東日本大震災は、教育現場にも甚大な被害をもたらした。一方で、学校や地域で取り組む優れた防災教育・活動を顕彰する「ぼうさい甲子園」(毎日新聞社、兵庫県など主催)に参加するなど、防災教育に力を入れてきた学校の中には、間一髪で児童・生徒が被害を免れた学校もあった。【酒井祥宏、堀江拓哉】
岩手県宮古市立鍬ケ崎(くわがさき)小学校は宮古湾口西側の鍬ケ崎地区の高台にある。震災後に訪ねたグラウンドは泥でぬかるみ、被災者の乗用車が並ぶ。散乱する家具やがれきのそばで、被災者が炊き出しをしていた。
宮古市は、昭和三陸津波(1933年)で大きな被害が出た3月3日に毎年、避難訓練をしている。鍬ケ崎小も、今回の震災8日前に訓練し、児童全員が無事だった。中村登志江副校長は「まさか本当に(津波がここまで来て)避難することになるとは思わなかった」と振り返る。
地震は授業中に発生した。児童240人がグラウンドに整列。より高台にある宮古市立第二中に避難しようとした時、消防団員の大声が響いた。「津波が来るぞ! 高台の中学校まで(逃げるには)間に合わない!」。第二中までは1キロの坂道。津波の速さを考えれば、全員避難を完了させるには遠い。その場で避難先を第2避難所だった裏山の熊野神社に変更した。8日前の訓練と偶然同じだった。児童らは素早く移動。車やがれきを含んだ津波がグラウンドを襲ったのはその数分後。神社での点呼中だった。卒業生の一人は「訓練とまったく同じだったので怖くなかった」と話した。
鍬ケ崎小は防災教育に力を入れ、昨年度は総合学習の時間で地域住民と一緒に避難先を記した「津波防災マップ」を作製したばかり。放課後には07年度のぼうさい甲子園で優秀賞を受賞した「津波防災カルタ」で遊んでいた。カルタの「め」は「滅多に起きない津波忘れず」。中村副校長は「今後も防災教育を続けたい」と力を込めた。
宮城県南三陸町立歌津中学校。1960年のチリ地震津波を旧志津川(現南三陸)町内で経験し、自宅が流された阿部友昭校長(58)が昨年4月に着任した。5月には1年生に当時の話や「命が一番大事、身一つで逃げることが大切」と津波に対する心構えを説いた。海沿いの道路を通らなければ学校に来ることができない生徒も多く、防災訓練では地区ごとに避難、安否確認もした。
震災当日。高台にある歌津中は津波被害は免れた。地震発生時、生徒らは体育館で翌日の卒業式の準備をしていた。阿部校長は町内の別の中学校に出かけ、車内で揺れを感じた。帰り道で両親を避難させるために車に乗せ、歌津中に戻ろうとすると、道路は海側から高台に向かう車で大渋滞。「この状況で、海に向かって走ってくる車はないだろう」ととっさに判断し、対向車線に出た。「生きるために、法を超えた行動が必要だった」と振り返った。
学校に戻り、すぐに中学の下にある町立伊里前小学校の校庭にいた児童と教職員に「中学校まで上がれ」と声をかけた。その後、同中の生徒らとともに、即座に高台に避難。その直後に襲った津波で、同小は1階が浸水した。
3月26日に訪ねた歌津中で、阿部校長は当時約500人が避難していた体育館の運営と、学校再開に向けた業務に走り回っていた。自宅は津波で流され、この体育館で生活しているという。地震の数日後、体育館で避難生活を続ける何人かの生徒に、こう話した。「今度は、君たちがこの津波を、語り継いでいくんだよ」
阿部校長は、別の地区にあるいくつかの避難所も訪ねた。「元気でいれば何より。病気するなよ」と歌津中の生徒に声をかけ、保護者には「私も家を流されました。一緒に頑張りましょう」と励ました。
「例えば、海外に行って言葉が通じなかったとする。言葉の大切さを知り英語を学ぶ。次に行ったら通じてうれしい。これが生きた勉強で、防災教育も同じだ。自分の身の回りで、10秒でも、30秒でも早く、50センチでも1メートルでも高く、高台に行く方法を、実際に歩いて把握しておくことが大切。いざという時には、自分の判断で生き延びないといけない。それが『生きる力』なんです」。阿部校長の実感だ。
毎日新聞 2011年4月9日 東京朝刊
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