百万年の瑠璃の鳥  2011年

 故郷に鉄人立つ


 4月15日(金曜日) 川辺の町の物語

 二年間にわたり連載してきた月刊PHPの「川辺の町の物語」が、
 来月発売号をもってお開きとなります。
 しかもヨヨヨッと驚く展開で。(自画自賛)

 そして、これまでの連載の寄せ集めとはまったく違った形で、
 単行本として発売されます。
 いやー、時間がかかった。
 昨年の十月から始めて、句点を打ったのは今日。
 川辺の町の地図を作ったり、時間軸でそれぞれのドラマを絡ませてみたりと、
 思いきり複雑なパズルを組んでからすべて書き直した次第。

 単行本のタイトルも含め、発売時期など今詳細はわかりませんが、
 ゲラ原稿のチェックを済ませたものを今日未明、
 宅配便で出版社に送りました。

 ついに作家の手を放れた。
 あとは、この本の力、運命のままに羽撃いていくしかない。

 難しい時代だからこそ読んで欲しい物語がいっぱい。
 皆さんの手に、ソフトランディングするようにと祈ります。

 あああ・・・印税も欲しい!




 4月14日(木曜日) 第二報!

 昨日、河瀬直美監督からまず一報をいただいた。
 声が午前十時の女子高生のように弾んでいた。
 そして今日、カンヌから世界に向けて発表された。

 「朱花(はねず)の月」、
 今年度のカンヌ国際映画祭の正式招待作品に選ばれました。
 コンペ部門に堂々の登場です。

 「あなたもレッドカーペットの上を歩くのよ」と、
 河瀬さんにはおっしゃっていただきましたが、
 さあ、どうする。

 監督と主演の二人は当然カンヌ行き決定!
 行ってらっしゃい!

 問題は、三人目のボクが行ってもいいのかどうかということだが・・・。

 大和三山の愛憎の物語、
 そのうちのひとつ、耳成山を演じた身としては、やはり行くべきですよね。
 山が三つないと物語にならないわけだから、カンヌでも。
 しかし、タキシードも持ってないし。

 いや、行くべきだ。
 取材でもなんでもなく、本当にその・・・カンヌに行けるわけだから。
 ボクのあのシーンを、世界中から集まった映画関係者四千人と見守るわけだし。
 いや、やっぱりな・・・主演の二人だけでいいんじゃないか。
 ボクなんか行っても。

 と、揺れ動きつつ・・・。
 
 タキシード、カンヌで借りられるのか?

 沈むようなことばかりがあった日々。
 久々に、明るい声を聞きました。
 河瀬さんやスタッフの皆さん、本当に良かったですね。
 


   

 4月13日(水曜日) 第一報!

 河瀬直美監督!
 本当ですか!

 明日、発表可能!




 4月12日(火曜日) 色覚異常

 何度も書いてきたことだけど、
 ボクは色覚異常で、緑と赤が凄く薄くなった時に区別がつかなくなるらしい。
 実生活でそれで困ったことは一度もなく、
 ましてや、美術はいつも得意だった。好きだから。

 でも、大学の就職課で企業の応募要項を見て腰が抜けた。
 出版社、テレビ局、映画会社、広告代理店、ありとあらゆるクイリエイティブ系の会社が、
 色覚異常者は受験不可だったからだ。

 不利になります、というのなら納得できる。
 不可、とはどういうことか?

 医師の国家試験だって色覚異常は問題とされない時代に、
 どういうわけか証券会社までが「不可」と主張していた。

 嘘だと思って方々確認してみたが、やはりボクにはどこも受験資格がないのだった。
 特に対応はある出版社がひどく、
 なぜこんなことを言われなければいけないのかと、悔しくて泣いた。
 
 どうして就職せずに、早稲田アカデミーの先生をやっていたの?
 とよく訊かれたが、
 そういう事情でどうにもならなかったのね。

 早稲田アカデミーは正社員として入ったけれど、
 そして少年少女たちととんでもなく楽しい一年を過ごしたけれど、
 やはりボクはその世界の人間ではなかったので、
 よそにいって、高校生に勉強教えたりしながら・・・バーテンもやり、
 一人で生きていく方法を考えなければならなかった。

 今、高見順を詩のクラスでやっていて、
 本当にこの詩人の作品に触れていると、
 「欠損とは力である」と思い知らされる。

 何かが足りない、はっきりとした欠点がある、
 というのは見方を変えると、
 何かが突出している、はっきりとした長所がある、
 ということになるのだ。

 ボクは就職試験不可の人間だったから、
 「叫ぶ詩人の会」や「金髪先生」「アルルカン洋菓子店」、
 そして、世界の詩人とともに縦横無尽に旅をするという人間になった。
 もちろん、そんなふうだから生活は苦しいが、
 社会から弾かれたようなあの感覚から、今に至る道が始まったのだ。

 何かが足りなくて悩んでいる人は、
 そのことでそれ以上苦しまない方がいいよ。
 それ、絶対にパワーの源だから。

 今月24日、祖師ケ谷大蔵のシャトルリューズカフェで行う義援金ライブで、
 またもや圧倒的抽象の浪漫を咲かせてくれるMARIO君が、
 高見順の素敵な二行詩をプレゼントしてくれました。

 「傷ついたのは、生きたからだ 」

 


 4月11日(月曜日) 絶版からの再生(3)

 ボクは、言葉を記して、綴って、詩や物語の森を育んで、
 それを声で再現するのが仕事。
 だからネットを駆使してその音声をダウンロードできるようにした場合は、
 おそらく・・・未来的には、有料サイトの方向で構築していくと思います。
 
 プロなんだという意識。
 これで食っているんだという意地。
 そういうものがないところには、
 凄みは生まれないから。

 これまでけっこう、
 ただでやって下さい、といったリクエストに応えてきて、
 (義援金ライブのようなものはまったく別です。これは自らの意志)
 どこかそのあたりは「はいはい」と応じる自分がいて、
 でも結局それが、この種の人間の首を絞めてきた。

 うどん屋さんに入って、
 「なかなかいいうどんだから、みんなのためにただで作ってやって」
 とは言わないよね。
 だけど、こと朗読となるとそれが言えてしまう。
 そして、本人は食べられないから、
 無理なんだとある日諦め、 やめてしまうということになる。

 その流れ、一回ここで食い止めたいと思います。

 もちろん、そのためにはボクの技術やエネルギーがもっともっと桁外れなところにあるべきだし、
 この値段じゃ安いだろう、明川くん可哀想、とお客さんが思うぐらいの質感がなければいけないし、
 もうひとつあって、
 皆さんが聴きたいと思う作品、
 そういうののリクエストもどんどんやっていくべきだと思う。

 ただ、ボクは課金サイトについて何も知りません。
 一曲ダウンロードで100円みたいな、
 i-tune storeみたいなことを、
 声の文藝でやろうと思っているわけですが、
 そのシステムを知っている人と組まなければいけないし、
 これは言ってみれば、音声のネット出版社を立ち上げるような行為なので、
 まだまだ時間はかかると思います。

