百万年の瑠璃の鳥 2011年 |
故郷に鉄人立つ |
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4月14日(木曜日) 第二報! 昨日、河瀬直美監督からまず一報をいただいた。 声が午前十時の女子高生のように弾んでいた。 そして今日、カンヌから世界に向けて発表された。 「朱花(はねず)の月」、 今年度のカンヌ国際映画祭の正式招待作品に選ばれました。 コンペ部門に堂々の登場です。 「あなたもレッドカーペットの上を歩くのよ」と、 河瀬さんにはおっしゃっていただきましたが、 さあ、どうする。 監督と主演の二人は当然カンヌ行き決定! 行ってらっしゃい! 問題は、三人目のボクが行ってもいいのかどうかということだが・・・。 大和三山の愛憎の物語、 そのうちのひとつ、耳成山を演じた身としては、やはり行くべきですよね。 山が三つないと物語にならないわけだから、カンヌでも。 しかし、タキシードも持ってないし。 いや、行くべきだ。 取材でもなんでもなく、本当にその・・・カンヌに行けるわけだから。 ボクのあのシーンを、世界中から集まった映画関係者四千人と見守るわけだし。 いや、やっぱりな・・・主演の二人だけでいいんじゃないか。 ボクなんか行っても。 と、揺れ動きつつ・・・。 タキシード、カンヌで借りられるのか? 沈むようなことばかりがあった日々。 久々に、明るい声を聞きました。 河瀬さんやスタッフの皆さん、本当に良かったですね。 |
4月13日(水曜日) 第一報! 河瀬直美監督! 本当ですか! 明日、発表可能! |
4月12日(火曜日) 色覚異常 何度も書いてきたことだけど、 ボクは色覚異常で、緑と赤が凄く薄くなった時に区別がつかなくなるらしい。 実生活でそれで困ったことは一度もなく、 ましてや、美術はいつも得意だった。好きだから。 でも、大学の就職課で企業の応募要項を見て腰が抜けた。 出版社、テレビ局、映画会社、広告代理店、ありとあらゆるクイリエイティブ系の会社が、 色覚異常者は受験不可だったからだ。 不利になります、というのなら納得できる。 不可、とはどういうことか? 医師の国家試験だって色覚異常は問題とされない時代に、 どういうわけか証券会社までが「不可」と主張していた。 嘘だと思って方々確認してみたが、やはりボクにはどこも受験資格がないのだった。 特に対応はある出版社がひどく、 なぜこんなことを言われなければいけないのかと、悔しくて泣いた。 どうして就職せずに、早稲田アカデミーの先生をやっていたの? とよく訊かれたが、 そういう事情でどうにもならなかったのね。 早稲田アカデミーは正社員として入ったけれど、 そして少年少女たちととんでもなく楽しい一年を過ごしたけれど、 やはりボクはその世界の人間ではなかったので、 よそにいって、高校生に勉強教えたりしながら・・・バーテンもやり、 一人で生きていく方法を考えなければならなかった。 今、高見順を詩のクラスでやっていて、 本当にこの詩人の作品に触れていると、 「欠損とは力である」と思い知らされる。 何かが足りない、はっきりとした欠点がある、 というのは見方を変えると、 何かが突出している、はっきりとした長所がある、 ということになるのだ。 ボクは就職試験不可の人間だったから、 「叫ぶ詩人の会」や「金髪先生」「アルルカン洋菓子店」、 そして、世界の詩人とともに縦横無尽に旅をするという人間になった。 もちろん、そんなふうだから生活は苦しいが、 社会から弾かれたようなあの感覚から、今に至る道が始まったのだ。 何かが足りなくて悩んでいる人は、 そのことでそれ以上苦しまない方がいいよ。 それ、絶対にパワーの源だから。 今月24日、祖師ケ谷大蔵のシャトルリューズカフェで行う義援金ライブで、 またもや圧倒的抽象の浪漫を咲かせてくれるMARIO君が、 高見順の素敵な二行詩をプレゼントしてくれました。 「傷ついたのは、生きたからだ 」 |
もちろん、そのためにはボクの技術やエネルギーがもっともっと桁外れなところにあるべきだし、 |
