弟が居てな」
「うん?」
「村でオレの帰りを待っているんだ」
「……そっか」
「不思議なものだな。お前を暗殺する為に村を出た時、弟の事はもう諦めてたんだが。こうやって希望に縋ると、弟の無事を祈らずには居られない」
「多分、大丈夫だろ」
「ふふ、祈りの対象である本人にそう言って貰えると、そんな気がしてくるな」
「しかし、驚いたぜ。聖ブレイブ教だと、俺、神様みたいなもんなんだな」
「立場によっては、神敵同然の不敬者だがな。気を付けろ? オレ以外にも大量に暗殺者が送り込まれてくるだろうし」
「よ、よせよ。神様を怯えさせていいのかよ?」
「ふん、オレは別に強く信仰しているわけじゃない。オレにとっては一族が全てで、その一族が聖ブレイブ教を拠り所にしているから従っただけだ」
「……任せとけ。お前の弟は俺が助けてやる」
「……そうか。なれば、代償を払わないとな」

 リリは僅かに口元に笑みを浮かべつつ、そう言いながらすくと立ち上がり、服を脱ぎ始めた。
 たき火に照らし出される彼女の未成熟な裸体は、しかしその内に秘める淫蕩な性技の数々を雷蔵に思い起こさせて猛らせる。
 実年齢を知った今ではその身体は年齢の割に発達していると勇者に思わせたが、やはりどこか後ろめたさが残ってもいた。
 が、その後ろめたさまでもがユックリと雷蔵の元へやってくる彼女と共に、昂ぶらせる火種となって勇者の力の源へと変えてゆく。
 何より雷蔵が『勇者』で在り続ける為には、その身を捧げる女の存在が不可欠でもあった。

「なぁ」
「なんだ?」
「後、どれくらいでお前の村に着くんだ?」
「そうだな。明後日の朝にはたどり着けるだろうな」

 リリは雷蔵へしなだれ、ズボンの中に小さな手を差し入れて硬くなったソレをさすりつつそう答えた。
 もう一方の手は衣服の中、雷蔵の胸を触り優しく撫であげて徐々に肌を露出させてゆく。
 暗殺者はそのまま勇者の衣服を剥ぎ、胸まで露出させると今度は舌をゆっくりと胸に這わせ始めた。
 舌は短く、しかし蛭のように吸い付いて雷蔵に快楽をじわり与える。

「今宵こそは、負けぬぞ」
「なにが、だよ」

 台詞は房中術にも通じる暗殺者の意地故か。
 しかしリリはその夜も敗北を甘く味わう事になるのであった。




















17 証

 朝靄のかかる早朝。

 雷蔵は夜闇に紛れての移動の果て、そこに立った。
 それは運命であったのか、それとも "そうなる" と知って尚黙っていた魔女の謀の一環であったのか。
 朱色の村は静かに二人を出迎え、それぞれに非情な現実を叩き付けている。
 目の前の光景は暗殺者に慟哭を与えて、お前も他の人間と何も変わらぬと嘲った。
 ――二人が目指した村は。
 かつて幾多の命を闇の中から奪い、あらゆる命乞いなど意に介さぬ暗殺を生業とした村は。
 その報いが村全体に降りかかったように、凄惨な光景がどこまでも広がる。
 それこそ、老若の区別無く女子供、赤子まで徹底的にその命を奪い去られていたのだ。
 辺りには季節柄やっと腐敗が始まった、いびつな形の死体が累々と転がっており、死臭が立ちこめている。
 そんな地獄絵図の中、生ある者が二人。
 うずくまり小さな弟の頭を抱えて泣き叫んでいるリリを見て、この時勇者に宿るモノは暗く、芯の一部を変質させる。
 それは、初めて "傾国" を抜いた時のような感覚。
 だが雷蔵はその感覚に戸惑いも疑問も抱かず、ただドス黒い憎悪と爆炎のごとく広がる怒りに自我を精一杯保って、足下で泣く少女の背を見詰め続ける。
 思えば、昨夜までは自分も、恐らくは彼女もこんな結末を予想だにはしていなかった筈だ。
 今して思うと、互いに身体を貪りあう余裕すら心にあった。
 それが、その心の平穏さが、憎い。
 何故もっと急がなかったか。
 何故、 "こうなっている" と予測しなかったのか。
 ――きっと、彼女も又、同じ事を考えて居るのだろう。
 いや。
 予感は確かにあった。
 あったが、口に出さなかっただけではなかろうか。
 その証拠に俺は。
 これだけの光景を目の前に、狼狽えたりはしていないじゃないか。
 そうだ。
 さっきから、予感は確かにあったのだと自覚していたじゃないか。
 薄く思い出されるのは、ほんのすこし前の記憶。
 雷蔵とリリが村の近くまでたどり着き、兵士の姿がまったく見えない事に気がついた時。
 突如リリが村へ駆け出して、慌ててその後を追った雷蔵の目に最初に飛び込んできた物は、村の入り口に並べられた男の頭部であった。
 勇者は胸の奥に得体の知れない強い嫌悪感を感じつつも、奥へと駆けてゆくリリを追って村の中へと足を運ぶ。
 瞬間、胸にこみ上げてくる嫌悪感は雷蔵にこの光景を知らず予感させていたのだとハッキリ自覚させていた。
 思えば、どこからそう感じていたのだろう。
 リリから話を聞いた時?
 たき火を挟み、村の状況を聞いた時?
 浅ましくも哀れな少女の身体を貪っていた時?
 ただ、確実に言えるのは、そうなのだと確信したのはきっと、リリが駆け出したあの瞬間なのであろう。
 雷蔵はリリの背を追うことも忘れ、思わず足を止めてしまいその目に飛び込んできた悪意の発露の数々を、立ち尽くしながら茫と眺めた。
 それは両手足の無い死体。
 それは首のない死体。
 それは胴の無い死体。
 それは丁寧に臓物を外へ取り出され、並べられた形跡がある死体。
 それは鳥や獣に食い荒らされた死体。
 それは芸術品のように槍で串刺しにされ、掲げられた死体。
 それは。それは。それは。

「うわあああああああああああああ!!」

 絶叫が雷蔵を正気に戻す。
 声は家々の隙間、少女を見失った辺りから。
 我に返った雷蔵は、誰が声を上げて何が起きているのかを把握しつつも、悲痛な絶叫があがる方へ足を向けた。
 その足は重く、走る事すらままならない。
 しかし、歩みを止め再びその場で自失する事も出来なかった。
 数十歩ほど歩いた後、雷蔵はうずくまり何かを抱えひたすらに声を吐き出す少女の背を見つける。
 言葉は掛けられない。
 否。
 かける言葉など、誰が持ち合わせていようか。
 恐らくは、今この場で彼女に声を掛ける資格がある者は、聖人か悪魔だけであろう。
 小さな背を丸め、肉の付いていない骨張った肩を振るわせ、後生大事にナニカを抱える少女は、勇者の眼前で狂ったかのように泣き叫び続ける。
 抱えていたモノは、何であるか雷蔵にはすぐに理解できた。
 それはきっと。

「リリ……」
「ああああああああ!」

 辛うじて小さく口を突いたのは、少女の名前。
 当然、慟哭を続ける暗殺者には届かない。
 彼女の痛みは雷蔵には理解し難く、せいぜい同情と怒りと人の行いに対する嫌悪を胸に渦巻かせて、男をその場に立ち尽くすしかなかった。
 なぜこんな事を。
 どうしてここまで。
 なんで、この娘が。
 そこまで考えたとき、唐突に少女の叫びが止まる。
 同時に少女は変わり果てた弟の一部を抱え、雷蔵に背を向けたまま立ち上がりいつもと変わらぬ言葉を発した。

「……同情はいらん。オレのような、一族のような暗殺を生業とする者には憐れみを施されるような資格は元よりない」
「リリ……」
「結局、貴様に払った代償は無駄になってしまったようだ」
「……ごめん。俺、何もできなくて」
「気にするな。依頼を受けたはいいが、暗殺対象が既に死んでいた事などままある。払った分は取っておけ」

 リリはそう言って、雷蔵に背を向けたまま歩き始める。

「何処行くんだ?」
「決まってる。オレは暗殺者だ。出来ることなど、一つしかないだろう」
「なっ」
「元来た道を遡れば恐らくは安全に戻れるだろう。間違っても、村の主道を進むなよ? 恐らく、此処を襲った連中の斥候が生き残りが居ないか外から監視しているはずだ。……まぁ、貴様には必要無い心配だろうがな」
「……俺も行く」
「いらん。欲しいのは勝利ではない」
「リリ!」

 立ち去ろうとする少女を引き留めたのは、雷蔵ではなく他の第三者の声。
 声の主はリリよりも更に若い、10歳位の少女であった。
 いつの間にそこにいたのか雷蔵の背後に立ち、少しだけ雷蔵を警戒するように短剣を抜いたまま、振り返ったリリの元へ駆けてゆく。

「シュシュ?! 無事だったのか?!!」
「うん。あたし、潜伏訓練で森の奥で野営してたから。それよりも……」

 シュシュと呼ばれた少女は、リリが大事そうに抱えるモノと雷蔵を交互に見て続きを話しづらいのか、もにょもにょと口をつぐんでしまった。
 それから、一族の生き残りであるリリに会えたことに安心でもしたのだろう。
 くしゃりと表情を崩し泣き始め、う、う、と嘔吐くように声を殺して腕で顔を覆った。

「シュシュ……よく、頑張ったな」
「う、あた、し、村に戻ったら、パラス関の連中がい、て、う、うう、みんな、一カ所にあつめられて、あたし、なにも、出来なくて」
「泣くな、シュシュ。オレが今からあいつらに思い知らせてやりにいく」
「だ、め。あい、つら、ジュート達と、何人か、連れて行った、から」
「な?! 他にも生き残りが居るのか?!」
「う、ん。ひっ、うう、あいつら、ジュートやノラを、馬車に、乗せた後、村のみん、なを……母さんや姉ちゃんを……うわあああああ!!」

 シュシュはそこまで説明した後、とうとうその場にへたり込んで先程のリリのように声を上げ、泣き出してしまった。
 彼女の話が本当であるならば、幸か不幸か、捕らわれて生きている者がまだ居るらしい。
 その事実は復讐の炎にその身を焦がしていたリリの足を止め、途方に暮れさせた。
 只一人、どこかに潜入して相手を殺すのが暗殺者の本分である。
 リリは村を襲った軍の指揮官を暗殺し、その後はどうとでもなれと思っていた。
 だが。
 他にも生きている者がいて捕らわれていると聞いてしまったが為、何とかして助けたいと欲が首をもたげて彼女を引き留める。
 非情な暗殺者は、必死に己が持つ技術を思い起こしながらその方法を考え、しかし。
 己一人ではどうやってもそれは無理であろうと思い知り、跪いてうずくまり泣いているシュシュの肩に慰めるように手を置いた。
 ――泣くな。オレが助け出してやる。
 そう、言いたかった。
 だが、正確に現実を把握していた暗殺者は、それが無理だと解っていて慰めの言葉を吐くことなど出来はしない。
 かわりに再び涙が溢れてきて、彼女の絶望を深く知らしめた。
 抱えた弟の頭は冷たく、その感触が一層行き場を失った激情を増幅させ、少女の思考を破裂させる。

「泣くな。俺が助け出してやる」

 リリが口にしたかった台詞を音にした者がいた。
 顔をくしゃくしゃにして泣いていた少女達は思わず、その言葉を発した者を見た。
 そこに先程から変わらず男は立ち続けていて、瞳に怒りを宿し口元に決意を込めて言葉を続ける。

「リリ。そいつらの居場所はわかるな?」
「え――ああ。パラス関という、要塞だ」
「案内してくれ」
「え?」
「生き残りがいるなら、俺はまだ依頼は果たせる。そうだろ?」
「お前……」
「それに」

 その首輪をした奴を泣かすとどうなるか、思い知らせてやらないとな、と勇者は言った。
 台詞は年相応に泣きじゃくる少女の張った気を、少しでも和らげようとしたものであったが、その意図は通じずリリは。
 首輪は己を捧げた証であり、この身はすでにこの男の所有物であった事を思い出させて、不思議な安心感を覚えるのであった。
 この時、弟を失った悲しみは強く残り続けたが、激しい憎悪は薄れて暗殺者に理性を取り戻させる。
 そして少女は、勇者の真の力を目の当たりにする事となったのだった。



 大河に最も近いパラス関は、ダリス聖教国にとって要所である。
 過去、幾度もこの関を通りパラス街道を西方列強による連合軍が進んで、ヴォルニア王国との国境にある城砦都市クイシャンテへと攻め入った歴史がパラス関にはあった。
 関は広いパラス街道に突如横たわり、重厚な城壁といくつもの大砲が設置され、難攻不落の様相を呈してダリス聖教国の入り口を守る。
 当然、ヴォルニア王国側からの渡河に備えて常時六千以上の正規軍が駐屯しており、リリの村を焼いたのもこの関の兵達であった。
 関を守る兵は皆信仰と練度には比類無きものがあり、ダリス聖教国の最前線を守るにあたって最精鋭と言っても過言はないだろう。

「じゃあ、たしかに捕まった子供達は地下牢に捕らわれているんだな?」
「ああ。間違いない」
「そうか。なら、 "上" を吹き飛ばしてももんだいないかな。シュシュ、指揮官の部屋の位置は?」
「門をまっすぐ進んで、少し進むと二階建ての館が見える。その二階、一番角の部屋だよ。他に背の高い建物は弓櫓や物見櫓だから直ぐに解る」
「わかった。二人はここでまってろ」
「お前、本当に一人で大丈夫なのか?」
「まだ信じねぇのかよ。俺、勇者なんだぞ? この位」
「なあ、リリ。こいつ頭おかしいって。あたし達でさえ、関の中に入って情報を仕入れてくるのがやっとなのに、指揮官攫ってくるなんて」
「オレも信じられはしないが、腕は立つ。それだけは確かだ」
「……まぁ、信じられないか。とりあえず見てろ、リリ、シュシュ」

 関から少し離れた、パラス街道沿いの森の中。
 時刻は暗殺者の村での惨状を目の当たりにした日の夕暮れ。
 雷蔵は苦笑いしながらも、 "傾国" に手を添えて森の木々の間から見える巨大な城門を睨んだ。

「『汝、力を示せ』」

 言葉と共に勇者は刀を引き抜く。
 瞬間、凄まじい力を体中に感じながら、雷蔵は地を蹴った。
 その衝撃は側にいたリリとシュシュの小さな身体をはじき飛ばして、数秒後、爆音を遠く轟かせながら巨大な関の門がヒラヒラと空に舞った。
 恐らくは雷蔵が駆けた痕なのであろう。
 突如地に投げ出された二人が慌てて上体を起こし見た物は、信じられない光景であった。
 その場からパルム関の城壁までまっすぐ "道" が出来ており、進路上にあった木々や櫓などは悉くなぎ倒されて。
  "道" の先、如何なる方法を用いたのか宙を舞っていた巨大な関の門は、ドゴン! と此処まで聞こえる音をたてて、城壁に当たり崩しながら地に落ちた。
 やがて言葉を失い呆気にとられている二人の目の前へ、今度は目に見える速度で関の向こうから雷蔵が再び姿を現す。
 その手には何やら大柄な人物の襟首を掴んでおり、人形を片手に走る少年のような格好で二人の元へ戻って来た。

「そら。司令官はこいつだろ?」

 そう言いながら雷蔵は、まるでバケツを放り投げるかのように抱えていた男を地に投げ捨てる。
 男はでっぷりと太り、立派な髭を蓄えた中年で着ている衣服から高位の職にある者と一目でわかった。
 なによりも。
 リリにはその男に見覚えがあった。
 男の名はデリク将軍。
 パラス関を預かる最高司令官で、あの日、二人の村を襲った軍を指揮していた者だ。
 地に投げ出され何がおきた?! といまだ混乱する男を見る少女の瞳に、激しい憎悪の炎がやどる。

「――そうだ。こいつが、村を……弟をころしたんだ」
「そうか」
「な、なんだお前達は?! 一体、一体、何が……」

 言葉は最後まで続かない。
 次の瞬間、短剣を抜いたリリが鮮やかに将軍の喉を掻ききり、同じく逆手に短剣を持ったシュシュによってその心臓を一突きしていたからだ。
 二人のそれは電光石火とも言えて、如何に暗殺者の一族の技量が高い物であったかを雄弁に物語る。
 雷蔵は黙ってその光景を眺め、それから関の方を見た。
 破壊された門からは、押っ取り刀で関から出てきている兵士達の群れが確認できる。

「悪いが、残りは貰うぞ」
「……好きにしろ」

 気のない、どこか拍子ぬけたようなリリの返答と同時に、もう一度、衝撃波のようなものが少女達を襲う。
 二人は今度は無様に吹き飛ばされはしなかったが、それでも目を明けては居られず、思わず腕で顔を覆ってしまった。
 先程と違うのは、同時に凄まじい轟音が側で聞こえて流石の暗殺者の身体を硬直させていた事。
 シュシュなどはわぅ! と思わず悲鳴を上げてしまい、リリも何が起きたのか理解出来ず強風が吹きすさむ中うっすらを目を開けようとする。
 そして、彼女は勇者の真の力を目の当たりにした。

「そん、な……」
「こんな事って……」

 絶句する、二人の少女が見た物は。
 何もかもが消え失せて、綺麗に更地となったパラス関だった場所であった。
 リリは知らず、首にまいた首輪に手を添える。
 それは彼女を、目の前の光景を作り出した男の所有物であると証明する物で。

 証は夕日を受けて、まるで少女の心のように鈍く銀に煌めき続ける。




















18 思い上がり

 春の気配が強まりつつある昨今、雷蔵が暗殺者に襲われたその日。

 旧ヴォルニア王国を主力とした『銀騎士』率いる勇者軍は、遂に西側列強諸国の連合軍との決戦の火蓋を切っていた。
 兵数は勇者軍15万に対し、連合軍は20万。
 双方の大軍勢は、城砦都市クイシャンテの北にある大雪原でぶつかり、激しい戦闘を繰り広げた。
 両軍共に夥しい死者を出しつつも、一進一退の攻防を繰り返し戦局はやがて膠着状態になってゆく。
 ある日は『銀騎士』の神算鬼謀の軍略によって勇者軍が大勝利を納めたかと思えば、次の日には連合軍による膨大な物量によって前線が押し返されてしまうといった様相であった。
 双方共に正念場とも言える戦闘は、そのまま数週間の時を経てやっと天秤を傾けるに至る。
 キッカケは西側列強諸国の一つ、ダリス聖教国にあるパラス関陥落の報せる早馬だった。
 パラス街道沿いにあるこの関は、勇者軍と連合軍が決戦を繰り広げる大雪原の南方にある、国境を繋ぐもう一つの街道である。
 連合軍の指揮官達はこの報を聞くや激しく取り乱して焦り、対応と分析を謀る事を余儀なくされた。
 旧ヴォルニア王国と西側諸国を繋ぐ軍隊が進軍できる規模の街道は二つ。
 その内の一つこそ今決戦が行われている大雪原であったのだが、もう一つの街道であるパラス街道はは大軍が移動するには不向きであった。
 故に旧ヴォルニア側も国境に据えた城砦都市を起点に守りを固め、北の平原に戦力を集中させていたはずであると読んでいたのだが。
 報せには、その城砦都市から進軍してくる軍を押し留める役目を持つパラス関が、たった一日で "跡形もなく" 壊滅したと記されていた。
 その事実は、連合軍の指揮官達の読みを大きく外した物であり、少なからず前線の指揮系統に影響を及ぼす。
 そもそも彼らの分析では、『勇者』は偽物であるとしていた。
 『勇者』がもし本物であるならば、『銀騎士』などに軍を指揮させず自ら戦場に出てきた方が遙かに効果的だ。
 実際、過去に『勇者』が戦場に出ることは少なく、その出現回数から偽物なのでは? というのが指揮官達の共通した見解であった。
 故に『勇者』とは、ヴァルニアで旗揚げした『銀騎士』が勇者の威名を戦場で利用する為に用意した虚構であると断じていたのだ。
 噂もその力を誇大に喧伝して、兵の士気を保つ為の物だろう。
 今回もその証左として、『勇者』は決戦の地に出ては来ず、南の要衝に配置され威名をもって睨みを効かせるに留まっているではないか。
 報せを受け取る前までは、連合軍指揮官達はそう考え、目の前の決戦に全神経を研ぎ澄まして当たっていたのだったが。
 何を思ったか『勇者』は突如、南のパラス街道を寡兵で進みその強大な力を持ってして流布する噂通りに一瞬で関を消し去ったのだ。
 いや、もしかしたらたった一人で関を落としたのかもしれない、とも報せには書かれていた。
 なにせ、国境を守る城砦都市からは軍を動かした形跡は皆無であり、密偵からもそのような報告は成されてはいかなった。
 その事実は逆に、勇者の力の裏付けにもなって今更ながらに連合軍指揮官達を戦慄させる。
 少なくとも、実際に関が消失したと言う事実は三つの事を意味した。
 つまり、『勇者』の力はほぼ間違いなく本物であると言うこと。
 もう一つはそれ故に、『勇者』がその気になれば手薄な南から何時でもダリス聖教国を始め西側諸国へと進軍が可能であると言うことだ。
 そして、その場合『銀騎士』率いる軍隊とは違い、押しとどめる事が現状では不可能であると言うことを、パラス関陥落は証明していた。
 この事実は即刻箝口令がしかれ、連合軍内に広まることはなかったが、『銀騎士』も解っているのか間もなく兵士達の間に噂が流布し始める。
 やがて士気に多大な影響が出始めてしまい、特に聖ブレイブ教徒の多いダリス聖教国やポルア公国の兵を中心に敵軍への投降や逃亡が頻発した。
 そして。
 遂に約一ヶ月もの間続いた決戦は、西側諸国による連合軍の撤退をもって終結したのである。
 勇者軍の兵士が、『銀騎士』と共に勝利の勝ちどきを上げたその日は丁度、雷蔵が『閉じた世界』グラズヘイムへと喚び出されて9ヶ月目であった。



「ほんと、すいませんでした」

 雷蔵はそう言ってかかとを揃えて跪き、両手を赤い絨毯の上に突いて見せて額を左右の手の間にこすりつけて見せた。
 いわゆる土下座、という奴である。
 場所は城砦都市クイシャンテの城内、広い勇者の私室。
 時刻は前回と同じく夕刻であった。
 うずくまる勇者の頭の先には、麗しき美姫が二人、その美しい眉根を寄せ怒りも露わに立って腕を組んでいる。
 その後方にはラムル宮殿騎士団の女騎士達が15名程控えて、やはり不機嫌そうな表情を浮かべ勇者の情けない姿を注視していた。
 二人の美姫の白い首には黄金の装飾が施された首輪が巻かれており、騎士達には同じデザインで銀製のものが巻かれている。
 それらは女達が勇者のハーレムの一員であると示すもので、当然、その身体をもってして勇者に淫靡な奉仕を行う者に与えられるのだが。
 土下座をする勇者の後方に立つ、リリをはじめとした七名の――まだ、10歳前後ほどの少年少女達が立って、その様子を不安げに見ていた。
 なぜか、子供達の首にもその銀の煌めきが嵌められて。

「勇者様。一月近くお姿をお見せにならないと思えば、どうして敵国などに……皆随分と心配致しましたのよ?」

 棘のある声色で、アスティアは言った。
 今回は勇者を庇う者は居ない。
 エーリャも騎士達も、皆不機嫌そうに口をつぐんでいる。

「いや、その……リリのさ。村がピンチだって聞いたから、つい、いてもたってもいられなくなっちゃって」
「……そもそも、一体どうやって敵国の娘とそのような関係になられたのですか?」
「それは、その。えっと」
「元々オレは勇者を狙う暗殺者で、暗殺に失敗した折 "主様(あるじさま)" のお慈悲を頂いて助けてくださったのだ」
「何?! き、貴様!!」

 黙っていろと念を押されていたにもかかわらず勇者を擁護したリリの言葉に、エーリャと騎士達は気色ばみ、しゃんと音をたてて抜刀した。
 雷蔵は慌てて暗殺者を斬り捨てるべく前に出かけたエーリャにしがみついて、喋るなと言っただろ! とリリに怒鳴る。
 しがみついた王女からは、不在にしていた間も言いつけ通りに毎朝湯浴みをしていたのだろう、花と彼女の甘い体臭が混じって雷蔵の鼻をくすぐった。

「エーリャ、落ち着け! アドラ! お前らも剣を収めろ!」
「離してください! 勇者様! 何故庇われるのです?!」
「リリも好きで暗殺しにきてたんじゃなかったんだよ! ダリス聖教の連中に家族を人質に取られていたんだって!」
「そのようなもの、理由になりませぬ!」
「こら! 落ち付けって!」
「お離しください、勇者様! このような下賤な者の家族などの為に勇者様の御身を患わせた罪、しかと償わせねば!」

 半ば取り乱したエーリャの台詞は、雷蔵にあの村での凄惨な光景を思い出させて。
 気がつくと力一杯エーリャの頬を打っていた勇者であった。
 広い室内にぱん、と乾いた音が響き渡る。
 普段の雷蔵を知る彼女達にとってその姿は信じられないものであり、一同は目を丸くして吹き出させていた怒気をしぼめた。

「勇者、様?」
「剣を収めろ、エーリャ。アドラも。お前達、俺の命令が聞けないなら首輪を外してここを去れ」

 低い声に騎士達は慌てて剣を収め、エーリャも頬を打たれたショックに顔を強ばらせながら剣を鞘に戻す。
 雷蔵はあえて怒気を表に出しつつも、内心ではやり過ぎたか? と後悔しつつなんとかこの場を丸く収めようと思案を巡らせる。
 そんな彼に唯一、気丈にも雰囲気を変えていないアスティア姫が言葉をかけた。

「……今回は理由をお聞かせいただけますでしょうか? 勇者様のお姿を見失ってより一月近くもの間。私達の心労も察して頂ければと思います」
「ごめん。心配かけたのは謝る。だけど、どうしてもリリの村を救いたかったんだ」
「なぜでしょうか? その娘は勇者様を狙った暗殺者なのでしょう?」
「ああ。だけど、それは仕方無かった事だ。家族を人質に取られていたからな」
「それが、どうして……パラス関を破壊し、年端も行かぬ子供をハレムに入れて凱旋なさったのです?」
「家族を……村ごと焼かれていたからな。それこそ、非道い略奪をされてて。この子達は連中に捕まってて、助けたんだ」
「左様ですか。しかし、なればなぜ首輪を?」
「行く当てがないんだし、仕方無いだろ? 最後まで面倒を見るべきだと思うし。だから、『勇者』の庇護の下、成人するまでは面倒見ることにしたんだ」

 雷蔵の説明に、アスティアはその背後で不安げに佇む子供達へと視線を移す。
 少々みすぼらしいその姿は頼りなさげで、ただ首に巻いた銀の首輪だけが誇らしげに鈍く光っていた。
 ――たしかに、暗殺者の村の出である子供には、引き取り手など現れはしないだろう。
 城に帰って来るなり首輪を与えたのはきっと……

「……つまり、その子供らは」
「ああ、手は出しちゃいないよ。むしろ、 "持病" によって手を出さないよう、 "力" を使った後その場を離れて寝込んでしまった位だし」
「まぁ! お体はもう大丈夫なのですか?!」
「うん、今はもうね。一週間近く寝込んでて、その間この子らに匿われてたんだ。帰りが遅くなったのも、そのせいさ」

 そう言うや雷蔵は恥ずかしそうにたははと笑う。
 そこに先程までの強く威圧的な雰囲気は無く、いつもの勇者の姿があって、少しだけ女達を安心させた。
 内心一時はどうなるかと気をもんでいたアスティアは、その様子に胸をなで下ろしつつも、うまくこの場を収める事ができそうだと安堵する。

「そうだったのですか……」
「兎も角、この子らは俺が面倒見ることにしたんだ。リリのしたことが気に入らないと思うのは良い。だけど、できれば仲良くしてやってくれ」

 雷蔵はそう言って、一同を見渡した。
 未だ頬を打たれ放心するエーリャを除けば、目が合った者はコクンと頷いてこれに応える。
 勇者はそんな彼女達の反応に満足し、わかったらこの話はこれでお終いにしよう、と宣言した。
 こうしてその場は多少の気まずさを残しつつも、それぞれに一応の解決を与えて柔らかな雰囲気を取り戻していく。
 頬を手で押さえ、俯くエーリャを除いて。
 そんな彼女の様子をすこし気にかけつつも、雷蔵は保護した少年達の為にいくつかの頼み事をアスティアに伝える事にした。

「あ、それとアスティア。イグナートに3人、従者を送るからと連絡をしてくれないか?」
「従者、ですか?」
「ここにいる、ジュートとロスト、ラスの事だよ。流石に年頃の男の子をハレムに居させ続ける理由にはいかないし」
「お手元に置かないので?」
「うん、こいつらには広い世界をみせてやりたいし。それに将来、俺の補佐をして貰う奴らだから、アイツの下で学んだ方がいいと思うんだ」

 雷蔵はそう言って、後ろに居た3人の少年に笑いかけた。
 少年達はなかば、憧れと化していた勇者の微笑みにはにかみ、恥ずかしそうに視線を伏せる。
 その仕草は既に暗殺者としての訓練を積んだ子供とは思えない程、幼く愛らしいものであった。
 アスティアはその姿を見て釣られて微笑みながらも、少し気になっていた残る少女達の事を尋ねる。

「女の子の方は?」
「女官見習いとして扱ってくれ。……もう、この子らには暗殺者としての生活はさせたくない。おまえらも、わかったな?」

 今度はリリを除いた少女が、頬を染めつつもコクリと頷く。
 相も変わらずリリは無表情で、頷きもしなかった所を見るとどうやら女官待遇は不本意なんだろう、と雷蔵は感じ取った。
 あの日、関を破壊した時。
 あれ以来、リリは雷蔵の事を "主様" と呼び、それまでの言動とは想像も付かない程甲斐甲斐しく仕えるようになっていた。
 如何なる心情の変化があったのか雷蔵には知る由もなかったが、恐らくは勇者の為、影に汚い仕事を引き受け続けるつもりであったのだろう。
 だが、雷蔵もそれをわかっていて、彼女を女官として扱おうと考えていたのだ。

「わかりました。ではあなたたち、こっちにいらっしゃい」

 アスティアは子供達にそう声をかけて、部屋を退出すべく一同を促す。
 雷蔵の話は城から居なくなった約一月の間、碌に休まる時を過ごしてはいないと彼女に判断させて、気を利かせたのである。
 そういった、よく気がつくところは雷蔵にとってありがたい物であったのだが。
 勇者は健気にももう少しだけ、彼女達の所有者としての責務を果たすことにしたのだった。

「エーリャ、アドラ、リューは残れ」
「勇者様?」
「お前達には話しておかなきゃいけないことがある」

 雷蔵は冷たくそう言って、スゴスゴと部屋から出て行こうとしていた彼女達を呼び止めた。
 特にエーリャはぶたれたショックからか目に涙を貯め、雷蔵の顔を直視する事も出来ずにその場で立ち止まるのが精一杯である様子だ。
 また、流石に勇者の引き留めにアスティアは納得がいかないようで、怪訝そうな表情を浮かべて雷蔵を睨む。
 その瞳には何故、この場で最も勇者様に理解を示した私でなく、エーリャや騎士達を? といった意志が込められていて。
 口程に物を言う彼女の視線に雷蔵は苦笑いを浮かべ、アスティアにだけすこし柔らかな声色でわかってくれと雷蔵は弁解を試みた。

「こいつらに "説教" したら後で俺の方からアスティアの部屋に行くよ。 "二人きり" でゆっくりの方がいいだろ?」
「……はい。お待ちしております」
「いつもありがとうな」

 二人きり、と言う部分を強調され、更に皆の前で自分だけ優しく接してもらえたのが彼女のプライドを満たしたのか。
 思いの外、アッサリと引き下がったアスティアは、ほんのり耳を上気させつつ、すこし上機嫌に呼び止められた三人を残して皆を連れて退室していった。
 こうして、雷蔵の部屋には男が一人と肩を落とした女三名が残り、微妙な空気を引きずる。

「エーリャ」
「は、はい!」

 低く、先程聞いたアスティアへの声色とは似つかぬ声での呼びかけに、エーリャは我を取り戻して反応する。
 その目の前には勇者が立っており、すこし眼光を鋭くして彼女の両肩に手を添えていた。

「俺の目には人の身分に下賤も高貴も映らない。お前は家族の命を救う為、単身敵地に潜入した小さな女の子の、その志を下賤だと言ったな?」
「……はい、確かに申しました」
「本心か?」
「……それは」

 改めて問い詰められ、口をつぐむ。
 言葉は確かに本心であった。
 普段の聡明で慈悲深い彼女ならば、リリの置かれていた状況を聞けば共に怒り、同情でき、彼女の為に剣をも抜いただろう。
 が、あの時彼女に下賤と言わせたものは忠誠と、相談して貰えなかった悔しさ、嫉妬、独占欲からであると、今の彼女にどうして言えようか。
 たとえ嘘をつけないとしても、本心だったと言えば間違いなく、自分は勇者に見限られる。
 しかし、嘘はつきたくはない。
 そんな葛藤がエーリャの胸の中でせめぎ合い、彼女を黙らせる。
 雷蔵は俯いて黙り込むエーリャの心中を、なんとなくであったが読み取り、少し安心しながら声色を和らげた。

「エーリャ。お前の忠義はわかる。だけど、俺が欲しい忠義は、そんな盲目的なものじゃない。わかるよな?」
「はい……」
「じゃあ、後でリリに謝っておけ」
「はい、おおせのままに」
「……頬を見せて見ろ。ごめんな、結構強くぶったからな」
「あ……」

 雷蔵の行動が予想外だったのか。
 突然、優しい声をかけられて顎を持ち上げられたエーリャは、驚きの声をあげると同時に大粒の涙をこぼしてしまう。
 その表情と声が雷蔵にはたまらなく愛らしく見えて、白い頬を伝う涙をペロリと舌先で舐めて見せた。

「勇者、さま……」
「アドラ、リュー。お前達も俺の言いたい事が理解できたか?」
「……は」

 力こそ無かったが、心からの返事に雷蔵は満足し、涙を止めることなく流してとろんとしてしまっているエーリャから離れ、ベッドに腰掛けた。
 その態度は先程土下座をしていた男のそれではなく、威厳すら感じられて。
 雷蔵本人もどうしてこのような余裕が生まれているのか、どうしてこのような事ができるのかと疑問に思いつつも、この場は上手いこと切り抜けられたと安堵を覚えていた。
 同時に、結局は相手の失言につけ込み、最も立場の強い自分が怒り、場を凌いだに過ぎないと自覚もして。
 行動の卑劣さに雷蔵は強く自己嫌悪しつつも、先程エーリャを打った行動を反省し、せめてこの後は精一杯彼女に優しくしてやろうと考えて、ゆっくりと金と銀の首輪をした女達を見渡した。
 そして、『勇者』として過ちを犯した彼女達に命令を下す。
 もう少しだけ醜悪な自尊心を保ち、身勝手な行いを正当化させる罪悪感の味を舌の根に含む事を覚悟しながら。

「わかったならいい。三人とも、着ている物をすべて脱いでこっちに来い。たっぷりと、 "お仕置き" をしてやる」

 欺瞞に満ちた命令は、誰よりも雷蔵自身を羞恥に染めて。
 頬に朱をさしながら、遠慮がちに鎧の留め具を外し、着ていた衣服を一枚、また一枚と脱ぎ捨てる三人の女を眺める男は。
 きっと、後日に今日のことを思い返した自分は、バカだったと後悔するんだろうなと考えて苦笑する。
 しかしそうなるとわかってはいてもだ。

 目の前に差し出された3つの裸体へ手を伸ばす以外に、猛った芯を鎮める術は持たぬ勇者でもあったのだった。




















19 密使

 その日の早朝は幾分か寒かったものの、日中は暖かな春の日差しに眠気を誘う日であった。

 城砦都市クイシャンテの城の中庭に設えた、練兵所の一角。
 城中を守衛する兵士や騎士達が行き交い、訓練に明け暮れる広い広場の隅に設営された、野戦などで高級士官が使用する豪華なテントの前。
 一人の男を中心に20人弱程の見た目麗しい女達が扇状に腰を下ろして何やら神妙に話をしていた。
 彼女達は勇者直属の女騎士団である、ラムル宮殿騎士団の面々でその他にもアスティア姫、エーリャ王女、そしてリリと暗殺者の村の子供達の姿もある。
 その様子は城勤めの者達には目の毒となるほど華やかであり、何事かといくつもの視線を集めていた。
 そんな遠目にチラチラと目の保養とばかりに眺める彼らに幾度も教導官の怒鳴り声が浴びせられ、しかしその教導官の視線も感じながら雷蔵は。

「しかし、どうしたもんかな。こう連日だと、流石の俺もオチオチ寝ていられん」
「……今週に入って、昨夜で3人目ですものね」
「アドラ! お前達は何をやっていたんだ! 毎回毎回……昨日こそ、あれ程警備体制を見直したばかりだというのに!」
「それが……」
「よせよ、エーリャ。そもそも、俺の寝所の警備が手薄なのは、 "取り決め" があるからだし」
「勇者様、やはりドルチア伯にお願いして警備を更に増やしてもらった方が良いのでは……」
「アスティア姫、それはムダだ。今以上に衛兵が増えても、侵入の度に進入路の警備の者が音もなく殺されるのがオチとなろう。オレならそうする」
「だね。お城の中は結構身を隠す場所あるし。闇に紛れて背後を取って、鎧の隙間から肺に向けて毒剣をブスリ! で簡単に」
「やめなさい、シュシュ」
「うっ……ごめんなさい、あるじさま……」

 シュシュと呼ばれた10歳程の少女は、物騒な物言いを雷蔵にたしなめられ、しゅんとしてしまった。
 そんな彼女を隣に居た、幾人かの同年代程の少女達が慰めはじめる。
 彼女達は鎧姿の者が多いその場にあって、メイド服のような服を着ていた。
 リリと共に雷蔵付きの侍女見習いとして働く、暗殺者の村 "毒牙の一族" の生き残りである少女達の今の姿である。
  "毒牙の一族" はダリス聖教国の軍により村ごと殲滅させられ、唯一生き残った彼女達を雷蔵は暗殺者の道から日の当たる場所へと導いたのであったのだが。
 ここ数日の内に頻発する勇者の不眠の原因が原因だけに、特別にリリと共に彼女達をこの場に招集していたのであった。

「リリ。やっぱ、城に忍び込まれないようにするのは無理なのか?」
「まず無理でしょう、主様。我らの一族に限らず、ダリス聖教国の暗殺者達は隠行術に長けています。気配を察知できるのは、オレか主様位かと」
「……リリ。私はいつも疑問に思うんだが」
「なんだ? エーリャ王女」
「何故、お前は勇者様が暗殺者に襲われる現場に、毎回居合わせているのだ?」
「愚問だな。オレは暗殺者の気配を察して、主様の御身を守らんと……」
「その割には、なぜか毎回 "怪我をしない程度に" 負けて、勇者様の御手を煩わせているようだな?」
「……日中は主様の命で、女中の真似事をしているからな。腕が鈍ってしまっているのだ」
「そうか。そういうことか。……私はてっきり、ワザと負けて見せ、勇者様に助けて頂いた上に "持病" を鎮めるフリをして寵を貪っているのかと思っていたがな?」
「……考えすぎだ、エーリャ王女。オレはそんなつもりは毛程も考えてはおらぬ」
「あー! リリずるい! あたしなんて、いまだあるじさまに手を出して貰ってないのに!」
「やめなさい、シュシュ。せめて後5年は待とうな?」

 シュシュは冷静な勇者の言葉にもう一度しゅん、として先程と同じように周囲に座る同族の少女達に慰められた。
 そんな彼女達の側では、美しい顔を鬼のように変化させたエーリャと無表情のリリが視線をぶつけ合い、激しく火花を散らしている。
 先日の一件以来、エーリャは正式にリリや子供達に謝罪をしたものの、わだかまりは解けはしなかったようでリリとは万事この調子であった。
 リリの方も身分差を意識してはいるようではあったが、突っかかってくるエーリャとはまともに相手をしない言動から少なくとも仲良くするつもりはないようだ。
 雷蔵はまるで、猫と犬の牽制を見るように二人へと視線を投げて、それからアスティアの方へ向き深くのため息をつく。
 金髪の美姫はそんな勇者の姿に苦笑いを浮かべつつも、それが自分の役目であるかのように話を元に戻すべく、二人をたしなめ話を元に戻した。

「ともかく、です。こう、毎夜のようにダリス聖教国の暗殺者に勇者様が襲撃されては、宮殿騎士団やドルチア伯の立つ瀬もありませぬ」
「勇者様! やはり、毎夜交代で幾人か御部屋に詰めさせて貰う訳には……その、なんでしたら、私が毎夜泊まり込みでも構いませぬが」
「ダメ。エーリャ、変な序列や義務みたいなものが生まれないよう、基本的には俺の部屋にやって来る順番とかは決めない取り決めにしたろ?」
「しかし……」
「それに。巻き添えでこの中の誰かが傷つくのはイヤだし」

 雷蔵はそう言って、ゆっくりと自分を注視する騎士達を見回した。
 勇者の優しげな言葉にその場にいる者達は皆、それぞれに想いを暖めてある者は忠義を、またある者は陶酔を募らせた。
 そもそも、ラムル宮殿騎士団は基本的には実力よりもその見た目を重視して、『銀騎士』イグナートが編成した騎士団である。
 従って、訓練により規律は保たれ、又幾人かは腕が立つ者が居はするものの、荒事には向かずどちらかと言えば儀仗兵に近い存在だと言えよう。
 如何に騎士として日々の鍛錬を積み重ねているとは言え、彼女達の役目はあくまでも雷蔵を慰めるハレムの構成員なのだ。
 それ故、勇者の私室へ暗殺者の侵入を許してしまうという失態を繰り返してしまっても、責任を問われる者は誰一人として居ない。
 いや、責任の所在を問うならば、形式上主君の仮の居を提供しているクイシャンテ城の城主、ドルチア伯こそが真っ先に追求されてしかるべき立場である。
 無論、その事はドルチア伯が最も痛感している所ではあるのだったが。
 雷蔵が暗殺者に襲われる度に巡回する衛兵を増やし、夜を徹しての警戒を行って尚、暗殺者に侵入を許してしまう有様であった。
 これは先程のリリの言にある通り、城の警備体制が良い悪いといった話ではなく、ダリス聖教国の暗殺者達の方が数枚上手であるという事実ともう一つ。
 雷蔵が居を構える城の、私室がある階層には彼のハレムを構成する者達の部屋が宛がわれ、基本的には城の者は近寄れない、といった事情もあった。

「なあ、リリ」
「は」
「お前の……一族みたいにさ、俺が『本物の勇者』だって証明できれば、こんな事もなくなるよな?」
「はい。しかし、それは難しいかと。同じ聖ブレイブ教の教徒であっても、ダリス聖教派はかなり排他的です。オレの一族はむしろ少数派でありましたし」
「なんか良い方法はないかな」
「勇者様。いっそ、勇者様のお力でダリス聖教国を討伐されてはいかがでしょうか?」
「む、無茶言うなよエーリャ!」
「そうですわ、エーリャ王女。戦はただ、相手を打ち負かせば良いという物ではないのですよ? 占領した都市の運営や治安維持にどれ程の兵が必要になるか……」
「アスティア姫、それはそうですがしかし。このままではラチがあきませぬ。――それに、今までは皆男の暗殺者ばかりでしたが、次もそうであるとは限らないのですよ?」

 エーリャはそういって、意味ありげにちらりとリリの方へ視線を投げた。
 まるで、これ以上妙な人物が雷蔵のハレムに加わってはたまらないと言いたげに。

「心配するな、エーリャ王女。その時はオレが主様の御目に入らぬ間に始末してやる」
「はは、それはいい。頼もしいな、リリ……て! 貴様! やはり昨夜まではワザと」
「もう、やめろってエーリャ。リリも。そんな物騒な考えは辞めろよ」
「う、すいません……」
「……御意」

 まったく、と雷蔵は再びにらみ合う二人をじっとりと睨んで、困ったように唇を尖らせた。
 おなじくアスティア姫も困りましたわね、と言外に愚痴を吐きながらため息をつく。
 すこし重苦しい沈黙がその場を支配して、しかし暖かな春の日差しが心地よい時間ばかりが過ぎていった。
 一同は特に劇的な解決方法を見いだせぬまましばしの沈黙を続けて、彼女達を見下ろす小鳥ばかりがさえずり。
 雷蔵がその鳴き声に春を感じながらも、これはしばらくは "傾国" を抱いたまま、眠ることになりそうだと考え始めた時である。 

「ああ、勇者様! ここにおわしましたか!」

 沈黙を破り勇者を囲む女の輪の中に入って来たのは、クイシャンテの城を預かるドルチア伯であった。
 伯は50歳を少し過ぎた位で、痩せた体躯と寂しくなった頭が特徴的な武人である。
 その、禿げ上がりつつある頭とは対照的な、立派な口髭と甲高い声は見る者に神経質な印象を抱かせた。
 彼は元々『銀騎士』イグナートと争う王子の傘下に属していたのだったが、国境の要所を預かる者として王子達の覇権争いには消極的であった。
 他の貴族達はそれぞれに家名と野心を胸に抱き、ある者は兄王子達に、ある者は『銀騎士』への恭順をしめして利益の保護を図る中、彼だけは頑なに兵を城砦都市からは動かさなかったのである。
 長年城砦都市クイシャンテを守ってきたその手腕は『銀騎士』に高く評価され、一度は勇者軍と剣を交えたにもかかわらず、その忠誠を条件に異例の待遇で領土の全てを安堵された人物でもあった。

「ドルチア伯、そんな血相を変えてどうしたんですか?」
「どうしたも何も、勇者様。ダリス聖教国からの密使といいますか、密書が先程届きまして」
「密使? 密書? て、俺、昨夜も暗殺されかけたばかりなんだけど……」
「あいや、その件は本当に面目ございませぬ。なんでしたら、責任者を幾人か更迭ないし処罰して……」
「い、いや、そこまでしなくて良いですよ、今話してた所なんですが、幾ら警備を増やしてもどうにかして潜り込んでくるのが暗殺者だし……」
「左様ですか……。しかし、だからといって何も対策を……あ、いや。話が逸れてしまっておりますな」
「ですね。それで? 暗殺者をあんなに放っていながらダリス聖教国からはなんと?」
「は。まずはダリス聖教法王よりの密書をここにお持ちしましたので、お読みになってくだされ」

 ドルチア伯はそう言って、懐から一通の手紙を取り出し恭しく雷蔵に手渡した。
 手紙は蝋で封をされており、雷蔵はエーリャから少し無骨な短剣を受け取って手紙の端を切り取って中身を取り出す。
 文字自体はCFMMの導入時、言葉と一緒に会得しているので問題は無い。
 果たしてそこに書かれていた内容は驚くべきものであった。
 なんと手紙はダリス聖教国の君主、ダリス聖教法王直筆もものであり。
 書かれた綺麗な文字は、勇者に助けを求める内容であったのだ。
 雷蔵はその内容を読み進めていくにつれ、みるみる内に表情を困惑させ眉根を寄せさせる。

「勇者様?」

 怪訝な表情でアスティア姫は雷蔵にどうしたのかと尋ねるも、返事は無かった。
 ドルチア伯も先に交わした警備の話がその気を引けさせているのだろう、少し居心地が悪そうに雷蔵が何か言葉を発するのを待っている。
 雷蔵は幾度か手紙を読み直しながら、口の端を強く結んでどうしたものかと考え込んでいた。
 手紙には。
 法王自身が再臨した『勇者』への帰依を願っているにもかかわらず、国政の実権を握っている数名の幹部に阻まれ出来ないでいること。
 その幹部達は権力を私物化し、あまつさえ法と教義を思うようにこねくって、私腹を肥やし欲望をみたしていること。
 本来ならば自分がそれらを止めるべきであるのだが、その歴史の中で法王自体が実権を持たぬ権威だけの存在にされてしまい、彼らを止められないでいること。
 その為、国民は貧し、本来信仰すべき勇者へ剣を向けてしまう事態を招いてしまっていること。
 最後にどうか助けて欲しい、己の命は兎も角、ダリス聖教国を彼ら "背教者" から救って欲しいと手紙は締めくくられていた。

「ドルチア伯、手紙の内容は?」
「は。大まかな内容は、密使より伺っております。が、中に書かれている事は勇者様が最初に読まれましたので、自分には詳しい事は」
「リリ」
「は」
「ダリス聖教の法王って、どんな人物だ?」
「オレにはよくわかりません。が、長年実権は法王ではなく、国政を行う5名の教主が握っているというのがダリス聖教国民の認識です」
「そうか」
「勇者様、手紙にはなんと?」
「ダリス聖教法王から直々に、助けてくれってかいてあった。……でもこれ、信用出来るかな、アスティア」
「……難しいですわ。普通に考えれば、何かの罠ではないかと考えられます」
「だよなあ」
「いかがなさいましょう? 勇者様。自分が判断する案件ではないのでご指示を仰ぎたい次第です。とりあえず、謁見室で密使を待たせております故」
「その必要はないぞ、ドルチア伯。儂の方から勇者殿に逢いにきたでの」

 何時の間にそこに居たのか。
 聞き覚えのある声でくくと笑う妖艶な美女は、ドルチア伯の背後に立ち熱っぽい視線で勇者をみつめる。
 一同は人物に言葉を失い、目を丸くしながらこれは一体、と忙しなく視線を移動させた。
 リリと "毒牙の一族" の子供達を除いて。
 しかし、その驚きは無理からぬ話でもあった。

 なにせ、ダリス聖教法王の密使とは『時の魔女』ノルンであったのだから。




















20 魔女の印象

 久しぶりに見る毒婦は、変わらず邪悪に笑いながら大きな胸を両手で抱き、凄艶な容姿を誇示して勇者の前に立つ。

 勇者を喚びだした『時の魔女』ノルンは、練兵場にダリス聖教法王の密使として再び雷蔵の目の前に現れていた。
 久しぶりに見るその姿は、彼女には珍しく長く艶やかな黒髪を後頭部で纏め、新鮮な印象を雷蔵に抱かせていたのだが。
 いきなり敵国の密使という肩書きで現れた魔女に、勇者はそんな感想を実感する間もなく、矢次に質問を彼女に投げつけていた。
 魔女はそんな雷蔵の態度を楽しむかのように、くつくつと笑い、のらりくらりと実の無い返答を繰り返す。
 彼女の事を知らないドルチア伯やリリ達はその様子をただ、眺め続けて。
 彼女の事を知るアスティアとエーリャ、そしてラムル宮殿騎士団の面々は、悪い予感を抱きながらも同じく事の成り行きを見守り続けた。

「ワケがわかんねぇよ!」
「くく、そうかの? まぁ、勇者殿の驚く顔が見てみたかった、というのは否定せんが」
「どういう事か説明してくれよ!」
「説明、と言ってものぅ。……あ。そうか。勇者殿は、儂が勇者殿の元を離れ、他国の使いなどに身をやつして嫉妬しておるのじゃな? ひひ、愛い(うい)のぅ。心配せんでも、儂は勇者殿のお側を離れたりはせんよ」
「そうじゃない! なんで、ラムル宮殿で留守番してるはずのお前が」
「む? 儂は別に留守番役を引き受けたつもりはなかったが?」
「はぁ?!」
「もしや、勇者殿は儂が大人しく、甲斐甲斐しく主の帰りを待つ女と評しておったのか? くく、それはそれは、光栄じゃの」

 雷蔵はふん、と鼻で笑いながら少し困ったように肩を竦める魔女の姿に、言葉を呑み込んだ。
 ……そうだ。
 よくよく考えてみれば、コイツは大人しくどこかでじっと待つような奴じゃないと解ってたはずだ。
 いやそもそも、そもそもは、だ。
 イグナートの要請で俺がここへやって来たキッカケは、コイツの提案から始まった事だ。
 もしかして、すべてコイツの手のひらの上での事、だったとか?
 あの、街で初めて "再現" を使った事も。
 リリに殺されかけた事も。
 ――あの村の惨状を目にした事も。
 実は全部、コイツが……『時の魔女』ノルンが仕組んだ事だったりするのか?
 疑問は真意をつかめぬ魔女への強い不信へと替わり、雷蔵の思考の方向を定める。
 実際『時の魔女』と嘯く女がどれ程の策略を労し、状況を、未来を、運命をどれ程操れるのかは雷蔵にはわからない。
 ただそんな勇者であっても、少なくとも彼女ならば謀略をもって村一つ、国一つを滅ぼすことなど造作もないとは感じていた。

「……ノルン」
「ひひ、なんじゃ? 急にそんな怖い顔してからに」
「まさかお前、全部こうなると "知っていて" ……いや、こうなるように仕組むつもりで、俺を一人でここに送り出したのか?」
「……だとしたら、どうする?」

 魔女は雷蔵の言葉に、妖艶に笑い薄く赤い唇の端をつり上げた。
 刹那、白い閃光が彼女の胴を両断する。
 毒婦の魔性とも言える美貌につい見とれていたドルチア伯や、やり取りを緊張を持って見守っていたアスティア達は、既に "傾国" を抜いた雷蔵の姿のみを追視して。
 一同は遅れて、勇者が目の前の魔女を斬ったのだと理解し、斬撃の結末を予想して声を上げかけた。

「おぉう、これは中々。いや、勇者殿もかなり短気になられたようじゃの。くく、いやいや、それ位でなければ」

 しかし魔女は。
 何事も無かったかのようにくつくつと笑いながら、目を細めて愛しそうに雷蔵を見つめ続ける。
 両断されたはずの細い胴は、確かに剣の間合いの中。
 勇者はその手に残る手応えを反芻しながらも、屈託無く、まるで悪戯な我が子を見る母のようでさえあるノルンの笑みに歯を噛んだ。

「くく、随分と気を害したようじゃの。まぁ、落ち着くがよかろ」
「黙れ! 何を考えて居るかわからねぇが、 "あれ" は……あれだけはやり過ぎだ!」
「む? あれとは?」
「とぼけるな! リリの村の事だ!」
「ほ! 随分と短絡な結論を出したのう。それで問答無用で儂を斬ったのか」
「じゃあ、なんだ?! リリが来て、村が焼かれて、次にお前が来て! 全部偶然だと言うのか?! 随分とタイミングがいいじゃないか!」
「落ち着けと言うに。まったく、その様子だとかなり "力" を使うたようだの? 気付いとるか?」
「何がだ!」
「ラムル宮殿を出た頃よりもずっと好戦的になりやすくなっとる。お主、以前と比べて最近の怒り方に変化が現れておらぬか?」

 指摘され、雷蔵ははっとする。
 真っ先に思い出されたのが、エーリャの頬を打った時の事だ。
 確かに、以前の……ラムル宮殿に在って、『勇者』らしく在るという目標を立ててはいなかった時の雷蔵であれば、女の子の頬を打つような事はしなかったであろう。
 それに、先程の斬撃も。
 相手がノルンでなければ間違いなく、身体を両断できていた一撃であった。
 否。
 本気で、殺すつもりでその一撃を放っていたことに気付いて雷蔵は戦慄する。
 ――俺は。
 いつから、こうなった?
 いや、いつからこうなっていた?!
 確かにあの村で見た光景は、怒りを燃やすには十分なものだ。
 だけど、いやだからといって……
 いままでなら、 "傾国" を抜く前から殺意を込めて力を振るう事なんて無かったはずだったのに……

「くく、落ち着いたか?」
「ノルン、俺は……」
「言っとくが、そのリリとかいう娘の村のことは儂は関係無いぞ。何が在ったかは知っとるが、儂ならあのような雑なやり方はせんよ」

 魔女はそう言って、ひひと笑いチラリとリリの方へ視線を移した。
 元暗殺者はそんな悪魔と視線をぶつけつつも変わらず表情を変えずに、しかし僅かに口の端に力を入れる。

「あの、勇者、様?」
「……え? あ、なんでしょう、ドルチア伯」

 何やら急速に気まずい空気へと変わりゆく場に介入したのは、ドルチア伯であった。
 遠慮がちなその声は甲高く、しかし自身の内側へと意識を沈めつつあった雷蔵を呼び戻し、僅かであったが場に春の陽気を思い起こさせる。

「こちらの密使の方とはその、お知り合いで?」
「え? ああ、えっと」
「くく、伯。実は儂はの、勇者殿のハレムの一員でな。時には勇者殿の鬼謀を『銀騎士』殿に伝え、時には敵国との "つなぎ" として勇者殿の影となり暗躍する事が役目なのじゃよ」
「なんと! 本当ですか、勇者様?!」
「え、あ、うん、まあ」

 なんとも間抜けな、気のない返事であったが。
 ドルチア伯は雷蔵の肯定にいくらかの得心を覚えながらも、可可と少し乾いた愛想笑いを浮かべ歯を見せた。
 いやはや、と出す陽気な声は少々取り繕ったものであったが、それでも場の緊張を和らげるものであると言えよう。

「そうでしたか! いやなんとも、勇者様もお人が悪い。一言、前もって私めに教えて頂いていたならば!」
「ひひ、こう城内に毎夜暗殺者が入り込んでおる状況から言えば、こういった事を秘匿するのも仕方なかろう。のう、伯?」
「う……それは、そうですが……しかし、焦りましたぞ、勇者様。いきなりダリス聖教法王の密使を斬り捨てられたのかと、肝を冷やしました」
「何、ドルチア伯。それも勇者殿の "確認" じゃて」
「確認、ですか?」
「うむ。つまり、儂が本物であるならば、あの程度の斬撃は避けて当たり前というわけじゃな」
「避けて、当たり前……ですか?」

 伯は魔女の言葉に背筋を凍らせる。
 先程の勇者の一撃は、機といい、気迫といい、必殺と言える物であった。
 それは武において勇者に(正確には "再現" された名も無き剣豪に)遠く及ばない彼であっても、アレは誰かを試すような斬撃ではないと解る。
 なにより、あの一撃は目の前の美女の胴を間違いなく薙いでいた。
 そしてそれは、常に勇者の側に控える後宮の女達でさえ、そうだと思わしめた攻撃であったはずだ。
 それを、この女は。

「儂の顔に何か見えるかの、ドルチア伯? くく、よもや勇者殿の妾である儂に劣情を催したわけではなかろうな?」
「い、いえ! 滅相もございませぬ。ただ、あの勇者殿の一撃、如何にして避けたかと……」
「何、美女には付き物の "秘密" とやらじゃよ。ところで、勇者殿。場所を移さぬか? 積もる話もあろうし、ダリス聖教法王の真意も話さねばならん」
「あ、ああ……そう、だな」
「アスティア姫、エーリャ王女。悪いが、しばし勇者殿を借りるぞ?」

 突如、話を振られたエーリャとアスティアは、いきなりの展開について行けぬまま、人形のように首を縦に振った。
 ノルンは彼女達の反応に僅かな笑みを浮かべ、もう一度、リリと視線を合わせる。
 それは意図的であったのか、それとも偶然であったのかははっきりとはしなかったが。
 リリの無表情の向こうに確かな敵意を感じ取っていた魔女は、ほんの僅か、心を読み取ろうとするその瞳に向け己の意志の一片をみせてやった。
 それから、笑みを邪な表情変えて見せ、リリから視線を外して雷蔵を伴い、悠然とその場を去ってゆく。
 その様子を遠巻きに見ていた訓練中の兵士達を含め、後に残された者達は、やっとその異質な空気に気がついてそれぞれに胸をなで下ろす。
 やけにイラついていた勇者の剣気。
 一所に、無数の美女が群れをなしていた事。
 再臨した聖王と、城主の存在。
 長年争って来た、隣国の密使。
 それらは知らず、その場にいた全ての者の気を張らせて。
 何より最も異質であった黒い美貌の持ち主が立ち去った事で、奇妙な安堵を全ての者に与える。

「リリ!」

 最初にリリの異変に気がついたのは、シュシュであった。
 皆が茫として、得体の知れない安堵に胸をなで下ろす中、何時からそうしていたのか、リリは両腕を抱えるようにしてうずくまっていたのだ。
 彼女は息を少し荒げ珍しく険しい表情を作り出し、ただ地を見詰めて呟く。

「なんだ、アレは。あんな……あんな人間が、どうして……」
「リリ? 大丈夫?」
「……シュシュ。お前は平気なのか?」
「ん? 何が?」
「あいつの目を見て……」
「ああ、リリはあの人の心を覗こうとしたんだ? あたしは意識してなかったから……なんだか怖い人だったし」
「そう、か。見なくて正解だったな」
「……何が見えたの?」

 何時の間にか蹲るリリを囲む形で集まっていた女達の視線の中心で、唯一魔女の心を "覗かされた" 少女は呻くように答える。

「……闇だ。見たことも無い程濃い、な」

 そう言って、少女は魔女と勇者が立ち去った方向を眺めた。
 そこに黒い美女と敬愛する勇者の姿は既に無い。
 彼女の冷や汗は、その後もしばらく止まりはしなかった。



 場所は変わり、勇者の私室。
 雷蔵は何やら考え込み、ソファに身を沈めながら絡めている自身の両手の指を見詰める。
 その様子を魔女はつまらなそうに眺めて、一つ鼻を鳴らした。

「何を塞ぎこんどるんじゃ。まったく、いきなり斬りつけてきて少しは成長したかと思うたらこれじゃ」
「うるせぇ。それよりも、まだちゃんと聞いてなかったよな」
「む? 何がじゃ?」
「なんでお前がダリス聖教の法王の密使なんだよ?」
「何。お主を送り出したはいいが、 "時放つ世界のかけら" は一向に集まりそうになかったでな」
「はぁ?! だってお前、俺の役目はここを……」
「ふん。儂としては、『勇者』が此処を拠点に各地へと檄を飛ばして、西方へ攻め入る位はすると期待しておったんじゃよ。なのにお主ときたら……」
「……悪かったな」
「全くじゃ。少しは自分から行動に移すようになると思うたが、まだまだ状況に受け身だからの。こうやって、儂が暗躍しとるというわけじゃ」
「それで密使、って事か。しかし、よく法王とやらに取り入ったよな?」
「くく、何。法王自身は元々勇者への帰依を望んでおったようだしの。説得自体は簡単じゃった」
「いつも思うけど、そんな情報は一体どっから……」
「ひひ、何。『銀騎士』を殺しに来た暗殺者の頭の中をいじくり回す内に得た、記憶の断片を継ぎ接げばすぐにわかったわい」

 暗殺者に魔女は一体何をしたのか、雷蔵は想像して表情を引きつらせてしまう。
 ノルンはその表情を見て気を良くしたのか、悪戯っぽく微笑んで雷蔵の隣に座り肩に腕を回した。
 それから、耳に息を吹きかけつつ、囁くように話の続きを始める。

「お主は気に入らぬだろうが……一つ、耳寄りな情報じゃ」
「……んだよ」
「彼の国はの、既に破裂寸前での」
「はぁ?」
「切っ掛けは、お主が破壊したパラス関。あれが良かった」
「何がだよ?」
「何、アレを一瞬で壊した奇跡の噂での、国民の多くは教義よりも勇者の再臨を信じるようになってしまったと言う事じゃな」

 魔女は話しながらチロチロと雷蔵の耳を舐めて、最後にハムと噛む。
 雷蔵はその行為に抵抗も集中もせず、只為すがままになってノルンへと視線を流し続けていた。
 その鼻には既に懐かしい、覚えある甘く官能的な女の体臭が入り込んで、雄の情欲をくすぐる。

「それでの。元々彼の国の地下で活動をしておった、反教義主義者どもがかつて無い程勢力を伸ばしておってな」
「反教義主義、者? もしかして、ダリス聖教の教義じゃなくて、『勇者』そのものを信仰する勢力か?」
「くく、よぅわかったの。その通りじゃ。連中の目的はダリス聖教の実権を握る、5人の教主の打倒し法王へ国の実権を取り戻す事なんじゃが」

 言葉は遠く、勇者の耳に聞こえて。
 何時の間にかシャツの中に侵入してきた女の手のひらは、雷蔵の胸板をなぞり間断なくゾクゾクとした刺激を送り込む。
 それは幾度も味わい、しかしながらこの城砦都市にやって来てからは一度も感じたことのない物で。
 この時雷蔵は改めて、この魔女が操る性技は他の誰よりも遙か高みに達している物なのだろうと認識を繰り返す。