 でも、絶対やる。

 あなたが寝入る時、
 星の物語を、キリマンジャロの風の唄を、
 そばで読んであげる。
 あるいはシベリア鉄道の話をさ。

 そういう日を今年中に迎えたい。
 なので、読んで欲しいのはこれだ!とか、
 あるいはこういう世界観の朗読をやって!とか、
 メール欄を使って、どんどんリクエストして下さい。


 

 
 
 

 


 4月10日(日曜日) 絶版からの再生(2)

 朗読の前に書き直しが必要、
 あるいは補足的加筆が必要、というのは・・・
 当時と今の感覚のギャップをどう埋めていくのかという問題以外に、
 具体的事実として迫ってくるものがある。

 たとえば、「食べる〜7通の手紙」で「塩」というタイトルで書いたポル・ポトの件。
 200万とも300万ともいわれるカンボジア同国人への虐殺を招いた張本人だが、
 ボクはこの「塩」の中で、彼はジャングルで自殺をしたはずだと書いた。
 これだけのことをしておいて、
 生きていけるはずがないのだからと。

 だが、実際には彼はジャングルの中で隠遁に徹していたわけで、
 生きていきなり現れたのである。
 
 こういう事実誤認のまま書いてしまった文章をどうするか?
 新聞記事ではないのだから、そのまま読んで今の気持ちを補足するというのが手かと思うし、
 あるいは今の視点からポル・ポトや全体主義を見直すというやり方もあると思うのだが、
 そういうことを考えるのもひとつの充実には違いなく、
 そう売れたわけではなかったが、
 本を書いてきて良かった、声の仕事をしてきて良かった、と
 今ようやく思えている。

 ボクの中で、双方の技術と感性が一つに結合し、
 新しい表現として生まれ変わろうとしているのだ。
 それはもちろん、コンピュータやネットを駆使しての場でもある。



 4月9日(土曜日) 絶版からの再生(1)

 再生。蘇生。復活。
 この種の言葉に、ほのかに惹かれる時代となった。
 東北地方はもちろんのこと、
 敢えて言わずとも、個々が「生きる」ということを根本から見直す時、
 結果的にはそこに、ある種の再生が起き得るだろう。

 たとえばそれは、十代の頃に抱いていた感性との邂逅かもしれないし、
 これまでお世話になった人々への感謝、
 あるいはかつての希望をもう一度取り直すことかもしれない。

 ボクの場合はそこに一つ、絶版本、絶版CDというのがある。
 それぞれ想念と時間をかけて取り組んできたものだが、
 出版社やメーカーから、はい、ここまでですよと、引導を渡されてしまった作品群である。

 世から消えてしまうことに対して、
 納得できたものと、とうていそういう潔さには達し得なかったものの双方がある。

 で、これをそのままもう一度世の中へ、と願ったところでそれは無理があるし、意味がない。
 なにか魔法の粉をかけて、違う輝きを放つ作品としたところで、
 再生や復活とする方法はないか。

 考えていたところ、気付いたことがあって、
 それはつまりボクの「朗読の力」である。
 これまで絶版になった書籍を、
 朗読者ドリアン助川の力で、声の文藝として復活させる。
 (若干の書き直しも含め)

 では、それをどうやって皆さんに届けるのか?
 そのあたりは今後また説明させて下さい。

 いずれにしろ、
 過去へのタイムトラベルを試みつつ、
 同時に未来を創成していく方法ということです。


 


 4月8日(金曜日) 普通の旅

 2000年に行われた福島博覧会「うつくしまふくしま」で、
 メーン会場で流れる曲を作詞した。(作曲 久石譲  歌唱 岩崎宏美)

 少し外国で暮らした時期もあったけれど、
 基本的に福島という場所が好きで、
 何度も旅をしている。

 郡山を過ぎたあたりから見えてくる「日本の正しい田舎」。
 夏の光はあのあたりが一番澄んでいるように感じられた。
 (すぐそばにあれだけの原発が並んでいるとも知らずに)

 食べ物だって、福島のものはみなうまい。
 小魚のなかでは、いわき沖のメヒカリが世界で一番うまいと思っていた。
 (もう漁業は当分できないだろうな)

 立入禁止区域に入ろうとは思わないが、
 福島市内や猪苗代湖や会津など、
 あのあたりにはおそらく今後も足を運ぶだろうと思う。
 普通の旅をして、普通にものを食べて。
 それ以外に何か跳躍力のあることを企てるべきなのかもしれないが、
 無理な背伸びをするより、
 「普通に福島を歩いてきました。福島名物の円盤餃子でビールも呑んできました」と
 言える方がボクはいい。

 プラハの革命が起きてからしばらく、
 「ビールを呑みにプラハに行くのだ」と言ったら、
 新宿の酒場で激昂した人がいた。
 「多くの犠牲者が出た場所になんのつもりだ!」とその人は言った。
 (1990の革命では、チェコではほとんど犠牲者は出ていないのだが)
 
 ボクはこの人は、相手の気持ちを重んじているようで、
 実はなにもわかっていない人だと思った。
 市民が再生したチェコに、世界中から遊びにきてもらいたいと思っていたのはチェコ人自身だ。

 震災後の神戸もそうだった。
 悲惨だったから、可哀想だから、不謹慎だから旅なんてできない、
 という一種の思いやりの果て、
 観光地神戸はそれでいよいよ干上がることになった。
 地震を生き抜いても、自殺する人が少なくなかった。
 ボクの高校の同級生も自ら命を断った。

 これはわがままな話だが、
 禁酒をしている時、
 いっしょにいる人には気兼ねなく呑んでもらいたいと思う。
 「いや、お前が呑まないなら」と襟を正されると、
 自分は罪なことをしていると思い、やはり来るのではなかったと思ってしまう。

 今年は西日本へ家族旅行を、と政府は余計なことを言った。
 老都知事も各種イベントの自粛を強制的に課している。
 思いやりのつもりで。

 その結果、
 一生懸命に立ち上がろうとしている人が、
 なにもかも諦めてしまうかもしれない。

 もともとの不況に加え、この風評被害。
 東北が本当に干上がってしまう。
 普通の旅を、ぜひ今年も。


 
 
 

 4月7日(木曜日) 試写会

 この秋公開される河瀬直美監督作品「朱花の月」。
 今日、都内の撮影所で試写会があった。

 ボクは脇役ですが、
 そこそこ大事な役回りでもあります。
 ワンシーンですが、
 かなり身体で勝負している部分もあります。

 これまでの河瀬作品同様、
 決して「ハッピー!」とか言える質感ではありませんが、
 心の奥の、黒とも赤とも判別できない部分にタッチして生還してきたような気分にはなれます。

 滅多にない体験。
 河瀬作品としても新しい方向性を打ち出しているのでは。
 そして人々はどんな反応を示すことになるのか?
 恐いような、楽しみのような。

 この秋です。
 お時間がある方はぜひご覧あれ。

 



 4月6日(水曜日) 間接的暗闇

 最近はどこでも節電のために照明を落としていて、
 街の中が暗い。
 川崎のカルチャーセンター。
 ここから武蔵中原までの道のりなどはほとんど真っ暗で、
 覚えている限り、
 昭和四十年代以降これほどまでに灯りの少ない街というのは経験がない。