4月10日(日曜日) 絶版からの再生(2) 朗読の前に書き直しが必要、 あるいは補足的加筆が必要、というのは・・・ 当時と今の感覚のギャップをどう埋めていくのかという問題以外に、 具体的事実として迫ってくるものがある。 たとえば、「食べる〜7通の手紙」で「塩」というタイトルで書いたポル・ポトの件。 200万とも300万ともいわれるカンボジア同国人への虐殺を招いた張本人だが、 ボクはこの「塩」の中で、彼はジャングルで自殺をしたはずだと書いた。 これだけのことをしておいて、 生きていけるはずがないのだからと。 だが、実際には彼はジャングルの中で隠遁に徹していたわけで、 生きていきなり現れたのである。 こういう事実誤認のまま書いてしまった文章をどうするか? 新聞記事ではないのだから、そのまま読んで今の気持ちを補足するというのが手かと思うし、 あるいは今の視点からポル・ポトや全体主義を見直すというやり方もあると思うのだが、 そういうことを考えるのもひとつの充実には違いなく、 そう売れたわけではなかったが、 本を書いてきて良かった、声の仕事をしてきて良かった、と 今ようやく思えている。 ボクの中で、双方の技術と感性が一つに結合し、 新しい表現として生まれ変わろうとしているのだ。 それはもちろん、コンピュータやネットを駆使しての場でもある。 |
では、それをどうやって皆さんに届けるのか? いずれにしろ、 |
4月8日(金曜日) 普通の旅 2000年に行われた福島博覧会「うつくしまふくしま」で、 メーン会場で流れる曲を作詞した。(作曲 久石譲 歌唱 岩崎宏美) 少し外国で暮らした時期もあったけれど、 基本的に福島という場所が好きで、 何度も旅をしている。 郡山を過ぎたあたりから見えてくる「日本の正しい田舎」。 夏の光はあのあたりが一番澄んでいるように感じられた。 (すぐそばにあれだけの原発が並んでいるとも知らずに) 食べ物だって、福島のものはみなうまい。 小魚のなかでは、いわき沖のメヒカリが世界で一番うまいと思っていた。 (もう漁業は当分できないだろうな) 立入禁止区域に入ろうとは思わないが、 福島市内や猪苗代湖や会津など、 あのあたりにはおそらく今後も足を運ぶだろうと思う。 普通の旅をして、普通にものを食べて。 それ以外に何か跳躍力のあることを企てるべきなのかもしれないが、 無理な背伸びをするより、 「普通に福島を歩いてきました。福島名物の円盤餃子でビールも呑んできました」と 言える方がボクはいい。 プラハの革命が起きてからしばらく、 「ビールを呑みにプラハに行くのだ」と言ったら、 新宿の酒場で激昂した人がいた。 「多くの犠牲者が出た場所になんのつもりだ!」とその人は言った。 (1990の革命では、チェコではほとんど犠牲者は出ていないのだが) ボクはこの人は、相手の気持ちを重んじているようで、 実はなにもわかっていない人だと思った。 市民が再生したチェコに、世界中から遊びにきてもらいたいと思っていたのはチェコ人自身だ。 震災後の神戸もそうだった。 悲惨だったから、可哀想だから、不謹慎だから旅なんてできない、 という一種の思いやりの果て、 観光地神戸はそれでいよいよ干上がることになった。 地震を生き抜いても、自殺する人が少なくなかった。 ボクの高校の同級生も自ら命を断った。 これはわがままな話だが、 禁酒をしている時、 いっしょにいる人には気兼ねなく呑んでもらいたいと思う。 「いや、お前が呑まないなら」と襟を正されると、 自分は罪なことをしていると思い、やはり来るのではなかったと思ってしまう。 今年は西日本へ家族旅行を、と政府は余計なことを言った。 老都知事も各種イベントの自粛を強制的に課している。 思いやりのつもりで。 その結果、 一生懸命に立ち上がろうとしている人が、 なにもかも諦めてしまうかもしれない。 もともとの不況に加え、この風評被害。 東北が本当に干上がってしまう。 普通の旅を、ぜひ今年も。 |
4月7日(木曜日) 試写会 この秋公開される河瀬直美監督作品「朱花の月」。 今日、都内の撮影所で試写会があった。 ボクは脇役ですが、 そこそこ大事な役回りでもあります。 ワンシーンですが、 かなり身体で勝負している部分もあります。 これまでの河瀬作品同様、 決して「ハッピー!」とか言える質感ではありませんが、 心の奥の、黒とも赤とも判別できない部分にタッチして生還してきたような気分にはなれます。 滅多にない体験。 河瀬作品としても新しい方向性を打ち出しているのでは。 そして人々はどんな反応を示すことになるのか? 恐いような、楽しみのような。 この秋です。 お時間がある方はぜひご覧あれ。 |