「――こりゃ。聞いとるのか? これは『勇者』へ大事な話をしに来た、密使との会談なのじゃぞ?」
「きい、てるよ」
「での。法王は聖都で蜂起する連中の指揮をお主に執って欲しいらしいのじゃ。つまり、勇者が不埒な背教者から法王と国を救う形として反乱の正当性を与えたい、というわけじゃな」
「う、それ、で?」
「何、連中へは既に "わたり" はつけておる。早い話、お主には秘密裏に聖都へと侵入して貰い、気に入らぬ連中を倒してくれということじゃな。ま、勇者軍へ恭順する大義名分としてはそれが良い形にもなろうの」
「そんな、無茶、な」
「そうでもないぞ? 先も言ったが、彼の国は破裂寸前じゃ。権力を振るう坊主共の権威は地に落ち、逆にお主という正当性はかなり強まっとる。更に形だけとは言え最高権力者の支持もあるでの、蜂起の旗印になれば何もせずとも国一つ転がり込んでこようて」

 珍しく不快な笑い声を出さぬ魔女ではあったが。
 その静かな美しい声とは真逆に、淫らに蠢く指は雷蔵のズボンの中へと伸びて蛇のように巻き付き、絡まり、強烈な快楽を這い上がらせる。
 雷蔵は既に、真面目に話すノルンに相の手を入れるだけで精一杯となっており、荒く息を吐きつつあった。

「で、どうじゃ?」
「どう、って、何、が?」
「法王の望み通り、反教義主義者共の旗頭になっては見ぬか? 無論、『銀騎士』には話を通しておる」
「そんな、こと、いきなり」
「では『勇者』としてならばどうじゃ? くく、圧政に苦しむ民の願い、聞き届けぬわけにはいかぬじゃろ。それに」
「それ、に?」
「儂としてもお主に法王が持つ "時放つ世界のかけら" を回収して貰わねばならぬしの」
「な?! それって……」
「喜べ。アレも中々の上玉であったぞ? ひひ、なんじゃ。法王が乙女と知って "こっち" が先にヤル気になったか」
「うる、せぇ! この、色、ボケ!」
「お主もそう変わるまいに。それに、儂のコレはお主の精神を兵器側に変えつつあるCFMMの調整を兼ねとるで」

 魔女はそういって、くく、と妖艶な声で笑う。
 一方、雷蔵はというとそんな彼女の言葉など届いては居ないようで、劣情も露わにノルンの細い腰を抱き寄せようと腕を伸ばした。
 しかし、毒婦は器用にもその拘束を逃れて。

「くく、そうがっつくな。返事がまだじゃしの?」
「そんなもの……」
「まあ、断る理由などなかろうな。安心せい、儂はこの後消えるでの。今回もお主の "邪魔" はせぬよ」
「……わかった。だけど、お前、なんかまだ隠して、そうなんだよな」
「今回はこれが全部じゃぞ? 儂はこれでも、お主の世話や『銀騎士』の "保護" と忙しいでの」
「……ふん。じゃあ、精々今は楽しんでおくかな」
「ひひ、思い上がるなよ? 逆じゃ、儂が楽しむで。お主は精々、良い声で啼くが良いぞ」

 魔女はそう言って、今度は雷蔵が伸ばす腕を裂けようともせず。
 その悦楽は、やはりアスティアやエーリャ、リリからは決して得られぬような物で。

 勇者とダリス聖教法王の密使との密談は、それからしばらくの間は濃く続いていくのであった。




















21 勇者の後悔

 聖都ダリスギア。

 ダリス聖教国の政事と宗教の中核であるその場所は、法王が座する荘厳な神殿を中心とした都市である。
 その長い歴史の中で極端に偏在した富は、豪華絢爛な神殿とその周囲に建てられた僧職にある者の住処に集中し。
 それらの外部を彼ら僧職に就いた者を相手する商人達の家がぐるりと覆って、更に外部には夥しい数の貧しい者達が住まう粗末な小屋が無秩序に立ち並んでいた。
 都市を上空から見る事ができたならば、神殿を中心にまるで木の年輪のごとく見えるであろう。
 勿論、水の代わりに金を通す管は中心へ行く程密度が高くなり、反対に外側へ行く程には水分が失われ、干からびた外皮となるのだが。
 聖都ダリスギアの場合はいささか外皮の部分が分厚く、芯の付近には過剰に水分が走る幹であると言えた。
 そんな聖都はその日。
 いたる所で火の手が上がり、そこかしこに兵士と市民の死体が転がる魔都へと変貌していた。
 つまり過剰に搾取され続け、それでもただ一つの教義によって従っていた国民の不満が遂に暴発したのである。
 切っ掛けはここ半年程で勢力の増していた "反教義主義者" 達の蜂起。
 彼らは為政者の道具でもあるダリス聖教の教義を良しとせず、再臨した『勇者』に信仰を捧げるべしとする主張を掲げていた。
 無論、再臨した『勇者』を "偽物" と断じる為政者達は、これを認めず時を置かずに苛烈な弾圧を行うに至る。
 しかし、己の利益の保全を図る彼らの大義名分は、『勇者』の力の顕現により消滅したパラス関壊滅の報をもって瓦解してしまう。
 更には、聖都へ潜伏していた "反教義主義者" 達と密かに聖都へと潜入してきた勇者とその部下達が合流するや、野火の如く勇者が聖都の民を救うべく蜂起するという噂が広まって。
 その出所を突き止めようとした治安部隊による無辜の民衆への弾圧は、やがて燻っていた巨大な憎悪と不満への種火となり、ついには弾けていたのである。
 結果、いたる場所で血が流され、双方の命が散り、何処からか家々を焼く火の手が上がってゆくこととなった。
 そのような混沌の中、民衆は砂糖に群がるアリのように一所へと集まり、やがて神殿へと向かう大きなうねりとなる。
 そんな群衆の先頭には彼らの信仰の対象である『勇者』の姿があり。
 彼が剣を振るう度に、鎮圧に出てきた兵が、暴利を貪る商人達やその上前をはねる聖職者達の街を守る関所が、そして神殿を守護する巨大な門が消し飛ぶのであった。
 そして勇者は思う。
 その光景は、まるで幾度か歴史フィルムで見た革命のようだと。
 今、奇跡を目の当たりにした民衆の熱の中にある彼の心を駆動させるのは、勝利の熱でなく。
 熱狂し、裕福な家の門をこじ開け金目の物を次々と持ち出し、豪奢な聖服に身を包んだ者に集団でリンチを加える民衆を横目に雷蔵は。
 本当にコレで良かったのかと自問を繰り返して、僅かながらの後悔を苦く噛みしめていたのだった。
 その味は、いまだダリス聖教に殉じる兵士達の阻塞(バリケード)を粉砕し、神殿の門を灰燼に帰した時。
 幾度目か "傾国" を鞘に納めた瞬間、激しい嫌悪感に変わって雷蔵を暗く荒ませ、やっと幾度目か覚えあった自身の "異変" を認識させた。
 雷蔵はその嫌悪感こそ、CFMMに兵器として変えられつつあった自身の思考が、先日ノルンによって元に戻されていた証なのだろうと考え、薄く笑う。
 笑みは果たして自嘲か、それとも……



「な、なんですと?!」

 聖都ダリスギアの中心に位置する神殿内、とある執務室にて "反教義主義者" の首魁であるメニコの声が響いた。
 メニコは元々ダリス聖教の聖職者で、勇者にまつわる伝承を収集する仕事に従事していた過去のある壮年の男である。
 頭はすっかりハゲあがり、小柄で痩せた体躯は木乃伊のようであるが、それは彼が聖職者としては比較的まともであったことを知らしめる。

「エーリャ、悪いけどイグナートが部下を送り込んでくる間、部隊指揮を頼む。治安回復を重点的にお願い」
「はっ!」
「お、お待ちください勇者様! そのような俗事はわたくしめらに」
「アスティアは……ごめん、政治の事よくわからないから丸投げしちゃうけど、とりあえず、困ってる人たちに食べ物や住処を手配して貰える?」
「構いませんわ。しかし資金や人手が……」
「あ、それならこっちで。神殿の中にあるめぼしい物を売り払って調達してもいいし。……買い取ってくれる商人がいなくなっちゃてるけど」
「かしこまりました。人手の方は……さしあたってドルチア伯が幾人か内政官を送り込んで来る手はずなので、『銀騎士』様の人事が到着するまではこちらで何とかしてみます」
「頼むよ」
「ゆ、勇者様!」

 雷蔵はそれまで無視していたメニコの呼びかけにやっと、気怠げに反応して口の端を結んだ。
 その目は暗く濁り、視線を交わしたメニコはつい強く呼びかけてしまったことを後悔する。
 が、それもつかの間、メニコは己の野心を満たさんと続けて口を開いた。

「ダリスギアの惨状は確かに御目を汚し、心煩わせるものであります。しかし、そうであっても勇者様直々に親政を行う必要は……」
「……メニコさん。街でいまだ略奪をしている人たちをそうさせるのは、何かな?」
「……は?」
「あの人らは、俺を……『勇者』の名の下に立ち上がった人たちだろ?」
「は、はい。ですから」
「だったら、俺が責任持って最後まで面倒見なくちゃ。他人に任せるわけにはいかない」
「そうですが、そこをわたくしめに」
「メニコ様」

 勇者の言葉に尚も食い下がる男を制止したのは、雷蔵の脇に控えていたアスティア姫であった。
 その言葉は冷たく、かつてグリムワで臣下に命を発していた威厳が込められている。

「『勇者』様が、 "他人に任せるわけにはいかない" とおっしゃっているのですが、それを浅ましくも臣下が曲げろとおっしゃっているので?」
「あ、いや! いやいやいや! そのような……」
「ではどのようなおつもりで『勇者』様のお言葉を否定なさるのですか?」
「それは――」

 言えるはずはない。
 かつて、教義論争の果てに神殿を追い出され、権力の座へと返り咲く為に "反教義主義者" 達を集めたなどと。
 そして謀は成り、あとは勇者へと取り入って混乱に乗じて為政の実権を握り、かつて以上の栄華を求めているなどと。
 ましてや。
 初めて雷蔵を見た時から、御しやすい御輿であるなどという印象を抱いて侮っているなどとは。
 言葉に詰まるメニコの眼前で、その真意を見透かしたように美姫は冷たく視線を投げつけて。
 思わず目を逸らした先に見た物は、もう一人の美姫、『銀騎士』の妹であり勇者直属の騎士隊を率いるエーリャ王女が剣を抜く姿であった。

「返答如何によってはお覚悟を。メニコ殿、あなたは今勇者様――、グラズヘイムの聖王様のお言葉を否定したのですぞ?」
「ひっ?! と、とんでもございません! わたくしは!」
「もういいエーリャ、剣を納めて。メニコさん、とりあえずハッキリさせておきましょうか?」
「は、はい!」
「今この聖都で、一番偉いのって俺でいいんですよね?」

 台詞は、メニコの言葉を奪う。
 彼ら聖ブレイブ教徒にとっては『勇者』こそが至上であり絶対であった。
 聖都での蜂起が成功したのも、雷蔵の存在があってのことだ。
 勇者が顕現し、奇跡のような力を見せてダリス聖教を誅したからこそ、 "反教義主義者" 以外の民衆もこれに追従し為政者を打倒することが出来たのだ。
 故に、男には今更勇者の言葉を否定できる材料など持ち合わせていようはずはなく。
 ただ一言、仰せのままにとしか返す事ができなかったのである。
 程なく肩を落とし力無く部屋を去る "反教義主義者" の指導者の背を雷蔵は見送り、再び現実に暗澹としてため息を一つつく。
 参加した "反教義主義者" の蜂起はこの時、本来政治などの面倒事には首を突っ込まない雷蔵の考えを、一時的にではあるが改めさせていた。
 幾人かの女達を伴い密かに合流した勇者が見たものは、圧政に苦しんできた民衆の暴走と、見え透いたメニコら "反教義主義者" を率いる幹部の権力への渇望であったのだ。
 それは神殿を守る最後の門を落としたとき。
  "傾国" と共に "再現" を使用していた雷蔵は神殿内に至った折、ついに発作を起こしてそれを鎮める為、同行していたエーリャとラムル宮殿騎士団の面々としばし誰かの執務室へと避難して時を過ごした。
 どうやら "再現" に伴う発作は戦闘行為が続く限りは、後回しにされるものであるらしい。
 流石に信徒の前で発作が起きなくて良かったなどと雷蔵が考えつつも、ひとまずの安堵を胸に、抱き慣れた女体をいくつも貪るのであったが。
 その後執務室から出た彼が見た物は、民衆と同じく嬉々として神殿内に勤めていた僧侶達を一所に纏め、殺害する "反教義主義者" らの姿であった。
 彼らは呆然と立つ雷蔵の姿を見てにこやかに口にする。
 勇者様、不心得者をより多く征伐したのはこの、わたくしにございます、と。
 勇者様におかれましてはどうか、こころ安らかに神殿奥におわしまして、些事は我らにお任せ下さい、と。
 血に染まった剣を持ち、誰もがこぞって笑顔で語りかけてくるその姿は、果たして雷蔵の目には汚物のように見えた。
 そして勇者は、その場では何も言わず先程の執務室へと引きこもり、やがて荒事には向かず後から合流したアスティア姫を待って。
 その後彼らの代表者であるメニコを呼び出し、雷蔵は柄にもなく宣言する。
 今から "反教義主義者" 以下ダリス聖教国は、俺の命令を聞いて貰う、とすこし居丈高に。
 以上の経緯が、勇者があからさまな困惑を見せるメニコを尻目に、アスティアの助言を仰ぎつつも矢次に未だ混乱を深める聖都を収拾すべく、命令を下したまでの出来事である。

「……ああ、でも、俺、本当に大丈夫かな」
「勇者様?」

 メニコが部屋を退室して最初に勇者の口から漏れた言葉は、先程までのそれとは似ても似つかぬ弱音であった。
 そんな雷蔵の様子を見たアスティアは、少し意外そうにその真意を問う。
 いや、弱音の先に続く愚痴を吐き出しやすくなるよう、聡明な彼女なりの気遣いであったのかもしれない。
 なんだかんだで、その場にいる者の中では一番雷蔵と付き合いが長いのはアスティアであるのだ。

「メニコにはああ出たものの、やっぱり少し自信が今ひとつ、ね。政治なんて俺、素人も良い所だしさ」
「問題ないかと。実務はこちらでなんとかしますし。基本的には、人材を揃えて意見を聞いて、是と思う物を選べばよろしいかと思います」
「そんなもん、なのかな。エーリャもそう思う?」
「そうですよ、勇者様。それにたとえ素人であってもあの輩よりは遙かにマシです。私腹を肥やさんとする臣下は、財を求める王よりも厄介です」
「ありがと、二人とも。まぁ、イグナートが政務官やら兵やらを送り込んで来るまでの間だしな。頑張るよ」
「その意気ですわ、勇者様。早速ですが、一つ報告を。法王猊下の所在、わかりました」
「本当か?! アスティア!」
「はい。西の塔に軟禁されておられたとの事です。現在は神殿内の私室にて伏せられております」
「怪我でもしてたのか?」
「いえ。今回の蜂起により、身柄の奪還を恐れた教主らによって薬を盛られ、ひどく酩酊した所での軟禁であったようですので……」
「そっか。あ、エーリャ。聞き忘れてたけど、逃げた教主ってどうなった?」
「ダリス聖教五教主の内、3名は神殿内で捕縛、1名は街で見つかりその場で市民に。残る1名は未だ……」
「そっか。……捕まった3人は?」
「いずれもその場で処刑されております。……もうしわけありません、我らラムル宮殿騎士団では彼らの暴走を止めようにも……」
「いや、いいよ。仕方無いし」

 先程のメニコへの態度とは打って変わり、柔らかに笑いながら雷蔵は落ち込みかけたエーリャを慰めた。
 それからもう一度。
 ため息を吐いて、さて、と声を上げ "傾国" を手に取る。
 その姿に自信や威厳は微塵も無かったが、ただ一つ意志だけは身体の外へとしみ出していた。

「とりあえず、神殿の中からなんとかしようか。エーリャ、騎士団と一緒についてきて。リリも」
「は」
「御意」
「あ、アドラとテアンは法王の所に詰めといてくれ。何かあったら連絡を」
「了解であります!」
「さっきのメニコの態度も気になる。政治の方も、いきなりアスティアが出て行っても多分動いてくれないだろうから、アスティアも一緒にいこうか」
「かしこまりました」
「方々を回って、色々と指示して回ろう。あんまり自信ないけど、『勇者』が直接出向いて命令しとけばとりあえずはその場は治められる……よな?」
「勿論です。彼ら……いや、我らにしてみても勇者様のお言葉は神託同然ですし」
「そうですわ。むしろ、直接お声を掛けられた者は一生の誉れとなるでしょう」
「……それはそれでなんか、プレッシャーがかかるな」

 雷蔵はアスティアとエーリャの過剰とも思える肯定の言葉に、はにかみ照れたように笑ってみせた。
 その空気は修羅場と化している外とは違い、なんとも穏やかで知らず張っていた一同の緊張をほぐす。
 やがてふふ、とあちこちから華やかな笑い声が上がりはじめ、つかの間に漂った朗らかな空気は僅かながら雷蔵の暗澹とした気持ちを暖めた。
 それから、勇者はふと考える。
 ――初めはただ、女の子とヤれれば良かったのに、何時の間にか "こう" なってしまったな。
 あのまま全てノルンに任せて、あの宮殿でただただハ-レムを貪っていたら、今頃俺はどうなってただろう?
 今の俺は、果たしてどう『勇者』として在る事ができているのだろうか?
 答えは、何気なく見渡したハレムの女達が示していた。
 彼女達の見た目麗しく、しかし一つとして同じ物がないその顔は、どれもがあの宮殿にいた頃では決して見られぬ表情であって。
 色とりどりの瞳に込められた感情は恋慕、尊敬、敬意、忠誠と様々ではあったが、全て等しく雷蔵を慕う物であり。
 勇者は少なくとも己の選択は間違った物ではなかったのだと安堵して、口の端を緩める。
 ――そうだな。
 こんな、ハーレムも悪くないかもしれない。
 いや、ただ女を与えられて無秩序に抱くだけでは、きっと物足りない。
 彼女達の心まで一緒に抱けなければ、きっと面白くない。
 雷蔵はそう考えながら、もう一度女達を見渡した。
 今度は一人一人と目が会う度に、彼女達の鳴き声や一糸纏わぬ肢体とその味が脳裏に浮かび、その全ては自分の物であるという現実を強く意識させて劣情が首をもたげる。
 その獣欲も望めば今これからでも満たせる己の立場を雷蔵は認識し、自尊心を肥大させるのであった。
 
「勇者様?」
「あ、いや。なんでもない。じゃあ、いこうか」

 なぜかいきなり黙り込んで自分達を見回す勇者に声をかけたのは、アスティアであった。
 声はどこか甘く、まるで雷蔵の中で首をもたげかけた淫蕩な欲望を見抜き、誘うようで。
 しかし雷蔵はそれを否定し、慌てたように執務室の扉を開いて足早に廊下を歩く。
 もう少しあの場にいたならば、きっと欲望に負けてしまっていたような気がしたからだ。
 それは雷蔵がもとめる『勇者』のする事ではない。
 だからこそ、そこをぐっとガマンして――そう。
 彼女達とは、やることをやってから、じっくりと心ゆくまで楽しめばいいじゃないか。
 それに、もうすぐ一人増えるし。
 ……法王って、どんな娘だろう?
 ノルンは上玉だと言ってたけど。
 ふふ、楽しみだ。どんな格好でヤってやろうかな、……なんて。
 断ち切れなかった劣情は、肥大化した自尊心を糧として雷蔵に下劣な想像をかき立てさせる。
 それは勇者の堕落か、それとも成長か。

 果たして雷蔵がそれを認識する事は、ついぞ無かったのであった。




















22 無垢な思い

 雷蔵が『閉じた世界』グラズヘイムに喚ばれて丁度一年が経ったその日の夕刻。

 聖ブレイブ教の一派、ダリス聖教法王マグダレナ・コリャード・ガルバン17世は自身の私室にて意識を取り戻していた。
 神の使いとされた『勇者』の血を遠く引く彼女は、奇しくもその日、生誕から16回目の夕暮れを迎えていたのだったが。
 法王の誕生日を祝う者は無く、しかしこの日は恐らく彼女にとっては新たな人生を始める転機となるであろう。
 床に届く程長い深蒼の髪は少々質素な法王のベッドに散らばり、シンプルな白い寝間着のまま彼女はその目を開くと、まず記憶を辿る。
 思い出されるのは、嫌悪していた教主の一人に無理矢理呑まされた薬のような液体の味。
 それは強い酒のようで、しかし酒などではなく、力無い抵抗も虚しく強引に喉の奥に流し込まれ、程なく視界がぐるぐると回り始めたのだった。
 それからは何があったのか、何をされたのかはハッキリと覚えていない。
 ただ、言えることは。

「お目覚めですか? 法王猊下」
「あなたは……」
「自分は『勇者』様直属のラムル宮殿騎士団副長、アドラと申します」
「『勇者』様……と、言うことは "反教義主義者" の方々の蜂起が?」
「は。勇者様は彼らにそのお力を貸し与え、不埒な教主達の手から猊下をお救いした次第でございます」
「そうですか。――では、あの不思議な黒猫の話は……」
「それは恐らく、勇者様の "使い" かと。猊下におかれましては、薬を盛られ西の塔に軟禁されておりましたので、失礼ながら猊下の私室に御身を運ばさせて頂きました。」
「そう、でしたか」

 マグダレナは呟くようにそういって、ゆっくりと上体を起こした。
 薬の影響が残っているのか、または単に疲れていたのか、いまだ思考は回らず指先に力が入らない。
 しかしそれも覚醒が進むにつれ徐々に回復し、やがて彼女はある事に思い至る。

「アドラ、さん?」
「は」
「勇者様は何処に?」
「蜂起による混乱を収拾する為、各所へ足をお運びになられております。猊下の事は先程部下を走らせておりますので、直に勇者様の御耳に入るかと」
「そうですか……その、状況はひどいのですか?」
「自分の口からは。猊下におかれましては、まずはお体をご自愛下さい」
「……ありがとう、アドラさん。あの、もう一ついいでしょうか?」
「は」
「着替えたいのですが、ここにはわたしの法服は置いていないのです。取りに行っても?」
「部屋の外はまだ危険です。誰か他の者に用意するよう手配致します」
「……その、下着もありますの。それに、密使になっていただいた使いの方に、勇者様に会う前は念入りに身体を洗うよう言われましてので」

 法王の言葉に、アドラは思わず苦笑いを浮かべた。
 その表情からマグラレナは不穏な物を感じ取る。
 一瞬ではあったが、不快感や嫉妬のような物を見て取れたからだ。
 一体、何故?
 マグダレナの脳裏に疑問符が浮かび、知らず首が横に傾く。

「……私めにお任せ下さい猊下。衣服は自分が持って参りましょう。ただ、浴場での湯浴みは無理ですので湯と大桶を誰か他の者に用意させます」
「お願いします」

 アドラはマグダレナの返答にそれ以上言葉を紡がず、敬礼をもって返答し部屋を後にした。
 扉の外には兵士が居るようではあったが、彼女以外の者が代わりに部屋に入ってくる様子もなく、しばし法王は一人私室で過ごす事となる。
 ――あのアドラと名乗った女騎士の様子では、 "外" はかなり混乱しているようだ。
 蜂起は成功し勇者様への帰依は叶ったようではあるけれど……
 勇者様直々に御足を運ばれているのだから、街の混乱は相当なものであろう。
 マグダレナはその様相を想像し、身震いを一つ行う。
 あの、自室の扉の向こうでは、人が人を殺めている。
 殺す者も殺される者も、同じ神を信仰をしているにもかかわらず、だ。
 それはなんて悲しく、恐ろしいことであろうか。
 古くは "神の使い" とされた勇者様がこの地に再臨したというのに、いったい何故あの教主達は彼らに嘘をついてまでそんな風に信徒を導いたのだろう?
 ましてや、勇者様に剣を向け疑いの眼を向けるなど。
 それは死して当然の罪ではあるが、それでも彼らの信仰は尊い。
 ――願わくば、蜂起によって教主達が示した偽りの信仰から、一人でも多く目覚めんことを。
 無垢な信仰を持つ少女の祈りは、アドラが法服を手に戻って来るまで続くのであった。



 聖都ダリスギアにて、 "反教義主義者" の煽動と勇者の旗印の下、民衆が蜂起してより一夜明けた朝。
 恐らくはダリス聖教を取り仕切っていた教主の誰かが使ってた、広い執務室にて。
 雷蔵は珍しく少々疲れ気味に豪華なソファに腰を下ろしていた。
 その向かいのソファには、エーリャが鎧姿のままだらしなく口を開け涎を垂らしながら寝入っており、床にもラムル騎士の女達が雑魚寝姿を晒している。
 アスティアはその光景を執務机について何やら書き留めながら、苦々しく視線を投げては傍らに立っていた騎士団書記に忙しなく指示を出す。
 書記官は指示を受ける度に弱々しい返事を返しては、アスティアから書類を受け取り、幾度も部屋を出たり入ったりと繰り返していた。

「……なぁ、アスティア。今日はもう寝なよ。このソファを使っても良いからさ」
「まさか! 勇者様が起きておられるのに、私が先に寝る訳には……」
「いや、アスティアは女の子じゃないか。俺とは体力が違うし、神殿の中どころか夜が明けるまで街に出て暴れる人らを一緒に止めてたし……」
「あら。では私よりも体力があると思われる、そこで寝ている "騎士の方々" の内、誰かが起き出して交代して頂けるのかしら?」
「う、それは……」

 少し棘のある言葉でアスティアは「騎士の方々」の部分を強調した。
 雷蔵は彼女の言わんとする事を理解し、思わず言葉を飲む。
 CFMMのある雷蔵はともかく、夜通し馬を駆り無秩序に暴れる民衆を宥め、あるいは勇者と共に剣を持って鎮圧し、その度に雷蔵の "発作" を鎮めてきた騎士達の疲労は相当な物であった。
 故に雷蔵はほうほうの体で神殿の執務室に戻って来た折、後は自分で何とかするから先に休息を取るよう皆に指示をしていたのだった。
 が、珍しく格好をつけたものの。
 略奪を行った者、人を殺めた者、施設を破壊した者などに対する処遇をどうするか、といった臨時法の発布の仕方など素人に当然出来よう筈もなく。
 そうなると予見していたアスティアは、雷蔵の代わりに執務机を陣取り、ラムル宮殿騎士団の書記官を起こして雷蔵の代わりに手続きを行っていたのである。

「とりあえずは現行ダリス聖教の法を適用しつつも、なるべく早く蜂起に加わった民衆や被害を受けた僧職、商人の免責事項を纏めておきませんと。その手続きや判断を行えるのは、この中では私位ですし」
「……手伝える事がある?」
「ありませんわ。現場に赴いた際、勇者様が彼らをどう処遇するのか話していた事を一緒に聞いておりますし」
「う……でもさ。ちょっとくらい、休んでも……」
「なりません。これが遅れれば遅れただけ、勇者様の心労が増えます」

 アスティアはそう言って、再び無言で机の上の書類にペンを走らせる。
 雷蔵はそんな彼女の様子にえもいわれぬ圧迫感を覚えて、それ以上は何も言えなかった。
 そういった仕事が出来ない自分に、後ろめたさを感じたからだ。
 更にその事実は、グラズヘイムに喚び出されて今日まで、如何に自分は何もしてこなかったかを自覚させるのに十分であった。
 やがて先程出て行った書記官が戻って来て、再びアスティアの脇に立ち次の指示を待つ。
 その表情には疲労がありありと浮かび上がり、足下もどこかおぼつかない。
 彼女は昨夜、雷蔵が混乱に乗じて暴れる破落戸まがいの輩に幾度か剣を振るった折、 "発作" を沈める為に何度もその身体を差し出していた。
 その行為は剣技をあまり必要としない、どちらかと言えば事務を担当する騎士であったが故、仲間の体力温存を支援しようとしての行為で。
 しかし本音は、仲間の体力温存の為という建前の下、是好機とばかりに雷蔵の寵を貪っていただけであったので、自業自得ともいえるのだが。
 ともかく結果として、アスティアの事務作業の手伝いをさせられる羽目になり、一番わりを食った者といえるであろう。


「ああ、そうえいば」
「ん?」

 不意にアスティアは疲れたような声を出し、顔を上げた。

「テアンから法王猊下がお目覚めしたと報告が入っておりました。丁度、勇者様が2度目の発作を起こされていた時です」
「う……というと、神殿が粗方片付いて、街に出たばかりの時か。随分と時間が空いたな……」
「仕方ありませんわ。……伝達が遅れ、申し訳ございません」
「いや。流石にそっちを優先するわけにも行かなかっただろうし、いいよ」
「もしよろしかったら、これから猊下と面会されては?」

 提案は、雷蔵が抱く後ろめたさを更に増大させる。
 なにせ雷蔵が法王と逢うという事は、そもそもの目的である "時放つ世界のかけら" を手に入れる必要がまずあって。
 それは、 "彼女" が雷蔵のハレムに入る事を意味して。
 否、入るかどうかはわからないが、少なくとも一度、必ず肌を重ねる必要があって。
 更には、今日雷蔵がダリス聖教国にその身を置いているのは、他ならぬあの魔女の手引きである事実があり。
 つまりは、雷蔵は法王と会えばかならず "そう" なると、意味もなく確信していたのである。
 その美しい顔に疲労という化粧を施し、勇者の為に身を粉にして働く美姫を残して、どうして自分は他の女を抱きに行けようか。
 できない。
 さすがにそれは……

「勇者様?」
「あ、ごめん。アスティアが頑張ってくれているのに、そんな暢気に……って考えてた」
「まぁ。しかし、ご心配を頂けるのはうれしいですが、それには及びませんわ。こちらとしましても、勇者様には猊下に会って頂かなければ困りますし」
「どういう事?」
「実は、猊下に処理して欲しい案件がいくつか。何分、ダリス聖教教会絡みですので。それにこういった事務手続きも私より得手でいらっしゃるかと思いますし」
「ああ、そういう事か」
「なにより……」

 アスティアはそう言って、意味ありげに指示を待つ書記官へと目を移した。
 偶然にも書記官はその一瞬、睡魔に負けかけて白目を剥きそうになっており、あわてて背筋を伸ばし踵を揃える。

「猊下の所に詰めている二人をこちらに回して欲しいのもあります。この子、そろそろ限界のようですし」
「あ、そうか。アドラとテアンを詰めさせていたんだっけ」
「ええ。テアンも伝令後猊下のお部屋に戻りましたから、此処にいる者よりかは "元気" な筈ですわ」

 雷蔵へと視線を戻しながらアスティアは力無く微笑んだ。
 その時には視線がもう一組増えて、懇願するかのような書記官の表情が勇者の胸を穿つ。
 抱える後ろめたさは変わらず雷蔵に居心地の悪さを感じさせていたが、それ以上に自分の為に働く二人に……否。
 夜を徹して自分に付き合ってくれた者達に、何かしてやりたくなって、雷蔵はわかった、と口にしソファから立ち上がるのであった。

「アスティア。それ、あとどのくらいかかりそう?」
「……終わりはすこし、見えませんわ」
「そうか。じゃあ、二人にはすぐこっちを手伝うよう伝えるけど、どんなに頑張っても昼までにしときなよ?」
「……かしこまりました」
「命令だからな? メイアも二人が来たら寝とけ。昼からは俺と騎士団でもう一度街に出よう」

 明らかに今以上に無理をしそうな雰囲気を醸し出しているアスティアに、雷蔵は釘を刺して書記官には励ましの言葉を置き部屋を後にした。
 向かう先は勿論、法王の私室である。
 雷蔵達が陣取っている部屋は神殿内でも要人が執務に使用する区域だった為か、法王の私室まではそれ程離れてはいない。
 その為、さほど時を経ずに勇者は法王の私室の前に立つ事となった
 遠慮がちなノックを二度行うと果たして、部屋の中から返ってきたのは聞き慣れたテアンの声であった。

「これは……勇者様。副長、起きて下さい」
「む……もう、交代の時刻か?」
「いえ。勇者様がお見えになりました」

 二人はどうやら交代で寝ずの番をしていたらしい。
 可能性は低かったが、混乱に乗じて法王への暗殺者の派遣を警戒していたのであろう。
 テアンはノックの後に姿を現した雷蔵を認めて、直ぐに床で毛布にくるまるアドラを起こし、慌ててしかしフラフラと立ち上がるアドラと共に敬礼を行った。

「よ。悪いなテアン、折角法王……猊下が起きたって報告してくれたのに、ほったらかしにしてて」
「いえ。そのような言葉、恐縮でございます!」
「きょ、恐縮でございます!」

 何故か半分目を瞑ったままの寝ぼけたアドラがテアンの言葉に続いて、勇者の表情に苦笑いが走る。
 どうやらアドラは朝にとても弱いらしく、声だけはなんとかいつもの彼女ではあったのだが、締まりのない、ふにゃふにゃとした表情がなんとも言えぬ間抜けさを醸し出していた。
 流石にそれは規律に厳しい彼女達騎士には恥ずべき姿であったらしく、テアンは小声で副長! と窘め雷蔵に見えぬよう。身体を揺する。
 雷蔵はそんな彼女達を制しながらも、先程まで居た執務室とは負けず劣らずに広い法王の私室を見渡して、唯一ある奥のベッドを見やった。

「猊下は……まだ寝ているのか?」
「は。何分、朝方まで勇者様の来室を心待ちにしておられたようでして。先程やっと我らに後を任せ、就寝された所です」
「そか。それじゃあ。起こすのは可哀想、かな」

「……あの、勇者様」

 珍しく。
 遠慮がちにテアンは自ら雷蔵へとなにやら語りかけてきた。
 彼女と雷蔵では天地程も身分の差があり、それはグラズヘイムの常識に照らし合わせれば非常に不敬である行為なのだが。
 幾度も身体を重ねていた事実と、雷蔵の柔らかな雰囲気が彼女に気安い感情を湧き出させて、そうさせたのであろう。
 雷蔵の方も、現代地球人的な感覚では美女に気安く語りかけられる事はむしろ非常に喜ばしい事であったので、事あるごとに何時でも気軽に話しかけても良い、と触れ回っていたのもある。
 兎にも角にも、珍しくテアンの方からモジモジと雷蔵に語りかけ、僅かな時間ではあるが会話を交わす事となるのであった。

「……外はやはりまだ、ひどい有様でしたか?」
「ん。まあ、な。昼からまた街を一回りする予定だから、二人とも頼むぞ」
「は。……と、勇者様。昼から、といいますと勇者様は何時お休みになられるので?」
「ここで猊下と一緒に休むさ。ああ、そうそう。メイアがアスティアに使われてて、寝れてないんだ。二人とも、交代してやってくれないか?」
「は。了解であります。……あの、勇者、様」
「ん?」

 もう一度繰り返されたその問いかけは、彼女が雷蔵に尋ねたい言葉が他にある事を示す。
 テアンについて普段おとなしめな印象しか抱いていなかった雷蔵は、そんな彼女の様子に新鮮なものを感じで、いつもよりも更に柔らかく首を傾げた。
 その表情は、テアンにとって特別優しげにみえたらしく、雷蔵の思い至らぬ程強い慈愛を錯覚させ頬の上気と共に言葉を続ける事となった。

「その、先程から "猊下" 、とおっしゃってますが……」
「あ、うん。意味よくわからないけど、みんなそう言ってるし。法王ってのと同じ意味なんでしょ? ……発音おかしい?」
「いっ、いえ! その、この世で最も権威ある勇者様が、 "目下の者" に敬称をお使いになるのが……あ、いえ! 決して勇者様のお言葉を否定するわけでは!」
「あ、これ、 "げいか" って敬称だったんだ?」
「敬称、といいますか……その……」
「はは、弱ったな。バカがばれちまった」
「い、いえ! そういう意味では。その、勇者様は何かと、他者を呼ぶ時に "さん" などの敬称をお使いになるので、その、気になっ……て」

 消え入りそうな語尾は、遠慮と後悔に彩られて勇者の耳に届く。
 雷蔵はなるほど、そういう事かと納得し、彼女になんと説明しようかと思案に暮れた。
 確かに、グラズヘイムのあらゆる権威の頂点に君臨する(と教えられた)『勇者』である雷蔵が、他者への敬称を使うのはおかしいのかもしれない。
 事実、その事を指摘されたのは初めてではなく、過去幾度も魔女ノルンに「小心者じゃの」とからかわれていた勇者であった。
 が、それでも雷蔵はごく親しい者以外には敬称を用いる事が多い。
 それは単に、小心な彼の『勇者』観が権力者としての側面と結びついては居なかったが故に、相手に高圧な印象を抱かせたくなかったり、年長者を敬う日本人らしい感覚の結果であるのだったが。

「んー、えっと。俺の故郷の習慣なんだ」
「習慣、ですか?」
「ああ。親しくない人間と接する時は、とりあえず敬称を使うんだよ。それが例え権力者でもな」
「なんと! そのような習慣が?!」
「ああ。そうじゃない奴は、その品格を疑われるんだ。俺、こう見えても『勇者』だろ? すこしは気をつかってるんだぜ?」

 雷蔵はそう言ってはにかんだ。
 その仕草は年相応の物であるのだが、テアンには別の、彼女だけが知り得たような勇者の秘密に見えて頬のみならず耳まで染め上げる。
 二人はそのまま、互いに意志をすれ違わせながら言葉を無くし、沈黙の内にその場に佇み続ける。
 そんな雷蔵には居心地の悪い、テアンには夢心地の沈黙を破ったのは、ベッドに眠る法王がうめき声と共に行った寝返りであった。
 瞬間、二人は我に返りそれぞれの目的を思い返す。
 テアンは惚けていた事を恥じ、慌ててアドラの方を向くと幸か不幸か、彼女は器用にも立ったままうつらうつらとしていて。
 先程までの己の失態と不敬を上司にばれなかった事に胸をなで下ろしたテアンは、もう一度雷蔵と視線を交わして悪戯っぽく笑う。
 雷蔵はその笑みに応じながらも、改めて性交以外で行うの彼女達との交流が楽しい物であると感じながら、小声でアドラのまどろみを奪いその反応をテアンと共に笑うのであった。
 それから雷蔵は、二人をアスティアの下へ送り出した後。
 ベッドに眠る若く美しい法王の寝顔につい見とれつつも、なぜか心を弾ませたまま。

 不思議と彼女が目を開くまで、そうしていようと考えた勇者であった。




















23 信仰と奉仕

「……呆れてなんも、言えんの」

 台詞は魔女の物だ。
 聖都ダリスギアが勇者と共に蜂起した民衆の手によって陥落してより、一月後。
 『銀騎士』イグナートに派遣を依頼していた、幾人かの内政官や兵士が到着した日の昼時。
 雷蔵やハレムの女達は、やっと政務や治安軍務から解放され、久しぶりの休息を得る事ができるようになったのだが。
 混乱を極めた日よりそのまま勇者の私室として使用している執務室にて、雷蔵は魔女と再会を果たしていた。
 アスティアやエーリャはつい先程まで作業や任務の引き継ぎを行っていたが、それも終わり今は別室で久々にゆっくりと睡眠を貪っている。
 リリやラムル宮殿騎士団の面々も、一月近く続いた碌に寝る間もない激務からようやく解放され、それぞれの部屋で早速床に就いていた。
 故に、雷蔵は魔女と二人きりである。

「儂ぁの。てっきり、お主がもう "時放つ世界のかけら" を得ているものと思うて、それはそれは楽しみにしておったのじゃぞ?」
「……だって、さあ」
「だってもヘチマもないわ。まったく、こんな事ならばアスティア姫を睦み殺しかけておった頃の方が余程マシじゃ」
「そ、それは言い過ぎだろ!」
「言い過ぎなものか。大体、何が『純真すぎて手が出せなかった』じゃ。気が小さいだけではないか」

 この時、魔女は不機嫌であった。
 ノルンの責めに勇者はうぐと言葉を飲んで、肩を落とす。
 そう。
 雷蔵はダリス聖教法王マグダレナに会ってよりこの一月、彼女の身体にまったく手を触れては居なかったのである。
 その原因とは……

「そもそもじゃ。純真無垢な乙女を野獣のように蹂躙し、汚し、己の色に染め上げる事こそ、雄の本懐であり男の理想でもあろうが」
「そう、なんだけど……レナの場合はそんなもんじゃねぇんだよ。何せ、 "何も知らない" んだぞ?」

 レナ、とは法王マグダレナの幼名である。
 二人が初めて邂逅したのは法王の私室、昼時前。
 その愛らしい寝顔をテアンと交わした会話によって得た、暖かな気持ちのまま眺めていた雷蔵は。
 何時の間にそうなったのか、不覚にも法王のベッドに突っ伏す形でまどろみの世界へと旅立っていた所、気がつくと己を呼ぶ声に目を開いたのだった。
 細く、愛らしく、消え入りそうな程小さな声は法王マグダレナの物であり、勇者は寝起き眼のまま自己紹介を行う羽目に陥る。
 それからしばらくの間交わした会話は、少なくとも法王には楽しい物であったらしく、少女はコロコロと良く笑った。
 やがて混乱が続く街へつかの間の休息を得たラムル宮殿騎士団と共に向かう時刻となる頃には、法王が己の幼き頃の愛称を雷蔵へ伝える程打ち解けて。
 しかし、それ以来幾度も彼女と過ごす機会を得ていた勇者は、彼女の身体には指一本触れられずにいたのであった。

「大体なぁ、あの子、『そろそろ……いいかな?』って誘っても『はい? 何をです?』と返してくるし」
「そんな誘い方があるかボケ。『服を脱いでこっちに来い』でよいではないか。気の利いた王ならば『そこの椅子に座り、余の目の前で自慰を始めよ。ここで見ていてやる』位は言うであろうがの」
「言うかバカ! ちゃんと具体的に誘ったぞ!」
「誘うなど……言葉がダメなら問答無用で押し倒せばよかろうに」
「できるかんなこと! 『その……レナを抱きたいんだ』って言うのが精一杯だ!」
「ふん。これだから餓鬼は。どうせその後『不潔です勇者さま!』などと言われ、尻尾を巻いて逃げ出したんじゃろ」
「……そうだったらまだ良かったがな。『こうですか?』と言って俺を抱きしめてお終いだったんだよ。あの子ほんと、なんも知らないんだぞ?」
「たわけ。だからこそ、その身にお主を刻み込んでやり、徹底的に己が雌に過ぎぬと教えてやれはよいではないか」
「んなこといったって、さあ?」
「さあ? ではないわ。己の小心を正当化して儂に同意を求めるでない」

 そう吐き捨てて魔女は腕を組み、雷蔵に容赦無く冷たい視線を叩き付けた。
 いつもの不快な笑みはそこにない。
 雷蔵はそれ以上は何も言えず、なにより確かに情けない己に改めて落胆し肩をさらに落とす。
 自身に対する言い訳なら、いくらでもあった。
 神殿内は直ぐに平穏を取り戻せたものの、街で頻発する暴動を鎮めるべくエーリャ達と寝る間を惜しんでかけずり回り。
 戻ってくれば激務に追われるアスティアの負担を減らすべく、現在ダリス聖教の信徒を束ねるメニコや "反教義主義者" の幹部と会談する毎日。
 会談は雷蔵が権力を握っていたとはいえ、実務では彼らの協力が不可欠であり、アスティアの起草する法の執行に協力を依頼するものであった。
 が、メニコや "反教義主義者" の幹部は何かと理由をつけては協力を渋り、それよりも、といった具合で微妙に彼らに都合の良い案を提示して来て、雷蔵の精神を削り取る。
 それこそが政治の駆け引きであったのだが、雷蔵にとってそれは嫌がらせでしかなく、同時に彼らに翻弄されていた証拠でもあった。
 中々回復しない聖都の治安。
 軍を動かすまでは無いが、未だ恭順を示さないダリス聖教国の他の都市の動向。
 思い通りに動いてはくれない "反教義主義者" 達。
 それらが次第に雷蔵から余裕を奪い、結果。
 時間を取って、法王マグダレナに性の知識を一から教え込むゆとりなど、得られはしなかったのだ。
 この一月、僅かに空いた時間は勇者としての力の維持を行う為、ずっと手短にエーリャや女騎士達やリリを相手にしていた。
 アスティアに至っては、あまりの激務の為に誘う事すら憚られてしまう有様であったのである。
 そのような状況下でマグダレナに手を出さなかったのは、せめて "初めて" 位はちゃんとしてやりたかった雷蔵の優しさであったのだが。

「……まあ、今回だけは慣れぬ、というか、素人が出来もせぬ政務などに手を出したからと無理矢理に納得してやるがの」
「うう、そこまで言わなくても……」
「阿呆。お主、この世界で『勇者』とはどのような物かはいい加減わかっておろう?」
「そう、だけど……」
「なれば、法王もそうじゃが "反教義主義者" にしてもお主の意向に僅かでも反論する輩は、片っ端から誅すればよいではないか」
「やだよ! そんな暗君じゃあるまいし」
「何が暗君じゃあるまいし、じゃ。暗君とは、言う事を聞かぬ臣下を誅する君主ではないわ。政を疎かにして、民草を苦しめるのが暗君じゃ」
「仕方無いだろ! 俺、素人なんだし」
「素人か玄人かは問題ではないぞ? 政はやるか、やらないか。結果失敗するか、しないかが問題じゃしの」
「そんな簡単に言われてもさぁ……」
「お主の場合はそれ以前の問題じゃよ。臣下に舐められ、政を滞らせておる今のお主が暗君でなくて何なのじゃ?」
「う……」
「 "反教義主義者" 共の御輿にならなかった事は褒めてやるがの。臣下を玉座に呼び出して命を下す事こそ、王の威厳と知れば今は良い」

 一通り不満を雷蔵にぶつけた為か、ノルンの不機嫌な雰囲気は出したため息と共に消え、いつもの飄々とした物に変わった。
 対照的に、それなりに頑張っていたと自負していた雷蔵は、その全てを否定され返す言葉も見つからず項垂れている。
 実際の所、政の素人でありながら民の蜂起によって荒れた都市一つを治めるという難事に対して、雷蔵はよくやっていた方であった。

「それで?」
「え?」
「どうするのじゃ?」
「どうする、って……」
「儂も柄になく暇ではなくての。なにせ、『銀騎士』……いや、お主の版図はほぼグラズヘイムの半分となっておるのじゃ。謀事にうといあ奴に替わり、もうしばらくは色々と手を回さなくてはならん」
「ああ、ごめん。 "時放つ世界のかけら" の事か。うーん、内政官や正規の兵士は増えたから時間はとれるようにはなったけど……」
「なんなら、儂がCFMMをすこし弄ってやろうか? ひひ、案外その方が『勇者』らしくなるやもしれんの」
「なるかバカ! ……お前、あとどのくらいここに居るんだ?」
「儂か? そうじゃのう。『銀騎士』がもう2、3程、西側列強諸国の国を占領すればあとは外交じゃし。なるべく早く戻りたいかの」
「へ? あとは外交って……戦争やってるんじゃないのか?」
「戦争は何も兵を動かして相手を殺す事だけでは無いんじゃよ。只でさえ、冬に軍を動かし続けておったからの。溜まりに溜まった内側の問題にそろそろ目も向けねばならん」
「あいつ、そんな状況下で兵士や内政官をあんなに送ってきてくれたのか……」
「当たり前じゃ。お主、一応はあやつの主君なのじゃぞ? そろそろ聖王座に就いて国号も決めて貰わねばならん」
「そんな大げさな……」
「大げさな物か。お主が聖王座に就かば、各国への恭順を迫るのもずっと楽になる。領地も大陸の半分以上を手に入れておるしの」
「そんな、もんなのか?」
「うむ。ま、国力に物言わせ圧倒的な大軍を編成出来るが、維持や運用には流石に労力が大きすぎるでな。だから儂があやつの参謀まがいの事をしてやっておるのじゃが……」
「へぇ……、じゃねぇか」

 雷蔵は魔女の話に感心しかけて、マグダレナとの問題を思いだし、どうすべきか再び悩み始めた。
 出来れば、ワケも分からぬ彼女をワケも分からぬまま、抱くような事はしたくはない。
 が、ノルンの話を聞けば、なるべく早く "時放つ世界のかけら" を手に入れてイグナートの元へノルンを戻した方がよさそうだ。
 何より、このままでは知らぬ間にCFMMを目の前の魔女に弄られ、一時精神を操られてしまいかねない。

「……なぁ、ノルン。あと一日、待ってくれないか?」
「それは構わんが、どうするつもりじゃ? 今の話で法王を手籠めにする気になったとは思えんが」
「俺に考えがあんだよ」
「そうか。ま、一日位ならかまわんよ。儂も久々にゆっくりするとしよう」

 魔女はそう言ってニタリといつものような笑みを浮かべ、それ以上は何も言わずあっさりとそのまま踵を返して部屋を後にした。
 どうやら勇者の言にどうするつもりか興味が沸き、観察する心持ちとなったらしい。
 そのまま彼女の後ろ姿を見送っていた雷蔵であったが、やがてなんとか思いついた思惑を胸に、とある人物の元へ足を運ぶのであった。

 結局、「勇者の考え」は上手く行ったようで、『時の魔女』は目的の品を手にするのだが、その経緯を雷蔵がノルンに説明する事はなかったのだった。




















24 政教分離

 ダリス聖教国聖都ダリスギアが勇者の手に落ちてより、二月が経った。

 混乱を極めていた街も大分落ち着きを取り戻し、街の治安を守る兵士の増員もあって勇者が街へ繰り出す事も少なくなっていた。
 が、問題は尽きる事無く、自室の机に向かっていた雷蔵は深くため息をつく。
 机の反対側にはアスティア、エーリャ、マグダレナが立って、それぞれに神妙な表情を張り付かせていた。

「うう、ごめん。俺が情けないばかりに」
「そんな事はございませんわ。お気になさらないでください、勇者様」
「そうです! それに、我らの仕事も兄上に送って頂いた人員のお陰でそれ程負担は大きくはありませんし」
「むしろ、わたしが勇者様……いや、皆様に謝らなければ。勇者様が発布した、『政教分離の勅令』に添えさせる事ができず多大なご迷惑を……」
「いや、レナが悪いんじゃないよ。悪いのはメニコ達と強く出れなかった情けない俺だし……」

 雷蔵はそう言って、更に表情を暗くしたマグダレナに力無く微笑んで見せた。
 若き法王はその笑顔に、思わずはにかみ、首に巻かれた金の輝きを煌めかせる。
 が、すぐに表情を再び曇らせて、どうしたものかと思案に暮れた。
 彼女を悩ませるのは先日勇者が発した『政教分離の勅令』である。
 切っ掛けは一月前。
 マグダレナの "時放つ世界のかけら" を無事手に入れた雷蔵は、魔女に赤い宝石を手渡しながらある要求を行った。
 それは、地球への一時帰国であり、魔女の方も約束であった故特に嫌みや愚痴を吐く訳でもなく快諾してそれは叶ったのであったが。
 果たして『閉じた世界』グラズヘイムに雷蔵が戻って来た折には、持ち帰った「お土産」に流石の魔女も苦笑いを浮かべさせる。
 何を思ったのか、雷蔵は様々な地球の書物を持ち込んで来たのだ。
 無論、政については無学である雷蔵がグラズヘイムで活用するためである。
 が、所詮は素人の付け焼き刃であり、更には絶対権力者でもある勇者の命であった為、反対する者はおらず実務段階で様々な弊害が生まれていたのだった。
 『政教分離の勅令』もそんな、雷蔵が下した勅令の一つである。
 雷蔵としては聖職者が政治を運営してきたダリス聖教国の現行体勢下、大なり小なりの汚職を目の当たりにして、よかれと思い発布したのだが。
 これに元 "反教義主義者" が反発し、各所で臨時に運営されていた司法や行政組織がマヒしてしまったのである。
 無論、煽動しているのは権力を得ようとしていた元 "反教義主義者" の指導者達であるのだが、人員が足りていない現状では彼ら抜きでは各行政は立ちゆかぬ現実もあり、強硬的な態度に出る事ができなかったのだった。

「それにしてもどうしようか……。流石に末端の人間全てを新しく入れ替える事なんて無理だろうし」
「それでなくとも先の蜂起以降、人手は殆ど都市再建に割かれておりますからね」
「兄上にもっと行政官を送るよう、打診しては如何でしょうか?」
「うーん。無理してかき集めてくれそうだけど……あっちはあっちで大変そうだったしなぁ」

 しばし、沈黙。
 空気が重苦しくなり、雷蔵は頭を思わずかかえた。
 くそ。
 目の前にこんな、可愛いくて何でもさせてくれる子が三人も居るにも関わらず、なんで俺がこんなに悩んでるんだ?
 いっそ、メニコ達を見せしめに追放でもしてやろうか。
 ……いや、それじゃダメな気がする。
 あいつらだけが悪いんじゃなくて、多分この国の行政がそういう風潮となってしまっているんだろう。
 きっと、あいつらが居なくなっても似たような事がまた起こる……ような気がする。
 あああ、もう!
 気に入らない奴は片っ端から処刑!
 んでもって、目の前の "ごちそう" 三つ、今すぐ服を脱げ!
 ……って、出来たらどんなに楽になる事か。
 目線の少し上に並んだ形の良いしかし大小の膨らみを眺めながら、雷蔵は出来もしない事を思い浮かべて現実から逃避する。
 無論、その気になれば彼の妄想は直ぐに現実の物となるのだが、小心な本質と安い矜持、それに甘い優しさがそれを許しはしなかった。

「うー、この際、折れちゃおか?」
「折れる、とは?」

 意味をどう受け取ったのか、エーリャは真っ先に反応して不穏な空気を纏う。
 雷蔵は少し顔を引きつらせながらも、導き出した妥協を口に上らせた。

「とりあえず、『政教分離の勅令』を撤回するって事。ほら、俺も一応、ブレイブ教の神の使い? になるんだし」
「なりません!」

 突如激しい声で雷蔵の言を否定したのは、以外にも最も大人しそうなマグダレナである。
 その剣幕に思わずエーリャとアスティアは肩を跳ね上げて驚き、雷蔵も椅子からずり落ちそうになって肘置きを掴んでしまった。

「何故勇者様がお言葉を撤回せねばならないのです?! 責められるべきはあの元 "反教義主義者" 達ではありませぬか!」
「れ、レナ? 落ち着け、な?」
「そうですよ、猊下。それは私達も同じ意見ですし」
「そ、そうそう。それに、勇者様の御前でもありますし」
「お黙りなさい! エーリャ王女、アスティア姫、あなた方はなぜ平然として居られるのです?!」

 豹変と言える程火を吐いたマグダレナは、二人の美姫がたじろぐ程強く睨み付けた後、勇者に向き直ってずい、と上体と顔を近づけた。
 間近に見える珍しい紫の瞳は怒りに燃え、形の良い眉は寄せられて、普段のおっとりとした彼女の雰囲気は何処にもない。
 その気迫はエーリャの剣気にも劣らず、雷蔵は思わず顔を離しながら口の端を引きつらせ、なに、レナ? と情けなく声を絞り出した。

「良いですか! 『勇者』様のお言葉とは、ブレイブ教徒にとっては神の意志も同然。予言、神託といっても差し支えございませぬ!」
「へ、へぇ。そうなん、だ?」
「へぇ、ではございませぬ! それをあのような者らの為にアッサリと引っ込めるなど……そんな事をすれば勇者様の神性に傷がつきます!」
「神性て、そんな、大げさな……」
「そもそも! そもそもです。勇者様のお言葉に反発しあまつさえお心を煩わせるなど、不心得も良いところです。そのような者達には相応の鉄槌を下してしかるべきではありませぬか!」
「あ、えっと……な? レナ、とりあえず、とりあえず落ち着こう。な?」
「リリ!」
「え?」
「ここに」
「えええ?!」

 マグダレナは己の怒気に当てられたように更に興奮し、もはや雷蔵の事など目に入らぬかのように突如リリの名を呼んだ。
 同時に答える声がして、いつの間にそこにいたのか執務室の入り口の側に赤い髪の少女が跪き、頭を垂れている姿が確認できる。
 その姿はいつもの侍女が着るメイド服のようなものではなく、いつぞや雷蔵を襲ったときに着ていた暗殺者のそれであった。

「ダリス聖教法王の名において、今から口にする名の者の首を即刻此処に持って来なさい」
「御意」
「まずはメニ」
「わー! 辞めろ! レナ! 命令!! これ、命令な?! リリ、お前もだ! お前、何時の間にマグダレナとそんな仲になってんだよ!!」
「何時の間に、と申されても。猊下と打ち解け、護衛や身の回りの世話をせよと下命したのは主様ではないか」
「どういう方向で打ち解けてんだよバカ!」
「主様にはピンと来ぬであろうが、この国の者にとっては猊下は憧れの存在でもあるのだ。多少、舞い上がってしまっても仕方あるまい?」
「仕方あるまい? じゃねえ! レナ、お前も! 折角リリが暗殺しなくていいような国にしようとがんばってんだ、二度とそんな事をさせようとしちゃダメ!」
「……はい、申し訳ございません」
「リリも! いいか?! 今度から暗殺指令は俺の許可無しに受けちゃダメ! 当然実行も!」
「……御意」

 突如物騒な話になってか、必死の形相で制止する勇者にマグダレナは怒りを静め、三度……否、先程以上にしゅんとして唇を尖らせた。
 一方、リリはと言うと登場したときのように、誰の目にも触れぬ間にその場から履き消えてしまっている。
 雷蔵は机に設えられていた水差しから水を一杯グラスに注いで、一気に煽りもう一度豪華な椅子に座り直して咳払いをした。
 少し気まずい空気になりかけては居たが、緊迫した物は消え失せて、場を取り持つように今度はアスティアが口を開くのだった。

「勇者様。猊下のお怒りはともかく、勅を取り消すのはさすがに不味いと私も思います」
「自分もアスティア姫や……猊下の意見には同意です。勅を取り消せば混乱は更に広まるでしょう」
「どういう事?」
「なぜならば、『勇者は間違えない』からです。特にブレイブ教徒にはそれは絶対で、例え勇者様が100万の民を餓死させる勅を発しようと、それは "正しい" とされるべきですから。そうでしょう?猊下」
「はい、アスティア姫の言うとおりです。その……勇者様、どうか、その……」

 取り乱した事よりも、勇者に叱られた事がショックなのか。
 マグダレナは普段にも増して、消え入りそうな声で怯える子犬のような表情を浮かべながら言葉尻をしぼませた。
 その仕草は可憐そのもので、雷蔵は思わずその細い腰を抱きしめて押し倒したくなる衝動を覚え、生唾を飲む。
 が、直ぐにその劣情を押し込めて目の前の問題に再び頭を悩まされ、うーむとうなり頭をもう一度抱えるのであった。
 静寂はそれからしばし続く。
 その間一同の脳裏によぎるのは、答えを手繰る思考、目の前の肉体の味を思い出す獣欲、誰にも渡したくはない依存、取り乱した事への後悔。

「……一つ、私に案がございます」

 沈黙の果てに希望を提示したのは、やはりと言うべきか、当然と言うべきか、兎も角アスティアであった。
 というよりも、この中でもっとも政治に長けて居るであろう彼女にしか、上手い答えは出しようも無かったのかもしれない。

「勇者様。とりあえずは、ここダリスギアの行政を滞らせなければよろしいのでしょう?」
「え? うん、まあ」
「猊下。『政教分離の勅令』は発布されたとは言え、ダリスギアは現在もダリス聖教の教義憲法を採用しております。これを変えても?」
「勇者様のご意志がここにあれば問題ないかと。少なくとも、 "普通" の信徒には勇者様のお言葉があれば教義がどう変わろうが問題ありません」
「では。勇者様。私の案ですが、頃合いを見てダリス聖教の教義憲法を停止し、代わりにグリムワの法を適用する旨発布して頂けますか?」
「それは……構わないけど、どうするんだ?」
「現在各国で使用されている法は、古グラズヘイム王国の物を祖としております。ですので、ダリス聖教の教義が絡む箇所や税収を示す箇所以外は概ね同じでもあるのです」
「うんうん。で?」
「我々は『銀騎士』様とは違い、ここダリスギアの都市一つ治めればよいのでしょう? ですから、グリムワから必要なだけ実務を行う行政官を呼び寄せるのです」
「しかしアスティア姫。それではグリムワ領の政が……」
「ご心配にはおよびませんわ、猊下。グリムワは勇者様によって、その領地の多くを復領しております。指揮を行う政務官はすでにおりますので実務を行う者を各地から少数呼び寄せ集めれば、影響は出ないでしょう」
「なるほど。それは妙手かもしれませんね。彼らにしてみればアスティア姫は主君でもあるわけですし」
「そういうことですわ、エーリャ王女。勇者様、いかがでしょ」
「採用! それ、いい! 決まり!」

 喜色と共に台詞を遮りながら、雷蔵は身を乗り出させてアスティアを指さした。
 少々荒っぽいやり方であるかもしれないが、確かに行政官と法を丸ごと入れ替えるのも手なのかもしれない。
 イグナートが送り込んできた政務官も、占領政策を本義としている為、異なる法の執行にも柔軟に対応できよう。
 更には、グリムワ領は形式上アスティア姫の直轄地のままであり、イグナートの遠征には人手を割いては居ない。
 恐らくは、多少の人員派遣にも大きな混乱は発生すまいと雷蔵に予想させていた。

「よし、そうと決まれば! アスティア、手配をお願い!」
「かしこまりました、勇者様」
「エーリャ、後で街に出るぞ! 行政府が機能を取り戻すまで、まめに街を回って治安だけでも維持しとかないと」
「は」
「レナ……は、えっと」

 アスティアの策と調子に乗って『勇者』らしく、矢次に指示を出していた雷蔵は、マグダレナの番に至り口を濁らせた。
 単にマグダレナに何を指示しようか思いつかなかっただけであったのだが、法王にはそれが何よりも傷ついたらしい。
 先程からそうしていたように少女は唇を僅かに尖らせ、肩を小さくしながら目に涙を溜めて俯いてしまった。
 そもそもは敬愛し信仰する勇者を煩わせているのが、己の宗派の信徒である。
 更には先程取り乱した姿を見せ、叱られもしたのだ。
 その上で受ける雷蔵の仕打ちは、傍目にはほほえましいものであったが、本人にとっては自己嫌悪と屈辱を肥大させるものであった。
 やがて、下を向いたその大きな瞳からは大粒の涙がぽつぽつとこぼれ始める。

「あの、わたし……」
「な、泣くなよレナ! えと、そう! レナにはメニコ達の内情を調査してほしいんだ! リリやシュシュ使っていいからさ」
「グス、神の、ひっく、鉄槌を下すべき粛正対象リストを、うう、作成すれば良いのでしょうか?」
「ちがう! そこから離れて! 聖教分離をするなら、教会組織とかメニコみたいなのを別に運営しなくちゃいけないだろ?」
「はい、グズッ」
「だからさ、そいつらを纏めるのをレナに手伝って欲しいんだ」
「ううう、勇者さまぁ、お役にたてず、ごめんなさい。後で "お仕置き" を受けますから、どうかお赦しを」

 どさくさに紛れ、物騒な事やチャッカリな事を口にしながら、マグダレナは雷蔵の胸に飛び込んだ。
 その意志は変わらず無垢ではあったが、彼女に就けた侍女の影響かこの短期間の内に狡猾なものも身に付けているようだと雷蔵は苦笑う。
 ふと目があった二人の美姫も同じ感想を抱いてか、泣くマグダレナを抱きしめ頭を撫でてやる勇者と法王をじっとりと半目で睨んでいる。

「勇者様」
「なんだ? アスティア」
「猊下に "お仕置き" なさる前に、私に "ご褒美" をいただきとう、ございます」
「わ、わかったよ、アスティア」
「では、湯浴みをしてまいりますので、部屋でお待ちしております」

 そう言って、言葉とは裏腹にやけに冷たい声色を残し、アスティアはさっさと部屋を後にした。

「勇者様」
「な、なにエーリャ?」
「あの、えっと。わ、私にもその……うう、何もしてない! お役にも立てず、お仕置きを受ける事もままならず!」
「エーリャ?」
「とにかく! 二人だけずるいです!」

 エーリャもそう言い残し、肩を怒らせながらアスティアの後を追うように部屋を後にした。
 残されたのは、未だグスグスと胸で泣くマグダレナと勇者の二人。
 雷蔵はエーリャの所にも後で行くべきなんだろうな、などとぼんやり思いつつも、さしあたっては予想外に子供のように泣く法王の頭を撫でてやり、落ち着かせる事にしたのだった。
 ちなみに。

