数学は最善世界の夢を見るか?

最小作用の原理から最適化理論へ


タイトル 「数学は最善世界の夢を見るか?」
 最小作用の原理から最適化理論へ 
原題 Le meilleur des mondes possibles 英語版では(The Best of All Possible Worlds)
著者 イーヴァル・エクランド (Ivar Ekeland)
訳者 南條郁子
出版社 みすず書房
発売日 2009年12月
ページ数 301p

 著者は1944年パリ生まれ。1970年〜2002年までパリ第9大学の数学科の教授、陸軍士官学校などで教鞭をとる。著者の専門は幾何学、力学からゲーム理論、経済学まで幅が広い。一般読者向けの著作の質の高さには定評がある。

 本書は、もっとも合理的な解の解法とは何かをめぐる物語です。話の大きな流れは、物理学から出発し、哲学に立ち寄ってから数学に戻ってくる。それから生物学にうつり、経済学で終わります。この道筋は、著者の研究の個人的歩みと合致しています。著者は、数学から力学へ、そして経済学へと渡り歩いている。というのも著者自身がいうように、最適化の足跡を追い、分野とともに関心の対象が変わり、今では人間の行動を研究しているというわけです。
 私たちが生きているこの世界は、あり得たかも知れない世界の中で、もっとも好ましい世界、すなわち最善の世界かどうかという問いを追い詰めていきます。
 第1章は、ガリレオとともに始まります。
 第2、3章は、ライプニッツの哲学を検討しながら、最小作用の原理が生み出されるもととなった思想的背景を考察します。
 第4、5章では、現代の数学研究がどういうものかについて言及します。数学の苦手な人は読み飛ばしてもよいかも知れません。
 第6章は、いったいこの世界は可能な中で最善のものか、そうでないのかについて議論します。
 第7、8、9章では、他の分野に目を向け、生物学と経済学をたずねます。すなわち、
 第7章は、唯一著者が直接の専門知識を持たない章です。
 第8は、再び数学に戻ります。
 モーペルテュイ流の「最善世界」の思想が物理と生物の世界では失敗したことを見た後、著者は社会を組織する最適な方法について論じています。すなわち、
 第9章、経済学の概念や問題について論じています。
 第10章では、これから、我々はどういう道を進めばよいかいくつかの提案をします。

 17世紀の科学革命を推し進めたガリレオやライプニッツたちとっては、この世界は神によって創られており、自然という巨大な書物に書かれた神の意志を読み解くことにありました。そして、科学者たちの役割は神が創造を行うときに従ったルールを、人間が再発見することに他ならなかったわけです。神が創った現実世界が最善のものであるなら、それは自然の仕組みに刻印されているはずと考えたからです。

 さて、本書のメインテーマは、「論理だけで真偽を判定する数学が、なぜ物質世界の振る舞いを正しく記述できるのか」の疑問を徹底して追究したものです。
 ガリレオは振り子の等時性から時間を幾何学の言葉で書くことに成功し、デカルトは幾何学と代数学を結びつけて力学の問題を解く方法を案出しました。数学の威力が徐々に発揮されてきた時代です。
 18世紀中頃、ベルリンの科学アカデミーの院長であったモーペルテュイは素晴らしいアイデアを手中にします。数学を研究する中で、既知の物理法則をすべて引き出すことができる統一原理を発見したというのです。モーペルテュイによれば、可能な運動はどれもある量と結びついている。彼はこの量を「作用」と呼び、それに数学的な表現を与えましたが、彼の言い方に従えば、可能な運動の中で現実に起きるのはこの量を可能な限り小さくするものである。つまり、「最小作用の原理」と呼ばれるこの原理によれば、自然はあらゆる可能な運動の中から、作用を最小にする運動を選び取るというのです。
 彼の主張によれば、世界は合理的に創られており、それはとりもなおさず、世界が我々の理解の及ぶ範囲にあることを意味する。宇宙の決定に際して作用の節約が行われたという。そのことにモーペルテュイは神の叡智を見たわけです。
 科学は神の意思を物理的世界で知ろうとし、宗教はそれをモラルの「世界で知ろうとする。モーペルテュイは自分の答えによってこの2つが永遠に和解すると信じたわけです。
 しかし、作用量が最小化されるのではなくて停留化されるというハミルトンの発見で、モーペルテュイが見出した原理の限界が明らかになります。すなわち、現在の理系の大学生であれば、ポテンシャル・ミニマムで知られているように、必ずしも最小になるわけではなく、停留値(極大、極小あるいは変曲点)をとるということで、それは必ずしも現実世界の最適解ではないからです。