 ヨーロッパの夜は平均的に暗い。
 ごく一部の繁華街を除いて、
 ネオンなどはいやがるし、明る過ぎることをまず拒む。
 部屋の中も間接照明がメインで、
 蛍光灯で煌煌と照らすという文化ではない。

 だからベルリンにしろプラハにしろ、
 あるいはローマにしろナポリにしろ、
 こんなに暗くて目が悪くならないのかと思う程、
 夜にしめる暗闇の割合は大きい。

 そういう点では、
 今、日本の都市部で起きていることはまったくの逆で、
 その気になればどこだって以前の照明に戻れる。
 コンビニの灯りだっていざという時は元に戻せるはずで、
 いわば恣意的な「間接的暗闇」を演出しているのが
 2011年の東日本の気分というものなのだろう。

 原点に災害があるので
 これを歓迎すべきことと言うわけにはいかないのだが、
 明るすぎない夜というのは何だかいいような気もする。

 英国の自殺率がもっとも高くなるのが
 長く暗い冬が終わりを告げ、
 光が一日を支配しだす四月というのはうなずける話だ。

 太陽は時に残酷だ。
 闇の方が痛みある人間には安穏とした環境であることは理解できる。
 多少わけありの男女も優しくくるんでくれたりするしね。
 


 

 

 4月5日(火曜日) 寂しいから

 「詩と朗読」クラス。
 今月の師匠は高見順。

 欠損とは力である、
 という創作エネルギーを語るに、
 彼ほど適した人はいない。

 なにもかも満ち足りた人間がいたとしたら、
 その人は苦悶しながら文字を書き並べる必要はない。
 その力もないはずだし。

 もててもてて男なんて飽きた、
 という女性が恋愛小説を書くことに妄執するというのも殆どあり得ない。
 あるとすれば、
 豊富なる体験と、それでも満足できない人生の穴を見据えた時の寂しさ。
 その両者を味わった者に限られる。

 淋しいから、
 欠けているから、
 永遠にふさがらない穴があるから、
 ボクらは何らかの力を持てる。

 四季折々の花があったり、
 空がこんなにも澄んで青かったり、
 時に荒れ狂う自然があるのは、
 この星もきっと足りないものを追い求めているからだ。





 4月4日(月曜日) 

 深夜ラジオのパーソナリティを5年。
 ネットの転職相談を7年近く。(「俺が聞いちゃる」)
 朝日新聞の人生相談欄を11年。

 これだけやってきて、自分もまた悩み多き人間である。

 だけど・・・今回の災害で思うのです。
 苦悩を持てる、というのは生きている間のなにかの煌めきのように、
 植物で言えば花びらのように、
 (苦悩があるなんて贅沢なのだ、とは言わないが)
 生きている者の醍醐味の一つではないかと。

 苦悩は解決しなければいけない、という思いが誰にでも漠然とある。
 でも、本当は生命ある限り、
 苦悩もまた色彩の異なる花の一つとして咲き続けるのではないか。

 苦悩を滅する。
 仏陀はこれを目指した。
 しかし、それはある意味で生きている人間から脱するという、
 異次元的存在になることである。

 佛とは、人に非ずという意味の一文字。

 もちろん、そのイマジネーションも生きているから可能なのであって、
 これは般若心経などをじっくり読んでいくと、
 決して苦悩を滅しきれ、と説いているわけではないとわかってくる。

 佛は、逆説に逆説を重ねていって、
 この世の美を最後に見せつける構造になっている。
 その入り口は苦悩なのだ。

 だから、
 苦悩から逃れようともがく必要はない。
 苦悩もまた、
 ただ一度きりの人生のかけがえのない友なのだ。

 
 
 

 


 4月3 日(日曜日) 自粛

 津波の猛威ばかりを見せられてきて、
 犠牲者や行方不明者の数字も大き過ぎて、
 とにかく圧倒されるばかりの日々が続く中、
 ここにきて、
 個人個人の悲劇というものがメディアであぶり出されるようになってきた。

 痛みの共感というものがあるのだとすれば、
 それはもうボディブローのように効いていたはずなのに、
 個々の体験、肉親を救えなかった人たちの具体的な涙や慟哭は、
 もっと強力に、痕跡を残すような一撃となっている。

 つまり、あの地震の直後よりも、
 今の方が、
 被災しなかった我々も淀みの深さが増しているのではないか。

 周囲の目を気にしての意味のない自粛などすべきではないと思うが、
 実際のところ、
 心の底から明るく振る舞えるか、
 歌う気持ちになれるかというと、
 今はどこか無理がある。

 自粛すべきかどうかの二元論的な発想ではなく、
 みんなが自然の心持ちで振る舞えることをやればいいのではないか。
 あれだけのことが起きていて、
 それだけの涙があることを知りながら、
 無理に笑いを提供しようとすれば、それはやはり笑えない。

 逆に言えば、花見も、夏の花火大会もシャットアウトしてしまうのではなく、
 その時の気持ちで自然にやれば、
 それは結果として鎮魂をも含めたイベントになると思うのだが。

 まあ、もちろんこういうことは、
 今だけの問題ではなくて、
 スタイルとしての個々の課題になってくる。
 YESかNOではないところに、もっと大事な答えがあるような気がする。


 


 4月2日(土曜日) 

 犬。
 屋根の上で漂流。
 三週間。

 どうやって耐えていたのだろう。
 夜、波間で何を見ていたのか。

 海保の人に毛布で抱かれた時、
 安心したのかおしっこを漏らしたそうだ。

 一年間に日本で処分される犬猫、
 三十万頭。

 みんなあの犬のように、
 桁外れの忍耐と希望を秘めた命なのに。

 犬。
 犬。
 犬。

 犬の方が偉い。
 少なくとも俺より偉い。

 猫。
 猫。
 猫。

 猫の方が俺より偉いかどうかは、
 まだわからない。

 

 


 4月1日(金曜日) 不具

 昨年の半分を費やしてダメだった長編小説の書き直しと、
 初夏には出る予定の単行本のゲラ直しを平行して進めている。
 そしてその合間に、
 ボクは酒を呑んだり、詩のようなものを書いたり、
 旅のことを夢想したり。

 うちの前の桜の木が、
 今年、上半分を切断されてしまった。
 なんとも哀れな姿である。
 でも、わずかばかり残った枝でつぼみは膨らんでいる。

 変な話だが、
 完全なる姿の他の木々より、濃厚な命の張り出しを覚えるのは何故なのだろう。

 耳を失った音楽家。
 断筆後に砂漠を歩む詩人。
 観客席の元野球選手。
 不能のドンファン。
 乳房なきソープ嬢。

 書ける、あるいは書きたいとしたらそうした人たちの方で、
 象徴となるまでの力の純化は、
 常に失われてからやってくるのか。

 ならば、老いとは命に近付くことだと、
 逆説的な信念も持てそうだ。

 切り倒され、
 それでも生きている桜に、
 この国を感じることもある。
 

 


