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[27301] 隠形鬼―おんぎょうき―
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/20 06:06
●あらすじ

教職を夢見る二十三歳のフリーター松永絢子は、稀に淫靡な夢を見る。ある日のバイトの帰り、見知らぬ男性らに拉致され街の外れの廃工場で目を覚ます。あわやというとき、自分を助けてくれたのは夢の中に出てきた男性だった……?
伝奇恋愛ファンタジーです。
※この話は歴史や伝説を基にしたフィクションです。


●キーワード

女性向け 残酷な描写あり 伝奇 逆ハーレム シリアス 鬼 年の差 オカルト 学園 溺愛 生まれ変わり グロテスク


※この小説は『小説家になろう』でも投稿しております。

※R15相当の描写が含まれています(サブタイトル後の■マークはR15相当の描写であることを表すマークです)。

※「●」は残酷表現を含むという意味のマークです(これ以降このマークに関する前書きは省略します)。




隠形鬼―おんぎょうき―


姿を隠して種々の不可思議な力を現すという鬼。
「隠形鬼は形を隠してにはかに敵をとりひしく/太平記16」






[27301] 夜の出会い ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/20 05:58
 夢の中で、絢子は男に抱かれていた。

 彼女は両手を伸ばし彼の名を呼んだ。

「――」






「うんっ……ああ、またあの夢か」

 遮光カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた室内は、うすぼんやりと暗い。
 腕を額に当てながら絢子は目を覚ました。

「私ったら、欲求不満なのかなあ」

 絢子はベッドから起き上がると、キッチンへと足を運んだ。
 キッチンといっても大したことはない。
 三万四千円のアパートのキッチンなんて高が知れている。
 蛇口をひねり、コップに水をなみなみと入れると、彼女はそれをごくごくと飲み込んだ。

 朝食を作り、それをもしゃもしゃと食べる。
 身だしなみを整えると、彼女は茶色のバッグを肩に取り、玄関で靴を片方履いた。
「あ、通帳忘れてた」
 絢子はそうひとりごつと靴を片方履いたまま、けんけんをして部屋に戻る。
 がさごそと戸棚を漁り、目当てのものを見つけると、彼女は改めて部屋を出た。

 今日は月末、給料日なのだ。
 たかが十三万六千円と侮るなかれ。
 この時給八百五十円、八時間労働の対価は生活をしていくうえでの貴重な収入源なのだ。
 彼女は少しだけうきうきしながらバイト先へと向かう。

「おはようございます」
「早いねえ、松永さん」
 バックヤードに入ると店長が声をかけてきた。
 ここはデパートに入っているチェーン店の書店である。
 彼女はここでアルバイトをして生活している。

 大卒無職無い内定。
 この就職大氷河期で彼女は例に漏れず就職先が見つからなかった。
 だがそれだけではない。
 彼女にはある夢があったのだ。

 それは教師になるという夢。

 絢子にとって、それは小さいころからの夢であった。
 大学で中学校と高校の社会の免許を取得した彼女は、大学四年の去年と卒業後の今年に教員採用試験を受けたが、残念ながら去年も今年も一次試験で落ちてしまった。
「はあ、やっぱり予備校とかに通わなきゃ駄目なのかなあ。でもお金ないしなあ」
 実家にはまだ帰りたくない。両親とは三年という期限でこの東京で生活するという約束を取り付けてきたのだ。
 その両親からの仕送りはなく、自分のバイト代だけで生活していくにはこの仕事は割に合わないのかもしれない。
 それでも小さいころから本好きだった彼女にとってはこの仕事はそれほど苦ではなかった。
 想像と違い、結構な肉体労働であったことも、万引きに目を光らせなければいけないのも、彼女にとってはある意味張り合いのひとつとなっていた。

「来年こそは、受かってやるんだから」

 ぐっと両手を握り締め、意気込んだ彼女の横をはああと盛大なため息をつきながら通り過ぎる人がいた。
「あら? どうしたんですか田中さん」
 それは同期の田中であった。
 彼は憔悴しきった顔で絢子に話しかけてきた。
「聞いてくれる? 俺昨日さあ、バイクに乗った男に鞄ひったくられちゃったんだ。警察には一応被害届出したけど、多分絶望的だってさ」
「それは難儀な」
「幸い給料日前だったし、大したものは持っていなかったから良かったけれど、まじへこむわ。ああ、俺の財布が、俺の携帯が……」
「ですよねー……」
 そんな会話をしながら、彼女達は仕事場へと向かったのであった。

 レジ打ちはもう慣れた。
 最初のころはレジの前に立つのも嫌で、会計をするときには手が震えたものだ。
 人前に立つのは苦ではなかったが、自分がお金という自分の範囲の及ばないところで責任が発生するものを扱うということにちょっとびびっていたのだ。
 だが何事も慣れなのだ。
 最初はそうやってびびっていたが、回数をこなすごとに打ち間違いも減り、今ではようやく接客のほうにまで目を向けられるようになった。
 最近店長からも「松永さん、ようやく慣れてきたね」なんて言葉を頂いた。
 期限はあと二年。
 それまでには何とか結果を出していたい。
 そう思いながら家路に着いた。


 とっぷりと夜も更けたころ。
 絢子は帰宅する前に銀行のATMでお金を下ろした。

 下ろすお金はニ万円と決めている。
 バイトの給料から、家賃三万四千円、光熱費一万円、通信費一万四千円、国民年金一万五千円、食費ニ万円を引くと、手元には四万円程度しか残らない。
 そのうち二万円を毎月貯金しているので、使えるお金は二万円となってくるのだ。
 幸い服なら大学時代に買っておいたものがあるし(そのころは実家から月八万円の仕送りがあった)、基礎化粧品と僅かなメイク道具さえ買えれば絢子にはそれで十分だった。
 接客とは言っても華が必要な職場ではないのだ。
 その生命線とも言えるお金の入ったバッグを胸に抱きながら、彼女は薄暗い道路を歩いていた。
 と、後ろからブウーンという音が聞こえてくる。
 彼女は身構えた。
 今日聞いた田中さんの引ったくり話が頭をよぎる。
「今日はバッグに私の大切な二万円が入っているんです! どうか何にも起こりませんように!」
 バッグを道路と反対側に掛け直し、しっかりと握って夜道を歩いた。
 一本道の道路なので逃げ場はない。
 絢子はぎゅっと目をつぶった。

 しかし何も起こらない。

 バイクはそのまま彼方へと通り過ぎていった。
「はっ……私ったら、なに自意識過剰になってんのかしら。こんな辺鄙な場所で引ったくりなんか起きるはずないじゃない」
 そう言って胸を撫で下ろしたそのとき。
 後頭部にごつっと鈍い衝撃がきて、彼女はそのまま意識を失った。






「――う……痛ったあ」
 痛みに顔をしかめながら絢子は目を覚ました。
 ぼんやりとした目で周囲を見回す。
 大きな機械、ドラム缶、何かのチューブ……。
 どうやらそこはこの街の外れにある廃工場であるようだった。

「うわっ、頭痛い、絶対たんこぶになってるわこれ」
 絢子は頭をさすってギョッとした。手に血がついている。

「目が覚めたんだな」

 声がした。
 絢子は素早く辺りを見回した。
「誰ですか!?」
 精一杯の声を張り上げる。少し震えていたかも知れない。

 見ると、少し離れたところに若い男がひとり座っているのが見えた。

「ようやく見つけた、紀朝雄」
「きの、ともお? ……あの、私そんな名前じゃないし、まして男でもありません」

 さらによく見ると彼の周りの壁には三、四人の男が佇んでいた。
 どの男も手に鉄パイプを持っている。

「どういうことですか? これは」
「ほう、気丈な女だな。流石紀朝雄の生まれ変わりといったところか」
 若い男の隣に立っていた別の男が声を発する。
「なにをわけのわからないことを言っているんですか? 早くここから出してください、人違いですから」
「いいや、あんたは紀朝雄だ。あんたから微弱な力を感じる」
 その男はそういうと鉄パイプを構えた。

 この人達は頭がいかれてるんだ。絢子はそう思った。

 紀朝雄なんていうわけのわからない名前をいきなり出されても、こっちは何のことやらさっぱりわからないのだから対処の仕様がない。にもかかわらず、その男は話を続けた。

「俺達はね、遥か昔、紀朝雄に成敗された人間なんだ。もしお前が藤原千方様に近づけばまた歴史は繰り返されるかもしれない。それを防ぎに俺達はここにいるんだ」

「ふじわらのちかた? 何よその平安時代の人みたいな名前」
「やはり覚えていたのか!」
 男達が瞠目する。
 絢子は男達の何かの琴線に触れてしまったことを察した。
「なっ、何のことだかさっぱりわからないわよ! とにかく、人違いなんですから早く開放してください!」
「いや。この場でお前を殺す」

「殺……す?」

 私はその言葉にきょとんとした。あまりにも突然に放たれたその言葉の意味を受け入れるには時間がかかったのだ。
「悪く思うな。恨み言ならば自分の前世に言うんだな」
 そういうと男達はじりじりと距離をつめてきた。

「嫌! 来ないで! 誰か助けて!!」

 はっと我に帰った私はその場から後ずさりしながら必死に声を出した。
 だが、辺りはしんとしている。

 男たちに囲まれ、彼らが一斉に絢子の頭上に鉄パイプを振り上げたそのとき。


「待て!!」


 大音声ともいえる声が聞こえた。

 全員その声に気圧され、ビクッと固まる。
「誰だ!!」
 男達が叫ぶ。

「その人には指一本触れさせない」

 そう言って暗闇から気配なく現れたのはひとりの男だった。

 絢子は囲まれている男達の隙間からその男を見た。
 ジーンズに包まれた長い脚。身長は百八十センチぐらい、ぴったりとした黒いTシャツの上からでもしなやかな筋肉が見える。
 切れ長の瞳は油断のない飢えた野犬のようでもある。
 無精髭に覆われた唇は硬く引き結ばれ、目の前の光景が自分の意にそぐわないものであるのを示している。

 男のその顔を見たとき、私は息を呑んだ。

「あなたは……!!」

 それはたまに見る自分の夢に出てきた男にどこかに通っていたからだ。

 周囲の男達は身構えていたが、その男の顔を確認すると力を抜き、怪訝な顔をした。

「何だ、正臣さんじゃないですか」

「匠はそれを望んでいたのか?」
「え?」
「匠は、藤原千方は今お前達がやっていることを望んでいるのかと聞いているんだ」
 正臣と呼ばれた男の声は平坦であったが、その声はその場にいるものの背筋を凍らせるような響きがあった。

 と、次の瞬間正臣の気配が一気に変わった。

「ひいっ?!」

 その場にいたすべてのもの心臓を鷲づかみにするような気配だった。

「怪我を、させたな」

「あの、これはですね」
「後頭部から血が出ている」

 正臣がそういった直後、その姿が一瞬にして掻き消えた。

「え?」

「うわあ!」
「ぎゃあ!」
「ぐえっ!」
「ごふっ!」

 何が起こったのかわからなかった。気がつくと絢子の目の前には自分を取り囲んでいた男達が折り重なって倒れているところだったのだ。

「何、これ?」

 絢子がいぶかしむと急に目の前が暗くなった。
 と、腹に強烈な一撃が来た。

「すまない」

 耳元でその男の声を聞いたのを最後に、絢子の意識はそこで途切れた。



[27301] 顔合わせ
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/19 23:55
 チュン、チュンチュン。


 チュンチュン。


 瞼を、暖かい秋の日差しが優しく撫でる。


「ん……」

 絢子はゆっくりと目を開けた。
 まず目に入ってきたのは白い天井だった。
 見慣れたアパートの天井ではない。

「ここは、どこ?」

 記憶喪失者のような台詞を吐いたが、記憶はばっちりあった。

「確か昨日は変な人達に拉致されて、誰かが助けに入って……それからの記憶がないわね」

 そのときコンコンというノックの音がした。
 起き上がり顔をあげて返事をする。

 その時点で、自分は病院の個室のようなところにいるのだということがわかった。

 扉を開けて入ってきたのは白衣を着た若い男だった。

 すらっとした体躯、癖のある茶色い髪に茶色い瞳、にこっと笑う柔和そうな顔はまさに「お医者さん」といったような風情である。

「ああ、目が覚めたんだね? どこか痛むところはない?」

 私は手を後頭部にやった。
 そこには包帯が丁寧に巻かれていた。
「いいえ、どこも痛くはありません。ただ後頭部にちょっと違和感があるだけですけれど」
「それは良かった。心配しなくても頭の傷はほとんど塞がっているからね。今はまだ傷口はあるけれど、痕も残らず綺麗に治ると思うよ」
 男の左胸には「風祭」と書かれたネームプレートがあった。

「あの、ここはどこですか?」

 絢子はその風祭さんに聞いてみた。
「ここは藤原グループ系列の滋英病院というところだよ。ああ、心配しなくてもここの病院の費用なんかは君を襲った男達に請求が行くようになっているからね」
 そういうと風祭さんはふわりと笑った。

 ああ、この人は人を和ませる不思議な力を持っている、と絢子は思った。

 風祭さんはちょっとだけすまなそうな顔をした。
「ごめんね、君が寝ている間に一応脳の検査もさせてもらったんだ。けれど、どこにも異常は見つからなかったよ」
「いえ、大丈夫です」
 絢子がそういうと風祭さんはほっとしたような表情になった。
「優しいんだね、君は。そうだ、僕のことは颯太でいいよ」
「颯太さん、ですか」

 私が戸惑っていると、またドアをノックする音が聞こえた。

「はい、どうぞ」
 そこから入ってきたのは怜悧な雰囲気を漂わせる男性だった。

 髪の毛はオールバックにきちんと撫で付けている。ぴしっとした紺色のスーツに、紺色のネクタイ、銀のメタルフレームの眼鏡から覗く瞳は鋭さを湛えていた。

「取り込み中だったか?」
「いえ、大丈夫ですよ」

 どうやら風祭颯太とこの男性は知り合いであるようだった。

「お初にお目にかかる。私は瑞城直人という」
「みずしろ、なおとさんですね」

 絢子が復唱している間に瑞城直人は懐から名刺を取り出した。
「あなたの弁護士だ。あなたが受けた傷害事件のことは私が一任している」

 絢子はその名刺をまじまじと見つめたあと、顔をあげた。

「え、弁護士さん、ですか」
 絢子は不安そうな顔をした。だって、いくら傷害事件に巻き込まれたといっても、弁護士を雇うお金なんか、今の私には……

「ああ、そうだ、金のことならば心配は要らない。藤原匠という人物が一切を取り仕切っているからな」

「藤原匠……?」

 匠という名前には聞き覚えがあった。
 昨日自分を助けた男が「匠」という名前を出していたことを思い出したのだ。

「匠はあなたに謝りたいといっていた。変な事件に君を巻き込んでしまって申し訳なかったと」
「そうですか」

 絢子はそのことで釈然とはしないまでも、その藤原匠という人は少なくとも悪い人では無さそうだなという印象を持ったのである。一介の市民に対してこの扱いだ。藤原匠という人物はそれなりの権力者であるに違いない。「長いものには巻かれろ」ではないが、絢子は、普段は権力には逆らわない質であったため、それを受け入れようと思ったのである。

「そうだ、私まだお二人に名乗っていませんでした。私は松永絢子と言います」
 そう言って、絢子はぺこりと頭を下げた。
 顔をあげると二人はきょとんとしたような表情になっていた。

「絢子ちゃんは、豪胆なのか何なのか……僕達のことを素直に受け入れるんだね」
「え、何かおかしかったですか?」
 今度は彼女がきょとんとする番だった。
「どんな経緯かはわかりませんけれど、とりあえずこういう事態になったんですから、じたばたしてもしょうがないなと思いまして」
「君は我々がなぜここにいるのか聞かないのか?」
「なぜって、今話していただいたことが全てでしょう? それ以外に思いつくことがありませ……」

 ちょっとまて。
 何か忘れていやしないか。

 そもそも自分が拉致されたのは何が原因であったか。

「あの、紀朝雄って誰のことなんですか?」

 絢子がその質問をしたとき、二人はちょっとほっとしたような表情になったように見えた。
「良かった、覚えていたんだね」
「記憶に異常がなくて良かったな」
 風祭颯太と瑞城直人がそう言ったとき、別のところから声が上がった。


「有体に言えば、口封じだな」


 その声はドアのほうから聞こえた。

 いつの間に入ってきていたのだろう。一切気配を立てず、その男はドアの前で両腕と脚をゆるく組んで絢子を見つめていた。

「こいつらはな、ああ、俺も含めてだが、昨日あった一切のことを穏便に処理しようとしているのさ」

「あなたは……?」

 男はジーンズに白いシャツという簡素な出で立ちでありながら、少し浅黒い肌にはそれが良く似合っていた。無精髭が何ともワイルドである。
「俺のこと覚えていない? 夢の中ではあんなに愛し合ったのに?」

「え?」

 絢子はその男が言ったことを認めるとたちまち赤面した。

「な、な、な!」

「喋れてねえぜ、絢子ちゃん?」
「どうして私の名前を?」
「だって、名乗ってただろう、さっき」
「さっきはあなたいませんでしたよ!」
「い・た・の」
 男はそう言うとしなやかな足取りで奥に立っている二人の男性の隣に来た。

「俺は蔭原正臣。絢子ちゃんの護衛をするから。よろしくな」

 正臣はそう言って一歩前に進み出ると、絢子の手をすっと取りそこに柔らかく口付けた。

「!?」

 瞬間、絢子はまたぼっと赤くなった。
 だって、人がいるところで、てっ、手にちゅうとか!

