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[19836] 黄金の帝国【異世界トリップ・建国】
Name: 行◆7de1d296 ID:4f0990fa
Date: 2010/09/17 20:12
「黄金の帝国」





 まえがき





○本作は一応オリジナルですが、「A君(17)の戦争」「アルスラーン戦記」「うたわれるもの」その他諸々の多大な影響を受けています。

○本作には、異世界トリップ・成り上がり・戦争・内政・建国、あとハーレム?等の要素が含まれます。

○本作はいわゆる主人公最強物ではありません。主人公が魔法なり超能力なりの超常的なチート能力に覚醒することは絶対にありません。








[19836] 第1話「奴隷から始めよう」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/06/25 21:26





 黒井竜也、17歳。2ヶ月前までは××県の高校2年生。現在は、奴隷である。










「黄金の帝国」・導入篇
第1話「奴隷から始めよう」その1










 太陽は黄金のような明るい光を放ち、雲は新雪のように白く輝いている。海は宝石のようにどこまでも碧く燦めいていた。産業活動に一切汚染されていない美しい海と自然、それに夏の日差し。竜也はそれを全く他人事のように虚ろな表情で眺めていた――ガレー船の船体と櫂の間のわずかな隙間から。

 板子一枚下は地獄、と昔の船乗りはよく言ったそうだが、竜也の乗るガレー船は板の上こそが本当の地獄である。天井が低く狭苦しい船倉に数十人の男が押し込められている。全員身にまとっているのはボロボロの腰布一枚だ。足を鎖でつながれ、逃げることもできない。眠るときも座ったままで、大小便は垂れ流し。食事もこの目も開けられないような悪臭の中でせねばならず、1日1回出される食い物は半ば腐ったパン切れや干し肉だ。

 竜也の同僚等、つまり櫂の漕ぎ手だが、彼等のほとんどは白人で、ごく一部にアラブ系と思しき白人や黒人の姿が見受けられた。彼等がしゃべっているのは竜也が今まで聞いたことのない言語だった。竜也は何度か英語による意志の疎通を試みたのだが、全くの徒労で終わっていた。それでも2ヶ月も彼等とともに櫂を漕いでいれば、必要最低限の単語は覚えるようになる。

פדאל מהר!

赤ら顔の鬼のような船員が船倉に降りてきて、「もっと早く漕げ」と怒鳴っている。

《ころすころすころすころす……》

竜也は小さく念仏を唱えるように悪態をつきながら、櫂を持つ手に力を込めた。

(くそっ……! 俺の中に眠る『黒き竜の血』が目覚めさえすれば……! こんな船一撃で沈めて、あいつは八つ裂きにして、生まれてきてごめんなさいと言わせてやって……! 今目覚めないでいつ目覚めるんだよっ!)

 竜也は「黒き竜の血」を目覚めさせようと懸命に精神を集中するが、それが目覚める気配の欠片すら感じられなかった――まあ、「竜の血」などただの脳内設定なのだから当然だが。




















 竜也が奴隷の身に落とされ、ガレー船の漕ぎ手となってすでに2ヶ月が経過している。

 2ヶ月前まで竜也は普通の高校2年生だった(その性格はともかくとして)。日本に百万人はいそうな平々凡々な高校生に過ぎなかったが(その内面はともかくとして)、それでも奴隷扱いされるような理由は全くなかったのだ(……多分)。

 2ヶ月前の夏休みのその日、竜也はクラスメイトと一緒に海水浴を楽しんでいた。

 お調子者の悪友はナンパを試みてことごとく失敗し、別の友人はクラスの女子生徒と良い雰囲気を作っている。竜也は一人浮き輪に乗って波に揺られながら、

《……ここで溺れて生命の危機に陥ったら、俺の中に眠っているかもしんない『黒き竜の血』が目覚めたりしないかなー》

 等と、たわけた妄想に浸っていた。勿論竜也も「黒き竜の血」が自分の空想の産物でしかないことは百も承知だ。実際竜也はその空想を外部に示したり、他者に明かしたりしたことは一度たりとてない。両親や級友からの竜也の評価は「物静かで思慮深い読書少年」というものだった。

 だが竜也は、こうして波に揺られつつのんびり哲学でも思索しているように見えながら、実際真剣に考えていたのは「死なない程度の溺れ方」だったりする。

 そうやって、17歳の夏休みという燦めくばかりの一時をどぶに捨てるみたいな過ごし方をしていた竜也だが、浮き輪が潮に流されて思ったよりも沖合に出てしまったことに気が付いた。竜也は慌てて浜に戻ろうとする。

 その時何が起こったのか、竜也には今でもよく判らない。最初は不意に竜巻が現れ、それに巻き込まれたのかと思っていた。周囲が急に暗くなったかと思うと、巨大なミキサーにかき回されたかのようにもみくちゃにされ、吹き飛ばされ、長々と宙を飛んで、再び海に飛び込んだ。何が何だか訳が判らないままやっとの思いでどうにか海岸に上がってみると、そこは竜也の知る場所ではなかったのだ。

 先ほどまでは砂浜にいたはずなのに、上陸した場所は見たこともない港になっていた。粗末な石造りの桟橋があり、多くの船が並んでいる。船は帆船やガレー船、渡し船のようなボートばかりで、エンジンの付いた船が1台も見あたらない。道路は舗装されていない砂利道で、行き交う車は馬車か荷車ばかりで自動車は1台も見つけられない。周囲の建物は粗末な木造の平屋が多く、一部に石造りの建物が混じっている。竜也の姿を見て不思議そうに騒いでいるのは白人ばかりで、日本人は一人もいない。

《何? ここどこ? あの海の近くにこんなところあったっけ? タイムスリップでもしたって言うのか? そんな設定考えたことないぞ》

 竜也が状況を理解できずに呆然としている間に、お城の衛士のような姿の官憲がやってきて竜也を拘束。特に抵抗せずに捕まった竜也は簡単な尋問の後(互いに言葉が全く通じないことが確認されただけで尋問は終了した)牢屋にぶち込まれた。そして次の日にはガレー船に乗せられ、以来櫂を漕ぐだけの日々が続いている。

 ガレー船に乗せられる前に唯一身に付けていてた海水パンツを取り上げられそうになり、竜也は抵抗した。が、船員の一人に棍棒で歯が折れそうなほど殴られ、皮膚が深く裂けるほど鞭打たれて抵抗をやめた。現実を受け入れた。

 自尊心とかヒューマニズムとかいう概念は綺麗な箱にしまって棚の上に片付けて、竜也の身体はただ生き長らえることだけを目的とした機械と化した。そうでなければ彼の精神は三日と保たず、精神につられて身体の方もとっくの昔に死んでしまっていただろう(ただ、箱の中では中二病が重篤にまで進行していたのだが)。

 だが、精神的にはともかく身体の方は物理的な限界を迎えつつあった。必要最低限のカロリーも満足に補給できないまま劣悪を極めた環境で過酷な労働を強いられる状態が、すでに2ヶ月も続いている。竜也の隣に座っていた男が櫂を動かせなくなり、船員に引きずり出されて海に投げ捨てられたのは昨日の話である。竜也が同じ末路をたどるのも時間の問題――具体的には、早ければ残りあと数日の話だった。

《とにかく、早くここから逃げ出さないと》

 妄想で現実に復讐して多少なりとも気晴らしをした竜也は、今は過酷な現実を見据えた思考を進めていた。足をつなぐ鎖の目の弱そうな場所を選び、垂れ流される小便をなすりつけ、櫂を漕ぐのに合わせて床に擦りつけ続けてきた。2ヶ月間のその地道な努力が目を結び、鎖はちょっと力を入れればすぐに千切れそうである。

 後は逃げるタイミングだけなんだが、と竜也は船体の隙間から外を見、息をとめた。

(陸地――!)

 鬼のような船員がまた船倉に降りてきて、焦った様子でさらに怒鳴る。

דרום ליד! בשורה משוטים מהר!

 細かいことは判らないが大体のニュアンスは判った。「敵国の近くまで風で流されてしまった、もっと早く櫂を漕げ」というところだ。

 竜也達のガレー船は、東の本国から西の最前線の拠点に兵糧や物資を運ぶ任務に就いているようで、今は前線から本国への帰り道である。急いで帰国するために夜も帆を張って航行していたのだが、方向を間違えたようで敵国のすぐ近くまで流されてきてしまったらしい。

(今しかない)

 竜也は脱走を決意した。竜也達にとっては鬼に等しい看守のような船員が、姿も見せない「敵」に怯えている。船員だけでなく、竜也の同僚等も同じように「敵」の影に怯えていた。皆いつになく協力的に櫂を漕いでいる。

(今しかない。『敵』のところへと脱走する奴がいるなんて、誰も考えてない)

 竜也にとっては彼等が何をそんなに怯えているのか全然理解できなかった。あるいはそれはただの無知の産物なのかもしれない。だが「敵」がどれほど凶悪だろうと、逃げ込んだ先でまた奴隷にさせられようと、この糞そのものの船倉でこのまま息絶えるよりは何倍もいい。

 竜也は櫂から手を離し、両足を持ち上げて鎖を櫂に引っかけた。そして両手両足の全ての力を全体重を鎖へと集中させる。鉄鎖の砕ける澄み切った音が船倉に響いた。

 船員も含めた一同が唖然としている間に竜也は走り出す。船員が慌てて竜也を捕まえようとするが、竜也は腰に巻いていたボロ布を使って船員の視界を塞いだ。空を切る船員の腕をすり抜け、竜也の振り上げた踵が船員の側頭にめり込む。船員は崩れるように両手両膝を床についた。

 たった数秒の行動で、竜也は体力の99パーセントを使い果たしたかのようだった。船員が頭を押さえてうめいている間に、竜也は梯子を上がり甲板へと身を乗り出す。他の船員があっけにとられている間に、竜也はそのまま転がるように海へと飛び込んだ。数拍の間を置き、竜也は海面へと顔を出す。竜也の身体はあっという間に潮に流され、ガレー船から遠ざかっていく。ガレー船の甲板では船員が竜也を指さし、何やら騒いでいた。

《あははははは!》

 この2ヶ月間のあらゆる汚辱や屈辱が、冷たい海水に洗い流されていくかのようだった。竜也は17年間の中で最大級の歓喜を爆発させた。残された体力の全てを笑いの衝動につぎ込んでいく。

《あはははははははは! ざまーみやがれ! 思い知ったかー!》

 潮に流されて見る見る陸地が近付いていく中、完全に体力を使い果たした竜也は急速に睡魔に捕らわれつつあった。眠るにしても上陸してからにしたかったのだが、到底それまで保ちそうにない。

《あ、まずい》

 あるいはこのまま溺れ死ぬかもしれない、そう思いながらも、竜也はそのまま睡魔に身をゆだねる他なかった。竜也の意識は滑り落ちるように暗くなっていった。













[19836] 第1話「奴隷から始めよう」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/06/25 21:45





「黄金の帝国」・導入篇
第1話「奴隷から始めよう」その2










 竜也は小さな漁村に漂着し、そこの村民に拾われた。

 スープを飲ませてもらい、餓死寸前の身体に栄養を補給。井戸端で身体を洗って2ヶ月分の垢と汚れを落とし、粗末ながらも衣服をもらってようやく人心地ついた。貧しいながらも人情に厚い村人達の対応に、竜也は涙を流して感謝した。竜也は数日の間はゆっくり休み、体力の回復に努める。その後、身振り手振りで何とか意思の疎通を試み、薪割りや薪拾い、田畑の耕作等の雑用をするようになった。

 人間らしい生活を送るうちに、21世紀の現代人らしい思考も回復するようになった。

《今はいつで、ここはどこなんだ?》

 竜也はガレー船の漕ぎ手をしていた時に火縄銃らしき銃器を運んだことがある。それに、十字架を掲げた教会を見たこともあったから、ここは中世のヨーロッパなのだろうと考えていた。陸地が北にあり、南が海。温暖な気候から考えて、場所は地中海と推定した。そうなると、陸地が南で北に海がある今いる場所は北アフリカということになる。実際、漁村の住民は黒人系に属する人々だったし、住民の衣服や竜也がもらった衣服もヨーロッパのそれとはちょっと違うエキゾチックな物である。

《でも、その割にはイスラム教徒の姿を見かけないんだけど》

 メッカへの礼拝を行っておらず、肌を露わにした女性が村を闊歩している。少なくとも村民がイスラム教徒でないことは間違いない。彼等の宗教が何なのかはよく判らないが、原始的なアニミズムのように見受けられた。

 それに、雨も良く降るし草木も生い茂っている。気候は日本の晩夏程度で、涼しく過ごしやすくなっている。砂漠の気配はどこにも感じられず、緑の豊かさは日本の田舎を凌駕するほどだ。村の様子は竜也が持つ北アフリカのイメージとはかけ離れていた。

《単に俺が知らなかっただけで、北アフリカにもこんな場所があったってことか? それともここは地中海じゃなくて、インド洋とか大西洋とかか? でも、北側の町はただの植民都市じゃなくてヨーロッパの町そのものとしか思えなかったし》

 決定的に情報が足りない中で、悩んでいても結論は出ない。そのうちに思考は明後日の方向へと流れていく。

《もしかしたら過去の地球じゃなくて平行世界、異世界かも。異世界トリップならデフォルトで言葉が通じるようにしてくれればいいのに。あと、この身に宿っているはずのチート能力もさっさと目覚めてくれ。具体的には『黒き竜の血』》

 竜也は薪を拾いながら愚にも付かない妄想を弄んだ。

《現代知識を生かして金儲けや内政をするにしても、とにかく言葉が通じないことにはどうしようもない!》

 経過はともかく、出てきた結論はそれほど間違っていなかった。竜也は積極的に村民に話しかけて言葉を覚えることに尽力した。



















 その村の漂着して半月ほど経過した頃。二人の男が竜也の前に現れた。

האם הילד הזה?(この子に間違いないんですか?)」

נמלט האיש הזה מ שלנו(ああ、俺達のところから逃げたのはこいつだ)」

 村民の一人に案内されて竜也の前にやってきた男達は、嫌な雰囲気を漂わせていた。竜也の身体はその感覚を覚えていた。暴力で他者を従わせること、踏みにじることに疑問を抱かず、むしろ悦びを抱く者――ガレー船の船員等と全く同じ雰囲気である。

 竜也はその場から遁走しようとする。だが男達の方が早かった。竜也の逃げようとする先に回り込んだ男は、剣を竜也へと突きつける。竜也は逃亡を断念する他なかった。

 竜也は腕を縄で縛られ、男達に引きずられて村を去っていく。村人はそんな竜也を気の毒そうに見送っていた。一方竜也は、

《あーる晴れたーひーる下がりー》

 自棄になってドナドナを歌う竜也を、男達は不気味なものを見るかのような眼で眺めた。

 竜也が連れられて移動した先には、それなりの大きさの帆船があった。マストは2本で、帆の数は4~5枚。竜也はその帆船の船倉の牢屋へと入れられる。牢屋には何人かの先客がいた。竜也が入れられたのは男だけの牢屋だったが、女だけの牢屋も別にあるようだった。女性や女の子のすすり泣く声が漏れ聞こえてきている。

《そーじゃないかと思っていたけど……》

 竜也を拘束したのは、以前のガレー船とは全く無関係の連中のようだった。奴隷商人には違いないようだが。

 おそらく、どこかで竜也のことを耳にして「この男は我々のところから逃げ出した奴隷だから返してもらう」等と適当なことを言って漁村の村民を騙したのだろう。村民に多少の謝礼を払っても、普通に成人男子の奴隷を手に入れるよりは安上がりなのだろう。

《状況は理解した、あとはとにかく逃げるだけだ》

 ガレー船の時と比較すれば気力体力ともに充実しており、条件は遙かに良い。竜也は身体を休め、静かに機会を伺った。




















 その機会は意外と早くやってきた。

 その夜、竜也は船員に連れられ、帆船の甲板へと上がっていた。竜也だけではなく、幾人かの奴隷が同じように甲板に連れてこられている。狭い甲板には柄の悪い船員が充満しており、その中央には船長と思しき男が偉そうに椅子に座っていた。

 その船長に対し、竜也を漁村で捕まえた男二人が竜也を見せ示しながら何かをアピールしている。どうやらこれは、「商品」の仕入れ具合を部下達が船長に報告する会のようだった。なお竜也は知らないことだったが、中性的な顔立ちで珍しい色の肌をした竜也は、かなり高い商品価値を認められていた――男娼として。

 竜也に続いて数組の奴隷が船長へと紹介され、報告される。借金の形に売られたと思しき姉妹には船員から好色に満ちた視線が注がれ、姉妹はすすり泣く。竜也はその場で唾棄したかったが、何とか我慢した。

 そして、報告会のトリを飾る少女が姿を現す。竜也は呆然としながら少女を見つめた。

 現代の日本で言うなら小学校1~2年生くらい。雪のような白い肌と赤い瞳を持つ、アルビノの少女だ。上等そうな白いワンピースをまとい、薄い灰色のような色合いのショートヘアの上に、兎の耳を生やしている。とは言っても本当に獣耳が生えているわけではなく、アクセサリーの一種のようだった。

 柄の悪い船員等が気圧されたように沈黙する中、小さな少女は傲然と船長へと向き合った。少女の横には幹部クラスと思しき船員が立ち、自慢げに少女をアピールする。

זהו……(これは、白兎族の娘か)」

חטיפה……(はい、タムリットの豪商が飼っている娘を誘拐してきたものです)」

שמועה……(噂には聞いたことがある。『悪魔』と呼ばれているというあの娘か)」

כן……(その通りです)」

 これは高く売れそうだ、と船長と幹部は嫌らしく嗤い合った。

 その時、いきなり少女が幹部の腕を掴む。反射的に少女に向いた幹部の視線と、少女の視線がぶつかった。

להרוג……(近いうちに船長を殺し、自分が船長に成り代わるつもりでいる)」

אתה!(貴様!)」

 幹部は力任せに少女の腕を振り払う。少女は甲板に倒れたが、倒れたまま幹部を嘲笑して見せた。

רעל……(毒を使って殺すつもり。もう用意していて、梁の上に隠している)」

אתה……(貴様! 適当な嘘を――!)」

 幹部は剣を振り上げ、少女を斬ろうとした。だが竜也が幹部に体当たりし、諸共に倒れる。竜也は素早く立ち上がり、少女を背に庇う位置に移動した。

(うおお??! 何やってんだよ俺?! 殺されるじゃねーか!)

 少女を助けるために身体が勝手に動き、結果として9割方殺されるだろう状況に陥ったことに、竜也は大いに混乱している。今まで何度か似たような真似をして痛い目に遭ってきたとは言え、今の危険の度合いはこれまでとは桁違いだ。

(うぉぉぉっっ! 目覚めよ『竜の血』! 速やかに目覚めてくださいお願いします!)

 惑乱し妄想へと現実逃避する竜也だがそんな内心はおくびにも出さず、毅然と幹部の前に立ちはだかっていた。少女はそんな竜也の背中を驚きとともに見つめている。

 幹部は竜也と少女をひとまとめに斬り伏せようとした。だが、

חכה(待て)」

 船長が幹部を止める。船長は冷たい殺意に満ちた視線を幹部へと向けた。

שקר……(船長、こんな子供の嘘を信じないでください)」

 幹部は笑って誤魔化そうとするが、失敗した。嫌な沈黙と緊張がその場を満たす。脆くも絶妙のバランスの上に成立した、静止状態。それは外部からの衝撃によって崩された。

אויב――!!」

 見張りの船員が何かを叫ぶ。見張りが指し示す方向には、髑髏の旗を掲げた一隻のガレー船が。そのガレー船はこの船の目と鼻の先まで迫っており、この船の横腹に衝角を向けて猛然と突進してきている。

 驚きのあまり全員が硬直している中、竜也だけが動き出していた。小柄な船員の一人に目をつけ、跳び蹴りを食らわせる。倒れた船員の持っていた短刀を拾い上げ、それを兎耳の少女に手渡した。少女は手早く竜也の腕を縛っていた縄を切る。

 竜也は右手に短刀、左手に少女の手を掴み、甲板の端へと走っていく。短刀を出鱈目に振り回して周囲の船員を避けさせ、ガレー船がこの船に激突するのとタイミングを合わせ、甲板を蹴って海に飛び込んだ。

 短刀は惜しかったが、邪魔だったので捨てた。少女を背負うように首に捕まらせ、夜の海を泳ぐ。途中、衝突で千切れたと見られる船の板切れを発見。それを浮き輪代わりにできたため泳ぐのが大分楽になった。

 そのガレー船の正体は判らないが、髑髏の旗を掲げている以上穏やかな相手ではないだろう。そう判断した竜也は陸地まで泳ぐつもりでいた。だがガレー船の船員に発見され、逃げることを断念する。竜也と少女の身柄は髑髏のガレー船に確保されることとなった。

 だが竜也の懸念は良い方向に裏切られた。甲板に上げられた二人には、海水をぬぐうためのタオルらしき布切れが渡された。竜也も少女も乱暴に扱われることなく、拘束されることなく、船長と思しき人物の前に引き出された。

《うん、ここは過去の地球じゃない。異世界だ》

 船長と思しき人物の姿に、竜也はそう確信した。この船の船長は、アラブ系と黒人の中間くらいの肌の色の大男。半裸の身体は無駄のない鋼のような筋肉に覆われていた。頭部は真ん中を残してきれいに剃り上げられた、モヒカン刈りと言われる髪型。ただしモヒカンにはサメか何かの背鰭を模した冠り物をかぶせている。しかも背鰭の向きが前後逆なのでウルトラマンエースみたいになっていた。

 周囲を見れば、この船の船員の1/3くらいはこの間違った世紀末救世主的ファッションで頭部を飾っていた。この、ちょっとアレな船員達が一方的に帆船を蹂躙し制圧し、この時点で既に船長等奴隷商人の身柄を拘束し終えていた。

נסיכה……(お嬢がタムリットのアヴェンクレト、で間違いないですな)」

 船長の問いに、少女が無言で頷く。

בקשה……(アニード商会の依頼でお嬢を助けに参りました。青鯱族のガイル=ラベクです)」

 アヴェンクレトと呼ばれた少女が少しだけ目を見張った。彼女が抱いた驚きと疑問を察し、ガイル=ラベクが説明する。

זה הם……(あの連中にはあちこちから懸賞金が掛けられていて、あの連中の後を追ってタムリットを訪れたんです。そこでアニード氏から仕事を依頼されたんですよ)」

באמת(そう)」

בכל אופן……(とりあえず今日のところは客室で休んでください。明後日くらいにはタムリットに返せると思います)」

נמצאו החוצה(判った)」

 アヴェンクレトは船員の一人に案内され、船倉へと向かう。彼女は当然のように竜也の手を引き、一緒に移動した。竜也は戸惑い周囲を見回すが、助け船を出してくれる者はどこにもいない。竜也は彼女の手を振り払うこともできず、そのまま彼女と一つ部屋で一夜を明かし、さらに数日を共に過ごすこととなった。




















 そのまま一生のほとんどを一緒に過ごすになるとは、この時点では当然ながら想像もしていない。









[19836] 第2話「異世界で生活しよう」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/07/02 19:46



 一隻の船が海を征く。その帆船は戦闘時には船の両舷から櫂を出して漕ぐが、巡航時はマストに帆を張って進むように出来ていた。今はマストに白い帆を張っている。

船の後部には大きな旗を掲げており、黒地に描かれているのは白い髑髏だ。髑髏の図柄は単純というか、稚拙な印象のものである。絵が割と得意な竜也は「俺に書き直させてくれないかな」等と考えていた。










「黄金の帝国」・導入篇
第2話「異世界で生活しよう」その1










 竜也と兎耳の少女を乗せた髑髏の帆船は一旦東の港町に向かい、そこで奴隷商人等を別の船に引き渡した。どうやらもっと東の大きな町まで連行し、そこで裁判に掛けるらしい。その上で船は西へと向かい、竜也も状況に流されるまま乗船していた。

 竜也は船室のベッドに腰掛け、ぼけっとした様子で物思いに耽っている。その竜也の足の間には兎耳の少女がすっぽり収まっていて、少女は竜也を背もたれ代わりにしていた。その光景は、兄に甘える幼い妹の図、というところである。

(多分この子は良いところのお嬢様で、あの奴隷商人等に誘拐されたんだろうな。で、実家の依頼を受けてあのモヒカンが助けに来た。実家は西の方にあって、もうすぐそこに到着するところ、と)

 竜也はアヴェンクレトという名の少女についてそのように推定した。腕の中の彼女が微妙そうな表情をしていることに、竜也は気付いていない。

(で、何でかこの子に懐かれた俺も、この子の実家に向かっている、と。まあ行く当てがあるわけじゃないから助かってるけど。この子の実家で仕事とか、色々助けてもらえるかも知れないし。でも、行く当てのない奴隷一人を子供が勝手に拾って連れて帰るのって、問題にならないのか? それとも問題にならないくらいにこの子の立場が凄いのか?)

 竜也が首をひねる一方、アヴェンクレトはふるふると首を振っていた。

(……それにしては船員の態度がいまいち変なんだけどな)

 アヴェンクレトは船員等から露骨に避けられていた。潮風を浴びるため甲板に上がった時は、竜也達の周囲から人がいなくなった。船の通路を歩いていると、船員等は曲がれ右をして姿を隠す。やむを得ずすれ違う時は、巨漢の船員までもが息を潜めて身体を縮めるような有様だ。豪放磊落を絵に描いたような船長のガイル=ラベクすらが、彼女に対しては事務的な、隔意ある対応に徹していた。

(それが、こんな小さな女の子に接する大人の男の態度かよ)

 と竜也は義憤を抱いた。アヴェンクレトは「うんうん」と頷いている。

(アルビノだから忌まれているって感じでもなさそうなんだけどな。よく判らん。こんなに綺麗で可愛いのに。成長したら物凄い美人になるだろうな)

 竜也は10年後のアヴェンクレトの想像図を脳裏に思い描いた。グラビアモデル並みにグラマーで、バニーガールの格好をしていて、扇情的にしなを作っているのは竜也の趣味である。アヴェンクレトは恥ずかしそうに赤面して竜也をにらんだ。

(多分、実家に戻っても周りの態度はあんなのなんだろうな)

 周囲に忌避されるのは、彼女にとっては多分いつものことなのだろう。あるいは両親や肉親からも充分に愛されていないのではないかと思われた。

 竜也は腕に力を込め、少女の身体を抱き寄せた。アヴェンクレトは仔猫のように頬を竜也の胸にすり寄せる。少女の表情はほとんど動いていないが、それでも嬉しそうな雰囲気は察することが出来た。

 竜也の胸の内は温かく切ない思いでいっぱいになった。

(うん、これは父性愛だ。父性愛に違いあるまい。俺はロリーじゃないしな)

 竜也は自分の中に唐突に生まれた感情に戸惑いながらも、そう理屈づけた。

 竜也達二人は初日の夜に一つの客室に案内され、小さなベッドで身を寄せ合って一夜を明かした。アヴェンクレトがもう何歳か年上なら竜也もそんな不作法な真似はしなかったろうが、彼女の印象は幼稚園に通っている親戚の女の子と大差ない。彼女も嫌がるような様子を見せなかったので、遠慮なく同衾したのだ。

 以降、アヴェンクレトは竜也にべったりぺったりぴったりくっつき続けている。歩く時は手をつなぎ、座る時は膝の上。暇な時は背に乗り、眠る時は腕の中だ。正直ちょっと鬱陶しい時もあったが、愛情とスキンシップに飢えた子供に出来るだけのことをしてあげようと思っていた。

 その代わり、アヴェンクレトは竜也にこの世界の言葉を教えていた。この時点の竜也は一つでも多くの単語を覚えることに力を注いだ。彼女はあまり口数が多い方ではないが、教師としては優秀だった。部屋の中にある物の名詞から始まり、基本的な動詞をゲームやクイズのような形式で教わり、覚えていく。竜也はこの数日でかなりの数の単語を習得していた。

 そうやって一日の大半を船室で過ごすこと数日。竜也は西の港町に到着しようとしていた。窓の外、水平線の彼方に陸地を見出した竜也は、「あー、うー」と何か言いたげに、しきりに陸地を指差した。

זה העיירה……(あれはタムリットの町)」

「たむれと?」

「タムリット」

 竜也の発音をアヴェンクレトが訂正する。竜也は「タムリット、タムリット」と正しい発音を繰り返した。その発音を覚えた竜也がまた何か言いたげにする。アヴェンクレトは先回りして、

בהגיעם בקרוב(もうすぐ到着する)」

「べくぅれう゛?」

בקרוב

 竜也は上を指差し、「しぇふぶぅん」と片言で意志を伝える。アヴェンクレトは、

סיפון……(甲板に上がるのね。行きましょう)」

 と竜也の手を引き、部屋の外に出た。

 連れ立って通路を歩きながら「それにしても」と竜也は思う。

(こんな片言で言いたいことのほとんどを、言ってないことまで理解してくれるんだもんな。恐ろしく察しが良いというか、まるで心が読めるみたいだ)

 アヴェンクレトがかすかに身を震わせた。それに気付くことなく、竜也は内心で肩をすくめる。

(まさかね。いくら異世界でもそれはないか)

 アヴェンクレトは同意するように「うんうん」と頷いた。




















 タムリットはソウラ川と呼ばれる大河の河口西岸にある港町である。人口は約4万人。

 竜也とアヴェンクレトを乗せた船がタムリットの港に入港した。下船した二人は数人の男達に出迎えられる。

 上等そうな衣服の、責任者と思しき初老の男。その護衛と見られる男達。初老の男はアヴェンクレトの家の執事か何かだろうと、竜也は勝手に判断した。

 執事(仮)のアヴェンクレトに接する態度は感情を押し殺したかのような、事務的なものに終始していた。隔意があり、それ以上の嫌悪感があるのが見え見えである。

 アヴェンクレトが執事(仮)に竜也のことを何か説明している。執事(仮)は竜也のことを胡散臭げに見つめるが、何も言わなかった。竜也はアヴェンクレトに連れられるまま移動する。

 アヴェンクレトの家(多分)に馬車で向かう道中、竜也は車窓からタムリットの町並みや人々を眺めていた。

《うん、ここは異世界だ》

 竜也は以前確信したことを再度確認した。

 建物は素朴ながら石造りの物が多い。町の雰囲気はヨーロッパ系とはどこか違う、エキゾチックなものである。人々の様子、市場や物売りの様子から、町が豊かで繁栄している様子が察せられた。

 町の住民の多くが黒人系。アラブっぽい、というかセム系っぽい白人の姿が次いで多い。一番多そうなのは両者の混血だ。そして、何割かの住民に獣耳や尻尾が生えていた。

 犬耳と長い尻尾を生やした物売りの男。猫耳の老婆と、猫耳の孫。牛のような角の男の一団。馬のような耳の夫婦とその子供達。いくら何でも過去の地球にこんな光景があったはずがない。

 やがて馬車は町の中心部に位置する大邸宅へと到着、竜也とアヴェンクレトは馬車から降り立った。町の一区画を占有する広大な敷地に、贅を凝らした屋敷が建っている。アヴェンクレトは平然としたままその屋敷の中に入っていく。唖然と周囲を見回す竜也は引きずられるようにアヴェンクレトに同行した。

 屋敷の奥の、一際豪華な一室。竜也とアヴェンクレトはそこでその屋敷の主人と対面した。

 アニードという名のその主人は、日焼けしたセム系白人という色合いの、小太りの中年男だった。アニードは舌打ちでもしたげな表情で、酷薄そうな目を竜也達に向ける。竜也の心にアニードに対する強い嫌悪感が唐突に涌いて出た。

בטיחות……(無事に戻ってきたか)」

תודה……(おかげさまで)」

 アヴェンクレトとアニードは礼儀を保っただけの冷たい言葉を交わし合った。アニードが胡散臭そうな視線で竜也を示し、説明を求める。アヴェンクレトはアニードに竜也を拾った経緯を、竜也を連れてきた理由を説明した。

רציני……(本気で言っているのか?)」

ספק……(間違いない。彼はあなたの利益になる)」

「……קנס……(……まあいい、好きにするがいい。しばらくは置いてやる)」

 アニードへの事情説明を終え、承認を得られたのでアヴェンクレトは速やかにその場を立ち去る。竜也も彼女の後に続いた。








[19836] 第2話「異世界で生活しよう」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/07/02 19:50



「黄金の帝国」・導入篇
第2話「異世界で生活しよう」その2










 雑用やら言葉の勉強やらに明け暮れているうちに、時間は一気に経過する。竜也がアヴェンクレトに拾われ、アニードの屋敷に住むようになって3ヶ月が経っている。この世界にやってきてからは半年近くとなった。

《で、今日はティベツの月の20日と》

 この世界の暦をまだ理解していない竜也は、今が何月なのかよく判っていない。この3ヶ月で多くの知識や常識を手に入れたが、知らないことの方がもっと多い。

 アニードはタムリット随一の大商人であり、何十人もの召使いを雇っている。今の竜也の身分はその中の一人というものだ。正確には、アヴェンクレト専属の雑用係というところである。

 アニード邸の一角に建っている小さいながらも豪華なコテージ。そこがアヴェンクレトの住居だった。コテージには台所風呂トイレ等の生活に必要な設備は一式揃っていて、食事は老婆の召使いが用意してくれている。

《これで後はインターネット回線がありさえすれば、引きこもり生活を満喫できるんだけどな》

 と竜也は埒もないことを考えた。今の竜也の主な仕事はコテージ内外の掃除や薪割りくらいで、それ以外の時間はアヴェンクレトから言葉を教わり過ごしている。しゃべる方はまだ片言だが、聞き取る分にはほぼ不自由はなくなっていた。しばらく前から文字の勉強も開始している。

 アヴェンクレトが自分の身の上について語りたがらないため、竜也は彼女の身分や立場についてよく判っていない。アヴェンクレトはアニードとは血縁関係もなく、家族でもない。アニードの仕事に何らかの形で力を貸しているようで、アニードに対しては対等に近い立ち位置を保っていた。

 相変わらず飽きもせずに竜也にべったりのアヴェンクレトだが、不定期にアニードに呼び出されて本邸に赴くことがある。竜也はそれに付き添うことを許されず、コテージに一人残される。

 今日、竜也が一人コテージで暇を持て余していたのはそんな理由である。言葉の勉強をするにしても、一人では誰も間違いを指摘してくれないから非効率だし、第一やる気も起こらない。

 今竜也に出来るのは、ベッドに寝転がってとりとめのない思考を弄ぶことだけだ。

《あ゛ー、『今異世界にいるけど何か質問ある?』とかスレッド立ててやりてー》










1 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 何でも答えるよー。


2 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 異世界wwww乙wwww


3 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 異世界ってハルケギニア? ムンドゥス=マギクス?


4 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 いや、多分オリ設定。もし商業だったらかなりなマイナー作品。


5 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 文明程度は?


6 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 江戸時代の日本と同レベルくらい? 全部人力、機械は存在せず。火縄銃は見かけた。


7 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 言葉は通じんの? 何やって生活してんの?


8 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 言葉が通じん! それでむっちゃ苦労した。今は少しは覚えたけど。
 今はウサ耳幼女に拾われてヒモみたいな生活。


9 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 ちょ、おまwww


10 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 文字はどんな感じ? 読める?


11 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 こっちで使われているのは30くらいのアルファベットの表音文字。横書きで、英文とかとは逆で右から左へと文字を読んだり書いたりしてる。

 アルファベットの形は全く見慣れないし、ぱっと見みんな同じに見える。それに、単語とか文章とかは母音を使わないで子音だけで表記しやがるんだこいつら。何考えてそんな訳のわからんことしやがるんだか。

 本当、無茶苦茶苦労させられたけど、それでも時間さえかければ何とかある程度は読めるくらいにはなりましたよ。努力しましたから。


12 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 トイレとかどうしてんの?


13 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 これもまた辛いんだよー!!

 トイレは水洗とぼっとんの2種類。水洗は要するに側溝の上に便座を置いたような感じ。ぼっとんは、昔の田舎のトイレを想像してくれれば。回収したブツは結局海に捨ててるみたいだけど。トイレットぺーパーなんかないから、何かの葉っぱでケツ拭いてる。


14 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 古代ローマは風呂が発達していたけど、そっちはその辺どうよ?


15 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 今住んでるところは風呂付き。でも湯船はなくてサウナみたいな蒸し風呂形式。石鹸は存在しているけど贅沢品なんで、手ぬぐいで身体こすってる。


16 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 食い物はうまい?


17 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 作ってくれるお婆ちゃんには悪いんだけど、正直いまいち口に合わない。

 ちなみに今日の昼飯のメニューは、スープと野菜の煮物。

 スープはお湯で小麦粉を溶いて、千切ったパンを入れて山羊の乳のバターと塩で味付けしたもの。野菜の煮物はキャベツとかタマネギとか煮て塩とオリーブオイルで味付けしたもの。

 まあ奴隷やってた頃を思えば極楽みたいな食生活だし、出された物は全部残さず食ってますよ。時々白いご飯が食いたくて泣きたくなるけど。



 あ、食事は1日2食な。3食なんてありません。


18 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 服とかどんな感じ?


19 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 何というか、似非アラビア風?のワンピースとかズボンとかで、肌の露出を増やした感じ。みんな結構シンプル。この世界ももう冬だけど、冬っつっても気候は日本の秋くらいだから、いつもの服の上にマントっぽいの1枚羽織ってる。


20 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:ティベツの月20日
 魔法はないの?


21 名前:異世界の黒き竜:ティベツの月20日
 俺はまだ見たことないけど――










《――見たことはないけど、魔法がないとは限らないんだ》

 脳内でわずかばかりスレッドを延ばしたところで、竜也がその事実に気が付く。その途端、居ても立ってもいられなくなった。

《そうだ、魔法があれば元の世界に戻る手懸かりだって見つけられるかも知れない》

 竜也はコテージを出、アニード邸を抜け出す。行き先に特に当てがあるわけではなく、町の中心部へと歩いて行った。

 この3ヶ月間、竜也は数えるほどしかアニード邸の外に出たことがない。アヴェンクレトと共に町に出る度、彼女が町中のあらゆる人間に忌避されている事実を突きつけられるのだ。それに、また誘拐されるかも知れないという警備上の問題もある。そのためアヴェンクレトはよほどのことがない限り町に出ようとせず、竜也もそれに付き合う他なかった。

 だが竜也としてはこの世界の知識を得るためにも、もっと町を見て回りたかったのだ。だからアヴェンクレトが仕事(?)で不在の今が絶好の機会であると言える。

《いー加減、雑用にも子守にも飽きたしな。魔法を習って『黒き竜の血』を目覚めさせればチートキャラになれるわけだし》

 竜也はアヴェンクレトに対し家族としての愛情を抱き、惜しみなく注いでいる。だがだからと言って、四六時中一緒にいて息が詰まらないわけではないのだ。そろそろ気晴らしが必要だったのだろう。竜也は観光客気分でぶらぶらと町を、市場を見て回っている。それだけで充分に気分転換になっていた。

 露店で軽食でも食べたいところだが、懐具合が心細いために竜也はそれを我慢した。財布に入っているのはドラクマ銅貨が2枚。以前の外出の際にアヴェンクレトからもらったお小遣い、それが今の竜也の全財産だ。

《……しかし、一体どういう異世界なんだろうか》

 市場には、林檎・桃・葡萄・キャベツ・レタス等々の野菜や果物と共に、インディカ米っぽい米や大豆が並んでいる。さらにはトウモロコシ・トマト・ピーナツまでもが平然と売られていた。トウモロコシ等は中南米が起源で、大航海時代以前には旧大陸にはなかったはずの食物だ。

《まあ、火縄銃があるくらいだから新大陸への入植が始まっていてもおかしくないか。そもそもここがユーラシアかアフリカかも判ってるわけじゃないし》

 竜也は食料品の並ぶ露天市場を抜け、安全そうな路地裏へと足を伸ばすことにした。

《おっ、何かそれっぽい店発見》

 表通りからあまり離れていない場所にあるその店は、どうやら本屋のようである。元の世界では重度の活字中毒だった竜也は、飛んで火に入る夏の虫のごとくその書店に誘い込まれていった。

 店の雰囲気は、元の世界の古いひなびた古本屋のそれに近い。ただ、大した数の本は置いていない。ざっと見たところ数十種類くらいか。元の世界と比べれば出版部数は何桁も違っているだろうから、これでもかなり充実した品揃えなのだろう。

 店内には店主が一人と客が一人。店主は竜也を胡散臭げに見つめているが、竜也はその視線を気にする余裕もなく懸命に本の題名を読み取ろうとしていた。

「せかいの、きじゅつ……? いぶん=かはーる……?」

「しょこく、りょこーき……? れー……れー……みゅえ?」

「せかいの、ちず――地図!」

 竜也の手がその地図の本へと延ばされる。だがその手は店主のはたきによって撃ち落とされた。

「只読みは駄目だよ。読むんだったらちゃんと買いな」

 嫌味な口調で店主がそう言う。竜也は慌てて懐から財布を取り出しそうとした。

「その本の値段は20ドラクマだ」

 店主の言葉に、竜也の身体が硬直した。ちなみに、普通の労働者が1日働いて得られる賃金が1ドラクマである。

 竜也は散々迷いながらも、なけなしのドラクマ銅貨の1枚を店主に示しつつ提案した。

「あー、見る、試し、1ドラクマ、代わり」

 店主は舌打ちしてその提案を却下する。

「冷やかしならさっさと出ていきな、貧乏人が」

 店主は腕ずくで竜也を店内から追い出す。竜也の目の前で書店の戸が無慈悲に閉じられた。

「地図……」

 竜也は恨めしげに書店の戸を見つめる。だが結局諦めるしかない竜也は、肩を落として書店に背を向けた。竜也がその場から立ち去ろうとする、その時。

「待ってください」

 何者かに声を掛けられ、竜也は振り返った。そこに立っていたのは20代半ばの、鹿角を持った優男。店の中にいたもう一人の客である。

「地図なら私も持っています。よろしければお見せしますが?」

「本当?」

 竜也の瞳が希望に輝く。優男は微笑みを見せながら竜也に語った。

「あの強欲店主には私も何度も苦い思いをさせられていますので。他人事とは思えなかったんですよ」




















 竜也はハーキムという名の、その鹿角の優男に誘われるままに付いていった。10分ほど歩いてハーキムの自宅に到着する。

 町中の、石造りの平屋の長屋。その一室がハーキムの家だった。八畳程度の部屋が二つ、ハーキムはそこに一人で暮らしているという。その部屋で特徴的なのは100冊以上の蔵書だった。この世界の一庶民としては破格の量と言えるだろう。

 この世界に来てからずっと抱えていた疑問がようやく解消できると、竜也は期待に胸を膨らませた。

「地図、一番大きい、お願いします」

「判りました」

ハーキムが苦笑しながら本棚から何かを取り出してテーブルに広げる。広げた新聞紙ほどの大きさのそれは、一枚の絵地図だった。

「――」

 竜也は息をするのも忘れるほどに、その地図を食い入るように見つめた。竜也の様子を怪訝に思いながらも、ハーキムは各地を指差して地名を教える。

「ここがこの町、タムリットです。こちら側の大陸がネゲヴ。こちら側がエレブ、こちら側がアシューとなります」

 竜也はここが異世界である事実を最終確認した。地図に描かれていたのは元の世界と良く似ていながら決定的なところが違う、それは地中海世界の地図だった。

「こちら側がネゲヴです」

 とハーキムが指差す場所は北アフリカ全域である。タムリットのある場所はジブラルタル海峡のすぐ東の北アフリカ側だ。

「こちら側がエレブ」

 と示された場所はヨーロッパ全域。アシューとはアナトリア半島・シリア=パレスチナ・シナイ半島から東の全域。

「ここ、名前、何?」

 竜也は元の世界のジブラルタル海峡がある場所を指差す。ハーキムの答えは、

「そこはヘラクレス地峡です」

 というものだった。そう、この世界ではネゲヴアフリカエレブヨーロッパが地続きなのだ。

「こちらはスアン海峡です」

 と指し示された場所は、元の世界であればスエズ運河がある場所だ。ネゲヴアフリカアシューアジアは海峡によって隔てられていた。

「ここ、川?」

「西から、ソウラ川・ナハル川・チベスチ川・ナガル川です」

 ナガル川は、おそらく元の世界のナイル川に相当するのだろう。だが他にこんな大河がアフリカにあったなどという話を竜也は知らない。北アフリカの大地が、おそらくはナイル川に匹敵するような何本もの大河とその支川によって引き裂かれている。

「ここ、何ある?」

「この辺から南は全て大樹海アーシラトです」

 元の世界のサハラ砂漠などは全て緑化し、大樹海となっているそうである。

《どういう地殻変動があったんだよ……》

あまりの違いにもう笑うしかなかった。

 ナハル川等の大河がサハラ砂漠に水を供給しているため、サハラが緑化。草木が水を保持し、草木から蒸発する水が雲となってサハラに降り注ぐため大河の水量が増え、ますます草木に水が供給され、草木が良く生い茂り、ますます水が保持されて……という好循環があったのだろう。その結果がサハラ砂漠の大樹海化だった。




















「あー、凄い、力、ない?」


「は?」

 地図の衝撃を何とか乗り越え、飲み込んだ竜也は、今日の元々の目的を果たすことにした。だが魔法に該当する言葉を知らないために、伝えたいことが伝わらない。アヴェンクレトなら簡単に理解してくれるのに、と思いながらも竜也は知っている単語を重ねて思いを伝えようとした。

「あー、神様、力くれる。ない?」

「もしかしたらケセドのことでしょうか……」

 ハーキムも何とか竜也の言いたいことを理解しようとした。

「そうですね。あれに参加すれば直接目にすることが出来るでしょう。声を掛けますよ」

 ハーキムの提案を竜也は喜んで受け入れた。後で大いに後悔することになるのだが。

 竜也はその後もしばらくハーキム宅で過ごしたが、夕方になったのでアヴェンクレトの元に帰ることにした。

「それではまた今度」

「はい、さよなら」

 ハーキムに別れを告げ、夕焼けに染まる町を歩いていく竜也。ふと竜也は立ち止まり、沈み行く夕陽に背を向けた。竜也は地平線の向こうを見つめる。

《日本はあの方向か》

 日本の生活、日本の級友、日本の家族の思い出が不意に心の奥底から湧き上がってきた。今まで押さえ込んでいた蓋が外れてしまったかのようである。

《あれ、なんで……》

 竜也はこぼれそうになっていた涙を堪えた。

 父親は小さなスーパーの社長だが、経営状態は悪くいつも大変そうだった。母親は愚痴っぽい普通のおばさんだが、夫婦仲は悪くなかったし竜也に対しても決して悪い親ではなかった。

 夏休みは父親のスーパーでアルバイトをする予定だった。父親は「自営業なんてやるもんじゃない。公務員か大企業のサラリーマンが一番だ」と常々竜也に説いていた。だが竜也が会社を継ぐ意志を見せるとかすかに嬉しそうな様子を見せていた。

 心配を掛けているだろう、諦めきれずに未だに捜索を続けているかも知れない。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。このまま東に向かって歩いていきたい衝動に駆られた。だが何とか自制する。

 竜也は未練を断ち切るように西に向けて歩き出した。今竜也が戻るべき場所はアヴェンクレトのところだった。

アニード邸に到着する頃にはすっかり日が沈んでいた。

「アヴェンクレト? いない?」

 竜也は明かりの灯されていないアヴェンクレトのコテージへと入っていく。その途端、竜也は腹部に体当たりを受け、その場に尻餅をついた。

《な――》

 竜也はそのまま言葉を失った。体当たりをしてきたのはアヴェンクレトで、少女は泣き顔を竜也の胸に埋めていた。

 身を切られるような強い不安、世界にたった一人ぼっちのような切なさ、そしてそれが覆った安堵と喜び。竜也の胸の内をそれらの感情が突風のように駆け抜けていく。

《ぐ――》

 竜也は自分の感情の動きが理解できず、唇を噛み締めて感情を押し潰そうとした。激しい情動は嘘のように消え去り、残ったのは腕の中で涙を流す少女の暖かさだけだ。

 竜也の胸の内は、アヴェンクレトに対する罪悪感と愛しさに満たされた。それは紛れもなく自分の感情であると断言できた。

《ごめん。もう二度と黙って出掛けたりしないから》

 竜也はアヴェンクレトの頭を優しく撫でる。アヴェンクレトは気が済むまで竜也の胸の中で泣き続けた。















○あとがき

 ヘブライ語異世界語の設定協力 : google先生。

 ただし発音はまず間違いなく間違ってますので信じないでください。






[19836] 幕間・アヴェンクレトの日記
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/08/27 18:56



幕間・アヴェンクレトの日記










タシュリツの月・20日


 やっとタムリットに戻ってきた。

 奴隷商人に誘拐されたけど、髑髏船団が助けに来てくれた。アニードが頼んだらしいのでお礼を言わなきゃいけなかったのが忌々しい。

 タツヤをここにおいてもらえるようになったのは良かった。





タシュリツの月・21日


 ばあやに心配かけたのは申し訳なかったと思う。ばあやはわたしのことを可愛がってくれる数少ない人だ。半分くらい惚けてるからだけど。





タシュリツの月・23日


 タツヤに使用人の仕事をしてもらう。

 でも火の使い方も知らなかったし、他の仕事も大して出来ない。掃除とか薪割りとか本当に簡単な仕事だけやってもらう。

 早く言葉も覚えてもらわないといけない。





タシュリツの月・30日


 タツヤがばあやの仕事を手伝っていた。ばあやの指示でタツヤが料理を作った。

 タツヤにばあやの仕事を取らないよう注意する。タツヤは不満みたいだったけど、ばあやの仕事がなくなってここをクビになったら他にどこも雇ってくれない、と説明したら判ってくれた。





アルカサムの月・7日


 タツヤがやることがなくて辛いみたい。暇なよりは、雑用でも何でも働いている方がいいというのはいまいち理解できない。

 今は早く言葉を覚えるべき。





アルカサムの月・14日


 アニードの仕事の手伝い。アニードの嫌われっぷりがちょっと楽しい。

 心が汚れたのでタツヤに癒してもらう。





アルカサムの月・21日


 タツヤがマウアとかいう本邸のメイドとしゃべっていた。あのメイドは確かばあやの孫娘。

 まだ片言しかしゃべれないくせに随分と楽しそう。わたしが顔を見せたらメイドは慌てて逃げていった。いい気味。





アルカサムの月・28日


 タツヤを連れて町に出掛ける。一緒に串焼きを食べた。

 町の人のわたしへの態度がますます悪くなっている。それはわりとどうでもいいけど、タツヤに気遣わせる方がつらかった。早々に戻ってくる。





キスリムの月・5日


 タツヤがまたマウアとしゃべっていた。お互いただの知り合いくらいにしか見ていないので、隠れて監視するだけで我慢する。





キスリムの月・12日


 腰を痛めたばあやをタツヤが家まで送っていって、マウアに夕ご飯を食べさせてもらっていた。嫌な予感。





キスリムの月・14日


 ばあやが戻ってくる。「お礼」と称してタツヤを家に招待していたが、止めさせる。

 残念そうなばあやにはちょっと心が痛んだが、仕方がない。





キスリムの月・20日


 タツヤが文字を習いたいと言ってきたので教材を用意する。

 正直、わたしも文字を読むのは得意じゃなくて言葉の時ほどには上手く教えられない。一緒に勉強する。





キスリムの月・25日


 アニードの仕事の手伝い。

 戻ってきたら、泥棒猫がタツヤとしゃべっていた。弱みを探ろうとしたら逃げ出していった。

 タツヤは泥棒猫から文字を習おうとしているけど、他に習う人はいないのか。





キスリムの月・30日


 庭を散歩していたら、泥棒猫が他のメイドとしゃべっているのを見つける。わたしには気付かずタツヤのことをしゃべっていた。

 他のメイドがタツヤのことを馬鹿にしていて、泥棒猫がタツヤのことを「いいところもある」とかばっていた。

 しばらく泥棒猫と呼ぶのは止めておこう。





ティベツの月・7日


 やっぱり泥棒猫で充分だあの女。

 タツヤを誘って外に遊びに行こうとしているのを見つける。

 竜也が外出することをことわりに来たので、先手を打ってわたしの外出に付き添うようにお願いした。

 久々に一緒の外出。タツヤの服を買う。





ティベツの月・14日


 タツヤがまた泥棒猫としゃべっているのを見つける。気付かれないよう近寄って何の話をしているのか聞かせてもらうことにした。

 タツヤはまだ片言なので、泥棒猫が一方的にしゃべっている。お金が貯まったらメイドを辞めて、何でもいいのでお店屋さんがやりたいそうだ。今すぐ辞めればいいのに。

 タツヤは今が精一杯で、先のことはあまり考えていないみたい。

 わたしは将来、どうしたいのだろう。少なくてもこのままここにいたいとは決して思わないけど。






[19836] 第3話「山賊を退治しよう」
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/07/09 20:21









 ティベツの月・25日。その日竜也は山賊退治の軍勢に加わっていた。山賊の元へはタムリットから歩いて2日の行程だ。

《何だってこんなことに……》










「黄金の帝国」・導入篇
第3話「山賊を退治しよう」










 槍を手にした竜也は、死人一歩手前みたいな虚ろな表情で歩いている。槍の柄は2メートルほどの長い木の棒で、その先には古い錆びた包丁が縛り付けられている。仲良くなったメイドから、アニード本邸の厨房で一番古くて要らない包丁を譲ってもらったものである。100人ほどの軍勢の中で、竜也の持っている武器が一番貧相で見劣りしていた。

「だ、大丈夫ですか? タツヤ」

 並んで行進しているハーキムが竜也を気遣う。竜也は「大丈夫大丈夫」と強がって返事した。もっとも、ハーキムこそが竜也を山賊退治なんてことに巻き込んだ元凶なのだが。


 竜也は片言を駆使してハーキムから情報を仕入れようとする。

「山賊、誰? 何?」

「敵はエレブから流れてきた山賊です。タムリットの近郊に居座ろうとすることが、何年かに1回はあるんです」

 そんなに頻繁にあることじゃないのか、と竜也は安堵した。竜也は軍勢の面々を見回す。100人の軍勢のうち腕が立ちそうに見えるのは多くても1/4くらい、残りは町中でその辺にいる人を連れてきただけという感じである。隣を歩くハーキムにしても、小学校の教師がお似合いの優男だ。正直言って軍勢と言えるほど上等なものじゃない。

「勝てる? みんな?」

「まあ油断さえしなければ大丈夫でしょう。今回も山賊は全部で10人くらいと聞いていますし。戦い自体はファハリさん達に任せておけばいいんですよ。私達の役目は威圧のための頭数と、山賊を町の方に逃げさせないことです」

 ファハリはこの軍勢の責任者となっている、雄牛の角を持つ男である。一番色の濃い黒人と同じ肌をした巨漢で、年齢は40代くらい。

「……軍隊、ない? 仕事しない?」

「あなたが前にいたところは軍があって、山賊退治は軍の仕事だったんですね」

 ハーキムの確認に竜也は「はい」と頷いた。

「まあ、山賊なんて滅多に出てきませんし、出てきてもこういう有志の集まりだけで充分対応できるんですよ。だから軍というのは不要なんです」

 ハーキムが何を言ったのか、竜也は最初理解できなかった。

「軍隊、ない?」

「ありません。まあ、エレブやアシューの方は驚くと思いますけど、ネゲヴでは軍がない町の方が普通です。200~300年前までは軍もあったんですが、その時あった軍も海軍中心ですし、陸の敵は傭兵で対応していました。海洋交易が廃れて大げさな海軍を持つ必要がなくなり、傭兵も雇う理由がなくなり、いつの間にか全廃に近い状態になったんです」

「で、でも敵、来る――」

 竜也の戸惑いに対し、ハーキムは柔らかに説明する。

「攻めてくる敵というのがいないんですよ。エレブからは山賊がやってくる程度だし、他の町にも軍はありませんから。タムリットや他の町でも、収入に対する税率は多くても1割程度ですが、こんな税収では軍は維持できません。軍を持つには税を上げる必要がありますが、そんなこと誰にも出来ませんよ。こう反対されて潰されるに決まってます。

『他の町にも軍はないのに、誰もどこからも攻めてこないのに、何で税を上げてまで軍を持つ必要があるんだ?』

『どうしても必要なら傭兵を雇えばいいだろう?』」

 どの町もそんな状態だから、どの町にも軍はないんですよ、とハーキムは話をまとめた。竜也は不明な点を確認しようとする。

「ちょ、ちょっと待って。税集める、誰? 王様?」

「ケムトの方には王様もいますけど、タムリットも含めて大抵の町は自治都市です。長老の寄り合いが税を集め、町を治めています」

「税集める、仕事それ、人、いない?」

「それが専門の役人ですか? 何人かはいますよ。私もそういう人に雇われて事務仕事をやったりしていますが、それが専門ではありません。まあファハリさん達くらいになるとこういう荒事がほぼ専門ですが、それでも役人や軍人とはちょっと違いますね」

 つまり、役所は一応あって役人もごくわずかだがいる。役人だけで対処できない仕事はパートタイマーを雇ったり、有志を募ったりして対処する、というところだろうか。そして、事務仕事のパートタイマーがハーキムで、荒事を専門に請け負っているのがファハリというところなのだろう。

「泥棒、人殺し、捕まえる、誰?」

「そういう治安担当の役人も長老会議の下にいます。その役人が情報収集を担当する人を個人的に雇っていて、実際の捕縛等の荒事担当はやはりファハリさん達ですね。まあ、そんな事件は早々起こりませんが」

(江戸時代の日本の岡っ引きみたいに、「情報収集の担当者」にはヤクザ者や犯罪者崩れを引き込んで使っているんだろうな、多分)

 ハーキムはそこまでは言わなかったが、竜也はそのように想像した。

 そんな話をしているうちに、軍勢は――正確には「山賊退治の有志一同」というところだが――郊外の山腹にやってきた。その洞窟に山賊が居着いているという。

 こちらの接近に気が付いたのだろう。洞窟からは山賊がぞろぞろと姿を現した。

《……っ、多い》

 山賊は20人はいそうだった。薄汚れた革製と見られる鎧をまとい、槍や剣を手にしている。それを眼にした竜也の膝が震える。先ほど小便に行っておかなかったことを後悔した。

(安全な今のうちに覚醒せよ『黒き竜の血』! というかお願い助けて!)

 竜也が内心テンパっている間に戦いが始まろうとしていた。

 牛角のファハリが軍勢の前に進み出る。そして、その辺に転がっている一抱えもある大きな岩を持ち上げ、山賊へと投げつけた。

《は?》

 竜也はぽかんとしてしまう。ファハリが投げた岩は、最低でも百kgくらいはありそうな代物だ。それをファハリは20~30mもぶん投げてしまった。運悪く、山賊の一人がその岩に押し潰されてミンチと化した。

 混乱する山賊の中に獣耳の男達が突撃していく。虎耳の男が手から炎を発して山賊の顔を焼き、怯んだところを剣で斬りつける。犬耳の男が長剣で山賊をなぎ払い、倒れた山賊に犀角の男が鉄槌を食らわせ、文字通り叩き潰した。山賊の数はあっと言う間に半減した。

「悪魔! 化け物!」

 生き残った山賊等が悪態をつきながら逃げ出していく。ファハリ達は深追いはしなかったが、潰せる連中は潰しておこうとした。ファハリ達に追われた山賊のうち二人が竜也達の方に逃げてくる。

(うぉぉっっ?! こっちに来んじゃねーよ?!)

 竜也は足がすくんで逃げ出すことも出来ない。立ち向かうなど論外だ。震える竜也の様子を見て取り、ハーキムが山賊へと進み出て立ち向かった。山賊が振り回す剣を自分の剣で受け止める。両者が鍔競り合いをする中、山賊のもう一人がハーキムの背後に回って剣で斬りつけようとする。

《ハーキムさん!》

 竜也の身体は勝手に動いていた。山賊の首めがけ、粗末な槍を突き出す。

「ぐああっっ!!」

 包丁の穂先が首に刺さり、大量の血が流れた。だが山賊は竜也の槍を掴み、首から穂先を引き抜いた。竜也は槍を引き戻そうとするが、山賊が握りしめて離さない。

《ひ、ひいいっっ!》

 竜也の視界は汗とも涙ともつかないもので遮られた。だが、不意に槍が軽くなる。見ると、山賊は他の市民等の何本もの槍に串刺しになっていた。

「タツヤ、大丈夫ですか?」

 ハーキムが対峙していた山賊も既に斬り伏せられていた。ハーキムが竜也に駆け寄り、声を掛ける。竜也はその場に座り込み、

《へ、へ……》

 と痴呆じみた様子で返事をするのが精一杯だ。自分が小便を漏らしていることにも気付いていなかった。

 山賊退治は終わり、ファハリ達は残務処理に動き出していた。




















 その日は洞窟やその周囲で一夜を明かし、軍勢は町への帰路に就いた。帰りの行程も徒歩2日間だ。

「だ、大丈夫ですか?」

 竜也は往路以上に臨死の表情となっていた。ハーキムの問いに、竜也は「大丈夫大丈夫」と生返事を返す。

 人一人を殺したことは、想像以上に竜也の精神を苛んでいた。竜也はそれを誤魔化すためにハーキムとの会話に集中することにする。

「……あー、聞きたい。あれ、あの力、何?」

恩寵ケセドのことですか?」

「ケセド?」

「ええ。それぞれの属する部族神から授けられる、特別な力のことです。ファハリさんは鉄牛族ですから剛力の恩寵。赤虎族には火炎や烈風の恩寵」

 あれを見たかったのではないのですか?と問われ、竜也は何とも言い難い顔をした。あの力は確かに凄いが、竜也が探していたものとはかなり外れていた。

(あれじゃ、魔法と言うより超能力じゃないか)

 とは言うものの、それはそれで興味深い竜也はハーキムに訊ねる。

「ハーキムさん、恩寵、何?」

 その問いにハーキムは苦笑して見せた。

「私は多少の身体強化くらいです。――ファハリさん達ほど強い恩寵を得られる人は少ないんですよ。部族に属していても恩寵を得ていない人の方が多く、得られたところで大した力じゃないことがほとんどです」

「その角、あの耳、部族の印?」

「ええ、そうです。私の一族の鹿角族は、鹿の神を先祖に持っています。私達は鹿の神の末裔であり、その証で身を飾るのです」

 鹿の角や虎の耳はそれぞれの部族のトーテムということなのだろう。竜也は今の話を聞いて、ある一人の少女のことを想起していた。

竜也はおそるおそるという感じでハーキムに問う。

「……ウサギの耳は? 恩寵、何?」

 ハーキムは何でもないことのように返答した。

「白兎族ですか。白兎族の恩寵は人の心を読むというものです」



















 翌日の夕方、竜也達はタムリットに戻ってきた。

 アヴェンクレトにどう接するか決められないまま、竜也はアニード邸に到着する。そのまま惰性でアヴェンクレトの住むコテージへと向かった。

「タツヤ!」

 竜也の姿を認めたアヴェンクレトがコテージから飛び出してきた。竜也に抱きつこうとするアヴェンクレトだが、一歩手前でその足が止まってしまう。アヴェンクレトは今にも泣き出しそうな瞳を竜也へと向けた。

《――っ》

 気が付いたら、竜也はアヴェンクレトの腕を掴んでいた。竜也の心の中に、自分のものではない感情が流れ込んでくる。知られたことへの絶望。嫌われることへの恐怖。捨てられることへの不安。

 確かに竜也の中には、アヴェンクレトが自分の力を隠し、竜也の心を勝手に覗いていたことへの怒り・不快感があった。だが、アヴェンクレトの心を知ってその怒りも収まってしまった。彼女の立場になれば、力のことを言い出せなくても無理はないと思えてしまう。

(見てない! タツヤの心は最初の頃にちょっと深いところまで見ただけで、それからずっとほんの浅いところしか見てない!)

 アヴェンクレトが必死になって自分の心を竜也へと伝える。言葉ならいくらでも偽れる。だがアヴェンクレトの心に嘘偽りは微塵もなかった。アヴェンクレトは竜也の胸に顔を埋める。

(タツヤの気持ちを感じてた。温かい気持ち、優しい気持ち、すごくすごく嬉しくて、ずっと感じていたかった)

 今アヴェンクレトは竜也に対し、全ての心の扉を開け放っていた。竜也の心にアヴェンクレトの心が奔流となって流れ込んでくる。その経験が、その感情が、竜也の心を押し流そうとする。竜也は自分を保つために精神力の全てを使わなければならなかった。

(――ごめんタツヤ!)

 自分が何をしているのか気付いたアヴェンクレトは心の壁を再構築した。それでようやく竜也は一息つく。

「ご、ごめんなさい」

 口に出して謝るアヴェンクレトの頭に、竜也は軽く拳骨を落とした。そしてアヴェンクレトの頭を撫で、微笑みかける。アヴェンクレトは竜也の胸に頬をすり寄せた。

 心をつなげた二人に言葉は必要なかった。二人はいつまでも身体を寄せ合い、互いの体温を、心を感じ合っていた。







[19836] 第4話「お金を儲けよう」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/07/16 20:56









「お金を儲けてほしい」

 アヴェンクレトは身も蓋もないことを言い出した。










「黄金の帝国」・導入篇
第4話「お金を儲けよう」その1










 竜也が知ったアヴェンクレトの身の上をまとめておくと。

 まず、アヴェンクレトは白兎族の族長一家の生まれである。歳は10歳。

「もう2~3歳下だと思ってた」

 竜也が正直に吐露し、頬を膨らませたアヴェンクレトが竜也をぽかぽかと叩いた。

 白兎族は人の心を読む恩寵ケセドを持つため、あらゆる人々に忌避されている。このため白兎族は山奥に隠れ里を作り、そこに固まって暮らしていた。アヴェンクレトも生まれはその隠れ里だ。

 アヴェンクレト自身も真実は知らないが、彼女はどうやら族長一家の兄と妹が通じ合った結果の子供らしい。つまり、アヴェンクレトは生まれたこと自体が罪の証だったのだ。

 族長一家の血の結晶であるアヴェンクレトは、強力無比な恩寵を持って生まれてきた。強力すぎて、同じ白兎族からも恐れられ「悪魔」呼ばわりされるほどだというのだから冗談にもならない。

「どうせなら『白い悪魔』と呼ばれるのはどうだろうか」

 という竜也の提案に、アヴェンクレトは「どうだろうかと言われても」と思わずにはいられなかった。

 地球連邦や時空管理局のエースみたいで格好良くない?という竜也の思いは全く理解できなかったものの、

「タツヤがそう思うなら」

 とアヴェンクレトはその提案を無条件で受け入れた。

 父親と目される人物は失踪し、母親は3歳の頃に衰弱死。アヴェンクレトはその生まれとその力で同族から忌まれ、恐れられながらも、6歳までその隠れ里で過ごしてきた。

 だが6歳のある日、突然彼女は隠れ里から連れ出され、タムリットに連れてこられた。一族は彼女をアニード商会へと売り飛ばしたのだ。アニードは彼女の力を自分の商売に利用し、莫大な利益を上げてきた。

「大事な交渉の時には隣の部屋にいて、相手の心を読んでアニードに知らせていた」

「そりゃ、そんな手が使えるならやりたい放題出来るよな」

「でも、やり過ぎた」

 アニードが白兎族の力を利用していることが取引相手に広く知られるようになったのだ。このためアニードと取引しようとする人間が減り、取引をする時もアヴェンクレトが力を貸せない状況を作って交渉を行うようになった。

「何年もずっと楽をしてきたから、わたしが力を貸さないとアニードは良いカモ。最近は損ばかりしてるらしい」

 アヴェンクレトは良い気味とばかりに薄く嗤った。その黒い笑みに竜也の腰がちょっと引ける。

「アニードはわたしのことが邪魔になっている。ここでの暮らしは、もう長続きしない」

 そうか、と竜也は嘆息した。

「俺も大分言葉を覚えたし、町に出て二人で暮らしていくくらいは何とかなるんじゃないか?」

 まだ続きがある、とアヴェンクレトは首を振った。

「アニードはタツヤの知識を使って儲けられないかと考えている。タツヤがここじゃない、外のどこかから来たことは最初に伝えている。ここでは誰も知らない、すごい知識があることも」

「ちょっと待って。あのおっさんがそれを信じたのか?」

 竜也の疑問にアヴェンクレトが頷いた。

「昔にもそういう人がいた。西の大陸はその人が見つけた」

 アヴェンクレトには充分な知識がなく、それ以上「そういう人」についての話は聞けなかった。

「まあ、あのおっさんが儲けようと破産しようとどうでもいいんだが」

 アヴェンクレトもそれには同意するが、それでも出来るなら竜也の知識を金儲けに使ってほしかった。アヴェンクレトには全く理解できないが、それでも竜也の知識の凄さは判る。竜也はこの世界の誰よりも物知りで、この世界の誰も知らないことを知っている。アヴェンクレトは竜也の凄さをアニードに思い知らせてやりたかったし、町の皆にも知ってほしかったのだ。

 その上で、今の暮らしが維持できるのであればそれに越したことはない。

 竜也はアヴェンクレトの思いを理解し、出来るだけのことをしようと思っていた。だが、

「……金儲けと言っても、この世界にはもう火薬も銃器も活版印刷も存在してるしなー。異世界トリップのパターンで他にあるのは、コークス炉とか?」

 知っているのは概要だけで、実際にそれを作るとなると莫大な投資と長期間の試行錯誤が必要となるだろう。アニードがこんな思いつきじみた話に投資をするとは思えない。

「あとはノーフォーク農法とか?」

 やはり知っているのは概要だけ、農民を指導できるような知識もないし、そもそもそんな立場でもない。竜也が王様ならともかく、一庶民の身の上では大した役には立ちそうになかった。

「あと酒造っていうのもあったか。料理ってパターンも」

 酒造も初期投資と時間が必要なことには変わりないし、この世界の消費者の口に合う商品を開発するにはやはり試行錯誤が必要だろう。料理は論外だ。便利な魔法も調理器具も保存手段もないこの世界で、どうやって料理で大儲けしろと言うのか。

(要するに、初期投資が小さくても大丈夫で、時間もあまりかからず、専門知識も不要な儲け話……ネズミ講でもやれってか?)

 竜也は首を振って自分の危険な発想を打ち消す。そして不安げな表情のアヴェンクレトに笑いかけた。

「他に何か思いつくかも知れないし、もっと考えてみるよ」




















「ということで、知恵を借りに来ました」

「いや、何がそういうことなんでしょうか」

 竜也はハーキムの家を訪れた。竜也が知る限りハーキムはこの町で一番の知識人だ。人にものを教えるのが大好きだし、温厚な性格の好青年でもある。知恵を借りるのにハーキムを選ぶのは当然と言えた。

「それにしても、昨日の今日で随分会話が上達してませんか?」

「色々ありまして」

 竜也は曖昧に笑って誤魔化した。「いつの間にか、アヴェンクレトの言語に関する知識が頭に流れ込んでいました」などと、気楽に打ち明けられることではない。

 ハーキムは書きかけの何かの原稿を疎ましげに眺めて、

「金儲けに関しては、むしろ私の方が知恵を貸してほしいくらいなんですが……」

「勿論そのつもりです」

 と竜也が即答し、ハーキムが目をぱちくりさせる。

「この世界のことをまだまだ知らなきゃいけないので、その辺は力を貸してください。逆に俺は、この世界の人達がまだ知らない商売の種を知っている――かも知れません。西の大陸を発見した人みたいに」

 真剣なものとなったハーキムの瞳が竜也を見据えた。

「貴方は自分がヴォークリィエだとでも言うのですか? 冒険者レミュエルのような」

「おお、その人のことが聞きたかったんです。是非教えてください」

 ハーキムは急に変わった話に戸惑いを見せながらも、本棚から1冊の本を取り出しながら説明する。

「冒険者レミュエルは今から400年ほど前の人です。彼は自分のことを異邦人ヴォークリィエ――つまり、こことは違うずっと遠くの国からやってきた人間だと称していました。事実、彼は今までこちらになかった多くの物を伝えたのです。火薬、鉄砲、活版印刷等は彼によってこちらに伝わりました。

 レミュエルは火薬等の販売で得られた儲けの全てを注ぎ込んで大型帆船を建造。その船で大西洋の西へと船出していきました。

『西には大陸がある。そこの王国は金銀財宝を貯め込んでいる。こちらにはない食物があり、誰の物でもない豊かで広大な土地がある』

 彼はそう主張し、実際西の大陸まで到達したのです」

 竜也は無言で続きを促し、ハーキムが続けた。

「――ですが、レミュエルはその最初の航海では大した収穫を得られませんでした。東への帰路で彼の船は嵐に遭い、何とか沈没だけはせずに戻ってこれたものの、積み荷の大半は流され、船はもう二度と使い物にならなかったそうです。

 全財産を失ったレミュエルは借金取りに追われ、失意のうちに病死したそうです」

 話を聞いて、竜也は何とも言い難い気持ちとなった。そのレミュエルが竜也と同じ境遇であることはまず間違いないと思われた。西への航路を求めたのも、あるいは彼なりに元の世界に戻る努力をしていたのかも知れなかった。

 西の大陸には一時期入植が盛んに行われ、いくつかの植民都市が築かれた。今でも細々とながら交易があるそうで、アニードもそれを取り扱っている商人の一人である。

「――レミュエルのようなヴォークリィエと言われる人は他にもいるんですか?」

「歴史書上そうだろうと言われているのはレミュエルの他に二人です」

 その数が多いのか少ないのか竜也には判断できなかった。おそらくは歴史に名を残さず消えていったヴォークリィエもいるだろう。3人の何倍、何十倍になるのかは見当も付かないが。

「ヴォークリィエが元の国に帰ったって話は……」

「3人ともこちらで一生を過ごしています」

 ハーキムの答えに竜也は「そりゃそうだろうな」と思うしかない。それに、例え「元の国に帰った」と伝えられているとしても、それが本当かどうかを確認する方法はどこにもないのだ。

「あれ、誰か来てるの?」

 突然女性の声がした。竜也が振り返ると、入口にハーキムと同年代の若い女性が佇んでいる。頭部には豹の耳。褐色の肌を惜しげもなくさらした、グラマラスな美人さんだ。

「彼女はヤスミンさんと言います。この町の劇場の看板女優です」

 ハーキムの紹介にヤスミンは「しけた小さい一座だけどね」と笑いを見せた。竜也は室内に入ってくるヤスミンに軽く頭を下げる。

「クロイ=タツヤです。最近この町に来ました」

 ヤスミンは「よろしくね」と軽く言って挨拶を交わしながら、ハーキムの横までやってきた。そしてハーキムが執筆中だった原稿を覗き込む。

「なによ、全然進んでないじゃない」

「うう、済みません」

 ハーキムは身体を縮めて恐縮した。不思議そうな顔の竜也にヤスミンが説明する。

「随分前から劇の脚本をお願いしてるんだけどさ、いつまで経っても脱稿しないのよ。アシューの王様に捧げる詩でも書いてるの? あんたはどこの大文豪?」

「いや、あの、鋭意努力はしていますので……」

「それとも前払いした原稿料、耳を揃えて返してくれるの?」

 どことなく楽しそうにハーキムをいたぶるヤスミンと、恐縮するばかりのハーキムに、竜也が口を挟んだ。

「あの、済みません」

 二人の視線が竜也へと向けられる。

「その話、もっと詳しく聞かせてください。力になれるかも知れません」

 竜也の様子は、興奮を押し殺し冷静になるべく努めているかのようだった。

「大して難しい話じゃないけどね」

 と前置きし、ヤスミンが説明する。

「うちの一座は先々代の頃からのいくつかの脚本を順繰りに上演しているだけなのよね。大抵のお客さんはうちのどの劇も一回は見たことあるから、どんどんお客さんが少なくなってるの。いい加減新作で一山当てないと、先細りする一方なわけ」

「その新作の執筆を依頼されまして。気軽に引き受けたんですが、まさかこんなに難しいとは……」

 説明を引き継いだハーキムがそう嘆息した。

「劇の内容ってどんなのなんですか?」

「うちは『海賊王冒険譚』がほぼ専門」

 ヤスミン一座で使っている脚本の1冊を、ハーキムが本棚から取り出した。ハーキムとヤスミンの説明を受けながら、竜也はその脚本に目を通す。

 「海賊王ゴムゴムア」というのは300年ほど前の実在の人物だそうだ。ゴムゴムアは海賊として、商人として、傭兵として、義賊として名を上げ、数々の伝説を残している。虚実入り交じったそれらの伝説を小説化・演劇化したものが「海賊王冒険譚」である。

 劇の内容は冒険活劇。元の世界で言えば「千夜一夜物語」のシンドバッドやアリババのエピソードを想起させるものだった。そこから魔法的な要素を抜いたものと考えればいいだろう。

「新作の冒険譚ということは、全くの作り話でも、今まで誰も知らないような代物でも構わないんですね?」

「むしろそういうのが欲しい。面白ければ何でも構わないわ」

 それならいける、と竜也は昂ぶる心を抑えながらハーキム達に告げた。

「俺が知っている一番面白い冒険譚を劇にしましょう。ハーキムさんには『海賊王』の話にするための改造を。ヤスミンさんには演劇向きにするための修正をお願いします」

 竜也達は脚本を書くための打ち合わせに突入した。

「まずは、ゴムゴムアに相棒が欲しいですね。銃の名人は出せませんか?」

「その当時には銃はほとんど普及してませんよ。今だってエレブの一部で使われているだけですし」

「弓の名人じゃ駄目なの? ゴムゴムアの好敵手にそんな奴がいるけど」

「じゃあ、その人とゴムゴムアが今回はたまたま手を組んだことにしましょうか。あと、剣の達人も出したいんですが」

 ハーキムとヤスミンは少しの間考え込んだ。

「……剣と言えば、牙犬族よね」

 牙犬族は大して強い恩寵に恵まれていないが、一族総出で剣術修行を盛んに行っているそうである。牙犬族の戦士は全員が腕の立つ剣士であり、その戦闘力で他部族からも一目置かれている。

「そう言えば、牙犬族の剣祖と呼ばれる人物が近い時代の人でしたね」

「剣祖?」

「ええ。剣祖シノンは300年前にネゲヴに流れ着いた、ヴォークリィエと見られる人物です。優れた剣の使い手で、牙犬族に伝えたその術を『イットーリュー』と称していたと」

 竜也はずっこけそうになった。その剣祖とやらが同郷の人物であることはまず間違いないと思われた。「シノン」は「忍」か何かがなまった名前なのだろう。

「じゃあもう一人の仲間はそのシノンで」

「ですが、シノンとゴムゴムアでは活躍した時期が何十年かずれてますし」

 とハーキムが難色を示すが、

「細かいことはいいのよ! そんなところにこだわるお客さんなんて来やしないわよ」

 とヤスミンが押し通した。

「それじゃ次にあらすじです。舞台はどこかの小王国、お話はそこのお姫様が花嫁衣装で逃げ出したところから始まります」







[19836] 第4話「お金を儲けよう」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/07/16 19:53




「黄金の帝国」・導入篇
第4話「お金を儲けよう」その2










 打ち合わせは夜遅くまで行われ、大筋は完成した。あとはハーキムがそれを書き起こすだけである。

 翌日から竜也の生活が急に慌ただしくなった。

 メインは脚本執筆の補助である。竜也が「見てきたように」口述する台詞や展開をハーキムが文章化していく。ヤスミンは衣装や舞台装置、役者の手配に走り回った。

「うちの一座だけじゃ手が足りないし、これだけの劇なら大きくやらなきゃもったいないよ!」

 ヤスミンはそう言って、近隣をドサ回りしている旅芸人に声を掛けていた。

「敵役の宰相の衣装はどうしたらいい?」

 と衣装係に訊ねられた竜也は「敵役はやっぱり黒だろう」と答えた。それで用意された衣装を見てヤスミンと竜也が、

「……なんか地味ね。角とか付けましょ」

「それに金銀の飾りがあれば。あとマントは不可欠」

 二人の補足により仕上がった衣装はネゲヴの人間にとっても異国情緒溢れるものとなった。中世ヨーロッパ風の騎士装束にアラビア風味を加味したような、幻想的なものである。

 脚本は完成したところから座員に渡され、稽古が開始される。絵がわりと得意な竜也は書き割りの作成を手伝ったり稽古を見物したりしていたが、いつの間にか演出に口を挟むようになっていた。

 ヤスミンはシノンの役である。女泥棒の出番は脚本から削られたし、お姫様役にはちょっとばかり適さない。胸にさらしを巻いて小汚い格好をしたヤスミンは、ニヒルな剣士役を嬉々として演じていた。

「シノンが持っているのは斬鉄剣という伝説の剣で、鉄だろうと岩だろうと斬れないものはないんだ。この時の決め台詞は――『我が剣に……斬れぬものなし』」

「くぅ~っ、格好良いわ!」

 とヤスミンが感動に打ち震える一方、ハーキムは、

「そんな言い伝えはどこにもないんですが……」

 と異議を唱える。が、

「「細かいことは良いの(んだ)よ!」」

 という二人の合唱に沈黙するしかなかった。

「殺陣は緩急を付けた方が良い。シノンと敵がじっとにらみ合う、にらみ合う、にらみ合って、お客さんが焦れそうになった時に動く! ここですれ違い、一瞬の攻防! そのままの姿勢を維持! お客さんに『どうなった? どっちが勝った?』って思わせて、シノンが納刀、そのタイミングで敵倒れる、そう! そこでシノンの決め台詞、

『――またつまらぬものを斬ってしまった』」

 おおー、と座員が感嘆し、

「くぅ~っ、いかすわ!」

 とヤスミンがまた感動に打ち震えている。ハーキムは、

「あまりに実際の斬り合いとかけ離れていると思うのですが……」

 と冷静な突っ込みを入れている。が、

「「これがいいんじゃない!」」

 という二人の合唱にまたもや沈黙を余儀なくされた。

「それで、最後の決戦での決め台詞は?」

「それは勿論――『今宵の斬鉄剣はひと味違うぞ!』」

「くぅ~っ! 最っ高っ!!」

 感極まったヤスミンに対し、ハーキムはもう何も言えない。

「あんたに足りないのはこういう外連味よ!」

 ヤスミンは一方的にそう言ってハーキムを切って捨てた。

「本当面白いこの話、凄いよあんた!」

 ヤスミンがばしばしと竜也の肩を叩く。

(本当に凄いのはモンキー=パンチと宮崎駿なんだけど)

 竜也は内心そう思い、忸怩たるものを感じた。だがそれはそれとして、この劇が良い儲けになるよう引き続き全力を投入する。

「スキラの知り合いに手紙を送ったわ。上手くすれば劇を見に来てくれるかも知れない。もっと上手くすればスキラで上演する時にスポンサーになってくれるかも知れない!」

 ヤスミンの報告に一座の面々が「おー」と感嘆した。話が見えない竜也がハーキムに説明を求めた。

「ヤスミンさん達は元々スキラ近隣で活動していたんですよ」

 スキラはネゲヴで最も大きな町の一つだが、先々代の頃のヤスミン一座はそこでそれなりに名の売れた一座だったらしい。だが同じ演目ばかり上演していたので段々客が呼べなくなり、別の町に移動して新しい客を開拓。が、そこでも同じ演目ばかり上演していたので段々客が呼べなくなり、また別の町に移動して……と繰り返しているうちに、ついにこんな西の果てまで来てしまったそうである。

「この劇、絶対に成功させるよ! そしてスキラに返り咲く!」

 ヤスミン一座は新作劇に一層熱中し、その熱は竜也やハーキムを巻き込んで突き進んでいく。初上演はわずか1ヶ月先、アダルの月の1日と決定された。




















「あ゛~、ただいま~」

 日はとっくの昔に暮れていて、元の世界であれば日付が変わるような時間帯。疲れ切った竜也がアヴェンクレトのコテージに戻ってきた。明かりは灯されておらず、コテージの中は暗闇である。

「アヴェンクレトはもう寝てるよな……」

 と部屋の中へと入っていく竜也。だが、

「おかえりなさい」

 アヴェンクレトが真っ暗闇の中でテーブルに夕食を用意して待ち構えていた。竜也は思わず「のわっ」と奇声を上げて飛び退く。

「料理を温めるから少し待って」

「あ、ああ」

 動悸を抑えていた竜也は何とかそう返事した。

 それからしばらく後。温められた料理を差し挟み、竜也はアヴェンクレトと向かい合って遅い夕食を摂っていた。

「あー、何度も言ってるけど、こんな時間まで待つ必要ないんだぞ?」

「何度も言ってるけど、好きでしていることだから気にしないで。他にすることもないから」

 最早恒例となった会話が交わされ、二人はそのまま沈黙した。竜也は話すべき事柄を探す。

「……上演が始まれば暇になるから。あとちょっとの話だから」

 竜也の言葉にアヴェンクレトは「ん」と頷いた。

「大した金じゃないかも知れないけど、俺達二人がここを追い出されてもしばらくはやっていけるくらいにはなるはずだから。ヤスミンさん達がスキラに行くなら一緒に行って、そこで小説を出版するとかすれば……ネタはいくらでもあることだし」

 竜也の独り言めいた言葉にアヴェンクレトが相づちを打つ。

「劇も1回は見てもらわないとな。初日が一番人出が多いだろうから、フードとか被ってそのウサ耳隠して、人混みに紛れれば良いんじゃないか?」

 アヴェンクレトは微妙に嫌そうな、複雑な顔をする。それでも何も言わないアヴェンクレトの腕を竜也が掴む。竜也の心にアヴェンクレトの心境が流れ込んできた。

(白兎族の印に周りが何を思おうと、わたしのことをどれだけ嫌おうと、別にどうでもいい)

 アヴェンクレトは強がりでも何でもなく本気でそう思っていた。

(わたし一人で行くならフードなんか被らない。被りたくない)

 ウサ耳を付けること、白兎族であることは――そのためにどれほどの辛酸を舐めてきたきたとしても――アヴェンクレトという少女を構成する最も重要な要素なのだ。他人の目なんて下らない理由で、自分自身を否定するような真似はしたくない。ウサ耳のカチューシャを外すのは論外だし、フードを被ることも世間に負けて自分を否定したみたいで何か嫌だ。

(でも、わたしのせいでタツヤに嫌な思いをさせるのはもっと嫌。だからフードを被るのも仕方ない)

 だが結局、アヴェンクレトにとってそれが全てに優先するのだった。

 白兎族であることが知られたらお互いに嫌な思いをするだろうから――竜也は軽く考えていたが、それは白兎族を、アヴェンクレトという少女の何割かを否定することと同義だった。考えが浅かったことを竜也は恥じる。

(でも、周りの反応が間違ってるとは必ずしも言えないんだよな。心の中なんて究極のプライバシーだろ。それを好き勝手に覗かれちゃ――その恐れがあるのなら忌避するのだって当然だ)

 竜也の場合、度々アヴェンクレトと心をつなげて彼女が力を乱用していない事実を確認しているが故に、彼女を忌避する理由がないに過ぎない。(なお、この時点の竜也は白兎族の力をあまりに過大に誤解していた。たとえ白兎族であろうと、接触テレパスのような会話ができる者などアヴェンクレト以外には一人もいない。)

(初日だし、つまらん騒ぎを起こして上演にケチを付けたくないし、あんなに頑張ってるヤスミンさん達に迷惑かけるわけにはいかないし)

「……ごめん、今回はフードを被ってくれ」

 竜也はアヴェンクレトの言葉に甘えることにし、アヴェンクレトは「ん」と頷いた。だが彼女と付き合っていく限り、同じような問題は何度も出てくるだろう。

(どうするのが良いのか判らないけど、俺がしっかりしないと、考えないとな)

 竜也はそんな決意を新たにしていた。




















 月日は流れ、アダルの月の1日。町外れの広場には大勢の観客が詰めかけていた。竜也とフードを被ったアヴェンクレトもその前列に混じっている。

 そして夕刻。ヤスミン一座による新作劇「海賊王冒険譚 ~カリシロ城の花嫁」の上演が開始された。アヴェンクレトにとっては初めての観劇であり、目を輝かせて舞台に見入っている。










『ああ、何ということだ! そのお姫様は海賊の力を信じようとはしなかった! その子が信じてくれたなら、海賊は空を飛ぶことだって出来るというのに!』

『そうよ。かつて本物以上と讃えられた、ゴート金貨の震源地がここだ』

『ははは! 切り札は最後までとっておくものだよ!』

『連れて行ってください。海賊はまだ出来ないけど、きっと覚えます!』










 ――「カリシロ城の花嫁」は大好評を博し、タムリット中の話題を掠うこととなった。

「タツヤのおかげよ、ありがとう」

 ヤスミンが満面の笑みでそう告げる。竜也はようやく本当の意味で自分がこの町の、この世界の住人になったような気がした。





















○あとがき

 参考文献 : 新紀元社「幻想ネーミング辞典」

 この本便利超便利。さよならgoogle先生。






[19836] 第5話「戦いの予感」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/07/23 20:30




「黄金の帝国」・戦雲篇
第5話「戦いの予感」その1











 竜也がその世界にやってきたから8ヶ月が経過していた。その日はニサヌの月の1日。年も新しくなり3011年である。この世界でも1年は365日、春分が一年の始まりとなっている。季節の経過、1年の経過は元の世界とほぼ同期しているのではないかと考えられた。

 本来なら新年の祭りに参加するところだが、竜也も含めたタムリット市民の一部はそれどころではなかった。エレブから流れてきた山賊がタムリットに接近したため、山賊退治を行っていたのである。

「てえぇぃぃ!」

 接近する山賊に向け、竜也は槍を突き出した。竜也が用意したのは柄の長さが4メートルもある長槍だ。そんな奇妙な武器を使っているのは竜也一人なのだが、ロングレンジで一方的に敵を攻撃できるこの槍を竜也は重宝していた。

 山賊は槍の穂先をかわし、竜也へとさらに接近する。懐に飛び込まれた時にどうしようもなくなるのがこの槍の欠点なのだが、

「我が剣に――斬れぬものなし!」

 牙犬族の剣士がそれを補ってくれていた。竜也を護衛するように立っていたその剣士が山賊を一刀のもとに斬り伏せてしまう。その牙犬族は、

「ふっ……またつまらぬものを斬ってしまった」

 と空しげに呟きながら鞘に剣を収めた。

「ありがとうございます」

 竜也は内心「なんだかなー」と思いながらもそう礼を言う。その言葉に、剣士は片頬だけ吊り上げたような笑みを見せた。ニヒルな俺超格好いい!とか考えているのはアヴェンクレトでなくても判る。

 山賊が全員死ぬか逃げるかして、その日の山賊退治は終了した。竜也はその長槍で山賊の何人かに手傷を負わせたものの、一人として仕留めることはなかった。

「タツヤ、無事でしたか」

「ハーキムさんも。良かった」

 竜也とハーキムが互いの無事を喜び合う。

「ですが……」

 とハーキムが視線を送る方を竜也も見た。死んだ仲間にファハリが上着をかぶせている光景が竜也の目に入った。また、幾人かの怪我人が手当を受けている光景も。

「そうか、ついに出たのか」

「ええ。いずれ出るかも知れないとは思っていましたが」

 ハーキムは重い息を漏らした。

「今回も入れれば3回か。そりゃ戦死者だって出るだろうな」

 先月のアダルの月の1ヶ月間だけで2回――山賊退治の回数である。山賊は全てエレブから流れてきた兵士崩れだった。

「エレブで何かが起こっているんですかね?」

「エレブのことはなかなか伝わらないんですよ。長い間続いていた戦争が収まったとは聞いていますが」

「それなら――」

 竜也はその人影に気が付いた。ずっと向こう、何百メートルも離れた西の丘の上に、3つの騎兵の姿が見える。雑兵の類とは思えない。鎧で完全武装したその姿は、どこかの国の正規の騎士のように見受けられた。

 騎兵は竜也達に背を向け、丘の向こうへと消えていく。それを見送った竜也は、

「何かが起こっている。起ころうとしている」

 そんな確信と予感を抱いた。強い不安とともに。




















 山賊退治の帰り道、竜也はハーキムからエレブについて教わることにした。

「イブン=カハールという著名な冒険家がエレブについてこう書いています。『彼の地を他の地と違える最大の要因は十字教である』と。

 エレブには十字教という宗教があり、物乞いから王様までエレブの民の全てがその宗教の信徒なのだそうです。何故なら、十字教を信じない者は殺されてしまうから――イブン=カハールはそう書いていますが、話半分くらいに割り引いた方が良いかも知れませんよ?」

 ハーキムはそう言って笑うが、竜也には笑えなかった。

「それと、十字教徒にとっては我々のような恩寵を持つ民も皆殺しの対象なのだそうです。その昔、エレブにも銀狼族や灰熊族という部族がいたそうなのですが、十字教徒の手により村落ごと皆殺しになり、今は一人も残っていないとか」

「その十字教ってのは誰が始めたんですか? もしかしてヴォークリィエが?」

「よく判りましたね」

 さらっと返ってきた答えに竜也は「最悪だ」と頭を抱えたくなった。

「エレブの地に十字教を伝えたのは預言者フランシスと呼ばれる人です。十字教の教会は公式に否定していますが、彼がヴォークリィエであったことはまず間違いないと見られています。預言者フランシスが登場したのは700年前、バール人の全盛期です」

「……えーっと」

 竜也の戸惑いを見て、ハーキムは苦笑を漏らした。

「もう少しさかのぼって説明しましょうか」

「お願いします」

 エレブや十字教について教わるために、その前提となるこの世界の歴史の知識が必要だったことに竜也達は同時に気付いた。ハーキムの説明が始まる。

「そうですね。まずおよそ4000年前、フゥト=カァ=ラーでセルケトがケムト王に即位します」

 えらいところから話が始まったな、と竜也は思ったが、話を止めたりはしない。

 ケムトは元の世界ではエジプトに相当するが、この世界のエジプトには四大文明と呼ばれるような華々しい文明は築かれなかったらしい。ケムトにあったのは古代エジプト王朝のような領土国家ではなく、フゥト=カァ=ラーという都市国家を中心とする緩やかな都市国家連合体だった。

「フゥト=カァ=ラーのセルケト王朝は初代の王セルケトから今日まで実に4000年間、途切れることなく一つの血統により王位が受け継がれ続いています」

 とハーキムは言うが、竜也が「本当に?」と問うと肩をすくめた。

「……まあ、建前上はそうなっているというだけです。そもそも初代セルケトから千年くらいは歴史じゃなくて神話の領域ですし、王に子がなかったため臣下が王位を継いだ話がいくつもあります。臣下と言っても何代かさかのぼれば王家の血が入ってる者の即位なので、万世一系と強弁できなくもない、ということです」

 ここ2000年くらいはそういう王朝の交代じみたこともなく、王位が受け継がれているそうである。だがそれはケムトの国際的地位が低下し、ケムトの王位の魅力が減じたことの結果に過ぎない。

「3011年前、アシューのツィロにバール人がカナンを建国します。バール人は後にその年をバール暦元年と定めました」

 とは言うものの、カナンは名前だけが残るのみで今日では所在すら不明となっている。3011年という数字も神話の類であり、結局は伝説上の都市・伝説上の発祥地に過ぎない。(なお、ツィロは元の世界のシリア=パレスチナ一帯に相当する地名である。)

「バール人はカナンを最初の拠点とし、数々の植民都市を地中海各地に建設しました。それらの諸都市は交易で結ばれ、航路の安全確保のために軍事的にも手を結ぶようになります。そうしてバール暦1500年頃に誕生したのがウガリット同盟、バール人によるバール人のための海洋交易同盟です。バール人は地中海の覇者として、千年以上にわたって君臨し続けます」

 バール人とは、元の世界ではフェニキア人に相当する民族なのではないかと竜也は推定していた。

「バール人に、宿敵となるような民族は存在しなかったんですか?」

 竜也の問いにハーキムは「うーん」と少し考え、

「ヘラス人は一時期海洋交易の競争相手でしたが、内部分裂で勝手に衰退しましたね」

「足みたいな形のあの半島にそういう競争相手はいなかったんですか?」

「レモリアですか? 植民都市が建設されたばかりの頃は土着の勢力と敵対していたそうですが、やがて吸収してしまったようですよ」

 ヘラスはギリシアに相当する勢力、レモリアがローマに相当するようだ。ローマという不倶戴天の強敵は歴史に登場する前に潰され、吸収されてしまっていた。強力なライバルをそうなる前に潰してしまったため、バール人は覇者となるまで勢力を拡大し続けられたのだろう。

「ヘブライ人は……いるわけないか」

 ハーキムが不思議そうな顔をしたので竜也は「何でもないです」と誤魔化した。

 元の世界のヘブライ人はフェニキア人と近い関係にある。この世界にヘブライ人に相当する部族や民族があったとしても、バール人に吸収され、同化しているだろう。竜也はそう考えたが、それは全く正しい。

 そもそも、元の世界のようにヘブライ人=ユダヤ人が成立するにはユダヤ教が成立する必要がある。そのためにはモーゼによるエジプト脱出が必要だが、この世界ではエジプトとシリア=パレスチナが海で隔てられている。

 さらにそもそも、海を挟んでいる以上ケムトがアシュー側と戦争をすることがなく、ツィロ近辺から奴隷が連れてこられることもない。ケムトは古代エジプト王朝と比較すれば素朴で小さな都市国家群に過ぎず、神官勢力と王家が先鋭的な対立をすることもなく、アクエン=アテンによる宗教改革も起こらない。アテン神を信仰していたと見られるモーゼが逃亡奴隷に一神教を伝道することもなく、一神教を紐帯としたユダヤ民族がこの世界に生まれるはずもないのである。

 竜也は脇道にそれた思考を元の路線に戻し、ハーキムの説明に耳を傾けた。

「……ウガリット、グブラ、シドン、カルトハダ、ゲラ。主導する都市は変遷しましたが、バール人による海洋交易同盟は実に千年以上にわたって存続しました。バール人は地中海の覇者として君臨し続けます。

 バール語はこの世界の公用語となり、地中海中の全ての民は母語の他にバール語を覚えるのが当然となりました。各地に入植したバール人と土着の民との混血も進みます。そんな状態が千年以上続いたので、ネゲヴだけでなくエレブやアシューでも元々の母語がほぼ忘れ去られ、バール語が母語化してしまっているくらいです」

 それでも盛者必衰、驕れる者は久しからず。バール人もやがて衰退を迎えることになる。

「……2700年代のゲラ同盟分裂を最後に海洋交易同盟は二度と再建されず、ここにバール人の時代は終わりました。ゲラ同盟分裂後はバール人同士の戦争が起こり、以降100年は無法時代と呼ばれる戦乱の時代となります」

 なお、海賊王ゴムゴムアが義賊や傭兵として活躍したのはこの時代のことである。

「航路の安全が確保されないために交易が途絶え、都市間の交流が途絶え、各都市は自分の都市に閉じ籠もるようになります。戦乱の時代とは言っても戦う理由は交易利益の奪い合いで、戦場は海上にほぼ限られていました。つまり、交易さえ諦めれば都市の安全は確保できるんです。

 各都市がそうした、繁栄と引き替えにした安全を甘受することにより、戦乱の時代はやがて収まっていきます。そしてその後200年、ネゲヴでは自給自足と相互不干渉による平和が続いている、というわけです」

「バール人と呼ばれる人達はどうなったんですか?」

「地中海中に広がったバール人は土着の民と混血し、外見や血の濃さでバール人かそうでないかを区別するのはナンセンスになりました。それでは何をもってバール人とそうでない人を区別するのでしょう?」

「バール人としての誇りや自覚。バール人としての文化や振る舞い。バール人としての美徳や美意識。そんなところですか?」

 竜也の答えにハーキムが目を見開いた。

「まさしくその通りです。バール人は海洋交易を誇りとし、生き甲斐としていました。そんな彼等が交易の道を絶たれてしまい、誇りも生き甲斐も見失ってしまう。仲間同士の繋がりも途絶えてしまう。

 そんな彼等の子供達は『自分はバール人ではない』『ケムト人だ』『タムリット人だ』と思うようになります。血筋が絶たれたわけではないのですが、バール人はその数を急速に減じていくのです。

 今日でも海洋交易を行い、バール人として自覚している人も残っています。アニード氏も現代のバール人の一人です。ですが、今のバール人はかつての栄華を極めたバール人とはやはり違うと思うのです」

 竜也達はしばしの間、しんみりと歴史に思いをはせた。

「ネゲヴの方は判りましたけど、エレブの方もそうして平和になったんですか?」

「そういうわけにはいかなかったようです。細かい事情はあまり伝わらないのですが」

 バール人の時代には盛んに行われていたネゲヴとエレブの交易・交流は、無法時代を挟んでぱったりと途絶えてしまった。ネゲヴの民が南の大陸に引き籠もったように、エレブの民も北の大陸に引き籠もったのだ。

「ネゲヴの民はさらに自分の都市に引き籠もることにより平和を実現しましたが、それはネゲヴの気候が穏やかで農作物の実りが豊かで、引き籠もっていてもそれなりの生活が維持できたからです。

 ですが、エレブは気候が寒冷で民も町も田畑も貧しかった。少ない実りを奪い合う戦争が繰り返され、エレブの地は荒廃しました。十字教が勢力を拡大するのはこの頃からです」

 フランシスの伝道から長い間、十字教は田舎の弱小カルト宗教の域を出ていなかった。だが無法時代とそれ以降も続く戦乱の中、十字教は荒廃した人心につけ込むようにして急速に勢力を拡大させる。まず戦いに疲れた民に浸透し、次いでその信仰心を利用しようとする領主階級にも入り込み、長い時間を掛けて司教と領主の上下関係を逆転させることにも成功した。

「十字教の教皇はエレブの全国王・全諸侯に剣を置くよう命じます。30年掛けて教皇は諸国・諸侯を説得し、神の言葉に従わせました。教皇の努力により、300年ぶりにエレブに戦乱のない平和な時代が到来したのです」

「それで、実際のところは?」

 竜也の問いに、ハーキムが肩をすくめる。

「今の教皇が希代の傑物なのは確かでしょう」

 教皇が平和への意志に燃えていたのは間違いないが、その実現のために使った手段は悪辣そのものだった。一番多いのは、目障りな領主・国王の臣下に反乱をそそのかすことだ。反乱を陰に陽に支援し、成功すれば神の名の下に祝福する。失敗したなら知らん顔を決め込み、またの機会を待つ。

 エレブでは教会からの破門は政治的・宗教的な死を意味する。教皇は破門をちらつかせて諸侯・諸王国を縦横に操りながら、結局誰も破門にしなかった。でありながら、30年掛けてついには誰も自分に逆らえない体制を作り上げたのだ。

「教皇が存命のうちは平和が続くかも知れません。ですが死去すればすぐに再び戦いが始まるでしょう。エレブの今の平和は微妙な均衡の上に成立した、非常に脆いものでしかありません」

 ハーキムはそう言うが、竜也は全く違う展開を考えていた。

(戦国時代を制した豊臣秀吉は、諸侯の不満や兵の失業という問題を躱すために朝鮮半島に出兵した。もしかしたら教皇も……?)