 3月31 日(木曜日) 匿名

 なんと長い三月であったことだろう。
 十一日の震災以降、
 個人的な仕事はどこかに行ってしまい、
 情報に翻弄される一人として、
 ただただ圧倒され、腕を組んでいた。

 しかし、それでもやはり、
 命というものを考えた。
 言葉についても考えた。
 残された時間も考えた。

 まだ俺は、やるべき仕事をやっていないのではないか。
 そういう結論に達した。

 電柱を作った者の名を、俺たちは知らない。
 うどんを作った者の名を、俺たちは知らない。
 風邪薬を作った者の名を、俺たちは知らない。

 名前とともにあるような仕事など、たかが知れている。
 偉大なる匿名。
 そうした仕事の数々が底で支えてくれて、
 俺たちは生きている。

 良い意味で匿名に徹しなさい。
 「おもてなしはこれからだ!」

 


 3月30日(水曜日) 蒼氓

 かりそめの存在に過ぎぬとも、
 人から人へと受け渡されていくものがあって、
 街は成り立っている。
 たった一代で築けるものがあるとすれば、
 せいぜいが木枝を寄せ集めた小屋程度であろう。

 なにもかもが、先代や、あるいは誰か他人によってもたらされたもの。
 その集大成として街がある。
 人の暮らして行ける空間と時間になる。

 国民総生産が日本の半分程度のイタリアに行って、
 その荘厳な街の風景、雰囲気に圧倒されるのは、
 贅沢がここにある、と思えるのは、
 受け継ぐということを本能的にイタリア人がやってのけているからだ。

 数百年たったアパートにいまだ若い夫婦が住んだりしていますから。

 新奇なものに心惹かれるのは無理もないが、
 同時に、
 継がれてきたものの中に人間の息吹きを感じられなければ、
 我々は文化としての幹の部分を失うのではないか。

 といって、
 封建的な考えや、代々の権力者を奉れということではない。
 大多数の人の心は、
 なにをもって「生きて良かった」という平安に達したのか?
 という視点を、今この時の感性だけではなく、
 時の流れの中で考えることである。

 それとも、大戦以前の日本にはそういう個の問い掛けすらなかったか?

 わかりませんが、古典に戻りつつ、
 なおかつ国を出ていくことで、今の我々に受け継ぐものを残しているような表現者たち、
 レオナルド藤田から石川達三まで、
 心的放浪の友にしてみようと思う。

 石川達三の「蒼氓」。
 二十年ほど前に読んだのを今もう一度再読した。
 胸のなかで、数万の蜜蜂たちが翅を震わせ始めた。
 やばい。


 


 3月29日(火曜日) 未知

 なんとなく歩いていけるような、
 漠然とした空気感の中にいて、
 しかし来年以降の自分というものがまったく見えず、
 ひょっとしたら俺はもう消えてしまうのではないか、
 そんなことを考えながら起きる朝もあった。

 こうして大震災が起き、
 原発事故に巻き込まれ、
 本当に明日のことがわからなくなるとは思わずに、
 別の意味で明日のことが見えなくなっていたのだった。

 しかしどのみち我々は未知の領域に入った。
 明日どうなるか、本当にわからないという意味での未知である。

 未知の地平。
 半ば闇であり、半ば光である。

 そこはしかし、アルチュール・ランボーのような青年を迎え入れられる唯一の場でもある。
 
 参考までに、ランボーの書簡を!

「見者(ヴォワイアン)の手紙」(抜粋)

 詩人たらんとする者の第一歩は、全面的に自分自身を知るにある。彼は自らの霊魂をたずね、調べ、試み、知らなければならない。一度これを知るや、つぎにこれを錬磨しなければならない。それは一見容易のように思われる。どんな頭脳にも自然の発育はあるのだし、多くのエゴイストどもまでがみずから詩人なりと僭称していたり、また多くの者どもが自分らの知的成育を自力に帰しているほどなので。・・・僕が言うのは、悪魔的な霊魂を作り上げることなのだ。あきれて驚く凡俗者流は尻目にかけて! たとえば、自分の顔面に多数のイボを移植して、これをせっせと培養している一人の人間を君は想像するがよろしい。僕は言うのだ。見者たれと。自らを見者となせと。

 詩人が見者となるがためには、自己への一切の官能の、長期間の、深刻な、そして理論的な錯乱によらなければならない。あらゆる種類の恋愛を、苦悩を、狂気を、彼は自らのうちに探求し、自らのうちに一切の毒を味わいつくして、その精華のみを保有しなければならない。深い信念と超人的努力とをもって初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、初めて彼はあらゆる人間中の偉大な病人に、偉大な罪人に、偉大な呪われ人に、そして偉大な知者になる! なぜなら、彼は未知に達するからだ。すでに自らの霊魂の錬磨を完了したこととて、誰よりも豊富な存在になっているからだ。すなわち彼は、未知に達したわけだ。だから万が一、彼が狂うて、自分が見てきた幻影の認識を喪失するにいたるとしても、すくなくも彼はすでにすでに一度それを見たのだ! 彼が見たおびただしい前代未聞の事物のうちに没し去って、彼が一身を終わったとしても嘆くにはあたらない。なぜかというに、他の厭うべき努力者どもがつづいて現れるはずだから。彼らが先に彼が没し去ったその地平線のあたりから踏み出して、詩を進めるから!

「地獄の季節」より   道徳とは脳髄の衰弱だ。

 


 3月28日(月曜日) 三つの袋

 幾つかの問い合わせがあった。
 福島第一原発の20キロ圏内にお住まいの方から、
 (でも、実は第二原発のそば)
 しばらく行ってもいいかしら、という相談も。
 今日の朝日新聞にも「よかったらアトリエにいらっしゃい」と書いた記事が載ったので、
 連絡けっこうあるかな? と思っていたが、
 まあ、数えるほど。
 (応援メッセージはたくさんいただきました。ありがとうございます)

 だが、風呂がないことや、簡易ベッドであることなど、
 正確にアトリエ内部諸状況をお伝えするにつけ、
 みなさん、考え込まれる。

 銭湯、あるんだけどな。歩くけど。

 結局、第二原発の人は親戚を頼れることがわかり、
 そちらへ行かれてしまったのだが、
 そうなってみると、なんだかすこし寂しい気もして、
 これはいったい何なのだろうと思う。

 無理して頑張っているというより、
 知らない人がやってきたら、
 それはそれで充実した時間を作ろうと
 「ハッスル」している自分がいた。

 いや、最初はどこかやせ我慢みたいなところもあった。
 でも実際に避難している人と電話で話し、
 言葉を交わし合うと、
 ゴールデン街で前から知り合いだった人のような気分になる。

 人間ってみんな、そういうことだったりして。
 知らない仲だからこそ、警戒もするし、
 気合いの入った姿勢で防備したりする。

 電車の中で出会う人も、仲間とは感じないよね。
 すっかり他人だもの。
 でも、なにかの拍子で居酒屋で並び合えば、
 意外とその瞬間からOKだったりする。

 あるtvディレクターの方が、
 避難者がやってきても困らないようにと、
 寝袋を三つもってきてくださった。

 避難者、まったく現れない場合は寝袋が可哀想なことになりますので、
 なにか使用法を考えます。

 しかしこのディレクターも昨年までは知らない人だった。
 街ですれ違えばまったくの他人だったはずだ。
 言葉を交わすことは大事だな。



 

