2010/05/13
国際基督教大学教養学部 教授 八代尚宏氏
日本取締役協会 第8回定時会員総会 特別講演より
私はほぼ9年間、宮内義彦会長の下で規制改革会議の委員を務め、社会的規制を主として担当し、多くの勉強をさせていただいた。その間、宮内会長の指揮ぶりや会社経営の方法の片鱗を拝見したが、残念ながら規制改革の成果は上がらず、当時の宮内会長のお言葉を借りると「遅々として進んでいる」という、やや日本語にならないような表現だった。しかし今はむしろ逆行しており、しかも、年々そのスピードが高まっているという信じられない状況である。
今日本が必要としているのは成長戦略で、それは民主党も自民党も誰も否定しないが、肝心な今の政府に本当に成長する気があるのか、できるのかという部分が極めて曖昧で、むしろ逆のことばかり行っている。成長戦略のプログラムがいずれ発表されるとのことだが、具体的な根拠を欠く文学作品になるだろう。本当にそれが成長に結びつくかが問題なのである。特に「新しい公共」という概念を今鳩山内閣が作っており、これは官から民へということで、それ自体は当然のことで評価できるが、問題はその「民」の内容である。鳩山総理の姿勢方針演説では、国にも、また利益を追求する企業にも頼らず、第三の道として非営利団体に期待するという言い方をしている。国に頼らないというのは当然だが、利益を追求する企業も頼らないと言ったら、成長を生む雇用をどう生み出すのか。むしろ利益を追求する企業をうまく活用する、いわば暴れ馬に手綱を付けて、それを活用するという心意気がなくて、馬は暴れるので安全な牛に乗ろうとそういう引っ込み思案な発想としか思えない。その意味でも根本から、この新しい雇用や成長戦略を考え直していただく必要があると思う。
お手元に配布したグラフはドルベースで比較したGDPの推移である。アメリカや中国が着々と成長しているのに対し、日本は90年代半ばから横ばいないし若干のマイナスという大変な状態である。失われた10年という言葉が90年代に流行ったが、それはもはや死語で、いまや失われた20年、このままでは失われた30年となる確率が高い。世界が成長している中で、日本だけがずっと停滞を続けており、そのことに対する危機意識が驚くほどない点が最大の問題である。
80年代までは日本も急成長を続けてJapan as No.1と言われ、あまりの勢いにむしろこれを自粛しようという動きすらあった。そのJapan as No.1がいつ、Japan as 下から見てNo.1になってしまったのかが最大の謎である。マスコミ等は何で変わってしまったのかという犯人探しをしている。それは例えば企業経営者の短期的な利益追求、若者の減少や意欲低下、あるいは過度の規制緩和等、何か悪の根源があるという発想である。しかしこのようなアプローチでは犯人は見つからない。何かが変わったのではなくて、最大の犯人は何も変わらなかったこと、つまりグローバリゼーションや少子高齢化、急速な情報技術の発展で、日本を取り巻く経済社会の環境が大きく変わった中で、日本だけが政府も企業も、昔の過去の成功体験にしがみつき、日本は良い国だから過去の良い仕組みを変えてはいけない、とした点だと私は思う。このように変化しなかったことが問題だとすると、当然変化が必要になるが、今や構造改革自体が犯人扱いされてしまい、それからの逆行が進んでいるという状況である。
経済成長とは単純に考えると、労働力の増加と労働生産性の上昇の二つに分けられる。労働力自体は少子高齢化が進む中で下らざるを得ないため、問題は労働生産性である。世界では北欧やシンガポール等人口が少なくても豊かな国は沢山あり、そのような小さな国の方が今はむしろ元気であるが、これは労働生産性の上昇率が高いのである。労働生産性の上昇率は、ある意味で資本の蓄積と配分、全要素生産性(技術進歩)であるが、日本の場合全要素生産性が下がってきており、注目すべきは労働の産業間の配分効果が小さくなっていることである。つまり80年代までは労働力が活発に動いて、生産性の低い分野から高い分野に移ってきたが、90年以降止まり、特に後半はマイナスになっている。マイナスとは、例えば建設業のようにわざわざ生産性の低い産業に労働力が移っているということである。公共投資が増えるとそっちに労働力が増え、それが生産性の低い分野で増加する、あるいは農業を保護するといつまでも農業から労働力が移らない、このようなことが90年代に生じており、成長率を下げる大きな要因となったのである。そこで労働市場の効率性を妨げている要因として、日本的雇用慣行というのがあるのではないかというのが本日のお話のトピックである。
