※R15相当の描写が含まれています(サブタイトル後の■マークはR15相当の描写であることを表すマークです)。
隠形鬼―おんぎょうき―
姿を隠して種々の不可思議な力を現すという鬼。
「隠形鬼は形を隠してにはかに敵をとりひしく/太平記16」
夢の中で、絢子は男に抱かれていた。
彼女は両手を伸ばし彼の名を呼んだ。
「――」
「うんっ……ああ、またあの夢か」
遮光カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた室内は、うすぼんやりと暗い。
腕を額に当てながら絢子は目を覚ました。
「私ったら、欲求不満なのかなあ」
絢子はベッドから起き上がると、キッチンへと足を運んだ。
キッチンといっても大したことはない。
三万四千円のアパートのキッチンなんて高が知れている。
蛇口をひねり、コップに水をなみなみと入れると、彼女はそれをごくごくと飲み込んだ。
朝食を作り、それをもしゃもしゃと食べる。
身だしなみを整えると、彼女は茶色のバッグを肩に取り、玄関で靴を片方履いた。
「あ、通帳忘れてた」
絢子はそうひとりごつと靴を片方履いたまま、けんけんをして部屋に戻る。
がさごそと戸棚を漁り、目当てのものを見つけると、彼女は改めて部屋を出た。
今日は月末、給料日なのだ。
たかが十三万六千円と侮るなかれ。
この時給八百五十円、八時間労働の対価は生活をしていくうえでの貴重な収入源なのだ。
彼女は少しだけうきうきしながらバイト先へと向かう。
「おはようございます」
「早いねえ、松永さん」
バックヤードに入ると店長が声をかけてきた。
ここはデパートに入っているチェーン店の書店である。
彼女はここでアルバイトをして生活している。
大卒無職無い内定。
この就職大氷河期で彼女は例に漏れず就職先が見つからなかった。
だがそれだけではない。
彼女にはある夢があったのだ。
それは教師になるという夢。
絢子にとって、それは小さいころからの夢であった。
大学で中学校と高校の社会の免許を取得した彼女は、大学四年の去年と卒業後の今年に教員採用試験を受けたが、残念ながら去年も今年も一次試験で落ちてしまった。
「はあ、やっぱり予備校とかに通わなきゃ駄目なのかなあ。でもお金ないしなあ」
実家にはまだ帰りたくない。両親とは三年という期限でこの東京で生活するという約束を取り付けてきたのだ。
その両親からの仕送りはなく、自分のバイト代だけで生活していくにはこの仕事は割に合わないのかもしれない。
それでも小さいころから本好きだった彼女にとってはこの仕事はそれほど苦ではなかった。
想像と違い、結構な肉体労働であったことも、万引きに目を光らせなければいけないのも、彼女にとってはある意味張り合いのひとつとなっていた。
「来年こそは、受かってやるんだから」
ぐっと両手を握り締め、意気込んだ彼女の横をはああと盛大なため息をつきながら通り過ぎる人がいた。
「あら? どうしたんですか田中さん」
それは同期の田中であった。
彼は憔悴しきった顔で絢子に話しかけてきた。
「聞いてくれる? 俺昨日さあ、バイクに乗った男に鞄ひったくられちゃったんだ。警察には一応被害届出したけど、多分絶望的だってさ」
「それは難儀な」
「幸い給料日前だったし、大したものは持っていなかったから良かったけれど、まじへこむわ。ああ、俺の財布が、俺の携帯が……」
「ですよねー……」
そんな会話をしながら、彼女達は仕事場へと向かったのであった。
レジ打ちはもう慣れた。
最初のころはレジの前に立つのも嫌で、会計をするときには手が震えたものだ。
人前に立つのは苦ではなかったが、自分がお金という自分の範囲の及ばないところで責任が発生するものを扱うということにちょっとびびっていたのだ。
だが何事も慣れなのだ。
最初はそうやってびびっていたが、回数をこなすごとに打ち間違いも減り、今ではようやく接客のほうにまで目を向けられるようになった。
最近店長からも「松永さん、ようやく慣れてきたね」なんて言葉を頂いた。
期限はあと二年。
それまでには何とか結果を出していたい。
そう思いながら家路に着いた。
とっぷりと夜も更けたころ。
絢子は帰宅する前に銀行のATMでお金を下ろした。
下ろすお金はニ万円と決めている。
バイトの給料から、家賃三万四千円、光熱費一万円、通信費一万四千円、国民年金一万五千円、食費ニ万円を引くと、手元には四万円程度しか残らない。
そのうち二万円を毎月貯金しているので、使えるお金は二万円となってくるのだ。
幸い服なら大学時代に買っておいたものがあるし(そのころは実家から月八万円の仕送りがあった)、基礎化粧品と僅かなメイク道具さえ買えれば絢子にはそれで十分だった。
接客とは言っても華が必要な職場ではないのだ。
その生命線とも言えるお金の入ったバッグを胸に抱きながら、彼女は薄暗い道路を歩いていた。
と、後ろからブウーンという音が聞こえてくる。
彼女は身構えた。
今日聞いた田中さんの引ったくり話が頭をよぎる。