 正臣はそんな口をパクパクさせている絢子を上目遣いで見た。

「俺のこと意識してくれた?」

「っ! いきなり何なんですか!!」

 絢子はその手を強引に払うとぶんとそっぽを向いた。

「駄目だよ正臣、絢子ちゃんは病み上がりなんだから」
 風祭颯太がたしなめる。
「私の話はまだ終わっていなかったのだがな」
 瑞城直人が少しばかり憮然とした表情になった。怜悧な人がそんな表情をとると、怖さがニ割り増しである。
「お前らの前で絢子ちゃんは俺のだって宣言しておかないと、お前ら手え出すだろ、いや出すね、絶対出すね」
 蔭原正臣は二人の前に両手で壁を作ると、絢子と二人の間に立ちはだかった。

「いつ喰った?」

 瑞城直人が先ほどの憮然とした表情のまま正臣に聞いてきた。

「さあね、これは俺と絢子ちゃんだけの秘・密」
 そういうと正臣は顔だけ絢子に振り向いてにやっと笑った。

 絢子は思わず眉間にしわを寄せた。

 と、あることに気付く。

「あ! バイト!!」

 絢子はいそいそとベッドから出ようとした。
「今何時ですか? ああどうしよう早く行かなくちゃ! じゃなくてその前に遅刻の連絡だわ! それにバッグ! あの中には私の全財産が!!」
 そんな絢子を正臣が両手で押し止める。
 思わずビクッとしたが、その手つきは想像していたよりもずっと優しかった。
「絢子ちゃん、絢子ちゃんのバイト先にはもう連絡がいっている。傷害事件に巻き込まれて、病院で安静にしているってことまでちゃんとだ。だから絢子ちゃんは何も心配せずにここでゆっくりと寝ていていい。それにバッグは俺が見つけて拾っておいた。中身も無事だ」
 そう言うと蔭原正臣は絢子の肩をきゅっと握った。

「絢子ちゃんの事は俺が生涯かけて幸せにしてやる。だから何も心配しなくていい」

 正臣は切なそうに微笑んだ。

「あ、あの……」

 絢子はしどろもどろになった。
 これはまるでプロポーズの言葉のようではないか。
 それにこの人は本当にあの夢の中の人なのだろうか。

 だとしたらなぜこんなに切なげに笑うのだろうか。
 絢子の胸は知らずきゅんとした。

「お取り込み中のところ悪いんだけれどね、僕は医師として絢子ちゃんのところに来ているんだ。診察させてもらえないかな?」
 絢子がはっと気付くと、そこには困った笑顔の颯太がいた。
「正臣、悪いんだけどそこ替わってくれるかな?」

 正臣は渋々といった表情で絢子の前からどいた。
 入れ替わりに颯太が絢子の前に膝をつく。
「絢子ちゃん、記憶に混乱はない? もしあるようならば、カウンセリングを受けることもできるけれど」
「いいえ、颯太さん、私大丈夫です」

「ほら、油断ならねえ、もう名前で呼ばせてる」

 絢子が目線をやると、そこには眉間にしわを寄せ、口をへの字にした正臣がいた。
 その様子が何だか捻くれた子供みたいで、絢子は思わず微笑んだ。

「変な顔」

 正臣は絢子のその顔を見ると、目を丸くした。
「絢子ちゃん……」


「「「……可愛い」」」


「え?」

 きょとんとする三人の男達と絢子。
 三人の男達は思わずといった風情であったようだ。

「ぷっ、あはは」

 期せずして三人が復唱したことに噴出してしまった絢子であった。






 ――豪華な庭園。

 庭には鯉が何匹も泳ぎ、枝振りのよい松、カラカラと回る水車、ししおどしなどがある。

 その庭の一角、大きな唐傘がさされた朱塗りの長椅子の上に座る影があった。
 それは着流しを着た流麗な若者であるようだった。

「とうとう見つかったのだね、私の朝雄が」

 若者が口を開いた。

 その声に返事を返したのは、若者の後ろに佇んでいた壮年の男性であった。

「はっ。聞くところによりますれば、東京郊外にある廃工場で傷害事件が起こったそうです。その当事者がかの紀朝雄の生まれ変わりであるとか」
「その子はどんな子かな?」
「はっ。年齢は二十三歳、現在書店でアルバイトをしており、将来は教職を目指していると……」
「私が聞いているのはそんなことじゃないよ」

 その声は聞くものによっては畏怖を呼び起こさせるものであった。

「はっ……。そのものは良く言えば質素な、女性であるそうです」
「女、ね」

 今度はその声は打って変わって楽しそうに響いた。

「私の朝雄が女であるとはな。面白い、今度は本当に愛でてやるとしよう」

「これでようやく藤原匠を排除することができますね」
 壮年の男性は抑えた歓喜をにじませる声で言った。

「ああ、早く来ないかな、私の朝雄」
 流麗な若者の声はよく響いた。

「私の朝雄、早く二人でこの世を眺めたいものだ」
「御意」

 壮年の男はそう言うと静かに姿を消したのであった。

 後に残るは流麗な若者。
 若者は目線を宙に飛ばした。

「待っているよ、朝雄」






 絢子が帰宅したのはその日の夕方だった。
 アパートの前の狭い道路に、黒塗りのハイヤーが止まる。

「あ、あの、すいません、こんなところまで送ってもらって」
 絢子が恐縮して言うと、同乗している正臣が声をかけた。
「絢子ちゃんが心配するようなことじゃない。さ、行こうか」

「へ? 行くって何ですか?」

「だから、絢子ちゃん家」

「……?」

「あれ? 俺、言っただろ? 絢子ちゃんの護衛だって」

「はい、そう聞きました、けど?」
「これからね、俺と絢子ちゃんは共同生活するの。初めての共同作業だね、ハニー?」

 その台詞を聞いた瞬間、私の頭の中はパニック状態になった。
「なっ……!! ななな?!」

「また喋れてないよ? 絢子ちゃん」

 そう言って蔭原正臣は車のトランクから大きめのキャリーケースを取り出した。

「俺の荷物はこれだけだから。絢子ちゃんは何にも買い足さなくていいからね」
「いやちょっとそういうことじゃなくって」
「あ、夜? 何だよ、言わせんなよ、ちゃんと良くしてやるから」
 そう言って正臣は意地悪そうな笑みを見せた。

「え? 良くって、何がですか?」

「毎日美味しく頂いてあげるから覚悟しなよ?」

「えええええーっ!?」


 ――こうして、松永絢子の波乱の日常は幕を開けたのであった。



[27301] 共同作業
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/19 23:56
「あ、あのですね」
「何?」

 今、松永絢子と蔭原正臣は六畳フローリングの床で正座をして向かい合っていた。
 片方は意地悪そうな笑みを浮かべ、もう片方は自分の部屋であるにもかかわらず居心地悪そうに頬を染めている。

 言うなれば、これが二人にとっての初めての共同作業であった。

 蔭原正臣の正座は武道をやっているもののそれであった。
 目の前で凛々しい正座をしている人間を前に、絢子はちょっと怖気づいていた。
 蔭原正臣はにやりと笑った。
「何だか初夜みたいだね」
「なっ! 何を言っているんですか!?」
「恥ずかしがらなくてもいいのに。あんなに求め合った仲じゃないか」
 絢子は正臣をぎっと睨んだ。
「そうじゃなくてっ! あの、まずは最初にこの家で生活するルールを話しておきます」
 そう言うと絢子は正臣の目の前で人差し指を一本立てた。
「まず始めに。私の許可なく襲わないでください」
 彼は少しばかり目を丸くしたあとひょいと片眉をあげた。
「ふうん『許可』ねえ。いいこと言うじゃない。了解了解」
「あっ、ちょっと! 何かあげ足取ってます?」
 ぷうと膨れたあと、気を取り直して絢子は続けた。
「料理は分担制にします」
「料理なら俺が担当しても良いけど」
「本当ですか?」
 絢子は目を丸くする。正臣は料理には無縁そうに見えたのだ。
「俺ね、こう見えて料理は結構得意なのよ」
 そう言うと正臣は愛嬌のある笑顔でことりと首をかしげた。
「そうだ、家事全般俺がやろうか」
「え?」
「そうしたら絢子ちゃんの負担が減るでしょ?」
「そっ、それはそうですけれど」
「あ、下着とかの洗濯物の心配はしなくて良いよ。俺そういう趣味ないから」
「してません!」
「じゃ決まり。家のことは俺がするから」
 絢子は正臣のその笑顔に気圧された。
「あ、はい……じゃあ次に、蔭原さんはどうやってお金を稼ぐんですか? 私の護衛って儲かるものなんですか?」
 絢子のこの質問に正臣は腕組みをした。
 シャツの上からでもわかるしなやかな筋肉に絢子は少しだけドキッとする。
「お金のことなら心配しなくていい。匠からそれ相応の額はもらっている」
「へえー、匠さんってお金持ちなんですね」
 絢子が感心すると、正臣は眉根を寄せた。
「絢子ちゃんは藤原グループって知らないの? ゼネコンから医療、教育、エコまで、幅広く事業を展開しているグループなんだけどね」
「あっ、そう言えば四季報で見たことあるような気が……」
「絢子ちゃん、就活あんまりしてなかったみたいだね」
 絢子はちょっとうなだれた。
「はい……大学四年のときは教育実習と教員採用試験、それに卒論で手一杯でしたから」
 手を抜いてきたつもりはないが、内定が取れなかったのも、自分の情報収集能力不足であったことを今の話でまざまざと思い知らされた気がしたのだ。
「絢子ちゃん、落ち込まないで」
 正臣が慰めるように言う。
「あの、じゃあ、これでこの家で生活するルールは、私からは以上です。あとはお互いがお互いのやりやすいように順次変えていきましょう」
 正臣は、他意はないというようにホールドアップした。
「OK。絢子ちゃんを不用意に襲わない、家事全般は俺がやるってことでいいんだね?」
「はい。私からはそれで十分です」
「それじゃあ俺からも少し」
「何ですか?」
「俺のことは正臣って呼ぶこと」
「え?」
「これからずっと一緒に生活するってのに、名字で呼ばれるのはちょっときついかな。あと敬語も駄目。距離が縮まらない」
 絢子は逡巡した。
 小さいころはともかく、生まれてこのかた男性を呼び捨てにした経験は皆無と言っていい。
「じゃあ、正臣さんでは駄目ですか?」
「だ・め。ちゃんと名前で呼んで。あと敬語ナシね」
「うん……正臣」
「よし、いい子だ」
 そう言うと正臣は絢子の頭に手を置いた。
 そのままニ・三度軽くぽんぽんと叩く。
「私子供じゃありません」
「俺からしたら十分子供だよ。絢子ちゃん二十三歳でしょ? 俺とちょうど十歳離れてるもん」
「正臣は三十三歳だったの?」
 ぎこちなくタメ語を使う絢子だったが、正臣のその告白には驚いた。

「正臣は年齢不詳って感じがするから、歳なんてわからなかったわ」
「そ、俺ね、それよく言われるんだ。……じゃあこれで話は終わりかな。なら早速夕飯作らせてもらうぜ」
 そう言うと正臣はすっと立ち上がった。絢子も慌てて立ち上がろうとする。
「あの食器は棚の上にあります……って、ああっ」
 ずっと正座していたため、絢子の足は痺れていた。
 立ち上がろうとして思わずよろけそうになる。
 その絢子を正臣が片腕でさっと抱きとめたのだ。
 絢子は正臣の腕の中に囚われた。

「ひゃっ」

「大丈夫か?」
「あ、足がびりびりしてっ……」
 絢子は正臣の胸に必死にすがりついた。
「慣れないことをするからだ。でも、そのけじめのつけ方は嫌いじゃない」
 絢子の耳元でふっと笑うと、正臣は彼女をそっと抱き上げベッドに座らせた。
「まだ痺れるか?」
「は、はい」
「じゃあ、そこで座ってな」
「はい、すみません」
 正臣は腕まくりをしながらキッチンへと歩いていった。
「絢子ちゃん、そういうときは、『すみません』じゃなくて『ありがとう』でしょ?」

「はい、ありがとう、正臣」

「合格♪」

 正臣はそう言うと冷蔵庫を漁り始めた。
 入っていた有り合わせの具材を使って、オムライスを作る。

 出来上がったオムライスは卵がとろとろで、まるで洋食屋のメニューからそのまま飛び出てきたのではないかと思わせるような出来であった。

「どおよ? 俺の料理の腕前は」

 絢子は一口食べて、その絶妙なハーモニーに舌鼓を打った。

「うん、すごく美味しい!」

 そう言って、絢子はにへっと笑った。

「……あー可愛いなあ絢子ちゃん」
 正臣は食べる手を止めてそう呟いたのであった。


 食事も終盤に差し掛かってきたころ。

 絢子はふと気付いたことがある。

「あれ、そう言えば正臣は私と同じペースでご飯食べてる」

 正臣の皿の中と、絢子の皿の中の量はほぼ一緒である。
「もしかして、私のペースに合わせてくれたのかなあ」

 些細なことかもしれないが、食べるのが人より遅い絢子にとって、そのことは感動するぐらい嬉しいことであったのである。

 いつも人を待たせてしまうから、友人と外食するときも食事中は基本無言である。
 時が経つにつれ、相槌だけでも苦にならない友人だけが綾子の周りには残った。
 それだけでもありがたいことであるが、絢子は思い切って目の前の男性に聞いてみた。