 竜也の胸の内に黒々とした不安が広がっていった。







[19836] 第5話「戦いの予感」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/07/23 20:28










「黄金の帝国」・戦雲篇
第5話「戦いの予感」その2










 タムリットに戻ってきたその翌日。竜也はアヴェンクレトを連れて町に出ていた。行き先はハーキムと知り合いになった書店である。ハーキムによると、あんなひなびた書店でも品揃えはタムリット随一なのだそうだ。

「こんにちは」

 と竜也は店主に声を掛ける。店主は胡散臭そうに竜也とアヴェンクレトを見つめた。

「十字教に関する本があったら見せてほしいんですが。あ、イブン=カハールの『世界の記述』はいりません」

「十字教? まあいいが」

 店主は横柄な態度で店の奥に姿を消す。戻ってきた時は古ぼけた薄い、1冊の本を手にしていた。

「ゲラ同盟時代、十字教の宣教師がこの町に来た時に置いていった、あの連中の聖典だ」

「正確にはその写本」

 アヴェンクレトの指摘に、店主は少しの間言葉に詰まった。やがて精神的に体勢を立て直した店主が竜也に説明する。

「この町にはこれ1冊しかない、貴重な本だぞ。50ドラクマでなら売ってやってもいいが」

「5ドラクマで売れたなら上出来だと思っている」

 アヴェンクレトは容赦の欠片なくそう指摘した。しばし絶句した店主は、怒りで顔を真っ赤にした。

「この……! 悪魔が……!」

 店主が腕を振り上げた。アヴェンクレトは竜也の背後に隠れながらも、

「悪魔じゃない、『白い悪魔』」

 と自己主張をしている。竜也は慌ててアヴェンクレトを庇いながら、

「じゃあ10ドラクマで買います!」

 竜也はドラクマ硬貨を10枚店主に押しつけ、代わりにその聖典を取り上げるようにして受け取った。そのまま「お邪魔しました!」

と逃げるように店から飛び出していく。

 書店からかなり離れたところでようやく立ち止まり、店主が追ってこないことに竜也は安堵のため息をついた。アヴェンクレトも呼吸を整えている。

 向かい合い、アヴェンクレトを見下ろした竜也はため息をつき、

「アヴェンクレト、あれはやり過ぎ」

 とりあえずそう言わずにはいられなかった。きょとんと不思議そうな顔のアヴェンクレトが竜也の手を取る。

(でも、余計なお金を使わずに済んだ。あの店主はタツヤからお金を騙し取ることしか考えていなかった)

(近代以前の商売人なんてみんなそんなもんだろ、怒っても仕方ない。アヴェンクレトのやり方の方がルール違反だ)

(せっかくの力なんだからこういう時に使わないと損)

(でも、その使い方がいかにも不味い。あれじゃアヴェンクレトがますます嫌われる)

(別に構わない。好かれようなんて思ってない)

 生まれた時から他者に忌まれ、恐れられるのが当たり前の少女にとって、「他人に嫌われること」は己が行動を制御する理由にならないのだ。他者の感情を誰よりも理解できる少女は、まさにそのために他者の感情に誰よりも無頓着になっていた。

「とにかく。力を使うなとは言わないから、もっと上手い使い方をしてくれ。自分のためでもあるし、周りの人のためでもあるんだ」

 竜也の言葉にアヴェンクレトが頷く。竜也が心配してくれていることを感じ取り、アヴェンクレトの胸は幸せな思いでいっぱいになった。今まで少女を心配してくれる人など、一人もいなかったのだから。

「ほら、行くぞ」

 竜也はアヴェンクレトの手を引いて歩き出した。少女はその手をしっかりと握った。決してそれを離すことがないように。



















 竜也はハーキムの家を訪れた。

 アヴェンクレトの姿にハーキムが怯えた様子を見せたので、「絶対に勝手に心を読ませたりしない」と竜也が堅く約束し、何とか一緒に部屋に上げてもらうことが出来た。

 白兎族の少女にぺったり貼り付かれても平然としている竜也の姿を、ハーキムは畏怖の目で見つめた。

「何と言うか、貴方は結構大物なのかも知れませんね」

 ハーキムの感嘆を、竜也は的外れのように感じて適当に受け流した。竜也はハーキムに本を渡す。

「今日はこの本を読んでもらいたいと思いまして」

 竜也も字は読めるが速度はかなり遅い。ハーキムに読んでもらって内容を要約してもらった方が早いという判断である。立派な活字中毒であるハーキムにとっても、どんな内容であれ本を読めるのであればその提案に異存はなかった。

「昔はネゲヴにもエレブからの宣教師が来ていたんですね」

「一時期かなり熱心に布教していて、多少は信者を獲得したそうですが、無法時代の間にほぼ消滅しましたね。ネゲヴで未だに十字教の教会が残っているのはフゥト=カァ=ラーくらいじゃないでしょうか」

 竜也とハーキムはその日の午後を費やして聖典を精読していく。夕方には読み終え、内容についての意見交換の段となった。

「……十字教が長い間広がらなかった理由がよく判りました」

 今エレブにここまで広がっている理由が理解できなくなりましたが、とハーキムは辛辣な笑みを見せた。竜也も全くの同意見である。

 聖典には、天地創造、エデンの園、カインとアベル、ノアの方舟、バベルの塔等、旧約聖書の良く知られたエピソードが書き連ねられていた。逆に言えば、良く知られたエピソードしか書かれていないということだ。もしかしたら預言者フランシスは本職の聖職者ではなかったのかも知れない。あるいはフランシスは大量のエピソードを持ち込んだけど、それは散逸してしまったか、だ。

「この、預言者モーゼの話などおかしいところだらけです」

 前半最大の山場はモーゼによるケムト脱出(エジプト脱出)である。この聖典の中ではモーゼが一番偉大な存在として描写されていた。イエス=キリストよりも大きく扱われているくらいである。

「『ケムトの皇帝はアシューのツィロを侵略し、獲得した奴隷をケムトへと連れ帰った』……そんな史実はどこにもないんですが」

 元の世界のエジプトやパレスチナを舞台にした話を、無理矢理こちらの地理に当てはめて記述しているのだ。そのためこちらの史実と全くそぐわない、奇妙な内容になってしまっている。

 モーゼは奴隷を引き連れてケムトを脱出する。神はモーゼとその民に「大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て」の地を与えると約束をした。「日の入る方の大海」とは地中海のことであり、つまり約束の地とはシリア=パレスチナ一帯――この世界の地名ではツィロの地を指している。

「『モーゼの民はツィロの地に王国を作った』『だが王国は滅び、いくつかの国に服従する時代が続く』『ネゲブ全土を支配した皇帝がツィロも征服した』『皇帝により服従を強いられていた時代、そこに登場したのが救世主ヨシュアである』……もう無茶苦茶です」

 キリストの頃のパレスチナの支配者はローマの皇帝だったのだが、この世界にはローマに相当するような帝国は存在しなかった。そこで、モーゼにとっての敵役であるケムトの皇帝をここでも持ち出すしかなかったのだろう。その結果、ネゲヴにエジプト王朝とローマ帝国が合体したようなハイパー帝国が存在することになってしまっている。

「だいたい、この皇帝インペラトルというのは何なんですか?」

 ローマ帝国が果たした歴史上の役割は、この世界ではバール人の海洋交易同盟が果たしていたと言える。だがその実体は都市国家連合であり、「帝国」と言えるような巨大領土国家ではない。「ネゲヴの皇帝」のモデルとなったケムトの王家にしても、小さな都市国家連合に過ぎないのだ。

 どのような形にしろこの世界に「帝国」が存在しなかった以上、「皇帝」の称号がこの世界に由来するはずがない。それはフランシスが元の世界から持ち込んだ言葉であり、概念なのだ。

 巨大なネゲヴの大陸をただ一人で統治する、絶対の支配者。ネゲヴの魔物と軍勢を配下に置いた、恐るべき独裁者。聖典はそんな「皇帝」像をおどろおどろしく描写していた。「魔王」という言葉に置き換え可能と言えば、どういうニュアンスで使われているのか判りやすいだろう。

「エレブの民は、ネゲヴがこんな状態だと信じているのか……?」

 竜也は暗澹たる思いを抱きながら呟いた。




















 翌日、ニサヌの月の5日。竜也は一人で港にやってきた。

「エレブと交易している船はありませんか?」

 竜也はその辺を行き交う人の中から温厚そうな人物を選び、訊ねる。多少時間は掛かったが目的の船は何とか見つけられた。だがその船はアニードの所有する商船であり、間の悪いことに甲板で商品の積み込み等を監督していたのはアニード本人だった。

「何だ、お前は?」

 不機嫌そうなアニードがそう問う。竜也は内心天を仰いだ。そして、見つかったものは仕方ない、と竜也は気を取り直す。

「ちょっと調べていることがありまして。今のエレブの状況が知りたいんですが。エレブに戦争の動きはありませんか?」

「そんなことがお前に何の関係がある?」

「エレブの軍隊がタムリットに攻めてきたら、無関係も何もないでしょうが」

 アニードは「馬鹿か、お前は?」と竜也をせせら笑った。

「そんなこと起こるわけないだろう。バール人の時代からエレブの軍がヘラクレス地峡を越えたことは一度もないんだ」

(馬鹿なのはお前の方だろうが)

 そう言い返したところを、竜也はぐっと飲み込んだ。竜也は感情的にならないよう努めながらアニードを説得しようとする。

「過去に一度も起こらなかったことがこれからも起こらないと、どうして言えるんです。タムリットには軍隊はないし、大した城壁もない。もしエレブの軍が本気で攻めてきたらこんな町ひとたまりもないですよ?」

「無駄飯食いの小僧が、何を知ったような口を利いている!」

 アニードが竜也に罵声を浴びせた。

「屋敷から放り出すぞ! 戻って自分の仕事をしろ!」

 竜也は「失礼しました」と頭を下げ、その場から逃げるように立ち去った。

 調査に行き詰まった竜也はアニード邸へ帰ることにする。が、足が前に進まなかった。竜也は波打つ海を見つめながら立ち尽くしている。

「どうせ見つかって叱責されるならアヴェンクレトを連れてくれば良かった」

 と自分の無力さ加減を噛み締めた。その時、

「あれ、どうしたの?」

 声を掛けられた竜也が振り返ると、そこには立っていたのはヤスミンだった。ヤスミンの隣には見知らぬ少女が佇んでいる。竜也は「ちょっと調べ物があったんですけど」と簡単に事情を説明した。

「ヤスミンさんはどうしたんですか?」

「ついにスキラに行くことになったんで用意していたの」

「え、もうですか?」

 スキラはネゲヴで最も大きい町の一つである。場所はネゲヴのちょうど真ん中、元の世界で言うならチュニスとトリポリの中間に位置する。

「こちらがスポンサーになってくれるアンヴェルさん」

 ヤスミンは隣の少女を竜也に紹介した。アンヴェルという名のその少女は、竜也と同年代。バール人の血が強く肌の色は薄めで、短めの髪は明るい茶色。闊達そうな美少女で、好奇心いっぱいの瞳が竜也を見つめている。

「初めまして、アンヴェルです。スキラのナーフィア商会に所属しています。貴方があの劇の脚本を書いたんですよね?」

 竜也が「ええ」と頷くと、アンヴェルは竜也の手を取った。

「貴方もスキラに来てください! こんな田舎町に引き籠もっているなんてもったいないですよ!」

 目を白黒させた竜也が、助けを求めるようにヤスミンに視線を送る。ヤスミンは苦笑を見せた。

「『カリシロ城の花嫁』だけでこの先ずっとやっていくわけにもいかないし、わたし達もタツヤには一緒に来てもらわなきゃ、って思ってるのよ。それに、タツヤ自身も前にそんな話をしてたじゃない」

 確かにその通りだが、こんなに急な話だとは思っていなかったので何の用意もしていなかった。

「返事はいつまでに?」

「15日には出港しますので、それまでにお願いします」

 竜也はそれを了解し、二人に頭を下げた。

「一緒に行けるように努力しますので、よろしくお願いします」




















 竜也はその足でハーキムの家へと向かった。

「残念ですが、私はこの町に残ります。私はこの町の出です。しがらみやら父祖の墓やら色々ありまして、簡単に捨てるわけにもいきません」

 ハーキムは以前にもスキラ行きをヤスミンから誘われたそうだが、そう言って断っていた。

「エレブの状況については、こんな田舎町よりもスキラの方がよほど情報を得やすいと思います。何か判ったら私にも教えてください」

「それは勿論」

 ハーキムの依頼に竜也は頷いた。

 その夜、アヴェンクレトのコテージ。竜也はアヴェンクレトにスキラ行きの件を説明した。

「この町には何も未練はない。わたしはタツヤに付いていく」

 アヴェンクレトの回答は以前にこの話をした時と全く変更がなかった。竜也もまたアヴェンクレトを置いて一人で行くことを考えもしていない。

「問題はアニード。例え邪魔になっていても、わたしを簡単に手放すとは思えない」

「確かに」

 竜也は腕を組んで考え込む。そんな竜也にアヴェンクレトが提案した。

「アニードの弱みならいくらでも握っている。脅すのは簡単」

「最悪はそれも選択肢に入れるとしても、もっと穏便な方法はないのか?」

「アニードと交渉して手放させる。わたしがアニードの考えを読めば、交渉に勝つのはそんなに難しくない」

「言い負かすだけなら簡単かも知れないけど、それは交渉で妥協させるのとは違うんだ」

 竜也はたしなめるようにアヴェンクレトに説明した。

「こっちにはろくな手札はないし、下手に追い詰めると失敗する。こっちに都合の良い答えを逃げ道にして、相手をそこに誘導するのが一番理想的な交渉術なんだけど……」

 竜也の脳裏にある考えが閃いた。竜也が脳内で材料を組み立て、崩し、再度組み直す。その過程はアヴェンクレトでも読み取れないくらいの速度である。しばしの時を経て、竜也の脳内ではほぼ完全な作戦が組み上げられていた。アヴェンクレトもそれを読み取る。

「アンヴェルさんに協力してもらおう」

 アニードは交易のためつい先日までタムリットを離れていたので、アンヴェルが何をしにタムリットを訪れているのか知らない可能性は高い。

「それはわたしが確認すればいい。アニードにはお似合いの手」

「ふふふ」

「くすくすくす」

 竜也とアヴェンクレトは悪辣そうな微笑みを交わし合った。




















 ニサヌの月の10日。アニード邸をアンヴェルが訪れた。

 スキラのナーフィア商会と言えばネゲヴ有数の大豪商であり、その使いが会見を求めているなら会わないという選択肢はない。例えその使いがほんの小娘であろうとも。アニードは最大限へりくだってアンヴェルを出迎え、客間へと通した。その隣室ではアヴェンクレトがいつものように待機している。

「――白兎族はもう用意されていますね?」

 挨拶も何もなく、アンヴェルが先制する。アニードは返答に詰まった。

「さ、さて、何のことでしょう」

「下手な芝居は結構。白兎族の悪魔がそちらの手にある以上、普通の交渉は成立しないでしょう。ですが、わたしは交渉に来たのではありません。スキラ商会連盟の総意を通告しに来たのです」

 アヴェンクレトはいつものように手鏡を使ってアニードに合図を送った。アニードはアンヴェルが嘘を言っていないことを知らされる。(なお、商会連盟とはバール人商人が中心となって組織している商人同士の互助会みたいなものである。)

「スキラ商会連盟に属する全ての商会はアニード商会との一切の取引を打ち切ります」

「そ、そんな……」

 アヴェンクレトがアニードに合図を送る。アニードの口から唸り声が漏れた。

「一体何故……?」

「貴方が普通に取引や駆け引きに勝ち続けただけなら、こんな決定はされません。ですが、貴方のやり方はあまりに卑劣だった。商人同士の仁義を踏みにじり、一方的に自分だけボロ儲けをし続けた。そのために他の商人からどれだけの恨みを買ったのか、まさか理解して

いないのではないでしょうね?」

 アヴェンクレトがアニードに合図を送る。アニードが大量の冷や汗を流した。

「……スキラと交易できずとも、ハドゥルメトゥムやカルトハダの商人がおります」

「スキラの動きを知れば、ハドゥルメトゥムやカルトハダの商会連盟も同じ決断をするのは間違いありません。ウティカやヒッポもいずれは追随するでしょう」

 アヴェンクレトがアニードに合図を送る。アニードが顔面蒼白となりながら言い訳した。

「その、正直申しまして、私も少々やり過ぎたことを反省しているところなのです。白兎族の悪魔は故郷に帰しまして、元のように真っ当に商売をしようと思っていたところでして」

「故郷に帰したところで、貴方や他の商人が悪魔をまた利用しようとするかも知れません。手放すのであれば引き渡していただきましょう。悪魔は我々の商会連盟が共同で管理します」

 アニードが眉を跳ね上げた。

「……あの悪魔は私が高い金を出して白兎族から買ったものです。それを引き渡すとして、我が商会への見返りは?」

「悪魔が貴方の手元にないのであれば、取引を打ち切る理由もありません。それは見返りにはならないと? それに、白兎族に払った対価など端金に過ぎないでしょう? 悪魔を使って得られた儲けから見れば――我々商会連盟の商人が受けた損害から見れば」

 アンヴェルが斬り捨てるような視線でアニードを見下ろす。アニードは身震いした。

「……最近スキラの商人の幾人かと疎遠となっているのですが……」

「口添えくらいはしましょう。取引を再開できるかはそちらの努力次第です」

 アニードはがっくりと肩を落とす。アニードが落ちたことを、アンヴェルは理解した。




















 交渉の翌日にはアヴェンクレトはアニード邸を出てアンヴェルの商船へと移動した。鞄二つにまとめられた着替えと多少の貯金、それがアヴェンクレトの全財産である。竜也がその二つの鞄を持ってアヴェンクレトに同行する。

 アヴェンクレトは踊るような軽やかな足取りで歩いていた。

「タツヤはすごい、こんなに簡単にアニードから自由になれるなんて」

「あのおっさんが迂闊なだけだよ。アヴェンクレトが敵に回ることを考えもしていないんだから」

 アンヴェルがアニードに通告した内容は、実は全てアンヴェルのはったりだったのだ。普通の商人ならこんなはったりは相手にもされないだろう。アニードが自力のみでアンヴェルと交渉したなら、あるいはアンヴェルの嘘を見抜けたかも知れない。

「でも、あのおっさんはアヴェンクレトの力に頼って自分で考えようとしなかった。その肝心のアヴェンクレトがアンヴェルさんに協力していたんだから、あのおっさんが負けるのは当たり前だよ」

「当然の報い」

「そういうこと」

 竜也達が港に到着し、やがてアンヴェルの商船が見えてきた。竜也達の姿を認めたアンヴェルが大きく手を振っている。竜也は早足でアンヴェルの元へと急いだ。アヴェンクレトは少し遅れて竜也に続く。

「アンヴェルさん! ありがとうございます!」

 竜也は真っ先にそう言ってアンヴェルに頭を下げた。

「にゃははは! 別に構わないですよ。わたしもこんなに楽ちんで愉快な交渉は初めてでした!」

 アンヴェルはそう笑顔を返した。

「それにしても、随分どきついはったりかましたんですね」

「ん? 全部が全部はったりってわけじゃないですよ。万一交渉が決裂した時は『白兎族の悪魔』の事実を知る限りの商会連盟に連絡するつもりでしたから」

「『悪魔』じゃない」

 その時、ようやく追いついたアヴェンクレトがアンヴェルにそう言う。アンヴェルは恐縮した。

「あ、ごめんなさい。でもあの時の交渉者の振る舞いとしてはあの言い方が最適だったから――」

 アヴェンクレトはアンヴェルの言い訳を無視し、一方的に告げた。

「『悪魔』じゃない。『白い悪魔』」

 きょとんとするアンヴェルの一方、アヴェンクレトは偉そうに胸を張っている。竜也は内心「余計なことを教えてしまったかも」とちょっと後悔していた。

「――ええと、ああ、うん。判りました、『白い悪魔』ですね」

 アンヴェルはそう納得して見せてその話をさらっと流し、次の話題に移る。

「それと、アヴェンクレトさんの力を商会連盟で管理する、というのも嘘じゃありませんよ。少なくてもアヴェンクレトさんにはどの商人にも力を貸さないことを確約してもらいますし、力を使う時は特定の商人のためにではなく、連盟のために使ってもらおうと思っています」

「その報酬は?」

 アヴェンクレトの疑問にアンヴェルが答えた。

「不自由な思いはしないくらいの金額はお約束します」

 今度は竜也が抱いた疑問をアンヴェルに訊ねる。

「アンヴェルさん自身はこの子の力を利用しようとは思わないんですか?」

「考えなくもなかったんですけど」

 アンヴェルはそう言って苦笑した。

「昨日のアニードさんの醜態を見て考えを変えました。アヴェンクレトさんの恩寵は強力すぎです。それに頼ると商人として駄目になっちゃいます」

「確かに」

 竜也は深々と頷いて同意した。

「――さて、出港まであと4日です。お二人の戸籍の移動とか、必要な手続はこちらで進めます。タツヤさんには船員の一人として働いてもらいますから、そのつもりでお願いしますね」

 判りました、と竜也が頷く。アヴェンクレトは用意された船室に移動し、竜也はアンヴェルと一緒に船内に案内された。




















 竜也はアニード邸で仲良くなったメイドのマウアと、アヴェンクレト付きのばあやに別れの挨拶をする。ばあやはアヴェンクレトを孫のように可愛がっていたので、非常に寂しそうにしていた。アヴェンクレトも別れを惜しんで涙ぐんでいる。

「アヴェンクレトがいなくなったらばあやはクビになるのかな?」

 竜也はマウアに確認する。

「なるかも知れませんが、おばあちゃん一人くらいわたしが養ってみせますから大丈夫です」

 とマウアは胸を張った。そうか、と竜也は安堵する。

「それじゃ、元気で」

「ええ。タツヤさんも」


 マウアはどこか寂しそうな微笑みで竜也を見送った。

 そして4日後のニサヌの月の15日。竜也やアヴェンクレト、ヤスミン等を乗せた船はタムリットを出港した。行き先はスキラ、約1ヶ月の旅程を予定していた。







[19836] 第6話「戦乱の気配」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/07/30 20:51





「黄金の帝国」・戦雲篇
第6話「戦乱の気配」その1










 竜也達を乗せた帆船はスキラへと向けて海を走っている。

 タムリットからスキラまでは直線距離でも1000km以上ある。日本の本州の端から端までと同程度だ。帆船で急げば20日程度。あちこちに立ち寄る普通の商船なら1ヶ月程度の船旅である。

 ヤスミン達一座の面々が寝泊まりするのは船倉の大部屋だ。男女の区別もなく雑魚寝である。アヴェンクレトをそこで雑魚寝させるのはいくつかの理由で不可能だったため、狭いながらも個室が用意されていた。この船で個室を使っているのはアンヴェルとアヴェンクレトの二人だけだ。

 なお、竜也がお休みからおはようまでアヴェンクレトの部屋にいて一緒に過ごしていることは言うまでもない。

 日中竜也やヤスミン達は船員見習いみたいな扱いで様々な雑用に従事している。旅費を多少なりとも浮かそうという、涙ぐましい努力である。もっとも、本職の船乗りでない竜也達が航海中に出来る雑用など大した量ではなく、暇な時間はかなり多かった。

 そんな時間はアヴェンクレトの部屋に集まり、雑談に興じるのが通例である。

「それで、考えてあるんでしょ?」

「是非聞きたいですねー!」

 今日もまた例によってヤスミンとアンヴェルがアヴェンクレトの部屋を訪れていた。アヴェンクレトはまだ布団の中でうだうだと惰眠をむさぼっていたが、ヤスミン達はそれを特に気にしていない。竜也が「勝手に心を読ませない」と堅く約束したこともあり、航海の間になし崩し的にアヴェンクレトの存在に慣れていた。

「まー前から次回作については考えていて、ハーキムさんにも色々助言してもらってたんだけど」

 期待に瞳を輝かせた二人が身を乗り出した。

「内容はやっぱり海賊王冒険譚の新作。『カリシロ城の花嫁』の少し前の事件で、ゴムゴムアがシノンやカウスと最初に知り合った時の話になる。題名は『七人の海賊』」

 おおー、とヤスミンとアンヴェルが感嘆を漏らした。

 アンヴェルの実家はナーフィア商会と言い、アニードなど木っ端扱いできるくらいの大豪商である。彼女はその末っ子で、ナーフィア商会の一部門を任させている。内容は演劇や出版等の、娯楽関係。とは言うものの、ナーフィア商会全体からすればほんの小さな部門に過ぎない。アンヴェルの親からすれば、少し高価な玩具を買い与えたくらいの感覚なのだろう。

「前作があれだけ面白かったんですから、弥が上にも期待が高まりますねー」

「おう、期待してくれ。俺が住んでたところじゃ『これが面白くない人間にはそもそも劇の面白さが判らないのだ』とまで言われるんだ」

「そこまで言っちゃいますかー!」

 きゃー、とアンヴェルは悲鳴を上げた。

 演劇等の興業は労力の割に利幅が小さく、あまり旨味のある商売ではない。それでもアンヴェルが嬉々として取り組んでいるのは、要するにそれが好きだからだ。

「舞台はとある小さく貧乏な漁村。その漁村はある海賊に目を付けられていて、破産寸前になっている。海賊の横暴に我慢できなくなった村人が集まって決意するんだ。――『傭兵を雇うだ!』」

 だが、アンヴェルは金持ち娘の道楽として演劇を商っているのでは決してなかった。面白い演劇を上演し、面白い本を出版し、利益を出して最終的にはこの部門を実家から買い取って独立する。それがアンヴェルの夢であり目標であると言う。

「……村人の祭りを見ながら、リーダーが言うんだ。

『また負け戦だったな』『勝ったのは村人達だ。我々ではない』――」

 竜也の語りが終わる。見ると、ヤスミンとアンヴェルは拳を握りしめながら身体を丸め、

「――面白いっっ! 面白すぎるよタツヤ!」

「――最っっ高です! 最高すぎますタツヤさん!」

 雄叫びを上げ、左右から竜也の肩を掴んで揺す振った。揺す振られた竜也が目を回しそうになる。

「ハーキムが言ってたけど、タツヤはまだまだいろんな話を知っているんでしょ? ヴォークリィエってやっぱりただ者じゃないのね」

「本当、アニードさんは愚かですねー。タツヤさんの本当の価値が判らないなんて」

 見目麗しい女性から尊敬の視線を集め、竜也は居心地の悪い思いをした。

(本当にすごいのは黒澤明なんだけど)

 と内心で呟くしかない。

 アンヴェルは手を組み、きらきらと瞳を光らせて竜也と向かい合った。

「タツヤさん、いっそわたしと結婚しませんか? 一生不自由はさせませんよ?」

「いぇえぇ?! ああの、でも」

 焦った竜也は挙動不審になってしまう。その竜也の背中を小さな手がつねった。

「……アンヴェルは冗談で言っている。本気にしない方がいい」

 布団の中から手を伸ばしたままアヴェンクレトがそう告げる。竜也は、

「アア、ウン、ソウ。やっぱり冗談だよね」

 と激しく納得しながらも肩を落とした。布団から抜け出したアヴェンクレトが竜也の足の間に座り込み、竜也に身体を擦りつけた。そして、威嚇するような険悪な視線をアンヴェルに向ける。

「わたしは重婚でも構わないんですが。仲良くタツヤさんを共有しませんか?」

「そーゆー子供の教育に悪い冗談はどうかと思うぞ」

 失礼しました、とアンヴェルは謝った。

「――さて、随分長居しましたのでそろそろ仕事に戻ります」

「そうね、わたしもこれで」

 アンヴェルとヤスミンは連れ立って「仲良くね~」「ごゆっくり~」等と言いながらその部屋を立ち去る。部屋を出て扉を閉めたところでヤスミンが訊ねた。

「ところでアンヴェル。あれってどこまで冗談だったの?」

「さあ? むしろわたしがあの子に教えてほしいくらいかも」

 アンヴェルはそう言いながら、謎めいた笑みを見せた。




















 タムリットを出港して1ヶ月、ジブの月の15日。竜也達を乗せた船はスキラ港に入港した。

 スキラ湖と呼ばれる湖は、元の世界で言えばチュニジアのジェリド湖やガルサ湖等を一つにつなげたものである。元の世界のこれ等の湖は水がほとんど存在しない塩湖だが、この世界のスキラ湖は大量の水を湛えた淡水湖だ。ネゲヴで2番目の大河と言われているナハル川がその水源となっている。ナハル川の水は一旦スキラ湖に流れ込み、また川となって海へと流れていく。

 スキラの町は、そのスキラ湖と海をつなぐ川の北岸にあった。川幅は一番狭いところでも2km近くあり、船を使わなければ向こう岸に行くことは出来ない。南岸にあるのは小さな漁村・農村で、町の機能は北岸に集中していた。

 町の人口は20万とも30万とも言われている。タムリットとは比較にならない賑わい方である。そびえ立つ石造りの建物、行き交う人々の群れに、アヴェンクレトは目を丸くしている。

 ナーフィア商会が一座のために借家を用意しており、ヤスミン達はアンヴェルの案内でそこに向かって移動していた。竜也やアヴェンクレトも一座の一員として住むため、それに同行する。

 竜也とアヴェンクレトとアンヴェルの3人が、並んでスキラの町を歩いていく。アヴェンクレトはフードなど被らず、ウサ耳を人目にさらしたままである。だが、この町の人々の反応はタムリットの町とは大きく違っていた。

(……? みんな驚いてるし珍しがってるけど、忌避するような目があまりないような)

(うん、確かにみんな珍しがってるだけ)

 竜也はアンヴェルに意見を求めた。アンヴェルは思うところを正直に述べる。

「実際珍しいのは確かですよ? その容姿にしても、白兎族にしても」

 ほとんどの白兎族は隠れ里に固まって暮らしているため、町中に白兎族が出てくるとは極めて希であると言う。名前は有名だが誰も見たことがない、「幻の部族」と呼ばれる所以である。

「タムリットで忌避されていたのは、アニードさんに利用されていたことも関係しているでしょうし、ずっとあの町にいたことも理由としてあるんじゃないかと思います。今はまだすれ違うだけなので単に『珍しい』というだけで済みますが、町中に住んで隣人になるとなったら、また違う反応が出てくると思いますよ?」

「なるほど」

(なるほど)

 アンヴェルの解説に竜也達は納得した。

 やがて一行は借家に到着する。借家は古くて小さいながらも町中にあり、劇場もごく近所だった。

「さあ、すぐに劇場に入って用意するよ! 1日から上演なんだから!」

 ヤスミンの指示に従い、一座は休む間もなく劇場へと移動した。大道具のほとんどは劇場の倉庫にあった物を流用するが、一部新作を必要とする物もある。竜也は例によって書き割りの作成を手伝った。

 何日かはそんな調子で過ぎていき、月が変わってシマヌの月の1日。ついに「カリシロ城の花嫁」の上演が開始される日となった。

「知られざる、若きゴムゴムアの冒険譚! 完全新作! さあ見てらっしゃい!」

 客の入りは正直言って芳しくなかった。タムリットとは違い、スキラでは娯楽の選択肢が多い。全く無名のヤスミン一座の芝居をわざわざ見に来るのは、身内かよほどの物好きに限られていた。

 なかなか客が集まらない中、竜也は一座の面々と共に路上で懸命に呼び込みをやっている。そんな時かなり柄の悪い、傭兵と思しき十人近くの一団が通りかかった。先頭を歩いているリーダーと見られる巨漢の男が劇の看板に目を留め、足を止める。竜也は内心怯えながらも劇の宣伝をしようとして、気が付いた。

「あ、ガイル=ラベク」

 傭兵を引き連れて歩いていたのはモヒカン頭も輝かしい青鯱族のガイル=ラベクで、竜也は我知らずのうちに彼の名を呼んでいた。ガイル=ラベクは「ん?」と首を傾げる。

「何だ坊主。俺と会ったことがあるのか?」

「7~8ヶ月くらい前、タムリットの近くで白兎族の女の子を助けたことがあったでしょう?」

 ガイル=ラベクはそれで「ああ、あの時の」と思い出した。

「あの時の坊主か。こんなところで何をやっている?」

「色々あって、今は劇の脚本を書いたりしてます」

 ガイル=ラベクは「ほう」と感心して劇の看板に視線を送った。

「この劇の脚本を書いたって言うのか。面白いのか?」

「ええ、勿論」

 と胸を張って断言する。ガイル=ラベクは再び「ほう」と感心する。

「ところで知っているか? 俺達の髑髏船団は300年以上の歴史を持つ海上傭兵団で、この」

 と看板に描かれたゴムゴムアを指差した。

「海賊王が作った傭兵団の一つが起源になっている。その俺達に『この海賊王の劇は面白い』と薦めるんだな?」

 髑髏船団は歴史と伝統を誇るだけでなく、ネゲヴ最強の海上傭兵団としても名高かった。ガイル=ラベクの醸し出す迫力が路上に時ならぬ緊張感を生み出す。が、竜也はそれを全く意に介さず、

「決して損はさせません」

 満腔の自信を持ってそう答えた。ガイル=ラベクは三度「ほう」と感心する。

「そこまで言うなら見てやるが、面白くなかったらただじゃ済まんぞ?」

 ガイル=ラベクは本気か冗談か判らない調子で竜也にそう告げた。一座の他の面々は顔色を悪くしているが、竜也は全く気にせずに、

「ありがとうございます! 団体様ご案内!」

 と傭兵団を客席に案内する。ガイル=ラベクは肩すかしを食わされたような表情で劇場内へと入っていった。

 ガイル=ラベク達が観劇するのを見て、路上の野次馬のかなりの数が入場料を払って劇場内に入っていった。彼等は劇ではなく、ガイル=ラベク達が劇に怒って何か騒ぎを起こすことに期待しているらしい。

 一座の面々は不安そうな様子を隠せないでいるが、彼等をヤスミンと竜也が宥めた。

「大丈夫、タムリットの時と同じように演じればいいのよ」

「ガイル=ラベクはチンピラとはわけが違うんですから、いきなり暴れ出したりはしないですよ。劇の面白さは皆さんが知っての通りです。自信を持っていつも通りやりましょう」

 一座の面々は竜也達の言葉に調子とやる気を取り戻した。ガイル=ラベクのおかげで一応満足できる客の入りとなったところで、劇の上演が開始される。










『ちょっかい出して帰ってきた奴はいない、ってな』

『傷による一時的な記憶の混乱だ』

『もう十年以上前になる。あの頃の俺はまだ駆け出しの、青二才だった』

『さあ、おっぱじめようぜ!』

『奴はとんでもないものを奪っていきました。貴方の心です!』










 野次馬気分で入った客もすぐに劇の世界に引き込まれ、ガイル=ラベクのことなど忘れてしまった。ゴムゴムアとカウスのやり取りに笑い、息もつかせぬ展開に手に汗を握り、お姫様の可憐さに涙する。

 そして終劇。ヤスミン達の熱演に、観客は万雷の拍手を持って応えた。満足げに劇場を後にする客を、出演者と竜也が劇場の外で見送る。ガイル=ラベクが客席から出てきたのは一番最後である。

 竜也がガイル=ラベクの前に進み出、問う。

「どうでしたか?」

 その問いにガイル=ラベクはにやりと笑い、

「髑髏船団団長の、青鯱族のガイル=ラベクが認めてやる! この劇の面白さは本物だ!」

 その台詞は芝居がかった大仰な調子で、100m四方に届きそうな胴間声だった。

 ガイル=ラベクに認められ、ヤスミン達は「やったー!」と歓声を上げて喜んでいる。竜也も少し安心したように息をついていた。もっともその内容は、

「この人が劇の面白さが判る人で良かった」

 というもので、この劇が面白くないかもなどとは微塵も考えていない。

「時間があったらまた見に来てやる」

 ガイル・ラベク達はそう言って去っていった。

 翌日以降「カリシロ城の花嫁」の客足は少しずつ伸びていく。「あのガイル・ラベクに『本物だ』と認められた」という噂が徐々に広まっており、物見高い人達がわざわざ見に来ていると言う。その客が客を呼び、評判が評判を呼ぶ。「カリシロ城の花嫁」はスキラの演劇業界を席巻しようとしていた。












[19836] 第6話「戦乱の気配」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/07/30 20:56





「黄金の帝国」・戦雲篇
第6話「戦乱の気配」その2










 上演が始まって10日あまり。ようやく手の空いた竜也はアヴェンクレトを連れて町に出た。目的はエレブについての情報を収集することである。

「それで、どうやって情報を収集するの?」

「そりゃヤマさんも言ってたように、捜査の基本は足で稼ぐこと」

 ヤマさんて誰?と思いながらもアヴェンクレトは竜也に付いていく。やがて二人は港へと到着する。竜也は早速聞き込みを開始した。

「エレブの今の状況について知りたい。知っていることがあったら教えてほしい」

「誰か詳しい人を知らないか?」

「誰に訊くのが一番いいのか?」

 温厚そうな人・知識がありそうな人を見つくろい、とにかくこちらの質問をぶつけていく。胡散臭く思われようと答えを勿体ぶられても関係ない。相手の脳裏に思い浮かんだ答えをアヴェンクレトが読み取るのだ。アヴェンクレトというチート能力者がこちらにいるのだから、情報収集は簡単にできるものと考えていた。だが、

「クズ情報ばっか……」

 なかなか内容のある情報を手に入れられないでいた。今はアヴェンクレトが力を使いすぎたので、二人で木陰で小休止中である。

「どうやらエレブ全土にネゲヴへの出兵が宣言されたらしいけど……そんな重要な話なのに誰も正確なところを知らないってのはどういうことなんだ」

 21世紀の情報革命真っ直中で生きてきた人間には、信じられないくらいの迂遠さだった。情報の伝達速度の差・知識の蓄積量の差に愕然とするしかない。

「やっぱり素人がいくら頑張ったところで限界があるか。別のやり方考えなきゃな」

 そんなことを考えてぼーっとしていた竜也は、あまりに迂闊だったとしか言いようがない。自分達が柄の悪い男達に包囲されていることに、包囲されてからようやく気が付いたのだ。

「――っ」

 竜也はアヴェンクレトの手を引いて立ち上がる。

「よお、兄ちゃん。面白い連れがいるじゃないか」

「その子を渡してくれればそれでいいぜ。痛い目に会いたくはないだろ?」

 柄の悪い4人の男が竜也達を取り囲む。竜也はアヴェンクレトを背に庇うようにして立った。

(くっそー! 油断し過ぎた!)

 自分の迂闊さを呪いながらも竜也は打開策を探す。アヴェンクレトだけでも逃がす方法を考えた。だがそんな都合の良い方法は見つからない。男達の手が二人へと延ばされた、その時。

「!」

 竜也の顔のすぐ横を矢が通り過ぎ、木に突き刺さる。男達は一斉に背後を振り返った。竜也とアヴェンクレトの視線もそこへと注がれる。

 そこに立っていたのは、弓を携えた一人の少女。服はアラブっぽい軽装で、セム系の白い肌。濃い焦茶色の長い髪を一本お下げにして編み込んでいる。小柄で竜也より1~2歳年下の、凛々しい美少女だった。

「下郎が、失せなさい」

 少女は男共にそう命じる。さらに少女の両脇に立つ屈強な兵士が新月刀を抜いて威嚇した。男達は尻尾を巻いて逃げる他なかった。

 安全が確保されて竜也はその場にへたり込みそうになったが、意地でそれを我慢する。真っ直ぐに歩いてくる少女に礼を言おうとして、

「馬鹿ですか貴方は」

 いきなり罵倒され、竜也は口を開けたまま固まった。

「こんな目立つ子供を連れてうろうろとし、誰彼構わず不審な質問。チンピラ共に目を付けてくださいと言わんばかりの振る舞いをしながら、それを独力で追い払うこともできないとは」

 少女の容赦ない指摘がハンマーのように竜也を凹ませていく。地面に潜るくらいに凹んだ竜也だが、それでも気力を振り絞って言うべきことを言った。

「その、助けてくれてありがとう。あと、確かに君の言う通りだ。俺があまりに迂闊だった」

 竜也は少女に頭を下げた。少女は不機嫌そうにそっぽを向く。

「社会のクズが目障りだっただけです。礼を言われる筋合いはありません」

 竜也は顔のすぐ横に刺さっていた矢を抜いて「凄い腕だね」と少女に手渡した。少女が「当然です」と矢を受け取って矢筒に片付ける。

「……本当はチンピラの一人に当てるつもりだった。タツヤに当たらなくてほっとしている」

 アヴェンクレトの暴露に、竜也と少女が凍り付いた。

「……いや、あの、助けてもらったことは確かなわけだし、結局当たらなかったんだから」

 と竜也が何とかフォローしようとする。少女も、

「う、運も実力のうちです」

 と赤面しながらよく判らない言い訳をした。




















 その後、竜也はアヴェンクレトを連れて逃げるように港を後にした。何故か少女がそれに着いてくる。護衛らしき兵士二人も少し距離を置いて同行した。

 少女は触れんばかりに竜也のすぐ隣を歩いている。その接近ぶりに竜也は戸惑うが、少女のしかめ面に竜也の勘違いはすぐに訂正された。どうやらこの少女はかなりの近視らしい。

「俺はクロイ=タツヤ。この子はアヴェンクレト。タムリットから来たんだ」

「わたしはエジオン=ゲベル王国のアミール=ダールの娘、ミカです」

 少女――ミカは何だか偉そうにそう名乗る。竜也が普通に「よろしく」と返すと、ミカは何故か不機嫌になった。

「貴方はエジオン=ゲベルのアミール=ダールの名を知らないのですか?」

「うん、知らない」

 竜也が素でそう答える。ミカは「なんて無知な」と舌打ちした。竜也の不思議そうな表情に構わず、ミカは竜也に確認する。

「タムリットから来た人間が、エレブについて調べている。つまり、タムリットでは既にエレブとの接触なり紛争なりが起こっているのですね。今の時点では何が起こっているのですか?」

「今って言うか、タムリットを出たのはもう一月半以上前のことになるけど」

 と竜也は現状をミカに説明した。山賊のこと、正規兵らしき騎兵のこと。竜也の話を聞いたミカは嘆息した。

「古い上にあまり意味のある情報ではありませんが、タムリットとの距離を考えれば仕方ありませんか。とりあえず礼は言います」

「別にいいけど、その代わり君の知っていることを教えてくれないか? エレブ全土にネゲヴへの出兵が宣言されたって、本当なのか?」

「事実のようです」

 ミカは鞄から1冊の本を取り出した。題名は「エレブと十字教の脅威」とある。

「イブン=カハールの最新刊です。この本に依れば、十字教の教皇がネゲヴ侵略の檄文をエレブ全土に発したそうです。その写しがこの頁に記されています」

 竜也はミカからその本を受け取り、その頁に目を通す。読み進めるにつれ、竜也の背中を冷たい汗が流れた。

 檄文の内容は、教皇インノケンティウスが全ての十字教徒に聖戦への参加を命じるものだった。





「神はアブラハムに『乳と蜜の流れる地』を与えると約束をし、モーゼに人々を約束の地へと導くよう命じた。そして神は私に約束の地を取り返すよう命じたのだ。約束の地とは、『大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て』。つまりネゲヴの地全てである」

「神が我等に与えた約束の地は、今魔物によって奪われ、汚されている。彼の地に巣くう魔物を排除し、神と我等の物を我等が手に取り戻さなければならない」

「彼の地に巣くう魔物を生かしてはならない。悪魔の技を使う、呪われた悪しき物を生かしてはならない。神を敬わず、神を讃えない愚か者を生かしてはならない」

「神の戦士よ、聖戦の騎士よ。十字の旗の下に立ち上がれ、そして南へと向かえ。神の栄光は汝等のものである……」





 そこに書き連ねられていたのは、文字の形をした狂信の結晶。「神の栄光」の美辞麗句の下には、異教徒を人間として認めない妄信と狂気が。「約束の地を取り戻す」という宗教的情熱の下には、豊穣なネゲヴの地を奪わんとする悪意と強欲が、隠しようもなく潜んでいた。

「十字軍……! 十字軍が、この世界で……!」

 恐怖とも憤怒ともつかない激情が竜也の臓腑をかき回す。雨に濡れたような大量の汗が、竜也の額を流れた。

「タツヤ?」

「え、ああ……」

 身体が震えていることに気付いた竜也は、それを抑えるのに全身の筋肉を総動員した。竜也の恐怖に当てられたアヴェンクレトも、今にも倒れそうになるのを必死に我慢している。


「しかし、どこまで本気なのでしょうか」

 ミカがそう疑問を口にするのを目にし、竜也は思わずミカの正気を疑った。

「こんなことが出来ると本当に思っているのでしょうか? 今の教皇の立場も盤石ではありません。反対する人間がいくらでも出てくるでしょうに」

「……ああ」

 竜也は絶望とともに息を漏らした。ミカだけが無知なのではない。ネゲヴやアシューの人間は皆知らないのだ、一神教の狂信者が異教徒に対してどれだけ残忍になれるのかを。この世界の人間は皆知らないのだ、十字軍が神の名の下にどれほどの蛮行を繰り返したのかを。

「奴等は、本気です。本気でネゲヴに侵攻します。後はもうその規模と、早いか遅いかだけの違いです」

 ミカは竜也の言葉を否定しなかったものの、どれだけ信じているかは疑問だった。良くて半信半疑というところだ。

「ネゲヴの軍隊は、町はどう対策を? 何か話を聞いてませんか?」

「かなり以前からイブン=カハールが対策を協議するようスキラ商会連盟に働きかけています。商会連盟が主体となって近隣の町の長老や恩寵を持つ部族の長老にこの町に集まるよう呼びかけていて、近いうちに対策会議が開かれるようです」

 竜也は安堵の息をつく。

「そうか、ちゃんと考えているんだ」

「エレブの軍の規模にもよりますが、傭兵を雇って撃退を依頼する、というのが対策として妥当でしょうか。話し合いはその報酬を誰がどう負担するかで紛糾するんじゃないでしょうか」

 ミカは他人事のように突き放した言い方をした。竜也は何となく反発を覚える。

「実際に侵攻が始まらないことには、本当に傭兵を雇う踏ん切りがつかないかも知れません。そうなると、タムリットやオランくらいはエレブの軍に占領されてしまうかも知れません」

「大変じゃないか! 一体どれだけ犠牲が出るか――」

 竜也はそう言うが、ミカは肩をすくめた。

「タツヤ、貴方は一介の庶民に過ぎない。王族でもタムリットの長老でもない。貴方がそんな心配をしても何にもならないことを理解しなさい」

 ミカの指摘に、竜也は沈黙するしかない。二人は沈黙を保ったまま町中を歩いていく。行き先が違うためにミカと途中で別れることになった。その別れ際、

「エレブの軍と戦いたいのなら、アミール=ダールを傭兵として雇うのがいいでしょう。貴方がその対価として父に何を払えるのかは知りませんが」

 ミカはそう言って立ち去っていく。竜也は長い間立ち尽くし、人混みに消えていくミカの背中を見つめていた。




















 竜也は書店で「エレブと十字教の脅威」を入手した。値段は4ドラクマ。イブン=カハールはこの本を採算度外視で出版しているそうで、竜也でも何とか購入できる値段である。竜也は奮発して2冊購入した。1冊はハーキムに送るためのものである。

 その夜、アンヴェルが次回作「七人の海賊」の打ち合わせのために竜也達の元を訪れた。竜也はミカに助けられた経緯を説明し、アミール=ダールについて尋ねた。

「名前くらいは知ってますよ。エジオン=ゲベル王国のアミール=ダールと言えば有名ですから」

 エジオン=ゲベル王国はエラト湾(元の世界のアカバ湾)一帯を領土としている。アシューには百の王国があると言われているが、その中では比較的大きく有力な国である。

「エジオン=ゲベルが有力なのは、戦争の名手と言われる将軍がいるからです。それがアミール=ダール、今の王の弟です」

 竜也はちょっと驚く。貴族の娘だろうとは思っていたが、予想よりも身分が大分上だった。

「ただ、アミール=ダールは兄の国王とうまくいってないそうです。そのミカさんは亡命先に当たりを付けに来ているのかも知れないですね」

 さらに竜也はアンヴェル達に、購入した本を手に十字軍について説明した。

「でもタツヤさん。バール人の時代からエレブの軍がヘラクレス地峡を越えたことは一度もないんですよ?」

 アンヴェル、お前もか、と竜也は頭を抱えたくなった。

「今まで過去に一度も起こらなかったことがこれからも起こらないと、どうして言えるんです。本当に侵攻が始まってからじゃ何をしようとしても遅いんですよ?」

 アンヴェルはその言葉に早い理解を示すが、ヤスミンは実感がわかずに当惑したままだ。

「でもタツヤ。それならどうすればいいって言うの?」

「ファハリさん達町の有志程度じゃ本物の軍に対抗できるわけがない。今のうちにみんなで東の町に逃げるべきだと思う」

 ヤスミン達は竜也の言葉をしばし吟味していた。やがてヤスミンが反論する。

「4万とも言われる町の全員が? 周辺の村も合わせれば人数はその倍くらいにはなるわよ。財産はどうやって運ぶのよ?」

「そんなの、持ち歩けるだけ持って後は置いていくしか」

「隣町のオランまでは、歩いていくならどんなに早くても5日は掛かるのよ。その間の食料は? 町に着いてからの食料は? 住処は?」

 ヤスミンの反論に、竜也は弱々しく、

「それでも、乞食同然になっても、殺されるよりは……」

「それに」

 アンヴェルが口を挟んで竜也にとどめを刺した。

「オランに逃げても、そこにもいずれはエレブの軍がやってくるんじゃないですか?」

 竜也は指摘されて初めてそれに気が付いた。肩を落とした竜也は無力感を、唇を噛み締める。

 竜也の心の奥底で、黒い何かが身をうねらせた。

(――っ、待て、そんな場合じゃない)

 竜也は首を振って意識を切り替えた。

「ヤスミンさんはどうすべきだと思いますか?」

「タツヤ、わたしはただの旅芸人に過ぎないのよ? ハーキムに警告して、長老達が相談して、東に逃げるって結論になればそれでいいんじゃないかしら。わたし達に出来るのはその程度でしょ?」

「でも、あの町に家族や知り合いが」

「そりゃ少しはいるけど、わたしにはどうしようもないじゃない。ハーキムに警告して、ハーキムやわたしの知り合い達が自分の判断で逃げて無事でいてくれればそれでいいわ。わたしはこの町で一座のみんなと劇を上演して、それなりにやっていけるならそれで充分なんだけど」

 ヤスミンの正直な告白に、竜也は返す言葉がない。真剣な表情のアンヴェルが竜也に問うた。

「タツヤさん。貴方にしても、小説を出版するなどして、あの子と一緒にこの町でそれなりにやっていけるなら――他に何を望むのですか?」

 竜也はその問いに答えられなかった。




















 その夜、一人で庭に出た竜也は星空を見上げていた。産業活動に一切犯されていない大気はどこまでも澄み、空は宝石箱のように星々が燦めいている。

(確かに、俺の力じゃアヴェンクレト一人守ることだって満足に出来ない)

 竜也は握りしめた拳を見つめる。大して筋肉のついていない、細い手を見つめた。

(でも、俺には『黒き竜の血』が――)

 十字軍が何万と押し寄せようと、それが目覚めさえすれば皆を助けられるのだ。

 竜也は自分の内側を見つめるように目を瞑った。『黒き竜の血』を目覚めさせるべく精神を集中させた。

 魂の奥底に眠る力を探すつもりで、記憶の奥底に眠る何かに光が当たっていく。

(……ぼくには、ほんとうはすごいちからが……)

 そう言えば、どうしてこんなことを考え出したのだろうか。小学生の頃にはもう信じていた。

「今の親は僕の本当の親じゃない。僕は橋の下で拾われた子で、黒い竜が本当の親なんだ。いつか僕は竜の血に目覚めるんだ」

 確か、最初に考え出したのはそんな設定だった。敖順とか何とか、親の名前や設定も図書館で調べて考えて。竜王族内部の確執があって、親は僕を育てられなくなって人間界に一時的に避難させるつもりで……とか。

 中学生になる頃には、さすがに両親との血のつながりを否定できなくなったし、肉体的に竜の子供だという設定に無理を感じるようになった。だから、

「黒き竜が人間界に転生した姿で、竜の魂に目覚めれば黒き竜の力が使える」

 そんな設定に変わっていったんだ。で、竜の魂のことを象徴的に「黒き竜の血」と呼んでいて……。

 竜の力を使って、自分が人間じゃないと信じてまで、俺は本当は何がしたかったのだろう。確かそう、小学生の頃、許せなかったものがあったのだ。

 例えば9.11の同時テロ。その報復としてのイラク戦争と、民間人の虐殺。グァンタナモ等の収容所。あるいは中国によるチベット侵略。ロシアによるチェチェン攻撃。日本国内でも許せないものが沢山あった。悲しいニュースは見たくなかった。泣いている人達を助けたかったのだ。

 だけど現実の自分は無力な子供でしかなく、「自分は竜の血を引いている」と信じ、空想の中で悪い奴等をやっつけるしかなかったのだ。

「無力な子供……いまでもそうだ。何も変わらない」

 悲惨な戦争が始まろうとしている。多くの人が死のうとしている。それなのに何も出来ない。何の力もない小さな手を、竜也は強く握り締めた。







[19836] 第7話「敵軍の影」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/08/06 22:46





「黄金の帝国」・戦雲篇
第7話「敵軍の影」その1





 月は変わってダムジの月の1日。竜也達がスキラにやってきて1月半が過ぎた。

 「カリシロ城の花嫁」はこの町でも大好評を博し、連日満員御礼が続いている。竜也にもやるべき仕事はいくらでもあった。劇に端役で出たり、受付をやったりという雑用の他、「七人の海賊」の執筆に取り掛かったりしている。長い文章を書くのはまだ苦手なので、アンヴェルが選んだ脚本家が竜也の話したあらすじに基づいて執筆、竜也の仕事はそれを添削することである。

 イブン=カハールの「エレブと十字教の脅威」のうち1冊は、タムリットの長老会議に届けるようナーフィア商会に依頼済みである。竜也に出来るのはそれくらいだ。エレブ情勢に詳しい人をアンヴェルに紹介してもらって話を聞いたり、本を読んだりと、空いた時間で十字軍に関する調査は進めている。おかげでエレブ情勢については多少の知識は深まったが、ただそれだけだ。

「何も出来ないまま傍観しているしかないのか」

 と半ば諦めながら雑用で気を紛らわさせて、それでも鬱屈した思いを抱えていた毎日の中の、その日。

 上演が終了したので竜也は客席の掃除をしているところだった。そこに、慌てた様子のヤスミンがやってくる。

「タツヤ、タツヤ! ちょっと来て!」

 箒を片付ける間もなく、竜也は裏口へと引きずられていった。

「ちょっと待って、どうしたんですか?」

「牙犬族の団体さんが来てるの」

「え?」

 ヤスミンは竜也に、窓の戸板の隙間から外を見るよう指示。劇場の裏口には、物々しい雰囲気を漂わせた10人くらいの男達が集まっていた。

「剣祖シノンて、牙犬族にとっては部族神と同じくらいの扱いらしいの。剣祖が出てくる劇をやってるって聞いて見に来たらしいんだけど」

 竜也は顔色を悪くした。

「怒ってるんですか? 『この劇は剣祖に対する侮辱だ』とか『海賊王に比べて扱いが悪い』とか」

「むしろ逆。そこは心配しないで」

 竜也の不安をヤスミンは即座に否定した。そして、

「じゃあタツヤ、後はお願いね!」

 そう言って竜也を突き飛ばして裏口から放り出した。「うわっ」とよろけた竜也が牙犬族の男達の真ん中に飛び込む格好になる。何とか体勢を立て直した竜也が男達と向かい合った。

「……えーっと」

 牙犬族の男達が身にしているのは(この世界としては)一種独特の服装だった。剣祖シノンが持ち込んだに違いない和風テイストな、裾の広い袴風のズボンと、肩衣風の上着。腰に下げた剣も、日本刀に良く似た拵えの物である。肌の色は濃淡色とりどりで、比較的色の濃い者が多い。

 男達の体格は総じて(この世界としては比較的)小柄だった。竜也よりも背の高い者が一人もいない。だが、侍を絵に描いたような顔立ちの、武器を持った男が10人もいて威圧されないわけがない。

「お主があの劇の脚本を書いたのだな?」

 男達の中央に立つ、一際顔のごつい男がそう問う。竜也は壊れた人形のように首を縦に振り続けた。

「申し遅れた。拙者、牙犬族族長エフヴォル=ジューベイと申す」

 ジューベイは右目を眼帯で覆った、肌の色の濃い男だった。年齢は五十の少し手前くらい。灰色の長髪をちょんまげ風に後ろで結んでいるが、さすがに月代を剃ったりはしていなかった。
 吊し上げやリンチに掛けるために来ているわけではなさそうなことを悟り、

「クロイ=タツヤです」

 とジューベイに会釈をする。ジューベイが竜也に用件を告げた。

「我が一族には剣祖の技は伝えられているが、剣祖の人となりはあまり伝わっていないのだ。拙者にしてもこの劇で初めて剣祖がどのようなお方だったかを知ることが出来た。ついては、お主に剣祖についてもっと詳しく語っていただきたい」

「……えーっと」

 竜也の困惑に、ジューベイは不思議そうな顔をした。

「お主はヴォークリィエで、剣祖と同じ国から来たと聞いた。お主の国に剣祖の事績が伝わっているのではないのか?」

 竜也の頬を一筋の冷や汗が流れる。

(……もしかして、「ガイル=ラベクが『本物だ』と認めた」という噂を言葉通りに受け止めてる?)

 あれはただの漫画のキャラクターですとか、劇と現実をごっちゃにしないでくださいとか、本当のところを正直に述べたなら斬り捨てられそうな気がしたので、

「…………………………それじゃあ、何からお話を」

 「剣祖の事績」をでっち上げてこの場を誤魔化すしかなかった。




















 小さなエピソードをいくつか語ってお茶を濁そうと思っていたのだが、何故か一晩中語り明かすことになってしまった。焦って慌てていた竜也は咄嗟に「とある剣術道場」のことから話し始めたためである。剣祖はその道場で剣術を習ったことにして、今は道場が潰れた経緯について語っているところだった。

「――狂気に犯されたその領主が開いた、真剣による御前試合。隻腕の剣士が剣をこう、肩に担いで剣を抜いて」

 竜也と牙犬族は劇場内に移動し、牙犬族だけでなくヤスミン達も竜也の語りに耳を傾けている。

「対する盲目の剣士が取った構えは、誰も見たことも聞いたこともない奇っ怪な構えでした」

 調子に乗ってそこまで語って、竜也ははたと気が付いた。どうしよう、こっちに来る前に最後に読んだ時には、まだ決着まで単行本化されていなかった。仕方がないので竜也は結末をでっち上げることにする。

 隻腕の剣士は残る腕も斬られてしまうけど、口にくわえた刃で盲目の剣士を倒す。だが隻腕の剣士もそこで力尽きて死んでしまう。そんな展開だ。

「――館に忍び込んだシノンはその領主を殺し、そのまま姿を消します。その後のシノンの行方は誰も知りません」

 ほーっ、と一同がため息をついた。異国の剣術道場の凄惨な末路に、言葉も出ない様子である。

「結局斬鉄剣はどこで手に入れたのだ?」

 牙犬族の一人の問いに、

「その領主が持っていたそうです。行きがけの駄賃にもらっていったんでしょう」

 半ば自棄になっている竜也が適当に答えた。

「――面白い! 面白過ぎるよタツヤ!」

 ヤスミンが唐突に雄叫びを上げ、竜也の肩を掴んで揺す振った。

「この話劇にしていいでしょ?! 劇にするわね? 構わないわね? 
『七人の海賊』の次はこれを上演するわよ!」

 劇団員が「おーっ!」と気勢を上げる。何故か牙犬族が同調していた。

 ……そんな調子で、一同は夜を徹して竜也の語り聞いて過ごしていた。夜が明けたので牙犬族がようやく帰ることになった。劇団員は少しだけ仮眠を取ってすぐに上演準備である。

「長らく邪魔をした、済まなかったな」

「いえ、気にしないでください」

 上機嫌のジューベイがそう挨拶をし、竜也があくびをかみ殺しながらそう返した。

「家はこの近くなんですか?」

「宿はな。牙犬族の里はサブラタの近くだ。バール人共に呼ばれたからこの町に来たのだが」

 眠気のために半分くらい閉じられていた竜也の目が開いた。

「もしかして、エレブの軍の対策会議に……?」

「ああ、確かそんな話だったか。面倒だからこのまま帰ろうかと思っているところだが」

「出ましょうよ!!」

 あんまりなジューベイの言葉に竜也は思わず怒鳴っていた。

「こっちは加わるのは無理としても何とか話だけでも聞けないかと思ってるのに……」

 愚痴っぽくなる竜也に、

「それなら、お主も会議に加わるか?」

 とジューベイが提案する。竜也は「は?」と聞き返した。

「拙者の口添えがあれば、お主一人を会議の端に加えるくらいは簡単だ」

「そ、それは願ってもないことですが、構わないんですか?」

 竜也の問いに、ジューベイは鷹揚に笑って言った。

「何、剣祖の同郷であれば、お主は我等にとって一族も同然。これくらい構わん」

 竜也はジューベイに真っ直ぐ向き合い、頭を下げた。

「――ありがとうございます。どうかよろしくお願いします」












[19836] 第7話「敵軍の影」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/08/06 22:49





「黄金の帝国」・戦雲篇
第7話「敵軍の影」その2










 ダムジの月の10日。竜也はヤスミンから休みをもらい、外出した。
昼過ぎに市街中心に行き、そこでジューベイ等牙犬族と合流する。

「族長、無理をお願いして申し訳ありません、本当にありがとうございます」

 竜也は真っ先にジューベイに頭を下げた。ジューベイは「構わん構わん」と笑っている。

「ならば、行こうか」

 ジューベイと竜也が並んで歩き出した。護衛の剣士達がそれに続く。

 竜也は横に並ぶジューベイの姿に、何か違和感を感じた。内心首をひねり、何がそう感じさせるのか考え込む。その様子に、ジューベイの方が気が付いたらしい。

「タツヤ殿、如何なされた?」

「いえ、前と何か違っている感じがして。気のせいです」

 ああ、とジューベイが自分の左眼の眼帯を指差した。

「多分これのせいだろう」

 説明されてようやく竜也も気が付いた。

「……この間は確か右眼にしてませんでしたっけ」

「その通り。今日は左眼の日なのだ」

 左眼の日って何だ!と突っ込みを入れたくて仕方ない竜也だったが、何とかそれを我慢した。竜也達の一行はそのまま町中を進む。

 その日、スキラ市街中心にあるスキラ商会連盟の別館にて、十字軍の対策会議がようやく開催されることとなっていた。

 商会連盟とは、バール人が中心となって組織している商人の互助会みたいなものである。かつては千年以上にわたって地中海の覇者であり続けたバール人海洋交易同盟の、これが今日の姿だった。

 基本的に各都市ごとに商会連盟があり、各都市ごとに独自に運営されている。だが横のつながりや協力関係もそれなりにあり、複数の都市をまたぐ問題には商会連盟が対策を講じることが多い。例えば悪質な奴隷商人や海賊に懸賞金を掛けるのも商会連盟の仕事である。

 スキラは町が大きく、ネゲヴの中心に位置することもあり、商会連盟の寄り合いをとりまとめる役目を果たしていた。だから、今回のように国際的な問題の対策会議はスキラ商会連盟の主催となるのである。

 商会連盟の別館は通称をソロモン館と言う。元はソロモン商会という大豪商の邸宅であり、かつてのゲラ同盟が事務局を置いたこともある。400年以上の歴史と伝統を誇り、城と言ってもいいくらいの規模と豪奢さを持つ建物だ。館周辺や前庭には、スキラまで来たが会議に参加するほどの身分ではない、恩寵の部族の護衛等がたむろしている。

 竜也は気後れを感じながらもそれを外に見せることなく、ジューベイと共に館の中に入っていった。館の際奥、バレーボールのコートくらいの面積がある一際豪奢な部屋が会議の会場だった。

「あれ、ミカ?」

 見覚えのある少女の姿に、竜也はその名を呼ぶ。呼ばれたミカが振り返って首を傾げた。しかめ面の少女がずかずかと竜也に接近し、すぐ鼻先まで顔を近づける。

「もしかして、タツヤ? どうしてこんなところに。一体どうやって」

 何とかコネを見つけて、と竜也は簡単に説明した。

「君はどうやって?」

 竜也の問いにミカは、

「アミール=ダールの名前を使えばこれくらいは何でもないわ」

 と胸を張った。

 会議室はかなりの広さがあるが参加者はそれ以上に多く、部屋が手狭に感じられた。テーブルは部屋から出されており、並んでいるのは椅子のみだ。竜也が席について周囲を見回す。金獅子族、赤虎族、人馬族、鉄牛族、そして牙犬族など恩寵の部族の各族長。カルトハダ・ハドゥルメトゥム・オエア・サブラタ・レプティス=マグナ等の、各地の自治都市長老に、各地のバール人商人。ガイル=ラベクの姿もあった。

 スキラ商会連盟代表を議事進行とし、会議が開始された。

「それでは、この会議の意味を彼から説明してもらいましょう」

 議長がそう言って一同に紹介したのは、イブン=カハールというバール人らしき男だった。日焼けした肌に口髭をたくわえた、30代の精悍な男である。

 イブン=カハールは冒険家として名の知られた男だった。エレブに実際に行って何年も過ごしたことがある人間は、ネゲヴには片手で数えられるくらいしかいない。そしてこの場にはこの男しかいなかった。

「皆さんも教皇インノケンティウスの檄文には目を通されたでしょう」

 イブン=カハールは腹に響く渋い声で一同に語った。

「教皇は百万の兵をもってネゲヴに攻め入ると豪語しています」

「百万……!」

 竜也は叫び声を上げそうになるのを何とか押し止めた。

「実際、エレブのあらゆる国王・諸侯が兵を動員している。どんなに少なくても数十万という兵が動員されます。もしかしたら本当に百万に届くかも知れない」

 イブン=カハールの言葉に一同がざわめく。だが、どう見ても皆がその情報を信じた様子はない。

「いくら何でもそれはないだろう。それだけの兵を出したらエレブが空っぽになってしまう」

「どこかで反乱が起きても何の対処も出来なくなってしまう。それだけの兵を出すなどまず考えられませんな」

「はったりでしょう。せいぜいその10分の1ではないですか?」

 幾人かがイブン=カハールの情報を否定し、多くがそれに同調した。

「私はエレブに何人もの協力者がいて、その者達から情報をもらっている。あなた方は何の根拠を持って私の情報を否定するのか!」

「教皇のはったりを真に受けただけではないのですか?」

 イブン=カハールはいくつかの諸侯の動員兵数を列挙した。

「……他の全ての諸侯がこれらの諸侯と同じ割合で兵を動員しているなら、その数は30万に達する! しかも例に挙げたのはネゲヴから最も遠い諸侯なのだぞ。さらには民間人・農民が入植を目的に挙兵に加わっているという情報もある」

 イブン=カハールは計算の根拠を明確にして数十万という数字の正確さを示した。竜也にはその正しさが理解できたが、多くの者にはそうでなかった。むしろ手品で誤魔化されたように感じた者が大半だ。

「私がエレブ諸侯の立場でも、そんな動員は到底出来ませんよ」

「――そのために教皇から討伐を受けるとしても、ですか?」

 我慢できなくなった竜也がついに口を挟んだ。一同の視線が竜也に集まる。一瞬怯む竜也だが、気力を振り絞って大声を出した。

「今、エレブで教皇に逆らうのは政治的・宗教的な自殺なんです。もし兵を出さなければ、教皇に逆らうなら、『異教徒』『教敵』のレッテルを貼られて自分が討伐の対象となる。周辺の領主が大手を振って攻めてきて、自分の領地は好き勝手に切り刻まれて、自分自身は火炙りです」

 イブン=カハールが「その通りだ」と強く頷いた。

「自分だけ出兵しなければ自分だけ滅ぼされるから、例えどれだけ反対だろうと出兵するしかないんです」

「だが、エレブは長い間続いていた戦乱がようやく収まったのだろう。それなのに今度はネゲヴにまで戦争に来るなど、教皇への支持を下げるだけだろう」

「あるいはそうなるかも知れませんが、教皇には出兵しないという選択肢はないんです。教皇は十字教の権威を持ってエレブの戦乱を収めましたが、剣を置いた諸侯にはどうしたって不満が残ってる。その不満を教皇へと向けないよう、別の方向に向けるのがこの出兵の目的です」

 竜也とイブン=カハールはあらゆる論拠と論理を持って十字軍の脅威を説いたが、参加者の大勢を覆すことは出来なかった。十字軍の前例になるような出来事など、バール人の時代全てを通して存在しないし、アシューにも例はない。歴史上前例のないことがこれから起こると主張しても、冷笑で迎えられるのが落ちだったということだ。

「――十字軍とやらの数は、まあ数万。最大で十万とするとして、それならネゲヴ中の傭兵を集めれば何とかなりませんか?」

「なるのではないですか? 問題はその費用を誰が持つかです」

「数万の十字軍で占領できる土地など、タムリットとオラン。せいぜいテネスくらいで限度でしょう。ならばまずそれらの町や西ネゲヴの町が出すべきではないですか?」

 会議は根拠のない前提を基に、白熱した、だが全く無意味な論議を繰り広げている。竜也は絶望するしかなかった。



















 無意味な会議は夜遅くにようやく終わった。心身ともに疲れ切った竜也が、ふらふらとソロモン館を出て帰ろうとする。そこに、

「タツヤ」

 竜也が声のした方を振り向くと、そこにいたのはイブン=カハール、ミカ、ガイル=ラベク、ジューベイだった。

「タツヤ、礼を言わせて欲しい。君の言葉には私も勇気づけられた」

 イブン=カハールはそう言って手を差し出す。タツヤは、

「そんな、こちらこそ」

 とその手を握る。

「よお、坊主もなかなか頑張ったな」

 とガイル=ラベクが竜也の背を叩いた。竜也が咳き込む。

「お主を連れてきた甲斐があったというものだ」

 とジューベイが胸を張り、

「タツヤ、以前の言葉を取り消します。敵は数十万の大軍でやってくる」

 ミカが竜也を認める。竜也は彼等に認められた嬉しさで涙がこぼれそうになったが、何とか我慢した。

「ともかく、我々だけでも敵が数十万の前提で考えて動いていくしかない」

 イブン=カハールの言葉の竜也達が頷いた。

「今必要なのは敵の情報だ。敵はマラガを集結地にしていると言う。あの石頭共を説得するには、もうマラガに行って敵が何人いるか実際に見てくるしかない」

 マラガはヘラクレス地峡の東にある、エレブの港町である。タムリットから見れば海を挟んだ向かい側、北西の場所に位置する。

「そうだな、俺の船団を使おう」

 ガイル=ラベクがそう頷き、

「貴方達だけでは説得力に欠けるでしょう。数十万という数に否定的な人達からも偵察者を募るべきだと思います」

 ミカがそう補足した。

「次の会議でその提案をして、この案を承認させて、費用をどこが負担するか決めさせて、面子を揃えて……下手をすると一月くらい掛かりそうだな」

 ガイル=ラベクのその見通しに、竜也は「そんな悠長な」と思うしかない。

「俺も、その偵察隊に参加したいです。タムリットに立ち寄った時にここで集めた資料を使って、皆に東に逃げるよう説得したいと思います」

 ジューベイ達とはそこで別れ、竜也はアヴェンクレト達の待つ借家に帰ることにした。人影のない夜中の町を竜也が歩き、その横をミカが並んでいる。(ミカの護衛が少し後ろを歩いているが、竜也はその存在を忘れてしまっていた。)

「――数十万の十字軍が攻めてきたとして、何か対策があるというの?」

 ミカの鋭い問いに、竜也は一瞬呼吸が止まった。

「アシューにだって数十万の軍勢と戦える王国なんかない。十字軍はタムリットからケムトまで、ネゲヴの全てを占領するでしょうね」

 竜也が重い吐息を漏らす。

「……そうだな、一体どれだけの死者が出るか。アミール=ダールみたいな指揮官がいるのなら何とかなるのかな」

 竜也の呟きにミカが目を剥いた。

「無茶言わないで。多少なりともまとまった軍勢があるのならまだともかく、ネゲヴにあるのは傭兵か寄せ集めの烏合の衆。これじゃ父が将軍でも勝ち目なんかないわ」

 それもそうだ、と竜也が同意する。しばしの間、沈黙が二人の間を流れた。

「……最初に考えていたのはそれだったわ」

 ミカの独り言のような言葉に竜也が「え?」と聞き返す。

「わたしの父は、その兄である王に疎まれているの。伯父と父では、父の方があらゆる点で優れているから。伯父は父に玉座を奪われるんじゃないかと怯えている。これまで戦いが続いていたから有能な将軍である父を排除できなかったけど、今は戦いが収まっている」

「いつ粛清されるか判らないから、ネゲヴに亡命しようと?」

「ただの亡命じゃ意味がないわ。幸か不幸か、ネゲヴは今エレブに狙われていると言う。なら、父が傭兵を指揮する将軍となってエレブの軍を撃退したなら、父はどこかの町の王にだってなれるかも知れない……そう考えていたんだけど」

 考えが甘かったわ、と淡い苦笑とともに呟き、ミカは背を向けて立ち去っていく。夜の闇に消えるミカの背中を、竜也は立ち尽くしたまま見送っていた。











[19836] 第8話「敵兵の足音」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/08/13 08:40




「黄金の帝国」・戦雲篇
第8話「敵兵の足音」その1










 マラガに偵察隊を送る。その方針を対策会議で承認させるため、イブン=カハール達は根回しに動き出した。会議の参加者に事前に話を通し、説得して賛成に回ってもらうのだ。

 イブン=カハールは各自治都市の長老の説得を担当。ガイル=ラベクはバール人の有力商人を担当。ジューベイは恩寵を持つ部族の長老を担当し、竜也がその補足をすることとなった。

「牙犬族の長老は……まあ、あんな方だから、お前がしっかり説得してこちら側に引き込んでくれ」

 ガイル=ラベクは竜也にそう言い、アドバイスもしてくれた。

「金獅子族は『恩寵の諸部族の長』を自任する部族で、他部族への影響力も強い。ここの長老を説得できないことには話にならないが、説得できれば8割方は任務達成だ」

「気位だけはやたとら高いから、『諸部族の長』って持ち上げることを忘れるな。それと、あの連中は『名誉』って言葉に弱い。それもポイントだな」

「赤虎族には金獅子族ほどの影響力はないが、戦闘力は諸部族の中でも一、二だ。あの連中は金獅子族とはやたらと仲が悪く、何でも金獅子族の反対のことをやりたがる。説得は難しいかも知れんが、もし引き込めれば反響は大きいだろう。金獅子族と赤虎族が足並みを揃えて決めたことに、反対する部族があるとは思えない。つまりその時点で九分九厘任務達成ってことだ」

「金獅子族への対抗心を上手く利用することを考えるべきだな。それと、あの連中のポイントは『武勇』だ。勇敢に戦うことを何よりも尊ぶ連中だってことを意識しろ」

 そして12日。竜也はジューベイとともに金獅子族の長老の元を訪れた。

「久しいな。牙犬族」

 金獅子族の長老はインフィガル=シンバという名の、60近い年齢の男である。彼の持つ荘厳な気配は、確かに諸部族の長に相応しいものだった。

 ところで全くの余談だが、この「インフィガル=シンバ」という人名の場合、「インフィガル」という個人名と「シンバ」という金獅子族族長が代々引き継ぐ名前を連ねた名前である。これはエフヴォル=ジューベイについても変わらない。「ガイル=ラベク」の場合、これ全体で分割できない一つの単語であり一つの名前である。「アミール=ダール」や「イブン=カハール」は二つの単語を連ねた一つの名前。「クロイ=タツヤ」のように、名字と個人名を持つ者はこの世界では圧倒的な少数派で、ほとんどの者は個人名しか持っていない。

 竜也が本日の用件について説明し、説得をする。

「仮に、金獅子族の戦士一人が敵兵5人に匹敵するとしましょう。金獅子族の動員数を2千とすると、金獅子族だけでは敵1万しか抑えられません。敵に対抗するには金獅子族以外の部族や恩寵を持たない民も動員する必要がありますが、彼等に金獅子族ほどの力がありますか?」

「金獅子族が『諸部族の長』としてこの戦いを主導するおつもりでしたら、他の部族や民の犠牲を最小限にしなければなりません。下手な戦いをして不必要な犠牲を生み出したなら、金獅子族の名誉は地に落ちます」

「上に立って戦いを主導する者は、金獅子族のような勇猛な戦士を自軍の基準にするべきではないんです。恩寵を持たない、弱い民でも何とか戦えるよう工夫をするのが上に立つ者の役目です」

「そのためには、まず敵を知る必要があります。十万なのか百万なのかもはっきりしない今のままでは話になりません。敵の本当の動員数は? 敵の武器は? 銃器はどれくらいあるのか? いつネゲヴにやってくるのか? まず偵察をしてそれらを知らなければならないんです」

 竜也の懸命な説得が功を奏したか、あるいは最初から偵察に賛成だったのかも知れないが、金獅子族長老は偵察隊派遣に賛成することを約束してくれた。

 続いて翌日、竜也達は赤虎族長老の元を訪れる。

「よお、牙犬族。腕は落ちていまいな?」

 ラアド=ガーゼイという名の赤虎族長老は、ジューベイと同年代の男である。どうやらジューベイとは旧知であり、「強敵と書いて『とも』と呼ぶ」ような仲であるようだった。

 竜也はガーゼイに偵察隊派遣について説明し、賛成してくれるよう説得した。

「……ふむ、偵察隊か。送っても別に構わんが、送らなくても別に構わんのではないか? 十万だろうと百万だろうと、敵が来たなら戦えばいいだけだろう」

「甘い! 甘過ぎです長老」

 竜也の決めつけに、ガーゼイが目を見開いた。

「敵は何年も前から『ネゲヴに侵攻する』と宣言しています。つまり、戦いはもう始まってるんです! 偵察をせず、やってきた敵と場当たり的に戦っても勝てません。勝つためには、まず敵を知る必要があるんです。偵察は紛れもなく戦いの一部です!」

「金獅子族は偵察隊派遣に賛成しています。もしかしたら偵察隊に誰か参加させるかも知れません。もしそうなったら、赤虎族は金獅子族の指図を受けて戦うことになるかも知れませんよ?」

 その殺し文句が一番効果的だったようである。赤虎族長老もまた偵察隊派遣に賛成することを約束してくれた。偵察隊に赤虎族の戦士を加えることを要請されたくらいである。

 竜也とジューベイはその後も人馬族・鉄牛族などを訪問する。ガイル=ラベクの言った通り、金獅子族と赤虎族が賛成を決めたことに反対する部族は存在しなかった。




















 ダムジの月・19日、十字軍対策会議の2回目を翌日に控えたその日。対策会議関係で特に仕事のなかった竜也は、劇場で受付等の雑用をやっていた。

 その日の上演が終了し、出演者と共に観客を見送り終えたその時、

「ヤスミン、タツヤ」

 聞き覚えのある声がしたので竜也達がその方を振り返る。そこには見覚えのある鹿角族の男が立っていた。

「ハーキムじゃない! どうしたの?」

 ハーキムはほろ苦い笑みを見せながらヤスミンと竜也に頭を下げた。

「詳しいことは後で。しばらくご厄介になりたいのですが」

「勿論構わないわよ」

 ヤスミンは後片付けを一座の者に任せ、ハーキムと竜也を連れて借家に戻ることとした。

 そして数刻の後。借家の居間で、竜也とヤスミンとハーキムはお茶の置かれたテーブルを挟んで向かい合っている。

「マラガには今百万のエレブの軍勢が集結しています」

 ハーキムはいきなりそう話を切り出した。ヤスミンはきょとんとし、竜也は唇を噛み締めた。

「その数は確かなんですか?」

 竜也の問いに、ハーキムは肩をすくめた。

「正確な数はエレブの将軍にだって判らないと思いますよ。ですが、百万を豪語しても問題ないくらいの兵が集まっているのは確かです」

「根拠は? 誰かその兵の数を見たんですか?」

「アニード商会の船員が何度も、何人も見ています。アニード商会だけじゃない。町中の商会がマラガに麦を売りに行っていて、多くの船員がその数をその目に見ています。今、タムリットは町を挙げてエレブの軍に協力しているような状態です」

 ハーキムの言葉に、竜也は思わず「馬鹿な……」と漏らした。

「どうしてそんな、十字軍の――エレブの軍の最初の目標はタムリットでしょう?」

「他に方法がありますか?」

 とハーキムは苦り切った顔をした。

「エレブの軍に協力する姿勢を見せ、売れるだけの媚を売り、タムリットへの攻撃を回避する。それが長老会議の決定です」

「イブン=カハールの本は? 届きませんでしたか?」

「届きましたし、読みました。あの本を使って長老方を説得しようとしたのですが……『こんな本は出鱈目だ』とアニード氏にこき下ろされてしまいました。エレブの軍との取引で大儲けをしたアニード氏がエレブとの宥和策を強硬に主張し、押し通してしまったんです。ですが実際、他に方法がないのも事実です」

 あまりの事態に、竜也はしばらくの間呆然とするしかない。(なおアニードは大儲けなどしておらず事実はむしろ逆なのだが、タムリットの市民のほぼ全員が「アニードは大儲けをした」と信じて疑わなかった。)

 竜也に代わってヤスミンが質問する。

「ハーキムはどうしてスキラに?」

「勿論逃げ出してきたんです。アニード氏の宥和策が最後まで上手くいくとは到底思えなかったものですので。私だけじゃなく、逃げる場所がある人間は既に逃げ出し始めています。それでもまだほとんどの住民は町に残ったままですが」

 ようやく再起動を果たした竜也がハーキムに確認した。

「それで、十字軍はいつ頃動き出すか、進軍を開始するか判りませんか?」

「来月、アブの月にはネゲヴへの進発を開始するそうです。予定では来月中に先陣がタムリットに到着するとのことです」




















 翌日、竜也はハーキムを連れてソロモン館へと赴いた。戸惑い、畏れるハーキムに構わず会議場まで無理矢理引きずって、ネゲヴの首脳陣面々に向かって昨日と同じ話を繰り返させた。

「しかし、百万の軍勢とは到底信じられない」

「だからそれは、実際にマラガまで行って見てくればはっきりする。派遣する人員を決めてほしい」

「タムリットの宥和策が上手くいくのならそれを真似たらどうなのだ?」

「要するにそれは、戦わずして降伏するということだろう」

「何をどれだけ要求されるか判らんぞ」

「百万人分の食糧はどうやって用意しているか判りませんか? エレブのバール人商人が補給するんですか?」

「いや、エレブのバール人は総じてこの遠征には否定的だ。最大限この遠征には関わらないようにしているらしい。一部に協力を強制されている商人がいるが『十字教への喜捨だ』と称して代金を踏み倒される例が沢山出ているらしいからな」

「つまり、本国からの補給はないと」

「第一、百万人分の補給など初めから不可能だろう」

「つまり、現地調達――ネゲヴでそれだけの食糧を手に入れるしかないってことですよね」

「……それだけの食糧がどこにあるというんだ? 西ネゲヴの人口はせいぜい2百万か3百万だぞ」

「つまり、宥和策が最後まで上手くいくとは到底考えられないということだ。タムリットがどうなるかも確認する必要がある」

 マラガへの偵察船団派遣は、派遣自体にはもう異論が出されることはなかった。ガイル=ラベク旗下の髑髏船団が傭兵として雇われる。出発は翌月、アブの月の1日と決定された。

竜也の偵察船団への参加も無事認められた。

「気を付けてください」

 ハーキムは反対したげな素振りを見せたが、結局何も言わなかった。竜也はハーキムをイブン=カハール達に紹介、竜也の代わりに何かの手伝いを引き受けてもらうこととした。

 竜也はアヴェンクレトを当然スキラに残していくつもりだった。だが、

「嫌」

「そうは言っても、危険なんだから仕方ないだろう」

「嫌なものは嫌」

 タムリットまでは片道1ヶ月、往復で2ヶ月。それほどの長期間にわたって竜也と離ればなれになるつもりは、アヴェンクレトには毛頭なかった。

「駄目なものは駄目」

「嫌なものは嫌」

 頬を膨らませたアヴェンクレトが上目遣いで竜也をにらむ。竜也は少し怯んだ。

「もういい、タツヤなんか知らない」

 アヴェンクレトがそう言い捨て、身を翻して立ち去る。竜也はひとまず安堵した。だがそれは甘い考えだったことを思い知らさせる。

 アブの月の1日。スキラ湾には4隻の船と、数十人の偵察隊参加メンバーが勢揃いしている。竜也はその中にアヴェンクレトの姿を見出し、頭を抱えた。

「……あの、何であの子がここに」

 竜也はガイル=ラベクに訊ねるが、

「お前がちゃんと手綱を取らないからだろうが!」

 と八つ当たり気味にどつかれた。

「あの子はアニード商会と懇意とのことだから、タムリットでやってもらうことももしかしたらあるかも知れん。皆にはそう説明している」

 ガイル=ラベクは苦虫を噛み潰したような表情でそう言う。竜也は「判りました」と頷くしかなかった。

 4隻の帆船が帆に風を受け、スキラの港を出港する。竜也達を乗せた4隻の船は西へと向けて出発した。







[19836] 第8話「敵兵の足音」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/08/13 08:24





「黄金の帝国」・戦雲篇
第8話「敵兵の足音」その2










 スキラ商会連盟と十字軍対策会議の依頼を受け、ガイル=ラベクとその旗下の髑髏船団がマラガ偵察任務に雇われた。ガイル=ラベクは髑髏船団の中でも特に速力のある4隻の帆船を選び、偵察船団を編成。対策会議の選出した偵察団員が分乗する。

 偵察団員は、スキラを初めとする各自治都市からの代表、バール人商人の代表、金獅子族・赤虎族・人馬族等の恩寵の部族の代表等で構成されている。偵察団員はそれぞれのコミュニティから似たような基準で選び出された精鋭である。……例外は竜也とアヴェンクレトくらいのもので、なお竜也は扱いとしては牙犬族の代表である。

 何よりもまず、所属するコミュニティから深く信頼されていなければならない。人間性も勿論だが、重要な偵察任務なのだから冷静な判断力と高い知性も必要だ。強行軍の船旅に耐えられる若さと体力も不可欠だし、長い船旅なのだから社交性や協調性もなければならない。

 結果として、偵察船団にはネゲヴのヤングエリートが勢揃いすることとなる。この偵察団メンバーからは後のネゲヴの支柱となる人材が輩出されるのだが、この時点ではそんなことを誰一人夢想すらしていない。一癖も二癖もある雑多なメンバーが好き勝手をやっているだけである。

「おい、タツヤ。あの二人を頼む」

 ガイル・ラベクが指し示す先には、甲板の真ん中で対峙する金獅子族と赤虎族の戦士の姿があった。

「私の妻を侮辱するとは、生命が惜しくないと見えるな」

「誤解するな。俺が侮辱したとしたら、それは貴様の嫁のことじゃない。貴様の女の趣味だ」

 有力部族の代表がにらみ合う光景に、ガイル=ラベクは頭痛を禁じ得ないようだ。

「お前の提案通りにあの二人を隣り合わせにはしたが、こうなるのは目に見えていただろう」

「衝突するなら早い方がいいと思いますよ。派閥を作って船団真っ二つにして対立するよりもマシでしょうし」

「ともかく、あの二人を何とかするのもお前の仕事だ」

「判っています」

 どうやらアヴェンクレトは以前からナーフィア商会に内密に何らかの助力を求められていたようで、その交換条件に今回の偵察船団参加を要求したようである。ナーフィア商会と言えば今回の偵察船団の出資者の一つであり、髑髏船団にとっては上得意先でもある。ガイル=ラベクと言えどもその意向に逆らうのは不可能だった。

 この船で個室を使っているのはアヴェンクレト一人であり、その個室も船長室をわざわざ譲らせたものである。このため竜也はガイル=ラベクに全く頭が上がらない状態となっていた。それをいいことにガイル=ラベクはあらゆる雑用と面倒事を竜也に押しつけており、竜也はその処理に追われ走り回っていた。

「成人を迎えたばかりの瑞々しい少女の美味さが判らんとは。さすがに腐肉漁りと名高いだけのことはある」

 と語る金獅子族の戦士の名はサドマと言う。生真面目な印象の、エリートという言葉がぴったり当てはまる伊達男である。

「熟れ切った大人の女の方がよっぽと美味いじゃねーかよ。悪趣味なのは貴様の方だこの変態」

 赤虎族の戦士はバラクと言う。悪ガキがそのまま大人になったような印象の、愛嬌のある色男だ。両者とも将来を嘱望された、30代の精悍な戦士である。女の趣味のことでいがみ合う姿からはそんなことは想像も出来ないが。

 互いの拳が互いに延ばされるその時、竜也が二人の間に割って入った。サドマの拳が竜也の頬に、バラクの拳が竜也の腹にめり込んだ。

 ……しばらく時間をおいて、ようやく竜也が復活を果たす。サドマとバラクは相変わらずにらみ合っており、野次馬が面白そうにそれを取り巻いていた。

「……それで、何が原因なんですか?」

「バラク殿の悪趣味が過ぎたものですので」

「何、こいつがあまりにも変態だったんでな」

 竜也は先にバラクから話を聞いた。

「こいつ、この間3人目の嫁を娶ったそうなんだが、嫁の歳がまだ13歳なんだ。しかも、これまでの二人も13歳になった時に娶っていると言うじゃないか。俺がこいつを変態呼ばわりして、何が悪い?」

 竜也は内心サドマのその所行にドン引きしている。だが、その恥ずかしいはずの所行を暴露されたサドマは堂々としているし、周囲の野次馬にも竜也が思うほど強い拒絶反応がない。

 サドマが反撃を開始する。

「バラク殿は13歳の時に最初の妻を娶ったそうですが、その妻の年齢は当時のバラク殿の倍近くあったそうです。二人目、三人目の妻もやはり30過ぎの女性を娶っているとか。だから私はこう言ったのです。『腐肉漁りの悪趣味野郎』と」

「小児性愛変質者には言われたくねーな」

「……」

「……」

 火花を散らして睨み合う二人の姿に、竜也はいろんな意味で頭痛を覚えていた。

 13歳の少女を妻に娶る行為は、この世界ではそれほど非難に値することではないようだった。思えば近代以前の日本でも、そのくらいの歳での結婚は珍しくない。妻を3人も娶ることも、充分な経済力と社会的地位があれば問題とならないようである。

 竜也はガス抜きに二人を直接対決させることにした。

「ともかく、このままでは二人とも納得できないでしょうから、ここは公平な勝負事で雌雄を決しましょう。いいですね?」

「それはいいが、勝負は何を?」

「剣か? 拳か?」

「いえ、相撲です」

 スモー?と二人と野次馬が疑問を浮かべる。竜也は長いロープを甲板において、簡単な土俵を作った。

「ルールは簡単、相手をこの円の外側に押し出したら勝ち。相手の足の裏以外を床に付けたなら勝ち。それだけです。それと武器と恩寵の使用は禁止。あとは何をやっても構いません。いいですね?」

「まあ良いでしょう」

「ふん、面白い」

 土俵の中に両者が足を踏み込む。直径3m足らずの円の中で、サドマとバラクがにらみ合った。

「はっけよい、のこった!」

 竜也の奇妙なかけ声を合図にバラクが動いた。その場で飛び上がり、流星のような連続蹴りを放つ。サドマは両腕でそれをガード。土俵際まで押されるサドマだが、バラクの着地と同時に突撃し右ストレートを撃つ。バラクは身体を屈めてそれを避ける。そのままサドマの懐に飛び込むバラク、バラクに覆い被さるサドマ。そのまま両者が同時に倒れ、周囲から感嘆の声が上がった。

「両者、引き分け!」

 審判の竜也がそう判定を下す。それに対し、

「「ちょっと待て、こいつの方が先に」」

 と両者から物言いが入った。竜也は慌てず騒がず、

「じゃあもう一勝負」

 と提案する。二人は再び土俵の中央に入った。

 サドマとバラクの勝負は繰り返されるが、三勝三敗一引き分けで結局勝敗は決しなかった。疲れた二人に代わって他の面々が土俵で相撲に興じている。甲板の上は時ならぬ相撲大会で大いに盛り上がった。なお、その相撲大会を制したのはテムボという鉄牛族の戦士だった。

 その日以降、サドマとバラクは竜也を審判とし、竜也の提案する様々な勝負で対決を繰り返すこととなる。

「それじゃ今日は、飲み比べです」

 カルトハダの港では、酒場に入ってどちらがより飲めるかを競い合った。竜也が真っ先にぶっ倒れてしまったため、勝負は結局付かないまま終わってしまった。

「それじゃ今日は、カードゲームで」

 この世界にはトランプに良く似たカードゲームが存在していて、おそらく冒険者レミュエルが持ち込んだものと考えられた。この日のゲームを制したのはいつの間にか乱入していたアヴェンクレトで、竜也達3人は身ぐるみ剥がれて丸裸にされた。

「ええと、それじゃ今日は」

 やがて勝負の題材が尽きた竜也は、適当な勝負の方法をでっち上げるようになる。

「……『ぐっと来る部分デスマッチ』」

 不思議そうな表情のサドマとバラク、および観客に竜也がルールを説明する。

「足を止めて、一発ずつ殴り合います。相手のパンチを避けてはいけません。相手を倒したなら勝ち」

 久しぶりのガチンコ勝負に二人も周囲も大いに盛り上がる。だがルールには続きがあった。

「ただし! 殴る時には、女体の中で自分が一番ぐっと来る部位の名前を叫ぶ! その言霊を拳に乗せ、言霊の重さで相手を打倒する! それがこの勝負です」

 戸惑う二人を向かい合わせ、竜也は強引に勝負を開始させた。

「しりー!」

「おっぱーい!」

「しりー!」

「おっぱーい!」

「ちいさいしりー!!」

「でかいおっぱーい!!」

「ひらたいおっぱーい!!」

「ふといしりー!!」

 サドマとバラクは阿呆丸出しの台詞を叫びながら、互いの拳をぶつけ合った。

「太腿と太腿の隙間ー!!」

「太腿のたるみー!!」

「×××ー!!」

「×××ー!!」

 到底表記できない部位が言霊として応酬され、伯仲した熱戦が続く。観客の熱気を巻き込み、勝負は大盛況となった。

 この日以降、船団では「ぐっと来る部分デスマッチ」が大流行する。イコシウムの港に停泊中にも一隻でデスマッチが行われ、卑猥な言葉が大声で叫ばれる。周囲の船からの苦情に、竜也とガイル=ラベクが頭を下げて回ることとなった。

 ――言うまでもないことかも知れないが、勿論竜也やサドマ達はこんな阿呆みたいなことばかりして航海中ずっと遊び呆けていたわけではない。

「……キリスト教――じゃなくて十字教最大の特徴は一神教、唯一神崇拝であることです」

 偵察任務の一助になれば、との思いから竜也はサドマやバラク達に十字教について知る限りのことを――元の世界の知識を大いに加味し――しゃべっていた。相手を変えてそんな話を繰り返しているうちに、いつの間にか竜也は偵察団員全員に対して講義を開くようになっていた。

「この唯一神は、恩寵の部族神やバール人やケムト人の神話の神々とは全く性質が異なっています。唯一神はこの宇宙・この世界・全ての人間を生み出した造物主であり、全知全能で出来ないことは何一つないという存在です。

 十字教には『最後の審判』という終末が設定されています。その『最後の審判』の日には墓場から全ての死者が蘇り、生者と死者が神の裁きを受け、神に認められた一部の者が『神の国』に迎えられ、それ以外の全ての者は地獄に堕ちます。

 そして、誰が『神の国』に迎えられるのか、誰が地獄に堕ちるのかは既に神が決定していて、それはもう変更することが出来ません。これを予定調和説と言います」

 竜也の講義を聴いていた全員が不思議そうに首を傾げた。サドマが竜也に質問する。

「十字教の聖職者や教皇は? そいつ等は優先的に天国に行けるんじゃないのか?」

「そんな保証がどこにもないということです。どれほどの善行や苦行を積もうと、どれほどの人間を救おうと、教会内でどれだけ出世しようと、『神の国』に入れるかどうかはまさしく『神のみぞ知る』なわけです。

 逆に言えば、どれほどの悪党でも、異教徒であろうと、あるいは『神の国』に入れる可能性がゼロではないってことです。勿論布教の時にはほとんど触れられないでしょうけど、予定説は十字教の根底を流れている思想です」

「何のためにそんな神を信じるんだ? そんな神を信じたところで何の得にもならないじゃないか」

 誰かがそんな疑問を呈し、多くの者がそれに同意する。竜也は浮かびそうになる苦笑を何とか抑えた。

「まず一点。『得があるから信じる』『得がないから信じない』というのは神様を召使いか何か扱いしているのと大して変わりません。敬虔な十字教の立場からすればそれこそが神への冒涜なわけです。

 次の一点。……ちょっと想像してほしいんですが、奴隷として売られ、重労働で酷使され、今にも死にそうになっている。貧乏のあまり親に娼館へと売られ、男相手に身体を売り、明日への希望も何もない。そんな状態で『信じれば得をする』、そんなことを言う神様がいたとして、果たして信じられるものかどうか?

