<東日本大震災>松島独特の景観は健在 だが民宿街は壊滅
毎日新聞 4月19日(火)12時28分配信
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穏やかな海が広がる「松島」の遊覧船乗り場付近=宮城県松島町で |
遊覧船の発着場に面した松島町内の国道を、物資が積まれたトラックや自衛隊車両が行き交う。飲食店など数軒が営業を再開しているが、観光客らしき姿はない。歩道は所々でレンガがめくれ上がり、脇に泥やごみを詰めた袋が積まれている。しかし、倒壊した家屋は無く、公園の木々も折れずに立っている。芝生に積もった泥は、ボランティアの手を借りてかき出されていた。
200を超える大小の島々が津波の緩衝体になったとみられている。「これぐらいの被害で済んだのは奇跡」。大正時代から続く土産物店「尾張屋」の店先で、従業員の大宮司寛さん(43)が扉を洗っていた。約1.2メートル浸水し、売り物はすべて流されたが「周りにへこたれている人はいない。落ち込んでいてもしょうがない」。震災の6日後には、地元商店会のメンバーが集まって復興に向けた協力を誓い合った。
松島のシンボルでもある「瑞巌寺(ずいがんじ)」「円通院」「五大堂」は、10日に拝観を再開した。しかし、わずかに訪れる参拝客は県内からの人がほとんどで、被災地の知人を訪ねた帰りに寄るケースが多い。円通院の天野晴華副住職(30)は「周辺のホテルや店でも従業員の解雇の話ばかり」と肩を落とした。
「東北復興の先導役になろう」という機運は地域で共有されているが、震災がこれだけ広範囲にわたって甚大な被害を与えたことを考えれば、誰もが観光地としての行く末に不安を感じざるを得ないはずだ。それでも、大宮司さんは「見に来てほしい美しい島と穏やかな海は、ちゃんと残った」と言葉に力を込めた。
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松島湾に沿って車で東松島市に向かう。山あいを約20分走り、新東名(しんとうな)地区に入ると風景が一変。がれきが散乱し、土台だけになった家々が無残な姿をさらす荒野が現れた。その先の野蒜(のびる)海岸は、防風林がすべてなぎ倒され、住宅街が消えていた。同海岸の付近は、一度に200人以上の遺体が見つかった場所だ。
さらに走り続け、「奥松島」と呼ばれるエリアに到達。宮戸島の東側に並ぶ月浜・大浜・室浜の3集落を回ったが、どこもがれきの山と化していた。「月浜民宿村」の看板が掲げられた一帯では、約30軒の民宿がほぼ全壊。大浜との間を結ぶ道路は崩落し、寸断されていた。
のりの養殖が盛んな室浜にも、約5.2メートルの堤防を越えて津波が押し寄せた。がれきの中に、「1台約2000万円」というのり用の乾燥機がひしゃげて横倒しになっている。海岸から望む「嵯峨渓」は日本三大渓の一つに数えられる絶景。崖の一部に崩落の跡が見えた。
海岸で釣り船店を営む男性(79)は、「まさかこの堤防を越えるとは」とうなった。野蒜地区に住む弟(75)の行方がまだ分からない。「小さな漁師町だから結束は強い。力を合わせて、何とか生きる道を見つけたい」。男性によると、津波の犠牲者は3集落合計でも数人。高台が近いため、声を掛け合うなどして早く避難することができたという。壊滅的な打撃を受けた養殖漁業をどう立て直すか、住民たちの話し合いが日々続いている。
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瑞巌寺は26日に震災の慰霊法要を予定する。松島湾遊覧船も早期の運航再開を目指して準備中。一帯の宿泊施設は多くが既に稼働中で、ボランティアや企業関係などの支援部隊の拠点になっている。大手旅行代理店JTBの広報室は、東北地方への旅行予約について「4月に入りだいぶ戻ってきている。交通手段の復旧に合わせて徐々に増えると見ているが、観光目的か震災支援目的かまでは分からない」としている。
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最終更新:4月19日(火)12時31分