2011年03月29日

震災の日 2011年3月11日

状況も落ち着いてきたことだし、歴史的な震災の日に自分が何をしていたのかを、詳細に書いておこうかと思う。

この日は4時45分に起床して、やや遅刻気味の仲間と合流し、東京都練馬区の会社に6時過ぎに集合した。
現場は江東区北砂の空き地で、この日は厄介な場所から出てきたコンクリート構造物を、協力会社から依頼されて撤去する作業をしていた。
作業自体は機械の性能も良くて、予想より順調に進んでおり、丸一日かかると言われていた仕事は、午後二時過ぎにはおよそ先が見える状態に至っていた。

ただ、トイレの無い現場でもあったので、少し歩いて近くのコンビニに行き、トイレを借りながら皆のお茶を買って戻る時、まず最初におかしなものを見た。

現場から200mほどの場所にある、改修中の公団マンションが、妙に霞んで見える。「水蒸気でも充満しているのか?」と思うような、もやめいた、霞がかった感じだ。
しかし、目を凝らしてよく見ているうちに、それが気のせいだと思えた。

そして現場についてすぐに、それは起きた。非常に周期の長いゆっくりとした揺れに、まず思ったことは、「ここが震源地から遠い」という事だ。
だが、それでこの大きな揺れは、未曾有の大地震を思わせた。

「まずい!この揺れはまずいぞ!」

とりあえず、慌てて建物の近くに行こうとした仲間を空き地の真ん中に呼び、そこでしゃがんで状況を見る。
現場に止められた二台の2tトラックは、見えない巨人が揺らしているように、安い映画のパニックのシーンのようにリアリティ無く、激しく揺れている。
現場の横の少し高いマンションは目に見えて数十センチ以上もの揺れ幅で揺らいでいるし、電線は見た事が無いくらい暴れている。

子供の頃に宮城県沖地震を体験したが、この揺れはあれとは桁が違った。
「関東大震災か!?」と現場やその周囲の人々が言っていたが、この周期の長い揺れは、ここが震源ではない事を意味している。
ただ、もしもこの巨大な地震が引き金になって、関東大震災を引き起こしたら?と考えると、五感を研ぎ澄まして、今のうちに全てを考えておかなくてはならない。

ところが、揺れがなかなか収まらない。このままチェーン・リアクションが発生すると言うのが最悪のシナリオだが、そうなったら最初に自分の身を守らなくてはならない。
とりあえず、運良く場所がいい。倒壊に巻き込まれないのは大きなアドバンテージだ。

と、そんな事を考えている間に少し揺れが収まったが、それでも小さな揺れが何度も続いた。

とりあえず、キリのいい部分まで仕事が終わっていたので、片付けをする。
と、近所の人々が出てきた。口々に今の揺れと、「また地震だ!」という話になる。家にいる事に不安を感じた人々が出てきたのだ。

その中に、「家の二階からやっと出てきた」という、90歳の一人暮らしのおばあちゃんがいた。おばあちゃんは異常な揺れが続いた事にすっかり不安を感じて、この空き地が安全そうだと思ったらしく、「ここにいさせてもらえませんか?」と言ってきた。

「どうぞ!」と言っているうちに、また長く大きな揺れがやってきた!おばあちゃんはトラックにつかまろうとしたが、トラックだってすごく揺れている。
「こっちにつかまって!」おばあちゃんは自分の左肩につかまったが、しゃがんでいても不安定になるようなすごい揺れが続いた。

ようやくまた揺れが収まると、何か勢いの良い水音が聞こえる。周囲を調べると、隣のマンションの貯水タンクから、激しい勢いで水が流れ出していた。
(これは応急的に水だけは止めた)

とりあえず、近くで倒れた建物は無いようだが、小さな地震が続いている。
こんな地震は経験した事が無い。

大きな機械のケースを重ねて、おばあちゃんの座る場所を作ると、仲間と共に片付けに入った。
おばあちゃんは「すいませんねぇ」と言いながら、近所の人が持ってきた毛布に包まり、ちょこんと座っている。
空を見上げると、北に異常な黒い雲が出ている。

「多分震源地はここから相当遠く。ここでもこれほどの揺れでは、震源地はどれ程の被害かわからない。多分、場所はここより北だと思う。雲がおかしい」
「情報を確認したら、地震の様子を見ながら、混む前に帰ろう」