「あの、正臣、もしかして食べる速度、私に合わせてくれているの?」

 正臣は絢子に目をやると、何事もなかったように答えた。
「ああ。別に意識して合わせているわけじゃないけどな」
 その返答に私は心の奥底がぽわっと温かくなった。

「そう。私、正臣のそういう心配りは嬉しい、好き」
 思い切って言ってみた。

 正臣は絢子のその言葉を聞くと、一瞬目を丸くしたあとにやりと笑った。

「俺も絢子ちゃんのこと好きだよ? てかむしろど真ん中どストライク」
「……どのへんが?」

 絢子はちょっとどきどきした。今まで家族以外の異性から自分に関する褒め言葉など聞いたことがなかったからだ。
 正臣は指で四角い小窓を作り、そこから絢子を覗き込んだ。

「ん、乳と尻」
「サイテーですね」

 絢子は即答してじと目で睨んだ。
「あー、期待して損しました」
 正臣は、今度は両手をぐっと握ると体をくねらせた。
「あらっ、絢子ちゃん! それって重要なことなのよー!」
「何いきなりオカマ口調になってるんですか。その動作もものすごくきもいですよ」
「俺の丈夫な子供を生んでもらうためにはとっても重要なことよ!」
「はあ?」
 正臣は人差し指を顔の横にぴっと立てた。
「抜けるか抜けないか、男にとっては大切なことです」
「なんて下品な!」
 絢子が目くじらを立てるのを、正臣は面白そうに見つめた。

「絢子ちゃん、俺はいい物件だぜー? この冴え渡る美貌、見事な肢体、そしてこの相手に尽くす様!」
「自分で言ってちゃ世話ないですね。どこがですか。不精髭を生やしたむさい三十三のおっさんが今のあなたです」
「絢子ちゃんツッコミは敬語なんだね。それもまた萌えるな」

 絢子は残りのオムライスをかき込むと、ぐんと席を立った。
「もう付き合ってられません、ご馳走様でした。オムライス『は』美味しかったです。あと、やっぱり正臣とは敬語で話すことにしました。だってこれが私なんですもの」
「はいはい、譲歩します」
 正臣は片手をあげて降参の意を示した。

「俺のこと、名前で呼んでくれるだけで十分。あ、あとイクときにもちゃんと俺の名前呼んでね?」
「はい?」
 絢子は眉をピクリと引きつらせた。
「だから、こう、切なげに『正臣』って」
「実演しなくて結構です。てかそんなの、呼びません、絶対に」


「夢では呼んでたぜ? 俺の名前」


 いきなり場の空気が変わった。

 正臣の視線はまるで絢子を射る様であった。

「……!」


「……俺は、絢子のいいところ全部知ってる。何度肌を重ねたと思ってる?」


 そう言う正臣の声は、低く、官能的ですらあった。

「そっ、それは、私の夢の中の話でっ!」
「じゃあ、何で俺がそのこと知ってんの? 絢子ちゃん、だれにも話したことなさそうなのに?」

「それは……」

 絢子は黙った。
 言い知れぬ不安が襲ってくる。
 自分は本当にこの男と夢の中であれ肌を重ねたのだろうか。
 お互いがお互いの夢を見るなんてことが果たしてあるのだろうか。

「私、そんな、はしたない女じゃありません!」

 それだけ言うと、絢子は箪笥から強引に下着とパジャマを引っ張り出した。
「私、シャワー浴びてきますから!」

 そのままどすどすとした足取りでユニットバスへと向かった絢子であった。

「あーあ、怒らせちゃったかな」
 正臣はそう呟くと残りのオムライスを一口でかき込んだ。

「でも、これぐらいしないと絢子ちゃんは俺がどれだけ絢子ちゃんが欲しいかなんてなあんにも気付かなそうだからなあ」

 そうひとりごつ正臣であった。




 ――絢子がテレビを見ながら寛いでいると、交代で風呂に入った正臣がユニットバスから出てきた。

 正臣が出てくるまで、絢子は先ほどの態度のことをぐるぐると考えていた。

「さすがにさっきの態度は大人気なかったわよね」
 絢子はそう呟くと片手をぐっと握った。
「ちゃんと謝ろう。曲がりなりにも、これからしばらく生活を共にする相手なのだから」

 キシ、キシと板を踏む足音が聞こえる。

 絢子はすっと息を呑んで言葉を発した。
「あのね、私さっきはちょっと大人気なかったかなあと思っ……」

 そう言いながら振り向いた絢子は、正臣の姿を見てぽかんと口を開けた。


「どう? いい男がさらにいい男になったでしょ?」


 正臣は不精髭を剃ってさっぱりしていた。

 髭がないと、ますます夢の中の男の姿に似通っている。
 意志の強そうな瞳、すっと通った鼻梁、形の良い顎のライン。
 いや、似ているなんてものじゃない。瓜二つなのだ。


「あ……」

「どう、絢子ちゃん、欲情した?」

「しませんっ!」

 思わず大きな声をあげてしまいはっとする。

 壁の薄いアパートなので、いつ近所迷惑の苦情が来るとも限らない。

 絢子はそっと声を潜めた。
「とにかく、布団敷いておきましたから、今日はもう寝てください」
「はいはい、仰せのままに」

 そう言うと、二人はそれぞれの布団へと潜り込んだのであった。



[27301] 職場移動 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/19 23:57
 相手の心臓が、どくっ、どくっと脈打つのさえも手に取るようにわかるかのようだ。

 絢子は夢の中で蔭原正臣に組み敷かれていた。

 深い口付けをし、どちらの唾液かわからないものを飲み込み、絢子は少しむせた。
 顔を横に向けてこほこほと咳をしている間、正臣は絢子の両の胸を愛撫しにかかった。


 やがてじんわりと温かい海に浸かっている様な快感が呼び起こされる。

 そしてそのまま絢子は夢から覚醒した。






「っ……!」

 目を開けると見慣れた天井だった。

 なんて強烈な夢。
 自分が自分でなくなってしまったかのような、淫靡な夢。

 一昨日あったことも全て夢なのだろうか。
 だが頭に巻かれた包帯が、一昨日あったことは真実なのだと訴える。
 ふと横を見ると、そこには少しだけ窮屈そうに布団に収まる正臣の姿があった。
「さっきまで夢の中であんなことしておいて、どんな顔して会えばいいのよ」
 絢子は頭に手を置きため息をついた。

「痛むのか?」

 その声に目をやると、そこにはむくりと起き上がった正臣がいた。

「ううん。あ、お、おはよう」
「おはよう」

 とりあえず挨拶はできた。

 絢子は自分が赤面していないことを祈るばかりであったが、それは杞憂だったようだ。
 正臣は何事もなかったようにすっと立ち上がるとユニットバスへと向かった。

「何だ、昨日言っていた同じ夢を見てるっていうのはやっぱり嘘だったのかもしれない。だって正臣はあんなに平然としているんだもん」

 瞼の裏には、正臣が自分を見下ろす様子が未だ鮮明に移っている。

 彼の目は欲情に潤んでいたのだ。
 絢子のことが欲しいと、全身で訴えていたのだ。

 彼の屹立したその部分を想像して、絢子はついに赤面した。

「馬鹿、私ったら何考えているのよ! さ、サイテーだわ!」

 相手は三十三歳のおっさんなのだ。
 その年齢不詳の外見に騙されてはいけないのだ。
 髭がなくなってからは一気に二十代後半の容貌に見えるようになったのだから実に不思議である。
 だが、気を許してはいけない。
「セクハラ発言や下品な発言も平気で言うし、私の魅力は乳と尻ですって?! 何なのよ」

 絢子は少しばかりムカッとしながら手早く身だしなみを整えた。
 今日は何としても出勤するのだ。

 ユニットバスから出てきた正臣は心持ちすっきりしたような顔をしていた。
「いやあ、男の朝の生理現象を解消すると、賢人になった気分になるね」
「??」
「ああ、こっちのひとりごと。それと、今日は出勤するんだよね?」
「ええ、そのつもりですけど」

「俺、近くで見守っているから。だから心配しないでお仕事してらっしゃい」
 正臣はそう言うとおもむろに服を脱ぎ始めた。

 寝巻きのTシャツを脱いだ正臣の上半身は芸術といっても良いほどのものであった。
 引き締まった筋肉、割れた腹筋、少し浅黒い彫刻のように滑らかな肌。
 絢子はそれを瞬きするのも忘れて見入っていた。

「うわあ……」

 絢子が間抜け面をしてぽかんと口を開けっ放しにしていると、その視線に気付いた正臣はふっと苦笑したようだった。
「惚れ直した?」
 その言葉に我に返った絢子は口をぱっと閉じると、取り合えず首を傾げて見せた。
「うーん? どうかな? そもそも惚れてませんから」
 シャツを羽織ると、正臣は「何その微妙な反応は」と言って笑った。

 朝御飯はジャムトーストとコーヒーで済ませた。
「じゃあ、行こうか」
 正臣に促され、玄関を出る。

 ドアを空けた瞬間、秋のすがすがしい空気と、爽やかな朝日が飛び込んできた。
「いい天気!」
 嬉しくなってそのまま傍らにいる正臣に笑顔を送った。
 こういうときに同じものを共有できる人がいるのは喜ばしいことだと思う。
 正臣はちょっとまぶしそうな表情をしたあと、ごく自然に絢子の頬にキスを落としてきた。

「???」

 目をぱちくりとさせる絢子にお構いなく、正臣は絢子の手を引くと家の外へ出たのであった。




「おはようございます」
「おはよう松永さん」
 パックヤードに入り店長と挨拶する。

「いやあ、一昨日は災難だったね。暴漢に襲われたんだって? 頭の包帯が痛々しいね」
 心配そうな表情を向ける店長。
「で、結局犯人は捕まったの?」
「いや、何か示談になるっぽいというか、その辺のことはまだよくわからないんです」
「そうなんだ。つい先日は田中君も引ったくりにあったりして、皆災難続きだねえ」
「本当ですよね」
 そんなことを話しながら絢子は仕事に就いた。

 レジを担当しているときにお客さんからはぎょっとした目で見られたりもしたけれど、仕事に支障はないので気にしないことにした。
 この包帯はニ、三日したら取ってもいいと颯太さんが言っていたので、それらの視線も数日我慢すれば済むことだと思った。ただ、接客業なので頭が洗えないのはちょっとつらいかなと思った絢子であった。




 休憩中のこと。
 店長がちょっと焦ったように私を呼んだ。

「松永さん、今そこに松永さんの弁護士って人が来ているんだけれども」
「え?」
 絢子はきょとんとした。
「私の弁護士って言ったら、確かあの瑞城直人さんよね。直人さんがなぜこんなところに……」
 絢子は大いにいぶかしむと、店長に連れられて応接室のようなところに入った。

 そこには、昨日会ったばかりの怜悧な表情をした弁護士が座っていた。

 髪は今日もぴっちりとオールバックにしており、きっちりとしたグレーのスーツに水色のネクタイ、メタルフレームの眼鏡の奥の瞳は今日も鋭さを湛えていた。

「あ、直人さん」
 瑞城直人は立ち上がり絢子にひとつ頷くと、店長に向き直って懐から名刺を取り出した。

「私は弁護士会所属、藤原弁護士事務所に勤めております瑞城直人と申します」
 店長は直人のその折り目正しい対応に半ば恐縮しながら名刺を受け取っていた。
 直人は名刺を交換すると、用件を率直に話し始めた。
「私は彼女を担当している弁護士です。今日は絢子さんの安全確保のため、今日限りで職場を辞めて頂くようお願いに上がった次第です」
 絢子はいきなりの話に目を丸くした。
「え、私、そんなの聞いてないわ」
 しかしその言葉を口に出す前に、店長が直人に聞いた。
「それはどういうことなのでしょう? こちら側と致しましても、いきなり仕事を辞められると業務に支障が出てきてしまうのです。もしお辞めになられるのでしたら、せめて一月前にはご連絡頂きたいところなのですが」
 店長の話はもっともである。だが、直人はそれをばっさりと切り捨てた。
「私と致しましても、そのような道理は重々承知の上でお話させて頂いております。これは絢子さんの安全にも関わる話なのです」
 それを聞いた店長は少しばかり及び腰になったようだ。
「安全って……松永さんの相手はそんなに物騒な奴らなんですか?」
「ええ。ですから当方としても絢子さんの身を守るために止む無くこのような処置を取らせて頂いているのです。職場にご迷惑がかかるのは百も承知ですが、人命優先であると思って頂けるとありがたいです」
「人命優先」のその言葉にますます腰が引けている店長である。
 絢子はわけがわからず、その話を右へ左へと聞いていた。

 店長はしばらくうんうんと唸っていたあと、直人に向き直った。
「弁護士さんがわざわざご足労頂くほどの事態ですから、今回は特例として許可します」

 そしてその場で退社手続きを取って、絢子は無職の人となったのであった。


 バックヤードで帰り支度をしていると、店長がやってきた。
「いきなりのことでこちらとしてもびっくりしているけれど、松永さんはよく仕事をやってくれていたと思うよ。ひたむきに頑張っているのも、ちゃんと見ていたからね」
 店長からのその言葉に、絢子は思わず涙が出そうになった。
「あの、ありがとうございます店長。私としてもこんな形で辞めるのは不本意ですが、でも、この職場はとても働きやすい職場でした」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。田中君達にはあとで説明しておくから心配しないでね」
 簡素な別れを済ますと、私はバックヤードから廊下に出た。

 外に出ると、そこには瑞城直人と蔭原正臣のツーショットがあった。
 上背のある二人、しかもタイプは違えどイケメンの二人の立ち姿はなかなかに壮観であった。

 先に絢子に気付いたのは正臣だった。
「絢子ちゃん、こっちこっち。向こうに車が止まっているからね、そこまで歩くよ」
「はあ」
 二人のところまで来ると、絢子は両側からエスコートされるかのように歩き出した。
 百六十センチという日本人女性の平均身長である絢子の両隣を歩く、約百八十センチの長身モデル体型の男達。
 その光景は周囲の奇異の目線でもってなお一層引き立っていた。

「あの、目立っていませんか?」
 絢子はおずおずと二人に聞いた。
「私は別に気にならないが」
 直人が超然とした態度で言う。
「俺も別段構わないね」
 正臣もどこ吹く風といった風情である。

 と、絢子はふと気付いたことがある。
 両側の男性と絢子の歩く速度が一緒なのだ。
 単純に考えて、絢子と男性達の脚の長さは違う。にもかかわらず、二人はごく自然に絢子の歩く速度に合わせてくれているのだ。
 絢子はそれに気付いた途端、かあっと赤面した。
 今まで(昨日の正臣の態度を除けば)男性に気を遣ってもらったことなどほぼ皆無に等しい。
 思わず足がもつれる。
 その瞬間、両側から長い腕が伸び、ふわりと絢子を支えた。

「大丈夫か?」
 瑞城直人が僅かに心配そうに聞く。
「絢子さんは病み上がりなのだから、無理をすることはない」
「そうだよ絢子ちゃん。俺らは絢子ちゃんのためにいるんだから」
 正臣も絢子の腕を離しながら言う。
「正臣の言う通りだ。あなたを守るために我々がいるのだからどうか頼って欲しい」
 そういうと直人はふっと微笑んだ。
 その微笑を見た絢子は心臓がどきりと鳴るのを自覚した。
「直人さん、そんな顔するんですね」
 絢子がそう言うと、直人はいぶかしむような顔をした。
「変だろうか?」
「ううん! すっごく素敵です!」
 絢子が両手をぎゅっと握って力説すると、直人は一瞬目を丸くしたあと、今度は嫣然と微笑んだ。