 その後の秘事にてもっとも激しかったのは、 "何もできず" 激しい嫉妬を燃やしたエーリャ王女であったという。





















25 噂

 雷蔵がグラズヘイムに喚ばれ、二度目の夏の盛りとなった。

 日数にして14ヶ月が経ったその日。
 勇者の名代としてグラズヘイム大陸を西に進軍する『銀騎士』は、西側列強諸国の中心国とも呼べるヤードランド公国を攻略し終え、大勢を決していた。
 これは事実上西側列強諸国を構成する国々の連合は瓦解し、後は如何に互いにとっての好条件を引き合いながらの恭順交渉を待つ事を意味する。
 というのも、神算鬼謀の用兵と神速と呼べる行軍で勝利を収め続けた勇者軍は、急激に肥大化した領地の内政や大軍の補給などが滞り始めており、内ならず外から見てもそれ以上の進軍は無謀であるのは明白であったからだ。
 一方、対する西側列強諸国も単身でダリス聖教国を落としたと噂される『勇者』の存在もあってか、反撃の機を見いだせず必然、持ちかけられる恭順交渉に活路を見出す他に選択肢は残されてはいなかった。
 もっとも、実際は勇者一人でダリス聖教国を攻略してなどは居なかったのだが。
 パラス関の事もあり、噂は何者かの意志もあってか信憑性を持ち合わせて、西側列強諸国の首脳を惑わすには十分であったと言えよう。 
 そのような情勢下、聖都ダリスギアでは前代未聞の勇者による行政官総入替えが行われ、その行政機能を取り戻し復興の速度を更に上げていた。
 ただ荒療治の余波として、ダリス聖教教会の組織改編による混乱は尚も続き、巷では再び勇者偽物説が流布し始めてもいた。
 噂は多くの市民が勇者の力を目撃していた為、また勇者本人が頻繁に街に出没していた為か、聖都にあって信じる者は殆どいない。
 しかし噂は態度を保留していたダリス聖教国各地の諸侯には効果があったらしく、彼らは恭順の呼びかけに一切答えず、未だ独自にその領地の支配を行っていたのだった。
 彼らの強気に如何なる根拠があるのかはわからなかったが、ただ一つハッキリしている事は、勇者はなぜかその行為を黙認していると言えよう。
 通常ならば『銀騎士』率いる正規軍がこのような不届き者を誅するべく、即座に動いてもおかしくはない状況である。
 だが多くの者の予想に反して『銀騎士』は、ダリス聖教国との国境を固め、主君が座するダリスギアには僅かな兵を派遣するに留まっていた。
 果たして、『銀騎士』と勇者は不仲であるという噂や、『勇者』はやはり偽物であるという噂の他に、勇者の逆鱗に触れた為一国を単身で落とす力をもってダリス聖教国を焦土に変えんと準備しているという噂まで飛び出し、根も葉も無い言葉は大陸を駆け巡る。
 そうして勇者の真意は誰にもわからぬまま、『閉じた世界』グラズヘイムはしばし戦乱を忘れ去るのであった。
 そんな、噂の中心地であるダリス聖教国聖都ダリスギアにて、噂を耳にし強く憤慨する法王マグダレナを余所に、当の勇者はというと……

「あだ! ……いっ痛ぅ」
「だっ、大丈夫ですか?」
「大丈、夫。もうちょっと、で、復活すっから」

 神殿の西側にある練兵所にて。
 剣術の手会せを行っていたエーリャの模擬剣をその肩に受け激痛に蹲る雷蔵の姿があった。
 かつて神殿を守る神殿騎士団が使用していた練兵所は広く、近くには騎士や兵士が詰める宿舎や鍛冶場、それに厩舎も併設されている。

「ほ、本当に大丈夫、ですか?」
「ああ。もう大丈夫。ほら」

 雷蔵は心配して側に寄ってきたエーリャの目の前で立ち上がり、勢いよく腕を回して見せた。
 その様子にエーリャはほっとした表情を浮かべて、それならば、と雷蔵と距離を開けもう一度模擬剣を構える。
 対する雷蔵も緩みきっていた表情を引き締めて、エーリャと同じく剣を晴眼に構え瞳に力を宿す。
 実際肩に受けた一撃は大した物ではなく、痛みも体内に在るCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)によって既に消え去っている。
 手にしている剣もエーリャと同じく模擬剣であり、必然、雷蔵は "再現" すら使える状況ではない。
 今勇者が持ち得る力は、精々肉体保持の為のダメージ回復位であった。
 にもかかわらず。

「いきます」
「応」

 王女の宣言と共に繰り出されるのは、その麗しい出で立ちからは想像もつかぬ程鋭い斬撃。
 半ば達人の域にあるエーリャのそれを、返答と同時に雷蔵は受け流し、そのまま身体を沈めて受け流した剣を振るい足を薙いだ。
 切っ先は疾く、鋭く地を這ってしかし。
 そこに細い女の足はなく、回る視界の先に雷蔵は剣先が僅かに届かぬ位置に移動したエーリャの姿を捕らえる。
 まずい!
 思考と同時に雷蔵はエーリャとは反対方向に跳んだ。
 が、その判断は正しかったものの、僅かに遅かったらしい。
 跳んだ瞬間背に鋭い衝撃を受けて、雷蔵は無様に地に倒れ込み、しばし息が出来ず悶絶してしまった。

「――か、は!」
「勇者様?! だれぞ!」
「だい、じょう、ぶ――だ、って」
「勇者様! 傷は浅いです! しっかり!」
「だから、大丈夫、だって。……ふぅ、痛かった」

 僅かな時間で回復した雷蔵は、遠巻きに見物していたラムル宮殿騎士の人垣の中から医療用具の入った箱を持って駆け寄って来ていた女性を手を掲げ制した。
 それから直ぐに何事も無かったかのように再び立って、たははと恥ずかしそうに笑う。
 勇者の仕草は少々情けない物ではあったが、怪我を負った者のそれではなく、エーリャと駆け寄って来ていた騎士は胸をなで下ろした。

「くそぅ、いけるって思ったのにな……」
「あの、勇者様?」
「ん? なんだ?」
「なぜ、手を抜かれてまでこのような?」
「あー、うん。その、な? はは、えっと、ちょっと試したい『技』があってさ」

 当然、嘘である。
 雷蔵がCFMMの支援も無しに剣を手にして、エーリャと模擬戦を行うには別に理由があった。
 それは必然ではないものの、雷蔵にとっては心躍る希望であり、又柄になく高揚してしまう程の発見で。
 彼が理想とする『勇者』へと近付かんとする為、勇者の足をこの場に運ばせていたのだった。
 キッカケは、アスティアとの情事を終えた際に見た、鏡に映った己の姿である。
 雷蔵はそこに映し出された自分に目を開いて驚き、戸惑う。
 鏡の中には、幾度も気をやり裸のまま泥のような眠りに付いているアスティアの裸体と共に、細く筋張る程引き締まった己の肉体が映し出されていたからだ。
 なんだこれ! と思わず口に出しかけ、自らの体を雷蔵は思わずペタペタとまさぐる。
 それまでも幾度となく腹筋は割れ余分な贅肉が削がれている事に気がついてはいたのだったが、目の前に映るそれは尋常なものではなかった。
 性行為を多くこなすが為に身体がある程度は引き締まっていた、というそれまでの雷蔵の認識を大きく逸脱させる肉体は、勇者に発見をもたらす。
 ……もしかして。
 これもCFMMの作用かなにか、か?
 でもなんで……俺、筋トレなんてしてなかったぞ?
 運動なんて馬に乗るか、アスティアやエーリャ達と "する" か、 "再現" を使って剣を振るうか……って、結構運動はやってるか。
 でも筋肉痛とかは無かったし……筋肉痛?!
 もしかして、筋肉痛とかもCFMMは直してくれてたりとか?!
 そこまで思い至り、雷蔵は以前学校の授業で行われた、筋肉のしくみについてのレクチャーを思い出した。
 そもそも筋肉とは、負荷を与えて筋肉線維を破壊し、そこに栄養を加えてやり、数日休養をとると発達していく仕組みである。
 常人はこれを幾度も繰り返してゆっくりと筋肉を発達させていくのだが、雷蔵の場合筋肉線維を破壊した側からCFMMがこれを短期間の内に修復してしまうのだ。
 もし、この修復が筋肉の発達をも維持・調整しながらのものであるならば……
 思考の裏付けは、目の前の鏡の中にあった。
 雷蔵はCFMMの思わぬ効果の発見に、これは何か役に立つのではと考えて、もう一つCFMMについて思い当たる節を見つけ心を踊らせる。
 それは、 "再現" で使う、名も無き剣豪の技の数々であった。
 魔女が設定した "再現" を使う条件は、 "傾国" を抜き放ち "斬った物の数だけ女を抱く必要がある" という物だ。
 しかし、雷蔵がよく使う名も無き剣豪の「剣の結界」のように、ただ発動するだけならば "傾国" に手を添えるだけでよい。
 それだけならば、 "傾国" を抜き放ち何かを斬らない限り、代償を支払う必要は無い。
 問題は、何かを斬る事で条件を満たしてしまい、代償として女の身体を貪るか、寝込んでしまう事にあるのだ。
 ならば。
 剣を振るう肉体はすでに在る。
 剣技は、刀に手を添えればイメージだけは沸いて出る。
 あとは、この二つを組み合わせれば。
 人の域ではあるものの、『勇者』として力をある程度は身に付けられるのでは無かろうか?
 導き出した回答は、幼稚ではあったが本人にとっては得難い物であったらしく、思わず喜びの声を上げさせて。
 突然の大声に起き出してしまったアスティアに、満面の笑顔を向けながらももう一度、その身体に覆い被さりながら雷蔵は思う。
 明日から『本当の勇者』に近付くことが出来るかもしれない、と。
 そう胸を高鳴らせ、幾日か "傾国" を虚空に振るう日々を過ごした後、意気揚々とエーリャと手合わせを行っていた雷蔵であったのだが。

「はは、上手くいかないな、これ。やっぱり実戦じゃモノにならない、かあ」
「? どういう事、ですか? 私にはいつも勇者様が振るう太刀筋を更に遅くして、少々型を崩しているだけにしかみえませぬが……」
「あ、いやいや。その、な。――そうそう、俺が使うのは片刃の剣だろ?」
「ええ。カタナ、と呼ばれる剣だと魔女殿に教えて頂いた事がありますわ」
「俺の技はソレ用なんだけどさ、こうやって、エーリャ達が使う両刃の剣にも慣れとこうかなあ、なんて。はは……」

 嘘の上に更に嘘を塗り固めた弁明に、雷蔵は力無く笑い、エーリャは疑いもせずに尊敬を重ねた。
 それから程なく三本目が始まり、それ程時を経ずに勇者は敗北を重ねて、現実の厳しさを知る事となるのだった。




















26 傲慢

 雷蔵がマグダレナの "時放つ世界のかけら" で一旦元の世界に帰った折。

 政務の足しになればと持ち込んできた、幾つかの書物の中に『よくわかる! 都市計画法』という書があった。
 これは主に建築設計に携わる者が使う入門書のようなもので、地震国日本における建物の法的手続きを主眼とした書なのだが。
 当然そのような知識のいろはも知らない雷蔵が幾ら読もうと理解出来るはずもなく、しかし、導入の部分を読みなんとか聖都に適用したのが勇者の発布した『都市計画法』である。
 その内容はと言うと、聖都ダリスギアの復興にあたり、地域ごとに建物の用途を定めて計画的に発展させようという物だ。
 つまりは、中心地である神殿(主に本殿)を勇者とその関係者が暮らし。
 神殿外郭部は政務を司る場所として。
 その回りには、商館や歓楽街などの用途を細かに区切った商業区域を。
 更にその周囲には、治安維持を目的とした軍事区域を。
 そして、最後にダリスギアの市民が暮らす住居をその外側に建てて良い地区があるといった感じで、土地に用途を定める法であった。
 当初、中世欧州のような町並みと暮らしが目立つグラズヘイムにあって、先進的な街並みを作り出す法を持ち込むんだと、意気揚々にこの案を政務官に渡し良い事をしたと胸を張っていた雷蔵は。
 すぐにいくつもの苦情や問題が噴出して、再び執務室にて頭を抱える羽目となっていた。

「大体の。いきなりなんでもかんでもやろうとするから、資金が底を尽くのじゃ」

 やれやれ、といった調子で不敬にも勇者の執務机に腰掛け、鼻を鳴らしながら草案書を放り投げたのは『時の魔女』ノルンである。
 彼女は先日『銀騎士』の元で行っていた外交補佐が一段落したため、雷蔵が住むダリスギア宮殿へと越してきていたのだった。
 雷蔵としては側に魔女が居る事は心強くもあったのだが、同時に彼女の存在は障害のようにも感じられて。
 ラムル宮殿に残していた侍女達を引き連れやって来た魔女を、己の力と判断で色々と歩を進めだしていた手前、複雑な心境で出迎えたのだった。
 そんな勇者の心境を察知してか、魔女も請われぬ限りは雷蔵の行いには一切の口を出さぬよう努めて、現在では、地下牢に居を構えてフラフラとあちこちを出歩くようになっていたのである。
 そんな、ある日。
 魔女は神殿内に早速不満点を見つけて、潤沢に集まり始めていた聖ブレイブ教の寄付金を使い、自分好みの大浴場建設に取りかかった矢先。
 雷蔵に呼び出され、彼が発布した『都市計画法』によって生じた問題を解決すべく助言を求められて、あきれ顔で鼻を鳴らすに至る。

「まったく、お主は相も変わらず浅はかよな。くく、地球の法を示せばそれだけで驚愕されるとおもうたか?」
「……思ってたよ、畜生」
「ひひ、素直じゃの。ま、これに懲りてもうちと、思慮深くなるがよいぞ? こちらの法は、こちらの世情に合わせてのものじゃしの」
「うっせえ。それよりも、これ、どうしようか悩んでるんだよ。勇者直々の法だし、絶対引っ込めるなってレナ達に釘挿されちゃったし」
「なんじゃ、もう尻に敷かれとるのか。まったく、女の尻など、後から突き上げながら手のひらでぱんぱんと叩くものじゃろうに」
「うっせ、色ボケ」
「ひっひ、貸し一つじゃぞ? 簡単な話じゃ、まずは城壁を設ければ良い」
「それは俺も考えたよ。だけどなあ、カネがねーの! カネが!」

 雷蔵は頭を抱えたまま、机の上に腰掛けるノルンを見上げて、ふん、と鼻を鳴らし返してニヤリとした。
 普段から何かと自分をバカにする事が多い魔女が、自分と同じく実行できない考えをさもありなんと語った事が嬉しかったらしい。
 そもそも、勇者の発布した『都市計画法』の問題とは、城壁が無いにもかかわらず居住区域を都市の外側に持ってきてしまった為、住民の無差別な流出入が起こり一度は持ち直した治安が再び悪化してしまった事である。
 特に居住区の最も外側などはスラムも同然で、戸籍すら作る事もままならずあらゆる犯罪が日常化し深刻な社会問題となりつつあった。
 グラズヘイムの都市は日本とは違い、都市の回りをぐるりと城壁で囲んで出入りする人間を厳しくチェックする仕組みが普通である。
 城壁は外敵から都市を守るため以外にも、防犯の意味や中に住まう人間の戸籍を把握し安定した税収と行政予算を組む為の意味も持ち合わせているのだ。
 しかし聖都の城壁は "反教義主義者" の蜂起時にいずれも雷蔵が跡形もなく破壊していた為、その殆どが現在では更地となっている。
 これは "反教義主義者" の蜂起時、都市の外から蜂起に加わる者を導く必要があったからだ。
 兎も角、雷蔵はこの問題に対して急遽、聖都の外郭を覆うように城壁の建造を検討したのだったのだが。
 それでなくとも、それまでの度重なる商人への略奪事件による税収の低下と、雷蔵が破壊した各施設の復旧に資金をつぎ込む状況である。
 莫大な資金が必要とする広範囲にわたる城壁の建造など、予算が組めようはずがなかったのだった。
 ふん、偉そうにしやがって。俺と同じ間違いをしてやんの、ばーか。
 と、勇者の表情は語る。
 しかし、時の魔女はいつもの意地悪い笑みを浮かべて、雷蔵を見下ろしもう一度鼻を鳴らした。
 心底、嘲るように。

「阿呆。何も聖都の外側に城壁など直ぐに作る必要はないわ」
「……へ?」
「くく、なんとも間抜けな話じゃの。意気揚々と提示した異世界の法の本質も知らずに運用しようなどと。まあ、お主にはこの辺りが限界かの」
「あにがだよ、わかりやすく説明しろよ」
「わかるかのぅ、己の無知を誇るような愚か者に、魔道を極め存在の位階を駆け上がらんとする儂の言葉が」

 魔女はくつくつと笑いながらそう言って、雷蔵に流し目を送り背を弓なりに反らして、しなを作った。
 この日、彼女は黒い蠱惑的なドレスを身に纏い、大きく空いた背からは肩甲骨と背骨の美しいラインが目に飛び込んできて、一瞬雷蔵の視線を奪う。
 特に背骨と細い腰の曲線はそのまま臀部へと伸びて、女性にしか持ち得ぬ丸みを強調し、なんとも言えぬ芳香も相まって勇者の劣情を刺激した。

「……とりあえず、言って見ろ、よ」
「ひひ、何処をみておる。まったく、説得力も威厳もあったものではないの」
「うるせ。そんな裸みたいな格好しやがって」
「しかたなかろ、暑いんじゃし。地下は涼しいが流石に上はの。……む、そうじゃな。頃合いを見て、 "発電施設" もこちらに転移させとくか」

 そう言いながら魔女は、わざと申し訳程度に胸元を隠していたドレスの端をパタパタとつまみ上げては元に戻し、布の下へと空気を送る。
 無論雷蔵からは、恐らく正面からならばチラリチラリと見えたであろう双丘の先端は見えず、しかし、大きな膨らみのラインは確かに見えて。
 一層濃く立ちこめる女の甘い体臭は勇者の鼻をくすぐって、いまはそれどころではないとばかりに雷蔵は頭を二度振り、勿体ぶる魔女を急かした。

「それはいいから。早く説明してくれよ」
「おお、そうじゃった。つまりはの? 城壁を作る規模を縮小すれば良いのじゃよ」
「はぁ?! そんなの意味ねぇじゃねえか。ぐるりと街を囲わない城壁とか何の役に立つんだよ」
「くく、ほんに、主は阿呆じゃの。儂は別に聖都の外側に城壁を作れとは言っておらぬわ」
「じゃあ、どこに作るってんだよ!」
「商業区と居住区の間に軍事区域を制定しておろうが。そこに城壁を作るんじゃよ」
「ちょっとまて。あれは治安維持部隊を配備するための区域だぞ?! それに、外側の市民はどうなるんだよ?!」
「知るか。税をより多く納める商人を保護が先じゃろうが」
「な?! お前正気か?! 聖都の端にはスラムまで出来てきてるんだぞ?!」
「だから、知った事かと言っておる。そやつらが多額の税を納めるならば話は別じゃが」
「てめえ……」
「くく、なぜ怒る? 儂に答えを求めて来たのはお主じゃぞ?」
「あそこじゃなぁ、その日の食いもんすらなくて子供すら残飯漁っているんだぞ! 強盗や強姦だって毎日のように」
「そうか。それは可哀想じゃの。それで? ボクがその状況を作り出している張本人ですと自己紹介したいのかえ?」

 魔女の言葉に、雷蔵はそれ以上言葉を発する事はできなかった。
 元からあった城壁を破壊したのは彼自身であり、たとえ能力が及ばないとて今の状況を作り出したのも、他ならぬ雷蔵であったからだ。
 その事を誰よりも自覚しているが為、勇者は一日でも早くダリスギアの民に安寧をもたらさんと魔女に縋っていたのである。

「ひひ、ぐぅの根が出ぬ程には賢しいようじゃの」
「……うるせぇ。自覚してるからこそ、一日でも早くなんとかしたいと思って、なりふり構わずお前に頼っているんじゃねえか」
「だから。城壁を作ればいいんじょよ」
「それで守られるのは豊かな商人だけじゃねえか!」
「そうじゃ? その豊かな商人達を保護して多くの税を納めて貰い、その金で外側に城壁を作るんじゃから当たり前の話じゃろ」
「そんな! それじゃ、今は商業区の外で暮らす人たちを見捨てろっていうのか?!」
「全部見捨てる必要は無いがの、税を商人達より遙かに少ない額しか納めぬ以上、しかたあるまい?」
「……そこをなんとか出来ないのか?」

 呻くような声は縋るようで。
 妖艶に笑う魔女はなかば、その悲痛な声に嗜虐心を震わせ快楽さえ覚えつつも、意味ありげな視線を悩み苦しむ勇者に投げた。
 くく。
 なんと、自身の闇に苦しむ人の姿は美しい事か。
 己はあらゆる欲望が叶う高みに座して、日々を生きるだけで精一杯の者を思い、良心を痛める。
 その傲慢に気がつかず、なかば自己憐憫の域にある他者への思いをこうも恥ずかしげ無く吐露するとは。
 視線の先では勇者が苦悶の表情を浮かべ、ただ一筋の希望に縋らんとしている。
 その希望に手をださなくとも、己はいつものように豪華な食事で腹を満たし、美女をあられもない格好で幾人でも抱ける立場にありながら、だ。
 そして魔女は、愚者が求める答えを提示する。
 ありったけの愛を込めて。

「出来ない事は無いが……幾つかの品の専売権を商人共に分割して売り渡せば、城壁を再建できるほどには資金は集まるじゃろうな」
「おお! ならすぐに……」
「が、そういったものを手放すと後々苦しいぞ? 例えば塩の専売権となれば今のような行政すらままならなくなる」
「なんでだよ!」
「何、経済が完全に支配されてしまうという事じゃよ。必然、政治にも口を出してくるぞ? それも自分達を更に富ませる為にの」
「ぐ……でも、さあ? その時はなんか、理由つけて特権を取り消せば……」
「 "逆" じゃたわけ。お主、それこそ地球の知識を生かす所ではないか」
「……何が?」
「はぁ……よいか? お主の故郷では、誰か一人が富を独占して政治や宗教に至るまで支配しておったのか?」

 器用にも妖艶な笑みは一切壊さず、しかし少し呆れたような、馬鹿を見るかのような嘲笑を表情に滲ませて魔女は口の端を更に上げる。
 雷蔵はそんな彼女を忌々しく睨みあげながらも、与えられた言葉の一つ一つを慎重に吟味し、故郷を思い浮かべた。
 流石に時間はかかったが答えは正しく導き出され、勇者は抱えていた頭を上げながら実質与えられた解答に何度も頷き、ぽん、と手を打つ。

「――つまり、商人に聖都の政治をやらせるって事か」
「少し足りぬがそういう事じゃの。複数の大商人にそれぞれ専売特許を与え、連中に議会でも作らせてこの街を仕切らせるのじゃよ」
「なんか、それだと商人達が自分達の都合の良いように法律を運用したりしないか?」
「するじゃろうな。しかしそこを権力をつこうてどうにかするのがお主の役割じゃろ。むしろ連中を手玉に取り上前をはねる位でないと」
「そうかもしれないけど。そもそも俺、失敗が許されない立場なんだぞ?」
「知るか。許されないも何も、失敗した所で誰がお主を罰する? ここは仲良しこよしな民主国家ではないのじゃぞ?」
「……そうだけど、さ。俺一人じゃ治安は」
「あー、もう。治安治安とうるさいのう。もっと視野を広く持たぬか。問題は治安だけではなかろ? 猿のような民にこっぴどく略奪された商人の呼び戻し。そ奴らの物流の確保。どさくさに荒らされた農地の修復。それらを同時に解決してゆかねば、治安など元に戻らぬわ」
「それは……わかってるけどさあ。まず、治安から回復しとかないと。民衆に安心して暮らせる環境があってのもんだろ?」

 矢次に飛んでくる否定の言葉に、雷蔵は少しムキになって反論を試みた。
 魔女の言葉の一つ一つはどれも理にかない、しかし嘲りが感じられ、雷蔵は素直に受け入れる事ができずあまつさえ不機嫌な表情を浮かべる。
 元はといえば彼が魔女に助言を求めていたのであったが、今やその態度は教えを請う者のそれではない。
 魔女はそんな勇者を変わらず嘲るように、誘うように、愛しそうに微笑み見詰めて、内心ではその増長ぶりに痛く胸を躍らせるのだった。
 その態度は己が居ない間、雷蔵が如何に周囲におだてられ、知らず増長しながら自我をどれほど肥大させたかを示すものでもあって。
 人の醜い部分を愛する魔女はそんな勇者の変化を確認し、猛る邪心とは裏腹にため息を一つ吐き捨て言葉を垂らす。

「はぁ。ボケもここまで来ると、いっそすがすがしいのう」
「んだよ」
「よいか? なぜダリスギアの治安が思うように回復せぬと思うとるのじゃ?」
「そりゃ……政治が混乱してるから、だろ?」
「そうじゃ。では、具体的に、政治の何が混乱しておる?」
「そんなの、はっきり伝わらない命令系統とか、行政官をごっそり変えたからとか……」
「たわけ。お主は通う学校の教師が変わったからと、街に出て今までせなんだ万引きをするのか?」
「……いや」
「そうじゃろ。治安が悪く回復しないという事は、多くの民がまともに暮らせぬからじゃ。いくら軍を配備しようと、あの猿共の腹は膨れはせん」
「あ……」
「よいか? 猿どもを大人しくさせるにはまずは生活の安定じゃ。その為には飯。次いで着る物、住処。それらを支えるのは物流じゃ」
「うん」
「そして物流を押さえておるのは商人どもじゃ。連中を保護してやらねば猿どもの生活も永遠に戻っては来ぬ」
「だから、まずはその為の城壁をこしらえて、その中に大商人達を呼び寄せ最終的には外側に城壁を作らせるって事か」
「ようやくわかったか?」
「でもさ。そんなに上手くいくかな?」
「くく、何、勇者の膝元となる都市一つの専売権じゃ。飛びつかぬ者はおるまい。元は坊主どもが握っておった権利じゃし後腐れもないしの」
「なるほど……」
「まったく、ほんに中途半端な奴じゃの、お主は。くく、貸しは3つ位に増やしておくかの」

 魔女はそう言い残しひょいと座っていた机から飛び降りて、くつくつと笑いながらそのまま勇者の部屋から出て行ってしまった。
 てっきり話が終われば身体を求められるものと思っていた雷蔵は、肩すかしをくらい、なんともいえぬ居心地の悪さを覚える。
 嘲笑や侮蔑を入り交じった彼女の言葉に苛つきを表しながらも、女の夏の薄着と誰よりも甘い体臭に、欲情もまた覚えていたからだった。

「……くそ。上手くいかないもんだな」

 独白は、小さく苛つきと自己嫌悪に塗れて部屋に転がる。
 雷蔵はそれからしばらくの間、得た解答を己の頭の中で整理し悶々とした欲望に耐えて。
 しばらく後、その解答を元にした解決策をアスティアとマグダレナと共に煮詰めた後。

 魔女にぶつけ損なった怒りにも似た強い劣情を、その場で二人に叩き付ける事にした勇者であった。




















27 甘味

 勇者が喚び出されてから、二度目の夏が終わる頃。

 盛りは過ぎたとは言え、まだまだ暑い日が続く聖都ダリスギアではグラズヘイムでは初の平民による議会が発足していた。
 君主や領主による封建的な政治形態が当たり前の世界において、勇者の膝元での議会発足は大陸全土に衝撃を走らせる。
 無論、これは聖都だけに限った話であり議会自体もそれほど珍しい物ではない。
 しかし流石に平民が議員になる事など前代未聞で、しかもそんな議会を二つも設置したのが勇者本人の発案である事が全土の諸侯を焦らせた。
 勇者の行為は未だ態度を明確にしていない各地の諸侯にとって、政を行わせるにあたり身分に拘らず誰でも登用する意志を表していたからだ。
 同時に勇者自らが治める地にて登用した平民は、強大な財力を持つ商人は居たものの、何の爵位も持たぬ者が数多くありその事実が各々の領地の平民達に少なからず、精神的な影響を与えてもいた。
 つまりは。
  "勇者の治める地へ行けば、能力さえあれば身分に関係無く登用して貰える" といった噂が流布して、領民の流出や恭順への期待が高まりつつあったのだった。
 特に『銀騎士』との恭順交渉の真っ只中であった西側諸国は勇者の行為を深刻に受け止め、堰をを切ったかのように妥協案を提示して交渉の成立を急ぐに至る。
 そんな世の流れも知らず、当の勇者はというと二つの議会を無事発足させてからは久しぶりにゆったりとした日々を過ごしていたのだった。



 パチェットはグラズヘイムでは珍しくもない青い髪と紺の瞳の持ち主で、かつてラムル宮殿で働き、今では勇者が暮らすダリスギア神殿に職場を移した女官である。
 同時に、望まれたなら勇者の劣情を何時如何なる時でも鎮める使命も与えられた、ハレムの女でもあった。
 勇者の為に働く女官は、主にその生活を維持する為様々な仕事をこなす。
 ベッドメイクを始め、湯殿の維持管理、食事の用意に広大な神殿内の清掃。
 王女達の身の回りの世話に、彼女達の執務の補佐、果ては薪や食材の買い付けまで。
 その労働は比較的楽ではなかったが、勇者の目に止まり晴れて "銀の首輪" を得る事が出来た時の名誉を思えば見返りは十分であると言えよう。
 なにせ、首輪を嵌めたその日から魔女の手による昼夜季節の関係無い快適な部屋を宛がわれ、高額な年金が付くのである。
 万一身籠もろうものならば、その血筋を得んとする各地の大貴族がこぞって正室や養子としての迎え入れ、華やかな人生が約束されるのだ。
 故にか、彼女達には厳格に容姿を選抜されたその見た目の麗しさ以上に、上流社会での教育が要求される。
 ただ、彼女達の中には一応身分の低い者などもいるため、一通りの教育を経て女官として送り込まれるのではあるが。
 一時勇者の寵を受けた者が増長していた時期があり、その為かこの教育は殊更厳しく施されるのが通例となっていた。
 それでも必要な所作が完璧に身についていない者も居て、勇者の目に一切触れない裏方の仕事ばかりを割り振られる事も珍しい事ではない。
 つまりは女官達にはだれしもが勇者の寵を受ける機会があるのだが、実際には雷蔵の視界に入る者はすべて彼女達の中でも特に優れた能力を持つ、エリートであると言えよう。
 パチェットの場合はどうか。
 その首には未だ、銀の煌めきは無い。
 彼女は元々とある田舎の貴族の出で、学者を志していた。
 が、グラズヘイムの学閥は女であるというだけで拒まれる事が当たり前であり、彼女も又、その道を諦めた女性であった。
 幸い容姿は勇者の女官となるには十分であり、貴族だけあって一通り上流社会での教育も施されていた為、『銀騎士』の目に止まったのだが。
 逆に貴族としてのプライドが平民女性が行うような雑事を拒ませて、つい最近まではもっぱら、新人の女官に上流社会での嗜みを教育する役目を担っていた。
 そんな彼女を変えたのは、初めて出来た平民出身である友人と……

「パチェット! やったわ! 勇者様からまた "アレ" が下賜されるそうよ!」
「本当に?! トゥート、またウソじゃないでしょうね?!」
「こんどは本当! ほら、マグダレナ法王猊下……金の首輪の持ち主が一つ、増えたじゃない? そのお祝いって話だから」
「やった! また "アレ" が食べられるのね!」

 茶の髪とパチェットと同じ紺の瞳を輝かせて、トゥートと呼ばれた少女は相部屋の机で報告書を作成していた友人に朗報をもたらした。
 パチェットは唯一心を許せる友人の報せに年相応の笑顔を浮かべ、やがて下賜されるであろう "それ" の味を思い浮かべてうっとりとする。

「ああ、勇者様に "アレ" を下賜していただけるのはいつになるのかしら」
「トゥート、それは多分今日の午後。ほら、ラムル宮殿からこっちに越して来る予定の女官は、昨日到着した組で最後だったでしょう?」
「うん。で、今日の午後、中庭で勇者様直々に全員にお話があるとかで招集かかっているのよね……あ、そっか。その時に?!」
「きっとそうよ! ああ、今から待ち遠しいわ」
「うんうんうん! ほんと、早く午後にならないかしら!」

 二人は喜色満面に笑い、黄色い声を上げて手を取り合った。
 彼女達が口にする "アレ" とは、雷蔵が地球から持ち込むチョコレートの事である。
 それも、アスティアやリリ達に直接贈られるような物ではなく、一袋298円ほどの、サイコロ状のチョコレートが大量に入った奴であった。
 無論一人一袋などではなく、一人一粒からの下賜だ。
 これは雷蔵がケチという訳でなく、単に人数分の物を買っていると元の世界では非常に不自然に見えるため、彼女達の分まで手が回らないだけなのだが。
 それでもたとえ大貴族の令嬢でさえ口にする事は難しい程甘いそれは、小さな欠片であっても彼女達を魅了するには十分な大きさであった。
 パチェットはトゥートと手を取り合いながらも、その甘い記憶に心を漂わせる。
 黒く、小さく、四角のそれは、不思議な質感の透明な包み紙にくるまれて。
 言われた通りに口中に放り込み、一噛みした瞬間、えもいわれぬ芳香が口から鼻へとむけて抜けてゆき。
 次いでそれまで貴族として生きてきたパチェットでさえ、味わった事の無い程の強くしかし心地よい甘味が舌を包み込んで。
 あまりに美味しいその菓子を、はしたなくも噛み砕いて失うのが惜しく、舌の上で転がしているとまるで、雪のように解けてしまい。
 余韻も醒めやらぬ内に味の悦楽は記憶の彼方、彼女達を魅了し続けていたのだった。
 今でもパチェットはとっておいた包み紙を夜中こっそりと取り出し、仄かに甘く香るそれを嗅いでいる程である。
 その行為は甚だはしたなく、勇者の女官には相応しくは無い行為ではあったが、だれもがやっている事でもあったため、注意する者もされる者も居ない。
 果たしてパチェットとトゥートはその日の午後、他の女官達と共に勇者に拝謁し、前回よりも一粒多い黒い菓子を二粒ずつ手に入れていた。
 ちなみに、以前に勇者の寵を受ける事ができた者は三粒も貰えたらしい。
 パチェットとトゥートにはこの時程、銀の輝きが羨ましく見えたのは言うまでもない。
 いつか。
 いつか、あの首輪を手に入れて……
 二人はそんな風に考えながらも一つ包みを開けて口中に放り込み、暴力的な程甘いそれを堪能しつつも残りの一つは懐にしまうのであった。
 そして、懐に仕舞ったそれこそが、二人の運命を変える事となる。

「ああああああ!!!」

 悲鳴はトゥートのもの。
 時刻は夜中、人気の無い、湯殿側の裏庭であった。

「ど、どうしたの?! トゥート?!」

 一緒に薪を割っていたパチェットの問いかけに、トゥートは目に涙を浮かべ懐に仕舞っていたそれを取り出す。
 その手の中には、無残にも解けた黒い菓子の姿が月明かりに照らし出されている。
 パチェットはトゥートのそれを見てはっとし、己の懐の奥に仕舞ったそれを取り出してやがて同じように悲鳴を上げた。
 時節は夏の終わりであったが、まだまだ暑い。
 夜は流石にかなり涼しくなってはいたが、日中からずっと働く乙女の懐にチョコレートはずっと仕舞われていたのだ。

「うう、えぐ、そんな……」
「こんな、ベトベトになって……」

 二人は呆然として、解けたチョコレートと持つ手とは反対の手で持っていた鉈をドサリと落とし、そのままさめざめと泣き始めてしまった。
 仕事の性質上、外に出る機会は少なく、恋愛も出来ず、年頃の娘にとって楽しみといえば偶に支給される世にも珍しい菓子だけである。
 その菓子を己の不注意でダメにしてしまったのだから、ショックは推して知るべしであろう。

「ううう、トゥート、お願い、向こう、むいてて」
「パチェット……うう、大丈夫。わたしも、同じ事、考えてる、から」
「うぐ、ここで今から見る事は、内緒、だからね?」
「ひく、うん、パチェットも」
「何がだ?」

 突如。
 背後からかけられた男の声に、二人は慌てて包み紙に張り付いたドロドロのチョコレートを懐にしまいつつも、声のした方へ振り向いた。
 彼女達にとって、やろうとしていた包み紙にへばりついた菓子をなめる事は皿を舐める事も同じで、もし誰かに見られたならば神殿から放逐されかねない程、はしたない行為であったからだ。
 更に。
 彼女達にとって都合の悪い事に、男の声はこの神殿内に住む只一人の男性を指す。

「あい、いや! ぐす、ゆ、ゆゆ勇者様! その、これは!」
「な、なななぜこのようなお時間に?! あ、いえ、このような場所に?!」
「ど、どうしたんだ?! 泣いてたようだけど……まさか、イジメとか?!」

 三者三様に挙動不審な動きを見せながらも、微妙にかみ合わない会話が飛び交う。
 雷蔵にしてみれば、先頃発足させた議会についてある悩みを抱え、夜風に当たろうとしていた所でむせび泣く少女達と鉢合わせていたのだった。
 ただならぬ彼女達の様子に雷蔵は、バツが悪そうに辺りを伺い、それから二人についてくるよう声をかけて背を丸めつつ自室へと歩いて行く。
 一方、思いがけず勇者と邂逅してしまった二人は当然ながらその言葉に逆らう事も出来ず、ただただ従う他なく涙の後もありありと、その後を追って歩を進めるのであった。

「よし。ここなら……」

 やがてたどり着いた勇者の私室に二人は通され、事もあろうか来客用のソファに並んで座るよう指示されて。
 雷蔵は主君の命に逆らえず、おずおずと座る二人の真向かいに腰を落としながら咳払いを一つして、さあ、となにやら促す。

「で、だれだ? あんな、ひどいイジメをする奴は」
「はい?」

 少し間の抜けた返事を返したのは、トゥートである。
 勇者はきょとんと、しかし少し緊張した面持ちでいる彼女に優しく笑いかけ、頭を振った。

「心配要らない。俺がなんとかしてやるから」
「あの……」
「まったく。こんな時間まで薪割りをさせるなんて、非道い奴だ」
「あの、私達……」
「大丈夫。俺にまかせとけ」

 此処に来て二人は勇者の勘違いをどう指摘しようか、必死で悩み始めた。
 どうやら、夜中に薪割りをしていた二人の事情を、勇者は知らないらしい。
 実際は最近魔女の手によって建造された湯殿を常時利用出来るよう維持する為、持ち回りで薪を多量に割る必要が生じていて。
 その為、昼夜を問わぬ薪割りの仕事が発生し、その当番がたまたま彼女達であっただけなのだが。
 勇者の目には涙を流し、辛い仕事を延々と夜遅くまでさせられているように見えてしまったようだ。
 やがて意を決して口を開いたのは、比較的身分の高い者と言葉を交わし慣れていた、パチェットである。

「あの、勇者様」
「うん! 誰だ?!」
「いえ、その、違うんです」
「え?」
「その、私達、単に薪割りの仕事をしていただけでして……」
「……大丈夫、俺が守ってやるから。本当の事、言っても良いんだよ?」
「い、いえ! ほ、本当なんです。ね、トゥート!?」

 パチェットは必死な声色でそう言って、隣でコチコチに固まる少女に同意を求めた。
 その声が運良く耳に入ったのか、トゥートはギギギと音を立て、からくり時計の人形のように頭を上下に振る。
 しかしその様子は雷蔵を納得させるには到底及ばず、勇者は緊張する少女の姿に勘違いを深めながら、頭をもう一度振った。

「無理して嘘つかなくても良いよ。こんな時間に薪割りなんて、おかしいじゃないか」
「ホントなんです! あの、湯殿って、いつも使える状態にしますでしょう? だから、薪割り作業が常時途切れることなく発生しているんです」
「そんな! 君たちはずっと薪割りをさせられて!?」
「いえ! いえいえ! 薪割り作業は小一時間もすれば交代要員が来るんですよ。ただ、常時誰かがしないと足りなくなってしまうので、当番が夜の間になる事もあるので……」
「……え? でも、君ら、泣いてたし……」
「あれは、その……」

 雷蔵の指摘に、パチェットは急にモジモジとした。
 まさか、菓子一つをダメにしたくらいで泣いていたなどと。
 無論、珍しい菓子をダメにする事は皆が皆、泣く程の事ではない。
 しかし仕事の配置からして勇者の寵を受けられぬような場所で働く彼女達にとっては、それだけ楽しみにしていた品であったと言えた。
 パチェットとトゥートはしばらく互いの顔を見合わせながら、勇者の誤解を解くにはソレしかない、と視線を交え答えを出して。
 二人同時に懐から先程取り出していた、ドロドロになったソレを雷蔵に差し出してみせる。

「これ……って?」
「お恥ずかしながら、折角頂いた菓子がこのような有様になってしまい……」
「それで、泣いていた、と?」

 耳まで赤く染め上げながらコクリ、と小さく同時に頷く二つの頭。
 同じようにアップにした茶と青の髪が、申し訳なさそうに丸くした勇者の瞳を上下に移動する。
 それから少女達には気まずい、男には拍子の抜けた沈黙がしばらく続く。
 やがて静寂を破ったのは勇者の明るい、しかし乾いた笑い声であった。

「はは、なんだ、ビックリしたあ。そんな事くらいで泣くなよ、もう! イジメがあるかと思っちゃったじゃないか」
「も、申し訳ございません!」
「あ、いやいや。今のは愚痴だから、そんなに謝らなくて良いよ。いや、こっちこそゴメン。仕事の邪魔しちゃったね」
「い、いえ……」
「お詫びといっちゃ、何だけど、チョコまだ余っているからあげるよ」
「本当ですか?!」
「うん、エーリャ達にあげるつもりだったけど、他にもあげてるし。ほら、これ」

 己の妙な勘違いを誤魔化そうと愚痴を吐き、それを真に受けてすっかり萎縮してしまった少女を見て雷蔵は、取り繕うようにソファの脇に置いてあった籠からなにやらゴソゴソとする。
 やがて取り出したのは、彼の故郷ではもっともポピュラーな板チョコが二枚。
 それをはい、とカチコチに萎縮してしまっていた二人に差し出しながら雷蔵は、もう一度今度はたははと笑いかけた。
 パチェットとトゥートは恐る恐る差し出されたそれを手にとり、昼間支給されたそれよりも何倍もある巨大なそれを見詰め、目を開く。

「――こんな大きな物を!」
「うう……パチェット、わたし、夢見てるみたい……」
「そんな大げさな。あ、それも今の季節は直ぐに溶けちゃうからね。ここで食べて行きなよ」
「は、はい!」
「こんなに大きくて……う、嬉しすぎる……」
「うん……あ、でもトゥート。勿体ないけど早く食べて仕事に戻らなくちゃ」
「う……そうだった」

 二人はそんな会話を交わしつつ、ぎこちなく包装紙と銀紙を剥がしながらも慌てたように板チョコにかじりついた。
 パキン、パキン、と二つ同時に音がして、一度に頬張るには少し大きめの欠片が雷蔵の目の前でその可愛い口中へ収納されていく。
 せめて、ゆっくりと食べていけばいいのに。
 ちょっと意外だったけど、あんな小さなチョコ一つダメにした位で泣く程だもんなぁ。
 半ば呆れながらも、そんな事を雷蔵は考えつつふと、二人の細い首に目をやって。
 それからある言い訳のような閃きが勇者の瞳に宿り、知らず、口の端が上がる。
 勇者はそのまま、どこかあの毒婦のような笑みを浮かべ、彼女達にとっては恐らくは名案を口にするのであった。

「仕事に戻らなくていい方法があるよ?」
「え?!」
「ほ、ほんとうですか?!」
「うん、それにそのチョコレートをゆっくりと味わえる時間も。なんだったら、もう一つずつ。すこし "特殊な食べ方" になっちゃうけど」
「素敵!」
「勇者様、その方法とは?!」

 先程までの萎縮した態度は何処へやら、身分を忘れさせ、目を輝かせて美しい少女達はずい、と板チョコを手にしたまま身を乗り出した。
 雷蔵はそんな彼女達に好色な視線を投げ、たまにはこういった子と楽しむのも悪く無い、と様々な淫蕩な想像を巡らせ台詞を吐く。
 しかしその台詞は、彼の小心を表したのか内に秘めた尊大な劣情とはまるで違う、遠慮がちな物で。

「えーっと。その。それ、食べたら、二人とも着ている物を脱いで、一緒に楽しみながら、チョコを頬張るってのは、どうかなあ、なんて」

 目の前の甘味になんとも締まらない台詞を吐いた勇者に。
 しかし、少女達には意図が正確に伝わり、思いも寄らなかった栄誉に全身を桜色に染めながら、今度はパチェットまでもギギギと頭を縦に振り。

 この夜こうして二人は思いがけず、魅惑の菓子と共に銀の輝きを手に入れるのであった。




















28 戦場での嗜み

 冬の気配が朝に夕に漂い始めた晩秋でのこと。

 旧ヴォルニア王国軍を主体とした勇者軍は、遂に西側列強諸国との恭順交渉を終わらせ、グラズヘイムの平定に向けての動きを更に加速させていた。
 勇者軍の実質的な総司令官である『銀騎士』は、交渉を取りまとめた後、臨時政府を今までのヴォルニア王国の王都から雷蔵が暮らす旧ダリス聖教国の聖都ダリスギアへと移して、勇者による為政を更に強固にするため、中央集権化を推し進める。
 そのような情勢下、聖都ダリスギアでは民衆の間に勇者の聖王座への戴冠がまことしやかに囁かれ、それを裏付けるかのように、大々的な都市再計画への着手が布告された。
 改正都市再開発計画原案を受け取ったダリスギアの二議会は、都市を従来の計画よりも更に大きくする案に歓迎の意向を伝え、早速行政を司る政務官達との協議に勤しむ。
 ダリスギアの政を司る雷蔵が設置した二つの議会は、ここ数ヶ月でその規模を大幅に大きくしており、構成する議員達も商人議会、労働者議会共に "特別政務官" がその議席の半数を占めていた。
彼らは議会発足後、急激に浸透していっていた汚職対策として、雷蔵が直接任命した『銀騎士』麾下の政務官達である。
 つまりは、議席の半数を雷蔵が押さえる事によって、恐らくは、グラズヘイムにおいて無位無官の平民が初めて政治を行うにあたり、暴走しないよう手綱を握る目的があったのだが。
 選挙でなく雷蔵が直接任命した彼らは、当然、主君の主権を守る事に重きを置く為、議会の意義に価値を置かず、度々商人あるいは労働者の代表者と衝突を繰り返していた。

「弱りました。彼らは特に優秀な者を配属したのですが、それが裏目に出たようです」
「んー、秀才なのはわかるんだけど、プライドが高すぎるのもなぁ」

 急速に発展を続ける聖都ダリスギアの中央、勇者の座する荘厳な神殿内。
 かつては法王や旧ダリス聖教国教主達が用いた謁見室にて、雷蔵は玉座に落ち着かない様子で座り、その下座には銀にまばゆく光り輝く鎧に身を包んだ稀代の英雄『銀騎士』ことイグナート王子が臣下の礼を取り、跪いていた。
 広い室内には勇者を、『銀騎士』を、神殿を、街を守る兵士は一人もおらず、また勇者の劣情を慰める女達の姿もない。
つまりは、雷蔵と『銀騎士』イグナートの二人きりである。

「僭越ながら。そもそもは、なぜ未だ平民議会などを存続させているのですか? 確かに人材は有限で、勢力圏が急速に拡大した為、どこも不足はしておりますが……」
「えっと、基本的にはイグナートに政治は任せるつもりなんだけどさ。まぁ、俺が形だけでも治める都市一つ位はそんな場所があってもいいかなーって」
「お戯れを。御主君の治める地は、この地上全てでございます」
「……そんなもん貰ってもなあ。俺はちょっと贅沢できりゃいいんだよ」

 真顔でこの地上は全て勇者の物だと言ったイグナートに、雷蔵は少々気後れしながらも苦笑いを浮かべた。
イグナートはそんな雷蔵の様子に何を思うのか、只無言で跪き続けて、それ以上は雷蔵の数少ない為政に費やしたものについての言及を避けた。
 その意図するところは単に、勇者と『銀騎士』は主従関係である為でもあったが、大元である議会での平民と貴族出身者である政務官との衝突問題は、それ程大きな物でないという判断が働いたからである。
と、いうのも、雷蔵の発案による幾つかの案は当初は混乱が目立ったり、問題を孕んでいたりしているものの、概ねは良い結果が出ていた事が大きい。
 更には今回の件も改めて "平民議会の維持" という勇者の意志が示された以上、後は議会に送り込んだ特別政務官達の調整を行えば事足りる為、『銀騎士』にとってそれ以上は主君の言葉に口を挟む必然性が無かったと言えよう。

「それよりも。今日久々に来て貰ったのは、ちょっと他に相談があってさ」
「相談、でございますか? 私でよければ何なりと」
「えと、な? その……西側諸国から来た姫達のことなんだけど、さ」
「は」
「その、なんとかならないかな?」
「……? それは如何なる……」
「えっと、その……」

 雷蔵は新たな行政府の設置のため、現在はダリスギアにその身を置いている、どうも苦手な『銀騎士』を神殿に招いた目的を果たすべく、いよいよ本題に入ったものの。
 その内容は口に出しにくいものなのか、バツが悪そうに口ごもる。
 そんな主君の様子にイグナートは何かを察したのか、気を利かせて代わりに口を開いた。

「つまり、あの者達ではもはや興が乗らぬようになられたと?」
「いや! いやいやいや! そうじゃないんだ。あ、いや。そうなの、か? その、どうもウマが合わないというか……」
「では他の者を用意致しましょうか? 身分の高い者で献上できそうな者となれば、すこしお時間が必要となるやもしれませぬが……」
「だから、そうじゃないって」
「――ああ、なるほど。数が足りぬ、というわけでしょうか? では古の聖王に習い、処女狩りをいたしますか? それならばさほど準備に時間はかかりません。ただ、場所の選定は少々制限が出てくるやもしれませんが……」
「ちがう! て、お前ノルンに影響受けてねえか?!」

 一見、誰が見ても美麗の剣士然とした『銀騎士』の過激な物言いに、その主君は玉座から思わず声を荒げ焦りのような物を顔に浮かべる。
 そんな雷蔵の様子に跪き臣下の礼をとっていた『銀騎士』はキョトンとして、勇者の指摘に心当たりが無いのか、僅かに首を傾げていた。
 どうやら先程の『銀騎士』の提案は、あの性悪な魔女に影響を受けた為でなく、彼の臣下としての心遣いから出たものであったらしい。
恐らくは、グラズヘイムにおいてモラルよりも聖王の行いが優先される為の言動であろうが、やはりそうであっても雷蔵には受け入れがたい価値観であろう。

「あの者達が何かご不興を買いましたでしょうか? 元々は勇者様に弓引いた者の一族。いかように扱おうとも、お気にすることはございません」
「いや、そうなんだけどさ。さっきも言ったとおり――いや。あのな、ちょっと考えたんだけどさ」
「は」
「彼女達は俺の子を孕む為にハレムに来たんだろ?」
「はい。いずれその御子に旧領を治めさせる必要があります故に」
「で、さ。ちょっと考えたんだけどさ。その、エーリャも同じ目的で俺の元にいるだろ?」
「は。――もしや、我が妹も何か?!」
「いやいやいや! あいつはよくやってくれてるさ。そういうんじゃなくて、俺の元じゃエーリャと西側諸国の姫達が同列なのが問題だと思うんだ」
「……つまりは?」
「うん、早い話、勇者の血を与えるのは時期尚早というかさ。剣を交えずに恭順した諸侯の姫から与えるべきもんじゃないかな、と」

 雷蔵は慎重に言葉を選びながらも、遠回しにあの女達はいらない、と口にした。
 本来は彼のためのハーレムである。
 勿論、 "時放つ世界の欠片" さえ手に入れれば魔女ノルンもその後女をどうしようがあまり口は挟んでは来ない。
 よって、こういったえり好みをするような言葉は贅沢でも何でもなく、むしろ当然でさえあるのだが。
 元々雷蔵の立場であるならば、「気に入らない」という理由だけで女達を放逐できるのであったが、未だ抜けぬ地球人としての感覚がそうさせるのか、はたまた気弱な本質がそうさせるのか。
 妙に言い訳がましく恥知らずに思えた己の説明に、雷蔵は耳まで羞恥に染めながら、最後には消え入りそうな言葉を吐いて眼下に堂々と跪く騎士から目を離す。
 イグナートはそんな主君の様子にその真意を計る事ができたのか、唇の端に柔らかで爽やかな笑みを僅かに浮かべ、忠誠を見せるべく閉じていた口を開いた。

「なるほど。つまりは、敵対した連中にくれてやるべきは辱めであって、未来への種ではないという事ですか。たしかに、おっしゃる通りだと思います。いや、御主君が女性を大事に扱わずには居られぬ性だという事をすっかり忘れておりました」
「あ、えと……うん、まあ」
「申し訳ございません。私の不徳の致すところで、御主君の御心を煩わせてしまったようです。――そうですね。彼の者達は、我が軍で戦功あった者に下賜する、といった形でその身を処するのはいかがでしょう? 無論、彼の国々をそのまま下賜した者に治めさせるのです」
「それなんだよ。俺もそう考えてたんだけどさ、それやっちゃうと西側諸国の恭順条件に反しないか?」
「まあ、たしかにそうなりますが、元々グラズヘイム平定に向けての戦でもありますし。聖王となるべき勇者の系譜を限る、といったお考えは現時点では間違ってはおらぬと思います。ですので、結果再遠征を行う事になっても致し方ないかと」
「んー、なんでも武力ってのもなあ。うまくやって丸く収まらないか?」
「……難しいですね。実はノルン殿からも以前似たような懸念を相談されておりまして、その折、良い解決方法があると案を教示していただいていたのですが……」
「おお! どんなのだ?!」
「……ハレムを二つに分けて、御主君が気に入らない者を集めた方を "背徳宮" とし、そこへ墜とされた女達をあらゆる責め、快楽、苦痛、薬、恥辱を与える淫獄として」
「却下。俺は忘れる。イグナートも早く忘れろ」
「御意。御主君の趣味でないかと思い、聞かれるまでは言わぬ誓いを立てておりました故、お耳を汚してしまった事は残念です」

 世間の評判はともかく、紛れなく妹以上に鋼鉄の忠誠を捧げている臣下が、それ以上汚物を吐かないよう勇者は素早く制止して。
 それから、すっかり慣れてきた "聞かなかった事" にカテゴライズしている脳の記憶野へとソレを放り込み、ううむ、ともう一度腕を組み首を傾げる雷蔵であった。
 一方『銀騎士』も主の命令を忠実に実行し、数瞬前まで思考を戻して、主君が求める答えを導くべく同じく思考をやり直す。

「いっそ、国に返しちゃおうか。条件無しに」
「しかし、それでは……彼の国々を治める者が勇者様に弓引いた者の系譜となります」
「ううむ……俺は別にそれでも構わないけど……」
「恐らくは彼の国々が納得しないかと。勇者の血脈を手に入れる、という事は後の聖王の世に大きな財産となります故」
「むー、何とかならないものか?」
「……難しいかと。誰かと密通にているならともかく、今のところは彼女達に非はございませんし」
「密通か……ん? 密通?」
「御主君、いかがさないました?」

 突如、密通という言葉に反応して玉座にて何やら考え込む雷蔵に、『銀騎士』は遠慮がちな声をかけた。
 呼びかけに勇者が答えたのは、しばしの沈黙の後である。

「密通の現場を押さえれば彼女達を返せるんだよな?」
「は。流石に不義の者をお側に置く訳にもいかないので」
「そうか。……イグナート、お前、ちょっと俺に協力しちゃくれないか?」
「は。なんなりと」
「お前、不義の相手になれ」

 沈黙。静寂。無音。それらにはすべて、嫌な、という言葉が頭に取り付いていた。
 が、次の瞬間、弾かれたように声を上げたのはいつもは冷静で物静かなイグナートの方である。
流石に雷蔵の命令に近い申し出は受け入れがたいものであるらしい。

「な、なにを!」
「わ、いきなりお、怒るなよ!」
「御主君! 私に反逆者になれと?!」
「ちが、違うって! お前を罪に問いたい訳じゃない! とりあえず落ち着け、な?!」

 雷蔵の言葉足らずな命令に、珍しく取り乱した『銀騎士』は、エーリャのそれに似た、しかし遙かに強大な剣気を一瞬膨らませながら、取りなしている雷蔵の顔をじっと見詰める。
 その眼光は英傑の名に相応しく見る者を圧倒し、キリとつり上がった眉は凛々しくそして如実に彼の怒りを表していた。

「しかし、事の次第によっては……」
「い、いま説明するって! 話は簡単! お前をハレムの中に入れる! 西側諸国の姫さん達が惚れる! お前、それに応えるフリする! 俺、そこに登場! これで密通成立!」

 見る間にそれまで感じた事が無い程強い剣気が膨らんでいくイグナートに、雷蔵は慌てて要点を口にする。
 今度はその意図するところが正確に伝わったのか、イグナートは勇者が発した単語の羅列を聞くや、もう一度頭を垂れて、取り乱した事を恥じるように小さく、謝罪の言葉を発するのであった。

「――ご無礼を。つまり、私に彼女らを陥れる片棒を担げと?」
「……うん。お前クラスの奴に協力してもらわないと。ハレムに立ち入った男は基本死罪だし」
「それは私であっても同様ではないかと思いますが……」
「エーリャに会うため特別に、って話にしとけばいいだろ? 頼むよ、協力してくれ!」
「……そう、上手くいくでしょうか?」
「行かなきゃ次の手を考えるさ。だけど、多分うまく行く。あの子らは基本的に世間知らずだし。頼むよ、もうあのおべっかや媚び売りを聞きたくないんだ!」

 必死に頼み込む、勇者。
 その内容は、本人は知る由も無かったが、過去王族達が有能な部下を陥れ処断してきた誘いと似たもので。
更に、仮に本当に罠だとして、謀に疎い『銀騎士』でさえそうではないかと疑ってしまう程、見え透いたもので。
 承諾すれば罠やもしれぬ、断れば不忠となろうその命を果たして。

「わかりました。協力致します」
「ほ、本当か?! た、助かるよ!」

 主君の声はどこかほっとしたかのような響きであった。
 『銀騎士』はそんな雷蔵の様子にこの時、内心では苦笑いを浮かべる。
 つくづく、不思議なお方だ。
 今まで誰も考えもしなかった奇抜な都市計画や平民議会による都市運営の発案を行ったかと思えば、今度は女の扱いに心を砕かれるとは。
 今の、どこの市井にでもいそうな少年のような態度は、やはりとても勇者には見えぬ。
 しかも、想像を絶する権力の座にありながら、一向に染まる気配がない。
 欲するのは、 "つつましい" 住処と生活、小さな肉の欲望を叶えるだけの女のみ。
 ――いや。
 だからこそ、この方は勇者で在り続けられるのかもしれない。
 イグナートは一人、恥ずかしそうにはにかむ主君の姿に、納得と好ましいものを得て。
 何より、これが策略であっても彼にはなんら、迷うような事は無かった。
 それは、例え汚名を着せられ誅されようとも揺るぎない忠誠を持つのではなく。
 なぜならば。

「御主君、代わりといってはなんですが」
「……ん? どうした? な、なにか気になる所が?!」
「いえ。実は、直接お願いしたき議がございまして」
「え? ああ、うん、いいよ! 何でも言ってくれ! 勿論、こういうのには褒美の品が必要だよな。うん、ハレム以外ならなんでもあげるからさ、欲しい物があれば言ってくれ」
「ありがたき幸せ。では……その、御髪を一房、頂けませぬか?」
「おぐし? ……俺の髪、か?」
「は。こちらでの政務が一区切りつきましたら、次は南征です。その折、御主君の代わりに奉戴し持参したく」
「? なんだ、そんな事か。うん、いいよ。あ、短剣もってない? 貸してくれ、今すぐにあげるから」

 意外な申し出に雷蔵はドギマギしながらも、玉座を立ち、臣下の礼をとるイグナートの元へ歩み寄った。
やがて恭しく差し出された短剣を手にとって、ほんの少し、その髪を切り取り短剣と共に下を向いたまま差し出している『銀騎士』の手の上に置いてやるのだが。
 上から見下ろす銀騎士のうなじはどこかエーリャのそれを思い出させ、同時に彼女と同じく美しい髪はやはり、如何なる角度から見ても美麗な佇まいにしか見えぬと雷蔵に悟らせて。
 勇者は行き場のない嫉妬をこの時覚えつつも、己の行為の意味に気がつく事は遂に無かったのである。
 つまりは。

「……兄上が、むぅ、それ程まで勇者様に執心して、はぁ、いらしたとは」
「え? どういうこと? エーリャ」
「どういうこともなにも……他人の髪を一房持って戦場に赴くというのは、あふ、……むぁ……る、ぷぁ、騎士が想い人に対して申し込む事ですわ。ふふ、妹ながら少々妬けますわね」

 その日の夕刻。
 銀騎士との謁見後、無性にエーリャを抱きたくなっていた雷蔵は、神殿騎士団団長の部屋へと直行し、早速伽をするよう伝えて。
 その折、めざとい彼女から一部綺麗に切られていた髪の事を聞かれ、経緯を話した折での会話である。
 エーリャはその言葉通りに少し頬を膨らませ、実の兄への嫉妬を燃やし行為も自然激しくなる。

 しかし、その快楽は雷蔵に届かず、後悔ばかりが勇者の脳裏を占めていくのであった。





















30 凋落

 時は僅かに遡り、西側諸国の恭順交渉がまとまるより少し前。

 西側諸国の一つ、カヌラコルサ公国のラーン姫の私室にて。
 薄暗く月の光が差し込む彼女の部屋に、二つの人影があった。
 一つは、部屋の主であるラーン姫のもの。
彼女はテーブルに腰掛け、豪奢なランプも灯さずに正面に腰掛ける人物へと、その視線を強く投げ続ける。
 一方、月光と共に高貴な視線を一身にあびている人物は、どこか横柄に少し姿勢を直して改めてラーン姫の "役割" を確認する。

「……ゆめゆめ忘れなさるな。貴女は決してその時まで "思い出してはならない" のです」
「わかっております。あなたこそ、合図をお忘れにならぬよう」
「それはぬかりなく。すでにかの神殿にはそれ用の女官を潜伏させております」
「……本当に大丈夫でしょうか」

 ラーン姫は、自信たっぷりな正面の人物の、しわがれた声とは裏腹に不安を露わにして己の腕を抱いた。

「何を今更。それに、問題などあるはずがないでしょう? なにせわしは、あの勇者の側にいる魔術師を遙かに凌ぐ魔導の持ち主なのだから」
「それは……疑いはしませぬ。ですが、あの勇者の逆鱗にふれでもしたら、それこそ一貫のおしまいです」
「ご心配めさるな。 "合図" があるまでは、貴女はそこの薬の力で指輪の存在を忘れてしまうのですから」

 人物はそう言って、テーブルの上に置かれた、月光を鈍く反射する小瓶を指さした。
 ラーン姫は視線を落とし、今度は――不安げに小瓶を見詰めて、小さく、正面の人物に悟られぬようにため息をつく。
 胸によぎるのは、不安、後悔、そして野心。
 ソレこそが、グラズヘイムにおいて数少ない "本物の魔術師" を得た彼女を突き動かす動機でもある。
ただ、そこに不純物が混じるのは彼女にとって口惜しく、不幸であった。
 もうすこし早くこの魔術師と出会っていたならば。
 なぜ自分は、あの勇者が喚起された後、国が滅びる瀬戸際になってから魔術師を手に入れたのか。
 そう。
 もうすこし早ければ……
 想いは無念となり、一層彼女の野心をかき立てる。
 つまりは。

「……夜が明ければ、あの忌々しい勇者の軍より迎えの使者がやってきます。そなたも時期を見てダリスギアへと発ちなさい」
「わかっておりまする。まあ、ゆるりと行きましょうかの。姫もしばしの間、あの好き者勇者にたっぷりと可愛がられてはいかがか?」
「……ふん、下郎めが」

 吐き捨てるかのような言葉は、誰に向けられたものか。
 ラーン姫はそれ以上の会話を望まぬかのように、以降口は開かず、かわりにテーブルの上に置かれた小瓶を手にとって、中に入っていた液体を一気に煽った。
 その様子を魔術師はじっと見詰めて、やがて朦朧としたラーン姫がベッドに横たわる頃にはその姿を消して。
 それから闇の中、気配まで履き消える前にラーン姫が意識を手放すのを確認した後。
 魔術師は最後に独白する。