しかし、揺れがまだまだ続いている。これは異常事態だ。
宮城の家族に連絡を取ろうにも、携帯はもう繋がらない。とりあえず、公衆電話の回線なら大丈夫なはずなので、まず宮城の実家と、千葉県の親族の家に電話をかけた。
まず、宮城は誰も出ないが、電話は普通に呼び出し音が鳴る。
倒壊などは心配してはいないものの、これで、「電話機や電話線が断線した状態にはなっていない」とわかる。
次に、千葉県の親族宅は無事につながり、安全を確認できた。

とりあえず、さっきのが本震であればいいのだが(そうだろうとは思っているが)、情報が無い事には迂闊に現場も離れられない。
携帯のワンセグをオンにて、そこからの情報に釘付けになった。

震源地は東北。やはり、遠くで、北のほうだった。とりあえず、自分の読みが合っていたのはいいが、あの揺れでは未曾有の津波が来るのではないか?と思えた。
都内の被害状況もわからない。

自分の家に関しては、江東区のこのあたりでそれほど倒壊している建物は無いのだから、心配は要らないと思えた。
もともと、極めて地勢のいい場所にしか住まない主義なのだ。震災に建築業者がダメージを受けていたのでは話しにならない。

と、どうも近所が騒がしくなり、レスキュー隊や消防車、救急車などが駆けつけ、騒然とし始めた。
後でわかったことだが、地震でこぼれた劇薬を吸引して亡くなった方の現場だったらしい。

その後、余震もやや収まり、おばあちゃんも自分の家に戻ったので、仲間と共に練馬の会社目指して出発したのだが、
丸八通りから明治通りに変わったあたりで、凄まじい渋滞が起き始めていた。
やむなく地図を見て、2tトラックにはいささか狭いような抜け道ばかり使ったが、結局こんなものは焼け石に水だ。

電車が止まったせいで、まるでお祭りのように都内に人が溢れている。「これは歴史的な瞬間だな」そんな事を考えながら、抜け道につぐ抜け道と、焦ったドライバーからの「貰い事故」に注意を払いつつ、練馬の会社にたどり着いたのは午後10時になろうとしていた。

現場は午後5時前に出たから、およそ5時間の長旅という事になる。
ここの社長と地震や都内の状況、明日の仕事その他について話した後、今度は仲間と共に千葉に向けて出発した。

「多分これは、何百年に一度とか、そういう地震じゃないかな?」
「これほどの地震であれば、半年は大地震に備えたほうがいいと思う」

そんな話をしながら、千葉県内の拠点に着いたのは、もう午前二時を過ぎていた。
こんなに長く、理不尽な運転をしたのは久々だ。
会社の、仲間のバイクは倒れてもいなかったし、部屋に入ると、1/100MGケンプファーが倒れていたくらいで、別段被害は無い。

おそらく、大変な事になるな・・・。しかし・・・。

考えても仕方が無いのと、明日も仕事があるかもしれないので、眠った。

いや、心の中に様々な物が現われていたから、眠らなくてはならないという事と、長時間の運転で疲れていたことがありがたかったのだ。

こうして、震災の一日目は終わった。










posted by The D at 00:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月16日

地震、原発、火事、津波

こんにちは。

久々の更新になるけど、日本が結構すごい事になってるな。
震災の日は、都内で仕事中にあの揺れに遭いました。
その日とそれ以降のことについてはのちに詳しく書くとして、とりあえず自分は元気です。
ただ、出身地は宮城県石巻地方なので、田舎は壊滅的ですね。
なかなか情報が入ってこず、それなりにやきもきしました。

まず最初に、震災翌日の真夜中にやっと連絡が取れた弟ですが、
某大手企業の仙台支社に勤める弟は、なんと仙台市荒浜地区(!)で商談に向かう途中で津波に遭遇。
「対向車線が急に混みだしたと思ったら、ヘリが『津波だから逃げろ!』と叫んでいて、慌ててUターンした。車は半分まで水に浸かったが、何とか高台の幼稚園に避難した」との事。
「まあ、津波で死ぬようなタマじゃないさ」とは言ったが、何でそんなところにいるんだか。
とりあえず弟は無事に仙台から山形に帰った。
で、その後は丸一日かけて、石巻地方に向かったそうだが・・・、とりあえず、実家の両親と母方の祖母は元気だった。

