黒井竜也、17歳。2ヶ月前までは××県の高校2年生。現在は、奴隷である。
「黄金の帝国」・導入篇
第1話「奴隷から始めよう」その1
太陽は黄金のような明るい光を放ち、雲は新雪のように白く輝いている。海は宝石のようにどこまでも碧く燦めいていた。産業活動に一切汚染されていない美しい海と自然、それに夏の日差し。竜也はそれを全く他人事のように虚ろな表情で眺めていた――ガレー船の船体と櫂の間のわずかな隙間から。
板子一枚下は地獄、と昔の船乗りはよく言ったそうだが、竜也の乗るガレー船は板の上こそが本当の地獄である。天井が低く狭苦しい船倉に数十人の男が押し込められている。全員身にまとっているのはボロボロの腰布一枚だ。足を鎖でつながれ、逃げることもできない。眠るときも座ったままで、大小便は垂れ流し。食事もこの目も開けられないような悪臭の中でせねばならず、1日1回出される食い物は半ば腐ったパン切れや干し肉だ。
竜也の同僚等、つまり櫂の漕ぎ手だが、彼等のほとんどは白人で、ごく一部にアラブ系と思しき白人や黒人の姿が見受けられた。彼等がしゃべっているのは竜也が今まで聞いたことのない言語だった。竜也は何度か英語による意志の疎通を試みたのだが、全くの徒労で終わっていた。それでも2ヶ月も彼等とともに櫂を漕いでいれば、必要最低限の単語は覚えるようになる。
「פדאל מהר!」
赤ら顔の鬼のような船員が船倉に降りてきて、「もっと早く漕げ」と怒鳴っている。
《ころすころすころすころす……》
竜也は小さく念仏を唱えるように悪態をつきながら、櫂を持つ手に力を込めた。
(くそっ……! 俺の中に眠る『黒き竜の血』が目覚めさえすれば……! こんな船一撃で沈めて、あいつは八つ裂きにして、生まれてきてごめんなさいと言わせてやって……! 今目覚めないでいつ目覚めるんだよっ!)
竜也は「黒き竜の血」を目覚めさせようと懸命に精神を集中するが、それが目覚める気配の欠片すら感じられなかった――まあ、「竜の血」などただの脳内設定なのだから当然だが。
竜也が奴隷の身に落とされ、ガレー船の漕ぎ手となってすでに2ヶ月が経過している。
2ヶ月前まで竜也は普通の高校2年生だった(その性格はともかくとして)。日本に百万人はいそうな平々凡々な高校生に過ぎなかったが(その内面はともかくとして)、それでも奴隷扱いされるような理由は全くなかったのだ(……多分)。
2ヶ月前の夏休みのその日、竜也はクラスメイトと一緒に海水浴を楽しんでいた。
お調子者の悪友はナンパを試みてことごとく失敗し、別の友人はクラスの女子生徒と良い雰囲気を作っている。竜也は一人浮き輪に乗って波に揺られながら、
《……ここで溺れて生命の危機に陥ったら、俺の中に眠っているかもしんない『黒き竜の血』が目覚めたりしないかなー》
等と、たわけた妄想に浸っていた。勿論竜也も「黒き竜の血」が自分の空想の産物でしかないことは百も承知だ。実際竜也はその空想を外部に示したり、他者に明かしたりしたことは一度たりとてない。両親や級友からの竜也の評価は「物静かで思慮深い読書少年」というものだった。
だが竜也は、こうして波に揺られつつのんびり哲学でも思索しているように見えながら、実際真剣に考えていたのは「死なない程度の溺れ方」だったりする。
そうやって、17歳の夏休みという燦めくばかりの一時をどぶに捨てるみたいな過ごし方をしていた竜也だが、浮き輪が潮に流されて思ったよりも沖合に出てしまったことに気が付いた。竜也は慌てて浜に戻ろうとする。
その時何が起こったのか、竜也には今でもよく判らない。最初は不意に竜巻が現れ、それに巻き込まれたのかと思っていた。周囲が急に暗くなったかと思うと、巨大なミキサーにかき回されたかのようにもみくちゃにされ、吹き飛ばされ、長々と宙を飛んで、再び海に飛び込んだ。何が何だか訳が判らないままやっとの思いでどうにか海岸に上がってみると、そこは竜也の知る場所ではなかったのだ。
先ほどまでは砂浜にいたはずなのに、上陸した場所は見たこともない港になっていた。粗末な石造りの桟橋があり、多くの船が並んでいる。船は帆船やガレー船、渡し船のようなボートばかりで、エンジンの付いた船が1台も見あたらない。道路は舗装されていない砂利道で、行き交う車は馬車か荷車ばかりで自動車は1台も見つけられない。周囲の建物は粗末な木造の平屋が多く、一部に石造りの建物が混じっている。竜也の姿を見て不思議そうに騒いでいるのは白人ばかりで、日本人は一人もいない。
《何? ここどこ? あの海の近くにこんなところあったっけ? タイムスリップでもしたって言うのか? そんな設定考えたことないぞ》