「……この身体に馴染むまであと数ヶ月はかかるか。見ておれ、魔女め。手札が揃ったその時こそが、お前に破滅を与えてやる」

 つぶやきは憎悪に彩られ、そして魔術師の気配と共に消えていくのであった。



 結果から言えば、雷蔵の謀はあえなく潰えた。

 謁見より数日後でのこと。
 前代未聞となる、勇者のハーレムへと足を踏み入れる事になった『銀騎士』であったが、流石にいきなり単独で神殿の中をうろつくわけにもいかず。
 必然、雷蔵と共に唯一姫君達が立ち入らない勇者の私室へと移動し、具体的にどうしようかと策を詰めていた時である。
 幾度かのノックと共に開かぬはずの扉が開いて、アスティア姫が部屋に入ってきたのだ。

「な……?! 銀騎士様?!」
「あ!」
「これは……アスティア姫。ご機嫌、麗しゅう」

 唯一動じていない『銀騎士』イグナートを除いて、他の二名は動揺も露わに声をあげる。
 雷蔵は睦む為にアスティアの部屋に赴くと、ほぼ確実にあの姫達に呼び止められるため、ここの所はいつもこの時間に部屋に来るよう、指示をしていた事を思い出して。
 アスティア姫は、男子禁制であるハレムに雷蔵が、恐らくはコンプレックスを抱いているであろうイグナートを招き入れている事実が信じられなくて。
更には、男を――このハレムの主である雷蔵を滾らせるため、冬も近い時節にもかかわらず豪奢なローブの下に少々際どい下着を着用していアスティアは、想い人との思わぬ再会に目に見えて取り乱し、普段の彼女からは考えられぬ程強く雷蔵に詰め寄った。
 結果。
 雷蔵はつい、謀の内容をアスティアに漏らしてしまい、恭順した諸侯の姫君達に思うところがあった彼女は激高し、ひとしきり立場を弁えず罵りの言葉を吐き出して、最後には見損なったと言い残し部屋を後にしてしまうのだった。
 後に残された勇者は肩を落とししばし無言で俯いて。
 その忠臣も慰めの言葉を持たず、それからどれ程時が経ったかぽつりと。

「御主君。私は御主君のなさりたいようになさる事が良いかと思います」
「……ありがとよ、イグナート」
「勿体なきお言葉。それでは続きを打ち合わせいたしましょうか」
「あんだけ一緒に罵られといて、お前よく平気だな?!」

 思わず声を荒げてツッコミを入れる雷蔵に、『銀騎士』は同性ですら見とれそうなその整った顔立ちに涼風のような笑顔を浮かべ、はい、とだけ応えた。
 どうやら先程までのアスティアの罵倒は、稀代の英雄の心に影を射すには至らなかったらしい。
銀騎士はそのまま、優しげな微笑みを浮かべ肩を落とす主君に言葉を継ぎ足す。

「自分にとっては、御主君の言葉こそ真。姫の激高の理由もお気持ちもわかりますが、御主君が是と言った物、思った物こそが正統なのです」
「……ありがとよ、俺、お前の事は誤解していたみたいだ」
「勿体なきお言葉」
「つまりは、内心では下策だと思ってても、お前は俺を肯定するんだよな?」
「とんでもない! これが戦であるならば、命を賭して忠告するのが忠と心得ております。ただ……」
「ただ?」
「自分はどうも、宮中などの謀には疎く……戦場の計略は得意なのですが」

 思い出されるは、ここの所地下牢に設えた自室から出てこない、魔女の言葉であった。
 『銀騎士』の唯一の欠点。
 それは謀が得意でない、という事実を雷蔵はすっかり忘れていたのだ。
容姿端麗、剣技に優れ、戦場に出れば神速鬼謀の用兵を行う、完璧超人。
勇者に染みついていた、彼のそんなイメージが目に見えている落とし穴をすっかり覆い隠していたのである。
 雷蔵はあっちゃあと両手で顔を覆い隠し、しばし何やら考えて。
 それからイグナートについて来るよう声をかけ、部屋を後にした。
 向かう先は地下牢。
 つまりは、困ったときの神頼みならぬ、魔女の知恵を借りようというわけだ。
 ここ数ヶ月、殆ど彼女の助言を得ずとも降りかかってきていた問題は解決してきた勇者であったのだが、流石にこの状況には手詰まりだと判断したらしい。
 今回の事に限らず、己の手に余ると感じた時に躊躇無く他者に縋る事ができるのは、雷蔵の欠点であり長所でもあると言えよう。
 雷蔵の私室から魔女が居るであろう地下牢への入り口まで、屋内にもかかわらず徒歩で5分ほどかかるのだが、その間、二人は無言で歩いていて。
 いつもめざとく雷蔵の姿を見つけては話しかけてくる西側諸国の姫君達も、尋常ならぬ雷蔵の様子と見慣れぬ『銀騎士』の存在に、先日のアスティアの言葉もあってかこの時ばかりは話しかけてこず。
 荘厳な神殿内での、広く長い廊下。
 その価値は雷蔵には解らなかったが、いかにもな数々の美術品や絵画が彩られ、分厚く赤い絨毯が敷かれ、所々に空気を暖めるかがり火が焚かれているその通路に二人。
 只その場には二人分の足音が高い天井に届くように響いて、やがてふと、口を開いたのは雷蔵の方であった。

「……イグナート」
「は」
「もうすこし、離れて歩いてくれるか?」
「……は?」

 雷蔵の後を追う『銀騎士』は主の言葉に首を傾げた。
 と、いうのも彼にしてみればごくごく普通に剣が届くかどうか程の距離を空け、雷蔵の後をただ歩いていただけだったのだが。
 しかし雷蔵には先日のエーリャの言葉により、どうやら『銀騎士』には "そっちの気" があるようだという認識で、必要以上に視線を、表情を、存在を意識していたのである。
 やがて、背後の気配が少しだけ遠ざかるのを感じた雷蔵は、少し安心したのか己の内側へと意識を向けて、歩きながら思い通りにならぬ現実への呪詛を紡ぎ始めた。
 ああ、もう!
 なんでこうなるんだよ!
 最近はやっとノルンの手の平から抜け出したなーと思ってたら "これ" だ。
 くそ、ハーレムってほんと、めんどくさい!
 好きな時に好きな女を選んで抱く。
 たったこれだけが出来れば、それでいい筈だったのに……
 なんで俺、あっちやこっちの機嫌や体裁を考えていつもいつもいつも!
 アスティアもアスティアだよ。なんで、あの子らの肩を持つんだ?!
 ライバルが減るんだからいいじゃないか。
 ……そりゃ、面と向かってあの子らに話さない俺がわるいんだけどさあ。
 だけど、どこか、俺の居ないところで陰口叩かれたり、変な派閥を作られちゃたまったもんじゃないんだぞ?!
 ……はぁ、気が重い。
 ノルンに頼るのはなんか、疲れるんだよな。
 雷蔵は誰憚る事のない思考の中で、本心と建前を交えた、自覚すらしているような身勝手な愚痴を吐きつつ、いつも肌身離さず持ち歩くようになった "傾国" をぐっと強く握る。
 その手触りは確かに己が絶対権力者であることをなんとなく自覚させて。
 しかしこれもまたなんとなく、八方丸く納めるには骨は折れるが姫君達の事は一人一人腹を割って話し理解して貰うしかないかもな、と考えながら地下牢への入り口へ向かうべく歩を進める雷蔵であった。
 それから数分の間二人は無言で歩き、その内神殿の廊下を抜けて中庭へと差し掛かった。
 時刻は丁度、午後3時位。
 意外にも雷蔵が中庭に足を踏み入れた時に見た物は、ガーデニングテーブルと椅子を並べ、珍しくも西側諸国の姫君の一人とティータイムをしゃれ込んでいる、黒い女の姿であった。

「ほ。どうした? 珍しい顔ぶれじゃの」

 視界に入った雷蔵と後の銀騎士の姿に、魔女はいつもの意地悪な笑みを浮かべながら勇者に声を掛けて来る。

「……珍しいな。お前、ここの所ずっと地下から出てこなかったじゃねえか」
「たわけ。お主が会いに来ぬだけで儂はしょっちゅう、こうやって外にでておるわ」
「寒いのが嫌いじゃなかったのかよ?」
「ふふん。今日のような天気の良い日の午後は、こうやって外でゆったりと過ごす事にしておるのじゃよ。くく、交尾のことしか頭にない猿にはこういった雅な行為は理解できぬであろうがの」

 魔女はニタリと笑いながらそう言うや、雷蔵から視線を外し、傍らに控えていた女官に空となったカップを差し出して、何かのハーブでこしらえた茶の追加を注がせる。
 その姿は相も変わらず妖艶なドレスに身を包んでいたものの、仕草は誰よりも洗練されており、久しぶりにその姿を目にした勇者は改めて、彼女の容姿がドス黒い中身に反して美しい物だと感嘆する。
 しかし雷蔵はううむ、と歯を噛み無言で魔女の嫌みを受け止めながら、カップに注がれる琥珀色の液体を眺め、どうしたものかと立ち尽くす。
 つまり早々に目的の人物と鉢合わせたものの、魔女に憩いの一時に同席しているカヌラコルサ公国の姫君の存在にどう話を切り出そうかと悩んでいたのだった。
 そんな、雷蔵の様子に魔女は薄く笑いつつも、いつもの調子で茶化すように言葉を紡いだ。

「どうした? ひひ、儂の責めが恋しくてやってきたのかえ?」
「んなわけあるか! この色ボケ!」
「そうかの? 儂はてっきり、後の『銀騎士』と共に新たな世界への扉を求めてやってきたのかと……」
「ちがう! 俺は……」

 そう、雷蔵が言いかけて。
 突如、先程までノルンに給仕していた女官が気が触れたかのように金切り声をあげ、懐から素早く何かを取り出し、雷蔵へ投げつけた。
 "それ" は蓋の開いた小瓶であり、中の液体を撒き散らしつつ勇者へと迫る。

「御主君!」

 同時に、後方に控えていたイグナートが矢のように飛び出してきて、雷蔵の代わりに身体で "それ" を受け止めて。
 突然の出来事に雷蔵は言葉を発する事もできず、状況も理解出来ず、小瓶を受け止めたイグナートが崩れ落ちるのを見てやっとその名を叫ぼうとした時、更に。
 どういう経緯があったのか、魔女と同席していたカヌラコルサ公国の姫君、ラーン姫までもが金切り声をあげはじめて、左手を中庭から見える晴れた初冬の空へとかざしたのだった。
 瞬間、その細い指に嵌められていた指輪が強く幾度も閃光を放ち、不快な音を立てて辺りを白い闇と黒い光を撒き散らし始める。

「な、何だ?!」
「ぬあ?! これは……まずい! 雷蔵、何をしておる! はやくこの者を斬れ!」
「え?」
「莫迦者! いそげ! 間に合わ――」

 恐らく雷蔵が初めて聞いた魔女の焦ったような声は、すぐに辺りを白く染め上げる闇にかき消されてしまい。
 そして、『閉じた世界』グラズヘイムに勇者として呼び出され、歪んだ願望を叶えられた少年は薄れゆく意識の底である事に気がつく。
 その事実は突然の、わけのわからぬこの状況が如何にまずい物であるかを示していて、なんとなく取り返しの付かない事のようだとただ認識し。
 後悔も未練も満足も無いまま、小松雷蔵はその意識をあっさりと手放した。

 つまり、少年は初めて魔女にその名を呼ばれた事に気がついたのだ。





[25530] epilogue bridge-勇者の試練
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/01/20 00:50



 『閉じた世界』グラズヘイムは小さな、歪な宇宙である。

 成り立ちは数多ある宇宙の内、幼い小さな世界に、どういった経緯か平行世界から知的生命体の思念が流れ込んきて、澱みのようなものが溜まり出来上がった存在。
 澱みはやがてこの小さな宇宙が広がらぬよう、 "閉ざして" しまい、程なく小さな宇宙は『閉じた世界』となって、密閉されたまま長い間広がる事も、縮む事も出来ずに時を止めてしまっていたのだったが。
 どういうわけか、ある時その止まったはずの時間が動き始めて形を成した。
 形は地球人類の歴史にある中世欧州のような、またはお伽話の世界のような社会と人々が暮らす、ただ一つの大陸となって。
 その空の先に星々は無く、その海の向こうには陸はなく。
 更に時は正常に流れず、理は他の宇宙へと知らず影響を及ぼす。
 そんな『閉じた世界』グラズヘイムに暮らす人々は、ごく当たり前のように、あるいは人の宿業がそうさせるのか戦乱に明け暮れ、 "外" の事を知る由もなく、命を紡いでいた。
 ある時。
  "勇者" と呼ばれる者が現れ、その圧倒的な力の下、『閉じた世界』グラズヘイムを平定し永き時に渡り栄える王国を作った。
 しかし、それでも数千年も経てば人々は聖王となった勇者の威光を忘れ、争いを始めてしまいグラズヘイムは再び戦乱の地となる。
 地球人である小松雷蔵が『喚起』されたのは、そんなグラズヘイム大陸の戦乱に呑まれ滅びかけていた小さな国であった。
 16才であった彼は、突如異世界に有無を言わさず喚び出した魔女との契約に、果たして首を縦に振る。
 そして与えられたのは、勇者としての不死身の肉体と城や万軍を一瞬屠れるだけの力。
 使命は特定の美姫の純潔を散らす事によって得られる、『時放つ世界のかけら』の収集。
 リスクは力を振るう度に理性が呑まれ、魔女無しでは立ち行かぬ事。
 結果、彼は2年の月日を『閉じた世界』で過ごし、勇者としてグラズヘイム大陸の大半を平定し、当初の目的通り戦や政を有能な部下に任せ、巨大な宮殿に座し、夜な夜な美女達の侍るハーレムにて悦楽の限りを尽くすようになったのだが。

「ううむ……どうやらここは "封印の地" のようじゃの」

 まるで夜のような、暗い洞窟のような場所にて。
 妖艶な女の声がそこかしこに反響し、雷蔵の耳にいくつか同じ台詞が重なって飛び込んだ。
 再臨した勇者として "それなりに" グラズヘイム全土に向けて威光を示してきた雷蔵は、女の冷静な物言いに眉をしかめる。

「 "封印の地" ってなんだよ?」
「くく、以前、ここグラズヘイムは人々の思念の、澱みのようなものが集まり出来上がった世界じゃと説明したのを覚えておるか?」

 変わらず、闇の向こうから聞こえる冷静な女の声に、雷蔵は苛立ちながらも記憶を手繰った。
真っ先に思い出されたのは、『お主、無敵のヒーローとなって、地位も名誉も、あらゆる女もよりどりみどりとなりたいと思うか?』と聞いてきた、女の台詞である。
 勿論、その時の女の声も闇の向こうから聞こえる物と同じ、不快な声色だ。
 やがてその会話の記憶を起点にして、更に記憶の奥へと辿ると、確かにそのような事を言っていたと思い出された。

「……そういや、そんな事も言ってたっけな」
「くく、では儂がこの地には "デカいトカゲがおる" と言っていたのは?」
「……覚えていない」
「そうか。ではそこから説明してしんぜようかの」

 声はじじむさい言葉遣いとは裏腹に、若くそれだけで男の欲情をかき立てるような艶っぽいもので。
 更には弾むような雰囲気に、雷蔵は益々不快感も露わに声の主が居るであろう闇の向こうを睨み付けた。
 無論、闇の向こうが見えているわけではない。

「ひひ、そう睨むな。か弱い乙女を怖がらせてどうする?」
「どこがか弱い乙女だ。か弱い乙女は自分で自分の事を『時の魔女』とか言わねぇ」
「くく、中々言うようになったのう。まあ、いい。ここ "封印の地" はの、グラズヘイム大陸南東にある、入り江に浮かぶ小島の地下……正確には違うが、まあ、そこらにある特別な場所じゃ」
「なんで俺達が今そんな所に居るんだよ。ついさっきまで、大陸の西側にある聖都ダリスギアに居たはずだろ?」
「そうじゃのう、どこから説明しようか」

 苛ついた雷蔵の声に、『時の魔女』と呼ばれた女の声はすこし暢気に応える。
 闇の向こうのその態度と表情が明確に見えているのか、元地球人の勇者は歯を剥き苛立ちを更に募らせた。

「まず、理由からだ」
「うむ。理由か。儂とお主を此処に転移させたのは、あの指輪の力じゃな」

 ギリ、と歯を噛む音が闇に消える。
 雷蔵は直ぐに魔女が口にした "指輪" に思い当たっていた。
 それはハレームの巨大な入れ物となっていた、勇者の神殿の中庭。
 グラズヘイムに覇を唱え、完成しつつあった強大な王国の中枢とすべく設えつつあった神殿では、勇者の劣情を慰める美女の人数が日増しに増えていた。
 そんなハーレム内での人間関係について悩みを抱えていた雷蔵が、ある日助言を求めるべく中庭でアフタヌーンティーを嗜んでいた魔女の元を訪れた折。
 突如、側で給仕していた女官が奇声を上げ始め、それを合図に魔女と同席していたハーレムの一員であった女が、空高く腕を掲げ、その指に嵌められていた "指輪" が激しく光ったのである。
 閃光とも呼べるその光は不思議と濃い闇のようにも感じられ、次の瞬間雷蔵は意識をアッサリと手放し、気がつくと今居る暗い洞窟のような場所に倒れていたのだった。

「……あれか」
「くく、儂に気付かれずにあんなものを仕込んでくるとはの」
「まさか、お前以外にあんな訳のわからん事ができる奴がいるなんて……」
「ひひ、それこそ "まさか" じゃ。この世界に儂と同じ位階におる魔導士など存在せんよ」
「どういう事だ?」
「なに。 "アレ" を仕組んだ者に心当たりがあるという事じゃよ」

 そう言って、闇の向こうで魔女は意地の悪い、くぐもった笑い声を上げた。
 状況は理解出来ないが、決して良い物ではないと本能的に察していた雷蔵は舌打ちを一つ弾く。
 勿論魔女に向けてのものであったが、意に介してないのか笑いは消えずに勇者の苛立ちを酷く刺激して、未だ目が慣れぬ漆黒の闇の中、男の怒気だけがみるみるうちに膨らんで場に満ちていく。

「だから! 誰がこんな事をしたんだよ! あの指輪をかざしていたラーン姫なのか?! それとも、金切り声を上げて妙な小瓶を投げつけて来たあの侍女なのか?!」
「――おぉ、耳が痛い。急に大声を出すでないわ、たわけ。まったく、すっかり短気になりおって。毎日暇さえあればまぐわるようなただれた生活を送るから怒りっぽくなるんじゃ」
「う――お、お前だって似たようなもんだったろ?!」
「ひひ、それもそうか。おあいこという事にしとこうかの。……ラーン姫もあの女官も、操られておったにすぎん。側に本人がおれば流石にボケておっても儂が気付くじゃろうし」

 闇の奥の魔女は、そう言いながらも、すこしだけ彼女には珍しくバツが悪そうに声尻をしぼませる。
 日頃『時の魔女』を自称し、あらゆる未来や可能性を見通すと豪語する彼女ではあっても油断することがあるらしい。
それは珍しいことなのだろうが、よりにもよって最悪のタイミングで油断していた事が雷蔵にとっての不幸であったのだろう。
 苛つき、魔女の油断に怒りを覚えていた雷蔵は、しかしそれまでに重ねた失敗の数々を魔女に助けられた過去があるからか、深呼吸を一つして意識的に怒りを体外に追い出し、もう一度今度は落ち着いた声色で闇の向こうに尋ねる。

「――じゃあ、誰なんだよ?」
「お主の知らん奴じゃよ。今その名を知っても意味は無いが……カノープスという魔術師じゃ」
「カノープス……」
「かつて、儂の弟子をしとった男じゃ。中々見所がある奴でのぅ。それはもう、いい男でもあったし。幾つか手ほどきをしてやってのぅ。ひひ、床の方もお主よりもずっと上手かったぞ?」
「やかましい! このエロボケ魔女!」

 再び、怒気が勇者の声に混じる。
 が、これはどこか緊張感のない物言いをする魔女に対して、雷蔵がいつもやる相槌と言った方が良いのかもしれない。
 少なくとも、怒りや苛立ちが再び雷蔵の声に宿りはしたが、憎悪は微塵も無かった。
 魔女はその声をどう受け止めたか、変わらずすこし楽しそうに声を弾ませて言葉を繋ぐ。

「くく、そう妬くでない。それでの? カノープスは流石に儂の位階まで存在を高める事はできなんだが、時空魔法に才を開花させてのう。初代の勇者に色々と協力しておったのじゃが……」
「初代、って……初代勇者の事か?!」
「左様。お主に初代と言って、他に当てはまる者はおるまい?」
「初代勇者って聖王だろ! 何千年前の話だよ?!」
「気にするな。儂らのようなある程度の位階に達した魔導の者にとって、時間などさほど意味はなさん」
「……さらっととんでもねぇ事言ってないか?」
「だから、気にすな。でな? 彼奴の場合、聖王に重用されたのが悪かった。ま、あたりきな展開じゃが、あらゆる富や名声にすっかり堕落してしまっての。くく、若くして位階を高めた者によくある過ちじゃな。その後魔導の業をつまらん事に使い始めたんで、ちょっくらこの "封印の地" に封じ込めてやったんじゃが……」
「……が?」

 沈黙。
 否、ほう、と小さなため息だけが静寂を否定する。
 少し目が慣れてきたのか、それともどこからか光が差し込んでいたのか。雷蔵はほんの少し当たりの様子がわかる事に気がついて、ぐるりと首を回した。
 周囲はやはり洞窟か何かのようで、しかし思ったよりもずっと広く、地球に居た頃よく親の車で通り抜けた片側一車線ほどの広さのトンネル程もあろう空間が認識できる。
 だが、魔女の姿は確認できない。
 恐らくは、神殿の中庭で見かけた折に来ていた黒いドレスが彼女の姿を隠しているのだろう。
 ぼんやりとそんな事を考える雷蔵を余所に、魔女は永く短いため息に言葉を乗せた。

「……どういう経緯か、カノープスは今になってここを抜け出し、儂に復讐しに来たらしい。くく、儂の存在を消し去ろうとせず封印しようとするあたり、身の程を弁えておって中々小憎らしいのう」
「まて。つまり、なにか? 俺は……」
「うむ。とばっちりじゃ。あ、いや。もしかしたら、お主に成り代わって勇者の真似事をしておるのかもの? ひひ、そうなればあの美姫達は皆、他人とも知らずに……」

 瞬間。
 雷蔵の脳裏に、寵愛していた彼女達の裸体が鮮明に浮かぶ。
 同時に、女の悦びを浮かべるその顔と白い裸体に覆い被さる他の男の姿も思い浮かんで、強い焦燥と怒りが冷静になりつつあった勇者の声を荒げさせた。

「やめろバカ! 茶化してる場合かよ!」
「くく、そう焦るでない。儂とて、相手の好きなようにさせてやる程マヌケではないわ。油断していたとは言え、カノープスよりも遙かに高い位階に座する魔導士ぞ? ひひ、ここに転移させられる寸前、とっておきの呪いをあの神殿にかけておいたからの。今頃はあそこに住まう者は皆石像にでもなっとるだろうて。ついでに、あの不埒な女官はお前の姿に変えておいたから、成り代わられる事もなかろ」
「……なんでそんな事がわかんだよ?」
「なに。呪いいうものは、かける方にとっては解かれたくないものじゃろ? だからの、あの神殿内ではあらゆる魔術が履行不能になるようにしておいたのじゃよ。儂を除いての」

 台詞と共に、いつものくつくつと意地の悪い魔女の笑いが闇の中に響く。
 男子禁制の神殿であったとはいえ、連絡が途絶えれば部下の誰かが中に入って来るだろう。
 やがて異変を知る事となり、誰かが石像となった "自分" を発見すれば……
 考えて、雷蔵は頭を二度振った。
 もし、カノープスという魔導士が自分に成り代わろうとしているのならば、恐らくは魔法か何かでどうにかしてしまう気がしたからだ。
 そんな雷蔵の心中を見透かしたのか、いまだ姿形を闇の中に浮かべぬ魔女は笑うのを辞め、ため息をもう一つついて声を掛けてくる。

「心配すな。カノープスは時空魔法に通じておるが他はてんでダメじゃ。ま、多少の洗脳や催眠術位はできようが、一度に何十もの人を操るような力量はないわ」
「ほ、本当か?!」
「嘘。彼奴は本当は儂より魔導に通じておってのう。今頃は儂の呪いをアッサリ解いて、姫君達をダースで裸に剥き、酒池肉林となっておろうな。お主のお気に入りじゃったエーリャ王女やマグダレナ法王も、今頃はカノープスの腕の中でひぃひぃゆーとろうの」
「な?!」
「くく。どっちを信じたい? 儂はどっちが真実でも構わんぞ?」

 再び沈黙。
 今度は気まずいもので、雷蔵は魔女が言わんとする事を理解し口をつぐみ続けた。
 彼女の言葉を疑っても意味は無い。
 その言葉が嘘であれ、真実であれ、今は闇の中にいる魔女に縋るほか、雷蔵には選択肢は無いのだ。

「……悪かったよ」
「ひひ、解れば良い。他はダメじゃが、お主のそういう所は気に入っておるしの。ま、あっちの事は心配せんでよい。むしろ、己の事を心配した方がよいぞ?」
「どういう事だ?」
「なに、最初の会話の続きじゃ。つまり、何故、ここに飛ばされたかって奴じゃ。理由が解れば、次はここはどういう所か、と来るじゃろ?」

 問いかけに、雷蔵ははっとする。
 何時の間にか、最も重要な話題からずれた会話をしていたからだ。
 今、己が最優先すべきは、彼が作り上げたハーレムの状況確認では無く、自分をこんな場所に転移させた犯人の正体を知る事でも無く、ましてやお互いの立場を確認する事でもなく。
  "ここがどんな場所で、果たしてここから出る事ができるのか?" という事を知るべきなのだ。
 無論、力ある魔導士がその師を相手取り、復讐に使う位の場所である。
 その事実はいくら鈍い所のある雷蔵とて、何を意味するかは直ぐに理解出来た。
 そして理解は、予感に変わる。

「……ああ。お前がそんな勿体ぶった言い方してると、なんとなくわかるな。すっげぇイヤな予感がすんだよ、それ」
「くく、2年も付き合っておるからかの。儂は激しく突かれる方が良いが……」
「シモと絡めて茶化すなよ。で? ここは…… "封印の地" とか言ってたな? どんな場所なんだ?」
「ひひ、ここは儂特製の結界……というか "呪いの地" での」
「は?」
「特にここは特別、力を入れてこさえた呪いをかけて作ってのぅ。ひひ、此処を作った儂であっても、おいそれと外には出られはせん力作なんじゃよ」

 三度目の沈黙。
 一瞬、我を忘れるとはこういうことを言うのだろう。
 雷蔵が魔女の信じられない台詞に我を忘れ言葉を失ったのは正に一瞬であり、しかし次の瞬間には幾度目かの罵倒に近い追求の声が上がった。

「はぁあああ?! お前何言ってるんだよ?! て、なんでンなもん作ってんだ?!」
「いやの? その昔、グラズヘイムにはドラゴンやら、魔物やらが跋扈しておっての。ほら、最初に聞いたであろ?  "デカいトカゲがおる" と言っていたのは覚えておるか、と」
「……ああ」
「実はの。勇者を喚起したのはお主が初めてではないんじゃ。前に一度、喚起した事があっての。……まあ、その勇者は『時放つ世界のかけら』を全て収集しきれずに死んでしもうたんじゃが」
「おい。それって……もしかして、初代勇者の事か?」
「うむ。ひひ、中々鋭いの」
「じゃあ、古の聖王が処女狩りだの、ひでぇ圧政をしてたって伝説は」
「くく、当時の勇者が儂の提案を鵜呑みにして、バカ正直に実行した結果よの」
「お前かぁ! お前がグラズヘイム中にトンデモ勇者伝説を残したのかぁ!」

 叫びは洞窟中に響き渡った。
 広いためか、それともゴツゴツした岩肌が音を吸収するのか、反響は意外に遠く少なくまるで闇が音を吸い込むようにあっさりと消えてゆく。
 雷蔵は叫びをあげながら、かなり目が闇になれてきた事を感じ取り、同時に不審を抱えていた。つまり、彼の視線の先に確かに声の主、魔女が居るはずなのだが、その姿が一向に見えてこないのだ。
が、彼女は間違いなく "そこ" にいるようで、その証に雷蔵の叫びに冷静な声色で真面目に返答を返してきている。

「失礼な。儂はただ、効率よく『時放つ世界のかけら』を集めるための策を提案したに過ぎぬ。お主だって、前に似たような事を儂に提案されても実行はせんじゃったろ? あやつはそこを疑いもせず、ただ純粋に儂の言うとおりに実行しただけじゃよ」
「……納得がいかねぇ」
「そんなもんいらん。お主が納得しようがすまいが、事実はかわりはせん。それとも、まさか儂にその事を悔やませたいのかえ?」
「……お前、そんなキャラじゃねえのは十分、骨の髄までわかってるよ」
「ひひ、そうじゃろ? ま、とにかくじゃ。その初代が生きておった折、儂が抵抗分子やら魔物やドラゴンに至るまで勇者にとって障害となる全てを封印したのがここ "封印の地" なんじゃよ」
「……わかんねえ。そんな場所になんでお前、初代に重用されてたカノープスってのを一緒に封じてたんだ?」
「ひひ、さっき言ったであろ? あ奴は堕落したのよ」
「お前だって、自分のために魔法つかってんじゃねーか」
「たわけ。程度によるんじゃ。只でさえ、不安定なこの世界に在って、未熟なあ奴がほいほいと時間を操ったらどうなると思う? ――いや、説明してもわからんよな。とりあえず、この世界を更にややこしくしそうじゃったからの。ついには "在るべき方向" に向かわせたい儂と対立するようになったもんじゃから、サクっと此処に送り込んでやったんじゃ」

 あまりと言えばあまりな魔女の物言いに、雷蔵は右手で頭をかきむしり、目を瞑った。
 何となく、目眩を感じていたからだ。
 この2年で、この魔女が "善人" ではない事はよく理解していた。
 同時に、人の道を外れた外道であり、悪を囁く事はあっても、直接世を混乱させる事はしないのも理解出来ている。
 この魔女は、気に入った他者に力を与え、甘い言葉と蠱惑的な肉体で堕落させ、それを楽しむ悪魔なのだ。それは間違いなく悪であろうが――

「……ワケわかんねぇ」

 台詞は、魔女の目的も本性も、カノープスとかいう男のやりたい事も、今の状況も、すべて含んで。
 勇者の怒り、焦り、不審はこの時、全て混乱へと収束され、それを煽るように魔女はしばしくつくつといつものように意地悪く笑う。

「くく、わからんでよい。とにかくじゃ。ここから出るには一筋縄じゃいかん。いくつか条件を満たして初めて、外に出られる仕組みにしておる」
「そ、うなのか。……で、とりあえずどうすりゃいいんだ?
「とりあえず、上を目指せ」
「上?」
「最上層に "封印の地" を維持しておる、呪いの依り代を安置しておる。それを壊せばあとは "門" を開くだけじゃ」
「門、ねぇ。ま、いいさ。昨日、えっと――5人と "した" から、5分間、勇者の力が使えるな。それだけあれば足りるか?」

 雷蔵は昨夜の淫蕩な情事を思い浮かべ、何気なく魔女に尋ねる。
 彼が持つ勇者としての力は非常に強大だ。
 その力は魔女に埋め込まれたCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)によって与えられ、発動条件は女を抱く事である。
 つまり、勇者が女を一人抱けば次の日にかぎり1分だけ、万軍を、要塞を、街一つ灰にするだけの力が与えられるのだ。
 力の発現は彼が持つ日本刀 "傾国" を特定のキーワードを口にして抜く事で発動し、その力こそ、ごく普通の高校生であった雷蔵を勇者たらしめるものであり。
 故に常に "傾国" を肌身離さず持っていた雷蔵は、 "封印の地" に転移させられた時もその手の内に勇者としての力の鍵があったのだが。

「それがのぅ。そうもいかんのじゃよ。その、な?」

 魔女は勇者の問いに、急に声を低くして歯切れ悪く言葉を切った。
 そこで雷蔵はやっと彼女の異変に気がつく。
 つまり、何故、闇に目が慣れても彼女の姿が見えないのか。
 その理由に気がついたキッカケは、魔女の声が聞こえる方向にあった。
 果たして、声が下から聞こえるその理由とは。

「カノープスの奴め、時空魔法を封印術に応用する所まで出来るようになっておったとはの。まんまと儂をこんな姿に封じおったもんで、儂が維持しておったお主の力の殆どが消えてしまいおったのよ」

 忌々しげに、黒い子猫は絶句する雷蔵の目の前でそう言って器用に口の端をつり上げて。
 それから、いつも彼女がそうするように、くつくつと笑い始めた。

 こうして、勇者の試練が始まる。





[25530] 01 男はイヤ/【二つの門編】
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/01/22 19:23

 『閉じた世界』グラズヘイムは小さな、歪な宇宙である。

 成り立ちは誰かの想像や思念が淀み、渦巻き、形を成したという。
 その文化や人々は、地球人類史で言えば中世欧州のような世界を思い浮かべれば良いだろう。
 そんな世界にはその昔、『勇者』という存在があった。
 『勇者』は戦乱のグラズヘイムを平定し、やがて聖王となり、永きに渡る王朝を築く。
 王朝は栄華を極めはしたが、次第に衰退し、再び戦乱の世となった。
 そして、人々は願う。
 古の『勇者』の再臨を。
 果たして、『勇者』の喚起を依頼された魔女が喚び出したのは、16になる日本人の少年であった。
 名は小松雷蔵といい、特にこれといって特技もない、平凡な高校生である。
 何故、彼が『勇者』として喚ばれたのかは誰にもわからない。
 只言える事は、そんな彼でも2年の月日をかけてグラズヘイムに覇を唱える程には、勇者として活躍をしたと言えよう。
 如何にしてなんの力も無い小松雷蔵が、戦乱のグラズヘイムに雄飛したか。
 一つは、彼に絶対的な力を与えた『時の魔女』の存在。
 魔女の名はノルンといい、雷蔵に勇者としての力と共に地位や名誉、多くの美女によるハーレムを約束した。
 もう一つは、勇者に忠誠を誓う稀代の英傑の存在。
 英雄の名はイグナート・ガヴリロヴィチ・パノフ。
 主君に忠誠と世界を捧げる為、軍略の才を発揮し瞬く間に大陸の半分を切り取った男である。
 元は『北の最強』ヴォルニア王国の王子であり、謀略に弱いという欠点があるものの、あらゆる才に恵まれた美丈夫であった。
 端整な顔立ちに気品溢れる佇まい。
 銀の髪と星のような蒼い瞳。
 剣技に秀で思慮深く、驕らず民を慈しみ、一度戦場に出れば鬼謀をもって勝利を掴む。
 何よりその身に纏う銀の鎧に因み『銀騎士』と呼ばれる彼は、見る者を虜にし、雷蔵と並び立てば万人が彼を勇者であると言うだろう。
 そんな彼故に雷蔵は常日頃から嫉妬し、劣等感を抱いて、どこか疎ましくさえ思っていたのだった。
 早い話、勇者は『銀騎士』とあまり友好的な関係を結ぶつもりは無かったのである。
 少なくとも遙か地の底、 "封印の地" と呼ばれる場所へ魔法により転移させられるまでは。



「……状況を整理しよう」

 渋面を浮かべながら、雷蔵は深刻な声色でそう宣言した。
 床に胡座をかいている彼の目の前には、銀の鎧に身を包んだ『銀騎士』が同じように胡座をかいて正対している。
 その、やけに白く感じられる手の内には黒い子猫が抱きかかえられており、雷蔵の宣言ににゃあ、と応じた。

「俺達はなぜ、ここにいるのか?」
「……魔女ノルン殿のかつての弟子、カノープスとかいう魔導士の魔法によってここへ封じられた、と先程、御主君がおっしゃっておりました」
「ああ。そうだな。ノルンの弟子の私怨でこうなって、俺達はトバッチリを食ったんだ。で、お前が気を失ってブッ倒れてた間、俺がノルンからそう説明されてたんだよな」
「は」
「じゃあ、次。ここはどこだ?」
「かつて、魔女殿が『勇者』の敵を封じた、 "封印の地" という場所の一番下層、と先程、御主君がおっしゃっておりました」
「ああ、そうだな。それもお前が気を失ってブッ倒れてた間、俺がノルンから説明されてたんだよな」
「は」

 沈黙。
 床にはあぐらをかく二人の影がゆらゆらと揺れている。
 光は天井に吊された、ランプのような物からのものだ。
 ランプ、とは言っても油などで火が灯っているわけではなく、中に光るコケのような物が詰められて、それが光っているに過ぎなかった。
 その為か光は淡く、お互いの顔を確認するだけで精一杯な程度であった。
 又、二人が座り込む床はつい先程まで歩いていた岩肌ではなく、綺麗に加工された石の畳の上に何かの植物で編まれた敷物が敷かれている。

「……次。イグナート、今お前が抱えている猫は間違いなく『時の魔女』ノルンだよな?」
「は。御主君の命令があってから、ずっとこの手の内で保護しておりましたから、間違いないかと」
 にゃあ
「……なんでついさっきまで喋ってたのに今は喋らないんだ?」
「それは私に言われましても……。魔女殿は常々、黒い猫を使い魔として使役しておいでだったのは承知しておりますが。私が目を覚ましてからこの猫が人の言葉を発する所は一度も……」
「いや、使い魔じゃねえ。ノルンはその黒い子猫の姿に変えられちまった、と言ってたし」
「左様ですか」
 にゃあ
「……イグナート。お前、本っ当にノルンをずっと抱いてたんだよな?」
「は」
「実はどっかで落としていて、違う子猫を拾っちゃってたりとか……してないか?」
「いえ。御主君の命はどのような物でも神意に等しく、これを誤魔化すなどは」
 にゃあ

 先程よりも更に重い沈黙。
 ゆらゆらと揺れる胡座をかいた二人の影の中に、わずかな、ぐーぐーと子猫が喉を鳴らす音が吸い込まれていく。
 そう。
 かつての弟子にまんまと "封印の地" へと送られてしまった『時の魔女』ノルンは、雷蔵の目の前で、子猫の姿のまま、確かに言ったのだ。
 子猫の姿に封じられてしまったと。
 それがつい、半日程前での事である。
 その半日程の時間の中で、何時の間にかノルンは人の言葉を話さぬようになっていて、今ではどこからどう見ても只の子猫にしか見えなくなっていた。
 『銀騎士』イグナートが抱く黒い子猫の姿に変えられた『時の魔女』ノルンは、喉を変わらずならしながらもくあ、とあくびをして、少し悶えた。
 どうやら、イグナートの手の内に拘束され続ける事に飽きてきたらしい。
 そんな "彼女" の様子を雷蔵は絶望が少し混じった瞳で見つめながら、ため息を一つ。

「……今は置いておこう。放っておけば自力でなんとかしそうな口ぶりでもあったし」
「は。御意に」
「魔法が使えなくなってるとはいえ、コイツの知識は欲しかったけど、しょうがねぇもんな」
「我々には解呪の心得どころか、知識すら無いですからな」
「……こういうのって、キスでもしてやれば元に戻るんじゃねぇかな?」
「……どうでしょう。逆に呪いを移される可能性もございますぞ、御主君」

 更に沈黙は重みを増す。
 『時の魔女』ノルンは、雷蔵が知る限り意地の悪い魔女である。
 すくなくとも善人ではなく、善悪で言えば間違いなく悪の住人であった。
 その、悪女の弟子がかけた呪いだ。
 戯れにお伽話でよくある呪いを解くおまじないなど試そう物ならば、どうなることか。
 可愛い子猫どことか、醜いヒキガエルにでもされてしまっても、おかしくはないのだ。
 勿論、身に沁みて魔女の悪人ぶりを知っている雷蔵は、その思いつきを実行する勇気を持ち合わせてはいなかった。
 なにより……

「そうだな。カノープスってのは師匠に似て、妙な呪いだけは得意っぽいし」
「……私は後悔しておりません」
「俺はしてるよ。絶対、ノルンごと力を封じられた俺より、お前の方がマトモな方が良かったと思うぜ?」

 そう言って雷蔵は眼前に胡座をかき座る『銀騎士』をじっとりと見つめた。
 同時に、今までとは違う種類のため息を一つ。
 脳裏によぎるのは、 "封印の地" に転移させられる瞬間での光景。
 勇者の神殿の中庭、恐らくは、カノープスに操られでもした女官が雷蔵に、液体が入った小瓶を投げつけてきて。
 側に居た『銀騎士』がその忠故に身代わりに小瓶の中身を浴びて。
 果たして小瓶の中には、カノープスが悪意を込めて施した呪いが詰まっており。

「私は後悔しておりませぬ故、お気になさらず」
「気にするわ! 俺、知ってたんだぞ! お前、男色の気がある上、俺の事狙ってただろうが!」
「……戦場ではごく当たり前の事です、御主君。強き者や美しき者に惹かれる事に、なんの遠慮がありましょうや?」
「う、うるせえ! 俺にそんな趣味はねぇ!」
「お気になさらず。私の想いは秘めたる物であり、忠義を曇らせる事などございませぬ。それに……」

 『銀騎士』はそこで言葉を切って、ずい、と胡座をかいたまま雷蔵の方へ刷り寄った。
 同時に、雷蔵はイグナートが進んだ距離と同じだけ、後方に後ずさる。
 又、先程までイグナートの腕の中で悶えていた子猫は、何時の間にか大人しく寝入っていた。

「それに、今はもう、男ではありませぬ故」
「やかましい! そんな顔して頬を染めながら近寄るなバカ! て、お前、何馴染んでんだよ!」

 雷蔵は思わず怒鳴りながら、薄暗い部屋の中にある輝くような美貌から目を背けた。
 あらゆる美女と寝所を共にしてきた彼ですら、直視すれば間違いなく理性を奪われるであろう美がそこにあったからだ。
 後頭部で一纏めにされたその髪はまるで、流星の尾のような白銀。
 まるで、部屋の僅かな光をすべて集めて輝かせるようなその瞳はサファイアのような青。
 北の生まれ故か、化粧一つしていないにもかかわらずその頬は染み一つ無い、雪のような白。
 薄い唇はうっすらと朱が差して、切なそうに結ばれている。
 更に男物の鎧と服装が、皮肉にも "彼女" の美をより一層際立たせているのであった。
 つまり、本来カノープスが雷蔵にかけるつもりでいた筈の呪いとは。

「私は後悔しておりませぬ故」
「俺は後悔してるよバカ! なんでお前、女になってんだよ! くそ、魔法使いってのはロクな奴がいねぇ!」

 言葉を荒げながら、力を失った勇者は思わず頭を抱え込んだ。
 魔女があてにならない今、稀代の英雄『銀騎士』だけが頼りになる存在であった筈なのに。
 気にくわないものの、文武にすぐれた、頼れる有能な部下で在るはずの彼は。
 雷蔵の身代わりとして、剣も満足に振れぬ女性へと変わり果てていたのだった。
 それも、絶世の美女となって。

「うう、どうしたらいいんだよ、俺……」
「ご心配なく。我が愛剣は戦道具故に重いですが、護身用の細身の物を用意できれば……」
「こんな地の底の何処にんなもんがあんだよ」

 先程の怒気を孕んだ声とは打って変わり、冷静な指摘にイグナートはしゅんと俯いた。
 魔女と勇者に続いて、 "封印の地" の底で目を覚ました時の事を思い出したからである。
 それは、雷蔵らと共に転移させられた英雄が体の異変に気付いた時。
 宛てもなく彷徨っていた雷蔵達に、地上では決して見る事の無かった猿のような生き物が突如襲いかかって来たのだ。
 恐らくは魔女ノルンが初代勇者の障害とならぬよう、この地に封じ込めた魔物の類なのだろう。
 巧みに闇に隠れながら襲いかかるそれは猿のようにすばしっこく、暗い為か細部まではハッキリとしなかったが、魔物らしきそれはまるで餓鬼のような姿をしていた。
 そんな思わぬ外敵の来襲に、最初に反応したのは『銀騎士』である。
  "彼女" は素早く抜剣し、わずかな気配を頼りに斬撃を繰り出した――はずであったが、腕に、足に、体に全く力が入らず、なんとか抜刀した剣を落とさぬようヨロヨロと足をもつれさせていたのだ。
 結局、よくわからぬ生き物は雷蔵が斬り伏せて事なきを得たが、その後イグナートの不手際を不思議に思った勇者は、その理由を知る事となる。

「……もう、最悪だ。ノルンは頭の中まで猫になっちまうし、英雄『銀騎士』は女になるし、俺の "勇者の力" はノルンの魔力と一緒にほとんど封じられてるみたいだし」
「しかし、あの妙な生き物を斬った御主君の剣技、見事ではありました。愚考するに、勇者としての力は失われて無いのでは?」
「あれは勇者とは別に、俺がずっと訓練してた奴。お前の妹にたっぷりとしごかれたもんさ」

 妹、とは雷蔵のハーレムに入っていたイグナートの妹の事である。
 元々は政略もあって未来の聖王たる雷蔵の子を孕む為、イグナートが差し出した美しい姫であったのだが、兄に似て剣技も優れ、事あるごとに雷蔵と剣の稽古を行っていたのだった。
 その腕前は男子禁制の勇者のハレム宮にあって、警護にあたる女騎士団団長を務めていただけあり、かなりの物だ。
 一方、雷蔵の腕前はというと、稽古を始めた当初は散々ではあったものの、現在も働いている唯一の勇者としての力、CFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)による支援もあって、最近では騎士姫の技量をも上回る程の上達ぶりである。

「くそ。いい材料なんか、一つもねぇ。この先一体どうすりゃいいんだよ」
「御主君。お言葉ですが、このような状況下でこうして人の住む集落を見つけ、宿を借りる事ができただけでも、相当な幸運かと思います」
「……そりゃ、そうだけど、さ」
「今日はひとまず休み、明日、周辺の探索や情報収集を行いましょう。もしかしたら魔女殿も再び喋る事ができるようになっておいでかもしれません」
「んー……」
「何より、焦っても仕方ありますまい。我らに出来る事は、此処を脱出する手段を探る為、今は体を休めて備える事かと」
「……そうだな。考えてみればイグナート、お前女になっちまって剣を振るえなくなったけど、頭の回転までは関係ないもんな」
「は」
「……悪かった。頼りにしてるぜ?」
「勿体なきお言葉」

 鈴のような美声は弾むようで、雷蔵はぐっと力を込めてそちらを見ないようにした。
 恐らくは、呪いによって女の姿に変えられた『銀騎士』の笑顔がそこにあると思ったからだ。
 彼の妹も相当な美女であったが、女となった兄の姿は別次元のもので。
 つまりは、まだその美に見慣れぬ今、そちらを見れば間違いなく心を奪われてしまうと感じた雷蔵は、極力イグナートの顔を見ないようにしていたのであった。
 そんな雷蔵の様子を察したのか、忠臣は勇者の視界の外、立ち上がる気配をふりまいて鎧を脱ぐ音を立て始める。
 どうやら今夜は早めに寝る事にしたらしい。
 偶然か必然か、 "封印の地" へと飛ばされた雷蔵達が妙な生き物に襲われた後、集落を見つけ運良く一夜の宿を借りる事ができたその部屋には、ベッドが一つ。
 二人が胡座をかいていたのは、そのベットの側である。
 聞こえていた鎧を外す音はやがて衣擦れの音となり、それすら聞こえなくなってからか。

「御主君。そろそろ寝ましょう」

 かけられたイグナートの台詞に、雷蔵はつい、油断してしまう。
 疲れからか、それともなんとなく、毎夜美女の奉仕を受け続けた故の反射であったのか。
 かけられた声に振り向いた時、勇者の目に飛び込んでいたのは、一糸纏わぬ美しい女の裸体であった。

「ば、ばかたれ! 服を着ろ!」
「? しかし、御主君。他に伽をする者はおりませぬが……」
「他に居なくても、男はお断りだバカ!」
「ご心配なく。戦場では男が主君の伽をする事も珍しくありませぬ」
「んなの、俺には関係ねぇ! 男はイヤなんだって!」
「大丈夫です。今の所、私は女です」
「大丈夫じゃねぇっつってんだろ! ああもう、クソ! こんな事なら俺が女になっときゃ良かった!」
「私は後悔しておりませぬ故、お気になさらず……わっぷ! ご、御主君!」

 雷蔵はぎゃあぎゃあと何かを叫びつつも、ベッドからシーツを引っぺがして、伽をする気に満ちた『銀騎士』にすっぽりとかぶせ、そのまま床に組みしだいてしまう。
 その体はシーツ越しであっても柔らかく、甘い匂いまでして、とても男であるとは思えない。
 恐らくは、呪いによってある程度の思考や情動までもが女となっているのだろう。
 イグナートはきゃあきゃあと英雄らしからぬ黄色い声を上げ、何を勘違いしたのか、やっと想いを遂げることができますなどと口走り、更に雷蔵をげんなりとさせていく。
 結局そのままの体勢で眠る羽目となった勇者と英雄の疲労は、次の日になってもとれる事は無かった。
 一方、猫の姿となった『時の魔女』ノルンは、何時の間にかふかふかの枕の上に陣取り、丸くなって安らかな眠りを貪って。

 翌日、碌に休息をとれなかった二人に、にゃあ、と食事を強請るのである。






[25530] 02 稀人(マレビト)
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/01/22 21:23



 雷蔵達に一夜の宿を供したのは、シリン村と言う場所であった。

 シリン村は "封印の地" の最下層に位置し、太古の昔に『勇者』と争い、魔女によって転移させられた人々の末裔が暮らす村でもある。
 その朝、雷蔵達は借りていた空き屋の外へと出た時、彼らがなぜ、薄暗い洞窟のような場所で数千年も生きてこれたのか、その理由を知った。

「すげぇ……」
「これは……なかなかの眺めですな、御主君」
 にゃあ

 目の前に現れたのは、幻想的な光景であった。
 ノルンの言葉から恐らくは地の底、光が届くはずのないような場所であるばずの地下深くに在って、上方から柔らかく光が降り注いでいたのである。
 見上げればはるか上空に小さいながらも丸く白く光る空が見えて、それを求めるように、村をぐるりとかこう巨大な、あまりに巨大な岩壁に沿って木々が生い茂っているのであった。
 木々はとても洞窟の中であるとは思えぬ程、少々不自然な生え方ながらも岩壁にビッシリと生い茂り、しかし縦穴の直径があまりに大きい為か、穴を塞ぐにははるかに至らない。
 そう。
 村は、恐ろしい程巨大で深い縦穴の底にあったのだ。
 その直径は地球の単位にして直径5kmはあろうか。
 村にたどり着いた時分、周囲は闇であった事から、どうやら雷蔵達が "封印の地" に転移させられ目覚めた時は夜であったらしい。

「あんれま、やっと起きたのかい?」

 惚けたように空を見上げる雷蔵とイグナートに、人懐っこい、年配の女性の声が掛けられる。
 慌てて我を取り戻した雷蔵達が声の主の方を向くと、すぐ目の前に湯気の立つ鍋を持った恰幅の良い中年の女が立っていた。
 鍋の僅かにずらされた蓋の上には木製の皿とスプーンが重ねられており、どうやら朝食を運んで来てくれたらしい。
 女は昨夜、散々彷徨った挙げ句に村へたどり着いた雷蔵達が、最初に扉を叩いた民家の主であり、親切にも宿を提供してくれた者でもあった。
 名をアンと言うらしく、夫に先立たれ、今では一人で暮らしているらしい

「まあ、仕方ないかね。昨日の夜、随分と騒いでいたようだったし? ――そんな美人の奥さんだもの、旦那さん、頑張らないわけにはいかないものねえ」

 アンは少し含んだようにそう言うや、あははと豪快に笑い始めた。
 どうやら、昨夜雷蔵が怒鳴ったり、夜伽を申し出ていたイグナートを取り押さえる物音が外にまで漏れていたらしい。
 その音が近くにあるアンの母屋にまで聞こえ、正確に聞き取れないが故に "頑張っている" と勘違いさせたのであろう。

「ちっ、ちがう! 俺達はそんなんじゃ……」
「御主君、私は気にしませぬが?」
「お前は黙ってろ、な?」
「あっはは! 照れなくてもいいよぅ、村の若い男衆は悔しがるだろうが、女の私が見ても惚れ惚れしちまう奥さんだものねぇ。ほんと、旦那さんが頑張ってしまうのも無理ないわぁ!」
「いや、アンさん、違」
「ははは、そうですよ、あなた――痛い!」
「黙れ。て、今お前なんつった? 俺の事あなたって言ったか? この口がそんなイケナイことを口走っちゃったのか?」

 雷蔵は、隣の、余計な事を口走る "元男" を取り押さえて、両の頬を片手で挟むようにして絞り上げた。
 彼が知る限り『銀騎士』は魔女とは違い、このような状況下ではふざけた言動をするような人物ではないはずであったのだが。
 これもカノープスの呪いのせいなのか、はたまた元々本人の内に押さえ込んでいた物があったのか、何にせよ、雷蔵にとっては頭痛の種が一つ増えてしまった事には間違いない。
 ギリギリと音を立てて両頬を挟まれ、タコのように唇を突き出させられたイグナートは、まるで怒られる犬のように凄む雷蔵から視線を逸らす。
 その表情は間抜けなものではあったが、忌々しい事に "彼女" の美を完全に損なう事は無く、昨夜一晩で大分慣れたとはいえ、甘い体臭が雷蔵の鼻をくすぐり、怒りを和らげる結果となった。

「まぁまぁ、稀人(マレビト)の方、そんな綺麗な奥さんを無碍に扱っちゃいけないよぉ! ほら、朝食持って来たから! たんと食べて丈夫なヤヤを作らないとねえ! ほらほら、こっち来てたべなさいな」

 アンはぐぬ、と表情を強ばらせる雷蔵を窘めつつも、かしましくそう言って、昨夜一行に貸した小屋の中へと入っていった。
 その態度は随分となれなれしく人懐っこいもので、雷蔵の毒気を更に抜く。
 やがてイグナートはそれ以上お叱りを受ける訳でもなく、しかしきつく余計な事を話さないよう念を押されてから解放された。
 間を置かず、簡単に朝食の支度は終わり、雷蔵達は "封印の地" へと送られてから初めての食事を摂る運びとなる。
 朝食はつい先日までの豪華な物とは違い、何かのスープだけであったが、それでも雷蔵とイグナートの腹を満たすには十分な量だ。
 スープは暖かくトロリとしていて、恐らくはこの辺りで採れるであろう植物の葉と、なにかしらの動物の肉を煮込んだものらしい。
 塩気は殆ど無く、ほんのりと肉の甘みのような味がして、美味とまでは言えなかったが不味くもなかった。

「さぁ、たんと食っとくれ! なんたって、あんた達は何百年ぶりかの『稀人(マレビト)』なんだしね!」
「あの、ご婦人」
「やだよう、ご婦人だなんて奥さん! ねぇ、旦那さん、あんたの奥さんは随分と上品な物言いするんだねえ。こんだけ美人でその上上品とくりゃ、そりゃ、頑張りたくもなるってもんだよねぇ!」
「ぶっ! だ、だから、違うんですって!」
「あっははは! 照れなくてもいいんだよぅ!」
「あの、ご婦人?」
「ああ、ゴメンよぅ、あたしったら話好きなもんで! なんだい?」
「稀人(マレビト)とは一体?」

 ともすれば一方的にまくし立ててくる女の台詞の中に気になる言葉があったのか、イグナートは疑問を投げかけた。
 その様はつい先程まで雷蔵に見せていた、色ぼけたような雰囲気ではなく、背筋を伸ばしいつもの鋭利な知性と気品を纏って、見る者に瀟洒な雰囲気を感じさせる。
 ついでに、やけに瑞々しい女の色気も追加されて。

「うふ、『稀人(マレビト)』ってのはね、外から来る者のことさぁ。そうだね、あんた達にはわからないだろうね。よし、あたしが説明してあげるよ!」

 アンはイグナートの気品溢れる仕草に少々面食らったような様子を見せつつも、元が話好きな為か、これまた一方的に『稀人(マレビト)』の説明を始めた。
 彼女によれば、シリン村には『稀人(マレビト)』の伝説があって、何百年か、あるいは何千年かに一度村の外から人がやって来て、村に幸運と繁栄をもたらすのだそうだ。
 その為、『稀人(マレビト)』がやって来た場合、丁重にもてなす習わしが村に伝わっているのだとか。

「それで、いきなり押しかけてきた俺達を泊めてくれたんですか」
「ああ、そうさ! それだけじゃないよ? いまごろ、村中総出であんた達の歓待の準備にてんてこ舞いだろうね!」
「そんな……しかし、私達はご婦人や村の方々にできることなど……」
「いいんだよぅ、それが習わしなんだし。『恵みの祭り』っていってね、その伝説に因んでね年に一度、『稀人(マレビト)』の役を村の者がやって、飲み食いする祭りがある位さ! ――あ、スープのおかわりいいからね?」

 そう言いながらアンは返事も待たず、空になった雷蔵の皿にドバッと大きな木製のおたまで掬ったスープを注ぎ込んだ。
 たっぷり食って、たっぷり頑張らないとねえ、という台詞と意味深なニヤリとした笑みのおまけ付きで。
 雷蔵は思わずだから違う! と否定しそうになるも、何も知らない場所へ着の身着のまま放り込まれた為に、今は情報をもっと集める事が先だと考え直し、その場は大人しく言葉と共にスープを喉に流し込むのであった。

「そこで、だ。旦那さん、もうひとがんばりしたいだろうけども、ちょっと頼みがあるんだ」

 アンは、雷蔵が不満と共にスープを啜るのを確認してから、ゆっくりと二人を見回して突然改まった口調になった。
 どうやら、そこからが彼女の本題らしい。

「なんでしょう?」
「さっきも言ったとおり、あんた達はこの村じゃ『稀人(マレビト)』ってのはわかっただろう?」
「ええ。まあ……」
「ここへやって来た目的はわからないけれど、一月位この村に逗留しちゃあくれないかい? さっきも言ったけど、シリン村じゃあね、『稀人(マレビト)』がやって来たらきちんと、そしてたっぷりと歓待するしきたりがあるのさ。これをやらないと、きっと猟にも影響がでちまうんだよ、頼むよ、ね?」

 意外な申し出に、雷蔵とイグナートは無言で視線を交わした。
 その足下ではノルンがスープを舐めようとして、供された皿の中へ恐る恐る舌を差し込み、すぐに引っ込めるといった動作を先程から繰り返している。
 彼女にとってスープは、どうやら少しまだ熱いらしい。

「どうしたい? もしかして、都合が悪いのかい?」
「あ、いえ。それは願っても無い事ですが……俺達、早くここ外に出たいんです。準備が整い次第、村を発ちたいんで、一ヶ月もここに居る訳には……」
「外? 外って?」
「えっと……ほら、あの天井に開いた大きな穴の外の事なんですが……」
「なんだってぇ?!」

 雷蔵の返答はアンにとって、まったく思いがけない物であったらしい。
 只でさえ大きな声を更に大きした驚きの叫びを上げ、アンは思わず前のめりに雷蔵の方へ顔を突き出してきた。

「あ、あんた達、 "ディスパイア・ウォール" を登るつもりかい?!」
「 "ディスパイア・ウォール" ?」
「この村を囲む大きな壁のことさね!」
「ああ、あの岩壁のことですか。ここではそう呼ばれているんですね」
「そうです、ご婦人。壁をよじ登る……のは少し骨が折れそうなので、上へと続く道でもあればご教示いただけるとありがたいのですが……」
「や、やめときなさい! 道はあるけれど、すごく危ないよ!」

 アンは先程までの快活さがウソのように、真剣な表情を浮かべ雷蔵とイグナートを交互に見ながら制止の言葉を発した。
 その様子から、上へと進める道があるものの、かなり危険な道である事が予想できる。
 しかし、だからといって雷蔵としてはああ、そうですねと諦める訳にはいかない。
 勇者として喚び出されて以来、それまでに手に入れてきた物には勿論未練があったし、何より、とばっちりとは言えカノープスという魔術師の思い通りにはさせたくはなかった。

「えっと、アンさん。俺達、それでも行かなきゃならないんだ」
「でも!」
「道はあるんですよね? どうか教えていただけますか?」
「私からもお願いします、ご婦人。御主君は帰らねばならぬ方なのです」

 雷蔵とイグナートはそう言って深々と頭を下げ、それを見たアンはうむと唸り何やら考え込んだ。
 が、それも一瞬の事で、何か納得の行く答えが彼女の中で導き出されたのか、不安と不満に彩られていた表情を再び快活な物へと替え、仕方ないねもう、とばかりに大きなため息を一つ吐く。

「……そこまで言うんなら教えてあげるけどさぁ。だけど、本当に、本当に "ディスパイア・ウォール" を登るつもりなのかい?」
「はい」
「……やだよう、本物の『稀人(マレビト)』ってのは伝承の通りなんだねぇ」
「はい?」
「ご婦人?」

 アンの台詞は村の者には通じるであろうが、余所者である二人には当然伝わらない。
 その為、雷蔵とイグナートはどういう事なのかを問う呼びかけを同時に行い、声が重なった事を意識して一度、顔を見合わせた。
 一方、女の方も当然と言えば当然の話となるのだが、外部との接触が絶無であろうシリン村において、外の者は内部の常識を持ち合わせてはいない、という当たり前の事を考える機会が無い為なのだろう。
 先程自分が口にした内容は外の者には伝わらない事に気がついて、照れ隠しに大きな声で笑いだした。

「あっはは、悪い悪い! いやね、さっきこの村にしばらく逗留しとくれって話をしただろう?」
「ええ」
「あれね、『稀人(マレビト)』の歓待の為なんだけどね。その昔、最初の稀人(マレビト)が村を訪れて、しばらくここで過ごしてから、 "ディスパイア・ウォール" を登って外に出る伝承があってね」
「はぁ……」
「その最初の稀人(マレビト)が逗留の礼に、魔法を使って "ディスパイア・ウォール" の入り口に『封印の門』と『恵みの門』の、二つの門を作ったのさ」
「魔法、ですか」
「そうさ。『封印の門』は、 "ディスパイア・ウォール" の上の方に住む危険な魔物を村に来ないようにする門で、『恵みの門』は多くの食べ物を与えてくれる、魔法の門なんだよ」

 そこまで話した所で、テーブルの下でスープを啜っていたノルンが一つ啼き、アンの足に頭をこすりつけた。
 アンは話を一時中断し、子供をあやすようにノルンを抱え上げてよしよしと撫で始める。
 少し強く撫でられて気持ちよいのか、ノルンはぐーぐーと喉を鳴らし、気持ちよさげに目を細めた。

「でね、それ以来この村じゃ年に一度、『恵みの祭り』と言う祭りをやるようになって。――今年の分は少し前に終わっちまったんだけど。で、その祭りじゃ村の者が『稀人(マレビト)』に扮装し、『恵みの門』まで行くんだ。そうすると、獲物が沢山捕れるようになるのさ」
「獲物、ですか」
「そう、獲物。この辺りは畑を作ろうにも光が足りないし、広い場所も少ない。土地も痩せてるだろう? だから、猟に出て魔物を狩って口を凌ぐんだ」

 魔物、という単語を聞いて、雷蔵は昨夜襲われた得体の知れない生き物の事を思い出した。
 イグナートも同様であるらしく、眉根を寄せ、少しだけ不安げな表情を作り出している。
 その憂いを含んだ瞳は、不覚にも雷蔵の心を揺さぶったらしい。
 勇者は思わず目の奥が熱くなるのを感じてぷぃっと顔ごと視線を逸らし、一瞬でも男に惑った己を激しく憎悪した。

「あっはは! 奥さん、心配しなさんな! 魔物っていっても、上にいる奴程危ない奴じゃないよぅ。そういうのは『封印の門』からこちらにはこれないんだ。こっちに居る奴は偶に気性の荒いのがいるけど、殆どは弱い臆病な魔物さ」
「そうでしたか……いや、私は魔物という物にはなじみが無くて……」
「おや、そうかい。旦那さんも?」
「ええ」
「んー、やっぱり心配だねえ」

 そういって、アンはむずがるノルンを床に降ろし、腕を組んだ。
 それから何か妙案が浮かんだのか、三度表情を明るくして、高らかに宣言する。
 まるで、神託を受けた巫女のように。