「そうか、気に入ったか」


 その笑みは見るものに欲情を抱かせるようなどこか淫靡なものであった。

 え? だ、誰ですかこの人?! ストイックな印象の直人さんがいきなりフェロモン全開のお兄さんになっています!!
 直人はそのまま絢子の顎をすっと撫でると、何事もなかったかのように歩き始めた。
「直人? 絢子ちゃんは俺のだって言ってんだろ?」
 正臣が少しむっとしたように言う。
「絢子ちゃんのいいところは皆俺のもんなの。お前には味合わせてやらねえよ」
「単に体を繋げただけでは意味がない」
「かっ、体を、何ですって?」
 往来でともすればセクハラ紛いの単語を吐く二人に、間に挟まれた絢子はただおろおろするばかりであった。

 黒塗りのハイヤーに乗っても二人の発言はとどまるところを知らなかった。
 片や口八丁手八丁の護衛、片や理論武装はお手の物の弁護士である。
 事もあろうに正臣は夢の中での出来事を克明に話し始めた。
「絢子ちゃんは本当に敏感なんだぜ? 俺の手の中で、まるで魚のように跳ねるんだ。昨日なんか乳房の……」
 たまりかねて絢子は思わず大きな声を発した。


「私っ! 私全然いやらしい女じゃありません! それに私処女ですから!!」




 その場は一瞬しんとなった。

「……」

「……」


 言った本人は自分が何を発言したかに気付くと、盛大にゆでたこになった。
「あっ……あの、その」
 そして男性二人の止まっていた時が動き始めると、正臣が意地悪な笑みを浮かべた。

「なあ直人、絢子ちゃんはさ、処女なのに淫乱。最高だろう? 夢の中では俺にどろどろに抱かれているにもかかわらず、体は清いまま。垂涎ものだろう?」
 腕組みをしながら満足そうに言う正臣に対し、直人は眉間に皺を寄せている。メタルフレームの眼鏡の奥から覗く瞳が鋭さを増している。
「夢の中とはいえお前に抱かせておくのは大いに癪だ。しばらく手折らず愛でるべきか、今すぐ奪うべきか思案している最中だ」
「おっと、それはさせねえよ。俺は絢子ちゃんの護衛ですから。お前達の誰にも、指一本触れさせねえよ」
「過保護も過ぎると毒になるぞ」
「それをお前が言うかねえ? お前の手の中じゃあ、絢子ちゃん、きっと文字通り雁字搦めになるだろうよ……あ、でもやっぱりそれちょっと見てみたいかも」
「好き物が」
「お前も相当だろう?」
 男達は何かを共有しあったようである。
 恥ずかしさと置いてけぼりにされた感でいっぱいの絢子は、そんな二人を見てそっとため息をついたのであった。



[27301] 藤原匠との面会
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/20 00:06
 黒塗りのハイヤーが到着した場所は絢子の家の前ではなかった。
 絢子達を乗せた車は高速に乗り、都心へと進んだのである。
 そして閑静で瀟洒な住宅街の一角にたどり着くと、その車は止まった。

 そこは大邸宅と呼ぶにふさわしい場所であった。
 家は立派な門構えで白塗りの壁がどこまでも続いている。

「すごい、都心の一等地にこんなに大きな家が建っているなんて……」

 車から降りた絢子はそう呟くとぽかんと口をあけた。

「ね、ね、絢子ちゃん、そんなに無防備だとチューしちゃうよ?」
「!?」
 絢子の顔を覗き込んだ正臣が意地悪そうに言う。
 絢子ははっとしてぱくんと口を閉じた。

「かーわいい、絢子ちゃん」

 そう言って正臣が絢子の肩を抱く。
 正臣は腰を折り絢子の耳元に口を寄せた。
「ここに来たってことはさ、これから絢子ちゃんに会ってもらうのはねえ、俺達の雇い主、藤原匠なんだ」

「藤原匠……」

 自分がこのような事態に巻き込まれたそもそもの原因である藤原匠に、絢子はこれから会うことになったのだ。




 長い小道を辿り、ようやっと大邸宅の玄関にまでたどり着くと、図ったかのようにその玄関が音もなく開いた。

 そこから出て来たのは、風祭颯太と、もうひとり別の人物がいた。

 その人物はまるでルネサンス絵画の中から抜け出てきた天使のようであった。

 輝くようなふわふわの金髪、きらきらとした灰色の大きな瞳、可愛らしい鼻に少しアヒル口の艶めくピンク色の唇、卵形の輪郭がそれら全てを絶妙な位置に内包していた。

 その人物は颯太の隣からとっと小走りに絢子のところへ駆け寄り、変声期前のアルトの声で言葉を発した。

「良かったあ、あなたが匠に会う前に会えて。僕は鐘崎悠真って言います。十五歳です」
 そう言って鐘崎悠真は絢子に向かってぺこりとお辞儀をした。

「かねざき、ゆうま君ですね。私は松永絢子と言います。あの、男の子、ですよね?」
 絢子は恐る恐る不躾な質問を聞く。

「そうだよ? それ以外の何に見えるって言うの?」
 悠真はぷうと頬を膨らませると、絢子を軽くにらみつけた。
 ちょっとむくれるその姿も可愛らしい。
「ごめんね、悠真君」
 絢子は慌てて謝った。
 悠真はむくれた顔のまま、絢子に話しかけた。
「絢子、絢子は今僕に失礼なこと言ったよね? 本当に悪いと思ってる? 思ってるならお詫びが必要だよね?」
「?」

「あのね、僕のほっぺにキスしたら許してあげる」

「え?!」

「悪いと思ってるんでしょ?」
「あの……でも初対面でそんないきなり」

「早く、皆が待ってるよ?」

 急かされた絢子はごくりと唾を飲み込むと、えーい、もうどうとでもなれといった心境で悠真のつややかなほっぺたにチュッとキスをした。

 途端に機嫌が良くなる悠真。
「うん! これで仲直り!」
 悠真は絢子の腕に自分の腕を絡めると、ぐいぐいと奥へと引っ張っていった。

「こっちだよ絢子! 僕が匠のところまで案内してあげるね!」
「悠真、絢子ちゃんをしっかりエスコートするんだよ」
 風祭颯太が声をかける。
「はあい、ダイジョーブだよ颯太、僕に任せて」
 金髪灰眼の天使は、まるで恋人同士であるかのように絢子に腕を絡ませ、足並みを揃えた。
「紀朝雄の生まれかわりって言うからどんなに厳つい男かと想像していたけれど、絢子みたいな可愛い女性で良かったよ。守り甲斐がある」
 そう言って悠真は上目遣いで絢子を見たあとにこっと微笑んだ。
 途端に悠真の周りに花が咲き乱れたような気がした。

「なっ……なんて可愛らしいの!」

 悠真のその笑顔に思わず心の中で絶叫してしまった絢子であった。


「……それにしても『守り甲斐がある』って、どういうことかしら?」
 先ほどの悠真の言葉を反芻しながら、絢子は邸宅の中を歩いていた。
 自分の隣には鐘崎悠真がべったりと張り付き、きらきらとしたオーラを振りまいている。
「そういえば絢子は僕の雑誌見たことないの?」
「雑誌?」
「うん、僕が出ている雑誌」
「悠真君はモデルか何かだったんですか?」
「うん、そうだよ」
 驚いた絢子に、悠真は無邪気に言うと顔をぐいと近づけた。
 思わず仰け反る絢子。
 間近にきめの細かい肌と、ピンク色の唇が見える。
「僕ね、海外のアートシーンでセミヌードモデルやってるの」
「ぬ、ヌード?!」
「マルチェロ・ラッティオっていう有名なイタリアのフォトグラファーが僕をとっても気に入っていてね、その人の作品によく登場しているんだ。絢子にも今度見せてあげるね」
「は、はあ……」
 オーラに気圧されていると、横合いから正臣が声をかけた。
「俺もこいつが出ているマルチェロ・ラッティオの写真集は見たことがあるが、かなり際どいやつだぜ。何でも『中性的な美への挑戦』だとかいって、エロティックでほぼフルヌードみたいなもんもあるんだ。ま、俺が勃つのは絢子ちゃんだけだけどね」
「なっ! 子供の前で何を言っているんですか!」
 絢子が目くじらを立てると、それを横で聞いていた悠真は何でもないことのように言った。


「心配しなくても良いよ。僕、見た目よりも子供じゃないから」


 確かにこの歳からそんな現場で働いているのであれば嫌でも大人にならざるを得ないのかもしれない。
 何だか保護者のような気持ちになった絢子であった。

 そうこうしているうちに、絢子達はあるドアの前で足を止めた。
「着いたよ絢子」
 そう言うと悠真は絢子からするりと離れた。
 颯太がドアをコンコンとノックする。

「どうぞ」

 中から聞こえてきたのは、張りのある艶やかな声だった。

 颯太と悠真がその重そうなドアを両側からギイイと開ける。

 五人が中に足を踏み入れると、そこには大きな窓を背にして立つひとりの男性がいた。
 悠真が絢子に紹介する。


「この人が藤原匠だよ」


 年の頃は三十代後半から四十台前後か。
 見事な偉丈夫であった。
 漆黒の髪を綺麗に撫でつけ、三つ揃えのスーツをびしっと着こなし、舞でもひとさし舞わせたらさぞかし映えるだろうという男性的な美貌であった。
 人の上に立つものはこういう人なのだと思わせる何かがその藤原匠にはあったのだ。

 藤原匠は絢子の姿を認めると、柔らかく微笑んだ。
 その笑みは彼の持つ威厳を少しも損なうことなく、むしろ「この人についていきたい」と思わせるようなものであった。

「貴女が松永絢子さんですね。私は藤原グループ総裁の藤原匠というものです」
「は、はい」
「この度は私の監督不行き届きで、貴女に恐ろしい思いをさせてしまい、怪我までさせてしまったことを深くお詫び申し上げます」
 そういうと、藤原匠は絢子にすっと頭を下げた。
 思わず慌てる絢子。
「あっ、あの、頭をあげてください、この怪我は大したことはありませんから」

 その言葉に、ゆっくりと頭をあげる匠であった。
 そして、労わるように微笑んだ。

「貴女はお優しいのですね。私どもが犯した不始末を許すと言うのですか?」

 その言葉に、絢子ははっと気付いたことがあった。
 この人は、人の話をきちんと聞いてくれそうだ。ならば、もしかしたら自分がここに来るまでに抱えていたいくつかの疑問を解消してくれるかもしれないと、そう思ったのだ。

 絢子は胸の前でぐっと両手を握りしめると言葉を発した。
「過ぎたことに関してはとやかく言うつもりはありません。実際、命に別状はなかったのですから。ですが、貴方にお聞きしたいことがいくつかあります」

 絢子はすっと空気を飲み込んだ。
「まず、私が紀朝雄という人物の生まれ変わりであるという話です。これは一体なんなのでしょうか? それに、どうして私が職場を辞めなくてはいけなかったんでしょうか? 瑞城直人さんが『人命優先』とおっしゃっていましたが、その経緯を説明していただけますか?」

 匠は絢子のその質問に少しばかり目を見開くと、口を開いた。
「私は貴女への評価を正さねばなりませんね。先ほど見たときは可愛らしいお嬢さんだとばかり思っていたのだが、なかなかどうして、肝が据わっている。その質問を私に直接するとは」
 本当はなんやかんやで周囲にいる人物に聞く機会がなかったからなのだが、絢子はそれを言うのを止めておいた。
「私は当事者です。最初は聞こうか迷いましたが、やはり蚊帳の外にいるわけにはいきませんから」
 絢子のその言葉に、匠はすっと居住まいを正した。
「わかりました。貴女に信じてもらえるかはわかりませんが、今貴女にお話できる限りのことをお伝えしましょう」
 そうして藤原匠は絢子達を部屋にあるソファに誘導すると話し始めたのだった。




「貴女に起こったことをお話しする前に、私どもの歴史を少しお話させていただきます。私どもの祖先は古く飛鳥時代、天智天皇の御世にまで遡ります。そこで我が藤原家は伊賀と伊勢の境にて隆盛を極めていたのです。我が祖先は朝廷に、より高い地位を願い出ましたが聞き入れてもらえず、怒った祖先は金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼の四性の鬼を従えて反旗を翻したのです。その祖先こそが、藤原千方、つまり私であるわけです」

 絢子は途中まではふむふむと聞いていたが、藤原千方=藤原匠という言葉を聞いてきょとんとした。しかも、四性の鬼とは一体何なのであろうか。まさか鬼などいるはずがなかろう。だが、絢子は口を挟まずに先を促した。

「四鬼はそれぞれ、その名の如き恐るべき力を持っていましたが、千方自身も非常に強大な神通力を有し、変幻出没を繰り返し、都を悩ませ、鎮圧に来た朝廷軍も大いに苦しめました。大苦戦を強いられた朝廷軍は、時の右大将・紀朝雄を派遣するのです。馬に乗り、たったひとりで現れた朝雄に対し、四鬼がすぐさま襲いかかりますが、『草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の棲なるべき』という和歌を矢文として射、これを読んだ四鬼達は、ここは自分の棲むところではないと改心し、たちまち本物の鬼に化生して、奈落へと落ちるのです。四鬼を失っても反乱を止めなかった千方は、家城付近の雲出川の岸の岩場で酒宴を催しているところを、対岸から朝雄の放った矢によって射殺された、という説や、かつて自らの副将として共に戦ったことのある朝雄からの和議に快く応じ、その上で瀬戸ヶ淵にて朝雄と釣りを楽しみ、一心不乱に釣りを楽しむ千方の背後から近づいた朝雄に斬り殺された、という説があります」

 そこまで話すと、匠は一息入れた。

「そして、この話に出てくる時の右大将、紀朝雄の生まれ変わりが、絢子さん、貴女であるのです」

「え……?」

 絢子はしばらく話の内容が飲み込めなかった。

 今の歴史の話をどこか遠いところで起こったことか、御伽噺のようなものとして受け止めていたため、それが現実に、しかも自分に返ってこようとは思ってもいなかったのである。

「あの、生まれ変わりという話は正直俄かには信じられませんが、それと『人命優先』という話とはどのような繋がりがあるのでしょうか?」
 匠は声のトーンを少し落とした。
「我が藤原家には敵対している勢力があります。その勢力が紀朝雄の生まれ変わりである貴女を手に入れようと画策しているという情報を掴みました。私どもはそれを阻止し、貴女の身柄を生涯守り続けることを誓うために、わざわざ貴女にこちらへご足労願った次第なのです。その情報が、貴女を襲った男共は貴女を消すという風にどこかで曲解されたものと思われます。末端にまで配慮が行き届かなかったこちらの落ち度により、貴女に怪我を負わせることとなってしまったのです」
「それならば、その話は解決したことですし、別に仕事を辞めなくても良かったのでは? それに、相手方が私を手に入れたいと言っているのであれば、それほど無体な扱いはしなさそうなのですが……」
 それを聞いた匠は眉をひそめた。
「貴女はもし自分が洗脳された後でもその言葉を言う事ができるでしょうか?」
「え? そんなに物騒な相手なのですか?」
 ぎょっとする絢子である。しかし気を取り直して話を続ける。
「では貴方方はなぜ私を守ろうとするのですか? 貴方方にとってそれほどの危険人物をわざわざ手元において置く必要はないように思いますけれど。むしろ貴方方のほうが私をどうにかしても良さそうなものですけれど」
 それを聞いた匠は顔をほころばせた。
「貴女は聡い。しかし我々は昔の禍根には一切こだわっておりません。いや、むしろ私は貴女が四性の鬼を改心させたというところに興味を持っているのですよ」
 匠はすっと両手を広げた。

