日達上人の御裁定と戒壇論


 強引に広宣流布達成にしてしまいたい創価学会の動き、一方では元妙信講の反抗もあって、宗内は混乱し始めました。
 そういう中で、工事中であった正本堂が完成する時を迎え、日達上人は、正式な決着をさせなければならない、ということで、昭和47年の初めに訓諭(日蓮正宗における公式決定)を発令されました。
 「正本堂の意義につき、宗の内外にこれを闡明(せんめい)し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む、現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は、広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては、いまだ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇(しゅみだん)は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。」
                           (昭和47年4月・日達上人訓諭)

 すなわち、「正本堂の意義は、一期弘法抄・三大秘法抄に示されている本門寺戒壇という意味を含む、現時における事の戒壇である。
 すなわち正本堂は、広宣流布が達成された暁には、本門寺の戒壇となるであろう大殿堂である。しかし今は、国中に謗法の徒が多くて、いまだ広宣流布の時ではないから、本門戒壇の大御本尊は公開せず、須弥壇は蔵の形式にして御安置申し上げる。
 しかしながら、800万世帯に及んだ折伏がさらに進んでいくならば、未来において広宣流布へと進展していくものと思われ、正本堂はその達成の実現を象徴するものである。」  これが、日達上人が最終的に述べられた正本堂の意義であります。  前に『百六箇抄』の「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」との仰せを挙げましたが、この正本堂という名称は、「正しく本堂である」ことを示しています。
 つまり、正本堂は、現時点においては大石寺の本堂でありますが、広宣流布が達成されれば、大石寺が大本門寺と改称され、その時、正本堂はまさに大本門寺本堂になる―という意味において、近き将来の広宣流布達成を期待し、大本門寺本堂たるべき建物として「正本堂」という名称を許されたのであります。

 なおまた、 この訓諭の中に、 「現時における事の戒壇」という表現がありますが、『三大秘法抄』や『一期弘法抄』を拝すると、広宣流布が達成された時に本門事の戒壇を建立する、とあります。
 では、広宣流布になっていないのに、今の時点で「現時における事の戒壇」と呼んでよいかどうか、ということが問題になってきますが、この戒壇のことについて日達上人は、概要、
 「大御本尊まします処は、何時いかなる時であっても、そこが本門(事)の戒壇であり、これを根本として、さらに未来に広宣流布が達成した暁、全世界の信仰の中心・根本道場としての戒壇の建造物を建てる」(趣意) との法門を明かされました。
 つまり、「本門戒壇の大御本尊まします処は、広宣流布の達成の後であっても前であっても、どんな場所であっても、すべて本門(事)の戒壇である。これを根本として、さらに、広宣流布が達成された時は、そこが全世界の信仰の中心・根本道場としての戒壇の建物を建てる。それが大本門寺本堂、大本門寺戒壇である」と示されたのです。
 ここで日達上人は、戒壇に二重の意義を示されていますが、これはもちろん、日達上人が勝手に言われたことではなく、日蓮正宗の法義として、大聖人以来の法門として定まっていることを、整理体系化されて、わかりやすくお示しくださったものであります。
 その証拠に、26世日寛上人の『依義判文抄』にも
 「一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為す。此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり、故に分かちて三大秘法と為すなり」(『依義判文抄』聖典863頁)
と仰せられております。
 一大秘法である本門の本尊、これはすなわち弘安2年の大御本尊の御事ですが、この大御本尊御安置の処を名付けて本門の戒壇というのである、との仰せです。
  ですから、 大御本尊御安置の処は、何時いかなる時、いかなる場所であっても、本門の戒壇です。
 そして、この上にさらに、広宣流布が達成した時は、全世界の信仰の中心・根本道場として、大本門寺を富士山の麓に建てて、その大本門寺本堂に大御本尊を御安置する、そこが大本門寺戒壇である、ということです。
 その、将来の大本門寺として、日興上人はあらかじめ大石寺をお建てになり、さらに、将来の大本門寺の本堂として、日達上人はあらかじめ正本堂の建立をお許しになった、ということなのであります。


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