『今まで私が神を信じていなかったとでも言うのか』『そんな神がいるならどうして今まで助けてくれなかったのか』

 一方十字教の神は必ず救うとは言ってないわけです。――貴方達が土を捏ねていくつかの壺を作ったとする。ある壺は花を飾る花瓶となり、ある壺は形が気に食わないからと砕かれた。ある壺は便器となった。便器となった壺が文句を言う、『ああ、何故貴方は私をこんなひどい目に遭わせるのですか』と。

 十字教の神というのは、こんな神です。人間は到底計り知れない目的や意志の元に、ある人間には天国以上の幸福をもたらし、ある人間には地獄以上の絶望を与える。恐ろしい、理解できない、人間にはどうしようもない、絶対的な存在。ただひれ伏し、その慈悲にすがるしかない存在。神の前では人間なんか虫ケラ以下です。――そして!」

 竜也は突然大声を出して一同の注意を喚起した。

「ここからが要諦です、しっかり聞いてください。――そして、この神と人間との関係が十字教徒とそれ以外との関係に置き換えられます。神の前では人間は虫ケラ以下ですが、神の側に立った十字教徒の前では全ての異教徒が虫ケラ以下となるんです。人間が壺を食器にしようと便器にしようと罪悪感も何も覚えないのと同様に、十字教徒は――勿論まともな人もいますけど狂信者は――異教徒を面白半分に殺そうと奴隷にしようと何ら痛痒を感じません。

 十字教徒の教皇の言葉、『ネゲヴの地は我々の者だ』『そこに巣くう魔物を生かしてはならない』、この扇動がそういう意味と背景で言われている事実……それを決して忘れないでください」

 竜也の真摯な瞳がサドマやバラク達を捉えて離さない。彼等は一様に頷くしかなかった。

 ……ガイル=ラベクの指示で船団中を走り回り、金獅子族・赤虎族を代表する戦士とまるで長年の戦友のように親しくし、船団メンバーに十字教や様々な知識について講義する。そんな竜也の姿が船団全員の心に強く焼き付けられた。竜也はまるでガイル=ラベクの右腕であるかのような、サドマやバラクと並ぶ重要人物であるかのような、イブン・カハールに比肩する高名な知識人であるかのような誤解を一同に与えたのだ。この大いなる誤解は後日竜也が飛躍するための重要な足場となっていく。




















 出港から19日を経て、アブの月・19日。竜也達マラガ偵察船団はタムリットに入港した。







[19836] 第9話「鮮血の狂宴」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/08/20 18:23




「黄金の帝国」・戦雲篇
第9話「鮮血の狂宴」その1










 アブの月・17日。マラガ偵察船団はオランに到着した。

 乞食の姿がやたら多いと思っていたら、それはタムリットからの難民だった。金もなく、住む場所もない難民は乞食となる他ないということだ。

 物資の欠乏も始まっており、偵察船団は食料等の補給に苦労する羽目になった。それでも何とか必要な物資を買い込み、タムリットに向かって出発する。

 そしてアブの月・19日。マラガ偵察船団はようやくタムリットに到着した。

 タムリットの港には何故か大勢の人々がたむろしていて、偵察船団の姿を見て何か騒いでいるようだった。

「もう敵兵に占拠されているのか?」

「いや、そういうわけでもないようだが」

 ガイル=ラベクは用心のため4隻のうち3隻は沖合に残し、1隻だけで入港した。その途端、千人以上の群衆が船を取り囲んだ。

「戦いに来てくれたのか?」

「助けに来てくれたのか?」

「乗せていってくれ!」

「お願いです、この子だけでも」

 群衆が船に詰めかけ、船は立ち往生した。それでも何とか、ガイル=ラベク・竜也・サドマ・バラクの4人だけが船から下りた。群衆が4人を押し潰さんばかりに殺到する。が、サドマが衝撃波を発して4~5人吹き飛ばし、バラクが雷撃で4~5人打ち倒すと、群衆は途端に大人しくなった。

「俺は青鯱族のガイル=ラベクだ。十字軍は、エレブの軍はもうこの町に来ているのか?」

「いや、まだだ。先鋒は既にマラガを発ったと聞いている」

「もうすぐこの町に到着するらしい」

 ガイル=ラベクの問いに群衆が口々に答えた。

「お前達は戦う用意はしないのか?」

 その問いに、群衆は気まずそうに目を伏せた。

「……敵は百万だ。勝てるわけがない」

「協力していれば危害は加えないと言われた」

 その答えに、ガイル=ラベクは鼻を鳴らす。

「長老会議のところに行く。誰か案内しろ」

 ……群衆を引き連れるようにして、ガイル=ラベクと竜也達は町の中心部へと向かって歩いている。竜也はすっかり変わってしまった町の様子に胸を痛めていた。露店や商店は全く開いておらず、道端で遊ぶ子供の姿もない。殺気立った男が気忙しく行き交い、不安そうな女が目を伏せていた。

 そして、竜也達4人が案内されたのはアニード本邸だった。タムリットの十字軍対策本部みたいなものはここに置かれており、長老達もここに詰めているらしい。

 突然の来訪にもかかわらず、長老達とは何一つ問題なく面会することができた。むしろ、長老達がすがるような目をガイル=ラベク達に向けてくる。

「戦いに来てくれたのか?」

「助けに来てくれたのか?」

「孫達だけでもあんた達の船に乗せていってはくれんか?」

 長老達のあまりの態度に、竜也は思わず怒鳴り声を上げそうになった。だが何とかそれを我慢する。見ると、それは竜也だけではなく他の3人も同様のようだった。

「戦うことでも逃げることでもなく、恭順を決めたのはあんた達だろう。我々に何を期待している」

 長老達は気まずそうに目を伏せた。

「……敵は百万だ。勝てるわけがない」

「逃げると言っても、どこに逃げればいい。逃げた後どうすればいい」

「協力していれば危害は加えないと言われた」

 竜也達はこの長老達に情報以外の何も求められないことを理解した。竜也達は長老から最新の情報を引き出すことに専念する。

 それで判明したのは、十字軍は10日ほど前にはマラガを進発していること。つまりあと10日程度で十字軍の先陣がタムリットに到着すること。タムリットでは市民を動員して町の外に十字軍の宿泊地を造成していること。十字軍に提供する食糧や娼館を用意していること、等。

 引き出せるだけの情報を聞き出したと判断した竜也達は船に戻ることにした。

「十字軍が押し寄せる前に、この町を捨てて東に逃げた方がいい。我々に言えるのはそれだけです」

 竜也は彼等にそれだけを言い残し、その部屋を出ていった。

 アニード邸を出ようとしたところで、竜也は知り合いの顔を見かける。

「マウア!」

「タツヤさん! どうしてここに」

 竜也はメイドのマウアの元に駆け寄った。

「マウアこそどうしてまだここに、この町に。オランでもどこでもいいから、早くここから逃げ出した方がいい」

「無理よ、そんなの」

 とマウアは首を振った。

「おばあちゃんを置いて町を出られないわ。この町に残るしかないのよ」

 少し投げ槍にそう言うマウアに、竜也は何を言えばいいのか判らなかった。

「……とにかく、敵が来る前にこの町を出て、せめてソウラ川を渡って東岸に行くだけでも構わないから」

 竜也は、そんな程度のことしか言えない自分が腹立たしかった。自分の無力さ加減が情けなかった。竜也はマウアから背を向け、逃げ出すようにその場から去っていく。マウアは人混みに紛れて見えなくなるまでその背中を見送っていた。




















 翌朝早々、偵察船団はタムリットを出港、マラガに向けて出発した。タムリットからマラガまでは、帆船なら一昼夜もあれば移動できる。偵察船団がマラガ沖合に到着したのはアブの月・21日の夕刻である。

 4隻の船はマラガ港から離れた人影のない岩陰に接岸。夜のうちに上陸し、夜陰に乗じてマラガの町に接近する。3~4人単位で組を作り、サドマやバラクのように腕の立つ者がその辺にいた雑兵から鎧や槍を奪い、皆でエレブの兵士に変装する。そしてこっそりと町中に入り込み、様子を探るのである。

 竜也やアヴェンクレトは船に残って留守番だ。十数組が順次偵察に出発し、1日ほどで戻ってくる。戻ってきた者は口々に報告した。

「見たこともないほどの数の兵が集まっている」

「見渡す限り兵ばかりだ」

「北からまだまだ兵がやってきている」

「次々と南に向かっている」

 また、マラガの町には槍や剣ではなく鍬や鋤を担いだ農民の一団の姿も多く見られた。それ等の農民はネゲヴへの入植を目論んでいるのだろう。

 一番最初に偵察に出て、一番最後に戻ってきたのはサドマである。

「マラガの町の出口に張って、ネゲヴに向かう兵士の数を数えていた。概算だが、どんなに少なくても今日1日で4万以上の兵が進発している」

 その報告は一同に鈍器で殴られたかのような衝撃を与えた。

「……奴等が進発を開始したのは10日も前だぞ。それなのにまだそれだけの兵が」

「それだけの兵が出ていっても町から兵が全然減っていない」

 しばしの間、一同が沈黙する。

「……確かに、どんなに控えめに見積もっても武装した兵士だけで数十万。補給部隊の人間や入植目的の農民も含めれば本当に百万に届くかも知れない」

 ガイル・ラベクが偵察結果をそうまとめる。それを否定する者は一人もいなかった。

「すぐにスキラに戻って報告しないと」

「待て、まだ確認するべきことがある。10日もしないうちに十字軍の先陣がタムリットに到着する。その時何が起こるか見届けなければならない」

 ガイル=ラベクは4隻のうち1隻を一足先にスキラに戻らせ、残り3隻でタムリットに向かった。偵察船団がタムリットに再入港したのはアブの月の24日である。




















 十字軍の先陣がタムリットに接近しつつあるが、あと何日かの猶予があるはずだった。 再入港の翌日、竜也はガイル=ラベクに下船許可を求めた。

「もう一度長老達を説得し、一人でも多く東に逃げるよう伝えてもらおうと思います」

 竜也がそう言うと、ガイル=ラベクは「無駄なことを」と言いたげな表情をした。

「別に構わんが、俺は協力せんぞ」

「判っています」

 竜也は一人で船を下り、アニード邸へと向かった。

 アニード邸の十字軍対策本部。竜也は誰にとがめられることもなくその部屋に乗り込むことが出来た。だが竜也にとって間の悪いことに、そこには長老だけではなくアニードかいた。さらに、黒い修道士の服を着たエレブ人が同席していた。竜也はエレブ人の姿に心身を硬直させた。

「何だ貴様は? どうしてここに」

 固まっている間にアニードに先制されてしまった。竜也は正直に、

「スキラ商会連盟の依頼でタムリットと十字軍の様子を伺いに来ています。ガイル=ラベクの髑髏船団に同乗しているんです」

 と答えた。

「ああ、スキラの方ですか」

 と嬉しそうな声を出したのは黒い修道士である。まだ若い、善良を絵に描いたような白人の男だ。

「私はミランと言います。我々エレブの者がネゲヴに入るに当たり、無用な衝突が起こらないため事前の調整をするよう、枢機卿アンリ=ボケより命を受けています」

 竜也は「クロイ・タツヤです」と名乗って軽く会釈だけした。ミランは穏やかな口調で竜也に依頼する。

「我々はタムリットを初めとしてオラン、テネスと進んでいきます。タムリットより東の町々でも我々に協力してもらえるよう口添えをお願いしたいのですが」

 自分の正義を欠片ほども疑っていないその顔が、正義を掲げたままネゲヴを蹂躙しようとするその態度が、竜也の逆鱗に触れていた。竜也は顔色一つ変えないままに堪忍袋の緒を自らブチ切った。

「お断りです」

 竜也の即答にミランが目を見開き、アニード等が顔色を変えた。

「き、貴様何を」

 何か言いたげなアニードを無視し、竜也はミランに告げる。

「山賊を家に招く理由も、手助けする理由もありません」

「我々が山賊だと?」

「招きもしないのに武器を持って押し寄せてくる連中を他にどう呼べば?」

「タムリットに入る前にこうしてご連絡していますよ?」

「『物騒だから来るな』と言えば来なかったんですか?」

 ミランがしばし沈黙する。アニードは憤怒のあまり過呼吸を起こしそうになっていた。

「……私達は神の導きによりネゲヴにやってくるのです。ネゲヴの民に神の光をもたらすために」

「ネゲヴにだって神様はいます。恩寵を与えてくれる神様が。エレブの神が何を与えてくれると言うんですか?」

「神の愛を。永遠の平和を。魂の安らぎを」

 ミランは自信満々にそう答えた。

「武器を突きつけながら愛を語るのがあんた達の神様ですか? 『要らない』って断ったらぶっ殺されそうなんですけど」

「我々はそんなことはしません。ネゲヴが危険なので身の安全を守っているだけです」

 ミランがやや不快そうにそう言う。竜也は追求の手を緩めなかった。

「百万の軍勢以上に危険な物がこの世界のどこにあるんですか。しかもこの百万は良識も理性も持っていやしない。異教徒には何をやっても許される、どんなに残虐なことをしても構わないと信じている百万の兵です」

「十字教はそのようなものではありません!」

 ミランは悲鳴を上げるみたいに大声を出した。

「確かに百万もいれば不心得者も一部ににはいるでしょう! その不心得者のせいで誤解が生まれ、誤解が戦いを招かないとも限らない! だからこそ私は不幸な事故が起こらないよう、出来るだけのことをしようと思っているのに……!」

「好き勝手をほざくな!!」

 突然アニードが竜也を殴り飛ばした。ぶっ倒れた竜也の腹をアニードが力任せに蹴る。竜也を身を丸めて身体を守ろうとした。

「儂等がどんな思いをしてこの町を守ろうとしているか……! 知りもしない若造が好き勝手をほざきおって! 貴様のそのよく回る口先で何が出来る! 何か一つでもこの町のために成したことがあるのか!」

 アニードは怒りに自制を忘れ、全力で竜也を蹴り、踏みつけた。竜也は身を丸めてそれに耐えるしかない。アニードは体力を使い果たすまで竜也に暴行を加え続けた。ようやく暴行の嵐が過ぎ去っても、竜也は身体を丸めたままだった。痛みのせいで半分以上意識をなくしており、身体を動かすこともままならない。

「おい! 誰か!」

 肩で息をしているアニードが部屋の外の護衛を呼んだ。

「こいつをここから引きずり出せ! 牢屋にぶち込んでおけ!」

 アニードの言葉通り、竜也は護衛に引きずられてその場から移動。そのまま町役場に隣接する牢屋へと放り込まれた。




















 竜也はそのまま牢屋で一晩を過ごした。その牢屋に収容されているのは竜也一人のようだった。牢屋は壁も床も石造りだ。床にむしろを1枚引いて、それが寝床である。散々殴られて痛む身体を横たえ、眠って体力を回復させることしかやれることがない。

 翌日にはサドマが面会にやってきてくれた。とは言うものの、透明なアクリル板に仕切られた面会室があるわけではなく、扉越しに言葉を交わすのを見張り番に小銭を渡して少しの間黙認してもらっているだけである。

「全く、こんな時に面倒事を増やしてどうする」

「済みません」

 サドマの愚痴っぽい言葉に竜也は謝るしかなかった。

「出してもられるようアニード氏と交渉中だが……こちらには良い交換材料はないし、アニード氏も意地になっているようでな。最悪、十字軍の襲来に間に合わないかも知れん」

「その場合、外側から牢屋を破ってもらえませんか? 十字軍が襲来したなら脱獄なんか気にする人もいないでしょうし」

 竜也に依頼にサドマは「考えておく」とだけ答え、立ち去っていった。

 牢屋の中に一人だけになり、竜也は昨日の自分の行動を思い返していた。……意味もなく失意体前屈を取りたくなってくる。

「何やってるんだ俺……」

 今の自分にあるのは、十字教の知識だけだ。その知識と口先を駆使して、この町の人間を一人でも多く避難させて、助けられたらと思っていたのに。

「感情的になって、十字教の否定が止められなかった」

 善人面をしながらネゲヴを踏みにじろうとするミランがあまりに腹立たしかったから。十字教を全否定し、ミランを論破するのは爽快だった。だが、ただそれだけだ。

 アニードは金の亡者で、ミランはアニード等を騙そうとしている狂信者。そんな先入観で目が曇っていたのだろう。アニードはこの町の有力者で、彼なりにこの町を守ろうとしていたのだ。ミランは十字軍の中では話が判る方で、起こり得る悲劇を回避しようとしていたのだ。その二人を怒らせて敵に回し、自分は牢屋の中。知識と口先を駆使し、わずかばかりの爽快感と引き替えに得た結果がこれである。やらない方が遙かにマシだったとしか言いようがない。

「否定するんじゃない。持ち上げれば良かったんだ」

 ミランや十字教を持ち上げて、異教徒であっても善良な市民に武器を向けることを少しでも躊躇させることが出来たなら。アニードや長老達を持ち上げて、一時的にでも市民を逃がすように仕向けられたなら。そういう知識と口先の使い方なら牢屋にぶち込まれることもなかったのに。一人でも多く助けられたかも知れないのに。

「『黒き竜の血』が目覚めさえすれば……」

 竜也の心の奥底から、久々にそれが湧き上がってきた。だが竜也は首を振って、その妄想を心の底深くへと沈めていく。

「知識と口先、それだけしかなくても出来ることはあったんだ。これからだって出来ることを見つけられる」

 竜也はむしろの上に横になったまま、頭脳を回転させ続けた。







[19836] 第9話「鮮血の狂宴」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/08/20 18:21





「黄金の帝国」・戦雲篇
第9話「鮮血の狂宴」その2










 竜也はそのまま牢屋で数日を過ごした。月が変わってエルルの月の1日。

 その日は朝から空気が違っていた。生温かい空気が帯電しているかのように竜也の神経を逆撫でする。

「誰か! 誰かいないのか?」

 牢屋の外に呼びかけても誰も返事を返さない。竜也は体当たりと蹴りで牢屋の扉を破ろうとした。が、思ったよりも頑丈で扉を破ることが出来ない。

 そうこうしているうちに、窓の外から今まで聞いたことのない音が聞こえてきた。遠すぎて判らないが、この雷鳴が唸るかのような音は人の声なのか。かすかに聞こえるあれは悲鳴ではないのか。町の外れに立ち上るあの煙は何なのか。

「くそっ! 何が起こってる?!」

 竜也は扉への体当たりと蹴りを繰り返した。窓の方からの脱出にも挑戦してみたが石と石の隙間は狭く、片腕と片方の肩を外に出すので精一杯だ。扉を破ることに集中するしかない。

「くそっ! こんなところで」

 体当たりを繰り返したたため竜也の両肩はひどく痛むようになった。あるいは骨にひびでも入っているかも知れない。その甲斐あって、扉は大分建て付けが悪くなってきている。だが、まだ破れない。朝から何時間も掛けているのに、昼を回って大分経っているのに、まだこんなところに閉じ込められたままである。

 はっきり悲鳴と判る声が近くからも聞かれるようになってきた。悲鳴は女性の声が多いがそれだけではない。老若男女問わず、悲鳴が、断末魔の叫びが、泣き声が聞こえてくる。獣のような雄叫びも聞こえてくる。段々その声が近付いてくる。

「くそっ! くそっ!」

 恐怖と焦燥のあまり、竜也は頭がおかしくなりそうになった。その時、

「タツヤ!」

 扉の外から、竜也を呼ぶ少女の声。

「アヴェンクレトか?! こんなところに!」

 こんな危険な場所にこんな小さな子供を送り出すなんて――というガイル=ラベク達への怒りが竜也の脳裏を横切った。だがそれも一瞬だ。

「アヴェンクレト! 鍵はないか?」

「探してくる!」

 アヴェンクレトの気配が遠ざかる。竜也はアヴェンクレトを待つことしかできない。その焦る様は、焼かれた鉄板の上で立って待たされているかのようだ。

 短くない時間を経て、ようやくアヴェンクレトが戻ってきた。

「見つけてきた!」

 鍵の束の中から竜也の牢屋の扉の鍵を見つけるのにまた時間が掛かり、ようやく鍵を開けたと思ったら立て付けの悪くなった扉をこじ開けるのにまた時間を取られてしまった。竜也はアヴェンクレトの手を引いて外へと飛び出した。

 100mも走らないうちに敵に見つかってしまった。

「女だ!」「こっちに女がいる!」

 粗末な革製の鎧を身につけた、白人の男達。鎧や髪は埃で汚れて白くなっていて、血に濡れた剣や槍を手にしていた。その眼だけが狂喜でぎらぎらと輝いている。

 竜也はアヴェンクレトの手を引いて走り出した。それを何人もの十字軍の兵士が追いかける。裏路地の、道が入り組み迷路みたいになっている区画に逃げ込む。適当な民家に入り込んで何とか敵兵を撒くことが出来た。

 竜也達は、今度は敵兵に見つからないことを最優先にして、姿を隠して慎重に歩を進めた。

「この道の方が人が少なそう」

 とアヴェンクレトが先導する。アヴェンクレトの他にも竜也の解放に向かっていた船団メンバーはいたのだが、彼等は敵兵に足止めを食らって先に進めないでいた。アヴェンクレトは読心の恩寵を対人レーダーのように使うことで敵兵を回避し続けたのだ。

「とにかく今は町の外を目指すしかない。ソウラ川に出て、川を泳いで渡って東岸まで行ければ敵もいないだろう」

 夜になるのを待った方がいいだろうか、とも考えたが、夜まで隠れていられる安全な場所が見当たらない。敵兵の姿は一分ごとに増え続けて
いて、先へと進むのがますます難しくなっている。

「待って、向こうから来る」

 アヴェンクレトの警告に従い元来た道を引き返すが、そちらからも敵兵が姿を現した。竜也は周囲を見回し、少しの間だけでも身を隠せる場所を探す。そして天佑のようにそれを見つけた。竜也の視線の先にあるのは、共同便所の肥溜めだった。

 竜也の手を握ったままのアヴェンクレトもその案を理解する。躊躇と嫌悪がアヴェンクレトの心を詰め尽くすが、次の瞬間にはそれを全て投げ捨てた。アヴェンクレトは率先して便座を潜り、肥溜めへと身体を沈めた。それに竜也が続く。

 あまりの悪臭に嘔吐しそうになるが、辛うじてそれを我慢した。肥溜めの中は思ったよりも狭く、竜也とアヴェンクレトの二人で満員である。竜也は外からアヴェンクレトを隠すようにしてその身体を抱いた。アヴェンクレトもその手を竜也の胴に回す。

 悪臭は目が潰れるかと思うほど強烈だった。鼻は勿論口でも呼吸が困難だが、しないわけにはいかない。唇をほんのわずかだけ開けて、か細く短い呼吸を繰り返した。奴隷時代のことを思い出し、精神を現状から切り離し身体を機械とし、ただ生き残ることだけに専念する。アヴェンクレトは半分以上気絶しているようだったが、その方がいいだろうと考えた。

 竜也達はそのまま肥溜めの中で夜を待った。地獄のような汚濁の中で、永劫とも思える苦痛の中で、ただ互いの温もりだけが価値あるものの全てだった。




















 日が沈み、外は夜の闇に包まれた。

 周囲に敵兵がいないことを確認し、竜也とアヴェンクレトは肥溜めから抜け出した。身体を洗うことも出来ないまま、再び町の外へと向かう。

 町のあちこちから火の手が上がっているようだった。敵兵の姿があちこちに見られるが、夜の闇が竜也達の姿を隠してくれた。竜也達は敵兵に見つかることなく町の外を目指して歩いていく。

 路地には数mごとに市民の死体が転がっていて、地面には血の絨毯が敷かれていた。剣で斬られ、槍で突かれた男の死体。女の死体は一人残らず下半身裸である。腰の曲がった老婆から5歳の子供まで、女という女は一人の例外もなく強姦された上に殺されていた。腹を割かれた妊婦の遺体もあった。

 心を凍らせた竜也とアヴェンクレトはその惨状に目を奪われることなく、前へと進み続ける。視界の端に捉えた二人の死体。全身を無残に斬られた老婆と、裸にされた若い女性の死体が寄り添うように倒れている。竜也にはそれがばあやとマウアのように思えたが、戻って確認したりはしなかった。今はただ先へ先へと進み続ける。ソウラ川のほとりは目前に迫っていた。

 だが竜也達の行く先を阻むように、その道に一人の男が佇んでいた。黒い修道士服をまとった、まだ若い男――ミランである。

 ミランは武器を持っておらず、同行者もいないようだった。ソウラ川は目前だ、この男を殴り殺してでも先に進む。竜也はそう決意し、路傍の石を拾い上げてミランに接近した。ミランの方も竜也達の姿に気付いたようである。誰か呼ぶかと思っていたが、ミランは何もしない。惚けたように立ち尽くしているだけである。

 訝しく思いながらも竜也はミランに接近する。だがミランは何もしないままだ。ミランは悄然としており、数日見ない間に十歳も老け込んだかのようだった。

「――行ってください」

 ミランは竜也達にそう言い、背を向ける。竜也はその横を通り過ぎ、そのまま走り抜けていった。

 竜也達は川岸からゆっくりとソウラ川の水に浸かり、岸から離れた。流れに身を任せるようにして川の中央へと泳いでいく。アヴェンクレトは竜也の首に捕まり、竜也は彼女を背負うような格好だ。ソウラ川には、二人が見かけた範囲だけでも何百という死体が流れていた。生きて泳いでいる人間もいたが、その数は圧倒的に少ない。

 川に流され、川ではなくソウラ湾に出た頃、竜也達はようやく東岸に辿り着いた。竜也とアヴェンクレトは最後の力を振り絞って岸に這い上がる。陸地に上がったところで力尽き、そのまま寝転んだ。しばらくの間体力の回復に努める。

 泳いでいる間に汚物の大半は流れ落ちたようだが、悪臭は身体に染み込んでいるかのようだった。ちゃんと身体と服を洗おうと思い、竜也は起き上がる。竜也の視界に向こう岸のタムリットの町が入った。

 タムリットの町の各地が炎上しているようだった。町は不気味な赤色に染まり、何本もの煙が立ち上っている。竜也が周囲を見回すと、町から何とか逃れてきた人々が虚ろな瞳を町へと向けていた。

 これまで堪えてきたものが込み上げてくる。竜也はその場でひざまづいた。力任せに地面の砂を握り締める。竜也の瞳からこぼれた涙が、その砂を濡らした。食いしばる歯が砕ける寸前の軋みを上げた。

「……な、何で」

 憤怒が、激情が竜也の身体を震わせる。

 ――何故ここまで残虐なことが出来る? 一体何の恨みがあって? 一体どういう権利があって?

 勿論竜也も知識としては判っている。タムリットで暴虐の限りを尽くしたのは、エレブの普通の市民・農民なのだ。領主からの重税に苦しみ、十字教のプロパガンダに踊らされているだけの、無知蒙昧なただの庶民。領主から苛政を受け、教会から抑圧を受け、その苦しみの転嫁先を探してネゲヴまでやってきて、タムリットがその最初の捌け口となってしまった。ただそれだけなのだ。

 竜也は力強く立ち上がり、炎上するタムリットの町を見つめた。黒い両眼に宿った確固たる決意が、艶やかに星明かりを照り返す。その瞳はまるで鋼鉄そのものだった。

 ――だが判っているのか? 欲望で他人を殺すのなら、自分も他人の欲望のために殺されても文句が言えないのだということを。

 ――ああ、判っていやしないだろう。判っているのならこんな真似が出来るわけがない。だから俺が判らせてやる。

 ――『神の命令に従っただけ』? 『それを神が望んでいる』? 巫山戯るな。そんな淫祠邪教、俺が神と認めない。そう、俺は「黒き竜」。キリストに仇なす悪魔の獣だ。

 ――やっと判った、俺がここにいる理由。俺がこの世界のこの時代にやってきたのは決して偶然なんかじゃない。奴等と戦うためだ。十字教と戦い、十字軍を滅ぼし、犯され殺されたマウアやばあややタムリットの人々の仇を討ち、ネゲヴをネゲヴの民の手に取り戻す。そのために俺は今ここにいる。

 ――それが出来るのは俺だけ。俺には「黒き竜の血」が流れている。俺は「黒き竜」なのだから。

 タムリットの町を見つめる竜也は、アヴェンクレトがいつの間にか起き出して自分を見つめていることに全く気付いていなかった。少女の内面が今大きく変貌しようとしていることも。

 無意識のうちに竜也の内心を覗いたアヴェンクレトの心に、竜也の激情が流れ込んでくる。少女にはそれに抵抗できるほどの力はなかったし、そもそも抵抗するつもりもなかった。竜也の憤怒に共感し、竜也の覚悟に感化され、竜也の意志を共有する。言わば、少女は自分で自分を洗脳したような状態だった。少年が自分を人間ではなく「黒き竜」だと信じるなら、少女にとってもそれが真実なのだ。




















 今ここに黒き竜の少年と、その白き巫女が目覚める。二人がこの世界に何をもたらすのか、知る者はまだ誰もいなかった。







[19836] 第10話「焦土作戦」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/09/13 22:36




「黄金の帝国」・会盟篇
第10話「焦土作戦」その1










 エルルの月・2日。

 着ていた服は全部脱いで、身体も含めて海水で散々洗った竜也とアヴェンクレトだが、染み付いた臭いは到底落ちそうになかった。ある程度のところで諦めて悪臭漂う湿った服を着直し、東へと歩き出す。

「タツヤ、これからどうするの?」

「何とか船団と合流するのが第一。出来なかった場合、自力でスキラまで戻るのが第二。そのためには船を捕まえなきゃいけないけど、避難民が溢れている中で俺達が船に乗れるかどうか。出来るだけ早くオランまで行ければ――」

 竜也の内側では様々な案が高速で提案され、検討され、却下され、保留されている。しゃべる速度と全く対応していないので竜也は口を閉ざして思考と計算に没頭した。アヴェンクレトでもその思考の断片しか読み取ることが出来ない。

 竜也とアヴェンクレトは街道に出、東に向かって歩いている。二人の他にも多くのタムリット市民が着の身着のままで街道を歩いていた。何度か休憩し、歩いているうちにやがて夜が明ける。

「船?」「船だ!」

 多くの避難民と同じように、竜也達も夜明けと同時にそれを見つけた。街道にほど近い海岸に接岸している、髑髏の旗を掲げた3隻の船。ガイル=ラベクの髑髏船団、マラガ偵察船団である。

 竜也はアヴェンクレトの手を引いて、早足で船団へと向かう。同じように、多くの避難民が船団へと吸い寄せられていった。

 岩場の岸に降りたガイル・ラベクが誰かを待つように仁王立ちになっているのが見える。亡者の群れのような避難民に群がれ、ガイル=ラベクは閉口しているようだった。

「船長!」

 避難民をかき分けて前に進みながら、竜也がガイル=ラベクを呼ぶ。ガイル=ラベクも二人に気が付いた。

「お前等、良く無事だったな」

 ようやく眼前にたどり着いた竜也達を、ガイル=ラベクは安堵したようにそう言って出迎えた。

「俺達を待っていてくれたんですか?」

「お前等だけじゃない。サドマやバラク達がタムリットに偵察に入っていて、まだ何人か帰っていない。お前等とは違ってあいつ等なら心配は無用だと思うが……」

 ガイル=ラベクが「正直、お前等のことは諦めていた」と言うのを竜也は「そうですか」とさらっと流した。竜也とアヴェンクレトは船に入って自室に戻り、汚れた服を全部捨てて服を着替える。香料をもらって身体に染みついた悪臭を多少なりとも誤魔化し、ようやく人心地付いた。

 疲れ切っていたアヴェンクレトはそのまま倒れるようにベッドに潜り、眠りに就いた。同じように疲れているはずの竜也だが、全く眠気を感じていない。竜也は甲板に向かった。

 甲板には偵察船団メンバーのほとんどが集まっているようだった。皆怒りに震えているものと思っていたが、どうも様子が違っている。意気消沈したような、途方に暮れたような表情で俯くばかりである。甲板は葬式でもここまで静かではないと言うほどに沈黙に満たされていた。

 彼等の多くは交代でタムリットに偵察に入っていて、そこで何が起こったのかを目の当たりにしている。偵察に行かなかった人間も詳しく話を聞かされており、タムリットの惨状を知らない人間は一人もいない。勿論彼等も十字軍に対し怒りを抱いているだろう。だがそれ以上に戸惑っているようだった。

 磯辺のガイル=ラベクは群がる避難民を無視し、巌のように立ち尽くしている。やがて避難民はその場に座り込むようになった。ガイル=ラベクからつかず離れずの距離を置き、時々媚びるような、探るような視線を送っている。船を降りた竜也はガイル=ラベクのところへと向かった。

 竜也がガイル=ラベクの横に並ぶ。彼もまた他の船団メンバーと同じように、怒りを抱くより先に途方に暮れているようだった。

「――奴等は何を考えている? こんなことをして奴等に何の得がある?」

 ガイル=ラベクの独り言のような呟きが竜也の耳に届いた。

 そうか、と竜也はようやく得心する。このタムリットの惨劇は、ガイル=ラベク達にとって全く想定外だったのだ。

 竜也には元の世界の、キリスト教や十字軍に関する知識がある。近現代の国家ですら虐殺を当たり前のように実行していた事実を知っている。だからタムリットの惨劇は、竜也からすれば考え得る最悪の事態ではあったが決して想定外ではなかった。

 ガイル=ラベク達も最悪の場合何が起こるか、色々と想定していただろう。だが彼等の考える最悪は、例えば「タムリットの全住民を奴隷にしてエレブに連れて行く」とか、その範囲のことだったのだ。恭順しようとしていたタムリットの民が理由もなくいきなり虐殺されるなど、平和を謳歌していた彼等には考えられることではない。

「……気分はスカッとするでしょうね」

 竜也がそう答えを返す。ガイル=ラベクはそれを鼻で嗤った。

「ふん、たったそれだけの理由であんな真似を繰り広げたって言うのか?」

「理屈は色々と付けられますが、突き詰めれば結局はそれだけの理由だと思います」

 十字軍の上層部にとっては、この虐殺は決して喜ばしい事態ではない。オランや他の町も、タムリットのように十字軍への恭順を考えていたはずだ。タムリットで何も起こらなければ、それらの町を十字軍の進軍に全面協力させることも出来ただろう。だが、そんな可能性は最早どこにも存在しない。この先彼等が進軍するには、町を民を一つずつ磨り潰していくしかないのだ。十字軍上層部にまともな計算が出来る人間がいれば、頭を抱えているに違いない。

 だが、農村から無理矢理徴兵された普通の兵士にとっては、そんな計算は別世界の話である。彼等の胸にあるのは虐げられてきた屈辱と踏み躙られてきた憤懣だけ。彼等の頭にあるのは教皇インノケンティウスのプロパガンダだけ。

「彼の地に巣くう魔物を生かしてはならない。悪魔の技を使う、呪われた悪しき物を生かしてはならない。神を敬わず、神を讃えない愚か者を生かしてはならない」

 タムリットで何をしようと、どのように屈辱と憤懣をはらそうと、どのように獣欲を満たそうと、教皇がそれを正当化してくれている。ならば、それをしない理由はない。ネゲヴの民を殺さない理由はない、むしろ殺さないことこそ教皇の御心に反しているのではないか? ならば、殺すべきなのだ――

「教皇のプロパガンダを一種の建前だと捉えて、この遠征を成功させることを第一と考えているのは、十字軍の上層部でも一部だけでしょう。実際に兵を指揮・統率する騎士階級の連中もプロパガンダに飲まれている可能性がある。騎士階級が率先して虐殺や強姦をしていたかも知れない。そうなったらもう兵を制御できる人間がどこにいないってことです」

 淡々と自分の見解を述べる竜也を、ガイル=ラベクは驚きと共に見つめている。竜也の知識の深さは判っているつもりだったが、それを再認識させられていた。

 そんな話をしているうちに、

「あれは、サドマさん! バラクさん!」

「あいつ等も無事だったか」

 偵察に出ていたメンバーが三々五々戻ってきた。昼前には全員が戻ってきて、船団メンバーは一人も欠けることなく勢揃いした。

 追いすがる避難民を振り払い、ガイル=ラベクや竜也は船に乗り込んでいく。竜也は避難民を振り返って彼等に告げた。

「俺達は奴等と、十字軍と戦います。貴方達も戦ってほしい。まずは逃げること、生き延びることが貴方達の戦いです。何とかオランまで逃げて、たどり着いてほしい」

 竜也はそう言い残し、船へと乗り込んだ。ガイル=ラベクと竜也は甲板へと向かって歩いている。

「――本気か? 奴等と戦うというのは」

 不意にガイル=ラベクがそう問うた。竜也は首を傾げながら、

「戦わないんですか?」

 不思議そうに問い返した。自分が戦うことに一片たりとも疑問を抱かず、ガイル=ラベクもまた同様だと信じ切っている。竜也のその態度に、ガイル=ラベクは内心の迷いや逡巡を全てうち捨てた。

「戦うさ。戦うに決まっているだろうが」

 ガイル=ラベクは牙を剥く凶悪な笑みを見せた。

 船は磯辺を離れ、ゆっくり沖へと流れていく。太陽は中天に昇ろうとしていた。




















 沖に出た3隻の船は横に並んで互いに舷を接し、板を渡して擬似的に一つの船となった。中央の船の甲板には偵察船団メンバーのほぼ全員が集まっている。

 ガイル=ラベクは集まった面子の様子を伺い、ため息をつきたくなった。意気消沈した暗い、景気の悪い顔ばかりである。十字軍への怒りをはっきり表しているのはバラクなどごく一部だけだ。ガイル=ラベクはもう一度一同を見回し、竜也の顔がないことに気が付いた。

「おい、タツヤはどこに行った?」

「呼びましたか?」

 丸めた紙を持った竜也がちょうど船内から出てくるところだった。

「それは地図か?」

 その問いに竜也は「ええ」と頷き、甲板の真ん中に行ってその場の人間を移動させる。竜也はその場に地図を広げ、インクと羽根ペンを使い、地図の模写を甲板に直接描き出した。一同が感心する中竜也は羽根ペンを揮い、数分で大きな地図を完成させた。

 甲板の真ん中に、幅3m・奥行2m程度。元の世界の知識を加味しているため、この世界ではまず見られない、リアルな海岸線が描かれた地図となっている。

「これがアドラル山脈、ここがタムリット、ここがオラン、ここがテネス。ここがスキラでこれがナハル川、これがスキラ湖。……どこか間違いは?」

 竜也に問われたガイル=ラベクはちょっと慌てたように返答した。

「い、いや。間違いはないだろう。しかし良く描けている」

 竜也はその言葉に構わず、自分の描いた地図を見つめ続けた。(なお、アドラル山脈は元の世界のアトラス山脈に相当。)

「……ここからスキラまで、街道を歩けば1万スタディアくらいですか? 十字軍がスキラに到着するまでどれくらいだと思います?」(註、1スタディアは約180m。単数と複数の区別がないのはこの世界の独自の言語変化に因る。)

「そうだな、3ヶ月もあれば」

 誰かのその回答に、別の誰かが異論を唱えた。

「待て、それは純粋に移動だけに掛かる期間だろう。戦闘や城の攻略をしていればとても3ヶ月ではたどり着けない」

「ここからスキラまでの間に、百万を足止めできるような城塞がどこにある? どこの町や城にしても、4~5万もあれば簡単に落とせる」

「別に城でなくても……西ネゲヴには川はありませんか? ソウラ川やナハル川くらいの大きな川幅の。十字軍が嫌でも足止めするしかないような」

 竜也の問いに、一同が顔を見合わせた。

「……サイダ川くらいか? 大きい川と言えば」

 竜也はオランの東側にサイダ川を書き込んだ。

「そこに兵を集めて、敵を足止めする?」

「出来なくはないが……サイダ川を渡河できる場所は4箇所か5箇所くらいあるだろう。どれくらいの兵があればいい?」

「敵の渡河を阻止するだけなら、敵の半分もあれば。百万の敵が5箇所に別れるとして、一箇所に10万もあれば」

「待て待て、そんなのは机上の空論だ。百万が5箇所に別れて渡河する等とどうして言える」

「百万全員が同時に一箇所で渡河するのもあり得ないだろう。同時に渡河出来るのはせいぜい1日10万くらいじゃないのか? なら1日10万を阻止することを考えればいい」

「そうやって一箇所で10万の敵の渡河を阻止していても『ここで渡河できないなら他に回ればいい』となるだろうが。敵に背後から回り込まれて挟み撃ちになるのが落ちだ」

「ならば、10万の半分の5万を5箇所で、合計25万」

「それだけの兵がどこにいる……?」

 少しの間、その場が嫌な沈黙に満たされた。やがて誰かが意見を出す。

「……タムリットの避難民や、オランやテネス、グヌグやイコシウムから兵を募ればどうだ?」

「そうするにしても、25万はあり得ない。頭数は揃えられるかも知れないが、その中で戦い慣れた人間は多く見ても1割だ」

「……別に川に拘らなくていいだろう。崖や谷、隘路、敵の進軍を阻止できる絶好の場所は他にもあるはずだ」

「……『北の谷』は使えないか?」

「スファチェの北の? 馬鹿を言うな、そんなところまで敵を引き込むつもりか?」

「確かに、もっと手前でないと意味がない」

 それからも様々な意見が出され、討議され、却下される。ガイル=ラベクは腕を組んで討議を見守り、時たま沈黙を守る竜也に視線を向けた。竜也はその視線に気付くことなく、百出する意見に耳と神経を集中させている。

 やがて議論は一つの案に収斂していった。

「やはり現実的に考えてここしかない」

 と指し示された場所はスキラとナハル川である。

「ナハル川の川幅は10スタディア以上だ。ここなら百万の敵でも充分食い止められる」

「確かに渡河できる場所はスキラ湖から海の間と、トズル方面だけ。あとはスキラ湖と大樹海の中だ」

「スキラ湖から海までは100スタディアもあるんだぞ?」

「たったの100スタディアだ、この線を守り切るだけでいい。今すぐスキラに戻ってこの線を要塞化すれば、それに10万くらい兵を集められれば、この線は守り切れる」

「待て! それじゃスキラも含めて西ネゲヴは全て捨てることになる!」

「スキラやスファチェ、カルトハダの民はナハル川の東に移動すればいい」

「身一つで移動して難民になれと?」

「それより西の民はどうすればいいと言うんだ?!」

「アドラル山脈の麓や、大樹海アーシラトの中の村落に移動すればいいんじゃないか? そのくらい街道を外れれば、十字軍の連中も追ってこないだろう」

「西ネゲヴの民が何万いると思っている? それだけの民をアドラル山脈やアーシラトで養えるわけがないだろう」

「今村や町にあるだけの穀物を持っていけば、半年か1年くらいは食えるだろう」

「たったの半年だ。この戦争が何年続くと思っているんだ?」

「じゃあ逆に訊くが、どうすればいいと? 他に何か方法があると? 百万の敵を相手に何年も続く戦争を、この場所以外のどこでどうやって戦う!」

 ナハル川絶対防衛線案を支持しているのは主に東ネゲヴの代表者で、反対しているのは西ネゲヴの代表者や各部族の代表である。東ネゲヴから見れば案の反対者は代案もなく感情的に反対しているだけのようにしか見えず、西ネゲヴから見れば賛成者は西ネゲヴを切り捨てて自分達だけ助かろうとしているようにしか見えなかった。両者の対立は次第に深刻なものとなりつつあり、事態は流血の一歩手前と言っても大げさではなかった。

「……おい、タツヤ」

 沈黙して議論を見守っていたガイル=ラベクだがついに看過できなくなり、竜也に声を掛けた。

「お前には何か案なり意見なりはないのか?」

「一つだけあります。――いや、一つしかないと言うべきかも」

「なら、それを教えてくれ」

 竜也はゆっくりと一同の中央に進み出た。皆の視線を集めた竜也は、人差し指を立てた手を高々と掲げる。沈黙して竜也の言葉を待つ一同に対し、

「――1年です」

 竜也は静かにそう宣言した。

「1年で十字軍の百万を皆殺しにします」







[19836] 第10話「焦土作戦」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/09/13 22:36



「黄金の帝国」・会盟篇
第10話「焦土作戦」その2










 太陽はゆっくりと西に向かっている。時刻は既に夕暮れ時になっていた。

 夕映えに血のように赤く染まった竜也を、甲板の一同が見つめている。竜也は薄く笑みを浮かべ、一同と相対していた。

「――全員は無理でも、一人でも多くの西ネゲヴの民を助ける。十字軍を皆殺しにして1日でも早くこの戦いを終わらせる……確かに簡単なことじゃない。ネゲヴに西も東もない、バール人も恩寵の民も関係なく、全てのネゲヴの民がその総力を、その意志を一つに結集して、初めて奴等と戦える。この案が実現できるんです。まず必要なのは、独裁官です」

「独裁官?」

 ガイル=ラベクの問いに竜也が答える。

「ええ。俺が前に住んでいたところには、俺の国じゃないけど、そんな制度があったんです。国家の非常事態には独裁官を選出し、半年か1年ほどの一定期間、政治・軍事の指揮の全てをその人に委ねます。意見や助言は勿論構わないけども、その独裁官が最善だと判断して決断したことには全ての人が無条件で従うんです。

 スキラでの十字軍対策会議の様子は皆も知っているでしょう? あんなやり方でこの非常時の戦争や政治の指揮を執れるわけがない。悠長に会議をしている間に十字軍がやってきて、何もかもが終わりです」

「確かにその通りだ」

 とガイル=ラベクは頷いた。竜也は説明を続ける。

「まあ誰が独裁官になるかは置いておいて……ナハル川を絶対防衛線とする案、確かに百万の十字軍と対等に戦う方法はこれしかないと思います。でも、これだけじゃ足りません。焦土作戦をもって奴等を皆殺しにします」

「それはどんな作戦なんだ?」

「エレブ本国からの食糧の補給がない、というのがこの作戦の要諦です。十字軍は食糧をネゲヴで現地調達するしかないんですが、それを徹底的に阻止します。奴等を飢えに追い込みます」

「一体どうやって」

「十字軍の進軍上の街道から、町や村から食糧を全て撤去します。アドラル山脈や大樹海アーシラトに逃げる人達に持てるだけの食糧を持たせ、ナハル川の東に逃げる人達も持てるだけの食糧を持って行く。持って行けない食糧は全部焼き捨てるか海に捨てるかしてください。収穫前の畑も全部焼き払ってください」

 それは……とだれが呟き、そのまま沈黙した。竜也の説明が続く。

「本当の焦土作戦なら十字軍が宿泊に使いそうな全ての建物も焼き払って破壊するところですけど、そこまでは求めません。敵をスキラまで引きずり込んでそれ以上の進軍を阻止。本国に引き返すことも阻止、他の町に移動することも阻止します。全員が飢え死にするまで敵をスキラで立ち往生させるんです。この場合百万という敵数が十字軍にとっての最大の弱点となります。我々はそこを徹底的に攻めるんです」

「ちょっと待て、それじゃ西ネゲヴの民はどうなる? どうするつもりだ」

「一人でも多く、生命を助ける。この1年を引き延びさせる。それだけを考えます。食糧と一緒に街道上から人間もいなくなる。西ネゲブの人口が300万として、おおざっぱに言って半分くらいはアドラル山脈や大樹海アーシラトとかの南に逃げて、残り半分がナハル川の東に逃げたらいいかと」

 竜也がそう言うと、途端に反論が爆発した。

「無茶苦茶だ!」「机上の空論だ!」「そんなことできるわけがない!」

 口々に騒ぐ一同を、ガイル=ラベクが「待て待て」と制した。それでようやく喧噪が収まる。が、一同の不満は全く収まっていなかった。

「タツヤ、さっさきお前自身が言っていただろう。タムリットからスキラまでは1万スタディアもあるんだぞ? 150万の民にそれだけの距離を歩けと言うのか?」

 竜也は慌てず騒がず反論する。

「まず、皆が勘違いしている点を挙げましょうか。西ネゲヴの人口300万と言う数字は、スキラ・スファチェ・ハドゥルメトゥム・カルトハダ等のナハル川に近い大都市も全部含めての話なんです。西ネゲヴの町は西に行くほど小さくなる、人口も西に行くほど少なくなっています。それに、元々街道から外れた場所に住んでいて逃げる必要がない人達も少なくありません」

 一同が盲点を突かれたような表情を見合わせた。

「だからナハル川の近くに住む人達が東に逃げて、西の人達はアドラル山脈か大樹海アーシラトに逃げる。

 タムリットやオランの市民のうち、子供や年寄りはある限りの船を使ってテネスまでピストン輸送。テネスの市民も含めてその大半が南に逃げて、残りがまた船と徒歩でグヌグに移動。グヌグの市民も含めてその大半が南に逃げて、残りがまた船と徒歩で次の東の都市に向かう。

 ヒッポやウティカあたりから全市民が東に逃げてもらいます。移動距離は最大3千スタディア、人数は最大150万、期間は最短で3ヶ月。ネゲヴの全力を投じれば決して不可能ではありません」

「……しかし、それでも全員を助けるのは無理だろう」

「それは勿論そうです。道中で力尽きる人は無数に出るだろうし、船が沈むこともあるでしょう。それでも、これが西ネゲヴの民を一番多く救える方法なんです。

 ――1日でも早く、長くとも1年以内で十字軍を全滅させる。そのためには街道上に食糧を残してはいけない。そうなったら人間も移動しなきゃいけない。北は海で西はエレブ、なら残った移動先は南か東――単純な話です。

 それに、選択の余地なんか最初からないんです。街道上に人間が残れば十字軍に殺される。食糧を残せば十字軍に奪われる。なら、人間は逃げ出し食糧は焼き捨てる。勿論全員は逃げられないだろうし、全部は捨てられないでしょう。でも出来るだけのことをすればそれだけ多くの人を助けられるし、勝利の日も近くなる――そういうことです」

 竜也の静かな説明が一同の脳に浸透する。

「確かに……」「しかし……」「船は……」「収穫の時期は……」

 一同が近くの者同士で竜也の案の検討を始めている。あまりに突飛な案なため賛成しがたいが代案がない、というのがその場の大勢のようである。幾人かが問題点を竜也に確認する。

「150万もの民が東に移動するとして、それだけの民をどこにどうやって受け入れるのだ?」

「まず兵を募ります。最低20万くらいはほしいですね。それにナハル川の要塞化の工事が必要ですが、そこで半分くらいは吸収できるんじゃないかと。工事と一緒にナハル川の南岸に都市の建設が必要ですが――まあ、工事に従事する何十万もの人間が何ヶ月もナハル川南岸に住み着くことになるんですから、何もしなくても結果的にあの辺は都市化すると思います。そこで吸収しきれなかった分は、東ネゲヴの諸都市に分散して疎開してもらいます」

「戦うにしろ、住民を移動させるにしろ、途方もなく金が掛かると思うんだが」

「まず、西ネゲヴに出来るだけ金目のものを供出してもらいます。個人で持ち運べる分はそうしたらいいですが、それが出来ない分は残していったところで十字軍に略奪されるだけですし、我々に供出してもらって有効利用させてもらおうかと。

 それと、西の民はほとんど無一文になってしまうんですから東の民にも相応の負担を受けてもらう必要があります。東の全ての都市の全ての民に、財産の1/10を供出してもらう。とりあえずそれだけあれば1年間は何とかなるかと。

 ――西の民にも東の民にも、滅茶苦茶な苦難と負担を背負わせます。でも、それも1年だけです。1年だけ故郷を捨てれば、1年だけ税金を我慢すれば……1年だけなら、何とかみんな耐えてくれると思います」

「十字軍の中にはネゲヴへの入植を目的とした農民も大勢いたぞ。あの連中が街道を外れたり、どこかの町に留まってその町を占領したりしたら面倒なことにならないか?」

「ええ、面倒ですね。そうならないよう一工夫必要です。バール人で十字軍と取引のある商人に、こっちに都合のいい噂を流してもらうよう依頼したら。そうですね、

『スキラの南にネゲヴの独裁官が軍を引き連れ本陣をしいている。そこには1億タラントの金貨と1億アンフォラの小麦が用意されている』

『スキラ制圧が成功したなら、1億タラントの金貨のうち半分は教皇に献上されるが、残りの半分は出征した者全員に平等に分配される』

 ……というのはどうですか?」

「なるほど、あの亡者共なら間違いなくその噂に吸い寄せられる。ちまちま畑を耕すなんざ、馬鹿馬鹿しくてやっていられない」

「それと、噂だけに頼るのも危険だから、今のうち遊撃部隊を作って残していくべきです」

「遊撃部隊?」

「ええ。タムリットの避難民やオランの市民から有志を募り、騎兵中心の部隊を編成します。その部隊の目的は、まず十字軍の進軍を少しでも遅らせるための、嫌がらせの攻撃。焦土作戦の一環の、十字軍の食糧や補給を標的とした攻撃。敵の最後尾よりも後方に回って、敵と本国との連絡の遮断。本国からもし補給があった場合勿論それも阻止。そして敵の一部が街道から外れてどこかに入植しようとするなら、それも攻撃して阻止する」

「なるほど」

 とガイル=ラベクが頷いた。

「そのリーダーをこの中から選ぶとしたら、バラクになるか」

「判った、引き受けた」

 とバラクは即答する。

「ええ?」

 という竜也の戸惑いを無視し、ガイル=ラベクは話を進める。

「他にも今のうちに決定して動き出さなきゃならんことがあるんだろう。全部言ってしまえ」

「ええ、ええとあとは殿軍部隊が必要です。避難民が東か南に全員逃げたら、十字軍に食糧を渡さないよう全て焼き払う。十字軍の先鋒が接近したらこれと戦って避難民を護る。非常に危険な任務ですが」

「なるほど、なれば私が相応しかろう」

 と言い出したのはサドマである。バラクは面白くなさそうに鼻を鳴らした。竜也は戸惑いを隠せない様子で続ける。

「あとは、避難民の海上輸送部隊、避難民の陸上移動部隊……とりあえずはそれくらい」

 ガイル=ラベクは「よし」と頷き、

「海上輸送は当然俺だな。テムボ、お前は避難民の陸上移動の方を頼む」

 ガイル=ラベクの言葉にテムボが頷く。他の者もそれぞれの役割を定めようとしていた。竜也は戸惑いながら周囲を見回す。

「……えーっと」

 そんな竜也にガイル=ラベクが、

「タツヤ、勘違いするなよ。俺達はお前の案をまだ承認したわけじゃない」

 と言い出したので、竜也の混乱は頂点に達した。

「それに、俺達髑髏船団は傭兵だ。口先だけじゃ俺達は動かせん。お前はお前の何を持って、俺達を動かす?」

 ガイル=ラベクの真摯な眼差しが竜也を心臓を射貫いた。周囲の者も、静まり返って竜也を見つめている。今、自分は覚悟を問われているのだと竜也は理解した。彼等を動かすにはその「覚悟」を持って成す他ないのだということも。

(覚悟なら、昨晩既に決めている。俺は「黒き竜」だ。これくらいのこと、進んで引き受けるくらいでなくてどうする)

 目を瞑っていた竜也が刮目する。竜也は静かに、だが良く通る声で一同に告げた。

「――今、この場にいる全員を俺が個人的に雇います。敵は十字軍、期間は最長1年。報酬は、今手持ちがないんで出世払いで」

 その宣言を聞き、ガイル=ラベク達は面白そうににやりと笑った。

「出世払いは別に構わんが、出世する当てが何かあるのか?」

「そんなの決まってます。すぐにスキラに戻って対策会議に乗り込んで俺の焦土作戦を承認させて、独裁官の地位をもぎ取ってくる。……俺の焦土作戦以外にネゲヴを救う方法はありません。この作戦を承認させることに比べれば、独裁官の地位を手に入れることくらいは簡単です」

 「それはそうだ」とガイル=ラベクは笑った。

「今のこのメンバーの半分くらいはこちらに残って遊撃部隊等の各部隊に加わってもらいますが、残り半分は一緒にスキラに戻ってもらい、根回しや対策会議の掌握に協力してもらいます」

「まあ、良かろう」

 とガイル=ラベクは頷いた。

「ちょっとおまけして合格にしてやる。髑髏船団はタツヤ、お前に雇われてやる」

 ガイル=ラベクはそう告げて、「しっかり頼むぞ、雇い主!」と竜也の背中を叩いた。思わず竜也が咳き込む。

「ちゃんと出世しろよ!」

「踏み倒すんじゃねーぞ!」

「あの糞野郎どもを、叩き潰してやろうぜ!」

 サドマやバラクや、他の面々も竜也の背中を叩いていく。竜也は何だかリンチに遭っているような気がした。

 ガイル=ラベクが一同を見渡し、告げる。

「そうと決まれば急ぐぞ! まずはオランだ、明日中には到着させる!」

 ガイル=ラベクの号令に従い、船員が慌ただしく動き出す。竜也達も所定の配置に移動し出した。

 3隻の帆船が夜の海を駆ける。まず目指すはオランの町だった。




















 深夜になり、竜也はようやくアヴェンクレトの部屋に戻ってきた。ベッドで熟睡したままのアヴェンクレトの横に、疲れ切った身を投げ出す。身体中の血管には、血ではなく泥が流れているのではないかと思われた。

 睡魔が竜也の意識を捉え、底なし沼のような暗闇に引きずり込んでいく。眠りに落ちる寸前、

「……3百万のうち、3割……いや、4割……一体どれくらい死ぬ? どれくらい死なせる?」

 押し殺していた本音が竜也の心の奥底から泡のように浮かび上がり、呟きとなった。

「本当に、この作戦で良かったのか……?」

 竜也のその呟きは誰にも聞かれることなく、空気に溶けて消えていった。







[19836] 第11話「フゥト=カァ=ラーの王女」その1
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Date: 2010/09/13 22:37



「黄金の帝国」・会盟篇
第11話「フゥト=カァ=ラーの王女」その1










 竜也はガイル=ラベク達と傭兵契約を結ぶこととなった。契約書の内容を要約すると以下のようになる。





1.クロイ=タツヤはガイル=ラベク他一同を傭兵として雇う。

2.ガイル=ラベク他一同は、クロイ=タツヤの立てた基本方針に従って作戦行動を開始する。

3.基本方針その一、西ネゲヴの民を十字軍の進路上から避難させる。

4.基本方針その二、十字軍を直接攻撃せず、これに飢えを強いる。

5.ガイル=ラベクが海上輸送部隊を編成・指揮し、タムリット等の西ネゲヴの民を東に避難させる。

6.テムボが陸上移動部隊を編成・指揮し、タムリット等の西ネゲヴの民を南または東に避難させる。

7.バラクが遊撃部隊を編成・指揮し、十字軍の進軍遅延・補給阻止等の作戦に当たる。

8.サドマが殿軍部隊を編成・指揮し、避難民の殿となって避難民の防衛・食糧焼き捨て等の作戦に当たる。





「この戦争を儲け話にしようとは考えないでください」

 契約時、竜也はガイル=ラベク達にそのように告げた。

「西ネゲヴの民のほとんどは無一文になるし、東の方にも重い負担を強いる。その中で傭兵だけがボロ儲け、というわけにはいきません。

 例えば船が沈んだとか、避難民に食糧を分け与えたとか、そういう財産上の負担については全部記録を残してください。戦後に精算して、負担が可能な限り平等になるようにします」

 客観的には地位も財産もないただの若造の竜也だが、その言動は既に独裁官以外の何者でもなかった。

「傭兵ってのは金のために戦うもんだぞ? 『百万の敵相手に生命を懸けて戦え、だが金は出さん』と部下に言えと?」

 ガイル=ラベクの問いに竜也は、

「海賊王ゴムゴムアが戦ったのは金のためだけですか?」

 ガイル=ラベクは意表を突かれたような顔をした。竜也が続ける。

「戦って大きな功績を挙げた人、戦死した人の名前も全部記録として残してください。この戦争に、財で協力した人には財で報います。武勇には名誉で、功績や才能には地位で報います」

「良かろう」

 とガイル=ラベクは獰猛な笑みを見せた。

「ならば俺はその三つともをお前に捧げてやる。お前がどう報いてくるのか、楽しみにしている」

「期待していてください」

 と竜也は胸を張った。

 ――勿論ガイル=ラベクにも様々な打算や計算があり、竜也の焦土作戦を無条件で承認しているわけではない。竜也に完全に信服しているわけでもなく、その指揮に無条件で従うつもりも毛頭なかった。

 ガイル=ラベクは、竜也の焦土作戦がスキラの十字軍対策会議で承認される可能性はあまり高くないと考えている。竜也が独裁官の地位を手に入れる可能性はさらに低いと見積もっていた。

 だが、誰が独裁官の地位についてどういう作戦を選択しようと、避難民の移動と食糧焼捨ては決して無駄にはならない。そう判断したからあの契約書を受け入れたのだ。義戦であれば傭兵としての儲け話はとりあえず横に置いておくのは、竜也に指摘されるまでもないことだ。

 それに、とガイル=ラベクは思う。

「ヴォークリィエというだけあって、この坊主の知識や発想は普通じゃない。タムリットから戻ってからは一皮むけたようで、妙な迫力を持つようになった。こいつならあるいは本当に独裁官になれるかも知れん」

 本当に独裁官になれたのなら、こいつの指揮に服従して全力で戦ってやろう。胸を張る竜也を見つめながら、ガイル=ラベクはそう考えていた。

 ――その、胸を張る竜也の背中を支えているのは実は、「俺には『黒き竜の血』が流れている」「俺は『黒き竜』だ」という脳内設定だけなのだが、ガイル=ラベクがもしそれを知っていたならあるいは違う判断があったかも知れない。

 そしてエルルの月の4日未明。竜也達の船団はオランに到着した。

 陥落したタムリットから船で逃げ出した避難民が、既にオランに流入し始めていた。タムリットの惨劇が口々に市民に伝わり、恐怖と恐慌が伝播する。町が混乱の坩堝と化そうとする中、髑髏船団が港に現れたのだ。オラン市民がこれを救世主のように見たとしてもそれほど不思議はなかった。

「戦いに来てくれたのか?!」

「助けに来てくれたのか?!」

「乗せていってくれ!」

「お願いです、この子だけでも」

 ガイル=ラベクが船を下りた途端、恐慌状態の市民が例のごとくに殺到する。ガイル=ラベクはゆっくりと剣を抜き、

「ハッ!」

 裂帛の気合いを込めて地面に突き刺した。市民は思わず足を止めて息を呑む。無言の驚きがその場に広がり、船の前は水を打ったように静まり返った。

「――俺達は十字軍と戦う。ここに来たのは一緒に戦う奴を募るためだ。別にお前達を助けに来たわけじゃない」

 無言のうちに絶望と失望がその場に広がる。老人の一人がガイル=ラベクの前に進み出た。

「オラン長老会議のサイードじゃ。この町にも何人か戦士はおるが……それ以外の者はどうすればいい。このまま座して死を待てと?」

「1年です」

 そう告げながら姿を現したのは、竜也である。竜也は人差し指を立てた手を高々と掲げ、市民の注目を集めた。

「我々は1年以内に十字軍を皆殺しにする。だから皆さんには1年だけ何とか逃げて生き延びることを考えてほしい」

「1年?」「1年……」「1年なら……」と市民がざわめく。

「我々が皆さんに提示できるのは3つの選択肢です。一つはガイル=ラベク達とともに十字軍と戦う。一つは東に、ひとまずはテネスを目指して逃げる。最後の一つは南に、アドラル山脈の麓の村を目指して逃げる。逃げて1年、十字軍が全滅するまで生き延びる。それが皆さんの戦いです」

 竜也の言葉が市民に浸透し、どれを選択すべきか近くの者同士が話し合っている。その市民達に、

「おい、戦える奴はこっちに集まれ! エレブの連中に目にものを見せてやるぞ!」

 とバラクが呼びかける。何人かの戦士がバラクの元に向かった。また一方、

「東に向かう者はこっちに集まってくれ!」

 とテムボが避難民をまとめようとしている。その様子を見つめるサイードに竜也は、

「サイードさん、貴方は南に逃げる避難民をまとめてもらえませんか?」

 サイードはため息をつくような口調で竜也に答えた。

「……判った、何をすればいい」

 数刻の後、オラン市民は慌ただしく動き出す。サイード等オラン長老会議の指示を受けた市民が町を走り回った。

「車だ、荷車がいる! ありったけ集めろ!」

「てめえ、その荷車はこっちで使うって言ってるだろ!」

「後で公平になるように分けるから! とにかく数を揃えんだ!」

「大麦小麦、穀物もありったけだ!」

「そんな日持ちしない食い物は後回しだ! 1年分必要なんだぞ!」

 市民が食糧を集めて荷車に積み込む。手荷物をまとめた市民が集まり、グループを作って責任者を決めている。バラクやサドマは騎兵部隊を編成するため馬を揃えようとし、サイードやテムボは一緒に移動する家畜を集めていた。

 一方竜也は船の一室でひたすら借用書にサインを続けている。活版印刷で簡単な借用書のフォーマットを作ったものに、偽造を困難にするために「黒井竜也」の名を漢字で書き、拇印を捺印していた。金額の欄は白紙である。この先、ガイル=ラベクが各地の商人を動かすにはこういう書類が必要になるだろうとの判断である。

 避難のための作業を監督していたガイル=ラベクが竜也のところに戻ってきて、告げる。

「……駄目だ、時間が足りない。荷車の数も少なすぎる。1年分の食糧と一緒に逃げるなんて到底不可能だ」

「最初から何もかも完璧に、とはいかないでしょう。食糧は後で陸路か海路で補給することを考えるとして、とにかく今は一人でも多くを逃がすことを優先させてください」

 竜也はサインを続けながらそう答えた。ガイル=ラベクはそれを見守りながら、問う。

「……タツヤ、本当にこんなやり方がうまくいくのか?」

「東に行けば十字軍接近までの日数も長くなるし、指導や作業にも慣れてきます。時間があるなら荷車を何往復かさせて食糧を運ぶことも出来るようになります」

 その答えがガイル=ラベクを満足させたのかどうかは判らない。無言のまま背を向けて部屋を出て行こうとするガイル=ラベクの背中に、

「――他に方法がないんだから、上手くいくかいかないかを考えても無意味です。『どうやったら上手くいくのか』、それを問うべきです」

 ガイル=ラベクは特に反応を示すことなく、部屋を出て行った。




















 エルルの月・5日の夜。

 慣れない筆記用具で朝から晩までひたすらサインを続けたため、竜也の右腕は痙攣を起こしていた。千枚を軽く超える借用書へのサインをようやく終えて、竜也がオランに留まる理由はなくなった。

 船団の3隻のうち竜也を乗せた1隻が一足先にスキラに戻ることになっている。日は既に沈んでいるが、準備が終わり次第出港の予定になっていた。

 自室を出た竜也は背筋を伸ばしながら甲板に向かい、アヴェンクレトがそれに付いていく。甲板からは船員が何か騒いでいる様子が聞こえていた。

「? 何かあったんですか?」

「今入港した船が、タムリットから逃げてきた船らしい」

 甲板から身を乗り出すと、接岸した2隻の商船から何十人ものタムリット市民が下船しているところだった。タムリット市民は全員ボロボロの姿をしていて、服を着ていない者も多かった。アヴェンクレトはその商船に見覚えがあった。

「あの船、アニードの船」

 それ等はアニード商会に所属している商船だった。竜也は船を下りてアニード商会の船へと向かう。アヴェンクレトがその後を追った。

 別の船から下りてきたガイル=ラベクと合流し、竜也達はアニード商会の船の前にやってきた。

「ほら、とっとと下りろ!」

 ちょうど、アニードが避難民を追い払うように下船させているところだった。全部の避難民を下船させたアニードが、避難民を集めて告げる。

「いいか、貴様等は私が買った奴隷だ! 私はまたタムリットに戻るが、勝手に逃げるな。いいな!」

 そう言いながらも、アニードは避難民を路頭に放り出すようにしてそのまま自分の船に戻っていこうとしていた。避難民は戸惑ったような顔を見合わせている。

「アニードさん!」

 振り返ったアニードが竜也達の姿を認めて舌打ちした。

「何だ小僧、生きていたのか」

「アニードさん、この人達は一体?」

 アニードの態度に構わず竜也が問う。アニードは当たり前のように答えた。

「私が十字軍の連中から買い取った奴隷だ。あの連中からは麦を売った分の代金をまだ受け取っていなかったのでな。代わりに奴隷で払ってもらうことにした」

 アニードはそれだけを説明し、竜也達に背を向ける。竜也が「アニードさん!」と呼び止めようとするがアニードは煩わしげに、

「買い取った奴隷がまだ何百人もタムリットに残ったままだ。お前なんぞに構っている暇はない」

 そう言い捨て、大急ぎで船に戻っていった。竜也達は呆然としたようになってそれを見送る。

「……要するに、十字軍が奴隷として売りに出しているタムリット市民を助け出したってことか? あのアニード氏が自腹を切って?」

 自分でも信じられないような口調でガイル=ラベクがそう推論を述べる。それをアヴェンクレトが肯定した。

「それで正しい。アニードはもうほとんど財産を持っていない」

 それでもガイル=ラベクは「まさか」と信じがたい様子だった。それは竜也も同じことだったが、竜也の方が一早く再起動を果たす。

「船長、すぐにオランの商人を集められるだけ集めてください。アニードさんと一緒にタムリットに行って、買い取れるだけの市民を買い取ってもらいます。それとアニードさんには引き続き十字軍の上層部と懇意になってもらって、情報収集を。ああ、それからあの噂を十字軍内に流さないと」

「判った判った、その辺は任せておけ」

 ガイル=ラベクは竜也を宥めるようにそう言った。

「こちらのことは俺達に任せろ。お前は1日でも早くスキラに戻って、お前の役目を果たせ」

「――後はお願いします」

 竜也はそう言って頭を下げた。

 数刻後、竜也達を乗せた船が夜の海へと出港する。竜也とアヴェンクレトは甲板から遠のいていくオランの町を見つめていた。




















 竜也達を乗せた船は昼も夜もなく海を進み、一路スキラへと向かう。道中船の中では、どのようにスキラでの対策会議を掌握するか打ち合わせが続けられていた。

「サドマさんやバラクさん達の委任状もありますし、牙犬族の族長も味方になってくれるでしょう。恩寵の民は何とか押さえられると思います」

「西の町の長老方は多分説得できる。問題は東の町と、バール人商人か」

「ここにいる者が自分の出身地の長老を説得できるとしたら、どのくらい押さえられる?」

「それでも半分くらいじゃないのか?」

「今のうち根回しの担当相手を決めておこう」

 一同は難しい顔をして考え込んだ。スキラの十字軍対策会議の主導権を握り、竜也の焦土作戦を採用させ、竜也を独裁官に任命させる。それ等を実現させる見通しが立たなかったのだ。

「今のままでは、賛成半分・態度保留半分で実質否決というところか」

「東の町にも途轍もない負担を背負わせるんですから、全員納得して賛成してもらわないと意味がありません」

「それは理想論だろう。こんな作戦案に全員が賛成するわけがない。半分が認めてくれるだけでも上出来だ」

「それは確かにその通りです。でも、その場の勢いだけでも、雰囲気に呑まれただけでも構わないから『全員が賛成した』という建前さえあれば、重い負担だって飲ませることが出来るんです」

 打ち合わせは繰り返されるが決定打が出せないまま船は進んでいく。竜也達がスキラに帰着したのは、エルルの月・21日の夜半である。

 通常急いで20日程度の航路を最速で走り続け、15日程度で帰着してしまった。夜に入港しようとして場所を見間違え、ナハル川の南岸に接岸。さらに焦っていたため船が座礁し、船の底には大穴が空いてしまった。その船はもう二度と使い物にはならないだろう。

 竜也達は渡し船を使ってスキラの町に戻り、解散した。偵察団メンバーはそれぞれの属するコミュニティに戻り、すぐにでも根回しに動き出す予定である。

 竜也とアヴェンクレトもまたヤスミン一座の借家に戻ってきた。

「タツヤ!」

「タツヤさん達、良く無事で」

 夜中に叩き起こされたにもかかわらず、ヤスミンとハーキムは竜也達の無事を喜んでくれた。簡単に情報交換を行い、仮眠を取って夜が明けるのを待つ。

 夜明けとともに、竜也は行動を開始した。







[19836] 第11話「フゥト=カァ=ラーの王女」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:1a327164
Date: 2010/09/13 22:37



「黄金の帝国」・会盟篇
第11話「フゥト=カァ=ラーの王女」その2










 まずは恩寵の民への根回しである。アヴェンクレトを連れた竜也は牙犬族・金獅子族・赤虎族の各族長を集め、説得を開始する。

「――タムリットで何が起こったかは、今お話しした通りです」

 サドマやバラクの委任状にもタムリットの惨劇については説明されているはずである。ラアド=ガーゼイとインフィガル=シンバはそれにも目を通したはずだ。

「……だが、しかし、そんなことが」

 それでも、彼等はタムリットの惨劇を容易に信じようとはしなかった。平和を謳歌していたネゲヴの民にとって、十字軍の残虐さはそれだけ予想外・想像外だったということだ。

 竜也は手っ取り早く説得するために反則技を使うことにした。

「俺とこの子もタムリットの惨状を直接この目で見ています。この子と手をつなぐことで、この子が見たものを貴方達も目にすることが出来ます」

 竜也のその提案に、インフィガル=シンバとラアド=ガーゼイは躊躇したように顔を見合わせた。一方エフヴォル=ジューベイは何も考えていないような気軽さで、

「ほう、ならば拙者から見せてもらおう」

 とアヴェンクレトの前に腕を差し出した。アヴェンクレトがその腕を取る。が、次の瞬間にはジューベイはアヴェンクレトの腕を振り払った。その顔には驚愕の表情が貼り付いている。

「い、今のが……?」

 夜のタムリットの街角を埋め尽くした、無数の死体。ソウラ川を流れる無数の死体。一瞬だけだが、ジューベイはその光景を垣間見ていた。

 ジューベイの様子を見、シンバ達も覚悟を決めて順番にアヴェンクレトの手を取った。そして同じように即座にその腕を振り払い、愕然とした表情を浮かべることとなる。

「――もう説明は要らないでしょう。十字軍を放置しておけばネゲヴ全土でタムリットの惨劇が何度でも繰り返されることになります。十字軍と戦うのに皆さんの全面協力が必要です」

 竜也は焦土作戦案と、独裁官という官職を作って全権を委任する案を説明し、それ等への賛成を求めた。さらにはその独裁官に竜也を任命させることへの協力も。

「良かろう、ギーラの案よりは数段マシだ」

 ジューベイ達は揃ってそう言い、竜也への全面協力を確約してくれた。あまりにすんなり確約を取り付けられたことに竜也が拍子抜けしたくらいである。

 ――ジューベイ達が竜也への全面協力を確約した理由は色々あるが、その一端には実はアヴェンクレトの恩寵が関係している。アヴェンクレトはジューベイ達にタムリットの光景を伝える際、彼女の心境も一緒に伝えていたのだ。

 十字軍の暴虐の嵐が吹き荒れる中で、竜也の存在がどれだけ心強かったか。竜也が生命を懸けて自分を守ろうとしていることが、どれだけ頼りになったか――その心を。

 勿論それはアヴェンクレトが意識してやったことではない。心を伝えられたジューベイ達もそのことに全く気が付いていない。だが無意識には確かに刷り込まれたのだ。

 ジューベイ達はさらに、他の恩寵の部族の説得も協力すると言い出した。午後、竜也はジューベイ達とともに各部族の長老を訪ねて回り、協力を依頼する。こうして恩寵の民の押さえは比較的簡単に完了した。




















 その夜、スキラ商会連盟の一室。そこを訪れた竜也達はハーキム・ミカ・アンヴェルと合流した。ハーキム達3人は竜也が結んだ縁で行動を共にすることが多かったそうである。

 まずは竜也がタムリットの惨劇について報告。次いでハーキム達からスキラの現状について詳しい報告を受けた。

「マラガから偵察船団が戻ってきたのが10日くらい前になります。百万という敵数はようやく動かせない事実となりました。慌てふためくだけの対策会議の中で、ギーラという男が議論の主導権を取るようになります」

 ギーラは東ネゲヴのオエアから会議に参加している、ハーキムと同年代の男だ。バール系だが商人ではなく、オエア長老の随行員という身分である。(竜也も牙犬族族長の随行員という身分で会議に参加していたので、その点は共通している。)

「あの男は十字軍対策軍を指揮する将軍としてわたしの父を招聘することを提案し、それは即座に承認されました」

 ミカが忌々しげにそう語る。

「十字軍対策軍って、そんなのがもう出来てるのか?」

「いえ、これから作るそうです」

 竜也の質問に、ミカがかすかに嘲笑を浮かべて答えた。

「傭兵をかき集め、各地の町や村から志願兵を募り、恩寵の民を総動員すれば、10万か20万くらいにはなるかも知れませんが……百万の敵を相手に、そんな烏合の衆を父に率いさせるなんて」

 とミカは唇を噛み締める。

「そういう情報が正確に伝わるなら、アミール=ダールだって勝ち目が薄いって判断するだろう? ギーラ達の招聘を断って、それで終わりじゃないのか?」

「ギーラは直接父を招聘するわけじゃありません。伯父に、エジオン=ゲベル王に援軍を要請しているのです。『高名なアミール=ダールを将軍として迎えたい』と。父が目障りな伯父にとっては渡りに船の要請です。ネゲヴに援軍として行くよう父に命じるのは間違いありません。そして父は王命には逆らえません」

 実質的には追放です、とミカは話をまとめ、ため息をついた。

「……わたしが対策会議に参加などしなければ、ギーラもこんなことは思いつかなかったかも知れないのに」

「それはないだろう。早かれ遅かれアミール=ダールは将軍として招かれたはずだ。もし今日まで招かれていなかったなら、今からでも俺が招いていた」

 ミカの驚きに見開かれた瞳が竜也へと向けられた。竜也はそれに構わず話を進める。

「それで、ギーラはどんな作戦で十字軍を迎え撃つつもりなんですか?」

 はい、とハーキムが地図を取り出して広げた。地図に描かれているのは、スキラ湖・スキラの町とナハル川、そして海である。ハーキムはナハル川を指し示す。

「この線、このナハル川を絶対防衛線とします。ナハル川を要塞化し、全軍をここに集め、ここで十字軍を迎え撃つ。敵をこれより東に進めない、ギーラが考えているのはそれだけです」

 考えることは皆同じだな、と竜也は内心で呟いた。

「スキラや西ネゲヴの民にはどうしろと?」

「ギーラの言葉を借りるなら、『兵として戦うつもりがあるのなら、東への移住を認めてやる』だそうです」

「……正気か?」

 独り言のような竜也の疑問に、ハーキム達3人は揃って苦笑で答えた。

「まあ確かに、東ネゲヴの混乱を最小限に抑えようとするなら兵として有用な人間以外は受け入れないとするのは、間違いではないでしょう」

 人間としては大間違いですが、とハーキムは皮肉げに付け加えた。

「それ以外にはどんな提案を?」

「軍資金として、ネゲヴの全市民が財産の10分の1を供出することを求めています。資金の管理はギーラが担当するそうです」

「集められたお金の半分くらいは、誰かの懐にねじ込まれそうなんですけどね」

 ハーキムの説明にアンヴェルがそう補足した。

「ギーラの一連の案が対策会議で承認される見通しは?」

「西ネゲヴや恩寵の民が強硬に反対しています。ギーラの強引な議論のやり方には、東ネゲヴの長老も反感を持っている人が大勢います。ただ、代案がありません。……恩寵の部族の長老が、集められるだけの兵を集めてヒッポの西で十字軍を迎え撃つ、という案を提出していますが」

「それは、無意味だろう」

 思わず漏れ出たような竜也の反応に「その通りです」とミカが同意した。

「敵よりも練度が劣り、敵よりも少ない数の烏合の衆で百万の敵と戦うなど、ただの兵力の無駄遣いです。そんな真似をするくらいならギーラの案の方がまだマシです」

 心情的には賛成したいのですが、というハーキムの呟きに、ミカとアンヴェルが無言のまま同意した。

「つまり、有力な代案がないためにギーラの横暴を許しているような状態です。このままでは対策会議は、ネゲヴは東西に分裂します」

 しばしの間、その場は沈黙に包まれた。やがて、アンヴェルが口を開く。

「……今、分裂が辛うじて回避されているのは、対策会議の参加者がケムトの動きに注目しているからです。十字軍対策会議に参加するケムトの代表が、今日ようやくスキラに到着したそうです。このケムトの代表がギーラさんの案に賛成するのか、それとも決戦案に賛成するのか、それで話は全く変わってきます」

「……ケムトの位置付けっていうのはそんなに重いのか?」

 ぴんと来てなさそうな竜也に対し、ハーキム達が丁寧に説明する。

「まず、ケムトはフゥト=カァ=ラーを中心とした都市国家連合です。連合の町一つ一つはスキラと比較すれば大した規模ではありませんが、連合を一つの国家として見た場合その勢力はネゲヴ最大となります」

「ケムト連合を総動員すれば兵力は5万に達するでしょう。そのうちの1万でもスキラに持ってこれれば、十字軍対策会議の主導権を握ってネゲヴの盟主として君臨することも出来たでしょうけれど」

「仮にケムト連合に兵力が全くなくても――実際今スキラに来ているのは代表とその随行員だけですし――軍事力を抜きにした権威と威光だけでも、ケムトは、フゥト=カァ=ラーは決して馬鹿に出来ない存在なんです」

 竜也はハーキムを見ながら、

「確か、フゥト=カァ=ラーのセルケト王朝は4000年間途切れることなく続いている、でしたっけ」

「はい。さらに言えば、セルケト王朝の王族は太陽神ラーの末裔とされていて、太陽神から神託を授けられるという恩寵を持っていると言われています。太陽神ラーはネゲヴに数多いる神々の長とされているので、フゥト=カァ=ラーはネゲヴの宗教上の頂点に立っているのです」

 竜也は怪訝そうな表情をした。

「エジプト……じゃなくてケムト神話とバール人の神話や恩寵の民の部族神は全然別物なんじゃないんですか?」

「昔は別物だったんです。ウガリット同盟成立の頃、当時のケムト王が『バール人の奉ずる神々や恩寵の民の部族神は、全てケムトの神々に起源を有する。それらは名前が違うだけで元は同一の存在である』と主張しだしたんです」

 それはバール人の勢力拡大に危機感を抱いた当時のケムト王の、ささやかな抵抗の試みだったのだろう。このケムト流の本地垂迹説を受けて、ケムトの神官はバール人の神々や恩寵の民の部族神をケムト神話のパルテノンに組み込む作業に没頭した。さらにその再構成した神話をネゲヴ全土に広め、1500年間に渡って主張し続け、今日ではバール人も含む全てのネゲヴの民がその説を受け入れてしまっている。

 つまり、と竜也が話をまとめた。

「ケムト王にはネゲヴ最大の軍事力という実力がある。それがなくとも、フゥト=カァ=ラーにはネゲヴの神々の頂点に立っているという宗教上の権威がある。十字軍と戦うためにネゲヴの盟主を決めるとしたら、フゥト=カァ=ラーの代表が最も適切、というところですか」

「そうですね。ただフゥト=カァ=ラーの王族は太陽神の祭祀の方が主で、政治の実務にはほとんど関わらないのを旨としています。代表として誰が来ているのか知りませんが、王族が来ているのなら形式上盟主の座についてもらって、その下で実務を取り仕切る人間が必要になると思います」

 竜也は少しの間考え込んだ。

「……何とかケムトの代表に事前に面会してこちら側に引き込めれば……ミカ、ケムトの人間に伝手はないか?」

 ミカはちょっと驚きつつも答える。

「え、ええ。もしかしたら知っている人が来ているかも知れない。部下に当たらせてみます」

 ミカは自分の護衛の一人をケムト代表が滞在している宿舎へと走らせた。竜也が焦土作戦案をミカ達に説明し、質疑応答している間に、その護衛が戻ってきた。

「代表が今からでも会ってくれるそうです」

 ミカが、自分でも信じられないような様子で部下の言葉を竜也達に伝える。竜也達は大急ぎでケムト代表の下へと向かった。

 その道中。

「……タツヤさん、何だか変わりましたね」

 ミカと並んで先頭を、少し先を早歩きする竜也の背中を見つめながら、アンヴェルが独りごちた。それに対してアヴェンクレトが答える。

「タツヤは自分の血に目覚めた」

「自分の血?」

「そう、クロイ=タツヤという名前は『黒き竜シャホル=ドラコス』という意味。タツヤは黒竜の恩寵の民」

 アンヴェルは「まさか」と思うがアヴェンクレトは真剣な表情で、嘘や冗談を言っているようには到底見えなかった。タツヤの脳内設定をアヴェンクレトが勝手に本気で信じてしまっただけ、それをネゲヴ風に独自解釈しているだけ、とはアンヴェルに判るはずもない。

「……その、黒竜の恩寵というのはどんなものなんですか?」

「よく判らないけどとにかくすごい」

 アヴェンクレトが大真面目にそう答える。アンヴェルは全身から脱力して転びそうになった。




















 スキラの中心市街の一角、ケムト出身の大商人の商館。ケムトの代表はそこを宿舎としていた。数スタディアも離れていないその場所を、竜也達は急遽訪れる。

「ミカさんと仲の良いケムトの要人が来ているんでしょうか?」

 ミカはスキラを訪れる途上でフゥト=カァ=ラーに立ち寄りしばらく滞在し、何人かの国家の要人と知り合いになったそうである。

「わたしが一番親しくなったのは第一王女のネフェルティですが、まさか彼女がここに来ることはないでしょう。……代表となるようなケムトの知り合いは思いつかないのですが」

 ミカ、アンヴェル、竜也の3人は商館の最奥の、小さいながらも豪華な応接室に通された。その部屋は賓客を公的に接待するための部屋ではなく、内密の話をするための部屋のようだった。アヴェンクレトは代表との面会が認められず、別室で待機。ハーキムもその付き添いで待機組である。

 その応接室で待つことしばし。何の先触れもなく一人の女性がその部屋に入ってきた。ミカが、

「ネフェルティ様?!」

 と驚きの声を上げる。

 年の頃は竜也より1~2歳上だろうか。竜也より少し低いくらいの身長で、女性としては背が高い。肌は良く日焼けした日本人と同じくらいの小麦色で、黒く長い髪が艶やかで美しい。グラマラスな肢体を白い絹のドレスで包んだ、圧倒的な美女である。グラマーな女性が好みの竜也にとってはど真ん中への直球剛速球ストライクだ。

「全てがぎりぎりの線なのですよ……! これ以上色気が強かったら下品になる。これ以上脂が多かったら下卑たプロポーションになる」

「タツヤさん?」

 衝撃のあまりどこかのグルメ漫画じみた意味不明のことを呟く竜也に、アンヴェルが声を掛ける。それで竜也は「ああ、ごめん」とようやく現世に戻ってきた。心なしかアンヴェルの視線が冷たいような気がしなくもない。

「皆様、ごきげんよう。フゥト=カァ=ラー第一王女、ネフェルティです」

 ネフェルティはにっこり笑ってそう挨拶をする。竜也達は慌てて椅子から立ち上がり、「クロイ=タツヤです」「ナーフィア商会のアンヴェルです」と頭を下げた。

「今日はあくまで非公式な会見ですので、あまり堅苦しくせず気楽に振る舞ってくださいね? さ、座ってください」

 とネフェルティが勧めるので竜也はさっさと椅子に座った。ミカとアンヴェルも躊躇いながらも椅子に座る。

「ミカさん、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

「ネフェルティ様も。それにしても、何故貴方がここに?」

「その前に、今のスキラの状況を教えてはいただけませんか?」

 ネフェルティがそう言うので、ミカは現状を説明した。

 百万の十字軍がヘラクレス地峡を越え、ネゲヴへの侵略を開始したこと。タムリットで民間人を虐殺したこと。

 スキラの対策会議がギーラのナハル川絶対防衛線案と決戦案の二派に別れ、激しく対立していること。ネゲヴが東西分裂の危機にあること。

 ケムトからの代表がそのどちらを支持するのか注目されていること、等。

「まあ……」

 と嘆息したネフェルティは顔を曇らせ、目を伏せた。

「ケムト連合がそのどちらかを支持することはないでしょう。父は、ケムト王は十字教徒と手を結ぶことを考えています」

「馬鹿な!」

 ミカは思わず立ち上がっていた。竜也達も内心は同じである。

「正確には、その方針を立てたのは宰相のプタハヘテプです。わたしだけでなく多くの者が反対したのですが、宰相に押された父はそれをケムトの方針とすると決定してしまいました」

「なんてこと……ネゲヴはこれで終わりだわ」

 ミカは椅子に座り込みながら頭を抱えた。竜也はそんなミカを置いておいて、

「それで、ネフェルティさんはどうしてスキラに?」

 と訊ねる。身分をわきまえない竜也のしゃべり方にアンヴェルは眉をひそめていたが、ネフェルティは特に気にする様子を見せなかった。

「はい。わたしはその方針が正しいとはどうしても思えなかったものですので。何とかしたいと思い、思わずフゥト=カァ=ラーを飛び出してきてしまいました」

 ネフェルティはケムト王に翻意するよう何度も説得したのだが、宰相に睨まれ父王から謹慎処分を受けてしまった。王宮の奥で軟禁状態になったのだが、置き手紙を残して王宮を脱出してきたと言う。

「今頃は王位継承権を剥奪されているかも知れません」

 とネフェルティは深刻さが欠片も伺えない調子で説明した。

「……えーっと、要するに」

 と竜也は戸惑いながらネフェルティの説明をまとめようとする。

「家出娘?」

「まあ、まさしくその通りですわ」

 竜也の端的すぎるまとめに、ネフェルティは可笑しそうに笑った。ミカ達は「笑っている場合じゃないだろう」と言いたげな目をネフェルティと竜也に向けている。

 竜也はその二人を無視し、ネフェルティを真っ直ぐに見つめた。竜也の真摯な瞳をネフェルティは正面から受け止める。

「俺には第三案があります。十字軍に勝利し、1年でこの戦争を終わらせる案が。この案を対策会議で承認させるために、貴方の力が必要です」

 竜也は自分の焦土作戦についてネフェルティに説明した。

「――ケムト王の支持はこの際要りません。俺は貴方の、フゥト=カァ=ラー第一王女の支持がほしい。俺を独裁官として承認することへの支持が」

 ネフェルティは「ですが……」と戸惑いを見せた。あまりに過激で突飛な案に、支持することを躊躇しているような様子である。竜也は畳み掛けるように続けた。

「確かにギーラの案が実行されればケムトにまでは戦火は及ばないかも知れない。でも、ネゲヴの民が塗炭の苦しみを味わっている時にその敵と手を結んで自分だけ身の安全を図ったなら、ケムト王はネゲヴ中の恨みと侮蔑を買うことになります。最悪の場合4000年のセルケト王朝はここで終わりますし、終わらなくても決して消えない歴史上の汚点を残すことになる。

 ネフェルティさん。貴方自身がここで戦うなら、セルケト王朝にそんな汚点を残さずに済むんです」

 ネフェルティが顔を上げて竜也を見つめる。竜也は突然態度と口調を豹変させた。

「俺と手を結ぶなら、セルケト王朝にはもう千年、二千年、永遠の生命を与えられる。俺に力を貸せ、ネフェルティ」

 竜也は彼女に向かって真っ直ぐに手を伸ばした。痺れたように小さく身を震わせたネフェルティは、躊躇いながらも竜也へと手を伸ばす。

 ネフェルティは竜也の手を優しく、だがしっかりと握り締めた。







[19836] 第12話「ソロモンの盟約」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/09/13 22:38



「黄金の帝国」・会盟篇
第12話「ソロモンの盟約」










 エルルの月・23日。スキラ市街中心、ソロモン館。

 ソロモン館には朝からネゲヴ各地の長老・要人が集まり、人で溢れ返っていた。マラガに偵察に向かう前と比べると人間の数が倍増している。

 会議室にも人が入り切らず、廊下まで人が溢れている。会議室の中にいる者も、半分くらいは座る椅子もなく立ったままだった。

「さあ、世紀の茶番劇の始まりだ」

 竜也やミカは人波をかき分けるようにし、十字軍対策会議に乗り込んでいった。

「静粛に! 静粛に!」

 対策会議議長が口々に騒ぐ場内の人々を静め、ようやく会議が開始される。なお、議長は以前と変わらずスキラ商会連盟代表が務めていた。

「……それではまず、タムリットから戻ってきた偵察船団から報告をしてもらいます。クロイ=タツヤ、報告を」

 竜也は「はい」と議場の中心に進み出た。

「何だ、お前は?」

 とバール系の若い男が横柄な態度で問う。竜也は、

「タムリットに漂着したヴォークリィエ、クロイ=タツヤだ」

 と堂々と名乗った。議場内は「ほう、あれが……」「ヴォークリィエとは……」というざわめきに包まれる。男はざわめきに戸惑ったように周囲を見回した。

 その男の容貌はそれなりに整っていて、振る舞いもそれなりに洗練されている。が、下卑た人格がどことなく雰囲気ににじみ出ていた。竜也はその男がギーラなのだろうと推定した。

 議場の中心で注目を集めた竜也は、ゆっくりとタムリットの惨劇について報告する。タムリットの長老会議が戦う前から十字軍に全面降伏し、必死に媚びを売っていたこと。十字軍の上層部の人間が早くからタムリットを訪問し、様々な調整を行っていたこと。にもかかわらず、無数のタムリットの民間人が虐殺されたこと。

「――理性の残っている人間もいるかも知れないが、十字軍のほとんどは教皇のプロパガンダを真に受けて『ネゲヴでは何をしても許される』と信じ切っている。我々には奴等と戦う以外の道は残されていない」

 凄惨な報告に、十字軍の想像外の残虐さに、一同は声も出ない様子である。その隙を突いて竜也は、

「議長、俺から提案がある。独裁官の創設だ」

「独裁官?」

 誰かの疑問に竜也が答える。

「ああ。こんな、時間と労力ばかり取られて結論の出ない会議は、今日でもう終わりにすべきだ。十字軍迎撃のために独裁官という官職を設け、適切な者を任命する。

 俺が前に住んでいたところにはそんな制度があったんだ。国家の非常事態には独裁官を選出し、半年か1年ほどの一定期間、政治・軍事の指揮の全てをその人に委ねる。意見や助言は勿論構わないけど、その独裁官が最善と判断して決定したことには皆が無条件で従うんだ」

「十字軍迎撃の将軍としてアミール=ダールを招聘することになっているが? 将軍と独裁官は違うのか?」

 という誰かの質問に、竜也が答えた。

「独裁官は軍事だけじゃなく政治の全てを判断し決定する。例えば『兵士の数が足りないから用意してくれ』とアミール=ダールに言われたとする。その場合、各地の町や村から強制的にでも集めるのか、傭兵を募るのか、それとも今のままで我慢させるのか。それを決めるのが独裁官だ」

「……確かに、そんな要請の度に今のような会議を開いてなどいられない」

「何も決められないまま手遅れになるのが落ちだな」

 参加者の何人かがそんなことを言い合い、頷き合った。

「十字軍は早ければ3ヶ月でここ、スキラまでやってくる。今日、今決めてすぐに動き出さなきゃいけない。そうでなければ奴等には勝てない」

「勝つ? 百万の敵を相手に、勝つための方策が?」

 誰かの問いに、竜也は「ある」と力強く断言した。

 その時、議場の出入り口がざわめき出した。

「何だ?」「誰か来たのか?」

 と一同が疑問に思っているとネフェルティの部下が議場に入ってきて、

「フゥト=カァ=ラー第一王女・ネフェルティ殿下の御参上である!」

 大声でそう先触れをする。議場の一同は即座に全員立ち上がり、直立不動となった。

 そして、その議場にネフェルティが優雅な足取りで入場する。ネフェルティはそのまま議場の中心まで進み、

「皆様、ごきげんよう。フゥト=カァ=ラー第一王女・ネフェルティです」

 と挨拶をした。ネフェルティはそのまま話を続ける。

「十字軍襲来の報に接し、我が父・ケムト王は自国の安全を最優先とする決断をしました。ケムト連合はスキラに援軍を送りません」

 絶望のような呻きが議場に密かに広がる。ネフェルティはそれが収まるのを待ち、話を続けた。ネフェルティは一際高く声を上げる。

「その時、わたしは太陽神より神託を授けられました! 西の町で、十字の旗を打ち倒す黒き竜の姿を、わたしは見たのです! 十字軍を打ち破り、ネゲヴを守る戦いはケムトではなくこの町から始まるのです。わたしは神託をそのように解釈し、今ここにいます」

 おお、と議場に希望を含んだ感嘆が広がる。

「ネゲヴを守るために皆様がどのような決断を、戦いをするのか。太陽神に代わり、わたしがここで見守りいたします」

 ネフェルティは一礼し、静かに着席する。議場の一同は夢から覚めたように互いの顔を見合わせた。

「……皆さん、今日、今決断しましょう」

 そんな一同に、議長が呼びかける。

「十字軍とどのように戦い、ネゲヴをどのように守るのか。我々の未来を誰に託すのか。誰が独裁官となるのかを、今ここで決めるのです」

 議長の言葉に反対する者は誰もいなかった。






[19836] 第12話「ソロモンの盟約」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/09/13 22:38




「黄金の帝国」・会盟篇
第12話「ソロモンの盟約」その2










「独裁官となれるのは私しかいないだろう」

 真っ先にそう言い出したのは、先ほどのバール系の若い男である。やはりこの男がギーラだった。竜也は、

「それじゃ、あんたがどうやってネゲヴを守るつもりなのか、それを聞かせてもらおう」

 と問う。

「方法は一つしかない。ナハル川を絶対防衛線として十字軍をここで食い止めることだ」

 ギーラは得々と自分の案を説明した。説明が終わり、竜也が不明な点を確認する。

「スキラや西ネゲヴの人間はどうしろと?」

「各自でアーシラトの方に逃げるか、ナハル川を渡って東に逃げるかしてもらうしかない」

 ギーラは渋々と言った様子でそう答える。さすがにネフェルティの前では、西を完全に切り捨てるかのような発言は出来ないようだった。

「さあ、これ以外のどんな策があると? 私以外の誰が独裁官となると言うのだ?」

 ギーラは得意満面となってそう見得を切った。それに対し、初老の婦人が発言する。

「クロイ=タツヤ、貴方は先ほど百万の敵と戦い、勝つ方策が『ある』と言っていました。それはギーラさんの案と同じものなのですか?」

 その上品そうな老婦人はナーフィア商会代表のナーフィアという名で、つまりはアンヴェルの母親である。

「いや、違う」

「なら、それを教えてもらえませんか? そして、もしそれがギーラさんの案より優れているなら、貴方が独裁官となるべきでしょう」

「俺が?」

 竜也は戸惑った素振りでナーフィアに問い返す。ナーフィアは頷いた。

「貴方が、です。より優れた方法でネゲヴを勝利に導ける方がいるのなら、その方が独裁官となるのが当然でしょう?」

「確かにその通りだ!」

 と議場の何人かが同意を示す。ギーラは忌々しげに舌打ちした。

「ふん。それじゃお前の案とやらを聞かせてもらおうじゃないか、ヴォークリィエ」

「ああ。そしてどちらがより独裁官に相応しいか、皆に判断してもらおう」

 竜也は例のごとく、人差し指を伸ばした手を高々と掲げた。

「1年だ――1年で十字軍を壊滅させ、この戦いを終わらせる」

 竜也は自分の焦土作戦案について順を追って説明した。

 十字軍の進路上から全ての民が避難するという案に対してギーラが、
「そんなこと出来るわけがない!」

 と野次を飛ばすように異論を唱える。これに対し竜也は、

「さっきあんた自身も言っていなかったか? 『各自でアーシラトの方に逃げるか、ナハル川を渡って東に逃げるかしてもらうしかない』と」

 ギーラは言葉を詰まらせる。竜也が説明を続けた。

「俺の案は『各自で』逃げるんじゃない。東が総力で受け入れるんだ。十字軍の進路上から人間がいなくならないと、食糧を完全に捨てることが出来ない。食糧が残ったままじゃ十字軍を飢えさせられず、戦いは1年じゃ終わらない。

 東の民は1年だけ我慢して避難民を受け入れる。西の民は1年だけ我慢して東か南に逃げる。そうすれば俺が1年で戦争を終わらせる。1年だけの我慢だ、何とか耐えてほしい」

「1年で百万を全滅させるなんて、本当に出来るのか?」

 という誰かの疑問に竜也が答える。

「問題は出来るか出来ないかじゃない、やるかならないか、だ。

 考えてもみてほしい、ギーラの案を採用して西ネゲヴを全て切り捨てた場合、西は全て十字軍の支配下になる。エレブからは入植者が次々と送り込まれ、元からの住民は殺されるか奴隷にさせられるかのどちらかだ。

 そして東ネゲヴはそんな十字教の教団国家と川を挟んで対峙し続けることになる。それがいつまで続くことになる? 5年や10年の話じゃない、百年か二百年、それ以上も奴等は西に居座り続けるかも知れないんだぞ? あんた達はそんな未来を望むのか? そんな未来を残すのか?