竜也が状況を理解できずに呆然としている間に、お城の衛士のような姿の官憲がやってきて竜也を拘束。特に抵抗せずに捕まった竜也は簡単な尋問の後(互いに言葉が全く通じないことが確認されただけで尋問は終了した)牢屋にぶち込まれた。そして次の日にはガレー船に乗せられ、以来櫂を漕ぐだけの日々が続いている。
ガレー船に乗せられる前に唯一身に付けていてた海水パンツを取り上げられそうになり、竜也は抵抗した。が、船員の一人に棍棒で歯が折れそうなほど殴られ、皮膚が深く裂けるほど鞭打たれて抵抗をやめた。現実を受け入れた。
自尊心とかヒューマニズムとかいう概念は綺麗な箱にしまって棚の上に片付けて、竜也の身体はただ生き長らえることだけを目的とした機械と化した。そうでなければ彼の精神は三日と保たず、精神につられて身体の方もとっくの昔に死んでしまっていただろう(ただ、箱の中では中二病が重篤にまで進行していたのだが)。
だが、精神的にはともかく身体の方は物理的な限界を迎えつつあった。必要最低限のカロリーも満足に補給できないまま劣悪を極めた環境で過酷な労働を強いられる状態が、すでに2ヶ月も続いている。竜也の隣に座っていた男が櫂を動かせなくなり、船員に引きずり出されて海に投げ捨てられたのは昨日の話である。竜也が同じ末路をたどるのも時間の問題――具体的には、早ければ残りあと数日の話だった。
《とにかく、早くここから逃げ出さないと》
妄想で現実に復讐して多少なりとも気晴らしをした竜也は、今は過酷な現実を見据えた思考を進めていた。足をつなぐ鎖の目の弱そうな場所を選び、垂れ流される小便をなすりつけ、櫂を漕ぐのに合わせて床に擦りつけ続けてきた。2ヶ月間のその地道な努力が目を結び、鎖はちょっと力を入れればすぐに千切れそうである。
後は逃げるタイミングだけなんだが、と竜也は船体の隙間から外を見、息をとめた。
(陸地――!)
鬼のような船員がまた船倉に降りてきて、焦った様子でさらに怒鳴る。
「דרום ליד! בשורה משוטים מהר!」
細かいことは判らないが大体のニュアンスは判った。「敵国の近くまで風で流されてしまった、もっと早く櫂を漕げ」というところだ。
竜也達のガレー船は、東の本国から西の最前線の拠点に兵糧や物資を運ぶ任務に就いているようで、今は前線から本国への帰り道である。急いで帰国するために夜も帆を張って航行していたのだが、方向を間違えたようで敵国のすぐ近くまで流されてきてしまったらしい。
(今しかない)
竜也は脱走を決意した。竜也達にとっては鬼に等しい看守のような船員が、姿も見せない「敵」に怯えている。船員だけでなく、竜也の同僚等も同じように「敵」の影に怯えていた。皆いつになく協力的に櫂を漕いでいる。
(今しかない。『敵』のところへと脱走する奴がいるなんて、誰も考えてない)
竜也にとっては彼等が何をそんなに怯えているのか全然理解できなかった。あるいはそれはただの無知の産物なのかもしれない。だが「敵」がどれほど凶悪だろうと、逃げ込んだ先でまた奴隷にさせられようと、この糞そのものの船倉でこのまま息絶えるよりは何倍もいい。
竜也は櫂から手を離し、両足を持ち上げて鎖を櫂に引っかけた。そして両手両足の全ての力を全体重を鎖へと集中させる。鉄鎖の砕ける澄み切った音が船倉に響いた。
船員も含めた一同が唖然としている間に竜也は走り出す。船員が慌てて竜也を捕まえようとするが、竜也は腰に巻いていたボロ布を使って船員の視界を塞いだ。空を切る船員の腕をすり抜け、竜也の振り上げた踵が船員の側頭にめり込む。船員は崩れるように両手両膝を床についた。
たった数秒の行動で、竜也は体力の99パーセントを使い果たしたかのようだった。船員が頭を押さえてうめいている間に、竜也は梯子を上がり甲板へと身を乗り出す。他の船員があっけにとられている間に、竜也はそのまま転がるように海へと飛び込んだ。数拍の間を置き、竜也は海面へと顔を出す。竜也の身体はあっという間に潮に流され、ガレー船から遠ざかっていく。ガレー船の甲板では船員が竜也を指さし、何やら騒いでいた。
《あははははは!》
この2ヶ月間のあらゆる汚辱や屈辱が、冷たい海水に洗い流されていくかのようだった。竜也は17年間の中で最大級の歓喜を爆発させた。残された体力の全てを笑いの衝動につぎ込んでいく。
《あはははははははは! ざまーみやがれ! 思い知ったかー!》
潮に流されて見る見る陸地が近付いていく中、完全に体力を使い果たした竜也は急速に睡魔に捕らわれつつあった。眠るにしても上陸してからにしたかったのだが、到底それまで保ちそうにない。
《あ、まずい》
あるいはこのまま溺れ死ぬかもしれない、そう思いながらも、竜也はそのまま睡魔に身をゆだねる他なかった。竜也の意識は滑り落ちるように暗くなっていった。