全国の原発で放射能漏れの検査の仕事をしていた喜友名正(きゆな・ただし)さんが、2005年3月に悪性リンパ腫で亡くなりました。53歳でした。遺族が労災申請をしましたが不支給の決定だったという相談が、昨年10月に原子力資料情報室にありました。
喜友名さんが働いた現場は、原発の老朽化に伴うさまざまなトラブルを抱えた厳しい状況だったことが、勤務した親会社から提出された被曝管理台帳のデータからわかり、働いた現場を追って「平均値からは視えない被曝労働の実態」を『原子力資料情報室通信』390号で報告しました。
喜友名さんは1951年沖縄生まれ。沖縄シャープを退職後、1997年7月に非破壊検査を行なう会社の孫請け企業である(有)サンエックスコーポレーションに就職しました。そして、泊、伊方、美浜、大飯、敦賀、玄海など全国各地の主に加圧水型原発や六ヶ所再処理施設に出かけ、仕事をしていました。
喜友名さんが被曝した線量は、1997年9月から2004年1月までの6年4ヵ月間で99.76ミリシーベルトで、1年あたりでは15.8ミリシーベルトも被曝をしています。白血病の労災認定基準は1年あたり5ミリシーベルトですから、その3倍以上も被曝しているのです。当然、被曝労働による労災として認定されるべきです。
原子炉本体内での損傷部分の検査など、高い放射線が発生している場所での作業では、各電力会社は過度な被曝を抑えるよう管理しています。しかし、喜友名さんは特に厳しい線量のもとで作業をしていました(表参照)。経済効率を優先する長期連続運転、定期検査の短縮化の影響をもろに受けているのです。
■喜友名正さんの高線量被曝の実態(mSv:ミリシーベルト)
原発名 | 作業期間 | 作業日数 | 被曝線量(mSv) |
---|---|---|---|
伊方 | 1997年10月21日〜25日 | 5 | 4.2 |
高浜 | 1999年5月26日〜29日 | 4 | 3.7 |
美浜 | 2000年8月30日〜31日 | 2 | 0.9 |
大飯 | 2001年9月18日〜20日 | 3 | 3.1 |
大飯 | 2003年1月6日〜9日 | 4 | 2.6 |
喜友名さんは、次第に体調が悪くなり、2004年2月に退職。5月に血液のがんの一種である悪性リンパ腫と診断され、苦しい闘病の末に亡くなりました。遺族が大阪の淀川労働基準監督署に労災を申請しましたが、悪性リンパ腫は例にないとして、りん伺(資料を提出して本省に判断を仰ぐこと)もされないまま、06年9月に不支給の決定が出されました。しかし不服申し立てを申請し、現在審査中です。
今年6月8日、さまざまな被曝問題に対して政府への申し入れ・交渉を行なった際、喜友名さんの労災申請を「りん伺に戻し、再検討する」ことを厚生労働省に認めさせることができました。淀川労基署が下した不支給の決定を取り消し、労災認定を勝ち取るための大きな一歩を踏み出しました。労基署は、喜友名さんの被曝の実態を把握するため、どの原発のどこの現場でどのような作業をしていたかについて詳細に調査を行うべきです。
これまでに原発労働で労災認定されたのは、長尾光明さんの多発性骨髄腫を除けば、いずれも白血病のみです。喜友名さんの悪性リンパ腫の労災認定を勝ち取ることは、多発性骨髄腫の労災認定と併せて、日本の極めて狭い労災認定の窓口を開くことになり、日本の原発労働者の補償を前進させることにつながります。
労基署からのりん伺を受けて、厚労省が開催する「電離放射線障害の業務上外に関する検討会」に向けて、全国の支援する人びとの意志を結集するための署名や対政府交渉が大きな力となります。そのために、9月24日に「原発被曝労働者、喜友名正さんの労災認定を支援する会」を立ち上げ、さっそく厚労省交渉を行いました。
その中で、遺族の喜友名末子さんは、「夫は、放射能漏れの箇所を調べていた。退職直前には沖縄に戻り治療を受け、再び原発労働に戻って、ぎりぎりまで働いた。病気になり、苦しんで死んでいった夫の労災をぜひ認定してほしい」と、支援を訴えています。
喜友名さんの労災認定を勝ち取るための支援を全国に呼びかけます。