先日も連合の高木会長とご一緒した際、日本的雇用慣行は昔から変わらず、かつてはその下で産業や就業構造が変化し、高い成長をしていたのだから雇用慣行が問題ではないと言われた。ある意味でそれは正しく、日本的雇用慣行とは、過去の高い成長の時期に、雇用の安定と産業間の労働移動という、矛盾することを実現した仕組みであった。大企業が子会社を続々と成長部門に作ることで、失業なき労働移動というか、企業の中に労働者を抱え込んだまま、産業間を移っていったという世界でも稀な成功体験があり、労使ともまだこれに固執しているのである。このような綱渡り的なことができた最大の要因は、過去の高い経済成長、それから土地本位制と言われるように土地さえ持っていればいくらでもリスクキャピタルを銀行が提供してくれる、そういう土地の含み益がどんどん右肩上がりに上がるものだという前提のもとで、銀行も企業も豊富な資金を使って新しい分野に進出できた。ただ、このビジネスモデルは90年代のバブル崩壊以降は使えなくなった。土地を持っているというのはむしろ含み損を持っていることになり、このような過去のやり方は、通用しないにもかかわらず適応できていない。相変わらず雇用安定が一番大事だという考えが変化しないのである。そこがまさに環境が変わったにもかかわらず、過去の成功体験にしがみついているという最大のポイントではないかと思う。
日本的雇用慣行とは、長期雇用保障、年功賃金、企業別組合という三つの柱があると言われているが、これは実は企業内訓練を効率的に行ううえで優れたビジネスモデルである。よく日本的雇用慣行は非効率だが公平だと言われているが、これはまったく逆で、効率的だが不公平な仕組みである。ただそれは高い経済成長のもとで、という制約条件付きである。90年代以降の低成長に入ると、この日本的雇用慣行の良い面より悪い面が顕在化してきた。それは基本的には企業の内部と外部の労働市場を分断する、いわば労働者の間の格差と不可分の関係にある。限られた数の労働者を徹底的に訓練して熟練者に育て上げるためには事前の選別が必要なため、正社員と非正社員の区別は日本的雇用慣行と不可欠で、日本的雇用慣行とともに戦後存在してきた。最近の規制緩和で突然非正社員が生まれたかのように言われるのはまったくの間違いである。正社員と非正社員はいわば同じコインの表と裏にある。ただ過去の高い経済成長のもとでは非正社員の数は相対的に少なくて済んだ。一時的な不況を乗り越えればまた長い安定期が待っているということで、正社員の雇用保障が容易に実現したわけである。そのような時代の成功体験を90年代以降の低成長の時期にそのまま持ち込んだため、非正社員が結局増加し続けたということである。
グローバリゼーションでいわれることは、海外直接投資の内外格差が多く拡大していることである。国際化自体は昔からあり、日本企業の国際化は70~80年代と広がってきたが、80年代からは直接投資の拡大ということで企業が国を選ぶ時代になった。日本企業はまだまだ成長しているという話があるが、問題はどこで成長しているかで、国内から次々脱出して海外に工場を作り、依然として日本企業のパフォーマンスはいい。それが日本経済に繋がらず、優れた企業ほど日本から逃げ出して、成長ある市場に近づいている点が問題なのである。企業が国を選ぶ時代では、日本はますます選ばれなくなっている。
高齢化も大きなポイントであるが、日本は人口が減り始めて歴史的な転換点に立っている。労働力人口自体は前から減り始めていたが、ついに全体の人口も減り始めた。いつがピークかはまだ確定していないが、去年か今年か来年かで、現在がまさに日本人口のピークでこれからずっと下がり始めることになる。ただ、人口が減ること自体はさほど恐れることではなく、先述のように世界には人口が少なくても豊かな国は沢山ある。日本も生産性が上がれば、人口が減少しても経済成長に大きな影響はない。ただ問題は、過去の人口増加時代、しかも若い層を中心に人口が増えていた時代の制度慣行のまま、増加するのは高齢者だけという、人口減少社会に突入すると大変なことになるため、それに適応した社会へと早急に変わる必要がある。それが構造改革である。
構造改革の良し悪しの議論はナンセンスで、どのような構造改革が必要かという議論が必要である。民主党になってから経済財政諮問会議は、構造改革を進めた悪の巣窟とみなされ廃止された。経済財政諮問会議は総理が明確な経済政策の決定をする場所であり、これは道具にすぎない。委員が気に入らなければ民主党が好きな委員を選べばいいのに、道具自体を潰した結果、政府の政策決定過程が不透明になった。先日も管副総理が財政歳出に一定の限度を設けなければならないと発言した。当然であるが、このような大事な決定が、経済財政諮問会議のような公式な場ではなく簡単に口から出てきて、他の閣僚が慌てて、鳩山総理もそんなことは決めたわけではないと言う等混乱が起こっている。このような大事なことを透明な場で決める仕組みすらできていない、壊して新しいものを作らないという混乱した状況にある。