「ちなみにその四性の鬼の生まれ変わりとは、今ここにいる四人の男性のことなのです」



[27301] 四性の鬼の力
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/20 00:08
 絢子は自分の周りにいる男性達を見回した。

 蔭原正臣、風祭颯太、瑞城直人、そして鐘崎悠真。

「四人とも、四性の鬼である証拠を見せておあげなさい」

 匠のその言葉に従って、まず立ち上がったのが鐘崎悠真だった。
「見てて絢子」
 悠真はテーブルの上に置いてあったペーパーナイフを手に取ると、自身の左手をテーブルの上に置き、おもむろにその上に振り下ろした。

「きゃあっ!?」

 悲鳴をあげて口を押さえる絢子。
 そのままでは悠真の手にナイフが突き刺さってしまう。

 しかし次の瞬間驚くべきことが起こった。

 悠真の左手の甲の上で、勢いよく振り下ろされたペーパーナイフがぐにゃりと歪にひん曲がったのだ。

「……?」

 口を押さえながらもいぶかしむ絢子に悠真が説明する。
「防衛本能っていうのかな? 皮膚が危険や刺激を察知すると自然に硬質化しちゃうんだ。もちろん、自分の自由意志で変化させることもできるよ。僕は金鬼。『その身が堅固で、矢をもってしても射抜けない』と言われているんだ」

 絢子は驚いたままこくりとひとつ頷いた。

「悠真が驚かせてしまったね」
 その言葉を発したのは風祭颯太だった。

「お詫びにちょっとしたプレゼントをしよう」
 そういうと颯太はテーブルに置いてあったメモ帳を一枚切り取った。
 それを右手の上に置く。

「絢子ちゃん、見ててご覧」
 そう言うが早いか、颯太の手の上で、紙がひとりでに立ち上がった。
 そのままくるくると回りながら、その紙はぱらぱらと切られてゆく。
 あっという間に颯太の手の上には兎と雪ダルマと雪景色の紙細工が出来上がった。
「さらに」
 颯太がその紙細工にふうっと息を吹きかけると、紙細工は空中に浮かんだ。
 そして紙吹雪が舞う中、兎と雪ダルマがダンスを踊り始めたのだ。
「僕は風鬼。風鬼は『大風を吹かせて、敵の城さえ吹き破ってしまう』と言われているのだけれど、こんな風に風を使って物を切ったり、宙に浮かせたりすることもできるんだ」
 そう言って颯太は見るものがほっと安堵するような笑みを浮かべた。

 紙吹雪達はそのままふわふわと浮かんで瑞城直人の下へと向かった。
「絢子さん、私は水鬼。水鬼は『洪水を起こして、敵を陸地に溺れさせてしまう』と言われているが、水を使ってこのような事もできる」
 そういうと、直人はテーブルの上に置いてあった水差しからコップに水を注ぐと、そのコップの上に手をかざした。
 水がぼこぼこと泡立ち、まるで生き物のように動き出した。
 その水はコップの淵から這い出ると、テーブルの上で綺麗な蜘蛛の巣状の模様を作った。
「これは水紐。私が望まない限り決して切れることのない紐だ。それと、私も颯太と同じように水を思うがままに操ることができる」
 そう言うと、直人は銀のメタルフレーム眼鏡の奥ですっと笑みを浮かべた。

「最後は俺だな」
 蔭原正臣が立ち上がると、絢子の前まで来た。
「絢子ちゃん、俺の手を握っててくれ」
 言われるがままに絢子は正臣の手を握る。
 ごつごつした男らしい手は、絢子の夢の中で何度も何度も肌の上を往復したものと似通っていた。
 しっくりとするその感触に少しだけ赤面する絢子を見ると、正臣はにやりと笑った。
「絢子ちゃん、あとでな」

 何があとでなのかはわからなかったが、次の瞬間、目の前から手の感触ごと正臣が掻き消えた。

「えっ?!」

 絢子はきょろきょろと辺りを見回す。
 しかし正臣の姿はない。
 と、部屋の扉がギイイと開き、そこから正臣が出てきたのである。
「俺は隠形鬼。隠形鬼は『その身を隠し、密かに接近して敵を押し潰す』と言われているが、まあわかりやすく言えば、俺には瞬間移動の能力があるってことだな。もちろん、自分だけじゃなく、望めば人も運べるぜ」

 さらに、と正臣は続ける。


「俺は人の夢の中に入る能力も持っているんだ」


 その言葉に絢子ははっと息を呑んだ。

「じゃ、じゃあ、今まで私が見ていた夢は……」

「全て俺が干渉したものだな」
 あっさりと白状する正臣。
 いや、元から隠す気など正臣にはなかったようだ。

 ということは絢子が見ていたあの夢はやはり正臣と共有していたということになるのだ。そう、昨日だって……
 絢子は怒っていいのやら恥ずかしがっていいのやらわからずに赤面して下を向いてしまった。
「正臣、彼女に何か粗相をしたのではないだろうね?」
 匠がいぶかしむ。
「俺は絢子ちゃんの『全て』を全身全霊で守っていたつもりです。まあ、一昨日はちょっと抜かりましたけれど。でもこれからは二度とありませんよ」
 しれっという正臣である。
 匠はそんな正臣を少しだけにらみつけると、絢子に向き直った。
「このように、我々は数々の不思議な力を持っている。絢子さん、我々のことを信じてくれるだろうか」
 藤原匠が確認するように言う。
 絢子は少しばかり逡巡したあと口を開いた。

「あの、もしこれが仮に私を騙すためだけにやったことだとしても、あまりにも手が込みすぎているし、何より私は皆さんが明かしてくださった事を信じたいと思います。自分が先ほどのお話に出てきた紀朝雄であるという実感は全然ありませんが……でも、わかりました。私の運命を貴方方にお預けします」
 そう言うと、絢子はできるだけ自然に見えるように笑みを作った。

「わーい! ありがとう絢子!」

 そう言うが早いか、悠真が絢子にぎゅうっと抱きついてきた。
「きゃ! 悠真君、ちょっと苦しいよ」
「これで絢子も僕らの仲間だね! そしたら匠、次の話に移ってよ」
「次の話?」
 首をかしげる絢子に、匠が話しかけた。

「絢子さん、聞くところによると、貴女は中学校と高校の社会の教員免許を持っているそうですね。そこで、貴女から仕事を奪ってしまったお詫びに、私が経営する学園で臨時講師として採用させていただこうと思っているのですが、いかがでしょうか?」

「えっ?」

 突然の申し出に瞬きする絢子。

「良かったじゃねえか絢子ちゃん。念願の先生になれてよ」
 正臣が祝福の言葉をかける。

「えっ、でも、そんな……」
 絢子は考える。
「あの……お申し出は大変ありがたいのですが、生徒からしたら、未熟な教師に教えてもらうのなんて嫌でしょうし、それにこのような形での教員採用は申し訳ないのですがちょっと受け入れがたいのですが……」
 絢子がそう言うと、匠はふっと目を細めた。
「絢子さん、貴女は真っ直ぐで律儀な人なのですね。そのような方が紀朝雄の生まれ変わりで良かったと改めて思いましたよ。……そうですか、わかりました。では、代わりに学園での図書室事務の仕事ではどうでしょうか? 司書教諭は常駐していますが、何分ひとりなので手が足りていないとの事です。その助手になっていただくのはどうでしょうか?」
 絢子はぱっと顔を輝かせた。
「それならば、是非やらせていただきます」
「決まりですね」
 藤原匠は絢子にその綺麗に整った手を差し出した。
「では松永絢子さん、これからもよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
 絢子は匠の手をしっかりと握ったのであった。






 匠の部屋を辞したあとのことである。

「えー、絢子、もう帰っちゃうの?」
 悠真が絢子の腕に自分の腕を絡めながら甘えたように聞いてくる。
 その悠真を颯太がたしなめた。
「絢子ちゃんは今日たくさんのことを知ったんだ。早く家に帰って休ませてあげてもいいんじゃないかな?」
 そこへ正臣が来て、無言で絢子を悠真の腕からするりと引き抜いた。
「何だよ! 正臣ばっかりずるいよ! 僕だって絢子とたくさんお話したい!」
「餓鬼にゃ絢子ちゃんはまだ早えよ」
「正臣、喧嘩売ってる? 僕は子供じゃないんだけどな」
 いきなり険悪になる二人。
 そんな中、絢子は颯太のほうを見ておずおずと口を開いた。
「あの、お邪魔じゃなければ、私ちょっと颯太さんのカウンセリングを受けようかなあと思っているんですけれど」
 颯太はちょっと目を見開いたあと、にこりと微笑んだ。
「いいよ。幸い僕達はこの邸宅に出入り自由なんでね、空き部屋をひとつ使わせてもらうよ。あとの人達はそれぞれ自由解散ね」
 そう言って颯太は絢子の手を引いて開いている部屋の中に入った。

「それで、どうしたのかな絢子ちゃん」
 部屋のソファーに座ると、颯太は膝の上で両手を組んだ。
「わざわざお話を聞いていただいてすみません。あの、私ちょっと不安で」
「うん、そうだね、不安になるよね」
 颯太はそう言って見るものを和ませるような柔らかい笑みを浮かべた。
 絢子は颯太のその笑みを見た瞬間、なぜだかこみ上げてくるものがあった。
「私っ、私、変な人には襲われるし、部屋では知らない男性と同居する事になっちゃったし、仕事も辞めて無職になっちゃったし、変な夢は見続けるし、狙われているって言われるし、これからどうしていけば良いのかわからなくって……でも、新しい仕事場も決まったし、皆さんのような素敵な方々とお会いできたから、頑張らなくっちゃって思って……」

 それは今までこの事態を平然と受け止めていたかに見える絢子の初めての弱音だった。

「いきなりすみません、でも、どうしても不安になって……」
 颯太は絢子ににこりと優しげな笑みをひとつ与えた。
「絢子ちゃん、ひとりでよく頑張ったね。絢子ちゃんが頑張りやさんなのは僅かな間しか見ていなくてもちゃんとわかったよ。つらかったね、ひとりで抱え込んで。でももう大丈夫だよ。僕らが絢子ちゃんのことをずっと守っていくからね」
 絢子は涙に潤んだ瞳を見開いた。
「あ、ありがとうございます。でも、ずっとって、そんなことできるはずないじゃありませんか」
 思わず愚痴のような言葉が口をついて出る。
「皆さんにだってお仕事や生活があるだろうし、ずっとなんて無理です」
「それが俺にはできるんだな」
 その声に絢子がはっと振り向くと、そこにはいつの間にか正臣が現れていた。
「つれないねえ、絢子ちゃん、愚痴なら俺に話してくれても良いのに。俺なら、絢子ちゃんの全部を受け止められるぜ」
「今の私の話聞いていたんですか?」
「ああ、なんせ俺は隠形鬼なんでな。神出鬼没だと思ってくれればいい」
 その言葉に絢子はかっとなった。
「それじゃあ、私にはプライバシーはないんですか? 夢の中にまで入り込んで、好き勝手に蹂躙して、これって強姦じゃないんですか?!」
 絢子の剣幕にも正臣は怯まなかった。
「絢子ちゃん、夢の中に入ってあんたを抱いたのにはそれなりの理由があるんだ。絢子ちゃんが夢の中で敵方に囚われないように、隙を作らせないように、俺だけしか見えないようにしたんだ。それを責めるなら大いに結構。自分のしたことに後悔はまったくないね」
「そんな、いきなりそんなこと言われても……」
 絢子は下を向いて唇をかみ締めた。
「正臣、絢子ちゃんをあんまり追い詰めないでやって。彼女はこれまでの事柄を受け止めるので精一杯なんだ。絢子ちゃんのことを大切に思うのであればもう少し待ってあげてくれないかな」
 そう言いながら颯太は絢子の肩をそっと抱いた。
 その仕草はどこまでも労わりに満ちており、絢子はそのことに酷く安心した。
「颯太さん、すみません、私落ち着きました。もう大丈夫です」
「本当かな?」
 颯太はまるで子供をあやすように絢子の顔を覗き込んだ。
「は、はい……」
 間近で見る颯太の顔はとても整っていた。
 すっと引かれた眉、柔和な茶色い瞳にはどこまでも相手を安心させる雰囲気がある。癖のある茶色い髪の毛は触れたらとても柔らかそうだ。
「……あの、お心遣いありがとうございました」
 我知らず赤面しそうになる自分を必死で抑えて、絢子は颯太からそっと離れた。
「今日はもう帰ります。お話聞いてくださって嬉しかったです」
 そう言って絢子は微笑んだ。
「可愛いね、絢子ちゃん。正臣でなくとも手放したくなくなるのがわかるよ」
「颯太さん?」
「ああ、それじゃあまたね。正臣、絢子ちゃんのことよろしく頼むよ」
 その会話を残して、絢子と正臣は颯太がいる部屋をあとにしたのであった。



[27301] アパートで ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/20 00:10
 帰りのハイヤーの中では絢子も正臣も終始無言だった。

 家に近づいたとき、正臣が運転手に声をかける。
「この近くにスーパーがあるから、そこへ寄ってくれる?」
「かしこまりました」

 そうして、近所のスーパーには場違いの黒塗りのハイヤーが停まったのはつい先ほどのことであった。
 買い物に来た人達が奇異の視線を送ってくる。

「今日の夕飯買わなきゃな」

 正臣がそう言って絢子に声をかける。
 家路につく間、車中で無言だったおかげか、絢子は冷静な気持ちになることができていた。
「はい、そうしましょう」
 絢子が返事をすると、正臣はにっこりと微笑んだ。
「今日は何が良い? 何か記念になるようなものでも作ろっか」
「あの、普通の夕飯で結構です」
「ふーん、なら今日はハンバーグにしよう」
 何だかメニューが子供っぽくはないかしらなどと思ったのだが、それでも正臣が作るハンバーグはきっと美味しいのだろうと絢子は思った。
 長身モデル体型の正臣がカートを引き、籠の中に食材をひょいひょい入れてゆく。
 絢子はただそのあとにくっついていればよかった。
 二人でレジに並んで会計を待つ。
 そうすると、今更ながら自分はこの人と同棲することになったんだという思いがわきあがってくる。
 会計を済ませ、商品を正臣が袋に手際よく詰めるのを見届けると、絢子は正臣に声をかけた。
「あの、私何かすることないですか? 料理の手伝いとか、荷物持ちとか」

 正臣は「ん?」とこちらを見ると、にいと笑った。
「昨日家事全般は俺に任せるって話だったよね。絢子ちゃんは帰ったら先にシャワー浴びておいてよ。その間、俺が料理作っておくから」
「はい、……でも何だか自分の家なのにやってもらうのが心苦しいんです」
「そんなことを思う必要は全然ないよ。これはね、俺がやりたくてやってんの。俺は絢子ちゃんの喜ぶ顔が見たいだけなの」