「そうだね! うん、それなら、村長さんにかけあって歓待ついでに『恵みの祭り』をもう一度行うよう頼んでみようかね!」






[25530] 03 不可解な話
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/01/27 23:54



 遙かな太古、魔物が跳梁する地の底に、邪な魔女によって善良な人々が閉じ込められた。

 不運な人々は唯一光が届く場所に集まり、村を築いて肩を寄せ合い細々と暮らしたという。
 その生活は苦しく、常に魔物の影に怯え、日々の糧は絶望だけであった。
 ある日。
 村に一人の男がどこからともなくやって来る。
 村人達はその日を凌ぐだけで精一杯であったにも関わらず、男を盛大にもてなした。
 男は大いに感激し、時の村長に恩返しをしたいと申し出た。
 そして、良き魔法使いであった男は二つの贈りものをする。
 一つは『封印の門』。
 村人が朝に昼に、夕に夜に恐ろしい影に怯えて暮らす事の無いよう、強力な魔物が村まで降りてこれなくする為の門であった。
 もう一つは『恵みの門』。
 村人達が飢えないよう、その門を潜れば多くの恵みをもたらすという魔法の門である。

「ただ、言い伝えではこの二つの門には制約がありましての。『封印の門』の扉は決して開いてはならず、『恵みの門』は決して "戻ってはならぬ" というものですじゃ」

 催された稀人(マレビト)の歓待の最中、シリン村の年老いた村長は村に伝わる伝承をそう説明して、丸焼きにした蛇にフガフガとかぶりつく。
 時刻は宵の口であろうか。
 頭上に見える巨大な穴の向こう、地上の更に上にある夜空は星一つ見えぬ漆黒。
 歓待の宴は村の中央、巨大な縦穴の真下に設えられた広場に村人が皆集まり、輪になって貴重な食料や酒を振る舞う物であった。
 しかし流石に地の底である為か、豪華、とは言ってもその質は雷蔵が宮殿暮らしをしていた時とは比べものにならず、ごちそうと言ってもどれも味の薄い物ばかりだ。
 その "豪華" な食事から察するに、シリン村はあまり豊かな場所ではないらしい。
 雷蔵とイグナートはその手に村長と同じ串に刺さった蛇の丸焼きを持ったまま、上座に座らされて "ごちそう" に口をつけるでもなく、じっと村長の方を見つめている。
 否。
 強引に手渡された蛇の丸焼きを見ないようにしていた、と言った方が正確だろう。
 丸焼きにされた蛇はこの辺りで獲れる極上の食材らしく、主賓である雷蔵とイグナートの他、村長や村の名士らしき人物以外には供されてはいない。
 よって、コック直々に、他の村人の歓声を伴って二人に手渡されたその蛇は、決して嫌がらせなどではなく、稀人(マレビト)の為に心を込めたもてなしの一貫であると思われる。

「村長。 "戻ってはならぬ" とは?」
「ふが……おお! これはこれは。こんな綺麗な方に酌をして貰えるとは、年甲斐もなくときめくのぅ……」

 絶世の美女と化したイグナートの酌に、村長はでへへ、と鼻の下を伸ばしながら杯に注がれる酒を愛しそうに眺めた。
 どさくさに紛れ肩を寄せイグナートの匂いを嗅ごうとしている辺り、年を経てはいるが女性の方はまだまだ現役らしい。
 一方、本来はそれなりの身分であるイグナートではあったが、こういった場には慣れているようで、先程から何度も酌を行い、鼻の下を伸ばした村長から情報や外に出る為の協力の約束を引き出していた。
 その話術は戦場や占領地にあって、部下の人心掌握や地元の有力者の協力を得る為には必要不可欠な物であり、雷蔵にとって頼もしい限りの技術ではあるのだが。
 しかしこの時、雷蔵の目には、単に蛇の丸焼きを口にしたく無いが為の行為であると、さりげなく村長の皿に置かれたイグナートの丸焼きが雄弁に語りかける。

「村長。それで、 "戻ってはならぬ" とは?」
「おお、すまんこって。話がずれておりますな。 "戻ってはならぬ" とは、一度くぐった『恵みの門』からは決してこちら側には戻って来てはならぬ、という事ですじゃ」
「それは、どうしてですか?」
「そうじゃの、そいつを説明するには『恵みの祭り』の説明からせんとの。おお! 丁度支度が出来たようじゃ!」

 村長はそう言うや、盛大に歓待が行われている広場の中央を指差し、やいのやいのと騒ぎ始めた。
 酒の席故かどうにも落ち着いて会話ができず、村長とは先程からこんな調子である。
 いや、朝からずっと、と言った方がいいのかもしれない。
 何せアンに村長の家へと案内された二人は、目まぐるしく歓待の準備に追われる村長とは碌に話もできず、そのまま夜の宴の時刻まで客間で放置されていたのだから。
 唯一、村長と最初に会った折にアンの言う『恵みの祭り』をもう一度行うという案を、快く引き受けて貰った事は収穫であったのかもしれないが、それが地上に出る為に役に立つのかは未だわからない有様である。
 だからか、二人は少しウンザリしたような苦笑いを浮かべつつも、一旦会話を諦め村長がしきりに指差す方向を注視した。
 視線の先は小さな広場の外周を囲むように座る人々の、丁度反対側の下座。
 そこから何やら若い男女が、周辺に座って酒盛りをしている村人から茶化されながら楽器のような物を手に持って、輪の中心へとぞろ出て来ていた。
 彼らの服装は華美であり、何かの鉱石を綺麗に磨いたような装飾品を身に付け、一目で特別な衣装であるとわかる。
 やがて、規則正しく整列した若者達は誰が合図をするでもなく、各々の持つ楽器をかき鳴らし始めた。
 奏でられる音楽は雷蔵がそれまでに聞いた事のない、ゆったりとして不思議と落ち着くような旋律。
 例えるならば子守歌にも似て、どこか心地よく、しばらくすると村長おろかその場に居た全て者のが黙り込み、耳を傾けていた。
 しかし、そこは宴会の席での演奏である。
 旋律は突如、エネルギッシュなものへと変わり、同時に下座から一人の踊り子が飛び出るように進み出て来て、広場の中央、激しく体をくねらせ踊り始めたのだ。
 踊り子はまだ十代の少女であろうか。
 露出度の高い衣装を身に纏い、腰、肩、両手首に長い薄布を取り付け、それらがヒラヒラとなびくよう音楽に乗せ巧みに体を動かす。
 彼女の踊りは多少の粗は目立つが、薄布が地に着かぬよう巧みに体を回転させ、空に跳ぶ様は見ていて飽きぬ物であった。

「客人、いかがですかな? これは『恵みの巫女の舞』と言いまして、『恵みの門』をくぐる巫女がその年の豊猟を約束する儀式の一つなのです」
「……見ていて中々楽しい踊りですね」
「そうでしょう! 巫女になれるのは村で一番美しい娘と決まっておりましてな。――まあ、奥さんと比べるとちと、落ちますが。それでも、あの娘も中々のものでしょう?」
「まぁ。村長さんったら。奥さんだなん――あ痛!」
「イグナート、例え酒が入っていようが、冗談であってもウソはダメだからな?」
「御意」
「……もしかして、お二人は夫婦ではなかったりするのかいの?」
「ええ、婚約っ……じゃない、主とその部下です」

 やっと、自分達の関係に疑問を抱いて貰えた――
 雷蔵は妙な事を口走ろうとするイグナートを後から小突きながらも、これで誤解が解けると胸をなで下ろした。
 実際の所、イグナートと夫婦であると見られていても、なんら不便はない。
 しかし、ことある事に、奥さん綺麗だねとうらやましがられ、 "頑張っちゃう" のも無理ないねと語りかけられるのは、雷蔵にとって非常に苦痛であった。
 何せ隣に座る絶世の美女は実は男で "あった" のだから。
 更には、男色の気がまったく無い雷蔵にとって、嫉妬と羨望の対象が実は自分に好意を向けていたという事実は絶対的に受け入れがたく。
 今とて、涙を目元に浮かべながら、潤んだ瞳で何かを訴えるかのように見つめてくる『銀騎士』を必死に否定しようと、派手に頭を振る有様なのである。

「そうでしたか、はは、これは失礼を。いや、道ならぬ恋と言う奴ですかな?」
「はい?」
「稀人(マレビト)は外からこの地に追放された方だとも伝わっております。いや、これ程の美しさを誇る方ならば、さぞ、高貴な姫君であったのでしょう。わかる! わかりまずぞ!」
「村長さん?」

 イグナートを挟む形で座っていた村長は、彼女の前から身を乗り出すようにして、人知れず苦悶する雷蔵の肩をがっしと掴み、したり顔で頷いた。
 ――ちゃっかり、その太ももをおさわりしているあたり、相当好き者のようである。
 雷蔵は一瞬、その真意を理解出来ず、しかしなんとなくどういう勘違いをしているのか予想しながらも、思わず問い返していた。

「いやいや、みなまでは言わなくても、この老体にはよくわかりますぞ!」
「あの、俺の方がが主――」
「道ならぬ恋、と言う物はいつの世も激しく燃えるものです。その相手がこれ程の方ならばなおさら! アンに聞きましたが、昨夜、かなりお励みになられていたとか。いや、実に羨ましい!」
「あの、だから――」
「身分違いの二人! まるで宝石のような美貌の姫君! その上、激しく燃え上がる愛! いや、実に、じぃつに羨ましい! わしも若い頃は――」

 酔いがかなり回っているからか。
 それとも、回ったフリをしておさわりしたいだけなのか、村長の言動は雷蔵にこれ以上の意思疎通をはかる事を諦めさせるに十分であった。
 気が付けば周囲は皆酔っ払いばかりで、まともに話が出来そうな人物と言えば輪の中央で踊っている娘と楽器を奏でている者達位であろう。
 雷蔵は早々に色々と諦め、昨夜どう愛し合ったのかと聞いてくる村長をイグナートへ押しつけることにした。
 恐らくはその結果、事実とははるか遠い関係を結んだ事にされるであろう。
 しかし、得体の知れない疲労がそんな事はもうどうでもいいや、と勇者を諦めの境地へと導く。
 そんな、半ばやさぐれつつある雷蔵が目の前に並べられた "豪華な" 食事の中から、美食に慣れてしまった自分でも食べられそうな物をいくつか選び出し、疲れたように囓った時である。
 ふと、隣のイグナートとは反対側、直ぐ側に人の気配を感じた。

「ふふ、お疲れですか?」

 声は若く、振り向くとまずむせるような濃い、乙女の体臭が鼻につく。
 何時の間にやって来たのか、そこにはあの踊り子の娘が酒の入った器を手に座っていたのである。

「君は……」
「あたしはリード。今は "恵みの巫女" ですけれど。稀人さんは飲まないのですか? お酒も食事もあまり進んでは居ないようですけど」
「あ、いや。ちょっと、考え事があって、ね」
「ふふ、奥さんが村長さんに言い寄られているから心配? あたしがズバっと強く注意しましょうか?」

 少女はそう言って、コロコロと笑った。
 その笑顔は花のようで中々愛らしく、村長が先程村で一番美しい娘である、という言も頷ける。
 つい先程まで激しく踊っていた為であろう、不快ではなかったが、娘からは汗と香が混じった匂いが雷蔵の鼻をくすぐった。
 身に付けた衣装も先程踊っていた時のままで、露出した白い肌には薄布と深い青の髪が汗によってピタリと張り付き、何とも艶めかしい。

「……いや、ちがうんだ。そもそも、イグナートと俺はそんな関係じゃないし」
「あ、そうなんですか? でも、アンおばさんは……」
「それも誤解。俺は元々……うん、元々は軍属の剣士でね。あいつは俺の部下なの」

 シリン村の村人は、元々勇者(に仕えていたノルン)によって "封印の地" へと送られてしまった人々を祖としている。
 故にここでは「勇者」という肩書きは口にしない方がいい、と雷蔵は判断し、あえてその辺りをぼかした表現を行った。
 リードは雷蔵の言葉を疑う事もなく、まぁ、そうだったんですか、と驚き、雷蔵が拍子抜けするほどあっさりと "誤解" は解けていく。

「じゃあ、稀人さんは……あの綺麗な女の人と一緒に此処へ?」
「ああ。悪い魔法使いの罠にかかっちゃって」
「そうだったんですか。……私達のご先祖様と一緒ですね」

 そう言ってリードはもう一度、今度は慰めるように微笑んだ。
 先程の激しく踊る姿や、今、目の前にある悩ましい姿とは裏腹に、その語り口はゆっくりとしていて雰囲気もほわっとしており、実の所大人しい娘であるらしい。
 雷蔵はどこかそんな娘に安堵を覚えつつも、これは色々と疑問を解消するチャンスであると捉えて、ここぞとばかりに彼女と積極的に会話を交わす事にした。

「えっと、リードさん? ちょっと聞きたい事あるんだけど、いいかな?」
「あ、はい」
「まずさ、『恵みの祭り』ってどんなの?」
「? 今やってるのが『恵みの祭り』ですが?」
「いや、その辺り、詳しく教えて貰っていないんだ。最初、この宴って稀人の歓待か何かだったんだろ?」
「ええ。そのつもりだったんですけど、稀人さん達が "上" へ行くって話になったから、急遽『恵みの祭り』に変わったんですよね」
「そこ! なんで、俺達が上に行くのに『恵みの祭り』になっちまうんだ?」
「えと、稀人さんはもう『二つの門』についてはお聞きになりました?」
「ああ。『封印の門』と『恵みの門』だよな? 村長が酔っ払う前に教えてくれたよ」

 雷蔵はそう言って、リードと反対側で執拗にイグナートの体をおさわりしようとしている村長をじっとりと睨んだ。
 その仕草がおかしかったのだろう、リードはまた、ころころと含むように笑い、視線を戻した雷蔵も釣られて笑ってしまう。

「うふふ、じゃ、二つの門の成り立ちも?」
「うん、聞いた。そっから先はまだだよ」
「じゃ、そこから村長さんに代わって私が説明しますね」

 リードはそう宣言し、コホン、とすこしわざとらしく咳払いをして見せた。
 それから背筋を伸ばして、ほんの少し声色を落とし大仰に説明を始める。
 恐らくは村の誰かの物まねであろうと予想できたが、その姿はどこか愛嬌を感じさせ、思わず雷蔵は笑みを浮かべてしまうのであった。

「まず、上へと続く道は『封印の門』があるから通れません。そこで、『恵みの門』を通るのです」
「ふぅん。『恵みの門』の先も上へと続いているのか?」
「ええ。それも安全な道があるという話です。ただ、『恵みの門』を開けるには条件があるんですよ」
「どんな?」
「年に一度、『恵みの祭り』を執り行い、豊猟を願って "恵みの巫女" が門を潜る時だけ開くというものなんです」
「……でもさ。村長は『恵みの門』は一度くぐったら決して "戻ってはならぬ" 、って言ってたよ? その、門をくぐった "恵みの巫女" って戻って来ちゃいけないんじゃない?」
「ええ、そうですよ?」
「そうですよ、って……」

 そこで雷蔵は言葉を失った。
 リードの話が正しいならば、門を潜った巫女は村に戻って来れないしきたりである事になるからだ。
 豊猟を願う祭りで、村一番の美しい娘を選び、二度と村に戻れぬ儀式を行う。
 これではまるで、生け贄ではないか。

「ふふ、大丈夫ですよ。門の向こうには神殿があって、巫女達はそこで新たな人生を歩むんです」
「へぇ……神殿、ねえ」
「その神殿は二つの門を作ってくれた良き魔法使いが作った建物らしくて、光に満ち食べ物も尽きぬ程沢山あるって話なんですよ?」
「そうなんだ? じゃあ、みんなそっちで暮らせばいいのに」
「あはは、そうですよね。でも、ダメ。神殿は一年に一人だけしか受け入れてくれないし、そもそも "恵みの巫女" と "稀人(マレビト)" しか入っちゃいけないんです」

 ますますわからない、と雷蔵はいぶかしげた。
 シリン村が決して豊かな村ではないという事は、なんとなくだがわかっている。
 それも長い時の中、地の底でずっと苦労しながら村人は生きてきたことも、だ。
 なのに、何故その食べ物が無くならない程沢山あるという神殿に立ち入ろうとしなかったのだろうか。
 その神殿とやらが、ただの祭事を行う為の施設であり、祭りも形だけ……というならばリードの話はわかる。
 しかし、目の前の踊り子は真顔で『恵みの門』を一度潜ると、村に戻ってきてはいけない、と語った。
 彼女のやけに愛嬌のある瞳は、狂信者のそれではなく、しかし冗談で言っているようにも見えない。
 ……二つの門と神殿。
 それに、最初の稀人である "良き魔法使い" 。
 なんだか全てが怪しげで、どこか納得がいかない雷蔵であった。

「んー、あのさ」

 何時の間にか胸中の大部分を占めるようになっていた不可解な話に、なんとなく居心地の悪さを覚え更に質問を重ねようとした時。
 突如、背に重量を感じて出しかけた言葉は嗚咽へと代わった。

「ごぉ、しゅくん!」
「うわ、ぷ、い、イグナート?!」
「そのような、えらいのしれにゃい、者などほっといて、わらしと飲みましょう!」
「は、離せバカ! て、お前そんなキャラだったっけか?!」
「にゃはは、きにしにゃい、ごしゅくん!」

 豹変、とはこういうことを言うのだろう。
 背後から首に回された白い腕、強いアルコールの香り、そして宴故に鎧を外して居た為にわかる、豊かな双丘の感触が勇者を混乱させた。
 元々アルコールはそれ程得意でなかった雷蔵は口をつけては居なかったが、どうやら出されている酒は中々強い物らしい。
 いや、例えそうであっても、『銀騎士』がこうも前後不覚となるような飲み方をするとは――

「村長さん! まさか、アレを稀人さんに飲ませたんじゃ?!」
「ひ?! リード! そこにおったんか!!」
「ん~、ごしゅくん~」
「離せバカ。……リード?」
「もう! この、助平爺! この前の『恵みの祭り』の時も同じ事して、村の女衆からこっぴどく折檻されたっていうのに! もう忘れたんですか?!」
「ゆ、許してくれ! 出来心だったんじゃ!」
「ん~、こよいは、寝かしませぬぞ? ぐぉ! 痛い!」
「次妙な事言いやがったら "傾国" でたたっ斬ってやる。……で、リード、どういう、こと?」
「村長特製のお酒を飲まされたんですよ。強力な媚薬の一種で、本当なら魔物をおびき寄せる香の材料になるんですが……あ、まて! この助平爺!」

 リードの台詞からして、どうやら常習犯らしい。
 唖然とする雷蔵の目の前で、村長は老人とは思えぬ俊敏さでその場から走り去っていき、リードと騒ぎを聞きつけた他の女性達が、おぼつかない足取りで老人の後を追って、広場から走り去ってしまった。
 宴は雷蔵を除き酔いどればかりとなっており、その様子を肴にあちこちから笑いが上がっている。
 そんな宴を少し離れた民家の玄関先、どこかへ行かぬよう閉じ込められていた籠から抜け出したノルンはじっと見つめて。
 それから、子猫にしてはやけに人間ぽい笑みを浮かべるのであった。
 宴は尚も続き、結局最後までイグナートの悪酔いは醒める事も無く、また "彼女" が勇者の愛刀に斬られる事もなく。

 結局雷蔵は宴の後、昨夜と同じように疑問と言い寄ってくる女体をシーツごしに抱えて、眠れぬ一夜を過ごす羽目に陥るのだった。






[25530] 04 痛い!
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/01/30 18:58



 本心では今すぐにでも、『恵みの門』へと出発したかった。

 雷蔵達がシリン村にやって来て3日目の朝。
 いい加減、連日連夜のドンチャン騒ぎに嫌気が差していた雷蔵は、珍しく朝早く起き出して "傾国" を片手に間借りしているアンの小屋の裏手で体を動かしていた。
 今ではすっかり手に馴染んでいる、魔女に貰った日本刀は鞘から抜き放つと怪しく煌めいて、朝の清涼な空気をどこか変質させる。
 その刀身は本来雷蔵の勇者としての力の発現を行う鍵となり、又、城一つ灰燼にさせるだけの力で振るっても折れず、曲がらぬ物であるだけあってか、刃こぼれ一つない。
 魔女の力が封じられてしまっているとは言え、未だ力の片鱗をのこしているのか "傾国" はまったく手入れをしていないにもかかわらず、錆びどころか曇り一つ無く輝いていた。
 一閃。
 雷蔵は以前そうしていたように、まずは晴眼に "傾国" を構えて縦に剣先を跳ね上げる。
 その身体に埋め込まれたCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)は、圧倒的な力の他、様々な技術を "再現" し雷蔵に超人的な技量をももたらすはずであった。
 が、その力は元々雷蔵の体には馴染まず、魔女ノルンが様々な条件を付与し、かろうじて制御出来ていた物らしい。
 よって、魔女の力が封じられた今では、 "傾国" と同じく雷蔵がコントロール出来る範囲でしか働いていないのだろう。
 刀を手に意識を集中しても以前と同じように名も無き剣豪の業の数々が脳裏に浮かばず、雷蔵は己の身に染みこませた幾つかの型をなぞる事にしたのだった。
 ぴぅ、と空を斬る音と共に、剣閃が2つ。
 ――体は泳がない。
 その剣筋は、幾度もCFMMからイメージを取り出し、雷蔵自身が模倣し続けたものだ。
 CFMMによる技量の "再現" には遠く及びはしなかったが、それでも並の兵士では太刀打ち出来ぬ程には磨き込んできたものであった。

「……鈍ってはいないようだな。身体調整機能ってのは動いてる、か」

 雷蔵はそう呟いて、内心ほっと胸をなで下ろした。
 魔女ノルンに以前聞いた話に寄れば、雷蔵が彼女の支援無しにCFMMを扱う場合、身体のコンディション維持を行う調整機能だけは働くらしい。
 その為か雷蔵は、以前から体力を消耗したり怪我や病気を煩っても、その回復は常人よりも遙かに早かった。
 又、どこの世界の代物かはわからなかったがCFMMは兵器用途であるらしく、筋力の維持などにも効果を発揮する。
 魔女ノルンがその機能の管理を行って居ただけに、基礎的な部分まで封じられていればどうしようかと雷蔵は不安を抱えて、この朝珍しく鍛錬などを行っていたのだった。

「いや。もうすこし、剣筋を確認しておくか。後で筋肉痛になればCFMMが働いていないってわかるし……」
「おや、御主君。おはよう、ございます」

 突如、背後からすこし疲れたような声がした。
 同時に雷蔵の肩がビクっと跳ね上がる。
 声は凛として美しく女性の物であったが、そのタイミングで聞こえるなどと予想していなかった勇者を殊の外驚かせたらしい。

「うわ! ビックリしたぁ……イグナートか。もう起きて大丈夫なのか?」

 雷蔵の質問にイグナートはうっ、と俯いてその白い頬を桜色に染めた。
 すっかり線の細い、小さな女のそれとなった肩は羞恥に震えている。
 その雰囲気は男の面影は無く、すっかり、女性然とした仕草が身についてしまっているかのようであった。
 人の精神は肉体の状態に大きく左右される。
 風邪を引いて寝込めば弱気になるし、どんなに性欲が昂ぶっていようと、激しい腹痛に襲われればそれどころでなくなる。
 年を取れば食欲や性欲が減退し、活動的でなくなるのも精神がすり減っているのではなく、すべて肉体の衰えが原因なのだ。
 イグナートの場合も体が男としてでなく女として機能している以上、本人が意識していない部分で精神の女性化が起きているのかもしれない。
 しかし、当然そのような事に考えが至らぬ雷蔵にとっては、見てくれがどんなに美しい女性
とはいえ、男が女の仕草をしている程度にしか受け取れずにいた。

「……んだよ、気持ち悪ぃな」
「も、申し訳ございません。あの、その、そういう事には慣れてなくて……」
「慣れててたまるかバカ。そんなんでよく俺の伽をするって言ってたよな、お前」
「うぅ……しかし、ですね?」
「しかしもカカシもねぇよ。こっちはいきなり『血が! 痛い!』っつって騒ぎ始めたもんだから、すっげぇ焦ったんだぞ」

 ぶっきらぼうに雷蔵はそう言い放ち、眉根を寄せた。
 思い出すのは昨夜、二度目の宴での席。
 前日と同じように雷蔵の隣の席で酒を嗜んでいたイグナートは、ある時分を境に突如モジモジとし始めて、しばらく経った頃、激しい腹痛を訴え始めたのだ。
 すわ食中毒かと慌てた雷蔵と村の人々は、尋常でなく痛がるイグナートを寝泊まりしている小屋に運び込み、村で医者の役をしている老婆を連れてきて診察をして貰ったのである。
 その結果……

「……なんじゃ、こりゃ。お主ら、騒ぎすぎじゃ」
「どういう事だばあちゃん?! イグナートは食あたりかなにかなのか?!」
「アホ。おんし、この嬢ちゃんの旦那じゃろうが」
「こりゃ! ばあさん、稀人さんになんて口を!」
「違う! 俺は……いや、ばあちゃん、そんな事より一体――」
「――まったく。生理くらいで大騒ぎすな」

 去り際の老婆の台詞は、その場にいた者すべての言葉を奪う。
 その後、男衆は小屋から追い出され、リードや村の若い女衆がやれ下着の替えだとか、やれ鎮痛作用のある薬草だとか、やれ体を洗う湯だとかを持ち込んで来て、結局宴はうやむやの内に終わりを迎えていたのであった。
 そんな事があってからか、イグナートは雷蔵の言葉にまるで怒られた子犬のようにシュン、として気まずそうに俯き、唇を尖らせる。
 雷蔵は今度は何も言わず、ただ無言の内にそのままプィっとイグナートに背を向けた。
 実の所彼女の仕草がなんともいじらしく、胸がざわめくような感覚を覚えそうになったからだ。
 と、いうか正直かわい……いかんいかん、男相手になにやってんだ、俺。
 集中、集中、っと。
 内心で焦り呟きながら二度強く頭を振り、勇者は気を取り直し剣を振る。
 深呼吸を3度し、心を平坦にして。
 刹那に迸る剣閃は3つ。
 閃光はほぼ同時に浮かび上がり、朝の空気を切り裂いた。
 ――体は泳がない。
 次いで、 "傾国" を鞘に納めてから雷蔵は目を瞑る。
 イメージするのは、大きな樹木。
 その、太い幹を両断すべく意識を一点に集中して……
 一閃。
 切り裂いた空は、いつものように空気の裂け目が見えた気がして、雷蔵は胸をなで下ろした。
 どうやら居合術も大丈夫らしい。
 CFMMでの剣術の "再現" は無理だが、身についた型まではやはり無くなってはいないようだ。

「……いつ見ても御主君の剣技は綺麗ですね」
「そうか? 俺のはただの "真似" だよ。本当の剣豪の業ってのはもっとすごいんじゃねえか?」
「そう、なんですか? 私も剣においては負けた経験は殆どありませんが、そのような美しい型の剣技を扱う者など見た事がありませぬ」
「日本刀自体、グラズヘイムにゃないからなあ……って、お前、何やろうとしてんだ?!」

 雷蔵は焦ったように、何時の間に移動したのか隣で愛剣を抜き、構えようとしているイグナートを見た。
 その横顔は輝くように白く美しく、一瞬、彼が男であった事実を忘れさせる。
 一方、イグナートはというと、いつもの銀の鎧おろか帷子すら身に着けていない服装で、ただその手には華美な装飾が施されている片手剣だけが握られていた。
 その刀身には剣の名であろう、 "ウラディスラフ" という装飾文字が刻まれているのが見える。
 剣は雷蔵が居城でよく見かけていた片手剣よりも少し幅広く、儀礼用ではなく戦場であつかう代物であると見て取れた。
 また、片手剣は刀身こそ短めであったが、馬上で扱えるようにするためか柄は長目に設えられている。
 だからか、女性となり非力になってしまったイグナートは両手で片手剣を握り、まるで両手剣を扱わんとするかのように剣を構えて、意識を研ぎ澄まそうとしていた。

「おい、やめとけって!」
「御主君。たとえこの身が女の体となってはいても、私は騎士でございます。いざとなって、剣の一つや二つ、扱えねば……」
「バカ! お前、今日は……」
「大丈夫です! アレが病でないとわかれば、これしき……これ、し、き? あ、ああ、あだだだ、きた! きたきた!」

 雷蔵の制止の声も余所に、イグナートが剣を振りかざそうとした時である。
 『銀騎士』は腹に力を込めた為か、昨日の激しい痛みがぶり返してその場に蹲ってしまった。

「みろ、いわんこっちゃない」
「なん、なんの、これしき……」
「……強がってどうすんだよ、バカ」
「しかし――はぐあ?! ご、御主君?! 今、今は触っちゃダメ! です!」
「見ろ。鞘の先でつつかれただけでそんな風に悶えてるじゃねえか。またズボン汚す前にやめとけ。な?」
「な、なんの。以前矢傷が元で、寝込んだ時にくらべてぇええ?! 痛い! や、やめて! お願い、します!」

 蹲り強がるイグナートに、雷蔵はあきれ顔でうりうりと "傾国" が納まった鞘の先でつつく。
 その度にイグナートは身悶えして苦しんだ。
 が、その意志は折れていないようだったので、雷蔵はほんのすこし嗜虐心を刺激され、大人しくなるまでつつき続ける事にした。
 時刻は恐らく早朝。
 アンや村の人々は、昨夜も行われた歓待の宴会の影響で、未だ寝入っていると雷蔵は思っていた。
 しかし。
 シリン村は貧しく、それ故に仕事は多い。
 雷蔵が早朝であると思っていても、実の所ぼちぼち人々が起き出してくる時刻であったのだった。
 そして勇者は気が付かない。
 イグナートの嗚咽は、聞きようによっては性交時のそれに似た、艶めかしい物にも聞こえるという事に。
 そしてうりうりとつつく程、その声は大きく、辺りに響いて行く事に。
 
「あ、あの……稀人さん?」

 不意に第三者の声が聞こえ、雷蔵のイグナートをつつく手が止まった。
 振り向くとそこに "恵みの巫女" リードの姿がみえる。
 その顔は引きつった笑いが張り付いており、一目で引いていると見て取れた。

「そ、の、何を……しているのですか?」
「お。おはよう、リード。いや、イグナートがさあ、無理して剣を振ろうとするもんだから、『つついただけでこんなになっちまうくせに』ってわからせてたんだよ」
「あは、はは、そうだったんですか! あはは、わたしてっきり……」
「ん? てっきり?」

 彼女特有の花のような笑みは硬い。
 その意図する所を未だ把握できていない雷蔵はいぶかしげ、眉根を少し寄せた。
 一方、雷蔵の責めから解放されたイグナートは、蹲った姿勢のまま、ふー、はーと深呼吸して腹の痛みに意識が行かないようにしている。

「その、イグナートさんにお薬持って来たら……喘ぐ声とか、『つつかれただけでそんな風に悶えてる』とか、『ズボン汚す前にやめとけ』とか聞こえて来たもので、その、てっきり……」

 気が付いて、絶句する勇者。
 気まずそうに沈黙して目を反らす、恵みの巫女。
 死んだ魚の目をして、それどころでない『銀騎士』。
 三者三様の反応は、気まずい空気を作り出す。
 やがて静寂を破ったのは、雷蔵であった。

「……声、響いてた?」
「ええ。多分その……ご近所中に聞こえていたと……」
「……そ、そういや、リード。朝、早いね? あはは……みんなまだ寝ている時間なのに」
「この村の人はみんな、朝早いですよ? それにイグナートさん、 "二日目" でしょう? お薬をあげなきゃって思って、薬草を持って来たんです」
「……なんの、こ、これしき……いだい! つ、つつかないで!」
「お前はだまってろ、な?」
「そ、そうですよ、イグナートさん。無理しちゃだめ。さ、お薬あげますから寝ていましょ? これからもっとお腹痛くなりますよ?」
「ふぇ?! ま、まだ痛くなるのですか?!」

 流石に今よりも更に苦しくなると聞いた『銀騎士』は、焦りも露わにしてリードに尋ねた。
 そんな彼女に、リードは神妙な面持ちでゆっくりと一度だけ頷く。
 イグナートは顔を青ざめさせながら、言葉を無くし、縋るように今度は雷蔵を見た。
 勇者は視線が合うと、こちらもまた、ゆっくりと頷く。
 ただし、その表情からは心ここにあらずといった様子がありありと伺えた。

「――さ、小屋に戻って薬を飲んで、今のうちに寝ておきましょう?」
「うう……わかり、ました」
「……リード、俺、アンさんの所にメシ貰いに行ってくる」
「はい。……急いだ方がいいですよ? アンさん、噂話好きだから、井戸水を汲みに出ちゃうと」

 言い終わらぬ内に、雷蔵は全力で駆け出した。
 これ以上、妙な噂が増えぬようにする為である。
 その後ろ姿を見てリードは苦笑混じりの、イグナートは無念のため息を吐くのであった。
 結局、雷蔵達が村を出発する事ができたのは、更に5日後での事である。

 その間、不本意な噂は消えるどころか増えていたのであった。






[25530] 05 『恵みの門』
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/02/08 23:39


 村を出て2日。

 紆余曲折がありながらも、雷蔵達は『恵みの門』がある場所にたどり着いていた。
 道中は "ディスパイア・ウォール" に面した道ではなく、延々と続く洞窟を進んだ二日間である。
 その為、闇の中を歩き続ける必要があった一行は、松明より遙かに強い光が満ちる門の前に立っていられず、不本意ながらも目が慣れるまでしばし、少し離れた場所で時を過ごす事にしていた。
 すっかり闇になれた目で薄目を開けなんとか見える『恵みの門』は、それまでの洞窟の道とは違い、いきなり開けた広大な地下空洞の中に突然現れて、その巨体はまるで城壁だ。
 門がある地下空洞は城一つが余裕を持って入るほど広く、洞窟とは思えぬほど木々が周囲に茂っており、中々に幻想的な光景が広がっている。
 光があるのは恐らく、空洞の一部が "ディスパイア・ウォール" に繋がっているからなのだろう。
 その証拠に空洞の天井には無数の縦穴が開いており、そこから光が筋状に差し込んで『恵みの門』へと降り注ぎ、その光によって門自体が光り空洞そのものを照らし出していた。
 石壁は長方形に加工された石が積み重ねれられている姿が遠目にもわかり、それが何十メートルもあろうかと思える空洞の天井にまで達っしている。
 さらにその石壁の中央には、こちらも巨大な門が設えられて居るのが遠目にも見て取れた。
 門にはめ込まれた鋼鉄製の扉は十メートルはあろうかというサイズで、表面には大きな蛇が装飾として彫り込まれている。
 その装飾こそ、門が『恵みの門』であると示す印であった。
 と、いうのもシリン村では豊かな食事の象徴として、蛇は御馳走扱いである。
 その理由こそ『恵みの門』に蛇の装飾が刻まれていると伝承にある為で、故に雷蔵達は初めて見る門の装飾を見て、一目でそれと理解出来たのだった。
 只、村長の話に因れば『恵みの門』の他に『封印の門』が在るはずであったが、少なくとも雷蔵達がいる場所からは、他に門のような物は見当たらない。
 『恵みの門』の大きな扉は硬く閉ざされ、元来た道以外には空洞内に生い茂る木々の間から見える壁を見る限り、他に道も無いようだ。
 少なくともその先に進むには到底人の力では開きそうにない、『恵みの門』を開く必要があるらしい。

「あれが……『恵みの門』……」
「なんと見事な……」

 雷蔵とイグナートは大分慣れてきた目を薄く開けながら、絢爛な装飾が施された巨大な門に思わず魅入ってしまう。
 それは "恵みの巫女" リードも同じようで、言葉もなくその神秘的な光景に目を奪われていた。
 その中ではただ一人――否、ただ一匹。
 イグナートに抱かれたノルンだけは久しぶりに浴びる光を鬱陶しそうに避けて、丸くなり惰眠を貪り続けていた。
 彼女は最初に雷蔵と話した時以来、いまだ人語を話すことはない。
 もしかしたら魔女の弟子カノープスによって、精神まで猫に替えられてしまったのだろうか。
 ――と、毛玉のように丸くなるノルンを見た雷蔵は、不意に激しい不安に襲われた。
 如何に邪悪で気に入らない所があるとは言え、魔女は勇者にとって進むべき道を示してきた存在である。
 そんな彼女が居ない今、雷蔵が己の判断で前に進む事に畏れを感じるのは仕方無い事なのかもしれない。
 しかし、例えそうであっても、ノルンが元に戻る保証など何処にもないのも事実である。
  "上" を目指していればその内また喋りだすだろう、と半ば無理矢理に考えて、勇者は心を落ち着かせるのであった。

「想像以上に見事な作りですね、リード殿」
「ええ……あたしも初めて見るんですけど、こんなに素敵な場所だったなんて……」
「しかし……伝承では『恵みの門』を通れるのは "恵みの巫女" のみで、中にある神殿は一年に一度、一人だけ受け入れると言う話ですが、大丈夫でしょうか?」
「あ、だよな。なあ、リード。そういや今年はもうやったんだろ? その、『恵みの祭り』って。大丈夫なのか?」
「多分……。稀人さんがいるから大丈夫だと思いますよ? それに、もしダメだったら村に一緒にもどれば良いですし」

 気を取り直し、目の前に示された道を確認しようとした矢先。
 雷蔵はリードの説明に、思わず少し力の抜けるような印象を抱いて折角押さえ込んだ不安が再び首をもたげるのを感じ取った。
 年に一度、選ばれたたった一人しか受け入れぬ門を前に、何と暢気な物言いであろうか。
 もしダメだったら……とか考えないのだろうか? とツッコミを入れようと思ったが、自分達の事に考えが至ってそれは辞めておく事にした。
 そもそも、リードと共に『恵みの門』へ来る事になったのは、自分達が地上を目指す為でもある。
 むしろダメかもしれない事に協力して貰えるだけ、ありがたいと思う方が筋であろう。

「しかし、あれ、デカイな……どうやって中に入るんだ?」
「……さあ?」
「さあ、って……」
「その、ここへは巫女一人で来る習わしですから……」

 リードは言葉を詰まらせ、俯いた。
 そんな彼女を見て、雷蔵はなんとなく気まずくなってしまい、とりあえず目が慣れ次第門へと近付く事を提案する。
 提案は特に反対もされず、一行はそれからしばし美しい門を遠目に眺めて過ごす事にした。
 それから幾日ぶりかののどかな時が過ぎ、光がほんの僅かに弱まる時刻となった頃か。
 リードを先頭に一行が恐る恐る巨大な門へと近寄り、その巨体を改めて間近に見上げた時である。

「きゃあ?! な、なにこれ?!」
「リード?!」
「御主君!! 離れて!」

 突如、リードの足下に魔方陣のような光る文様が幾つも浮かび上がって、強い光が彼女の体にまとわりついたのだ。
 魔方陣は大小の円と正方形が無数に重なり合い、そこから文字のような形を取った光が螺旋を描いて湧き出し続けてる。
 やがて無数の光はリードを包み込み、一度丸く膨らんでから急激にしぼんで、最後に雷蔵とイグナートが目を開けていられぬほど強く閃光を発し、消えて――
 二人が再び目を開けた時、既にリードの姿は音もなく消え去っていた。

「な……なんだったんだ?」
「御主君、お怪我は?」
「大丈夫だ。それより、リードは?」
「……あの光と共に消えたようです」

 なんとも信じがたい話である。
 ノルンとの付き合いを通じて魔術などの存在に比較的慣れていた二人であったが、目の前で起きた出来事をそのまま受け入れるにはいささか時間が掛かった。
 が、いたずらに沈黙を続けても当然、消えたリードが再び現れる事は無かったし、ましてや "上" への道が開ける訳でもない。

「どう、しようか」
「……御主君。もしやリード殿は門の向こうに "転移" させられたのではないでしょうか?」

 途方に暮れながらも考えがまとまらない雷蔵とは違い、『銀騎士』はその明晰な頭脳で何が起きたのか思考を重ねていたらしい。
 ノルンを抱いたまま腕を組み、人差し指を曲げながら形の良い唇に当てる姿はまるで絵画のようであった。
 雷蔵は頼りになる部下の意見に活路が見出せるのでは、と胸を躍らせ、不覚にもまともにその姿を見てしまい、思わず顔を赤らめてしまう。
 何せ、銀の鎧に身を包んだ美女が悩ましげに物憂いた表情を浮かべ、暗い地の底に降り注ぐ淡い光を浴び煌めいて見えたのだ。
 別に彼でなくとも、神々しいその姿には誰しもが目を奪われ、虜となるであろう。
 い、いかん!
 アレは男だ!
 み、見てくれは良いがそこだけは見誤るわけにはいかねぇ!
 アレは男! 男! 男!
 勇者は何故か動揺しつつも、美女の正体を呪文のように念じながらなんとか視線を顔から逸らすことに成功するも。
 僅かにそらした視線は白く細い首筋に張り付いて、鮮烈な色香を覚え結局胸の高鳴りを押さえる事に失敗してしまうのであった。

「? 御主君?」
「……なんでもねぇ。それより、なんでそう思うんだ?」
「は。一つ、この大きな門を見るにどうも開いたり閉じたりする用途ではないと見受けられます」
「俺には宮殿にあった門と違いがわからんが……」
「開き勝手ですよ、御主君。鉄扉を支えるにはヒンジが強くないといけません。したがって、これだけ大きな門扉ともなれば普通は跳ね上げ式かスライド式に作るはずです」
「へぇ。お前物知りなんだな。あ、そうか、伊達に攻城戦の指揮を執りまくってないってことか」

 動揺を何とか表に出さず、色香に惑いながらも素直に感心する雷蔵に、イグナートはえへへ、と笑みを浮かべモジモジとして反応した。
 どうやら主君に褒められて嬉しかったらしい。
 その仕草は男には見えず、又いくら女の体となっているとは言え『銀騎士』には似つかわしくないものだ。
 しかし。
 絶世とも思える美貌の持ち主が頬を染めモジモジとしている姿は、雷蔵が抱くべき疑問をすべて駆逐するほど愛らしく、再びその思考を焼いて気付かせない。
 稀代の英傑の精神に何が起きつつあるのかを。

「……何はにかんでるんだよ、お前」
「いただいたお褒めの言葉が嬉しくて、つい」
「き、気味悪ぃからやめろ! それより、続きをさっさと話せよ」
「は。……つまり、です。『恵みの門』の成り立ちを考えるに、実用性よりも魔術的な意味合いが強いのではなかろうかと愚考した次第です」
「んー、つまり、このでっかい門扉は開け閉めするもんじゃない、って事か?」
「あくまでも推測になりますが。この向こうに行くには、門に近づいて何らかの魔術を発動させる必要があるのかもしれません」
「そうか……くそ、こういう時にノルンが口聞けたらな」

 雷蔵はそう言って、イグナートが抱える黒い子猫をチラとみやった。
 無論、すこしでもイグナートから意識を遠ざける為の措置でもある。
 もし今の惑いに気付かれて、調子に乗ったイグナートに迫られでもしたら――
 時も場所も考えるまでもなくそれどころでは無いのだが、確実に籠絡してしまうと思えた雷蔵であった。
 そんな勇者に偶然か、それとも雷蔵の言葉を理解してか、子猫の姿となったノルンは雷蔵の方を見てにゃあ、とひとつ笑うように鳴いて返事をする。
 同時に突如ノルンは暴れ出し、するりとイグナートの手の内から抜けてしまった。

「あ! こら!」

 制止の声はイグナートだ。
 ノルンはその声から逃げるようにして、門の方向へまっしぐらに走っていく。
 そしてイグナートの予想に添う形で、リードが消えた辺りに差し掛かると先程と同じように魔方陣が出現し、ノルンを包んで閃光と共にその姿を消し去ってしまった。
 どうやらイグナートの言葉通り、巨大な門に近寄るとなんらかの魔方陣が出現するらしい。
 ただ、それが転移の為の魔法なのか、それとも近寄る物を消し去ってそのまま命を奪うような代物なのかまでは、判断に迷う二人である。

「……イグナート。お前の考え、当たってるのかもな」
「は。あと、我々が此処に送られた時もあのような白く強い光が周囲に広がっておりました事を思い出しました」
「そういやそうだったな。でもこれ、だれが作ったかによってかなり変わる気がするんだが」
「む? 村長の話によればその昔、稀人として訪れた魔法使いが作ったとの事では?」
「ん。まあそういう話だし、実際魔法が発動する辺り、村に伝わっていた伝承はウソじゃないんだろうけどさ」

 雷蔵はそこで言葉を切り、もう一度先程まとまらなかった思考を一つ一つ確認する。
 シリン村の成り立ちと伝承。
 『恵みの門』と『封印の門』。
 目の前で発動した、白い閃光を伴う魔法。
  "魔法使い" の稀人。
 すべて真実であるか、それとも歪んで伝わっているかはわからない。
 だがただ一つ。
 雷蔵にはこの時、それらをすべて一本に繋げる事ができそうな人物に心当たりがあったのだ。

「なあ、これ。――カノープスが作ったんじゃないか?」
「カノープス、ですか」
「あいつ……ってか、どんな外見してるか知らないけど。あいつさ、その昔ノルンに此処へ送られたって話だろ?」
「は。直接は聞いておりませんが、魔女殿がそう説明されていたと御主君から説明をしていただきました」
「で、多分その時ってさ。初代の勇者の命令でノルンが邪魔になる人間とかをここに封じてから、何年か経ってからの話だと思うんだ」
「……なるほど。古の聖王により此処へ送られた人々が村を作り、そこに遅れてカノープスがここへ送られ稀人としてやって来た、と言う訳ですか」
「ああ。そもそも俺はノルンしか魔法使いは知らないが、グラズヘイムにこんだけの代物を作れるような魔法使いってそうは居ないんだろ?」
「は。私も幾人か "本物" の魔法使いと会った事がありましたが、魔女殿程の者は誰一人。皆精々簡単な幻術を扱う程度でした」
「……でな? その稀人がカノープスだとして、だ。いいか? こっからが重要だぞ?」

 勿体ぶって、雷蔵は一度コホン、と咳払いをする。
 対するイグナートは神妙な面持ちを少し雷蔵に差し出しながらも、主君の言葉を待った。
 意識しないようにしている為か、それとも説明に夢中になり、気が回らないのか。
 すっかり女の体臭を纏うようになった『銀騎士』が甘く鼻をくすぐるほど側に居るにもかかわらず、今度は雷蔵が惑うことはない。

「カノープスはノルンの弟子だった。で、最初はノルンに気に入られてて、その内自分の為に魔法を使い出したって話だ」
「……は」
「そのカノープスが伝承で "良き魔法使い" として残っているのって不自然じゃないか?」

 雷蔵の疑問は沈黙としてイグナートに受け入れられた。
 たしかに、その言は一理ある。
 私利私欲に魔法を使い、ノルンによって "封印の地" に封じられたカノープスが "稀人" であるならば、飢えと魔物に苦しむ村人を助けるなど考えてみれば妙な話だ。

「……ですが御主君。この『恵みの門』との関連性は検証できませぬが、この門の存在があるからこそ、村は飢えぬとされてもおりました」
「そうだけど、あの村はお世辞にも豊かじゃなかったろ?」
「は。しかし、逆に切羽詰まる程貧しくも無かったです。それこそ、我らを連日歓待できるほどには」
「む……」
「本当に切羽詰まるほど貧しい村は、酒どころか子供さえ糧として喰らいます。しかし、シリン村の者は皆血色良く、年齢に偏りも無く、近年に飢饉が起きた形跡だってありませんでした」
「……なんでわかんだ?」
「酒ですよ。供されたものは数年寝かした物から去年の物まであったと村長殿から伺いました。――随分と尻や太ももを触られましたが」
「そうか、良かったな。それで?」
「できれば御主君に触っていただきたかっです。いや、むしろ太ももの付け根や鎧の隙間から手を差し込んで欲し」
「そ・れ・で?」
「う……飢餓が起きていれば、今年は食料があろうとそうはいきませぬ。なにせ、酒は作るのに時間が掛かる上、飢饉が起きていればその時点で材料になる木の実や穀物は、すべて食い尽くしてしまうのが常ですから」

 イグナートの言葉も又、説得力を伴って雷蔵に受け入れられた。
 つまりは、一見貧しく見える現在のシリン村は、食うに困らぬほどには "豊か" とも言える。
 だが、それはあくまで現在の村の姿であり、目の前の巨大な門の正体を探る材料には些か足りない。

「そうかもしれないけど、イグナート。年に一度、祭りと称して村の娘をこの門に送るのはお前はどう考えてる? 送られた娘は二度と村に戻る事のない祭りの事だ」
「それは……私も妙な話とは思いました。村の者はこの門の向こうにいけば幸せになれると考えてもいるようでしたが、行為だけを見ていると、その……」
「……生け贄みたいだよな」

 差し込まれた雷蔵の言葉にイグナートはコクン、と首を縦に振った。
 その部分こそ、二人とも最も引っかかっていた事実であったからだ。
 同時に消えたリードとノルンの事もあり、早急にどうすべきか答えを出さなければ、という意識も働き始めて焦りに似た空気が流れた。
 何せ、そこで幾ら考えてもリードとノルンの行方がわかるはずもなく。
 又、他に道は見当たらず。
 結局二人はこの時、門に近付き魔法にその身を任せるべきかどうかを決める必要に迫られていたのであった。
 そして、雷蔵達が出した答えは――

「……とりあえず、 "先" に進みましょう」
「でも、危険な魔法だったら……」
「リード殿や魔女殿が痛そうな悲鳴を上げてる様子は無かったですし、恐らくは "転移" の魔法かと」
「ま、まあ、そうだけど……証拠って欲しくないか?」
「ささ、御主君。時に虎穴に入ることも重要ですぞ」
「わ! イグナート、引っ張るなって! おい!」

 如何なる根拠があるのか。
 イグナートは雷蔵の右腕を抱えて、ぐいぐいと『恵みの門』の方へと引っ張りあっさりと魔法を発動させるのであった。
 勿論、慎重な行動を望んでいた雷蔵は抵抗をしたのだったが、いきなり抱きついてきたイグナートに不覚にも先程の惑いを思い出し、強く抵抗できず。
 果たして、白い閃光に包まれ視界を一端すべて手放し、再び目を開けた時はどこか建物の内部らしき場所に移動していたのであった。
 どうやら魔法は危険な物ではなく、イグナートの予想通り門に近づいた者を "転移" させるものであったらしい。
 建物は円柱状の柱が建ち並び、その作りは雷蔵がかつて暮らしていた神殿と似た作りで、誰か管理している人間がいるのか奥へと延びる長い廊下に延々と松明が焚かれている。
 雷蔵は魔方陣に入った時のまま、腕にイグナートをぶら下げながらも後を振り返ると、そこには神殿の高い天井まで壁がそびえていた。

「ここは――」
「……やはり門に近づくとどこか他の場所に転移する仕組みだったようですね」
「ああ。廊下の奥までかがり火が焚かれてるって事は、だれか居るみたいだな」
「そのようですね。それに、先程とは違い光が差し込んで折らぬ所をみると、ここはあの壁の向こう側かもしれません」
「イグナート」
「は」
「……重い。離せ?」
「……すいません、足が痺れてもう少しあだ!!」
「ふざけてる場合かバカタレ! リードとノルンを探しに行くぞ!」

 腕にしがみつき頬ずりをしている、どう見ても足を痺れさせてはいない部下の頭に勇者はげし! と拳を落とし振り払って、足早に廊下の奥へと歩き始めた。
 いまだ鼻をくすぐる残り香は甘く、どこか後ろ髪を引いたが、今はそれよりもリードとノルンの行方を確認する方が先であるのは考えるまでもない。
 建物の内部からは今のところ物騒な気配は感じられなかったが、外とは違いその暗さ故か不気味な雰囲気で、雷蔵の不安を三度煽る。
 一方、イグナートの方も頭をさすりながらも我を取り戻し、緩んでいた表情を凛と引き締めて主君の後を追う。
 が、すぐに聞き覚えのある声が二人を迎えて、その足を止めさせるのであった。

「くく、遅かったの。あまりレディを待たせるでないわ」

 いつからそこに居たのか。
 廊下の奥に向かって無数そびえる円柱の、一番近くの柱の陰からこちらも見覚えのある闇色のドレスを身に纏った女が現れた。
 その妖艶な美はイグナートのそれとは正反対に雷蔵の目を奪い――

 こうして『時の魔女』ノルンは幾日ぶりか、人の姿を取って勇者と英雄の前に現れたのである。





[25530] 06 俺、なにやってんだろ
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/02/11 09:24



 幾日ぶりかに見る妖女は、変わらず凄艶な笑いを浮かべくつくつと笑い勇者の前に立った。

 魔女の美しく長い黒髪と蠱惑的に肌を露出させる黒いドレスは相も変わらずで、イグナートとは対極の美を体現し見る者を挑発する。
 元は男であるとはいえ、絶世とも言えるイグナートの美が白であればノルンは黒と表現できるであろう。
 つまりは清楚、無垢、清純、可憐、純潔という印象をいだかせる色とは無縁の。
 女が纏っているものは淫靡、悦楽、侵犯、快楽、禁忌といった色である。
 どちらも見る者を強く魅了するだろうが、魔女のそれは心ではなく肉に直接訴える凶暴な美しさだ。
 そんな、肉の欲望を直接刺激するかのような女の形を目の前にして勇者は何を想うか。
 まず脳裏によぎるのはかつて幾度も閨を共にしたその肢体の感触と、ねっとりとした快楽の記憶。
 次いで理性がそれらを追い払い、自己嫌悪と怒りに似た感情が沸き立ち言葉を紡ぎ出す。
 一体いままで何故!
 ここは何処だ?!
 お前に聞きたい事が山程――
 矢継ぎ早に湧き出る言葉と感情はしかし、体外に出す事が出来ない。
 雷蔵はこの時始めて、己が口を訊く事が出来なくなっていることに気が付いて背後にいるであろうイグナートを見やった。
 それは『銀騎士』も同様であるらしく、美貌に困惑を浮かべ、雷蔵の意図する所を正確に読み取って首を振り同じく口がきけない事を示す。

「儂じゃ」

 凛とした、しかし絡みつくような声に勇者は再び『時の魔女』を睨むように見る。
 魔女ノルンは変わらず口の端をつり上げながら、出て来た円柱によりかかり息を一つ嘲るように吐いた。

「あまり時間がないで、お主らの言葉を封じさせてもろうたんじゃ。色々と質問攻めを受けておる間に、再び獣に戻りそうであるからの」

 そういって、魔女はくつくつと再び笑う。
 くぐもったその笑いは、広く人気の無い建物内に響いて、そこかしこに落ちる闇に消えた。
 ノルンの一方的な仕打ちは雷蔵の機嫌を大いに損ねたが、勇者は不満を態度に表しもせず、それどころかさっさと話せとばかりに顎をしゃくってみせた。
 先程彼女が言った言葉から、どうやら人の姿で話せる状態は長くは持たないらしい。
 大方、今まで話さなかったのは魔力かなにかを溜め込む為で、ここぞと言う時、つまり今、それを使って現れたのだろう、と雷蔵は勝手な解釈をして自分を納得させていたのだ。

「ひひ、ききわけがよいの。お主のそういう所は好きじゃぞ? ――なんじゃ、『銀騎士』殿? そのような目で睨むでない。心配せんでも、約束通り勇者殿の尻はお主にとっておいてやっとるではないか」
「――!――!!!」

 ――が、納得が行かない事もある。
 雷蔵は邪魔をするなとばかりに、背後でむっと魔女を睨んでいたイグナートの頭を振り向きざまに小突いてから、ノルンにさっさと話せとばかりに身振り手振りで急かすのであった。
  "約束通り勇者殿の尻はお主にとっておいてやっとる" というフレーズがやけに引っかかったが、今はそれよりもリードの行方の方が気になる。
 それに加えて今、このタイミングで『時の魔女』ノルンが人の姿を取った事が、雷蔵に言い知れぬ不安を感じさせていた。

「わかったわかった。お主を焦らせるのは楽しいが、確かに今はそれどころでは無いし時間もないしの。よいか? 心して聞けよ?」

 ノルンはやれやれと肩をすくめながらもそう言って、ふぅ、とため息を一つつく。
 その人を小馬鹿にしきった態度はとてもではないが切羽詰まっているようには見えず、雷蔵の神経を激しく逆撫でして、拳を握らせた。
 だが意図してか、それとも無意識にか。
 ノルンは艶めかしく体を蠢めかせ、身に付けている体表の半分程しか隠せないような黒いドレスの隙間から脚を、胸元を、腰を露出させ男の眼を引いて。
 結果、いつものように勇者の上へと登りかけた血を下へと押し下げ、複雑な心地に歪む表情を確認し魔女はくくと嗤うのである。
 もっとも、この時の彼女の笑いは雷蔵の表情だけでなく、その背後からじっとりと睨む元男の心境を察してのものであったのだが。
 当然、勇者の頭の後には目がついていようはずもなく、視線に気が付かぬままあけすけに見せつけられた、たわわな谷間から目を離せぬ雷蔵であった。

「まず、儂が話せなくなった理由。これはこの "封印の地" の影響じゃの。カノープスの呪いだけだと幾日かで元に戻れようが、生憎この場所は儂が丹念にこさえた呪いの地じゃて。獣の身で喋るだけでも魔力を使う故、ほっとくと精神まで獣になってしまいかねん状況じゃった」

 魔女はそう言って、胸を強調するかのように腕を組み、ぴんと一本指を立てた。
 まるで抱え上げられるかのように持ち上げられた双丘は、いまにもドレスの隙間からこぼれ落ちそうで、ここの所色んな意味で女性に飢え始めていた雷蔵の視線を捉えて離さない。
 何せ連日手を伸ばせばすぐに与えられる極上の女体がある上、それまでは毎日、何時もで好きな時に美女を抱き、奉仕させる生活を送っていたのである。
 男の悲しい性もあるが、雷蔵の場合は環境の激変に未だ対応できていない面もあり、どうしても目が行ってしまうのだ。
 ましてや、魔女もまた雷蔵のハレムの一員でもある。
 情けない事は変わりないが、仕方無いと言えば仕方のないのかもしれない。

「二つ目。この "神殿" はかつて儂がここへ送り込んだカノープスが作ったものじゃ。調べた所、目的は "鍵" の生成じゃの。つまり、魔力を含む強い力を持つ者程強く縛るよう作った "封印の地" にあって、魔力を集める役割を担っておるようじゃ」

 組んだ腕に更なる力を込めつつ、魔女はぴんと二本目の指を立てた。
 急激に窮屈になった胸は、絞り出されるように腕の上に乗ってドレスの下からその形を主張し始めている。
 ノルンの説明に幾つも疑問が浮かぶ雷蔵であったが、言葉を話す事が出来ぬ故か、それとも闇に浮かぶ凹凸の激しいシルエットが思考を阻むのか。
 雷蔵は生唾を呑み込む勢いで眼前の曲線に釘付けとなってしまい、その視線の強さと同様に背後から刺すように冷たい視線が浴びせられている事には気付けずにいた。

「三つ目。この神殿は様々な方法で魔力を集め作る "鍵" とはなにか。ま、これは想像しやすかろ。 "鍵" とはこの "封印の地" の外に出る為の物の事じゃ。流石に単純に上へ登れば外に出られるといった構造ではないからの」

 そこまで手短に説明して、魔女は3本目の指を立てながら一息いれた。
 背にした円柱の居心地が良くないのか、体勢を変える為である。
 体勢を変える、と言っても単に一度柱から離れ、脚の位置を変えてもう一度もたれかかるだけの仕草であるのだが。
 しかし、すっかり干上がっていた雷蔵には、たったそれだけの間であっても長く感じられた。
 魔女は再び腕を組み、先程のように胸を強調しながらも指を三本立て直して、その欲情した視線に邪で妖しい笑顔を向ける。

「四つ目。なぜ儂がこの姿に戻れたかというと、皮肉にもこの神殿が溜め込んだ魔力を儂が利用出来たからじゃ。――とはいっても、儂にしてみれば腹の足しにもならん程度の魔力量じゃが。が、今のうちならばお主らの手助けはできようと思うての」

 ノルンはそう言いながら、指を立てていた腕を胸元へ導きゆっくりと細い指をその谷間の中へと差し込んでいった。
 仕草は実に艶めかしく、すっかり鼻息を荒くした男を更に挑発するには十分であったのだが、次の瞬間には流石に、雷蔵を現実に引き戻す事となる。
 ソレを何処にどう、どんな方法で収めていたのか。
 魔女が胸の谷間に差し込んだ手をゆっくりと引き抜くと、そこに少し大ぶりの籠手が摘み上げられていたのだ。
 籠手は大ぶりで銀色に輝き、通常の物とは違い関節や指の可動部までも装甲が施されている品であると見て取れる。
 ふくよかで良く張った胸の谷間からゴツい籠手が突如出て来て驚く雷蔵を尻目に、魔女は籠手を摘み上げてぽいっと雷蔵の後方に放り投げた。
 投げた先に居たのはイグナートである。
 頑なに己には手を出そうとしないのに、と唇を尖らせ主君には見えぬようじとじとした視線を送っていたイグナートは、突如大きな籠手を投げ渡されて慌てふためく。
 結局投げ渡された籠手をがしゃ、と音を立てて落としてしまい、あわあわとしながら拾いあげた。
 それから、何をやっているんだと振り向き呆れる雷蔵に、引きつった愛想笑いを受かべ取り繕う。

「くく、大事に使ってくだされよ? 『銀騎士』殿。ソレは "剛力の籠手" とゆーての。そいつを嵌めた手で武器を握ると、その重さを感じなくさせる品じゃ。ついでにお主の鎧のサイズをその身に合わせる効果も付与しておいたから、以後より勇者殿を押し倒しやすくなろうぞ?」

 おいこら。
 イグナートに余計なもんを与えるんじゃねえ!
 んなもん作る力取り戻せたんなら、まずコイツを男に戻せよ!
 言葉にならぬ抗議の声は、ギっと睨む視線に乗せられて笑みを浮かべる魔女へと叩き付けられた。
 そんな雷蔵の後方では説明を聞いたイグナートが、ベっとそれまで着けていた右手の籠手をゴミを捨てるかのように地に投げ、嬉々として "剛力の籠手" をはめている。
 籠手はゴツい外見とは裏腹に、女の身となったイグナートの細い手にピタリとはまって、華麗な『銀騎士』の鎧とはバランスこそとれないものの、一体感を伴って光り輝いた。
 ――否。
 一瞬ではあるが本当に銀に光り輝き、イグナートが何事かと体を見渡しているとやがてある事に気がつく。

「案ずるでない。ついでに、合わせて着用する鎧のサイズを使用者の体に合わせる魔法も付与しておったんじゃよ。心配せんでもその鎧に元から付与されておる、 "無重" の魔法は打ち消したりしておらん」

 説明して魔女は再び寄りかかっていた柱から体を離した。
 今度はそのまま数歩前に歩み、不敵な笑みを浮かべたまま、抗議の表情を浮かべる雷蔵の目の前に発つ。
 次いで徐に両手を雷蔵の胸に添えながら密着して、その手をゆっくりと上に滑らせやがて首に回し抱きつくような格好となった。
 その間、妖女が使う香と共に甘く痺れるような女の匂いが飢えた雷蔵の感情を焼き払い、まるで石化の魔法でもかけたかのように勇者は微動たりとも出来ず。
 鼻息もかかろうかと言うほど間近に顔を置いたノルンは、好色そうな舌なめずりをしながら雷蔵の表情を確かめ、その耳に囁いた。

「お主にはCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)の調整じゃ。儂の支援無くして使う必要があろうでの。以前のような激烈な力は発揮せぬじゃろうが致し方在るまい」

 耳に掛かる吐息に雷蔵は最後の理性を失いかけながらも、目を閉じなんとかその言葉を記憶に止める。
 しかし、次の瞬間にはその理性も吹き飛んでしまう結果となった。
 と、いうのも雷蔵の予想――期待通り、魔女は耳元から口を離した後、今度は雷蔵の唇に己の口を押し当てて、口中に舌を差し込んで来たのだ。
 女の舌はまるで蛇のようにうねり、器用にもあらゆる所に絡みついて、甘く濃厚な香が鼻と胃に落ちていく。
 が、それもつかの間で舌は一気に口中から逃げ出してしまい、体の芯まで劣情に滾らせた雷蔵は思わずそれを追いかけるように、やけに小さなノルンの頭に手を押し当てた。
 そして間髪入れず、今度はこちらから舌をねじ込もうと既に離れた唇を追う。
 しかし、彼を待っていたのは生臭く、ザラザラとした舌触りとちくちくとする尖った歯であった。
 勇者はぎょっとして唇を妖女から離し、目を開くとそこにいたのは既に猫の姿に戻りつつあった半獣半人のようなノルンの姿である。