日本的雇用慣行が変わらない中で経済環境が変わると、そこの一つのひずみが非正社員の増加になる。日本的雇用慣行は社員の忠誠心に対して、経営者が報いるというような企業家族主義的な考えであるが、これはミスリーディングである。企業の中で熟練労働者を作り上げるために、その前提として雇用保障をすることで、熟練に見合った賃金体系、あるいは労働者を逃がさないように途中でやめると損をするような賃金体系、これが年功賃金の一つの意味である。しかしそのような考え方の人事部の人間は少ない。私も20年前に経済企画庁をやめたが、人事課長にやめさせていただきますと言ったら、君は今までの企画庁に対する恩をどう思うのかと怒られた。しかし、そのような恩や忠誠心などという感覚で、官庁も企業も経営していたら大変なことになる。雇用契約とはリターンと企業に対する貢献と、それに対する報酬という契約であって、忠誠心であってはいけないと思う。
このような日本的雇用慣行の下で低成長に入ると多くの社会問題が噴出している。第一は非正社員が増えたことによる正社員と非正社員の格差がある。これは先述のように日本的雇用慣行とともに存在する問題であるが、非正社員が増えたことで大きな社会問題となってきている。それにもかかわらずマスコミも含めて、これを相変わらず古い労使対立の枠で捉えている。つまり非正社員を使って儲けている企業と、かわいそうな労働者という労使対立の構図である。しかし日本には、欧米と違ってこのような労使対立はほとんど存在しない。労使は協調路線である。労働組合員の利益と経営者の利益は基本的に一致しており、労働者は長期雇用保障、年功賃金なので、企業が成長しなければメリットはない。そのためストライキをして企業の利益を減らせば、結局自分に跳ね返ってくる。その意味では企業が成長することが労働者の利益に繋がっているため、労使間の基本的な対立はないはずである。
あるのは労・労対立であり、雇用保障・年功賃金に守られた労働者と、市場賃金で働き雇用保障がない労働者の対立で、これがまさに日本的雇用慣行のキーポイントである。しかしこれを言うだけで労働者を分断するものと非難されるが、この点が実は今の労働市場の大きなポイントではないかと思う。大企業と中小企業の労働者、男性と女性、外国人と日本人等、今の労働市場の問題を労・労対立と認識しないと理解できない面があるだろう。
もう一つは働く女性の増加である。日本的雇用慣行の隠れた前提は、夫が働いて妻が家事子育てをするという家庭内の極端な役割分担である。企業は夫だけでなく妻もまとめて雇っているわけである。家族ぐるみの雇用という考え方で、それが年功賃金、二人分の賃金を出してその代わり夫を徹底的にこき使い、長時間労働は当たり前、企業の命令辞令一本で日本の端からアジアの端まで飛ばされても文句を言わないという包括的な契約になっている。このような頻繁な転勤が成り立つのは、奥さんが必ず付いて行くという前提で行われている。しかしここで女性が正社員として結婚した後もずっと働き続けると、こういうモデルが破綻する。官庁のキャリア同士で結婚すると、どちらかが常に転勤しているのでほとんど一緒に住めないという悲惨な状況もあるが、このように夫も妻も正社員として働いた場合、誰が子供を育てるのかという問題になり、それが実は少子化に結びついている。少子化が大きな問題だとは皆認識しているが、依然出生率の低下が止まらない。その理由は、日本的雇用慣行の中で女性の働く人が増えているという組み合わせである。北欧諸国は日本より高い出生率の下で、日本より高い女性の就業率を実現しているため、女性が働いているから必ずしも出生率が落ちるのではない。日本的雇用慣行が基本的に女性が働かないことを前提としているのに、女性が働き出したから矛盾が起きているのである。少子化問題を考えるためにも、やはり働き方の改革は避けて通れないが、政府の審議会等でもこの問題は避けて通るのである。男女共同参画会議でも、この日本的雇用慣行は一つのタブーとして全然触れない。日本的雇用慣行を維持したままでできる範囲で、男女の平等や少子化対策を行おうとしているので、効果がないのは当たり前なのである。