ただ、石巻の沿岸部に住む叔母は、一昨日の時点では知人宅の屋根とベランダに退避していて、水も食料も口にしていない状態らしい。まだ地域全体が水浸しで、救助が行き届かないのだ。今頃はもう助かっていると信じたいが。
親父は、「泳いででも助けに行く!」と意気込んでいて実際にそうしようとし、みんなに止められたらしいし、一時的におれの実家に避難している母方の祖母も、あちこち柱の折れた家に何度も歩いて向かって片付けようとしているらしい。
相変わらずエネルギー溢れる血族で、わかってはいたが逆に呆れる。

問題なのは、その叔母の娘、つまり自分からしたら従姉妹にあたる女性が、震災の少し前に出産したばかりで、まだ入院中だった事。
悪い事は考えたくないが、その病院はほとんど水に浸かり、まだ連絡も避難の情報もわかっていない・・・。

仙台の大切な知人には連絡もついたが、ライフラインは全てストップの状態。
女川町の友達の家のあたりは、何もかもが消えうせていたし、恩人の住む牡鹿半島の鮎川も壊滅状態らしい。

叔母の家のほうに向かった弟の話では、叔母の家から数百メートル手前で、もう水が2m以上も冠水していて、それ以上近づく事は出来なかったようだ。
遺体はあちこちにあり、自分の家に戻ろうとした人が、通行止めをしている警察官に「いつまで待たされたと思っているんだ!」と怒鳴って指示を無視したりしているようだ。
道路の復旧作業も、勝手に入ってくる一般車両が邪魔で、交通規制もうまく行ってないらしい。
弟も思わず、あまりの惨状に涙が流れたらしい。

田舎にいた頃は彷徨うように海辺にばかり出ていたので、それらが全て変わってしまったようで、過去が本当に消えてしまったような、普段いつも故郷に対して感じている複雑な気持ちが、より強まったような感じがしている。
これは、言葉では言い表せない。

単純に、悲しいと思えれば一番いいのだが、単純な悲しさではないのだ。

「人の描く安定なんて、幻想に過ぎない」そう普段から考えている自分にとってさえ、これほどの「不安定」は想像しきれていなかった。

日本も、田舎も、このまま緩慢に安定と停滞、老いでゆっくりしぼんでいくと思っていたのだが、どうもそうではなくなった。また時代が大きく変わろうとしているらしい。

だが同時に、自分の中では理解できる気もする。そうであればやはり、混沌とした時代に変わっていくという事だろう。


ともあれ、おれは無事。今後色々とブログは更新していきます。

posted by The D at 09:37| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月28日

落ちたら次は、上がるだろ

どうも体調不良を感じてから、しばらくは麦茶を意識してよく飲み、同時に食事を抜いたり、大幅に減らして仕事を続けていた。

背中の、腰のやや上あたりと右腹部の疼痛は、2/17日あたりをピークにして、少しずつ弱くなっていく。自覚症状としては、まず舌が荒れていないし、痛みも違うから胃ではない。胆石にしては、痛みが引くところを考えると違うようだ。
では腎臓か?しかし、やや頻尿気味ではあるものの寒い上に水分をよく摂っているから当然の範囲だし、何より、顔がむくんだりという症状も無い。
盲腸とは痛みの室も場所も違うようだし、そもそも痛みが引いていくから、これも違う。

では、何なのか?ガンだったら痛んでいる時点で、自分の年齢だったらもう完全にアウトだが、そういうストレスフルな人生を送っていないし、そもそも、ガンで死ぬような上品なタマではない。
という事は、自分の知らない何かだが、自己診断の限界のままでは気分か悪い。
しかし、こんな時に限って仕事は忙しいものだ。

とりあえず、内臓系は食事を大幅に制限しておけばある程度はもたせられるので、そういう対処で目の前の仕事をこなし続ける事にした。

で、ある朝・・・・。

仕事に出ようとして、リースのトラックを見たら、何かがおかしい。
シートをかけて、きっちり結んであったはずのロープが・・・!
「まずい!」と思った。急いで確認すると、なんてこった!電動工具がごっそりいかれている。