 そう言うと、正臣は私の耳元にすっと口を寄せた。

「ありがとね」

 そっとその言葉を言って、荷物を軽々と持ち上げて歩き出す正臣。
 絢子は耳にかかった息がくすぐったくて、思わず首を縮めたのであった。




 正臣が作ったハンバーグはプロ並みの腕前だった。
 食べ終わり、寝る支度を整えると、絢子は自分のベッドの上にごろりと寝転んだ。
「何だか、今日一日はめまぐるしく過ぎていったわね。濃い一日だったわ」
 今日だけでも絢子の今までの人生では考えられないほど、ぎゅっと凝縮された日であった。

 ひとり今日の出来事を反芻していると、シャワーを浴びて出てきた正臣がまだ濡れた髪の毛をタオルで拭きながらこちらへやってきた。
 ジャージ姿ですら様になっているという何ともうらやましいモデル体型である。
「絢子ちゃん、ちょっと話があるんだけれど。隣いいかな?」
「はい」
 絢子は起き上がってベッドの端に寄った。
 正臣がそこに腰掛けるとパイプベッドがきしりと音を立てた。
 六畳フローリングは二人が入ると途端に狭くなる。
「匠の部屋で言ったことなんだけどね、絢子ちゃんの夢が狙われているって話」
「ええ」
「先に宣言しておく。これからも俺は絢子ちゃんの夢の中に入り続ける。危険がなくなったと判断できるまでね。これだけは何と言われようと止めるわけにはいかない。絢子ちゃんが向こう側に囚われてしまったら何かと厄介だからな」
「あの、でもそしたら私はこれからも毎晩、その、正臣と……」
 もごもごと口ごもった絢子に構わず、正臣は言葉を続ける。
「それが一番手っ取り早くて確実な方法だからだ。快楽に取り込まれているうちは奴らも手出しはできないはずだからな」
「他に手はないんですか? その、夢の中でお喋りするとか」
「そんな生ぬるいやり方じゃ、早晩絢子ちゃんは向こう側に捕まるだろうよ。絢子ちゃんの夢はとっても入りやすいんだ。それに夢の中では自分の過去のトラウマや、知られたくない過去なんかも引き出すことができる。絢子ちゃんはそういうのに耐えられる? 絢子ちゃんってさ、結構自罰的で抑圧されているでしょ? 夢の中ではそんなどろどろしたものを突きつけられる恐れがあるんだけれどね。それらを全てふっ飛ばすにはやはり快楽の力を使うしかないんだ」
 そう言われてしまっては、絢子は黙ることしかできなかった。
「絢子ちゃんは俺を憎んでくれたっていいんだよ。だって、颯太との話の中で絢子ちゃんが、自分が強姦されているって言ったの、嘘じゃないから。俺は絢子ちゃんを精神的に犯しているんだからね」
 そうは言うものの、どこまでも悪びれない。
「それに俺は、絢子ちゃんを手放す気はさらさらないから。俺が死ぬまで、絢子ちゃんを全身全霊で守っていくつもりだ。それに本当はあんたを他の誰にも、指一本触れさせたくない。触れていいのは俺だけだと思っている」
 それは束縛の言葉であった。
「そんな……」
「現実の絢子ちゃんには許可が出るまで手出しはしない。その代わり夢の中では容赦なく抱かせてもらう」
「酷いわ」
「そう、俺はね、酷い男なんだよ」
 そう言って、正臣は意地悪く笑った。
「今日も布団敷いておいてくれてありがとう。そうだ、近々引越しをしよう。絢子ちゃんの新しい職場の近くにいいマンションがあるんだ。費用はもちろん全部俺持ちだから、心配せずに引っ越そうか。じゃないとこの部屋じゃ綾子ちゃんの寝言とかが隣に聞こえちゃうよ?」
「えっ、私寝言言ってたんですか?」
「まだ言ってないだろうけれどね。でも万が一寝ぼけて喘ぎ声とか出しちゃったら気まずいんじゃない? てか、多分この会話も漏れ聞こえているはずだと思うよ。こういうアパートの壁って本当に薄いから」
 しれっと言う正臣である。
 自分達が今までどんなことを話していたかを振り返って、絢子は頭を抱えたくなった。
「じゃあ、おやすみ。いい夢を」
 正臣はそう言って絢子の敷いた布団に潜り込んだのであった。




 ――気がつくと夢の中だった。

 その場所は心地よいお湯に浸かっているような感じであった。
 絢子のうしろには正臣がおり、ぎゅっと抱きしめられている格好をしている。
 二人とも薄物を羽織っただけの姿である。
 自分の格好に気付いた絢子は羞恥に頬を染めた。
「これ、夢なの?」
「そうだよ。今これは絢子ちゃんが認識したから、夢と現実との記憶がつながった状態になっているんだ」
 そう言いながら正臣は絢子の首筋に唇を落とし始めた。
「やめて、こ、怖い」
 正臣の唇の柔らかさと、背筋がぞくぞくするような感覚に怯える絢子。
「怖いことも痛いこともしない。絢子ちゃんが気持ち良くなることだけをするから」
 正臣はそう言いながら絢子のうなじをつつっと舐めた。
「ひゃうっ」
「声、もっと聞きたいな」
「で、でも」
 そう言って拒む絢子に、正臣はくすっと笑った。
「知らなかった? 絢子ちゃんが認識するまではここであられもない声をあげていたのを」
「え?」
「可愛かったよ? 声が枯れるまで鳴かせて、何度も気をやらせて、楽しかったなあ」
「き、鬼畜」
「何とでも言って。ここは俺の領域だから」
「私を守るっていうのは嘘だったの?」
 絢子が涙目になってそう言うと、正臣はにやりと意地悪そうな顔をした。
「俺ね、絢子ちゃんの記憶が現実とつながった状態でこうやって抱きたかったんだ。そうすれば、俺のこともっと意識するでしょ? 夢の中で抱いた絢子ちゃんの体が最高に良かったから、絢子ちゃんの心も欲しくなっちゃってさ。欲張りなんだよね、俺は」
「酷い」
 絢子の瞳からついに涙がこぼれた。
「そうだよ? もう知っているでしょう? ああ、心配しないで。俺もう絢子ちゃんしか見れないから。浮気の心配は皆無だよ。あんた一筋だ。この騒動が終わって絢子ちゃんの許可が出たら、現実でもあんたを本気で抱こうと思ってる」
 正臣は絢子の涙に濡れた頬をぺろりと舐めた。
「そんな!」
「でないと他の鬼達が手を出しかねない。絢子ちゃん、鬼の執念を甘く見ないほうが良いよ。俺だけじゃなく、他の三人の鬼も絢子ちゃんに惹かれてるから」
「まさか、そんなことあるわけないじゃないですか」
 そう言う絢子の不安げな顔を、正臣はすっと撫でた。
「時間は関係ないよ? 絢子ちゃんが女性であったのが運の尽きだね。俺を含め、皆絢子ちゃんを手に入れたいと思っているはずだ」
「私はどうすればいいの?」
「俺を選べよ、絢子ちゃん。そうすれば、あんたを最高に幸せにしてやる。まあ、拒まれてもあんたを生涯守り通すことには変わりはないけれどね」
「どうしてそこまでするの?」
 絢子が首を巡らせて聞くと、正臣は絢子の頬を優しく掴んだ。
「絢子ちゃんが好きだって事以外に理由が必要かな? 欲しいならいくらでも言ってあげるよ」
 そうして正臣はそのまま絢子の唇を奪った。

 ……ああ、この唇は知っている。

 絢子は自分を貪る唇をどこか懐かしいもののように感じた。
 しっくりと自分の唇に馴染む正臣の唇に、絢子は自分が彼に何度も何度も抱かれてきたのだということを悟った。

 だって、私はこの唇を拒めないんだもの。

 先ほどの言葉とは裏腹に、その唇はどこまでも優しく、甘い。
 自分が大切に思われているのを絢子は感じた。

「ああ……」

 唇が離れると、絢子は思わずため息をついた。
 それほどに、正臣の口付けは心地良かったのだ。

「そう、いいよ絢子。もっと俺を感じて」
 満足そうに正臣は呟いた。
 いつの間にか、自分の背にはベッドが現れ、そのまま絢子はその場に横たえられた。
「何でベッドが?」
「だから、ここは俺の領域だから。何なら天蓋付のやつにでもしようか」
 そんなことを言いながら、正臣は絢子をあっという間に一糸まとわぬ姿にした。
 その手際の良さに絢子は少しばかり驚いた。
「私、いつもこうされていたの?」
 その疑問に正臣はふっと笑った。
「さあね。絢子ちゃんはいつもどの辺から記憶があった?」
 恥ずかしがりながらも絢子は答えた。
「私の場合はいつも事の最中しか記憶がなくって……」
「それだけ強烈に印象付けられていたってことか。光栄だね」
 そう言うと、正臣は絢子の上に覆い被さった。
「優しいのと激しいの、どっちがいい?」
「え?」
「どちらも痛くも怖くもないよ? 今日はどちらを選ぶ?」
「ほ、本当にするの?」
「ホラ早く。答えなければ、今日は激しいのにするね」
「や、優しいのにしてください!」
 泣きそうな顔をして言うと正臣は意地悪な笑みを浮かべた。
「わかった。思いっきりねっとり優しくするから覚悟して」
 そう言うと正臣は絢子に深い口付けをしたのだった。




「あう……もう許して」

 一体どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
 気持ち良過ぎてつらくなるぎりぎりの手前で正臣は絢子を速やかに昇らせるのだ。
 何度も昇らされ、絢子は息も絶え絶えだった。
 今、正臣は絢子の足の指を一本一本丁寧に舐めあげている。
「良かった?」
 音を立てて絢子の足先に口付けを落とす正臣に、絢子は荒い息の下から声をかけた。
「正臣、全然優しくないです、だって気持ち良過ぎて苦しいんだもの」
「良かったのならいいんだ。さあ、もうすぐ目覚めだよ」
 正臣がそう言うと、目の前がふわりと明るくなって、そして絢子は覚醒したのだった。



[27301] 学園へ
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:d9fa093f
Date: 2011/04/20 05:46
 目を開ける。

 遮光カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。

「っ……!」

 水面から出たときのような息をつく感覚がある。

 絢子は目覚めてすぐにぱちぱちと瞬きした。

「こ、こんなの、ずっと続けたらきっと気が変になっちゃう」

 両手で顔を覆う。
 頭は先ほどまでの情事をはっきりと覚えているようで、まだ官能の波が残っていた。
 しかし、心がついていかない。
 今までは単なる夢だとばかり思っていたものが、ある意味現実以上に身に迫って来たのだ。
「私まだ清い身なのに……こんなんじゃお嫁に行けなくなっちゃう」

「嫁になら俺がもらってやるぜ」

 はっとして横を見ると、音を一切立てずに布団からすっと身を起こした正臣がいた。
「おはよう絢子ちゃん」
「お、おはよう正臣」

 正臣は夢での出来事なんてなかったかのように平然としている。
 しかし彼は絢子の独り言を聞いていたようで、絢子に声をかけた。
「絢子ちゃん、俺、最初このアパートに来るときに言ったよね? 『毎日美味しく頂いてあげるから覚悟しな』って。あんたを壊すつもりは毛頭ない。だから夢の中でも気が変になる一歩手前で止めているだろ? あんたは狂わない。いいや、俺が狂わせない。だから安心して俺に抱かれてなよ」
「……正臣が気を配ってくれているのは感じます。でも、その、私苦しいんです」
 絢子がおずおずと言うと、正臣は「ん?」と言葉を促した。
「どんなところが?」
「だって、私ばっかり変な風になって、正臣は全然余裕なんだもの」
「絢子ちゃん、それは俺にも気持ちよくなって欲しいっていうこと?」
「えっ? あの、そういうわけじゃ……」
「嬉しいな、相思相愛じゃん。これは絢子ちゃんから許可が出る日もそう遠くはないかな?」
「そんな日は来ません!」
 思わず声を荒げる絢子。
 そんな絢子にはお構いなく正臣は起き上がった。
「今日は引越しの準備をするからね。大体一週間ぐらいで向こうに移ろう。マンションの手続きなんかは直人がやってくれるから」
 それを聞いた絢子はきょとんとした。
「そんなこと、いつ直人さんと話したんですか?」
「夢の中でね」
「直人さんの夢にも入ったんですか?」
「そのほうが手っ取り早く連絡をつけられるだろ」
 そう言うと正臣はにやりと笑った。

 それから一週間後、絢子と正臣は新しい職場の近くにあるマンションへと引越しをした。
 ちなみに絢子の怪我はこの一週間ですっかり良くなっており、綺麗に治っていた。

 夢では相変わらず狂う一歩手前の快楽を正臣から与えられている。だが、今まで抱かれ続けていた効果もあるのか、絢子は怖いという感情がだんだんと薄れてきた。
 まだ最初はしり込みする絢子である。自分が何だかはしたない女になってしまったようで、乱れるのを怖がるのだ。
 しかし正臣の絶妙な誘導により、程なくして心が解され、開放されていくのだ。
「このまま、万が一この快楽に溺れてしまったらどうしよう。そうしたら私は本当に正臣しか見られなくなってしまう」
 今度は別の心配をする絢子であった。

 2LDKの賃貸マンションは分譲だからか作りがしっかりしており、内装もお洒落だ。
 広いリビングにある家具は一週間で取り寄せたものとは思わないほど充実していた。観葉植物も飾られている。
 正臣に連れられてその部屋に入った絢子は驚いた。
「こんなに高そうなマンションだとは思わなかったわ。本当に私が住んでもいいのかしら? 家賃はいくらぐらいなの? 敷金礼金なんかの初期費用は?」
 思わず聞いてしまった。
 正臣は絢子と自分の荷物を両手に持ちながら部屋に入った。
「手続きなんかは大体直人がやってくれているから、何かあるのなら直人に聞いてもらえればいいよ。お金の出所は俺の給料。絢子ちゃんの荷物はもう運び込んであるからね、奥の部屋がそうだよ」
 リビングの横にあるドアを開けると、アパートと変わらない風景がそこにはあった。
 パイプベッド、こたつ机、箪笥、ハンガーラックなどなど。
 綺麗に配置されているその家具は真新しい部屋に何とか馴染んでいた。
「絢子ちゃんの家具をさ、一新しようかどうか迷ったんだけれど、使い慣れているもののほうがいいと思ってね。何にも手は加えていないよ」
「ありがとう、正臣」
 やっとそれだけ言うと、絢子は新たな生活の予感に少しだけ身震いしたのであった。






 ――今日は新しい職場への初出勤の日である。

 絢子は黒のスーツを着込み、新調したパンプスを履き、気合を入れて学園の門まで来た。

 事前に学園には訪問しており、担当の司書教諭とは打ち合わせをしていたので、実際には二度目の訪問なのだが、気持ちは学園の門を初めてくぐるときと同じであった。

 私立栗栖学園。

 藤原グループ系列の学園で、「自立・国際交流」をモットーとしているエスカレーター式の学園である。
 偏差値は上から数えたほうが早いせいか、生徒達の質は悪くない。
 絢子はこの学園の中等部と高等部が利用する図書室の事務を担当することになったのだ。