「今日はバッグに私の大切な二万円が入っているんです! どうか何にも起こりませんように!」
バッグを道路と反対側に掛け直し、しっかりと握って夜道を歩いた。
一本道の道路なので逃げ場はない。
絢子はぎゅっと目をつぶった。
しかし何も起こらない。
バイクはそのまま彼方へと通り過ぎていった。
「はっ……私ったら、なに自意識過剰になってんのかしら。こんな辺鄙な場所で引ったくりなんか起きるはずないじゃない」
そう言って胸を撫で下ろしたそのとき。
後頭部にごつっと鈍い衝撃がきて、彼女はそのまま意識を失った。
「――う……痛ったあ」
痛みに顔をしかめながら絢子は目を覚ました。
ぼんやりとした目で周囲を見回す。
大きな機械、ドラム缶、何かのチューブ……。
どうやらそこはこの街の外れにある廃工場であるようだった。
「うわっ、頭痛い、絶対たんこぶになってるわこれ」
絢子は頭をさすってギョッとした。手に血がついている。
「目が覚めたんだな」
声がした。
絢子は素早く辺りを見回した。
「誰ですか!?」
精一杯の声を張り上げる。少し震えていたかも知れない。
見ると、少し離れたところに若い男がひとり座っているのが見えた。
「ようやく見つけた、紀朝雄」
「きの、ともお? ……あの、私そんな名前じゃないし、まして男でもありません」
さらによく見ると彼の周りの壁には三、四人の男が佇んでいた。
どの男も手に鉄パイプを持っている。
「どういうことですか? これは」
「ほう、気丈な女だな。流石紀朝雄の生まれ変わりといったところか」
若い男の隣に立っていた別の男が声を発する。
「なにをわけのわからないことを言っているんですか? 早くここから出してください、人違いですから」
「いいや、あんたは紀朝雄だ。あんたから微弱な力を感じる」
その男はそういうと鉄パイプを構えた。
この人達は頭がいかれてるんだ。絢子はそう思った。
紀朝雄なんていうわけのわからない名前をいきなり出されても、こっちは何のことやらさっぱりわからないのだから対処の仕様がない。にもかかわらず、その男は話を続けた。
「俺達はね、遥か昔、紀朝雄に成敗された人間なんだ。もしお前が藤原千方様に近づけばまた歴史は繰り返されるかもしれない。それを防ぎに俺達はここにいるんだ」
「ふじわらのちかた? 何よその平安時代の人みたいな名前」
「やはり覚えていたのか!」
男達が瞠目する。
絢子は男達の何かの琴線に触れてしまったことを察した。
「なっ、何のことだかさっぱりわからないわよ! とにかく、人違いなんですから早く開放してください!」
「いや。この場でお前を殺す」
「殺……す?」
私はその言葉にきょとんとした。あまりにも突然に放たれたその言葉の意味を受け入れるには時間がかかったのだ。
「悪く思うな。恨み言ならば自分の前世に言うんだな」
そういうと男達はじりじりと距離をつめてきた。
「嫌! 来ないで! 誰か助けて!!」
はっと我に帰った私はその場から後ずさりしながら必死に声を出した。
だが、辺りはしんとしている。
男たちに囲まれ、彼らが一斉に絢子の頭上に鉄パイプを振り上げたそのとき。
「待て!!」
大音声ともいえる声が聞こえた。
全員その声に気圧され、ビクッと固まる。
「誰だ!!」
男達が叫ぶ。
「その人には指一本触れさせない」
そう言って暗闇から気配なく現れたのはひとりの男だった。
絢子は囲まれている男達の隙間からその男を見た。
ジーンズに包まれた長い脚。身長は百八十センチぐらい、ぴったりとした黒いTシャツの上からでもしなやかな筋肉が見える。
切れ長の瞳は油断のない飢えた野犬のようでもある。
無精髭に覆われた唇は硬く引き結ばれ、目の前の光景が自分の意にそぐわないものであるのを示している。
男のその顔を見たとき、私は息を呑んだ。
「あなたは……!!」
それはたまに見る自分の夢に出てきた男にどこかに通っていたからだ。
周囲の男達は身構えていたが、その男の顔を確認すると力を抜き、怪訝な顔をした。
「何だ、正臣さんじゃないですか」
「匠はそれを望んでいたのか?」
「え?」
「匠は、藤原千方は今お前達がやっていることを望んでいるのかと聞いているんだ」
正臣と呼ばれた男の声は平坦であったが、その声はその場にいるものの背筋を凍らせるような響きがあった。
と、次の瞬間正臣の気配が一気に変わった。
「ひいっ?!」
その場にいたすべてのもの心臓を鷲づかみにするような気配だった。
「怪我を、させたな」
「あの、これはですね」
「後頭部から血が出ている」
正臣がそういった直後、その姿が一瞬にして掻き消えた。
「え?」
「うわあ!」
「ぎゃあ!」
「ぐえっ!」
「ごふっ!」
何が起こったのかわからなかった。気がつくと絢子の目の前には自分を取り囲んでいた男達が折り重なって倒れているところだったのだ。
「何、これ?」
絢子がいぶかしむと急に目の前が暗くなった。
と、腹に強烈な一撃が来た。
「すまない」
耳元でその男の声を聞いたのを最後に、絢子の意識はそこで途切れた。