そう。盗まれたのだ。
とりあえず確認すると、まず、うちの会社のサンダーが二丁、これが箱ごと。次に、電動ハンマードリル一丁、そして、インパクトドライバー。
だが、まずいのはこの後だ。元請から借りた発電機と、大型電動ハンマーもだ。
うーむ・・・。まさか、ここでやられるとは。

とりあえず、大切なのはなるべく早い対処だ。
まず元請に電話して、次に現場に向かい事情を説明。この日の仕事は中止にして、次に警察に被害届けを出した。

一通り落ち着いて、気がつけばもう昼だ。
とりあえず、食事制限をしているのでお茶を飲んで落ち着き、今回の件の意味を考えた。
もともと、自分はそうそう不運な方ではなく、不運に見えることにはいつも意味があった。今回の件はどういう意味か?

最近忙しすぎて、色々な事が手付かずだ。忙しいのはいいことだが、本当はこれだけ体調不良なのに病院に行かなかったり、他の諸々を手付かずにしていたのも問題だろう。
まして、昨年一年間は本当に過酷な年だった。そろそろ身体もいたわらなくては駄目で、それがおろそかであれば、幾ら働いても全てが根底から駄目になりかねない。
そういう事を諭されているような気がした。

「よし!午後から病院に行こう!」

そう遠くないところに救急病院がある。まずは少し眠って、夕方近くにその病院に行った。
野戦病院のような活気のその病院で、驚いたのは待ち時間が異様に短い事だ。着いて15分ほどで呼ばれ、診察が終った。自分の中の病院のイメージは、「時間ばかり取られる」というものだが、この病院ではそういう事が無いようだ。
では、気になる診断結果は?

「大腸憩室炎」との事だ。最近増えているらしい。全く自分の知らなかった病気だ。薬を待つ間にスマートフォンで検索してみると、確かに自分の症状全てが思い当たる。
まして、怪力が売りのひとつの自分は、時として力仕事の時に腰を痛めないように非常にきつくベルトを締めなおして作業したりもしていたから、そういうのも良くなかったのかもしれない。
頑丈な骨格と、鍛えた筋肉があっても、内蔵はそうはいかないという事か。

ひとまず、体調不良の原因もわかったことだし、自分なりの節制も効いていて、既に一番ひどい状態は脱していたらしい事もわかった。
そういえば、しばらく食事の時間が不規則だったし、昨年末あたりから、妙に野菜が食べたい時が増えていたっけ。ともあれ、おかしな病気でなくて良かった。

そうして安心して家に戻り、またお茶を飲みながらのんびりしていると、今度はお巡りさんがやってきた。
「確認していただきたい物があるのですが」との事だ。まさか、盗まれた物が戻ってきたのか?
そう考えつつ、お巡りさんについていくと、近所の農家のおじさんを紹介された。
うちの駐車場のすぐそばの農場の持ち主の方で、昼間の私とお巡りさんとのやり取りを見ていて「盗難かな?」と思い、自分の農場を見てまわったら、低い壁に囲まれた一角に、見たことの無い発電機が置いてあったというのだ。

確認したら、これこそ盗まれたもの。うちの元請会社から借りてきた発電機だ。
弁償するにせよ、なんにせよ、一番高い物が戻ってきた!
農家のおじさんに礼を言って、お巡りさんに運ぶのを手伝ってもらい、返還書類をサインしてこの日は終った。
他のものは戻ってこなかったが、まだわからない。
いずれにしても、被害額で20万以上軽減された事には変わりは無い。普通はこんな事はあまり無いだろう。
病院に行ったのが良かったのかもしれない。

犯人は盗んだものの、積みきれないか重すぎて、いったん目立たないところに発電機をデポしたわけだ。再び取りに来る前にこれを見つけられた、という事らしい。

「また、自伝に書けるネタが増えたな」

そう嘯いて、この日の事は心の中でまとまった。
人生が落ち目の時は、予想外に色々あるものだが、だからって嘆く必要なんて無い。
落ちれば次は上がるし、それの繰り返しだ。まして、自分の道が明確に見えているのだから、こんな物事は人生の添え物みたいなもんだ。

未来への幸運の貯金を予想外に多く預けたと思っとけばいい。この忙しさなら、道具もすぐに揃え直せるだろうし。
ま、こんな事もあるよね。
とりあえず、体調不良の件も謎が解けて安心したし。
そして今日は雨。仕事の合間の良い休息だ。もう春なんだな。
posted by The D at 12:40| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月15日