 何としてでも、どんな手段を使ってでもこの戦いを1年で終わらせる。それが犠牲や負担を最小限に減らす最善の方法なんだ」

 別の誰かがまた疑問を呈する。

「……300万もの民全員が逃げるなんて、全員を助けるなんて、どう考えても不可能だろう」

「それは勿論そうだ。西ネゲヴ300万のうち2割か、3割か……それとも4割か。膨大な数の犠牲が出るのは間違いない。それでも、最初から全員を切り捨てるのと、一人でも多く逃がすのを前提にするのでは全く話が違ってくる。4割の犠牲を3割に、3割を2割に。少しでも、一人でも犠牲を減らすには皆の協力がいるんだ」

 竜也は一同を見回す。

「ネゲヴに西も東もない! 恩寵の民もバール人も関係ない! 全てのネゲヴの民がその全力を投じれば、百万の敵など恐れるに足らず! 1年で十字軍を皆殺しにし、この戦いを終わらせる!」

 竜也の気迫に呑まれたように、ギーラが、一同が沈黙する。不意に、竜也は太々しい笑みを見せた。

「エレブの連中は十字の旗の下に一つになってるぞ? あの連中に出来ることがあんた達には出来ないって言うのか?」

「ふん、そんなわけがなかろう!」

 そう胴間声を上げたのは、牙犬族のジューベイだ。

「良かろうタツヤ。牙犬族は未来の全てをお主に賭けよう」

「牙犬族の言う通りだ!」

 とシンバやガーゼイが立ち上がる。

「我々はタツヤを支持する。これは恩寵の民の総意と思ってもらいたい」

 その支持表明に、議場は爆発したような大騒ぎとなった。議長が「静粛に! 静粛に!」と繰り返し、かなりの時間を掛けて何とかその騒ぎを収める。騒ぎが収まるのを見計らい、

「私もタツヤを支持する」

 そう言ってイブン=カハールが立ち上がった。

「な、何故そんなヴォークリィエを」

 と動揺しながらギーラが問う。イブン=カハールは一同を見回し答えた。

「たった2ヶ月前だ! 私がこの場で『百万の敵が攻めてくる』と訴えた時、この中の誰がそれを信じた? あの時、タツヤ以外の誰が私を支持したというのだ!」

 ギーラも含め、一同は沈黙するしかない。

「タツヤはヴォークリィエだと言う。冒険者レミュエルが嘲笑を浴びながらも西の大陸にたどり着いたように、タツヤは我々の知らないことを知り、我々には見えていないものが見えているのだ。私は信じる、タツヤが当代のレミュエルであると!」

「わたしもタツヤを支持します」

 次いでそう発言したのはミカである。ギーラは憤懣を堪えきれなくなったように、

「小娘が! 一体何様のつもりだ!」

 とミカに罵声を浴びせた。

「わたしはエジオン=ゲベル王国が王弟アミール=ダールの娘、ミカだ。わたしはアミール=ダールの名代としてここにいる」

 ミカはまず静かにそう反論し、次いで、

「アミール=ダールの名を軽んずるか! 下郎!」

 ミカのナイフよりも鋭利な叱声に、ギーラは顔を青ざめさせて言葉を呑んだ。

「我々もクロイ=タツヤを支持しよう」

 カルトハダやハドゥルメトゥムといった西ネゲヴの長老が相次いで竜也の支持を表明。さらに西ネゲヴ各地のバール人商人や商会連盟も竜也の支持を表明した。スキラのナーフィア商会もその一つである。さらに、東ネゲヴの長老の中からも竜也を支持する者が現れてくる。

 そんな中、ネフェルティが椅子から立ち上がり、竜也の前へと進み出た。一同の注目を集める中、竜也とネフェルティが議場の中央で向かい合う。

「神託に見た、黒き竜とは貴方のことだったのだと思います。タツヤ様、ネゲヴを救ってくれますか?」

「約束する。十字軍を倒し、ネゲヴを救うと」

 竜也は静かにそう宣言した。ネフェルティは竜也の手を取る。

「ネゲヴを、わたし達の未来を貴方に託します。貴方に太陽神の御加護を」

「ありがとう」

 竜也はそう応え、議長に対し向き直った。

「議長、決を採ってくれ」

「そうですね、採決を行います。――まず、ギーラを独裁官に任命し、全権を委任することに賛成の方は挙手をお願いします」

 オエアの長老も含め、手を挙げる者は一人もいなかった。ギーラは屈辱に打ち震える。議長が続ける。

「――次いで、クロイ=タツヤを独裁官に任命し、全権を委任することに反対の方は、この場から退出してください」

 ギーラが席を蹴って、その場から逃げ出すように退出する。議場を出て行った者はギーラの他には一人もいなかった。

 内心ではギーラに追随し、この場から出て行きたそうにしている長老は決して少ない数ではない。だが彼等も場の空気というものを理解している。今のギーラの同列のように見られるのは彼等にも耐え難いことだったようである。

 ――後日、ガイル=ラベクやサドマ達が「本当にあのタツヤが独裁官の地位をもぎ取るなんて」と驚いたように、竜也自身が「スキラに到着するまでは独裁官に任命される目処なんて、全く立っていなかった」と語ったように、竜也が独裁官に選出されるべき理由は、本当はどこにもなかったのだ。

 ジューベイやシンバやガーゼイ、イブン=カハールにミカ、そしてネフェルティ。それに根回しに尽力した偵察船団メンバー。彼等の支持や協力が不可欠だったことは勿論言うまでもない。

 ヴォークリィエとしての出自も、独裁官任命にはプラスに働いている。東ネゲヴの人間を独裁官に選出しようとしても、西ネゲヴの人間は反対に回る。同じように西には東が反対する。金獅子族には赤虎族が、赤虎族には金獅子族が反対する。バール人にはそれ以外の全ての民が反対するだろう。竜也がそれ等のうちのどれでもない「ヴォークリィエ」という無色中立な存在だったからこそ、積極的に反対する人間が出なかったのだ。

 だが会議の参加者をして竜也を独裁官に選ばせた、それに決定的な役割を果たしたのはネフェルティ達でもなく、竜也自身の持つ要素でもない。ギーラである。

「少なくともギーラだけは独裁官にしたくない、すべきではない」

 大半の人間がただそれだけの理由で竜也を支持したのだ。ギーラは決して無能でもなければ愚かでもない。もし竜也がいなければギーラが東ネゲヴを掌握し、数年間は支配下に置いていたかも知れない。だがギーラという人間には根本的に欠落したところが一つあった。

「自分の言動が他人からどういう風に見えるのか、どんな印象を与えるのか」

 そこに思いを至らせることが出来ない。それをしようとする発想がそもそも出てこない。そういう視点を最初から持たずに生まれてきたような人間なのである。










「それじゃまず、傭兵契約を結ぼう」

 竜也はそう言って、事前に用意した契約書を提示した。その内容の要点をまとめると以下のようになる。





「1.独裁官クロイ=タツヤは1年以内に十字軍全軍をネゲヴから放逐するか、戦闘不能に追い込む」

「2.その代わり、全てのネゲヴの自治都市・恩寵の部族・商会連盟は独裁官クロイ=タツヤに全権を委任し、戦争遂行に全面協力する」

「3.全自治都市はこの戦乱で発生した避難民を、都市の大きさに応じて受け入れる」

「4.全自治都市の全市民・全商会連盟は戦費として十分の一税を負担する。または、全自治都市の全市民のうち、十人に一人が兵役を負担する」

「5.この契約は1年更新とする。1年後に契約の改廃を検討する」

「6.その他、必要に応じて契約条項の見直し・追加を随時行う。条項の見直し・追加については契約者の過半の同意を必要とする」





 竜也は会議の参加者全員に契約書への署名を求め、内心はどうあれ会議の参加者は全員それに応じて署名した。

 この契約はソロモン館の名にちなんで「ソロモン盟約」と呼ばれるようになる。竜也が建国する「帝国」の、これが全ての始まりだった。







[19836] 第13話「クロイの船」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/11/27 20:55



「黄金の帝国」・迎撃篇
第13話「クロイの船」その1










 エルルの月、23日。ソロモン盟約の成立。竜也は独裁官としてネゲヴの全権を委任された。

 その日から竜也は怒濤のような量の政務に追われることになる。後に竜也は戦場にも多少は顔を出すようになるが、この時期の政務と戦場とを比較しこう語っている。

 絶対に戦場の方がマシだった、と。




















「すぐにでもナハル川南岸に総司令部を移動させるからそのつもりで。ナハル川南岸には今から百万人都市を建設するつもりで縄張りしてくれ。まず必要なのは、軍の基地と倉庫。とりあえずそれだけ作って兵と食糧を集めて、全市民を移動させる!」

「しかし、どこから手を着けたら……?」

 と一同は戸惑うばかりである。竜也はとにかく指示を出す。

「シンバさん達恩寵の民は部族の戦士を集めてナハル川南岸に集結! 各地の自治都市長老も、自分の都市で兵を徴募して集まったならナハル川南岸に送り込む! とりあえずそれを実行! 後のことは追って指示する!」

 シンバやガーゼイ達が「判った!」とソロモン館を飛び出していった。次いで竜也はバール人商人に対し、

「総司令部名で借用書を発行するから、それでとにかく金を集めまくってくれ。誰がどれだけ負担したかは全部記録を残して、戦争が終わったなら負担が公平になるようちゃんと精算する!」

「金が集まったなら、ネゲヴ中の食糧をナハル川南岸に集めて集積する! 買えるならアシューやエレブからも買いまくれ!」

「海上、陸上問わず、傭兵を集めまくれ! 集まったならナハル川南岸に送り込む!」

「武器をネゲヴ中から集めろ! 特に大砲、火縄銃、火薬、弓矢! 買えるならアシューやエレブからも買いまくって買い占めろ!」

 竜也のその指示に従い、バール人商人が、商会連盟が慌ただしく動き出す。竜也は周囲を見回し、

「手の空いた者は全員一緒に来い! 今からナハル川南岸の視察に行く!」

 そう言って真っ先にソロモン館を飛び出す。何をしたらいいか判らない多くの者がその後を追った。

 竜也達は渡し船を使ってナハル川南岸に移動。移動の間も、

「借用書の名義が、まだ実体のない総司令部という組織にするのは問題があるという指摘が……」

「それなら俺個人の名義で発行してくれればいい。俺個人の借金って形にしてしまって構わない」

「集めた傭兵の待遇ですが」

「髑髏船団の人間に傭兵との交渉役をやってもらってくれ。細かいことは任せる。近いうちにガイル=ラベクを呼び戻して傭兵のまとめ役をやってもらおう」

 と判断と指示を出し続けている。

 竜也達を乗せた渡し船がナハル川南岸に到着し、竜也達が上陸した。竜也達は川と海に程近い小高い丘に登り、南岸全域を見回す。

「地図を」

 誰かが持ってきた南岸の地図を地面に広げ、周囲の光景と見比べた。南岸には海沿いに小さな漁村があり、各地に田園が点在している。他はほとんど全部森であり、縦横に川が流れていた。

「……ナハル川のかなり広い範囲が見通せます。総司令部はこの丘に置くのが良さそうです」

 丘は葡萄の木が多く自生していることから「葡萄イナブの丘」と呼ばれている。望遠鏡で周囲を確認していたミカがそう感想を漏らし、竜也もそれに同意した。

「それじゃここに総司令部を設ける。いずれは庁舎の建設が必要になるかも知れないけど、最初は天幕で構わないから」

 そう言って周囲を見回した竜也はそれに気が付いた。この丘のすぐ下の海岸に1隻の船が座礁している。それは竜也達がタムリットから戻ってくる時に乗っていた船だった。

「……あれを利用しよう」

 竜也は周囲の者に指示を出した。

「人手を集めて、あの船をここまで引きずり上げてくれ。あの船を仮設の総司令部庁舎とする」

 船底に大穴が空いているから船としてはもう使い物にならないが、何十人かが雨露をしのいで寝泊まりするくらいなら充分可能である。

「あれだけじゃ足りない。スキラの港で使えない船があったら全部買い取れ。この丘に引きずり上げて仮設庁舎として使うんだ」

 アンヴェルは丘から離れた漁村を指し示した。

「タツヤさん、食糧倉庫はあの辺に建設したらどうでしょう」

「ああ、それが良さそうだ。村民への説明だけはきちんとやってくれ。同意を得るような時間はないから強引に建設に取り掛かるのも仕方ないけど、後でちゃんと補償はしないと」

 竜也は地図におおざっぱな格子模様を描く。

「道路だけ先に造って区画の区割りをする。避難民は元いた町ごとに指定の区画に住んでもらって、区画の開発も自分達でやってもらおう。……歓楽街はひとまとめにして別区画にしないといけないか」

「タツヤ、それよりも先に川岸の要塞化に取り掛からないと」

 ミカの言葉に竜也は「判っている」と返答した。

「要塞化工事には徴募されてきた兵にやってもらう。材料の木材はナハル川の北側から切り出してくれ。十字軍の渡河を阻止するために船も筏も造らせない、木材を残さない。北側には小枝一本も残さないくらいのつもりで」

 竜也の指示にミカ達が頷く。

「築城の専門家が要るな……攻城戦、籠城戦の専門家も。ミカ、攻城戦・籠城戦の専門家を探してきてくれないか?」

 ミカは「わ、判りました」とやや躊躇いながら承諾した。

 竜也達はその丘の上に天幕を張って一夜を過ごした。竜也は夜遅くまで打ち合わせと商会連盟スタッフへの指示を続けていた。




















 エルルの月・25日。

 スキラから集められた人足が座礁した船をイナブの丘の上まで引きずり上げ、総司令部仮設庁舎が誕生した。航海時にアヴェンクレトと一緒に使っていた部屋を寝室とし、アヴェンクレトもこちらに移動してくる。

 マストと帆を使って甲板の上に天幕を張って、甲板を総司令部とした。甲板の床に竜也が以前描いたネゲヴの地図をそのまま利用する。

「十字軍がどこまで来ているか判るか?」

 竜也の問いに答えられる者はいない。竜也はため息をつきそうになった。

「……海上傭兵団を集めて海軍を編成するのが先か。髑髏船団の責任者を呼んできてくれ」

 船の周囲には天幕が林立した。天幕の多くはスキラを中心とする商会連盟が建てたものである。竜也は商会連盟に総司令部の官僚機構の代わりをしてもらうことにしていた。

 竜也は総司令部にイブン=カハールを呼び出した。

「貴方にはエレブでの情報収集の担当を依頼したい。援軍の動き、教皇の動き、エレブでの内紛の動き、十字軍の司令官に関する情報。判ったことは何でもいいから知らせてほしい。各地の商会連盟にも全面協力させる」

「判った。私はレモリアに渡り、そこに拠点を置こう」

 イブン=カハールは竜也の依頼を即座に承諾した。

「足の速い船を何隻か用意させる。その船には手紙のやり取りだけを担当してもらおう。最低でも7日に1回はエレブの情勢についてまとめた報告書を提出してくれ」

 イブン=カハールはその指示に頷き、自分の部下を集めるために早速スキラに戻っていった。




















 エルルの月・26日。

「船を?」

 竜也の元をあるバール人商人が訪れ、取引を持ち掛けてきた。

「はい。まだ建造途中なのですが、目を回すほどに巨大な船があります。独裁官にお買いいただき庁舎として使っていただければ、と思いまして」

 その商人は子供みたいに小柄な身体の、鼠みたいな顔の初老の男だった。ずっとニコニコして笑顔を絶やさないが、その目元には計算高さと狡猾さが漂っている。

 一方竜也の横に立っているアンヴェルは、

「あの馬鹿船のことですか……」

 と渋い顔をした。そのカーエドという名の商人は恐縮する素振りで額の汗をハンカチで拭いた。竜也はカーエドとアンヴェルから詳しい話を聞く。

 どこかの大商人の馬鹿な二代目か三代目が天下に二隻とない巨大な商船を建造しようとしたのだがその途中で破産してしまい、船は借金の形に差し押さえられたと言う。つまり、差し押さえた側の商人の一人がカーエドである。

「完成間近なのですが、巨大すぎて維持も運用も普通の商会では到底不可能なのです。それこそナーフィア商会くらいでないと」

「効率が悪すぎてナーフィア商会でも使いませんよ、あんな船。確かに庁舎の代わりくらいなら勤まるかも知れませんが」

 ふむ、と竜也は少しの間考え、カーエドに問う。

「その船はどこに?」

「スキラ港の造船所です」

 竜也は即断した。

「よし、今から見に行こう」

 竜也は連絡船を用意させ、海路でスキラへと向かった。アンヴェルがそれに同行する。しばしの船旅と時間を経過し、竜也達はカーエドの案内でスキラ港の一角にある造船所へとやってきた。

「こいつは……」

 竜也はその巨船を見上げ、しばらく呆然としていた。その船の全長は100mを優に超え、全幅はその1/3程度。大小7本のマストがそびえ立っている。喫水から甲板までの高さは十数mはあり、甲板の上部の構造物も十mくらいありそうだった。

「こうして改めて見ると、大したものかも知れません」

「良くこんなもの造ろうと思ったな」

「ええ。よほどの途轍もない阿呆だったんでしょう」

 この船の全幅ほどの全長があれば、この世界では充分大型船の部類である。一介の商人に運用できるような船ではなかった。

「カーエド! 独裁官殿を連れてきたのか!」

 そう大声を出しながら巨船から姿を現したのは、白髪の老人だった。年齢は60代くらいで、歳のわりには壮健そうだ。知的だが、何となく人の話を聞かなさそうな印象を感じられる。カーエドがその男の元に駆け寄り、何かを話している。その間に竜也はアンヴェルに訊ねた。

「あの男が誰か知っているか?」

「多分この船の設計者のガリーブさんだと思います。元々建築家として有名になった人で、金持ちの要望に応えて奇抜な建物を数多く設計・施工していました。ナーフィア商会でも何度も仕事をしてもらったことがあります。画家としても優秀です。ただ……」

 アンヴェルは視線を巨船へと向ける。

「稼いだ金を奇妙な機械を作ることに費やして、すぐに散財することでも有名です。船の設計建造に手を出したのは近年で、変な趣向を凝らしすぎて造る船がことごとくすぐ沈没するので『沈没王』の異名で呼ばれるようになっています」

 ふむ、と頷き、竜也は自分からガリーブの方へと赴いた。ガリーブ達が竜也の接近に気が付く。

「おお、貴方が独裁官殿か! 私がこの船を設計したガリーブだ! こっちは弟子のザキィだ!」

 ガリーブは自分の横に立つ若い男を紹介した。

「俺がネゲヴの独裁官、クロイ=タツヤだ。船の中を見せてほしい。それに設計図も」

「おお、判った!」

 竜也達はガリーブの案内でその船の中を見て回ることになった。外から見ればほぼ完成しているように見受けられたが、中から見ればまだまだ建造中であることが判る。梁や柱ばかりで壁が少なく、建材や大工道具が放置されたままになっていた。

「艤装は終わっているから現時点でも船として使えないわけじゃない! ここまで来たら船として使った方がいいと思うのだ私は!」

 一通り船の中を見て回った竜也達は船長室(予定)へと案内された。船長室(予定)の真ん中に設置された作業台に、ガリーブが設計図を広げる。

「見ろ! これが完成予想図だ! 全長80パッスス・全幅30パッスス! アシューにもエレブにもこんな巨船は2隻とあるまい!」

 元の世界の単位で言うと、全長が約120m・全幅が約45mとなる。排水量は4千tから5千tくらいになるだろう。

「建造にはどれくらいの期間が掛かっている?」

「ここまで仕上げるのに2年掛かった! だが正味の建造期間はもっと短いぞ!」

 竜也は腕を組み、顎に手を当てて考え込んだ。一同が沈黙し、竜也の考えがまとまるのを待つ。短くない時間を経て、竜也が口を開いた。

「――カーエドさん、これは総司令部で買い取る。船として使うから建造を再開してくれ」

 カーエドとガリーブがそれぞれ喜びを見せる。その一方アンヴェルは何も言わないが渋い顔をしていた。

「軍船、輸送船として使うからそのつもりで。装飾とかは不要だ。場合によっては何百人もの人間が何ヶ月もこの船で航海することになる。その前提で内部を造り直せ」

「おお、判った!」

 とガリーブは威勢良く返答する。竜也が続ける。

「これと同じ船を建造する。とりあえず10隻」

「お、おお……?」

 ガリーブが戸惑いを見せ、アンヴェル達は唖然とした。竜也は構わず続ける。

「納期は1年だ。とりあえず1年で10隻」

「いやちょっと待ってくれ」

 さすがにガリーブが口を挟んできた。

「1隻造るのに2年掛かっているんだぞ? その期間を20倍に短縮しろと言うのは」

「別に1隻ずつ造る必要はない。ナハル川南岸に造船所を造って、5隻くらいを同時に造ればいい。ネゲヴ中の船大工を集めて、手伝いの人間は難民から募って、1隻に千人もいればいいか? それで半年に1隻、1年で2隻×5で10隻だ」

 ガリーブは「いや、それでも……」と口ごもるが、竜也は説明を畳み掛けた。

「俺が元いた場所じゃブロック工法という建造方法が採られていた。船体を部分ごとに分けて同時に建造を開始し、最後に合体させて完成させるんだ。そのままの適用は無理でも考え方は使えるはずだ。また、部品を可能な限り共通化することで工期を短縮する。それと、無駄を出来るだけ省いて必要最低限の設計に手直しする」

 竜也は設計図を指差しながら部品の共通化とブロック工法について説明した。ガリーブは竜也の説明に目を輝かせる。

「なるほど、その発想はなかった! 確かにそれなら工期はかなり短縮できる!」

「今日からでも準備に取り掛かってくれ。俺は造船所の建設を手配する」

「判った! ならばまずはカーエドにスキラ中の船大工を集めさせよう!」

 カーエドが「ぃいえぇ?」と素っ頓狂な声を出しているが、竜也もガリーブもそれに構わずに話を進めている。今後の方針を大体決めて、早速それぞれが担当する仕事のために動き出す。竜也達はすぐに総司令部に戻ることとなった。

「ああ、ところで独裁官」

 別れ際、ガリーブが竜也に訊ねてきた。

「この船はまだ名前が決まっていないのだ。独裁官殿が決めてくれると助かるのだが」

 竜也は少しだけ考え、船の名前を決める。竜也は一同にその名を告げた。

「――ゴリアテ級ゼロ号艦。そう呼ぶことにする」







[19836] 第13話「クロイの船」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/03/14 23:30

「黄金の帝国」・迎撃篇
第13話「クロイの船」その2










 エルルの月・27日。

 髑髏船団のスキラ居残り組、およびスキラ近隣の海上傭兵団が竜也の元に集められた。

「十字軍と戦うには貴方達の力が必要不可欠だ。よろしく頼む」

 髑髏船団で居残り組をまとめているのはハーディという50代の男である。海賊にも傭兵にも到底見えない、温厚な商人というのが一番しっくり来る人物だ。

「ガイル=ラベクが戻ってくるまではハーディさんが皆のまとめ役をやってほしい」

 竜也の言葉にハーディがニコニコしながら「はい」と頷いた。

「まず足の速い船を集めて、東西ネゲヴ・エレブとの連絡網の整備。輸送能力の高い船を集めて、避難民の移動や、アドラル山脈方面に逃げた避難民への食糧の輸送任務。戦闘能力の高い船を集めて、海上封鎖。十字軍にはこちらの息の掛かった船しか接触させないようにするんだ。船の能力や団の大きさに応じて役目を振り分けてくれ」

 竜也の指示に傭兵達が頷く。ハーディの取りまとめの元、傭兵達が自分達の役割をそれぞれ決めてその日のうちから動き出した。




















 エルルの月・28日。

「金が足りません」

 そう言い出したのはアアドルという初老のバール人である。アアドルはスキラ商会連盟の金融部門に長年勤めてきた金融と財政のプロであり、現在は総司令部の資金繰りを一手に引き受けている。

「町の大きさに応じて資金供出を要請していますが、オエアが供出を渋っています。オエアに影響されて他の町も」

 竜也は思わず舌打ちをした。オエアはギーラの出身地である。おそらくギーラやそれに近い者がサボタージュを説いているのだろう。竜也はそう推定した。

「……陸上部隊を編成して西ネゲヴに送り込む。サドマさんやバラクさん達には交代で戻ってきてもらう。サドマさん達には東ネゲヴを回ってもらって、戦いの現状を訴えてもらおう」

「それと、オエアの有力者やその子弟を陸上部隊に編入させろ。戦いの現状を自分達で実感してもらうんだ。オエアだけじゃなくて他の町の有力者とその子弟も加えるんだ」

 竜也の指示にアアドルは頷き、実行の手配に動き出した。

 スキラやスファチェといった近隣の町から徴募されてきた兵や人足が、ナハル川南岸にようやく集まり出していた。彼等はまずはひたすら土木作業に従事する。

 ナハル川にはザウグ島・ザウガ島という二つの小島が浮かんでいる。北岸に近いのがザウグ島、南岸に近いのがザウガ島である。大きさは両方とも縦横数十m程度。渡し船が川を行き来する際に休憩に使っているくらいで、人は住んでいない。

「船を確保できない場合、十字軍はこの二つの島を奪取して渡河の拠点とするでしょう。まずはこの二つの島の要塞化です」

 ミカの指示により、北岸で切り出された丸太が片っ端から二つの島に運び込まれた。丸太を組み合わせて塀が作られ小屋が建てられる。二つの小島には木製の砦が築かれようとしていた。

 一方南岸の漁村では食糧倉庫の建設も始まっている。倉庫建屋の建築は後回しで、まずは丸太を組んで塀を巡らし堀が掘られる。徐々に集まりつつある食糧は天幕に収納され、当分の間はそのままである。

 その倉庫の建設現場で、人足の何人かが漁村の少女に暴行を働いたという知らせが竜也の元に入った。竜也達が急遽現場に向かうと、漁村の村民と人足達が塀を挟んでにらみ合っているところだった。怒り狂った村民の様子は暴動寸前と言っていい。

 竜也は怯む様子を見せることなく、両者の間に割って入った。竜也は工事の現場監督を呼び出す。

「暴行を働いたっていう連中は確保しているのか」

「はい」

 竜也の前に3人の人足が引きずって連れてこられた。まだ若いその3人は悪びれた様子もなく、にやにやと嫌らしい笑みを見せる。

「俺達が何やったって? 身に覚えがねーな!」

「その被害者ってのをここに連れてきて証言させろよ!」

「本当だって証明できなかったら、どうなるか判ってるだろうな!」

 3人はそう言って嗤い合った。村民は3人を吊し上げようとし、兵士達がそれを必死に止める。竜也は一同に静かに告げた。

「被害者を連れてくる必要はない。俺が事実かどうかを判断する」

 竜也の視線に促され、アヴェンクレトが姿を現す。白兎族の少女に一同はざわめき、3人の人足は動揺を示した。

 アヴェンクレトは3人の人足を嫌悪の目で一瞥し、竜也の腕を掴んだ。

「――この3人と、ここにいないもう一人が村人の女の子を強姦したことに間違いはない。その4人を牢屋へ」

 竜也がそう宣告し、村民が感嘆の声を上げる。3人の人足は呻き声を上げた。

「……くそっ! この悪魔!」

 人足の一人が拘束を振り切り、アヴェンクレトに飛び掛かっていく。竜也が、周囲の兵士がそれを制止しようとするが間に合わない。人足の手がアヴェンクレトを掴むその瞬間、一陣の風が吹き抜けた。

「うぎぁぁっっ!」

 手首から先を失った人足が、手を押さえて喚いている。その背後では、編み笠を被った一人の剣士が血に濡れた剣を懐紙で拭っているところだった。

「……ふっ、またつまらぬものを斬ってしまいました」

 一同が静まりかえる中で、涼やかな少女の声が異様にはっきりと聞こえた。誰もが呆然とする中、竜也はいち早く自分を取り戻した。手早く兵士に指示を出す。

「その3人を牢屋へ連れて行け。一応手当はしてやれ。もう一人も必ず見つけ出して捕まえろ」

 次いで竜也は村民に告げた。

「今回の暴行犯は全員捕まえて処罰する。今後こんなことが起こらないよう警備を強化する。以上だ!」

 一方的にそれだけ告げて、竜也は村民に背を向けて歩いていく。村民は完全な不満解消には程遠いようだったがそれでも暴動を起こす大義をなくし、不満を抱えながらも三々五々と村に戻っていく。竜也はそんな村民の様子をうかがい、密かに安堵のため息をついた。

 そして、剣を揮った少女に声を掛ける。

「君は、牙犬族の?」

 和風テイストな袴っぽいズボンと肩衣っぽい上着、それに犬の尻尾を見れば彼女の出自は誰の目にも明らかだった。やはり和風な編み笠を脱ぐと、その下からは凛々しい美少女が姿を現した。

 年の頃は竜也より1~2歳下で、その年頃の少女としては平均的な体格だろう。肌の色は竜也とあまり変わらない。ストレートの黒髪をポニーテールにし、その中から犬耳が生えている。剣祖シノンの血がかなり強く出ているようで、少女の容姿は日本人と言っても通るかも知れなかった。

「わたしは牙犬族、氷剣のサフィールと言います。族長の命に応じてこちらにやってきたのですが」

「そうか。とりあえず、助けてくれてありがとう」

 サフィールは「お気になさらず」とその異名のごとくクールに受け流した。

 イナブの丘の総司令部に戻ってきた竜也は早速各方面に治安警備強化の指示を飛ばした。

「とりあえず兵士による見回りを徹底するとして、あとは歓楽街を早めに設置した方がいいか。とにかく治安警備を強化しないと……ジューベイさん達は近くまで来ているんだな?」

 竜也の問いに、サフィールが頷く。

「なら、牙犬族には治安警備を専門にやってもらうか。あと、今日みたいなことが起こったらまたアヴェンクレトの力が必要になる。その時は頼む」

 アヴェンクレトは小さく頷いた。

「でもアヴェンクレトが逆恨みされるか……サフィールさんにも治安警備に加わってもらうけど、当面はアヴェンクレトの専属護衛のつもりでいてほしい」

 サフィールは「え゛」と硬直する。竜也は、

「アヴェンクレトには絶対に勝手に心を読ませたりしない。それにこの子は大抵俺と一緒にいるから、俺の護衛も兼ねることになる。済まないがよろしく頼む」

 と頭を下げる。サフィールは、

「わ、判りました」

 と躊躇いながらも引き受けるしかなかった。それを決めて、竜也はハーキム達の方へと向き直る。

「今回のような場合、あの連中の量刑はどの程度が適当なんだ?」

「奴隷として鉱山送り、が妥当じゃないでしょうか。ナーフィア商会の鉱山には各地で捕まったああいう連中が沢山いますよ」

 アンヴェルが辛辣な笑みを見せながらそう言う。竜也は、

「じゃああの連中も鉱山送りに」

 と処理を下した。そして他の仕事に取り掛かろうとして、あることに気付く。

「……アンヴェル、ナーフィア商会の鉱山には奴隷が使われているんだな?」

 竜也の問いに、アンヴェルはちょっと不思議そうにしながらも「はい」と答える。

「その奴隷は犯罪者だけか? 例えば、アシューかどこかで戦争に負けて捕虜になって売られてきた奴隷はいないのか?」

 アンヴェルは竜也が何をしようとしているのかを理解した。

「……います、大勢います」

 竜也は即座に決断を下した。

「ナーフィア商会の代表を呼んでくれ。その戦争奴隷は総司令部が全部買い取る」




















 エルルの月・29日。

「ケムトの船が?」

 ケムトの船団がスキラに入港したとの連絡が竜也に元に入ってきた。現在は髑髏船団等が船ごと抑留し、監視下に置いているという。

「判った。――ネフェルティ」

 竜也の呼びかけにネフェルティが頷く。竜也とネフェルティは総司令部を出、船を使ってスキラ港へと向かった。

 数刻の後、竜也達を乗せた連絡船がスキラ港へとやってきた。スキラ港には見慣れない形式の5隻の大型帆船が停泊しており、その周囲を数隻の軍船が遊弋している。

「ケムト側がその気になれば簡単に突破できそうだけどな」

「ケムト側にその気がないということでしょう。……誰が来ているのでしょうか」

 竜也達はケムトの船団に、代表を連絡船まで寄越すよう要請。それに応じ、一人の男が竜也達の前にやってきた。

「貴方でしたか、イムヘテプ」

「ネフェルティ殿下……」

 イムヘテプという男はそのまま絶句した。イムヘテプは30代半ばの実直そうな男である。ネフェルティはイムヘテプから情報を得るべく質問する。

「宰相の命で十字軍に?」

「はい。十字軍の司令官と会見し、協定を結ぶのが私の役目です」

「協定の内容は?」

「はい。まずケムトと十字軍との相互不可侵。ナハル川の西側は十字軍の領土として認める代わりに、ナハル川の東はケムトの勢力圏とする……そのような内容です」

 ネフェルティは「まあ……」と顔を曇らせた。

「もしその協定の内容が広く知られるようなことがあれば、ケムトと王の名誉は地に墜ちてしまいます」

 イムヘテプは「その通りです」と力強く頷いた。疑問を覚えた竜也が訊ねる。

「貴方自身はこの協定には反対なのか?」

「反対です。反対ですが、王と宰相の命には逆らえません」

 イムヘテプは苦渋の表情を見せた。そんなイムヘテプに竜也が告げる。

「別に逆らわなくていい、貴方は王命を果たせばいい。ただし、ネフェルティのためにも働いてもらう」

 イムヘテプは驚きの顔を上げ、竜也の瞳を見つめた。そのイムヘテプに、ネフェルティがスキラの現状を説明する。その上で竜也が要求を告げた。

「貴方は王命通り十字軍と接触し、売れるだけの媚びを売ってくれ。そして十字軍から情報を得る。こちらの指示する情報を、貴方が十字軍に流しもする。王命を果たした上で、ネフェルティの力にもなる。誰も損はしないだろう?」

 イムヘテプは「判りました、やりましょう」とその要請を即座に承諾した。

「何人か部下を残していってほしいのですが。わたし達の身の回りの世話をする者と、総司令部でタツヤ様の力になれる者と」

「私が残ります。エレブの蛮族相手など、私の部下で充分です」

 イムヘテプがそう言い切り、ネフェルティが目をぱちくりさせた。

「船も1隻で充分でしょう、4隻はここに残します。こちらで海上傭兵団を雇ってそれを連れて行けば格好も付くでしょう。本当は5隻の船があったが、ネゲヴの軍に襲われて1隻しか残らなかったことにすればいい」

 イムヘテプが一人で勝手に話を進めていくのを、竜也とネフェルティはやや呆然とながら見守っている。

「ああ、そうすれば用意した貢ぎ物も贈らなくていい。貢ぎ物はネフェルティ様にお使いいただくことにして。王の親書があればあの連中にはそれで充分です」

「いや、それはまずい」

 そう言われたイムヘテプは大きく開かれた目を竜也に向けた。

「ケムト王のそんな卑屈な親書を十字軍に渡すべきじゃない。その親書はネフェルティが預かってくれ。親書は宰相の名義にして貴方が偽造すればいい」

「確かにその通りです。ネフェルティ様、お願いします」

 竜也の言葉にイムヘテプとネフェルティは強く頷いた。

 「前から考えていたんだけど」と前置きし、竜也がネフェルティ達に提案した。

「ナハル川南岸に太陽神の神殿を建てるつもりでいる。用地ももう確保してある。ネフェルティにはそこの巫女をやってもらおうと思う」

 ネフェルティは「まあ」と顔を輝かせた。

「南岸の一箇所だけじゃない、東ネゲブの各地、町ごとに神殿の支部を配置する。十字教の信仰にこちらも宗教で対抗するには、太陽神を持ってする他ない」

 ネフェルティは「確かにそうです」と弾んだ声で応える。

「太陽神信仰でネゲヴの民を一つにする。それがセルケト王朝にもう千年、二千年、永遠の生命を与えることになる」

 ネフェルティは手を組んで「ああ……」と感極まった瞳で竜也を見つめる。竜也は怜悧な瞳をネフェルティに返した。

「ただし! 将来的にはセルケト王家は政治・軍事の実務から完全に手を引いてもらう。それらの実務は全部部下に任せて、セルケト王家はあくまで太陽神の祭祀に専念するんだ」

「今でも大して変わりません。わたしもそれが望ましいと思います」

 竜也はさらにケムト連合の解体を視野に入れていたが、現時点でそこまで口にする必要はないだろうと判断した。

「そういうことで、太陽神の巫女がネフェルティ一人じゃ到底足りない。ケムトに人を送って巫女や神殿運営が出来る人間を集めてきてほしい。どんなに薄くてもセルケトの血を引く人間が、可能なら支部一つにつき一人は欲しいところなんだけど」

「4000年の歴史を舐めないでください。セルケトの末裔はケムト中に掃いて捨てるほどいます」

 とネフェルティはその大きな胸を張った。

「私にも心当たりは山のようにあります。私自身がケムトに戻って人を集めましょう」

 とイムヘテプも力強く宣言した。

 イムヘテプは様々な準備を整え、次の日には竜也から借りた高速船で単身ケムトへの帰路に就いた。




















 その日の夜、総司令部。

「タツヤ様、夕食を用意いたしました」

 甲板の上の総司令部でランプをいくつも灯して書類仕事を続ける竜也の元に、ネフェルティが夕食を持ってやってきた。ネフェルティが女官に用意させた夕食は、香辛料を利かせた鳩の丸焼きやビール等、豪華絢爛な料理の数々である。

「さあ、沢山召し上がってください」

「あ、ありがとう」

 竜也は頬を引き攣らせながら料理に手を付けた。竜也は、

「一人じゃ食べ切れそうにないから一緒に食べよう」

 とネフェルティに食事を共にさせる。さらに、

「今は戦時なんだからあまり無駄遣いするのは……食事なんて飢え死にしなければそれで良いから」

 やんわりとながら釘を刺すのも忘れない。結局用意された食事の大半はネフェルティが食べるか残されるかし、竜也が口にしたのはごくわずかだった。

「お口に合いませんでしたか?」

「いや、そんなことない。美味しかったよ」

 ネフェルティの問いに竜也は取り繕ってそう答える。だがネフェルティは表情を曇らせたままだった。

 それからしばらくの時間を置いて。女官に夕食の後片付けをさせたネフェルティがもう一度甲板に行こうとする。その途中で食事を運ぶアヴェンクレトの姿を見出した。盆の上に乗っているのは、パンと珈琲・ハムやサラダや果物で、ネフェルティの目から見れば兎のエサみたいに貧相な代物である。その食事を持って、アヴェンクレトは甲板へと向かっている。ネフェルティは気付かれないよう注意してアヴェンクレトの後を付けた。

 アヴェンクレトが甲板へと上がり、ネフェルティは階段の物陰からこっそりと総司令部の様子を伺う。見ると、アヴェンクレトの用意した食事を竜也が美味しそうに食べているところだった。

「助かったよ、アヴェンクレト」

「ん、構わない」

 食事は5分も掛からず、あっと言う間に終了する。竜也はようやく充足し切った顔をした。

「タツヤは味付けの濃い料理が嫌いなのに。あの女もタツヤの好みを理解すべき」

 そう言いながら、アヴェンクレトはネフェルティに見せつけるように嘲笑を浮かべる。

「こっちじゃあの味付けが一般的なんだろ。俺がこっちの味付けに慣れるのが筋ってもんだ」

 竜也のフォローの言葉もネフェルティの耳に届いているが、あまり頭には入らなかった。ネフェルティは身を翻し、階段を下りて船から出て行く。

「……勝った」

 と小さくガッツポーズを取るアヴェンクレト。

「? 何がだ?」

「ん、何でもない」

 遠ざかるネフェルティの気配を、アヴェンクレトは勝利の余韻と共に味わっていた。

 一方のネフェルティだが、彼女は自分付きの女官が宿舎にしている天幕へといきなり乗り込んだ。

「おほほほ、皆様ご機嫌よう」

 突然現れて妙に威圧感のある微笑みを見せる自分達の主人に、女官達は心身を硬直させる。

「貴方」

「は、はい」

 ネフェルティが今夜の夕食を用意した女官に視線を向け、その女官が大急ぎで起立する。

「明日はスキラに行って、今スキラで評判の料理人の料理を見て回ってください。わたしはアンヴェルさん達からタツヤ様の食事の好みについて伺います」

「わ、判りました」

(戦いはまだまだ始まったばかりですよ、アヴェンクレトさん)

 密かに闘志を燃やすネフェルティを、女官達が呆然としながら見つめていた。







[19836] 第13話「クロイの船」その3
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/11/27 20:59



「黄金の帝国」・迎撃篇
第13話「クロイの船」その3










 タシュリツの月・5日。

 スキラやスファチェ、ハドゥルメトゥムからの避難民がナハル川南岸にようやく集まりつつあった。避難民が増えれば人足も増えるし、食うために兵士になる人間も増える。ナハル川の要塞化工事は進展速度を急速に上げていたし、ゴリアテ級のための造船所建設工事も同様である。

 ただし、軋轢や問題はそれ以上の速度で急増していた。

「避難民同士の乱闘です! 首謀者を確保しました!」

 ジューベイ率いる牙犬族はナハル川南岸の町中を走り回り、治安警備に大活躍である。今もまた乱闘を起こしていた避難民を何人か逮捕して総司令部まで連れてきていた。

 その彼等の前にアヴェンクレトが進み出る。逮捕された避難民だけでなく牙犬族も怯えた様子を見せた。

 アヴェンクレトはほんの数秒彼等を見つめ、竜也の元に戻っていく。アヴェンクレトから事情を知らせてもらった竜也は頭痛を堪えているような表情をした。

「……原因はスファチェ側の責任がより大きいが、乱闘はハドゥルメトゥム側の方が多大な危害を与えている。よって双方の責任を同等とし、乱闘の参加者全員を簡易牢に暫定投獄。首謀者は鉱山送りとする」

 竜也が即決で判決を下し、牙犬族が避難民を引っ立てていこうとする。

「くそっ!」「この、悪魔が!」

 抵抗する避難民がアヴェンクレトに怨嗟の視線を向け、罵声を浴びせる。だがアヴェンクレトは薄笑いを浮かべながら、

「悪魔じゃない。――『白い悪魔』」

 胸を張ってそううそぶくアヴェンクレトに避難民等が絶句する。その隙を突いて牙犬族が避難民を強引に引っ立て、連行していった。

 大抵の町では犯罪者を裁くのは長老会議の役目だが、この町には長老会議が存在せず、現状ではかなり小さな裁判でも竜也が主催するしか方法がない。アヴェンクレトの能力は公正な裁判に、延いてはこの町の治安維持に最早不可欠となっている。だが竜也はアヴェンクレトの能力を事情聴取に使うだけで、判決そのものをアヴェンクレトに委ねたりはしなかった。どれだけ面倒であろうと、竜也が自分の考えで判決を下している。

 今回の乱闘の直接的原因は食料の不足である。腹を減らしたハドゥルメトゥムの子供がスファチェの避難民から食料を盗もうとし、スファチェの避難民がその子供に暴行を加え、誤って殺してしまったのだ。それに怒ったハドゥルメトゥム側がスファチェの避難民を襲撃、死者一人、重傷者二人を出している。

 今回のようなどこかに悪者がいるわけではない、だが深刻な被害が出ている裁判を主催し、元々悪人ではなかった者に処罰を下し、場合によっては鉱山送りとしなければならない。このような裁判が連日のように続いており、竜也の精神に多大な負担を掛けていた。

 裁判を終えた竜也が総司令部に戻ってくる。元々総司令部として使っていた船は既にその役目を終えていた。イナブの丘の上にはスキラから運び込まれた古い船が何隻も並んでおり、総司令部と竜也の執務室はその中の一番大きな船に移動している。丘には船や天幕の他、木造の建物が既にいくつか建てられていた。元々総司令部として使っていた船は今は独裁官公邸と呼ばれており、竜也の私的な空間という扱いである。

「それにしても、いくら木造でもこんな短期間で建物が建てられるなんて」

 竜也の感嘆にアンヴェルが答えた。

「タツヤさんの発想を元にガリーブさんが設計した建物です。木造小屋を部分ごとに分けて同時に作って最後に合体させることで工期を大場短縮しているんです」

 総司令部はかなり広い部屋になっており、多数の机が並び、事務処理の官僚がせわしなく走り回っている。竜也の執務室はその奥の別室だ。総司令部にはかなりの下っ端事務員でも出入り可能だが、執務室には高官や竜也の側近しか立ち入ることが許されていない。

 総司令部で竜也を待ち構えていたのは、事務方統括のジルジスである。ジルジスは東ネゲヴのレプティス=マグナ出身で、長老と言っても年齢は40代でまだ若い。ジルジスは総司令部の事務仕事担当者を取りまとめる役を担っており、非常に有能である。ジルジスがいなければ総司令部はとっくの昔に破綻していた。だが、

「スファチェとカルトハダの避難民が境界線争いを」

「境界線は最初に決めたものを守らせろ」

「オエアに避難した避難民とオエア市民との諍いの調停の要請が」

「俺達がオエアに行くような時間はない。双方の代表と証人となる人間を総司令部に来させろ」

「スキラ避難民の代表者が面会を求めています」

「抗議や要望はまず文書で提出させるんだ」

「水不足が深刻になっています」

「上水道を整備する計画はどうなっている? 早く提出させろ」

「各地の避難所で多数の病人が」

「それについてはネフェルティに視察に行ってもらっている」

 山積する問題を竜也が必死に処理していくが、問題はそれ以上の速度で積み上がっていく。ジルジス達の力を持ってしても竜也の負担は極めて重く、竜也の精神的肉体的限界は目前に迫っていた。

「独裁官タツヤ、こちらが上水道の整備計画です」

 誰かが差し出した書類を竜也が引ったくるようにして受け取り、広げる。書類を読む竜也の目が驚きに見開かれた。書類に記されていたのは上水道の整備計画だけではない。下水道の整備、道路の拡張整備、市街地の整備、運河の整備等、都市計画に必要そうな項目の全てが網羅されていた。

「この計画書を書いたのは誰だ?」

「私です。バリアと言います」

 バリアと名乗る男は30代の、セム系と思しき白人である。少し垂れ目なところが愛嬌の、なかなかの色男だ。

 こんな奴いたっけ?と思いながら竜也はバリアに問い質す。

「読ませてもらった。素晴らしい計画書だが、これ全ての実現にはどんなに短くても10年は必要だ。上水道だけ優先的に実行するとしても1年は掛かるだろう」

 上水道整備計画は山腹の水源から町へと直接水を供給することを目的としており、計画の一部にはローマ水道のような陸上水道橋の建設も含まれていた。

「判っています。こちらが仮設水道橋の建設計画です」

 竜也はその計画書に手早く目を通した。竜也はその計画書をバリアへと返す。

「……これも含めて、都市計画の優先順位を決めてタイムスケジュールを立案してくれ。スケジュールは1年分は詳細に、あとはおおざっぱで構わない」

「判りました」

 書類を受け取ったバリアが部下を集めて指示を出している。竜也の脳内では上水道等のいくつかの問題は解決済みということになった。

 そうこうしているうちに、ネフェルティが視察から戻ってくる。

「済まない。それで、どうだった?」

 はい、とネフェルティが返答し、同行している部下に回答を促す。元々イムホテプの部下の一人であるイネニというその男が竜也に報告した。

「衛生状態が最悪です。避難所ではどこに行っても汚水の臭いが漂っています。上水と下水の区別すら曖昧です。あれではどんな健康な人間でも病気になってしまう」

「上水道の整備は計画させている。問題は下水の方か」

 竜也は腕を組んで考え込んだ。

「……こっちじゃ糞尿は川か海に捨ててるんだよな。回収して肥料にすることを考えればもう少しは――サフィール!」

「は、はい?」

 いきなり名前を呼ばれたサフィールは戸惑いながらも返答する。

「牙犬族の村ではどうだった? やっぱり糞尿は捨てるだけなのか? それとも」

「いえ、わたし達の村では溜め込んだ糞尿を発酵させて肥料にしています。剣祖に教わったやり方です」

「それだ!」

 と竜也は指を鳴らした。

「ジューベイさんを呼んでくれ。そのやり方をこの町でも取り入れる」

 数刻後。執務室にやってきたジューベイに、竜也は事情を説明した。

「……そんなわけで、町の糞尿を全部回収して肥料にする。牙犬族の村から人を呼んで、やり方を指導してほしい。糞尿の回収も牙犬族の方で人を集めてやってもらえると助かる」

 竜也の依頼にジューベイは「しかしそれは……」と難色を示す。竜也はちょっと首を傾げながら、

「何か問題でも?」

 と問うた。ジューベイは意を決して「そのような汚穢な仕事、引き受けかねる」と竜也にきっぱり告げた。

「そのような仕事を引き受ければ牙犬族の名を落とすこととなる。それくらいならば牙犬族だけで十字軍に突撃しろと命じられる方がまだマシだ」

 竜也は頭を抱えたくなった。「職業に貴賎なし」が建前の21世紀の日本ですら、貴賤はなくともステイタスの高低は厳然としてあったのだ。中世相当のこの世界ならジューベイの反応の方が当然であり、非難には値しない。

 竜也はどうすべきか考え込んだが、それほど長い時間は必要としなかった。竜也はいくつかの問題をまとめて解決すべく、ジューベイに提案する。

「……ジューベイさん。今牙犬族にはこの町の治安警備もやってもらっているけど、それを正式に牙犬族の担当としたい。この町の治安には、ジューベイさん、貴方が責任を持つということだ」

 ジューベイは無言のまま竜也に続きを促した。竜也が話を続ける。

「糞尿回収の仕事は、牙犬族が逮捕した犯罪者にやらせようと思う。牙犬族にはその監督をやってもらいたい、ということだ。犯罪者の仕事を直接監視・監督するのは雇った人間にやらせればいいけど、最終的な責任は牙犬族が持ってもらうことになる。つまりこの仕事は治安警備の一環なんだ」

 ジューベイが「ぐ」と何か言葉に詰まった。先ほどよりは態度が軟化していることを悟り、竜也が攻勢を続ける。

「糞尿は発酵させれば良い肥料になるし、それを農民に売れば良い現金収入になる。金になると判ればこちらから頼まなくても向こうから『やられてくれ』って言ってくる商人も出てくる。事業が軌道に乗るまでの間だけの話だ」

 ジューベイは渋い顔をして沈黙したままだ。竜也は一枚目の切り札を切った。

「治安警備担当者には制服を用意しようと思う。こんな感じだ。隊章はこんな感じ」

 竜也は書類の裏に即興で制服と隊章の絵を描いた。制服は袖や裾にだんだら模様を入れた陣羽織、新撰組の隊服をそのままパクったものである。隊章は、刀を口に咥えた精悍な犬の絵だ。ジューベイは瞳を輝かせてその絵に見入っている。

「どうだろうか?」

 竜也の問いに、ジューベイはまだ「しかし……」と渋っていた。竜也は最後の切り札を切った。

「ジューベイさん。治安警備担当の中で特に優れた剣士には、総司令部の直衛に就いてもらうことを考えている」

「直衛?」

「そうだ。十字軍との戦いについてはアミール=ダールに将軍を務めてもらう予定だけど、全ての部族も全ての兵も当然その指揮下に入る。でも、この直衛はその指揮系統から切り離す。総司令部の、俺の直接指揮下に入ってもらうんだ」

 おお、とジューベイが感嘆する。竜也が説明を続けた。

「任務は総司令部の、俺の護衛。もし絶対防衛線が突破された場合には、治安警備担当を率いて最後の盾になってもらう。また、俺が戦場に出陣する場合は供回りを務めてもらいたい」

 要するに、独裁官クロイ=タツヤの親衛隊である。判っているのかいないのか、ジューベイは「ふむふむ」と頷いている。

 牙犬族を親衛隊とすること、治安警備に専念させることは竜也が前から考えていたことだった。剣に執着する牙犬族が火縄銃の弾丸や矢が飛び交う戦場で活躍できるとは、竜也には到底思えなかったのだ。戦場に回して牙犬族の評価が落ちてから治安警備に回すとなると、牙犬族は左遷されたような気分になるだろうし、治安警備の役目が軽んじられることになるし、市民も牙犬族を軽侮して結果として治安が乱れてしまうことになる。それくらいなら評価の高い今のうちから治安警備に専念させる方が効率が良い。

 ただ、この案には問題点がある。金獅子族など他の恩寵の部族に「独裁官は牙犬族ばかりを優遇している」と非難され、不信感を抱かれるのは目に見えていたのだ。だから今まで実行に踏み切れなかったのだが、それも糞尿処理の汚穢仕事とワンセットであるのなら他部族の反発も深刻なものにはなり得ない。

「引き受けてはもらえないだろうか?」

「勿論引き受ける。我等牙犬族はお主に、クロイ=タツヤに忠誠を捧げよう。例え腕を斬られようとも口に刀を咥えて戦おう。この隊章のように」

 意気揚々と総司令部を去っていくジューベイを見送り、竜也はため息をついた。

「下水処理はこれで問題解決……ということにしておこう。そう言えば」

 と竜也は周囲を見回す。

「ここの上水道整備も考えないと」

 総司令部がある丘は官庁街の様相を呈しつつある。だがここで仕事をする人間が増えれば、それだけ上下水道の整備が必要となった。下水については海側に捨てるだけなので、人数が増えようとそれほど大きな問題にはならない。問題は上水道である。

「幸い丘のふもとに泉が湧いているから綺麗な水は確保できるけど、丘の上までそれを汲み上げるのが面倒なんだよな」

「確かに面倒ですが、他に方法があるのですか?」

 官僚の一人が竜也の考えを確認するように問う。現在は下働きの人間が、泉の水を溜めた桶を担いで丘を登っている。つまりは完全な人力による水道である。

「幸か不幸か、人手には事欠きませんから」

「だからと言って、いつまでもこのままってわけにもいかないだろう」

 余力があれば地下水道を掘ってサイフォンの原理でここまで水を引っ張ってくるんだが。そう呟く竜也を、その若い官僚は不思議そうに見つめている。

「ポンプが使えれば話は早いだろうけど、でも動力が――」

 何かを思いついた竜也はそのまま考え込む。少しの時間を経て、竜也は部下に指示を出した。

「近いうちにゴリアテ級の建造現場に視察に行くからそのつもりで」




















 タシュリツの月・6日。

 竜也はナーフィア商会所有の鉱山へと向かった。鉱山の名はガフサと言い、スキラから100kmほど西にある。竜也は乗馬できなかったので馬車での移動である。このため夜明け前から出発したのにガフサ鉱山に到着したのは夕方になってからだった。馬を使えばかなり時間を短縮できたはずなので、竜也は「時間を作って乗馬の練習もしなきゃ」と決意している。

「ガフサ鉱山の奴隷を取りまとめているマグドさんは、元はアシューのある王国で軍人をしていたそうです」

 そう説明するのは竜也に同行しているアンヴェルである。

 ガフサ鉱山で使役されていた戦争奴隷は既に総司令部に売却されている。竜也は彼等に「兵士となって十字軍と戦うなら自由民にする」ことを約束した。これに対し奴隷達は揃って「マグドが自分達の指揮官になるなら十字軍と戦う」と言い出し、そのマグドは竜也との会見を要求。それに応えた竜也はガフサ鉱山を目指している。

「有名なのか?」

「アミール=ダールさんほどではないでしょうけど、アシューの軍人なら名前くらいは聞き覚えがあるかも知れません。部下の助命のために敵に降伏し、奴隷として売られてきたそうです」

「なるほど、その人望で奴隷のまとめ役をやっているのか」

「味方になってくれるなら心強い方だと思います」

 そんな話をしているうちに、馬車はようやくガフサ鉱山に到着した。馬車を降りた竜也達を出迎えたのは、奴隷の群れである。

 柵の向こうに坑道があり、柵の内側には奴隷が群がっていた。見える範囲だけでも数百人の奴隷が、沈黙したまま竜也達に注目し続けている。怯んだアンヴェルは思わず馬車の中に戻りそうになった。だが竜也が構わず前に進んでいくので、それに付いていくしかない。

 竜也はそのまま柵のすぐ側までやってきた。沈黙する奴隷の注目を集めながら、竜也が呼びかける。

「俺はネゲヴの独裁官クロイ=タツヤだ。マグドに会いに来た」

「俺がマグドだ」

 奴隷の群れを割って一組の男と女が姿を現した。男の年齢は40代くらい。プロレスラーみたいな体格で、山賊みたいな凶悪な顔つきをしている。右眼は刀傷で潰れ、右腕の肘から先がなかった。女は20代とも30代とも見える、年齢不詳の妖艶な美女である。

「ほう」

 とマグドは面白そうに竜也達を眺めた。竜也は悠然とした態度を崩さない。アンヴェルは怯えを何とか隠そうとしているが、到底隠せていなかった。

「ネゲヴ全体が20歳にもならない小僧に乗っ取られたとは聞いていたが……一体どういう手品を使った、小僧」

「十字軍を皆殺しにしてネゲヴを守る、それが俺に与えられた役目だ。俺はそれを果たそうとしているだけで、地位はそのための道具だし名誉は結果に過ぎない」

「ふん、小賢しいことを言う」

 とマグドは鼻を鳴らした。

「その役目とやらは誰に与えられた?」

「神様でも、歴史でも、運命でもいい。好きな名前で呼べばいい」

「……それで、今度は俺達に役目を割り振ろうって言うのか?」

「そんなところだ。――解放された奴隷達を率い、百万の十字軍と戦いこれに勝つ。ガイル=ラベクやアミール=ダールと並び称されるような将軍となり、英雄となる。それが貴方に提供できる役目だ」

「はっはっは!」

 とマグドは哄笑した。マグドが左手を掲げると、木製の柵がゆっくり倒れて奴隷が外に溢れ出てきた。奴隷達は三重・四重に竜也達を取り囲む。怯えたアンヴェルが竜也に縋り付いた。

 それでも平静を崩さない竜也の前に、マグドと連れの女が進み出る。

「大した胆力だ」

「信じているからな。俺は俺の役目を果たす、こんなところじゃ終わらない、と。それに、貴方の役目もこの程度じゃない、と」

 マグドは「ほう」と感心して見せ、竜也に続きを促した。竜也が続ける。

「ここで俺が死ねば、俺はただの間抜けだったってことだ。そしてあんたは間抜けな小僧を殺したただの卑怯者ってことになる。マグドという男の名はその程度じゃ終わらない。ネゲヴの歴史が続く限り語り継がれる英雄の名だ」

「はっはっは!!」

 マグドが一際巨大な声で哄笑した。

「いただろう、その口車に乗せられてやる。俺の配下のガフサ鉱山の奴隷五百人、全員の生命を貴様に預ける」

 会談が終わり、竜也達はその鉱山前で宿泊することとなった。馬車の中に戻ってきたアンヴェルが、

「はあーーっっ」

 と肺の空気を全て吐き出す勢いで安堵のため息をつく。アンヴェルに続いて竜也が馬車の中に入ってくる。

「良かった、生きて帰れました。一時はもう駄目かと思いましたけど、さすがタツヤさんです――」

 突然、竜也がアンヴェルを抱きしめた。全身の骨を折らんばかりの力で竜也の両腕がアンヴェルを締め付ける。息苦しさを覚えたアンヴェルが竜也の腕から逃れようとして、気が付いた。竜也の身体がかすかに震えている。歯が折れそうなほどに、竜也が歯を食いしばっている。

 アンヴェルは何とか自由になった両腕を竜也の背に回し、優しく竜也の背中を抱いた。竜也の腕の力がわずかに緩む。

 竜也とアンヴェルは誰もいない馬車の中で、長い間互いの身体を抱きしめ続けた。




















 タシュリツの月・8日。

 ガフサ鉱山を出立した竜也はマグドと共にトズルの視察へと向かっていた。竜也はアンヴェルを連れているし、マグドはライルという女性を同行させている。

「ナハル川絶対防衛線を迂回して東進するなら、このトズルを通るしかない」

 トズルは、元の世界で言うならジェリド湖とガルサ湖に挟まれた場所に位置している。この世界ではジェリド湖とガルサ湖は一つにつながりスキラ湖という名前で呼ばれており、トズルはその北側の地名である。トズルとその向かい側は橋のように、岬のように大地が突出しており、一番狭いところでは1スタディアも離れていない。

「確かにこれは、ナハル川よりもよほど簡単に向こう岸に渡れる」

「ですが、この狭い山道は大軍の通行には向いていませんよ」

 トズル方面は標高が高くなっており、峻険な山道が続いていた。

「別に全軍をこちらに回す必要はない。2~3万もこちらに回してトズルを突破し、ナハル川に陣取っているネゲヴ軍の背後に回せるなら」

「絶対防衛線は落とせる、か」

 しばしの間、沈黙が一同を包んだ。やがて竜也がマグドに指示をする。

「マグドさんにはこちら、トズル方面の防衛をお願いしたい」

「よし、判った」

 マグドは即答した。

「こういう場所で踏ん張る仕事の方が俺向きだ。ここならナハル川ほどの大がかりな工事がなくても、10倍や20倍の敵にも耐えられる」

 マグドは獰猛な笑みを見せた。

「ここまでの道を見て不思議に思ったことはなかったか? まるで枯れた川の底を歩いているようだと」

 マグドの言葉にアンヴェルは「そう言えば……」と呟いた。

「多分あの道は昔は本当に川だったんだ。地震か何かで地形が変わって上流が塞がれ、水が涸れたんだろう。ならば、もう一度地形を変えてやればいい」

 マグドはにやりと笑う。マグドと竜也は悪辣そうな黒い笑みを交わし合った。

 視察を終えた竜也達は用意していた船を使いスキラ湖を移動、総司令部への帰路に就く。

「夕方にはセフィネ=クロイに到着します」

 船長がそう報告し、竜也がきょとんとした表情をアンヴェルに向けた。

クロイの船セフィネ=クロイって?」

 アンヴェルはわずかに苦笑を閃かせながら答えた。

「イナブの丘の上にある、公邸や総司令部に使っている船のことです。船乗りにはちょうどいい目印になるみたいで、船乗りの間ではナハル川南岸全体を指してその名前で呼ぶのが一般的になりつつあるそうです」

「確かに、ナハル川南岸なんて呼び方をいつまでも出来ないか」

 船長の報告通り、竜也達はその日の夕方にはセフィネ=クロイへと戻ってくることとなった。







[19836] 第14話「黄金の国」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/11/27 21:01



「黄金の帝国」・迎撃篇
第14話「黄金の国」その1










 タシュリツの月・9日。

 竜也はセフィネ=クロイの町外れに建設中の造船所の視察にやってきた。

 ゴリアテ級を5隻同時に建造するに当たり、まずはそれだけの能力を持つ造船所の建設から取り掛からなければならなかった。海辺が目の前の、砂浜と草原の中間のような場所に巨大な穴を掘っていく。大きさは、長さ百数十m・幅50m、深さはまだ数m程度。穴の土壁は砂が多く崩れやすいのでセメントで固められる。

「なるほど、この穴の中でゴリアテ級を建造するのか」

 竜也を案内するガリーブが「その通りだ!」と答えた。なお、ガリーブには弟子のザキィが同行している。ザキィはハーキムと同年代の、温厚そうな好青年だ。

「船の建造と同時に海側からも穴を掘って運河を造り、水門を作って運河と工廠とを隔てる予定だ! 船が完成したなら向こう側の川から水を引いて船を浮かべ、その状態で水門を開けば船は水ごと海に出る!」

「水の大半は船と一緒に出て行って、残った水は水門を閉めて掻き出すんだな」

 建設現場では何千人もの労働者がひたすら巨大な穴を掘っていた。人がまるで蟻の群れのようである。別の一角ではナハル川北岸から切り出された木材が山と積み上げられており、一部では部品の削り出しが始まっている。当然ながら船はまだ影も形も出来ていなかった。

 工事現場の一角に安置された、大きな瓶が竜也の目に留まった。

「あれは?」

「ああ、土瀝青だ。船の防水材に使用する」

 竜也は何気なく瓶の中を覗き込み、そこに溜め込まれているのがアスファルトであることを理解。途端に竜也の目つきが鋭くなった。

「……ガリーブさん、この土瀝青はどこで手に入れたんですか」

 竜也の様子に怪訝な表情をしながらもガリーブが答える。

「地面を掘ったら水じゃなくて油が出てきた井戸が南の漁村にあってな。そこから仕入れさせている」

「そうか、油井……!」

 北アフリカはアラビア半島に次ぐ産油地帯である。今までそのことに思い当たらなかった方が迂闊だった、と竜也は自分を罵った。

 竜也はガリーブを連れて急いで建設現場事務所へと戻り、適当な書類の裏に何かの絵図を書き出す。手早く2枚の絵図を書き終えた竜也がその1枚をガリーブ達に示した。

「さっき言っていた地の底から湧き出る油、原油。ガリーブさんにはこの精製をお願いしたい」

「精製?」

 竜也は今書いた蒸留器の図を使って説明した。

「原油を加熱し、沸点の違いを利用して成分ごとに分離する。沸点の低い、可燃性の高い軽油は敵にぶっかけて焼くのに使う。重油は篝火等の燃料に、残った土瀝青は船の防水材に使う」

 沸点の低い油は細かくはガソリン・灯油・軽油等に分けられるが、この世界の蒸溜技術ではそこまで細かくは分留できないだろうし、する必要もないと判断している。

「ふむ、判った! 蒸留酒を造っている職人の協力が得られればそれほど難しくはないだろう!」

「確かに。手配してもらおう」

 竜也は「もう一つだ」と二枚目の絵図を見せた。

「これは……」

 台車の上に水槽があり、水槽上部にはピストンが、その反対には長いホースが取り付けられている絵図である。

「……要するに、巨大な水鉄砲ですよね」

 とザキィ。

「まさしくその通りだ。だが発射するのは水じゃない、精製した軽油だ」

 ガリーブ達は「ふむ」と考え込んだ。

「なるほど、これを使って敵に油をぶっかけるわけか」

「ここのホースの部分はどうしたらいいか、何か考えはないか? 油を漏らさない、柔軟性のある素材でないと」

「ふむ! ならば牛革なり豚革なりを使えば良いだろう!」

 ガリーブの発案に竜也とザキィは「なるほど」と手を打った。

「判った! 原理的には難しいことは何もない、早速作ってみよう!」

「蒸留器も放水車もこの造船所で作ります。ここなら材料にも職人にも事欠きませんから」

「お願いする」

 酒造職人や皮革職人の追加の人材を手配するよう、ガリーブはカーエドに指示を出している。カーエドはこの造船所の事務局長のような立場に収まっているようだった。

「ああ、ガリーブさんもう一つ」

 竜也は視察に来たもう一つの用件を切り出した。

「総司令部に建ててほしい建物があるんだが、貴方の弟子を貸してくれないか?」

 その言葉にガリーブは「ザキィ、行け」と命令する。ザキィは笑みを見せながら竜也の前へと進み出た。

「はい。どのような建物でしょうか?」

「簡単に図を書いてみた」

 と竜也は事前に用意した絵図を広げる。そこに描かれていたのは巨大な風車である。

「風車ですか?」

「そうだ。風を受けて風車が回るとこちらのロープに連動して、水の入った桶を引っ張ってくる。桶がここで回転して、この水槽に水を入れて、空の桶がまたふもとの泉に向かうようにしてほしい」

 ふむ、とザキィが腕を組んで考え込んだ。

「構造自体は単純ですので建設は難しくないでしょう。問題は風車と泉との距離ですね。井戸の上に建設するのなら楽なんですが」

「可能かどうかの確認も含めて、その辺は任せる。とにかく水汲みの手間を省ければいいんだ」

 判りました、とザキィが頷く。近日中にザキィがイナブの丘の上を確認しに来てくれることとなった。




















 タシュリツの月・10日。

 竜也は総司令部の官僚達に原油の採掘指示を出した。

「この町の南の漁村に油田が一ヶ所あるのは判っているが、そこだけで足りるかどうか判らない。最低数ヶ所は確保したい。他の場所で油田がないか、東ネゲヴ中の町に確認しろ。必ずどこかにあるはずだ」

 竜也の指示に官僚達が動き出す。その竜也に官僚の一人が声を掛けた。

「独裁官、牙犬族の族長が訪ねてきています」

「判った、応接室に通してくれ」

 少し時間を置いて竜也が応接室へと向かう。そこには族長のエフヴォル=ジューベイと二人の牙犬族の戦士の姿があった。

「遅くなって済まなかった、タツヤ殿」

 エフヴォル=ジューベイは二人の戦士を竜也に紹介した。

「拙者の甥のゼッルだ。ゼッルには独裁官警護隊の隊長を務めてもらう」

 ゼッルは無言のまま竜也に会釈する。年齢はサドマやバラク達と同じ30代、戦士としては最も脂の乗った年代である。背は竜也より少し低いが、前後左右がかなり分厚い。全身を鋼のような筋肉で覆っている、巌のような男だった。

「こっちのリフヤには町の警備隊の方を手伝わせている。糞尿処理もリフヤの担当だ」

「せ、拙者はリフヤと申す」

 リフヤは泥鰌髭が特徴的な、貧相な中年男だった。女房に逃げられて幼い子供を抱えて途方に暮れながら傘貼りの内職をしている貧乏浪人が仕官先を何とか見つけて必死に面接に臨むの図、といった雰囲気である。

「リフヤは剣の腕は今一つだが気配りの出来る奴なのでな」

「その通り」

 ジューベイの紹介にリフヤはそう言って胸を張った。

「とりあえずゼッルの下には10人くらい特に腕の立つ者を配置するつもりだが」

「当面はそれで充分です。今は町の方の警備に力を入れてほしい。あと、女性の剣士もサフィールだけじゃなくて何人かほしいんですが」

 竜也がジューベイにそう依頼するとリフヤが、

「あれは役に立っていますか?」

 と訊いていた。

「ええ、勿論。色々と助けられています」

 竜也のその答えにリフヤは嬉しそうな顔を見せる。訊くと、サフィールとリフヤは親子なのだそうだ。

(全然似てない……)

 竜也はそう思わずにはいられない。リフヤの嫁はよほどの美人で、サフィールは母親似だったのだろう。

「サフィールほど腕の立つ者はあまりおらんのだが、すぐに集めよう」

 竜也の要望にジューベイはそう答えた。

「それなら、サフィールには俺と警備隊との連絡役をやってもらいましょうか」

「そうだな、それが良かろう」

 竜也の提案に、ジューベイ等は何も考えていない気楽さで軽く頷いた。

 牙犬族との面談を終え、総司令部に戻ってきた竜也が官僚の一人に確認する。

「そう言えば、織物職人と会うのは今日だったな」

「ええ。もう集まっています」

 そうか、と竜也は答え、織物職人等との面会に向かった。

「貴方達に作ってもらいたいのは、まずこういう外套だ」

 織物職人等が集められた部屋で、十数人の職人に向かって竜也は前置きも何もなしに用件を告げた。竜也は一同にそれが描かれた絵を示す。

「こっちが青でこっちが白。ここに紐があって前で結ぶ。背中の文字は別の紙に拡大して書いてあるから」

 以前ジューベイに伝えたように、竜也は治安警備に従事する牙犬族の隊服を揃える手配をしていた。職人達は複雑な「誠」の文字に「ここは刺繍でいきましょうか」等と話し合っている。

「同じ形で色違いのこういう服も頼む」

 親衛隊用の隊服は黒を基調とし、袖と裾のだんだら模様は白いラインを入れることで表現していた。

「服と同じ青と白の染料を使ってこういう旗を作ってほしい」

 竜也は牙犬族の隊章となる、剣を咥えた犬の絵図を示す。竜也はさらに別の絵図を職人達に示した。

「次、こっちは髑髏船団用の旗だ」

 その絵を見せられた職人が感嘆の声を上げる。髑髏船団が今使っている稚拙な髑髏の絵とはわけが違う、迫力のある髑髏がリアルに緻密に描かれていた。

「最後に、これは俺個人の旗となる。この旗は5パッスス(約7m)四方の大きさで作ってくれ」

 その絵を見せられた職人からは、今度は声一つ漏れることがなかった。七つの首がとぐろを巻いた、巨大な黒い竜の姿。それは竜也が魂をぶつけて描いた渾身の一作。自分を「黒き竜」だと信じる竜也が、自分の魂を絵の形に、竜の姿に託したものだった。




















 その夜、独裁官公邸となっている船。サフィールは警護を別の牙犬族に引き継いで自分の宿舎に戻ろうとする。そこにアンヴェルが声を掛けてきた。

「あ、サフィールさん。サフィールさんの部屋をこっちに用意しましたから、今夜からでもこっちに移動してください」

 サフィールは怪訝な顔で質問した。

「こちらとは?」

 アンヴェルが「こっちです」と指したのは、独裁官公邸の船だった。ますます不思議そうな顔をするサフィールにアンヴェルが確認する。

「サフィールさんは治安警備隊との連絡役になったんでしょう? タツヤさんからわたし達と同じ秘書官扱いにするよう指示があったんですけど」

 サフィールはまず絶句し、次いで顔色を青くした。

 竜也の秘書官は何人もいるが、アンヴェル・ミカ・ネフェルティ・ハーキムの4人は別格扱いである。アンヴェルは商業や経済に、ミカは軍事に、ネフェルティは宗教や宮廷政治に、ハーキムは地理歴史に、それぞれ一家言を持っている。彼女達の仕事はその知識を持って、発想はともかく実務面・実行面では不足の多い竜也を補い助けることだった。この4人は竜也の側近として、総司令部内でも特別な位置を占めているのだ。

「……連絡役というのは、その、連絡をする役ではないのですか?」

 血の気の引いたサフィールの問いに、アンヴェルは苦笑を隠しながら答えた。

「タツヤさんがサフィールさんに求めているのはそれだけじゃないということです」

 竜也が必要としているのは単なるメッセンジャーではない。担当部門の現状を把握し、問題があれば竜也にそれを提起し、解決策を一緒に考える。要望があれば竜也にそれを提出し、実現のために努力する。逆に竜也が出す指示や命令の実現のため様々な調整を行うのも仕事のうちである。実際アンヴェルやミカ達はそういう仕事をしており、側近として別格扱いされているのも伊達ではない。

 サフィールは顔色を悪くし、脂汗を流し、意味もなく左右を見回したりと挙動が不審になっていた。そのサフィールを宥めるようにアンヴェルが説明する。

「最初から何もかもを完璧に出来るわけじゃない――タツヤさんがよく言っている言葉です。あまり気負わず、出来ることを一つ一つやっていけば良いんですよ。まずは治安警備に当たっている方の中の親しい人から色々と話を聞くことですね。こんなことに困っている、こんな問題が起こっている、ここがこうなればいいのに。タツヤさんが知りたいと思っているのはそんな話なんです」

 サフィールはあからさまに安堵し「それなら何とか」と頷いた。

「聞いた話や気になった話は簡単に文書にまとめておいた方が良いかも知れませんよ? わたしはそうしています」

 アンヴェルの助言に、サフィールは「確かに。ありがとうございます」と頭を下げた。

「では早速、父上のところで色々と話を聞いてきます!」

 アンヴェルが止める間もなくサフィールは疾風のように去っていく。アンヴェルは半ば呆れながらその後ろ姿を見送った。

 ……その出来事から少し後。竜也は一度船に戻ってネフェルティの用意した夕食を摂った。

 現在船は竜也の私的空間という扱いである。竜也の被保護者扱いのアヴェンクレトは勿論だが、側近・秘書官扱いのネフェルティ、ミカ、アンヴェルにも、船には各人の自室が割り当てられている。竜也は同じく側近扱いのハーキムにも部屋を割り当てようとしたのだが、ハーキムが(全力で)辞退した。他にはネフェルティ付きの女官やアンヴェルのメイド等が交代で船で寝泊まりをしている。また、船で炊事掃除洗濯等の下働きをするために雇われた者も皆女性である。

 つまり、船で寝泊まりしている男は竜也一人だけ。それどころか船に立ち入ることが出来る男も実質的に竜也一人である。このため船は一部の者から陰口で「独裁官の後宮」と呼ばれている。今回サフィールが船で寝泊まりする組に加わることで、ますますその陰口が強くなるだろう。実際のところは、船のベッドは竜也にとって仮眠を取るためだけの場所である。たまにアヴェンクレトが潜り込んでくることがあるが、一緒に眠るだけで他に何もないことは言うまでもない。

 最近はアヴェンクレトが裁判関係で忙しくしているため、竜也の身の回りの世話はネフェルティ付きの女官が担当するようになっている。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 パンと果物をお茶で胃袋へと流し込み、竜也の夕食は終了した。創意工夫を凝らした、それでいて素材の持ち味を生かした料理の数々は少し前なら喜んで全て食べられただろう。だがそれらは今は全く竜也の喉を通らなかった。ネフェルティが心配そうに竜也を見つめるが、竜也はそれに気付かないふりをするしかない。

 船に隣接するサウナで一汗流し、身体を洗う。湯船のある日本式の風呂は別途建設中だった。

「気兼ねなく日本式の風呂に入るためにもこの丘の上水整備が出来たらいいんだが」

 飲料水のためならともかく、風呂の水のために使用人の負担を増やすことには抵抗がある竜也だった。

 入浴後、竜也はまた仕事をするために執務室に戻ろうとしていた。その道中、総司令部となっている船の影から聞き覚えのある声が聞こえてくる。

「あんたのコネで何とかならない?」

「ですが……」

 竜也は角を曲がって向こう側を覗き込む。ヤスミンとハーキムが何やら揉めているような様子だった。

「あ、タツヤ!」

 ヤスミンが竜也に気付いてその名を呼ぶ。ハーキムは「しまった」と言いたげな表情をした。

「どうしたんですか? 二人とも」

 ヤスミンは制止しようとするハーキムの腕をすり抜け、竜也の前に進み出た。

「ねえタツヤ、あんたの力を貸してほしいの。わたし達の一座を東に行く船に同乗させてくれない?」

「東に?」

「うん。町がこんな状態で、劇なんか上演しても全然客が入らないの。このままじゃおまんまの食い上げだから、もっと東の町に行って劇をやりたいのよ。ねえ、お願い!」

 ヤスミンは手を合わせながらタツヤを拝む。竜也は「劇を……」と呟いて何か考え込んでいる。期待に満ちた瞳を竜也に向けるヤスミンに、

「ヤスミンさん、ただでさえ大変なタツヤにこれ以上無理を言わないでください。タツヤは皆を守るために働いているのですから」

 ハーキムはヤスミンを諭すが、ヤスミンは反発した。

「敵なんて全然来てないじゃない! 今町がどうなってるか判ってるの? 人はいなくなるし物価は上がる一方で、この町に来てから稼いだお金なんてもうすぐなくなっちゃうわよ! わたしだって劇で食べられる分だけでも稼げるのなら、あんた達を煩わせたりはしないわよ!」

 ヤスミンの言葉に、ハーキムは苦々しげな表情を彼女へと向ける。ヤスミンはそれを、怒りに満ちた瞳で真っ向から迎え撃った。

「――劇で稼がせてあげます」

 不意に竜也がそう言い、ヤスミン達が「は?」と竜也の方を向いた。竜也が続ける。

「この町で、東の町で劇を上演してもらいます。無料かそれに近い値段で上演するけど、その分総司令部から給金を出して補償します。それで構いませんね?」

「あの、タツヤ。何の話?」

 戸惑うヤスミンの問いに竜也が答えた。

「『七人の海賊』、あれを各地で上演してもらいます。ヤスミン一座だけじゃなくていくつもの劇団に」

 頭上に疑問符を浮かべているヤスミンやハーキムを放置し、竜也は話を進める。

「アンヴェルの下にいる芸人を集めさせて、明日……は無理か。出来るだけ早く説明を。ああ、それまでに『七人の海賊』を改稿しなきゃ、今日も徹夜か。ハーキムさん、すぐに改稿作業に入ります。ヤスミンさん、またその時に!」

 竜也はハーキムを引きずり総司令部へと入っていく。ヤスミンはそれを呆然としたまま見送った。







[19836] 第14話「黄金の国」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/11/27 21:02


「黄金の帝国」・迎撃篇
第14話「黄金の国」その2










 タシュリツの月・11日。

 ガリーブの元からザキィがやってきて、イナブの丘の総司令部周辺を確認して回った。

「ふもとの泉から丘の上までが遠すぎます。あのような構造物は現実的ではないですね」

 ザキィは視察の結果をそう結論づけた。竜也は「そうか」と落胆する。そこにザキィが「ですが」と提案した。

「井戸を掘ってはどうでしょうか?」

 竜也は首を傾げる。

「湧き水があるんだから井戸も掘れるだろうが、丘の高さは見れば判るだろう? それこそ現実的じゃないんじゃないのか?」

「ええ、普通ならそうですが、見たところこの丘は石灰岩が多いようです。地下が空洞になっているかも知れない。もしそうなら大して深く掘らなくても地下水にたどり着けるかも知れません」

「それなら任せる。人手はこちらで用意しよう」

 竜也は速やかに決断を下した。

 後日、掘削場所を決めるために、L字型の2本の棒を持ったザキィが大真面目な顔で丘の上をうろうろしている姿が見られ、竜也は笑いそうになるのを我慢した。ザキィが決めた掘削場所には既に木造小屋が建っていたのだが、竜也の要請で小屋は別の場所に移動させられる。小屋を使っていた官僚達も移動に対しほとんど文句を言わず、井戸掘りは速やかに進められた。




















 タシュリツの月・13日。

 ナーフィア商会代表のナーフィアが総司令部を訪れた。トズル方面からはマグドとライルが総司令部にやってきている。この両者と、竜也とアンヴェル、合計5人が総司令部の執務室に揃い、顔を会わせていた。

「東ネゲヴ各地の鉱山で使役されていた戦争奴隷、合計二千人の譲渡契約書です」

 竜也はナーフィア商会だけでなく他の商会が所有する戦争奴隷も総司令部で買い取るつもりにしており、ナーフィアが手にする契約書に署名をすれば取引は成立するはずだった。

「その二千人は俺のところに回してもらえるのか?」

「そのつもりだ」

 竜也の答えにマグドが相好を崩す。だが、

「お待ちください、独裁官。この契約書にはまだわたし達の署名がなされていません」

 竜也の顔から表情が消える。無言の竜也にナーフィアが続けた。

「奴隷を譲渡するに当たり、いくつかの条件があります。こちらです」

 ナーフィアが何らかの書類を竜也へと渡す。竜也がそれを読む左右からマグドとアンヴェルが覗き込んできた。読み進むマグドとアンヴェルの顔が怒りに歪む。

「……総司令部独裁官令第12号、確かこれは西ネゲヴの難民を奴隷として売買することを禁止するものだった」

「はい。その法令の廃止をお願いします。戦争奴隷を失った穴は、西ネゲヴの難民で埋めたいと思います」

 アンヴェルがナーフィアに何か言おうとするが、ナーフィアに一瞥されそのまま言葉を飲み込んでしまった。マグドは殺気に満ちた目をナーフィアに向け、ナーフィアはそれを涼しげに受け流している。

「……戦争が始まればエレブ人の奴隷が大量に手に入るだろう。それを待つことは出来ないのか?」

「わたし達に大砲や銃、矢に槍に剣を大量に注文したのはどなたですか? 鉱山から鉄を掘り出さないことにはこれらの注文に応えることが出来ません。武器が足りずに戦争に負けるのは独裁官も望むことではないでしょう?」

「確かにその通りだ。だが」

 竜也はナーフィアの持ってきた書類を二つに裂いた。

「この要求には応えられない。――ことのついでだ、前から考えていたことを実行しよう」

 竜也は二つに裂いた書類の裏に何かを走り書きで書いていく。少しの時間を置いてそれを書き終え、ナーフィアの鼻先に突き付けた。

「総司令部独裁官令第58号としてこれを布告する」

 ナーフィアが冷たい表情でそれを読む。アンヴェルとマグドがナーフィアの左右からそれを覗き込んだ。





「鉱山労働者の処遇についての改善。西ネゲヴ難民だけでなく、犯罪者を除く全ての労働者に対して適用する。

1.労働に対して対価を払う。

2.監督者による鉱山労働者への暴行禁止。

3.1日の労働時間の限度を8時間とする。4時間働かせたら1時間休養を取らせる。

4.5日間連続で働かせたら1日以上の休養を取らせる。

5.防護具の着用を義務づける。

6.充分な食事を提供する」





 文面を読んだマグドが口笛を吹いた。

「こいつは傑作だ! あの地獄の穴蔵が天国になっちまう!」

 一方のナーフィアは氷の刃のような視線を竜也へと向けた。

「……これを実行することで、わたし達鉱山所有者に何の得があると? わたし達に一方的に負担を押しつけようと言うのですか?」

 が、ナーフィアの問いに竜也は苦笑を漏らした。ナーフィアが戸惑ったような表情を見せる。竜也は先ほどまでの敵対的な態度が嘘のように、微笑みながらゆっくりと説明した。

「こんな処遇改善をしたら鉱山労働者が働かなくなってしまう、ナーフィアさんはそれを心配しているんでしょう?」

 ナーフィアが無言で頷き、竜也は説明を続けた。

「今の処遇というのがどんなものなのか、まず考えてみてください。……1日に十数時間も働かせ、全く休みなし、防護具もなく、食事もろくに提供されず。働かない奴隷を無理矢理働かせるために監督者が暴力を振るい放題。油断をすれば奴隷が暴動を起こすから、一定数以上の武装した監督者が不可欠。酷使された奴隷がすぐ死ぬからまた買ってくる必要がある。――じゃあ、それが全部逆になるとしたら?」

 ナーフィア達が目を見開いた。アンヴェルとマグドが推測を述べる。

「……充分な休養が取れて、防護具もあり、食事もちゃんと食べられる」

「少なくとも暴動は起きんだろう。監督者は武装する必要がないし、数も最低限で済む」

「奴隷が長持ちするから度々追加で買ってくる必要がない……思ったよりも損はしないで済むかも知れません」

 ナーフィアは不満そうな表情で反論した。

「ですが、そんな環境で奴隷がまともに働くとは思えません」

「休みも取れず食事もまともに与えられず、暴力を振るわれる環境で誰がまともに働きますか? 監督者がいなければ全力で仕事を怠けるに決まっているでしょう? 労働者が逃げ出さない環境を整えて、後は懸命に働く動機付けをすれば良いんです」

「動機付け?」

「ええ。鉱山なんだから、掘り出した鉱物の量に応じて給料を支払うようにすれば良いだけです。労働者を班に分けて、一番沢山鉱物を掘り出した班に報奨金を出すのも効果的です。あとこれは俺のいた国で採られていた方法だけど、鉱山の前に娼館を用意する。利用料は低めに抑えて、その日1日もう少し頑張って稼げば娼館に行けるようにするんだ」

 マグドが「そいつは効果的だ」と笑う。ナーフィアはまだ渋い顔をしているが、先ほどまでの氷のような鉄面皮ではない。処遇改善の実現を本気で検討している証拠だった。

「……確かに、それだけ条件を整えれば労働者は充分な働きを見せることでしょう。損失もそれほど大きくならないかも知れません。ですが、わたし達鉱山所有者が今よりもかなり利益を失うことには変わりないのではないですか?」

「その不利益は別のところで補えると思います」

「別のところとは?」

「『難民の窮乏につけ込んで生き血をすする吸血鬼』、そんな悪評や、難民等の恨みや憎悪を免れること。難民に働きやすい職場を提供し、社会的な尊敬を得ること。それらは利益にはなりませんか?」

 ナーフィアは目を瞑り、長い時間沈黙した。やがて、ため息と共に笑みを漏らしたナーフィアが竜也に告げる。

「……負けましたわ、独裁官タツヤ。ナーフィア商会は鉱山労働者の処遇改善に全面協力することを約束しましょう」

 竜也もまた安堵の笑みを見せる。竜也とナーフィアは手を伸ばし、固く握手を交わした。その二人にマグドが、

「それはいいが、戦争奴隷二千人の譲渡を忘れてくれるなよ」

 竜也とナーフィアが「ああ、忘れてました」と声を揃える。マグドが「おいおい」と突っ込み、その場は和やかな笑いに包まれた。




















 タシュリツの月・15日。

 その日総司令部に集められたのは、ヤスミンを筆頭とするアンヴェルの下にいる芸人達。ナーフィア商会と無関係な旅芸人達も多く集められている。

「皆さんには、この町・東ネゲヴ各地である劇を演じてもらいたい。劇の題名は『七人の海賊』」

 竜也は一同にそう告げて、刷り上がった脚本を全員に配らせた。一同はその脚本に目を通そうとする。竜也は内容を簡単に説明した。

「舞台はネゲヴのどこかにある漁村、ヌビアの村。その村はエレブの海賊に目を付けられていて、破産寸前になっている。海賊の横暴に我慢できなくなった村人が集まって決意するんだ――『傭兵を雇うだ!』」

 そして村人の助けに応え、集まってくる海賊達。後の海賊王ゴムゴムア、弓の名手カウス、放浪の剣客シノン、金獅子族の戦士、赤虎族の戦士、バール人商人、アシューから流れてきた傭兵。

 村人の中心となるのは、以前その村に漂着したヴォークリィエの少年である。彼は太陽神の巫女と協力し、村人をまとめ、戦いを主導していく。

 凶悪で残忍なエレブの海賊に怯む村人達。だが太陽神の巫女が士気を鼓舞し、ヴォークリィエの少年が知恵を絞り、海賊王達が武勇を示すことで、村人達も勇気を振り絞ってエレブの海賊に立ち向かうようになっていく。

 手に汗握る戦いの末エレブの海賊は撃退され、村には平和が取り戻される。海賊王達が村を去っていくのを、ヴォークリィエの少年と太陽神の巫女は手を結んで見送るのだった――。

「……随分変わってる」

 改変前の脚本を知っているヤスミンがそう呟いた。まず敵がただの海賊から「エレブの海賊」に特定されているし、舞台の貧乏漁村には聞いたこともない「ヌビア」という名前が付けられている。七人の海賊のメンバーが大分替わっているし、その中の誰も戦いで死んでない。元の脚本には登場しなかったヴォークリィエの少年と太陽神の巫女が、海賊王を尻目に主役扱いである。

「総司令部が上演を援助するから皆さんは採算等は考えずに、一人でも多くの人にこの劇を見てもらえるよう努力してほしい。まずはこの町でヤスミン一座がこの劇を上演するから、それを見て演技や演出の参考にしてくれ。どこの一座がどこの町で上演するか、担当の割り振りをするから、各一座の代表は前へ」

 一同が事務官の前に進んでそれぞれの担当地区を決めているのを横目で見ながら、ヤスミンは竜也のところに向かった。

「……本当にこんな大勢で上演するんだね」

「ヤスミン一座だけじゃ東ネゲヴ全土は回れないだろ。今回は仕方ないと思ってくれ」

「別にいいけど……」

 ヤスミン一座だけで「七人の海賊」を独占できないことわだかまりを抱きながらも、ヤスミンはそう納得して見せるしかなかった。ヤスミンは話題を変えるためどうでもいいことを質問する。

「ところで、ヌビアってどこにある村?」

「元々はケムトの南の方の地名だから、あるとしたらその辺かな」

 名もなき貧乏漁村に「ネゲヴの別名とか古語とか雅語とかの名前を付けたい」と要求したのは竜也であり、「ヌビア」という村名を提案したのはハーキムである。ハーキムは竜也にこのように説明した。

「――ウガリット同盟よりも古い時代、エレブはケムト南部から大量の黄金を輸入していました。このためエレブはケムト南部のことを、古いケムト語で『黄金』を意味する『ヌブ』にちなみ、ヌビアと呼ぶようになります。やがてこの言葉はネゲヴ全体を意味するようになりました。ですが、バール人がエレブに入植しバール語が浸透するにつれ、この言葉は使われなくなったのです」

「ヌビア……『黄金の国』か。良い名前だ」

 ネゲヴにもその単語が輸入され、ネゲヴの知識人も自分達の大陸のことをヌビアと自称していた時期があった。1500年ほど忘れられていたその地名を竜也は思い出させたのである。















○注釈 「ヌビア」という単語が北アフリカ全域を指して使われた事実は現実にはありません。あくまでこの小説の中のこの世界の設定です。







[19836] 第15話「キャベツと乙女と」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/10/22 20:21





「黄金の帝国」・迎撃篇
第15話「キャベツと乙女と」その1










 タシュリツの月・17日。

 今日も今日とて総司令部の執務室で書類仕事に追われている竜也だが、

「サフィール、治安警備隊の方はどうなっている?」

 そのふとした合間にサフィールにそう訊ねた。竜也からすれば世間話の取っ掛かりに過ぎない質問だったが、サフィールからすれば「来るべきものがついに来た」というところである。

 眦を決したサフィールが竜也を見据え、懐から虎の巻みたいな巻物を取り出して勧進帳の弁慶みたいにそれを広げた。予想外の反応にぽかんとした竜也に相対し、サフィールがそれを朗々と読み上げる。

「上書して法を重くして盗を禁ぜんと請ふ者あり。君曰はく、当に奢を去り費を省き、徭を軽くし賦を薄くし、廉吏を選用すべし。民をして衣食余り有らしめば、自ら盗を為さざらん。安くんぞ法を重くするを用いんや」

「ちょっ、ちょっと待ってくれサフィール」

 竜也は焦ったようにそれを止める。サフィールもまた「は、はいぃ?」と泡を食ったようになりながら朗読を止めた。

「……ええと、とりあえずそれを読ませてくれないか」

「あ、はい」

 サフィールが差し出した巻物を受け取り、竜也は中身を読もうとした。恐ろしく装飾過剰で古くさく堅苦しい文面で、竜也にとっては解読は途轍もなく面倒だったが、ざっと目を通して何とか大意を掴む。

 冒頭は要するに「避難民の衣食住を保証することが最大の治安警備だ」という竜也の出した基本方針を褒め称える内容で、実は単なる前置きである。竜也は脱力しそうになりながらも先を読み進めた。

「……ええっと、今治安警備隊が抱えている問題は、糞尿が上手く回収できない、糞尿処理の仕事に人手が集まらない、治安警備に人手が足りない……そんなところか?」

「は、はい。そんなところです」

 リフヤと二人で推敲を重ね、二晩徹夜して書き上げた大作が数文に要約されてしまった事実に、サフィールはかなりしょんぼりする。そんなことを知る由もない竜也は、

「それじゃ対策を考えてみようか」

 と更なる難題を突き付けてきた。

「まずは『糞尿処理が上手く回収できない』、これの対策だ。サフィールはどうすればいいと思う?」

「……ええと、その、牙犬族の村では糞尿を肥料にするのが当たり前ですが、この町ではそうなっていません。だから厠の構造も糞尿の回収を考えておらず、それで苦労しているそうです」

 そんなに簡単にリサイクル文化は根付かないよな、と竜也は独り言ちた。現状をまとめたサフィールは提言へと移る。

「だからまず町民に厠を造り直させれば……造り直さなければ斬ることにして」

「いやちょっと待て」

 竜也が思わず口を挟んだ。「は、はい?」とサフィールが声を裏返させる。

「ええっと、厠を造り直すのは必要だけど、無理矢理やらせるのは問題がある。町の人達が自発的に改造するように促すのが望ましい」

「え、ですがそんなことが」

「大して難しくはない、総司令部が金を出して糞尿を買い取るようにすれば良いんだ」

 竜也の発案にサフィールは呆然とする。

「で、ですがそんなお金が」

「勿論買い取り価格は低めに抑える。それでもかなりの額になるが、下水道整備よりは安く済むだろう。金になるとなれば人手だって自然と集まる。糞尿が肥料になればそれを売ることも出来る。いずれは採算が合うようになるさ」

 竜也は官僚の一人を呼んで糞尿買い取りの立案を指示した。

「必要予算を総司令部で計上して企画立案させる。リフヤさん達と調整して実行に移してもらおう」

「は、はあ」

 サフィールが呆然としている間に問題の二つが処理されてしまっていた。そんなサフィールを放置したまま竜也は三つ目の問題の処理に掛かる。

「最後の問題は『治安警備に人手が足りない』か。サフィールはどうすればいいと思う?」

「は、はい。我等牙犬族が気合いを入れて頑張ればいいかと……頑張らなければ斬ることにして」

「サフィールはまず斬るから離れよう」

 竜也の言葉に、サフィールは何故か息が止まるほどの驚きを見せた。竜也はそんなサフィールを放置したまま、

「とりあえず軍の方から巡回の兵を回してもらおうか。それで急場を凌いで、その間に根本的な対策を考えよう。サフィールもそれで良いか?」

 サフィールは「は、はい」と反射的に返答した。

「……今挙がっている問題には一応対策を立てたわけだけど、これからも問題は次々と出てくるのは間違いない。サフィールはそれを把握して、小まめに報告してほしい」

 竜也が微笑みながらサフィールにそう言う。が、サフィールは思い詰めた表情を竜也へと向けた。

「タツヤ殿。わたしみたいな者が連絡役で本当に良いのでしょうか? もっと相応しい者が他にいくらでも……」

「じゃあサフィールが連絡役に相応しいと思うのは誰だ? 牙犬族の中で」

 竜也の問いにサフィールは考え込む。かなり長い時間考え込んで、結局誰の名前も出てこなかった。竜也は再び微笑む。

「最初から何もかもを完璧に出来るわけじゃないさ。ミカやアンヴェル達も、俺にしても色々失敗を重ねている。自分に知恵や力が足りないと思うなら、それは人から借りればいい。俺だって大威張りでそうしている」

