1ヶ月の危機管理対応-11.04.16-
<1ヶ月の食料緊急救援対応に一区切り>
3月11日(金)午後2時46分に起きた東日本大震災以降、次に何をすべきかを常に考えていたため、とてもメルマガ・ブログの原稿を書けなかった。4月8日、米の作付制限のルール「水田の土壌から玄米への放射性セシウムの移行係数が10%で、玄米中の放射性セシウム濃度が食品衛生法上の暫定規制値(500 ベクレル/kg)以下となる土壌中放射性セシウム濃度の上限値は5000 ベクレル/kg」(つまり土壌汚染5,000ベクレル/kg以上は作付制限)を公表した。これで私なりに一連の危機対応に一区切りついたので、10日(日)、菅総理の石巻視察に随行する自衛隊機の中でこの原稿を書き始めた。
<東日本大震災で一変>
大地震の日の午後、私は副大臣として3月末に予定されていた、食と農林水産漁業再生会議において中間報告を取りまとめねばならず、その内容について思いを巡らせていた。また、風雲急を告げる長野県議選に4人の民主党公認候補が私の選挙区で立候補しており、この民主党への逆風の中で全員の当選をいかにして果たすか思案中で、週末は私の選挙以上にあちこちの支持者訪問、ミニ集会をこなす予定だった。ところが、この突然の大地震によりすべて中断。ただちに危機対応にとりかかった。
<被災地に食料と水を届ける>
食料緊急輸送ということが一番の仕事である。そこに福島第一原発の放射能汚染問題が起こった(この件について私には特別の思いがあるが、別のメルマガ・ブログで詳細報告する)。私は直ちに12日、放射能汚染農産物の扱いについて準備するように指示を下した。そちらはさておき、まずは食料・水等の救援物資の調達である。
阪神大震災のときにも、直接の担当ではないがいろいろ食料の救援をしたことがあった。鹿野大臣陣頭指揮の下、直ちに食料・水の救援体制を敷いた。約50万人の被災者の数が伝わり、3食分で計150万食/日を届けなければならなかった。数日間はこれにかかりきりであった。いかんせん道路が寸断され、道路の寸断はそこそこ回復した後も、ガソリンの供給がままならなかった。そうした状況のなかで、いかに被災地に食料を届けるかが我々の双肩にかかっていた。前例もなく、まさに担当者の機転にかかることだった。
<自衛隊基地からの空輸>
切羽詰った我々が工夫したのは、自衛隊機による輸送である。自衛隊の踏ん張り・援軍は、私は既に昨年の宮崎の口蹄疫現地対策本部長として十二分に承知していた。一難あった時の最後の砦は自衛隊、トップは私の政治の師、北沢防衛大臣である。早速、常日頃のネットワーク、すなわち小川勝也副大臣(宮崎の口蹄疫現地対策本部の副本部長で1ヶ月以上ずっと一緒だった仲)、松本大輔政務官と連絡を取り、打開を急いだ。
<身勝手な米買占め>
問題が生じると次から次へと鎖のように問題が繋がっていく。おかしなことに、1973年のオイルショックの時と同じような形で、米等の買占めが行なわれていた。米不足など生じるはずもないのに、信じ難い消費者行動である。これが石原都知事のいう最近の日本人の「我欲」かもしれないが、愚痴は言っていられない。好意的に解釈すれば安全保障なりに全く無防備な東京に気付き、慌ててちょっといざという時の備えをしたに過ぎないのだろう。ただ、そのちょっとだけを皆がしたら棚から米がなくなる。
<地道で地味な組織の底力>
農林水産省は、評論家や経済界から「余計な組織をかかえている」といった批判ばかりいただいているが、米の供給体制を担ってきた食糧事務所という組織の記憶が残っていたから、一連の対応が可能となったのかもしれない。また、おにぎりやパンの業界の皆さんとは常日頃から意思疎通を図っており、こういった時にはすぐ一丸となって事に当たれる。食品企業の皆さんに被災地ですぐ食べられるおにぎり・パン等を作ってもらわなければならない。農林水産省の日頃の仕事振りがそのままうまく働いたのだ。
<最後の頼みの自衛隊>
総合食料局がやっとの思いで作り上げたリストは、変な買占めが横行している首都圏の企業には余裕がないらしく、やはり東海・関西方面が多かった。ありがたいことにカップ麺200万食の日清食品をはじめ、多くの企業が食料の無償提供を申し出てくれた。