「ひひ、時間切れじゃ。続きは "外" に出てからたっぷりとしてやろうぞ?」
「おい! ――あ!」
「ずるい! ――なんと声が!」
「よいか? 調整したCFMMの使い方は、求めれば手のひらに現れるようにしておるでの。ま、大したことは出来んが……使い勝手は、……多少マシに」
「まっ、まってくれ! まだ――」
「――奥へと……進め」

 ノルンはそう言って、雷蔵の手の中で完全に元の黒い子猫の姿に変化してしまった。
 外に出る為の "鍵" の事や "封印の地" の構造の事、何よりリードの行方を聞きたかった雷蔵であったが、どうやらここまでらしい。
 抱え上げられにゃあと鳴く子猫に雷蔵はがくっと肩を落とし、状況を忘れ強く劣情を滾らせた先程までの自分に、強い自己嫌悪を覚える。
 それから、唯一『奥へ進め』と言い残した魔女の言葉を手がかりとして思い出し、気を取り直そうとしたその時。
 後からぽん、と肩を叩かれ子猫を抱えたまま振り返った勇者は、先程までの悪魔的な美とは
正反対の女神のような美を見て胸を再び高鳴らせた。
 無論、背後にいたのはイグナートである。
 『銀騎士』は魔女とは対極の、慈母のような優しい微笑みを浮かべながら一つ頷いて。

「御主君。その滾り、この私が、今・ここで・すべて、受けとめましょうぞ?」

 と口にし、はめたばかりの籠手を輝かせ親指を立てて見せる。
 誘惑は果たして――
 刹那の躊躇の後、雷蔵はゴン! と彼女の脳天に拳を落とし、理性が残っている内に神殿の奥へ足早に進み始めた。
 背に待って下さい! と細く鈴のような英傑の声が掛けられたが、雷蔵が振り返る事は無い。
 裏腹に勇者はこの時、必死にリードの事と神殿の事に思考を埋めながらも、もしイグナートを受け入れたら……という想像をどうしても駆逐できず。

「……俺、なにやってんだよ、くそ!」

 一人ごちて、雷蔵は更に早足で神殿の奥へと進むの。
 台詞は勇者にとって、誤魔化しであるのか、愚痴であるのか、嫌悪であるのかは定かでなく。
 恐らくは真実を知っているであろう抱かれたままであった子猫は、そんな勇者の鼓動を知ってか。

 まるで嗤うかのようにぐーぐーと喉を鳴らし、満足げに目を閉じるのである。






[25530] 07 なんだ、これ
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/02/16 00:11



 カノープスが作った神殿は、広く入り組んでいてまるで迷宮のようであった。

 光も外からは入って来ておらず不気味な闇が辺りに広がっていたが、魔法による物なのか一定間隔で松明が壁にかけられて、視界はそう悪くはない。
 ただどこから入り込んでいるのか、やけに蛇を多くいるようで、神殿の奥へと歩を進める雷蔵達の視界に度々入り込み、その度にぎょっとさせるのである。

「うひゃ! ……失礼」
「気にすんな。……今のはデカかったな」
「はい。一体どこから入り込んだのでしょう?」
「さあ? どっか繁殖場でもあるんじゃねえか?」
「ひぇ?! お、脅かさないで下さい」
「んだ? お前、蛇が苦手だっけ?」
「ええ、子供の頃、毒蛇をけしかけられたことがありまして。 ……それにしても、かなり広い建物ですね、御主君」
「……ああ。くそ、荷物をもってくりゃよかった。全部外に置きっぱなしじゃメシも食えやしないな」
「うう……最悪、火とその……食べられそうな蛇はその辺にいくらでも居ますから、もし、お望みとあらば私が」

 イグナートは主君の空腹を察知し、その忠誠をみせるべくシャンと音を立て愛剣 "ウラディスラフ" を抜いた。
 少し柄の長いその片手剣は、見事な装飾を施された刃を闇に晒し漆黒に映えて光る。
 いや、実際その刀身は確かに淡く光って『銀騎士』の鎧を映し出し、神秘的な光景を照らし出していた。
 光はイグナートが右手にはめている "剛力の籠手" によるものだ。
 身に付け握った武器の重さを感じさせぬ魔法と、使用者が身に付ける鎧のサイズをその体に合わせる魔法がかけられた魔具は、どうやら効果が発動させた品と共に光る性質があるらしい。
 よく見ればイグナートの鎧も淡く光っており、魔法の効果か以前とは違い胸の辺りがやけに膨らんだラインとなったフル・プレートの鎧へと変化していた。

「……いや、いいよ。どうしようも無くなってからで」
「は」

 とはいえ、やはり蛇を剣で仕留め調理するには抵抗があったらしい。
 雷蔵の辞退の言葉にイグナートはほっと胸をなで下ろし、軽快な風切り音を立てて二度剣を闇に振るい、剣閃も消えぬ間に "ウラディスラフ" を鞘に納めた。
 同時に光っていた剣はその輝きを失い、銀の鎧も闇にあっても殆どわからぬ程小さな輝きへと変化する。
 どうやら "剛力の籠手" は、武器を握った時にだけ効果を発動している武具を強く輝かせる性質があるようだ。
 ――くそ。
 益々 "絵" になってやがる。
 勇者はそうごちながら、不本意ながら『銀騎士』の愛剣を鞘に納める仕草に思わず見とれていた。
 ここへ来てからの "彼" は美しさこそあったものの、無様で無力な所が目立ち、知らずそこに優越感を得ていた雷蔵ではあったのだが。
 垣間見せたその剣筋は本来の "彼" の技量を内包し、ただならぬ使い手であろうことが伺えた。
 それが浅ましい事に、雷蔵にとっては頼もしくも面白くなく感じられるのだ。
 元々魔女に与えられた力以外、あらゆる面で『銀騎士』に劣る事を認めていたが故、この時勇者の心中に再び嫉妬が首をもたげていた。
 そしてその感情は直ぐに自己嫌悪と変わり、雷蔵を苛む。
 結果、そんな自分を忘れようとするかのように、気に入らない相手と会話を交わし気を紛らわせようとする雷蔵であった。

「どころでさ、イグナート。その籠手の調子はどうだ? ……鎧なんて、やけにその、形変わってるけど」
「は。流石は魔女殿、といった所です。この籠手のお陰で剣は以前よりも軽く感じますし、鎧だって苦しかった胸の所やブカブカだった腰や太ももの留め具がピッタリと密着するようになりました」
「そ、そっか。あ、そういやお前の鎧、魔法が元々かけられてたのか? チラとノルンが言ってたけど」
「ええ。エンチェント(魔力付与)された武具は非常に珍しいですが、大陸のあちこちにありますよ。時にはそれを巡って戦争になる事もあるようです」
「へぇ。俺も一式欲しいなあ。ここ出たらノルンに作って貰おうかな?」
「ははは、御主君には鎧など必要無いではないですか。なにせ、その曲刀を一振りするだけで万軍が灰燼に帰すのですぞ?」

 たしかに。
 イグナートの言葉に雷蔵はそういやそうだな、と返して一人納得をした。
 考えてみれば、 "傾国" と体に埋め込まれたCFMMも魔法の武器のような物だ。
 今更、何でも切り刻める剣だの、どんな攻撃をも弾く盾だのを用意してもらっても、雷蔵にとっては意味が無い。
 なにせ条件さえ満たせば如何なる物をも破壊し、決して死なぬ肉体を既に手に入れているのだから。
 もっとも、今の状態はそれとはほど遠い物であったが。

「それに、魔法の武具の多くは使用者を選びます。私の鎧の場合、一族の血脈を持っていなければ身に付けられない鎧でして。ちなみにかけられている魔法の効果は "無重" というもので、鎧の重さを着用者に感じさせない物です」
「うわ……それ、狡くないか?」
「そうですか? 魔法が掛かった武具を身に着ける事自体、騎士にとっては憧れであり名誉なのでその辺はなんとも……」
「その割にはノルンの奴、ぽんぽんと魔法の品を作ったり他人にあげたりしてるように見えるがなあ」
「とんでもない! 此処までの品は恐らく大陸を探しても皆無でしょう。あまり見る機会のない魔法の武具でさえ、精々錆びないとかちょっと光るとか、切れ味が落ちにくいとかそういった物ですし」
「じゃあお前の鎧はどうなんだよ?」
「これは本当に特別中の特別なのです。何しろ、古の聖王の御代からの品ですので」
「ふぅん……」

 なるほど。
 中身も特別中の特別なら、着ている物も特別中の特別ってか。
 雷蔵は心中で毒づき、『銀騎士』に悟られないよう少しむくれる。
 第三者から見れば雷蔵も十分「特別」なのだが、彼の場合は過剰なまでに自身を過小評価するきらいがあり、相対的に他者を過大評価する所があった。
 その性癖は本人も自覚する所でもあるのだが、この場合、心のどこかでは一人ノルンに魔法の品を与えられた事が気に入らないと感じていた事も相まって。
 早い話が、華美な装備を持っているイグナートがただ、羨ましかっただけなのである。
 光る魔法の籠手に光る剣。
 淡く銀に光る重さを感じさせない魔法の鎧に、それらを身に付ける銀髪の美男子。(今は美女だが)
 雷蔵でなくとも、羨ましく思う事は無理からぬ話である。
 が、そんな勇者であったが彼の長所も又この時遺憾なく発揮された。
 長所とは己の分を再認識し、過剰に求めず、程々に "諦める" 事ができる、というものである。
 雷蔵はイグナートに気付かれぬよう深呼吸をおこなって気を取り直し、己の手のひらを見つめた。
  "調整したCFMMの使い方は、求めれば手のひらに現れるようにしておる" という、魔女の言葉を思い出しての事だ。
 求めるとは一体どういう事だろう? と考えつつも、雷蔵は左の手のひらをじっと見つめ、とりあえずは "知りたい" と強く念じてみる事にした。
 すると、手のひらに黒いゴシック体の文字列が浮かび上がり、まるでコンピューターの画面のように幾つかの項目が現れたではないか。
 文字は雷蔵以外の者に見られぬよう配慮されているのか、久しぶりに見る日本語だ。

「うぉ?!」
「? いかがなさいました御主君?」
「う? あ、いや。何でもない。……なあ、イグナート。ちょっと、そこで休憩しないか?」
「御意」
「……まて。休憩だ。きゅう、けい。何故鎧の留め金を外す? それ軽いんだろ?」
「勿論、ここの所健気にも一人夜を明かしておられる御主君をお慰」

 台詞は最後まで聞く必要はないと直ぐにわかった。
 雷蔵は剣技に長けた英傑でさえ避けられぬ速さでその頭をゲシ! と殴りつけ、スタスタと一人で壁に掛けられていた松明の下に移動して、ドスと腰を下ろす。
 それから、頭を押さえ遅れて隣にやって来るイグナートに抱いていたノルンを手渡し、次は兜でも出して貰うんだな、と毒づき呆れながら雷蔵は『銀騎士』を見上げた。

「大体お前、いい加減しつこいぞ? 俺がその気がねぇのは知ってるだろ」
「うう、それはそうなのですが……」
「ことある事にそう迫られちゃ、たまったもんじゃねえって。いいか? 俺は男色の気は、な、い、の!」
「では……私がこのまま女の身である事を選ぶならば如何ですか?」

 不意打ち、とはこの事であろう。
 突然に真剣な声で目を潤ませながら細くそう言われた雷蔵は、不覚にも胸を大きく高鳴らせ――
 返す言葉も見つからぬ内にプィっと視線を顔ごと逸らして、改めて左の手のひらを注視するのであった。
 目の奥に未だ残るその切なげな顔は、今まで見た事無いくらいに綺麗な表情であり、得体の知れぬ罪悪感が舌の奥に苦く広がる。
 もし、イグナートが女のままであったなら?
 混乱しつつも先程の台詞を反芻し、雷蔵は思考を止めた。
 何となくその先を認めてしまえば、今までの自分を失ってしまうような気がしたからだ。
 一方、イグナートもそんな雷蔵の様子に何を想うのか深追いはせず、主からほんの少し離れた場所に腰を下ろす。
 雷蔵は "彼女" の気配を今まで以上に意識しながらも、思考をそちらに向けぬよう、当初の目的通り手のひらに意識を集中させた。
 やがて現れた文字を見るに、どうやら手のひらには魔女からの伝達事項が表示されているらしい。
 その内容は項目毎に整理され、意識をより詳しく知りたい項目に向けると詳細が現れる仕組みのようであった。
 項目は3つ表示されており、それぞれに「使用可技能」、「精神浸食率」、「魔女ッ子ノルンちゃんのドキドキ☆メモ」と、書かれている。
 何やら物騒な二番目の項目と、タイトルだけで頭が痛くなってくる三番目の項目を無視し、雷蔵はとりあえず最初の項目に意識を向けてみることにした。
 しかし。
 丁度その時、思わぬ邪魔が入る事となる。

「あああああああああ!!」

 突如、神殿の奥から凄まじい絶叫が聞こえて、反射的に雷蔵とイグナートはそれぞれの剣の柄に手を掛けながら跳ね起きた。
 叫びは狂った獣のような、女の金切り声のようなもので、それ以後は聞こえては来ず緊張だけが闇を支配しつつある。

「御主君……今のは……」
「わからねぇ。――イグナート、ノルンを頼む」
「は」

 雷蔵の指示に『銀騎士』は思わず放り投げてしまっていた子猫を拾いあげ小脇に抱えながら、剣と鎧を淡く輝かせ "ウラディスラフ" を声が聞こえた闇の奥へと構えて見せた。
 その切っ先の更に先にある闇は、松明のかがり火が奥まで続いているにもかかわらず濃く、不気味に広がっており――
 不意に神殿の奥まで続いていたかがり火の列が、その奥から順に消えるのが見えた。
 同時にぞぞぞと最奥から闇が蠢き、もう一度先程の恐ろしい絶叫が響き渡る。

「何か来る!」

 耳をつんざくような絶叫の中、叫んだのは勇者の声。
 同時に小さく地響きが起こり、間を置かず地響きは二人に近寄るようにして徐々に大きくなっていく。
 蠢く闇は真っ直ぐにはこちらへと近寄らず、広い通路一杯に往復を繰り返しながら徐々に雷蔵達の方へと近寄ってきて、同時に通った後のかがり火を一つ残らず消しているようだ。
 ――大きい。
 距離は数十メートル程になったか、それでも雷蔵の背丈よりも大きなモノだと見て取れる。
 蠢くソレから奥は闇であったものの、手前にはまだ幾つか松明が残っており、照らすかがり火によってその姿はハッキリしないが大体の大きさは見てとれる明るさだ。
 どういうつもりなのかはわからなかったが、ソレはなぜかこちらへは直進してこず……
 程なく、その正体もハッキリとした。

「なっ……」
「ああああああ!」
「いやああああああああああ!」
「うううう、いいいいいいいいいいいいい!」

 幾重にも重なる絶叫の中、一瞬声を漏らしたのはイグナートであった。
 別に『銀騎士』だけが嫌悪と恐怖に嗚咽を漏らしかけたのではない。
 間近に迫り獲物に襲いかからんと鎌首をもたげたソレをみて、雷蔵の方が声を上げる事すらままならなかったのだ。
 ソレは、闇に蠢く異形の存在。
 巨大な体躯は蛇のように長く神殿の柱よりも太い。
 ぬめる黒い鱗がびっしりと生えた身体から続く頭は、人おろか牛さえ一飲みに出来るほど大きく、しかし何より雷蔵達の目を引いたのは。

「ぎゃあああああああああ!」
「ああああああああ!」
「ひいいいいいいいいいい!」

 鎌首をもたげているが為に見える、鱗の生えた背とは対照的に白い腹に所狭しと浮かぶ無数の女の顔である。
 その顔のどれもは生きているかのように苦悶の表情を浮かべ、皆口々に呪詛のような叫びを上げていたのだ。
 雷蔵はそのあまりにおぞましい外見に我を忘れ、恐怖よりも嫌悪よりも先に、ただただ戦慄して声を出す事すら出来なかった。
 その刹那に脳裏によぎっていたのは、何処までもドス黒く渦巻く悪い予感とリードの笑顔。
 やがて絞り出した声は、およそ彼の感情を乗せられた物とはほど遠いものであり――

「――なんだ、これ」
「御主君!」

 絶望と死を体現したかのような異形を前に、雷蔵は悪夢を見るように呻き、『銀騎士』が呼び起こさんとするように叫んだ。
 否、先に我を取り戻したのがイグナートであったと言うべきか。
  "傾国" の切っ先を異形に向けるのも忘れ、初めて見る恐ろしい魔物を前にして呆けてしまっていた勇者に、イグナートは叫ぶと同時に体当たりをした。
 同時にバギン! と鎧から火花を散らし、闇の奥へと吹き飛んでゆく。
 いつそのような動作をおこなっていたのか、大蛇のような魔物が振るった尾を身代わりに受けた為だ。

「イグナート!」

 そこでやっと我を取り戻した勇者の呼びかけに、闇の向こうに吹き飛んだ『銀騎士』は応じることはない。
 そんな余裕がないのか、気を失っているのか、それとも……

「くそ! ……ちくしょう!」

 毒づき、雷蔵はやっと "傾国" を構え直した。
 対して異形の体に浮かぶ女の顔達が、威嚇するかのように先程よりもさらに悲痛な叫びを上げ始める。
 叫びはそのどれもが苦痛と憎しみと絶望に彩られ、雷蔵の心をえぐった。
 が、それでも人外の異形に剣を向け続けられたのは、女達の顔が全て同じ物であり、リードのそれとは似ても似つかぬ顔であったからか。
 果たして、戦慄から抜けだし恐怖と重圧の中、雷蔵は剣を振るえるのか。
 勇者にかつての力は無い。
 人に向ける剣技はあれど、異形に抗う術も持ち合わせてはいない。
 頼れる騎士も無く、庇護者たる魔女もいない。
 ただ在る物は、その身と宿る大切な物が欠けた脆弱な精神だけ。
 グラズヘイムに喚び出されてより2年。

 初めて対峙する魔物であった。






[25530] 08 みろよ、このザマを
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/02/26 15:25



 荒い息使いは確かに自分の物であった。

 闇の中、対峙するのは異形の怪物。
 つんざくような悲鳴は、その姿からは想像も付かぬ程悲痛に勇者の耳に届く。
 自覚できたのは、荒い息使いと恐怖に塗りつぶされた心、震える剣の切っ先。
 自覚できなかったのは、己の力とそれでもその場に留まり続ける理由、そして勇気。
 ――正直に言えば、直ぐにでも逃げ出したかった。
 力を得て勇者様ともてはやされ全てを手に入れて。
 今も失いかけているソレを取り戻さんとする自分を投げ出し、逃げ出してしまいたかった。
 それでも雷蔵をその場に踏みとどまらせていた物は――

「こ、の!」

 ギィン、と金属音がして火花が一瞬闇を照らす。
 人外に放たれた人に振るう為の剣閃は、しかし魔物には毛程も傷をつけてはいない。
 今のは踏み込みが悪かったか?!
 いや、違う。
  "斬る" 事に意識が行きすぎて、力を込めるべきが込められて無かったか?!
 雷蔵は結果に混乱しながらも、斬りつけた時と同じように素早く異形から距離を開けた。
 が、それも人との戦闘に特化した動きであり、悲痛な女の叫びを上げながらも繰り出されていた尾の一撃を躱すには至らない。

「がっ!」

 呻きは胸の辺りの骨が砕ける音で掻き消えた。
 雷蔵は骨が砕ける嫌な音の後にやがて来る激痛を感じる間も無く、かがり火が焚かれている石壁に激突してから地に落ちて、呼吸を失う。
 薄明かりの下、石畳みの床に自身の影を濃く地に落としながら、必死に空気を胸に入れようとし、口を開けるも泡の浮かんだ鮮血が垂れてきて初めて、痛みが澱む思考に届いた。

「――は、――か」

 声は出ない。
 体も一切動かせない。
 恐怖ではなく、純粋に痛みの所為だ。
 思考を埋めていたのはネガティブな考え。
 このままではまずい、あの化け物は今どこだ? どうやって逃げる? このケガじゃ……だめだ、立てない!
 矢次に浮かぶのは断片的な思考。
 しかしまとまらぬ思考は突如、可能になった呼吸によって一点に収束する事となる。
 恐らくは体内のCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)が生命維持に向け作動した為であろう。
 同時に雷蔵は、巨大なナニカが僅かにズルリと音を立てながら迫る気配を察し、未だ残る痛みに顔を歪めながらも慌ててその場から飛び退いた。
 数瞬後、背後で岩と岩が擦れ砕けるような音がして地が揺れる。
 たたらを踏みつつも振り返ると、そこには壁に埋もれたあの異形の胴体が見えた。
 雷蔵はその破壊力に息を荒げ戦慄し、歯の根を鳴らしながら気が付くとそのまま魔物がやって来た方、神殿の奥へと走り始めていた。
 この時の雷蔵は恐怖という名の生存本能に支配され、怪物に吹き飛ばされたイグナートを気遣う余裕も、リードの行方に思いを巡らせる事も出来なかったのだ。
 ただ、恐慌を来していても "傾国" を投げ出さなかった所は、彼なりの最後の抵抗なのかも知れない。
 ――無理だ!
 例えCFMMがあったとして、例え常人離れした回復力があったとして、あんなのに、あんな怪物にどうやって!
 勇者の力も、ノルンの助けもなくどうやれば――いや、無理なんだ!
 明かりが消されている闇の中、雷蔵はそう自分に言い聞かせ全速で奥へ奥へと走り続ける。
 その背後からはぞぞぞと闇が蠢く気配がして、一層恐怖を駆り立てていた。
 く……くるな! くるなくるなくるな!!
 必死に念じる雷蔵であったが、しかし。
 背後の気配は徐々に大きくなって行き、あの女の悲鳴も又、途切れ途切れに響いて迫る。
 ――それはまるで、悪夢のようであった。
 既に雷蔵は原始的な恐怖に支配され、そこに恥も外聞も、僅かに育ちかけた矜持もない。
 あるのは幼子のように、暗闇に恐怖する感情のみ。
 不意に。
 前方にぼんやりとした明かりが見えて、知らず雷蔵はそこを目指して走っていた。
 体はCFMMによって既に全快し、逃走の為の疾走に無尽蔵の体力を供給している。
 その為か雷蔵が思うほど怪物はその距離を縮めてはいないようだ。
 明かりは徐々に大きく広範囲になっていき、やがてそれは長い通路の終着点であると分かった。
 通路の終着点には大きな壁がそびえ、ぽっかりと人間一人が通れるほどのアーチ状の穴が開き、上方へ登る階段が奥へ伸びているのが見える。
 雷蔵は走る速度を緩めぬまま、その奥へと飛び込んで一気に駆け上がり、やがて神殿の要所であるらしい巨大なホールのような場所に出たのであった。

「はっ、はっ、こ、ここは――」

 息を荒げさせながらも呟いて、辺りを見渡す。
 背後に迫っていたあのおぞましい気配は既に無い。
 ホールらしき部屋は、巨大な礼拝堂のような作りで馬上試合(トーナメント)でも出来そうな程広く、壁には通路と同じようにかがり火が掲げられ柱が規則正しく天井へと伸びていた。
 駆け上がってきた階段とは反対側、ホールの奥には数段床が上げられた祭壇のような場所が見え、どうやらそこがこの部屋の中心であるらしい。
 雷蔵が礼拝堂のような作りと判断したのは、その為である。
 部屋は通路とは違い、どこか清涼な雰囲気に満ちて幾ばくか雷蔵の心を落ち着け、歩を祭壇らしき場所へと進めさせた。
 いや、引き寄せられるように、と言った方がいいのかもしれない。
 徐々に落ち着きを取り戻して見る祭壇は、大きな半人半蛇の像が壁にあって、その足下には棺のような物が安置されているようだ。
 棺のようなソレはよく見ると淡く緑に発光しており、それが妖しく巨大な半人半蛇の像を照らし出している。
 その様はどう見ても不気味であったが、雷蔵は近付くごとに先程の恐怖を忘れ、かわりに得体の知れない予感を膨らませていった。
 徐々に高まる予感は高揚と変わり、雷蔵はある事に気がつく。
 棺らしき物は蓋がされておらず、淡い光はその中から漏れ出していたのだ。
 そして、その光がなんなのか、雷蔵は "理解していた" 。
 何時、何処でその光を見たのか。
 勿論雷蔵にそんな記憶は無い。
 しかしなぜかは分からないまま、雷蔵は理解していたのである。

「――鍵となり、この――を解放せん。げる贄は――力もまた――」

 気が付けば棺のような物にかかれていた文字を読み取り、口を突いていた。
 それはグラズヘイムの文字ではなく、勿論日本語でもなく。
 文字の意味すら理解出来ぬままそれを読みあげた雷蔵は、いよいよ棺の中をのぞき込もうとしてやっと、我に返り後を振り返る。
 そこにはあの怪物の気配は無い。
 つまり――

「しまった! イグナート!」

 雷蔵は思わず叫びながら慌てて踵を返して、元来た道を引き返し始めた。
 恐怖に我を忘れ気が付くとここまで逃げ走っていたが、ここに至ってやっと忠実な部下の事を思い出したのである。
 確かに、あの階段を上る所までは怪物は自分を追いかけてきていた。
 しかし今はその気配すら感じられない。
 恐らくはその体躯が邪魔をして階段を上ってこれないのであろうが、あの魔物にしてみれば獲物は自分だけではない。
 助けねば!
 自分一人逃げ出してしまい、自己嫌悪に陥る前にまず、その想いが湧いて出た。
 しかし。
 あの怪物の一撃を受け、もしかしたらイグナートの命は既に無いのかも知れない。
 それにもう一度、あの恐怖を味わう事になる事は避けたい。
 そんな考えもまた吹き出して、雷蔵の足を重くする。
 が、それでも雷蔵は歯を食いしばり、足早に元来た道を戻らんと疾駆する。
 その足を進めるのは、激しい後悔と自己嫌悪で恐怖を塗りつぶしたが為。
 雷蔵は先程までの予感を忘れ、広い礼拝堂のようなホールを来た時のように走り抜けようとした。
 そして、再び階段の降り口の手前まで来た時だ。
 轟音と共に何かが先程雷蔵が上がってきた階段から吹き出して、衝撃に思わず目を瞑ってしまう。
 吹き出したソレは先程の怪物と淡く白く光る存在で、狭い階段の壁を破壊しながら飛び出してきた所であった。
 怪物はあのおぞましい悲鳴を上げていたので直ぐに分かったが、それよりも白く光る淡い光は雷蔵にとって見覚えのあるもので、一瞬暗澹とした心を照らし出す。

「イグナート!」
「御主君! ご無事で!」

 イグナートは横目に雷蔵を確認し、嬉しそうな声を上げはしたが直ぐに怪物へと視線を戻す。
 どうやら彼もまた無事であったらしい。
 恐らくは戻って来た怪物に追われるようにして、ここへと走ってきたのであろう。
 一方、怪物は祭壇の前に立ちはだかるように体をうねらせ、腹に浮かぶ女達にあの悲痛な悲鳴を上げさせながら雷蔵と『銀騎士』の前に立つ。
 その姿は変わらず恐怖をかき立てて、詫びの言葉を勇者に言わせぬまま、その足を躊躇わせていた時。
 場に居た者で最初に動いたのはイグナートであった。
 英傑は愛剣を淡く光らせ、真っ直ぐに異形へと突進していく。
 その後ろ姿は迷いなど微塵も感じられず、確固たる意志と闘志に溢れ、そしてやはりどこか見惚れてしまうほどの美が滲んでいた。
 異形はその尾を横薙ぎに振るうも、『銀騎士』はとてもフルプレートを身に付けているとは思えない軽やかさで迫る尾を器用にいなし、軽業のようにひらりと宙に体を受け流しつつその懐に入り込んだ。
 そして躊躇無く、女の顔の一つに向けて愛剣 "ウラディスラフ" を思い切り突き立てる。

「ぎゃああああああああああ!!」

 響くはやはり異形でなく女の絶叫。
 それでも本体である怪物にも深くダメージがあるのか、苦悶するように巨体が悶え始め、まるで糸がよれていくように魔物は激しくのたうった。
 しかし、この時イグナートの一撃は裏目に出てしまう。

「わ、ぐ!」
「イグナート!」

 剣を突き立てた女の面の部分が思いの外柔らかかったのか、予想以上に剣が深くめり込んでしまい、『銀騎士』はのたうつ魔物の動きに巻き込まれ剣を支点に遠心力が働いてはじき飛ばされてしまったのだ。
 イグナートは一度高く宙に弾かれて、全身を床に打ち付けるようにして地に落ちた。
 雷蔵はその様子をただ眺め、やはり恐怖にすくむ足に情けなく歯を噛む。
 そして再び自己嫌悪と恐怖に体を支配されてしまいそうになった時だ。

「ご、しゅ、君……お逃げ、を」

 確かにその声を聞いた。
 息も絶え絶えとなった、忠実な部下の声を。
 一度ならず二度までも自分の前に立ち、自分を守る為に戦った騎士の声を。
 魔具によって強化されているとはいえ、自分よりずっと非力な女の声を。
 雷蔵はその言葉をどう聞いたのか。
 視線の先では蛇のような怪物が激痛に怒り狂い、憎い相手にトドメを刺すべく体勢を立て直しのそりと鎌首をもたげようとしている。
 勇者はその様子を睨みつけ息も荒く、瞳に恐怖と強い意志、そして決意を宿して。

「う、わああああ!」

 少々情けない声をあげながらも、もう一度 "傾国" を正面に構えながらイグナートの方を向く異形へと突進を始めたのである。
 怪物は雷蔵を脅威と見なしてないのか、チラと一別して直ぐにイグナートの方へ注意を戻し、これで十分だと言わんばかりにその尾を横に薙いだ。
 尾は雷蔵の背丈よりも幅があり、重量故にそれだけで必死の凶器となりうる。
 雷蔵は一瞬躊躇を覚えつつも、先程イグナートがしたように迫る尾に向かって跳び、それを足場にして柔らかく更に上方へと飛んだ。
 結果、鉄槌のような尾の一撃を躱す事に成功して、先程のイグナートと同じように上手く懐に潜り込む事ができた。
 やった!
 このまま――弱点は分かっている!
 狙うのは女の、顔!

「はっ! バカにしてんのか?! だからさっきと同じ目に――」

 己を鼓舞する為か、自信を取り戻したのか。
 勇者はあえて台詞を口に出し、愛刀を女の顔に突き立てるべく振りかざして――
 しかし、ピタリと動きを止めて、切っ先は決して怪物の腹に突き立てられる事は無かった。
 勿論、雷蔵が絶好の好機に臆したわけでも、異形の怪物の腹に浮かぶ女の顔に刃を突き立てる事に躊躇した訳でもない。
 なぜならば――

「マ――レビト――サン――」
「タス――ケテ――」
「――オネガイ」
「り、いど?」

 突き立てようとした瞬間、女の、女達の顔が一斉にぐにゃりと歪んで悲鳴でなく、口々に聞き覚えのある声を発したのだ。
 その声達は紛れもなくここ数日幾度も聞いた声で、その顔達は間違いなく――
 轟という音。
 そして、全身を引き裂くかのような衝撃。
 気が付くと雷蔵の視界は上下もわからぬ程激しく動いて、先程よりも更に激しい激痛に襲われていた。
 視界は幾重にもぶれ続け、血による物か赤く染まっている。
 直ぐ近くにはなにかが緑に淡く光っているように見えて、雷蔵はあの怪物の尾により祭壇まで吹き飛ばされてしまったのだと理解した。
 いや、それよりも――あの顔は、あの顔達は。
 間違いなくすべて、リードの顔だった。
 いや、そんなバカな! ……でも、もしかして、あの怪物は……
 混乱の極みにあった思考は、思いの外冷静で、しかし想像したくもない現実を幾度も反芻して行く。
 それからすぐに、やっとの思いで絞り出していた闘志は、計り知れない絶望と自己嫌悪によってすっかり塗りつぶされている事に気が付いた。
 視界の先ではあの異形が『銀騎士』にトドメを刺すべく、ゆっくりと彼女が吹き飛んだ所を目指し移動を始めている。
 また、体は萎えた意志とは関係無く言う事を聞かず、先程よりもダメージが深刻である事を物語っていた。
 雷蔵は。
 いまだぐるぐると回る視界の先にイグナートとリードの整った顔を思い浮かべながら、激しい痛みによる苦悶でなく、自己嫌悪の苦悶を上げて。

「――にが、勇者だよ」

 なんとか絞り出した呟きは、自分への言葉。
 砕けた骨が内臓を痛めているらしく、口の端からは血泡が吹き出る。

「なにが……勇者、の……再臨だよ、ちくしょう。みろよ、このザマを」

 CFMMが働いているのか、痛み自体は急速に引いて行く感覚はある。
 しかし全身の骨が派手に砕けているようで、それでも体はピクリとも動かす事が出来ずに居た。
 恐らくは回復する頃にはイグナートの命はないだろう。
 いや。
 もし回復が間に合っても、果たして雷蔵にあの怪物を止める事ができるのだろうか。
 リードの貌を浮かべた、あの異形に剣を突き立てる事が。

「くそ、くそ。なんで、俺……こんな……」

 血まみれの頬に伝うのは涙。
 情けなかった。
 自分が、心の底から醜く感じられた。
 つい先日まで浮かれ、女の尻を撫でて喜ぶ己を心の底から軽蔑した。
 力無き自分自身が心の底から憎らしかった。
 力さえあれば。
 自分はどうなってもいい。
 力さえあれば。

「はやく "鍵" を使わないと、間に合わないよ?」

 不意に頭上からする、若い女の声。
 しかし雷蔵は未だ首を動かす事も出来ない。
 声はノルンでも、イグナートでも、リードのそれでもなく、初めて聞く声であった。

「か、ぎ?」
「そう、鍵。あなた、使えるんでしょう?」
「わ、から、ない」
「さっき起動コードを口にしてたじゃない」

 わけがわからない。
 意味も理解出来なければ、声の主が誰なのか、起動コードとはなんなのかもわからない。
 しかし、雷蔵はイグナートの方へにじり寄る異形を視界に収めたまま、 "それ" を口にした。
 先程初めてあの光を見て "理解していた" ように、それが正しいのだと "理解して" 。

「 "我は鍵を使い……この呪われた地より力を解放せん。望む、故に応えよ。捧げる贄は……この躰。応える力も、また鍵より……与えられる" 」
「 "我は鍵となりこの呪われた地より汝を解放せん。望むならば応えよ。捧げる贄はこの躰。応える力もまた鍵より与えられる" 」

 呪文のような言葉は対となり、雷蔵の後に女の声が続く。
 そして次の瞬間。

「ああああああああああああああ!」

 神殿中に轟くような獣の叫び声があがり、異形は音もなくその胴を両断され、先程よりも更に激しくのたうち回った。
 リードの顔と巨大な蛇の頭がある上半身だけでなく、尾だけとなった下半身もまた鈍い音をたてながら血をあたりにまき散らし、意志ある生物のように激しく暴れる。
 その絶叫は意識を失っていたイグナートを呼び起こすに十分で、痛みに耐えつつも騎士は顔を上げた。
 霞む眼前には敬愛する主君が美しい曲刀を片手に背を向け立っており、その向こうには二つに分かれ苦しむように暴れる魔物の姿。
 同時に、その内の一つが暴れた拍子に大きくバウンドして、自分達の頭上に落ちてくるのが見えた。
 ――危ない!
 そう叫ぼうとした刹那だ。
 幾重にも剣閃が走り、文字通り血の雨がイグナートと背を向ける雷蔵に降り注ぐ。
 遅れて、細切れとなった肉片が辺り一帯にボトトと音を立て落ちた。
 その業はあらゆる戦場を渡り、勇者の力すら見てきた『銀騎士』でさえ見た事は無く。
 纏う雰囲気も全くの別人で、イグナートはしばし痛みを忘れ声を掛ける事が憚られた。
 しかし、そこに立ち続けていたのは紛れもなく、彼女が敬愛する勇者である。

 ただ一つ、その剣を握る右手には見た事の無い、細身の籠手がはめられていたのだった。





[25530] 09 許せないから/【二つの門編・了】
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/02/26 15:25



 荒い息使いは嘘のように消え去り、代わりにあったのは荒れ狂う心だった。

 薄闇の中、対峙するのはあの異形の怪物。
 つんざくような悲鳴は、その姿に相応しく悲痛に勇者の耳に届く。
 自覚できたのは、嵐のように猛る破壊衝動と高揚する感覚。
 自覚できなかったのは、満たされていく嗜虐心とゴリゴリと削られていく己の大切な部分。
 ――衝動は未だ大きく膨らんで、雷蔵の心を蝕む。
 その衝動に呼応しているのか、右手に出現した黒い籠手はパキパキと音を立て、鉱物の結晶が急速に成長するようにして、所々を突起させながら徐々に分厚く大きくなってゆく。
 籠手は甲殻類を思わせるような、幾つもの装甲を重ね合わせたような作りでその継ぎ目からは赤く、禍々しい光が漏れだしていた。

『ダメ。流されすぎると、制御できなくなる』

 台詞は耳からでなく直接頭の中に響く。
 雷蔵に奇妙な力を与えた言葉の、恐らくは対となる言葉を発していたあの女の声だ。
 気のせいか先程よりも若干声は高く少女の物であると思えたが、やはり聞き覚えのないものである。
 言葉の意味を理解してか、視界に胴を両断されのたうつあの異形を納めながらも、勇者は僅かに表情を取り戻し――
 次の瞬間にはイグナートの目の前から矢のように怪物の元まで駆け出していた。

「あおおおおおおおおおおおおおお!!」

 絶叫は更に大きく、意識を取り戻したばかりのイグナートの耳にビリビリと響く。
 瀕死であった異形の頭に雷蔵が手にしていた日本刀を突き立てたからだ。
  "傾国" は硬い鱗など無いかのように根元まで差し込まれ、噴水のように血が噴き出し、見る間に雷蔵を朱に染めていった。
 不意に。
 トドメの一撃を受け、激しく暴れていた怪物はピタリと動きを止める
 更には腹に浮かんでいたリードの貌達が上げていた悲鳴も停止させ、次の瞬間。
 既に出来ていた血の海にどちゃりと音を立て、異形の怪物は遂に倒れたのであった。
 雷蔵は何時剣を引き抜いたのか、怪物が倒れると同時に地に降り立って、息を切らせるでもなくその場に立つ。
 その全身は血の赤に染まり、まるで――そう、まるで異形から新たに生まれた怪物と錯覚してしまう佇まいだ。

「ご、主……君?」

 『銀騎士』はうつ伏せに倒れたまま上体をなんとか持ち上げ、勝敗が決したというのにいつまでもそのまま立ち続ける雷蔵へ、声をかけようとした。
 が、うまく声が出ない。
 怪物に宙高くはじき飛ばされ、落下した衝撃によるダメージが未だ残っているのか、それとも異様な空気を漂わせる主君に恐怖を感じてのものか。
 どちらにせよ、見たことも無い雷蔵の雰囲気にイグナートは戸惑い口をつぐんでしまう。
 しかしこのまま倒れているわけにもいかぬと判断したイグナートは、とりあえず立ち上がるべく下半身に力を込めた。

「無理をしちゃダメ。貴女、体中の骨のあちこちが折れかけてる」

 何時からそこに居たのか。
 うつ伏せに這いつくばるイグナートの頭上から、聞き覚えのない少女の声がした。
 驚いて痛む体のまま振り向くと、そこには場に似つかわしくない、白いワンピースを来た少女が無表情で立っている。
 年の頃が10代の中程位か、明るいグリーンの髪は視界の端で光る祭壇と同じ色。
 瞳も同くエメラルドのようなグリーンで、白い肌がそれらの色を一層際立たせていた。
 何より、整った顔立ちは将来かなりの美人となるであろうと予感させるに十分で、だからこそかほわっとした "場違いな雰囲気" がイグナートの警戒心を刺激する。

「……大丈夫、私は味方」
「き、み……は?」
「喋らないで。今 "治して" あげる」

 少女はそう言って跪き、イグナートの背に手を当てた。
 同時に潮が引くようにして、全身の痛みが消えていく。
 ――これは……
 漏れ出そうになった驚きの言葉は、突如あのおぞましい悲鳴によって打ち消されてしまう事となる。
 大音量の叫びは雷蔵の一刺しによって絶命したはずの怪物から発せられている。
 一瞬、緊張がイグナートの体を強ばらせるも、その音量に反して怪物は倒れたままの状態からやはりピクリとも動く気配は無い。
 その声は相変わらず女の悲鳴に似て、イグナートの不安を駆り立て知らず剣を握り直しながら立ち上がらせた。
 が、流石に完全には回復しきれていないようで、その足取りはおぼつかない。
 『銀騎士』は愛剣をもう一度、絶命したはずの怪物へ向けながら何が起きているのかを冷静に確認をしようとした。
 短時間の内に不可解な事が立て続けに起きているにもかかわらず、躊躇無く優先順位の高い方へ意識を集中する事ができるあたりが、雷蔵とは決定的に違う所であろう。
 しかし、この時ばかりは雷蔵もまったく取り乱さず、それどころか怪物の異変が当然といった調子で、先程と同じ姿勢のままイグナートに背を向けじっと怪物を見据えていた。

「ダメよ、邪魔しちゃ。下手に手出しをすると、巻き込まれるわ」

 怪物の絶叫の中、背後から再びかけられた声は先程よりもさらに甲高いものとなっていた。
 イグナートはぎょっとして振り返ると、そこにいるはずの少女は既におらず、代わりに先程の少女と同じワンピースを着た小さな女の子が立っている。
 女の子は先程の少女と同じ様に無表情で、色の濃いエメラルドグリーンの髪と瞳、そして白い肌も同じだ。
 ただ、決定的に違っていたのは先程の少女よりも更に若く、どう見ても十歳にも見たぬ年齢である。
 先程の少女の妹であろうか?
 湧いた疑問に最も無難であろう仮の答えを提示したものの、イグナートは本能的に違うと察して出しかけた質問を変える事にした。

「君は――いや、君は "どうしてそんな姿" に?」
「集めた魔素を使ったから "しぼんだ" だけ」
「そう……なのだろうね、君がそう言うなら。不躾ながら君は魔導士か何か、ですか?」
「違うわ。それよりも、そこ、動かないでね? 危ないから」

 女の子はそう言いながら歩き始め、イグナートの脇を通り過ぎ、やがて未だ無言で立ち続ける雷蔵の隣まで進んだ所で立ち止まる。
 雷蔵と小さくなった女の子が見るのは、狂ったように悲鳴を上げ続けている怪物の遺骸だ。
 いや、遺骸と見るのはまだ早いであろう。
  "傾国" によって脳天を貫かれ、絶命したかと思えた異形の上半身は未だピクリとも動かない。
 しかし、そんな生きている風には見えない状態でありながら、叫びはずっと続いていたのだ。

「……ごめんなさい。もう、これ以上は無理」
「お前は?」
「だけど、もうここから先は力を必要とする事はないから心配する必要は無いと思う」

 緊張が高まる中、少女と勇者の間で交わされた会話は、成り立ってはいない。
 何が無理なのか。
 力を必要とする事はもうないとはどういう事なのか。
 雷蔵らしからぬ低く殺気立った質問に答える事はなく、女の子は当たり前のように "先程よりも更に幼い声" で言葉を続ける。
 少し、悲しそうに。

「躊躇、しちゃだめだからね」

 言い残し、既に幼児に近い年齢まで若返ったかのように見える女の子は、いきなりその場で崩れ落ちた。
 どうやら何らかの理由で意識を失ってしまったらしい。
 同時に雷蔵の籠手から漏れ出ていた赤い光が消失し、パラパラと肌に着いた泥の塊が乾いて剥がれ落ちるように崩れ落ちはじめる。
 しかし全て崩れ落ちたわけではなく、右手の甲から先の部分はそのままだ。
 雷蔵は "傾国" を握るその手を眺めながら、徐々に疑問や驚愕、そして混乱を取り戻していく。
 かわりに彼を支配していた強い殺意はなりを潜め、雷蔵はそこで初めて傍らで倒れ伏す奇妙な少女があの、祭壇で聞いた声の主であると気が付いた。
 その時である。
 突如、異形の悲鳴が止まった。
 固着してしまったように見える右手の手首から先の籠手を気にしながら、すっかり小さくなった少女を助け起こそうとしていた雷蔵は、突然の静寂に再び怪物を注視する。
 びしゃ。
 瞬間、水がまき散らせるような音を立て、動かぬ怪物の蛇のような頭が夥しい血を吐いた。
 否、血だけではない。
 真っ赤に染まった内蔵のような肉塊一緒に吐き出していた。
 肉塊はどこか見覚えのある形を成して、その一部は生きて居るのか蠢いている。
 いや。
 蠢いているのはその一部ではなく、肉塊と一緒に吐き出されたナニカであった。
 ソレはやがて血溜まりの中、肉塊の中からズルリと這い出しゆっくりと雷蔵の方へ向かって来ていた。
 その、形は人型。
 朱に染まってはいたが女であるとわかる。
 敵意や威圧感は感じられなかったが、かわりにある予感が勇者を襲った。
 それは恐怖ではなかったが、胸の中心を鎖で締め付けられるような不快感が確信に変わることを何より雷蔵に怖れさせた。

「……イ」

 ずるり。
 ソレは腕を這わせ、ゴポと音をたてながら言葉を血と一緒に吐いた。
 声は雷蔵の耳に何とか届く程度に小さかったが、先程の大音響よりも強く深く残る。

「……オネガ……イ」

 胸の中心が誰かに握りつぶされるような感覚。
 荒い息は誰の物か。
 雷蔵はその懇願を一人聞き、剣先を振るわせていた。
 今度は恐怖の為でなく――

「……オネガイ。コロ……シテ……」

 気が付くとソレは足下まで這い寄ってきていた。
 だからこそか、血に染まったソレの顔を雷蔵はハッキリと見てしまう。
 つい先程まで可愛らしくコロコロと良く笑っていた、リードの悲痛な表情を。
 荒い息は自身の物。
 思考を埋めていたのは躊躇うなと言った少女の言葉。
 そこに、コロセとオウム返しのように繰り返される、リードの哀願が混じっていく。
 やるべき事はわかっていた。
 しかし、取り戻したばかりの心がそれを良しとしない。

「……タス、ケテ。マレビト、サン……ワタシヲ……」

 リードの赤い手が雷蔵の足首を掴んだ時。
 勇者はありったけの勇気を――その苦しみを背負う勇気を絞り出して、憐れな少女の背に "傾国" を突き立てた。
 荒い息はもう無い。
 代わりに訪れたのは、呼吸をするのも忘れた静寂。
 その一瞬、確かに時は止まった。
 雷蔵の弱い心に刻み込まれたのは、後悔、憎悪、無力感、自己嫌悪、そして――安堵。
 その安堵が更に自己嫌悪を増幅させ、雷蔵をドス黒く塗り込んでいく。
 ただ一つ、救いがあるならば。
 最後に幻視したリードの笑顔と「アリガトウ」と動いた唇は真実ではあった事だろう。
 しかし勇者はその真実を自ら否定し、手放してしまう。
 己が許せぬばかりに。

 そんな雷蔵の背にイグナートは長らく声を掛けられずにいて、静寂はそれからしばらく続くのであった。



 『恵みの門』と『封印の門』の真実はこうである。
 カノープスが "封印の地" を出る為の鍵を作り出す為に作られた神殿があった場所に、 "鍵" そのものは元々この場所に存在してはいた。
 しかしその鍵は勇者にしか扱えぬようになっており、結果かつてこの地に送られたカノープスが鍵のスペアを作るべく神殿とそれを守る二つの門を作り出し、長い年月を経て脱出に成功したのだという。
 ただ、そのスペアを作り出す膨大な魔力をどこからどうやって集めたか?
 その答えこそ、あの怪物である。
 怪物は "ラミア" と名付けられた魔法生物で、若い生命力のある女を丸呑みにし、時間を掛けて魔力へと変え神殿に蓄積する事が使命であった。
 また、神殿に侵入した者を排除する役目と共に、魔力の元となる人間を減らさぬようコミュニティ維持を支援する為、余剰魔力を使い大量に食料となる蛇を産み落とし続ける使命も担っていたのだ。
 その為にも、一度神殿の中に入った者が外へ出るのは非常にまずい。
 そこで生み出されたのが『恵みの門』である。
 『恵みの門』は一度中に入った者が外へ出られぬよう、中の様子を悟られぬようにする為の門であったのだ。
 対する『封印の門』はというと、これは村長の話通り、 "封印の地" の上層に棲む強力な魔物から神殿を、ラミアを守る為に設置された防壁であった。
 つまりカノープスは、 スペアの鍵を作る魔力を集める為に神殿とラミアを。
 神殿の存在を隠す為に『恵みの門』を。
 神殿を守る為に『封印の門』を。
 魔力の元となる乙女を安定して供給させる為に、食料を生み出す仕組みを作り出していたのだ。
 早い話が、シリン村の食料事情はこの魔物によって――乙女達の犠牲によって維持されていたのである。
 更に丁寧にも、この蛇は人の口に合うように調整され、高い栄養価まで持つように生み出されていたようだ。

「もっとも、あんな魔物を何体も作り出す事は無理だったみたい」

 床から数段上がった祭壇の脇、その僅かな段にちょこんと座り意識を取り戻した少女はそう付け加えていた。
 その外見は倒れた時から変わらず、七、八才程の外見であろうか。
 イグナートは少女の前に立ち尽くし、話を聞いて絶句している。
 雷蔵はと言うと祭壇の奥の壁の前に立ち、自失しているかのように無言で俯いていた。
 二人とも先程よりも血まみれとなっているのは、リードの亡骸を祭壇に安置されていた棺に寝かせた為だ。

「 "ラミア" は呑んだ人を約一年掛けて魔力を取り出すの。勿論、途中で新たに呑む事はできるけど、効果はさほど上がらないし "スペア" を作るには膨大な魔力が必要だから……」
「……それでカノープスは年に一度、生け贄となる娘を『恵みの門』に来るようにしむけたのですね」
「くそ! なんだよそれ! なんで、そんなんでリードが死ななくちゃならねえんだよ!」

 ガキン、と金属音が広い空間に響いて消える。
 雷蔵が黒い籠手をはめたままの右手で、祭壇の奥にある大きな半人半蛇の像を殴った為だ。
 その背からは、やり場のない怒りが内に向かって燃え上がっていると伝わってくる。
 殴った大きな半人半蛇の像はびくともしなかったが、拳を退けた跡からはパラパラと削れた表面が落ちた。

「わたしはここでずっと寝ていたからどの位の月日が経っているのかわからないけれど……相当量の魔力を集めていたようね。あんなに大きくなったラミアなんて初めて見るわ」
「しかし、おかしいですね? 魔女殿はたしか、この神殿そのものが魔力を集める装置のようにおっしゃっていましたが……」
「ラミアもこの神殿も、一つの装置のようなものだから……って、魔女? もしかしてノルン? ノルンもここにいるの?」
「え? ええ、魔女ノルン殿も猫の姿ではありますがここに……ここ、に?!」

 そこまで言いかけて、 『銀騎士』はハっとした。
 雷蔵も又、自責をとりあえず辞めて振り返り目を丸くする。
 怪物との遭遇からこっち、ノルンの存在をすっかり忘れていた事に気が付いたからだ。

「イグナート! そういやノルンは?!」
「うわああ! わ、忘れてました!!」
「バカたれ! どうすんだよ、あいついなかったら――」

 狼狽しはじめる二人を遮るように、突如。
 それまで無表情であった少女は僅かに感情を浮かべすくと立ち上がり、なにやらブツブツと呟きはじめて胸の前で腕を差し出した。
 同時に、少女の体が淡く緑に輝きはじめ、徐々にその身長が縮みはじめたではないか。
 雷蔵とイグナートは呆気にとられながらも、その様子を見守り、そして。
 ぽん、と音がして前に突きだしていた少女の手の中で白い煙が上がり、小さな爆発が起こった。
 やがて煙が晴れると、その手の内に見覚えのある黒い子猫の姿が現れている。

「ひさひ、ぶりねぇ。おぼ、おぼえて?」

 既に幼子とも言える年齢になってしまった少女は現れたノルンをわしと掴み、回らなくなった舌を必死に回して子猫にしゃべりかけた。
 心なしかノルンを掴む手に力が込められ、震えている。
 対するノルンは相も変わらず意識が無いようで、少しもがくそぶりを見せにゃあ、と鳴く。

「あたひ、あなたに、ふ、いんされてから、ずっとこのとき、まっていはわ」

 如何なる思いが込められてか。
 ノルンを掴むその手には先程より更に力が込められ、子猫はにうにゃん、と苦しそうな声をあげた。
 それまで少女の様子を黙って見ていた雷蔵達であったが、流石にこれはまずいと判断し慌てて二人を引きはがすべく駆け寄る。

「おい、よせって! イグナート?!」
「は。失礼、レディ?」
「は、はなひて! もう! それかえひて!」
「だめ! こら、暴れるな!」

 雷蔵に羽交い締めにされた少女は、イグナートに取り上げられた子猫に手を伸ばしバタバタと暴れる。
 しかしすっかり小さくなってしまった体での抵抗は容易く封じられ、あっさりと取り押さえられてしまった。
 見かけによらず激情家であるのか、あるいは『時の魔女』ノルンへの恨みが特別にあるのか。
 兎も角、雷蔵はリードを救えなかった悲しみと怒りを胸の内に沈めながらも、少女が落ち着くのを待って状況を整理すべきである、とイグナートに目配せを送る。
 『銀騎士』は雷蔵の合図にどこかほっとしたような表情を浮かべ、こくりと頷いて今度は逃さぬよう少しだけ、ノルンを強く抱いたのであった。
 やがて少女は落ち着きを取り戻してか、短くもう大丈夫と雷蔵に伝え、幾度もノルンには危害を加えないと約束し、解放されるのであるが。
 少女の事。
  "鍵" とは何か。
 この神殿の出口、『封印の門』の場所。
 ノルンや自分との関係。
 ――あの、力は一体。
 改めて聞きたい事が山ほど雷蔵に押し寄せ、切り出せずにそのまま無言で少女を見つめる。
 イグナートもそんな勇者の様子を見取ってか、先立って質問はせず、ただじっと成り行きを見守っていた。

「じかんは、ある」

 助け船を出したのは、謎の少女からであった。
 時間はある。
 つまり、ゆっくりと考え一つ一つ聞けば良い、と言いたかったのだろう。
 雷蔵はその言葉をキッカケに、まずは一つ目、今後不便をしないよう最初の質問を口にする。
 しかし。

「じゃあ……まず、君の名前は?」
「あたひのなまえ、は。カナメ。かつて、ゆうしゃって、いわれてたの」

 質問は雷蔵とイグナートを更に混乱させる結果となってしまった。
 謎ばかりの地の底にあって、はじめて目にするまともそうな導き手を前に雷蔵はふと思う。
 いっそ、ありのままを受け入れる事ができたなら、どんなに楽なのだろうか、と。
 思いは視界の端に入った棺によって、不意に激しい後悔と自己嫌悪に変わった。
 が、直ぐにそんな感情もリードの死を悼む悲しみごと、いまだ外れない右手の籠手に吸い込まれて行く感触と共に消え去って行く。
 ――これは……これもCFMMって奴の機能なのか?
 疑問はまるで、雷蔵の感情すべてを誤魔化すかのように次々と増えて――

「――? 御主君?」
「ん? ああ、悪い」
「……お気分が優れないのでしたら、私が代わりにカナメ殿から話を聞いておきましょうか?」
「ひぶん、わるいの?」
「いや、大丈夫さ。ちょっと、カノープスの奴をどうやってブン殴ってやろうかと考えてた所。あいつ、許せないから」

 そう言って誤魔化した後、雷蔵は疑問を一つ一つカナメにぶつける事にした。
 心に違和感を抱えたまま。
 手首から先、いまだ外れない籠手の一部はそんな勇者の心情を表すかのように、黒く鈍く輝いていた。

 以上が雷蔵とカナメ、二人が初めて出会った時の顛末である。





二つの門編・了








[25530] 10 飯にしよう/【伝承の種族編】
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/03/05 13:00


 「御主君! そろそろ食事の時間ではありませんか?!」

 すっかり女性の体に馴染んできたように見える『銀騎士』は、厳ついフルプレートの鎧姿のまま、女の子がするように両手の平を胸の所で合わせてそう言った。
 目もくらむようなその美貌は、輝くような笑顔。
 四六時中一緒にいて尚且つ、元が『男』であると知る雷蔵でさえ、一瞬胸を高鳴らせてしまう程の会心の仕草である。
 もし何も知らぬ者が見てしまえば、十中八九は虜になるだろう。

「あ、あたしもたべたいかも」

 こちらは流石に虜になると言うのは憚られるか。
 長く伸びたエメラルドグリーンの髪と瞳は見る者を惹き付け、整った顔立ちは将来に想いを馳せさせる。
 が、どう見ても5歳前後のその外見は見惚れるというよりも、幼子を見て愛らしいと感じる者の方が圧倒的に大多数であろう。
 一応は本人曰く、 子供の姿は一時的なものであるらしい。
 "封印の地" に薄く満ちる魔素をその体を通して魔力へと換え、 "鍵" に送り込むのがその使命であるのだが、その際自身の魔力を使用する為に "こう" なるのだとか。
 逆に魔素を集め体内に魔力を溜める事ができれば大人へと戻れるのだが、如何せん、短時間で大量に集める事は難しいらしい。
 結果なんとかろれつが回るほどには "再成長" できたカナメであったが、元の姿に戻るには至っていないようだ。
 しかしそれでも侮れない。
 愛らしい表情を輝かせイグナートと同じ仕草で雷蔵におねだりをするその姿は、見る者の母性を強烈に刺激する代物であり、その道の気がある者であれば間違いなく道を違えよう。
 幸い雷蔵にはその気は無いし、絶世の美にも耐性がついてきている為輝く二つの美にぞんざいに反応する事が可能であったのだが。

「そろそろって、お前らさっき食ったばかりじゃねぇか」
「そうですか? 私の感覚ですともう半日は何も口にしていない気が」
「あたしはまる一日」
「んなわけあるか。さっき飯食って寝たノルンがまだ起きてすらねぇんだから、半日ところか一時間も経ってねえよ」

 雷蔵はそう言って、カナメが抱いていた黒い子猫を指差した。
 小さな子供に抱かれた子猫は、その腕の中、器用にもくーくーと睡眠を貪り続けている。
 が次の瞬間、徐にカナメが抱いていたノルンを上下に激しく揺さぶった為、寝息は消え去り代わりにふぎゃあ! という悲鳴が上がった。

「おきてるよ?」
「……お前が今起こしたんだろ」
「おきてたもん」
「おきてたもん」
「イグナート、気持ち悪いから辞めろ。カナメ、俺の故郷では嘘つきはメシ抜きになるがいいか?」

 メシ抜き、という言葉は何より二人に効果的であったらしい。
 イグナートとカナメは眉を潜めながらしばし顔を見合わせて、やがてかなり早い食事を諦めたのかプクっと頬を膨らませ再び歩き始めた。
 口惜しさによるものか二人はそのまま雷蔵を追い越し、薄暗い洞窟のような通路を先に進んで行く。
 雷蔵はそんな、どこか年の離れた姉妹のように息が合っている二人を見送りながらも大きくため息をつく。
 それからやれやれと頭を掻き呆れつつも、二人の後を追うのである。

 そんな勇者の右手には、肘まですっぽりと覆う黒い籠手がはめられていた。



 『恵みの門』の奥、神殿内の礼拝堂のようなホールにある祭壇。
 そこに安置されていた半人半蛇の巨大な像こそ、『封印の門』であった。
 雷蔵とイグナートはその場所で、かつて勇者と呼ばれていたと自称するカナメと出会い、しばし話をした後での事。
 いくつもの疑問が胸の内に燻っていた雷蔵は、イグナートにしばしの休息を提案しその間に自身について少し考える事にした。
 と、いうのも二つの門や神殿の謎については明らかになっていたものの、カナメの素性や "鍵" についての詳細、そして突如発現した力と黒い籠手についての疑問が残る現状である。  雷蔵は未だ外す事ができぬ手首から先を覆う黒い籠手を眺め、ここに至ってやっとノルンが残したCFMMの使い方を読んで無い事を思い出し、まずはそこから整理するつもりであったからだ。
 イグナートは雷蔵の提案に一瞬だけ気を使わぬようにと注進しかけたが、すぐに真意を察してか余計な事は口にせず御意、とだけ返事をした。
 彼女もまた、 "彼" なりに疑問を抱えていたのだったが、CFMMのある雷蔵とは違い肉体そのものは女のそれと変わらない。
 疑問を一旦脇に置き、この場は休息を優先させるのも悪手ではないと判断したのだろう。
 忠実なる騎士は子猫を抱いたままその場に座り込み、静かに目を閉じて細い体から力を抜いた。
 一方、カナメの方も質問攻めに合う事を予想していた為、雷蔵の提案は意表を突くものであったらしい。
 幼すぎる表情にありありと驚きをうかべたものの、こちらも何を思ってか大人しくその場に座り込み、やはり目を閉じて大きく息を吐くのであった。
 そんな二人の様子を確認して雷蔵も腰を下ろし、籠手の無い左手の平をじっと見つめ "知りたい" と念じる。
 すると直ぐにあの三つの項目が手の平の上に現れて、雷蔵は少し考えた後、とりあえず項目の上の方から詳しく読む事にしたのだった。
 項目は先頃に見た時と同じく、上から「使用可技能」、「精神浸食率」、「魔女ッ子ノルンちゃんのドキドキ☆メモ」と書かれている。
 ――使用可能技能、とは?
 そう念じると、手の平の上の文字がじわりと崩れ、再び象った時にはその説明文らしき文字列が現れた。
 だがその文字列は短く、ただ一文。
 『身体維持及び食事支援』とだけ書かれているのみだ。
 その字面はどう考えても先の戦闘時、突如発現した力の理由には見えず、雷蔵は首を傾げた。
 ――他には? それだけ?
 念じた疑問に、CFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)からの答えは素っ気なく『権限がありません』とだけ。
 権限が無いとは果たして、雷蔵に知る権限が無いのか、機能自体が制限されているのかは判断がつかなかったが、とりあえずはこれ以上の情報は得られないらしい。
 身体維持、とは雷蔵が最初から持つCFMMによる肉体再生機能の事であろう。
 もう一つの食事支援は何であるか想像もつかなかったが、どう考えても戦闘技能では無い。
 ――じゃあ、あれは一体?
 雷蔵は腑に落ちぬまま、とりあえずは情報全体を得てから考えるかと判断をして、次の項目を見る事にした。
 ラミアという怪物と戦った時も、その前、勇者としてハレムを築いていた時もそうであったように、何かと物事の一部を見て全体を見ず悩む事の多い勇者である。
 特に今回の一件において、もっと慎重に行動していればリードは死ななかったかもしれない、という想いがこの時の雷蔵に芽生えていた。
 無論、反省には激しい自己嫌悪がつきまとう上での慎重さなのだが。
 ――次。精神浸食率とは?
 再び手の平の文字がじわりと崩れ、別の文字へと変化する。
 現れたCFMMの回答は先程よりも更に短く、素っ気なく『1%』とだけ表示されていた。
 ――何が1%?
 続けての回答は、ある種当然の物である。
 手の平に『精神浸食率』と現れ、雷蔵は思わずぎゅっと左手を握ってしまった。
 融通のきかないCFMMに腹を立てたからだ。
 雷蔵は怒りを抑えつつその後も『精神浸食率』の意味を問いかけたり、『食事支援』の詳細の提示を求めるも、その度に『権限がありません』と返されてしまう。
 ――くそ。これだから思い通りにならねぇ機械は嫌いなんだ。
 愚痴を心中に吐き捨てながら雷蔵は、それからしばらくは怒りが収まらぬ時を過ごす羽目に陥ってしまった。
 そしてしばしの時が流れた後。
 いよいよ、後回しにしていた「魔女ッ子ノルンちゃんのドキドキ☆メモ」の中身を見る時がやって来てしまった。
 思えば無意識にその項目を避けるあまり、最後になってしまったのかもしれない。
 勿論雷蔵にとってそのタイトルは、見るだけで目ば眩む錯覚と悪い予感が押し寄せてくる代物で、出来れば触りたくは、関わりたくは無い項目である。
 しかし、現実としてそうも言っては居られない。
 眺める左手の平の反対側の手には、未だ外れぬ不気味な籠手が黒々として雷蔵に訴えかける。
 思い出されるのは、あの奇妙な感覚といつもの勇者のソレとはちがう異質な力の感触。
 高揚と恍惚の中、圧倒的な力を発現するそれまでの力とは違い、先程のアレは体の一部を悪魔か何かに捧げその分だけ力を得るかのような物で――
 考えて雷蔵は身震いを一つして、嫌な想像を頭の隅へと追いやり再び左手を注視した。
 そこに見えるのは、相変わらず頭痛を覚え頭の悪そうなタイトルである。
 ――で、何がドキドキなんだ?
 問いかけは半分やけくそ、もう半分は不安で構成された物だ。
 果たしてCFMMが提示したその内容は、以外にも "マトモ" であった。
 手の平に現れた文字列は、新たな項目が4つ。
 上から、『鍵とは?』、『精神浸食率とは?』、『食事支援とは?』『頑張る貴方へノルンちゃんからのスピリチュアル☆メッセージ』と書かれている。
 雷蔵は視神経が脳にソレを伝達する速さを超えて、最後の項目を見なかった事にしながらも、上3つについては素直に喜び早速読み進めることにした。
 結果、呆気なく鍵と精神浸食率、新たに得たCFMMの技能『食料支援』の意味を知り、勇者は脱力感に襲われる事となった。
 まずは、『鍵』。
 これは文字通り "封印の地" から外へ出る為の鍵であるらしいのだが、その詳細を読むに雷蔵自身、実は既にその一部を所有していたようだ。
 つまりは、CFMMそのものが鍵の一部である、という内容が提示され "鍵" のコントロールを行えるのがカナメであるらしい。
 ただどういった経緯で彼女がこのような場所で眠っていたのか、彼女の素性はどのような物であるのかまでは記されてはいなかった。
 その事実について雷蔵は、ああそうだったのか、といった程度の認識を示し――そこまでは特に思い煩う事も無く、早々に精神浸食率の項目に目を落とす事にした勇者である。
 次いで読み進めた『精神浸食率』とは、雷蔵の内にある兵器としてのCFMMの機能の一つに由来する物と記されていた。
 雷蔵はこれまでノルンの力によって "兵器" としてのCFMMに取り込まれぬよう、力を使う度に精神を保護されてきたのだが。
 カノープスによりノルンの力の殆どを封じられた現在、その保護は無くなりCFMMを使用した戦闘を行う程に人の感情が消されていく――つまり、精神が呑み込まれていく状態となっていた。
 ただ、雷蔵自身CFMMとの相性がよくない為かノルンの支援無しではその機能の殆どが使えず、必然急激な浸食がされるような力は使えない。
 したがって "封印の地" の外へ出るまでの間、雷蔵の精神は比較的 "維持" しやすい状態でもあると言える。
 例え多少の浸食が進んだとしても、 "封印の地" から外に出た後復活するであろうノルンの支援により、再び勇者としての力を取り戻せるだろう。
 そこまでの説明は一見、無理さえしなければ問題がなさそうではあった
 が、更に続きを読み進めるとそうでもないことがわかり、雷蔵はもっと早く読むべきだったと激しい後悔をする羽目に陥る。
 その内容とは、CFMMに備わっているらしい "自律攻撃機能" というものについてだ。
 つまり、ある程度精神浸食が進行するとこの "自律攻撃機能" が発動し、使用者の肉体を変成させて破壊兵器そのものに変えてしまうとの事。
 これはCFMMが元々兵器として使われていた代物だからか、激しく損傷してしまい兵士として使い物にならなくなったり、捕らえられた際に発動させ敵に損害を与える為の機能であった。
 無論、一度発動すれば使用者――雷蔵は只では済まない。
 その場合、機能停止に陥るまで暴れた後に爆散するようだ。
 この機能が発動する条件は精神浸食率は100となった時であるが、それ以外にもテストモードとして一時的に使用する事が可能であるらしい。
 その、テストモードへと強制的に移行させる "起動コード" こそ、カナメと共に口にしたあの言葉である。
 起動コードは認可と承認が必要で、テストモードに移行した者が同じくCFMMを扱える者
に承認して貰う必要があり、説明文の最後にはノルンのメッセージであろう、 "テストモードを起動させる事ができるカナメには、十分注意するように" と締めくくられていた。
 雷蔵はそこまでの内容を幾度も読み返し、しかし完全には理解しきれぬまま、取り返しのつかない事をしてしまったのかも知れないと頭を抱え込んでしまう。
 強い後悔と行き場の無い怒りが一瞬カナメに八つ当たりとして向かいかけたが、そもそもあの状況ではCFMMの力を使わなければイグナートは死んでいたであろう。
 それは雷蔵もよく解っている所であり、八つ当たり所か助けてくれたカナメに感謝をしなくてはいけないと思い直して、乾いた喉に口まで登っていた濁った感情を唾液と一緒に呑み込む雷蔵であった。
 ――気を取り直し、次に読み進めたのは『食事支援』の項目。
 一瞬、その下に『頑張る貴方へノルンちゃんからのスピリチュアル☆メッセージ』という文字列が見えたが、勇者は器用にもまったく気が付かないのだと己を騙すことに成功する。
 思考を何かから守るようにやや固めにして読み進めた『食事支援』の項目も又、CFMMについての内容だった。
 現在、雷蔵には治癒力を高めたり体の調子を正常に保ち続ける機能が常時発動しており、それ以外の機能はノルンの支援無き今、使用は不可である。
 同時に、雷蔵のCFMMの制御を "機能封印" と言う形で補助していたノルンの力が消えた事は "自律攻撃機能" を含め、多大な代償と引き替えに不完全な形ではあるが使用できる状態でもあると言えた。
 そこで『時の魔女』ノルンは一時的に取り戻した力を使い、雷蔵のCFMMに恒久的な "機能制限" を施し、その際に負荷の少ない、使えそうな機能を使用可能としたらしい。
 それこそが『食事支援』であった。
 本来は『身体維持』しか使えない雷蔵だが、一時的にこの機能を停止させ、低負荷で『食事支援』を使う事ができるのだが、ここにも問題が一つ。
 書かれている詳細を読むに、『身体維持』を一時的に停止させる故、『食事支援』を使用する場合怪我などをした後は十分注意する必要があるらしい。
 大けがをした後、見かけは傷が治っていても体の内部は修復中であることがよくある為だ。
 痛みも感じず、体を動かすのも問題無いのはあくまでCFMMが断裂した筋肉や砕けた骨の代わりに機能している事がままあるのだという。
 そういった理由から、『身体維持』を一時的に停止させる場合は十分注意する必要があるようだ。
 肝心の機能と使用法はというと、こちらの方は長ったらしい前置きとくらべ、随分シンプルであった。
 説明につかわれた文章は短く単純明快。
 『何でも良いから適当な石ころや土くれを手に取り、 食べたいもの(飲み物可)を思い浮かべよ ※ただし、飲み食いした事のある物にかぎる』というものである。
 雷蔵は声に出さぬよう、はぁ? と呟いて試しにその辺に落ちていた小石を拾いあげクッキーを思い浮かべた。
 すると手にしていた小石が一瞬灰色に変わり、次の瞬間には雷蔵が思い浮かべた通りのクッキーに変わっていたでは無いか。
 クッキーはグラズヘイムのそれとは違い、故郷の日本でよくみかけた甘いチョコチップが満遍なくまぶされた品である。
 驚きながらも雷蔵は恐る恐るソレを口に運んでみると、なるほど確かにチョコチップクッキーの懐かしい味がした。
 地球製菓子特有の強い甘みは、暗く澱みつつあった勇者の思考を明るく前向きに方向転換させ結果と成り、一時的に気を大きくさせてしまった雷蔵は――

『悩める貴方へ、魔女ッ子ノルンちゃんからのメッセージ。』
 ここまで読み進めてくれてありがとう!
 今の貴方は、きっと辛い現実に挫けそうになっていて、それでいて僅かな光を手の中の甘いクッキーに見出している事でしょう。
 大丈夫、心配しないで。
 貴方はとっても寝物語を囁くのが上手くなってるし、今ならその手でなんでも創り出せるわ。
 それは奇跡のように、土を甘いチョコレートに変え、鬱蒼と茂るシダを新鮮なサラダに。
 腐りながら横たわる魔物の死骸を肉汁たっぷりなステーキにだって出来るし、飢えた村を見つけ、そこで石をパンに、水を葡萄酒に変えて見せて手下を集める事だってできるわ。
 使いすぎると精神浸食が進んじゃうけれど、その前にここを出られるとおもうからきっと大丈夫。
 さあ、勇気を出して前に進んで。
 貴方ならきっと出来る。
 私は何も出来ないけれど、いつも応援しているからね。
 あ、ちなみに子猫に人の食べ物を与えてはいけないけれど、私は大丈夫だから。
 毎日甘い甘いミルクチョコレートを食べさせてくれると嬉しいな。
 もし食べさせ続けてくれたら、ここから外に出た時に貴方を見直しちゃうかも。
 元の体だったらもっと他の "お菓子" をお口いっぱい頬張りたいんだけど、子猫の体じゃ壊れちゃうし。 ――なんて、ね。
 じゃ、がんばって!
 もし精神浸食率100になっちゃったら私でも手に負えなくなっちゃうから、気を付けてね!
 でも、ちょっとその状態で乱暴されてみたいかも?! ――なんちゃって。
 勇者様、ファイト!