 と竜也は偉そうに胸を張る。

「まずサフィールは肩の力を抜くことだ。世間話の延長で警備隊の現状をしゃべってくれれば、最初はそれでいいんだ」

 竜也の言葉に色々と考えている様子のサフィールだが、やがて気合いを取り戻して決然と顔を上げた。

「判りました、確かに一度や二度の失敗で落ち込んでいる暇はありません! 早速父上のところに行って世間話を聞いてきます!」

 と執務室を飛び出していきそうになるサフィール。竜也は何とか無理矢理それを止め、少なくても今日1日は竜也の側で警備するよう厳命した。




















 タシュリツの月・22日。

 総司令部で書類仕事を続けている竜也の元に、井戸を掘っていたザキィが駆け込んできた。

「独裁官! 空洞が見つかりました!」

「本当か?」

 竜也はザキィの案内で掘削現場へと向かった。井戸は10人程の人足により交代で掘り進められ、10m程度の深さに達している。竜也は縄梯子を使って井戸の底に降り立つ。そこには奈落まで続いているかのような黒い穴が空いていた。

 竜也は穴の中に首を突っ込んで覗き込んだ。真っ暗闇で何も見えない。

「少し潜ってみましたが、かなり深い穴です。底の方から水の流れる音がかすかに聞こえました。岩を削って垂直に穴を開けられれば井戸を作れます。独裁官の提案通り風車を設置すれば、井戸が深くても水を汲み出す手間は掛かりません」

「……」

 その報告を聞いた竜也は少しの間無言で考え込んだ。そして、ザキィを連れて総司令部へと戻っていく。さらに竜也はゼッルを呼んだ。

 今、執務室にいるのは竜也とザキィとゼッルの3人だけだ。ザキィは竜也達の様子に戸惑った様子を隠せないでいた。

「ここの地下に洞窟が発見されたが、一般には洞窟じゃなくただの岩の裂け目、ただの井戸だってことにする。洞窟にどの程度の大きさがあるのか、どこまで伸びているのかを警護隊で内密に確認してほしい」

 ゼッルは竜也が求めていることを素早く理解した。

「なるほど、秘密の抜け穴にするおつもりですか」

「その通りだ。海側に抜ける穴を掘って、出口には船も用意しておこう」

 竜也はザキィの方へと向き直った。

「ザキィさんには井戸掘りとは別に、抜け穴を掘り抜けるための工事もお願いしたい。海側に出口を作るが、海水が入ってこないよう注意してくれ。抜け穴工事はあくまで内密に。人手や工事日程についてはゼッルさんとよく相談してくれ」

 竜也の指示に、ザキィは頷く他なかった。




















 タシュリツの月・25日。

 イブン=カハールが約1ヶ月ぶりにエレブから戻ってきた。

「タツヤ、久しぶりだな」

「お元気そうで何よりです」

 イブン=カハールは竜也の指示通りにこれまで数回報告書を提出していたのだが、1月か2月に1回はネゲヴに戻って直接会って報告するつもりでいた。今回はその1回目である。

 竜也は執務室にエレブの地図を広げた。

「ここがディウティスク王国、ここがフランク王国、ここがブリトン王国、ここがレモリア王国、ここがイベルス王国。そしてここが教皇庁のあるテ=デウム」

 元の世界のドイツやオーストリアに相当するのがディウティスク、フランスに相当するのがフランク、イギリスに相当するのがブリトン、イタリアに相当するのがレモリア、スペインやポルトガルに相当するのがイベルス。この五ヶ国がエレブの五王国と呼ばれている。

 だが五王国ともその王権は強くない。五王国を構成するのは無数の封建領主であり、王室はその中で相対的優位を保っているに過ぎない。各領主にとって王室は盟主ではあっても、主人では決してない。何らかの理由で王室の力が弱まれば別の有力領主を盟主として推戴し王室として仰ぐだけであり、王朝の交代は頻繁に起こっている。

「このディウティスク王国より北はどうなっているんですか?」

「正直言ってよく判らない。エレブ人にとっても北は未開の地・異教徒の地で、情報が入ってこないのだ」

 基本的なところを再確認した上で、竜也はイブン=カハールから報告を受ける。

「以前の報告書にも書いたが、テ=デウムの教皇庁から十字軍に派遣されているのが枢機卿アンリ=ボケ。十字軍の実質的な最高司令官と見て良い。教皇庁に属する聖堂騎士団出身で、殺した異端の人数で枢機卿まで出世したような人物だ」

 テ=デウムは預言者フランシスが最初に布教を開始した地で、十字教の聖地の一つであり、現在では根拠地である。場所はフランク王国南部、元の世界で言えばフランスのリヨン近辺となる。

「軍事面にも明るい、ってことですよね」

「そうだな。指揮官として特別優れているという話は聞かないが、百万人の大遠征を曲がりなりにも続けさせているのだから決して無能ではないのだろう。

 『特別優れた指揮官』として有名なのは、ヴェルマンドワ伯ユーグだ。フランク国王の弟で、十字軍の実務上の総司令官と見て良い。他に注意が必要なのは、先鋒を務めているトルケマダか。アンリ=ボケの右腕としてこれまで無数の異端を殺してきた。タムリットであれだけの惨劇が起こったのもこの男が先鋒だったのなら何の不思議もない。何も起こらなかったらむしろその方が不思議だ」

 十字軍先鋒トルケマダ。竜也はその名を胸に刻み込んだ。竜也は別のことを訊ねる。

「ところで今のエレブの状況はどうなっているんですか?」

 イブン=カハールがその答えを返すのに、少し間が空いた。

「……まだ破綻していないがその兆候があちこちに見えている、というところか。十字軍の通り道にあった町や村は無理矢理食料を供出させられたので人々が逃げ出し、未だ無人のままのところが多い。莫大な出征費用を負担させられた諸王国や領主は破産寸前になっている。破産して夜逃げした領主も現れているらしい。騎士も兵士も残っていないから盗賊が横行している。借金を踏み倒された商人も続出しているし、重税に耐えかねて逃散する農民も後を絶たないそうだ」

 何故そんなことが可能となったのか、完全に判る人間はおそらくどこにもいないだろう。長らく続いた戦乱の終結、兵と騎士の失業問題、頂点に達した十字教と教皇の権威、教皇インノケンティウスの意志と政治力とプロパガンダ能力、エレブの生産力の拡大、エレブの政治状況、民衆の置かれた環境……偶然や幸運も含む様々な要因が積み重なり、百万という空前の大遠征軍が本当に実現してしまった、としか言いようがない。

 だがこの世界には無から有を生み出すような便利な魔法は存在しない。百万の大遠征軍を生み出し、存続させるには、誰かがそれだけの負担を背負わなければならない。それが諸王国や領主であり、バール人商人であり、最終的には全てのしわ寄せが民衆に集まる、ということなのだ。

「……ディウティスクの北に使者を送って、ネゲヴと北でエレブを挟み撃ちにすることを一案として考えていたんですけど」

「ほとんど意味はないな。まず、北にどのくらいの兵力があるのか何も判らない。少なければ盗賊紛いのことしか出来ないだろうが、今のエレブには盗賊など羽虫よりも数が多い。わざわざ北に依頼するまでもない。可能性は低いが、もし一国に比するくらいの規模があるのならエレブの現状を見て勝手に何らかの行動を起こすだろう。使者を送るには多大な労力が必要となるが、いずれにしてもそれに見合う成果が得られるとは思えないということだ」

 確かに、と竜也は頷く。「エレブの北との連携策」は竜也の中でゴミ箱行きとなった。

「十字軍が勝利してネゲヴの全てを手に出来たとしても、即座に負担が埋め合わせられるわけではない。払った犠牲に見合うだけものが必ず手に入るとは限らない。戦いの結末がどうなろうと何らかの争乱は起こる。エレブは変わらざるを得ないだろう」

「もし負けたなら?」

「その時は、何が起こるか見当もつかんな」

 とイブン=カハールは肩をすくめた。

「それはまあ、実際に見ていれば判ることです。十字軍敗北後のエレブの状況報告もお願いします」

「良かろう」

 イブン=カハールはにやりと笑い、竜也の要請にそう答えた。




















 タシュリツの月・30日、その夜。

 竜也は日中と変わらず総司令部で仕事に追われている。その一方、船では竜也の側近とされる女性メンバーがお茶を囲んで休憩を取っていた。そのメンバーとは、ネフェルティ・ミカ・アンヴェル・アヴェンクレト、そしてサフィールである。元々はただの護衛で剣を振るうしか能のない自分がネフェルティ達と同等のように扱われている現状に、サフィールは居心地の悪さを感じていた。

 独裁官になったからと言って衣食住は庶民の頃と大して変わらない竜也だが、お茶や珈琲、菓子等の嗜好品はその例外である。もっとも竜也には贅沢をしているつもりなど微塵もない。ただ21世紀の日本の感覚で、食べたい・飲みたいと思った物がすぐに用意されるようにしたかっただけである。その結果、船には各地から取り寄せられた・寄贈されたお茶や珈琲、菓子が溢れている。竜也が喫食しない分は彼女達が消費するのがいつものパターンだった。

「あ、サフィールさん。タツヤさんからこれを渡すよう頼まれたんですけど」

 とアンヴェルがサフィールに何かの袋を渡している。サフィールは首を傾げながらもそれを受け取った。

「何ですか、それは?」

「ああ、そう言えば警護隊の者がほしがっていることをタツヤ殿に話しましたが」

 とサフィールが何かを思い出しながら袋を開け、ミカはそれを横から覗き込む。袋を開けた途端、特殊な、独特の薬草の臭いが部屋中に広がった。

「こ、この臭いは……!」

「ま、まさかアナトの毒草?」

 ミカとネフェルティが顔色を変え、大慌てで部屋の片隅へと逃げていく。二人のそんな反応にアヴェンクレトとサフィールは唖然とする他ない。ミカとネフェルティが部屋の片隅で顔を青ざめさせ、アヴェンクレトとサフィールはぽかんとした表情を浮かべている。 そんな有様を見守っていたアンヴェルが苦笑しながら一同に説明した。

「ネフェルティ様、ミカさん、これは確かにアナトの薬湯です。アナトの薬湯は恩寵の民の女戦士がよく飲んでいるんです」

「あ、アナトの毒草の効用は」

「一定量を一定期間飲み続けると、子供を身籠もらなくなります。飲むのを止めればまた子供を授かる身体に戻ります。恩寵の民の女戦士にはそれが必要なんですよ」

 一般的に、恩寵の民は男よりも女の方が強い恩寵を授かる傾向にある。だからある程度以上の水準となれば、恩寵を持つ女戦士は男の戦士と同等以上に戦うことが出来る。だが女に授けられた恩寵は、子供を妊娠・出産するとそのほとんどが失われてしまうのだ。

 ちなみにこの世界の性道徳や貞操観念は庶民に関して言えばかなり緩やかで、21世紀の日本と大差ない。処女でなくても結婚にはほとんど差し支えはないし、離婚や再婚も何一つ珍しい話ではない。ただし、社会階層が上に行くほどより厳しい貞操観念が求められるようになる。ネフェルティやミカのような王族の子女ともなれば、婚前交渉が決して認められないことは言うまでもない。

 アンヴェルの説明に、ネフェルティとミカはようやく得心したような顔をした。一方まだ不思議そうな様子のアヴェンクレトとサフィールにミカが説明する。

 王家の息女にとって最大の役目は良家に嫁いで子供を産むこと。アナトの薬湯はそれを妨害する絶好の武器であり、宮廷の陰謀劇では何らかの形で必ずこの薬湯が登場する。ネフェルティやミカは自己防衛のためにこの「毒草」の臭いや味を覚えさせられているのだ。忌まわしい、陰惨な陰謀劇の数々の記憶と共に。

 アヴェンクレトやサフィールが納得し、ようやく一同が落ち着きを取り戻した。そこにアヴェンクレトが、

「それを少し分けてほしい」

 とサフィールに頼んでくる。

「別に構いませんけど、誰が飲むのですか?」

「わたしが飲む」

 アヴェンクレトのその即答にサフィールは口を開けたまま硬直。ミカは手にしていたティーカップを落としそうになった。

「ま、まさかタツヤ殿にそんな趣味が」

「あ、あの下郎。あの時に射殺しておくべきだったか」

 と動揺するサフィールとミカ。一方ネフェルティとアンヴェルは中途半端な苦笑っぽい表情を浮かべている。

「あの、アヴェンクレトさん。そんな見栄を張ってもタツヤさんの名前に傷を付けるだけで誰も得をしませんよ?」

「タツヤ様が貴方をどれだけ大切にしているか、誰よりもお判りのはずでしょう?」

 アンヴェルとネフェルティが二人がかりでたしなめる。アヴェンクレトは羞恥に顔を赤くし、部屋から脱兎のごとく逃げ出していった。そんな少女をネフェルティ達は苦笑しながら見送る。

「……あの子があんな嘘をつくとは。驚きました」

「あの子には嘘は通用しませんが、あの子自身も嘘がとても下手なんですよ」

 アンヴェル達がアヴェンクレトをそう評した。

 こうして竜也の知らないところで竜也は社会的に抹殺されかかり、知らないうちにそれが何とか回避されていた。今夜の一幕も竜也に知らされることは決してなく、竜也は心の平穏を保ち続けるだろう。

 ……そして後日。サフィールは船を内側から警護する牙犬族の女剣士達の詰め所に行って、

「これはタツヤ殿からの差し入れです。皆で飲んでください」

 とアナトの薬湯を袋ごと置いていく。女剣士達は屈託のない喜びを見せ、早速そのお茶を入れて皆で飲むことにした。

「――あら、サフィール。貴方は飲まないの?」

「は、はい。わたしは別のところでちゃんと飲んでいますので」

 剣士の一人の問いにサフィールはそう誤魔化し、逃げるように詰め所から立ち去る。その剣士は首を傾げながらそれを見送った。













[19836] 第15話「キャベツと乙女と」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/11/27 21:04




「黄金の帝国」・迎撃篇
第15話「キャベツと乙女と」その2










 月は変わってアルカサムの月・1日。

 セフィネ=クロイ近海で海上臨検を実施していたハーディから竜也の元にある報告が送られる。それを受けた竜也はアヴェンクレトを連れて急遽スキラ港へと向かった。

 寄港する船の大部分をセフィネ=クロイ側に取られたスキラ港だが、港としての機能はまだ生き続けている。未だスキラから移動せずここを商売の拠点とする商会も多かった。

「セフィネ=クロイから近くて便利なのに、総司令部の目が届きにくい。悪さをする連中が巣窟とするのに最適ってことか」

「そんなところです」

 ハーディ達髑髏船団により抑留され、着港した船を見上げる。

「今回捕縛したのはカーセル商会のカーセル。このスキラを拠点とする、大手の奴隷商人です」

 船からは、まず縄で縛られた十人程の男達が兵士に連行されて出てくる。次いで、最後の力を振り絞っているような足取りで、何十人もの女性が。女性達は全員泥や垢に汚れ、襤褸布しか身にまとっていない。最後に船から出てきたのは、兵士が運ぶ女性の数体の死体だった。

 カーセル商会の男達は竜也の命令により縛られたまま路上に正座させられる。竜也とアヴェンクレトは手をつないでその前に並んで立った。子供連れの竜也の姿にカーセル達は嘲笑を浮かべるが、竜也はそれを全く意に介さずに彼等を見下ろしている。養豚場の豚を見る目でももっと暖かみがあるくらいの、氷点下の眼を向けていた。

「お前達は西ネゲヴで避難民を捕まえ、奴隷として売るために無理矢理スキラに連れてきた。間違いはないな」

「私は奴隷商人だ。商品を仕入れて何が悪い?」

 カーセルの年齢は40代くらい。痩せぎすだがそれなりに整った顔立ちの、バール人の男である。だが今その顔は悪意と嘲笑に歪んでいた。

「独裁官令第12号、西ネゲヴ避難民を奴隷として売買することを禁止する。知らなかったとは言わせない」

 竜也の追求を、カーセルは鼻で嗤う。

「知らんな? 私は貴様が生まれるずっと前から奴隷を売買しているのだ。貴様ごときに口出しされる謂われはない」

「……俺が第12号で禁止したのは、故郷を追われ、逃げ惑う西ネゲヴの民を嘘や暴力で拉致誘拐し、奴隷にしようとすることだ。通常の奴隷売買ならまだ合法の商売の範囲内だが、お前のやったのは拉致誘拐という犯罪だ。何か申し開きは?」

 カーセルは邪悪そのもの表情で、悪意の固まりみたいな言葉を吐いた。

「奴等は弱くて間抜けだから奴隷になったのだ! 強くして賢い者がそれを有効利用して何が悪い?」

「いや、何も悪くない」

 竜也の即答に、不意を突かれたカーセルが言葉を詰まらせた。

「お前がそう信じたいのなら信じればいい。ただ、今日からはお前がその『弱くて間抜けな奴』として扱われることになるだけだ」

 竜也は兵士にカーセル達の連行を命じる。カーセル達は兵士に引っ立てられ、牢屋へと向かって歩き出した。その途中、アヴェンクレトが前を通り過ぎる男の中で一番若い男を「これ」と指差す。竜也は兵士に、

「その男はこっちだ」

 と命じる。その一番若い男はカーセル商会の中でただ一人その場に残され、戸惑った表情を浮かべている。竜也はそれに構わずハーディ達と打ち合わせをした。

「……カーセル商会のような奴隷商人は他にも大勢いるんだな」

「疑わしい者はかなりの数になります。ただ、証拠がありません」

「そんなものは要らない。全員を集めろ」

 竜也はハーディにそう命じ、その日はそれでセフィネ=クロイへと戻っていった。




















 アルカサムの月・4日。

 その日、セフィネ=クロイとスキラ近隣の奴隷商人十数人が総司令部の一室へと集められた。奴隷商人は知り合い同士顔を寄せ合い、ひそひそと情報交換に勤しんでいる。

「カーセル商会が独裁官令第12号違反で逮捕されたと」

「カーセル商会の資産は全部没収。カーセルとその家族は奴隷として売却されたと聞いているが」

「それは事実です。買ったのは私ですから」

 シャッルという派手な優男がそんなことを言い出し、一同の注目を集めた。

「あの男に何か恨みでもあったのか?」

「そんなところです。いや、あの男のあんな姿を見られるとは。楽しくて仕方ないですね」

「……明日は我が身、という言葉を知らんのか?」

「ご心配なく。私はあんな間抜けではありませんから」

 シャッルはそう言って薄笑いを浮かべた。

 そんな話をしているところに、竜也がその部屋に姿を現す。奴隷商人達は口を閉ざし、姿勢を正した。

「今日は良く集まってくれた。感謝する」

 竜也の話はそんなおなざりな挨拶から始まった。

「諸君も聞いていると思うが、スキラの奴隷商人カーセルは独裁官令第12号違反により逮捕された。カーセル商会はシジュリで多数の避難民を奴隷にする目的で拉致した。だが使用人の一人が良心の呵責に耐えかねて、この事実を総司令部に告発してくれたのだ。私は彼の勇気ある行動を讃えるために、報奨金として1タラント金貨を進呈した」

 まず驚きが、次いで苦々しさに満ちた呻きが、静かにその部屋に広がる。1タラントは6000ドラクマ、1ドラクマは普通の労働者の1日分の稼ぎに相当する。つまり、1タラントあれば人一人が10年やそこらは遊んで暮らせるのだ。

 なお、金貨の進呈を受けたのはアヴェンクレトが選んだ男である。その男が別に善良だったわけではないが、彼はカーセル商会に加わったばかりで今回の拉致には関与していなかった。

(ま、まずい……うちは大丈夫か?)

 シャッルも含めてほとんどの商人がそんなことを自分に問い、即座に首を横に振った。1タラントもの大金に目が眩まない使用人が、ただの一人でもいるとは到底思えない。

「――ところで、西ネゲヴからセフィネ=クロイまでの難民の移送を自腹でやってくれた、義侠心に満ちた商人がここにいる」

 竜也はそこで言葉を切り、じっとシャッルを見つめる。竜也の視線を追った一同の目がシャッルへと集まり、シャッルは混乱し冷や汗を流した。

「――そこにいるシャッルは戦渦の西ネゲヴに行き、大勢の避難民を自分の船に乗せてこのセフィネ=クロイまで移送してくれたのだ。狭い船倉に強引に大勢を乗せたために、全員がここまでたどり着けたわけではない。怪我や病気を負った避難民も多い。だが、ともかく生命あってこの町まで移送してくれたことには、避難民に代わって感謝を述べたい。そして諸君もシャッルの義侠心を褒め称えてほしい!」

 竜也の言葉を受けて、一同がシャッルへと拍手を送る。自棄になったシャッルも両手を掲げてその拍手を受けた。

「なお、シャッルの義侠心に報いるために総司令部からは生存してセフィネ=クロイに到着した避難民一人につき100ドラクマの報奨金を支払う。また、航海費用は別途支給する」

 竜也の言葉にシャッルはあからさまに安堵する。一同の瞳にも理解の色が広がった。

 竜也の話が終わり、奴隷商人が解放される。一同は蜘蛛の子を散らすように総司令部から逃げ去っていった。

「……さて」

 総司令部のあるイナブの丘の上から、竜也はそれを冷たく見下ろしている。

「これだけ譲歩しても、まだ避難民を奴隷として売り飛ばすつもりでいる商人は……」

 隣室に控えていたアヴェンクレトが、今回集められた奴隷商人の名簿を竜也に渡す。その名簿の幾人かには、アヴェンクレトの手により印が付けられていた。

「いるのか。やっぱり」

 竜也は肩を落としながら、その名簿をハーディに渡す。

「生死は問わない、一人として逃がすな。捕まっている避難民も助けろ」

 竜也の冷徹な命令にハーディは無言のまま頷く。普段は好々爺としたハーディがいつになく凄味のある笑みを見せる。ハーディは港へと、自分の船へと道を急いだ。

 ……奴隷商人のほとんどは竜也の思惑通り、その日のうちに総司令部に「西ネゲヴから避難民を移送してきました」と申し出、報奨金を受け取っていた。一方セフィネ=クロイから逃げ出すことを選んだ数人の奴隷商人はハーディ達により捕縛される。竜也は彼等の全財産を没収し、さらに彼等を奴隷としてシャッル等に売却。総司令部の財政にわずかばかりの貢献をした。




















 アルカサムの月・5日。

 ナハル川の川岸は要塞化工事が急ピッチで進められている。ナハル川に浮かぶ二つの小島、ザウグ島・ザウガ島は完全な木の砦と化していた。高さは7m以上にもなる木製の壁がそそり立ち、その壁にはいくつかの小さな窓が開いている。各窓には弩が設置されており、標的を乗せた小船を相手に兵士達が弩の射撃練習を繰り返していた。

 ナハル川南岸のうち上陸が容易そうな場所には石材が積み上げられた。石材の凹凸は削り落とされ、隙間はセメントで埋められる。南岸には鏡のように輝く白い壁が並んでいた。海からスキラ湖までの10スタディアの間には半スタディアごとに櫓が建てられ、櫓には兵士が見張りに立っている。さらには櫓の間を埋めるように無数の篝火台が並び、槍を持った兵士が歩哨として行き来していた。

 海側の櫓に登っている兵士が紅白の旗を振る。手旗信号は櫓を伝わり、5スタディア内陸部に設置された野戦本部に届けられた。それと同時に伝令の早馬も野戦本部に到着した。

「独裁官が視察に来られたようです。出迎えましょう」

 周囲の部隊長にそう宣言したのはミカである。以前竜也はミカに「アミール=ダールが到着するまでの絶対防衛線の責任者を選出してほしい」と依頼したのだが、ミカは自分でその責任者に就任し、その地位を誰かに譲ろうとはしなかった。

「しかし」

 とミカは周囲の部隊長を睥睨する。

「早馬の連絡とほぼ同時では手旗信号の意味が全くないではないですか。担当の者は改善するように」

 伝令担当の部隊長が今にも舌打ちしそうな顔をした。ミカはそれに構わず野戦本部の天幕を出て行く。周囲の部隊長がのろのろとそれに続いた。

 護衛や側近を連れた竜也は、船を使ってナハル川にへとやってきた。

「少し来ない間に随分工事が進んだな」

 竜也はそう感嘆した。その隣でミカが偉そうに胸を張りつつ竜也に現状の説明をしている。その後方ではミカの部下の部隊長達が白けたような表情をしており、少し離れたところからアヴェンクレトが無表情のまま全体を見つめていた。

 短い時間だったが視察を終え、竜也達は町中の視察を兼ねて歩いて総司令部へと向かった。その道中、

「どうだった?」

 竜也がアヴェンクレトに訊ねる。アヴェンクレトは無言で竜也の腕を掴んだ。

(部隊長のミカへの反発がすごい。嫌々従っているだけ。それがタツヤへの反発にもつながっている)

 竜也は唸るしかない。部隊長として選ばれているのは、各地の傭兵団リーダーや名の売れた戦士達である。いくらアミール=ダールの娘であろうと高圧的に接すれば反感を買うのは当然だった。

(絶対防衛線のことはミカに丸投げしていたけど、やっぱりまずかったか……でも軍事面は門外漢だし、結局専門家に任せるしか方法はないんだけど)

(別にミカに拘る必要はない。あの中のサブルって人が周りの部隊長からも信用されていた)

(絶対防衛線はその人か誰かに任せるとしても、問題はミカの扱いだけど)

(命令して左遷すればいいだけ。ミカがいつもやってることと同じ)

(そうもいかないだろう)

 竜也はため息をついた。そうこうしているうちに竜也一行は町中へと入っていく。

 竜也が独裁官に就任して1ヶ月半近く。セフィネ=クロイの名前が完全に定着したナハル川南岸は次第に都市としての体裁が整いつつあった。元は森だった場所の木々は切り倒され、格子状に道路が作られている。町に並ぶ住居は大半が天幕だが、木造の小屋も増えていた。ローマ式の石造水道橋はようやく建設が始まったばかりで、今は木製の仮設水道橋で急場を凌いでいる。丸太を組み合わせて橋脚を作り、その上に内側をくり抜いた、半分に割った丸太を乗せて水を流すのだ。不格好ではあるが、都市の水源としては欠かせない存在となっていた。

 町の中央には大きな広場が作られ、大勢の人が集まっている。ヤスミン達が「七人の海賊」を上演しているのである。

「戦には旗印が必要だ」

 と劇中でバール人商人が用意していたのは、中央に大きめの丸印、その周囲に少し小さい七つの丸印が配置された、シンプルな旗だった。町の人々は劇の展開に熱中し、食い入るように舞台を見つめている。

 一方広場の片隅では、ネフェルティの部下が民衆を集めて説教を施していた。

「エレブの神は『自分以外に神はなし』と嘯く傲慢な神です。これと戦い、ネゲヴの地を守ることこそ我等の使命。太陽神に祈るのです。太陽神とネゲヴの全ての神々の加護が我等が戦士達にありますように」

 民衆はそれぞれのやり方で真剣に太陽神に祈っている。ネフェルティ等の信徒獲得は順調に進んでいるようだった。

 護衛を引き連れて視察に回る竜也の姿は、逆に町の人々の注目を集めていた。

「あれは総司令部の……」

「あれが独裁官じゃないのか?」

「どいつだ?」

「まだ子供じゃないのか?」

 竜也の容貌はそれなりに整っているが、自然と他者を圧倒したり他者の尊崇を集めたりするような、非凡なものでは決してない。服装も一庶民の頃と何ら変わりないため、竜也が独裁官だとは教えられない限りは決して判らない。そして教えられた人々の反応は、好意的とは到底言えなかった。

 民衆の冷ややかな視線を悟った竜也がアヴェンクレトと手をつなぎ、雰囲気の把握をしようとする。アヴェンクレトは躊躇いながらも竜也の指示通りに周囲の民衆の心を読んでそれを竜也へと流した。

(……何であんな奴が……)

(……俺達と何も変わりないじゃないか……)

(……敵なんて来やしないのに……)

(……あいつのせいで俺達はこんな苦労を……)

 敵意と言うほど深刻のものではない、現時点では。だが、「敵意の火種」と呼ぶべき危険な感情は民衆が薄く広く共有しているものだった。

(誰のために、何のために俺が……!)

 そんな憤懣を竜也は無理矢理飲み込んだ。竜也は逃げるように先を急ぎ、町中から立ち去っていく。そんな竜也の背中を民衆が冷めた目で見送っていた。




















 アルカサムの月・6日。

 その日、竜也は視察のために船でトズル方面を訪れた。

「しばらく来ないうちに、こっちも随分工事が進んだな」

 スキラ方面からトズルへとつながる山道には複数の関門が建設されていた。主に木材で築かれた強固な関門を竜也は馬で通り抜ける。竜也の案内にマグドとライルが同行した。

「山道を外れて回り込まれることはないのか?」

「山の中の獣道には罠を仕掛けてある。完全には防げないだろうが、後は見回りで対処するしかないな」

 竜也の質問にマグドはそう答えた。

「何、この藪の中では大軍の展開は不可能だ。それより全兵力を関門にぶつけてくる敵の方が面倒なんだが、そいつ等にはあれを使う」

 竜也達は山を登り切り、山頂へとやってくる。西を見れば広大なスキラ湖の西側が眼下一面に広がり、東を見れば今登ってきた山道が山を貫くように延びているのがよく見えた。そして山腹に、山を回り込むように運河が掘られているのが見える。

「あれがそうか?」

「そうだ。スキラ湖に流れ込む川の流れを変え、堰を築いてある」

 竜也は山頂から堰の姿を見る。堰の内側には小型ダムくらいの水が溜め込まれており、竜也は「大したものだ」と感想を漏らした。

「あれだけの水が溜まるのに何日掛かる?」

「半月は必要だ」

 竜也は難しい顔で考え込む。

「……それはちょっと厳しくないか?」

「何、やりようはある。戦争ってのはいつでもどんな戦いでも厳しいもんだ」

 マグドはそう言って肩をすくめる。竜也はそれ以上は問わなかった。

 トズル方面の野戦本部に戻った竜也は、マグドからその他の報告を受ける。それが終わると、今度は竜也の方からマグドに対しナハル川の現状について報告した。さらに、

「マグドさんにも相談に乗ってほしいんですが……」

 竜也は素に近い口調に戻って説明する。絶対防衛線の責任者がミカになってしまっていること、ミカの振る舞いが部隊長の反発を買っていること、等。

「ミカを防衛線の責任者から外して他の人間を当てるべきかと思うんですが、誰が良いかと思いまして」

 腕を組んで竜也の説明を聞いていたマグドは、

「――あの小娘のままで良いんじゃないのか?」

 と言い出した。マグドの言葉に竜也は驚く。

「その理由は?」

「例えばあの小娘の代わりに俺が絶対防衛線の責任者になったとしよう。まあ、俺ならそこそこ名前も売れている。実績もあるし歳も食っている。やんちゃな奴が下にいても使いこなす自信はある。絶対防衛線の将兵を掌握し、そのまま十字軍を迎え撃つところまで持って行けるだろう。

 だがあと一月もすればアミール=ダールがやってきて、その俺の上に立つわけだ。俺や、俺の下で頑張ってきた将兵がそれに納得できると思うか?」

 意表を突かれた竜也が大きく目を見開いた。

「……確かにそうかも知れません。きっとアミール=ダールもやりにくくて仕方ないでしょう。逆にミカの代わりがアミール=ダールなら将兵は大喜びで受け入れてくれるかも」

 竜也の言葉をマグドが「そういうことだ」と肯定する。そこにライルが口を挟んだ。

「あの子に他の仕事を振って、絶対防衛線の方に関わる余裕をなくしたらどう?」

 竜也は少し考え、ライルの提案を受け入れた。

「……そうですね。その方向で考えます」

 会談と打ち合わせは終了し、竜也は用意された船でその日のうちにセフィネ=クロイへと戻っていった。




















 アルカサムの月・8日。

 竜也はミカを総司令部へと呼び出し、ある辞令の発令を告げた。

「兵站担当……わたしがですか?」

「そうだ。武器・弾薬・食糧の確保、各戦線への補給、それをミカに任せたい。それ等は今までジルジスさんの管轄だったけど、それをミカの担当として分離独立させるってことだ」

「ですが、わたしには絶対防衛線が」

 とミカが渋い顔をする。

「絶対防衛線の責任者も引き続きお願いするけど、普段の仕事はサブルさんを責任者代理にして部隊長の皆に任せればいい。ミカが一から十まで口を出すんじゃなくて、部下が自分達で動くようにして監督だけすれば良いようにするんだ」

 竜也の言葉にもミカは「ですが……」と渋い顔のままである。

「何か問題でも?」

「……補給なんて、将軍の仕事とは言えません。そんなことはバール人に任せておけばいいのです」

 竜也の顔から表情がなくなる。竜也のまとう雰囲気が変わったことを察し、ミカは怪訝な顔をした。

「タツヤ?」

「……多分、エレブでも同じことを言っている奴がいるんだろう、『補給なんて将軍の仕事じゃない』『食糧は現地で調達すればいい』。俺達はその油断につけ込んで戦っている。徹底的にそこを突いて、百万全員を飢え死にさせるのが俺達の戦いだ」

 竜也は冷たい瞳をミカへと向けた。

「エレブの将軍の真似をするのか? ミカ。兵を飢えさせる者に将軍の資格はない。味方の損害を減らすには武器弾薬が不可欠だし、兵の士気や規律を維持するには充分な食糧が必要なんだ。それが理解できないか?」

「いえ、理解できます。兵站担当の役割の重要性も」

 ミカは姿勢を正してそう答える。

「アミール=ダールに『兵を飢えさせた将軍』なんて汚名を着せないためにも、ミカに兵站担当を任せたいんだ。やってくれるか?」

「判りました、微力を尽くしましょう」

 竜也の依頼にミカはようやくそう答える。竜也は密かに安堵のため息をついた。




















 アルカサムの月・13日。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 今日の竜也の朝食は、茹でキャベツのサラダ、それだけだ。竜也はついにパンにも手を付けられなくなっていた。ネフェルティが心配そうな瞳を竜也へと向ける。

「タツヤ様、少しだけ、今日だけでも総司令部のお仕事をお休みしてはいかがですか? 大事な身体なのですからご自愛いただかないと」

「そうもいかないだろう。今日は商会連盟と打ち合わせがある」

 食事を終えた竜也は身体をふらつかせながらも総司令部へと向かう。それを見送っていたネフェルティだが、意を決して竜也の元に駆け寄りその腕を取った。

「? 何を」

「おつらいのなら、わたしの方に体重を預けてください。少しは歩きやすくありませんか?」

 とネフェルティは優しく微笑む。思わず目が潤んでしまった竜也だが、そっぽを向いて誤魔化した。

「ああ、ありがとう」

 明後日を向いた竜也が礼を言い、ネフェルティが「いえ、お気になさらず」と受け流す。竜也とネフェルティは腕を組んで総司令部へと歩いていった。

 アルカサムの月・14日。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 今日の竜也の朝食は、コンソメみたいな味付けのキャベツの煮物。それだけである。

「わたしもそれだけでいい」

 とアヴェンクレトは竜也と同じ料理を同じ分量だけ食べた。二人の食事はあっと言う間に終わってしまう。

「いくら何でもそれだけじゃ足りないだろう。もう少し食べたらどうだ」

「タツヤが食べるならわたしも食べる」

 竜也がいくら勧めてもアヴェンクレトは食べることを頑なに拒否。仕方ないので竜也は無理にでもキャベツ以外の食事を口にするしかなかった。

 アルカサムの月・15日。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 今日の竜也の朝食は、キャベツとキャベツとキャベツの野菜炒め。それだけである。

「タツヤさん、少しは精の付くものも食べないと身体が持ちませんよ」

 心配そうにアンヴェルがそう言うが、竜也は憂鬱そうな目をアンヴェルへと向けるだけだ。

「……判ってはいるんだけど」

 竜也はそれだけを言い、ふらふらとおぼつかない足取りで総司令部へと歩いていく。それを見送っていたアンヴェルだが、意を決して総司令部から背を向けて町へと向かって歩いていった。

 そして夕方、アンヴェルがある人物を連れて竜也の元を訪れる。

「タツヤさん! スキラで高名だった調薬師を連れてきました!」

 竜也はその老人の調薬師の診察を受け、胃痛に良く効く薬を調合してもらう。その夜から、その苦い飲み薬を無理矢理飲み干すのが竜也の日課となった。

 アルカサムの月・16日。

「……ごめん。今日はこれだけでいい」

 今日の竜也の朝食は、ボウルいっぱいのキャベツの千切り。それだけである。

「何でこんなキャベツ尽くしなのですか、ここの食事は」

 と偉そうに竜也を見下ろしているのはミカである。竜也は死相が出ていそうな顔をミカへと向ける。

「キャベツは胃痛改善に効果があるんだ」

 と言いながら、もそもそと牛みたいに千切りを口にする竜也。一方ミカは竜也の説明に「なるほど」と納得する。

「そういうことでしたらわたしもいただきましょう」

 とミカは竜也と同じ食卓に着き、キャベツの千切りを猛然と食べ出した。

「ミカ?」

「戦争をしているのですから、指揮官の胃に穴が空きそうになるのは当たり前です。前線で戦う兵とは別の、これがわたし達の戦いなのです」

 ミカは親の敵みたいな勢いでキャベツを食べ続ける。竜也はミカの言葉に感銘を受けた様子だった。

「……確かにその通りだ。胃痛くらいで泣き言を言っていられない」

 竜也はミカに負けない勢いでキャベツの千切りを食べ出した。

 アルカサムの月・17日。

「……ええっと」

 今日の竜也の朝食として皿の上に乗って出てきたのは、キャベツ丸ごと一玉、それだけだった。料理?を持ってきた女官が恐縮する。

「も、申し訳ありません、料理の担当者がついにへそを曲げてしまって……」

「ああ、気にしなくていい。別にこれで構わない」

 竜也はキャベツの葉を千切り、塩を振ってそのまま食べた。キャベツの葉を数枚食べて、それで竜也の朝食は終わりである。

「……タツヤ殿、その、少しは休まないと身体が持ちません」

 サフィールがそう諫言するが、竜也は首を横に振った。

「今日は避難民の長老方との打ち合わせがある。休んでいる暇はない」

 食事?を終えた竜也は総司令部に向かおうとする。が、その前にトイレに向かい、胃の中のものを全て吐き出した。船を出、迎えに来たゼッルのところに行こうとする竜也の前に、サフィールが立ち塞がる。

「サフィール?」

 サフィールの悲痛な色の瞳が竜也を見据える。

「どうか今日はお休みいただきたい。タツヤ殿のお身体はタツヤ殿だけのものではないのです」

「仕事があるんだ、どいてくれ」

 竜也は立ちはだかるサフィールの横を通り抜けて進んでいく。が、足をもつれさせて倒れそうになった。咄嗟にサフィールが身体を支える。

「タツヤ殿、このまま船に戻りましょう」

 首を振った竜也がサフィールを押し退けて前に進もうとする。が、サフィールは腕に掛かった竜也の身体を決して離さない。

「駄目です! タツヤ殿に万一のことがあったら、わたし達は、ネゲヴはどうなると思っているのですか!」

 竜也がじたばた暴れるのでサフィールは拘束する腕にますます力を込めた。その腕が竜也の喉に掛かり、柔道の裸締めみたいな状態になっていることにサフィールは気付いていない。

「おいサフィール、タツヤ殿が」

 ゼッルに指摘されてサフィールは初めて気が付いた。竜也が意識を失っている。白目を剥いた竜也に、

「ああっタツヤ殿! だからあれだけ言っていたのに!」

 とサフィール。締め落としたのはお前だ、とゼッルは内心で突っ込む。

「ゼッル殿、タツヤ殿を! わたしは医者を呼んできます!」

 サフィールは総司令部に向かって走っていく。サフィールが走り去るのを確認し、ゼッルは竜也に活を入れた。

「……え、あれ?」

 と竜也はすぐに意識を取り戻す。不思議そうに周囲を見回し、

「……何があった? 何で俺は倒れている?」

 気絶した前後の記憶が飛んでしまっているようだ、と見当を付けたゼッルは、

「過労のため意識を失い倒れたのです」

 と断言した。

「そうなのか?」

 竜也の問いに、ゼッルは無言で頷く。その有無を言わせぬ雰囲気から竜也はそれ以上の質問をしなかったが、いまいち納得がいかない様子で首をひねっている。

 そうこうしているうちにサフィールが医者を連れて戻ってきた。竜也は自室のベッドに放り込まれ、結局その日1日はベッドの中で休眠を取ることとなる。

「もっと部下を信頼して仕事を任せるようにしてください」

「心配した」

「倒れたら意味がないじゃないですか」

「自己管理がなっていません。休むのも仕事のうちです」

「ともかく今日はお仕事禁止です」

 5人の乙女がベッドの脇に立ち、看護しながら口々に竜也を責める。実際に倒れた以上何も言い訳できない竜也は、ひたすら恐縮して彼女達に謝り続けた。

「……倒れた理由は何か違うような気がするんだが」

 と腑に落ちないものが胸に残っていたけれども。







[19836] 第16話「インテカーム事件」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/11/27 21:15




「黄金の帝国」・迎撃篇
第16話「インテカーム事件」その1










 アルカサムの月・21日。

 随分久々になる人物が総司令部を、竜也の元を訪れた。

「船長! サドマさん! バラクさん!」

 ガイル=ラベク、サドマ、バラクが西ネゲヴからようやく戻ってきたのだ。竜也は思わず彼等と抱き合う。

「良く無事で……! 戻ってくれて嬉しいです」

「お前こそ! まさか本当に独裁官になっちまうとはな」

「大した奴だぜ!」

 竜也達はしばしの間互いの無事を喜び合い、健闘を讃え合った。

「――西は今どうなってるんですか」

 竜也がそう問うと、ガイル=ラベク達は目を伏せて沈黙した。少しの間、その場を静寂が支配する。

「……人間が無数に死んでいったよ。力尽きた避難民が、十字軍と戦う戦士が。それに、十字軍の兵士も」

 ガイル=ラベクのその言葉に竜也は、

「……そうですか」

 万感の思いを込めてそう応えた。ガイル=ラベクが懐から書状を取り出す。

「戦死した者の一覧だ。後で目を通してくれ」

「判りました」

 竜也はその書状を謹んで受け取り、軽く目を通す。マラガ偵察船団メンバーの者、東ネゲヴから援軍に送った者、知った名前をいくつか見出す。竜也は内心で黙祷を捧げた。

 竜也は気持ちを切り替えてガイル=ラベクに問う。

「十字軍は今どこまで来ていますか?」

「そうだな。今頃キルタはまず越えただろう。もうヒッポまで来ているかも知れん」

 キルタは元の世界で言えばアルジェリア・コンスタンティーヌ付近となる。

「もうそんなところまで……!」

 竜也は戦慄するが、理性を総動員して内心の動揺を沈めた。竜也はガイル=ラベク達を自分の執務室に案内し、西ネゲヴの現状について詳細な報告を受けることとした。

「最初のうちは失敗や問題ばかりで、本当に途方に暮れていた。『もっと違うやり方があったんじゃないか』と、そればかり考えていたな。だが東に移動するにつれて有能な人間があちこちから合流してきたし、皆も作業や指導に慣れてきた。より短い時間で、より多くの民を東や南に避難できるようになった」

「それでも問題がなくなったわけじゃない。南に避難した民と、元から南に住んでいる民の対立や衝突は深刻だ。南の住民が避難民を排斥したり、逆に避難民が侵略者となって南の住民を支配しようとしたりしている。この衝突が原因の死傷者も数え切れないくらい発生しているそうだ」

 竜也は無表情を装って内心の懊悩を抑圧した。南の住民と避難民の衝突は目に見えていたことだが、当初の想像よりもかなり被害が大きいようである。だがその被害も「想定の範囲内だ」と割り切る他ない。

「食糧の焼き捨ても同じような状態だ。最初は全く上手くいかずに多くの食糧が街道上に残ってしまったが、次第に残してしまう食糧が少なくなっていった。今ではほとんど残さないくらいになっているだろう」

「十字軍にはかなりの打撃になっているようだ。お前の戦略は間違っていない。ただ計算違いだったのは、十字軍の連中は食糧不足を軍全体で均等に受け止めていない、ということだ。奴等は入植目的の農民や徴兵された農民兵から食糧を取り上げ、騎士の連中やベテラン兵に回している」

「……それは、十字軍の中の戦力としては弱い・当てにならない部分に飢餓や被害を押しつけ、戦力として当てに出来る部分の体力を温存している、ということですか?」

 竜也の確認にバラクが「その通りだ」と頷く。

「物凄い数の農民や農民兵が進軍から脱落している。飢えて進軍について行けなくなった連中が街道に無数に行き倒れていたよ。東ネゲヴやアシューからやってきた奴隷商人に捕まった連中も多かったが、飢え死にするよりはそちらの方がまだマシかも知れん」

「進軍から外れて、食糧を求めて南に行こうとする連中も少なくなかった。規模の大きい連中は俺達遊撃部隊で仕留めて回ったが、規模の小さい連中は避難民等の自警団に任せるしかなかった」

 あの分ならスキラに着くまでには最低でも10万や20万は脱落しているだろう、とバラクは報告をまとめた。その報告を受けた竜也は内心で様々な再計算と戦略の再検討を行っている。

「タツヤ?」

「あ、ああ済みません」

 竜也はガイル=ラベク達に笑顔を見せた。

「皆さんにはまた色々と仕事をお願いしますが、2~3日はゆっくり休んでください。今夜は総司令部で晩餐会をやりますので、楽しみにしてください」

 その夜、ガイル=ラベク等戦地から戻ってきた者の慰労のために総司令部で晩餐会が催された。豪華な晩餐を用意するのはネフェルティ付きの女官達である(もっとも竜也はほとんど食べなかったが)。参加者は竜也は言うまでもなく、戦地帰りのガイル=ラベク・サドマ・バラク。ネフェルティ・ミカ・アンヴェル・サフィール・ハーキム等の、竜也の側近メンバー。エフヴォル=ジューベイ等の有力者に、アアドル・ジルジス・バリア等の大臣クラスの事務官である。なおアヴェンクレトは参加を辞退した。

 晩餐会の目的は単なる慰労だけではない。竜也の側近・総司令部高官全体が戦地の現状を直接聞いて情報を共有し、臨戦意識や緊張感を高めて職務に励行してもらうことを狙いとしている。だから本当はマグド等もっと大勢の参加者を集めたかったところなのだが、集められるのはセフィネ=クロイにいる者に限られていた。

 ガイル=ラベクやバラク達は戦地の現状を正直に陰鬱に語って苦労自慢をするような人間ではない。戦場がどれほど悲惨であろうと、苦労話を馬鹿話に変えて笑い飛ばすのが彼等の流儀である。だがそんな馬鹿話でも西ネゲヴの過酷な現状は隠しようもなく伝わってくる。竜也の目的は概ね達成されたと言っていいだろう。

「――それにしても、敵がもうキルタを越えたなんて」

「タツヤの立てた作戦がある意味上手くいきすぎたんだ。街道沿いの住民は徹底的に避難させたから戦闘がほとんど起こっていない。食糧もろくに残っていないから、連中は食糧を求めて先を急ぐしかないんだ」

 ガイル=ラベクの説明をサドマが補足した。

「それにタツヤが流させた噂が結構効果を上げているらしい。『スキラの東にはネゲヴの皇帝の黄金の宮殿がある』、十字軍の兵士の間ではそんな話で持ちきりだそうだ」

「その情報は、アニードさんが?」

「噂を流したのは主に他の商人で、アニード氏に噂の浸透具合を確認させた。連中その噂を信じ切っていて、誰よりも先にスキラに行って少しでも余計に略奪することだけで頭がいっぱいなようだ」

「脇目もふらずに東に、この町に向かっているそうだ」

 そうですか、と竜也は引きつった笑みを見せた。作戦が上手くいくのは結構だが、百万の敵を真正面から受け止める未来図を考えるとただ喜んでばかりはいられない。

「作戦通りじゃないか、皇帝タツヤ」

「俺達が見込んだだけのことはあるな、皇帝タツヤ」

 とサドマ達が竜也をからかう。竜也は「皇帝は止めてくださいよ」と苦笑するしかなかった。だが、そこにハーキムが口を挟む。

「ですがタツヤ。自分とこの町を囮にして十字軍をネゲヴの奥地まで引きずり込むのがタツヤの作戦なのでしょう? なら、皇帝を名乗ってその地位に就くのも作戦の一環としては有効なのではないですか?」

「そうですね。この際堂々と皇帝を名乗ってはどうですか?」

 とミカまでが言うので竜也は「いや、それは……」と焦りを見せた。それに構わずジューベイ等が、

「おお、タツヤ殿が皇帝になるのか! いやそれは重畳!」

「本当です! タツヤ殿、おめでとうございます!」

 サフィールは無邪気にそう喜んでから、

「ところで皇帝って何ですか?」

 その問いにジューベイを除く全員が「だああーーっっ」と吉本新喜劇ばりのコケを見せた。サフィールはそのリアクションが理解できないようで、「え? え?」と周囲を見回している。

 バリアは苦笑を見せながら、

「サフィール、皇帝というのは……」

 とサフィールの問いに答えようとしたが、そこで言葉を詰まらせた。

「ミカ、説明を頼む」

 バリアからいきなり説明役を押しつけられたミカは「いぇえ?」と驚く。しばしの逡巡の後、

「ハーキムさん、お願いします」

 とバトンタッチした。ハーキムは苦笑しながら全員に説明する。

「皇帝というのは、十字教の聖典に登場するネゲヴの支配者の名称です。『もしケムト王が圧倒的な武力を有していてネゲヴ全土を支配したなら』――歴史上そんな事例はないんですが、十字教の聖典の中では何故かそんなことが起こったことになっているんです。その、圧倒的な武力を持ってネゲヴ全土を支配した絶対的存在、それが皇帝と呼ばれています」

「こっちじゃ起こらなかったけど、俺が元いたところじゃそれが起こっていたんだ。皇帝っていうのは預言者フランシスが向こうからこっちに持ち込んだ言葉なんだ」

 と竜也が説明を補足した。

 ――皇帝インペラトルとは「命令」「支配」を意味する単語に由来し、その意味は「命令者」、つまり軍の司令官を表す言葉だった。ローマに誕生した民主共和制国家は支配領域を拡大するにつれ、民主制が現実の政治に不適合となっていく。混迷の危機を迎えたローマは独裁官を選出してその危機を克服した。だが本来半年で交代するはずの独裁官は、やがて建前だけ残して事実上の終身独裁官となり、その地位が世襲となっていく。その、世襲となった終身独裁官に対する称号の一つが「軍司令官インペラトル」なのである。

「――それなら、タツヤさんが皇帝を名乗っても何も問題ないんじゃないですか?」

 竜也の説明を聞き終えたアンヴェルはそんなことを言い出した。「ええ?」と驚く竜也にアンヴェルが説明した。

「予定通り1年でこの戦争が終わっても、タツヤさんが独裁官の地位を手放すことは認められないと思いますよ? タツヤさんがスキラを初めとする商会連盟にどれだけの借金を抱えているか、忘れたわけじゃないでしょう?」

 竜也が「うぐ」と呻くのに構わずアンヴェルが続ける。

「一介の庶民に戻ったら借金の返済なんか出来るわけがありません。タツヤさんの地位を引き継ぐ人間がちゃんと借金を返してくれる保証があるのか判ったものじゃないですし、それならタツヤさんが戦争後も独裁官の地位にあって、きっちり借金を返していくべきだと思います」

 竜也が頭を抱えながら呻く。アアドルがそれに追い打ちを掛けた。

「借金の金額を考えれば返済は一生物の仕事です、終身独裁官となる他ありません。独裁官の地位を世襲として、何代か掛けて返していくことも視野に入れるべきかも知れません」

 さらにガイル=ラベクがとどめを刺す。

「それに、1年で戦争を終わらせたとしても、ネゲヴはもう昔のままじゃやっていけんだろう。教皇が懲りずにもう一度十字軍を発動する可能性がわずかでもある以上、ネゲヴの軍は維持しなければならんし、誰かがその指揮を保持しなければならんのだ。タツヤ、お前以外の誰にそれが出来る?」

 竜也はテーブルに突っ伏していたが、やがてのろのろと身を起こした。

「……その、そんな先の話はこの戦争にちゃんと勝ててからにしましょう。皇帝の称号もその時に考えます」

 と竜也は話を先延ばしにする。アンヴェル達は不服そうだがそれ以上の追求はしなかった。

 「皇帝インペラトル」が「軍司令官」という意味しかないのなら、現状の竜也はまさにその地位にある、「皇帝」を名乗って何が悪いのか――アンヴェル達は皆そう考えている。だが、彼女達は知るはずもない。数ある称号の一つでしかなかった「軍司令官インペラトル」が唯一絶対と化していった歴史を。

 500年にわたりローマに君臨し、東ローマではそこからさらに1000年。西ローマの皇帝位はフランク帝国に、神聖ローマ帝国に、オーストリア帝国・ドイツ帝国に引き継がれ、東ローマの皇帝位はロシア帝国に引き継がれた。皇帝の地位は2000年近くにわたってヨーロッパの、世界の至尊の座であり続けたのだ。その歴史の重みを知っている竜也が、いくら勧められたからと言ってそう簡単に皇帝の地位に就くはずがない。

「……予定通り1年でこの戦争を終わらせることが出来たなら、その時なら皇帝を名乗ってもそんなに問題ないだろうけど」

 竜也はそう考えており、現状で皇帝を名乗るつもりは毛頭なかった。だがその考えは、ある事件を契機に変更を余儀なくされる。




















 アルカサムの月・23日。

 総司令部で東ネゲヴ諸都市の長老から陳情を受けていた竜也達の元に、兵士が駆け込んできた。

「市民と兵が……!」

 その兵士の注進を受け、竜也が総司令部を飛び出す。その後を護衛と官僚達が追いかけてきた。

 総司令部はイナブの丘と呼ばれる、海に面した小高い丘の上に建っている。その丘のふもとに、大勢の市民と兵士が集まっている。人数はざっと見て千人以上。市民と兵士は口々に不満と要求を叫んでいる。

「食料の配給をもっと増やせ!」

「もう1ヶ月以上休んでない! 少しは休ませろ!」

「お前達だけ良い家に住みやがって! 俺達はずっと天幕暮らしだ!」

「敵なんか来ないじゃないか! 適当なことを言いやがって!」

「独裁官を交代させろ!」

 要するにデモ隊か、と竜也はその市民と兵士の集団を理解した。セフィネ=クロイの劣悪な環境を思えば市民から不満が吹き出すのも当然だった。

「兵士を集めて鎮圧させなければ」

 官僚の一人がそんなことを言うが、竜也はそれを止めた。

「不測の事態に備えて兵を呼ぶのは仕方ないが、強権的に鎮圧するのは望ましくない。市民の代表を2~3人選ばせろ、話は総司令部でその代表から聞くと。兵士の方は上官を呼んで、その上官に事態を収拾させろ」

 竜也の指示を受けて官僚の何人が兵士を連れてデモ隊との交渉に向かう。官僚がデモ隊に代表を前に出すよう命じるが、市民はそれに反発して前進しようとする。それを兵士が押し止めようとし、揉み合いとなった。

「ゼッルさん、お願いする」

「良かろう」

 竜也は独裁官警護隊の剣士に警備の兵士を手助けするよう指示。それを受けて牙犬族がデモ隊へと向かっていく。

「無能な独裁官を引きずり下ろせ!」

「ギーラを独裁官に!」

 市民はそんなことを口々に叫びながら丘を登ろうとする。やがて市民の声は、

「ギーラ! ギーラ! ギーラ!」

 の連呼に統一された。竜也はその連呼に背を向け、総司令部へと戻っていく。

 総司令部に戻った竜也を出迎えたのは、東ネゲヴの長老の一人だった。

「貴方は確か……」

「オエア長老会議のインテカームです」

 インテカームは60代の小太りの老人である。そのインテカームに招かれるように、竜也は総司令部の客室の一つへと入っていく。客室の扉が閉じられた瞬間、

「くっ!」

 扉の背後に隠れていた二人の男が飛び出し、竜也の背中へと突進する。それと同時に竜也はインテカームを突き飛ばして前に進み、部屋の壁を背にした。

「ちぃ……」

 インテカームが舌打ちをしながら懐から短刀を取り出す。背後の男達もそれぞれ短刀を構え直した。竜也の額を汗が流れる。

「……俺を殺してギーラを独裁官にするつもりか」

 市民がギーラの名を連呼することに、竜也は作為的なものを感じていた。おそらく煽動者がいてギーラの名を呼ばせているのだろうと。その直後にオエアの長老が、何か含みがあるような態度で姿を現したのだ。竜也は嫌な予感を覚えて警戒はしたのだが、それでも「まさか」という思いを捨て切れていなかった。その結果がこの窮地である。

「あんな男のことなどどうでもいい。ただ貴様を殺したいだけだ」

 インテカームは明確な殺意を持って竜也と向かい合っていた。竜也は唇を噛み締める。

「でええぃぃ!」

 竜也とインテカームが動いたのは同時だった。インテカームが短刀を握って竜也に突撃し、竜也は応接机の脚を掴んで振り回す。脚から机本体が千切れて飛んで、壁にぶつかった。

「ど、独裁官、何が!」

 扉の外から異変を感じ取った誰かに呼び掛けられる。竜也は必死に大声を出した。

「護衛を! 武器を!」

「ちぃ!」

 インテカームと男の一人が再度竜也へと突撃する。竜也は机の脚でそれに応戦した。だが、

「死ねぇ!」

 インテカームが短刀を竜也の腹部へと刺突。竜也は机の脚を盾にしたが腹部を守り切れず、刃が腹部に刺さった。だがまだ浅い。

「タツヤ殿!」

 男の一人が確保していた扉を蹴破り、サフィールがその部屋へと飛び込んできた。サフィールは危機に陥った竜也の姿を捉えたまま脇目もふらずに剣を一旋。その一撃で一人目を斬り捨てる。風のように部屋の中を突き進み、次の一降りで二人目を屠った。

 その間に竜也はインテカームを蹴り剥がす。尻餅をついたインテカームは立ち上がろうとしたが、護衛の兵士が寄って集って取り押さえられる。インテカームも無力化し、竜也は何とか危機から脱した。

「タツヤ殿! 傷が!」

「あ、ああ、大丈夫だ」

 すぐに医者が呼ばれて竜也は手当を受ける。傷は皮膚が切れただけのごく軽傷である。インテカーム達は総司令部の船が建ち並ぶ一角の、裁判所として使われている船へと連行されていった。

 竜也が暗殺されそうになったことを知ったゼッル達や警備の兵士は強攻策に転じ、デモ隊に解散を命令。潜んでいた煽動者が真っ先に逃げ出したため市民等はそれ以上暴走することもなく、デモ隊を解散させる。市民等は尻切れトンボな思いを抱えたままイナブの丘から去っていった。











[19836] 第16話「インテカーム事件」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/11/27 21:16


「黄金の帝国」・迎撃篇
第16話「インテカーム事件」その2










 アルカサムの月・23日。インテカームによる竜也暗殺未遂から数刻後。

 傷の手当を終えた竜也が裁判所に使われている船へと向かった。小さな裁判は船の中の一室で行われるが、大法廷は船の甲板上である。中央が大きく開けられ、その周囲を椅子が囲んでいる。片隅には書記官用の机が備え付けられており、正面には検事兼裁判官の竜也の座席があった。

 法廷周囲の椅子には総司令部首脳陣やミカやアンヴェル等竜也の側近が顔を揃えている。中央の床には縄で縛られたインテカームが座り込んでおり、その前に氷のように冷たい表情をしたアヴェンクレトが佇んでいた。

 竜也を殺されかけたアヴェンクレトの怒りは凄まじく、普段はしている多少の自制を全て捨ててインテカームの心へと土足で乗り込んで探り回っている。一方インテカームはそれを知りながら不敵な笑みすら見せていた。

 裁判官の席に座った竜也が待つことしばし、全ての事情聴取を終えたアヴェンクレトが竜也へと向き直った。アヴェンクレトはかすかに躊躇いを見せながらも、竜也の元に赴いていつものようにその腕を掴む。アヴェンクレトが把握したインテカームの心を、竜也もまた理解した。

「……そうか、息子さんが戦死したのか」

「そうだ! 貴様が! 貴様のせいで! イステヤーは、イステヤーは……」

 インテカームは怨嗟を雄叫びを上げるが、それ以上は声にならなかった。

「東ネゲヴの有力者の子弟を西の援軍へと送り出した。貴方の息子のイステヤーがその中に含まれていて、イステヤーは西で戦死した。それを知ったギーラが貴方に俺の暗殺と、その後の自分の独裁官就任支持を持ちかけてきた」

 書記官の一人が竜也に問う。

「つまり、暗殺計画の首謀者はギーラだと?」

「そうだ。すぐにギーラ捕縛の手配を」

 だが、それにはインテカーム自身が抗議の声を上げた。

「あんな男など関係あるものか! 貴様は私から息子を奪った、だから貴様も死ぬべきなのだ!」

 そんな中、ミカがインテカームに問うた。

「独裁官暗殺は未遂であっても死罪は免れません。それは判っていますか?」

 ミカの問いをインテカームは鼻で嗤う。それはとっくに己の死を覚悟した顔だった。

「待てミカ、そんな法律一体どこに」

 竜也の問いに、ミカは困惑の表情を浮かべた。

「ですがタツヤ、下手な情けをかけても独裁官の権威を損なうだけです。同じような愚か者を出さないためにも厳罰をもって臨まないと」

 竜也は助けを求めるように周囲を見回す。アンヴェルやハーキムも含めて全員が、無言のままミカの発言を支持していた。

「ふん、早く殺せ! 貴様の手で私をイステヤーの元へと送るがいい!」

 インテカームは嘲笑を浮かべてうそぶく。竜也は拳を握り締めた。短くない時間を経て、

「……インテカームを死罪と処す」

 竜也はそう判決を下す。インテカームは哄笑した。

「ははははは! 私は失敗したが、私より手の長い奴はいくらでもいるんだ! 呪われろ、呪われてしまえ! 貴様は身近な誰かに殺されて死ぬんだ! ははははは!」

 インテカームが兵士達に処刑場へと引きずられていく。インテカームは地の底から響くような哄笑を残して姿を消していった。法廷には後味の悪さを噛み締める一同が残される。

「――閉廷する」

 竜也は短くそう宣言し、一人で裁判所を後にする。逃げるように去っていく竜也の背中を、不安そうな、心配そうなアヴェンクレトとアンヴェルの瞳が見つめていた。




















 その日の夕刻。太陽神殿関連の仕事のために拘束されていたネフェルティがようやく仕事を終えて、大急ぎで総司令部のあるイナブの丘に戻ってきた。ネフェルティが総司令部に顔を出すと、アアドルやジルジスやバリア、官僚達が書類の束を抱えて途方に暮れているところだった。ネフェルティがハーキムに訊ねる。

「タツヤ様はどうされたのですか?」

 ハーキムは躊躇いがちに答えた。

「その……自室に閉じこもって出てこないんです。何度も呼びかけたのですが、一回だけ、一言だけ『もうやめた』と返事があっただけで」

 ネフェルティがかすかに目を見開く。それに気付かないハーキムは「今はアヴェンクレトさんが様子を見に行っていますが」と説明をまとめた。

 周囲を見回したネフェルティは両掌を打って一同の注目を集めた。

「タツヤ様は怪我をされているのです。今夜一晩はゆっくり休ませてあげてください。お仕事の方はアアドルさんやジルジスさんやバリアさん、皆さんで出来るだけ片付けておいてください。よろしいですね?」

 ネフェルティが厳かに命じる。

「確かにそうです」

「判りました」

 アアドル達は得心したようにそう答え、仕事を再開した。ネフェルティはその様子に満足し、総司令部を退出しようとする。そこにアンヴェルが声を掛けた。

「ネフェルティ様。タツヤさんのことですけど」

「はい、これからお見舞いに行きます」

 とにっこり微笑む。アンヴェルはその笑顔を無視するように、

「正直、わたしもどうしたらいいのか判らなくて……タツヤさんのこと、よろしくお願いします」

 と深々と頭を下げた。ネフェルティは微笑み続けたまま「判りました」と応え、総司令部を後にした。

 総司令部を出、一人になった途端ネフェルティの表情が豹変。いつになく険しいものとなった。ネフェルティが他者には決して見せたことのない、見せることのない表情である。ネフェルティは早足で船へと、竜也の自室へと向かう。

 船の中の、竜也の寝室。その扉の前の廊下には、落ち着かない様子で行ったり来たりしているアヴェンクレトの姿があった。ネフェルティに気付いたアヴェンクレトは半泣きの顔を背ける。

「アヴェンクレトさん、タツヤ様は中なのですね?」

 アヴェンクレトは返答しなかったがネフェルティはそれに構わず、扉に手を掛ける。アヴェンクレトは驚きの表情でそれを見つめた。

「――タツヤ様のことはわたしに任せてください」

 ネフェルティはそう言い残し、扉の内側へと消えていく。廊下には悔しげに唇を噛み締めるアヴェンクレトが一人残された。

 扉の内側、竜也の自室。夜の帳は既に下り、部屋の中は優しい夕闇に包まれている。窓から入る夕陽の残照を頼りに、ネフェルティは竜也の姿を探した。

「タツヤ様」

 竜也はベッドにうつ伏せになっていた。呼びかけに応えないが、眠っているわけではないようである。

「タツヤ様、怪我の具合はどうですか? 痛みませんか?」

 ほんのかすり傷でしかないことは聞いているが、ネフェルティは心から心配している風を装ってそう訊ねた。竜也は何も応えない。

「皆の者も心配しています。顔を見せてはいただけませんか」

 ネフェルティのその懇願に竜也は、

「もうやめた」

 とだけ返した。「タツヤ様?」とネフェルティが再度問う。

「もうやめた、と言っている……!」

 竜也が跳ねるように身を起こした。憤懣が竜也の口から濁流のように溢れる。

「お前等だけで好きにやればいい、殺されそうになってまで、何で俺だけこんな仕事を続けなきゃならない。やりたいんなら、ギーラにでも誰にでもやらせればいい!」

 竜也はネフェルティを怒鳴りつけるが、ネフェルティはその八つ当たりを顔色一つ変えずに受けきった。何の感情も浮かんでいない顔を竜也へと向けるだけだ。その冷たい無表情に竜也は内心怯む。竜也はネフェルティから顔を背け、唇を噛み締めた。

「ネゲヴがどうなろうと知るもんか、俺は日本に帰るんだ」

 実際には帰国は叶わないことは理性では百も承知していながら、竜也は感情の赴くままにそう口走る。ネフェルティは表情を全く変えないまま、内心で深々と嘆息していた。

 確かに竜也はこの2ヶ月間精神的にも肉体的にも過酷な状態に置かれていた。処理しても処理しても終わらない総司令部の仕事の山、百万の敵軍が接近しているという重圧、総司令部内の不協和音――ここまでは竜也にとっては予想と覚悟の範囲内だった。

 だが、セフィネ=クロイの治安維持と裁判、市民や兵士の不平不満、西ネゲヴ市民の膨大な犠牲。これらについては予想と覚悟が甘かったとしか言いようがない。不満に乗じての暗殺計画は、全くの想定外だった。竜也の心が折れるのも必然であるかも知れなかった。

 ネフェルティは内心で「よし」と気合いを入れ直す。そして竜也へと語りかけた。

「タツヤ様。タツヤ様が故郷に帰るのなら、あの子は、アヴェンクレトさんはどうするのですか」

「……一緒に日本に連れて行く」

 竜也はやや躊躇いがちにそう答えた。竜也にとってアヴェンクレトは家族であり保護対象だ。置いていくことなど考えもしていない。

(でも、アヴェンクレトさんでは対等なパートナーにはなれないのですよ)

 ネフェルティは内心でそう呟くと、再度竜也に問うた。

「――それならわたしはどうなるのですか? タツヤ様」

 その問いに竜也は戸惑ったような顔をした。

「ネフェルティにはケムト王国があるだろう? ここの総司令部だってあるし、アアドルさん達や族長達、ガイル=ラベクやサドマさん達。みんながここにいる」

「でも、タツヤ様はいないのですよね? 独裁官がいなくなってばらばらになった総司令部、対立する西ネゲヴと東ネゲヴ、対立する恩寵の民、敵に媚びを売るケムト連合、その中で接近する百万の十字軍……そんなものをわたしに残していくのですか?」

 竜也が怯んだ様子を見せる。ネフェルティは攻勢を続けた。

「そしてわたしに残っているのは神託を外した王女としての汚名だけ……タツヤ様、どうか逃げないでください。黒き竜のタツヤ様ならこのネゲヴを救えるのです。わたしの神託を信じてください」

 ネフェルティは竜也の肩にすがろうとするが、竜也は「うるさい!」とそれを振り払った。

「『黒き竜』なんて子供の頃の思いつきだし、太陽神の神託だって適当に作っているだけだろう! ギーラを独裁官にしろと神託が下りたことにすればいい!」

 歴代のフゥト=カァ=ラーの王女の神託は外れた例の方がずっと多い。命中した例にしても、ノストラダムス並みに曖昧な予言を後になって「あれはこういう意味だった」と言い立てている場合がほとんどだ。つまり、金獅子族や赤虎族の恩寵みたいに誰の目にも確かで疑う必要もないような恩寵を、太陽神は与えてくれはしない。太陽神の恩寵など最初から存在せず、セルケト王朝が自らの箔付けのために考え出した空想物に過ぎないのだ――「黒き竜の血」が竜也の妄想の産物に過ぎないのと同じように。

「そんな神託は授かっていません」

 だがネフェルティは即座にそう答えた。

「神託が示すのは不変の運命などではありません。いくつかある未来の姿の一つに過ぎないのです。ネゲヴ全土が十字軍に蹂躙される未来、ナハル川を挟んで戦争が続く未来、そしてタツヤ様が十字軍を滅ぼしてネゲヴが平和になる未来……わたしはタツヤ様が築くネゲヴの未来に賭けたのです」

「うるさいっ……!」

「タツヤ様は黒竜の恩寵を持つ、特別な方。それを疑う必要はありません。タツヤ様以外の誰にこのネゲヴが救えると言うのですか」

「うるさいって言ってる……!」

 竜也はネフェルティの手を引いてベッドに押し倒し、その上に覆い被さった。ネフェルティは一欠片の動揺も示さず竜也を見上げている。むしろ竜也の方が自分の振る舞いに狼狽えていた。

「お、俺に全てを賭けたって……こんな真似されてもまだそんなことが言えるのかよ」

「タツヤ様が望むなら、わたしは全てを受け入れます」

 ネフェルティは微笑みながら両手を伸ばし、竜也の両頬に触れる。竜也の瞳から涙がこぼれそうになった。

「ちくしょう、ちくしょう……!」

 竜也はそれを誤魔化すように、ネフェルティの豊満な胸に顔を埋める。ネフェルティは幼子を抱くように竜也の頭を優しく抱いた。




















「えーっと……?」

 窓から入る朝の日差しが寝室を照らしている。竜也は今まで自分が眠っていて、今目が覚めたことを理解した。これほど深く充足した熟睡を取ったのは独裁官に就任して以降は初めてだったので、一瞬何があったのか判らなかったのだ。今までは徹夜も珍しくなく、眠っても頻繁に目が覚める浅い眠りばかりが続いていた。

「タツヤ様、目が覚めましたか?」

 裸で寄り添うネフェルティに声を掛けられ、竜也は昨晩何があったかを思い出した。

「うわああぁぁ……」

 と思わず頭を抱える。

「死ぬかと思うほど痛かったですわ。まだ中に何か入っているような感じがします」

 ネフェルティがにこやかに追い打ちを掛け、竜也のライフはほぼゼロとなった。今目の前に白装束と日本刀が用意されているなら、竜也は迷わず切腹するだろう。

「……ええっと、その」

 何か言おうとして何もまとまらない竜也の唇に、ネフェルティは人差し指を押し当てた。

「お気になさらないでください。元より、わたしはタツヤ様に全てを捧げていたのですから」

 一見フォローのようだが、それは竜也にとって最後のとどめとなった。竜也はベッドに突っ伏してしまう。のろのろと身を起こしたのは、かなりの時間が経ってからである。

「あの……俺はどうすればいい……?」

 竜也は無条件降伏してネフェルティに生殺与奪を委ねる。ネフェルティは優しく微笑みながら判決を下した。

「ネゲヴを救っていただけるのでしたら、わたしはそれ以上何も望みません」

 竜也の口から乾いた笑いが漏れる。彼女は処女一つ・身体一つを代償に、百万の敵と戦いこれを滅ぼすことを竜也に求めているのだ。清々しいくらいに過酷で巨大な賠償請求だった。

(別に、やるべきことは今までと何も変わらない。自分が正しいと信じることを、最善を尽くしてやるだけだ)

 それでネフェルティの全てを手に出来るのだから、むしろ竜也にとって有利な取引だ。そう思えるほどに竜也の精神は復活を果たしていた。

 仰向けになった竜也は目の前に手を伸ばし、

「――判った、ネフェルティ。勝利を、平和な未来を、ネゲヴの全てを手に入れよう」

「……はい、タツヤ様」

 そう告げて拳を握り締める。竜也の精神が完全に復調したことを理解し、ネフェルティは安堵の微笑みを見せた。

 ――この日、竜也の精神は単なる復調ではなく更なる進化を遂げていたのだが、ネフェルティがそれを理解するのは少し先のことである。












[19836] 第17話「皇帝クロイ」
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/11/27 21:20



「黄金の帝国」・迎撃篇
第17話「皇帝クロイ」










 3011年アルカサムの月・24日付。総司令部独裁官令・第109号

「独裁官に対する称号として『皇帝インペラトル』を使用する」





 その発令を受けた総司令部のアアドル達やハーキム達・官僚達は、判ったような判らないような顔を見合わせた。一同を代表してハーキムが竜也に確認する。

「タツヤ、これは独裁官の官職名を『皇帝』に改めるということですか?」

 竜也はさり気なさを装いつつ答えた。

「いや、違う。独裁官はソロモン盟約にも記された公式の官職名だ。これを改めるのならソロモン盟約の改訂が必要になる。だから独裁官という官職はこれはこれで置いておいて、『皇帝』という呼びかけを併用するということだ。普段は『皇帝』の方だけ使ってくれ」

 竜也の説明にハーキムや官僚達が頷く。

「判りました。皇帝タツヤ」

「皇帝タツヤ、本日の予定ですが」

「皇帝タツヤ、こちらの書類ですが」

 官僚達やハーキム等秘書官が当たり前のようにそう呼びかけてくるのを、竜也は頬を引き攣らせながらも受け入れる。このような何とも締まらない形で、竜也は皇帝への事実上の登極を果たした。

「それについてはバリアに任せる」

「判った、進めていいから後で報告してくれ」

「報告書をまとめて持ってきてくれればいい」

 一方、竜也の仕事ぶりを見守っていたハーキムも安堵のため息を漏らしている。

「何があったのか判りませんが、随分と余裕が生まれたようです」

 昨日までの竜也であればかなり細かいところまで自分の目で確認しなければ気が済まなかったのだが、今日は仕事の多くを部下に委ねている。まるで人が変わったようだった。

 だが、竜也が仕事を部下に任せるということは、側近・調整役のハーキムの仕事がその分増えるということだ。ハーキムは積み上がった仕事の山にしばし呆然とし、次いで先ほどとは違う種類のため息をつき、最後に気合いを入れ直して仕事を再開した。

 その日、竜也は総司令部にサドマやバラク、ガイル=ラベクを呼び出していた。

「何だ、結局皇帝を名乗ることにしたのか」

 ガイル=ラベク達のからかうような言葉に竜也は「色々ありまして」と曖昧に答えた。竜也は今日の用件を切り出した。

「早速ですが、仕事をお願いしたいと思います。船長は、今ハーディさんにやってもらっている海上傭兵団の取りまとめ役を」

 ガイル=ラベクは「おう、任せろ」と頷く。

「サドマさんとバラクさんには、東ネゲヴの各都市を回り、長老方や町の人達に戦いの現状を訴えてください」

 サドマやバラクは訝しげな顔をした。竜也が説明を続ける。

「東ネゲヴの町は近いところ、ベンガジ辺りまではまだ協力的なんですが、遠くなるほど非協力的になっていっています。キュレネより東になるとソロモン盟約にも参加していませんし、まるで他人事です。お二人には、これらの町を回ってソロモン盟約への参加と戦争協力への要請をお願いします」

 サドマはその指示に理解を示したが、バラクは不満そうな表情を隠さない。

「何で俺がそんなことを……そんな仕事はバール人どもにやらせておけばいいだろう」

「商会連盟から出してもらった使者が失敗したからバラクさんにお願いしているんです。赤虎族の有名な戦士で、つい先日まで百万の敵と実際に矛を交わしていたバラクさんの言葉なら、どこの長老会議であろうと無下に出来るわけがありませんから」

 バラクは不服そうだったがそれ以上文句は言わなかった。サドマとバラクは用意された船でその日のうちにネゲヴの東へと向かっていった。




















 その日の夜、竜也からの呼び出しを受けてヤスミンが総司令部を訪れた。

「ヤスミンさん、久しぶりです」

「久しぶり。これ、頼まれたやつ」

 竜也は「ありがとうございます」とその荷物を受け取った。

「そんな物何に使うの?」

「芝居の衣装の使い道なんて、一つしかないでしょう?」

 ヤスミンの質問に、竜也ははぐらかすような物言いで誤魔化した。

「これ、新しい劇の脚本です。『七人の海賊』の合間に上演をお願いします」

 ヤスミンはそのごく薄い脚本に目を通した。劇と言うより寸劇と呼ぶべき長さであり、内容だった。

「タツヤ、これ……」

 ヤスミンは思わず竜也をまじまじと見つめる。竜也は明後日の方向を見ながらヤスミンの視線を受け流すべく努めた。

 そして深夜近く。

 ようやく仕事を終えた竜也が船の自室へと戻る。そこに待ち構えていたようにネフェルティが姿を現した。

「あれ、どうしたんだ?」

「お休み前に少しお話しできれば、と思いまして。構いませんか?」

「ああ、勿論」

 竜也はネフェルティを自室へと招き入れた。だが、

「タツヤ?」

 ベッドに潜り込んでいたアヴェンクレトが目をこすりながら身を起こす。アヴェンクレトはネフェルティの姿に気が付くと険しい顔で彼女を睨み付けた。一方のネフェルティは笑顔を絶やしていない。だが両者の間では空気が歪むほどの緊張感が高まっていた。竜也の背中を冷や汗が流れる。

 ベッドから抜け出したアヴェンクレトはしがみつくように竜也の手を取った。アヴェンクレトの心が竜也の内側へと流れ込んでくる。二人の心がつながり、二人の心が現実から切り離され、二人だけの世界が築かれた。

(わたしのこと捨てるの?)

(捨てるわけないだろ、アヴェンクレトは俺の家族だ)

(でも、タツヤはあの女と結婚するつもりでいる)

 竜也がアヴェンクレトに対して抱く思いが恋愛感情と呼べるものかどうかは疑問だった。だが竜也はその過程をすっ飛ばして、彼女を「家族」のカテゴリーに入れてしまっている。もし十字軍の襲来がなく平和な時代が続いていたとしたら、竜也が年頃となったアヴェンクレトと結婚していたのは間違いない。血縁関係のない男女が家族と見なされるための、それが最も一般的な方法だからである。だが竜也にとって意味があるのは「アヴェンクレトと家族になる・家族でいる」ことであり、他の方法でその結果が得られるのなら結婚にこだわる必要はないと思っている。

(結婚相手としては、政治的に見ればネフェルティを選ぶしかない。俺が皇帝としてやっていくには、ネフェルティの威光が、補助が、支えが必要なんだ。でも、誰と結婚しようとアヴェンクレトが俺の家族であることには変わりない)

 今の竜也にはネフェルティがおり、彼女との結婚は政治的にも心情的にも最早回避不能の、既定の未来図である。だからアヴェンクレトに対しては家族になるための別の手段、別のつながり方を提供しなければならない。例えばの話「杯を一緒に酌み交わせばそれで義兄弟」と二人が信じられるなら、そういうつながり方もあり得るということだ。

(それじゃ嫌、わたしもタツヤと結婚する)

 一方また、アヴェンクレトが竜也に対して抱く思いが恋愛感情と呼べるものかどうかも疑問だった。だが、少女にとっての竜也は「全て」なのだ。竜也と離れて一人で生きる人生など、アヴェンクレトには想像することすら恐ろしい。そして竜也と一生一緒に生きる手段として最も確実なのが「結婚」であり、他の方法など少女にとっては考慮にも値しない。

(でも、二人と結婚するわけには)

(……わたしは第二夫人でも構わない)

「へ?」

 竜也は思わず素っ頓狂な声を出していた。

(あの女が第一夫人になるのは業腹だけど、我慢する。結婚できないよりは第二夫人の方がずっと良い)

(……ええっと、いいのかそんなの?)

 この世界では社会的地位と経済力があれば妻を複数持つことも問題がない事実を、竜也は思い出していた。21世紀の日本の倫理観を捨てられない竜也には容易に頷ける話ではない。だがそれに拘らなければ選択肢が広がるのだ。

(……アヴェンクレトが成人するまではあと何年かある。今すぐ決める必要はないか)

(ん。それでいい)

 アヴェンクレトが竜也から手を離し、竜也の意識が現世へと帰ってくる。主観的には結構長かったような気がするが、客観的にはそれほどの時間ではなかったようである。アヴェンクレトはそのまま部屋から出て行く。部屋を出る直前、アヴェンクレトとネフェルティは刃のように鋭い視線を斬り結んだ。

 そして扉が閉ざされ、扉の内側にはネフェルティと竜也が残される。

「ネフェルティ?」

「はい、何でしょうかタツヤ様?」

 華やかな微笑みを竜也へと見せるネフェルティ。だがその微笑みは竜也の目にも作為的に見えた。

「――それにしても、あの子は本当にタツヤ様と心をつなげているのですね。妬けてしまいますわ」

 ほほほほほ、と笑いながらネフェルティは竜也の手をつねる。口調は冗談めかしているが、つねる指には皮膚が千切れるかと思うほどの力が入っていた。竜也はその痛みに何とか耐える。

「……ええっと、アヴェンクレトのことだけど」

「わたし、第一夫人の座は譲りませんわよ?」

 ネフェルティは断固たる口調でそう宣言した。一方の竜也は戸惑う。

「それじゃ、第二夫人にする分には構わないのか?」

「王者の義務は血統を確実に後世へと残すこと、そのためなら何人か側室を持つのもやむを得ないことと心得ています」

「そう言ってくると助かるが……」

「ですが勿論」

 ネフェルティは微笑みを絶やさないままに、妙に威圧感だけ増して通告する。

「節度は守ってくださいね?」

「それは勿論です」

 竜也は直立不動でそう返答するしかなかった。




















 アルカサムの月・25日。セフィネ=クロイの広場の一角。

 ヤスミン一座はいつものようにそこで「七人の海賊」を上演していた。フードを被って顔を隠した竜也とアヴェンクレトが、広場の片隅からその様子を見守っている。舞台上では、エレブの海賊を撃退して平和になったヌビアの村からゴムゴムア達が去っていくところだった。ゴムゴムア達を見送るヴォークリィエの少年と太陽神の巫女、そして終劇。

 その時いきなり太鼓が鳴らされ、劇が終わったと思っていた観客の度肝を抜いていた。

『これは劇ではない!』

 唖然とする観客が見守る中、舞台上ではある劇が展開されていた。

『いやー!』『助けてー!』

 エレブの兵士がどこかの市民を襲っている。それに被さるナレーション。

『エレブを発した百万の十字軍はタムリットを襲撃。何の罪もないタムリット市民が多数殺され、街角は死体で埋め尽くされた……』

 舞台上ではタムリット市民の生き残りが『ああ、どうしてこんなことに!』と嘆いている。

『百万の大軍を阻む物は何もない。このままではネゲヴ全土が十字軍に蹂躙されてしまう――だが!』

 舞台上に一人の少年が姿を現した。少年は人差し指を立てた手を高々と掲げる。

『1年だ。1年で奴等を、百万の十字軍を倒す!』

『1年!? 馬鹿な、そんなことが出来るはずもない!』

 ナレーターが少年の言葉をそう否定する。だが少年が言葉を変えることはなかった。

『出来る! 1年で奴等を倒すことは出来る! この俺が約束する!』

『お前は一体何者だというのか?』

『俺は皇帝クロイ! 十字軍と戦うために太陽神より使わされた、黒き竜の化身!』

『そうだ!』

『皇帝クロイの言う通りだ!』

 舞台上の少年の周囲に、戦士が集まってくる。

『何だ、この只者ではない戦士達は?! 貴方達は何者なのか?!』

『俺はガイル=ラベク! 青鯱族の戦士にして髑髏船団首領なり!』

『おお、貴方があのガイル=ラベク!』

『俺達髑髏船団は皇帝クロイに雇われた。俺達は皇帝クロイと共に戦う!』

『我が名はサドマ! 金獅子族随一の戦士なり!』

『俺はバラク! 赤虎族のバラクとは俺のことだ!』

『俺達は皇帝クロイと共に戦う!』

『おお、金獅子族と赤虎族が力を合わせている!』

 さらにマグド・アミール=ダールが名乗りを上げ、皇帝クロイへの協力を宣言した。

『十字軍は既にキルタまで来ている。ここまでやってくるのももうすぐだ』

 皇帝クロイ役の少年が観客へと向き直る。

『十字軍と戦うためにネゲヴが一つにならなければならない! 戦える者は槍を手に! 金があるのなら公債を! 皇帝クロイと総司令部は皆の協力を待っている!』

 役者が一礼し、その寸劇が終了。それと同時に一座の者がチラシを観客に配り出した。チラシに書かれているのは、志願兵受付のお知らせと戦時公債販売のお知らせである。チラシは順調に受け取られているようだった。

 寸劇を見守っていた竜也がアヴェンクレトに訊ねる。

「……どうだ?」

「面白かった」

 竜也はずっこけそうになった。

「いや、そうじゃなくて。観客の反応を知りたいんだが」

 少しの間を置き、アヴェンクレトが答えた。

「……反発はほとんどない。戸惑いが多い、共感が少し」

 その調査結果に竜也は「まあ、そんなものか」と呟いた。

「思ったよりも悪くないようだし、他の劇団にも上演してもらおう」

 竜也とアヴェンクレトは総司令部への帰路に着いた。




















 アルカサムの月・26日。セフィネ=クロイの大通り。

「おい、あれ……」

「すげえな、どこの軍だ?」

 民衆の視線を集めているのは、数十騎の騎馬隊である。騎馬隊の中心となっているのはゼッル率いる独裁官警護隊だ。ゼッル達はだんだら模様の黒い陣羽織を揃いで着ており、特異な空気と迫力を醸し出している。そしてゼッル達の中心に、黒い衣装で身を固めた一人の騎士の姿があった。

 その騎士が着ているのは、黒を基調とした衣装に金銀の飾りを付けた物である。さらには黒いマントを羽織り、角の付いた黒い兜を被っている。それは中世ヨーロッパ風の騎士装束にアラビア風味を加味したような、この世界としても幻想的な衣装だった。民衆のうちの何人かはその衣装にどこか見覚えがあったに違いない。多少仕立て直されているが、それはヤスミン達の「カリシロ城の花嫁」の中で敵役のカリシロ国宰相役が着ていた、芝居用の衣装だった。

 その騎馬の一団はナハル川絶対防衛線へと向かう。川岸では数百名の兵士が訓練を中断し、整列して騎馬の一団を出迎えた。整列し、沈黙を保つ兵士の前へと、黒い騎士が騎乗したまま進み出る。黒い騎士は人差し指を建てた手を高々と掲げ、

「――1年だ!」

 兵士全員に力強く宣言した。

「百万の十字軍を1年で壊滅させる! 勝つための算段は充分に立てている、諸君は上官の命令を良く聞いて勇を奮ってほしい! 諸君の奮戦に期待している!」

 感嘆が音もなく、波のように広がった。

「おおっっ! 勝つぞ!」

 誰かが感極まったようにそう叫び、「そうだ!」「勝つぞ!」「皆殺しにしてやる!」等の声があちこちから上がる。さらに「皇帝クロイインペラトル=クロイ!」「黒き竜シャホル=ドラコス!」の呼びかけが。やがて呼びかけは「皇帝クロイ」に統一された。

「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」

 兵士達の連呼に、黒い騎士――竜也が手を掲げて応える。兵士達もまた人差し指を立てた手を掲げ、突き上げる。「皇帝クロイ」の連呼は思いがけず長い時間続くこととなった。

 閲兵を終えた竜也達が総司令部のあるイナブの丘に戻ってきた。竜也は真っ直ぐに船へと向かい、兜を被ったまま自室へと駆け込んでいく。自室に入って扉を閉ざした竜也は、

「暑い!」

 と兜を脱ぎ捨てた。「暑い、暑い」と言いながら破り捨てるような勢いで黒装束を脱いでいく。服を全部脱ぎ、下着だけの姿になってようやく人心地ついた。

「タツヤ様」

 ノックと共に、扉の外からネフェルティが呼びかける。「ああ、入ってくれ」と竜也が応えると、水差しを持ったネフェルティが入ってきた。

「タツヤ様、これを」

 竜也はネフェルティから良く冷えた水を受け取り、それを一気に飲み干す。竜也は生き返ったような気分になった。

「ああ、助かった。ありがとう」

「お気になさらず」

 竜也はベッドに腰掛けて休息した。ネフェルティはその向かいに立っている。

「水を持っていかなかったのは失敗だったな。衣装ももう少し考えないと」

 一人でそんな反省会を開いている竜也に、ネフェルティが訊ねる。

「今日の閲兵式はいかがでしたか?」

「最初としては上出来だろう。これを小まめに繰り返せば兵士には皇帝の権威を浸透させられると思う」

 竜也は閲兵式に際して何人ものサクラを用意し、兵士の間に仕込んでいたのだ。兵士のほとんどは「皇帝って何?」と思いながら「皇帝クロイ」を連呼していたに違いない。

「太陽神殿の方でも宣伝を頼む。『皇帝クロイ』と、志願兵受付と、戦時公債販売と」

「心得ております。手はずは整っておりますわ」

 竜也はベッドに突っ伏し、枕に顔を埋めた。

「ああ、恥ずかしい……皇帝って因業な商売だよな、こんな恥ずかしいことに耐えなきゃいけないなんて」

 そんな愚痴を漏らす竜也を、ネフェルティが優しく見守っている。

「仕方がありません。民衆というのは愚かで度し難いものなのですから。簡単な言葉、単純なお芝居でなければ彼等は理解できません。民衆は動かせないのです」

 ネフェルティの言葉にかすかに反発を抱きながらも、竜也はそれを否定できなかった。長年教育を受け続け、高度に情報化された21世紀の日本ですら、民衆がどれだけ賢い存在であるかには疑問符が付く。教育も情報化も絶望的な水準のこの世界の民衆がどの程度なのかは、推して知るべしである。

「……確かにその通りだ。『正しい戦略なんだから判ってもらえる』っていうのは俺の勝手な思い込みだったし、怠慢だったんだ」

 例えばの話、竜也が独裁官になどならず、ただの一庶民のままだったとする。そこに十字軍が襲来し、徴兵されて一兵卒として戦うことを余儀なくされた。その時、全軍の指揮官がこれまで聞いたこともない全く無名の存在だった場合、果たして安心してその指揮に従えるだろうか?

 アミール=ダールやマグドのように確固とした実績があり名前が売れた指揮官なら申し分ないだろう。では、「実績は何もないがアミール=ダールの息子である」という人物と、「実績が何もなく、全く無名」という人物。指揮官がこの二者択一だった場合はどうか。後者の人物を直接知りでもしない限り、ほとんどが「アミール・ダールの息子」を指揮官として選ぶだろう。それは血統崇拝として単純に否定されるべきものではない。他に何も判断基準がなければそれを一筋の光明として縋る他ないのだから。

 そして竜也は「実績が何もなく、全くの無名」な指揮官そのものだった。総司令部に在籍しているのなら、竜也を直接知る機会があるのならともかく、そうでない一般の民衆や兵士が不安を覚えるのは当然である。そしてその不安を解消しようとしてこなかった竜也の怠慢は、非難されてしかるべきだった。

「タツヤ様の知識の深さも戦略の正しさも、総司令部の者なら全員が理解しています。ですが民衆にそんなことを判らせるのは不可能なのです。『黒き竜』としてのタツヤ様を前面に押し出すしかありません」

 「フゥト=カァ=ラーの王女が神託で預言した『十字の旗を打ち倒す黒き竜』が『皇帝クロイ』である」――民衆や兵士に名前を浸透させるにあたり、竜也はそれを自分の宣伝文句とする他なかったのだ。

 これまでそれをしてこなかったのは、その必要性を理解していなかったこともあるが、最大の理由は要するに恥ずかしかったからである。竜也は近代民主主義社会に培われた健全な精神の持ち主だ。どこかの共産主義国家の将軍様のような、恥ずかしげもない自己宣伝や自己神格化などまともな神経で耐えられることではない。

 だが、民衆の不満や兵士の不安を放置しておけば最悪は生命の危険すらあることを、竜也はインテカーム事件から学んでいた。ならば羞恥心は少しの間脇に置いておいて、自己宣伝で民衆と兵士の支持を得る他ない。

「別に恥じ入る必要はありませんわ。タツヤ様が黒竜の恩寵を得る身であることは事実なのですから――わたしが太陽神から神託を授けられるのと同じように」

 ネフェルティが優しく微笑みながらささやくようにそう言う。竜也は目を見開いてネフェルティを見つめた。

 太陽神の神託はセルケト王朝が自らの権威付けに作り出した幻想に過ぎない。だがセルケト王朝は4000年もの間「それが存在する」と主張し、そのように振る舞い続けてきた。この結果ネゲヴの民衆にとって太陽神の神託が「存在する」ことは、議論の必要もない確固たる事実となっている。

 「黒き竜」はただの子供の頃の思いつきの、脳内設定に過ぎない。だが竜也はこれから一生涯を懸けて「その恩寵が存在する」と主張し、そのように振る舞い続けるのだ。竜也だけではなく、竜也の子供も、その孫も、千年万年とそれを続けていく。ネゲヴの民にとってそれが議論の必要もない、確固たる事実となるまで。

「……ああ。その通りだ。俺は『黒き竜』だ」

 竜也は万感の思いを込めてそう頷いた。







[19836] 第18話「エジオン=ゲベルの将軍」
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/12/11 21:09



「黄金の帝国」・迎撃篇
第18話「エジオン=ゲベルの将軍」










 アルカサムの月・27日。

 一月ほどの時間を掛けて、ザキィは総司令部のあるイナブの丘に井戸を掘削した。水を汲み上げる風車も同時並行で建設し、完成させている。

 総司令部の小間使い等が集まり注目する中(野次馬には竜也達も混ざっていたのだが)巨大な風車が風を受けて回り出す。それに連動したロープが動き出し、やがて水がなみなみと汲まれた桶が地の底から上がってきた。桶は水槽に水を移し、また地の底へと戻っていく。

「おお、水が!」

「やったー!」

 建設に関わった人足、小間使い等が手を取り合って喜んでいる。ザキィも問題なく稼働していることを確認でき、ほっとしているようだった。

「おおっ、ちゃんと動いとるようだな! 良くやったザキィ!」

 そう言ってザキィの肩を叩いているのはガリーブである。ザキィは苦笑しながらガリーブの慰労を受けていた。

「良くやってくれた。感謝する」

 竜也もザキィにそう声を掛ける。ザキィは「いえ、とんでもない」と答えを返した。

「まあ、あれがなければもっと早く完成できたんですけど。あれも完成していますので」

「判った、後で確認しよう」

 ザキィの曖昧な物言いに「何の話だ?」と首を突っ込むガリーブ。竜也は「こちらの話です」と誤魔化した。

「ところでガリーブさん、原油の精製と放水車の作成は?」

「おお、放水車はちゃんと完成しているぞ! 原油の精製も順調だ!」

「判りました。近いうちに視察に行きます」

 竜也は日程の調整をするよう秘書官の一人に命じた。

 その日の夕方、竜也の公邸。

 公邸に戻ってきた竜也は、ネフェルティやアンヴェル、女官達が何か騒いでいるのを耳にした。竜也は女性達が集まっている、食堂として使われている一番大きな部屋の中を覗き込む。

「? 誰か来ているのか?」

「あ、タツヤ様」

 見ると、行商人が荷物を広げて商売をしているようだった。売り物は衣服やアクセサリーの類である。

 「ふーん」と竜也は売られている衣服を見渡す。女官達が竜也のために場所を空けた。

「男物の服はないのか?」

「はい、ありますよ。こちらなど如何ですか?」

 と中年女性の行商人が何着かの服を取り出す。竜也はその中の真っ黒の服だけを手に取り、サイズが合うことを確認した。

「これと同じ服をもう4~5着ほしいんだが」

「はい、すぐに用意してお届けいたします」

 竜也の買い物は2分もかからずに終了し、アンヴェルやネフェルティは何か物足りなさそうにしている。

「タツヤさん、そんな地味な服よりもこっちの方が良くないですか?」

「いえ、こちらのケムト風の方が」


 と派手な服を進めるが、竜也は「ほら、黒が俺の色だから」と二人を宥めた。

 竜也は今度はアクセサリーの方を眺める。そして、ミカが真剣な様子で眼鏡を選んでいることに気付いた。竜也はそれを横から覗き込む。

「これがこっちの眼鏡か……」

 二つのレンズを目の位置に並べるフレームはあるが、耳に掛けるためのつるはまだ発明されていないようだった。眼鏡は紐を使って固定するのが主流のようである。フレームもやたらと大きくド派手に作ってあり、「仮面舞踏会にでも行くのか」と思うような物ばかりだった。眼鏡と言うよりレンズ付き仮面と呼ぶべき代物だ。実用性よりも金持ちの装飾品としての側面が大きいようだった(この行商人の品揃えが装飾品限定なのか、それとも眼鏡全体がまだ金持ちしか買えない商品なのかは判らないが)。

「良いのはあったか?」

 竜也の問いに、ミカはため息をついて首を振る。

「わたしの趣味ではない物ばかりです。度数として一番合っているのがこれなんですが」

 とミカが取り出したのは極彩色に塗装された蝶仮面である。竜也は思わず吹き出し、ミカは不満そうな顔をした。

「こんな物を付けて仕事をしたら部下の笑いものになります。今回は諦めるしかないようです」

「そうか。それじゃそれは俺が買おう」

 ミカは思わず竜也を見つめた。

「何をお考えですか、タツヤ」

「心配しなくていい、これを掛けさせようなんて誰も考えてないから」

 と竜也は笑ってはぐらかす。ミカは納得していないようだったが、それ以上は追求しなかった。

 そしてその日の夜。

「いーい湯っだっなーっと」

 遠慮なく大量の水を使えるようになったので、竜也は早速日本式の風呂を沸かして入っている。1年数ヶ月ぶりとなる日本式の湯船を、竜也は思う存分堪能していた。

「やっぱり風呂はこうじゃないと。サウナじゃ疲れは取れないよな」

「湯加減はいかがですか、タツヤ様」

 と風呂の外からネフェルティの声。竜也は「ああ、ちょうど良い」と答えた。

「そうですか。それではわたしも」

 とバスタオルを巻いたネフェルティが風呂場に入ってくる。竜也は溺れそうになった。

「な、な、な……」

 と竜也が絶句している間にネフェルティは湯船に身体を浸し、竜也の隣の腰掛ける。竜也の腕とネフェルティの腕が接した。竜也がバスタオルに包まれたネフェルティの肢体をちらちらと盗み見る。そんな竜也に、

「あまり見ないでください。恥ずかしいですわ」

 ネフェルティは恥ずかしげにそう言うが、その声にはたっぷりと媚と艶が込められていた。湯船の中で、竜也とネフェルティの手が結ばれた。

 一方風呂の外では、アヴェンクレトとネフェルティの女官が睨み合っている。

「……わたしもタツヤと一緒に風呂に入る。邪魔しないで」

 とアヴェンクレトが押し通ろうとし、それを二人の女官が止める。

「今はお二人の時間です。いくら貴方が子供でも邪魔をするのは野暮というものですし、人として問題がありますよ」

「今邪魔をしたなら皇帝に恨まれるのは貴方の方ですよ?」

 女官達はいつになく勝ち誇った、余裕のある態度でアヴェンクレトに接している。アヴェンクレトも女官達の言葉に嘘がないことを理解した。風呂場の内側から淫靡な気配が漂っていることも。

 アヴェンクレトは唇を噛み締め、逃げるようにその場を立ち去る。その姿を見送りながら、二人の女官は勝利の味を満足げに噛み締めていた。




















 アルカサムの月・28日。

「あの、アヴェンクレト殿」

 裁判所の一角で小休止していたアヴェンクレトに、牙犬族の女剣士がおそるおそるという感じで声を掛ける。アヴェンクレトはその女剣士の方を振り返るのと同時に彼女の表層意識を読み取った。

「……白兎族が? 判った」

 彼女が何を言うよりも早く全ての用件を理解し、行動に移るアヴェンクレト。昨晩から機嫌が悪いアヴェンクレトは、恩寵の使用に対する自制がいつになく効きにくくなっていた。

 総司令部に隣接しているあまり大きくない木造小屋。主に客室として使われているその小屋にアヴェンクレトがやってきた。客室でアヴェンクレトを待っていたのは白兎族の人間だった。

 一人は長身で痩身、灰色の髪で青白い肌の、40歳くらいの男。男は酷薄な雰囲気を漂わせ、暖かみに欠けた瞳をアヴェンクレトに向けている。もう一人は70歳は超えていそうな老婆である。元々小柄でさらに腰が曲がっているので、体格はアヴェンクレトと大差ないように見える。顔の半分を隠すくらい深々とフードを被っているが、フードには耳を出すための穴がちゃんと空いていてウサ耳が外に出されていた。

 老婆はアヴェンクレトにとって曾祖母の姉に当たり、男は伯父に当たる。だが二人は、特に伯父の方はアヴェンクレトをアニードに売り飛ばした張本人だった。

「何しに来たの」

 そう問いながらアヴェンクレトは伯父の意識を探る。男は精神防壁を緩めてアヴェンクレトに対し答えを提示した。

(海沿いの町からの避難民が隠れ里を見つけて流れ込んできたのだ。戦ってもろくなことにはならないと判断し、隠れ里を捨てる決断をした。一族の者が一人残らずこの町を目指して移動している)

 恩寵の部族であれば大抵が有している身体強化の恩寵を、白兎族は持っていなかった。白兎族の身体能力は恩寵を持たない人々と比べても脆弱と言える水準にある。

(私と族長はお前に会うために先行したのだ。お前に一族に助力し、便宜を図ってもらうために)

(何のためにわたしがそんなことを。わたしをアニードに売り飛ばしたのはどこの誰?)