「本日より図書室の事務として配属されました松永絢子と申します。よろしくお願い致します」
 朝の打ち合わせの職員室で先生方に簡素な挨拶を済ませたあと、絢子は司書教諭の加藤妙子に連れられ、図書室へと入った。
 加藤妙子はひっつめの髪、黒縁眼鏡をかけた長身細身の女性で、生徒達からは「妙子女史」と呼ばれ慕われているらしい。
 妙子は黒縁眼鏡をくいっと持ち上げると、絢子を見た。
「松永さん、今日は図書の整理を手伝ってもらいます」
「はい。加藤さん、よろしくお願いします」
「これからは、私のことは妙子でいいわよ」
「はい、妙子さん。では私のことも絢子と呼んでください」
「わかったわ、絢子さん」
 そうして二人で微笑むと、早速絢子と妙子は図書整理に精を出したのであった。


 昼食は妙子と二人で、学食でとる事にした。
 ガラス張りの学食は開放感があり、生徒達はわいわいと列に並んでいた。
「今日のおすすめは日替わりA定食ね」
「わあ、メインは油淋鶏なんですね」
 二人でそれを頼むと、空いている席へとついた。

 そこで食事を取っていると、食堂の一角が突然ざわっとし始めた。
「何かしら?」
 絢子がそちらを見ると、人だかりができていた。
「ああ、あれね、この学園のアイドルよ」
「アイドル?」
 しかもその人だかりはひとつではなく、離れたところにももうひとつあった。
 取り巻いている年代層もばらばらだ。
 ひとつの人だかりには主に高等部と思われる女生徒達が集まり、もうひとつの人だかりには主に中等部と思われる女生徒達が集まっている。

「この学園にはね、アイドルが二人いるのよ」
 今の騒ぎを何でもないことのように言う妙子である。
「すごいですね、あれ、だれなんですか?」


「ああ、ひとりは鐘崎悠真、もうひとりは隠岐伊織という生徒よ」


「鐘崎悠真?」

 まさかこの栗栖学園に鐘崎悠真が入学しているとは思ってもいなかった絢子である。
「あら、絢子さんは知っていたのね、じゃあ鐘崎悠真が海外で有名なモデルだってことも知っている?」
「はい、ちょっとだけですけれど」
 驚く絢子をよそに、妙子の解説は続く。
「鐘崎君は中等部のアイドル、隠岐君は高等部のアイドルなのよ。どちらもものすごい人気があって、学園内に親衛隊ができているぐらいなの。何だか漫画の中の世界みたいでしょ?」
 妙子はそう言ってにこっと微笑んだ。黒縁眼鏡の奥が面白そうにきらりと光っている。
 妙子女史はどうやら愛嬌のある人のようだ。
「そうですね、でも、鐘崎君のことを想像すると、そういう盛り上がりもあるような気がします」
「あら意外と冷静ね絢子さん」
 妙子は少しだけ目を丸くすると油淋鶏を頬張った。
「うーん、多分まだ身近に感じていないからだと思います」
「そうよね、私達みたいな教員側の人間はある意味蚊帳の外ですものね」
 そう言うと妙子は付け合せの味噌汁を飲み干したのであった。


 割と早めに食事をし終わった二人は席を立った。
 絢子は妙子に聞こうと思っていたことがあった。
「あの、私食べるの遅くなかったですか?」
「ううん、そんなことないわよ? どうして?」
 不思議そうに言う妙子に絢子が告白する。
「私いつも食べるのが遅くって友人を待たしてしまうんです。だから、妙子さんを待たせてしまったんじゃないかって思って」
 絢子がそう言うと妙子はふわっと微笑んだ。
「何だか絢子さんって私の親友に似てるわ。私の親友もね、ご飯食べるのが遅くって、いつも私にごめんねって謝るのよ。私は待たされるのなんて全然気にしていないのにね」
 そのとき、絢子の背後から声がかかった。


「絢子、会いたかったよ!」


 はっとして振り向く暇もなく、何かが絢子の背後から抱きついてきた。

「きゃあ!」

 背後から意外に強い力でぎゅうっと抱き締められた。

「僕、今日は絢子にいつ会えるかなあとわくわくしてたんだ! こんなところにいたんだね」

 まさか、と振り向くと、そこにいたのはルネサンス絵画から抜け出たような美貌の鐘崎悠真だった。
 ふわふわの金髪、きらきらとした灰色の瞳、小ぶりの鼻に、ピンク色の少しアヒル口の唇は女性的な魅力さえあった。
 周囲からざわめきが聞こえる。

「ゆ、悠真君! こんなところでどうしたの?」

 しどろもどろになる絢子にお構いなく、悠真はにこにこしている。
「昼休みにね、絢子に会いに図書室へ行こうと思っていたんだ。そしたらこんなところで会えちゃったよ。僕ってツイてる!」
 変声期前のアルトの声が弾んでいる。

「ねーえー、これからは僕とずーっと一緒にいようよー」

 そう言って悠真は絢子の腕に自分の腕を絡めた。
 また周囲から今度はどよめきが起こる。

 このとき絢子は正臣が言っていた「ほかの三人も絢子の事を手に入れたがっている」という話を思い出していた。
 でもまさかこんな可愛い美少年が自分のことを好きになるはずなんかなかろう。なにせ歳だって八歳も離れているのだから。
 きっと十五歳とは言えど、まだ甘えたい盛りなのだろう。
 そう思うとすとんと何かが納得できた。
 このまま甘やかそうか。
 だがそこで、教師を目指している絢子には大学で受けた教職課程の発達段階の授業内容が頭をよぎった。講師の先生は何と言っていただろうか。確か、今ここで単に甘やかしてもその子のためにはならない。特に中学生からは一大人として、対等に接しなければならない、ということを言っていなかっただろうか。
 それを思い出すと、絢子は悠真の腕の中から自分の腕を優しく取り戻した。

「悠真君、気持ちはありがたいのだけれども、ここは学校よ? もし悠真君が自分のことを子供じゃないと言うのならば、公の場では対等に接することもできるはずよね。私は、悠真君ならそれができると思うのだけれども」


 絢子の言葉を聞いた悠真はぽかんとした。

 しばらくそのままでいたあと、悠真は突如花が咲いたようににっこりと微笑んだ。

「僕のこと、ちゃんと一人前として扱ってくれたの、絢子が初めてだ。うん、わかった。絢子の言う通りにするよ」

 そう言って悠真は絢子の頬に素早くキスをした。
 周囲からは悲鳴にも似た歓声が上がる。

「今日はここで絢子に会えたからもう十分。初日のお仕事を邪魔しないようにするね。明日またここで会おうね!」

 そう言うと悠真は風のように去っていったのであった。


「絢子さん、これはどういうこと?」
 妙子女史が面白そうな顔をして聞いてくる。
「知らなかったわ、あなたが鐘崎君とそんなに親しい間柄だったなんて。水臭いわねえ」
「えっ、あの、これにはいろいろと事情がありまして……」
「その事情、仕事が終わったらあとで詳しく聞かせてもらうわよ」
「えーと……」

 そんな風に困惑している絢子の横を、すっと通り過ぎる影があった。

 その人物の身長は百七十五センチぐらいか。均整の取れた体、漆黒の艶やかな髪の毛、その瞳は気だるげな雰囲気を醸し出している。

 通り過ぎるとき、絢子はその瞳と目が合った。

 互いに認識したとき、相手の気だるげな目が一瞬驚いたように見開かれた。

 しかし相手はそれ以上の興味を示さず、何事もなかったかのように絢子の横を通り過ぎていった。

「絢子さん、今のが隠岐伊織よ」

「隠岐伊織、ですか」

「彼がもうひとりのアイドルよ。まさか彼のことも知っているって言うんじゃないでしょうね?」

「いえさすがにそれはないです」
 手をぶんぶんと振って全力で否定する絢子であった。



[27301] 絢子と妙子
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:019e9d6d
Date: 2011/04/20 05:51
 放課後。

 ここ、私立栗栖学園の図書室はかつてない盛り上がりを見せていた。

 いつもは資料を借りに来る生徒や、読書好きで穏やかな生徒が集う場所であったはずなのだが、今教室は人で溢れており、特にカウンターの周りに十数人が集まっていた。

「妙子女史ー、新しく来た事務の人に会わせてよ」
「ねえねえ、女史は新しく来た人が悠真君の知り合いだってことを知っていたの?」
「悠真君のあんな態度初めて見たわ! 新しく来た人と悠真君とはどういう関係なの?」

 妙子女史は質問攻めである。
 その妙子は群がる生徒達を見下ろすと、長身細身の体躯からは考えられないほどの威圧感を出した。
「ほら、あなた達、そんなに押しかけちゃ、図書室の本来の利用目的が達成できないでしょ? それに新しく来た松永絢子さんだって落ち着いて仕事ができないじゃないの。あなた達の興味はもっともだけれど、ここは神聖なる図書室よ? 私の目の黒いうちはここで騒がしくすることを禁止します」
 女史が腰に手を当ててふんと仁王立ちになる。
 黒縁眼鏡がきらりと光った。
「きゃあ! 女史に怒られちゃった♪」
 なぜかきゃっきゃと喜ぶ生徒達。
「うん、わかったー。妙子女史がそう言うなら仕方ないよね」
「名前、松永絢子さんって言うんだね。皆に教えてこよーっと」
「ごめんね妙子女史。次からは静かに利用するね」
 妙子の人気っぷりが窺える生徒達の発言である。

「さあ皆、ぱぱっと散りなさい」

 妙子が手で追い払う仕草をすると、生徒達は笑いながら図書室を出て行った。

「……妙子さん、すごいですねー、生徒達がとっても懐いているんですね」
 感心する絢子である。絢子は準備室で作業をしながらその様子を窺っていたのだ。
 騒ぎがひと段落してから、絢子は準備室から出てきたのであった。
 その絢子に妙子は声をかける。
「ああ、これは多分ね、私が成績と関係ない大人という立場であるから生徒達が懐いているんだと思うわ。それと、ここでは年に一回新学期に、図書室利用に関するレクリエーションを行うのだけれどね、それが結構生徒達に受けているのよ。そのせいじゃないかしら」
 何でもないことのようにさらりと言う妙子を、絢子はとても格好が良いと思った。
「妙子さん、司書教諭の鏡じゃないですか。私が学生の頃にも妙子さんみたいな人がいてくれたら良かったのになあってちょっと思っちゃいました」
「あら、褒めてくれてありがとうね。これは私が好きでやっていることだから、そう言われると素直に嬉しいわ」
 絢子と妙子はその後、生徒達の邪魔にならないように図書整理をしたり、カウンター業務やパソコン作業をしたりしたのであった。


 その日はあっという間に過ぎた。

「絢子さん、帰りはどっち方面? 良かったら一緒に帰らない?」
 準備室で帰り支度をしていた絢子と妙子である。
 絢子はその返事として四階の図書室から見える高層マンションを指差した。
「私、つい先日、学校から歩いて十五分ほどのところにあるマンションに引っ越したんです。ほら、あの建物です」
「まあ! あそこに住んでいるの? 結構高いんじゃないの?」
「はあ、いろいろと事情がありまして」
「事情ねえ……」
 妙子はそう言うとぽんと手を叩いた。
「あ、もし嫌じゃなかったら今日の帰りにちょっとだけお茶しない? この学園の近くなんだけれど、生徒がやってこない穴場の喫茶店があるのよ。そこのチーズケーキがとっても美味しくてね、よかったら食べていかない?」
「はい! ぜひご一緒させてください!」
 こうして絢子と妙子は穴場の喫茶店に行くことになったのだ。

 喫茶店で紅茶とチーズケーキを食べながら、絢子と妙子は取り留めのないことを話し合った。
 絢子は大学卒業以来、こんなに気軽に話したことがなかったというくらいに話をした。
 特に二人とも本好きということもあって、本の話題には事欠かなかった。

「絢子さんは上橋菜穂子の『獣の奏者』は読んだ事ある?」
「はい! あれとっても面白いですよね」
「そうそう。ファンタジーと政治がうまく融合しているし、YAの範疇では収まらない作品よね」
「YAなら私はガース・ニクスの『古王国記』シリーズとか、キャサリン・フィッシャーの『サソリの神』シリーズなんかが好きです」
「おおー、なかなか良いところついてくるわねー、私もあれは結構好きよ。あ、茅田砂胡の『デルフィニア戦記』シリーズは読んだ事ある?」
「はいっ! あれも面白いですよねー! じゃあ妙子さんは須賀しのぶの本は読んだ事ありますか?」
「もちろんよ。コバルトの『流血女神伝』は途中までしか読んでいないけれど、なかなか好きなテイストだったわ」
「クライヴ・バーカーの『アバラット』はどうですか?」
「あれもいいわよねー、割合グロテスクな描写なんだけれど、なぜか惹かれるのよね」
「じゃあこれはどうですか? 小野不由美の『十二国記』」
「鉄板よねー! これは私の中で中高生に読ませたい本ナンバーワンだわ。でも、当たり前だけれど司書教諭は自分の趣味を前面に出した選書をしちゃいけないので、それとこれとは別だけれどもね」
 妙子のその言葉を聞いて、絢子は少しだけぬるくなった紅茶に口をつけた。
「そうですよね……でも、私、妙子さんとこんなに本の趣味が合うとは思わなかったです。妙子さんは子供の本も大人の本も幅広く読んでらっしゃるんですか?」
「そうね。割といろいろ読むわ。最近は推理物をよく読んだりするかな。本好きが高じてこの仕事についたくらいだもの。それに子供も嫌いではなかったからね」
 妙子はチーズケーキを口に入れると話題を変えた。
「さてさて。話は変わりまして。これは私が聞きたかったことなのだけれどね、絢子さんは鐘崎悠真とどういった関係なのかしら? もし話したくなかったら全然構わないのだけれども、話してくれたら生徒達の対応をうまくやっておくわよ?」
 そう言って、妙子は黒縁眼鏡をきらりと光らせた。
 絢子はフォークを置いた。
「あの、あんまり詳しいことはお話できないんですけれど、悠真君とはある人とのつてで顔見知りになったんです。そのときになぜだかわからないのですけれど悠真君に気に入られたみたいで……すみません、私にもこれは何て説明していいかわからないことで」
「ふうん、何か複雑な事情がありそうね。この秋っていう中途半端な時期に絢子さんが配属されたことにも何か関係があるのかしら」
「そうですね、妙子さんはこれからお仕事仲間としてお付き合いする方ですからあんまりこういった隠し事とかはしたくないのですけれど、隠すって言うより、まだどうやって話したらいいかわからないって言うほうが大きいんです」
「渦中の人なのね、絢子さんは」
「はい、そうみたいです」
 絢子がそう答えると、妙子は残りのチーズケーキをぱくりと口に入れた。
「そう、そういうことなら仕方ないわね。生徒達に何か聞かれたら『ちょっとした知り合い』って感じに話しておくから。それでいいかしら?」
「はい、お手数おかけします」
 絢子は妙子にぺこりと頭を下げた。
 こうして絢子と妙子はその喫茶店をあとにしたのだった。


 妙子と別れて家路へとつく。
 オートロック指紋認証のマンションで、絢子は機械の前で手をかざす。
 強化ガラスのドアが左右に音もなく開いた。
 エレベーターを使って、絢子は五階に上がった。
 503号室が絢子と正臣の部屋であった。

 絢子がドアを開ける前に中からドアが開いて、黒いエプロン姿の正臣が出てきた。
「お帰り絢子ちゃん、今日はパスタにしたからね」
 部屋からはいい匂いが漂ってきている。自分の部屋に入り荷物を置き、手洗いうがいを済ませたあと、絢子はダイニングへと足を向けた。
 テーブルの上には一輪挿しのコスモスと、ワインが置いてあった。
「これは?」
「これは絢子ちゃんの初出勤のお祝い。二人で飲もう」
 そう言うと正臣は絢子をテーブルに座らせた。
 ワインの栓を抜き、グラスに注いだ正臣は、次に白い皿に綺麗に盛られたトマトパスタを絢子の前に置いた。
「うわあ! 美味しそう」
 絢子は目を輝かせた。
「さあ、食べようか絢子ちゃん」
 自分の皿を手に取り席につくと、正臣は絢子に笑顔を向けた。