また最近は、ワークライフバランスの委員会があり、私も入っているが、このワークライフバランスとはほどほどに働き、仕事と家庭生活を調和しようという、これ自体は結構な考えであるが、なかなか実現しない。これも日本的雇用慣行の問題を避けて通っているからである。日本でワークライフバランスが実現しないのは、私はすでに実現しているからだという変な言い方をしている。つまり、家族単位で日本では、すでにワークライフバランスが実現しているのである。つまり夫は働くだけ、妻は働かないで家事子育てをやっている。家族全体では一つのワークライフバランスなのである。これを個人単位で夫も残業をあまりせずに家庭で家事子育てをやり、妻も少なくとも普通の勤務時間は働くという個人単位のワークライフバランスに変えるためにはどうしたら良いか。日本的雇用慣行の見直しが必要なのである。
解雇については、裁判所ではなかなか認められない。裁判官は何を考えているかというと、日本的雇用慣行の下では、人事面において企業の裁量性が著しく高い。欧米であれば本人の同意なしの転勤や長時間労働は当然労働組合が認めないので、その意味でレイオフがセットになっているが、日本では組合も転勤や長時間労働を認めているため、労働者から見て拘束性の強い働き方、企業からみて使い勝手の良い労務管理で、その代償として雇用を保障するというワンセットの包括的契約になっている。そのため能力不足で解雇、あるいは不況なので解雇するということを簡単には認めない。もし残業も転勤もしませんということであれば、当然従来のような雇用保障あるいは年功賃金は諦めなければならない。それを諦める気が組合にはまったくないので、ワークライフバランスも実現しないのではないかと思う。
大きな問題は定年退職である。高齢化で労働力が減り、熟練労働者が減っている中で、貴重な高齢者を強制的に解雇するという定年退職は、極めて野蛮な制度である。これはアメリカでは昔から年齢による差別として禁止されており、ヨーロッパもその方向に向かっているが、日本だけ進まず、せいぜい定年退職後の再雇用を政府が考えているだけである。ただこの定年退職後の再雇用は一年契約の非正社員であるため責任ある仕事はできず、貴重な熟練労働力を無駄にしている。定年退職制度を変えられない理由は、企業にとってこれが唯一の雇用調整の機会だからである。つまり、一旦雇用を保障すると能力不足の人も定年まで雇い続けなくてはいけないため、定年退職はまさにそのような労働者をシャッフルする唯一の機会なので企業としても変えられない。よって定年退職してもらい、有能な人だけを再雇用するという考え方になるのである。日本の定年退職は、年功賃金という年齢による逆差別とセットになっているのでなかなか変えられないのである。
非正社員が大きく増えているのは、あたかも派遣労働の規制緩和のせいだという論調もあるが、これはまったく間違っている。派遣社員は非正社員の一割以下8%にすぎず、2001年から2009年の増加率でみても四分の一くらいの寄与度であり、実は増えているのは契約社員や嘱託である。もちろんパートタイマーも増えている。この契約社員や嘱託は直接雇用の有期契約だが、この中で年々増加しているのが定年退職後の高齢者である。今の定年退職をそのままにしておくとこの部分の非正社員は益々増加し、もったいない。その意味で日本的雇用慣行は優れたビジネスモデルではあるが、今の低成長、高齢化の時代には残念ながら相応しくない。新しい別の働き方に変える必要があるだろう。
日本的雇用慣行があってもいいが、他の働き方と対等な立場で選択できるものが必要である。しかし残念ながら今の政府の考え方は、日本的雇用慣行は優れた働き方なのでこれを保護する、悪い働き方である派遣等から守るという考え方である。しかし政府が守らなくてはいけないのは、長良川の鵜飼いや佐渡の朱鷺など政府が守らなければ絶滅してしまうものが対象で、日本的雇用慣行はそれなりに優れたビジネスモデルなので守る必要はない。優れているから守るというのはおせっかいで、優れているなら放置して競争に任せても生き残れるため、他の働き方と対等なかたちで競争にさらすのが本来の考え方である。