4月6日(水曜日) 間接的暗闇 最近はどこでも節電のために照明を落としていて、 街の中が暗い。 川崎のカルチャーセンター。 ここから武蔵中原までの道のりなどはほとんど真っ暗で、 覚えている限り、 昭和四十年代以降これほどまでに灯りの少ない街というのは経験がない。 ヨーロッパの夜は平均的に暗い。 ごく一部の繁華街を除いて、 ネオンなどはいやがるし、明る過ぎることをまず拒む。 部屋の中も間接照明がメインで、 蛍光灯で煌煌と照らすという文化ではない。 だからベルリンにしろプラハにしろ、 あるいはローマにしろナポリにしろ、 こんなに暗くて目が悪くならないのかと思う程、 夜にしめる暗闇の割合は大きい。 そういう点では、 今、日本の都市部で起きていることはまったくの逆で、 その気になればどこだって以前の照明に戻れる。 コンビニの灯りだっていざという時は元に戻せるはずで、 いわば恣意的な「間接的暗闇」を演出しているのが 2011年の東日本の気分というものなのだろう。 原点に災害があるので これを歓迎すべきことと言うわけにはいかないのだが、 明るすぎない夜というのは何だかいいような気もする。 英国の自殺率がもっとも高くなるのが 長く暗い冬が終わりを告げ、 光が一日を支配しだす四月というのはうなずける話だ。 太陽は時に残酷だ。 闇の方が痛みある人間には安穏とした環境であることは理解できる。 多少わけありの男女も優しくくるんでくれたりするしね。 |
4月5日(火曜日) 寂しいから 「詩と朗読」クラス。 今月の師匠は高見順。 欠損とは力である、 という創作エネルギーを語るに、 彼ほど適した人はいない。 なにもかも満ち足りた人間がいたとしたら、 その人は苦悶しながら文字を書き並べる必要はない。 その力もないはずだし。 もててもてて男なんて飽きた、 という女性が恋愛小説を書くことに妄執するというのも殆どあり得ない。 あるとすれば、 豊富なる体験と、それでも満足できない人生の穴を見据えた時の寂しさ。 その両者を味わった者に限られる。 淋しいから、 欠けているから、 永遠にふさがらない穴があるから、 ボクらは何らかの力を持てる。 四季折々の花があったり、 空がこんなにも澄んで青かったり、 時に荒れ狂う自然があるのは、 この星もきっと足りないものを追い求めているからだ。 |
4月4日(月曜日) 友 深夜ラジオのパーソナリティを5年。 ネットの転職相談を7年近く。(「俺が聞いちゃる」) 朝日新聞の人生相談欄を11年。 これだけやってきて、自分もまた悩み多き人間である。 だけど・・・今回の災害で思うのです。 苦悩を持てる、というのは生きている間のなにかの煌めきのように、 植物で言えば花びらのように、 (苦悩があるなんて贅沢なのだ、とは言わないが) 生きている者の醍醐味の一つではないかと。 苦悩は解決しなければいけない、という思いが誰にでも漠然とある。 でも、本当は生命ある限り、 苦悩もまた色彩の異なる花の一つとして咲き続けるのではないか。 苦悩を滅する。 仏陀はこれを目指した。 しかし、それはある意味で生きている人間から脱するという、 異次元的存在になることである。 佛とは、人に非ずという意味の一文字。 もちろん、そのイマジネーションも生きているから可能なのであって、 これは般若心経などをじっくり読んでいくと、 決して苦悩を滅しきれ、と説いているわけではないとわかってくる。 佛は、逆説に逆説を重ねていって、 この世の美を最後に見せつける構造になっている。 その入り口は苦悩なのだ。 だから、 苦悩から逃れようともがく必要はない。 苦悩もまた、 ただ一度きりの人生のかけがえのない友なのだ。 |
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4月1日(金曜日) 不具 昨年の半分を費やしてダメだった長編小説の書き直しと、 初夏には出る予定の単行本のゲラ直しを平行して進めている。 そしてその合間に、 ボクは酒を呑んだり、詩のようなものを書いたり、 旅のことを夢想したり。 うちの前の桜の木が、 今年、上半分を切断されてしまった。 なんとも哀れな姿である。 でも、わずかばかり残った枝でつぼみは膨らんでいる。 変な話だが、 完全なる姿の他の木々より、濃厚な命の張り出しを覚えるのは何故なのだろう。 耳を失った音楽家。 断筆後に砂漠を歩む詩人。 観客席の元野球選手。 不能のドンファン。 乳房なきソープ嬢。 書ける、あるいは書きたいとしたらそうした人たちの方で、 象徴となるまでの力の純化は、 常に失われてからやってくるのか。 ならば、老いとは命に近付くことだと、 逆説的な信念も持てそうだ。 切り倒され、 それでも生きている桜に、 この国を感じることもある。 |