 食事が終わり、シャワーを浴びた絢子はリビングでソファーに座りクッションを抱いてテレビを見ていた。
 薄型の黒い大きなテレビは広いリビングに違和感なく溶け込んでいた。
 テレビではお笑い番組がやっている。
 部屋着を着た正臣が絢子の隣に自然に座った。
 二人でテレビを見る。
 とても穏やかな時間だった。

 元々絢子はひとりの時間を愛する人だった。
 読書をしたり、パソコンを見たり、ごろごろしたりするのが絢子にとっては至福の時間であった。
 それが今、隣に男性がいて、一緒にテレビを見ている。
 自分の急激な環境の変化に、絢子は意外にもそれほど戸惑わずに順応していた。

 それは、隣にいる正臣がとても自然体で接してくるからだ。

 家族を除いて、自分の傍に自分以外の人がいることがこんなにも心地良いものだとは絢子自身思っても見なかったことであった。

 テレビではお笑い芸人が雛壇から全員で突っ込みを入れているところだった。

「ねえ絢子ちゃん、DVD見ていい? 一緒に見ようよ」
 正臣がおもむろに言った。
「いいですけど、何のDVDですか?」
「ん、『私の頭の中の消しゴム』」
 そう言って正臣はテレビ台の下からいくつかのDVDを取り出した。
「あ、それ見たいです! 前に見て感動してぼろ泣きした映画ですよ。チョン・ウソンが格好良くてもう……正臣が借りてきたんですか?」
「まあね、暇つぶしにと思っていくつかTSUTAYAでね。絢子ちゃんこういうの好きそうかなと思って」
「好きですよ! でもどうしてわかったんですか?」
 いぶかしみながら絢子が聞くと、正臣はふっと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「それはね、絢子ちゃんとの付き合いが深いからだよ」
「え?」
「絢子ちゃんの趣味とか、大体把握してるよ俺。好きな本、好きな映画、好きな食べ物なんかをね」
「それって何だかストーカーチックじゃないですか……?」
 眉をひそめる絢子である。
 だがそれにも構わず正臣は言葉を続けた。
「絢子ちゃんの好きな異性のタイプも知ってるよ。抑圧されている絢子ちゃんはね、自分の秘密を守りつつ、自分を解放してくれる人を望むんだ。だから絢子ちゃん、俺のこと拒めないでしょ?」
「……」
「俺はさ、怯える絢子ちゃんを見るとね、たまにぐちゃぐちゃに犯してやりたいって思うときがあるんだ。鬼の本性は残虐非道だからね。でも、今まで俺が夢の中で絢子ちゃんを無体に扱ったことがある?」
「……ないです」
「それはね、俺にとっては絢子ちゃんの事が、とても大切だからなんだよ。大切に守りたいっていう気持ちのほうが強いからなんだ。これは生涯変わらない。まあ、あんまり可愛いからちょっとだけ意地悪はしたくなっちゃうけれどね」
 そう言うと、正臣は何事もなかったかのようにDVDをセットし始めた。
「絢子ちゃん、俺を選べよ。俺が生涯大切に幸せにしてやる」
 さらりと告白めいたことを言う。
「で、でも……」
 しどろもどろになる絢子にはお構いなく、テレビ画面に映像が映り始めた。
 しばらく逡巡していた絢子であったが、何かにのめり込む性質の彼女は映画が始まるとすぐにそれに没頭し始めたのであった。

 その絢子の横顔を、正臣が頬杖をつきながら愛おしそうに見つめていたのにも気付かずに……。



[27301] 許可 ■
Name: かわ ひらこ◆1795e397 ID:019e9d6d
Date: 2011/04/20 05:53
 夢の中で、絢子はベッドの上で肌触りの良いシルクの太いリボンで後ろ手に縛られていた。

 さらには同じ素材のもので目隠しまでされている。

「正臣?」

 絢子は不安になって正臣の名を呼んだ。

「ここだよ」
 自分のすぐ横から正臣の声がした。
「これは何なの?」
 絢子は少しだけ声を震わせた。

 正臣は意地悪そうにふっと笑うと絢子の耳元に口を寄せた。
「今日はね、絢子ちゃんにもっと俺を感じてもらうためにこういう趣向にしたんだ。怖い?」
 絢子がこくりと頷くと、正臣は背後から絢子を抱きしめた。
 びくりと反応する絢子である。
「怯える絢子ちゃんはたまらなくそそるね。このまま骨も残さず喰らってしまいたくなる」
「い、嫌……」
 絢子は正臣の腕の中から逃れようとするが、それは叶わない。
 正臣は絢子の耳に口をつけたまま、低く官能的な声で囁いた。
「絢子ちゃんにはたくさんぞくぞくしてもらうからね?」
 そう言うと正臣は絢子の耳朶を柔らかく噛んだ。
「んっ」
「声、出していいんだよ。遠慮せずに」
 いつもよりも感覚が鋭敏になっている。
 絢子は歯を食いしばって官能の波を抑えようとした。
 だが、そうすればそうするほど、肌の感触が鮮やかに伝わってくるのである。
「あんっ、そんなの、嫌」
 首をふるふると振り、拒絶の意を示す絢子を正臣は宥めてゆく。
「絢子ちゃんはね、はしたない女なんかじゃ全然ないよ。とても綺麗だ。この桃色に色づく肌も、甘やかな吐息も、いじらしい声も全て愛おしい。だから、自分を解放して?」
「ああっ、あん」
「そうそう、良くなってきたでしょう? これからもっと高みへと連れて行ってあげるね」

 正臣はそう言って絢子をさらに優しく責め立てたのであった。






「はあっ」
 目覚めた絢子はパイプベッドの上で息をついた。

「昨日の正臣はいつもにも増していやらしかった……」
 そう呟いて赤面する絢子である。

 出勤の仕度を整えると、絢子はダイニングへと足を向けた。
 そこにはエプロンをつけた正臣がフライパンからパンケーキをひっくり返しているところだった。

「おはよう絢子ちゃん、朝食食べてくでしょ?」
「うん」
「今日の付け合せのリンゴジャムはね、俺の手作りなんだ」
 絢子はそのリンゴジャムをちょっぴり味見した。
「うん、美味しい! 正臣は本当に料理が上手なんですね」
「絢子ちゃんのお褒めに預かり光栄です」
 そう言って正臣はパンケーキを皿に移すと、テーブルに出した。
「はい、絢子ちゃんは、朝はあんまり食べないから小さめにしたよ」
「ありがとう、正臣」
 礼を言ってパンケーキにナイフを入れる。
 ふわふわのそれは、上に乗せたリンゴジャムの甘みとよく合っていた。

「あの、昨日は……」
「ん?」
 正臣は目の前の席でパンケーキを食べる手を止め、絢子を見た。
「正臣は何であんなことしたんですか?」
 少し恥らいながら絢子が聞くと、正臣はにこりと微笑んだ。

「嬉しいな、絢子ちゃんが自分から俺達の夜の営みのことについて話を振ってくるなんて」
「どうしてなの?」
 絢子が正臣を見ると、正臣はテーブルの上で両手を組んだ。
「それは俺が昨日のチョン・ウソンに嫉妬したから。だって絢子ちゃん、まるで恋する乙女のような瞳であいつを見てるんだもん。あまつさえぼろぼろ泣いちゃって可愛いったらありゃしない。そりゃ、絢子ちゃんを好きなものとしては嫉妬しないほうがおかしいよ」
 それを聞いた絢子は頬を染めた。
「そんな……」

「鬼はね、嫉妬深いんだよ」

「……でも、正臣は私には優しいです」
「うん、俺は大切なものを傷つけるほど馬鹿ではないからね。その点は心配しなくてもいいよ。もし絢子ちゃんがこれからほかの鬼を選んだとしても、俺は後悔しない。今、全身全霊で絢子ちゃんを愛してるから。絢子ちゃんと過ごす一瞬一瞬を俺は大切にしてるから」
 どうしてこの人はこう、告白めいたことをさらりと言うのだろう。
 もしかして、本当はそんなこと露ほども思っていないんじゃないだろうか。
 だって、鬼の本性は残虐非道。
 本心はどこにあるのだろう……。

「あ、絢子ちゃん、今俺のこと疑っているでしょう? じゃあ、そうさせないようにしてやる」

 正臣は意地悪そうな笑みを浮かべたあと、席を立って絢子の隣にやってきた。

「絢子ちゃん、俺のこと嫌い?」

「嫌い、じゃないです」
「じゃあ好き?」
「……わかりません」

「ふうん。まあ、今はそれでもいいや。ねえ、絢子ちゃん、いってらっしゃいのキスしてもいい?」
「?!」
 目を丸くする絢子である。
「そんなに驚くことじゃないでしょ? 夢の中ではそれ以上のことをやってるんだから」
「でも、夢と現実とは別物で……」
 下を向いて戸惑う絢子。
「絢子ちゃん、知ってる? 夢が現実に影響を及ぼすって話。現実の絢子ちゃんの体は清いままだけれど、脳の中では俺に抱かれているイメージがしっかりと認識されている。絢子ちゃん、起きるとき息が上がっていたり、顔が火照っていたりしない? これって現実に起こっていることだよね?」
「で、でも私起きたときには体の違和感はありません。ぬ、濡れたりしていませんし……」
 最後のほうはぼそぼそと尻すぼみになる絢子である。
「それはね、俺が後戯をその時々によって加減しているからだよ。絢子ちゃんの目覚めが不快でないように気を配っているんだ」
「そうだったんですか」
 絢子は頷いた。
「それでなんだけれど、絢子ちゃんに現実の俺にも慣れてもらおうと思ってさ」
「……あの、ほっぺたにキスぐらいなら私からします」
「おお、積極的じゃん、いい傾向だね。じゃあ、俺からのキスも許可ね?」
 そう言われて絢子は逡巡した。
 ここでキスを許可したら、この先は一体どうなってしまうのだろうか。
 でも、正臣にはいろいろと世話になっているし、ちょっとのキスぐらいは良いんじゃないか。昨日は悠真から不意打ちとは言えすでにほっぺたにキスされたのだし。
 そう思った絢子はこくりと頷いた。


「はい、キスを許可します」


 その瞬間、絢子と正臣の間で何かがぱちんと光った。

「えっ?!」

「ありがとう絢子ちゃん、許可を出してくれて」

 にいっと笑う正臣が、絢子に覆い被さってきた。

「?!」

 正臣は絢子の顎を優しく掴むと、絢子の唇を食み始めた。
 それは現実の正臣から初めてもたらされる快楽だった。

「んんっ!」

 絢子は目をぎゅっとつぶり、その波が過ぎるのを待つ。
 正臣から与えられる緩い快感は、絢子の心を解してゆく。
 初めてのキスの味はリンゴジャムの甘い味だった。


「唇へのキスはね、許可がないとできないんだ」


 唇を僅かに離しながらそう言う正臣の声を、絢子はどこか遠くで聞いていたのであった。






 ――正臣から柔らかいキスを受けたあと、絢子は出勤した。

 早く出勤しているせいか、通学路の生徒の姿はまばらである。

 絢子は秋風に少しばかり火照った頬を晒しながら、学園へと歩いていた。

 と、後ろからきゃっきゃきゃっきゃと声がする。
 どうやら女生徒の一団であるようだった。

「あ、ねえねえ見て! あそこにいる人、昨日悠真君からキスされていた人だよ!」

 その声に気付かないふりをして、絢子は歩き続けた。

 女生徒がひそひそと声を交わす。
「どんな人なんだろう?」
「何か結構地味な人だよね」
「何でこの学園に来たんだろ?」
「家が大金持ちとか?」
「それならこの学園の事務なんかやってないでしょ」
「あ、でも、あの人のこと悪く言ったりすると悠真君と妙子女史に嫌われちゃうって話だよ?」
「誰から聞いたのそれ?」
「昨日図書室に行った子達から」
「何かねー、妙子女史とも仲いいっぽいよ。昨日一緒に帰ってるところを部活の子が見たって」
「へえ、じゃあ、あの人うちらの仲間じゃん! 妙子女史のお友達ならうちらにとってもお友達だよね!」
「そういえば、昨日悠真君からキスされたとき、何か戸惑ってたって話だよ」
「じゃあ、あの人は悠真君のことを何とも思ってないんだ!」
「あの人本当は親戚の人か何かなんじゃないの? 知らない人にそういうところ見られると恥ずかしいよね。それに悠真君海外で生活もしているからそういうことはフランクなんじゃないの?」
「でもさー、私達には全然キスとかしてくれないよー?」
「馬鹿、だれかれ構わずキスしてたら悠真君が疲れちゃうじゃん!」
「知ってるー? あの人の名前ねー、松永絢子って言うんだって」
「じゃあ、絢子女史だね!」
「まだ今は絢子さんで良いんじゃないの? 仲良くなったら絢子女史って呼ぼうよ!」

 絢子はほっとした。
 昨日の悠真との一幕で女子を敵に回すと厄介だと思っていたところであったのだが、どうやらそれは杞憂であったようだ。
 まさに妙子女史効果である。
 絢子は心の中で妙子を拝み倒した。
「ありがとう妙子さん、あなたがいなかったら私、この学園で針のむしろになるところだったわ」
 そうして絢子は今日も栗栖学園の門をくぐったのであった。




 今日の日替わりA定食のメインはカキフライだった。
 妙子と食堂でそれを食べていると、またも食堂内がざわざわとした。
「今日は何だか人が多いわね」
 妙子がカキフライを一口で頬張りながら言う。

 絢子はその人だかりから視線を感じていた。

 いろいろな思惑が混ざった視線であるが、その大半は絢子に対する興味からくるものであった。

 あちらこちらでひそひそと言葉が交わされる。
 その内容は今朝の女生徒達のようなものだと絢子は踏んだ。

 すると、その人だかりの中から今日も悠真がやってきた。


「絢子! 今日も来ちゃったよ!」


 悠真はにこにこしている。

「悠真君、もうお昼は終わったの?」
「うん、もう食べ終わったよ」

 そう言った悠真は、絢子を見てふといぶかしむ顔をした。
「絢子、正臣に許可を出した?」

「え?」

「絢子のまとう雰囲気が違う。正臣のも混ざってる」

 そう言うと、悠真は今度は面白く無さそうにぷいと横を向いた。

「やっぱり正臣はずるいや。絢子を独り占めしてる。僕だって絢子といろんなことをしたいのに」

 しかし、悠真ははたと機嫌を直したようだった。

「でもいいもん! 学園の中は僕のテリトリーだから、ほかのやつらには絢子を触らせないんだ! 正臣もうかつに顔を出せないしね」
 そう言うと、悠真は絢子の手を取って、そこにちゅっと口を付けた。

「絢子は僕のお姫様だよ!」

 きらきらとしたオーラを放ちながら、金髪灰眼の美貌の主は言う。

「あ、ありがとう」

 しどろもどろになる絢子であったが、ふと視線を感じた。

「あ、この視線は……」
 その視線に悠真も気付いたようだ。

「隠岐伊織」

 そこには、漆黒の髪、気だるげな瞳を持つ隠岐伊織が立っていたのであった。


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