自衛隊には、我が方からお願いして、まず、小牧基地(愛知)の自衛隊の航空基地から被災地の花巻空港(岩手、宮城)と福島空港に届けてもらうことにした。その結果を事務局につなげ、やっとルートが確立した。小牧、入間、千歳等の直接発着できる基地に届けることにした。近くの基地ならば食品業者も皆地理勘があるからである。これが入間、千歳等、他の基地にも拡大していった。
私は昨年の宮崎の口蹄疫の際の家畜の埋却に続き、また自衛隊のお世話になった。国民の生命を守るという地味な働きをする組織を暴力装置などと言った閣僚がいたことを恥ずかしく思う。
<基地の近くへのガソリンの供給>
ところが、愛知県の業者がパン・おにぎり、弁当を基地に届けるにしてもガソリンが足りないということが判明した。効率一点張りで集中化を続け、ランニングコストの削減のために自分の店なりスタンドなり、自分の製油所にストックをもたないという体質が、こういった緊急事態のときにとんでもない形で露呈した。6ヶ所の製油所がストップしただけで東日本全体のガソリン供給不足がすぐさま訪れた。いざという時に何も備えていないツケが回ってきたのである。
これも日頃のネットワーク、経済産業省の池田元久副大臣、田島要政務官に要請し、自衛隊の基地の近くのガソリンスタンドにガソリンを届けてもらい、食料運搬車が帰りには満タンにして帰れるという仕組みを構築した。どこかの誰かが、副大臣が機能せず、事務次官のほうがマシだなどと減らず口を叩いていたが、菅内閣の屋台骨を支えているのは、ひょっとして副大臣や政務官かもしれない。
<弱小野党で皆が知り合いで動いた政治主導>
こうしたことをいきなり官僚、役人がやっていたら話はほとんど進まなかっただろう。危機管理には、民主党が目指した政治主導がよく働いたのである。民主党は今は政権与党で412人の国会議員がいる。しかし、小泉郵政選挙の後の4年間は、衆議院は100人そこそこの小世帯、まじめにしこしこ勉強会ばかり開いていたので、大半が顔見知りで親しくなっていた。これといったがっちりした派閥もない党で、生来だれとも気兼ねなく付き合う私は、多分最も多くの民主党議員と親しく話のできる1人である。政務三役が頻繁にやり取りして超法規的な緊急対応のおおまかな話をつけ、それに従って几帳面な事務方が詰めるという筋書きができあがった。かくして、国交省の三井辨雄副大臣とは外航船に例外的に内航の飼料運搬に携わってもらうこと、末松義規(消費者庁担当)内閣府副大臣とは表示の例外等、ことごとくけりをつけていった。正直言って官邸は原発対応で手一杯で、我々が個人的才覚で動き、各省が必死で対応してきたのである。
この間、日に数回、省内の会合を開き、鹿野大臣の指揮下で意思統一しつつ事に当たった。こうして、被災地への食料と水の緊急救援輸送、農作物・水産物の出荷制限、それに伴う補償の仕組構築、そして米の作付制限と1ヶ月が慌ただしく過ぎた。長い長い1ヶ月だった。
<農水官僚の着実な仕事ぶり>
ガソリンが不足したのに食料不足がほとんど生じなかったことは、ほとんど評価されていない。
ここ数年、事故米、ヤミ専従と農林水産省はマスコミからは攻撃されどおしだった。職員も私の現役の頃よりかなり萎縮しているように感じられてならなかった。そこによくわからない政治主導とやらが追い討ちをかけた。私は、副大臣就任以来、幹部に「もっと自信を持って自分たちで決めろ」と口癖のように言ってきた。
私は、一連の対応で農林水産省の職員の働きに敬意を表したい。自分の30年勤めた役所であり、生来口の悪い私は、今も部下を叱咤激励し続けている。しかし、ほとほとまじめで律儀な農林水産省の職員の昼夜を問わない働きがなければ、このようには進まなかった。心の底からよく頑張ってくれたと感謝したい気持ちである。
今もまだ食料の国による調達が続いている。さらに来週には前代未聞の作付制限の実施を決める。緊張状態が続くが、この危機を何とか乗り越えて東北の復興へと向かって全力を尽くしたい。