やばいかもしれん。

今日は珍しい大雪で内業務ばかりこなしていたが、それでもこんな時間になってしまった。

ところで、どうも、どこか決定的に悪くしてしまったようで、
腰のやや上の背中と、右脇腹の下が痛む。昔からたまに鈍い痛みがあったから、おそらく胆石か何かだろうとは思うのだが。
残念な事に、忙しくてしばらく休めそうになくて、自分で食事制限をして痛みを抑えている。
ただ、昨年から妙に風邪をひき易くなったので、もしかしたら腎機能が弱っているのかな?とも思っているのだ。
昨年から、仕事で痛めた「骨の痛み」の回復が遅いし、痛んでいる場所も腎臓ともダブっている。
胆石なら何とかおかしな場所に転がらないでほしいし、腎臓なら、とりあえず早めの診察が一番なのだが、今は自分で食事制限をしながら、麦茶を大量に飲んでおくしか方法がない。

心配はそれほどしてないが、あまり気持ちの良いものではないね。
来週末までは、持ちこたえないとな・・・。

もっとも、あれだけ無理してたんだから、どこか多少痛まなければおかしいのだけれど。

たまには身体を痛めてしまうのも理不尽だとは思わない。そろそろ休まなくてはならないのはわかっていたから。
東京に来てからずっと、突っ走ってきたものな。
雪を見ると、全てがもうだいぶ変わったのだと感じる。「少し休んでもいいかもな」と思えた。

うん、まずは目の前の仕事を片付けよう。
posted by The D at 22:42| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月05日

料理マニア?

最近、わけあって、自分のこだわりもあって、やたらと料理を作っている。

もともと、父親が料理の講習会で講師をしばしばやってたり、長いこと行ってない実家には、家庭で作れるほとんどの料理の本の全集が揃っていたりする事もあり、どこか料理には縁があったのだ。
まあ、中学から社会人になってしばらくまで、ほぼ家の味噌汁や惣菜を調理せざるを得なかったこともあるんだろう。
これは家族との関係上、嫌々ながらにこなしていた義務だ。
不本意に身についたことを、あとで何とか自分の楽しみにどうにか転化させようという、自分の癖が今になって出ているのかもしれない。

例えば、仕事でイヤと言うほど写真を撮ることになったので、後に写真を趣味の一つにしたり、スパルタの空手道場に通わされたので、後に自分で空手を習い始めたり。
嫌々ながら毎日ランニングさせられたので、その後自分で走るようになったり。どこか変わったひねくれ方をしているのだ。
誰かのせいで何かを「二度と嫌だ!」と思うのが損だと思っている部分が在る。

それで、あとあと料理にも凝り出したのだ。

ちなみに、魚関係は今はもうあまりすることが無い。釣りに行く事がしばらく無理な上に、大体、したいことはしてみたのだ。

つまり、海で釣った魚をその場で血抜きして冷やし、もって帰って来て、出刃包丁で捌いて刺身にする。たたきにする場合もある。
三枚におろしたり、「なめろう」を作ったり、竜田揚げにしたり、干物にしたり、「みりん干し」を作ったり。
ワラサを三本釣り上げた時には、年末に「ブリ尽くし」をして楽しんだりしたものだ。

しかし、最近はまっている料理はそういうものではない。「煮物」をちょっと極めてみたくなったのだ。
どういう事かといえば、適当な材料で、醤油、砂糖、日本酒だけで、そこそこ味を調えて煮物を作れる「勘」が欲しくなったのだ。

なので最近、季節もあるがやたらと料理(それも煮物が多い)を作っている。

しかも、インターネットには手軽なレシピが溢れていて、とても便利だ。

ここ何日かで作ったもの(レシピはクックパッドでも参考に)。

白菜とねぎと豚肉の煮物
衣にビール使用の天ぷら(たらの白身、ちくわ、はんぺん、マイタケ、たらの白子、サツマイモ、イカ、レンコン、ゴボウとニンジンと白菜とエビのかき揚げ)
大学芋
水とだしを使わない肉じゃが

・・・ここまでは上手に出来た。もちろん、味噌汁は必ず作っている。

近日中に、以前から挑戦したかった筑前煮に挑戦してみようと思う。
上手く行くといいのだけれど。


posted by The D at 23:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする