(cache) 聖カタリナ巡礼団 「守護聖女のお部屋」
聖カタリナ教会の守護聖女のお部屋     |教会Menu巡礼団Menu

☆「守護聖女のお部屋」☆


☆ご来館者の方にご挨拶☆
  本日は当展示室にご来場頂きましてありがとうございます。私、当展示室のオーナーのBeneでございます。いい機会ですので、この展示室の開設と併せまして、当聖カタリナ教会の沿革についてお話させて頂きたいと思います。そうですね…、もう10年以上も前の事ですが、当時私は某教区の神学生を目指しておりましたが、たまたまその準備の一環としてM司教、並びにA神父よりインドに行く事を勧められ、その旅行の最中で聖フランシスコ・ザビエルの聖遺体を崇敬する為にインドのゴアという町を訪れました。聖人の時代のゴアの町は伝染病の流行やポルトガルの衰退などで今は廃都となっているのですが、その町の遺跡を散歩していた私は、今は博物館になっている昔の教会の跡にぶらりと立ち寄りました。そして何故かその庭にあった聖カタリナの銅像に眼を奪われてしまったのですね…。(こ、恋かも…(笑))
以来、聖カタリナは心の恋人!と、思っていた訳ですが、浮気性の私には似たようなパターンで5人も心の恋人が出来てしまいました。しかもそのほとんどが年端も行かない少女の聖女なので、「霊的ロリコン」などと一部ではののしられております(爆)(ま、「気難しいおじさん聖人」よりも「美少女の聖女」の方が楽しいね!てのが人情ってもんでしょう(汗汗汗))
それでは、皆様。そんな事も念頭に置きながら聖女がたの巡礼地の紹介をお読みください

アレクサンドリアの聖カタリナ
エジプト共和国シナイ半島 サントカトリーナ 聖カタリナ修道院
まあ、この方に関して言えば、今更聖人伝を書くまでもありませんね。毎度、皆様がご覧になっておられるはずの喫茶店のインフォメーションをご参照頂ければよろしいかと思います。
ところで実を言いますと、私は聖カタリナには振られっぱなしなのでございます(泣)
彼女の遺体は、天使によってシナイ山に運ばれたと伝えられ、今そこには聖カタリナ修道院が聳え立っています。東ローマ帝国時代に皇帝ユスティニアヌスによって作られた80メートル四方の城壁に囲まれたわずかな空間。世界最小の司教区で今も20名あまりの修道士が暮らしています。
私が彼女と会いにその修道院を訪れたのは…、いつだったでしょう?確か1996年ぐらいのことだったと思います。(エジプトのルクソールで外国人観光客銃撃のあった年です)あの事件のおかげで観光客は激減、4つ星ホテルに1泊300円ぐらいで泊めて貰えるなど、非常においしい時期ではありました。
しかし逆に観光地は警戒され、シナイ半島に入っても修道院もテロを恐れて通常の半分も修道院内を見せてくれないなど、悲しい事件もありました。そして私はついに聖カタリナの黄金の棺には近づく事はおろか、その部屋に入室する事も出来ませんでした。(大泣!)
一体何しにここまで来たんだあ?!それだけが目当てでここまで来たのに…。
振られてばかり(複数形)…、といいましたが、実はもう1度振られているのです(汗)
中世期、あるフランスの信者がシナイのこの修道院から聖女の指の遺骨を祖国に持ちかえり、以後、安置された修道院がヨーロッパにおける聖カタリナ崇敬の中心地となりました。
その場所はフランスのリジューに程近い場所にあるのですが、私はリジューの近くを訪れた折りも、幼きイエズスの聖テレジア(リジューの聖テレジア)にばかり気を取られており、目の前に聖カタリナがおられたのを知ったのは何と帰国した後でした…。(まさに後の祭り状態です)
ま、3度目の正直…で、今この教会の聖ウルスラ宝物館においで頂けたのは幸運でした!
聖フィロメナ−19世紀の不思議な働き手!−☆
イタリア共和国 ムグナノ・ディ・カルディナーレ村 聖フィロメナ聖堂
彼女は数多い聖人・聖女の中でも、最もミステリアスな聖女と言えましょう。
と言うのは、実在したのは確かですが、どんな名前でどんな生涯だったのか?これがまったく分からないんですね。19世紀にカタコンベから遺骨が発掘され、埋葬方法や遺骨の状態から古代ローマ時代に12,3歳ぐらいで殉教したらしいという事と、名前がフィロメナであったらしいということ…。(名前を記したプレートが発掘されたが、フィロメナという名の意味は「愛する者」なので、本名なのか彼女に対する呼びかけなのか分からない。)
ただその後、彼女の取り次ぎによって起きた奇跡があんまりにも多かったので、それで聖人の列に加えられてしまったとういう、他に例を見ない珍しい聖女なんですね。