そう考えると今の派遣の問題、これはもうご承知だと思うが、最後に触れさせていただきたい。労働者派遣というのは不安定で賃金も低く悪い働き方だと、諸悪の根源のように言われている。ではなぜ派遣と正社員の賃金格差があるかというと、派遣労働者の年収のグラフを見ていただきたい。非正社員の比率が上がっているということだが、派遣労働者の賃金は正社員も含めた全労働者とパートタイムの中間くらいで、たしかに正社員よりは低い。しかしそれは正社員の年功制があることにより、大きな格差が生じているためで、若年者の間でさほど大きな格差はない。格差というならば、むしろ派遣社員の問題だけでなく正社員の問題を考えなくてはいけないが、一方で正社員の既得権は何が何でも守る、年功賃金も、かつて連合は雇用を守るためであれば見直してもいいと言った時期もあったが、今は不況下にあって定期昇給は絶対死守するとしている。定期昇給は年功賃金そのものなので、定期昇給を維持しておきながら、どのようにして同一労働・同一賃金が実現できるかというのは矛盾の塊であるが、正社員の働き方は一切見直さないという立場を貫いており、これでは派遣社員との格差、パートタイマーとの格差は広がる一方である。
そうした中で今派遣法の改正案が国会に出ている。そもそもここに大きな誤解があり、時期をみても小泉改革は2001年なのであり得ないのに、99年の労働者派遣法の大改正が小泉改革によって為されたと思われている。なぜ99年にILOの181号条約を批准して派遣の原則自由化をしたかというと、これは労働者のためである。ILO(国際労働機構)でそれまで人材ビジネスを厳しく規制していたが、失業を減らすためにはこういうものを禁止するのではなくて、人材ビジネスを認めて雇用を少しでも増やし、かつむしろ労働者を保護するという、規制緩和とセーフティーネットをセットにした考え方の条約が生まれて、それを日本も批准したのである。そのため、従来型のように原則規制・例外自由ではなくて、原則自由・例外規制に大転換したのである。これはまさに労働者の為にやったことである。それを今原則禁止にしようとしており、短期派遣の禁止や製造業の原則禁止、登録型派遣の原則禁止等、何でも禁止というかたちの法案が今できている。これはある意味労働者の保護に逆行しており、極端なことを言えばILO条約の違反になる。また、そういうかたちで当然失業は増えるだろうと予想されている。
このような派遣の規制で本当に正社員が増えるのかといったら、それはないというのが常識で、実は派遣社員自身が恐れていることである。これについては色々な調査があるが、代表的には朝日新聞が昨年11月に実施したものがある。派遣規制についてどうするか主要100社に対応を聞いたところ、正社員にするというのはごく一部であり、海外に移転する、契約や請負という他の非正社員に変えるという常識的な答えが出た。別途、スタッフサービスという派遣会社が中小企業に聞いた答えがあり、ほぼ同じであるが、中小企業なので海外に行くという選択肢の代わりに、既存の正社員を徹底的に使って長時間労働させて派遣社員の代わりにするという、中小企業らしい回答が得られた。大部分は契約社員で、どちらにしても今の派遣社員の仕事が減ることはあっても増えることはない。特に今自由意思で派遣社員を選んでいる人には甚だ迷惑な規制で、やむを得ずやっている人にとっても何の助けにもならない。このような調査は、本当は厚生労働省が自ら実施する必要がある。新しい規制を作る際はその効果を計測しなければならないと数年前から法律で義務付けられている。厚生省のホームページでこれを見たら、義務付けられているので実施はされていたが、ただそこに何が書いてあるかというと、このような規制の社会的影響はないものとみなす、と一行書いてあった。これではまったく法律の趣旨に合っていない。分からないからないものとみなす、しかし規制はやる、というのは無茶苦茶である。しかしそれがまかり通っているのである。
民主党が考えているのは実は派遣規制だけではない。派遣を規制すれば別の非正社員のかたちになるということは当然分かっており、それなら他の非正社員も規制しよう、全部正社員にしろという、冗談のようなことを本気で考えている。これは現に法案のかたちになっており、民主党がまだ野党だった2008年末の臨時国会にこのような法案が参議院で出されて、現に通っているのである。もちろん衆議院はまだ自民党が多数を占めていたので通らなかったのだが、いわば既成事実を作っている。それは労働契約法の改正というかたちで、一時的業務以外の有期雇用契約は原則禁止とするもので、つまり、臨時的な仕事であれば構わないが、ずっと続くような仕事には正社員を充てなければいけないという法律案で、ほとんど話題にもならなかった。現在スーパーのレジ打ちはパートタイマーを主体にやっているが、当然スーパーがあるかぎりレジ打ちの仕事はあるので、全部正社員でやらなくてはいけないということになる。マニフェストには入っていないが、民主党のインデックスにこの趣旨のことが書かれており、その意味で民主党が政権を取った今、民主党を縛るものになる。よって、派遣は規制されてもそれで終わるなら仕方がないと考えるのは甘く、日本的雇用慣行は良い働き方で、原則的に皆正社員にして非正社員全体を規制するという信じがたいことを考えて着々と実行している。あまり知られていないが、その一環としてこの派遣問題を考える必要があるかと思う。