 

 3月27日(日曜日) 義援金ライブ

 東日本大地震への義援金ライブ、
 以下の日程で決まりましたので、お伝えします。

 なお、このライブはアルルカン洋菓子店ではなく、
 朗読者ドリアン助川に戻り、
 個人でのパフォーマンスとなります。

 チャージは各回2000円共通。
 全額を義援金として日本赤十字に振り込みます。

 (しかし赤十字! 義援金の配分は一年後なんて悠長なこと言ってないで、
 多少のばらつきが出てもいいから速攻でやっていってくれよ! 頼むぜ)

 

(東日本大震災義援金ライブ)

    『東北の神話、民話、詩とともに』
    

    @小田急祖師谷大蔵 Chartreuse Cafe  03-6411-8663
     http://www.chartreusecafe.com/

    第1回 4月24日(日曜日) 午後7時より
    第2回 5月29日(日曜日) 午後7時より
    第3回 6月26日(日曜日) 午後7時より

    演目はそれぞれ違います。
    東北ゆかりの物語を、
    アート感覚いっぱいでお伝えできたらと思っています。

 



 3月26日(土曜日) 無能

 別にボクは民主党を支持しているわけではないのですが、
 今回の原発事故に関し、
 「管無能政権のせいで〜」という枕詞がまかりとおっているのが、
 どうも腑に落ちない。

 昨日の欄でも記したが、
 福島第一は40歳である。
 「こんな原発を!」と国民が怒るなら、
 あの不安定な原発を許してきた、
 今問題になっていることの大半を作り出してきた
 当時の与党にもその憤慨は向けられるべきではないのか。

 新聞やネットの論調が、
 すべて悪いのは民主党であり菅直人であると、
 そうした掃除の仕方で
 身ぎれいにいようとするのが、
 圧倒的に理解できない。

 もちろん、
 民主党にも問題が多々ありで、
 「今どこでなにやってんだよ、小沢」とか、
  (まじで腹立つな、これ)
 「頼むから鳩山さんもう喋らないで」とか、
 普通の人間感情として出現するものはある。

 しかし、ならば「管が無能だから」で済ませようとしている人たち。
 その人たちならこの事態をうまくまとめられるのか?
 救援できるのか?
 
 与党の体たらくを批判するのはたしかにマスコミの仕事だ。
 でも、批判なのか、ただスケープゴートを作っているだけなのか、
 その判断は客観的に持ち続けて欲しい。

 しかし・・・管さんの次、
 誰が引き受けるのだろう。
 恐ろしいほどの問題の量。圧迫。
 誰が就いても「無能」呼ばわりの国民。
 道は険し過ぎる。

 


 3月25日(金曜日) ゼネレーター

 だんだんと動画や写真が人目に触れるようになり、
 どれだけの規模の災害だったのかということが
 当初の津波映像の凄さすら越えて伝わってくる。
 慣れる、ということがない。

 一番波高があったとされる女川。
 ここは被災した時の映像がない。
 でもそれは今の現場の、
 標高20メートルの高台ですら車がつぶれている映像を見ることで
 理由がわかる。

 映像が残っていたり、
 伝えられる何かがあるのは、
 生還者がいたからだ。
 女川は今、言葉を失っている。

 
 福島の原発は、
 今日で40年の稼動? となるそうだ。

 40年。
 やはりひとつの時代の終焉をボクらは見ているのだろう。
 では、不鮮明なデータに冷や汗をかきながらも、
 現実に毒を撒き散らし始めた原発を前に、
 ボクらはどんな言葉を残すべきだろうか。

 原発反対というのは容易い。
 減らしていき、無くしていく、という方向の中にあるのは間違いない。
 でも、火力に頼り出せば、
 人々はまた空気の汚染を口にし出すだろう。

 ものごとが変わっていく時は、
 理屈や理想ではなく、
 それに代わる何かが現れた時だ。

 ワープロの文字には愛がないと言っていた人たちが今、
 パソコンで自由にメールをやり取りする中で、
 「ワープロは・・・」などと言うことはない。

 原発反対の人たちも電力を使っている以上、
 急いで知恵を集めるべきはまず、
 いかにして毒を閉じ込めたまま廃炉にしていくのか、
 その現実的な方法と、
 次世代の発電である。
 
 もちろん、電力を使わない国民に戻る、
 という理念上の選択肢はある。
 あるが・・・一億三千万人がその方向で冬を越そうと思えば、
 我が国は山林を半年で失う。

 潮力発電しかないと思うのだけれど。
 どんなものでしょう。

 どうよ。
 黒潮発電。
 
 

 


 3月24日(木曜日) 静寂

 地震が起きた3月11日、
 ボクは飯田橋のホテルで行われる高見順賞の授賞式に参加する予定だった。
 受賞はキム・シジョンさんである。
 招待状をいただいたのだ。

 キム・シジョンさんはいつだかの週刊ブックレビューで、
 ボクが一押した詩人である。
 その時に紹介させていただいた詩集「失くした季節」が受賞作となった。

 そういう縁もあり、
 またシジョンさんからじきじきにお便りもいただいたので、
 なにがなんでも授賞式には駆けつけるつもりだった。
 だが、あの地震ではどうしようもない。
 すべての交通手段がストップし、都心に近付く方法がなかった。

 キム・シジョンさんは在日詩人である。
 もうお年は八十を過ぎていらっしゃる。
 ボクは詩のようなものを書く人間として、
 この人を敬っている。

 在日というと・・・
 関西の育ちゆえ、そうした知人は多いし、
 また基本的に属性や肩書きを嫌うたちなので、
 誰がナニナニ人だからといって区別することはボクの場合、ない。

 それぞれの環境で、それぞれが生きてきたという事実があるだけである。

 よく、なんで中国や韓国のことを好いているような文を書くのか?
 と問われるが、
 好いているのではなく、
 世界中どのエリアにも分け隔てなく入っていきたいという思いがあるだけだ。
 (惚れているのはいまだチェコだけれど)
 寒い夜は、牛骨のスープ飯ソーロンタンで温まるのが良いし。

 一方で、シジョンさんの詩は強烈な在日意識、
 遠く故郷を思い、しかしどちらにも進めずという板挟みの生からの火花で弾けている。
 八十を過ぎても、体温はきっと鉄を溶かす。
 しかもそれが人の間から垂れる氷柱の中で青白く光り続けているのだ。

 「村」という詩があって・・・

 自然は安らぐ
 といった君の言葉は改めなくてはならない。
 しずけさに埋もれたことのある人なら
 いかに重いものが自然であるかを知っている。
 
 ナイルの照り返しに干からびながらも
 なお黙りこくっているスフィンクスのように
 それは誰にも押しのけようがない
 深い憂愁となってのしかかっている。
 取り憑いた静寂には自然とても虜なのだ。

