会社再建を支える職人芸
岐阜県池田町

三段階の異なる火加減で焼き上げた素焼きのあられ。
もちろん熱々で、軽い焼き上がりが印象的。

  
   

 子どものころに見たテレビのCMには、いまだ強く印象に残っているものがある。鈴木ヒロミツさんが荒野で自動車を押すモービル石油のCMもそのひとつだし、民謡歌手の金沢明子さんが蝋燭を前にして炎を揺らさないように歌うCMもそのひとつだ。このCMが子ども心に日東あられを身近なものに感じさせる、大きなきっかけとなったのはたしかだった。
 日東あられの前身にあたる日東食品工業は1948(昭和23)年、戦後の混乱期に創業した。創業者の岡崎敬治さんは米屋の生まれで、食糧公団の所長を務めた人だった。食料難の時代、原料不足などから創業当初は一定の仕事があるわけではなく、製粉や製麺、飴菓子など、さまざまなものをつくっていくなかで、次第にあられをつくっていくとの一本の道が見えてきた、と社史には記されている。
 以来、あられといえば日東あられが思い浮かぶほど、幅広く浸透し、最盛期のシェアは7~8割にも及んだ。「サラダセブン」や「味千両」といった同社の看板商品は、たとえそれが日東あられの製品であることを意識しなくても、何度とはなく口にしたことがあるだろう。ちなみにうるち米を原料とするのがお煎餅であるのに対し、あられは餅米を原料とし、両者には明確な区分がある。

 

味付けの調整をする日東あられ新社の竹中勝さん。
あられの開発室は理科の実験室と調理場が合わさったような場所。

 飛ぶ鳥を落とす勢いのあった日東あられだったが、1991(平成3)年、会社更正法を申請し、倒産してしまう。当時を知る人の話によれば、前日まで工場はフル稼働で、いつも通りに出社してはじめて倒産を知ったという。それほど突然の倒産劇だったようだ。1994年にはサンヨー食品の支援を得て、日東あられ新社として再建をめざすことになる。
 しかし、その道は容易なものではなかった。それまでスーパーのお菓子売り場で日東あられが圧倒的多数を占めていた棚には、すぐに他のメーカーの商品が並んだ。スーパーにしてみれば、あられのコーナーにあられが並んでいなくては困るわけだ。いちど奪われた棚を取り返すのは至難の業だった。
 「こうした危機的な状況のなか、社長が一人ひとりの社員に対する聞き取り調査をはじめました。そのなかで現場のスタッフとして働いている人に、入社40年という開発の職人がいることがわかりました。彼は長年、会社が蓄積してきた分厚いレシピ帳も大切に保管していました」、と日東あられ新社でマーケティング本部長をつとめる田坪靖則さんはいう。
 再び商品開発をリードすることになった同社の竹中勝さんのことを、田坪さんは「会社の宝」といってはばからない。当の竹中さんは倒産という大きな変化に飲み込まれた会社に対し、一人の従業員としてその運命に身をゆだねながら、不平を言うこともなく、実直に働いていた。
 「あられのような商品ですと、お客さまの嗜好はとても保守的です。変わることを決して求めてはいません。ですから、絶えず原点に戻りながら、新しい商品づくりを心がけています」と、竹中さんは言葉を選ぶように語る。
 そんな竹中さんが満を持してつくりあげ、世に問うた新商品が「餅の達人」シリーズだ。「昆布醤油仕立て」と「濃口胡麻油仕立て」と二種類の味付けをまずは用意した。焼き方にこだわり、味付けにこだわってつくったものだが、食べてみて感じるのはきわめてオーソドックスなおかきであるということ。こだわり抜きながらも保守的なものをつくりあげる。そこに竹中さんの職人芸を感じた。
 新商品の発売にあたって、パッケージに竹中さんの顔をプリントし、職人としてのこだわりをアピールするとの案もあったそうだが、謙虚な竹中さんは固辞したそうだ。

   
 
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