 男が持つ読心の恩寵はアヴェンクレトの足元にも及ばない水準で、他者の思考を言語化して読むことなど出来はしない。他者の心情を感じ取るのが精一杯だ。だがアヴェンクレトの表情を見れば、その考えを読むことは白兎族でなくてもそう難しくはないだろう。

(お前をあのまま里に置いておいて、どうなったと言うのだ? どこにいようとお前のその強力すぎる恩寵が忌避される原因になることには変わりない。ならば、お前の生まれのことを知らない外に出した方がまだマシというものだろう)

 男の判断の正しさに、アヴェンクレトは一瞬詰まる。が、すぐに精神的に体勢を立て直した。

(それはそうかも知れないけど、わたしが白兎族に力を貸す理由がないことには変わりない。わたしを売り飛ばして貴方達は大儲けをした、それで一族への義理は全て果たしている)

「我々は皇帝クロイの力となりに来たのだ。今お前がそうしているように」

 男の言葉にアヴェンクレトが目を見張り、次いで険しい目をして恩寵を全力で行使、男の心を読み取ろうとした。男の展開する精神防壁は極めて強固で、アヴェンクレトの全力を持ってしてもそれを破ることが出来ない。それでも、男に竜也への害意がないことだけは何とか読み取ることが出来た。

「……判った、タツヤに紹介する」

 しばらくの間を置き、アヴェンクレトはそう決断した。

 それからかなりの時間を置いて。竜也が造船所の視察からようやく戻ってきたので、アヴェンクレトが白兎族との会見を求める。そして、客室にやってきた竜也は白兎族の二人と会見した。なお、竜也の服装は昨日買った上質な黒服である。竜也はこの頃から庶民のような安っぽい服装ではなく、上質な服を普段着にするようになっていた。

「俺が皇帝のクロイ=タツヤだ」

「こちらが族長のホズン。私は族長を補佐しているベラ=ラフマです」

 男――ベラ=ラフマがそう自己紹介をする。ベラ=ラフマは竜也の元を訪れた理由を説明した。

「皇帝には、白兎族がこの町で生活するための助力を願いたい。その代わり、我が一族とその恩寵が皇帝の力となることを約束する」

「判った、よろしく頼む」

 竜也は即答した。ベラ=ラフマがわずかに意表を突かれたような顔をする。竜也はそれに構わず話を続けた。

「今アヴェンクレトがやっている仕事は知っているか? 白兎族にはそれを任せたいと思う。元々アヴェンクレト一人じゃどうにもならなくなっていたところだ。貴方達が来てくれて本当に助かる。出来るだけ早く、恩寵の強い人間を揃えてくれ」

「わ、判った」

 竜也の内心で白兎族に任せる仕事のリストがどんどん広がっていくのを感じ取り、ベラ=ラフマは密かに怖じ気づいていた。が、一族の未来のためにもここは頷くしかない。

 その時、ずっと沈黙したままのホズンが竜也の前へと進み出た。竜也は腰を少し屈めてホズンと向き合う。ホズンの目から光が失われていることに竜也は初めて気が付いた。

「……あの子を助けてくださり、本当にありがとうございます」

 ホズンはそう言って深々と頭を下げた。竜也はホズンの手を取って頭を上げさせようとする。

「俺の方こそ、アヴェンクレトがいなければ今生命がないくらいです」

 ホズンはそれに構わずさらに頭を下げる。

「どうか、これからもあの子のことをよろしくお願いします」

「判りました、任せてください」

 ホズンは長い長い時間、竜也に頭を下げ続けていた。




















 アルカサムの月・29日。

 多数のセルケトの末裔を引き連れ、イムヘテプがケムトから戻ってきた。竜也達はセフィネ=クロイの港でイムヘテプを出迎える。

「ご苦労様です、イムヘテプ。これでようやく太陽神殿の方も本格的に始めることが出来ます」

「そんな、ネフェルティ様」

 ネフェルティ直々に苦労をねぎらわれ、イムヘテプは感涙にむせんでいた。竜也達は総司令部へと移動する。

 十字軍との交渉に赴いたイムヘテプの部下がちょうど先日戻ってきたところなので、竜也はケムト組を揃えて報告と今後の打ち合わせをすることにした。

「しかしまあ、よくこれだけの人間を集められたな」

 イムヘテプが連れてきた・連れてくる予定のメンバーのリストを見せられ、竜也はそう感嘆した。セルケトの末裔の神官・巫女候補、ケムト各地の貴族の三男坊四男坊、ネフェルティを慕って追いかけてきた女官、反宰相派の官僚。リストには百人分以上の名前が連なっていた。

「国王陛下にご助力いただいたのです。陛下に宰相を抑えていただいたため、私も思う存分人集めが出来ました」

 イムヘテプが胸を張ってそう言う。ネフェルティは「父上が……」と感無量の様子だった。

「これだけの人間が助けてくれるなら俺も助かる。総司令部には行政に通じた官僚がいくらでも必要だし、十字軍との交渉も重要だ」

「太陽神殿の方にも有能な人間を配置していただかないと」

「ああ、判っている。その辺はケムトの皆で相談して割り振ってくれ」

 イムヘテプが「判りました」と頷く。そして議題は次へと移行した。

 イムヘテプの命を受け十字軍との交渉を行っていたのはウニという30代の男である。ウニは竜也達に報告した。

「正直申しまして、エレブ人との交渉はあまり成果がありませんでした。一応王命に従いネゲヴを東西で分割して勢力範囲を決めることを申し出たのですが、エレブ人は『我々単独でネゲヴ全土を占領できる』と強硬な主張を繰り返すばかりで」

「十字軍の誰と交渉したんだ?」

「枢機卿アンリ=ボケという男です。最上位の人間を交渉の場に引きずり出すのに時間が掛かってしまいました」

 竜也は少し考え、ウニに質問した。

「十字軍は、アンリ=ボケはネゲヴ情勢についてどの程度知識があるんだ? ソロモン盟約について何か知っていたか?」

「ネゲヴの町はそれぞれが独立した自治都市で、それをまとめる誰かは存在しない――それなりに正しい知識を持っているようです。皇帝を名乗る何者かが東ネゲヴ諸都市をまとめ、十字軍と戦おうとしていることも知られています。私もその点について何度も質問を――尋問を受けました」

 竜也が皇帝を名乗りだしたのはつい最近なので、アンリ=ボケ達は独裁官と皇帝を混同しているのだろうと思われた。

「何と答えた?」

「まず、エレブ人は『皇帝』というのはケムト王の別称だと思っています。ケムト王がネゲヴ全体を軍事的に指揮する時に使うのがその名だと。ですので私はこのように説明しました。『ケムトの中の対十字軍強硬派がスキラに行って諸都市を糾合し、本来名乗る資格のない皇帝を勝手に名乗っている』と」

 それほど間違っていないかも、と竜也は感想を抱いた。竜也は別の質問をする。

「アンリ=ボケから何か要求は?」

「ケムト海軍による食糧補給を真っ先に要求してきました。十字軍の食糧不足はかなり深刻なようです。それと、モーゼの杖を」

「モーゼの杖?」

 不思議そうな顔の竜也にウニが説明する。

「はい。フゥト=カァ=ラーにある聖モーゼ教会、ここには十字教徒の聖遺物『モーゼの杖』が残っているそうです」

 カルトハダ同盟時代、エレブからフゥト=カァ=ラーを訪れた巡礼者や宣教師が建てた教会が「聖モーゼ教会」である。聖モーゼ教会はフゥト=カァ=ラーやその周辺にわずかに残る十字教徒の支援により、細々とながら未だ運営され続けている。

「『モーゼの杖』は十字教の預言者・聖モーゼ本人が使っていたとされる杖です。聖モーゼ教会はフゥト=カァ=ラーで発見されたこの聖遺物を納めるために建てられた教会です。かつてテ=デウムの教皇庁が杖の譲渡を要求したそうですが、同教会はそれを拒否。以来、同教会は教皇庁からは異端認定されているそうです。同教会から杖を『取り戻す』のは、歴代教皇の永年の悲願なのだとか」

 十字教の聖典の中で最も偉大な預言者として扱われていたのはモーゼだったことを、竜也は思い出していた。

「……まさか十字軍発動の理由が杖一本のためじゃないよな」

 と竜也は呟く。それに対しウニは、

「杖一本のためだけではないでしょうが、理由の一つにはなっているようですよ」

 ウニの答えに、竜也は肩をすくめた。

「なるほど。ケムトにとっては所詮他人の持ち物だし、自分の懐が痛むわけじゃないだろう、と。聖モーゼ教会から杖を奪い取って持ってこい、その程度の誠意は見せろ、と。もし本当に持ってきたなら大儲け、と。そんなところか、アンリ=ボケの考えは」

「そんなところです」

 竜也のまとめにウニが頷いた。

「……なるほど。食糧補給の要求など飲めるはずもありませんが、杖一本くらいなら要求に応えるべきかも知れませんね。今後の交渉を考えるなら」

「ですが、その杖はその教会にとっては信仰の依り代なのでしょう? 果たして譲渡していただけるものでしょうか?」

「どこかの王様のところに行って、王冠を寄越せと言うようなものです。普通に考えれば無理でしょう。『王命である』として無理矢理奪い取ることも出来なくはないでしょうが」

「そこまでして要求に応える必要はあるのでしょうか?」

 イムヘテプとネフェルティの検討を聞き、竜也が決断を下した。

「……十字軍に対する交渉材料は手にしておく必要がある。今すぐは役に立たなくてもいつか役に立つ場面がやってくる」

 竜也の判断をイムヘテプもネフェルティも了解した。

「杖を無理矢理奪い取るのですか? あまり乱暴なことは……」

 ネフェルティの懸念に対し竜也が答えた。

「判っている。杖は別に本物でなくて良い。聖モーゼ教会にも協力させて、本物そっくりの杖を用意すればいい」

 イムヘテプ達が驚きに目を見開く。

「偽物で騙すのですか?」

「今その教会にある杖だって、本当にモーゼが使っていた物なわけがない」

 モーゼが実在の人物だったとしても、本物のモーゼの使っていた杖が現存するとしても、あるとするならそれは元の世界の話であって、この世界にそんな物があるはずがない。

「聖モーゼ教会には『杖を無理矢理取り上げられた』って言わせろ。『渡したのは偽物で、本物はずっと隠していた』と言っていいのはこの戦争が終わってからだ」

 竜也の指示にイムヘテプとウニは頷いた。イムヘテプとウニは部下の一人に命令を下し、その日のうちにフゥト=カァ=ラーへと送り出した。




















 アルカサムの月・30日。

「そうか、やっと来てくれたのか」

 エジオン=ゲベルの将軍・アミール=ダールを乗せた船がようやくセフィネ=クロイに到着した。竜也はミカを連れて港に赴き、アミール=ダールを出迎える。

「父上! 兄上! 姉上!」

 船の甲板に家族の姿を見出し、ミカは手を大きく振った。屈託なく振る舞うミカの珍しい姿を、竜也は微笑ましく見守っている。なお、今の竜也は兜を除いた皇帝としての正装(つまりカリシロ国宰相の舞台衣装)を身にしている。

 やがて船は港に接岸。飛び出すように下船した5人の男達と1人の女性が、駆け寄ってきたミカを取り囲む。

「ミカ、無事だったか?」「元気だったか?」「心配したんだぞ?」

「兄上達も、お元気そうで何よりです」

 ミカは兄弟達にもみくちゃにされながらも、互いの無事と壮健を喜び合っていた。長男は30前後、五男は20前後のように見受けられるが、全員仲の良い兄弟のようである。

 そして、屈強な護衛の戦士を連れた壮年の男が竜也の前に降り立つ。ミカとその兄弟6人も自然と姿勢を正した。

 年齢は、見た目は40代半ばくらい。息子達がかなりの年齢なので実際にはもう少し上だろう。背は高く、均整の取れた身体付き。アラビア風の略式軍装に、頭部にはフードを被りターバンを巻いている。口髭を生やした伊達男だが、その目は鷹のように鋭かった。

「……俺がネゲヴの皇帝クロイ=タツヤです。貴方がエジオン=ゲベルの将軍アミール=ダールですね」

「――我が兄エジオン=ゲベル王の命により、ネゲヴの助太刀に参上した。非才非力の身ながら微力を尽くすことを約束しよう」

「助かります」

 竜也とアミール=ダールとの間にはちょっとした緊張感が高まっていた。

「将軍にお願いしたいのはナハル川絶対防衛線の指揮です。まずはナハル川を見ていただきます。――ミカ、案内を」

「あ、はい」

 竜也の指示によりミカが先導、一同は馬でナハル川へと向かった。

 ナハル川の川岸には櫓が等間隔に並んでいる。その間を篝火台が埋め、槍を持った兵が歩哨に立っていた。竜也とアミール=ダールはミカに案内され、川沿いに造成された道を歩いた。さらにサブル等の部隊長も集められ、アミール=ダールの視察に同行する。

「川から這い上がるのに容易そうな場所は全て石材で壁を作りました。まだ全ての工事が終わったわけではありませんが、今日十字軍が攻めてきても充分対応できると思っています」

 ミカは誇らしげにそう説明する。が、アミール=ダールは無言のままである。竜也はアミール=ダールの様子を注意深く観察していた。

 アミール=ダールは自分で櫓に登ったり、石材の壁に登って川を見渡したりと、熱心に防衛線の様子を確認していた。半日以上を確認に費やし、ようやく気が済んだようである。アミール=ダールは疲れたような様子の部隊長を集めさせた。

 姿勢を正して並ぶ部隊長の面々に、アミール=ダールが告げた。

「アミール=ダールだ。皇帝の命によりこの絶対防衛線の指揮を任された。諸君には今から私の指揮下に入ってもらう。まず、今日までにこのような堅牢な防衛線を築いてくれたことに、諸君の尽力に感謝したい」

 アミール=ダールがそう言って頭を下げる。部隊長達からは狼狽えたような様子が見受けられた。

「――だが、ミカよ」

 アミール=ダールが鷹のように鋭い視線をミカへと向ける。ミカは小さく身を震わせながら「はい」と答えた。

「いくら堅牢でもこの防衛線は穴だらけだ。このような欠陥要塞に我が将兵の生命を預けさせるつもりか!」

 アミール=ダールの叱責がミカを鞭打つ。ミカは顔を蒼白にした。

「あ、穴だらけとは一体」

「出丸が一つもない、渡河途中の敵を攻撃する船が用意されていない、防御を重視するあまり攻撃手段が限定されすぎている――これでどうやって敵兵を殺すつもりだったのだ、お前は!」

 ミカが目に涙を溜め、唇を噛み締めた。アミール=ダールはそんなミカを無視し、部隊長達に向き直って再度頭を下げた。

「我が不肖の娘のこの不始末は、私と我が息子達に償わせてもらいたい。出丸を築き、船を用意し、防壁を改造し、この要塞の攻撃力を高めるのだ。諸君にも力を貸してもらいたい、済まないがよろしく頼む」

 部隊長の何人かがアミール=ダールに、

「いえ、我々も気が付かなかったのです。ミカ殿だけの失敗ではありません」

「出丸の建設は何度か検討したのです」

 とミカを庇うように申し出る。アミール=ダールはそれに耳を傾けるが、だからと言ってミカへの叱責を覆すようなことはしなかった。

 部隊長達の人心を掌握したアミール=ダールは、野戦本部天幕へと案内され移動する。一同がそれに同行し、その場には立ち尽くすミカが残された。ミカは身を翻して走っていく。そしてそれを竜也が追った。

 人目を避けて走るミカは、やがて人気のない林の中に入っていく。走り疲れたミカは足を止め、木の一つに縋り付いた。

「……うっく……」

 涙を堪えられないミカに、竜也が「ミカ」と声を掛ける。

「ミカは良くやってくれたよ。これでアミール=ダールも絶対防衛線を掌握できるだろう」

 ミカは返答しなかったが竜也は構わず言葉を続ける。

「ミカが部隊長達から嫌われていたからアミール=ダールへの指揮官交代がすんなりと出来た。これまでの失敗をミカ一人の責任にしたから工事をやり直させることも難しくないだろう。それも、ミカが損な役割を進んで引き受けてくれたからこそだ」

「わたしはそんなつもりは……!」

 振り返ったミカがそのままの勢いで竜也の胸に飛び込んでしまう。竜也はミカの肩を優しく抱いて、

「ミカは良くやってくれた。ミカは頑張った。ミカは偉い。俺が保証する、俺が判っている」

 何度もそう繰り返した。ミカは竜也の胸の中で涙を流した。

 やがて夕陽は沈み、月明かりが二人を照らし出す。大地に写っているのは一つの影だ。ミカは長い時間、竜也の胸の中で泣き続けていた。












[19836] 第19話「黒竜の旗」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/12/04 21:26





「黄金の帝国」・迎撃篇
第19話「黒竜の旗」その1










 月は変わってキスリムの月・2日。

 ナハル川絶対防衛線ではこれまで以上の突貫工事が展開されている。まずは南岸に出丸を建設する工事だ。石材を沈め、積み上げ、橋脚を造り、それと南岸をつないで石橋か回廊のような出丸を造る予定である。石材は今や無人に近いスキラの町から採取することにしていた。

「どう考えても時間が足りない。出丸は4つか5つも造れれば良い方か」

 野戦本部天幕のアミール=ダールは地図を見ながら難しい顔で考え込んだ。

「渡河途中の敵兵を攻撃するのに船を使う。船は上流から下流へ、川の流れに沿って進ませる。河口まで行き着いた船は陸上輸送でもう一度川上まで登らせるのだ。この道を拡張して船の輸送用の道路とする」

 アミール=ダールは地図上の川沿いの道に指を沿わせた。その言葉に各部隊長が頷く。

「父上、皇帝タツヤが来ています」

 天幕の外からそう声を掛けるのはアミール=ダールの四男のカミースだ。アミール=ダールは「判った」と返答し、竜也の出迎えに向かった。

 野戦本部を出たアミール=ダールが見たものは、不格好な台車を引き連れた竜也の姿だった。アミール=ダールはかすかに困惑の表情を浮かべる。

「皇帝、それは?」

 竜也は何故だか誇らしげな顔をした。

「ふっ、こんなこともあろうかと製作を進めておいた、我が軍の新兵器だ」

 今日の来訪はアミール=ダールや絶対防衛線の将兵にこの新兵器のお披露目することが目的のようだった。手の空いた部隊長が、野次馬の兵が集まる中、ザキィと職人等が準備を進める。

 職人の一人が火を点した松明を用意。ザキィは金属製のホースのノズルを両手で持って構え、台車の上には職人の一人が乗った。

「いくぞ! せーの!」

 合図と共に、職人が全体重を掛けて台車の上の取っ手を押し込む。それに少し遅れてノズルから霧状の軽油が噴出、松明で点火して巨大な炎となった。炎は龍の舌のように10mくらい伸び、やがて消えた。周囲は「おおーー」という将兵の感嘆の声に覆われる。

 目を輝かせるアミール=ダールに対し、竜也は「どうだ」と言わんばかりに胸を張った。

「ガリーブ謹製の火炎放射器だ。あと1ヶ月でもう10台用意させる。運用は一任するから上手く使ってくれ」

「これは大いに兵の助けとなるでしょう。感謝します、皇帝」

 とアミール=ダールは頭を下げた。




















 キスリムの月・4日。

 セフィネ=クロイに程近い南の山間部のとある森。そこには今数千もの兵が投入され、開拓が進められていた。ある部隊は木を切り倒し、別の部隊は切り株を掘り起こしている。切り倒された木から枝を払い、丸太に加工している部隊もあった。

 竜也はアヴェンクレトや総司令部の何人かとベラ=ラフマ達白兎族を連れて、そこを視察に訪れていた。なお、白兎族の男達は揃って白人のように白い肌と赤みがかった瞳を有している。アルビノっぽいのはアヴェンクレト一人ではなく白兎族全体の特徴のようだった。アヴェンクレトはその特徴が特に強く表れているのだろう。

「白兎族用の村としてこの土地を使ってもらおうと思う。ある程度の土地の造成は見ての通り兵にやらせている。天幕と当面の食糧も用意する」

 ベラ=ラフマや数人の白兎族が声もなく感嘆し、森の様子を見回している。竜也は白兎族の様子に満足する一方、視察に同行したネフェルティやアンヴェルがそんな竜也を何か言いたげに見つめていた。

 視察を終え、竜也達は総司令部のあるイナブの丘へと戻ってきた。竜也は白兎族を裁判所へと集める。裁判所の一室で、竜也はこれまでの裁判の調書や判決文の束を白兎族へと示した。

「白兎族には司法関係の仕事を任せたいと考えている。治安警備隊が逮捕した犯罪者から貴方達が事情聴取をし、事実を見極める。アヴェンクレトのおかげでセフィネ=クロイの法廷は冤罪知らずだ。貴方達にもそれを期待したい」

 白兎族の男達は無言で頷いた。

「裁判所の仕事は、今は犯罪者相手が中心だけど平和になれば商売上の諍いの調停とか多岐に渡ることになるからそのつもりで。

 ――ネゲヴの大抵の町では裁判は長老会議の管轄だ。法律も量刑も慣習法に則っている。でもこの町にはまだ長老会議がないから、他の町の慣習法を参考に俺が量刑を独断で決めている。……窃盗とかの小さな犯罪は難民の出身地ごとに作った自治会に任せられるようになったけど、殺人等の大きな犯罪や自治会をまたぐ事件は俺の管轄だ。貴方達白兎族には事情聴取だけでなく、裁判官に対して求刑することもお願いしたい。

『慣習法に基づけばこの程度が適当である』

『これまでの判例に従えばこの程度が適当である』

『慣習法と判例ではこの程度だが、犯罪に至った事情を考慮すると一定の減刑が妥当である』

 ……とかそういう判断をして、俺に助言してほしいということだ」

 要するに、主として検事の役割を求めているということだ。白兎族は戸惑ったような顔を見合わせた。竜也は構わず続ける。

「勿論判決を出すのは裁判官、この町では俺の役割だが、そのための助言だけであっても確かに簡単な仕事じゃない。慣習法に関する知識、これまでの判例に関する知識を蓄積し、深めていかなきゃいけない。でも、誰かがそれをやる必要がある。法と正義を司るこの仕事に最も相応しいのは白兎族だと思っている」

 竜也の真摯な瞳が白兎族の男達を射貫く。白兎族は痺れたように小さく身を震わせた。

「わ、判りました皇帝クロイ。身命を賭してやりましょう」

 生真面目を絵に描いたような白兎族の青年がそう申し出る。

「呪われた、忌まわしき部族と呼ばれた我が白兎族。その名を法と正義の使者となし、ネゲヴの民の心に刻み付けてやりましょう」

「白兎族の名誉と繁栄のために……!」

「一族の命運を懸けて!」

 白兎族の男達は静かに、熱く燃え上がった。竜也は満足げに頷き、付け加えた。

「当分はこの町だけだけど、将来的には貴方達白兎族を司法官としてネゲヴ全土に派遣することを考えている。それぞれの町の長老会議の主催する裁判に加わり、冤罪をなくし、適切な求刑を助言するんだ。だから先々にはネゲヴ各地の町の慣習法を、各地の判例を把握しなきゃいけない。そういう積み重ねを経て、白兎族には司法の専門家になってほしい」

 白兎族の男達は力強く頷いた。

「それじゃ、総司令部の司法担当官をベラ=ラフマさん、貴方に――」

 だがベラ=ラフマは首を横に振った。

「恐れ入りますが皇帝、その役職はそこのハカムに任せたい」

 生真面目そうな青年が驚きながら「私が?!」と自分を指差した。

「ハカムは私などよりずっと恩寵が強く、勉強家で知識が深く、何より正義感が強く真面目な性格です。私などよりよほど司法担当官に相応しい」

 竜也はちょっと首を傾げながらも結局「そうか」と頷いた。

「それじゃハカムさん。今日からでもお願いする」

「わ、判りました。死力を尽くします」

 ハカムは全身を硬直させながらもそう返答した。

 ……白兎族との会見を終え、竜也が総司令部に戻ってくる。その竜也をネフェルティとアンヴェルが捕まえ、人気のない一室へと引っ張っていった。

「な、何だ?」

 ネフェルティとアンヴェルの真剣な瞳が竜也へと向けられた。

「――タツヤさん、白兎族の処遇の件で意見があります。他の部族や難民と比較して厚遇が過ぎるのではないでしょうか」

「え?」

 思っても見なかったことを言われ、竜也はきょとんする。アンヴェルは説明を続けた。

「村落単位で西ネゲヴから逃げてきた人達は他にも大勢います。彼等だって出来ることなら自分達だけの村を用意してほしかったに違いありません。でも彼等に用意されたのはセフィネ=クロイの一角です。区画の開発も自分達でやらなきゃいけなかった。それと比較すれば、白兎族の処遇は手厚すぎるのではないでしょうか?」

 アンヴェルの指摘を受けて、竜也は少しの間考え込んだ。

「……確かにそう見えるかも、ってことは判った。でも、アヴェンクレトの恩寵を見れば判るだろう、白兎族の集団をセフィネ=クロイの町中に住まわせるわけにはいかない。区画の開発にしても、全部が全部そこに住む難民だけでやらせたわけじゃない。余力があれば開発を手伝わせることだってあった」

「タツヤ様、今の問題はタツヤ様がどういう意図でそれを成したかではないのです。周囲がそれをどう見るか、なのです。白兎族が他の部族や村落と比べて優遇されているように見えるのはタツヤ様もお判りになるでしょう?」

 ネフェルティの言葉に竜也が頷く。

「ああ確かに。でも、それが?」

 何も判っていない竜也の様子に、意を決したようにアンヴェルが説明した。

「そして周囲の人間は、優遇の理由はアヴェンクレトさんにあるものと考えます。タツヤさんがアヴェンクレトさんを第二夫人にするつもりだ、というのは総司令部の者なら誰でも知っている事実です」

「ちょっと待て、その話はどこから」

「アヴェンクレトさん自身が吹聴していましたが」

 竜也は思わず「ぬぅおぉぉ……」と頭を抱えた。短くない時間を掛けて、竜也は何とか精神的に体勢を立て直す。

「……なるほど。俺がアヴェンクレトの色香に迷って、アヴェンクレトの言いなりになっているって見られているのか」

 と竜也は自嘲する。アンヴェルは「そこまでは言ってませんが……」と呟くように言った。一方ネフェルティは断言する。

「そこまでは言いませんが、あの子の存在が全く無関係だとは誰も思いません。周りの人間だけではなく、この私もそう思っていますわよ?」

 竜也は腕を組んで考え込んだ。アヴェンクレトの存在が白兎族の処遇にどう影響したか、様々な角度から検討した。

「……白兎族を優遇するとしてもその恩寵が必要だからであって、アヴェンクレトはやっぱり無関係だと思うんだが」

 弱々しく反論する竜也だが、ネフェルティはそれを切って捨てる。

「繰り返しになりますが、タツヤ様の元々の意図はこの際関係ないのです。周囲の者から『アヴェンクレトさんがいるからタツヤ様は白兎族を優遇した』と見られることが問題なのです」

「逆に言えば、『側室を出せば自分達も優遇してくれる』と見なされるなら、あらゆる部族が、商人が、各町の長老会議が側室を差し出してきますよ?」

「公邸は側室で埋まりますわね。後宮を建設いたしますか?」

 おほほほ、とネフェルティは笑うがその目は笑っていなかった。竜也は身震いする。

「冗談じゃない、側室も後宮もまっぴらだ」

 竜也は少しの間真剣に考え込み、やがて二人に告げた。

「……白兎族にこれ以上の助力はしない。あの森に白兎族の入植が始まったら兵は引き上げさせる。天幕の提供も最初だけだし、食料もなるべく働きに応じた分の提供だけにする。あと、確かに俺が不注意だった」

 と竜也は頭を下げる。ネフェルティは「いえ、お気になさらず」と首を振った。

「タツヤ様の持つ権力はあまりに巨大で、多くの者を魅了するのです。そのことをどうか決して忘れないでください」

「ああ、肝に銘じよう」

 竜也とネフェルティは微笑みを交わし合う。その竜也に、アンヴェルは胸を押し付けるようにして腕を取った。

「ところでタツヤさん、第三夫人の座は空いてませんか?」

「ぃいえぇ?!」

 と目を白黒させる竜也に構わず、アンヴェルはさらに胸を腕にすり寄せた。ネフェルティほどではないが、アンヴェルの胸もわりと大きい方である。

「ナーフィア商会と確固としたつながりが持てれば、タツヤさんも色々と助かることがあるかと思うんですけど?」

「……アンヴェルさん?」

 仮面のように微笑みながらアンヴェルを威圧するネフェルティ。だがアンヴェルは素知らぬ顔で竜也を誘惑する。

「わたしはアヴェンクレトさんより、ネフェルティ様よりずっと先にタツヤさんに結婚を申し込んでいるんですよ?」

「いやあれはただの冗談」

「例え冗談でも、好きでもない殿方にあんなことを言う女はいませんよ」

 ネフェルティは竜也の空いた左腕を取り、万力のように締め付ける。竜也を挟んでネフェルティとアンヴェルが対峙し、竜也は脂汗をだらだらと流した。

 竜也達3人が修羅場を演じている、その同時刻の、その隣室。

「あの女……」

 表情をあまり変えないまま、内心で激しく歯ぎしりしているのはアヴェンクレトである。その隣には大真面目な顔のベラ=ラフマが立っている。

「どうするのだ、アヴェンクレト。ナーフィア商会の小娘も始末するのか」

「……それは絶対に駄目。そんなことしたら竜也が本気で怒る。白兎族は滅ぼされる」

 竜也は身内には徹底的に甘いが一旦敵と見なした相手には容赦の欠片もないことを、アヴェンクレトは誰よりも理解している。ベラ=ラフマもまたアヴェンクレトの理解を共有した。

「貴方はまずギーラにつながりのある連中を始末してくれればいい」

 身内に甘く、自分の背後には目が届かない竜也に代わり、竜也の目となり耳となること。竜也の危険を先回りして排除すること。インテカーム事件以降アヴェンクレトはそう誓っていた。だがいくら強力無比な読心の恩寵があろうと、アヴェンクレトは一人の部下もいない、11歳の子供でしかない。このため総司令部内でギーラにつながっている人間を何人見つけようと何も出来なかったし、そもそも何をすべきかも判らなかった。

 だが、今やアヴェンクレトはベラ=ラフマという協力者を得ている。自分にとっての一番大切なものさえあれば他に何も必要とせず、他人の評価を全く意に介さず、日の当たる場所を求めず、敵に対してはどこまでも冷酷になれて、必要とあれば手を汚すことも全く厭わない――この二人の内面は実の親子以上に相似形だった。そしてアヴェンクレトにとって一番大切なのが竜也なのは言うまでもなく、ベラ=ラフマにとっては一族の繁栄だが、彼は既に一族の命運を皇帝へと託している。

「判っている。我等が皇帝の側にある限り、皇帝が味方に背後から刺されるようなことは二度と起こらない」

 ……後日、東ネゲヴ出身の官僚の一人が謎の失踪を遂げ、別の一人が撲殺される。その事件は犯人が捕まらないまま迷宮入りした。こうして竜也の全く関与しないところで、真の意味での「白い悪魔」が誕生したのである。




















 その夜、竜也の公邸。

 食事に公邸に戻った竜也は廊下でミカとばったりと出会った。

「あ、ミカ」

 ミカは逃げるように身を翻す。竜也はその背中に声を掛けた。

「ミカ、渡したい物があるから待ってくれないか」

「渡したい物?」

 ミカが足を止めて振り返る。

「ちょっと待ってろ、取ってくるから」

「わ、判りました。それでは食堂で」

 ミカが速やかに食堂へと向かう。ここ数日ミカと顔を合わせなかったのは、ミカの方が避けていたかららしい。そんなミカの振る舞いを竜也は「泣き顔なんか見られたから恥ずかしがっているんだろう」と深く気にしなかった。

 一方一人になったミカは、

「……ええい、落ち着きなさい馬鹿心臓!」

 と早鐘を打つ胸を押さえ込む。熱を持った両頬を掌で押さえ、少しでも放熱すべく努力した。

 少しの時間を置いて、何とか平静を取り戻したミカが食堂を訪れる。ミカはうっかり失念していたが、食堂には竜也の他ネフェルティ・アヴェンクレト・アンヴェル・サフィールがいて夕食後のおしゃべりに興じていた。ミカは自分の失敗に内心かなり動揺したがそれを外見に表すことなく、竜也の前へと進み出る。

「それでタツヤ、渡したい物とは?」

「ああ、これだ」

 と竜也が差し出したのは、ビロード張りの小綺麗なケースである。ネフェルティ達が猛禽のような眼で一挙手一投足を見つめていることに気付き、ミカは内心で冷や汗をだらだらと流している。が、外見上は怪訝な顔をしただけでそれを受け取り、蓋を開けた。

「……レンズですか?」

 ミカの目にはそこにあるのは「奇妙な黒い針金細工付き丸レンズ」にしか見えなかった。

「違う、眼鏡だ。俺が元いたところじゃこういう眼鏡が主流なんだ」

「眼鏡、これが?」

「こうやって使うんだ。……アヴェンクレト、鏡を」

 アヴェンクレトが手鏡を用意する間に、竜也が眼鏡を手に取りミカの顔に掛ける。ミカは思わず目を瞑って全身を硬直させた。

「もう良いぞ、目を開けてくれ」

 ゆっくり目を開けたミカはアヴェンクレトから手渡された手鏡を覗き込んだ。

「これは……」

 鉄製の黒い針金が二つの丸いレンズを包み、耳の後ろまで延びたつるが眼鏡の位置を保持している。鼻に当たるフレーム部分も痛みが小さくなるよう工夫がなされていた。

「ガリーブさんの造船所の職人に作ってもらったんだ。フレームの鉄もレンズもかなり重い素材だから、軽くなるよう可能な限り薄く細くしてもらっている。つるは本当は折り畳めるようにするものなんだが、そこまで手が回らなかった」

「へぇー、ふぅーん、これは……」

 とアンヴェルが興味深げに四方八方からミカの眼鏡を見て回っている。ミカほどではないが、アンヴェルも目が悪い方だった。

「さすがタツヤさん、すごく実用的です。この形式の眼鏡はきっと流行ると思います」

 アンヴェルの賞賛に竜也は内心で「そりゃそうだろう」と思うしかない。数百年分の進歩を先取りした眼鏡なのだから、今この世界にある眼鏡をいずれ駆逐してしまうのは間違いなかった。

「どうだ、ミカ?」

「はい、気に入りました」

 とミカは竜也の方を向いて「ありがとうござ……」と礼を言おうとして、

「――!」

 刹那に放たれた右拳のストレートが竜也の顔面に突き刺さる。ひっくり返った竜也に構わず、ミカは脱兎のごとく逃げていった。

「……な、何で……?」

 いきなり殴られた理由が判らず、竜也は助けを求めるようにアヴェンクレトに視線を向ける。だがアヴェンクレトは、

「……」

 呆れたような冷たい視線を竜也へと向けるだけだ。そしてそれはネフェルティやアンヴェルも同様である。

「……ええっと」

 竜也は何が悪かったのか訳が判らないまま、失意のうちに逃げるように仕事に戻るしかなかった。

 一方、公邸の一角。誰もいない場所まで逃げてきたミカは、

「……ええい、落ち着きなさいと言うのにこの馬鹿心臓!」

 激しく動悸する自分の胸を何度も叩いていた。極度の近視のミカは今まで竜也の顔をはっきりと見たことがなかったのだが、眼鏡を手に入れて初めて鮮明な竜也の顔を目の当たりにしたのである。

「……まさかあれほどまでの美男子だったとは。眼鏡がなかったから今まで気が付きませんでした」

 ミカは悔しげに呻く。お前が掛けたのは恋という名の色眼鏡だ、と突っ込む人間はどこにもいない。

「あんな美男子ならわたしが会う度に動揺するのも仕方ありません。わたしとて一応は年頃の乙女なのですから」

 ミカは自分の致命的な間違いに気付くことなく、泥沼のような理論武装を深めていくばかりだった。







[19836] 第19話「黒竜の旗」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/12/11 21:18




「黄金の帝国」・迎撃篇
第19話「黒竜の旗」その2










 キスリムの月・10日。

 総司令部で書類仕事をする竜也の元に、髑髏船団の団員が伝令として飛び込んできた。

「首領からの報告です! 十字軍先陣のトルケマダ隊がカルトハダを通過!」

 戦慄が烈風となり、総司令部内を駆け抜ける。

「――そうか」

 立ち上がった竜也は壁に貼られている巨大なネゲヴの地図に向かい合う。竜也はカルトハダの位置にピンを刺した。

「早ければ今月中には到着するな」

 竜也は長い時間、地図に向かい合い佇んでいた。




















 キスリムの月・12日。

 セフィネ=クロイの港の一角。竜也はアンヴェルを連れてそこを視察に訪れている。

「それで、どこでやっているって?」

「あ、タツヤさん、あそこみたいですよ」

 アンヴェルが指差した場所では、大勢の商人が集まり競売を開いていた。

「さあ、次もウティカで捕まえられたエレブの農夫だ! 見ての通り体格も良いし健康だ、100ドラクマから始めるぞ!」

「110!」

「115!」

 奴隷の競りを見物していたアンヴェルが「随分と暴落してますね」と感想を漏らした。

 結局その農夫は125ドラクマで落札され、次の競売品が出品される。次はその農夫の妻のようで、かなり若い女性だった。

「さあ、1000ドラクマから始めるぞ!」

「1100!」

「1200!」

 涙を流して身を震わせる女性を見、竜也が歯を軋ませる。その竜也を案じるように、アンヴェルが手を引いた。

「もしかして、止めさせようなんて考えていませんよね?」

「今は無理だな」

 と竜也は首を振った。

「この戦争が終わってからだ」

 竜也は吹っ切るように奴隷の競売から背を向け、力強く歩いていく。アンヴェルがその後に続いた。

 港に停泊するナーフィア商会所有の大型船。竜也とアンヴェルはそこを訪れた。

「お待ちしておりました。皇帝タツヤ」

「お久しぶりです。ナーフィアさん」

 出迎えのナーフィアに案内され、竜也は客室へと招かれる。客室には数人の先客がいた。

「うわ……」

 とアンヴェルが小さく声を漏らす。竜也にはよく判らないが、かなりのそうそうたるメンバーのようだった。ナーフィアが簡単に紹介する。

「右から、ムグニィさん、ワーリスさん、カービドさん、ジャリールさん。東ネゲヴの主要な鉱山所有者がここに揃っていますわ」

「皇帝のクロイ=タツヤです。お集まりいただき、感謝している」

 と竜也は簡略な挨拶をした。ムグニィが、

「何、我々も貴方には会いたいと思っていたところだ」

 と応える。竜也とアンヴェルが着席し、会談が開始された。

「独裁官令第58号はどうでしょう? 到底守れそうにありませんか?」

 総司令部独裁官令第58号は鉱山労働者の待遇改善を命じたものである。竜也の問いに一同は首を横に振った。

「いや、そんなことはない。改善した山では『今までは一体何だったのか』と問いたいほどの鉱物が掘り出されている」

「うちも同じだ。待遇を改善した鉱山はまだ一部だが、出来るだけ早く全ての鉱山で待遇を改善する」

「もう独裁官令の有無は関係がない。このやり方の方が効率が良い。我々は金を儲けるのが好きなのであって、奴隷を酷使するのが好きなわけではないのだから」

 鉱山所有者達の様子に、竜也は満足げに頷く。そして次の話を切り出した。

「十字軍の先鋒はカルトハダを通過しました。間もなく戦争が始まります。戦争になればエレブ人の捕虜を大量に獲得するでしょう。おそらく、どんなに少なくとも数万という数の捕虜を」

「……なるほど。それを我々の鉱山で使え、ということか」

「はい。出来るだけ沢山受け入れてほしいと思います」

 ナーフィア達は少しの間考え込んだ。

「……ですが皇帝タツヤ。わたし達の鉱山では奴隷の待遇改善が始まったばかりです。そこにエレブ人の奴隷を大量に投入するとなると、待遇を以前のやり方に戻す必要が」

「いえ。エレブ人の待遇も独裁官令第58号に準じて行ってください」

 一同はそれぞれの方法で驚きを表現した。

「……エレブ人共をそこまで厚遇するのか? そんな必要がどこにある?」

「別に何もかもネゲヴの民と同じ扱いってことじゃないですよ。でも先ほど皆さん自身が言っていたでしょう、『このやり方の方が効率が良い』と。エレブ人を酷使して絶望させて、反乱を起こされるのは総司令部としては非常に面倒ですし、迷惑です。『ここで真面目に働いて金を貯めれば、戦争が終わればエレブに帰れる』、そう希望を持たせれば反乱なんか起こさないでしょう」

「……皇帝は百万の十字軍を皆殺しにすると言っていたはずだが」

 竜也は苦笑を見せた。

「皆さんの言葉を借りれば、俺は勝利するのが好きなのであって、エレブ人を殺すのが好きなわけじゃありません。皆殺しにしてやりたいのは聖職者や司令官の連中だけで、無理矢理徴兵されたような農民兵の捕虜は、殺さずに済むのならそれに越したことはないですよ。……ただ、確実に勝利するには百万のほとんどを殺さなきゃいけないと判断しています」

 竜也の瞳が剣呑な光を帯びる。ナーフィア達はかすかに身震いするが、それを竜也に悟らせることはなかった。

 ジャリールが腕を組んで考え込む。

「話は判ったが……エレブ人にも働いた分の給金を出すのか?」

「出すべきだと思います。ただし、支払いはこれです」

 竜也がテーブルに何かを差し出し、一同がそれを覗き込む。それは中央に奇妙な肖像画が描かれた、ただの紙切れだ。一同が不思議そうな顔を竜也へと向けた。

「皇帝、これは一体?」

「紙幣、紙のお金です。その鉱山でしか通用しない、独自通貨で払うんです。食事も、酒も、娼婦も、その金を払えば買えるようにします。でも鉱山の外ではただの紙切れです。稼いだ金を握りしめて脱走したところで玉子一つ買えないってことです」

 ナーフィア達が各自でその案を検討する。

「ふむ、面白い。良い考えかも知れん」

「確かに。問題はなさそうです」

 鉱山所有者はそのアイディアを採用してくれそうだった。ジャリールがその紙幣を手に取る。

「これ1枚が1ドラクマということか」

「いえ、通貨単位はペリカです。10ペリカで1ドラクマ」

 竜也は大真面目な顔でそう告げた。一同は不思議そうな顔をする。

「まあ、通貨の名前など何でもいいだろうが……」

「いえ、ペリカです。こういう時の単位はペリカと決まっています」

 竜也があくまで真剣に言い続けるので、一同は怪訝に思いながらもそれを受け入れる。竜也が手描きで作った1ペリカ紙幣。その中央には兵藤○尊の肖像画が描かれていた。




















 キスリムの月・14日。

 竜也の公邸となっている船は女の園である。

 主人の竜也がただ一人の男で、それを取り巻く女性がネフェルティ・アヴェンクレト・ミカ・アンヴェル・サフィール。ネフェルティは自分付きの女官のほとんどを船に置いて、船の炊事掃除洗濯の一切を自分の女官の管轄としていた。つまり、竜也の衣食住の全てを取り仕切っているのはネフェルティ一派ということだ。ミカも、アミール=ダールと共にやってきた自分付きの女官を船に置いている。だがその人数はほんの2~3人で、自分の身の回りの世話以外のことはやらせていない。アンヴェルもまた自分用のメイドを2~3人用意し、船に置いていた。船を内側から警護する牙犬族の女剣士達は、形式上はサフィールの部下である。その剣士達に自分の世話をさせようなどと、サフィールは一度たりとて考えたこともないが。

 つまり、アヴェンクレトだけがただ一人で、身一つで船にいるという状態だったのだが、それが急変したのがこの日である。その日、船で寝起きする女性のほとんどが船の前に集まっていた。

「……アヴェンクレトさん、その方々は一体?」

 船の前で、ネフェルティとアヴェンクレトが対峙する。音源が何なのか皆目判らないが「ゴゴゴゴゴ……」という謎の音がして、ネフェルティの背後に太陽神ラーが、アヴェンクレトの背後に巨大な白い兎がそれぞれ屹立しているように見えたが、それらは全て気のせいである。

 ネフェルティの背後に控えていたのは実際にはネフェルティ付きの女官十数人である。一方アヴェンクレトの背後に控えている十数人の女性達は、アンヴェルやサフィール達も初めて見る衣装を身にしていた。白い、ゆったりしたワンピースは指先から爪先までを完全に包んでいる。白いフードですっぽりと頭部と顔の上半分を覆っているが、目を覆う部分は白いベールになっているようでちゃんと外が見えているようだ。そしてフードの頭頂部には二つの穴が空き、そこから兎の耳が飛び出していた。

 皆似たような(細身で起伏に乏しい)体格で、全員同じ服を着て、全員顔を隠している。まるで同じ人間が十数人並んでいるかのような、一種異様な雰囲気を醸し出していた。

「何でそんな変な格好なのですか?」

 服装についてはあまり他人のことは言えないサフィールが遠慮の欠片もなくひどい質問をし、

「日の光が嫌いだから」

アヴェンクレトもまたひどい答え方をした。ネフェルティの女官達が顔色を変える。

「アルビノみたいに瞳や皮膚の色素が少ない白兎族は、強い日差しが苦手なのが部族の特徴だから」

 とちゃんと説明すれば良かったのだろうが、アヴェンクレトのこの言い方では太陽神を守護神とするネフェルティ達に喧嘩を売っているとしか思えない。

「白兎族から出した、タツヤのための女官。今日からここに住まわせる」

 アヴェンクレトは一同に白兎族の女性達のことをそう説明した。

「ここには既にわたしの女官達がいてくれています。その者達にしていただく仕事は特にないのではないですか?」

 ネフェルティは微笑みながら、やんわりと、だがはっきりと白兎族の受け入れを拒絶する。だがアヴェンクレトも負けてはいなかった。

「下働きに呼んだわけじゃない。それはそっちでやってくれればいい」

 ネフェルティの女官達が怒りを見せるが、アヴェンクレトはそれを無視して続けた。

「ギーラやインテカームのような連中からタツヤを守る。それが白兎族の仕事」

「既に警護隊があるのではないですか? サフィールさん?」

 ネフェルティに話を振られ、サフィールは言いづらそうに答える。

「あの、『白兎族の女性を船に住まわせる』という決定はゼッル殿から聞いていました。ただ、こんな大人数だとは……」

 ネフェルティはアヴェンクレトの方に顔を向けると、華やかだが仮面のような微笑みを見せた。

「警護隊長の決定でしたら是非もないことです。ただ、もう少し人数を減らしていただけませんか? この船もそれほどの大きさはないのですよ?」

 だがアヴェンクレトは傲然と「そっちが減らせばいい」とうそぶく。そして人差し指をネフェルティの背後の女官に向け、

「それと、それと、それ」

 と3人の女官を指差した。

「その3人にはケムトの宰相の息が掛かっていて、宰相から渡された毒を隠し持っている。その3人は今すぐここから追い出して」

 ネフェルティの女官達は無言のまま恐慌状態に陥った。ネフェルティの笑顔が凍り付き、仮面が剥がれそうになる。だが何とか笑顔を取り繕った。野次馬気分で事態を見守っていたアンヴェルやミカ達も心身を凍り付かせたが、白兎族の女達にも動揺の仕草が見られたため多少は気が休まった。

「あ、悪魔……!」

 指名された女官の一人が絞り出すように怨嗟の声を上げる。だがアヴェンクレトは、

「悪魔じゃない。『白い悪魔』」

 と冷笑を浮かべるだけだ。

「あと、そこの女官はタツヤを誘惑して寝取るつもりでいる。追い出した方が先々面倒がないと思う」

 アヴェンクレトは追加で一人の女官を指名する。指名された女官は怒りと恐怖で過呼吸を起こしそうになっていた。

「……まだ減らす?」

 アヴェンクレトが小首を傾げて問い、ネフェルティは首を横に振った。仮面のような微笑みは浮かべたままだが、仮面の隙間からわずかに敗北感が垣間見えた。

「……その力でタツヤ様をお守りくださいね?」

 ネフェルティの言葉にアヴェンクレトは「ん」と頷く。ネフェルティとその女官が道を開け、白兎族の女性を連れたアヴェンクレトが船へと進んでいく。その姿を、慄然とした顔のミカやアンヴェル達が見送った。

「……白兎族の人達も平静ではないようですが」

「……みたいですね。タツヤさんに聞いたことがあります。あの子のあの恩寵は白兎族の中でも特別だと」

「それはそうでしょう。今日来た白兎族の人達が皆あの子みたいなのだったら」

 ミカは自分で口にして、その想像に身震いする。

「あんな子はあの子一人でも充分すぎます」

「あの子がタツヤさんの敵でなくて良かった、としか言いようがありませんね」

 ミカやアンヴェル達はそんな所感を述べ、深々と頷き合った。



















 キスリムの月・15日。

 朝食時、アヴェンクレトは白兎族の女性達をタツヤの前に揃えた。

「アヴェンクレト、えっと、その人達は一体……?」

 フードで顔を隠した白兎族の一団に、腰が引けたようになりながら竜也が問う。アヴェンクレトは胸を張りながら、

「白兎族から出した、タツヤのための女官。タツヤの警護も兼ねる」

 と説明した。だが竜也は苦笑と戸惑いの中間のような表情を浮かべる。

「ちょっと人数が多すぎなんじゃ……この船だってそんなに大きくないんだし。この半分もいれば充分だろ?」

 竜也の言葉にネフェルティの女官達は内心で喝采を挙げた。

「あの女にも同じくらいの数の女官がいる」

「ネフェルティはケムトの王女様なんだから少しくらいは仕方ないだろ」

 ネフェルティの女官達は密かに竜也への声援を送る。一方のアヴェンクレトは不満げな表情だ。だが、

「俺の身の回りの世話だけならアヴェンクレト一人で充分なんだし」

 と言う竜也に、アヴェンクレトの不満は一瞬で解消された。アヴェンクレトは竜也に抱きつきながら、勝ち誇った顔をネフェルティの女官達へと見せつける。ネフェルティの女官達はそれを憎々しげに睨み付けた。

 一方白兎族の女性達は、アヴェンクレトにぴったり貼り付かれても平然としたままの竜也の姿に、フードの内側で動揺の気配を示している。アヴェンクレトの恩寵が異常なほどに強力なのを誰よりも良く理解し、実感しているのは、比較対象できる恩寵を持っている彼女達だ。そのアヴェンクレトの恩寵について百も承知でありながら平然と接することの出来る竜也の姿は、彼女達にとって衝撃以外の何物でもなかった。

 ネフェルティは仲睦まじい竜也達の姿に、いつものようにニコニコと微笑む。

「まあ、仲がよろしくて羨ましいですわ。そうしているとまるで親子のようです」

「ああ、それはあるかも」

 と竜也が漏らし、頬を膨らませたアヴェンクレトがぽかぽかと竜也を叩いた。アヴェンクレトがどう思おうと、それは誰が見ても子供が父親にじゃれついている姿である。

 朝食を終え、

「白兎族の人達のことはベラ=ラフマさんと相談しておくから」

 と言い残し、竜也は総司令部へと出勤する。その竜也に、ネフェルティ・ミカ・アンヴェル・サフィールが同行した。

「……何と言うか」

 とサフィールが嘆息する。

「タツヤ殿にとって、アヴェンクレト殿は普通の子供と変わらないのですね」

 そう言われた竜也は、きょとんと不思議そうな表情をサフィール達に見せた。

「普通の子供だろ? ちょっと変わった恩寵を持っているだけで」

(あの子のことをそんな風に言えるのは貴方だけです!)

期せずして4人の心が一つとなった。




















 キスリムの月・20日。

 東ネゲヴの町を回っていたサドマやバラクがセフィネ=クロイに戻ってきた。竜也は二人を出迎える。

「まさかこんなに早く戻ってくるなんて」

 と驚く竜也に、

「敵が来る前に戻らないと戦えないだろうが」

 とバラク。

「キュレネより東の主要都市の長老がベンガジに集まっていたのでな。その全員を強引にこっちに連れてきた」

 とサドマ。

「後の説得は任せる」

 と二人は声を揃える。竜也は肩をすくめてそれを引き受けた。

「敵の先陣は既にハドゥルメトゥムを通過しています。敵の姿をこの目で確かめるために今日にでも船を出すつもりにしているんですが、それに同行してもらいましょう」

 偵察団には竜也やアミール=ダールとその配下の部隊長の他、トズルからマグド達も呼んで参加してもらう予定になっている。竜也は東ネゲヴ諸都市の長老も含めて偵察団を再編成。5隻の軍船による偵察団はセフィネ=クロイを出港、一路北へと進路を取った。

 そしてキスリムの月・22日。

 5隻の偵察団は、ハドゥルメトゥムとスファチェの間の海岸に沿って洋上を移動している。海岸から数百m沖合を進む船。海岸沿いの街道に蠢く兵士の姿を、船の上からでも確認することが出来た。

「あれが先鋒か。とうとうこんなところまで来たのか」

 竜也は望遠鏡を握り締める。手の中で望遠鏡が軋みを上げた。

「敵数はどれくらいだ?」

「ここからでは何とも言えんな。見える範囲だけならせいぜい数千か」

 竜也達の船はさらに北上する。どこまで北上しても、街道上は敵兵の姿で埋まっていた。竜也達は適当なところで偵察を切り上げ、進路を南へと戻した。

「……今日見た敵は、大軍が移動しているように思えただろうがせいぜい数万だ。本当に、あれの20倍30倍の敵がやってくるって言うのか?」

 マグドの問いに、

「ああ。やってくるぞ」

 と答えるのはガイル=ラベクである。

「西ネゲヴは十字軍の兵士に埋め尽くされていた。奴等は飛蝗の群れみたいに何もかもを食い尽くしながら東へと移動していた」

 マグドやアミール=ダール、竜也もそれ以上何も言えないまま、陸地を見つめ続ける。軍船はスファチェの港を目指し、風を切り裂き洋上を進んでいた。

 キスリムの月・23日。

 他の船は一足先にセフィネ=クロイへと戻させ、竜也達を乗せた船は1隻でスファチェの北に接岸。竜也はアミール=ダールやマグド、護衛の兵士を連れて、馬で街道を移動する。やがて竜也達の馬は街道を外れ、草原の中に入っていった。

「地図で見るともうすぐのはずなんだが」

 そう言っていた竜也は馬を急停止させる。竜也の眼前で不意に草原が途切れている。そこにあるのは東西へと延びる、巨大な大地の裂け目だった。

「これが北の谷……」

 と竜也は感嘆する。それはアミール=ダールやマグドにしても同様だ。その渓谷の長さは5スタディアくらい、幅と深さは半スタディアくらいはあるだろう。

「確かにこの谷は『罠に使ってください』と言わんばかりだ。戦場に最適のこの草原の真ん中にいきなり広がっている」

 とマグドはにやりと笑う。一方アミール=ダールは難しい顔で周囲の地形を確認した。

「だが、これだけの渓谷は隠そうと思っても隠せるものではない」

「でも、街道にも近い。何か使えないか考えたくなりますね」

 竜也は地図と周囲の地形を比較し、無言のまま色々と検討する。アミール=ダールとマグドは馬で渓谷の周囲を回りながら、この谷を使って戦う方法を色々と討議しているようだった。

「……駄目だ。良い作戦が思い浮かばない」

「敵が同数や倍くらいなら戦いようや使いようはあると思うんだが」

 アミール=ダール達は残念そうにそう言う。竜也は淡々と彼等に告げた。

「先々何かに使えるかも知れません。こういう谷がここにあることは頭の片隅に覚えておきましょう」

 竜也は視察をそう結論付け、船へと戻る。竜也達を乗せた船はセフィネ=クロイへの帰路に着いた。







[19836] 第19話「黒竜の旗」その3
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/12/18 21:27




「黄金の帝国」・迎撃篇
第19話「黒竜の旗」その3










 キスリムの月・25日。

 セフィネ=クロイの総司令部には、ベンガジから強引に連れてこられた東ネゲヴ諸都市の長老の他、ソロモン盟約に加盟済みの東ネゲヴ諸都市の長老・西ネゲヴ避難民代表・バール人商会連盟代表等が顔を揃えていた。

「――百万の十字軍がこの町を目指して東進していることは良く理解してもらえたと思う。これと戦い勝利する、ネゲヴに平和を取り戻す。そのためには、ネゲヴの力を一つに結集することが必要だ。一人でも多くの人の、一つでも多くの町の、全面協力が不可欠なんだ」

 竜也は東の長老方にソロモン盟約への参加を要請する。元々彼等は、ベンガジからセフィネ=クロイまでの航海の間中ずっとサドマ達から戦いの現状を聞かされ続けてきた。さらにスファチェの北への偵察航海の間も、ガイル=ラベク達から西ネゲヴの現状説明を受け続けた。そして敵の姿を実際に目の当たりにし、とどめにセフィネ=クロイでは竜也麾下の十数万の軍勢に完全包囲されている。

 元より彼等には他の選択肢など用意されていなかったのだ。キュレネ以東の東ネゲヴ諸都市長老はソロモン盟約への参加を承諾した。これで東西ネゲヴの主要自治都市のほとんどがソロモン盟約に加盟したことになる。

「ついでだから、ソロモン盟約の手直しと改訂をやっておこう」

 と竜也はさりげなく盟約条文の追加修正を行った。

「独裁官クロイ=タツヤに対し『皇帝』の称号を使用する」

 これこそが最大の追加点である。独裁官の官職名はまだ廃されていないが、皇帝の称号はこれで公式のものとなったのだ。他の大きな追加点には、元老院の設置が挙げられる。

「ソロモン盟約条項の追加・修正を審議し、採否を決定する機関として元老院を設置する。盟約の現加盟者が元老院を構成する」

 元老院は元の世界であれば議会や国会に相当する機関である。一足飛びにはそうはならないが、将来的にはそうなるだろうことを企図して竜也は元老院を設置した。竜也による国家建設・政府建設は少しずつ進んでいく。

「この際だから、今まで曖昧だった各人の役職や権限、組織関係も明確にしておく」

 竜也は総司令部の主要人事辞令を発令した。





独裁官(皇帝)  クロイ=タツヤ(ヴォークリィエ)
第一皇妃     ネフェルティ(フゥト=カァ=ラー出身)
第二皇妃(予定) アヴェンクレト(白兎族)





 改訂後のソロモン盟約でも、竜也の役職は正式には独裁官である。

「十字教の聖典の中では『皇帝』がネゲヴの支配者になっているから、『皇帝』を名乗ることが十字軍をセフィネ=クロイに引きつける作戦上有効だから、そう名乗っているに過ぎないんだ。これは作戦の一環なんだ」

 何者に対するものかは不明だが、竜也は内心でそんな言い訳をし続けていた。

 皇妃は現状二人である。

 竜也とネフェルティの関係はこれまでも別に隠されていたわけではなく、知る者は当たり前に知っている公然の事実だった。が、今回の発表をもって初めて二人の結婚が公式に明らかにされたのだ。

 アヴェンクレトが正式に皇妃の座に着くのは彼女が成人してからで、今回の発表でもあくまで予定である(なお、この世界で成人と見なされるのは14~15歳から)。元の世界であれば、キリスト教下のヨーロッパは言うまでもなく中国でも正式な皇妃(皇后)は一人だけである。それ以外の寵妃は側室であったり、皇后より一段下の扱いとなる。が、竜也は「二人とも正式・公式の皇妃」という扱いにした。

「帝位継承の問題があるから皇妃の間で序列があるのは仕方がない。でも、ネフェルティもアヴェンクレトも、俺にとっては家族として同等なんだ。その二人を正妻・側室って形で差別するようなことはしたくない」

 竜也の説明をアヴェンクレトは「ん」と頷いて受け入れた。ネフェルティは、

「帝位継承権は年齢にかかわらずわたしが産んだ子供を最優先としてくださいね?」

 という条件でそれを受け入れる。

「わたしもそれで構わない」

 一方アヴェンクレトはそれについて何一つ主張することがなかった。竜也とネフェルティは怪訝な顔をするが、結局帝位継承権についてはネフェルティの主張そのままに決定される。

 アヴェンクレトは子供を産むことよりも恩寵を保持し続けることを選んでいたのだが、この時点ではそれは明らかにされず、少女は沈黙を守り通した。

 続いては帝国府総司令部の文官の人事である。





財務総監     アアドル(バール人)
財務総監補佐   カゴール(バール人)
内務総監     ジルジス(レプティス=マグナ出身)
内務総監補佐   ラフマン(ハドゥルメトゥム出身)
帝都建設総監   バリア(アシュー?)
帝都建設総監補佐 サーメト(ウティカ出身)
東ネゲヴ総監   ユースフ(カルトハダ出身)
司法総監     ハカム(白兎族)
司法総監補佐   シャヒード(白兎族)





 総司令部は今回を機に正式名称を「帝国府」総司令部と改称された。非常時軍事政権としての印象を弱め、より正式な・恒常的な政府組織としての印象を強めることを目的としている。が、一般には略称「総司令部」で通っている。

 財務総監は総司令部の財政全般を担当する。帝都建設総監はセフィネ=クロイの都市整備を担当。東ネゲヴ総監は東ネゲヴ自治都市の監督・各都市との交渉・都市間の問題調停等その他全般を担当する。司法総監はセフィネ=クロイの司法担当。内務総監はその他の事務仕事全ての担当である。

「何故アアドルさん達を大臣としないんですか?」

「今から大臣にしていたら先々出世させる余地がなくなるじゃないか」

 アンヴェルの疑問に竜也はそう答えた。





書記官 ハーキム(鹿角族)
書記官 ミカ(エジオン=ゲベル出身)
書記官 アンヴェル(バール人)
書記官 サフィール(牙犬族)
書記官 ジョムア(エジオン=ゲベル出身)
書記官 イネニ(フゥト=カァ=ラー出身)





 書記官とは、秘書官・側近にちょっと気取った名前を付けただけで、実質はこれまでの秘書官と何も変わらない。その筆頭が上記の6人である。

 ミカは兵站担当官を兼務する。ミカの代わりに軍事全般を助言するため選ばれたのがジョムアで、彼はアミール=ダールの五男である。竜也より少し年上の、神経質そうな線の細い青年だ。イネニはイムホテプの部下の一人で、都市整備や民政に一家言を持っている。

 続いて外交面を担当する文官である。





エレブ方面渉外担当官 イブン=カハール(バール系)
ケムト方面渉外担当官 イムヘテプ(フゥト=カァ=ラー出身)
十字軍渉外担当官   ウニ(フゥト=カァ=ラー出身)





 この三方面のどこに対しても竜也はまともな外交関係を持っていないので、彼等の仕事は主には情報収集、次いで謀略や工作となる。

 他には、





技術顧問   ガリーブ(アラエ=フィレノールム出身)
技術顧問補佐 ザキィ(スキラ出身)
造船総監   カーエド(バール人)





 このようなメンバーが文官として挙げられている。

 続いては武官である。まず竜也直轄の独裁官警護隊は名称を「近衛隊」と改称した。名実共に竜也の親衛隊としての地位を確立。軍の中でも特別の位置を占めることとなる。





近衛隊隊長  ゼッル(牙犬族)
近衛隊副隊長 ボリース(牙犬族)
近衛隊    ベラ=ラフマ(白兎族)
近衛隊    ラキーブ(白兎族)





 サフィールは書記官と近衛隊を兼務。近衛隊のほとんどは牙犬族の剣士だが、一部別の部族の人間も含まれている。

「……何で貴方が近衛隊に?」

 いつの間にそんなことになったのか、と思いながら竜也がベラ=ラフマに訊ねると、

「この恩寵を買われ、ゼッル殿から要請されたのです。これからはあの娘だけでなく我等がこの恩寵で皇帝をお守りします」

 実際にはベラ=ラフマがゼッルに頼んで近衛隊に入れてもらったのだが、そんなことはおくびにも出さない。

「そ、そうか。よろしく頼む」

 ベラ=ラフマの説明に竜也は引っかかりを覚えながらもそう頷く他なかった。その日以降、ベラ=ラフマは誰にも深く気にされることなく影のように、竜也の側に侍ることとなる。

 他には、





帝都治安警備隊隊長  エフヴォル=ジューベイ(牙犬族)
帝都治安警備隊副隊長 リフヤ(牙犬族)





 近衛隊・治安警備隊は武官だが陸軍とは別管轄だ。普段はそれぞれ独立した地位を持つが、非常時には治安警備隊は近衛隊の指揮下に入ることになっている。

 続いては陸軍の人事。





陸軍総司令官・ナハル川方面軍総司令官 アミール=ダール(エジオン=ゲベル出身)
ナハル川方面軍副司令官   サブル(キルタ出身)
ナハル川方面軍副司令官   バースイット(エジオン=ゲベル出身)
ナハル川方面軍総司令官補佐 カミース(エジオン=ゲベル出身)





 アミール=ダールは陸軍全体の責任者とナハル川方面の責任者を兼務する。副司令官の一方のサブルは建軍当初からの参加者の一人である。有名な傭兵団を運営する、歴戦の戦士だ。もう一方のバースイットは、アミール=ダールと共にエジオン=ゲベルからやってきたメンバーである。長年アミール=ダールの右腕として、女房役として、アシューの戦場を共に駆け回ってきた。カミースはアミール=ダールの四男で、総司令官の秘書役である。

 ナハル川方面軍は1部隊の定員を1万として12の部隊に分けられている。





ナハル川方面軍第一隊司令官  ラアド=ガーゼイ(赤虎族)
ナハル川方面軍第二隊司令官  アゴール(鉄牛族)
ナハル川方面軍第三隊司令官  イフテラーム(土犀族)
ナハル川方面軍第四隊司令官  ガダブ(大鷲族)
ナハル川方面軍第五隊司令官  トゥウィガ(麒麟族)
ナハル川方面軍第六隊司令官  アハド(エジオン=ゲベル出身)
ナハル川方面軍第七隊司令官  アルバア(エジオン=ゲベル出身)
ナハル川方面軍第八隊司令官  カイーブ(オエア出身)
ナハル川方面軍第九隊司令官  ラグバ(スキラ出身)
ナハル川方面軍第十隊司令官  トモーフ(スファチェ出身)
ナハル川方面軍第十一隊司令官 イステカーマ(イコシウム出身)
ナハル川方面軍第十二隊司令官 タハッディ(ブレガ出身)



ナハル川方面軍第一工作隊隊長  ソルヘファー(ヒッポ出身)
ナハル川方面軍第二工作隊隊長  テムサーフ(サブラタ出身)
ナハル川方面軍第三工作隊隊長  イスナイン(エジオン=ゲベル出身)



ザウグ島防御指揮官   ジャッバール(スルト出身)
ザウガ島防御指揮官   ムァッキール(マトルー出身)



ナハル川方面軍水軍司令官   ケルシュ(青鯱族)





 もっとも定員を満たしている部隊はまだ一つもなく、どこも兵数は8千から9千程度である。

 第一隊から第五隊までの司令官は恩寵の部族からの選出。そこに属する兵士も恩寵の民が中核となっている。ナハル川方面軍で最も戦闘力のある部隊だ。

 第六隊のアハド・第七隊のアルバアは、アミール=ダールの長男と三男。第八隊から第十二隊の司令官はネゲヴ各地の有名な傭兵団団長達である。ナハル川に浮かぶ二つの小島、ザウグ島とザウガ島にも各千人の兵を配置し、傭兵団から指揮官を任命している。

 第一から第三までの工作隊は補助兵で、原則は戦闘の矢面に立たない。兵站・輸送・要塞修復等に従事してもらうことなる。第三工作隊隊長のイスナインはアミール=ダールの長女である。

 また、アミール=ダールは渡河途中の敵を攻撃するためにナハル川方面にも水軍を設置することを竜也に要請。それを受けた竜也はガイル=ラベクに艦隊の一部を分けてもらえるよう依頼する。こうして、ケルシュという髑髏船団幹部の一人がその艦隊と共にアミール=ダールの旗下に配属されることとなった。

 続いてトズル方面の部隊。





陸軍副司令官・トズル方面軍司令官 マグド(アシュー出身)
トズル方面軍副司令官       シャガァ(アシュー出身)
トズル方面軍司令官補佐      ライル(アシュー出身)





 マグドは陸軍副司令官とトズル方面司令官を兼務する。マグド配下の兵は6千。中核となっているのは解放された戦争奴隷で、「奴隷軍団」の異名を誇っている。シャガァは長年にわたってマグドと共にアシューの戦場で戦ってきたマグドの右腕で、ライルはマグドにとっての秘書官扱いである。

 防衛についてはこれらの軍が担うことになっている。攻撃を受け持つことになるのは以下の部隊である。





第一騎兵隊隊長 サドマ(金獅子族)
第二騎兵隊隊長 バラク(赤虎族)
第三騎兵隊隊長 ビガスース(人馬族)
第四騎兵隊隊長 カントール(人馬族)
第五騎兵隊隊長 スラサー(エジオン=ゲベル出身)





 騎兵隊は1隊5千の騎兵のみという編成だ。交代でナハル川の西に送り込まれ、十字軍に対する焦土作戦や攪乱、嫌がらせの攻撃等に従事することになる。この時点でも西ネゲヴで活動中の遊撃部隊もいずれは再編成してこれらの騎兵隊に組み込まれる予定である。第一から第四までの騎兵隊は恩寵の民の戦士が中核となっている。第五騎兵隊隊長のスラサーはアミール=ダールの次男である。

 最後に海軍の人事である。





海軍総司令官  ガイル=ラベク(青鯱族)
海軍副司令官  ハーディ(バール系)
第一艦隊司令官 フィシィー(胡狼族)
第二艦隊司令官 ムゼー(ケムト出身)
第三艦隊司令官 モタガトレス(巨鯨族)
第四艦隊司令官 ナシート(バルジーヤ出身)
第五艦隊司令官 ザイナブ(アラメイン出身)
第六艦隊司令官 イーマーン(ツブルク出身)



輸送艦隊司令官 ジャマル(グヌグ出身)
伝令艦隊司令官 ノーラス(キュレネ出身)





 海軍は集められた海上傭兵団を中心に6つの艦隊に編成された。一つの艦隊につき所属する軍船は十数隻。総司令官のガイル=ラベク、副司令官のハーディは髑髏船団の所属。他の司令官もネゲヴ各地の有名な海上傭兵団の団長ばかりだ。百万の軍勢を養うには到底足りないが、十字軍に対するエレブ本国からの補給が皆無というわけではない。彼等の役目はその補給の遮断、連絡の妨害等である。

 また、輸送船と伝令用の高速船のみで二つの艦隊が編成され、それぞれの任務に当たっている。海軍には東西ネゲヴの全ての海上傭兵団が参加しており、その艦数・戦力を誇っていた。

 これら陸海軍の主要人事の一覧を見せられ、感嘆しなかった者は一人もいなかったと言われている。

「よくもまあ、たった3ヶ月でこれだけの面子を……」

 そこに名前が挙がっているのは子供でも知っているような有名な戦士・傭兵・軍人ばかりである。それはネゲヴのオールスターキャストであり、ネゲヴの戦力の総結集だった。




















 キスリムの月・26日。

 竜也は集められるだけの陸軍各隊司令官・騎兵隊各隊隊長・海軍各艦隊司令官をナハル川南岸に集めた。兵士も揃えられるだけ揃え、上官を先頭に整然と整列させる。整列し、沈黙して待つ将兵の前に、やがてある騎兵の一団が姿を現した。

 黒い陣羽織で身を固めた、ゼッル率いる近衛隊。先頭の騎兵は剣を咥えた犬の旗を高々と掲げている。竜也に下賜されたその精悍な旗をゼッル達は大いに喜び、誇らしげに翻した。

 近衛隊に警護されながら、騎乗したアミール=ダールとマグド、ガイル=ラベクが将兵の前を通り過ぎる。ガイル=ラベクに続く騎兵が掲げているのは、竜也に下賜された髑髏の旗だ。緻密でリアルな、恐ろしげな髑髏の図柄に、それを見せられた将兵からは感嘆の声しか聞こえない。

 そして最後に現れた皇帝の黒い正装の竜也と、その後続の馬車に、将兵の畏怖の声がさざ波のように広がった。

 2頭の馬に引かれた1台の馬車。その荷台にあるのは10m程の長さの鉄柱だ。大きな石の台座に固定されているが、念のために力自慢の兵士が二人掛かりで支えている。そして、その鉄柱にはある旗が掲げられていた。

 旗の大きさは5パッスス四方。七つの首がとぐろを巻いた巨大な黒い竜が、風を受けて身をうねらせている。大勢の職人が丹精込めて縫い上げたタペストリーは、まるで生きているかのような精密な竜の姿を布上に完璧に写し出していた。この世界では誰も見たことがない異形の、だが神秘的な、巨大な獣の姿。誰に説明されるでもなく、兵士達はそれが皇帝の真の姿なのだと理解した。

黒き竜シャホル=ドラコス!!」

皇帝クロイインペラトル=クロイ!!」

 誰かが上げた雄叫びは一瞬で全軍に伝播する。

「黒き竜!」

「皇帝クロイ!」

 その呼びかけが竜巻のように巻き起こり、怒濤のように大地を揺らした。数万の兵士が喉を枯らさんばかりに「皇帝クロイ」を連呼する。

「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」「皇帝クロイ!」

 兵士達の連呼に、竜也が人差し指を立てた手を掲げて応える。兵士達もまた人差し指を立てた手を掲げ、突き上げ、歓呼の声を上げた。数万の兵の声は最早物理的に声ではなく、巨大な一匹の獣の咆吼だった。

 ――黒き竜がついに目覚め、天地に轟く咆吼を上げたのだ。ネゲヴの大地を守るために。傲慢なる一神教の神を喰い殺すために。




















 月は変わって、ティベツの月・1日。

「――来たか」

 ナハル川に設置された櫓に登った竜也は、対岸を見つめる。

 タムリットの惨劇から4ヶ月、ソロモン盟約締結から3ヶ月余り。この日、十字軍先鋒のトルケマダ隊がとうとうスキラに到着した。トルケマダ隊はナハル川北岸に立ち、南の大地を見つめている。

 十字軍と竜也の軍団が川を挟んで対峙する。両者の激突は、血で血を洗う死闘が始まるのはもう間もなくだった。







[19836] 第20話「皇帝の御座船」
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/12/25 21:24




「黄金の帝国」・死闘篇
第20話「皇帝の御座船」










 ティベツの月・2日。

 十字軍と竜也の軍団が川を挟んで対峙する。両者の激突は、血で血を洗う死闘が始まるのはもう間もなく――と思っていたらまだ始まらなかった。

「……攻めてこないな」

「そりゃ向こうにも準備とかあるだろう」

 総司令部で、野戦本部で、櫓の上で、船の上で。ナハル川南岸のあちこちで、似たような会話が数万回は繰り返されただろう。

 竜也は情報を把握するために野戦本部に詰めている。そこに、北岸に偵察に送り出していたサドマ達が戻ってきた。

「連中、今日はスキラの町で略奪に忙しいようだ。とは言っても金目のものなど残っていないから町中に散って家捜しに勤しんでいるらしい」

 サドマの報告に竜也が「なるほど」と納得する。

「連中が攻めてくるまでもう何日か必要かも知れませんね」

 竜也の言葉にアミール=ダールが無言で頷いた。




















 ティベツの月・9日。

 十字軍と竜也の軍団が川を挟んで対峙している。両者の激突は、血で血を洗う死闘は、実は未だ始まっていなかった。

「……攻めてこないな」

「……いい加減待つのにも疲れたな」

 総司令部で、野戦本部で、櫓の上で、船の上で。ナハル川南岸のあちこちで、似たような会話がおそらく数十万回は繰り返されたことだろう。

 普段は総司令部で書類仕事をしている竜也だが、1日1回は野戦本部にやってきてアミール=ダール達から状況を報告してもらうのが最近の日課となっていた。竜也はアミール=ダール達とともに、北岸から戻ってきたバラクから報告を聞く。

「十字軍が続々とスキラに集まっている。渡河のための船を造ろうとしているが木材が手に入らなくて苦労しているようだ。西の方に木材を集めに来ていた部隊を俺達で蹴散らしてやったが、追加の敵が次々とやってきたので逃げてきた」

「その辺はこちらの作戦通りか。ミカは良くやってくれたからな」

 竜也の言葉にバラクが頷いて賛意を示す。が、アミール=ダールはそれを無視した。

「……敵は今は渡河の準備に専念しているということか」

 バラクが「ああ」と頷き、アミール=ダールに問うた。

「それでどうするのだ? 木材を採取している時を狙って森に火を放つとか、攻撃のやりようはあると思うが」

「いや、それはまだだ」

 とアミール=ダールが首を横に振る。

「その攻撃はもっと大部隊を相手にした時に使うべきだ。当面は現状を維持、敵に対しては嫌がらせ以上の攻撃は必要ない」

 バラクは面白くなさそうに肩をすくめるが、抗命するつもりもなさそうだった。

 バラクが退室した後、アミール=ダールが竜也に提案する。

「皇帝タツヤ、敵の様子を見に行きませんか」

 竜也はそれを受け入れ、二人は野戦本部を出て歩いていく。川沿いでは歩哨の他、数千の兵が群れ、北岸を望んでいる。道中竜也は歩きながらその兵の様子を注意深く伺った。

 竜也達は櫓の一つにやってきてその上に登る。見張りの兵には下りてもらい、櫓の上には竜也とアミール=ダールの二人だけとなった。

「――望遠鏡を使ってもスキラの様子は判らないな。敵の姿も見えない」

 ナハル川の川幅は一番狭いところでも10スタディア以上(約2km)ある。櫓の上からでも北岸の川岸はただ灰色に見えるだけだった。

「ですが、噂は嫌でも耳に入ります」

 竜也の呟きにアミール=ダールがそう応えた。

「スキラに入った十字軍の総数は既に十数万に達し、我が軍を越えているだろうという話です。このまま敵兵が20万、30万と一方的に増え続けるのを待つことしか出来ないのか――将兵に焦りと不安が広がっています」

 竜也はアミール=ダールの言葉を吟味する。

「……こちらから攻撃を仕掛けるべきだ、ということか?」

 が、アミール=ダールは首を横に振った。

「こちらからではありません。敵に戦端を開かせたいのです。それも、1日でも早く」

「それは、難しい」

 思わず竜也は唸った。アミール=ダールも首肯する。

「確かにその通りです。今の時点では時間が味方しているのは十字軍の方です。待てば待つほど兵が集結し、敵は一方的に有利になる。こちらは敵が日一日と増強されるのを歯噛みして見守ることしかできない。焦りと待ち疲れで兵の士気は劣化していきます。今の時点で戦端を開く理由など、奴等にはない」

 アミール=ダールは嘆息して首を振った。

「このまま我が軍が待つことしかできず、最悪もし敵が全軍を持って、総力を挙げて渡河作戦を決行したなら……我が軍の将兵は敵の姿を見ただけで総崩れになるかも知れません」

 竜也はその光景を脳裏に思い描き、思わず身震いした。竜也はとりあえず思いつきを述べてみる。

「騎兵隊を使って敵を挑発するのは?」

「考えてみましたが、あまり上手くありません。正直言って、これは軍略というより謀略の範疇ではないかと思うのです。私はそちらは不得手なもので」

「なるほど、確かに」

 と竜也は納得した。

「――判った、こちらでも策を検討する。将軍の方も引き続き頼む」

 竜也の命令にアミール=ダールが頷いた。

 総司令部に戻ってきた竜也は執務室で一人になって、腕組んでひたすら「うーん」と唸っている。そこにベラ=ラフマが入室してきた。

「皇帝タツヤ、奴隷商人のシャッルが来ています」

 竜也は「あの男が?」と首を傾げる。「はい」と頷くベラ=ラフマ。

「私が呼びました。シャッルは西ネゲヴでトルケマダ隊と取引をしたことがあり、トルケマダとも面識があります」

 竜也は驚きと喜びを同時に表した。

「おお、そうか! すぐに行く!」

 竜也は執務室を飛び出し、大急ぎで応接室に向かう。数十秒後、応接室では竜也・ベラ=ラフマとシャッルが向かい合って座っていた。

「貴方は西ネゲヴでトルケマダと取引をしていたと聞いた。貴方が今からスキラに行ってトルケマダと会うことは可能か?」

「はい、難しくはありません」

 シャッルは断言した。

「私が有する高級娼婦ばかりの娼館船。シジュリにいた頃はトルケマダはそこの上得意客でした。スキラに入港できるなら、トルケマダだけでなく十字軍の将軍全員を得意客にして見せましょう」

 シャッルは自信と余裕を持ってそう言い切る。竜也の目にもその言葉は嘘はないように思われた。

「貴方の目には、トルケマダという男はどのように見えた?」

「一見その辺のどこにでもいそうな、冴えない中年男ですが、実際の中身もただの愚物です。知恵も思慮もまるで足りておりません。同僚や競争相手を陥れる時だけ恐ろしく悪知恵が働くような男です」

 トルケマダについて知る限りのことを、竜也はシャッルにしゃべらせた。少ししゃべり疲れた様子のシャッルに竜也が指示を出す。

「……今日は助かった、礼を言う。まず貴方にはスキラへの入港とトルケマダへの接触を。トルケマダに対して謀略を仕掛ける。貴方にはそれに全面協力してもらうからそのつもりで」

「判りました」

 シャッルは躊躇なく頷き、意気揚々と総司令部を後にした。

 一方竜也とベラ=ラフマは執務室へと移動し、二人で謀略の具体的中身を検討する。

「十字軍と取引のあるバール人商人に動いてもらうとしても、十字軍には罠を警戒されないのか? そもそも大前提として、十字軍にとってバール人はどういう扱いなんだ?」

「金さえ積めば親でも売る、と言われているのがバール人です。エレブ人は決してバール人を信用しはしないでしょう。ですが、損になることは決してやらないと思われているのもバール人です。十字軍に武力と金がある限りは媚びを売ってくるし、利用も出来る――総じてそんな見方をしているのではないでしょうか」

 竜也は「なるほど」と頷く。例えて言うなら、第二次大戦中に日本軍に占領された東南アジアや南太平洋に反日本軍アジア人連合みたいなものが結成されたとして、その中での華僑の位置付け、みたいなものだろうか。アジア人連合に私財の全てを投じる華僑もいる一方、日本軍に媚びを売り、同胞を売って儲けようとする華僑もいるだろう。そして日本軍の方はそんな華僑を「決して信用は出来ないが、こっちに金と武力がある限りは簡単には裏切らないだろうし、利用は出来る」と見なすに違いない。

「……でも、それはこちら側から見ても同じだろう? ネゲヴに住んでいるバール人だからって無条件で信用できるわけじゃない。俺達を裏切って十字軍に通じるバール人もいるかも知れない」

 竜也のその懸念に、

「ご心配なく。そのような者は見つけ次第速やかに排除しております」

 ベラ=ラフマはかすかに口を歪めてそう答えた。どうやら笑っているらしい。

「そ、そうか」

 竜也はその件にはあまり深入りしない方が良さそうな予感を覚えた。

「それじゃ、シャッル達を疑う必要はないことを前提としてどう動いてもらうかだけど」

「シャッルの語るトルケマダの性格なら、即座に戦いを仕掛けてきても何の不思議もありません。ナハル川の川幅と南岸の要塞が躊躇わせているだけで……必要なのはトルケマダにそれを乗り越えさせるだけの理由です」

 ベラ=ラフマの言葉に触発され、竜也は一人でぶつぶつと呟く。

「理由……1億タラントの金貨や1億アンフォラの麦は理由にはならないのか。噂じゃ弱いのか? 南岸には金銀財宝が唸っていることを具体的に見せて、ネゲヴの軍なんて敵じゃないと思わせて、今すぐ攻める必要を作って……」

 竜也の脳内で謀略の骨子が固まった。竜也はベラ=ラフマにそれを提示、何点かの修正が加えられる。

「――作戦としてはそんなものだろう。実行の手配は任せる。出来るだけ早く実行できるよう進めてくれ」

「判りました」

 竜也の指示にベラ=ラフマが頷く。それはベラ=ラフマが竜也の謀臣としての地位を確立した瞬間だった。




















 ティベツの月・12日の夜。スキラ港。

 その日、シャッルが娼館船でスキラに入港したので、トルケマダは腹心や別部隊の隊長を引き連れてシャッルの船を訪れた。

 トルケマダ隊の後続としてスキラ入りしている各部隊の隊長には、公式にはトルケマダと同格か格上の者も多い。が、自他共に認めるアンリ=ボケの右腕で、十字軍の先鋒を任されたトルケマダには、他の部隊長を圧倒するだけの権勢が存在していた。

 トルケマダの権勢のおこぼれに与ろうと、同格・格上の部隊長もトルケマダへとすり寄ってくる。トルケマダも鷹揚なところを見せてそれを受け入れ、付き合いの深い娼館船へと誘ったのである。一同は大喜びでトルケマダに付いていった。

 トルケマダの年齢は40代前後。やや低めの身長とやや太めの身体。髪の薄い、貧相な中年男だ。顔は丸く眼も細いが、容貌に福々しいところが欠片もない。陰険を絵に描いたような面立ちである。

「お待ちしておりました、トルケマダ様」

「シャッルか。今日も世話になるぞ」

 シャッルは最大限へりくだり、トルケマダはひっくり返らんばかりに反り返る。トルケマダを乗せた娼館船はゆっくりとスキラ港を離れ、沖へと進んでいった。船遊び程度に沖に出、湾を一周して翌朝にはスキラ港に戻ってくる予定になっている。

 トルケマダと共に来た部隊長達は、まず船に備え付けの葡萄酒や肉・果物を貪った。葡萄酒の飲み過ぎでそのまま寝入ってしまう者も出るくらいだ。船にあった食料はあっと言う間に食い尽くされた。

「何だ、これだけしか用意していないのか」

 とトルケマダは不機嫌になる。シャッルは恐縮した。

「も、申し訳ありません。今度はもっと用意しておきますので。それよりもせっかくこの船にいらしたのですからお楽しみいただかないと。トルケマダ様好みの女を用意しております」

 途端にトルケマダの鼻の下が延び、欲望に緩んだ顔になった。シャッルの案内で最上級の客室に向かうトルケマダ。が、その時、鐘が激しく鳴らされた。シャッルが顔色を変える。

「何だ、あの鐘は」

「ネゲヴの軍船に見つかったようです」

 シャッルはそれだけを言い残して甲板へと走っていく。慌てたトルケマダがそれに続いた。

 甲板に飛び出すシャッルとトルケマダ。周囲の海を見ると、5隻の軍船によりシャッルの船は完全包囲されていた。トルケマダは狼狽え、シャッルを非難する。

「どうするのだシャッル?! どうしてくれるのだ?! こんな沖に出るから――」

 が、シャッルは慌てず騒がす手振りだけでトルケマダを制する。

「落ち着きあれ。幸いあの船の司令官は知り合いです。何も問題はありません」

 5隻のうちの1隻がシャッルの船に接舷しようとする。シャッルはトルケマダに「客室に戻るか物陰に隠れるかしてください」と指示。トルケマダは物陰に隠れ、事態の推移を見守る方を選んだ。トルケマダと共に他の部隊長も甲板から下りる階段の陰に身を隠す。

 そうこうしているうちに、その軍船がシャッルの船に接舷。軍船からは巨漢の男と兵が乗り込んできた。トルケマダの身体が震え、思わず剣に手が伸びる。

「シャッルか! 久しいな!」

「モタガトレス様もお変わりなく」

 モタガトレスと呼ばれた男は身長2mを軽く越える、相撲取りみたいな体格の巨漢だった。髭を無造作に長く伸ばし、背中の半ばまで伸ばされた後ろ髪は鯨の背鰭みたいな形に固められている。鎧で身を固めているが、手にしているのは剣ではなく酒瓶だ。モタガトレスは酒精で赤くなった顔をシャッルへと向けた。

「相変わらず手広く稼いでいるようじゃないか、シャッル」

「はい、これもモタガトレス様のおかげです。こちらはほんの心ばかりの……」

 シャッルが差し出した袋をモタガトレスは引ったくるようにして受け取った。袋の中身を確認し、

「まあ、貴様の商売相手がエレブ人だろうと十字軍だろうと、儂には関わりないことだ」

 トルケマダ達が隠れている階段に視線を送ってにやりと笑った。

「私が商売を続けていくにはモタガトレス様だけが頼りです」

「まあ任せておけ。皇帝の目くらい儂がいくらでも誤魔化してやる。今の皇帝は女惚けした、金を持っているだけの阿呆の能なしだ。目の前をエレブの牛が通っても気が付かんだろう」

 ふと、モタガトレスは「ふふふ」と含み笑いをした。

「――良いことを思いついた。シャッルよ、貴様を皇帝に会わせてやる」

「私を、ですか?」

 と驚くシャッル。嫌らしい笑いを浮かべるモタガトレス。

「今皇帝は船遊びの最中で、儂はその警護中だったのだ。貴様が『女を献上する』と申し出ればいくらでも会うことが出来る。貴様も皇帝とつながりがあるとなれば箔も付くだろう。そして、その会見に貴様の客を連れてきてもいい」

「え、ですが」

 狼狽えるシャッルに構わずモタガトレスが続けた。

「勿論貴様の部下だと偽らせての話だ。ちょっと化粧をして服を変えればエレブ人だろうとバール人だろうと区別は付かん。特にあの皇帝はな! 待っていろ、皇帝の船と連絡を取る」

 モタガトレスが騒々しく自分の船へと戻っていく。それを見送ったシャッルは隠れているトルケマダ達の元へと急いだ。

「皆様、ご安心ください。皇帝の兵はこれでこの船には決して足を踏み込みません。ところで、あの司令官が言っていた提案ですが……」

 トルケマダ達は顔を見合わせる。トルケマダはそれを受けるつもりは毛頭なかったのだが、

「――私は行くことにしよう。ネゲヴの皇帝をこの目で見る機会など二度とないかも知れない」

 部隊長の一人がそう言い出した。酒を飲んで気が大きくなっているのか、その男だけでなく何人もがモタガトレスの提案に乗ろうとしている。トルケマダ自身は全く気が進まなかったが、ここで皇帝に会わずにいて一同から臆病と見なされることには耐えられなかった。

「……判った、私も行く」

 ……数刻後、シャッルとトルケマダ、他4名の十字軍部隊長を乗せた連絡船が皇帝の御座船へと向かっていた。トルケマダ達はシャッルから借りたアシュー商人風の服装を身にしている。頭にはフードを被りターバンを巻き、フードを深めに被ってなるべく顔を見られないようにしていた。連絡船に乗る際にモタガトレス自身が念入りに確認したので武器の類は何一つ持っていない。

 連絡船はやがて皇帝の御座船と到着した。良く見ればその船がケムト式の軍船であることが判ったかも知れない。が、夜なので船影くらいしか判らなかったし、そもそもトルケマダ達にはそんな区別が付く知識はなかった。

 乗船したシャッル達はやがて玉座の間へと通される。玉座の間には槍と剣を持った兵がずらりと並び、張り詰めた空気に満たされていた。大分酒精が抜けてきたトルケマダ達はモタガトレスの提案に乗ったことを後悔する。だが今更逃げ出すことも出来ず、平伏してエレブ人であることがバレないことを十字教の神に祈るだけだ。

「皇帝陛下のおなりー!」

 近衛兵の声と共に、正面に掛かっていた御簾が巻き上げられる。トルケマダ達はわずかに顔を上げ、皇帝の姿を目の当たりにし、そして衝撃により頭の中を真っ白にした。

 巨大な、豪奢な玉座に皇帝が座り、皇帝に女達が侍っている。ベリーダンスの踊り子みたいな衣装の、肌も露わな、扇情的な、肉感的な女達。ベールにより顔は半ば隠されているが、どの女も美人であることは疑いない。皇帝の背中に、腕に、膝の上に、何人ものそれらの女がその身をすり寄せていた。

 皇帝自身は、未だ若い少年のような男だ。だがその目は情欲に濁り、見るからに愚鈍だった。「本当に動けるのか」と疑うほどの量の、金銀宝石のありとあらゆる飾りを身につけている。十本の指に数十個の指輪を付けているため指が全く動かせないようだった。そのため侍る女達が手ずから皇帝に果物を食べさせ、葡萄酒を飲ませている。

「お前が、ええと、何とかという商人だな。良いものを贈ってくれたな。受け取ってやるから感謝しろ」

 皇帝の面倒臭げな言葉に、

「はい。このシャッル感謝感激の窮みです」

 とシャッルは大真面目に答えた。

「良い商品が入ったら知らせるが良い。金に糸目をつけん」

「はい。必ず」

 シャッルがそう答え、そこで会話が途切れた。

「……あー、しゃー何とかよ。今西ネゲヴはどうなっている。正直に答えよ」

「は、はい。西は全て十字軍の占領下にあり、十字軍先鋒がスキラに到着しました。今も続々と十字軍の後続がスキラに入城しています」

「ネゲヴの傭兵が十字軍に打撃を与えた、という話は?」

「寡聞にして存じませんが……」

 シャッルの答えに、

「そら、言った通りではないか! やはり傭兵は信用ならん!」

 と皇帝が怒鳴り散らす。侍従長らしき人物が「しかし皇帝陛下」と諌めようとするが、皇帝は聞く耳を持たなかった。

「傭兵共の言うがままに巨費を投じて要塞を作ったが、あんなもの時間稼ぎにしかなるものか。十字軍の姿を見たら、戦いが不利になったら逃げ出すに決まっている!」

 皇帝と侍従長はシャッル達を無視し内輪の会話を続けている。

「傭兵が逃げる前に先に逃げるぞ。金は10万タラントを残して後は移動させるのだ」

「しかし、そんなに早くは移動できません」

「良いから急げ!」

 そこまで会話して、皇帝はようやくシャッル達の存在を思い出した。

「何だ、まだいたのか。下がっていいぞ」

 御簾が下ろされ、皇帝がその向こう側に姿を消してしまう。トルケマダ達はかすかに漏れ聞こえる会話に後ろ髪を引かれながらも、シャッルに連れられて玉座の間を退出した。

 連絡船に乗り込み、シャッルの船へと帰っていくトルケマダ達。黙り込む彼等の胸の内では、その瞳には、煽りに煽られた欲望の炎が地獄の業火のごとく燃え盛っていた。

 同時刻。皇帝の御座船の、玉座の間。

「……シャッル達の連絡船が離れます……離れました。遠ざかっていきます」

 窓から外を確認していた兵がそう報告し、

「皇帝、もう良いでしょう」

 侍従長を演じていたベラ=ラフマがお芝居の終わりを告げる。途端に、玉座の間に弛緩した空気が流れた。竜也もまた先ほどまでとは違う弛緩の仕方をしている。兵達は凝った肩をほぐしながら、我慢していたおしゃべりを楽しむ。ベラ=ラフマは外していたウサ耳を付け直していた。モタガトレスが玉座の近くにやってきて、

「どうですかい皇帝、儂の芝居は? ヤスミン一座でもやっていけるでしょう!」

 と哄笑する。

「なかなかの名演技でしたよ」

 と竜也は身動きしようとして、拘束するように身体中にぶら下がっているアクセサリーに閉口した。なお、それらの貴金属はサドマやバラク達が西ネゲヴで集め、総司令部が運営資金にするために倉庫に保管している物の一部である。