大事なことは、正社員の働き方を変えていかなくてはならないということである。非正社員のセーフティーネットを充実すると同時に、正社員の雇用も見直していく必要がある。正社員も今の雇用保障が一方的な恩恵ではなく、大きな代償を払っているのである。特に今増加している共働き世帯では、頻繁な転勤や慢性的な長時間労働は大きな犠牲であり、厳格な雇用保障や年功賃金でなくても二人が安定的に働ける働き方を望んでいる人が多い。今その自由な働き方を求めたら派遣や非正規しかないのである。正社員のままでこのような弾力的な働き方に移るためには何が必要になるかというと、それは解雇規制の見直しである。
解雇規制の見直しと聞くとすぐ首切り自由にするのかと言われるが、そうではない。日本の解雇規制が厳しいと言われるのも半分真実で半分間違っている。大企業の解雇規制は厳しいが中小企業は解雇し放題である。今の解雇規制は判例のかたちでしか保護されておらず、雇用契約法には一応あるが、この契約法には、解雇は客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当でない場合は権利を濫用したものとして無効、という理念的で当たり前のことしか書いていない。何が客観的な理由でないか、何が社会通念上相当でないかということを法律の文言で明示しなければ解雇規制にならない。具体的にこれが違法かどうかはすべて裁判官の考え方一つで不確実性が高い。逆に中小企業の労働者は裁判に訴えられないので結果的に解雇手当だけで自由に解雇される。
よって、大事なのは、企業規模にかかわらず、客観的に合理的な解雇ルールを作ることで、その一つのポイントが金銭補償である。これは、希望退職を募った場合は当然退職金の割り増しという金銭補償をするので、それに準じたかたちで解雇する場合にもしかるべき金銭補償をするというルールを大企業中小企業を通じて行う。これは解雇規制の厳しいドイツでも採られている方法である。この金銭賠償が、労働契約法を作る際の最大のポイントだったが、結果的に労使の合意が得られず、判例法をそのままコピーしたようなものになってしまった。
大企業の労働組合は、組合員からストライキのために資金を集めるだけ集めて、実際にはストライキはしないので膨大な資金を持っており、法廷闘争は何年でも耐えられる。一方で中小企業はそのようなお金がないから解雇されたら泣き寝入りせざるを得ない。だから現状は、大企業の労働組合と中小企業の経営者にとって都合が良い仕組みであり、奇妙な利益の一致がある。だからなかなか実現しない。しかしこれは極めて不公平な仕組みである。このような解雇ができない大企業と解雇が自由な中小企業とのギャップを、実定法できちっと埋めて、裁判に訴えなくても、しかるべき判断ができるようにするべきである。
最後に、日本の労働市場を小沢一郎さんの言葉を借りれば普通の労働市場に変えていくということで、普通の労働市場とは同一労働同一賃金のことである。よく私が同一労働同一賃金と言うと、経団連から左翼みたいなことを言うなと怒られるが、別にこれは左翼の論理ではなく、経済学の原則である。市場が競争的であれば自然にそうなるわけで、今大企業と中小企業および職種の間で大きな格差があるのは、それだけ労働市場が規制されていて競争が働いていないからであり、その制約を取り除けば自然とそうなるはずである。
また、成果主義が企業の中で不可欠になっているが、成果主義を実現するためには何が同一労働かと、明確な基準を人事課が作らなくてはいけない。労働者から自分は差別されていると訴えられたらきちんと人事評価を出して、差別していない理由を言わなくてはならない。そのためにも同一労働同一賃金の原則は人事課にとってもいずれ必要になる。今すぐは無理だが、何が同一労働かを考えて決めて、それに近づけていくべきで、人事課の立証責任に任すというのが、普通の労働市場に向けて当然である。
また、金銭賠償による雇用調整の容認と、派遣を含む多様な働き方を評価し、派遣だからダメ、終身雇用だから良い、ではなくて、それぞれ企業と労働者が選べるような社会にしておく。これが同時に日本の成長力を高める鍵にもなり、今の不安定な雇用を改善する大きなカギにもなるのではないかと思う。いつになるかはわからないが、そういう方向になるように、しつこく、嫌われてもこのようなことを言い続けている。