 自然は美しい、という
 行きずりの旅ごころは押しのけねばならない。
 居着こうにも居着けなかった人と
 そこでしかつなぎようがない命との間で
 自然はつねに豊かで無口だ。
 喧噪に明け暮れた人になら
 知っているのだ静寂の境がいかに遠いかを。
 一直線になぜ蜥蜴が塀をよじり
 蝉がなぜ千年の耳鳴りをひびかせているかも。
 出払った村で
 いよいよ静寂は闇より深いのだ。

            金時鐘四時詩集「失くした季節」(藤原書店)より

 どの風にも、どの砂にも、どの光にも頼らなかったからこその目である。
 在日という特別な立場がこの「静寂」の凄みを、
 無音の雲霞の群れのごとく沸き立たせているわけであるが、
 でもそうした批評になってしまうと、
 そうとも言えるし、そうとも言えないとボクなどは思っている。

 これは在日という、心的には一つの長い旅をくぐり抜けてきた人の耳、手触り、内なる声。
 つまり、旅人の詩であるからだ。

 人間は本来みな、旅人であった。
 ボクらの遠い父親母親であるモンゴロイドの素足たちがアリューシャンを渡り、
 遠く南米の涙、フェゴ島まで歩き続けたように。

 フンの騎馬に押された東ゴートの人々に引き込まれ、
 北欧に棲んでいたゲルマンの民が
 その中のある者は地中海を一周せざるを得なかったように。

 東アジアの近代史の中で、
 不幸な時代の波が押し寄せ、
 人間が行ったり来たりをし続けたように。

 旅人なのだ。
 定住、安息、飢餓からの逃避というのは夢であり続け、
 人間はみな、旅人という一種類の生き物でしかなかった。
 全人類的にはみな、足取りの向こうに消えても必ずまた襲いかかってくる「静寂」との対峙者であったのだ。

 だからボクはキム・シジョンさんの詩は在日というくくりで語るのではなく、
 旅人の詩であると骨と肉で感じ取った。
 それだからこそこの詩人が素敵だと推した。

 なぜ今、こんなことを言い出したのかというと、
 放射性物質を恐れ、
 子供をつれて東北から脱出した人からメールをいただいたからだ。

 日本人のひとつの感じ方として、
 なにかがあった時に、
 定住した場所から離れるということに対し、
 負を口にするきらいがある。

 逃げた、などと言われる。
 本人はとても気にしている。

 だが、敢えて言いたい。
 小さな子を一人で育てている母親の気持ちというものを。
 それは逃げではない。
 旅に出たということなのだ。

 「村」に留まるのも、時を経るという意味で旅である。
 「村」を離れるのは、心の中で素足になること。もちろん、これも旅である。
 選んだことなら、どちらでもいいのだ。
 仮にその母子が日本を出て、ヨーロッパあたりで暮らし始めたとしても、
 誰かがなにかを言うことではない。
 旅を続ける以上、誰もに「静寂」との対峙があるのだから。

 そこに見え隠れするものが、我ら一瞬の命の光芒である。

 そう。
 たとえば、石川達三の「蒼氓 」などはどうか。
 ブラジル開拓民の話である。
 みな、旅人であった。
 定位置を疑う者に祝福あれ。

 そのバスの席は、明日、別の人が座るんだよ。


 


 3月23日(水曜日) 

 地震。津波。戦後最多数の災害犠牲者。
 放射性物質。メルトダウン。
 寒気。
 おびただしい花粉。
 買い占め。
 避難所の寒さ。
 大不況。
 それを越えて今後やってくる津波的超不況。
 停電。
 じわじわと発ガン体質になっていく我ら。
 通行人の三分の二がマスクで顔を隠している風景。
 火山の噴火。
 千葉の鳥インフル。
 十二年連続自殺者三万人越え。
 水道汚染。



 つい二週間近く前、
 あるテレビ局から振られたテーマは、
 「観光立国、日本」だった。

 世界、変わった?
 地軸がずれたのかな。

 でも、なにか明るい話でも書けないかと考えている自分がいる。
 命がある限り、
 人は不屈だ。
 特に創造性に於いて。

 地軸はまだ我らの中にある。
 ゆっくりとでいい。
 回していこう。

 戦後派の詩人や作家にもう一度触れる時だ。
 開高健「三文オペラ」「ロビンソンの末裔」などもいい。
 割れた瓶の底に残るジンの香りを嗅ぐべし。
 酔いながら、結果として歩いていく。



 


 3月22日(火曜日) 夢判断

 緊急地震速報に何度も起こされるからか。
 あるいは逼迫している事情が色々とあるからか。
 眠りはとても浅く、
 大変奇妙な夢を見る。
 最近、夜はいつも夢と多摩川を往復している。

 この時節の緊迫の割に、なんという夢を見ているのか、
 とバカにされてしまうかもしれないが、
 命にかかわらない、つまり冷や汗に濡れない夢を見たのは今夜が初めてで・・・。

 こんな時に不謹慎だと言われるかもしれない。
 でも、見てしまった夢を否定することもできないので、
 それは「大阪で地底人発見」という新聞の見出しから始まるあれこれであった。

 まあ、大阪だから。
 多種多様が棲んでいるだろう、という思いがある一方、
 なぜかその地底人を知っているという気分になり、
 気付けば彼らとともにいた。

 地底から見上げた大阪は、
 人の目の形をした天蓋に覆われており、
 ちょうど瞳の部分から青空が見えた。

 大阪当局が(どんな当局か?)、地底人をつかまえにくるのだが、
 八人ほど捕らえられたところで、
 残りの地底人はみな、無数に空いた竹輪の穴のようなところにネロッと身を隠した。

 ただ、捕らえられ、大阪に引きずり上げられていくその八人の中に、
 子供の地底人がいたことがとても哀しかった。

 子供の地底人までつかまえるなよ、大阪。

 フロイトがもし診察してくれるなら、
 これはどういう夢判断が成り立つのだろう。

 ちなみに一昨日は、虎に食われんとして、
 大きなロバの影にひっそりと身を沈める夢であった。
 最後は虎に気付かれて、
 互いに吠えながら牽制していくのだが。
 そしてそこで目が覚めるのだが。

 
 


 3月21日(月曜日) 断薬

 起きていること。
 やらなければいけないこと。
 飲み込まれていくこと。
 それでもなにかを積もうとすること。

 すべての力が絡み合い、
 引っ張り合い、
 ところどころほつれたり、
 亀裂を入れたりして、
 まだ全体としては何となく浮かんでいる。

 こういう時、
 できれば茫然とした頭ではいたくない。
 よって、本日までで花粉症の薬の服用を断った。
 
 些細なこと。
 でも、こいつを服用しているかいないかで、
 明晰さは(と呼べるものがまだかすかに残っているなら)!
 いや、そんなものはやはりなく。
 ただ、 結果はかなり違ってくる。