「あ゛ー、動けねー。とりあえずこれ全部外してくれ」

 未だ竜也に侍っている女性達に竜也が依頼。女性達はきゃいきゃいと嬌声を上げながら竜也の身体からアクセサリーを外していった。その際に自分達の身体をわざと押し付けてくるので、竜也は困惑するしかない。そこに、

「――皆さん」

 と威圧感のある微笑みを見せるネフェルティが、

「邪魔」

 と不機嫌な様子のアヴェンクレトが姿を現し、女性達とモタガトレスは大慌てで竜也から離れていった。女性達に代わりネフェルティとアヴェンクレトが竜也の身体からアクセサリーを外していく。

「まーまー。これも作戦の一環だったんだから」

 と竜也は二人を宥めた。そして女性達に向かい、

「今日は嫌な役をやらせて済まなかった。それと協力してくれて助かった、感謝している」

 と頭を下げる。女性達は恐縮の様子を見せた。

「お気になさらず、タツヤ様。どんな形であれタツヤ様に尽くすのがあの者達の役目なのですから」

 とネフェルティ。竜也に侍っていた女性達はネフェルティの女官から選抜されたメンバーだったのだ。ケムトの女官は総じて肉感的なプロポーションをしているが、その中でも特にスタイルの良い者達が選ばれていた。

 竜也は真面目な表情となりアヴェンクレトへと向き直る。

「それで、どうだった?」

「『2日後。何としても2日後にはナハル川を渡る』。そう繰り返していた」

 アヴェンクレトの言葉に、玉座の間にある種の緊張感が漂う。

「――そうか。2日後か」

 そう呟く竜也の目は、今ではない時間とここではない場所を見据えていた。







[19836] 第21話「ティベツの月の戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2010/12/31 08:26




「黄金の帝国」・死闘篇
第21話「ティベツの月の戦い」










 ティベツの月・14日。

 トルケマダ率いる十字軍先鋒はついに渡河作戦を決行。ここにようやく十字軍対ネゲヴ軍の激突が開始された。トルケマダ主導による三次に渡る渡河作戦とその迎撃戦は、後日「ティベツの月の戦い」と呼ばれるようになる。

 ナハル川の北岸から数百のいかだが水面へと漕ぎ出す。ただ、材料の木材がぎりぎりまで減らされているので一見いかだとは思えない代物だ。良く言って「製作途中のいかだ」である。その、いかだ未満の代物に乗れるだけの兵を乗せているのでいかだ本体はずっと水に潜ったままである。乗っている兵も膝の下まで水に浸かっていた。

 ナハル川方面軍水軍司令官のケルシュは自分の軍船からその様子を望遠鏡で伺っている。ケルシュの年齢は30の少し手前。子供が泣き出すくらいに鋭く凶悪な目つきの、海賊の典型みたいな男である。

「……あいつら、本気であの有様で戦いを挑む気なのか? この絶対防衛線に」

 ケルシュの呆然としたような声に、

「我々の事前の準備が上手くいった、ということでしょう」

 と副官が答える。ケルシュは「確かに」と頷いた。

「あの姿には哀れを催すが……だからと言って手は抜けん。恨むなら、こんなところまでのこのこやってきた自分達の愚かさ加減を恨め」

 ケルシュは自分に言い聞かせるように呟くと、

「発進する! エレブ人共を蹴散らすぞ!」

 と号令を掛けた。それに従い、ケルシュの軍船が川の水面を進む。その軍船は全長十数mの手漕ぎ船だ。30人の男達が15対の櫂を全力で漕ぎ、川の流れにも乗り、船は猛スピードで突き進む。

「そのまま突っ込め!」

 ケルシュは船をいかだへと突撃させる。ケルシュの船の体当たりによりいかだは砕け、分解し、エレブ兵は水面へと投げ出される。何人かは船に轢かれて頸骨や背骨を折られてそのまま川の底へと沈み、何人かは櫂で殴られ血を流した。言葉通りにいかだを蹴散らしたケルシュは船を回転させて流れに逆らい、

「矢だ! 逃すな!」

 乗船している弓兵に射殺を命令。数名の弓兵が放った矢は次々とエレブ兵に突き刺さった。エレブ兵側も弓を構えて反撃しようとするが、小さないかだに密集して兵が乗っているため思うように弓を使えないでいる。エレブ兵が一矢報いる間にネゲヴ兵はその十倍の矢を放っていた。

 上流からはケルシュ配下の軍船が次々と流れてきて十字軍のいかだへと突撃している。まさに鎧袖一触だった。だがケルシュ配下の軍船は50隻程度、一撃では数百のいかだ全てを破壊できない。

「一回で無理なら何度でも攻撃するまでだ! 櫂を漕げ、上流に移動する!」

 ケルシュ達は川を遡上し、再度十字軍への攻撃を敢行。幅10スタディアのナハル川を十字軍が横切る間に、合計4回の攻撃を繰り返した。その結果。

 いつまで経っても敵が来ないことに焦れている野戦本部に、ケルシュの発した伝令がやってくる。

「――十字軍のいかだは全て破壊! 乗っていた5千人のエレブ兵の、少なくとも2割は死傷したものと推定される、とのことです!」

 報告を受けた一同は、勝利に沸くよりもあまりのあっけなさに戸惑っているようだった。

「こんなものは前哨戦の前哨戦だ。殺した数は百万の千分の一にも満たん。油断するな」

 アミール=ダールはそう叱責し、一同の気を引き締めさせた。




















 ティベツの月・20日。

 その日、トルケマダによる渡河作戦の第二弾が決行された。

 ケルシュは自分の軍船からエレブ兵が川へと乗り出していく様子を伺っている。

「おいおい、前よりもひどいことになっているじゃないか」

 ケルシュは呆れ果てた声を漏らした。今回十字軍は川を渡るのにいかだすら組んでいない。丸太に6~7人のエレブ兵が捕まり、泳いで川を渡ろうとしているのだ。エレブ兵は上半身裸になって、背中に剣や槍を括り付けていた。

「……ともかく、的はそこら中にある。落ち着いて、確実に仕留めていこう」

 ケルシュは弓兵に射殺を命令。ゆっくりじっくり狙いを付けた弓兵が次々とエレブ兵へと矢を放つ。盾も持たず、革の鎧すら身にしていないエレブ兵は次々と矢に射貫かれ、川へと沈んでいく。だが、

「ちっ、こいつら――」

 丸太に捕まったエレブ兵は川一面に広がり、点在していた。弓の射程範囲に入っている敵は全体から見ればごくわずかだ。

「奴等、ようやく本気を出してきたな」

 川を渡ろうとしている十字軍の兵数はおそらく3万に届いている。ケルシュの有する50隻程度の軍船で渡河を阻止できるのは、3万のせいぜい1割か2割だ。

「敵の多いところに移動しろ! 一人でも多くを殺すんだ!」

 ケルシュを乗せた軍船はエレブ兵の密度の高い場所へと移動し、悪鬼のようにエレブ兵を射殺していく。だが、それでも殺したエレブ兵は全体から見れば少数だ。多数のエレブ兵は渡河に成功し、南岸に取り付いていた。

「はあ……やっと着いた」

 運良く射殺されることなく南岸に辿り着いたエレブ兵だが、彼等は垂直にそびえる石壁を見上げて途方に暮れていた。

「……こんなの、どうやって登れば」

「もう少し登りやすい場所を探そう」

 が、彼等の探索と人生は数瞬後には終わりを告げた。壁を飛び越えて降ってきた大きな石が彼等の頭部に命中、頭を砕かれた彼等はそのまま水に沈んでいった。

 南岸にたどり着いたエレブ兵の大多数は彼等と同じ運命を辿った。矢で射殺された者、火縄銃で射殺された者、投石機の石で潰された者、火炎放射器で焼かれた者――待ち構えてたネゲヴ兵の手により、エレブ兵は次々と死体に姿を変えていく。

 軍の結成から4ヶ月、十字軍到着から20日。ネゲヴの将兵はこの瞬間を待ちに待ち、この瞬間のために耐えに耐えてきたのだ。彼等は皆、自制や手加減というものをどこかに放り捨てていた。

「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」

「殺れ!」「殺れ!」「殺れ!」

 一人のエレブ兵に向かって十数人の弓兵が矢を放ち、一人のエレブ兵に向かって投石機が使用され、一人のエレブ兵に向かって大砲が放たれる。エレブ兵の全身に矢が刺さり、エレブ兵が石に潰され、エレブ兵が砲弾により砕け散った。

「じょ、冗談じゃない! こんなのやってられるか!」

 生き残った多くのエレブ兵が南岸から離れて北岸に、友軍の元に戻ろうとする。が、その彼等をケルシュの艦隊が襲い、矢で射殺される。それから逃れても多くの者は北岸にたどり着く前に海まで流されてしまい、ネゲヴ海軍の餌食となる。それから逃れても商品の仕入れにやってきた奴隷商人に捕まってしまい、それから逃れた者は陸地にたどり着く前に溺れ死んだ。

 南岸の絶対防衛線では、初戦闘と初勝利に将兵共に湧き上がっている。が、竜也とアミール=ダールは苦り切っていた。

「……将軍、物資は無限にあるわけじゃない。こんな調子で戦われたらあっと言う間に底をついてしまう」

「判っています。何とか自制させましょう」

 アミール=ダールは各隊の司令官を集め、叱責と説教を加えている。竜也は総司令部に戻り、ミカやジルジス達とともに軍需物資調達の計画を練り直していた。




















 ティベツの月・25日。

 総司令部で書類仕事をしている竜也の元にジョムアがやってきた。

「皇帝タツヤ、外を、スキラの町を見てください」

 竜也は総司令部の船から外に出、スキラの町を望む。スキラの町から何本もの煙が立ち上っていた。

「火事か?」

「おそらくは。北岸に偵察を放つと父上が言っていました」

 夕方、竜也は野戦本部を訪れる。北岸に出した偵察は既に戻ってきたそうなので、竜也はアミール=ダールから報告を受けた。

「十字軍の兵士がスキラの町の木造家屋を壊して回っていたそうです」

 竜也は少し考え、確認した。

「それはもしかして、ナハル川を渡河するために?」

 竜也の回答にアミール=ダールが頷く。

「はい。十字軍はナハル川を渡河するために木材を必要としていますが、それがなかなか手に入りません。近場でそれを手に入れるために木造家屋を壊しているのだと考えられます。おそらくその際に何らかの失火があったのでしょう」

「どの程度が焼けたのか、十字軍にどの程度の被害があったのか判るか?」

 アミール=ダールは「いえ、そこまでは」と首を振った。

「本当は十字軍が到着する前にスキラの町を完全に焼き払ってしまえれば良かったのでしょうが」

「スキラの出身者が動揺する。政治的に無理だ」

 スキラの町は石造りの家や建物が多いが、それでも市街中心地の富裕層の家がそうであるというだけである。中産階級から下層民のほとんどは木造家屋に住んでいた。

「次はより大規模な渡河作戦が決行されると見て良いか?」

 竜也の確認にアミール=ダールは強く頷いた。

 ティベツの月・26日。

「3万程度の十字軍がスキラを出立、西へ移動中」

 ナハル川の野戦本部にそんな報告を持ってきたのは、ナハル川の北岸に送り出していた騎兵隊からの伝令である。

「この部隊は西側の森に到着しても木には目もくれず、西に向かって進み続けているそうだ」

「トズルか」

 誰かの言葉に一同が頷いて同意した。

「おそらくは。敵の3度目の渡河作戦は間近だ。それと呼応してトズルを攻略するつもりなんだろう」

「ともかくトズルへ連絡を。あとはマグド殿に任せておけばいい」

 一方、総司令部でその報告を聞いた竜也は、

「トズル方面の状況も確認したい。次の戦闘はマグドさんのところで観戦させてもらう」

 と指示を出した。




















 ティベツの月・29日。

 竜也は連絡船を使ってトズルへとやってきた。竜也に同行するのはサフィールやゼッル等、近衛隊の面々だ。

「ようこそトズル砦へ! 歓迎しますぜ、皇帝」

 マグドとライルが竜也達を出迎える。竜也達はトズル砦の野戦本部に案内され、早速作戦会議が開始された。

「十字軍3万がこちらに接近している。あと2~3日で到着するだろう」

「別に変わった作戦があるわけじゃない。この要塞を使って敵を撃退する、やるべきことはそれだけだ」

「敵には第五騎兵隊を貼り付かせている。タイミングを合わせて敵の後背を突かせようと思っているんだが」

「そいつは有難い。タイミングについてはお任せいただけますかい?」

「勿論だ」

 作戦会議の内容は基本的な戦略と各自の任務の確認くらいのもので、割合早々に終了した。会議終了後、マグドが別の話題を持ち出してくる。

「ところで皇帝、この間お願いした旗は」

 閲兵式で髑髏船団の旗や牙犬族の旗を見て羨ましがったマグドは、奴隷軍団用の旗の作成を竜也に依頼したのである。

「ああ。用意している」

 竜也は荷物から包みを取り出し、マグドに手渡す。マグドとライルが一同の前でその旗を広げ、

「おおーー……お?」

 と一同に戸惑いが広がった。竜也はそれに構わず自慢げに胸を張っている。

 旗には意匠化した炎が大きく描かれ、その中心にはドリルが鎮座していた。まるでどこかのグレ○団のような旗印である。

「……何でドリル?」

「やっぱり奴隷軍団の名にちなんだ意匠でないと駄目だろ? 鉱山で使われる道具の中から選んだ」

「いや、何でドリルを?」

 疑問いっぱいの一同に、真剣な顔の竜也が向き直る。奴隷軍団の面々もつられて真面目な表情となった。

「――どんなに厚い岩盤だろうと、じたばた足掻いて一回転すればほんのちょっとだけでも前に進む。それがこのドリルだ。岩だろうと山だろうと十字軍だろうと、突き破って突き抜けて風穴を開けて突き進む! それがこのドリル、お前達のドリルだ!」

 竜也の言葉の熱さが奴隷軍団の心に火を点ける。室温が一気に数度上がったかのようだった。

「ドリルはお前達の魂だ! このドリルで十字軍に風穴を開けてやれ!」

「おおおっっ!!」

 奴隷軍団が雄叫びを上げる。今すぐに十字軍に突撃しそうな勢いである。竜也はその様子に、満足そうに頷いていた。

 そして、月は変わってシャバツの月・1日。

「来たか」

 トズルの山頂に築かれた砦から、竜也は山腹を見下ろしている。そこにいるのは、細い山道を埋め尽くしている十字軍だった。十字軍は最初の関門攻略に取り掛かっている。

 関門の上からはマグド配下の奴隷軍団が銃や矢で十字軍を攻撃。十字軍は盾で防御し、銃や矢で奴隷軍団に対抗する。エレブ兵はばたばたと倒れていくが、味方の死体を踏み越えてエレブ兵は前へ前へと進んでいる。

「……連中、思ったよりずっと強い」

「正直、見積もりが甘かったかも知れんですな」

 足が地に着いている限り、エレブ兵は決して弱兵ではなかった。ナハル川での敗北の鬱憤を晴らすかのように突進し、第一の関門へと取り付いている。組体操のようにエレブ兵の肩にエレブ兵が乗り、味方を足場にして関門を乗り越えんとする。ネゲヴ兵は矢を放ち、槍を振り回してエレブ兵を突き落とした。そのネゲヴ兵にエレブ兵が剣を突き刺し、両者が諸共に落ちていく。ネゲヴ兵も必死に防戦するが、被害は次第に大きくなる一方だった。

「やむを得ん、あの関門は捨てるぞ」

 シャガァの指示により関門から兵が撤退。関門には火が掛けられた。用意されていた薪や油が使われ、火はあっと言う間に関門を包んでしまう。関門は巨大な炎となり、壁となって十字軍の進軍を阻んだ。関門が燃えている間に奴隷軍団は体勢を立て直す。

 マグドは目を瞑り、長い時間考え込んでいたが、やがて刮目し命令を下した。

「あれを使うぞ。関門から兵を引け、関門を開け放て」

 竜也は驚き、問い返した。

「こんなに早く?」

「この調子で全ての関門が突破されるまで我慢していたら、味方の損害があまりに大きくなります。ここはあれで一気に蹴散らし、トズルが絶対に突破できないのだと奴等に骨の髄まで叩き込むべきです」

 マグドの指示に従い、山道の関門全てからネゲヴ兵が撤退、関門の扉は開け放たれたままとなった。やがて第一の関門が燃え落ち、十字軍が進軍を再開する。エレブ兵は姿を見せないネゲヴ兵や人気のない関門に戸惑った様子だっだが、それでも先へと進み続けた。

 そして、十字軍が最後の関門を通過する。それと同時にマグドが命令を発した。

「今だ、堰を切れ!」

 その命令に従い、奴隷軍団の兵が堰を支えていた丸太を蹴飛ばして外していく。膨大な水圧に耐えられなくなった堰が自壊、水が一気に溢れ出た。水は奔流となって山道へと流れ込み、十字軍へと迫っていく。

「み、水が!」

 水量数万トン、時速数十km、堰を作っていた丸太や土砂を大量に含んだ奔流が、真正面から襲い掛かってきたのだ。3万の軍団が一瞬にして崩壊した。全員が水に流され、ある者は丸太にぶつかって全身を砕かれ、ある者は流れ転がる岩石に潰され、ある者は土砂に埋もれて窒息した。

 水は十数分で流れ去り、それと一緒に十字軍の大半も流された。水が引いた後の山道に残っているのは、丸太や土砂、エレブ兵の死体、それに辛うじて生き残った敗残のエレブ兵だけだ。

「突撃! 敵を逃すな!」

 さらに奴隷軍団の全軍が出陣、何とか生き残っているエレブ兵を次々と血祭りに上げていく。十字軍は指揮系統も戦意も維持できるはずがなく、武器を放り捨てて我先に逃げ出していく。奴隷軍団は潰走する十字軍に容赦の欠片もない追撃を加え、一人でも多くを殺すことに専念した。

 山を下りて何とかふもとまで逃げてきた十字軍だが、そこに第五騎兵隊が横撃を加える。十字軍は散り散りとなり、スキラ方向へと逃げていった。

「見たか!」

「何度でも来やがれ、間抜けども!」

「俺達を誰だと思ってやがる!」

 5倍の敵を相手にしての完全勝利に、奴隷軍団は大いに沸き上がっている。将兵と一緒に浮かれそうになるマグドだが、何とかそれを我慢した。

「戦いはまだまだ始まったばかりだ! 兵を集めろ、すぐに堰を再建する!」







[19836] 第22話「エレブの少女」
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/01/03 19:28




「黄金の帝国」・死闘篇
第22話「エレブの少女」










 日が暮れても奴隷軍団の将兵は忙しく走り回っている。兵の半分は十字軍の生き残りを警戒して歩哨に立っていた。もう半分は堰の再建のために流れ落ちた木材を回収している。

 竜也やマグドと共に騎馬で山道を進み、将兵の仕事ぶりを見て回っている。エレブ兵の死体がそこら中に転がっており、死体を集めて埋葬するのも兵の仕事だった。

「……生きて」「女が……」

 その中、一部の兵が何か騒いでいるのが耳に届いた。竜也達はその騒ぎの方向へと馬首を向ける。竜也達が到着するとそこでは、数名の兵士が小柄なエレブ兵を地面に押さえつけていた。

「どうした? 何事だ」

 マグドの問いに、兵士達は愛想笑いを浮かべて答える。

「へえ、エレブ兵の生き残りを見つけたんですが、こいつ女だったんで。どうせ殺すなら皆でいただいちまおうかと」

 女が、と竜也は驚く。そのエレブ兵が何とか起き上がろうとするのを、兵の一人が思い切り頭を踏みつけた。

「やめろ!」

 竜也が鋭く怒鳴り、兵士達は身体を硬直させた。一方竜也も、思わず止めたは良いもののこの先どうすべきか何も考えておらず、頭を真っ白にしている。そんな竜也の窮状を察したのか、マグドが助け船を出した。

「あー、お前等。戦利品はまず皇帝に献上されるのが筋ってもんだ。お前等は今度俺が娼館に連れて行ってやる」

「本当ですかい頭?!」「期待してますぜ」

 兵士達は口々にそんなことを言い、そのエレブ兵を竜也に差し出す。竜也は気絶したその兵をサフィールに受け取らせた。

 竜也とサフィール等近衛隊は山頂の砦へと戻ってきた。皇帝と近衛専用の宿舎まで戻り、エレブ兵の世話をサフィールに任せ、部屋の外で待つことしばし。やがてサフィールが部屋から出てくる。

「済まない、どうだった?」

 竜也の問いにサフィールが答える。

「はい。見たところ怪我はほとんどありません。多分水を飲んで気絶していただけでしょう。まだ意識は戻っていませんが、そのうち目が覚めると思います」

 そうか、と竜也は安堵する。サフィールが竜也に問うた。

「ところでタツヤ殿、あの者をどうするおつもりですか?」

「いや、どうしよう」

 と途方に暮れたような顔をする竜也。サフィールは呆れてため息をついた。

「マグド殿の言うように慰み者にされるのも結構かと思いますが」

「やらないって、そんなこと」

 と竜也は手を振る。

「なら、奴隷として売りますか? 結構きれいな顔をしていたので高く売れると思いますが」

「それじゃ、助けた意味が……」

 とぶつぶつ言う竜也に、サフィールが肩をすくめる。

「ともかく、助けたのはタツヤ殿です。処分もタツヤ殿が責任を持って決めてください」

 サフィールは冷たくそう言い残し、その場から立ち去る。残された竜也はちょっと憮然としていたが、気を取り直してその部屋に入った。

 部屋のベッドではエレブ兵が寝かされていた。竜也は未だ意識が戻っていない様子の、そのエレブ兵の顔を覗き込む。

「まだ子供じゃないか」

 年齢は、アヴェンクレトよりは上だがサフィール達よりは下。元の世界で言えば中学生くらいか。確かにきれいな顔立ちをしていて、大人になればとびきりの美人となるだろう。中途半端に伸びた髪は泥に汚れているが、汚れを拭うとその下からは見事な銀髪が姿を現した。

 突然、少女の瞳が開かれる。エメラルドのような美しい碧眼に、竜也は心を奪われたように見入ってしまった。その瞳に怒りの炎が点ったかと思うと、次の瞬間には竜也の喉は鷲掴みされていた。

「……!」

 声を出すことは勿論、呼吸もまともに出来ない。少女は竜也の喉を握り締めたままベッドから起き上がった。少女が片手で竜也を持ち上げ、竜也の身体が半ば宙に浮く。少女は空いた手で竜也の腰から剣を抜いた。

「抵抗すれば殺す。外に出る、案内しろ」

 窒息寸前の竜也に抵抗できるはずもない。竜也は言われるままに少女を部屋の外に連れ出した。少女はそのまま人気のない場所へと竜也に案内させるつもりだったのだろうが、その目論見は早々に崩れ去った。

「た、タツヤ殿!」「タツヤ殿が!」

 部屋を出た途端、竜也達は近衛隊の剣士に発見された。近衛隊は剣を抜くが、少女は竜也の身体を盾にしてその攻撃を阻む。両者は対峙したまま移動し、屋外へと出た。少女を囲む兵士が急増する。

 竜也の首を掴んだままの少女を牙犬族の剣士が包囲、さらにその外側を奴隷軍団の兵士が取り囲む。十重二十重に完全包囲され、少女は舌打ちを禁じ得なかった。少女にとって幸いだったのは、兵士が無理押しで攻撃してこなかったことである。少女は試しに要求を出した。

「こいつを殺すぞ、道を空けろ」

 兵士の視線がマグドへと集まり、マグドは忌々しげな顔をしながらも左手を振る。包囲の一角の兵が移動し、少女の前に道が開かれた。自分で要求しておきながら、少女は驚きに目を見張った。

「こいつ、何者だ……?」

 少女が自分の手の中の竜也を見つめる。隙とも言えないその瞬間、

「――!」

 殺気を感じた少女が上空を振り仰ぐ。月の光を切り裂いて、白刃が流星のように落ちてくる。少女は竜也を放り捨て、全力で回避。少女と竜也の中間に、大地を叩き割って着地したのはサフィールだった。

「ちっ! 逃したか!」

 屋根の上から全力で跳躍し、上方という死角から少女を斬り捨てる――サフィールの作戦は九割方成功した。竜也は近衛隊に保護され、少女は人質を失っている。これであのエレブ兵は終わりだ、と誰もが思った。が、

「てえぇぃっ!」

 少女は未だ諦めていなかった。少女はサフィールに剣を叩き付け、サフィールはそれを剣で受けた。少女の攻撃の威力に、サフィールは後ろに飛んでそれを緩和する。少女はそれにつけ込むように追撃を掛けてきた。

 突撃し、暴風のように剣を振り回す少女と、それを受ける流水のようなサフィール。時折サフィールが反撃するが、少女はそれを力任せに跳ね返す。二人の剣舞のような戦いにその場の全員が魅せられた。近衛隊もサフィールに助太刀することを忘れているし、他の兵士も同様である。

 一方竜也は二人の戦いを見守りながらある可能性について検討し、その答えに確信を得ていた。そうこうしているうちに少女とサフィールの戦いは次の局面を迎える。

「どうした、もう終わりか?」

「ちっ……」

 少女の連続攻撃をサフィールはついに受け切ったのだ。気力体力の全てを費やした攻撃を凌がれた少女と、凌いだサフィール。勝敗の天秤は一気に逆転した。体力が底を付いた少女の腕は震えており、剣を持ち続けることも困難だ。一方のサフィールにはまだまだ余裕があった。

「今度はこちらから行くぞ」

「くっ……!」

 少女は死を覚悟しながらも剣を構えた。だが、

「サフィール、待て!」

 両者の間に竜也が割って入った。サフィールは刺々しい声で竜也に告げる。

「また人質になるおつもりですか? タツヤ殿、お下がりを」

 だが竜也はそれを無視し、サフィールと並んで少女へと向き直る。

「――君は、エレブの恩寵の民だろう? 多分銀狼族だ」

 竜也の指摘に、少女はこぼれ落ちそうなくらいに目を見開いた。さっきまでは違う理由で身体が震えている。

「こ、殺せ……! わたしを殺せ!」

 目に涙を溜めながら少女はそんなことを言い出した。サフィールは戸惑いながらも、

「無益な殺生はしない」

 と剣を鞘に収める。少女は絶望を顔に浮かべると、自分の剣を自分の喉へと向けた。

「やめろ!」

 竜也は怒鳴るが少女の腕は止まらない。その剣が少女の喉を切り裂く瞬間、

「――!」

 目の前に雷が落ちたかのような轟音。少女は思わず尻餅をついていた。ふと手にしている剣を見ると、

「え」

 刀身が完全に砕け、柄しか手元に残っていない。少女は放心する他ない。その数m横では、

「ふっ、またつまらぬものを斬ってしまった」

とわずかに照れを見せつつそう言っているゼッルが、剣を鞘に収めていた。

「武器破壊……」

 ゼッルの轟剣に竜也は呆然とした。少女が自刃する寸前、ゼッルが飛び込んで少女の剣を自分の剣で打ち砕いたのだ。サフィールが烈風ならゼッルはまるで大砲の砲弾だった。純粋な速度ならサフィールが上回るだろうが、ゼッルにはサフィールが持ち得ない圧倒的な破壊力があった。

「タツヤ殿、どうしますか」

「あ、ああ」

 ゼッルに問われ、竜也はようやく自分を取り戻した。

「その子から話を聞きたい。近衛で拘束を、あまり乱暴にはしないように」

 竜也の指示にゼッル達が動き出す。止まっていた周囲の兵士達の時間も動き出しつつあった。




















 それからしばらくして、トズル砦の一角。地べたに座らされている少女と、それを取り囲む近衛の剣士達。少女の前には竜也が立ち、その両脇にはゼッルとサフィールが剣を抜いて控えている。マグドとライルは少し後方からその様子を見物していた。

「名前を教えてくれないか?」

 竜也は問うが、少女はふて腐れたように口を噤んでいた。その竜也にサフィールが問う。

「タツヤ殿、どうしてこの子が恩寵の民だと判ったのですか?」

「恩寵を使っているサフィールと互角以上に戦える子に、恩寵がないわけないじゃないか」

 エレブにいたとされる部族で竜也が名前を知っているのは銀狼族と灰熊族。少女の銀髪から「銀狼族だ」と当たりを付けたのだが、正解だったのは偶然みたいなものである。

「エレブの恩寵の民は十字教徒に根絶やしにされたと聞いていたが」

 というマグドの言葉に竜也が頷く。

「俺もそう聞いていた。多分、恩寵があることを隠して教会の目を誤魔化して、何とか生き延びたんだろう」

 少女の身体が小さく震える。竜也の言葉は間違っていないようである。

「恩寵を持っていることが教会にばれたら火炙りになる。だから殺せと――いや、違うか。自分一人の問題なら逃げればいいだけのことだ。ということは、仲間がいる?」

 少女の顔からは完全に血の気が引いていた。どうやら彼女は嘘が苦手なようである。

「銀狼族の仲間……多分同じ村に住んでいて一緒に徴兵されたんだろう。自分が銀狼族とばれたら仲間も危うい。ああ、もしかしたら故郷の村に残っている仲間にも教会の手が」

「殺せ! 殺せ! 今すぐわたしを殺せ!」

 少女は泣き喚き、その場に伏した。サフィール達の非難がましい目が竜也に集まり、竜也は少し慌てた。

「ああ、ごめんごめん。俺達は君にも、君の仲間にも危険が及ぶようなことは絶対にやらない。約束する」

 泣き伏していた少女が顔を上げる。竜也は笑いかけた。

「第一、俺達は教皇インノケンティウスから魔物呼ばわりされているネゲヴの皇帝とその軍団だぜ? 俺達は十字教をぶっ倒すために戦っているんだ」

 少女がきょとんとした表情を竜也に向ける。

「……皇帝? 誰が?」

「俺が」

 竜也が大真面目にそう答えると、少女が竜也を睨み付けた。

「嘘をつくな。お前みたいなつまらない奴が皇帝なわけないだろう」

 竜也は「そうは言っても」と苦笑する。

「角や尻尾が生えていたら皇帝だと信じてくれるのか? 大人になったら生えてくるかも知れないぞ?」

 竜也は可笑しそうに笑うが、少女は白けたような顔をした。

「お前の下手な冗談に付き合っている暇はない。わたしを殺せ、でなければ解放しろ」

「解放しても良いけど、条件がある」

 竜也はそこで言葉を句切り、沈黙する。焦れた少女が「何だ」と続きを促し、竜也は条件を提示した。

「銀狼族の責任者と話がしたい。今十字軍内にいる銀狼族の全員を傭兵として雇いたいんだ」

 少女が「傭兵……」と呟き、殺気を込めた瞳を竜也へと向ける。

「お前、何をやらせるつもりだ」

「とりあえず情報収集。十字軍の現状、残っている食糧の量、食糧庫の場所、次の攻撃はいつか、兵が何を考えているか、ヴェルマンドワ伯の評判は、アンリ=ボケの評判は――判ったことは何でも良いから知らせてほしい。次に、情報工作。こっちが指示した内容の噂を十字軍内に広げるんだ。あと出来れば、破壊工作。例えば食糧庫への放火とか、こちらの工作要員の道案内とかだ。破壊工作は非常に危険が伴う任務だから無理強いはできないけど、危険に見合う報酬は用意するつもりだ」

「ちょっ、ちょっと待て」

 竜也が次々と仕事を提示するのを少女が止めさせる。少女はしばしの間その仕事の内容を吟味し、

「……お前、本気か。本気でわたし達に味方を裏切れと」

「味方? 君にとっての味方って誰のことだ?」

 不思議そうな竜也の問いに少女が言葉を詰まらせた。

「恩寵を持っていることがばれたら村ごと焼き払いに来るような十字教の教会が君や君達の味方か? 今の君にとって味方と言えるのは同じ銀狼族の仲間だけだろう。俺達ネゲヴの軍には見ての通り」

 と竜也は牙犬族の剣士達を指し示す。

「数多くの恩寵の戦士が、恩寵の部族が加わっている。少なくとも俺達は君にとっての敵じゃない」

 竜也の真摯な瞳が少女を見つめる。少女の瞳は先ほどまでと比べれば敵意が大分薄れていた。

「いきなり味方だ、仲間だ、って言ったところで簡単には信じられないだろう。だからまず商売相手から始めよう。対等な立場で、取引をしよう」

 少女は気難しげに考え込んでいる。竜也は少女に笑いかけた。

「そう言えば腹が減ったな。食事を用意するから一緒に食べよう。食べたら君をここから解放する。仲間のところに戻って俺の言葉を責任者に伝えてほしい」

「――いいだろう」

 少女は短く答えを返す。竜也にとっては現状ではそれで充分な回答だった。




















 竜也は少女の向かいにあぐらをかいて座り込んだ。

「名前はまだ教えてくれないのか?」

「ディアだ。そう呼べ」

 少女――ディアはそう答える。

「ディア……うん、良い名前だ」

 と微笑む竜也。ディアは無愛想にそっぽを向き、サフィールは何故か面白くなさそうな顔をしていた。

 そこに兵が食事を持ってやってきた。戦争中の野戦本部の中なので、皇帝に出すものであっても決して豪華な食事ではない。用意されたのは乾パンみたいな固いパン、干し肉、果物、小麦粉を溶いた塩味のスープ、葡萄酒等だ。

 竜也はまずコップに入ったスープを自分で飲んで見せ、そのコップをディアへと渡した。ディアは最初は恐る恐るスープを口にし、すぐに一気に飲み干してしまう。パンや干し肉も最初は竜也が毒味して見せていたが、やがてそれが煩わしくなったディアは出されたものを即座に片っ端から飲み込んでいった。

「くっ……美味しい」

 と涙ぐむディア。

「いや、まだまだあるから」

 涙を拭いながらディアは出されたものを食べ続ける。小食な竜也の十倍くらい食べて、ようやくディアは満腹になったようだった。

「ははは、食い過ぎても気持ち悪くなるんだな。生まれて初めて知ったぞ」

 食べ過ぎて動けなくなったディアはその場に寝転がり、大の字になった。今死んでも何一つ悔いはないくらいの笑みを浮かべている。竜也とサフィールは困ったような顔を見合わせた。その竜也に寝転がったままのディアが問う。

「お前、こんな美味しいものを毎日食べているのか」

「今日の食事は戦地で用意されたものだから特別上等でも美味しいわけでもないぞ」

 竜也の言葉に、ディアは起き上がって真剣に考え込む。そして、

「お前、本当に皇帝だったんだな」

 そんな納得の仕方をされても、と竜也は思わずにはいられない。だがディアはより一層真剣になり、

「お前が皇帝なら、ネゲヴに銀狼族のための村を、銀狼族の全員が移住できる村を用意することは出来るか?」

「用地を用意するのはそんなに難しくない。開拓は自分達でやってくれるか? でも、どうやってエレブからネゲヴまで村人を移動させるかは問題だぞ。ネゲヴの中なら何とでもなるが、エレブまではまだ手が届かない」

 ディアは「確かに」と呟き、次いで頭を振った。

「今そこまで考えても仕方ない、まずは皇帝」

 ディアが立ち上がったので竜也も立ち上がる。ディアは傲然と胸を張った。

「銀狼族はお前の取引の申し出を受ける。銀狼族はネゲヴの皇帝に傭兵として雇われよう」

 が、竜也は苦笑未満の中途半端な表情をする。

「いや、君がそんなことを決めても……責任者に伝えて皆で考えてくれないと」

 ディアが竜也のすねに蹴りを入れ、竜也は痛みに飛び上がった。

「わたしが銀狼族の族長、ディアナ=ディアマントだ」

 ディアは不満げに頬を膨らませる。が、竜也は戸惑うばかりである。
「族長? 君が?」

「犬耳や尻尾が生えていたら信じてくれるのか?」

 そういうわけじゃ、と呟く竜也。ディアが嘘を言っているようには見えないが、容易に信じられることでもない。その竜也に「そう言えば」とディアが提案した。

「銀狼族の者がわたしを探してこの近くに来ているはずだ。その者達を呼ぶことにしよう」

 ……それからしばらく後。ディアの提案を受け、竜也は近衛隊を連れてトズル砦を出て山の中腹に移動した。

「わたしの村は全部で千人くらいの小さな村で、その全員が銀狼族だ」

 道中竜也はディアの事情を色々と聞かせてもらっていた。ディアの生まれ故郷はレモリアとの国境に近いディウティスクの南端に位置する。元の世界で言うならオーストリアの南端になるようだ。

「わたしの村は近隣から魔物の村ではないかと疑われていて、以前から領主に目を付けられていた。領主がどんな無理難題を出しても絶対に逆らわずに従順し、攻められる口実を与えないことで何とか生き延びてきたのだ。このネゲヴ遠征では領主から、村人100人につき4人の兵を出すよう命令があった。他の村は命令を守らずに3人くらいしか出さないところも多く、それでも大目に見られていたが、わたし達は必死に40人を揃えて出征させたのだ。……本当はわたしの父が出征するはずだったのだが病気で死んでしまったのでな、代わりにわたしが男の振りをして出征した」

 男の振りをするために短く切った髪は、今は中途半端に長くなっている。だがディアというこの少女にはそのワイルドな髪型が良く似合っているように思われた。

「わたしはこんな体格だから簡単に水に流されてしまったが、他の皆は大人の男だ。あの程度の水流で溺れ死ぬはずがない。きっと皆無事でいてくれる、そのはずだ」

 不意に、ディアが立ち止まって一同を制止する。ディアは目を瞑って両耳に手を当て、耳を澄ませた。

「――来ている」

 ディアは大きく息を吸い込み、




 ウゥゥルルォォーーーンン




 と遠吠えを上げた。それは狼の遠吠えそのものとしか思えない。すぐ近くでいきなり耳をつんざく遠吠えをされ、竜也は度肝を抜かれた。近くの梢の葉がびりびりと震えている。こんな小柄な少女がどうやったらこれほどの声量を出せるのか、竜也は不思議に思うしかない。

 遠吠えをして、待つことしばし。かなりの遠方から別の狼の遠吠えがかすかに聞こえてきた。ディアがもう一度遠吠えをする。少し待つと、数方向から狼の遠吠えが聞こえている。声が聞き取れるようになっており、接近していることが判る。

 少し時間を置いて、ディアが三度目の遠吠えをする。遠吠えはそれ以上必要なかった。山道の向こうから、藪の中から、エレブ人――銀狼族が三々五々現れてくる。

 姿を現し、竜也達の前に立っている銀狼族は10人くらい。全員粗末ながらも槍や剣を手にしている。さらに周囲の藪の中にもまだ何人かが潜んでいるようだった。一方それに対する竜也側は、近衛隊の牙犬族がゼッル・サフィール他6名と、奴隷軍団の兵が同数。戦力的に不利は否めず、近衛隊は神経を尖らせた。

「ディア様、良くご無事で」

ディアが先頭の年長の、40代くらいの銀狼族と会話を交わす。

「心配掛けて済まなかった、ヴォルフガング。他の皆は無事か?」

「はい。全員の無事を確認しています」

 ディアは安堵のため息をついた。ディアにヴォルフガングが質問する。

「ディア様、その者達は一体」

「ああ、ちょっとばかり世話になった。ネゲヴの皇帝だそうだ」

 銀狼族はわずかにざわめき、戸惑いの表情を見せた。竜也が皇帝だとはとても信じられないようである。その彼等の前に竜也が進み出る。

「ネゲヴの皇帝、クロイ=タツヤだ。今回俺は族長のディアにある取引を申し出、ディアはそれを受けると言った。だがこの取引は十字軍に加わる銀狼族全員の生命に関わる問題だ。もう一度全員で良く話し合って、受けるかどうかを改めて答えてほしい」

 竜也は銀狼族全員を傭兵として雇いたい旨、情報収集・情報工作・破壊工作の各任務の内容を詳しく説明した。情報収集・情報工作はこの戦争が終わるまでの期間契約とし、報酬は通常の傭兵契約の数分の一の金額を提示。破壊工作については任務一回につき別途報酬を払うことを約束した。

 竜也の説明が終わり、銀狼族の男達はヴォルフガングを中心に額を寄せ合い、話し合っている。傭兵契約についてはそれほど否定的ではないが、十字軍を完全に敵に回すことに対して躊躇している様子だった。

 その優柔不断さにディアが苛立ちを見せる。

「……お前達。族長のこのわたしが受けると決めて返答したことなのだぞ」

「しかしディア様。このような重大事、簡単に決めて良いことではありません」

 が、ディアはヴォルフガングの言葉を鼻で笑い、

「お前達、これを見てもまだそんなことが言えるか?」

 と兵士に持たせていた荷物を広げた。銀狼族に、

「おお……」

 と感嘆が広がる。そこにあるのは乾パン・干し肉・葡萄酒等の食料だった。

「毒など入っていないことはわたしが確認済みだ。お前達も食べるが良い」

 逡巡していた時間はごくわずかだった。差し出された食料に銀狼族が飛びつく。藪の中からも銀狼族の戦士が出てきて食料の奪い合いに参加し、食料はあっと言う間に食い尽くされてしまった。満腹には程遠い様子の男達に、ディアが勝利を確信しつつ告げる。

「傭兵契約を結ぶなら我等に充分な食料を用意することを、皇帝は約束してくれている」

「契約の申し出を受けましょう」

 ヴォルフガングは刹那の間も入れずに即答した。




















 竜也はディアを連れてトズル砦へと戻り、ディアにはヴォルフガング以下3名の銀狼族が同行した。そして夜が明けてシャバツの月・2日。竜也は船を使ってセフィネ=クロイへと戻ることにする。

「俺達ネゲヴの軍と十字軍内の銀狼族との連絡役として、貴方達のうちの誰かに俺達の町に来てもらいたいんだが」

 竜也はディア達にそう提案した。

「あの遠吠えがあれば互いに連絡を取り合うのも難しくはなさそうだし」
「ああ、確かに」

 とディアは誇らしげに頷く。銀狼族の遠吠えは、十字教徒の弾圧の中で生き延びてきた彼等が長年磨き上げてきた技能だった。遠吠えの種類で「危険」とか「安全」とか「集まれ」とか簡単な意思疎通が出来、条件が良ければ10スタディア遠方からでも聞き取ることが可能である。

「ナハル川かスキラ湖の岸辺の人気のない場所を合流地点に決めて、遠吠えで互いの安全を確認した上で接触するとかすれば……それで、誰が来てくれるんだ?」

 ディアとヴォルフガングが顔を見合わせる。ディアが何か言おうとるするが、ヴォルフガングが先制した。

「ディア様、お願いできますか」

「だが」

 と反射的に抵抗するディアにヴォルフガングが続ける。

「ディア様は村全体でネゲヴに移住できないかお考えなのでしょう? ならば、移住できるかどうか、できるとして、それが銀狼族の命数を長らえさせることになるのか否か――その目で直接ネゲヴの現状を見、ご判断いただきたい。ディア様以外の誰がそれを判断できるというのです」

 ディアは「ぐ」と詰まり、ヴォルフガングの言葉を噛み締めるように考え込む。やがてディアは顔を上げた。

「……判った。銀狼族の未来がそこにあるのかどうか、この目で確かめてこよう」

 ディアの言葉に、ヴォルフガング達は「お願いします」と頷いた。

 竜也やサフィール、ディアを乗せた連絡船がトズルを出、セフィネ=クロイへと向かう。舳先に立つディアはまだ見ぬ町を、銀狼族の未来をその目に見据えていた。







[19836] 第23話「女の闘い」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/01/08 23:11




「黄金の帝国」・死闘篇
第23話「女の闘い」その1










 時間はかなり前後して、キスリムの月・26日。十字軍先鋒がスキラに到着する直前、閲兵式が終わった直後のこと。

 閲兵式を終えて総司令部に戻ってきた竜也は、即座にサドマやバラク、その他恩寵の部族の面々に捕まった。サドマが竜也に訊ねる。

「閲兵式の時に牙犬族が掲げていた旗、あれはタツヤが作って贈ったものだと聞いたが本当か?」

 竜也は当たり前に「ええ。それが何か?」と肯定する。サドマ達は半分くらい憮然とした顔になった。

「何故牙犬族だけにあのような旗を。我等金獅子族の働きが牙犬族に劣るとでも言うのか」

「まさか。そんなわけありません」

 と即座に否定しながら、竜也は内心で頭を抱えた。

「牙犬族の剣士には俺の供回りをやってもらっていますので、少し格好を付けてもらわなきゃいけなかったんです」

 竜也のその言い訳にもサドマは納得しなかった。

「ならば何故皇帝の供回りが牙犬族なのだ。金獅子族の戦闘力はあの犬共に決して負けはしない」

「じゃあ金獅子族が糞尿処理の仕事をやりますか?」

 竜也の言葉にサドマは「ぐっ」と詰まった。竜也が畳み掛ける。

「セフィネ=クロイの治安警備が牙犬族の担当で、皇帝の警護も糞尿処理もその一部です。どれも誰かがやらなきゃいけない大事な仕事であることには変わりありません」

「だが、それでも牙犬族だけにあのような旗を与えられることには納得がいかない」

 とサドマが食い下がる。

「前線で戦う我々こそ、兵の心を一つにするために、兵の戦意を維持するために、あのような旗が必要なのだ」

「『七人の海賊』の中でも言われていただろう。『戦には旗印が必要だ』と」

 バラクがそう言ってサドマに同調する。竜也もそれ以上断ることが出来なかった。

「……ええと、じゃあ図案を考えますんで」

 その途端、一同が口々に竜也に申し出てきた。

「当然だが赤虎族にも作ってくれるよな」「ならば我等人馬族にも旗を」「鉄牛族にも」「土犀族にも」

 さらにマグドまでもが「じゃあ、俺達奴隷軍団の旗も作ってもらわないと」と言い出した。竜也はまず頭痛を堪えるように顔を俯かせ、次いで顔を上げて自棄になったように、

「判った判った! 全員作ってやるからそこに並べ!」

 竜也の指示に従いサドマやマグド達が列を作り、順番を待つ。一方の竜也は椅子に座って書類の裏をスケッチブックの代わりにしている。まるで「どこのコミケットの人気作家だ」と思わせるような光景だ。

「まず、金獅子族の図案のモチーフは当然ライオンだな。じゃあこんな感じか」

 竜也は書類の裏に、某漫画の神様デザインのライオンを走り書きした。サドマは首をひねる。

「もっと勇ましくは出来ないか? それと、我等の恩寵も加えてもらわねば」

 竜也は「じゃあ」と抽象化を進めたライオンの横顔を描いた。金獅子族の恩寵は衝撃波等の念動力なので、衝撃波を表すのに漫画でフラッシュと呼ばれる効果線を描き込む。そうして仕上がった図案にサドマが一応納得を見せたので、「じゃあ次」と赤虎族の図案考案に取り掛かった。

 結局竜也は日が暮れるまで、各部族の旗の図案を考え描写するのに追われることになる。書類の裏にひたすら絵を描く竜也の姿に、アミール=ダールは少し呆れた様子だった。

「あ゛ー、ただいまー」

 普段とは違う疲れ方をした竜也が船へと戻ってくる。船では、白紙と筆記用具を用意したネフェルティとアヴェンクレトが待ち構えていた。

「タツヤ様、太陽神殿のための紋章を考えていただけませんか?」

「白兎族も」

 力尽きそうになる竜也だが気を取り直し、食堂に移動して手早く太陽神殿用の紋章を書き上げた。

「あまり凝ってもおかしくなるだけだし、シンプル・イズ・ベストってことで」

 竜也が考えた紋章は、日輪の両脇に広げた翼を配置したものだった。

「……良い図案だと思います。これなら千年先でも二千年先でもこのまま使えることでしょう」

 とネフェルティはその図案に満足を見せた。一方竜也は、

「うさぎ、うさぎ……うーん」

 と残った白兎族の旗の図案に頭を悩ませている。竜也は案を練りながら、白紙の片隅にミッフィー等の有名なうさぎのキャラクターを落書きしていた。その一つにアヴェンクレトが目を留める。

「これがいい」

「え、これ?」

 目を輝かせたアヴェンクレトが選んでいるのは「リリカルなのはA’s」に登場したのろいうさぎの落書きだった。

「さすがにこれはまずいだろう。もっと別の図案を」

「これがいい」

「ベラ=ラフマさんとか皆の意見も聞かないと……」

「これがいい」

 アヴェンクレトは強硬に主張し、竜也は途方に暮れた。

 後日、のろいうさぎのぬいぐるみを作ってもらいプレゼントしたところアヴェンクレトはそれで満足し、自分の主張を引っ込めた。白兎族用の図案は結局、ギリシア神話のテミス神を題材にしたものが選ばれる。天秤と剣を持ち、ウサ耳を生やした女神、それが白兎族の象徴となった。




















 時間はさらに前後して、白兎族の女官が竜也の公邸にやってきた直後から話を始めると。

「皇帝の身を守るためにはあの者達の力が必要です」

 というベラ=ラフマの要請と、

「公邸を維持するには一定以上の女官が必要でしょう?」

 というネフェルティの要望を受け、竜也が裁定。公邸での仕事は全て二等分してネフェルティの女官と白兎族の女官に振り分けられることとなった。既得権益を侵されるネフェルティ派は反発するが、毒を隠し持っている女官がいたという落ち度があるために強くは自己主張できず、竜也の裁定を受け入れるしかなかった。

 当初両者の勢力は拮抗していた。が、キスリムの月・25日のソロモン盟約改訂や人事辞令発令、それに伴う竜也とネフェルティの結婚発表・アヴェンクレトとの婚約発表。これにより船の中の勢力図も大きく変貌する。

「ネフェルティ様は既に第一皇妃。その一方あの小娘は第二皇妃で、しかも予定でしかないのですよ? どちらが上か考えるまでもないでしょう?」

 ネフェルティの女官は船で下働きをしているメイド達をそう口説き落とし、自分達の派閥に組み込んでいく。メイドを取られた白兎族は人手不足に悩み、自分達が下働きすることを余儀なくされていた。

「お嬢様、何とかしてください」

 と白兎族の女官はアヴェンクレトに泣き付く。アヴェンクレトとしてもネフェルティ派に大きい顔をされるのは不愉快だったので、何とかすることを考えた。

「敵に回ったメイドの落ち度を見つけて、一人一人追い出していけばいい」

 アヴェンクレトの恩寵を使えば造作もないことだが、

「いくら何でもそれは……」

「ただでさえわたし達はメイドから怖がられているのに、ますますメイドが逃げていきます」

 と白兎族の女官が懸命に説得、

「……判った、別の方法を考えておく」

 何とかアヴェンクレトを思い留まらせることが出来た。アヴェンクレトはその足でベラ=ラフマの元を訪れた。

「何か方法を考えて」

 いきなり要求されたベラ=ラフマだが、白兎族の地位に関わる問題なので真剣に対策を検討する。

「……敵に回ったメイドの落ち度を探り出して、一人一人追い出していけば」

「それはダメ出しされている」

 第一案を却下されたベラ=ラフマはさらに検討するが、

「……正直、良い対策が思い浮かばない」

「そう」

 ベラ=ラフマの答えにアヴェンクレトは失望した。だが、

「ここはもっと適切な人間の知恵を借りることとしよう」

「適切な人間?」

「皇帝タツヤだ」

 ベラ=ラフマはこともなげにそう答えた。

 それから数刻後、竜也の元を訪れたアヴェンクレトとベラ=ラフマが仕事の話と世間話のついでに、

「白兎族がメイド達に怖れられているために人手が集まらず、困っています」

 と状況を説明し、相談する。ネフェルティ派が人手を奪っていることや、彼女達が目障りで仕方がない等とは、思っていても口にはしない。

「……公邸で働くのはかなりのステイタスになることだし、給料だって良いんだから人手に事欠くことはないはずなんだが……ステイタスってのを前面に押し出すべきかも。『白兎族に選ばれているのは絶対に皇帝を裏切る心配のない、精鋭だ』と。あとはそれを判りやすく示すために制服を揃えれば」

「なるほど、近衛隊と同じことですか」

 竜也の発想にベラ=ラフマは感心する。思考回路が謀略や粛清に特化したベラ=ラフマ達には出てこない対策案である。

「メイドの制服はどんなの? ――うん、判った」

 竜也の思考を読み取ったアヴェンクレトが勝手に納得する。竜也が止める間もなく二人は執務室から退室し、数日後には元の世界のメイド服姿のメイドが船に登場した。

 黒のオーバーニーソックス、黒のエプロンドレスと白のエプロン、黒のリボンに白のカチューシャ。メイド達は可愛らしいメイド服に恥ずかしそうにしているが、誇らしげでもあった。

「みんななかなか可愛いな。華やかで良い感じだ」

 と喜ぶ竜也と、満足げなアヴェンクレト。一方のネフェルティ派は内心穏やかではない。

「あの小娘の一派が勢力を盛り返していますわ」

「せっかく追い詰めていたのに……わたし達も何か考えないと」

「確かにあの服は可愛らしいし、ちょっと着てみたいけど」

 女官達の緊急会議を黙って聞いていたネフェルティだが、

「だからと言って、アヴェンクレトさん達の真似をするのは面白くありませんわ」

 と口を挟む。女官達もそれには同意し、結局その日の会議では結論は出なかった。トルケマダに対する謀略が仕掛けられるのはその直後である。

「女官達を、ですか?」

「ああ。彼女達に明日の作戦を手伝ってほしい。絶対に信用のできる女官を5~6人選んでほしいんだ」

 竜也のその要請に、ネフェルティは少し首を傾げて問うた。

「アヴェンクレトさんの方には頼まないのですか?」

 竜也は気まずそうに目を逸らしながら、作戦に使うベリーダンスの踊り子みたいな衣装を取り出した。

「……その、こーゆー服を着てもらうんだが、白兎族は……ああだから」

 白兎族の女性は脂肪の付きにくい体質のようで、スレンダーな体型の者ばかりだった。竜也の説明にネフェルティは完全に納得する。

「判りましたわ。特に信用がおけて、スタイルの良い者を選べばいいのですね?」

 こうしてネフェルティに負けないくらいにグラマーな6人が選ばれ、お芝居で竜也に侍ることとなる。お芝居の終了後、

「皇帝は豊満な女性が好みです! ネフェルティ様、わたし達はこの路線で行きましょう!」

 熱帯のケムト育ちであるため、女官達は肌の露出にほとんど抵抗を持っていない。ネフェルティも女官達の主張を入れ、その日以降ネフェルティの女官達は全員で踊り子みたいな露出の多い衣装を身にすることとなった。

「なかなか華やかでしょう? タツヤ様」

「あー、確かに」

 ネフェルティにそう訊かれ、竜也は頷くしかない。実際には目のやり場に困っていたのだが。

 一方のアヴェンクレト一派は、

「お嬢様、あの者達に負けたくありません!」

 と等しく悔しさを噛み締めている。アヴェンクレトとその女官達はいつになく心を一つにしていた。

「……あの路線で勝負しても勝てない。わたし達はわたし達の路線で戦うしかない」

「はい、その通りです」

 アヴェンクレト一派は、白兎族の女官も全員メイド服を着ることにした。スカートの丈は膝上十数cm、この世界では画期的なミニスカートである。ますます目のやり場に困るようになった竜也は、そっぽを向いて壁の染みでも数えているしかない。

 アヴェンクレト一派とネフェルティ一派の対立はあさっての方向に流れたまま勢力を拮抗させる。膠着した事態を流動化させたのは、別勢力の介入だった。




















 ミカが総司令部で兵站担当官として仕事をしている最中、突然アヴェンクレトが訪ねてきた。

「話がある」

 と言うので応接室に移動し、ミカはアヴェンクレトと二人きりで対面する。考えてみれば、アヴェンクレトとの付き合いも短くはないが二人きりで話したことなど数えるほどしかない。ミカは居心地が悪そうに座り直しながらも、

「それでアヴェンクレトさん、話とは?」

 と口火を切った。

「……わたしとミカで同盟を組む。それであの女を圧倒できる」

「同盟? ネフェルティ様に対抗するために、ですか?」

 戸惑いながらのミカの確認にアヴェンクレトが頷いた。ミカはますます戸惑うしかない。

「わたしは別にネフェルティ様と対立しているわけではありませんし、対抗するつもりも……」

「第三皇妃になるのならあの女と対立することになる」

 「皇妃」の単語にミカは大いに狼狽えた。

「こ、皇妃などと、わたしはそんなこと……」

 赤面し、にやけ顔になり、頭を振って妄想を打ち消すミカの醜態を、アヴェンクレトは白けたような目で見つめている。

「別にわたしは認めたわけじゃない。それにタツヤだって皇妃を増やすつもりは全然ない」

 アヴェンクレトの言葉に頭が冷えたミカは、表情を取り繕ってアヴェンクレトへと向き直る。

「ならば何故そんな話を?」

「ミカの立場を考えれば、ミカとタツヤの気持ちは関係なしに、いずれ皇妃に収まるしかない……って言ってた」

 誰がだ、と突っ込みを入れたいミカだったがそれは置いておいて、アヴェンクレトの説明はミカにも充分理解できる話である。ミカはアミール=ダールの愛娘であり、アミール=ダールはネゲヴ陸軍の総司令官である。竜也はアミール=ダールの懐柔のために、アミール=ダールは自分の立場の確保のために。双方が婚姻という結びつきを求めるようになるのは政治的には必然だった。

「……確かに言われる通りです。わたしが皇妃となることはアミール=ダール一門にとって大きな利益となりますし、皇帝にとっても損な話ではありません」

 ミカは自分の気持ちを切り離して現状を冷静に分析する。

「もしわたしが皇妃となったら……ああ、なるほど。確かにネフェルティ様とは対立することになるかも」

 ケムトの王女のネフェルティに対し、ミカはエジオン=ゲベルの王族であり、太陽神殿の巫女であるネフェルティに対し、ミカは陸軍総司令官の娘である。血統の点・政治の点でネフェルティに対抗し得るのはミカしかいない。問題は「対抗するつもりがあるのか」ではない、「対抗し得る力があるのか」なのだ。そのつもりがなくとも力があれば警戒される、それが本当の対抗・対立へとつながっていくことは政治の世界では珍しくも何ともない。

「そこは上手く対立を煽る……って言っていたから、思う存分あの女と殺し合ってくれればいい」

 とアヴェンクレトは得々と説明した。

「共倒れになって一緒に潰れてくれると一番嬉しい」

「阿呆ですか貴方は」

 あまりに正直すぎるアヴェンクレトにミカが思わず突っ込むが、アヴェンクレトは罵倒された理由が判らずきょとんとしている。

(――いや、よく考えてみれば、読心の恩寵に目を眩まされてきたけど、実はこの子結構阿呆……?)

 普通の子供なら人間関係が広がっていく中で「相手が何を考えているのか」を必死に考え、推察することを余儀なくされる。だがアヴェンクレトはそんな機会を持ったことが一度もない。解答を見ながら試験を受け続けてきたようなものである。

 それに、幼い頃にアニードへと売り飛ばされてそこでは道具扱いしかされず、その後の保護者はあの竜也だ。アヴェンクレトに自分の頭を使う機会が多かったとは到底思えない。基本性能はそれほど悪くなかったとしても、頭を使う訓練が全くなされていなければ阿呆に育つのも当然というものだった。

「……なんか失礼なこと考えてる」

「まあ、それはともかく」

 ミカはアヴェンクレトに関する考察は打ち切り、別の方向へと思考を向けた。

「状況は理解しました。ですが、わたしは今の時点で自分からネフェルティ様と敵対するつもりは」

「でも、ミカはタツヤが好き」

「だだだだ誰が誰を」

 そこに突然、

「――話聞かせてもらったわ!」

 第三者が応接室に飛び込んでくる。アヴェンクレトとミカは驚きに目を丸くした。

「あ、姉上?」

 それはミカの姉のイスナインである。イスナインは20代半ば、腰まで届く黒髪を持つ、長身でスレンダーな美女だった。

「ふっ、この姉を甘く見ないことねミカ! エジオン=ゲベルの鉄壁娘と謳われた貴方が恋などと! こんな面白い話をわたしが聞き逃すはずがないでしょう!」

 ただし性格はかなりアレである。ミカは思わず頭を抱えた。

「あ、姉上。わたしは別にタツヤのことなど……」

 と言いながらも、ミカは赤面するのを抑えられない。それを見たイスナインはテンションを上げる一方だった。

「くーっ、何この可愛い妹?! 大丈夫、今の貴方なら皇帝でも教皇でも堕とせるわ!」

 イスナインはアヴェンクレトとミカの手を取り、強引に結び合った。

「わたし達が力を合わせればケムトの王女も目じゃないわ! ミカの恋を成就させるわよ!」

 呆然としたアヴェンクレトと疲れ切ったミカを置き去りに、イスナインは高らかに宣言する。その日からイスナイン主導による竜也攻略作戦が発動された。

 まずはその日の夕食時。

「ミカ、その格好は……」

「あ、あまり見ないでください」

 メイド服姿のミカに竜也は呆然とし、ミカは恥ずかしそうに身じろぎする。スカートの丈は限界まで短くされており、落ち着かないことこの上なかった。

「くっ、まさかミカさんが先に参戦するなんて……」

 と悔しそうにしているアンヴェル。ネフェルティはいつもの仮面のような微笑みで平静を装っていた。

「この間あげた眼鏡は掛けないのか?」

「タツヤはわたしを殺す気ですか?!」

 何気ない竜也の質問にミカは涙目になって抗議する。今の状態で眼鏡を掛けて竜也の顔をまともに見たなら心臓麻痺を起こしてしまう、そんな確信がミカにはあった。

「よしよし、掴みは上々」

 ミカと竜也の様子を扉の陰から見守っていたイスナインが満足げに頷く。イスナインはミカ付きの女官にもメイド服を着ることを強要、アヴェンクレト-ミカ連合はネフェルティ一派に対し優位を確保した、かに見えた。だが翌日。

「アンヴェル、その格好は……」

「いやーん、あまり見ないでくださーい」

 踊り子みたいな格好をしたアンヴェルがわざとらしく腕で身体を隠そうとする。だが全然隠れておらず、むしろ腕で胸を強調しているだけである。アンヴェルは媚びるような、艶っぽい視線を竜也へと向けた。

「ご、ごめん」

 竜也の方が赤面しながらそっぽを向く。アンヴェルは内心で密かにガッツポーズを取った。

 一方、その様子を歯噛みしながら見つめているのはアヴェンクレト達だけではない。

「……ネフェルティ様、本当にこれで良かったのでしょうか。強敵に塩を送っただけのような……」

 女官の言葉にネフェルティも半分くらい同意する。

「あるいはそうかも知れませんけど、今アンヴェルさんを敵に回すのは得策ではないでしょう」

 アンヴェルは自分付きのメイドにも踊り子の衣装を着せて、ネフェルティ側に付くことを鮮明にする。こうしてネフェルティ-アンヴェル連合とアヴェンクレト-ミカ連合がそれぞれ成立し、両者は再び勢力を拮抗させた。







[19836] 第23話「女の闘い」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/01/15 22:42




「黄金の帝国」・死闘篇
第23話「女の闘い」その2










「……何かよく判らない競り合いをしていますね」

 ネフェルティ-アンヴェル連合とアヴェンクレト-ミカ連合が熾烈な女の戦いを演じている一方、サフィール達牙犬族は完全に蚊帳の外である。サフィール達が船にいるのは警護のためであること、牙犬族が独自の部族衣装にこだわりを持っていること、戦闘に不向きなメイド服や踊り子の衣装を着るつもりが毛頭ないこと、等がその理由である。

「ああ、俺もここにいる方が気分が落ち着く」

 ネフェルティ達やアヴェンクレト達といると獲物を狙う猛禽の眼にさらされているようで気分が休まらない竜也は、船にいる時はサフィール達の詰め所にお邪魔してお茶を飲んでいることが多くなった。

 十字軍の別働隊がトズル方面に移動していることを聞き、竜也はトズル方面の視察に向かうことを決定する。最近の船の中の空気に気疲れし、少し距離を置きたかったことがその理由の一つになっていることは間違いない。

 一方ネフェルティやアヴェンクレトはそんなことにも気付かずに(気付いていても重視せずに)暴走を続けている。

「勝負よ! ここは一つ、皇帝がわたし達のどちらを選ぶか勝負をしましょう!」

 イスナインはネフェルティへと果たし状を叩き付けた。

「皇帝は戦いに出掛けて、帰ってきた時は疲れているはず! 皇帝を歓待し、ゆっくり疲れを取ってもらう、わたし達がそれぞれ別にその準備をする。皇帝がわたし達のどちらを選ぶかで勝負するのよ!」

 ネフェルティもその果たし状をいつもの笑顔で受け取った。

「タツヤ様が疲れてお帰りの時に、疲れを取っていただくようわたし達が最善を尽くすのは当然のことですわ。わたし達はわたし達でその準備をいたしますね?」

「望むところよ!」

 こうして両者は別々に竜也歓待のための準備を進めることになる。

 アヴェンクレト達は自分達の優位を確信していた。

「タツヤの食べ物の好みも、してほしいことも、判らないことは何もない。この勝負は勝って当たり前」

「そういうことよ。ミカ、この勝負に勝ってわたし達が一気に主導権を取るわ!」

「は、はあ……」

 一方のネフェルティ達も自分達の不利は理解している。

「気配りという点ではあの子達にはかないませんよね。どうするおつもりですか? ネフェルティ様」

「確かに多くの点で不利ですが、一つだけわたしが有利な点があります。そこを的確に突いていくしか勝機はありません」

「有利な点とは?」

「戦いにより昂ぶった殿方の気を静める一番の薬、それが何かはご存じでしょう?」

「……ああ、なるほど」

 艶っぽいネフェルティの瞳にアンヴェルは密かに嫉妬した。

「タツヤさんて、娼館に行ったりとかは全然しない人ですもんね。確かにその点を突けば……」

「とにかくタツヤ様の身柄を確保できさえすれば、わたしがタツヤ様を心ゆくまで休ませてさしあげます」

 こうしてシャバツの月・2日。ついに船は決戦の刻を迎える。




















 その日、ディアを連れてトズル方面から戻ってきた竜也は、まずナハル川の野戦本部に赴いてアミール=ダールから報告を受けた。

「一昨日十字軍の3度目の渡河作戦が決行されましたが、撃退に成功しました」

 アミール=ダールの報告をまとめると以下のようになる。

 まず十字軍の行動は2回目の渡河作戦と特に変わらない。丸太を使い、一人でも多くに川を渡らせることしか考えていない、無理押しの作戦である。動員兵数は前回よりさらに増え、おそらく5万を越えるくらいの兵数だ。

 一方のネゲヴの軍も、基本的には前回とやるべきことは変わらない。ただ今回、アミール=ダールは一番槍の敵兵を矢や火縄銃で殺すことを全軍に禁止。一番槍の敵兵は剣か槍で殺すよう厳命した。

 こうして戦闘が開始される。ケルシュの水軍では到底殺し切れない数の敵兵が川を渡り、ナハル川南岸へと取り付く。さらに前回のように矢や弾丸が雨霰と降ってくることもない。十字軍のうち最初に南岸に到着した者達はこの隙に城壁を乗り越えようとし、ネゲヴ兵に槍で刺されて絶命した。

 アミール=ダールが弓兵と鉄砲兵に攻撃命令を下す。敵兵は既に押し寄せてきており、狙いを付ける必要もない。撃てば当たる状態だった。矢が射られ、火縄銃が撃たれ、火炎放射器が使用される。敵兵は実に効率良く殺されていった。ごく一部の敵兵が南岸の城壁を乗り越えるが、即座に刺し殺され、斬り殺されてそれで終わりである。

 ネゲヴ兵が殺し、エレブ兵が殺される一方的な展開は結局最後まで変わることがなかった。敵軍が全員逃げるか死ぬかし、戦闘は終結する。十字軍は万単位の死傷者を出した一方、ネゲヴ軍の戦死者は二百人にも届いていない。

「完全勝利だな」

 アミール=ダールの報告を聞き終え、竜也はそう感嘆する。アミール=ダールも、

「はい。なかなか良い予行演習が出来ました」

 と満足そうだった。「予行演習?」と竜也が首を傾げる。

「はい。敵の規模を考えれば今回の戦闘とて前哨戦に過ぎないでしょう。ですが我が軍は敵の本隊と戦う前に手頃な規模の敵と戦うことが出来た。将兵も殺し合いに慣れましたし、我が軍の不備も洗い出せました。我々は万全の体勢で敵の本隊を迎え撃つことが出来ます」

「そ、そうか。頼りにしている」

 野戦本部を後にした竜也は総司令部へと戻ってくる。サフィールに連れられたディアがそれに同行、竜也はディアをベラ=ラフマに紹介した。

「彼女は銀狼族族長のディアナ=ディアマントだ。彼女と十字軍内の銀狼族が我々に協力してくれることになった」

「さすがは皇帝です。まさかこのような協力者を得てくるとは」

 ベラ=ラフマは表情をあまり変えないまま大いに驚き、喜んでいる。

「まずは情報収集、次いで情報工作をやってもらうつもりだ。ディアは貴方に預けるから二人で協力して情報収集・情報工作の仕事を進めてくれ」

 竜也の指示にベラ=ラフマが頷く。が、ディアはかすかに不安そうな顔をした。それを見て取ったベラ=ラフマが助け船を出す。

「皇帝、仕事についてはそれで構いませんが、普段の生活の後見をするのは別の者がよろしいかと」

 指摘を受けた竜也は「それもそうか」と思い直し、

「じゃあサフィール、牙犬族の皆で面倒を見てやってくれ」

「タツヤ殿がそう言われるのであれば」

 サフィールは内心の不満を口調ごと抑制しそう返答する。ディアは素知らぬ顔でそっぽを向いているが、その顔から不安の色がなくなっていることをベラ=ラフマだけが察していた。

 竜也はたまっていた書類を片付けに執務室へと向かい、サフィールは一足先に船へと戻った。そこで彼女が見たものは――

「……確か皆さんはタツヤ殿の疲れを癒そうと準備をしていたはず。何でこんなことになっているのですか?」

 サフィールの問いに、ネフェルティ・アヴェンクレト・ミカ・アンヴェルが目を逸らした。

 ……きっかけが何だったのか、どちらが先に手を出したのか、それはもう誰にも判らない。だが、

「きゃあっ?! 料理が!」

「ああ、ごめんなさい。ここの廊下は狭いから」

 あるいはわざとではなかったのかも知れない、ほんのちょっとした相手の準備の邪魔が次第にちょっとしたいたずらに、

「ああっ! 衣装に染みが!」

「あーらごめんあそばせ、わざじゃなくってよ?」

 やがてちょっとした嫌がらせに発展。

「ああっ、砂糖と塩が入れ替わってる!」

「ああっ、かまどの火が消されてる!」

「ああっ、料理が食べられてる!」

 数時間後にはそれは物理的妨害へとエスカレートしていた。

「ああっ、靴の中に針が!」

「ああっ、服にソースが!」

「ああっ、ベッドが水浸しに!」

 そして物理的妨害が乱闘に至るまではあっと言う間だった。

「ほほほほ! このアミール=ダールの娘イスナインに戦いを挑むとは、舐められたものね!」

「お黙りなさい! フゥト=カァ=ラーの後宮で四千年間培われた嫌がらせの数々、思い知らせてくれますわ!」

 ネフェルティ派の女官やメイドとアヴェンクレト派の女官やメイドが船の中を縦横に走り回り、時に取っ組み合いを演じ、時にモップと箒で切り結び、時に集団で一人を包囲して裸に剥いて、時にソースの入った瓶が爆撃される。イスナインは先頭に立って走り回り、騒ぎを拡大させ続けた。

 安全地帯にさっさと避難したミカは、

「ああぁぁ、姉上が首を突っ込んできた時からこんなことになるような気はしていたんですぅぅ……」

 と頭を抱えている。

「……はあ、お茶が美味しいですわねぇ」

 とお茶をすするネフェルティと、

「税率を2割とするなら公債の返済が終了するのが……」

 総司令部から持ち込んだ書類に目を通しているアンヴェル。やり方は違うがこの惨状から目を背けていることには変わりない。アヴェンクレトは、

「わたしのせいじゃない」

 と他人事を決め込んでいた。

 そしてサフィールは4人を前に深々とため息をついている。4人が逃げ込んできた安全地帯とは船の中の牙犬族の詰め所だったのだ。

「タツヤ殿は間もなく帰ってくるのですよ? どうするつもりなのですか?」

 サフィールの問いに4人は揃って汗を流しながら目を逸らした。サフィールは再度ため息をつく。

「……タツヤ殿にはわたしからお願いして、今夜は別の場所で泊まっていただくことにします。皆さんは今夜中にこの状況を何とかしておいてください。それでよろしいですね?」

「お願いします」

 4人は声を揃えてサフィールに向かって頭を下げた。

 サフィールが船を出て竜也のところへ向かおうとすると、ちょうど竜也が船へと向かって歩いてくるところだった。間一髪だった、とサフィールは胸をなで下ろす。

「あれ、サフィール。どうした?」

 どういう言い訳をするか何も考えていなかったサフィールは、とにかく竜也の前に立ち塞がった。竜也はサフィールを避けて前に進もうとするが、サフィールは無言のまま通せんぼする。

「サフィール?」

「……その、タツヤ殿。何も訊かず、今夜は別の場所に泊まっていただきたい」

 少しの間真顔でサフィールを見つめる竜也だが、

「――サフィールがそう言うなら」

 とその要請を承諾した。

「それで、どこに泊まったらいい?」

 竜也の問いに「えーと、えーと」と悩み出すサフィール。竜也はちょっと笑いながら提案した。

「それなら牙犬族の皆のところに泊めてもらおうか。そこならこの町で一番安全だし、リフヤさんやジューベイさんにも積もる話は色々あるだろう?」

「ああ、さすがタツヤ殿です。それが良いでしょう」

 こうして竜也はサフィール達の案内で牙犬族の宿舎へと向かい、その夜をそこで過ごすこととなる。




















「おお、タツヤ殿。よく来られた!」

 総司令部のあるイナブの丘に程近い町中の、治安警備隊の庁舎。牙犬族の宿舎はそれに隣接して建てられていた。竜也はサフィールの案内でそこを訪れる。

「済まない、今日はちょっと世話になる」

「何を言われる。タツヤ殿は我等にとって一族も同然、遠慮は無用ですぞ!」

 竜也はジューベイやリフヤから治安警備隊の現状について報告を受け、竜也の方もトズル方面の戦闘について説明があり、その後はディアの扱い等の2~3の打ち合わせをした。

 夜になって、竜也歓迎の宴会が催される。とは言っても戦時中である。料理がいつもよりちょっとだけ上等で、酒がいつもより多めに出されているだけのことなのだが、集まった牙犬族の面々は大いに盛り上がっていた。

「……くっ、美味しい」

 だが、誰よりもこの宴会を堪能していたのがディアなのは間違いない。特別上等と言うほどではない料理であろうと、ディアは感涙にむせびながら貪り食っている。

「ほら、料理はまだまだあるから」

 当初はディアのことを胡散臭げに見ていた牙犬族だが、元々情に厚い彼等である。ディアの前には次々と料理が運ばれ、ディアはひたすらそれを食い続けた。

「がははは。タツヤ殿、楽しんでおられますかな?」

 完全に出来上がったジューベイが酒瓶を持って竜也の隣にやってくる。酒が好きではない竜也は正直辟易していたが「ええ、勿論」と調子を合わせた。が、ジューベイは竜也の内心を察したようで、「もっと歓待しなければ」と余計な義務感に駆られてしまった。

「料理も酒も皇帝を満足させるには程遠いでしょうが、しかし急には用意できんし……ここは一つ他のことで補うしかあるまい」

 ジューベイは二人の剣士を指名し、

「おい、お前等! あれをやれ!」

 と命令する。二人は勇んで一同の中央に立ち、周囲の牙犬族は「よっ、待ってました!」等と囃し立ててさらに盛り上がる。どうやらこの二人が宴会芸を披露してくれるようである。

 二人の剣士は真剣を抜いて、

「きええぃぃ!」

 裂帛の気合いを込めていきなり斬り合いを始めた。恩寵を最大限使っているらしく、剣戟は竜也の目では到底追うことが出来ない。まるで時代劇のチャンバラを4倍速くらいの高速再生で見ているかのようだ。だがTVの時代劇とは違い、今竜也の目の前で、本当の斬り合いが、殺し合いが行われている。殺気に当てられた竜也は木偶のように身体を凍り付かせ、剣戟をただ見つめるだけである。

 不意に二人が斬り合いを中止、一同に向かって頭を下げる。一同は二人へと惜しみない拍手を送った。

 斬り合いが終わったことに竜也が心底安堵し脱力する。その竜也にジューベイが、

「がははは、どうでしたか? 二人の剣舞は」

「えっ、剣舞だったの?!」

 竜也は思わず大声で問い返した。ジューベイはそれを特に気にする様子もなく「見事なものでしょう!」と自慢げである。ディアは、

「大したものだ」

 と感心し、竜也も「え、ええ。お見事でしたよ」と話を合わせるしかなかった。自分の席に戻った二人の剣士は数ヶ所に浅いながらも傷を負っていて、血を流しながら酒を飲み続けている。それを見て顔を青くした竜也は「失礼」と席を外してその部屋から退出した。

 中庭に出て涼しい夜風で頭を冷やし、元の大広間に戻ろうとしてちょっと間違えてしまったようである。

「あれ、こっちは厨房か」

 元来た廊下を引き返そうとして、厨房にいる人物が竜也に気付いた。

「あ、タツヤ殿」

「サフィールか」

 サフィールに声を掛けられ、竜也は厨房へと入っていく。厨房に今いるのはサフィールだけで、サフィールはまかない料理を用意しているようだった。

「……それ、俺にも食べさせてくれないか?」

「? ええ、構いませんが」

 真剣な竜也の様子に少しだけ怪訝な顔をしながらもサフィールは竜也の分もまかない料理を用意。席に着いた竜也の前に「どうぞ」と丼を差し出す。二人は「いただきます」と手を合わせ、それを食べ出した。

 丼に入っていたのはインディカ米っぽいご飯と、お茶と、大根葉っぽい菜っ葉の漬け物。それに醤油が少々垂らされているようだ。要するに元の世界のお茶漬けである。米の味はジャポニカ米とは大分違っているが、それでもそのお茶漬けはこの世界に来てから初めて味わう最も日本の味に近い料理だった。

「……うぐっ……ひく……」

「た、タツヤ殿、一体何が」

 郷愁を刺激されて思わず涙ぐむ竜也と、そんな竜也に狼狽えるサフィール。竜也は「何でもない」と誤魔化しながらお茶漬けをかき込む。お茶漬けを食べ終わった竜也はサフィールに背を向けて涙を拭った。

 サフィールはとりあえず席を立って竜也に寄り添い、

「……その」

 どうして良いか判らなかったサフィールは、思わず竜也を抱き締めていた。竜也はサフィールの胸の中で流れる涙を拭う。竜也の腕がサフィールの身体に回される。サフィールの胸の内は温かく切ない思いでいっぱいになった。

 そして――




















 翌朝、客用の寝室。一つ布団の中でほぼ同時に目が覚めた竜也とサフィールは昨晩何があったかを思い出し、

「うわああぁぁ……」「うわああぁぁ……」

と二人して思わず頭を抱え込んだ。

「ネフェルティ様に申し訳が!」

 と裸のまま切腹しようとするサフィールと、

「ちょっと待て!」

 と裸のままそれを止めようとする竜也。互いの裸に赤面した二人はとりあえず服を着ることにした。

 服を着て人心地つき、多少冷静になった二人は布団の上で向かい合って正座する。

「タツヤ殿、申し訳ありません!」

 と平伏するサフィール。竜也は「サフィールが謝ることじゃない」と何とか顔を上げさせた。

「昨晩のことは犬にでも噛まれたと思ってどうか忘れていただきたい。わたしは牙犬族の里に帰ってこの町にはもう来ないことにしますから」

 サフィールはすぐにでも旅に出そうな勢いだったが、

「そんなことはさせない」

 と竜也はサフィールの手首を掴んだ。サフィールが思わず赤面する。

「『昨晩』こうなったのは、その、雰囲気とか、ものの流れというか、そんなようなもんだったかも知れないけど、『サフィールと』こうなったのは決して偶然でも勢いのせいでもない。他の誰でもない『サフィールだから』こうなったんだ」

 竜也の真摯な瞳がサフィールを見つめる。サフィールが潤んだ瞳で見つめ返した。

「責任は取る、サフィールを皇妃として迎える」

 決然とした竜也のその宣言に、

「おおーーっっ!! これは目出度い!!」

 とジューベイ等牙犬族の一団がその部屋に流れ込んできた。竜也とサフィールは心臓が止まったような顔をした。

「牙犬族から皇妃が出るとは! 良くやったサフィール!」

「おめでとうサフィール!」

 とジューベイ等がサフィールを褒め称えた。サフィールは顔を赤くしたり青くしたりしている。

「タツヤ殿、こんな阿呆ですがこれでも可愛い我が娘です。サフィールをどうかよろしくお願いします」

 とリフヤは男泣きに泣いていた。竜也は硬直したまま、それでも何とか首を縦に振った。

 ……数刻後、竜也は牙犬族の宿舎を出て公邸へと戻ることにした。ともすれば逃げ出そうとするサフィールの手首を竜也は掴み続けている。サフィールを引きずるように連れ、竜也は公邸へと歩いていった。

 一方公邸。昨日は女官達の戦場となって荒れ果ててしまったが、メイドと女官の他ネフェルティ達4人も加わり、徹夜で掃除して何とか元の姿を取り戻した。ネフェルティ達4人は食堂で小休止する。

「……戦場から戻ってきたタツヤ様にゆっくりお休みいただくことも叶いませんでした。本末転倒もいいところです」

 とネフェルティはしおらしい様子を見せる。アヴェンクレトも、

「調子に乗りすぎた。反省」

 とネフェルティと歩調を合わせた。

「ともかく、タツヤ様の疲れを癒すことがまず第一です。女官達やメイド達を無意味に競い合わせることは止めにして、一致協力してタツヤ様を歓待することに専念いたしましょう」

「それでいい」

 とアヴェンクレトが同意し、

「最初からそうすべきでしたね」

 とアンヴェルが苦笑し、

「当たり前のことです」

 とミカが何故か偉そうにした。その足下ではイスナインが縄で縛られたまま泣き寝入りしている。

 そこに女官の一人がやってきて、

「ネフェルティ様、皇帝がお戻りになりました。ですが……」

 ネフェルティ達は竜也を出迎えるために食堂を飛び出していく。その場には何か言いたげな女官が残された。

 そして船の前に集まるネフェルティ達。丘のふもとには竜也達の姿が見える。丘の上へと続く坂を登り、竜也とサフィールが歩いてやってきている――仲良く手をつないで。

「……」

 実際には竜也がサフィールの手首を掴んでいるのだが、ネフェルティ達にとってはどちらでもあまり変わらない。嫌な予感を覚えるネフェルティ達4人の前に、ようやく竜也とサフィールが到着。赤面したサフィールは竜也の背後に身を隠そうとしていた。

 まずアヴェンクレトがそれを理解。ネフェルティとアンヴェルも何が起こったのかを大体察し、ミカもまた竜也達二人のまとう空気が昨日とは一変していることを感じ取った。

「まー、その。ネフェルティ、アヴェンクレト」

 竜也は恥ずかしさを抑え、意を決して二人へと告げる。

「サフィールを皇妃として迎えるからそのつもりで」

 ネフェルティ達4人は砂の人形のようになって、その場に崩れ落ちた。

(結局サフィールさんの一人勝ち……)

 「漁夫の利」という言葉の生きた見本を残し、こうして女の闘いはひとまずの幕を閉じたのである。







[19836] 第24話「水面下の戦い」その1
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/01/22 21:36




「黄金の帝国」・死闘篇
第24話「水面下の戦い」その1










 シャバツの月・3日の朝、竜也の「サフィールを皇妃として迎える」という爆弾宣言炸裂の直後。

 船の食堂に場所を移した竜也達が互いに向かい合って座っている。食堂の中は一種異様な緊張感に包まれていた。

「えーと、その」

 と竜也が話を切り出した。

「さっきも言ったけど、サフィールを第三皇妃として迎えるから」

「そんな、タツヤ殿!」

 サフィールが叫ぶような声を出して立ち上がる。竜也も立ち上がって習慣みたいにサフィールの手首を掴んだ。

「わたしのような者が第三皇妃などと……」

「言っただろう、俺はちゃんと責任を取る! 皇帝の権力を使って女漁りをして、飽きたら捨てるような真似はしない!」

 サフィールが遠慮して抵抗するのは竜也の予想の範囲内だったが、

「……その、わたしは末席で、第五皇妃で構いませんから」

 その遠慮の仕方は予想の右斜め上を行っていた。竜也は「へ?」と間の抜けた声を出す。

「第五って……じゃあ第三と第四はどこに」

 竜也の不思議そうな問いにサフィールはそれ以上に不思議そうな顔をし、当たり前の事実を指摘するように、

「第三皇妃と」

 とミカを、

「第四皇妃」

 とアンヴェルを指し示した。

「ちょっ……! 何をサフィールさん!」

 と赤面して慌てるミカと、それとは対照的に、

「……わたしが第三じゃなくて第四ですか。ふーん」

 と不敵な態度を見せるアンヴェル。アンヴェルから挑戦的な視線を送られ、ミカは態度を取り繕ってその視線を跳ね返した。ミカとアンヴェルが無言のまま気迫のぶつけ合いをし、サフィールと竜也は息が詰まりそうな顔をしている。

 一歩も引かないように見えた両者だったが、アンヴェルが先に一歩譲った。苦笑して肩をすくめるアンヴェル。

「……いくらナーフィア商会でもエジオン=ゲベルのお姫様にはちょっと勝てませんね。判りました、ミカさんが第三、わたしが第四皇妃で構いません」

 勝った、と満足するミカだったが、

「あー。気持ちは嬉しいがミカ、アンヴェル。俺はこれ以上皇妃を増やすつもりは」

 その勝利が何を意味するかを思い出し、ミカは顔を赤くする。

「か、勘違いしないでいただきたい! わたしはタツヤのことなど、タツヤのことなど……」

 ミカはそれ以上続けられず、「うわーん!」と半泣きになりながら食堂から飛び出していく。竜也はほろ苦い表情でそれを見送った。

「……ミカもああ言っていることだし、俺は二人を皇妃にするつもりはないから」

「今の段階では、ですよね」

 とアンヴェルが付け加える。

「わたしはミカさんとは違います。諦めるつもりは毛頭ありませんから」

 アンヴェルは花が咲いたような微笑みを竜也へと向ける。竜也は赤面しながらアンヴェルから顔を背けた。




















 シャバツの月・4日。

 その日、竜也にとって非常に久々の、思いがけない人物が総司令部を訪れていた。

「これはこれは皇帝陛下、ご機嫌麗しゅうございます。皇帝陛下への拝謁が叶いましたこと、このアニード恐懼感激の極み」

 竜也の前で這いつくばって卑屈極まりない挨拶を述べているのはアニードである。アニードは目尻を下げ頬を緩ませ、蠅も殺さないような人畜無害の笑みを見せつけている。

「……あの、アニードさん?」

「そんな皇帝陛下! 私のような下賤な商人のことなどどうぞ呼び捨てにしていただきたい! いえ、いっそ犬とお呼びください!」

 竜也は「あー……」と途方に暮れたようになって、

「あの、アニードさん。出来れば前と同じように振る舞ってくれませんか。やりにくくて仕方ないので」

 アニードは少しだけ沈黙し、

「ふん、そこまで言うなら仕方あるまい」

 と即座に以前の横柄さを取り戻す。竜也はずっこけそうになるが何とか踏みとどまった。

「独裁官だ皇帝だと仰々しく名乗っているようだが、この程度を上手くあしらえんようでは先が思いやられるな、小僧」

 アニードの忠告めいた言葉に竜也は、

「精進します」

 と苦笑するしかなかった。

 総司令部の執務室には竜也とアニードの他、ガイル=ラベク・アミール=ダール・ベラ=ラフマが集まっている。

「アニードさん、それは……」

 竜也が目を留めたのは、アニードが首から提げている十字架のロザリオだった。

「神父ミランから洗礼を受けて十字教徒となったのだ。おかげで取引が随分やりやすくなった」

「神父ミランは今どこに?」

「さあ、知らんな」

 とアニードは肩をすくめた。

「あいつはタムリットの惨劇に対してトルケマダやアンリ=ボケに抗議し、アンリ=ボケの怒りを買って神父を解任されて一兵卒に落とされたそうだ。多分もう野垂れ死にしているだろう」

 竜也はミランの運命について複雑な感慨を抱くが、それはすぐに頭の片隅に追いやられた。竜也はアニードの説明に耳を傾ける。

「十字軍は大きく言えば二つの派閥に分けられる。一つはアンリ=ボケを頂点とする枢機卿派、もう一派はヴェルマンドワ伯を頂点とする王弟派だ。ミランは枢機卿派で、私もそのつながりで当初は枢機卿派と取引していたが、ミランの失脚前に何とか王弟派に乗り換えることに成功した」

「アニードさんは王弟派の誰とつながりを?」

「ヴェルマンドワ伯の副官の一人、タンクレードという男と面識を持つことが出来た。ヴェルマンドワ伯やタンクレードは明日か明後日にはスキラに到着する。私はタンクレードからの依頼を果たすために一足先にここまでやってきたのだ」

 アニードの真剣な眼が竜也を見据える。竜也は真っ向からその眼を受け止めた。

「タンクレードからの依頼とは?」

「70万人分の穀物だ」

 竜也達は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。一人平静な(ように見える)ベラ=ラフマが確認する。

「――70万人? 百万人ではなくて?」

「ああ、タンクレードからの依頼は間違いなく70万だ」

 竜也は怪訝そうな顔をガイル=ラベク等へと向ける。

「残りの30万はどこに?」

「それだけの数が進軍途中で脱落したんだろう」

 と説明するのはガイル=ラベクである。

「奴等は入植目的の農民や農民兵から食糧を取り上げ、騎士階級やベテラン兵へと回していた。7割の戦闘力を維持するために3割を切り捨てたんだ」

「それでも、まともな会戦を一度も経ずして敵の3割を削り取ったのです。皇帝の戦略は間違いではなかったということです」

 アミール=ダールのフォローを受けて、竜也は気を取り直した。

「十字軍に食糧はどのくらい残っているんですか?」

「私がタンクレードの態度から推測した限りでは、おそらくは2ヶ月分程度。どんなに多くても3ヶ月分には届くまい」

 思ったより多い、と竜也は腕を組んで考え込んだ。兵数の減り方が竜也の計算以上だった分食糧がより多く残ったのだろう。

「なるほど、それでタンクレードは貴方に食糧確保の依頼を」

 アミール=ダールの言葉にアニードは頷いた。

「そういうことだ。ここで少しでも多くの食糧を確保できれば私はタンクレードの信用を得ることが出来る。情報を得るにも何か工作をするにしても、十字軍幹部とのつながりは不可欠だろう」

 アニードの言葉に、

「情報のために敵に食糧を送るなど本末転倒だ」

 とアミール=ダール。

「そもそも70万人分の食糧補給など一介の商人には不可能だろう」

 とガイル=ラベク。

「戦争に情報は不可欠です。ある程度の食糧は提供すべきでは?」

 とベラ=ラフマ。

 一同の視線が竜也へと集まり、無言のまま決断を促した。やがて竜也が決定を下す。

「――製粉した小麦粉とか葡萄酒とか、高級食材や嗜好品は売ってもいい。統制を少しだけ緩めて敵に流れるようにしよう。指揮官が兵の飢えを理解できなくなれば士気も規律も低下する。反乱を煽ることも出来るかも知れない」

「まあ、それで何とかやってみよう」

 とアニードがそれを受け入れる。アミール=ダール達も頷き、竜也の決定を是とした。




















 シャバツの月・6日。

 アニードがある重大な情報を持って総司令部へと駆け込んできた。

「トルケマダが?」

「ああ、そうだ。ヴェルマンドワ伯が今日スキラに入城したが、その途端トルケマダを拘束したそうだ。スキラは今その話で持ちきりとなっている」

 竜也が鋭い視線をベラ=ラフマへと向け、ベラ=ラフマが頷いた。

「シャッル達をスキラに向かわせます。銀狼族にも情報収集をしてもらいましょう」

「ああ、頼む。騎兵隊にも偵察をさせる」

「私もタンクレードか他の誰かと面会できないか、もう一度スキラに行ってくる」

 竜也の命を受けたベラ=ラフマ達が動き出す。各人各部署が収集した情報をベラ=ラフマが整理、竜也に報告したのは翌日の夜である。

「まず前提として、王弟派と枢機卿派の仲は決して良好ではありません」

 ヴェルマンドワ伯を頂点とする王弟派は、エレブ諸王国・諸侯の貴族が中心となって構成されている。一方枢機卿派を構成しているのは十字教の聖職者だが、彼等の多くは元を辿れば下級貴族の出身である。教皇インノケンティウスや枢機卿アンリ=ボケもまたその階層の出身だ。十字教内・教皇庁内では出自があまり重視されず、本人の実力と才覚によりどこまでも出世が可能なのである。

 枢機卿派の聖職者達・その中でも幹部クラスは、領主・諸侯クラスの貴族にも対等に立ち向かえる立場まで実力で出身出世したことを誇る一方、自分の出自に引け目も抱いている。一方の王弟派の貴族・その中でも幹部クラスは、聖職者の権威と権勢に平伏する一方、その聖職者を内心では「木っ端貴族」と見なして軽侮している。王弟派と枢機卿派の不仲は昨日今日始まったことではなく、エレブにいる時から両者は侮蔑し合い嫌悪し合う間柄なのだ。

「トルケマダはアンリ=ボケの右腕とされており、枢機卿派の中では大物です。ですが軍の序列としてはそれほど高い地位ではありません」

 ベラ=ラフマの確認に竜也が頷き、続きを促した。

「トルケマダはナハル川渡河を果たすために3度にわたって戦いを挑んできました。1度目は自分の部隊だけで。2度目は自分より地位が低いか同格の部隊長を集められるだけ集めて。3度目は自分よりかなり高位の司令官等を強引に従わせて――その際にはアンリ=ボケの権威を使っただけでなく、反対する司令官に異端審問への告発をちらつかせることまでしたそうです。それで渡河が成功していれば良かったのでしょうが」

「見事に失敗したな。万単位の犠牲を出して」

「その通りです。軍の序列と指揮権を無視し、渡河作戦を強行して失敗し、万を越える死傷者を無為に生み出した。これらの理由でヴェルマンドワ伯はトルケマダを拘束しました。本当はトルケマダを即座に処刑するはずだったのですが、枢機卿派が反対して出来なかったようです」

「トルケマダの処分はどうなる?」

「アンリ=ボケのスキラ到着を待って決められるようです」

 竜也は腕を組んでしばし沈思黙考する。ベラ=ラフマは無言のまま竜也の判断を待った。やがて竜也が口を開く。

「……これは狙い目だな。そうだろう?」

「はい。その通りです」

 竜也が悪辣な笑みを見せ、ベラ=ラフマは口元をかすかに歪めた。

「枢機卿派と王弟派、アンリ=ボケとヴェルマンドワ伯、両者の対立を煽れるだけ煽るんだ。銀狼族に噂を流してもらおう。『枢機卿派が兵を集めてトルケマダを実力で奪還しようとしている』とか『王弟派がそれに対抗するために兵を集めている』とかはどうだ?」

「シャッル等にも『アンリ=ボケがヴェルマンドワ伯を謀殺しようとしている』等の噂を流させましょう」

「ああ。面白くなってきた」

 竜也達が発案した謀略は早速実行に移される。一方の十字軍もただ黙って謀略を仕掛けられているだけではない。

 シャバツの月・8日。ベラ=ラフマが竜也の元にある報告書を持ってきた。

「イフラテーム、トゥウィガ、カイーブ。ムゼー、モタガトレス、ザイナブ。……こっちはバール人商人か」

 そこに記されているのは陸軍各隊司令官の名前、海軍各艦隊司令官の名前、それにアニードを始めとするバール人商人の名前十数人である。

「バール人商人はタンクレードと取引をしている者達です。彼等はタンクレードの依頼を受け、陸軍海軍の司令官に内応の働きかけをしています」

 その報告を受け、竜也は少しの間考え込んだ。

「……バール人商人はどの程度本気で十字軍に味方しているんだ?」

「本気で十字軍に荷担している者は一人もいません。ただ、万一十字軍が勝利した場合に身の安全を図るために『十字軍に協力した』という事実を残そうとしているだけです」

「それなら目くじらを立てる必要はないが……じゃあ、接触を受けた司令官の方は?」

「こちらも本気で内応を考えている者は一人もいません」

 その答えに竜也は安堵のため息をつく。ベラ=ラフマが「ただ」と説明を続けた。

「火遊び程度、小遣い稼ぎ程度には十字軍と接触しようと考えている者がおりましたので、それには釘を刺しておこうと思っています」

「それだったら、俺の名前を出してこのまま十字軍と接触を取り続けるよう命令した方がいい。タンクレードには『自分の謀略が上手くいっている』と思わせて、与える情報を操作するんだ」

 竜也の指示にベラ=ラフマは「判りました」と頷く。そのベラ=ラフマに竜也が穏やかな微笑みを見せた。

「……貴方達白兎族が力になってくれて本当に助かる。これからも力を貸してほしい」

 感情の揺らぎにより一拍だけ間を置きながら、

「――勿論です」

 ベラ=ラフマはそう答えた。

 名前は有名であってもほとんど誰も見たことがなく、誰も接したことがなく、誰もその恩寵の真価を知らない。それが白兎族である。特にアヴェンクレトの恩寵の凄まじさは万人の想像を絶している。白兎族が自分達を監視していることを知るバール人商人はほとんどいないし、十字軍は白兎族の存在すら知りはしない。

 アヴェンクレトを始めとする白兎族は十字軍とタンクレードの謀略を丸裸にする一方、竜也側の謀略はほぼ隠蔽。謀略という戦いでは竜也とベラ=ラフマ達は十字軍を終始圧倒し続けた。

 シャバツの月・10日。竜也達の仕掛けた謀略が目を見張るような効果を示す。

「アンリ=ボケが?」

 総司令部にやってきたウニが竜也にある報告をする。ウニはケムト王・ケムト宰相の使者としてアンリ=ボケに接触し、ケムトと十字軍の勢力圏を確定させるための交渉を繰り返していた。もっともその交渉自体には意味は全くなく、重要なのは交渉を通じて得られる情報である。

「はい。スキラの手前でアンリ=ボケに面会した際、毒薬を所望されました。私共にもその程度の嗜みはありましたから持っているものを渡してしまいましたが……」

 ウニが少し不安げに竜也に告げるが、

「いや、構わない。良くやってくれた」

 と竜也はウニを安堵させた。

 ウニを退出させ、竜也はベラ=ラフマと謀略を練る。

「ここはどうする? 普通に考えればこの事実を大いに喧伝して王弟派の不安と敵意を煽るところだが」

「アンリ=ボケを放置しておけばヴェルマンドワ伯を始末してくれるかも知れません。敵の戦意と戦力は大いに削がれることでしょう」

 竜也は考え込むがそれほど長い時間は掛からなかった。

「……いや、今の時点でアンリ=ボケがそこまで強攻策を採るとは思えない。毒を求めたのは、いざという時のための準備なんだろう」

「ならば、煽りますか?」

「ああ。『アンリ=ボケがバール人商人から毒薬を買った』、そんな噂を流そう」




















 シャバツの月・12日。

 公邸の食堂で竜也が朝食を取っていると、

「ふぁーっ」

 と大あくびをしながらディアが食堂へとやってきた。

「あれ、ディア?」

「おお、皇帝か。おはよう」

 とディアは挨拶をしながら竜也の前の席に着く。メイド達が非難がましい眼でディアを見るがディアは欠片もそれを気にせずに、

「わたしの分のご飯はないのか?」

 竜也は少し苦笑しながら「用意してやってくれ」とメイド達に命じ、メイド達は不承不承それに従った(なお、ネフェルティ・アヴェンクレトが以前の馬鹿騒ぎを反省した結果、メイドや女官の服装は露出の少ないものへと戻っている)。