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3月29日(火曜日) 未知 なんとなく歩いていけるような、 漠然とした空気感の中にいて、 しかし来年以降の自分というものがまったく見えず、 ひょっとしたら俺はもう消えてしまうのではないか、 そんなことを考えながら起きる朝もあった。 こうして大震災が起き、 原発事故に巻き込まれ、 本当に明日のことがわからなくなるとは思わずに、 別の意味で明日のことが見えなくなっていたのだった。 しかしどのみち我々は未知の領域に入った。 明日どうなるか、本当にわからないという意味での未知である。 未知の地平。 半ば闇であり、半ば光である。 そこはしかし、アルチュール・ランボーのような青年を迎え入れられる唯一の場でもある。 参考までに、ランボーの書簡を! 「見者(ヴォワイアン)の手紙」(抜粋) 詩人たらんとする者の第一歩は、全面的に自分自身を知るにある。彼は自らの霊魂をたずね、調べ、試み、知らなければならない。一度これを知るや、つぎにこれを錬磨しなければならない。それは一見容易のように思われる。どんな頭脳にも自然の発育はあるのだし、多くのエゴイストどもまでがみずから詩人なりと僭称していたり、また多くの者どもが自分らの知的成育を自力に帰しているほどなので。・・・僕が言うのは、悪魔的な霊魂を作り上げることなのだ。あきれて驚く凡俗者流は尻目にかけて! たとえば、自分の顔面に多数のイボを移植して、これをせっせと培養している一人の人間を君は想像するがよろしい。僕は言うのだ。見者たれと。自らを見者となせと。 詩人が見者となるがためには、自己への一切の官能の、長期間の、深刻な、そして理論的な錯乱によらなければならない。あらゆる種類の恋愛を、苦悩を、狂気を、彼は自らのうちに探求し、自らのうちに一切の毒を味わいつくして、その精華のみを保有しなければならない。深い信念と超人的努力とをもって初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、初めて彼はあらゆる人間中の偉大な病人に、偉大な罪人に、偉大な呪われ人に、そして偉大な知者になる! なぜなら、彼は未知に達するからだ。すでに自らの霊魂の錬磨を完了したこととて、誰よりも豊富な存在になっているからだ。すなわち彼は、未知に達したわけだ。だから万が一、彼が狂うて、自分が見てきた幻影の認識を喪失するにいたるとしても、すくなくも彼はすでにすでに一度それを見たのだ! 彼が見たおびただしい前代未聞の事物のうちに没し去って、彼が一身を終わったとしても嘆くにはあたらない。なぜかというに、他の厭うべき努力者どもがつづいて現れるはずだから。彼らが先に彼が没し去ったその地平線のあたりから踏み出して、詩を進めるから! 「地獄の季節」より 道徳とは脳髄の衰弱だ。
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3月28日(月曜日) 三つの袋 幾つかの問い合わせがあった。 福島第一原発の20キロ圏内にお住まいの方から、 (でも、実は第二原発のそば) しばらく行ってもいいかしら、という相談も。 今日の朝日新聞にも「よかったらアトリエにいらっしゃい」と書いた記事が載ったので、 連絡けっこうあるかな? と思っていたが、 まあ、数えるほど。 (応援メッセージはたくさんいただきました。ありがとうございます) だが、風呂がないことや、簡易ベッドであることなど、 正確にアトリエ内部諸状況をお伝えするにつけ、 みなさん、考え込まれる。 銭湯、あるんだけどな。歩くけど。 結局、第二原発の人は親戚を頼れることがわかり、 そちらへ行かれてしまったのだが、 そうなってみると、なんだかすこし寂しい気もして、 これはいったい何なのだろうと思う。 