 遅きに失した感もあるが、
 洟垂らしに戻り、
 文字や写真や虎の夢を見る。





 3月20日(日曜日) 積み重ね

 今日、教えてもらった。
 積み重ねていくことの美しさを。
 
 木々も、蝶も、人も、
 時の重なりのなかのひとつの現象。
 その一瞬一瞬の連続が、
 形と心を創っていく。

 それを意識できた時、
 始まりは今でいいと思えるし、
 実際、やり直すというのはそういうことだ。

 さあ、やり直そう。
 積み重ねて行こう。

 時を得る。

 

 
 


 3月19日(土曜日) 強がり

 わずかにお金を持った時代もあったが、
 放蕩の末に霧散した。
 今は笑っちゃうほどお金がない。
 著名人の皆さんが、
 たいへんな額の支援を申し出るのを知る度に、
 「あー、はー」と溜め息に包まれる。

 ただ、無い、というのは選択肢もないということで、
 「いったい何千万寄付すればいいのだろう」という問題からは解放されている。

 数万円の目標額の義援金ライブをまあ、月一ペースでやっていくこと。
 あとはアトリエで寝泊まりしてくれ、というこの二つでしかない。

 もっと正直に言ってしまうと、
 仕事の方もずいぶんと真っ白だ。
 今月は幾つかの職種から
 「ここんとこ入るかもしんないからあけといてね」と言われたが、
 すべて吹っ飛んでしまった。
 これは地震のせいではない部分もあって。

 仕事の方も、無い、となれば、
 これもまた選択肢がないわけで、
 悩んでいる暇はない。
 「自分で創る」しかないのだ。

 書け、ということ。
 学べ、ということ。

 もちろんボクだけではなくて、
 日本全体がこれからより厳しい試練の時代に入っていく。
 その時にさ、
 心に灯をともす、という最後の自由だけは残っている。
 ということを知っているかどうかが、
 それぞれの人生の大きな分かれ目になると思う。

 PLANET WHISPERS、改訂版にしてまた売り出すかな。
 (でもそれは今書いている小説が通ってからね)


 あれこれ考える3月です。

 


   


 3月18日(金曜日) 推移を見守りつつ

 避難所にいらした方と連絡つながる。
 このボロアトリエを使ってくれと申し出たが・・・
 そりゃそうだよな。
 かなり不自由な生活を強いられている中で、
 いきなり東京へどうぞ、と言われても
 ハイ、とは言いにくいと思う。

 東京までやってくる元気があるなら、
 避難所でも頑張れる人かもしれないし。

 しかしまあ、
 これは長期戦必至。
 心づもりだけしておけば、
 いざという時に対応できると思う。

 一ヶ月後ぐらいに、
 そういう声がかからないとも限らない。

 と、推移を見守りつつ、
 繰り返しますが、
 天井板さえはまっておらず、
 配管むきだしの我がアトリエ
 (水素爆発の跡のような)
 酒だけは豊富にあります。

 もしこれを読まれた被災者の方で、
 家をなくし、職もなくし、
 どうにもならないから東京へ行こうか、
 という方がいらっしゃったら、
 遠慮なく使って下さい。

 国籍性別年齢宗教、一切を問わず。


 


 3月17日(木曜日) できること

 できれば、避難されている被災者の皆さんを、
 全国で受け入れた方がいい。

 物資を送っても届かない。
 こちらから近付くことも制限されている。
 (ボランティアが入った分だけ食糧が減るのだ)

 このままでは、
 寒波と飢餓で亡くなる人たちも出るだろう。
 福島の原発は現在進行中の災害だが、
 もう一つ、
 避難所が限界状態を越えることで、
 次の悲惨へと続いていく。

 ならば、
 避難所の被災者を少しでも減らすために、
 また勇気を出してもらうためにも、
 「みんなで応援しています」と言葉だけで終わるのではなく、
 今、一人一人が行動をともなって、
 その応援を実行すべきである。
 そこまでやって初めて、「言葉」は力を持つのだ。

 具体的にはこういうことだ。
 義援金ライブのようなことは今後もやっていく。
 それはまあ、当然のこととして。
 続いて、もう一つ胸を開きたい。

 ボクの仕事場(アトリエ)で、被災者の方三名までを受け入れます。
 歓待します。
 ガスは通っていませんが、寝泊まりはできる。
 寒さはしのげる。
 歩いて十五分ぐらいのところに銭湯はある。
 暖かくなるまで、ここにいたらいい。
 詩のクラスもいっしょに楽しんで受ければいい。
 次のステップに踏み出せるまで。

 こういうことが本当に可能なのかどうかを問う前に、
 まず、心の門を開ける。


 ただ、これを避難所に伝えるすべがありません。
 仙台の避難所から時折メールをして下さる方がいらっしゃるので、
 その人に伝わればいいのだが。

 このHPを読んでいる人で、
 誰か心当たりがある人がいたら、
 どうにかして伝えて欲しい。
 一家族は受け入れOKと。

 そして、それなら・・・という三名、または家族が現れれば
 メール欄で投稿してもらいたい。

 こういう行動に対して、賛否はあるかと思いますが、
 実際、行政も人の行動なので、その動きにはかなりのムラがある。
 我々個々でやれることがあれば、今それをやるべきではないだろうか。
 息子さんが上京して部屋が余っていますよ、などという家庭があれば、
 一ヶ月でもいいのでこの種のホームステイを実行してもらえたらなと思う。
 
 そういう動きが日本中に広がっていくといいな。

 皆さんの今の気持ちに添うものかどうかわからないけれど、
 「ウェブ ゲーテ」 の巻頭に、ゲーテのある言葉を載せていただきました。




 
 


 3月16日(水曜日) できること

 家族をすべて失い、
 一人で避難所を探しまわっている九歳の男の子の記事が今朝の朝日に出ていた。
 一方で、五歳の娘を失い、
 その娘ともども遺体で見つかった他の子供たちの分も
 お菓子を供えている親の姿があった。

 できることなら時計の針を3月11日以前に回したいと誰もが思っていることだろう。
 小さな娘を失った親は、生涯夢でその子を見続ける。

 どうにもならない。
 本当にどうにもならない。

 自らが人生を切り拓いているように感じた頃もあった。
 だが、一転こういう事態になれば、
 我々が感じていた力とはいったい何だったのだろうかという思いに苛まれる。

 呆然としつつ、
 しかしこうして書くこと。
 いつか語ること。
 それだけしかできない自分であることをつくづく感じる。

 それぞれの場で、
 それぞれの仕事をするしかない。
 それぞれの場で、
 それぞれの祈りをするしかない。

 人として生まれてきたことの一つの味わいは、
 仲間からはずれて優越感にひたることではなく、
 人としての哀しみを共有することであろう。
 人としての再興をともに踏ん張り、日々を記憶することであろう。
 あの九歳の男の子の心細さは、我らの寂しさである。
 小さな娘を失ったのはあの親だけではなく、我らでもあるのだ。

 
 


 3月15日(火曜日) ネット復旧!

 NTTもOCNもずっとつながらないから、
 マニュアル見ながら自力で復旧させたぞ!