 ――雷蔵はやはり激しい頭痛に襲われ頭を抱え込んでしまった。
 何故クッキーを作る事を知っていたんだ?、とか
 お前そんなキャラクターじゃねえだろ、とか
 何気に恐ろしげな事を可愛い丸文字で書いてるんじゃねぇボケ、とか
 いちいちエロと絡めないとダメなのか? 等々、本人に問い詰めたい言葉が次々と頭の芯を蹴り上げている。

「御主君。あの、お休みの所を申し訳ございません」

 腰を下ろし俯いて、おおお、と人知れず苦悩するそんな雷蔵の頭上から凛とした声がかけられた。
 見上げると何時やってきたのか、イグナートがノルンを抱え目の前に立っている。
 余程悶えるようにして悩み事をする雷蔵が挙動不審に見えたのだろう、いや、あるいは心配してかその美しい顔は心配そうに曇っていた。

「ん、イグナートか」
「大丈夫、ですか?」
「……大丈夫、じゃないけどまあ、心配すんな。ちょっとやなもん見ただけだ」
「左様ですか。――あの、私、食事の手配をしてまいります」
「食事?」
「ええ。色々とありましたし、どうせ休息をとるならと思いまして。道具は神殿の外に置いてきてしまいましたから、この先に進むに当たり何か仕えそうな物もついでに探してきとうございます」

 イグナートはそう言って、僅かに首を傾げながら力無く微笑んだ。
 その胸に抱かれていたノルンもイグナートの動きに合わせにゃあ、と鳴く。
 鳴き声はエサを強請るように甘えたもので、ふと目が合った雷蔵は一瞬その顔が笑ったかのように見えた。

「……いや。その必要は無い」
「御主君? しかしここから先はどれ程の日数がかかるか……水や食料が無ければ」
「食い物と飲み物は心配いらないさ。見てろ」

 雷蔵は手近にあった大きな石を手に取り、イグナートの前に掲げて意識を集中させる。
 すると石は先程と同じように一瞬色を変え、次の瞬間にはグラズヘイムには無い、ハンバーガーへと姿を変えていた。
 立ち上がりながら雷蔵は、手の平に現れたそれを驚きのあまり目を見開く『銀騎士』へ手渡しながらリードが眠る棺へと近寄り、周辺に落ちていた小石を拾いあげ先程と同じくクッキーを作り出す。
 棺の中で眠る彼女は相変わらず血まみれであったが、その顔だけは綺麗に拭き取られていた。

「リード、俺、こんな事しか出来ないけど……ここらじゃ食えない珍しい菓子なんだ、これ。――守ってやれなくてごめんな」

 呟いて勇者は棺の中へ手にした甘味を撒く。
 それから僅かに目を瞑り、何かと決別して勇者は振り返りはじめて言葉に強い意志を乗せた。

「カナメ、起きてるか?」
「ん……すこし、うとうとしてた……」
「飯にしよう。珍しいもん俺が食わせてやるよ。飯を食いながらお前の事を聞かせてくれ」
「むぐ……!! ふぉ、ふぉひゅふん! ほれ、すほふほふひいへふ!」
「はは、イグナート、そんなもんよりもっと旨いもんあるぞ。ほら、ノルン連れてお前もこっちに来い」

 言葉は少し影が落ちていた物の、明るく力が込められている。
 間も無く催された食事の一時は、驚きに満ちて三人と一匹を繋いで行く。
 一行が『封印の門』を開き先に進み始めたのは、それから半日程経ってからであった。

 その間にもう一度行われた食事によって、イグナートとカナメはすっかりその味の虜となり冒頭に戻るのである。






[25530] 11 ドロボー!
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/03/19 12:28



 初代聖王こと『始まりの勇者』の一部であったカナメは、 "封印の地" の一部でもあるという。

 その昔。
 戦乱のグラズヘイムに喚び出された勇者は、雷蔵とは違い圧倒的な力を思うままに振るって瞬く間に大陸を平定した。
 しかし "彼" に力を与えたのは、他ならぬ『時の魔女』ノルンである。
 剣の一振りで万軍をなぎ倒す力の代償として勇者が差し出していたのは、自身の時間の一部。
 つまり、力を振るった時間だけ他の人格――『カナメ』に肉体を支配されてしまう事であった。
 カナメは勇者の肉体を手に入れた間、持てる力を尽くし善政を施して後の大帝国の礎を築く。
 一方当の勇者はというと、破壊と陵辱を愛好する反面政治には無頓着であったらしく、結果カナメが己の肉体を通じて行った政治的な施しを咎めるでも否定するでも無く、放置していた。
 その事が後に『聖王』の光の側面として世に残る事となる。

「とはいうものの、ゆうしゃの敵となりそうな存在を封じ込める為に、その力のいちぶを捧げる必要があってね」
「で、聖王……当時の勇者様はその力の大半を失い、同時にカナメ殿もその力と共に "封印の地" に封じられていたと?」
「ちょっと、ちがうかな? ゆうしゃは力のいちぶを失ったから、 "あたし" という楔が外れたというか。で、この性悪がついでだからあたしを "封印の地" を司る鍵の一部にしたの」

 カナメはテクテクと歩きながらイグナートにそう説明して、徐に抱えていたノルンのヒゲを引っ張った。
 大切なヒゲ強く引っ張られた子猫はフギャン! 鳴き声を上げ、小さな手に爪を立てたが何故かその肉をえぐる事は出来ないようだ。
 ぐいぐいとヒゲを引っ張られたノルンは、白く小さな牙をむき出しにして必死に抵抗を試みる。
 が、唯一の武器である鋭い爪が通用しない為、為すがままにうりうりと弄ばれてしまうばかりだ。

「じゃあ、カナメ。お前ならあとどの位で "封印の地" から外に出られるかわかるのか?」
「……んー、そりゃ、わかるけれど」
「? 歯切れがわるいな?」
「構造自体は昔と変わってないと思うけれど、カノープス? って奴がしんでんを建ててたりしてたでしょ?」
「……ああ」
「長い月日が経ってるから、そいつ以外にもこの地に住まう者の手によって色々とかわっているかもしれないわ」
「そっか……じゃお前に聞いても当てにならないって事なんだな」
「一応当てにならない分でよければ、後3日も歩けば上に着くわ。このらせん状に伸びる道を進んでいけばいいだけだし」

 カナメはノルンを弄るのを辞め、上を向いた。
 断崖とも呼べる "ディスパイア・ウォール" の壁沿いに伸びる道は、上ではなくその巨大な穴の内壁に沿ってらせん状に伸びている。
 道はどのようにして作られたのかは定かではなかったが、断崖を馬車が通れる程の幅をくりぬいて作られており、シリン村から『恵みの門』に向かうまでの道中と比べ遥かに快適であった。
 道の端から下を覗くと、遥か下方にあるはずのシリン村は道中で伸びる木々に遮られ、更に距離もかなりある為か既に見えなくなっている。
 一方その反対側、 "ディスパイア・ウォール" の出口と思われる天空方向はまだまだ果てが見えず、前に進むほど差し込む光と丸い口は大きく明るくなっていた。
 考えてみれば、 "ディスパイア・ウォール" は遥か下にあるシリン村にある程度の光が差し込むほどの大穴である。
 出口に近付くほど穴の内径が広くなっていく事から、その形状はすり鉢状になっているのであろう。

「あの、カナメ殿。聖王様の話の続きをよろしいでしょうか?」
「ん、良いけれど……ね、ライゾウ。そろそろお昼にしない?」
「……いいけど、お前折角そこまで "再成長" したのに、また幼児に戻っちまうぞ?」
「大丈夫よ。また魔素を集めて成長するから。ね? いいでしょ? イグナートもご飯にしたいよね?」
「は。私も食事にしたいです」

 イグナートは食事をせがむカナメを少しうとましそうに視線を向けながらも、頬を綻ばせて同調した。
 事は数日前である。
 カナメが何気なしに雷蔵の名を尋ねたのが発端であった。
 実に意外な話ではあるが、雷蔵が地上に居た頃は『時の魔女』ノルン以外は彼の名を知る者は誰一人として居なかったりする。
 というのも皆が皆、雷蔵の事を "勇者様" と呼んでおり、又それで事足りた為だ。
 これは『勇者』という存在はそれ程大きな物であり、その名を知りたがる事自体 "不敬" であるというグラズヘイム特有の文化に因る所が大きい。
 聖王の名を知る。
 それだけで不敬ともとられ、死刑になる程の価値観をもつグラズヘイムで生きてきた『銀騎士』にとって、カナメの行動は内心では受け入れ難い物であった。
 しかし直ぐに主君への非礼を咎めなかったのは、カナメも又、『勇者』に連なる者であると知っていたからである。
 勿論、イグナートにとっての『勇者』とは雷蔵ただ一人であり、同時に "彼女" が認める聖王も雷蔵をおいて他ならなかった。
 ――さて、どうすべきか。
 流石に感情的になるような事は無かったが、カナメの不敬を咎める事が忠義であるのか、それともカナメも又勇者である故にその名を聞く権利を認めるべきか、深く苦悩を始める『銀騎士』。
 が、イグナートの苦悩を余所に雷蔵はあっさりとカナメに名を名乗り、呆然とその光景を目の当たりにした "彼女" にも、何だったらお前も名前で呼んでも構わないと申し出たのだった。
 雷蔵もカナメも気が付いて居なかったが、イグナートはこの出来事以降、雷蔵に話しかける時非道く苦しむようになる。
 なぜならば――

「ぁ、あの。ら、らい、ライゾウ様……じゃない! 御主君! 御主君御主君!」
「あ? あんだよイグナート。何度も呼んで」
「その、あの、申し訳ございません!」
「はぁ?」
「その、御名を口にして……」
「? 別にいいんじゃねえか?」
「あ。いや、その……だから……はは。ご、御主君! 私、今回も『ふらいどちきん』が食べたいなあ、なんて!」
「あ、あれ美味しかったよね、イグナート。ね、ライゾウ、あたしも食べたい」
「ああ? お前らよくあんな脂っこいもん連続で食えるな。それにイグナートはもっと良いもん王宮で食ってたろ」
「いえ、ライ……御主君。王宮ではあそこまで香料を利かせた物は食しておりませんでしたし」
「……お前ら、その内太るぞ?」
「上に伸びるからいいもん」
「いつか御主君が使用する時に備え、栄養は胸に回しますから!」

 ――と、いった感じで、イグナートはその価値観が邪魔をする為かどうしても名を呼ぶ事が出来ずにいた。
 精々、どさくさ紛れに雷蔵の名を口にするのが関の山である。
 お陰で雷蔵と会話を交わす度にしどろもどろとなり、顔を朱に染めながらも、雷蔵の名を呼び親しげに話すカナメを横目でじっとりと睨むようになった『銀騎士』であった。
 更には一見幼児のようなカナメの存在は、雷蔵の伽を望むイグナートにとって毎夜邪魔な存在となり。
 結果として表面上は友好的な関係を築いていたものの、どこか疎ましさが彼女の心に染みついてしまっていたのである。
 雷蔵はそんなイグナートの心情には気が付かず、使用することなんか一生ねえよアホと毒づいて。
 慣れたとは言え頬を染める "彼女" の表情に心を僅かに乱しながらも、その辺に落ちているこぶし大の石を幾つか抱え上げた。
 そして肘まで黒い籠手で覆われた右手で一つずつ掴み取り、 "食事支援" を発動させかつて日本のチェーン店で食べたフライドチキンを作り出していく。
 石は一瞬光り次の瞬間には大ぶりのフライドチキンへと変わって行ったが、同時に黒い籠手がパキパキと音を立ててほんの少し、あちこちから生える鉱物の突起のような部位が成長した。

「――浸食率7%か。思ったよりシビアに進むなあ」

 フライドチキンを幾つか作り出した後、雷蔵は他の二人と共に道の脇に座り込んで、左手の平を眺め使ったばかりの力の代償を確認する。
 手の平に現れる数値 "浸食率" が100となった時、その命を落とす羽目になるだけにどんな小さな力の発現であっても、雷蔵としては確認せずにはいられない。
 どうやら右手の籠手はこの浸食率と連動しているようで、先程までは肘まであった装甲が僅かにではあるが二の腕の半ばまで拡がっていた。
 黒い鉱物のようなソレは力を使う度に "成長" し、雷蔵の関節を跨いで皮膚を覆う範囲を拡げてはいたものの、戦闘が目的である為か動かす事に不便はしないようだ。

「ほふ、むぐ、ファイホウ? ひゃやふふぁへなふぉ」
「……食いながら喋るなよカナメ」
「ング……ライゾウ、早く食べなよって言ったの」
「……ああ」
「大丈夫だって。これ食べ終えたら "調整" してあげるから」
「ありがとよ」
「あの、カナメ殿。先日から気になっていたのですが…… "調整" とは?」
「ん? んと……ライゾウの籠手、外れないでしょ?」
「……ええ、そのようですね」
「これね、呪われてるのよ。ご飯作り出す能力あるんだけど、その度に使用者の肉体を支配すべく蝕むの」
「なっ?!」
「あ、安心して。それを押さえるのが私の役目。それに何事も無ければあと3日歩けば外に出られるし、その時には性悪魔女も元にもどるだろうしね。心配はいらないよ」
「そ、う……ですか」

 言葉とは裏腹にイグナートの表情は硬い。
 そのような雷蔵の事情など知ら無かったとは言え、つい先程まで無邪気に美味を強請っていた自分を恥じたからだ。
 否、それだけでは無い。
 そんな大事な事を何故自分では無く、カナメが知っているのか。
 側にノルンが居た時には感じもしなかった嫉妬が、白銀の鎧の下、良く張った胸に満ちていく。
 果たして『銀騎士』の感情は女体となったが故の物であるか、それとも鉄の忠誠故の物であるか。
 必然、口に運ぼうとしていたフライドチキンを持った手は、ゆっくりと下げられる。

「――御主君。そのような事情があるとは知らず、その……」
「ムグ……? ん、ああ、気にすんな。飯を作りまくってもそうそうにはヤバくならねえし、この籠手の成長を押さえるカナメも居るからな」
「しかし……」
「いいって。お前には色々と世話になってるんだ。コレくらいどってことないさ。ほれ、とっとと食え」

 雷蔵は明るく言って、手にしていたフライドチキンを口に運んだ。
 イグナートは胸に嫉妬と自己嫌悪を変わらず抱きつつも、色々と世話になっていると言った主君の言葉にじわり歓喜を湧かせ、血液が頭に上ってくる音を聞く。
 同時に、すっかり失せていた空腹と食欲が再び鎌首をもたげて来て、『銀騎士』はしばし悩んだ末に気を取り直し、手にした肉をその形の良い唇に寄せた。
 ――カチン。
 歯と歯が噛み鳴らされる音。
 え? という表情はイグナートだけでなく、雷蔵とカナメも浮かべていた。

「あー! ど、ドロボー!」

 最初に何が起こったか気が付いたのはカナメである。
 小さな手が指し示す方向を見ると、何かを抱えて走り去る犬のような獣の背が見えていた。
 犬、あるいは狐かもしれないがその後ろ姿はあろう事か――二足歩行で逃げ去っていく。
 犯人は獣人の類であろうか?
 その勢いは脱兎のごとく、みるみる内に毛むくじゃらの背中は小さくなる。

「な……なんだ? アレ」
「さあ……」
「なにボケっとしてるの! ライゾウ、おいかけて!」
「ほえ?」
「あいつ! あたしの "ふらいどちきん" 盗っていったのよ?! まだ2つ残っていたのに!」
「ほっとけよ。また作ってやるから」
「なりません! 御主君、もっとお体をご自愛してください!」
「んだよ、イグナート。お前急に――」
「いいから! はやく取り返して!」

 余程奪われた "ふらいどちきん" に執着しているらしい。
 カナメは幼い表情に殺気をみなぎらせ、歯を剥きながら雷蔵に詰め寄った。
 イグナートも又、雷蔵の力の代償を聞いたばかりである為か、過剰に反応してその美貌に迫力を纏わせ、詰め寄るカナメの隣にからずい、と顔を寄せてきた。
 理由はともかく、その迫力はなかなかのもので勇者は思わずコクリ、と頷いてしまう。
 それから雷蔵は、まるでその場から逃げ出すかのように "傾国" を拾いあげ、随分小さくなっていた獣の背を追うべく駆け出した。
 そして、異変に気が付く。
 グラズヘイムに喚び出され、色んな出来事を経て雷蔵は日常的に体を鍛えるようになっており、体を動かす事自体には問題は無い。
 勿論CFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)の支援もあったが、この時に覚えた違和感は、明らかにそれまで雷蔵が得ていた肉体の感覚とは違うものであった。
 まず、耳から入る風斬り音が違う。
 それから前に進む速度も。
 地を蹴る感触もそうだ。
 『勇者』としての力の発動時には遠く及ばない物の、感じる力はそれに類するものである。
 ――なんだ? 一体どうして?
 思い当たる事と言えば、右腕の半ば以上まで成長した黒い籠手。
  "浸食率" が上がると言う事は、すなわち雷蔵が意識の無い破壊兵器に近付いている事を意味する。
 もしかしたら、浸食が進むにつれて身体能力も上がるのかも知れない。
 走りながらの思考がそんな予想を立てた時、すでに獣の背は目の前にあった。

「この!」
「わひゃ?!」

 雷蔵は追いかける勢いのまま、構わす獣人に後からタックルをしかけた。
 二人はそのままゴロゴロと転がり、辺りには獣人が盗もうとしたフライドチキンが散らばる。
 獣人は背後から雷蔵に抱きつかれたまま、必死に逃げようともがいた。

「ひぃ! お助け!」
「こいつめ! 捕まえたぞ!」
「は、離せぇ!」
「離すかバカ!」
「うあ! おま、どこ触って――やめて! お願い! 犯さないで!」

 最後の台詞に雷蔵はは?、と呟いて固まってしまう。
 背後から抱きつく形で取り押さえている獣人は、雷蔵よりも一回り小さい体躯でズボンを掃いており、後は毛むくじゃらの "裸" だ。
 勿論、背後から見る頭部も犬や狐のそれであり、何がどうすれば "犯そうとしている" 風に思えるのか、勇者には理解が出来なかった。
 が、次の瞬間。
 雷蔵の目が見開かれて、驚きの表情に変わる。
 獣人の存在や、言葉を話した事に今更驚いたわけでは無い。
 後から回した腕、両手の平が掴んでいる柔らかな感触に覚えがあったからだ。
 ソレは勿論獣人の体に生えた毛に覆われてはいたものの、間違いなく女性を象徴する膨らみで。

「うひゃあ?! お、女ぁ?!」

 叫び慌てて離れた雷蔵が見た物は、地に倒れて上体を起こしながらも、股の間に尻尾を挟み込み震える犬頭の獣人であった。
 獣人はズボンだけを掃い格好で、先程まで雷蔵がわしづかみにしていた胸の辺りを隠しながら、追い詰められたネズミのように震えて壁際まで後ずさっている。

「……ライゾウ。あなたにそんな趣味があったなんて知らなかったわ」
「うぅ、御主君が獣姦趣味だったなんて……道理で振り向いて頂けぬはずだ……」

 振り向くとそこに何時の間に追いついてきたのか、冷たい目をしたカナメと絶望に瞳を潤ませたイグナートが子猫を抱えて立っていた。
 勇者は即座に違う! と叫ぶもしかし。
 壁際に追い詰められた獣人がひたすら、犯さないで! と叫んだが為、あらぬ誤解は深まる事となった。

 雷蔵の嫌疑が晴れたのは、獣人がその後隙を見て逃げだそうとして再び取り押さえられてからである。






[25530] 12 ついて行きたくなったんだ
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/03/24 23:53



「本当だって! 信じておくれよう!」

 犬頭の獣人の娘は、情けない声で必死に訴えた。
 彼女の前を歩く雷蔵達はその声が聞こえないのか、振り向きもせず黙々と螺旋状に伸びる "ディスパイア・ウォール" の道を登って行く。
 ポッチと名乗った獣人の娘は、最後尾で悔しそうに歯を剥いて尻尾をピンと立てた。

「たのむよ! 信じておくれよ! コボルドは受けた恩には報いる種族なんだぞ?! 本当だぞ?!」
「信じられるかボケ」
「盗人の言う事ですしね。大体、コボルドってゴブリンの支族で獣人じゃ無いですし。君、どうみてもライカン(犬人間)だよね?」
「ちがう! ゴブリンって言っても色々あるんだよ! ボクはコボルド! ライカンじゃないよ!」

 ポッチはそう言って尻尾を立てたまま、犬そのものである顔に人がするように悔しそうな表情を浮かべ唸った。
 彼女の出で立ちは両手足は人間のそれと同じであり、しかし全身は毛むくじゃらである。
 唯一身に付けている衣服はズボンのみで、尻の部分に穴が空いており、犬のような尻尾がそこから伸びていた。
 ぱっと見は男であるか女であるか、はたまた雄であるのか雌であるのか判別はできないが、よくよく観察すると白いフワフワの獣毛が生えた胸に、人間の女性と同じような二つの優しい膨らみが確認できる。
 なるほど、イグナートの言うとおり初めて彼女を見る者は、皆が獣人(ライカン)であると判断するだろう。
 雷蔵はそんな風に考えながらも足を止め、しげしげとしつこく呼び止めてくるポッチを眺めて、しかし妙な奴に絡まれたと困った表情を浮かべた。
 ほんの数刻前。
 雷蔵達の食料を疾風の如く奪い逃げようとしたポッチを、雷蔵が捕らえた後。
 取り押さえた際、派手にもみ合う中知らず彼女の胸を掴んでしまい、在らぬ疑いを掛けられた勇者であった。
 その疑惑をなんとか解いてからの雷蔵の行動が、これまたまずかったらしい。
 つまりは捕らえた泥棒をどうするか? と考えてその対応を誤ってしまったようなのだ。
 通常ならば泥棒は、街や街道を管轄する警邏に引き渡すのが筋だ。
 しかしここは "封印の地" である。
 そのようなものは存在しない。
 ではどうするか?
 命を持ってその罪を償わせるのか?
 ――無理な話だ。
 相手はこちらの命を狙って来たわけでは無いし、女(雌)でもある。
 雷蔵やイグナートには無闇に相手の命を奪える程荒んではいなかったし、捕らえた女を性的に嬲ったり暴行を加えるような行為は好きでは無かった。
 で、どうしたのかと言うと。
 結局捕らえた折、地面にぶちまけたフライドチキンを全てポッチにくれてやり、イグナートとカナメ、ノルンには改めてフライドチキンを "作り出した" 雷蔵であった。
 この処置に驚いたのが他ならぬポッチである。
 彼女は信じられないと言った体で地に落ちた食べ物を受け取り、直後、その味に二度驚きの表情を浮かべた。
 それからポッチは何を思ったのか、一旦はどこぞへと去ったものの、間を置かず再び雷蔵達の前に現れいきなり旅の同行を申し出たのだった。
 唐突の申し出に一行は困惑はしたものの、流石に相手は泥棒である。
 拒否すべきであるという結論を出すにはそれ程時間はかからず、そして現在に至る。
 雷蔵はしつこく食い下がってくるポッチを尻目に、ふと幼い頃の事を思い出した。
 野良猫や野良犬に対して無闇にエサをあげてはならない、と言っていた母親の事だ。
 躾は身について居なかったようだが、改めて母親の偉大さを実感しつつ、雷蔵はどうした物かと首を傾げる。
 勿論、彼女の同行を認めるか否か、ではなくどう追い払うかを考えての仕草だ。
 犬や猫ならば脅かしたり棒っきれを振り上げて追い回せば追い払う事もできようが、生憎今回の相手は言葉が通じる存在である。
 袖にされても尚も食い下がるポッチを見ると、言葉では納得しそうに無い。
 かといって、暴力に訴えるのは気が引ける。
 どうしたものか。
 そんな風に悩む雷蔵の服を、ちょいちょいと引っ張る者がいた。
 短期間に二度 "食事支援" を使用し浸食率が上がってしまった雷蔵に対して、浸食率を下げるべく調整を行い、体がいつも以上に若返ったカナメだ。
 その見た目は僅か3~4歳程にまで縮んでしまっている。

「ねぇ、ライゾウ。おなかへった!」
「それ以上若返ったらどうすんだよ。ハイハイしか出来なくなるからダメ」
「ぶぅ~!」
「ちょっと! ボクの言う事をちゃんと聞いてよ!」
「そうは言っても、君が伝承のコボルドだとして。コボルドは小鬼のような姿のはずですよ?」
「それはコボル "ト" ! ボクはコボルド! 親戚みたいなものだけど違うよ! ゴブリンの支族は多いからね! 似た名前も多いんだ。他にもコ "ポ" ルドやコーボルトなんかも――」

 まくし立てるかのようにポッチの "説得" は続く。
 内容は何時の間にか、自分達 "コボルド" は他のゴブリンとは違い如何に義理堅いかを説明する物であったが、如何せん泥棒を行おうとした本人の言である。
 当然彼女の言葉に説得力が感じられるはずはない。
 それにもう一つ。
 ポッチの言い分には雷蔵達に不信を抱かせるような部分があった。

「悪い、イグナート。俺にはこいつが何言っているのかわからん」
「構ってはなりません、御主君。破落戸や詐欺師が相手の興味を引く為に支離滅裂な事を口にする事は常套手段です」
「ねぇねぇ、ライゾウ。いいでしょー?」
「ダーメ。――そっか、じゃあ相手にするべきじゃねえな。大体、なんだよ伝承の種族って。バカバカしい」
「ば、バカバカしいって何さ! ボクはこの通り、歴としたコボルドだ! それに伝承の種族ってのは君たちのことだろう?」
「どうでもいいよ、そんな事。大体、メシならさっきわけてやったろ?」
「ちがう! ごはんが欲しいんじゃない! 何度も言ってるように、君たちが伝承に出てくる『人間』なら、この先は凄く危険なんだ! 絶対、絶対案内人が必要になるよ」

 彼女が言う、「伝承に出てくる『人間』」と言う部分がなんとも胡散臭く、故にその言葉は信憑性を感じさせなかった。
 そもそもは、ファンタジーのような世界であるグラズヘイムにおいてもオークやゴブリン、エルフやピクシーといった亜人に類する種は存在しない。
 辛うじてごく希に、地球では想像上の生き物とされる幾つかの幻獣は確認されるが、それでも滅多に見る事のできない存在であった。
  "封印の地" においても、雷蔵やイグナート、そしてカナメがわりかしラミアやポッチのような存在に狼狽えないのは、ノルンという規格外の魔術師の存在があったからだ。
 つまり雷蔵達にとっては目の前のポッチこそ、「伝承の種族」に他ならないのである。
 その相手本人が雷蔵達を指して、人間こそ伝承の種族であると言って来ている。
 最下層のシリン村の存在を知っている事もあり、到底その言を信用できるはずはない。

「案内人なんて必要ねえよ」
「必要だって! もおおおお! 信じておくれよう」
「ねぇってば、ねぇ。ライゾウ、あたし、おなかへったの!」
「ダメったらダーメ。――なぁ、ポチだっけ? お前しつこいぞ? 泥棒を身逃してやった上にメシまで食わせてやったんだから、もういいだろ」
「ポッチ! ボクはポッチだよ! じゃない、だからだよ! もぅ、わかってくおくれよ!」
「何をわかればいいんだよ。大体、メシ位でそんな恩義感じるなんておかしいだろ」
「そんなことないよ! ここらじゃドロボーなんて嬲り殺しは当たり前なのに、あんたらはボクにご飯まで御馳走してくれて……どうしてもこの恩に報いたいんだよ!」
「貴様しつこいぞ! そもそも、恩に報いるような殊勝な者が泥棒などするはずがないであろうが!」

 更に食い下がるポッチに怒声を浴びせたのは、イグナートであった。
 元々短気な方では無いが、主君を煩わせる存在にあえて怒りを纏わせた声を出したのであろう。
 しかし男の時分ならば迫力もあろう怒声は、声帯までも女のそれとなった今威圧できるような代物では無かった。
 が、ポッチにはある程度の効果があったらしい。
 彼女はイグナートの怒声に狐のように尖った耳を寝かせ、しゅんとしてしまう。
 それから、ピンと立てていた尻尾を股の間まで垂らして、急に声を小さくして俯いた。

「……しょうが無いじゃないか。ここは、そういう場所なんだ。とくにボクらみたいな非力な種族は体を売るか詐欺を働くか、そうでなきゃ泥棒するしか生きる方法はないんだ」

 外見は立って歩く犬そのものではあるが、声は少女の涙声であった。
 声は力無くなんとも憐れで、怒鳴ったイブナートすら思わずうっと呻いてばつの悪そうな表情を浮かべる。
 雷蔵もまた、肩を小さくするポッチを見て面倒くさそうに頭を掻きながら、半ば自棄気味にええい、くそと毒づいた。
 勿論今から甘い判断を下そうとしている己に対しての愚痴である。

「わぁったわぁった、話だけは聞いてやる。それからどうするか答えを出すが、それでも "案内人" はいらねえってなったら諦めるんだぞ?」

 果たして雷蔵の妥協はポッチにとっては天啓のように思えたらしい。
 彼女は弾かれたように顔をあげ、獣面を人のように笑顔で輝かせてほんと?! ありがとう! と叫び文字通り踊り出して喜んだ。
 つい先程まで股間の間に垂らしていた尻尾もぶんぶんと円を描くように振っている。
 対照的に、根負けしてしまった雷蔵は厳つい籠手を纏った右手で両目を覆い、はぁ、とため息を深く一つついた。
 『銀騎士』はそんな主君に少し困ったような、しかしどこか優しい顔で見つめ、苦笑を浮かべてとりあえず座って話しますか、と提案した。



 ポッチによれば、 "封印の地" には最下層のシリン村を除き『人間』は居ないらしい。
 シリン村についても『封印の門』が在り、そこを守るラミアの存在もあってか下へと近付く者はまずいない為、長い時を経た現在では『人間』は半ば伝説となっているのだとか。
 従って、 "ディスパイア・ウォール" の上層にある唯一にして最大の街『カラミティ』には人間ではなく、様々な亜人が跋扈する街であると言えよう。
 彼女の話から伺うカラミティの街は、そこに棲む者達は皆秩序を好まず、しかしそれぞれの勢力が複雑に絡み合った結果、無法の中に一定の秩序が生まれているようだ。

「とにかく、カラミティは "出口" に近寄るほど危険なんだ。非力だけど温厚で穏やかな性格であると伝わる『人間』が迂闊に近寄れば、たちまち住民の餌食さ」
「おい、脅かすなよ。それに俺達は非力じゃ無いぞ? 剣の腕前なんてちょっとしたもんだしな」
「腕っ節の強い、強くないはそんなに問題じゃ無いよ。カラミティの街は元々 "封印の地" に封じられた者達が外に出ないようにする為の迷宮だからね。いくらお兄さん達が住民より強くても、毒霧や落とし穴といった罠とかが山盛りあるんだ」
「げっ!」
「……しかし、腑に落ちませんね、御主君」
「ん? 何がだ?」
「ポッチ、君はどうして我々がそんな危ない場所に向かうと知っているんだ? それに我々がそんな危ない場所に向かっているとわかっていながら、どうして案内人になりたいんだね?」

 イグナートの質問に、ポッチは急に口をつぐみモジモジとした。
 つい先程まで嬉しそうに揺れていた尻尾は不安げに垂れ下がっている。
 考えてみれば、確かに腑に落ちない。
 自分達を騙して強盗団の巣にでも案内するつもりであるのだろうか?
 『銀騎士』は一瞬そう考えて鋭い視線をポッチに送ったが、ポッチの様子を伺うにどうも違うようだ。

「……その、君たちは……人間だろう?」
「ん? ああ、そうだけど?」
「だったら、当然 "出口" を目指しているんだろう?」
「んあ? だからなんだよ?」
「……伝承ではさ。 "封印の地" から外に出る事ができたのは、人間だけなんだ。その証拠にカラミティには人間は一人も居ない。だから、カラミティの連中は皆、人間を狙っているんだ」
「……ゾッとしない話だな」
「ええ」
「最近だって、人間が一人外に出たって噂が立っててさ」
「……だろうな」
「『人間は鍵を携えて出口に向かう。やがて彼らは "封印の地" より解放されるであろう』って言い伝えもあって。それでボク、君らが人間だって気が付いてから、その……ついて行きたくなったんだ」

 モジモジとした仕草は、うら若き乙女のソレであった。
 しかし残念ながら、二足歩行の獣がソレをやっても男のハートにグっと来ようはずがない。
 雷蔵は頭の片隅で勿体ないな、などと考えながらも、回りくどいポッチにやれやれと頭を振った。

「だったら、飯を盗まなくても……なあ?」
「いや、お兄さん達が人間だって気が付いたのは取り押さえられた後だし、さ!」
「だけど、君は……いや、君はそんな危ない街でどうやって我々を案内するつもりなんだい?」
「自慢じゃないけれど、ボクは凄く鼻が利くんだ。荒事は無理だけど罠を回避したり鍵を開ける事が得意なんだよ! それに、カラミティの事ならお姉さん達より詳しいよ?」

 ポッチはそう言って、むふんと鼻息も荒く胸を張った。
 犬頭のコボルドが言うとなるほど、 "鼻が利く" というのはかなり説得力がある。
 というか、確証が無くとも人語を話す犬がそう言うならばそれだけで納得してしまう雷蔵とイグナートであった。
 ちなみにカナメはというと、隣に座るイグナートの太ももを枕にノルンを抱えたまますやすやと寝息を立てている。
 精神までは幼児化しないとは言え、集中力や体力は幼い子供の物であるらしい。

「そりゃ、まあ……そうだろうな」
「ね?! 良いでしょ?! ボク、外の世界を見てみたいんだ。こんな、掃き溜めみたいな場所で泥棒して、見つかって殴られるような生活はもういやなんだよ!」
「う……お前、苦労してんだな……」
「あいや、お待ちください御主君。為政者たる者、このような時は情に流されず正しい判断を下さねばなりませぬぞ」
「お願いだよ "綺麗な奥さん" ! ボク、役に立つよう頑張るし、ごはんの恩だってきちんと感じてもいるんだ!」
「連れて行きましょうか、御主君。よく見れば中々見所のありそうな人材。何かの役に立つかも知れません」
「……お前、そんなに変わり身が早かったっけ?」

 呆れながらも雷蔵は、内心では何時もの調子? に戻りつつあるイグナートに安堵を覚えた。
 凛とした佇まいと時に見せる白痴のような振る舞いは、確実に勇者の記憶から男であった『銀騎士』を消し去っていく。
 それは女であるイグナートを受け入れつつあるという事を意味するのであるが、雷蔵はその事実に気がつかない。
 あるいは、気が付いて居るが考えないようにしているのか。
 答えは雷蔵自身にもわからなかったが、目の前のコボルドの申し出をどうするか、その答えは既に出ていた勇者であった。

「……命張ってまでは面倒見ないぞ? それに、騙したら承知しないからな?」
「ってことは!!」
「ああ。お前の親切の押し売りには負けたよ。」
「やったあ!」
「ふふ、御主君の慈悲に感謝するのですよ?」

 余程嬉しかったのか、ポッチは立ち上がり尻尾を千切れんばかりに振りながら飛び上がるようにして喜んだ。
 その様子はまるで子供のようだ。
 雷蔵は先程わし掴みした乳房の感触を思い起こしながらも、案外思っているよりも子供なのかもな、と考えながら早速新たな仲間に声を掛けた。

「ま、よろしくなポチ」
「ボクはポッチだよ!」






[25530] 13 仲間に入れてくれって言われても
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/04/03 19:13



 『咎人の街』カラミティ。

 かつて勇者に戦いを挑み "封印の地" へと送られた者達の末裔が跋扈する街である。
 街、というのは語弊があるのかも知れない。
 元々は "封印の地" に封じ込めた者達が外へ出ないよう、縦穴の上層に設置された大迷宮であったらしい。
 そこへ "彼ら" が殺到し、幾星霜の間迷宮の突破を夢見ながらやがてそこへ居着いていつしか街と呼ばれるようになったのだ。
 カラミティの住民構成は様々であったが、人間は一人も居ない。
 恐らくは非力な人間は長い時の果てに死に絶えたか、シリン村のように下へと移動していったのであろう。
 かくして残った者達は雷蔵達から見ると、ゴブリンやオークといった "伝承の種族" と言えるだろう。
 しかしそれは彼らにとって、人間こそ "伝承の種族" とも言えるのである。
 その理由に彼らの間で伝えられる人間の伝承があった。
 曰く、 "封印の地" の外へと続く迷宮を突破した唯一の存在が人間であり、その姿を見ないのは彼ら全てが迷宮を突破したからだ、というものだ。
 故に人間よりも遥かに力がある亜人達は、人間を見つけた時何をしでかすかわからない、とポッチは言った。

「で? それはわかったが、なんで俺達は下へと降りてるんだ? カラミティって街は上にあるんだろ?」
「準備だよ、ご主人様! なんたってご主人様達はニンゲンだもの! そんな目立つ格好でカラミティをウロウロしてたら、三歩も歩かない内にトロルかオグルに襲われるのがオチさ!」

 ポッチは尻尾をぴんと立ててそう言い、雷蔵とイグナートを見やった。
 地球製の衣服に身を包み、厳つい黒い籠手を右手にだけはめ、黒鞘の日本刀を持つ勇者。
 黒猫を抱え幼さが残る顔立ちと緑の髪が印象的な、白いワンピースを着た少女。
 白銀の鎧に身を包んだ、絶世の美女。
 なるほど、確かに目立つ組み合わせと外見である。
 ちなみに、彼女が雷蔵の事を『ご主人様』と呼んでいるのは、仲間となる際にイグナートの意を汲んだからだ。

「だから、この先にある "オーダー" に行くんだよ、ご主人様!」
「おーだー? なんだそれ。ポチが住んでる村か?」
「ポッチ! ボクが住んでる村っていうか、場所、かな? カラミティは無秩序だからね。比較的マシな連中が集まって出来た集落みたいなものなんだよ!」
「比較的マシなって、お前もドロボーじゃん」
「ボクらみたいな非力なコボルドはそうでもしないと生きていけないしね! それに、オーダーの中じゃドロボーや騙しは御法度なんだ!」
「へぇ。じゃあ、なにか? 店とかあんのか? あ、金っていうか通過って概念しってる?」
「それ位しってるよ! ここらじゃ腕っこきのドワーフが鋳造したドワーフ金貨や銀貨、銅貨が流通してるんだぞ!」
「……何をそんなに威張ってるのかがわからんが、凄いのか? イグナート」
「は。ドワーフが鋳造した貨幣……特に金貨は純度がケタ違いに高いとされ、地上では伝説になっている程です」
「おお、すごいんだな」
「たしか、南の国に数枚現存していた筈ですが……」
「そうだよ! ドワーフの冶金は凄いんだ! オーダーは商いをする必要がある場所でもあるからね!  "封印の地" で唯一商人が居る場所さ!」

 ポッチは自慢げに言って、鼻をフン! と鳴らした。
 どうやらオーダーと言う場所はそれなりの秩序が保たれているらしい。
 しかし尻尾を立て誇らしげに胸を張っていたポッチであったが、すぐに耳を寝かせ尻尾を垂らし、しゅんとしてモジモジとし始めてしまった。
 それから何か言いにくい事があるのかチラチラと雷蔵を盗み見して自身の指を絡ませ始める。

「? あんだよ、ポチ」
「で、ね? その、買い物をするためにはお金が必要なんだ」
「だろうな」
「その、ボク、ドロボーでしょ? だから、お金、ないの」
「あー、なるほどな。だけど俺たちだってもってねえぞ?」
「うん、だから、ね? その、この前食べさせてもらった、 "ふらいどちきん" っていうの、作ってもらえないかな?」

 言って、ポッチはチラリと上目遣いに雷蔵を盗み見した。
 モジモジとする仕草は非常に女の子らしい仕草で愛らしかったが、如何せん獣の姿である。
 当然雷蔵の琴線に触れるようなものではなかったものの、話の道理が通ってはいたので提案自体は受け入れる事にした雷蔵であった。

「ま、いいけど……そんな沢山は無理だぞ?」
「ホント?! 3つ……ううん、4つでいいよ!」
「4つか。カナメ、 "調整" はどうだ?」
「んー、むり。さっきのぶんで、ギリギリだし。もういちにちためこめばいいけど……」
「おっけ。ま、4つ程度ならなんとかなるさ」
「御主君……なんとお優しい……。ポッチ。御主君が身を削って作るのです。少しでも高く売ってくるのですよ?」
「お前が一番食ってたんだけどな、フライドチキン」
「じ、事情を知っていれば節制しましたよ! ホントですよ、御主君!」
「うん! わかったよ! ご主人様、……えっと、クワガタサマ?」
「奥方。オクガタ。もう一度? あだっ!」
「ポチに妙な事吹き込むんじゃねえ!」
「ポッチ! あ、オクガタサマ、ご主人様、とにかく、ありがとう!」

 雷蔵は呆れ眼で小突いたイグナートを一睨みしながらも、その辺に落ちているこぶし大の石を4つ拾いあげ、フライドチキンを4つ作り出した。
  "食事支援" を使用した為、右手の籠手がパキパキと音が鳴らしたが今回は量が少ない為か目に見えて成長はしていないようだ。
 やがて雷蔵の手の中に丁寧に銀紙が巻かれた、大ぶりのフライドチキンが4つ現れる。
 如何なる仕組みで効果を発揮しているのか、湯気が立っており辺りには香ばしい匂いがたちこめた。
 イグナートとカナメがそれらに物欲しそうな視線を投げかけたが、雷蔵は気にせずポッチに落とすなよ、と付け足しフライドチキンを手渡してやる。
 ポッチは差し出されたフライドチキンを派手に尻尾を振りながら受け取り、大事そうに抱えた。

「ここでまってて! 換金したら、目立たないようローブを先に買って来るから! そしたら、みんなでオーダーの中に入ろうね!」

 言い終わらぬ内にポッチは雷蔵達に背を向け、緩い下り坂を走って行く。
 道は "ディスパイアウォール" に沿ったものではなく、ポッチと出会った場所から少し戻った位置に目立たぬような位置にあった、横穴の先に続いていた小道だ。
 一見洞窟のような小道はやはりどこからか、 "ディスパイアウォール" の上部から差し込む光が入ってきていて比較的明るい。
 故にかフライドチキンを大事そうに抱え走り去るポッチの、毛むくじゃらの背中がよく見えた。

「……なぁ。ポチの話、本当かな?」
「嘘を付いているようには見えませんでしたし、信じてみてもよいかと」
「……うう、ライゾウ。おなかへったぁ」
「我慢しろよ。お前もう俺に回す魔力ねぇんだし」
「うぅ~、しばらくはライゾウのごはん、おあずけかぁ」
「……外に出るまでの辛抱ですぞ、カナメ殿」
「二人ともそんな顔すんなよ。何食かに一回位は作ってやるからさ」

 雷蔵の慰めに答えたのは、ぐぅ、という二人の腹の音であった。



 小一時間ほど経ってからか。

 ポッチが雷蔵達の元へ戻って来た。
 その手には人数分の質素なローブが抱きかかえられている。
 どうやら無事フライドチキンを換金できたらしい。
 しかし、目的の遂行が順調であったとは言えなかったようだ。

「――ポチ。そちらの、えっと?」

 雷蔵の問いにポッチはぷぃっと横を向く。
 対照的にポッチの隣に立っている、ずんぐりとした髭もじゃの小男は眼光鋭くギロリと雷蔵を睨んでいた。
 小男は小汚い格好をしており、地面に届かんばかりの髭とボサボサの赤茶色の髪が印象的で、足よりも長く太そうな隆々とした両腕も毛むくじゃらである。
 右手に巨大な鉄の鎚のようなものを担いでおり、一見すると背の低い戦士のような出で立ちだ。
 また、辺りにはすえた不快な臭いが立ちこめていて、その臭いの出所はどうやらこの小男であるらしい。
 勿論、なぜ彼がポッチと共に雷蔵達の下へとやって来たのか、理解出来る者はいない。

「オメがこの、ふりゃーどてきんってのを作った奴か?!」

 声は大きくダミ声であった。
 しかし威圧的ではあるが、敵意は感じられない。
 雷蔵は思わずコクリ、と頷いてしまう。
 そんな勇者にポッチはオドオドとしながらも、言い訳のような言葉をかけた。

「ご、ごめんよ、ご主人様……。その、この人がどうしてもボクの話を信じられないっていうから、さ」
「ったりめぇでよ! だぁれがコボルドの持って来たもんとオデの金貨を換金できっかよぉ!」
「え? でも、ポチ。お前の持ってるローブ……」
「こいつはオデのもんべさ! まさかこのガキの話が本当だと思ってなくてよぉ? 盗んだもんをオデん所に売りに来るような連中をとっちめてやろうと、持たせておいたんでよう!」

 小男はそう言って、豪快に笑った。
 対照的に何が何だかわからず、雷蔵達はポカンを口を開き成り行きを見守っている。
 唯一事情を理解しているであろうポッチはというと、少し落ち着かないといった体で俯いていた。
 小男の誤解は解けたにもかかわらず浮いた様子を見せない辺り、まだ何かあるらしい。

「えっと……よくわからないんだけど、誤解は、解けたみたい、なんだよな、ポッチ?」
「それが……」
「のぅ、おんしら! おんしら、ニンゲンなんじゃろ?!」
「ほえ?!」
「ええ、まぁ……」
「がはは! オデは運がいい! のぅ、上に向かうんじゃろ? オデも連れて行ってくれんか?!」
「はぁ?!」
「ポッチ?!」
「うう、ゴメン。その、つい、ふらいどちきんの出所を説明するのに、ご主人様達の事を……」
「のう、ええじゃろう?! オデは役に立つでよ! なんせ、鍛冶と冶金の事ならなんでん、わかる! 貨幣や貴金属の真贋鑑定、あと占いもできるでの!」

 言って小男はにぃ、と白い歯を剥きながらずいと雷蔵にその顔を近付けて来た。
 風呂どころか体も拭いていないのだろう。
 かなりの悪臭が容赦無く雷蔵の鼻を突く。
 これ程の臭いが鼻の穴を通り肺の中へ入り込むのか、と考えれば万人が嘔吐するであろう臭いだ。
 よって雷蔵が思わず鼻を摘んでしまってもマナー違反にはならないだろう。
 ポッチとは違う意味で全身毛むくじゃらの小男は、思わず鼻を摘む雷蔵のことを気にも留めずにもう一度、いいじゃろ? と詰め寄った。

「で、でもだな。いきなり見ず知らずの奴に仲間に入れてくれって言われても……」
「そりゃ、ま、そうべさな! じゃ、どうすりゃ信じて貰えるだ?!」
「どうすりゃ、って、なあ?」

 詰め寄る小男の迫力にたまらず、雷蔵がイグナートの方へ助けを求めるように視線を投げる。
 しかし、イグナートとカナメは小男の悪臭に耐えかねてか、かなり離れた位置に退避していたのだった。
 勇者は慌ててポッチの方へ向き直るも、こちらもかなり距離を置いた位置へと移動をしている。

「なあ?! オデ、どうすりゃいいでよ?」
「うぷ、く、クサっ!」
「ん? 臭い? むー、そういや、最後に体洗ったの、いつだったか? まあ、細かい事はきにすんな! それよりも、 オデ、どうすりゃいいでよ?!」

 更に雷蔵へ詰め寄る小男。
 悪臭も更に強く勇者の鼻腔と肺に纏わり付く。
 いつの間にか両腕ががっしと逞しくごつい手で拘束されていた為、逃げる事も叶わない。
 そして、あまりに強い悪臭に意識を混濁とさせられ、たまりかねた雷蔵が思わず口にした言葉は。

「ふ……」
「んあ?! ふ?」
「風呂に入ってくれ、ぇ……」
「がはは、フロか! よっしゃ、そんなもんでいいんだな!」

 雷蔵はそこでやっと拘束を解かれ、えづきながら地を這うように小男から距離を置くのだった。
 仲間に入れる条件として、思わず『風呂に入れ』と口走った雷蔵を責める者は居ない。
 いや、この場合は彼一人置いて逃げた事を責め立てる権利が雷蔵にはあるだろう。
 未だ豪快に笑う小男は、雷蔵に詰め寄った時に思わず放り出していた巨大な鉄鎚を拾いあげながらそうか、風呂か、と口にして雷蔵の事など見向きもしなくなっている。
 どうやら他人があからさまに自分の体臭を嫌っていようと、気にしたりはしない性格らしい。
 そもそも体臭を気にするのならば、近寄れないほど悪臭漂う姿にはなりようも無いだろう。

「あの……」
「おう! コボルドのガキ! そういや、金を払ってなかったな! ほれ、好きなだけもってけ。紹介料として色つけてやっぺ!」

 小男はそう言って、懐から革の小袋を出してポッチに向けて放り投げた。
 それから、恐らくはポッチから取り上げていたのであろう。
 見覚えのあるフライドチキンを3つ、取り出して豪快にかじりつく。
 同時に一瞬、動きを止めたかと思えば次の瞬間には猛烈な勢いで食べ始めあっという間に3つとも平らげてしまうのであった。

「うぉ! こ、こりゃうめえ! ニンゲンってのはいつもこんなもん食ってんのか?」
「うっぷ、ま、まあ、な。毎食ってのは無理だが、外に出る事ができりゃいくらで……」
「すっげえ! ホント、ニンゲンってすげえベな!」
「おぅふ! ち、近寄るんじゃねえ! 風呂に入ったら近寄っていいから! な?! な?!」
「がはは、そうつれねえこと言うでねえべさ!」

 余計な一言だった、と後で思う雷蔵である。
 嗜虐心を刺激されたのか、それともより友好的に接しようとしたのか。
 はたまた美味な食料を食べられる喜びからか、小男は這い逃げる雷蔵を捕まえひょいと持ち上げて思いっきりハグをしたのでだった。
 辺りに絹を裂くような叫びが響いたが、助けようとする者はいない。
 鉄の忠誠を誇るイグナートでさえ、まあ、命の危険は無さそうだし、とかアレは友好的なスキンシップであろう、等と己に言い聞かせている始末である。
 そんな "彼女" の手を何時の間に移動してきたのか、ポッチが引いた。
 その両手には、先程投げて寄こした小男の革袋の端が摘まれている。

「ねね、オクガタサマ。これ、見て! スゴイよ!」
「ん? ……これは!? ドワーフ金貨がこんなに!」
「おお! これだけあれば……って、どのくらいすごいの? ぽっち」
「んとね、とりあえずすっごく長い間は遊んで暮らせる位! 流石ドワーフだよね!」
「ドワーフ?!」
「ウン、ドワーフ。あの人の事だよ!」

 ポッチはそう言いながら未だ雷蔵を抱きしめ続ける小男を指差した。
 小男に抱きしめられている雷蔵はグッタリとしている。
 髪と同じ色の髭は雷蔵が埋められている辺りが変色している事から、勇者はどうやら耐えきれず吐いてしまったらしい。
 ――しかし、それでも小男は気にしていない様子で雷蔵を抱きしめ続けている。
 どうやら自分の体臭おろか、他人の吐瀉物を浴びても気にするような精神構造ではないようだ。
 グラズヘイムではドワーフは地精の一種とされ、勿論地上には "存在しない" とされていた。
 彼らは鍛冶と冶金を司り、ドワーフ金貨を始め僅かながら地上に遺された品は、非常に貴重で高価な品ばかりであった。
 更に魔法の品を作成する事にも長けており、しばしば魔術師と混同され、イグナートの白銀の鎧を打ったのもドワーフであると伝えられている程である。
 その為かドワーフは地上に住む軍人や剣士などからは神格化される程であり、イグナートも尊敬の念をドワーフには抱いていたのだが。
 しかし目の前の光景は、グラズヘイムの英傑『銀騎士』にどう映っているのか。

「……流石、御主君。ドワーフにあれ程の愛されようとは」
「んー、あたしにはイヤガラセをされているようにしかみえないけど?」
「そんな事無いよ! ドワーフは気むずかしい種族だし! 流石ご主人様だよ!」
「そうですよ、カナメ殿」
「そう? じゃ、イグナートもアレにまじって」
「御主君を差し置いてそのような事はできません。ふけ――じゃない、不忠です」
「いま、ふけつっていいそうになったよね?」
「それはそうと、ポッチ」
「ん? なあにオクガタサマ!」
「あのドワーフが食べていた "ふらいどちきん" は3つ。あと一つはどうしたのですか?」

 問いにポッチはぷぃっと顔を伏せ目をイグナートから逸らした。
 耳はペタンと寝て尻尾も股の間に挟み込んでいる。
 その様子から、あのドワーフが4つあるフライドチキンを1つだけ取って置いているわけでは無さそうだ。

 果たして雷蔵がドワーフの腕の中から救出されたのは、ポッチが足りないフライドチキンの行方をイグナートとカナメに白状してからであった。






[25530] 14 ちがうじゃねえか!
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/04/10 02:04



「むー? どうした? ……ふむ、おんし、ものっそ女難の相がでとるでよ?」

 ゲルドと名乗ったドワーフは呆然とする雷蔵にずい、と顔を近付けてそう言った。
 まるでモップのように伸びた赤い髭や眉毛からは、猛烈な臭気が立ち上っている。
 しかし雷蔵はこの時ばかりは我を忘れ、しばし目の前の建物に魅入ってしまっていた。
 場所は "オーダー" という集落から "ディスパイアウォール" の方角へ少し戻り、途中にある横穴を降りていった先にあった、とある場所。
 そこはポッチやゲルドを始めとした、 "オーダー" 周辺で生活している "比較的真っ当な人々" の憩いの場所であり、貴重な水場でもあり……

「御主君?」
「ライゾウ?」
「ご主人様?」
「むー? どうしたあ、おんし。女難の相が出とると言われた事が、そんない、ショックか?」

 遠く離れた仲間達おろか直ぐ側にある異臭の塊からの言葉は、雷蔵に届いてはいない。
 それほど目の前の光景が雷蔵にはショックであったからだ。
 なぜならば。
 ――『閉じた世界』グラズヘイムは、雷蔵にとってファンタジーの世界がそのまま形を成したかのような異世界である。
 地上では『時の魔女』ノルンを代表とした魔法を使う存在は少数であったものの、中世欧州を清潔にしたかのような生活が垣間見られた。
  "封印の地" に堕ちた後は魔物やドワーフなどの亜人が身近となり、雷蔵にとっては正に『ファンタジー』を実感せざるを得ない世界こそ、グラズヘイムであったのだ。
 そんな現実は雷蔵の適応能力を知らず強い物と変えていく。
 例えば、今目の前を通り過ぎた恐ろしげな外見を持つ、オークと呼ばれる豚頭の亜人を見ても雷蔵は驚いたりはしない。
 オークの後からノームという、老人のような顔と長い顎髭を持つ小人の集団を見ても同様だ。
 更にそのノームが引き連れている、恐らくはペットであろう、人面の犬を見ても決して驚いたりはしない。
 そんな雷蔵を、オークやノーム達が思わず避けて通るほど凄まじい異臭を放つゲルドが直ぐ近くまで顔を寄せても気が付かないほど、呆然とさせる物が目の前にあった。