無理して頑張っているというより、 知らない人がやってきたら、 それはそれで充実した時間を作ろうと 「ハッスル」している自分がいた。 いや、最初はどこかやせ我慢みたいなところもあった。 でも実際に避難している人と電話で話し、 言葉を交わし合うと、 ゴールデン街で前から知り合いだった人のような気分になる。 人間ってみんな、そういうことだったりして。 知らない仲だからこそ、警戒もするし、 気合いの入った姿勢で防備したりする。 電車の中で出会う人も、仲間とは感じないよね。 すっかり他人だもの。 でも、なにかの拍子で居酒屋で並び合えば、 意外とその瞬間からOKだったりする。 あるtvディレクターの方が、 避難者がやってきても困らないようにと、 寝袋を三つもってきてくださった。 避難者、まったく現れない場合は寝袋が可哀想なことになりますので、 なにか使用法を考えます。 しかしこのディレクターも昨年までは知らない人だった。 街ですれ違えばまったくの他人だったはずだ。 言葉を交わすことは大事だな。 |
3月27日(日曜日) 義援金ライブ 東日本大地震への義援金ライブ、 以下の日程で決まりましたので、お伝えします。 なお、このライブはアルルカン洋菓子店ではなく、 朗読者ドリアン助川に戻り、 個人でのパフォーマンスとなります。 チャージは各回2000円共通。 全額を義援金として日本赤十字に振り込みます。 (しかし赤十字! 義援金の配分は一年後なんて悠長なこと言ってないで、 多少のばらつきが出てもいいから速攻でやっていってくれよ! 頼むぜ) (東日本大震災義援金ライブ) 『東北の神話、民話、詩とともに』
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3月25日(金曜日) ゼネレーター だんだんと動画や写真が人目に触れるようになり、 どれだけの規模の災害だったのかということが 当初の津波映像の凄さすら越えて伝わってくる。 慣れる、ということがない。 一番波高があったとされる女川。 ここは被災した時の映像がない。 でもそれは今の現場の、 標高20メートルの高台ですら車がつぶれている映像を見ることで 理由がわかる。 映像が残っていたり、 伝えられる何かがあるのは、 生還者がいたからだ。 女川は今、言葉を失っている。 福島の原発は、 今日で40年の稼動? となるそうだ。 40年。 やはりひとつの時代の終焉をボクらは見ているのだろう。 では、不鮮明なデータに冷や汗をかきながらも、 現実に毒を撒き散らし始めた原発を前に、 ボクらはどんな言葉を残すべきだろうか。 原発反対というのは容易い。 減らしていき、無くしていく、という方向の中にあるのは間違いない。 でも、火力に頼り出せば、 人々はまた空気の汚染を口にし出すだろう。 ものごとが変わっていく時は、 理屈や理想ではなく、 それに代わる何かが現れた時だ。 ワープロの文字には愛がないと言っていた人たちが今、 パソコンで自由にメールをやり取りする中で、 「ワープロは・・・」などと言うことはない。 原発反対の人たちも電力を使っている以上、 急いで知恵を集めるべきはまず、 いかにして毒を閉じ込めたまま廃炉にしていくのか、 その現実的な方法と、 次世代の発電である。 もちろん、電力を使わない国民に戻る、 という理念上の選択肢はある。 あるが・・・一億三千万人がその方向で冬を越そうと思えば、 我が国は山林を半年で失う。 潮力発電しかないと思うのだけれど。 どんなものでしょう。 どうよ。 黒潮発電。 |
在日というと・・・ 東アジアの近代史の中で、 |
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こんな時に不謹慎だと言われるかもしれない。 |
3月21日(月曜日) 断薬 起きていること。 やらなければいけないこと。 飲み込まれていくこと。 それでもなにかを積もうとすること。 すべての力が絡み合い、 引っ張り合い、 ところどころほつれたり、 亀裂を入れたりして、 まだ全体としては何となく浮かんでいる。 こういう時、 できれば茫然とした頭ではいたくない。 よって、本日までで花粉症の薬の服用を断った。 些細なこと。 でも、こいつを服用しているかいないかで、 明晰さは(と呼べるものがまだかすかに残っているなら)! いや、そんなものはやはりなく。 ただ、 結果はかなり違ってくる。 遅きに失した感もあるが、 洟垂らしに戻り、 文字や写真や虎の夢を見る。 |