 ボクの失敗は、モデムを初期化させた後、
 設定の認証パスワードと、ログインの認証パスワードを混同していたことだった。

 パスワードの類が多すぎるんだよ!

 とりあえず復旧しました。
 メールも復活です。

 仙台で避難している友人とも連絡が取れました。
 ただ、仙台在住のアルルカンファンの方数人とはまだ!

 でも、やっていくよ。どんどんやっていくよ!
 義援金ライブも含め、方々にメッセージ送る!

 不安な人、どんどんメールを送って下さい。

 ただし!
 個々の義援金を「明川さんに送るからなんとかして」という二度手間はやめてね。
 それは皆さん個人でお願いします。
 (郵便局に行けば、手数料なしで振り込めます)

 義援金ライブ第二回は、また別にもうけます!
 志のある者、集まってくれ!



 


 


 3月14日(月曜日) つながり

 昨日集まって下さった皆さんの義援金、
 今日朝一番で振り込んだよ!

 それと・・・。

 どうしても阪神大震災の時のことを思い出します。
 あの時、
 リュック二つ分満杯の水のボトルを背負って、
 育った芦屋の町を歩いた。
 
 友達の家はみな崩れていたり、
 誰もいなかったりで、
 結局、知人には会えず、
 そのリュックを卒業した小学校まで持っていくことになった。
 
 避難所となっているその小学校の職員室にリュックを下ろし、
 「これ全部使って下さい」と言ったら、
 被災者の方が「しんどそうやわ。あんたの方が倒れるよ」と
 ジュースを一本差し出してくれた。

 考えてみれば、
 町は水がすべて断たれた状態。
 水を運びながら、自分自身が干上がってしまいそうだった。
 でも、それを忘れて歩いていた。
 他者から見れば、ひどい人相をしていたのだろう。

 そういうことがあった。
 町が総崩れという状態で、
 なんだろう、あれは。

 人が、人をいたわる気持ちというものが確実にあった。

 ボクはそれまで、
 この列島に住む人々のことをあまり誇りに思ったことがなかった。
 特に公共のことに関して。

 だが、あの極限状況でその底力を見たような気分になった。

 元町の駅前の中華料理屋。
 崩れた店から食べられるものを取り出して、
 中国人のコックが無料の炊き出しをやっていた。

 「おにぎり持っています」と書いた布を身体に巻いて歩いている人がいた。

 トラブルがなかったわけではないと聞くが、
 それでも大多数の人が、人をいたわってあの数ヶ月を生きた。

 神戸も芦屋もいまだ財政難は続いているが、
 それでも復興の道を歩めた理由の一つはそこにある。

 間違いなく、
 今回の東日本大地震は、
 東北のみならず、 国難と言ってもいいほどの惨事である。

 原発も今後どうなるかわからない。
 エネルギー基盤を含め、
 根幹からボクらの生き方、国の在り方を問われる状況が発生したのだ。

 相当に厳しい時代が今後数年続くのではないか。
 でも、その時に、あの差し出されたジュースを思い出す。
 炊き出しのコックや、おにぎりのおばちゃんを思い出す。

 乗り切るためには、
 勝ち組負け組といった傲慢なものの見方ではなく、
 誰もが誰かのためにといった、
 人が、人を思う、根幹の部分でのやり直しが求められているのではないか。

 人の揚げ足ばかり取り合っているような政争や、
 悪口のオンパレードだったネット界や、
 誰がどうしたこうしたといった噂話や、
 もうそんなことはどうでもよく、
 まず、
 みんなで生きて、乗り越えていくことを考えよう。

 互いにいたわれるなら、
 どんな場所にも花が咲く。

 それにしても・・・
 家族を津波で失われた人たちの言葉は
 胸をしめつける。


 

 

 

 3月13日(日曜日) 義援金
 
 渋谷のPINZA SALONで本日予定されていた
 「もの語りのうぶごえ原画展」オープニングイベントは、
 アルルカン洋菓子店による
 「東日本大震災義援金ライブ」に変わりました。

 集まって下さった皆さんありがとう。
 知っている顔ばかりかなと思いきや、
 初めて会う皆さんもいらっしゃいましたね。

 多いとは言えない人数でしたが、
 それでもまとまった金額になった。
 52000円。
 個人ではやはり出しにくい金額です。

 こういう時はまずお金。
 これからどんどん義援金ライブをやっていきますので、
 趣旨に賛同して下さる皆さん、
 ぜひお集り下さい。


 
 
 

 

 
 

 3月12日(土曜日) 安否

 モデムから回線をはずし、
 直接電話線をつなげばいいのだという単純なことに気付き、
 これでようやく電話のみ復旧。

 東北地方の友人知人たちと連絡を取ろうとするも、
 やはりつながらず。

 モデムのことでNTT東日本やocnにコネクトを試みるが、
 あちこち不通でどうにもならない。

 テレビで伝わってくる数々の惨状。
 自分の気持ちや情報を発信することもできず、
 悶々としている自分。
 情けない。
 なんとかいい方法はないか。

 岩手県宮古市は、ボクの実家が貧しかった頃、
 幼児であったボクを預かってくれた場所。
 浄土ケ浜によく泳ぎに行った。
 駅弁の詩集を作った時も、
 宮古の街で飲ませてもらった。

 それがあんなふうに壊れていくなんて。
 水に飲まれていくなんて。
 宮古の町の人たち、
 今みんなどうしていることだろう。

 まず、明日のライブは中止ではなく、
 義援金ライブとして敢行することにする。

 チャージの2000円はそのまま赤十字を通じて被災地で役立ててもらいます。

 こんな時だからとライブを自粛する方が気持ちとしては楽。
 でも、ボクらはやります。
 (内容は告知したものと変わりますが・・・)

 といったことをしかし、
 自分では発信できないために、
 MITSU君たのむよ。

 明日は第一回の義援金ライブ。
 こられる人は集合のこと。


 

 

 3月11日(金曜日) 激震

 築四十年以上たっている事務所である。
 すでに床や壁にはひびが入っている。
 少しでも揺れが大きくなるようなら、
 前の駐車場に飛び出して行こうと普段から思っていた。

 その揺れがきた。
 おかしい、と思った時にはドアが閉まらないように開けたまま、
 フェンスを乗り越えて駐車場へ。

 車がユサユサと揺れている。
 東京ではまだ一度も体験したことがない規模の地震だ。

 周囲からもたくさん人が集まってくる。
 駐車場が一瞬避難所のようになった。

 揺れが収まってから事務所に戻る。
 色々なものが落下している。
 キッチンの皿や丼、
 CDの類はむちゃくちゃ。
 
 そして何よりもいけないことに、
 落ちてきた絵でモデムがいかれてしまった。
 ネット断線である。

 いろいろトライしてみるが、
 電話も通じない。
 「落ち着け、落ち着け」と言い聞かせ、
 まずは自転車に乗って家の方へ。
 こちらはオッケー。

 ただ、テレビで知り得た情報があまりに唐突で、
 巨大で、想像を越えており、
 こんな時に電話もネットも使えない自分が
 どうにも悔しく感じられる。

 i-phoneはだめだ。
 まったく通じない。

 


 


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