 現在では、最小作用の原理も足が地に着き、「ハミルトンの原理」あるいは「変分原理」として知られ、物理学や数学の分野で新たな発見を生む強力な道具となっています。
 本書は前述したように、生物学や経済学の分野まであさり歩きながら、数学が追い詰めようとする世界と現実世界との結びつきを多様に考察しており、示唆に富んでいます。
 生物学の分野でも、物理学と数学の手法と概念を取り入れて、生物学の新しい基礎を築こうとしたダーシー・トムソンや1990年代の初頭、ロス・アラモス国立研究所の物理学者のジェフリー ・ ウェストは、ダーシー ・ トムソンと同じく、彼も真の科学はすべて数学的表現に基づくべきだと考え生物学に取り組んでいます。
 本書の中で唯一著者が直接の専門知識を持たない章としながらも、7章にはとても面白い話が出てきます。南アフリカ西海岸に近いマルガス島海域では、イガイやバイガイを食べるロブスターと海藻が生物相の最上位を占めている。そこから4キロメートル離れたマーカス島海域では、環境はマルガス島とよく似ているのに、イガイとバイガイが繁殖し、ロブスターと海藻はほとんど見当たらない。地元の漁師によると、1970年頃までは、どちらの島にも同じくらいロブスターがいたという。なぜ、ロブスターは、豊富な餌があるマーカス島に戻らないのだろうか。その原因を探るため、2人の研究者が千匹のロブスターをマルガス島からマーカス島へ移す実験を行った。すると驚いたことに、バイガイが自分よりずっと大きいロブスターに群がり、1週間で1匹残らず食べてしまったのである。この例から判ることは、個々の種と環境全体の間にはフィードバック・ループがあるということだ。確かに環境は個々の種に働きかけ、その行動と進化を決定するが、その一方で、環境とはその生態系内でともに生きる全ての種の集合に他ならないとも言える。どの種がどの種を食べるかという基本的な関係でさえ環境によって異なる。
 このことは、適応度とは相対的なものであり、生存競争を生き延びたからといって、全域的な最適者になるわけではないということだ。マルガス島とマーカス島は、同一の地質的・地理的条件に対して生物界が出した2通りの回答だというのです。著者は、この後ダーウィンの話へと繋いでいきます。

 本書を読むと、ルネッサンスを境にして、神と人間の関係が変化してきたことが判ります。自然科学は神とともに出発し、神に別れを告げることによって発展してきました。しかし著者の考えを追いかけていると、現代の「地域的な戦争」や「環境問題」、「遺伝子技術の問題」など人類がかって経験したことのない状況を考えるとき、我々は服従でも離反でもない神との新しい関係に向けて歩き始めており、神を完全に排除できないのではないかという疑問が湧いてきます。
 しかし、著者の理性支持は単に頭の良い人の理性礼賛ではなく、何があっても理性の側につく、失敗があってもくじけずにあくまでも理性の側につく、という頑ななまでの決意、情熱に支えられた「合理主義」です。
 著者は、「合理的精神と科学の方法論こそが最善である」という強い意思表明を示すことで本書を閉じています。

 本書を読み進めていくと、著者は、より上位の学問を志している若者たちに語りかけているようにも思えます。「理学、工学それに今や生物学の世界でも、きちんとした議論をするには数学は必須だよ。数学は言語だから、スラスラ出来ないと文字通り話にならないよ」と語りかけているようです。

2010.5.16