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わずかにお金を持った時代もあったが、 |
3月18日(金曜日) 推移を見守りつつ 避難所にいらした方と連絡つながる。 このボロアトリエを使ってくれと申し出たが・・・ そりゃそうだよな。 かなり不自由な生活を強いられている中で、 いきなり東京へどうぞ、と言われても ハイ、とは言いにくいと思う。 東京までやってくる元気があるなら、 避難所でも頑張れる人かもしれないし。 しかしまあ、 これは長期戦必至。 心づもりだけしておけば、 いざという時に対応できると思う。 一ヶ月後ぐらいに、 そういう声がかからないとも限らない。 と、推移を見守りつつ、 繰り返しますが、 天井板さえはまっておらず、 配管むきだしの我がアトリエ (水素爆発の跡のような) 酒だけは豊富にあります。 もしこれを読まれた被災者の方で、 家をなくし、職もなくし、 どうにもならないから東京へ行こうか、 という方がいらっしゃったら、 遠慮なく使って下さい。 国籍性別年齢宗教、一切を問わず。 |
こういうことが本当に可能なのかどうかを問う前に、 |
3月16日(水曜日) できること 家族をすべて失い、 一人で避難所を探しまわっている九歳の男の子の記事が今朝の朝日に出ていた。 一方で、五歳の娘を失い、 その娘ともども遺体で見つかった他の子供たちの分も お菓子を供えている親の姿があった。 できることなら時計の針を3月11日以前に回したいと誰もが思っていることだろう。 小さな娘を失った親は、生涯夢でその子を見続ける。 どうにもならない。 本当にどうにもならない。 自らが人生を切り拓いているように感じた頃もあった。 だが、一転こういう事態になれば、 我々が感じていた力とはいったい何だったのだろうかという思いに苛まれる。 呆然としつつ、 しかしこうして書くこと。 いつか語ること。 それだけしかできない自分であることをつくづく感じる。 それぞれの場で、 それぞれの仕事をするしかない。 それぞれの場で、 それぞれの祈りをするしかない。 人として生まれてきたことの一つの味わいは、 仲間からはずれて優越感にひたることではなく、 人としての哀しみを共有することであろう。 人としての再興をともに踏ん張り、日々を記憶することであろう。 あの九歳の男の子の心細さは、我らの寂しさである。 小さな娘を失ったのはあの親だけではなく、我らでもあるのだ。 |
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3月14日(月曜日) つながり 昨日集まって下さった皆さんの義援金、 今日朝一番で振り込んだよ! それと・・・。 どうしても阪神大震災の時のことを思い出します。 あの時、 リュック二つ分満杯の水のボトルを背負って、 育った芦屋の町を歩いた。 友達の家はみな崩れていたり、 誰もいなかったりで、 結局、知人には会えず、 そのリュックを卒業した小学校まで持っていくことになった。 避難所となっているその小学校の職員室にリュックを下ろし、 「これ全部使って下さい」と言ったら、 被災者の方が「しんどそうやわ。あんたの方が倒れるよ」と ジュースを一本差し出してくれた。 考えてみれば、 町は水がすべて断たれた状態。 水を運びながら、自分自身が干上がってしまいそうだった。 でも、それを忘れて歩いていた。 他者から見れば、ひどい人相をしていたのだろう。 そういうことがあった。 町が総崩れという状態で、 なんだろう、あれは。 人が、人をいたわる気持ちというものが確実にあった。 ボクはそれまで、 この列島に住む人々のことをあまり誇りに思ったことがなかった。 特に公共のことに関して。 だが、あの極限状況でその底力を見たような気分になった。 元町の駅前の中華料理屋。 崩れた店から食べられるものを取り出して、 中国人のコックが無料の炊き出しをやっていた。 「おにぎり持っています」と書いた布を身体に巻いて歩いている人がいた。 トラブルがなかったわけではないと聞くが、 それでも大多数の人が、人をいたわってあの数ヶ月を生きた。 神戸も芦屋もいまだ財政難は続いているが、 それでも復興の道を歩めた理由の一つはそこにある。 