「こんな朝早くからどうしたんだ?」

「昨晩は遅くまでナハル川の北岸にいたのだぞ、わたしは。さっきこっちに帰ってきたところだ」

 ディアは非難するような目を竜也へと向けた。ディアは部下のヴォルフガング達から報告を受けるだけでなく、自らスキラに潜入して自分の目での状況の確認もしていたのだ。

「そうか、お疲れ様。それで、どうだった?」

「色々と面白い話を仕入れてきた。スキラに到着したアンリ=ボケがヴェルマンドワ伯を招いて晩餐を食べさせようとしたが、ヴェルマンドワ伯はずっと立ったままで食事には一切手を付けなかったそうだ」

 竜也は「ほう」と感心する。その噂は実は竜也とベラ=ラフマが考えてシャッル達に流させたものなのだが、それが1日足らずで下層の兵士の耳にまで届いていることになる。

 竜也は食事の手を止め、謀略の効果や次の手を考え込む。その横顔をディアがじっと見つめており、竜也はその視線に気が付いた。

「? 何かあったか?」

「わたしにも色々と考えることはある。例えば、今の自分の立場とか、な」

 竜也はディアが何か誤魔化しているように思えたが深くは追求しなかった。

「まあ、確かに曖昧で微妙かも」

「それに、万が一エレブの人間にわたしの姿を見咎められたなら、と思うと満足に町に行くことも出来ん。もっと町を、この国を見て回りたいのに」

 ディアは牙犬族の宿舎に寝泊まりしているが、日中は人目を避けて宿舎からほとんど出ず、夜にベラ=ラフマの指示を受けて活動する生活を送っていた。竜也は「うーん」と考えるが簡単には妙案は浮かばない。

「どうするのが一番良いのか俺も考えておくよ。ディアも他の人に相談したりするといい。ディアには力になってもらっているし、俺も出来るだけディアの力になるから」

「聞いたぞ皇帝」

 ディアはにやりと笑い、

「今更取り消しは効かんからな」

「あー、出来ないことはやらないぞ? 出来ないことには政治的・常識的・公序良俗的に出来ないことが含まれるから当然」

 竜也はちょっと慌てながら釘を刺す。ディアは一応「判っている」と頷いた。

 竜也は「余計なことを言ったかも」とこの時点で多少後悔するが、後日さらに大いに後悔することになる。







[19836] 第24話「水面下の戦い」その2
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/01/29 21:29



「黄金の帝国」・死闘篇
第24話「水面下の戦い」その2










 場所はサブラタの一角、場末の酒場兼安宿。時刻は深夜近い。そこで一人の男が酒をあおっていた。

「くそっ……!」

 酒を飲んでもほとんど酔えない。男の腑には酒精よりも熱いものが行き場を見失ったままわだかまっていた。

 そんな男の肩に手が掛けられる。男が濁った目を背後へと向けると、そこにはにやついた顔の複数の傭兵が立っていた。傭兵と言っても十字軍との戦いに参加せずにこんなところにいるのを見れば、この連中の水準が判ろうというものだ。端的に言えば盗賊の一歩手前の三流である。

「ようやく見つけたぞ、ギーラ。皇帝暗殺未遂の賞金首」

「何が皇帝だ! あんな小僧……!」

 ギーラはコップを床に落としながら立ち上がる。そんなギーラを傭兵達が包囲し、ギーラは抵抗空しく捕縛された。

 ギーラを引きずって傭兵達が酒場から出てくる。が、1スタディアも歩かないうちに傭兵達は謎の一団の襲撃を受けた。

「何だ貴様等は!」「てええぃぃ!」「くそっ!」

 謎の一団もまた傭兵のようで、水準はギーラを捕縛した連中と大差なさそうである。だが頭数は十数人と圧倒的だ。ギーラを捕縛した傭兵は謎の一団に蹴散らされ、ほうぼうのていで逃げていった。

 謎の一団の一人がギーラを拘束していた縄を切り、ギーラは自由を取り戻す。ギーラは胡散臭そうに自分を助けた一団を見つめた。その一団の中心から一人の男が前へと進み出る。年齢は50代、体格は小柄だ。年齢と同じくらい長い期間戦いを重ねてきたに違いないが、古兵ふるつわものと言うよりはくたびれた老兵といった雰囲気である。

「なんだ、お前は」

 ギーラの偉そうな問いに、

「キヤーナ傭兵団団長のキヤーナでさぁ。探しましたぜ、旦那」

 キヤーナは卑屈な笑みを浮かべてそう告げる。

「キヤーナ傭兵団? 知らんな」

「まあ、二流三流の弱小ですし、旦那が知らんのも当然でしょう」

「それで? 私に何の用だ、誰の依頼で俺を助けた」

 ギーラの問いに、キヤーナは声を潜めて答える。

「誰の依頼かは今は答えんでおきましょう。ですが、その方は旦那に期待しているわけです――今の皇帝の支配を覆すことを」

 ギーラは目を見開き、

「……なるほど」

 と呟いた。

「他の連中は腰抜けの玉なしどもばかりだ、あんな女みたいな小僧に言いように動かされてやがる。だが旦那は違う、あの小僧に対抗できるのは旦那しかいない。あの小僧を忌々しく思っている沢山の者がそう思っているんですぜ?」

 キヤーナの言葉にギーラは力強く頷いた。

「確かにその通りだ。あの小僧を皇帝の座から引きずり下ろすのは私しかいない」

 燻っていたギーラの野心は油を注がれ風を煽られ、巨大な炎となって燃え上がった。そんなギーラの反応にキヤーナは満足げな笑みを見せる。

「依頼人からは旦那をケムトに案内するように指示がありやした」

「ケムトに? 何故だ」

「さあ、そこまでは」

 ギーラは少しの間考えすぐに「そうか」と納得した。

「あの小僧はケムトの王女の支持を得て独裁官となり、皇帝になった。ならば私にもケムト王の支持が必要だ。ケムト連合の兵力・財力も魅力的だ、それだけあればあの小僧にだって充分勝てる」

 ギーラはキヤーナへと向き直った。

「よし、俺をケムトへと連れて行け。首尾良く俺があの小僧を追い落とし、ネゲヴを支配できたならお前を将軍にしてやる」

「へへっ、期待してますぜ」

 そう答えたキヤーナが先導して歩き出し、ギーラはその背中に付いていく。そのためその時キヤーナが浮かべていた嗤いを、ギーラは目にすることがなかった。




















 シャバツの月・12日の夕方。

 公邸へと戻り食堂にやってきた竜也は、

「おお、遅かったな。早くご飯にしよう」

 ネフェルティ達と並んで席に着いているディアの姿を見出した。アヴェンクレト達はディアのことを邪魔者・異物と見なし、メイドや女官もそれに習ってディアの前には茶や料理を用意していない。が、ディアはその仕打ちを平然と受け流していた。

 竜也がディアにも食事を出すよう指示し、メイドが食事を持ってくる。こうして若干の気まずい空気を含みながら、その日の夕食が開始された。

 そして夕食後。例によって食べ過ぎで動けなくなったディアはテーブルに突っ伏して食休み中である。竜也達はまったりと食後のお茶を楽しんでいるところだったが、

「ところで皇帝」

「ん、なんだ」

「その5人がお前の女なのか?」

 ディアの投げ込んだ爆弾が無音のまま炸裂した。何とも言い難い緊張感がその場を満たす。

「……あー、正式な皇妃は今のところネフェルティだけだけど、アヴェンクレトとサフィールもそのうち皇妃とする」

 竜也のその説明に、

「わたしもそのうち皇妃にしてもらいます」

 とアンヴェルが付け加える。

「タツヤはこれ以上皇妃を増やすつもりは全然ない」

 とアヴェンクレトが竜也の内心を代弁するが、その程度でめげるアンヴェルではない。

「サフィールさんを皇妃にする前もそんなことを言っていたと思いますが? 何度でも言いますけど、わたしは諦めませんから」

 アンヴェルはにこやかに宣戦布告し、笑顔のままアヴェンクレトやネフェルティと対峙する。竜也は途方に暮れたような顔をした。

 ふーん、とディアは感心して見せ、一人残ったミカへと視線を向けた。

「それじゃ、お前は?」

 問われたミカは心身を硬直させる。一同の視線を一身に受けたミカは意を決して立ち上がった。

「た、タツヤはわたしを皇妃とすべきです!」

 ネフェルティ達は驚きに目を丸くした。ミカはそれを無視して続ける。

「わたしが皇妃となることでタツヤは父上と確固たるつながりを持てます。それはタツヤにとっても父上にとっても大きな利益です。ならば、タツヤが私を皇妃として迎えるのは当然というものでしょう」

 ミカは一人で何か納得するように「うんうん」と頷いている。だが、

「俺はそんな理由で皇妃を娶るつもりは一切ない」

 竜也の冷たい口調にミカはたじろぐ。が、次の瞬間にはミカの内心は怒りで満たされた。

「馬鹿な! この理屈が判らないというのですか?」

「ああ、判らないね。皇妃を迎えようとそうでなかろうと、仕事が出来て信頼できる人間には要職を任せるし、そうでない人間にはそれなりの仕事しか任せない。ミカには、俺が寵妃の言いなりになって人事や政治を弄ぶ人間に見えるのか?」

「誰もそんなことは言っていない! タツヤこそ婚姻というつながりの重要性を全く理解していない! アミール=ダールの懐柔なしにどうやって軍を統制するつもりなのです!」

「そんなつながりはナンセンスだ! 俺はアミール=ダールの能力と人格を信頼して将軍を任せている。ミカがいようといまいと関係ない!」

 竜也とミカの怒りに燃える瞳が向かい合う。両者は無言のまましばらく対峙した。

「――話にならない」

 ミカは捨て台詞のようにそう言って目を逸らす。

「それはこっちの台詞だ」

 竜也もまたそう言って背を向けた。

「総司令部に戻って仕事をしてくる」

 竜也はそう言い残し、食堂から立ち去っていく。ミカは顔を背けたまま竜也が去っていく気配を感じている。その顔には今は、怒りよりも哀しみの色合いが強く表れていた。




















 シャバツの月・13日の夕方。

仕事に一区切りを付けた竜也が公邸へと戻ってくると、

「おお、遅かったな。早くご飯にしよう」

 ディアが昨日と同じように、ネフェルティ達と並んで食卓を囲んでいた。ディアは昨日以上に全員から冷たい目で見られているが、ディアは鋼鉄の無神経でそれを受け流している。

 ネフェルティ達から非難がましい目を向けられた竜也は、意を決してディアへと告げる。

「あー、ディア。ディアの宿舎はここじゃなくてジューベイさん達のところだから――」

 が、ディアは竜也の言葉を無視して荷物から何かを取り出し、一同にそれを示して見せた。

「ふふん、これが何か判るか?」

「……首輪?」

 それは鉄製の首輪だった。犬等の動物をつなぐためのものではない。人間用の、奴隷用の首輪である。首輪には十数cmの半端な長さの鉄製の鎖がぶら下がっていた。

 金属同士が連結する音がやけに大きく響いた。ディアが自分の首にその首輪を填め、誇らしげに胸を張る。

「これでわたしは皇帝の奴隷、お前の所有物だ。お前のものなのだから当然わたしもここに住む」

「いやちょっと待て」

 ネフェルティ達の視線が痛みを覚えるくらいに肌へと突き刺さってくる。焦った竜也が、

「俺はディアを奴隷扱いするつもりは」

「まあ待て皇帝。これはわたしと銀狼族の安全を確保するために必要なことなのだ」

 意表を突かれた竜也が言葉を途切れさせる。ディアが説明を続けた。

「わたしがこの町に住み、ネゲヴの人間と普通に関わっている姿を万が一エレブの人間に見られたなら、わたしは彼等にどう見られる? わたしの村の者はどうなると思う?」

「……ディアは裏切り者と見なされ、銀狼族の皆は処断されるかも知れないな」

「そういうことだ。だが」

 とディアは首輪と鎖を提示する。

「これがあれば、わたしはここで捕虜となり奴隷となっていると思われるだろう。『敵に捕まってネゲヴの皇帝の慰み者となっている哀れな娘』としか見られないのだ。これなら一族の者に危害が及ぶ心配は要らない」

 竜也はディアの説明の正しさを理解するが、それを受け入れるかどうかは別の話である。竜也は苦り切った顔をした。

「だからってディアを奴隷扱いするなんて悪趣味な真似……何か他に方法が」

「ベラ=ラフマが『これが最善だ』と考え出した案なのだぞ? 他の方法なんかないだろう」

(あの男、余計な真似を……)

 竜也とアヴェンクレトの内心がシンクロした。竜也は何とかディアを説得しようとする。

「例え形だけでもディアを奴隷扱いするなんて俺は嫌だし、ディアだって嫌だろう?」

「わたしは構わんぞ?」

 ディアが即座にそう答え、竜也は言葉に詰まった。

「それでほんの少しでも一族の者の危険を減らせるのなら、奴隷扱いされることくらい何だと言うのだ? いっそ本当に慰み者にしてくれてもいっこうに構わんのだが」

「そんなことはやらない」

 竜也は若干不快そうにし、ディアはちょっと悔しそうな顔をする。

「確かにまだ背は低いしやせっぱちだが、背はこれから伸びるし胸だってあの女くらいには育つと思うぞ?」

 とディアは視線でネフェルティを指し示した。竜也は頭痛を堪えるかのような顔をする。

「だからそんなことはやらないって」

「むしろ望むところなのだが」

「だから……」

「勿論間違いなく処女だぞ」

「その……」

「ああ、村の女達から男の喜ばせ方についてもちゃんと学んでいる。初めてだが責任を持って満足させてやる」

「……」

「それでは早速今夜からでも」

 竜也が「何の話だ?!」と大声を出し、ディアは驚きに目を丸くした。

「無論夜伽の話だが」

「だから俺はディアにそんなことをやらせるつもりはない!」

 竜也は一旦深呼吸をし、頭を冷やした。冷静になった竜也は別方向からのアプローチを試みる。

「あー、ディア。もしこの戦争がなかったとしたら、ネゲヴでもエレブでも平和な時代が続いて、ディアが徴兵されることがなかったとしたら。ディアはどんな男と結婚していた?」

 その問いにディアは遠い目をし、少しの間沈黙した。

「……そうだな。きっとわたしは領主のところに奉公に入っていただろう。奉公とは名ばかりの、領主の慰み者となるためにあちこちの村から集められた娘達と一緒に。わたしは媚態を尽くし、他の村娘を蹴落とし、あらゆる手段を使って領主の歓心を得ようとしただろう――村の皆を守るために」

 過酷なディアの環境に竜也は言葉をなくしてしまった。ディアは竜也へと笑いかける。

「生娘を食い散らすのが趣味のあの糞領主と比べれば、お前の振る舞いには大いに好感が持てる。持っている権力は比べものにもならん。戦争が始まってお前とこうして知り合えたのは、わたしにとってはまさしく僥倖だったのだ。後はわたし自身の努力でお前の情けを得て、一族の安全を図るだけだ」

 ディアの覚悟に圧倒されそうになる竜也だが、それでも一つ断らずにはいられないことがあった。

「……それは要するに、俺をディアの、寵妃の骨抜きにして銀狼族のために皇帝の権力を私物化させようってことだろう? 俺がそんなことをやるような、いい加減な人間に見えるのか? もし銀狼族がネゲヴに不利益をもたらすなら、俺はディアがいようがいまいが銀狼族を滅ぼすぞ?」

「だが、お前は絶対にそれをためらう」

 ディアの指摘に竜也は沈黙する。ディアは不敵な笑みを見せながら続けた。

「『銀狼族がネゲヴに不利益をもたらした、滅ぼさなければならない』――誰かがそんな言い出したとしても、わたしがいれば、わたしを通じて銀狼族のことを多少なりとも知っていれば、お前は絶対にそれを避けようとする。

 『何かの間違いかも知れない』『本当かどうか確認が必要だ』『滅ぼす以外の方法が何かあるはずだ』……お前は最悪の事態を避けるためにあらゆる手段を取るだろう」

ディアの指摘はまさに正鵠を射ており、竜也は反論を思い浮かばない。ディアは今度は柔らかに微笑んだ。

「せめて、ネゲヴの恩寵の部族と同じくらいには銀狼族のことを気に掛けて、親しみを持ってほしい――わたしがお前に望んでいるのはその程度のことなのだ。寵愛を得て国政を壟断するつもりなど毛頭ないから安心しろ」

「ディアとはこうして知り合いになったんだし、銀狼族の皆は良く働いてくれている。その程度は言われるまでもないことだ」

 竜也は何とか反撃の糸口を掴み、ディアに告げる。

「だからディアに夜伽をさせたりはしないし、皇妃だってこれ以上増やすつもりはない」

「今の時点では、だろう?」

 ディアは胸を張って堂々と竜也へと宣言した。

「覚えておけ。狼は狙った獲物は逃さないのだ」

 ……このような経緯を経て、ディアはなし崩し的に公邸に居候し続けることなる。

「今のわたしは皇帝の奴隷だ、物置の片隅で構わんぞ」

 と言っていたディアだがそんな扱いは竜也が認めず、小さいながらも船の一室がディアへと割り当てられた。




















 シャバツの月・14日。

 竜也はいつものように総司令部の執務室で書類仕事をしているところである。そこにミカが報告書を持ってやってきた。

「タツヤ、弾薬等の補給計画書です。確認をお願いします」

「判った」

 竜也はその書類に目を通し、いくつかの点をミカに確認する。

「……やっぱり軽油の供給が足りないか」

「はい。あの火炎放射器は確かに効果的な武器ですが、必要量に対して供給量が少なすぎます」

 原油の精製は質・量ともに家内制手工業に毛が生えた程度の水準で行われている。量産するにはそれだけの人員と時間と予算が必要だ。効果は大きいとしても、労力に見合っているかどうかはミカには疑問だった。

「ですので精製せずに原油を兵器として使用することを考えています」

「判った。その方針で頼む」

 竜也が書類に認可のサインをし、ミカは書類を持って元の部署に戻ろうとした。

「ミカ、ちょっと待ってくれ」

 ミカが立ち止まって振り返ると、執務机を離れた竜也がミカへと近付いてくるところだった。ミカの鼓動が早まるが平静を装う。

「何か」

 竜也は考えを整理しながらゆっくりと思いを言葉にした。

「……昨日のディアの話、色々と考えさせられたんだが。ミカが皇妃になるって言い出したのも、要するにディアと同じような思いがあってのことなんだろう?」

「……わたしは彼女ほど過酷な状況にはありませんし、背負っているものも大したものではないでしょう。ですが彼女の思いには共感できます」

「うん。俺も共感は難しいけど、理屈としては理解できるし思いを至らせることもできる。ミカが言いたかったことも判ったような気がする」

 竜也の真摯な瞳がミカの心臓を射貫く。ミカの頬が熱を持ち、ミカの潤んだ瞳が竜也を見つめた。ミカの可憐な唇が口づけを待つように震えて――

「でも、それとこれとは別問題だ。俺はミカ達を皇妃にするつもりはないから」

 思わずミカは竜也の顔面へと頭突きを食らわせる。竜也は鼻血を出してぶっ倒れ、公務はしばし中断した。

 それからしばらくして。竜也が何とか鼻血を止めて、執務机について休んでいると。

「皇帝、緊急の連絡です」

 とベラ=ラフマが執務室に飛び込んできた。

「どうした?」

 室内の微妙な空気に怪訝な顔をするベラ=ラフマだが、それも一瞬だけである。

「トルケマダの処刑が決定されました。今頃は執行されているかも知れません」

 ……ベラ=ラフマが配下を総動員し情報を収集、トルケマダ処刑の詳
細が判明したのは翌日である。

「要するに、十字軍の内部対立を回避するためにアンリ=ボケがヴェルマンドワ伯に一歩譲ったようです」

 トルケマダの三度目の渡河作戦に強引に動員され、壊滅的に損耗した部隊には、王弟派も多く含まれていた。トルケマダの失敗はあまりに大きすぎ、アンリ=ボケとしてもこれ以上トルケマダを擁護したところで得られる利益は何もない。枢機卿派という本体を守るため、トルケマダはトカゲの尻尾として切り捨てられたのだ。

「アンリ=ボケはトルケマダ処刑の見返りに、次の渡河作戦では自分が全軍の指揮を執ることをヴェルマンドワ伯に認めさせたそうです」

 ベラ=ラフマの報告に竜也は「そうか」と考え込む。

「……亀裂は入ったままだけどくさびがなくなってしまった、というところか。今の手札じゃ枢機卿派と王弟派の対立をこれ以上は煽れない」

「はい。ですが、火種はまた出てくるに違いありません。大切なのはそれを逃さないようにすることです」

「それは勿論だが、次は十字軍の全力を挙げた、本格的な戦いになる。敵の総攻撃がいつ始まるか、どういう戦法を採るのか、その点の情報収集に力を入れてくれ」

 そしてシャバツの月・20日。十字軍のほぼ全軍がスキラに到着し、アンリ=ボケ指揮によるナハル川渡河作戦が決行される。本当の死闘はこれからだった。







[19836] 第25話「シャバツの月の戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/02/05 21:39




「黄金の帝国」・死闘篇
第25話「シャバツの月の戦い」










 シャバツの月・20日。

 この日のアンリ=ボケ指揮による渡河作戦とその迎撃戦は、後日「シャバツの月の戦い」と呼ばれるようになる。

 アンリ=ボケが採った戦法はトルケマダのそれとほとんど変化がない。スキラ近隣から丸太を集め、いかだや船にせずに兵士には丸太に捕まって泳いで渡河をさせる。泳ぐ邪魔になるので、ほとんどの兵士は革製の鎧すら身にせずに半裸である。盾すら手にしていない兵が大半だ。ごく一部に鎖帷子を着込んで泳いでいる騎士がいたが、そのうちの半分は渡河最中に溺れ、残り半分はナハル川南岸にたどり着いたところで力尽きていた。

「なんて数だ……!」

 水軍司令官のケルシュは眼前の光景に戦慄する。ナハル川の水面はエレブ兵で埋め尽くされんばかりだった。いつものようにエレブ兵に接近し、矢をかけて射殺していく。的はそこら中にあり、狙わなくても当たるくらいだ。だが、敵の数が全く減らない。いや、おそらく減ってはいるのだろうが、それを全く実感できなかった。

 敵の群れに接近しすぎため、敵兵が船に乗り込もうと集まってくる。乗員は得物を弓から剣や斧に持ち替えた。

「くそっ!」

 櫂で殴られた兵が頭部から出血して川に流されていく。櫂をすり抜けて敵兵が船に取り付くが、振り下ろされた斧が敵の手首を断つ。敵兵は船の手すりに手首を残したまま下流へと流れていった。

「ここを突っきるぞ!」

 ケルシュは敵兵の群れを強行突破し、その後は敵の密度の薄い場所を選んで船を進めた。以前とはまるで逆である。不用意に敵兵の群れに突っ込んだ僚船は、群がった敵兵を排除しきれずついには船を乗っ取られてしまっていた。

「ちっ……」

 ケルシュは思わず舌打ちする。

「頭、矢の数が……」

 部下の報告にケルシュはさらに舌打ちした。矢の減り方が予想を超えて早すぎる。

「速度を上げろ、海まで出るぞ!」

 ケルシュは櫂を全力で漕がせ、敵兵の群れを掻き分け突き抜けて突き進む。部下の船がそれに続くが、海に出た時にはケルシュの艦隊はその1割が失われていた。




















 アルバアはナハル川方面軍第七隊司令官で、アミール=ダールの三男である。年齢は20代半ば。竜也より頭一つ分背が高く、戦士として理想的な体格を有している。戦うために生まれてきたような男であり、戦うために生きている男だ。父親からはいつも思慮不足を叱責されているが「それは兄貴達の役目だ」と開き直っている。最前線で兵と並んで戦う時に一番力を発揮する種類の武将である。

「ケルシュ達は敵に大した痛手を与えられなかったようだな。まあこの状態なら仕方ないか」

 今回の渡河作戦に動員されたエレブ兵の総数は、どんなに少なくとも20万以上。おそらくは25万に届くと推定されている。本当なら70万全軍で渡河を決行するべきところだが、丸太を集めるためのこれ以上の時間と手間を惜しんだのだろう。サドマやバラク達騎兵隊があらゆる手段を使って散々邪魔をした成果である。

 敵兵のほとんどが無傷でナハル川南岸へとたどり着いたようだった。25万のうち1万が川底に沈んでいようと、見た目の光景に変化はないに違いない。南岸は押し寄せるエレブ兵一色になっていた。

 一方のネゲヴ軍も総勢10万・ほぼ全軍が動員されている。ネゲヴ兵は鎧を着込み、盾を持った完全武装である。槍を手にする者、剣を持つ者、弓や火縄銃を用意する兵、投石機や大砲、そして火炎放射器や原油の入った瓶。迎撃のための万全の体制が取られていた。

 恩寵の部族は竜也がデザインしたそれぞれの旗を掲げている。恩寵の部族だけでなく、自治都市の出身者ごとの部隊も、それぞれの町にちなんだ旗を掲げていた。様々なデザインの、色とりどりの旗が風を受けて勇壮に翻っている。

 アルバアやその兄はエジオン=ゲベル王家にちなんだ旗を用意していてそれを掲げようとしたのだが、アミール=ダールが許可しなかった。軍内でエジオン=ゲベル出身者が突出し、派閥を作っているように見られることを怖れたためである。

 代わりにアミール=ダールが用意させた旗は、中央に大きめの丸印・その周囲に少し小さい七つの丸印が配置されるというデザイン。「七人の海賊」の劇中でヌビア村の旗印として使われた旗だが、どうやら旗の図案を考えるのが面倒だったらしい。アミール=ダールは自分の直営や息子達の部隊にはその旗を掲げさせていた。ヌビア村の七輪旗を掲げている部隊は他にも多く、ざっと見て翻る旗の1/3くらいはそれである。

 アルバアの足下、垂直にそびえ立つ南岸の白い石壁にエレブ兵の群れがたどり着いている。エレブ兵は組み体操のように、土台となる数人の肩にまた数人が登っていた。彼等が石壁を乗り越えるための足場とならんというのだ。

「矢を射ろ! 石を落とせ!」

 ネゲヴ兵が上から矢や石を降らせ、足場を登っていた敵兵を潰し、足場もまた崩れ落ちた。痛みにうずくまっている敵兵に、アルバアは容赦なく矢を射掛けて殺していく。

「油をぶっかけてやれ!」

 石壁の上には原油で満たされた大きな瓶が置かれており、あらかじめ火を点けられている。二人の兵士が柄の長い柄杓を使い、火の点いた油をすくって敵兵へとぶっかけた。火の熱さなのか油自体の熱さなのか区別もつかないまま、敵兵は悲鳴を上げて転がり落ちていった。

 南岸には続々とエレブ兵が押し寄せてくる。盾を持っている兵を先頭に、百足のように連なって進軍しようとするエレブ兵。たった1枚の盾ではそれらの兵の全員は守れず、矢を射掛けられて次々と倒れていく。

「!」

 アルバアの足下の石壁に矢が当たり、跳ねた。アルバアが驚きにわずかに目を見開く。見ると、敵兵の一部が弓を用意しており、川面に浮かんでいる・味方に刺さっている矢を抜いて南岸へと矢を射ていた。

「弓を持っている敵を優先的に狙え!」

 運の悪いネゲヴ兵に敵の矢が刺さるが、その数はごくわずかだ。エレブ側は高低差による不利を覆せないまま、弓を使うエレブ兵が次々と屠られていった。

 ……早朝から始まった戦いは昼を過ぎ、夕方近くなっても途切れることなく続いている。アルバアは食事を取る暇もなく督戦に走り回り、自ら弓を取って敵を殺し続けていた。

 矢を弓に番えるアルバアに、副官が耳打ちする。

「司令官、矢の数が……」

「ちっ、もうそんなに減っているのか……ミカの奴、いい加減な計画を」

 アルバアはミカに八つ当たりをした。ミカが立てた補給計画はアミール=ダールにも事前に報告されていたし、アルバアも目を通していた。そこで誰も文句を言わなかったのだから、ミカの計画に不備があったわけではない。矢の消費が万人の予想を超えて早かっただけである。

「仕方がない、弓兵の半分を槍に切り替えさせろ。敵を引きつけて殺すぞ」

 矢による攻撃が弱まり、敵兵は一層南岸へと押し寄せてきた。殺到と言ってもいい。石壁のすぐ下は敵兵が集まりすぎて身動きもままならないくらいである。亡者の群れのようなエレブ兵は、味方を足場にし、踏みつけ、乗り越え、石壁を登ろうとする。本人の意志とは全く無関係に、ただ適当な場所にいたという理由だけで足場にさせられたエレブ兵は、味方に踏みつけられ、踏み躙られ、圧死し窒息死した。文字通りに味方の屍を乗り越え、エレブ兵がようやく南岸へと降り立つ。

「はい、ご苦労さん!」

 そして即座にアルバアにより斬り殺された。アルバアは率先して前に立ち、石壁を越えてくる敵兵を次々と殺していく。アルバアの勇姿に味方も発奮し、剣を振るい槍を手にし、エレブ兵を死体へと変えていく。突き落とされるエレブ兵の死体が石壁を登っているエレブ兵を巻き込んで転がり落ちた。さらにその頭には油が振りかけられ、火が掛けられる。エレブ兵は川に飛び込んで火を消し止めた。

「思い知ったかエレブの蛮族ども! これが皇帝の、黒竜の息吹だ!」

 槍を手にしたアルバアが石壁の上に仁王立ちになり、その横には火炎放射器が控えている。エレブ兵はひるみ、逃げ腰になっている。エレブ兵とアルバアがにらみ合い、膠着状態となった。

「……とは言うものの、脅しくらいにしか使えないんだがな。これ」

 火炎放射器の中の燃料は残り少なく、この先供給される保証もない。燃料を使い切ってしまえばただのがらくたである。

「――貴様達、何をやっている! 枢機卿のお言葉を忘れたのか!」

 後方からエレブ人が前へと進んできて、周囲の兵士を叱責する。他の兵と同じく半裸だが、手にしている剣は上物だ。多分騎士階級に属しているのだろう。アルバアは督戦するその騎士を矢で射殺した。

「うわぁ!」

 エレブ兵は悲鳴を上げ、算を乱して逃げていく。アルバアが担当する部署だけ敵兵の姿がなくなり、奇妙な空白が生まれた。

 あるいはそれが契機となったのかも知れない。戦線の全域で敵の攻撃が弱まった。早朝から丸1日戦い続け、ネゲヴ側の防御はいっこうに崩せず、自軍ばかりが一方的に殺されていく。エレブ兵も限界を迎えていたのだろう。攻撃はどんどん弱まり散発的になり、日が暮れる頃には完全に終息。生き残ったエレブ兵の大半は北岸を目指して逃げていったが、逃げ出す気力も残っていない一部の兵が南岸に留まり、ネゲヴ軍の捕虜となった。




















 戦闘中には全く出番のない竜也だが、戦闘終結後にはやるべき仕事が貨車でやってくる。

「うわっ、これ全部捕虜なのか」

 今回の戦闘で獲得された捕虜の数は1万5千に達していた。既に武装解除をしているが、それでも暴発防止のために数万の兵が見張りに立っている。激闘の後も休むことが出来ないまま見張りに動員され、兵はうんざりした顔を見せていた。

「皇帝、この連中はどうしたら」


 と司令官達は途方に暮れた様子である。竜也は急いで指示を出した。

「捕虜を一箇所に固めておくな、まず20か30のグループに分けろ。その上で1グループずつ港に向かわせろ。港で捕虜の振り分けをする」

 竜也の指示を受けて各部隊が動き出す。竜也は振り分けの準備のために港へと先行した。

 ……それからしばらく後。エレブ兵の捕虜が1グループずつ港へと向かって歩いている。港では槍を持った兵が道を作るように等間隔に並び、同じように無数の篝火が等間隔に立ち並んでいる。そのような兵と篝火により作られた幅5m程の道が何本か用意され、エレブ兵捕虜がその中をぞろぞろと歩いていた。

 その道の外側からは、

「皇帝は慈悲を持って貴様等を捕虜とする! 大人しくしていれば危害は加えない!」

「貴様等には鉱山や山林開拓の労働をさせる! 反抗や反乱を起こさないなら、充分な食料と休養を約束する!」

 と兵が大声で呼びかけ続けている。他にも、

「ネゲヴの民間人を殺した者はいないか?! 女を強姦した者は?!」

「裕福な貴族はいないか?! 司令官は?!」

 と呼びかける兵もあった。

 道の出口にはアヴェンクレトの姿がある。アヴェンクレトだけでなくその下の女官、総司令部で司法関係の仕事をしている者等、恩寵を持つ白兎族が総動員されていた。

 道から出てきたエレブ兵捕虜がアヴェンクレトの目の前を通り過ぎていく。10人か20人に1人くらいの割合でアヴェンクレトが、

「これ」

 と指示を出す。それに従い兵が動き、指定された捕虜を別の場所へと移動させる。他の場所でも同じ作業が延々と行われていた。

 捕虜選別の作業に立ち会いながら、竜也は各部署からの報告を受けている。

「銀狼族との接触を試みたのですが、北岸にはまだエレブ兵が溢れているようでした。今夜の接触は断念したところです」

 と報告するのはベラ=ラフマである。

「敵の被害状況は知りたいが、銀狼族を危険にさらすべきじゃない。接触は明日以降で構わない」

 頷いて立ち去るベラ=ラフマと交代にミカが現れる。

「概算ですが今日の矢の消費量と、今後の補給計画です」

 ミカから渡された書類に目を通し、タツヤが呻いた。

「……あと2回もこんな戦闘があったら矢玉が完全に底を付くじゃないか」

「はい。何とか供給量を増やさないと、このままでは行き詰まります」

 竜也は書類をにらんでしばらく呻いていたが、やがて方針を決定してミカへと告げる。

「……ジルジスさんとも相談してもう一度補給計画の練り直しを。ナーフィアさんや各商会には俺からも要請をする」

 「判りました」とミカが立ち去り、今度は別の官僚が竜也の前に立った。

「皇帝タツヤ、概算ですが今回の戦闘の被害状況報告です」

 竜也は手渡された書類に目を通して確認する。

「……戦死者は2千から3千か」

 竜也は目を瞑ってしばしの黙祷を捧げた。戦闘の規模と、敵に与えた損害の大きさを考えればごく軽微と言うべき戦死者数だ。だが少数であろうと、竜也の命令で戦った者達の死を竜也が悼むのは当然のことである。

「……戦死者名はちゃんと一覧にして残しておくように。遺族には何らかの形で必ず報いる」

 ……竜也は立ったまま報告を受け続け、書類をさばき続けた。空が白み始める頃にようやく仕事が一段落つき、捕虜の選別もほぼ同時に終わっていた。

「それで、どの連中がそうなんだ?」

「はい。あの一団は裕福な貴族、あの一団は部隊長の騎士達です。残りが西ネゲヴの民間人を殺害した者・女を強姦した者、それと反乱や脱走を考えている者達です」

 裕福な貴族・部隊長クラスの騎士は合わせて数十人である。

「この連中はとりあえず牢屋へ。貴族連中は本国から身代金を取るのに使う。交渉にはバール人商人を当たらせろ、得られた身代金は折半だ。部隊長の連中には後で尋問をする」

 残りの不穏分子に分類されるエレブ兵は千人以上に上っていた。

「この連中はシャッル達奴隷商人に買い取らせろ。一人10ドラクマで構わない」

 竜也が捕虜の処遇を決定し、兵がそれに従い動き出す。それを終え、竜也は徹夜で捕虜を選別し続けた白兎族へと向き直った。

「皆も今日はご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」

 白兎族の一同は疲れ切っていたが竜也の言葉に恐縮する。力尽きたアヴェンクレトは竜也しがみついて立ったまま眠っていた。竜也は眠るアヴェンクレトを抱え、騎馬で総司令部へと戻っていった。




















 シャバツの月・22日。

「エレブ兵の捕虜をナーフィアさん達の鉱山に送って、代わりに西ネゲヴの出身者には矢玉の作成に当たってもらおう。必要なのは質より量だ、分業と部品の共通化で矢を量産できる体制を整えてくれ」

 竜也の指示にミカや官僚達が動き出す。竜也がその他の戦闘後の処理を続けていると、そこにガイル=ラベクが姿を現した。

「よお、タツヤ」

「船長。何かあったんですか?」

「ああ、ちょっと面白いものを手に入れた」

 竜也はガイル=ラベクを執務室に招き入れた。執務室で竜也・ガイル=ラベク、それにベラ=ラフマが顔を揃える。

「スファチェの沖で俺の部下がエレブの軍船を拿捕した。その船はフランク王国に属していて、本国とヴェルマンドワ伯との連絡役だったようだ」

 ガイル=ラベクは懐から書状を取り出し、竜也はそれを受け取った。書状には焦げ跡が残り、文面は途中で途切れている。

「これは?」

「ヴェルマンドワ伯が本国に宛てて書いたと見られる手紙だ」

 竜也は息を呑み、机の上にその書状を広げる。横からベラ=ラフマが覗き込んできた。敵の目に触れさせないために船長が燃やそうとして失敗し、燃え残った手紙の一部とのことである。

「フランク国王に宛てた手紙ですか。確かに、まず間違いなくヴェルマンドワ伯の手によるものでしょう」

「……『ネゲヴの皇帝を目前にして、我々はこの川に行く手を阻まれている』『この川を渡ろうとして果たせず、我々は既に9万以上の兵を喪っている』――9万? 本当か?」

「あの戦況を見ればそのくらい減っていても不自然ではありません。おそらくこの9万には『ティベツの月の戦い』でトルケマダが損なった兵、今回捕虜となり南岸には戻らなかった兵等、全てが含まれているのでしょう」

 おおざっぱに言って、戦闘に参加した兵のうち1/4が戦死した、または捕虜になった計算になる。陸地の戦闘であればここまで戦死率は高くないだろうが、主戦場はナハル川の岸辺で、川の水を浴びながらの戦いである。通常なら単なる負傷で済む傷も感染症に罹患する確率はずっと高いし、冷たい水温に体力も奪われる。負傷した者が自陣に(2kmもの距離を)泳いで戻るのも困難だ。これらの理由が高い戦死率をもたらしていると推定された。

「……『我々に必要なのは川を渡るための軍船だ。どうか教皇の慈悲にすがり、我々に軍船の援軍を』――援軍?」

 竜也は慄然とした顔をガイル=ラベク達へと向ける。

「エレブの海軍による援軍があり得ると思うか?」

「何、ちょっとやそっとの援軍なら俺達が叩き潰してやるさ」

 と胸を張るガイル=ラベク。

「エレブの現状を聞く限りでは援軍を送る余裕などありはしないと思うのですが、念のために援軍の要請は全て遮断すべきでしょう」

 ベラ=ラフマの言葉に竜也は「確かに」と頷く。が、ガイル=ラベクは今度は渋い顔となった。

「勿論努力はするが、完全に遮断できるとは考えないでくれ。今回敵の船を拿捕できたのも運が良かったからだ」

ガイル=ラベク旗下のネゲヴ海軍は全部で百隻程度。その程度の数で、レーダーもなく目視だけで、長大な西ネゲヴの海岸線全ての完全な海上封鎖など、最初から出来るわけがない。

「判っていますが、出来るだけお願いします」

 と竜也が頭を下げる。ガイル=ラベクは「判った」と頷いた。








[19836] 第26話「ザウガ島の戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/02/12 21:41




「黄金の帝国」・死闘篇
第26話「ザウガ島の戦い」










 シャバツの月・26日。

 西ネゲヴ・イコシウムの長老がバール人商人に同行しセフィネ=クロイを訪れた。竜也はその長老と面会する。

「難民達が?」

「はい。アドラル山脈や大樹海アーシラトへと逃げていた我が町の民はイコシウムへと戻り、復興を始めています」

 バール人商人に確認すると、イコシウムだけでなく他の町でも同様に復興が始まっているそうである。

「たくましいのは結構だが……」

 と竜也は当惑する。

「まだ戦争の真っ最中だし、十字軍は60万以上残っているんだぞ?」

 とは言うものの、その60万余のほとんどはスキラに集中しており西ネゲヴは空である。進軍途中で脱落して盗賊となったエレブ兵が万単位で西ネゲヴに留まっているが、各自治都市の自警団や以前バラク達が結成した遊撃部隊が掃討を進めていた。

「皇帝が約束したお言葉『百万の十字軍を皆殺しにする』、我等はそれを信じております。それに、もし敵が引き返してきたとしても今度は戦います。もう二度と逃げません」

 そう息巻く長老の言葉に竜也は「そうか」と頬を引き攣らせる。長老が話を続けた。

「十字軍の略奪により我が町には何も残っていません。このままでは新年を迎えても田畑の作付けも出来ず、多くの民が飢え死にすることになります」

「判った。総司令部から、この町からの何らかの支援を約束する」

 竜也の約束を得、その長老は安堵の様子を見せた。

 その長老との会見を終え、竜也はジルジス等官僚に指示を出す。

「西ネゲヴ各町への支援計画を立案しろ。穀物が足りないことはないはずだ」

 セフィネ=クロイ南の町外れに並ぶ倉庫には、竜也が集めさせた膨大な量の穀物が貯蔵されている。このような事態を見越し、遠くはケムトやアシューから買い集められた穀物である。

「問題はそれよりも」

 と執務室に戻った竜也はベラ=ラフマと向かい合う。

「西ネゲヴの街道や町に人間が戻っていては、西ネゲヴを通して十字軍をエレブに帰すわけにはいかなくなった」

「最初から一人として帰すつもりはないのでは?」

 とベラ=ラフマが確認する。

「確かにそのつもりだが、事態がどう動くか判らない。例えばアンリ=ボケを排除してヴェルマンドワ伯と講和して、連中が大人しくエレブまで帰ってくれるなら、それだって選択肢の一つだったんだ」

 だがそれは最早過去形だ。今もしそんな講和をすれば、帰国途上の十字軍に西ネゲヴの民がもう一度蹂躙されることになる。

「――いや、カルトハダから船を使ってトリナクリア島に送り返す手もなくはないかも。でもそれだけの船が」

 なおトリナクリア島は元の世界のシチリア島に相当する。ぶつぶつと一人検討する竜也にベラ=ラフマが、

「講和については向こうから申し出てきた時に考えれば良いのでは? 今は予定を完遂して一人も生かして帰さないことに専念すべきでしょう。敵は予定通り順調に数を減らしています」

 その言葉に竜也は「まあ、確かに」と頷いた。が、その見通しは大甘だったことを思い知らされる。




















 月は変わってアダルの月・3日。

 十字軍による渡河作戦が間もなく始まろうとしている――銀狼族を始めとするベラ=ラフマの情報網は数日前からそれを伝えていた。

「今度の作戦ではアンリ・ボケは引っ込んでヴェルマンドワ伯が全軍の指揮を執るらしい」

 情報を仕入れてきたディアはそんなことを言っており、竜也はアミール=ダールにもマクドにも充分警戒するよう命じていた。

 そしてその日。

「……攻めてこないな」

「……どうなっているんだろう」

 敵の渡河作戦が開始されたことは水軍の伝令が知らせてきたが、南岸には敵は一人としてやってこなかった。櫓の上で、石壁の上で、敵を待ち受ける南岸の兵士は姿を見せない敵に苛立ちを示している。

「おい、あれ。ザウグ島じゃないのか?」

 何百人もの兵士が同時にそれに気が付いた。ナハル川に浮かぶ二つの小島のうち、北岸に近い方のザウグ島。そこから煙が立ち上っている。

 それと同時刻、水軍の伝令が「敵が攻撃をザウグ島に集中させている」と知らせてきた。そして半日後にはザウグ島が陥落した事実が知らされた。南岸に集まった十万の将兵は敵に一矢として放つことなく、ザウグ島が陥落するのをただ見守っただけ――それがその日の戦いの全てだった。

 その日の夕刻、野戦本部。ザウグ島の要塞には千人の兵が詰めていたが、そこから脱出し生きて南岸にたどり着いたのは10人に満たなかった。そのうちの一人が報告のために野戦本部にやってきている。竜也とアミール=ダール、そして各部隊の司令官を前に、その兵は傷ついた身体を平伏させていた。鎧は未だ川の水に湿り、頭や腕に血の滲んだ包帯を巻いている。

「楽にしてくれ。何があったかを話してほしい」

 アミール=ダールの言葉を受け、その兵はザウグ島の戦いについて語り出した。

「……これまでの戦いでは、敵のほとんどはザウグ島を素通りしていました。我々は島の近くを通る敵に矢を放って一方的に殺すだけで、ザウグ島にわざわざ上陸しようとする敵はいなかったのです。ですが今回、敵はザウグ島に押し寄せてきました。矢を使って殺しても殺しても殺してもきりがなく敵がやってきて、ついには矢玉が底を付いて敵の上陸を許してしまいます。

 ザウグ島の陥落が免れないと判断した司令官のジャッバール殿が油を使って島中に火を放ち、兵は各自で脱出させたのです。ですが島全体が何重にも敵に包囲されていました。味方がどんどん敵に殺されていって……私がどうやってあの囲みを突破したのか正直良く覚えておりません」

 アミール=ダールが「ご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」といたわり、その兵は衛生兵に抱えられるようにして野戦本部を退出する。それを見送っていた司令官達は、やがて沈鬱な顔を見合わせた。

「……あるいはこういう手で来るかも、とは思っていたが」

「実際にやられると、痛いな」

「ザウグ島にもっと兵を配置すべきだったのか……」

「いや、あの小さい島にこれ以上の兵は置けはしない」

「それに千を二千に増やしたところで、幾万の敵には対抗できんだろう」

「ならば、残ったザウガ島はどうするのだ。敵が同じ手を使えばあの島だって陥落は免れん」

「ザウグ島はジャッバール殿ですら守り切れなかったのだ。ムァッキール殿でザウガ島を守れるとはとても思えん」

「いっそ、ザウガ島から将兵を撤退させれば」

 沈黙を守っていたアミール=ダールへと一同の視線が集中する。一同が期待で静まり返る中、アミール=ダールが重々しく口を開いた。

「……ザウガ島からは撤退しない。あの島を守り抜くのだ」

「将軍、理由を訊いてもいいか?」

 竜也に質問され、アミール=ダールが説明する。

「我々にとっての勝利は敵が飢えで身動きできなくなることです。既に敵の全軍・60万の兵がスキラに集中しており、そしてスキラにはどこからも食糧が入ってきません。これからは時間が我々の味方なのです。敵に無為に1日を使わせ、1日分の食糧を費やさせること、それは大げさに言えば1万の敵兵を屠ることに匹敵する戦果です。時間を稼ぐことこそが我々の戦いなのです」

 司令官達がアミール=ダールの言葉を腑へと落とし込んでいく。勇ましく戦いを仕掛け、華々しい戦果を上げること望む者は司令官の中にも少なくない。だが彼我戦力差は彼等も嫌と言うほど理解している。積極的に支持する熱意は見られなかったが、アミール=ダールが示した基本方針に反対する者は一人もいなかった。

「……ですが、あのムァッキール殿にザウガ島を守り抜くことが出来るでしょうか?」

 とアミール=ダールの長男のアハドが疑問を呈する。何人かがそれに同調した。

「確かに。玉砕覚悟で要塞を死守するなど、並みの将では無理だぞ」

「ムァッキールでは兵が逃げ出すのを止められまい」

「しかし、それなら誰が代わりに……」

 誰かの言葉に、一同は気まずそうに目を伏せる。ムァッキールではザウガ島死守の任務に耐えられないことは目に見えている。だがその任務を引き受けたいと思う人間は当然ながら一人もいない――ように思われた。

「父上! ムァッキール殿に代わり私をザウガ島の司令官に!」

 叫ぶようにそう言いながらアミール=ダールの前に進み出たのはアルバアだった。一同が驚きに目を見張る中、

「判った、アルバア。頼む」

 アミール=ダールが即答する。アルバアは血走った目をアミール=ダールへと向け、無言で力強く頷いた。

 その光景を見守る竜也は何か言おうとして、結局何も言えなかった。アミール=ダールが自分の息子を司令官に任命していたのはこのような事態を見越してのことなのだから。アハド達の司令官としての能力を信任しているのは間違いないが、決してそれだけではない。他人には任せられない重要な任務のために、あるいは他人に押し付けるには忍びない過酷な任務のために。気心の知れた身内にしか任せられない仕事というのは確かにあるものなのだ。

「――司令官としてこの場にいるのは俺と兄貴だけ。長男の兄貴ではなく三男の俺が指名されるのは間違いないし、だったら父上から指名される前に自分から手を挙げるのが男ってもんだ」

 アルバアは自分に自分でそう言い聞かせ続けた。

 アルバアはザウガ島に連れて行く兵を新規に集めることにした。アルバアがその日のうちにミカやカミース達に依頼する。

「各部隊や補助兵から出来るだけ年嵩の兵を。それと、兵に志願していながら結局採用されなかった五十歳以上の人間を集めてくれ」

 ネゲヴの軍は「十五歳以上・五十歳以下の男」という条件で兵が集められている。アルバアは「若い奴を死なせるのは惜しいから」と出来るだけ年嵩の兵を集めようとしたのだが、

「お主がアルバア殿だな。望み通り死に損ないばかり集めてやったぞ」

 次の日、アルバアは自分の前に集まった数百人に当惑する。アルバアは「五十前後の年代の兵」を想定していたのだが、そこいたのは若くても六十手前、上は八十に届こうかという老兵ばかりだった。

 その老兵達を集めたのは金獅子族族長のインフィガル=シンバである。

「確かに明日にもお迎えが来そうな老兵ばかりだが、全員が恩寵を持つ戦士だ。心配せんでもその辺の小僧よりはよほど戦える。軍に志願したのに年齢を理由に採用されなかった連中を、こんなこともあるだろうと集めておいたのだ。心置きなく使い潰してくれればいい」

 とインフィガルは胸を張る。兵を集めるのにこれ以上時間を使うことも出来ず、アルバアはその老兵軍団を率いるしかなかった。

 そしてアダルの月・5日。アルバア率いる老兵軍団がザウガ島へと赴くために南岸に集まっている。竜也・アミール=ダール・ミカを始めとするアルバアの兄弟、アルバアの部下、サドマ等各部族の者等、大勢が見送りに来ていた。

「兄上……」

 とミカが涙し、竜也は思わずその肩を抱いていた。

「皇帝タツヤ、妹を頼む」

 とアルバアに言われ、条件反射で頷く。

 一方インフィガル=シンバは見送りに来ていたサドマに闊達に笑いながら告げる。

「族長の地位は貴様に任せる。今日からお前がサドマ=シンバで、儂はただのインフィガルだ」

「……判りました。金獅子族とネゲヴのことはお任せを」

 とサドマは唇を噛み締めた。

 数刻後、水軍の船に分乗した老兵軍団がザウガ島へと出発した。アルバアとインフィガルは一番最後の船に乗船する。最後のその船が岸辺から離れ、少しばかり川の中へと進んだところで、

「ああ、ところでアルバア殿」

「何か」

 声を掛けられて振り向こうとしたアルバアの尻を、インフィガルが蹴飛ばす。アルバアはそのまま船から転がり落ちた。

 何とか水面に顔を出したアルバアを置いて、船が先へと進んでいく。アルバアは立ち泳ぎをしながら大声を出した。

「インフィガル殿! 何を――」

「悪く思うな、アルバア殿! ここから先は三十にもならん小僧の出る幕ではないのだ!」

「ザウガ島は五十以下は立ち入り禁止だ!」

 インフィガル達の笑い声を尾に引いて船は先へと進んでいく。その場には「くそっ!」と悔しがるアルバアが残された。見えなくなるまで水の中から船を見送り、アルバアは気まずい思いを抱えながら岸辺へと戻る。幸いミカ達兄弟や第七隊の部下達は、のこのこ戻ってきたアルバアを喜んで迎えてくれた。




















 アダルの月・8日。十字軍によるザウガ島攻略が開始された。

 先日の戦闘で大きな被害を受けたケルシュの艦隊だが、アミール=ダールの判断により優先的に人員・艦船の補充を受けている。ケルシュの艦隊の半分は最大戦速で渡河途中の十字軍に突っ込み、至近距離から矢で敵兵を殺していく。敵が目の前にいても進路を変えずに突き進み、舳先で敵を轢き殺した。

 艦隊のもう半分はザウグ島への攻撃を担当している。自分の船の前方に一回り小型の船を配置、二隻の船を長めの丸太で連結する。前方の船は無人にして、重油や軽油の入った瓶・火薬・藁・薪を満載にしていた。前後に連結された2隻1組の奇妙な船、そのような船が何組もザウグ島へと向かっている。それ等の船はそのままザウグ島に突入し、前方の船が島に上陸。それと同時に船に満載された燃料が燃え上がり、後方の船は丸太を切り離して即座に後退。後には炎に包まれるザウグ島が残された。

 ザウグ島を中継地点・休憩地点としようとする十字軍の出鼻をくじき、ネゲヴ軍は矢による攻撃を続けている。今回は海軍の軍船の何隻かが川を遡上し戦闘に加わっていた。

「もっと島に近づけろ! 心配するな、あんな裸同然の連中にこの船は堕とせん!」

 第一艦隊司令官のフィシィーが部下に命ずる。海軍の軍船はケルシュの艦隊のように小回りは利かないが、防御の面でははるかに勝っていた。フィシィーの船が川に浮かぶ十字軍の兵を蹴散らしながら、下流側からザウグ島へと接近。炎に追われて島の端に逃げてきている敵兵めがけ、矢で攻撃を開始した。密集している敵に矢は次々と突き刺さり、敵はばたばたと倒れていく。だがエレブ兵は燃え残った木材を組み、防壁を作って矢を防いでいた。

「あいつ等、なんて真似を……!」

 フィシィーはその光景に慄然とした。数少ない木材を単に組んだだけでは防壁にも何にもならない。エレブ兵は味方の死体を木材に立てかけ、縄で結び付けて防壁にし出したのだ。中にはまだ生きているのに、矢が刺さっているからと肉の壁にされている兵の姿もあった。

 泣きわめく味方を盾にして矢を防ぎ、突入船の燃料が燃え尽きて火が消し止められる。十字軍はザウガ島への攻撃に本腰を入れた。

「――来たか」

 インフィガルはザウガ島の砦から川面を見下ろしている。島の周囲は敵兵により埋め尽くされようとしていた。それを迎え撃つのは、元からいた守備兵と補充の老兵軍団、合わせて千名である。

「なかなか大したもんじゃのう!」

「孫に土産を頼まれとるんじゃが、何がいいかのう」

「ここにはエレブ兵の首くらいしかあるまい」

「あんなもん、誰も喜ばんじゃろう!」

 老兵達は軽口を叩きながら弩を使って敵を2~3人まとめて射貫き、矢を使って敵兵を屠った。だが敵兵の数は圧倒的だ、到底全員は殺せない。エレブ兵は木製の壁に取り付き、這い上ろうとしていた。

「臭い、臭いのうお前さん等。これで身体を洗わんかい!」

 老兵が煮えたぎった熱湯を敵兵に浴びせ、敵兵は悲鳴を上げながら転がり落ちた。

 さらには、

「まだまだ若い者には負けんぞい!」

 インフィガル等金獅子族が衝撃波の、赤虎族が雷撃の恩寵を使って接近したエレブ兵を打ち倒す。エレブ兵がこれまでとは違う種類の恐怖の表情を見せた。

「あ、悪魔め! 貴様等のような魔物は生かしてはおけん!」

「神に逆らう魔物め、呪われるがいい!」

 その罵声を浴びた赤虎族の老兵が前に進み、一際巨大な雷撃を放つ。その一撃でエレブ兵の数人が焦げて死んだ。その老兵が静かにエレブ兵に告げる。

「――これは我等が部族神・赤虎の神の恩寵じゃ。お前さん等の信じる十字教の神はどんな恩寵を授けてくださる? 一つ儂にそれを見せてくれんか?」

 エレブ兵は息を呑み、歯を軋ませた。そして、

「殺せ!」

 と攻撃を再開する。力を使い果たしたその老兵は、

「なんじゃい、何の恩寵もなしかい?」

 とさっさと後退する。

「恩寵の一つも授けられんとは、大したことはないのう! 十字教の神も!」

「きっと阿呆を騙すのが十字教の司祭が持つ恩寵なんじゃよ!」

「おお、なるほど! そうに違いない!」

 老兵の嘲笑を浴び、激怒したエレブ兵が見境なく壁を登ろうとする。そして矢で射られて川に転がり落ちた。

 ……朝から始まった戦いは夕方近くになってもまだ続いている。

 エレブ兵は味方の死体を盾にして砦の側まで接近、そこで死体を捨てて一気に壁を登って乗り越える。その途中で槍で突き殺される者が大半だったが、一部はそのまま砦内部への突入に成功していた。

「ご苦労なことじゃったな!」

 そして牙犬族の老剣士が敵兵を斬り伏せる。倒した敵兵と、殺された味方の老兵。敵味方の死体で狭い砦の中は足の踏み場もないような状態となっていた。

 また一人のエレブ壁が砦を乗り越えて砦内部に侵入、疲れが溜まっていたのか、血で滑ったのか、足をもつれさせた老剣士が敵兵の槍を腹に受けて絶命する。その敵兵は背後から別の老兵に斬られて血に沈んだ。

「そろそろこの宴会も終わりかのう?」

「まー、いい加減飲み飽いた頃じゃな!」

 と老兵等が軽口を叩き合う。砦内部に侵入する敵兵が増えており、既に味方の半分は戦死しているようだった。

「まだ矢が沢山残っておるわ! これがなくならん内には宴会は終わらんぞ!」

 とインフィガルが一同を叱責する。一同は最後の力を使って発奮した。

「よし! ならばとっとと使い切ってしまおうかい!」

「そうじゃの! そうすべきじゃ!」

 老兵達は矢を弓に番え、次々と撃ち放つ。残った力を振り絞った総攻撃である。一方十字軍側も日没間近なので最後の総攻撃を掛けようとしていたのだが、その出鼻をしたたかに叩かれてしまった。

「これだけ戦い続けて、まだあれだけの力が……!」

 十字軍側にも既に限界が来ていたのだ。急速に士気の下がったエレブ兵は戦闘を忌避し、攻撃は弱まってしまう。

「? どうしたんじゃい?」

 インフィガル達が戸惑っているうちに攻撃は次第に散発的になり、ついには日が暮れて停止した。エレブ兵がザウグ島へと、北岸へと泳いで引き上げていく。

「……勝ったのかの?」

「……どうやらそうみたいじゃな」

 勝ち鬨を上げる力も残っておらず、全員がその場にへたり込む。砦の内部は敵味方の死体で溢れ返っており、味方の半分以上が死者の列に加わっていた。







[19836] 第27話「トズルの戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/02/19 21:28




「黄金の帝国」・死闘篇
第27話「トズルの戦い」










 暦は少し遡り、アダルの月の4日。絶対防衛線で十字軍の総攻撃によりザウグ島が陥落した頃のこと。その日、トズルもまた十字軍の攻撃に曝されようとしていた。

「――来たか」

 マグドはトズル砦から山の裾野を見下ろす。蟻の群れのように大地を埋め尽くし、蠢いているのは数万の十字軍である。エレブ兵は最初の関門を打ち破るべく突撃し、奴隷軍団は矢や火縄銃で懸命に防戦している。

 櫓の上から矢を放ち、銃撃を繰り返すネゲヴ兵。加熱され、火を点けられた原油を柄杓を使ってぶっ掛け、エレブ兵を怯ませる。エレブ兵は前回の戦いの時と比較すれば士気が低いように思われた。大して防御力が高いわけでもない第一の関門に手こずっている。

 だが十字軍は士気の低さを圧倒的な数で補った。予定よりは時間を稼げたものの、ネゲヴ側は関門を維持できなくなってしまう。

「第一の関門から兵を撤収させろ。第二の関門で迎撃する」

 マグドの命令に従い第一の関門から兵が退去。エレブ兵が門扉を打ち破っている間に第二の関門まで撤収し、体勢を立て直した。十字軍は第一の関門を突破すると、休む間もなく第二の関門攻略に取り掛かる。

 石材と木材で築かれた山城にも等しい関門が5つ。馬防柵や土嚢、茨の木を積んだだけの簡易的な関門が10。十字軍はそれを一つ一つ正面から攻略する他なく、損傷と消耗を強いられた。日が暮れても関門は半分程度しか突破できず、十字軍は一旦山の裾野に下がって夜営せざるを得なかった。

 一方トズル砦。砦内の一角には捕虜のエレブ兵が集められている。捕虜は戦闘中に獲得した者・撤収中の十字軍を襲撃して拉致してきた者等であり、その中でも地位の高そうな者が選ばれ、マグド達の前に引きずり出されていた。

 縄で縛られ、地べたに座らされているのは十字軍の部隊長クラス、騎士階級の者である。その騎士は縛られ、鎧や顔は血や泥で汚れながらも、怯む様子を見せることなく毅然とマグド達と向かい合っていた。

「……今回トズル攻略に動員されている兵はどのくらいだ? 俺の見たところ4万はいそうだが」

 マグドの問いに、その騎士は嘲笑に口を歪めるだけでその口を開くことはない。マグドは自分の背後をわずかに振り返った。そこに立っているのは、夜でありながら顔の半分を隠すくらいにフードを深々と被った、怪しい男である。そして、そのフードの頭頂部に空いた二つの穴からはウサギの耳が突き出ていた。

「将軍、質問は『はい』か『いいえ』で答えられるものでないと」

 ハキーカというその白兎族の言葉にマグドは「思ったより不便なものなのだな」と感じながら、尋問の仕方を変える。

「兵の数は4万を越えるか?」

 その騎士は嘲笑を浮かべたままだったが、その中にわずかに怪訝な思いが覗いていた。ハキーカがマグドに何か囁き、マグドが再度問う。

「もしかしてお前も正確には知らないだけなのか。多分4万は越えているだろう? まさか5万には届くまい」

 マグドがハキーカに視線を送るとその男が頷く。騎士の表情は嘲笑よりも怪訝な思いが強くなった。

「次の質問だ」

 マグドは地面に木の枝で簡単な絵を描いた。

「これが十字軍の陣地だ。おそらくここが本陣で、兵は千くらいに分散してこんな感じで夜営をしている」

 マグドがその騎士の瞳を覗き込む。騎士の表情からは嘲笑が消えていた。理解しがたいものを見るかのようにマグドに視線を返している。

「食糧はどの辺で保管している? 俺だったらこの辺に補給部隊を配置するが……」

 マグドの持つ木の枝が陣地の絵の上でゆらゆら動き、ある一点で止まった。その騎士はかすかに冷や汗を流しながらも無表情を決め込む。だがそれは無駄な努力である。

「そうか、この辺か。それじゃ食糧は何日分だ? 少なくとも10日分はほしいところだが、そんなにはないだろう」

 マグドは根気よく質問を繰り返し、時間は掛かったがその騎士が有する情報を全て引き出すことに成功した。尋問が終わった頃にはその騎士は恐怖のあまり半分くらい錯乱状態に陥っていた。知る限り全ての十字教の聖句を唱え続けるその騎士を、兵が牢屋へと引きずっていく。哀れな騎士の姿を見送りながら、マグドがハキーカに向き直った。

「お前さんのおかげで色々と手間が省けた。礼を言おう」

「それには及びません。私は皇帝クロイの命令を果たしただけです」

 そう言いながらもハキーカはどこか誇らしげである。竜也は捕虜尋問のために白兎族をトズル砦にも派遣するようベラ=ラフマに指示。ベラ=ラフマが選んだのは、恩寵の強さでは一族の中でも上位に位置するその男だった。

「カントールに伝令だ。十字軍の陣地への夜襲を要請する」

 マグドは伝令を呼び、得られた全ての情報を持たせて出発させる。伝令は連絡船を使って十字軍を迂回し第3騎兵隊と接触した。そして明け方。夜明けと同時にマグド率いる奴隷軍団とカントールの指揮する第3騎兵隊が同時に十字軍の陣地を襲撃。マグド達が敵の注意を集めている間にカントール等騎兵が陣地内深くに侵入。敵の荷駄を破壊・放火し、風のように速やかに撤収した。

 そして翌日、アダルの月・5日。十字軍の攻撃が再開される。

「今日中にここを落とす!」

 十字軍は保有兵力を総動員して関門攻略を進めていく。元々乏しかった食糧が夜襲により7割方失われてしまい、十字軍は追い詰められていた。撤収か、それとも今日明日中にトズルを攻略するか。彼等にはその二択しか残されていない。

「あの砦には食糧が唸るほど貯蔵されている! 砦を攻略できたなら思う存分食わせてやる!」

 十字軍の司令官はこの状況自体を背水の陣とし、兵に力の全てを絞り出させようとする。兵もそれに応え、死力を尽くして戦っていた。だが関門の攻略は順調には進まない。

「敵はまるで時間を稼ごうとしているかのようだ」

 と十字軍の司令官は苛立った。そしてそれは正解である。

「無理に敵を殺さなくていい! 身を守ることを優先させろ、とにかく夜まで時間を稼げ!」

 マグドは部下のそのように命令していた。奴隷軍団の兵はそれに従い、亀のように関門に首を引っ込める。そして散発的に激しい攻撃を行い、敵の気勢をかわして時間を稼ぐことに徹し続けた。

 それでも関門は一つ、また一つと落とされていく。日が完全に沈んだ頃には、砦本体の他に残っているのは最後の関門一つだけとなった。十字軍はこのまま最後の関門攻略に取り掛かろうとする。だが、

「門が……」

「もしかして……」

 最後の関門は門扉が開け放たれたままになっていた。前回のトズル攻略に参加した兵はこの場にはほとんどいないが、それでも前回どのようにして負けたかを知らない者は一人もいない。水流の幻影を脳裏に描き、兵は足をすくませた。

「貴様等何をしている! あれが最後の関門なんだぞ!」

 司令官が兵を叱責し、ようやく兵が足を前に運び出す。が、それ以上前進は続かなかった。

「水が――!」

「水だ! 水が来た!」

 山道の上から水が流れ落ちてきたのだ。水流の量はごくわずかで、兵の足下をわずかに濡らし、山道を泥の道にしてそれで終わりである。だがエレブ兵にはそれで終わりだとは到底考えられない。

「堰だ! 奴等が堰を切ろうとしている!」

「完全に切れる前に逃げるんだ!」

「早く! 早く逃げないと!」

 最前列で発生した流言と恐慌は音速で全軍に伝播する。4万の軍団が流言で崩壊し、算を乱して逃げ出した。4万の兵が坂道を転がるように逃げていき、そのうち千を越える兵が転倒して味方に踏み潰され、原形を留めない無残な死体となった。怪我を負った者はその数倍に達する。

「逃げるな! 水など来ていない! 戦え!」

 最前列から逆に最後尾となった山道の上では司令官が懸命に兵を押し留めようとしているが、聞く耳を持つ者は少ない。ネゲヴ兵の追撃部隊が現れ、攻撃を加え出すと、その場に留まろうとしていた兵も結局逃げ出してしまった。

「……魔物どもめ!」

 その司令官は最期にそんな言葉を残し、奴隷軍団の追撃部隊の波に呑まれ、果てていった。指揮するを者がいなくなり、兵は逃げ出す一方である。山道を転がり落ちるように裾野まで逃げてきた十字軍に、カントールの第3騎兵隊が横撃を加える。十字軍は軍団としての統制も、武器も使命も誇りも何もかもを放り捨て、スキラへと逃げ出していった。

 一方トズル砦では再びの戦勝に大いに沸き上がっている。しかも今回は切り札を使わなかったのだ。

「思ったよりも上手くいったな」

「ええ。見事に騙されてくれました」

 マグド達は切り札の堰とは別に小さな貯め池を作っており、今回決壊させたのはその貯め池の方だったのだ。貯水量は小学校のプール程だが、敵を勘違いさせるくらいのことは可能だった。

「……さて。ここまでは勝つことが出来たが、次はどうなるかな」

 マグドは浮かれ騒ぐ奴隷軍団の将兵を見つめながら、冷徹に次の戦いに思いを巡らせていた。




















 アダルの月・17日。

 6日前から降り出した雨が降り続けている。堰の内側には水が限界まで貯まっており、今にも決壊しそうである。堰から溢れ出した水の他、山道にはあちこちから水が流れ込んできて既に川のようになっていた。

「関門の再建が全く進んでおりません。このまま敵を迎えるようなことがあれば……」

 副官のシャガァが申し訳なさそうに報告する。

「この雨では仕方あるまい。敵も雨が止むまでは動けんだろう」

 マグドは一部の偵察兵を除き、奴隷軍団の全ての兵をトズル砦へと撤収させていた。第3騎兵隊が敵軍の接近を伝令で知らせてきたのがその日である。

「雨のせいで思うように動けんし、連絡船も使えんが、敵が来ている以上そんなことも言っていられん。敵はおそらく5万程度、雨にも構わずトズルを目指して進んでいる。雨と、おそらく食糧不足のせいでかなりの兵が脱落している」

「いつものようには互いに連絡が取れんだろうから、騎兵隊は独自の判断で行動してくれ」

 マグドはそう言って伝令を送り返した。

「……厳しい戦いになるかも知れんな」

 そんな予感を覚えたマグドはいつになく険しい顔で、砦の上から山の裾野を、まだ見ぬ敵を見つめていた。

 そしてアダルの月の19日。その日の夕方に十字軍がトズルに到着し、そのまま攻略を開始した。

「正気か、奴等……! こんな暗闇の中で」

 雨が一際強く降り出し、山道は川と全く変わらない。幾万の兵に踏みにじられた山道は泥濘となり、エレブ兵の足を拘束した。それでもエレブ兵は亡者のような姿となって関門へと突撃する。関門の多くは再建途上であり、雨のために原油を使った火攻めも出来ず、暗闇のために弓を使っても効果が薄い。関門は長くは維持できず、次々と落とされていった。

「頭、そろそろあれを使うべきでは……」

 シャガァがそう進言し、周囲の部隊長達も期待に満ちた視線をマグドへと向ける。マグドは冷たい雨に打たれながらじっと山道を見下ろしていたが、

「……敵の数が少ないように思えるんだが、気のせいか?」

 マグドの問いに、シャガァ達は戸惑ったような表情をした。

「この雨と夜闇の中では、敵兵の数など図りようが……」

「進軍途中で脱落したのでは?」

 部下達が返した常識的な答えに、マグドはさらに問いを続けた。

「他には何か考えられないのか?」

 少し時間を置いてシャガァが、

「……敵が兵の一部を後方に隠している?」

 その回答に部隊長達が顔を見合わせた。

「何のためにそんなことを」

「それは、時間差を付けて攻撃をするために」

「そうか、堰を決壊させても兵を温存していれば攻撃をすぐに再開できる!」

「そしてこちらは切り札は残っていない」

「……だが、いくら何でもそこまでやるか? 自軍の大半を囮にするということだぞ」

 部隊長の多くは「敵が戦力を分けている」という疑いに否定的だった。だが、

「……あるいは考えすぎかも知れんが、警戒するに越したことはない。あの連中なら勝つためにどんな無茶をやろうと不思議はないからな」

 マグドの言葉に一同が黙り込んだ。一同を代表してシャガァが問う。

「……それで、頭。どうなさるおつもりで」

 マグドは全員を見回し、決然と命じた。

「堰を切って敵の主力を壊滅させる。徹底的に追撃を加えて敵兵を少しでも減らすが、追撃は山道の間だけだ。平野部に下りてしまったら残った敵から横撃を受けるかも知れん。追撃が終わったら速やかに砦まで帰投しろ、すぐに再攻撃に備えるんだ」

 そしてマグドの命令に従い堰が切られ、貯まりに貯まった水が奔流となって山道へと流れ込む。十字軍は暗闇の中数万トンの水に呑まれ、流された。水は汚物を洗い流すかのように十字軍を押し流していく。十数分後、水が流れ去った後に残っているのは、無数のエレブ兵の死体と辛うじて生き残った敗残のエレブ兵だけである。

「追撃! 十字軍を生かしておくな!」

 敵の追撃はシャガァに任せ、マグドは獲得した捕虜を砦へと集めて尋問を開始した。騎士階級の者は口が堅かったが、一般の兵は拍子抜けするくらいに簡単に知る限りのことをしゃべった。

「ヴェルマンドワ伯が……! 今回のトズル攻略の指揮はヴェルマンドワ伯が執っているというのか?」

「へ、へい。その通りでございます」

 マグドの問いに、その農民兵は卑屈な笑みを浮かべる。マグドは背後のハキーカに視線を送り、ハキーカは無言で頷いた。マグドは今回のトズル攻略軍の内情を詳しく訊ね、確認する。

 「シャバツの月の戦い」で指揮を執ったアンリ=ボケは渡河に失敗し、兵の数を大幅に減らしただけで終わった。その一方、交代で指揮を執ったヴェルマンドワ伯はザウグ島の確保に成功している。アンリ=ボケはヴェルマンドワ伯がこれ以上の戦功を挙げるのを怖れ、トズルを攻略するよう仕向けたのだ――そんな見方を多くの兵が共有していた。

 その後、マグドはそれ等の情報を元に騎士階級の部隊長を尋問する。

「……確かにそんな噂は流れていた。枢機卿がトズル攻略を王弟殿下に命じたが、殿下が本当にトズルを落としてしまったら枢機卿の面子が潰れる。だから嫌がらせで食糧の補給を絞ったのだ、と」

 マグドが十字軍の内情に詳しいことを見せつけると、その部隊長は割合簡単に口を開いた。

「元々スキラにも食糧は残り少ないが、この遠征軍はさらに少ない食糧しか持たされていない。一般の兵だけでなく我々のような指揮官も腹を減らしているような状態だ」

「食糧がなくなってしまえばスキラに撤退するしかない、その前に何としてもトズルを落とす必要があった。だからこそこんな無茶な作戦を実行したのか……自軍の2/3を囮にするとは」

 マグドの言葉にその部隊長は悄然と肩を落とした。

「確かにこれでトズルは落とせるかも知れないが……殿下は我々を一体何だと思っているのか。あの枢機卿ならともかく殿下までがこのような作戦を選ぶとは」

 信頼していたヴェルマンドワ伯に囮にされ、「尊い犠牲」扱いされたことにより、彼等の士気も抵抗心も挫けてしまったようである。兵がその捕虜を牢屋へと連れて行く。捕虜のエレブ兵も指揮官も、誰も抵抗の気配を見せなかった。

 マグドは残っている部隊長を集めて命令を下す。

「今夜切り札を使って撃退したのは敵軍の2/3、およそ3万だ。残り1万5千が明日にも攻めてくる。各自準備と警戒を怠るな」

 そしてアダルの月・20日。ヴェルマンドワ伯自身の手によるトズル攻略が開始される。

 奴隷軍団は総勢5千。動ける者は全員が戦いに参加している。一方のヴェルマンドワ伯の軍勢は1万5千。前夜戦った3万のうち損傷の少ない部隊を集めればもう1万くらいは兵を追加することが出来るだろう。だがヴェルマンドワ伯はそれを選ばなかった。彼等の疲労が激しかったため、「尊い犠牲」扱いされた彼等がヴェルマンドワ伯をどう思うか――味方としてどこまで信用できるか判らなかったため、狭い山道でこれ以上の大軍を動員しても効果が薄いため、である。

 十字軍側が決死の総攻撃を仕掛け、奴隷軍団は必死に防戦する。時折激しく降る雨が大地を泥沼のようにし、エレブ兵は全身を泥まみれにしていた。飛び交う矢が、銃弾が敵味方を撃ち抜いていく。あっと言う間に何百というエレブ兵の死体が地面を転がった。死んではいないが冷たい雨に体力を奪われ、空腹のために動けなくなる者も少なくない。一方の奴隷軍団は意気顕揚で、1日や2日はこのまま戦い続けられそうなくらいである。

「何とか守れそうだ」

 マグドが内心でそう安堵するが、それは轟音により粉々に砕かれた。

「まさか、大砲……!」

「こんな山の上まで運んできたのか……!」

 ガイル=ラベク達の海上封鎖を突破してエレブ本国からスキラまで海上輸送され、さらにスキラからこのトズルまで、そして兵に担がせ山道を登らせた、虎の子の大砲2門。これこそがヴェルマンドワ伯の切り札だった。大砲が轟火を放ち、砲弾が弧を描いて飛んで砦の門扉に突き刺さる。鉄板を貼った門扉は砕かれはしなかったものの大きく歪んだ。閂は半ばへし折れ、人一人が通れるくらいの隙間が開いている。

「これ以上撃たせるな! あれを破壊しろ!」

 ネゲヴ兵の銃撃が、矢が大砲へと集中する。鉄の固まりの大砲にそれらが当たってもどういうことはないが、その周囲の兵はばたばたと倒れた。兵が盾を用意し、銃弾と矢を跳ね返す。その間に大砲に次弾が装填された。

「こちらからも砲撃だ!」

 砦の上部に設置された大砲が火を噴くが、砲弾は全く離れた場所の敵兵をミンチにしただけで終わってしまう。

「くそっ!」

 それを見ていた鉄牛族の戦士が砦から飛び降りた。手には大砲の丸い砲弾を抱えている。

「近付けるな! 殺せ!」

 エレブ兵が火縄銃を撃ち、矢を放つ。銃で撃たれ、矢が刺さってもその戦士は突撃を止めない。そのまま砲撃寸前の大砲の真正面まで走り込み、手にしていた砲弾を砲口へと突っ込む。火薬に引火したのはその刹那の後である。砲口を塞がれ、行き場をなくした圧力が砲身を引き裂く。周囲のエレブ兵砲手のほとんどが死ぬか怪我を負った。鉄牛族の戦士は上半身を砕かれた状態で絶命している。

「くそっ! だがもう1門残っている!」

 十字軍はもう1門の砲撃準備を進める。それを見た何人もの戦士が砦を飛び出して大砲へと突撃する。だがエレブ兵の槍衾に、矢と銃弾の雨に行く手を阻まれた。戦士が次々と斃れていく。

 その間にエレブ側は砲撃、発射された砲弾は再び門扉に叩き付けられ、突き破った。門扉は大きく歪み、2人くらいなら並んで通れるくらいになっている。ネゲヴ兵が慌てて丸太を積み上げて防護を固めようとした。一方エレブ側は再砲撃の準備を進めている。何人もの恩寵の戦士がそれを止めるべく突進するが、一人また一人と倒れ伏した。

 唯一生き残ったのは、敵兵の盾を拾い上げた金獅子族の戦士である。だが味方が全滅し、敵の攻撃が金獅子族一人に集中する。大砲を目前にし、その戦士もまた倒れた。

「ようやく死んだか、この魔物め!」

 全身に矢が刺さり、弾丸が突き抜けている。流れる血が泥と混じって黒色となった。だがその戦士の生命はまだ絶えていなかった。わずかに顔を上げ、砲撃寸前の大砲を見つめる。

「くらえ……!」

 残った生命の全てをその一撃に込める。放たれた衝撃波の恩寵が砲身を上から打ち据え、砲口が地面に突っ込む。火薬に点火したのはそれと同時である。砲弾の代わりに大砲本体がわずかに宙に浮き、砲身は二つに裂けて最早使い物にはならなくなった。

 一方砦のマグドには、大砲を潰した安堵や勇敢な戦士を喪った感傷に浸る余裕などない。エレブ兵が門扉の隙間から砦内に侵入する。さらには隙間を拡大させ、門扉を開け放とうとしていた。

「入り込んだ奴等を生かしておくな! 門の前の敵兵を排除しろ!」

 マグド自身が槍を手にし、侵入しようとする敵を刺殺する。入り込んだ敵兵の数はまだ少なく、次々と血祭りに上げられていく。だがこの先どうなるか判らない。

 砦上部に設置された大砲が着弾点を門前へと集中させる。エレブ兵は効率良く次々と身体を砕かれていった。敵兵が怯んでいる間に門扉の内側に馬防柵を集め、さらには火炎放射器が用意された。トズル砦に1台だけ回された、ガリーブ謹製の火炎放射器である。

 門扉の隙間にエレブ兵が殺到する。ネゲヴ兵は容赦なく火炎を浴びせ、何人ものエレブ兵をまとめて焼いた。エレブ兵が悲鳴を上げて転げ回る。敵兵が突撃してくる度にそんなことが繰り返された。

 ……朝から始まった戦いは日が暮れても続いた。真夜中を過ぎてもまだ続き、明け方近くになっても続いている。ヴェルマンドワ伯は1万5千の兵を4班に分け、休息と攻撃を交互に繰り返した。一方のマグド達は5千の兵が一人残らずほとんど休む間もなく戦い続けている。死者負傷者が続出し、5千の兵は4千に減り、やがて3千を下回った。

 戦闘が開始されてほぼ24時間が経過し、アダルの月・21日の明け方。ようやく十字軍が撤収する。いくら交代で休めると言っても、雨の中・泥濘となり泥の川となった山道の上で、である。その上彼等は満足な量の食事を摂ることも出来ない。疲労の蓄積度合いではマグド達に勝るとも劣らなかった。十字軍は山の裾野まで下がって陣地を築いて野営するつもりと見受けられた。

「……ひどいものだな」

 一方のマグド達もまた厳しい状況に置かれていた。死傷者は過半を大きく上回り、無傷の兵はわずか2千余りである。追撃する余裕などありはしない。

「セフィネ=クロイに人を送って皇帝に援軍の要請をせねば」

 間に合うかどうか判らないが、とマグドは内心で続けた。

「わたしが行きます、既に連絡船を用意しています」

 そう言って手を挙げたのはライルである。マグド達は驚きに目を見開いた。

「連絡船を使うのか。湖面は荒れているぞ」

「それは危険だ」

 一同は懸念を示すが、ライルは首を振った。

「今は一刻を争います。手段を選んでいる時間はありません」

「……判った、ライル。頼んだぞ」

 マグドの言葉にライルは力強く頷く。そしてトズル砦を飛び出し、一路セフィネ=クロイへと向かった。その頃にはもう夜は明け、輝く朝日が高々と昇っている。

「……もう少し降り続いてくれればいいものを」

 マグドは恨めしげに空を見上げる。10日も続いていた雨がようやく止み、太陽が久しぶりに姿を見せていた。攻撃をするエレブ側からすれば天佑である。マグドは自分の死をも覚悟した。

「だが、トズルだけは落とさせん。ここは死んでも守り抜く」

 マグドは旗下の兵を総動員し、十字軍の襲撃に備えた。負傷者であろうと立って歩ける者は全員槍を持って立っている。このため戦闘前から倒れる者が続出した。

「……これは、持たないかも」

 多くの者が砦の陥落と、奴隷軍団の玉砕を覚悟した。太陽が高く昇り、十字軍がやってくるのを心を静めて待ち構える。やがて太陽は沖天まで昇り、昼となった。

「……来ないな」

「……どうしたんだろう」

 マグド達の元に、敵軍がスキラへと撤収していることが知らされるのはこの直後である。

「助かったのか……?」

 多くの兵が気が抜けて倒れそうになる。気力が尽きてその場に座り込む者も多かった。マグドもまた座り込みたかったが兵の前でそんな無様はさらせず、気力を振り絞って立ち続けた。

「まだ油断するな、敵の撤退を確認するんだ!」

 やがて十字軍が一兵残さず撤退したことが確認され、マグドはようやく警戒を解いた。だがマグドは生き延びたことの喜びよりも不審の思いの方が強い。

「何故奴等は撤退したんだ、もう少しで勝てたのに」

 その理由をマグドが知るのは何日か後のこととなる。







[19836] 第28話「長雨の戦い」
Name: 行◆7de1d296 ID:938fd27e
Date: 2011/02/26 21:33




「黄金の帝国」・死闘篇
第28話「長雨の戦い」










 時間は少し前後して、アダルの月・9日。ナハル川方面のザウガ島ではインフィガル率いる老兵軍団が十字軍と激しい戦いを繰り広げ、それから一夜明けたばかりである。

 執務室の竜也の元にはザウガ島攻防戦の詳しい報告書が届けられた。ザウガ島の守備兵約千人のうち戦死者は600名を数えていた。

「……半分以上死んだか」

 竜也は目を瞑り、内心で黙祷を捧げる。それが終わるのを見計らっていたかのようにアミール=ダールが報告を続けた。

「兵と矢玉を充分に補充すればあの島を守るのは不可能ではないことが判明しました。完全に陥落するまでは何度でも兵を補充し、敵をあの島に釘付けにしたいと思います」

「しかし、戦闘の度にこんな数の戦死者を出していては」

 と竜也は渋い顔をするが、アミール=ダールは冷徹に反論する。

「敵に与えた損害と我が軍の規模を考えれば、毎回守備兵が全滅しても許容範囲内です。戦争をしているのですから戦死者が出るのは避け得ないと考えてください」

「それは判っている」

 竜也は憮然とした表情を見せた。

「でも孤立無援の場所に味方を放り出して、助けることも出来ないなんて……敵に獲られるのがまずいのなら、最初からあの場所に島がなければ良かった――」

 ぶつぶつと独り言を言っていた竜也がそのままの姿勢で止まってしまう。少し待ってみても静止したままなのでアミール=ダールが「皇帝タツヤ?」と声を掛けた。

「――ああ、済まない。今そんなことを言っても仕方ないか」

 思考の渦から戻ってきた竜也が一人で何か納得し、

「ザウガ島防衛については、引き続き将軍の方針でやってくれ。守備兵は出来るだけ志願者を集めるように」

 と書類に許可のサインを記した。

 ……同日、アルバアは朝一番からザウガ島の補充兵編成のために走り回っている。

「今度こそ俺があの島を守る!」

 ザウガ島を守り抜いたインフィガル達の奮戦ぶりに、それを見守ることしかできなかった自分の不甲斐なさに、アルバアは血を滾らせている。まだアミール=ダールの指示がないうちから「補充兵を率いるのは自分だ」と疑いもせずに信じ込み、それを集めるために各部署を奔走していた。

「兄上、各隊の司令官に補充兵志願の呼びかけをお願いしました」

 そして弟のカミースがそれに協力する。

「既に数百人の志願が受け付けられているそうです」

 インフィガル達の勇姿に熱くなっているのはアルバアだけではないようだった。父や祖父がザウガ島の戦いに参加していた者、年齢を理由に兵として採用されなかった者、英雄志望のお調子者等、多数がザウガ島守備兵の募集に手を挙げている。

「あまり時間は掛けられない。定員に達したら募集はそこで打ち切ろう」

「はい」

 志願者はその日のうちに700人を越え、募集は打ち切られた。翌日には志願者が集められて部隊として編成され、その次の日にはザウガ島へと送り出される。

 アダルの月・11日。小雨が降りしきる中、アルバア率いる補充兵部隊が今まさにザウガ島へと赴くところだった。ザウガ島を望むナハル川南岸には、竜也やミカ達、アルバアの部下の第七隊の者達、補充兵の家族等、大勢が見送りに集まっていた。

「ところでカミースは? あいつにも礼を言っておきたかったんだが」

「戻ってから言えば良いではないですか」

 とミカは笑い、アルバアも「確かにそうだ」と笑い返す。今回の見送りは前ほど悲壮感に満ちてはいない。アルバアも補充兵も「勝って戻ってくる」と信じていた。

 補充兵を乗せた連絡船が岸を離れ、ザウガ島へと出発する。アルバアを乗せた船は最後に出発した。その船が少しばかり川の中へと進んだところで、

「ところで兄上」

 こんな場所で聞くはずのない声が背後から聞こえる。振り返ろうとしたところで尻を蹴飛ばされ、アルバアは川へと転がり落ちた。何とか水面に顔を出したアルバアは、船の上にカミースの顔を見出す。

「カミース! お前――!」

「悪く思わないでください、兄上! 兄上には父上を、第七隊や陸地の軍をお願いします!」

 カミースの言葉と立ち泳ぎするアルバアをその場に残し、船はザウガ島へと進んでいく。アルバアは「くそっ! まただ!」と散々悔しがった。雨の中に消えていく船を水の中から見送り、アルバアは前回以上に気まずい思いを抱えながら岸辺へと戻る。竜也やミカ、第七隊の部下達はまたもやのこのこと戻ってきたアルバアを喜んで迎えてくれた――その目はどこか生温かかったような気はしたが。




















 アダルの月・14日。数日前から降り出した雨が降り続いている。

「海が時化ているため商人達をスキラへと送り出せず、十字軍の動向を把握できません」

 執務室にやってきたベラ=ラフマが申し訳なさそうに竜也へと告げる。

「それは仕方ないだろう。荒れ海を突っ切ってバール人がスキラにやってきたなら十字軍だって怪しく思う」

 と竜也は笑った。

「敵だって雨が止まなきゃ動けないさ。雨が止んでから送り出せばいい」

 竜也の言葉にベラ=ラフマは頷いた。

 アダルの月・17日。雨は未だ降り続いている。

「川が増水していて船を出すのは危険だと言われてな。今夜の接触も見合わせたところだ」

 ディアが総司令部の竜也にそう報告した。

「一昨日の話じゃ、今は連中は渡河準備の最中って言っていたか」

「ああ、西の森で木材を伐採しているらしい。この雨の中ご苦労なことだ」

 この頃にはヴェルマンドワ伯の部隊がトズル方面へと移動しているのだが、雨のためにその知らせは竜也の元には届いていない。

「渡河作戦をやるとしても雨が止んでからだろう。それまではディアも休んでいてくれ」

 少しの間二人が沈黙し、雨音が二人を包んだ。

「……しかし良く降るな」

「ああ、こんなに降り続くのは珍しいそうだ。おかげで一息も二息もつけて、こっちは大いに助かってる」

 ディアは物憂げな表情を窓へと向けた。

「十字軍の方は一息つくどころではないだろうな。食糧は残り少ないし、雨を凌ぐ建物は全員分はないだろうし、疫病だって流行っているかも知れない。……一族の皆は大丈夫だろうか」

「銀狼族は体力に恵まれているし、食糧だって充分な量を渡している。きっと大丈夫だよ」

 竜也がそう気休めを言い、ディアは「そうだな」と微笑みを見せた。

 アダルの月・20日。雨は未だ降り続けていた。トズルではマグド達がヴェルマンドワ伯と死闘を繰り広げているが、その事実を知る者はセフィネ=クロイにはいない。

「しかし良く降る」

 野戦本部を訪れた竜也はそう感嘆した。

「我々にとっては恵みの雨です」

 とアミール=ダールは宥めるように言った。

「降り出して10日ほど。敵の食糧があと1ヶ月分しか残っていなかったとするなら、そのうちの1/3を全くの無為に費やさせたことになります。我々は日一日ごとに勝利に近付いているのです」

「確かにそうかも知れないけど、いくら何でもそろそろ降り止んでもらわないとな」

 と竜也は窓の戸板を少し開け、空を見上げる。空は分厚い雲に覆われ、太陽の姿はどこにも見えない。降り続く大粒の雨はいつ果てるとも知れなかった。

 そしてその日の深夜。

 竜也は自室のベッドで眠りに就いていた。その横ではネフェルティが眠っている。そこに、

「皇帝タツヤ! ネフェルティ様!」

 女官が戸を激しく叩いている。竜也はそれで目が覚めた。ネフェルティも眠りから抜け出そうとしているが、未だまどろんでいる。

「どうした?」

「て、敵襲だそうです! 敵が、十字軍がこの町に!」

 竜也は首を傾げながら大急ぎで服を着、部屋を出る。女官に先導され、駆け足で船の外へと向かう竜也。雨が降りしきる中、船の前では一人の兵士がひざまずいていた。

「何があった?」

「敵が、エレブ兵が突然襲いかかってきたのです! 私はこのことを皇帝に知らせるようにと上官に命令されて」

 竜也は少しの間考え、

「……とにかく、状況を把握する必要がある。様子を見に行こう」

 と決断した。竜也はゼッル等近衛隊を連れて丘を下りて町へと向かう。川沿いの絶対防衛線へ、野戦本部へ行こうとしたのだが、

「タツヤ殿、下がってください!」

 襲いかかってくるエレブ兵に行く手を阻まれた。半裸に槍や剣を持っただけのエレブ兵が町中を走っている。警備隊の剣士や兵士と戦っている。竜也達に向かって突進してくるエレブ兵はゼッル達により斬り伏せられた。

「何でこんなところにエレブ兵が……一体どうやって絶対防衛線を越えたって言うんだ」

 呆然とする竜也をゼッルが叱責する。

「タツヤ殿、今はそんなことより身を守ることをお考えを!」

 ゼッル達は攻撃してくるエレブ兵を次々と屠っている。だが圧倒的な敵の数に次第に押されてくる。だが、その時敵の背後に治安警備隊の剣士達が現れた。ゼッル達と治安警備隊に挟み撃ちにされ、そのエレブ兵の一団は壊乱し逃げていく。

「ゼッル! タツヤ殿! 無事か?!」

 治安警備隊を率いていたジューベイが竜也達と合流した。竜也は「助かりました、ジューベイさん」と挨拶代わりに礼を言い、

「何が起こっているのか判りませんか? 敵はどこから来たんですか?」

「兵士達が言うには、数万の敵がトズルを突破したとのことだが」

 ジューベイの言葉に近衛隊が動揺を見せる。竜也も身体をぐらつかせたが、それは一瞬だ。

「いや、それは間違いだ」

 力強く断言する竜也に一同の注目が集まった。竜也は一同の視線を意識し、頼もしげな振る舞いを演技する。

「あのマグドさんが守っているんだ。トズルがそんなに簡単に落とされるわけがないし、仮に落ちたとしてもその連絡が敵の到着よりも遅いわけがない」

「確かにその通りだ」

 とゼッルが同意し、一同に安堵の空気が流れた。

「しかし、数万かどうかはともかくかなりの数の敵がこの町に入り込んでいる」

「一旦丘まで後退して、そこで兵を集めて敵を掃討するしかない」

 竜也は野戦本部に向かうことを断念、ゼッルの提案に従い総司令部に戻ることにした。

 数刻の後、竜也はイナブの丘へと戻ってきた。丘のふもとには避難してきた市民や指示を求める兵士が大勢集まっている。総司令部にはネフェルティやアヴェンクレト達、官僚達が集まっており、彼等の不安そうな目が竜也を出迎えた。

 一同を見回した竜也が決断を下す。

「ミカ、兵の指揮を頼む」

「わ、判りました。では丘のふもとに防衛線を」

 竜也はミカの言葉に首を振った。

「いや、違う。皆には南の食糧庫に避難してもらう。ミカには集まってきた兵を指揮して、皆の護衛と食糧庫の防衛を頼む」

「食糧庫を、ですか?」

 戸惑うミカや一同にタツヤが説明する。

「もしあそこが敵に略奪されたり火を放たれるようなことがあれば、その時点でこの戦争はもう負けだ。何としても食糧庫を守れ」

 得心したミカが強く頷く。タツヤは矢継ぎ早に指示を出した。

「敵には大した装備はない、避難してきた市民にも防衛を協力してもらうんだ。兵数が揃っているように見えれば敵も手出ししてこないかも知れない。アヴェンクレトやネフェルティ、他の皆もそこに逃げてくれ。官僚の皆は持てるだけの書類を持って行け。持って行けない書類はとりあえず井戸に投げ込んでおけ」

「待ってください。タツヤはどうするつもりです」

「ここに残って敵を引きつける」

 ミカ達は一瞬言葉を詰まらせ、次いで激しく反応した。

「わたしも残る」

「待ってください! わたしが残ります」

「タツヤ様にもしものことがあったら、この国はどうなるとお思いなのですか?」

「タツヤさんがそんな危ないことをしなくてもいいんじゃないですか?」

 だが竜也はその決意を変えようとはしなかった。

「敵を引きつける、そのために、こんな時のために俺は皇帝を名乗ったんだ。今更それを他の誰かに任せようとは思わない」

 ミカ達は何か言おうとして何も言えず、そのまま言葉を詰まらせた。その彼女達を、周囲の一同を竜也が叱責する。

「一刻を争うんだ、くずくずするな! すぐに動け!」

 竜也の言葉に鞭打たれ、跳ねるように一同が行動を開始した。

「皆さんは先に南へ! わたしも後から向かいます!」

「持って行く書類は何を」

「借金の証文はどこに」

「戦死者名簿は絶対に忘れるな!」

 一同が動き出すのを確認し、竜也はゼッル達へと向き直った。

「牙犬族の皆には最後まで付き合ってもらう。……済まない」

「気遣いは無用です。我等が近衛となったのはまさにこのような時のためです」

 ゼッルの言葉に、竜也も覚悟を決めて頷いた。

「篝火を焚け、クロイの旗を掲げろ! 皇帝がここにいることを十字軍に教えてやれ!」

 竜也の命令に従い、巨大な黒竜の旗が船のマストに結びつけられ、風を受けて翻る。船の周囲にはある限りの篝火が集められ、火が点けられた。

 竜也と別れて逃げることを嫌がっていたアヴェンクレトだが、ベラ=ラフマに何か説明を受けてようやく逃げることに同意した。そのベラ=ラフマは丘の上に残っている。竜也はそれを意外に思うが、そんな些末事を深く追求している暇はなかった。

「一本の刀では5人と斬れません!」

 と張り切って沢山の剣を地面に刺しているのはサフィールである。竜也は彼女に逃げてほしいと思っていたのだが、

「わたしは牙犬族の剣士であり近衛隊の一員です! タツヤ殿を置いてわたしが逃げられるわけがありません!」

 竜也の心情以外にサフィールの残留を認めない理由がなく、結局サフィールは残ることとなった。

「まあ、今まで食わせてもらった分くらいは働こう」

 とディアも残留組に加わっている。竜也はディアに避難するよう命じるが、

「わたしはお前の所有物だからな。相手がエレブ兵だろうと戦ってやるさ」

 と竜也の意向をきっぱりと無視する。竜也はため息をついてそれを黙認するしかなかった。

 篝火に照らされる黒竜の旗に引かれるように、エレブ兵が、ネゲヴ兵が、治安警備隊の剣士がイナブの丘へと集まってくる。ゼッル達は丘の建物から机や棚を引っ張り出して粗末なバリケードを作った。味方の兵士はバリケードの内側に引き入れ、敵は近衛の剣士達が斬り伏せる。だが次第に敵の数が一方的に増えていく。近衛の剣士はバリケードの内側に撤退し、剣を槍や矢に持ち替えて戦った。

「時間を稼げ! そのうち将軍が気が付いて敵の後背を襲ってくれる! 敵を前後から挟み撃ちにするんだ!」

 竜也がそう督戦し激励する。ほとんど最前線に立つ竜也の、皇帝の姿に一同は発奮した。牙犬族が、近衛隊が、治安警備隊が、兵士達が死力を尽くして戦い続ける。サフィールが剣舞のように敵を斬り伏せ、ディアが烈風のように敵を斬り裂く。ゼッルの轟剣は一振りで敵兵数人をまとめてなぎ払った。だが丘の上の総司令部は防衛を全く考えていない造りで、敵はそこら中から湧いて出