因みに現在彼女を崇敬している大手団体が2つあります。
1つ目は老舗で「リビング・ロザリオ」という団体、もう1つは昨今カトリック内部でいろいろ御騒がせのネタになっているリトル・ペブル系の団体です。が、オーナーはどちらとも関係ありません。単に聖女の不思議なストーリーを読んでファンになって、わざわざご遺体のあるムグナノまで行ってしまった物好きでございます。(汗)
行き方ですが、ナポリ中央駅近くのヴェスヴィオ周遊鉄道ナポリ駅の前からバスが出てます。ここでAvelino行きの車体の青いバスを捜して乗り込み、1,2時間も走るとムグナノに到着します。後は看板に従ってテクテクと坂道を歩くと、そこが聖フィロメナ聖堂。
19世紀に建てられた比較的新しい聖堂に入ると、向かって左側に聖フィロメナの遺体を安置した祭壇があります。普段は金属製の格子戸越しにしか見られないんですが、運が良ければ近くまで行かせてもらえるかもしれません。祭壇上のガラスケース内に聖女の像があり、その中には彼女の遺骨が納められています。近づかないと見えないかもしれませんが、聖女の像には歴代の教皇様が贈られた指輪などが、輝いています。
感慨深いですねえ…、まずここでロザリオ一環…。
因みに知人から聞いた話ですが、やはり悩み事があってムグナノを訪れて聖フィロメナのご像の前で祈った時に、聖女の遺骨を納めたご像がカタカタと音を立てて動いたそうです。(当然、悩み事も解決したらしい…。ええですなあ…。)

奥に進んで行ってみましょう。
正面には昔風の背面ミサ用の祭壇がデンと聳え立っています。そしてその両側には左手にはやはり寄贈された聖フィロメナ像、右側にはアルスの聖ビアンネに出現している聖フィロメナの像があります。聖ビアンネは生前、聖フィロメナに対する崇敬が非常に厚かったそうです。では正面でも謹んでロザリオ一環…。 さーて、そこで左側の奥をみると…、何でしょう?。何か金色のついたてが見えます。近づいてみるとそれは聖遺物棚です。(聖遺物=聖人の遺骨)
ガラスを嵌め込んである丸や四角の穴の中には、多くの殉教者たちの遺骨が見えています。
そうですね…、カトリックは昔から多くの殉教者を輩出し、その行いを顕彰してきました。
ここでしばし信仰の先人たちに敬意を表して祈りと黙祷…。

ここできょろきょろ見回してみると、(閉まっているかもしれませんが)ついたての左右にも扉があります。右の扉をくぐると、それほど大きくはありませんが人形とジオラマを使って聖女の生涯を紹介する展示室になっています。また左の扉を開けるとそこは売店、実にいろんな信仰書や聖品などが置かれています。せっかくここまで来たんですから、帰りには何か記念に買って行って下さい。