間違いなく、 今回の東日本大地震は、 東北のみならず、 国難と言ってもいいほどの惨事である。 原発も今後どうなるかわからない。 エネルギー基盤を含め、 根幹からボクらの生き方、国の在り方を問われる状況が発生したのだ。 相当に厳しい時代が今後数年続くのではないか。 でも、その時に、あの差し出されたジュースを思い出す。 炊き出しのコックや、おにぎりのおばちゃんを思い出す。 乗り切るためには、 勝ち組負け組といった傲慢なものの見方ではなく、 誰もが誰かのためにといった、 人が、人を思う、根幹の部分でのやり直しが求められているのではないか。 人の揚げ足ばかり取り合っているような政争や、 悪口のオンパレードだったネット界や、 誰がどうしたこうしたといった噂話や、 もうそんなことはどうでもよく、 まず、 みんなで生きて、乗り越えていくことを考えよう。 互いにいたわれるなら、 どんな場所にも花が咲く。 それにしても・・・ 家族を津波で失われた人たちの言葉は 胸をしめつける。 |
3月13日(日曜日) 義援金 渋谷のPINZA SALONで本日予定されていた 「もの語りのうぶごえ原画展」オープニングイベントは、 アルルカン洋菓子店による 「東日本大震災義援金ライブ」に変わりました。 集まって下さった皆さんありがとう。 知っている顔ばかりかなと思いきや、 初めて会う皆さんもいらっしゃいましたね。 多いとは言えない人数でしたが、 それでもまとまった金額になった。 52000円。 個人ではやはり出しにくい金額です。 こういう時はまずお金。 これからどんどん義援金ライブをやっていきますので、 趣旨に賛同して下さる皆さん、 ぜひお集り下さい。 |
3月12日(土曜日) 安否 モデムから回線をはずし、 直接電話線をつなげばいいのだという単純なことに気付き、 これでようやく電話のみ復旧。 東北地方の友人知人たちと連絡を取ろうとするも、 やはりつながらず。 モデムのことでNTT東日本やocnにコネクトを試みるが、 あちこち不通でどうにもならない。 テレビで伝わってくる数々の惨状。 自分の気持ちや情報を発信することもできず、 悶々としている自分。 情けない。 なんとかいい方法はないか。 岩手県宮古市は、ボクの実家が貧しかった頃、 幼児であったボクを預かってくれた場所。 浄土ケ浜によく泳ぎに行った。 駅弁の詩集を作った時も、 宮古の街で飲ませてもらった。 それがあんなふうに壊れていくなんて。 水に飲まれていくなんて。 宮古の町の人たち、 今みんなどうしていることだろう。 まず、明日のライブは中止ではなく、 義援金ライブとして敢行することにする。 チャージの2000円はそのまま赤十字を通じて被災地で役立ててもらいます。 こんな時だからとライブを自粛する方が気持ちとしては楽。 でも、ボクらはやります。 (内容は告知したものと変わりますが・・・) といったことをしかし、 自分では発信できないために、 MITSU君たのむよ。 明日は第一回の義援金ライブ。 こられる人は集合のこと。 |
3月11日(金曜日) 激震 築四十年以上たっている事務所である。 すでに床や壁にはひびが入っている。 少しでも揺れが大きくなるようなら、 前の駐車場に飛び出して行こうと普段から思っていた。 その揺れがきた。 おかしい、と思った時にはドアが閉まらないように開けたまま、 フェンスを乗り越えて駐車場へ。 車がユサユサと揺れている。 東京ではまだ一度も体験したことがない規模の地震だ。 周囲からもたくさん人が集まってくる。 駐車場が一瞬避難所のようになった。 揺れが収まってから事務所に戻る。 色々なものが落下している。 キッチンの皿や丼、 CDの類はむちゃくちゃ。 そして何よりもいけないことに、 落ちてきた絵でモデムがいかれてしまった。 ネット断線である。 いろいろトライしてみるが、 電話も通じない。 「落ち着け、落ち着け」と言い聞かせ、 まずは自転車に乗って家の方へ。 こちらはオッケー。 ただ、テレビで知り得た情報があまりに唐突で、 巨大で、想像を越えており、 こんな時に電話もネットも使えない自分が どうにも悔しく感じられる。 i-phoneはだめだ。 まったく通じない。 |
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