「……なんでだ?」
「? あんだあ? おんし、あにいってるでよ?」
「なんで、あそこに『ゆ』って書いてあるんだ?」

 そう言って雷蔵は夢遊病にかかったように黒い籠手をはめた右手を挙げ、目の前の建物を指し示した。
 建物は木造で大きく、入り口の上部には大きな布が垂らされている。
 布にはこれまた大きく、雷蔵が久々に見る書体で一文字「ゆ」とだけ描かれていたのだった。
 その文字はどう見ても日本語のひらがなであり、建物の作りこそ洋館であったが入り口から出入りしている亜人達の様子を見るに、どう考えても1つの心当たりしか浮かばない雷蔵であった。

「ああん? あれ、YUって読むのか? ほええ、ニンゲンってのは賢いでよう!」
「流石です、御主君」
「……んー、でもなんでライゾウ、あんなに驚いてるの? たしかにあの模様、ってか文字? は珍しいしあたしのライブラリには情報が無いけど……」
 にゃあ
「ご主人様、賢い?」
「ええ、ポッチ。御主君はとても賢いのです」
「でも建物自体は地上にもあった風呂屋みたいだし。こんな地下にあるのは驚きだけど……あそこまで驚くようなものじゃないよ?」

 ありえない。
 イグナート達の呼びかけに雷蔵は忙としてつぶやく。
 目の前にあるのが、恐らくは銭湯か温泉宿……それも地球にあったものとまったく同じ用途の建物であるのだから、無理もない話である。
 ――何より、どうしてあんな暖簾が?
 自問に答える者など居ない。
 異世界の地の果て、薄暗い穴の底でいきなり現れたそれは雷蔵にとって異物でしか無かった。

「おぉい、おんし! いい加減、茫っとするのをやめれ。風呂に入れって言ったのはおんしでよ?」
「――そりゃ、確かに風呂に入れって言ったけどさあ……!? くっせぇ! ゲ、ゲルド?! いつの間に!」
「んあ? さっきからここにいるでよ?」
「おっぷ! す、すまん! 悪いが離れてくれないか?!」
「がはは! ニンゲンってのはシャイなんでよ!」
「ぐあああ! だから何でそこでハグす、う、う、うぷ」
「御主君……おいたわしや」
「助けに入ったら? イグナート」
「ゲルド殿とのスキンシップ中にそれは無粋というものですよ、カナメ殿」
「あ。ご主人様がまた吐いた」
「どうせこのあと水浴びでもするのでしょう? 大丈夫ですよ」
「なにが大丈夫なんだか……」
 にゃあ
「あ、ノルンはあたしが洗ってあげるね。ふふふ、なあに? そんなに喜んじゃって」
 ふぎゃあ?!
「ボクにはすごくイヤがっている風に見えるよ!」
「ええ、私もイヤがって暴れている風にしかみえないのですが……カナメ殿?」
「しらないの? ノルンってこう見えて恥ずかしがり屋なのよ」
「恥ずかしがり屋? 魔女殿が?」
「ん? だれそれ?」
「この猫のことよ、ポッチ。元々悪い魔法使いだったんだけど、ある日天罰が下って神様にネコにされちゃったのよ」

 カナメは身の危険を察し暴れるノルンを器用に押さえ込みながら、天使のような笑みを浮かべてポッチに説明した。
 その様は少しおませな少女が、ペットの飼い犬相手にままごとをしているかのよう。
 ポッチもカナメの説明に素直に感心して、そうなんだ! とあっさりと納得するのである。
 二人のやり取りは非常にほのぼのとした光景であり、イグナートは思わず目を細め微笑んでしまう。
 が、そこから少し離れた場所では勇者がこの世の地獄をたっぷりと嗅いで、新たな異世界へと旅立たんばかりに意識を失いつつあったのだった。
 ともあれ、一行は思いがけずキチンとした施設で湯浴みをする事となったのである。
 建物の内部は雷蔵の想像通り、『銭湯』であった。
 つまり男湯と女湯に別れた構造となっており、湯船が用意され利用客は料金を払いそこで体を洗うという仕組みである。
 ポッチによれば、湯屋は "封印の地" にあって唯一精霊と会話ができる黒エルフによって経営をされているのだとか。
 厳密にはドワーフであるゲルドも地精の一種なのだが、黒エルフ達が交渉する精霊はもっと上位の、肉体を持たない類の精霊であった。
 この "湯屋" の場合は水の精を使役して遥か下方、シリン村よりも深い位置から水をくみ上げ、火の精であるサラマンダーを使い水を湯にして、 "オーダー" を利用する者達に提供していたのだ。
 建物や湯の沸かし方はまるで違うとはいえ、雷蔵の故郷、地球の日本でよく見られる銭湯と良く似た黒エルフの湯屋ではあったが、幾つか決定的に違う決まり事もある。
 まず、湯船などを利用する場合、用意された湯衣を着用しても良い事。
 それから、基本的には管理者である黒エルフの指示は絶対である事。
 最後にドワーフの利用客は通常の十倍の料金を取られてしまう事などが挙げられる。

「がはは、んだでよ、オデらドワーフは風呂嫌いなんでよ!」
「……そうなのか? ポチ。そりゃまあ、そんなに臭けりゃ……」
「えー! ちがうよ! ドワーフは元々こうだよ! ドワーフだけ料金が高いのは、以前黒エルフとの種族間で戦があってそれ以来険悪になってるからだよ! っていうか、ボクはポッチ!」
「あ。そういえば、そんな伝承もありましたね。私も絵本などでよく乳母から読み聞かされた覚えがあります」
「ちがうじゃねえか!」
「がはは、きにすない! オデ達は気にしちゃあいねえでよ。あの黒い耳長共はやったら根に持つからいけねえべさ!」

 ゲルドはガハハと笑いながらそう言って、ズンズンと意外と広い湯屋のエントランスを進んで行く。
 湯屋は中々に繁盛しているようで、雷蔵達の他にも亜人の客達がそこかしこに居たのだったが、彼らはゲルドを見るや――

「ひぃ?! ドワーフだ! ドワーフが来たぞ!」
「なんてこった! なんでよりによって今日なんだよ! 畜生!」
「ちょ、ちょっとお客さん! 待って! ドワーフの方は専用の――く、くっせえ!」
「おい! 支配人呼んでこい! くそ、だから入り口に臭いコウモリを置くようにって言ったのに!」

 ――といった風に、雇われのゴブリンらしき亜人は慌てふためき、他の客はパニックを起こし、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまう始末であった。
 一応雷蔵とイグナート、そしてカナメは人間であるとバレないようフード付きのマントを羽織って居たのだが、慌てて外へと逃げて行く亜人達を見るにどうやら必要ではなかったようだ。
 ちなみに、最初ポッチが持っていたゲルドのローブはあまりの悪臭であった為、直ぐに廃棄されていた。
 今彼らが着ているものは、ポッチが得たばかりのドワーフ金貨をもって "オーダー" で買い求めた物である。
 やがて湯屋からは全ての亜人の姿が消え去り、従業員と雷蔵達だけが残った。

「がはは! おんし、どうでよ? ここはいつも空いてるで、オデのお気に入りなんでよ!」
「うそつけ! 営業妨害も良い所じゃねえか! それにお気に入りならなんでそんなに臭いんだよ!」
「あ、ライゾウって結構容赦無いツッコミいれるのね」
「そこが御主君のステキな所なんです。責める時は戦場でも閨でも容赦無い所など、特に」
「そうなの? オクガタサマ。あ、そっか! だから何度も殴られて笑っているんだ? 人間って変なの!」
「わはは、おんし! 小さい事は気にすない! さあさあ、風呂に入るでよ!」

 ゲルドは従業員の亜人が近寄れないのを良い事に、豪快に笑いながら湯殿のある奥へ料金も払わずに進んで行く。
 しかし次の瞬間。
 そのずんぐりとした足下に一本の矢が突き刺さった。

「おわ?!」
「ゲルド! 誰だ!」
「……ふん、小汚いドワーフの分際でよくも私の店にこれた物だな」

 声は矢が飛んできた上から。
 見上げると湯屋のエントランスから見える2階の廊下に、弓を構えた長身の女が見えた。
 女は背が高く、イグナートの銀髪よりも更に白く長い髪が印象的でその肌は浅黒い。
 対照的に本来赤く見える筈の唇はピンクに見えて、細い体躯や切れ目だが整った顔立ちと相まってイグナートとは別種の美を体現していた。
 何より、白い髪から水平にせり出した尖った耳は、初めて見る亜人であるにもかかわらず雷蔵に彼女こそ、黒エルフであると知らしめる。

「ふん! またオメか! 金なら前回、100回は入れるほどくれてやったでよ!」
「金の話ではない。ルールの話だ。ゲルド、忘れたか? 貴様らドワーフは他の客の迷惑になる故、専用の湯に入るよう取り決めた筈」
「えらそーに! 支配人だかなんだかしらねが、オデは黒エルフの指図はうけね!」
「ならば出て行け。ここは我の場所だ。連れの者だけなら別にいいだろうが……」

 女は言いながら、視線をゆっくりと移してフード付マントを被る雷蔵達を観察するように見回した。
 一瞬視線を交えた雷蔵は、得体の知れない圧力を感じて思わず身を強ばらせる。
 切れ目から覗く女の瞳はまるで猛禽類のような眼光を纏い、まるで獲物の戦力を見定めるかのような迫力があったからだ。
 雷蔵の隣に居たイグナートも同様の感想を持ったのか、視線を合わせた瞬間がわかるほど一瞬だけ剣気を身に纏って警戒を露わにした。

「むー、おんし、すまんのう。すこし待ってはくれんか? 先にあの石頭のアバズレと話をつける必要が……」

 すっかり人気の無くなった湯屋のエントランス。
 流石に空気を読んだゲルドが雷蔵の方に振り返り、すまなそうに話しかけた時である。
 突如、意外な人物がゲルドの言葉を遮った。
 その人物は他ならぬ、黒エルフの女であった。

「――気が変わった。ゲルド、一般の風呂は諦めるかわりにお前とお前の連れに特別な風呂を用意してやる。我ら黒エルフ用の上等な奴だ。それで手を打たないか?」
「なぬ? オメ、どういう風の吹き回しだ?」
「ふん。気ままな風を順風にした、連れの者に感謝するのだな」

 黒エルフの女支配人はそう言って、従業員の亜人になにやら指示を出し、2階の奥へと消えていった。
 雷蔵達は理由も分からぬまましばしその場に立ち尽くしたが、従業員の亜人が奥へと案内しに近寄ってきた所で、どうやら場はまるく収まったらしいと理解する。
 やがて建物の奥へと案内され、支配人が言っていた "特別な風呂" へと通された一行が見た物は。

「すっげ……」
「ほぉ。黒エルフはこれだけの水をガメとったでよ?!」
「なんと見事な……」
「わあ! ボク、こんなの初めて!」
「みてみて! ここ、全部個人用の湯船に別れているみたい!」

 建物の奥にあったのは、果たして巨大な湯の滝であった。
 如何なる仕組みであるのか、瀑布の音はその湯殿に入るまで一切外に漏れ出ていない。
 滝壺から雷蔵達が居る湯殿の入り口まではかなりの距離があり、巨大な岩でいくつかの通路が仕切られて奥へと続いて居る。
 湯殿はかなり広く、天井が見えぬほど高い事から建物の内部に設えた湯殿ではなく、露天であるようだ。
 また、正面の通路の先にチラリと見える湯船のサイズから、どうやら一人で一つの湯船を使う湯殿でもあるらしい。
 雷蔵の故郷である日本ではそれ程珍しい物では無かったが、グラズヘイムでは個人用の湯船を用意するような湯屋は無く、成る程黒エルフの女のの言うとおりそこは "特別な風呂" であるようだ。
 各通路の入り口には籠が置いてあり、その中に男女の浴衣が一着ずつ納められている。

「……なんだか気味悪いな」
「ええ。もしら、我らが人間であるとバレた、とか?」
「まさか! フードを被ってたし、いくら目の良い黒エルフでも見た事も無い人間を識別出来るはずはないよ!」
「がはは、おんしは細かい事をきにしすぎべさ! さっさと入るでよ!」
「ふふふ、いこっかあ、ノルン。あたしと二人っきり、じっくりと話し合いましょ?」
 ふぎゃあ!

 黒エルフの女の意図がいまだ掴めぬ雷蔵とイグナート、ポッチを余所にカナメとゲルドは思い思いの通路へと立って早速服を脱ぎ始めた。
 その脳天気な行動に頭を抱えそうになる雷蔵ではあったが、よくよく考えても思い当たる所など在ろう筈も無い。
 結局、とりあえずは武器さえ手放さなければいいか、と三人で結論を出して久しぶりの風呂を楽しむ事にした雷蔵達であった。
 しかし、現在の状況に一応の納得をしたのもつかの間。
 雷蔵は上着を脱いだ所である事に気がつく。

「……イグナート」
「は」
「お前、なんで俺と同じ通路の前に居て、鎧を脱ぎはじめているんだ?」
「勿論、御主君と一緒に」
「ハウス!」
「御主君! 私はポッチではありません!」
「うるせえ! 風呂くらい一人でゆっくり入らせろ!」
「……地上に居た時は我が妹を始め、常に複数の女性と風呂を "楽しんで" おられていたじゃないですか」
「う……い、今は一人がいいんだよ!」
「むぅ……だめ、でしょうか?」
「ダメ」
「ホントに?」
「ハウス!」
「わあ! ご主人様! 今こっち向いちゃダメ! ボク、まだ湯衣着てない! 脱いでる途中!」
「お前はいつもズボンしかはいて無いだろうが! 見ろイグナート、ポチに言いがかりをつけられちまった!」
「ボクはポッチ! 恥ずかしいものは恥ずかしいんだよ、もう!」
「うう……やはり御主君は……」
「ちがう! あぁもう! 命令! そっちの風呂に入っとけよ!」
「……御意」
「ほ。あたしは間に合った」
「カナメのも見ねぇよ!」
「どうだか。さ、いーきーまーしょうか、ノルン? たぁっぷり洗ってあげる」
 みぎゃあ!

 隣にいるイグナートが服を脱ぎ始めない内に、他の通路前の方へ蹴り出そうと振り返った雷蔵であったのだが。
 脱衣所の構造故か、脱衣の途中であった他の女性陣から思い思いに抗議を受け頭を抱え込んでしまう結果となった。
 一行の中に "真っ当な女性" が居れば雷蔵とて気が回ったであろう。
 しかし、一人は元男、一人は幼子、一人は犬人間、一人はずんぐりとした小汚い乞食のようなおっさんである。
 見てくれだけは女神像もかくやと思わせる女体を手に入れたイグナートにさえ、注意を払っておけばよいと考えてしまうのも無理からぬ話であろう。
 この時、勇者の脳裏にふと先程のゲルドの言葉が思い起こされる。
  "おんし、ものっそ女難の相がでとるでよ? "
 ――ああ、そうだ。
 確かにこりゃ女難だ。
 ……いや、イグナートの場合はどうなるんだ?
 いやいやいや、女難っちゃあ女難か。
 ……今更って感もあるけれど。
 そういや、ゲルドは占いも出来るって言ってたな。
 案外当たるもん……だ……な?!
 そこまで考えて、雷蔵の思考は停止する。
 ふと視線を送った先でゲルドが相も変わらず豪快に笑いながら、 "女性用の湯衣" を着て通路の奥へ消えていく背中が見えたからだ。
 真に。
 真に信じがたい話ではあったが、ゲルドは "女性" であるらしい。

 どうやら勇者の女難は、まだまだ続くようであった。






[25530] 15 もしかして邪魔だった?
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/04/16 14:11



 改めて見た己の体は、まごうことなき女体であった。

 黒エルフによって計らずも供された湯に浸る、『銀騎士』の感想である。
 元々男であった "彼女" は邪魔な湯衣は早々に脱ぎ捨てており、湯船に浮かぶ二つの巨大な膨らみを眺めながら、忠誠を捧げる主について想いを馳せた。
 王族であり武人でもあるイグナートにとって、衆道(男色)は特に禁忌でもなんでもない。
 これは恋愛の自由などありもしない王家にあって、衆道は一種高尚な性癖とされており、また略奪行為を禁じた軍においても性欲処理を "気軽に" 行える利もあったからだ。
 故に。
 武人でもある "彼" が一年足らずの間に、人智を超えた力を発揮する己の主君に想いを寄せるようになったのはごく自然な成り行きと言えた。
 何せ彼の主君はその剣の一振りで立ちはだかるあらゆる存在を、文字通り立てこもる要塞ごと粉砕するのである。
 また、彼の価値観から見て主君である雷蔵の "無欲さ" は武人の鑑であるがごとく、質素であったのも強く興味を惹き付けた。
 更には『銀騎士』が見る主の外見は、決して凶悪な力を悟られぬ程茫として華奢であり、そのギャップがたまらなくイグナートの心を揺さぶるのである。
 一方で、貴人とは思えぬほどの気さくさをもって他者に当たる雷蔵の価値観は、絶えず『銀騎士』に感銘を与え続けてもいた。
 早い話がいつの頃からか、イグナートはすっかり雷蔵に心酔しきっていたのだ。
 勿論とうの昔に雷蔵は衆道(男色)の趣味は無い事を察してはいた『銀騎士』ではあったのだが。

「……いや、しかし。これは正に天佑ではなかろうか」

 呟きは "彼女" 自身、聞き取れないほど小さな物。
 確証は無いが、地上に戻れれば恐らく『時の魔女』ノルンは復活するだろう。
 その先に彼女の弟子であったカノープスという魔導士との対決が待っているであろうが、その後、グラズヘイム大陸の再統一の為には自分自身、男に戻る必要が出てくる。
 なぜならば、雷蔵が『銀騎士』を欲したのは勇者の名代として軍を率いて各地を転戦する才を必要としたからだ。
 女の身のまま、その大業を成し遂げることは難しくも不可能ではないだろうが、やはり男の体であった方が何かと都合が良い。
 ……と、言う事は。

「やはりこの際、女性の身である内になんとしても寵を頂いておかねば。衆道に興味の無い御主君の事だ。この機を逃せば……」
「御主君、とはまた妙な物言いだな。あの中にそなたの主が居るのか?」

 意を決し、持てる体(戦力)を最大限に利用して雷蔵の理性を責めようと、湯船から立ち上がった時である。
 背後の脱衣所がある方角から馴染みの無い声がした。
 瞬間、イグナートは弾かれたように身を翻して、近くの湯船の端に置いてあった愛剣 "ウラディスラフ" を手に取り、腰だめのまま声のした方へ切っ先を向ける。
 剣を近くに置いていたのは、突如湯を提供して来たあの黒エルフの思惑が計れなかったからだ。

「フフ……中々の動きだな。が、その剣。いささか身の丈に合っていないのではないかね? 重みで切っ先が下がってきているぞ」
「誰……ぞ?!」

 そこに居たのは、あの支配人と呼ばれていた黒エルフの女である。
 彼女は一糸纏わぬ姿のまま、湯船の縁に立ってイグナートを見下ろしていた。
 ふくらはぎまで伸びた白い髪は絹糸のような細かさで浅黒い肌に散らばり、胸は薄いが余分な肉が一切付いていない細い体と美貌がその美を更に引き立てる。
 例えるならば彫刻。
 イグナートの美貌を絶世と評するならば、黒エルフの女は隔世と言うべきか。
 神話の時代に生きた美の妖精のようなしなやかな肉体に、イグナートは一瞬だけ見惚れてしまう。
 そんな『銀騎士』の視線を察してか、女支配人は妖しく笑みを浮かべながらそのまま湯船に降りて来るのであった。

「そう警戒するな。我に悪意はない。例えそなたが『ニンゲン』であろうと、な」
「……なんの用でしょうか?」
「ふん、剣は降ろさぬか」

 イグナートの問いかけは無視して、女は髪の先を湯に浸しながらパチン、と一つ指を鳴らした。
 同時に突如、イグナートの周囲の湯がまるで生き物の様に吹き上がり、凄まじい水流となって構えた剣に纏わり付く。
  "剛力の籠手" を使用しているなら兎も角、今のイグナートは非力な女の体である。
 やがて水流の勢いに握力が負け、とうとう愛剣を手放してしまう『銀騎士』であった。
 大蛇のように蠢き続ける水流は、イグナートの愛剣を飲み込んだまま脱衣所の方へと飛んでいってしまい、程なく地に剣が落ちる金属音が響いてきた。

「おのれ!」
「怒るな。剣を向け続けるそなたが悪いのだ。それに、我には悪意は無い、と先も言ったであろう?」
「……もう一度問おう。なんのつもりだ?」

 『銀騎士』の声は警戒も露わに冷たい。
 しかし女は気にしたそぶりは見せず、美貌に薄く笑みを浮かべゆっくりと前へ進み出た。
 互いに裸、身を守る物は布きれ一枚としてない。
 いや、黒エルフの女の場合は先程見せた魔法のような物がある分、荒事になれば有利であろう。
 イグナートも彼我の戦力差を理解してか、女の歩みに合わせ一歩後ずさる。
 が、 "彼女" の剣士としての矜持がそうさせたのか、それ以上は後退することは無い。
 やがて二人の距離は互いの胸の先が届かんばかりに縮まり、緊迫した空気が両者の間で圧縮された。

「……完璧だ」
「……は?」

 ぽつりと呟いた女の声は、少し上ずっていた。
 間近に見る彼女の紫の瞳は爛々を輝いて、それまでの冷たい雰囲気とは違い高揚した感情が見え隠れしている。

「輝く青い瞳は宝石。銀の髪は光り輝いて極上の絹糸のよう」
「何を……ぬわ! ど、どこを触って!」
「この胸! 我のような風そよぐ窪地でなく、峻厳な "デスパイア・ウォール" のように聳える二つの隆起!」
「こ、こら! やめぬか!  "コレ" は御主君のものぞ?!」
「完璧だ! これぞ、我が求めていた美だ!」

 冷たく緊迫していた空気が、一気に別の物質へと変換された。
 黒エルフの女が突如、イグナートに覆い被さるようにして抱きついて、全身をまさぐり始めたからだ。
 『銀騎士』はいきなり抱きつかれた拍子に体勢を崩し、湯の中へ尻餅をついてしまった。
 元が "男" であるイグナートにしてみれば性的な意味で女に襲われるとは思ってもみなかったようで、女の豹変に頭がついてゆかず成すがままに体をまさぐられ続ける。

「フフフ……それでよい。我にすべてをゆだねよ」
「なっ、いきなりなぜ」
「そなたが悪いのだ。エントランスで初めてそなたの瞳を見た時から、我は……」
「やめぬか! 私は御主君にしか興味は無い!」
「フフフ、直ぐに我に強請るようになる。なにせこの湯の精霊を使って催淫の効ブゴッ!」

 どこか淫靡な台詞も言い終わらぬ内に、黒エルフの女はその頭を大きく後へ仰け反らせた。
 湯船の中へ押し倒されていた体勢で、器用に足を畳んでからの蹴りをイグナートが放ったからである。
 蹴撃は正確に美しい鼻へとめり込み、女は見事な血のアーチを描きながら後方へ倒れていった。
 蹴りの衝撃はかなりの物であったらしく、女はそのまま湯船の中へ沈んでゆく。
 どうやら気を失ったようだ。
 イグナートはまさぐられた身体に僅かに残る、初めて覚える甘美な感覚に戸惑いながらも、貞操の危機を脱した事に安堵し思考を取り戻した。
 ――まったく、ここの所ついてない。
 折角御主君の側からあの魔女が居なくなったと思った矢先、妙な邪魔者ばかりが増えるし。
 更には女の身になってまで女性に言い寄られるし、御主君は御主君で一向に手をだそうとしてくれないし。
 『銀騎士』は珍しく心中で愚痴を吐きながら、沈んだまま浮かんでこない女をどうすべきか思いを巡らせた。
 客に手を出すような不埒者は放っておこうと一旦は決めたイグナートであったが、流石にそれでは確実に死んでしまうだろう。
 忠実な騎士として、主の "持ち物" に手を出そうとした愚か者を誅する事はやぶさかでは無かった。
 が、成り行きはどうであれ支配人を死亡させるのはやはりまずい。
 そう思い直し、イグナートはとりあえず女を湯の底から引き上げる事にした。

 その後、どうすべきか考えた末『銀騎士』がとった行動とは――







「――そこでなんで俺んとこに突撃して来んだよ。しかも裸のまま」

 イグナートが使用していた脱衣所。
 床には伸びた黒エルフの女が転がされ、体を拭く布を胴にかぶせられている。
 その横には服を着たイグナートが愛剣 "ウラディスラフ" を傍らに置いたまま、正座をさせられていた。
 二人の正面には同じく服を着た雷蔵が腕を組み仁王立ちをしている。
 気を失った女を湯から上げた後、『銀騎士』はその足で雷蔵が使う湯に駆け込んでいた。
 当然、忠実な部下として主に何がおきたか報告をする為である。
 勿論、報告は甘い肉体言語で行う心づもりでもあった。
 しかし雷蔵とて馬鹿でも朴念仁でもない。
 それまでのイグナートの行動から、入浴中に誘惑をしに来る事は目に見えていた。
 いつもの鎧姿ならば、その美貌を見ないようにしていればいい。
 だがそれが裸となれば話は違う。
 服の上からでも十分にわかる豊かな膨らみと、細い腰も露わに迫られたら恐らくは揺らぎやすい男の理性など簡単に消し飛ぶであろう。
 果たして、勇者は美女の捨て身の誘惑を如何にして躱したか。

「いやあ、しかし御主君。忍び寄る私の気配を察し、用意していた体を拭く布を投げつけ、その向こうから正確に急所へ剣の柄を突き入れる。見事な達人技でした!」
「話を逸らすんじゃねえ! 男の体と意志は別物だってお前だってわかってるだろ?! 拒めない状況に持ち込んでどうこうなろうってお前、卑怯じぇねえか!」
「う……しかしですね。この際隠しはしませんが、私としては常日頃、そりゃあもう御主君と "どうにか" なりたいと考えている訳でして」
「俺は男には興味はネエ!」
「そこですよ、御主君。私も騎士の端くれ。嫌がる御主君を組み伏せて強引に蕾(つぼみ)を開かせるようなマネはいたしません。また、地上に戻れば覇業の続きが待っている故、男に戻らねばならぬでしょう?」
「まあ、なあ……ちっと勿体ねぇ――じゃない! 当たり前だボケ!」
「そうなれば、今はチャンスとも言えるわけで。中身は男ですが外側は女性ですし」

 イグナートは消え入るような声でそう言って、シュンとしてしまった。
 愛らしい仕草に雷蔵は思わず動揺するが、そこで折れるわけにも行かない。
 確かに今の『銀騎士』の外見は完璧とも言える女性である。
 中身も一途に雷蔵に尽くす精神構造で、気品と教養を兼ね備えた高貴なものだ。
 ――ただ一つ、元が男である、という事実さえ知らなければどんなに楽であったろう。
 雷蔵は上から見下ろすイグナートの胸元に見える、深い谷間に視線を奪われながらもふとそう思ってしまった。
 更にはイグナートにしても彼なりに悩んだ末での行為であったのだと察して、仏心が湧き、すっかり毒気を抜かれ親身に話そうとしてしまう勇者である。

「……んな事いっても、なぁ?」
「御主君。私はこれでも、一度は諦めていたのです。その、遠くから見るだけで良いと考えもしたのです」
「イグナート……」
「御主君は衆道には興味ないのは明らか。なにせ、見た目麗しい女性ばかりをご所望で少年などは一切要求しませんでしたし」
「ま、まあな」
「しかしある日、私は女の体を手に入れてしまった。勿論、私の使命は忘れはしておりません。いずれ男に戻らねばならぬ時がきましょうぞ。しかし、しかしですぞ御主君!」

 正座していたイグナートはそこでわしと雷蔵の服をつかみ、ずい、と鬼気迫る表情で雷蔵を見上げた。
 光り輝く青い瞳は大きく開かれ、まるで宝石のようである。
 また、雷蔵が目を離せずにいた胸の谷間もずい、と近づいて来て益々目が離せなくなってしまう勇者であった。

「女の身である内にせめて一度! 寵を頂きたいと想うことは不忠でありましょうや?!」
「お、おちつけ、イグナート! な?」
「御主君! 一回! 一回でいいのです!」
「やめんか! 俺のズボンを降ろそうとするんじゃない!」
「よいではありませんか! よいではありませんか!」
「よくねぇ! こ、こら!」
「ほんのちょっとだけでいいですから! 先っちょだけで満足ですから! 」
「うわ、それドン引き。お前今時それは無いぞ? って聞けよ! わ、わ、やめれ!」

 ――どうもイグナートの様子がおかしい。
 いくら何でも、こんな取り乱し方をする奴だっただろうか?
 雷蔵は下からズボンを脱がせようと縋ってくる『銀騎士』の頭に、強烈な一撃を与えるタイミングを計りながら "彼女" の異変に気が付いた。
 途中までは確かに苦しい胸の内を吐露していた様子であったのだが、今のイグナートは肉欲に溺れかけた雌犬にしか見えない。
 実の所は黒エルフの女支配人の策略で、 "彼女" の湯にだけなんらかの細工を施されており、今頃その効果が現れていた為であるが雷蔵に知る由はなかった。
 確かなのは、いつもとは比べものにならぬほど積極的になった『銀騎士』の威力が想像を絶する艶めかしさを伴っている、と言う事である。
 意図的にかそれとも偶然か、 "彼女" の着衣のボタンや止めひもなどは甘めに止められており、雷蔵に縋りつくうちに解けて肌が露出していく。
 その白い肌は淡く桜色に上気して、瑞々しい輝きを放つ曲線は確実に雷蔵の理性を削り取っていった。
 ――まずい。
 これはまずい。
 ズボンを降ろそうとするイグナートの手を引き留める力が抜けて行く。
 悲しい男の性(サガ)であろう、目の前で極上の体に求められ拒絶を続ける気力が切れてきたのだ。
 相手が性転換手術を行っている、とか女装しているだけ、とかならばまだ拒絶する余地はある。
 しかし、相手が魔法により完全な女体と化しているとわかっているだけに、非常につらい雷蔵であった。
 残る問題は、自分がその事実をどう受け取るかという一点。
 兎も角。
 気が付くとイグナートの手を引き留める力が負け始め、ズボンは徐々に下がりつつあった。
 『もういっか』と諦め、理性をなくしその身体を貪り始めるのも時間の問題であろう。
 そして事後、激しく後悔するのだ。
 雷蔵が諦め半分に、すべて終わった後自分にどう言い訳しようか考え始めた時である。
 いきなりイグナートの力が抜け、彼女は地に倒れ込んでしまった。
 突然の事にえ? と声をあげた雷蔵に後から声がかかる。

「魔素がやけに濃く集まってるみたいだから "吸い" にきたけれど、もしかして邪魔だった?」

 振り向くとそこには10才くらいまでに "再成長" した、カナメの姿があった。
 入浴の途中であったのか、濡れた湯衣はピッタリとその身体に張り付き少女らしいシルエットが浮かび上がっている。
 その手にはぬいぐるみのようにグッタリとしたノルンが抱えられていたが、気に留める雷蔵では無い。

「……いや、助かったよ」
「あら。残念そうね」
「んなワケあるか! と、お前が魔素ってのを吸ってイグナートが倒れたって事は……」
「なんか妙な事でもされてたんじゃない? そこに倒れてる裸の女の人、ここの支配人よね」
「ん? ああ、そうそう。なんか言い寄られて、魔法も使ってたとか言ってたな。コイツの仕業か?」
「さあ。でもま、あたしにはまとまった魔素を集められてラッキーだったかな? これで暫くはライゾウのご飯が食べられるだろうし」
「……太るぞ?」
「へへん。ライゾウと同じCFMM(colony forming micro Machine/コロニー形成微小機械)の体だもの、太る訳ないよーだ」

 そう言い残し、カナメはペロリと下を出しながら再び自分の湯へと戻っていった。
 去り際にごゆっくりと声を掛けて行った所から、どうやら気を利かせたつもりらしい。
 そして場に残ったのは3人。
 気を失った女が2名と、不本意ながら体がすっかり高まってしまっている男が1名である。
 滾る獣欲はそれまでの、意図しない禁欲生活を実感させ勇者を大いに困らせた。
 眼下には着衣を乱した、好きにできる美女。
 手っ取り早く獣欲を鎮めるには手を伸ばせば良い。
 果たして雷蔵は――

「……水でも被って頭冷やしてから、もう一風呂浴びるかぁ」

 誰かにではなく、自分自身にそう語りかけその場を後にする勇者であった。
 もし黒エルフの女がイグナートよりも先に目を覚ませばある意味危険であろうが、この時の雷蔵にはそれ以上その場に留まる力が残っては居なかったのである。
 なにより。

 それ以上に女となったイグナートを受け入れ始めていた自身を知る事が怖かったのかも知れない。






[25530] 16 今更一人や二人、増えたって
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/04/18 01:51



 人は信じがたい物を見た時、その現実を受け入れる事が中々に難しいものだ。

 人の定義が人間であるか、黒エルフやコボルドのような亜人であるかは置いといて、反応は同じであるらしい。
 小さなトラブルがあったものの、雷蔵達は久々の入浴を思い思いに楽しんだ後。
 出口へと続く迷宮の街、通称『咎人の街』カラミティへと向かう、道中である。

「……なあポチ」
「ポッチ! なあに? ご主人様!」
「あの黒エルフの女、なんでついて来るんだ?」

 道案内として先頭を歩くポッチの横に並びながら雷蔵は、後方でぎゃあぎゃあと騒ぐイグナートと黒エルフの女を盗み見た。
 黒エルフの女はあの湯屋の支配人である。
 背には大きめの弓と矢を背負い、なんとも物々しい出で立ちだ。
 イグナートが使用していた脱衣所で伸びていた彼女は、何時の間にかその姿を消し、入浴を終えた一行が店の外へ出るとそこに待ち構えて居たのだった。

「さあ? お見送りじゃないの? オクガタサマに随分執心してたみたいだし」
「に、しては随分遠くまでついてきてるけど……」
「んー、きっとそれだけ好きになっちゃったんだよ! 黒エルフっていけ好かない性格だけど、気に入った相手にはフレンドリーらしいし!」
「……その割にはイグナートの奴、つっけんどんに追い払おうとしてるな」

 雷蔵がポッチに囁くようにそういった矢先、視線の先ではイグナートが追いすがってくる黒エルフの女に対して剣の柄に手をかけ凄み始めた。
 どうも様子がおかしい。
 もしかして店の外に出てまで言い寄っているのだろうか?
 もしそうであれば、流石に見過ごす訳には行かない。
  "あんなの" でも『銀騎士』は雷蔵にとってかけがえのない、非常に大切で有能な部下である。
 なんだかんだと言っても頼りにしていたし、最近では地上に居た頃胸に抱いていた劣等感などすっかり消え、心を許せる相手になりつつもあったのだ。
 勇者はやれやれと頭を掻きながら踵を返して、何やら口論を始めている二人の元へ歩を向けた。
 しかし、意外にもそんな雷蔵の好意を迷惑そうに声を上げ否定したのは他ならぬイグナート本人であった。

「あ! 御主君! だ、ダメです! 今こっちに来ちゃ!」
「あん? 何がダメなんだよ?」
「おお! そなたが主殿か!」
「は? ある、主殿ォ?!」
「へー、ライゾウ、やるじゃない。あの時イグナートだけじゃなくてその人もカマしてやったのね」
「がはは! おんしも中々剛毅じゃの! 筋張ったエルフを抱くなど、ドワーフでもせんのに!」
「んなわけあるか! ――で、えっと?」
「申し遅れた。我の名はヴァレリィ。これから世話になる故、よろしく頼む」
「御主君! 御耳が妄言でお汚れになりまする! ここは私に任せてどうぞ先に!」
「えっと……どういう事だ?」
「どうしたもこうしたも、どうやったのかは知らぬが我の魔力を全て吸い取ったのはそなたらであろう?」

 ヴァレリィは少しむくれた表情を浮かべ、腰に手を当てながらそう言い放つ。
 勿論雷蔵には彼女が何を言っているのかわからなかったが、わからなくも心当たりは一つ思い至り、カナメの方へ振り向いた。
 
「……カナメ?」
「んー、全てって言われても。でもまあ、おっぱいがすこーし膨らむ位には "吸った" のは確かよね」
「むむ? そういえばお嬢ちゃん、随分を背がのびとるでよ! 気が付かんかったでよ!」
「ええい、元はと言えば貴様が私に言い寄るのが悪いではないか!」
「そうは言ってもな。我の魔力が無くば、あの湯屋は数日中には湯を維持出来なくなるであろうし。この責任、取って貰わねば娼婦に身を落とす以外生きてゆけなくなる」

 言って今度は腕組みをし、薄く形の良い唇を尖らせるヴァレリィ。
 全体的に華奢な体躯でイグナートに匹敵する美貌での仕草であった為か、やけに艶やかに見えて雷蔵の胸を弾ませた。
 が、そんな雷蔵の反応は『銀騎士』にとって不快で、しかし予想通りであったらしい。
 視界の端に映る "彼女" もまた、こちらは子供っぽく頬を膨らませ唇を尖らせてヴァレリィに対抗するのである。
 そこに凛然としたあの『銀騎士』の面影は無い。
 幼い頃より政争に明け暮れ戦場に身を置いて来た為、色恋に案外疎い事が原因であろうか。
 想えば、雷蔵のハーレムに居た "彼" の妹も又、兄に似て凛としていながらも子供っぽく嫉妬を露わにしていたものである。
 雷蔵はふとその事を思い出しながら、これ以上イグナートを刺激しないようコホン、と咳払いをして胸を落ち着かせ、困ったようにヴァレリィに向き直った。

「んな事、俺に言われても……」
「なんと! 主殿は我から全て奪っておいて知らぬと申すか! うう、これは困った……主殿、黒エルフの娼婦がどんなに悲惨か、ご存じか?」
「いや、知らないけど……」
「長い寿命を持ち老いぬ種族故、何百年もの間小汚いオークやゴブリン共の精液を飲み続け、穴という穴をこれでもかとほじられ続けるのだぞ? しかも美しい外見の為に重い性病を煩って死ぬまで解放して貰えぬのだ」
「う……」

 まずい。
 誰よりも勇者の "甘さ" を知る『銀騎士』は、雷蔵の様子に焦りを強めた。
 嘘か誠かは置いといて、こういった話に滅法弱いのが雷蔵である。
 ――既に成り行きで同行者が3名も増えている。
 一人は幼い少女。
 ……これは仕方無い。
 彼女が居なくては外に出られないらしいし。
 一応御主君には幼児愛好趣味は無いようであるし、あの美味を作り出す能力を使って頂ければ妙齢に "再成長" する事も無いだろう。
 次に増えたのは犬のような人間。
 これも気にする必要は無い。
 一時は疑ったが、主君は獣姦趣味はないようだし。
 流石に獣とまぐわう位ならば私を選んでいただける、はず。
 その次、ドワーフ。
 ……あの外見で女である事には驚いたが、それ故にまず安心だ。
 むしろ御主君とそうなるなどとは想像すらしたくもない。
  "先程から姿が見えぬ" が、どうせ汚物と変わらないのだから気にする必要も無いだろう。
 しかし。
 しかしである。
 この女だけはダメだ。
 胸は薄いとはいえ、この美貌、このしなやかなスタイル。
 断じて、断じて御主君の側に置く訳には行かない。
 なにせ、御主君は非常に面食いだ。
 その上なんとか隠そうとしておいでであるが、 "封印の地" に来てからかなり "溜まって" おいででもある。
 その証拠にあの脱衣所で縋った折、御主君は言葉では否定していたものの間違いなく滾っておいでであった。
 ……自分とて、元は男だ。
 男の生理現象と持てあまし方はよくわかっている。
 それ故、なるべく御主君に一人きりで処理させぬよう、常にお側に在って "血迷って" 頂く心づもりであったのだ。
 そんな状態で今、この女が同行するのはまずい。
 いや、女の真意はわからぬが、御主君を誘惑しないとも言い切れぬ。
 イグナートは明晰な頭脳をよこしまにフル回転させながらも、ヴァレリィに歯を剥き敵意を更に強める。
 それから二人の間に割り込むように体を滑らせ、雷蔵の視界を塞がんと顔を近付けた。
 美しい表情は気迫と息も詰まるほどの剣気に塗れて、悪鬼のように歪む。
 流石の雷蔵も鬼気迫る "彼女" に一歩たじろいでなんだよ、と力無く口にしたのだった。

「御主君! 情に流されてはなりませぬ!」
「んー、でもあたしが魔素を吸っちゃったのが原因だしねぇ」
「カナメ殿! 一体誰の味方なのですか! 元はと言えば邪な事を企んだこの女が悪いのです!」
「そうでよ! その黒エルフの女は腹黒ぇで、信用しちゃいけねぇでよ!」
「いーじゃない、別に。今更一人や二人、増えたって。ねー、ライゾウ?」
「良くありませぬ! 御主君!」
「ん、まあ、そうだけど、面倒な事になるのはな」
「その心配はないぞ、主殿。我は精霊魔法が使えずとも、弓の腕は一流と自負しておる。見たところ、そなたらは "上" を目指すのであろう?」
「……そうだけど」
「なれば、危険が伴う道中、信頼できる戦力があっても困るまい。それに精霊魔法――はしばらく無理だが、幾つかの精霊と会話ができる黒エルフ、きっと役に立つぞ」

 言ってヴァレリィは尖らせた唇を横に伸ばし、白い歯を覗かせてニィと笑った。
 笑みは妖しくもやはり見とれそうな程美しい。
 対照的に敵意も露わに『断れ』と無言の圧力を雷蔵に掛けるイグナート。
  "彼女" はまるで、大事なおもちゃと取り上げられまいとする幼子のように雷蔵の腕を抱きかかえ、間近で見るその表情からは剣気に似た殺気すら漏れ出している。
 困ったのは雷蔵だ。
 見たところ、カナメとポッチの様子からみて彼女らの意見はどうでも良いようである。
 つまらないいざこざには首を突っ込まずさっさと先に進みたそうでもあり、良い意見は期待できそうに無い。
 反対に、イグナートは断固拒否の構えだ。
 理由は――なんとなく察した雷蔵であったが、先程のヴァレリィの話を聞いた後に同行を断るとなると何となく、後味が悪そうであった。
 又、ゲルドの意見は――いや。
 先程から "姿が見えない" 。
 何処に行ったのか、気にはなるがいまはそんな些細な事よりもヴァレリィの事だ。
 勇者はしばしの思考を重ね、果たして出した答えとは。

「……ヴァレリィさん、えっと」
「呼び捨てでよいぞ、主殿?」
「じゃ、ヴァレリィ。俺達に同行するのは構わないけど、条件が一つある」
「御主君!!」
「ふむ。まあ、無条件で、というわけにもいかぬであろうな」
「うん。条件っていうのは、そこのイグナートが同行しても良い、と言っ」
「ダメ。はい、さようなら。いや真に名残惜しき一期一会でありましたな御主君」

 言い終わらぬ内に『銀騎士』は拒絶を示し、颯爽と雷蔵の腕を引いて歩き始めた。
 取り付く島も無い、とはこのことであろう。

「ちょ、お、おい! まてって。形だけでも話くらい聞いてやれよ!」
「嫌でございます」
「がはは、残念だったな黒エルフ!」
「……イグナート殿」
「貴様に呼ばせる名など無い!」
「あいや、すまぬ。ただ……ほんの少しだけ、我の話を聞いてくれぬだろうか? 僅か数言。それだけでよいのだ。それでダメならば諦めよう」
「ふん! また何か奇妙な魔法でも使うつもりか?!」
「いやいや、魔法は使えぬと先に申したであろう? そこな、少女にすべて吸い取られてしまったようであるし。そもそも、魔法が使えれば同行など求めはしておらぬ」
「むぅ……」
「いいじゃねえかイグナート。ほんの少しなんだろ?」
「うむ。一言、二言だ」

 ヴァレリィはそう言い、笑みを消して神妙そうな表情で頷く。
 神秘的な紫の瞳は何処までも澄んで、そこに裏の意図があるとは思えぬ輝きである。
 イグナートはしばし雷蔵の腕にしがみついたまま考え込んだが、主君の手前やはり最低限の義理は通すべきであると思い直したようだ。
 やがてその手を離し、仏頂面のまま一歩、ヴァレリィの前に進み出した。
 そんな『銀騎士』にヴァレリィも又、数歩踏み出して "彼女" の耳に淡い色をした唇を近づける。
 その際に見せた首筋は信じられぬ程細く、まるで美女二人が絡みつくかのような印象を雷蔵に与え戸惑わせた。
 ヴァレリィは困惑する雷蔵に一瞬視線を投げながらも、そのまま一言二言、イグナートになにやら耳打ちを行う。
 結果――

「あいわかった! 義を見て黙するは騎士の恥。御主君、ヴァレリィ殿の同行をお認めになられるよう、お願い申し上げまする!」
「へ? イグナート?」
「フフフ、そういう事で、よろしく頼むぞ。えっと……」
「イグナート、と呼び捨てでよいぞヴァレリィ殿」
「そうか。では我の事も名を呼び捨てに。イグナート」
「うむ。ただし、ヴァレリィ。御主君の事は主殿、ではなく "主様" と呼ぶように」
「あいわかった。他ならぬイグナートの主 "様" であるからな。大恩を受けようと言うのだ。その位当たり前であろう」
「ふふ、よろしく頼むぞ! ヴァレリィ!」

 あっさりと納得した『銀騎士』は、爽やかに右手を出してヴァレリィに握手を求めた。
 雷蔵がそれまでに幾度か見たイグナートの豹変の中でも、一番鮮やかに態度を変えた瞬間である。
 一体、ヴァレリィはイグナートに何を耳打ちしたのであろうか。
 勇者の目の前では差し出された右手にヴァレリィは乙女のようにモジモジとして、籠手を脱いで握手したいと消え入るように呟き、『銀騎士』が爽やかに応じる光景が広がっている。
 その様はまるで二人の背景にバラが咲き乱れているかのような華やかさで、甚だ強く雷蔵の思考を停止させた。
 先程までそこら中に散らばっていた敵意や猜疑心は一体何処にいったのであろう? と誰しもが思う光景である。
 流石の雷蔵も呆気にとられ、口をぽかんと阿呆のように開け続ける。
 否、雷蔵だけで無くカナメとポッチも又、何が起きたのか把握出来ず自失しかけながら二人の様子を遠巻きに見守っていた。
 そんな勇者の肩をポンと叩いて、同情の声をかける者が一人。

「がはは! おんし、まんまとあの性格の悪い黒エルフの罠にかかっちまったでよ!」
「……えっと」
「まあ、約束は約束だで、仕方なかんべ! なぁに、もしあの嬢ちゃんが黒エルフに寝取られてもきにすんな! 一発や二発、オデにまかしとけ!」
「あの……どちら、サマ?」
「うむ? がはは、そうかそうか! そういやそうだったな!」

 豪快に笑いながら、雷蔵の肩を叩いた14・5歳程の少女はそう口にした。
 彼女は湯屋からずっとヴァレリィと共に雷蔵達の後をついてきており、なぜかゲルドが着ていた服を身に着け、ゲルドが持っていた奇妙な形の鎚を担いでいたのだった。
 身長もゲルドと同じ位で、しかしその体は比べようも無く華奢である。
 髭も勿論生えておらず、顔立ちは幼めではあるがかなり整っていた。
 ウェーブのかかった長めの髪とつぶらな瞳も、ゲルドと同じ赤茶。
 声も似ている。

「オデらドワーフはな、体が綺麗になっちまうとこれこの通り、姿が変わっちまうでよ!」
「えっと……? えっ?」
「なんだぁ、おんし、情に厚いように見えて薄情でよ? それともオデの名前わすれちまってぇ、気まずいでよ?」
「――もしかして、ゲルド?」
「がはは! 思いだしたんべや? そうでよ! いや、まったくおんしら、オデを無視し続けるもんで随分傷ついたでよ!」
「う、うそだろおおおおおお?! だって、お前、臭くねえぞ!? いや、体付きとか色々おかしいだろ! あんなすっげえ筋肉してたじゃん!」
「あん? 臭ぇから風呂入れって、おんしがゆーたろうが?」
「いや。いやいや、あのな? えっと……いやいやいやいや」
「どうしたあ? 湯上がりのオデみて、パコりたくなったべや?」
「違う! って、え?!」

 混乱は雷蔵だけでは無い。
 黒エルフであるヴァレリィは知っていたようで何を今更、といった表情を浮かべてはいるが、カナメやポッチも勿論、性的な冗談に反応出来ぬほどイグナートも驚き意識を見失っていた。
 無理も無い話で在る。
 小汚く酷い悪臭漂うおっさん(女性であったが)が、可憐な少女の姿に変わっていたのだ。
 ――いや、ゲルドの服を着た少女が湯屋からついてきていたのを確認してより、皆薄々感づいて居たのかも知れない。
 しかし、人は信じがたい物を見た時、その現実を受け入れる事が中々に難しいものである。
 あっさりと見た物をありのまま、受け入れる事が出来ようはずが無い。
 そんな雷蔵達の反応にゲルドは相変わらず、ガハハと豪快に笑っていた。
 まるで、花のような笑顔で。
 確かに聞き覚えのある、ダミ声で。
 その後、今のゲルドの姿は "体を綺麗にしすぎた為" に起きた一時的な現象であり、直ぐ元に戻ると聞いた雷蔵は。

 安心したのか、それとも落胆したのかは彼だけが知る所である。






[25530] 17 俺、必要ねぇな
Name: 痴れ者◆2356d78b ID:c84aebd0
Date: 2011/04/20 00:46



 『咎人の街』カラミティの街並みは、何処までも続く路地裏といった風情であった。

 街の基礎となった迷宮は "ディスパイア・ウォール" の最上部にある、出口に近い平坦な場所にあって、その周囲にはネズミ返しのように高く険しく壁がそびえている。
 断面的には巨大な階段状になっており、下からはその姿が見えぬ構造で、成る程、そこに至らねば街や迷宮が在るなどとは気が付かないだろう。
 今日では迷宮の路地端のみならず、通路や袋小路そのものを中に入り込んだ亜人達によって住居、要塞化され混沌とした街並みが形成されている。
 やがて迷宮はいつしか『咎人の街』カラミティと呼ばれるようになり、さながら冥府の淵に建設された死者の街といった様相を呈していた。

「雄々雄々雄々!!」

 気合いの雄叫びと共に、オーガと呼ばれる人喰い巨人の顔面に大きな鉄槌がめり込む。
 狭い路地に馬車ほどもありそうな巨大な体を押し込めていた為か、避ける事もままならない巨人は派手な金属音を立てたもののしかし、その衝撃にあっさりと耐えてみせた。
 生物とは思えぬ恐るべきタフネスぶりではあるが、鉄槌を打ち込んだゲルドは特に慌てた様子も無く、握った鎚のグリップを更に強く握り込んで捻る。
 瞬間。
 爆音と共に、オーガの顔面にめり込んだままの鉄槌の外側から小さな火柱が幾つも上がり、同時に鉄塊の一撃にも耐えた大きな顔面が乾いた音を立て消し飛んだ。
 ドワーフの巨大な鉄槌には仕込まれた絡繰りが作動したのである。
 鉄塊のような鎚には少し大きめの穴があいており、そこから極太の鉄杭が火薬によって打ち出される仕掛けとなっていたのだ。
 頭部を失ったオーガは脱力しゆっくりと後へ倒れて行くも、その後方には未だ数体のオーガが巨大な棍棒を手に迫って来ているのが見える。

「ねぇちゃん! 火薬を装填するで、頼むでよ!」
「承知!」

 ゲルドは叫ぶなりその場にしゃがみ込み、彼女の肩を足場に『銀騎士』は前へと跳びだした。
 跳躍は高く、輝く剣を握る籠手は光りの尾を引いて、次に迫るオーガの視線を上へと持ち上げる。
 ――バカメ
 オーガは空中に躍り出た銀色の小さな騎士を嘲った。
 手にした馬よりも巨大な棍棒を握る力を更に込め、筋肉が音を立て唸りを上げる。
 この時のオーガの脳裏には、迂闊にも狭い路地で跳躍した小さな敵の憐れな末路が浮かんでいた。
 愚か者は次の瞬間には棍棒の一撃を横殴りに受け、虫を潰すように路地の壁へ叩きつけられるだろう。
 しかし。
 真に憐れなのは、オーガの方であった。
 『銀騎士』の跳躍は誘いであり、顎を上に持ち上げさせる為の駆け引きであったのだ。
 宙に高く舞う『銀騎士』を迎撃すべく、巨体故猫背であるオーガが上体を持ち上げ顎を上げた時。
 風を斬る音が三つ。
 その全てが性格にオーガの喉へと突き立って、声にならぬ悲鳴を上げさせる。
 思わず喉に刺さる三本の矢を握り折ながらも、矢が飛んできたであろう方向へ憎悪の視線を向けると、屈んだドワーフより更に奥、黒エルフが片膝を突いて既に弓を引き絞り矢を2本番えていた。
 刹那、視界が失われる。
 最後に見えたのは、二つの矢が真っ直ぐ己の両目に飛んで来る光景。

「イグナート! オーガは体の外側は硬い! 健や動脈を狙え!」
「応!」

 『銀騎士』はヴァレリィの助言に短く応じつつも、着地を待たず剣閃を幾重にも奔らせる。
 剣技に覚えがある者ならば、その閃光が恐ろしく疾く、何より正確に急所を走っている事に戦慄するだろう。
 喉、脇、首筋、内股、手首、膝の横、足首。
 それらに赤い筋が深く広く瞬時に出現し、勢いよく血が噴き出してオーガの力を奪う。
 程なく、憐れなオーガは頭部を失った仲間の上に倒れ込む事になった。
 ――何時、二度目の跳躍に移っていたのか。
 倒れ込む二体目のオーガの上にイグナートはひらりと着地し、膝をついた姿勢のまま更に迫りくる3体目のオーガを確認する。
 身に付けている銀のフル・プレートは返り血一つ浴びておらず、羽根のように舞う軽やかな動きは重さを感じさせない。
 仲間を二人殺され、怒りに我を忘れ巨大な棍棒を振り上げ迫るオーガの一撃など、今の "彼女" は造作もなく躱すであろう。
 ――しかし。
 どうした事か "彼女" は動かない。
 足を捻りでもしたのだろうか?
 それとも、悪鬼のような気迫と憎悪の前に足がすくんだのであろうか?
 兎も角。
 『銀騎士』は迫り来る3体目のオーガを前にして膝を突いた姿勢のまま微動たりともしない。
 頭に血が上ったオーガは疑いもせず、ただ一人、『銀騎士』だけを見て突進し――
 低く足下に迫っていた赤茶の髪に気がつけずにいたのだった。

「噴ッ!」

 鈍い金属音と共に、オーガの鼻先に鉄塊が突き刺さる。
 勿論、それだけでは突進の勢いは衰えはしない。
 その猛進を止めるのは砲音。
 次いで、ぱきょん、と間の抜けた硬い頭蓋が爆ぜる音。
 脳漿と肉片を派手に撒き散らしながら倒れ伏す、3体目のオーガ。

「……なあ、ポッチ」
「ポチ! あ、あれ? えっと、ちがう! 違う違う違う! 違うよご主人様!」
「俺達、必要ねぇよなぁ」
「いーじゃない、別に。楽できるんだし」
「あの3人、すごい連携だね! まるで訓練を積んだ黒エルフのアサシン部隊みたい!」
「でっかい亜人の方も結構おバカだけどねぇ」
 にゃあ
「オーガは図体は大きいけれど知能は低いしね! もっとも、その分頑丈だから本当ならあんな群れでやって来られると、すっごく危険なんだけど……」

 ガォン! という幾つ目かの砲音が、ポッチの言葉を否定するように響いてくる。

「……俺、必要ねぇな。うん、必要無い」
「なぁに? ライゾウ。拗ねてるの?」
「そういうワケじゃないけどさぁ」
 にゃあ
「そうだよご主人様! 街に入る前みんなで決めたじゃないか! 役割分担、役割分担だよ!」
「わかってるよ、それは。だけど俺はこう、リーダーとしてビシっと、だな」
「バカね、リーダーだからこそ、一番重要なポジションに就いてるんじゃない」
「炊き出し係兼、後でお前らを護衛することがか?」
「そーよー。あと、マッピングもね。だって、仕方無いじゃ無い? あの3人は基本的に戦うことしか出来ないんだし」
「イグナートは兎も角、ヴァレリィの "精霊との交渉" とかゲルドの "ドワーフの修理術" とか役に立つじゃねえか」
「違うよご主人様! 鶏ガラ女や足臭筋肉女は居なくても大丈夫だけど、ご飯を作れるご主人様は居なくちゃ困るんだよ!」
「そうよ、ポッチの言う通りよ。あたし達の中じゃライゾウが一番強いかもしれないけど、それよりも食料を作れる力の方がずっと大事だし。どうでも良い戦闘に参加して怪我でもされたら、美味しいご飯が食べられなくなるじゃない」
「……何気にお前ら、口が悪ぃな」
「えへへ、褒められちゃった!」
「そう? でも、ホントの事よ。ポッチは斥候、あの3人は狭い迷宮内での前衛で戦闘。あたしは魔素を集めて怪我の治療やライゾウの "調整" 。で、リーダーであるライゾウは後方であたし達の護衛や戦闘の指示、迷宮のマッピングにパーティの進行方向の決定、そして……
「食事の用意! ボク、今日は "かれぇ" が食べたいな!」
「あ、いいそれ! ライゾウ、あたしもー!」
 うにゃあ

 ――リーダーというかそれ、完全に小間使いじゃねえか。
 そう毒づいた雷蔵であったが、ゲルドの鉄槌が発する砲音により愚痴は掻き消されてしまった。
 『咎人の街』カラミティに雷蔵達が入ってから、二日目の事である。



 勇者。
 銀の女騎士。
 古の勇者の力を受け継ぐ少女と猫になった魔女。
 盗賊であるコボルドに、ドワーフの戦士。
 そして黒エルフの弓使い。
 まるでゲームのような、お伽話のような面々だ。
 更には本当は若干1名ほど違うのだが、自分を除けば女ばかりの集団である。
 己の立ち位置は、彼女達を導くリーダー。
 勿論、大部分は失われているとは言え、戦闘能力は "勇者" の名に恥じぬ程であり、一行の中では最も強いと自負していた。
 挑むは "封印の地" の出口付近、『咎人の街』カラミティと呼ばれる迷宮。
 リーダーとして、本当はか弱い(と、どこか希望的観測を持って思っている)彼女達を守りつつ出口を目指す責務が課せられるだろう。
 それまで頼りにしていた『時の魔女』ノルンは只の猫と成り果て、得体の知れない亜人が蠢く迷宮に足を踏み入れることは、雷蔵にとって一種、男として大いに奮い立つものであった。
 しかし。
 しかし、だ。

「ひょぅ、うめぇでよ! おんし、こったらうめぇもんも作れるでや?!」
「むう。私は二度目ですが、相変わらず御主君が作る食事は素晴らしいですね」
「フフフ、イグナート。口の端にソースがついておる。我が舐めとってしんぜよう」
「おいしいよ、これ! ご主人様、おかわりある?! ねえ、ある?!」
「ちょっ、イグナート! ヴァレリィ! ご飯の時位じゃれ合わないの! サカるんなら後にしなさいよ、まったく。あたしの "かれぇ" にホコリが入ったらどうすんのよ」
 にゃあ

 ――なんだ、この光景は。
 皆が皆、笑顔(それ所でない者もいるが)なのはいいけれど。
 俺はなんで、このメンツで飯炊き係をやっているんだ?
 カラミティに入る前は、先頭に立ち、剣を抜いて襲いかかって来る破落戸のような亜人共を撃退する光景を思い描いて居たはずだ。
 それは、以前から憧れていた勇者の姿そのもので。
 飽きるほど女を抱き、ただれた "性活" を送っていた自分がどこか求めていたもので。
 内心、結構張り切っていたって言うのに……
 雷蔵は目の前で繰り広げられる "乙女" 達の食事風景に、乾いた笑いを浮かべていた。
 望まぬ状況に陥っているとはいえ、彼なりに望んだ "勇者" としての立ち振る舞いを披露出来そうな状況にあって、人知れず落胆していたのである。

「どうしたでや? おんし、元気ないのぅ! ほれ、おんしも食え! 食わねぇと、力でねぞ?」

 しゅん、と落とした肩にすっかりヒゲモジャのムサいおっさんに戻ってしまったゲルドのゴツい腕が回された。
 雷蔵は半ば自棄気味に自分の分のカレーライスを口の中に掻き込んで、ふと上を見上げる。
 一行がキャンプを行っている、カラミティの路地――というか迷宮の行き止まりからは、 "ディスパイア・ウォール" の最上部である為か、近く夜空が見えた。
 しかし迷路を作り出している壁は高く、空はやけに狭く感じられる。
 ポッチによれば、壁を登り上から迷宮の先に進むことは出来ないらしい。
 なぜならば迷宮の更に上部には夥しい程の飛竜が生息しており、迷路を作り出している壁から上に出た生物を集団で襲いかかって、忽ちエサとしてしまうのだとか。
 まだ日の高い時分から何かと空を見上げていた雷蔵であったが、時折見える巨大な鳥のような影が恐らくはその飛竜なのであろう。
 カラミティの街の基礎となった迷宮は、 "封印の地" に封じた者達を外に出さぬ為の物である。
 飛竜もまた、あの『恵みの門』で遭遇したラミアという魔物のように、封じた者達を外に出さぬ為の存在であるのかもしれない。
 思考はどこか現実逃避に似て、勇者を迷宮考察へと誘う。

「うぅ、ご主人様! おかわり、ないの?! ねぇ、ないの?!」
「んーと、あるよー。ほら。あと2人分くらい」
「おお! じゃあ、オデが……」
「ダメ! ゲルドはもう3人前は食べてるじゃない!」
「じゃあ、カナメ、ボクとはんぶんこしよう! オクガタサマとヴァレリィは忙しいみたいだし!」
「こ、こら! やめぬか!」
「フフフ、よいではないか。血を見た後は芯が火照って持てあますのだ」
「ええ、やめよと申すに! この!」
「あびゅい! イ、イグナート! いきなり我に金属のスプーンを押しつけるのはやり過ぎぞ!」

 ――こんなの、ちがう。
 つい、ポロリと出た雷蔵の呟きを聞いた者はいない。
 ポッチは "食事支援" によって炊いた米と共に作り出されたおひつを手に取って、自分とカナメの皿に残った米を盛り始めている。
 カナメの方も、米同様にカレーと共に作り出されていた鍋を持って、お玉で最後のカレーをすくい上げていた。
 ちゃっかり、自分の皿に少しだけ多めによそって。
 しっかり、ポッチにはバレてはいない。
 ゲルドはというと雷蔵の肩に腕を回したまま、すこし羨ましそうにカナメとポッチの皿を眺めている。
 既に少しだけ汗臭く感じられたが、今のところは耐えられる体臭だ。
 イグナートとヴァレリィはというと、 "いつものように" じゃれ始めて、これもまたいつものようにイグナートによって額に金属製のスプーンを押し当てられたヴァレリィが悶えている。
 これは黒エルフにとって、金属は特別忌まわしい存在であるらしく、触ると火傷をする為だ。
 冶金を司るドワーフと種族ぐるみで不仲なのもそれが一因で、彼女自身、金属製品は忌避しており、鏃までも非金属を使用していたのだった。

「うう、すまぬがカナメ殿。またオデコを火傷した故、治療を頼めるか?」
「んー? いいけど、ごは――ライゾウに使う魔素は節約したいから、あんた取り戻した精霊の力を "吸って" 治療するわよ?」
「致し方ない。これではイグナートの前に出ることもままならぬ。恋などする物では無いな」
「がはは! 『女ジゴロ』のヴァレリィも形無しでよ!」
「うるさい。歩くこやしの分際でなにをいうか。我に話しかけるなら風呂に入ってからにしろ。さすれば少しだけ愛でてやってもよいぞ?」

 なんとも、姦しい食事風景である。
 雷蔵はとうとう頭痛を覚えて、食べかけたカレーの皿をポッチに手渡すとすくと立ち上がり、寝る、とだけ言い残して奥の方へと去ってしまうのだった。
 ――なんとなく、なんとなくだけど。
 このままではダメだ。
 もっと自信をもって、自分の意志を貫かないと。
 言い聞かせながら、雷蔵は皆とすこし離れた場所で横になった。
 その背はどこか、力無い。
 しかし、同時に小さな決意も確かに湧き出ていた。
 すなわち、眠りから覚めたら今一度、 "守られる者" ではなく "守る者" として振る舞おうという決意である。

 そんな勇者の決意を感じ取っていたのは、忠実な部下と黒い子猫であった。





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