記者の目

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記者の目:「原子力ムラ」の閉鎖的体質=日野行介

 東京電力福島第1原発の事故の取材応援で、東電や経済産業省原子力安全・保安院、内閣府原子力安全委員会の記者会見に何度も出席した。そこで強く疑問に感じたのは、「想定外の事態」や「未曽有の天災」という決まり文句を盾に、決して非を認めようとしない専門家たちの無反省ぶりだ。これまで不都合な警告や批判を封じ込め、「安全」を自明のものとして押し付けてきた業界の独善的体質が今回の事故の背景にあると思える。

 ◇言葉は丁寧だが決して非認めず

 「大変なご心配をおかけして申し訳ありません」。東電の記者会見は必ずと言っていいほど謝罪の言葉が出る。だが、「多重防護」を誇ってきたはずの原発の安全性自体に疑問が及ぶと、会見する幹部の態度は途端に硬くなる。言葉は丁寧だが、非は決して認めず、自分たちの言い分だけを強調する。都合の悪い質問には、記者をにらみつけながら木で鼻をくくったような対応をする幹部もいる。

 こうした会見の模様はテレビやインターネット動画でそのまま報道され、政府の対応への不信とも相まって、国民は「本当に大丈夫なのか」「うそをついているのではないか」と疑念を募らせている。

 私は02年から3年間、若狭湾に原発15基が林立する福井県敦賀市に勤務した。「原発銀座」と称される地域で、取材の最重要テーマが原発だった。

 取材で接した原子力の技術者・研究者たちの印象は決して芳しいものではない。都合の悪い問いにまともに答えず、批判的な意見に耳を貸さない尊大ぶりが印象に残った。

 高速増殖原型炉「もんじゅ」(敦賀市)の設置許可を無効とした名古屋高裁金沢支部判決(03年1月)の際には、電力会社や研究者が業界を挙げて判決を攻撃した。判決に関する討論会で、推進派の大学教授が専門用語を駆使して野党の国会議員をやり込めた後、会場の片隅で「素人のくせに」と仲間内で笑い合っているのを見た。

 ある地方テレビ局が数年前、原子力に批判的な研究者をドキュメンタリー番組で取り上げたところ、地元電力会社が「原子力を理解していない」と猛烈に抗議した。番組はこの電力会社を直接批判する内容ではなかったが、テレビ局は広告主の抗議を無視できず、記者による定期的な原発見学を約束した。

 この件について取材した私に、電力会社の役員は「(原発が)いかに安全か理解していない。『反省しろ』ということだ」と言い放った。その傲慢な態度は、今回の事故を巡る会見で見た東電幹部と重なり合う。

 ◇官民にまたがる狭い人脈社会 

 なぜ、こんな体質が醸成されるのだろうか。

 原子力の技術者だった飯田哲也・環境エネルギー政策研究所長は、業界の実態を「原子力村(ムラ)」と名付けた。大学や大学院で原子力を学んだ学生は、電力会社やメーカーに就職したり、国や立地自治体の技官になる。就職先は担当教官の意向で決まることが多い人脈社会で、彼らは官民に分かれても「ムラ」の一員として育っていく。

 原発関係の事故はメディアで大きく報じられる。市民団体などの批判にさらされることも多い。“被害者意識”から、彼らは批判を「素人の意見」だと一方的に決めつけ、独善的な専門家意識を強めていくのだろう。

 原発の安全規制は、保安院と原子力安全委員会による「ダブルチェック」体制とされる。しかし現実には十分機能していない。チェックする方も、される方も、同じ「ムラ」の構成員なので、業界全体の利益を守ろうという意識が働く。保安院に至っては、原発を推進する経産省に属するという構造的問題を抱えている。

 組織の名称にしても、米国は「原子力規制委員会(NRC)」なのに、日本の機関には「規制」ではなく「安全」が使われている。「原子力は安全」という宣伝を優先するあまり、規制や監視という視点が欠落していたとしか思えない。

 今回の事故を受け、保安院を経産省から分離する組織改革がようやく検討される見通しとなった。必要なことだとは思うが、組織いじりだけでは専門家たちの体質を変えていくことはできない。

 これまで私たちは原子力の問題を「専門家の世界だから」と、直視することを避け、「ムラ」に委ねすぎてきた。だが今回の事故で、放射能への不安から電力不足問題に至るまで、原子力が一人一人の生活に密接にかかわることが明白になった。もう無関心は許されない。(大阪社会部)

毎日新聞 2011年4月21日 0時24分(最終更新 4月21日 0時27分)

 

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