21世紀にはなりましたが、イタリアの片田舎のムグナノ村はまだまだ古き良き雰囲気を残しています。聖堂の外に出ても、そこにはまたのんびりとした空気…。

落ち着いてじっくりと聖女に祈りを捧げた後は、この空気の中に身を浸して空を見上げてみるのもいいでしょう。
聖マリア・ゴレッティ
イタリア共和国ネットゥーノ市 ネットゥーノ大聖堂
通称「マリエッタちゃん」です。(こんな呼び方してもいーんでしょうか?(汗))
ま、手短に説明すると彼女は幼い子供の頃から非常に模範的なクリスチャンだったんですね。イタリアの信仰深い農夫の娘として生まれ、早くに父を失ったので、彼女が家事仕事や兄弟たちの世話をして手伝っていたんです。ところが隣家の息子がよからぬ思いを抱き、彼女を強姦しようとしたんですが、それは罪だ!と言って抵抗した殺されてしまった。だけれども帰天の直前まで「彼を赦してやってくださいね。いつか、天国でまた会いたいわ」と言って赦していたんですね。天使みたいな心の女の子…。
当時の青少年の共感を呼んで信仰心を芽生えさせ、彼女の生涯は映画化された上、列聖式当日にはバチカンの会場に100万人もの参列者が集まったそうです。巡礼対象地は彼女の生まれた町、初聖体の教会、あるいは殉教地などなど色々あるんですが、あまり時間の無い私は同行したO神父とK君と一緒に聖遺体の安置してあるネットゥーノという町に向かいました。彼女の殉教後、遺体は彼女の列聖運動を行ったこの町の御受難会の大聖堂に安置されています。
ところがローマからとことこと列車に乗ってネットゥーノに到着した時間は午後の昼過ぎ…。町はシエスタ(昼休み)の真っ最中。大聖堂の門はがっちりと閉められていました。
半分ヤケになったO神父、道を聞きがてら大聖堂近くのレストランに入って座り込み、ワインの飲みまくり食べまくり…。ま、昼ご飯もまだだったので3人でイタリア海鮮料理の昼食を始めたんですが、これがまたいける。(ネットゥーノの大聖堂は海岸沿いにあり、町の漁港と隣接してます)
ところがK君曰く。「おいしいけどさ、イタリア料理って結局オリーブ油で何かして塩で味付けるだけじゃん。冷めたらまずい…」だったら冷めないうちにとっとと食え!(笑)
午後の営業時間(?)がとうに過ぎたのに、大聖堂はなかなか開きません。O神父はがぶがぶとワイン飲み続けるし酔っ払いの誕生か?と思った頃、ようやく大聖堂の門が開きます。早速中に入って御聖体の前で訪問のご挨拶を済ませると、地下のチャペルに下りてマリエッタちゃんに御対面させて頂きました。彼女はそこで静かに眠っていました。
こちらは以前に教皇様も巡礼されて、随分と長い間、彼女のご遺体の前に跪いて祈っておられたそうです。
つい先程まで飲んだくれていたO神父が静かに跪いてロザリオの祈りを始めます。それに続いて私たちも一緒にそれに続きました。

最後にここにも結構大きな売店がありまして、例によって信仰書や聖品などがたくさん置かれています。せっかくここまで来たんですから、帰りには何か記念に買って行って下さい。ただ同じ御受難会の教会ですので、ローマ市内のスカラ・サンタ教会の売店でもほぼ同じ物が買えます。

写真左から、聖マリア・ゴレッティの列聖式、聖マリア・ゴレッティの肖像画、聖女の住んでいた家
写真左から、聖女の前で祈る教皇様、聖女の腕が入った聖遺物容器、ネットゥーノ大聖堂、聖女の聖遺物を安置した祭壇
聖アグネス
イタリア共和国ローマ市郊外 サンタ・アグネス・フォリレムーラ教会
お恥ずかしい話ですがその時、私は大変間抜けでございました。ローマの巡礼者でありながら、きちんとローマの巡礼地を把握していなかったのでございます。(汗)
その時、私はローマ巡礼の定番コース、7大聖堂を全部回ろうと志しておりました。(7大聖堂については「第1回巡礼団」参照)ところが3つの小バジリカを回る段になって、最後の1つの名前が分からなくなってしまったのです。そこで登場したのが大聖年用のローマ市内地図。開けてみると「その他のバジリカ」として7番目にサンタ・アグネス・フォリレムーラ教会がのっておりました。(正解の7番目は「サン・セバスチャン・フォリレムーラ教会」だったのですが、郊外であった為に地図からはみ出して掲載されていなかったのです(汗))かくして勘違いしたまま、私はローマ地図の北の果て、サンタ・アグネス・フォリレムーラ教会へと向かったのでした…。

ついた教会は大通り沿いにあり、見た感じ小さな平屋の教会といった感じです。「これで本当に小バジリカ???」と思いながら中に入ると、そこはいきなり階段で随分と下まで降りていきます。そして出口の扉をくぐると…、やっと分かりました。道路の表面がかなり高くなっており、外で見えていたのは教会の屋根の一部だけだったのです。そしてその内部は堂々たる大きさの美しいバジリカでした。バジリカ中央には天蓋のついた装飾の美しい祭壇があります。その横、丁度その中央祭壇の真下辺りに降りていく階段を発見し、私はそこを降りて行きました。
と、ありました。中央祭壇の丁度真下に当たる位置、鉄の格子窓の向こうに照明に照らし出された重厚な雰囲気の箱が…。これがそう、聖アグネスの遺骨を納めた聖遺物箱です。

因みに解説…。
キリスト教公認以前の古代ローマ帝国時代、当時の信者たちはカタコンベに集まって密かにミサを行っていました。それはキリストの体を受ける聖なる食事であると同時に、迫害によって命を落とした殉教者たちを顕彰する儀式でもあったのです。その為にミサは殉教者の墓や遺体の上で行われる事がしばしばでした。
この伝統を引き継いだ後世の西方ローマ公教会や東方ギリシャ正教会では、ミサを行う祭壇には必ず聖人の遺体を納めるという習慣を作り上げました。その後、さすがに全ての教会の祭壇に聖人の遺体を収めるのは無理である事から、祭壇が司教によって聖別される際に2,3人の聖人の遺骨の破片を納めるようになりました。
第2バチカン公会議以降、この習慣は徐々にすたれてきましたが、それ以前からある教会の祭壇にはほとんどの場合には祭壇の中に聖人の遺骨が納められています。(みなさん自分の教会の祭壇を調べてみるといいでしょう。多くの場合には祭壇布の下に大理石の板が嵌め込まれ、その石には5つの十字架が刻まれているのを見るでしょう。)
この聖アグネス教会の中央祭壇の真下に聖アグネスの遺骨箱が安置されているのも、以上の理由によります。

それはさておき…。
中世にイタリアで刊行された「黄金伝説」という本があります。当時流布していた有名な聖人たちの聖人伝を1冊にまとめたものです。当時の事ですから、今の人間からすればかなり常識はずれな事も書いてある本ですが、それはそれで面白い。(当時は同じ国内であっても連絡状態が悪くてコミュニケーションが取れない。ましてや外国の話など正確に分かる訳もないのに本にまとめる訳ですから、まあ仕方ないんですけどね…。)
その中に聖アグネスについて書かれている部分があります。その中で面白い話をひとつ…。
昔、聖アグネス教会にある司祭がいました。ところが彼は…司祭も生身の人間ですから仕方無いんですが…どうしても女性が欲しくなってしまう。そして悩みに悩んだ末に教皇の元に赴き、そして司祭を辞めさせて欲しいと願います。
すると教皇は宝石のついた指輪を彼に与え、そしてこう言います。「この指輪を聖アグネスのご像に差し上げ、自分の配偶者となってくれるように願いなさい」 多分司祭は「馬鹿げた事だ!」と思ったでしょうね。でも教皇の言葉ですから、彼は教会に戻ると聖アグネスの像の前で教皇から命じられた通りにプロポーズの言葉を述べました。するとあら不思議…。聖アグネスの像は手を伸ばすと彼の手から指輪を受取り、またさっと手を引っ込めてしまいました。その瞬間から不思議な事に、司祭の心から悩みがすっぱり消えてしまいました。そこで司祭は生涯、聖アグネスと教会を配偶者として一生を捧げました…という物語です。(うーん、これぐらいの奇跡、うちにも起きないものだろうか???)

ところでこの聖アグネス教会では子羊を飼っています。この子羊の羊毛からバリウム(変形したストラみたいなもの)が作られ、その年に新しく任命された各国の首都管区大司教に教皇さまから信任の印として授けられます。
笑い話ですが、我が国の首都管区大司教であるO司教さまは新任された時にローマに挨拶に行かず、ぐずぐずしてるうちに痺れを切らしたバチカン側から駐日教皇大使経由でバリウムを押し付けられた(?)らしいです。(汗)
まー、この大司教様はつわもので(笑)変な武勇伝をいろいろと持っておられるようですが、ま、それはまた別の機会に…。

写真左から3枚は聖堂内部、4枚目は聖堂概観
聖スザンナ
イタリア共和国ローマ市内 サンタ・スザンナ教会
聖スザンナはローマ帝国最後の大迫害の頃の殉教聖女です。彼女はローマ貴族だった聖ガビヌスの美しい娘で、教皇カイウスの姪でした。皇帝の親族から求婚されましたが、彼女はイエズスに自分を捧げ、異教徒と結婚するのを拒絶しました。結婚の申込の使者まで改宗させられてしまった皇帝側は、その報復として彼女をキリスト教徒として告発して迫害しました。
今、信頼できうる彼女の実在の歴史的記録は存在していません。カトリック教会は5世紀以来ずっと彼女を聖人として崇敬していましたが、1969年に彼女は実在性を疑われ聖人のリストから外されてしまいました。しかし古代から今日に至るまで、彼女はローマ殉教録の中で記念されていますし、また聖遺物はローマの聖スザンナ教会で今も祝われています。また大聖年の記念の発掘で、聖スザンナ教会の地下から彼女の墓が発掘されました。

いつでしたか、私がローマの聖スザンナ教会を訪れた時に、まあ、それはそれは親切なシスター方に「何か聖スザンナの記念の品が無いか?」と尋ねたところ、彼女たちは本当に「これでもか!」と言わんばかりに、発掘された聖スザンナの墓の土をくれました。
「土か…」少しがっかりしながら帰ってホテルで中を見てみて驚き。中には遺骨の破片とおぼしき数片と古代の物と思われる布の破片が少量入っておりました。
これが本当に聖スザンナの形見だったら凄い事ですねえ…。

そう言えば同じ時に聖スザンナの御絵を買ったんです、5枚ばかり。今ここには展示してないんですが、女性なのに威風堂々、肉付きもよくって、これがこの御絵の描かれた当時の美人なんだな?と、何だか妙に感動してしまいます。
聖アグネスもそうで、絵を時代毎に並べてみるとよく分かるんですが、描かれた当時の美人像というのがどんな感じだったのか?これがよく分かります。
近代に近くなるほど我々のイメージする美人に近いんですが、聖アグネス教会にある古い御絵などは血色も悪くてやせていて、ちょっと現代の美人とは違います。
でも近代の物もイメージが先行していて、聖女は12歳ぐらいで殉教したはずなのに、御絵はどうみても成人女性…。面白いですねえ…。

写真左から、聖スザンナ教会外観、教会内部の彫刻、天井画

では皆様にも、聖カタリナのご加護がありますように!


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