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[19764] ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【とある禁書目録・超電磁砲】【再構成】
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2011/03/22 13:05
はじめに
これは「とある科学の超電磁砲」と「とある魔術の禁書目録」のSS、ファンフィクションです。
原作小説ではチョイ役でしかなかった『トンデモ発射場ガール』、婚后光子をヒロインに据え、その上で禁書目録の本編を再構成する展開となります。
本作品を理解するためには、小説またはアニメの禁書目録を先にご覧になることをお勧めします。
また、超電磁砲の登場キャラも出てきますので、アニメ版超電磁砲を見ているほうが楽しめると思います。

細かい注意書き
時系列は、小説版禁書目録とアニメ版超電磁砲に依拠します。マンガ版超電磁砲と比べアニメ版超電磁砲には、ストーリーの進展しない話が数話と能力体結晶編が挿入されます。それによりマンガ版では当麻がインデックスを助けるべく奔走しているその裏で起こったことになっている幻想御手(レベルアッパー)事件が、夏休み前の出来事へと前倒しされます。そして能力体結晶編が当麻がインデックスを助けた直後、8月初旬に差し込まれます。アニメは後日話が8月9日、すなわち当麻が姫神と会った次の日になり、以降はマンガ版超電磁砲と同じスケジュールで妹達編になります。また婚后光子の常盤台転入は原作では二年の二学期からとなっていますが、アニメ版では一学期からすでに在籍しています。この点もアニメ側に準拠することとします。
超電磁砲をマンガでしか知らない人は時系列がご存知のものと異なる点をご了承ください。

2010年7月頃:初投稿
2010年9月頃:prologue終了, ep.1_Index開始
2011年3月頃:ep.1_index終了


最新話の連載について
15話以降より、最新の内容を一度SS速報VIPに掲載し、まとまったところで加筆修正をし、arcadiaに投稿するスタイルをとりたいと思います。
これはこのようなやり方が、最も更新速度を速められるとの判断に基づいています。
どちらの規約にも反していないと私は判断していますが、なにか問題がありましたらご指摘願います。
当該スレッドはこちら(アドレスは添付不可につきお手数ですが各自で検索してください)
SS速報VIP
『【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【本編再構成】【上条×婚后】』



[19764] prologue 01: 馴れ初め
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/06 19:26


雨の日が増えて梅雨空に憂鬱になる、6月も半ばを過ぎた時期。
当麻は第七学区の大通りと狭い路地を折り合わせながら必死になって駆け抜けていた。
「ハァハァ、ちくしょう、あいつら絶対昨日のこと根に持ってるな」
そう、昨日も追いかけてくる連中には会っていた。おてんばそうな中学生くらいの女の子が囲まれているのを見て、つい、不良たちのその子に間に割って入ってしまったのだ。おそらく彼ら、当麻を追う不良たちはそのことを根に持っているのだろう。いつも通りに下校する当麻を発見するや否や全速力で走ってきた辺り、恨みの深さはかなりのものだ。
当麻は何も体力に自信があるわけではない。昨日は助けたはずの女の子にビリビリと雷撃を飛ばされながら追い掛け回された。そのせいで今日は襲われる前から足は筋肉痛だった。それでも何とか撒いて撒いて、あとは最後の1人から逃げおおせればどこかに隠れてやり過ごし、鬼ごっこをやめてかくれんぼで帰れるところまで来ていた。
足がガクガクだ。だが相手も本気の武闘派スキルアウトではないようでかなりの疲労が見て取れる。この路地を抜ければあとは――――


カラン。アウトローで小汚い猫が、当麻の進路上へと空き缶を蹴り転がした。


「は? うわっ!」
マンガみたいにすってんと転ぶことはなかった。だが右足がぐしゃりと缶を踏み潰し、大きく体勢を崩す。
そして明るい大通りにもんどりうって出たところで、当麻は派手に倒れた。
「あいでっ……くそっ」
「あー、疲れた。テメェも諦めの悪い奴だな。ま、よく頑張ったよ」
肩でゼイゼイと息をする不良がゆっくりと路地から出てくる。気づくと、大通り側からも数人の仲間が集っていた。
非常にマズイ展開に、当麻は脱出の方策を必死で練る。だが、当麻を包囲した相手はすでにやる気満々だった。
「とりあえずゴクローさんってことで一発貰ってくれやぁぁぁぁ!」
そう言いながら、やたらガタイのいい不良がサッカーのようなフォームで起き上がろうとする当麻に蹴りを入れようとした。
当麻はその一撃を食らうことを覚悟し、とっさに腕で体をかばった。
べしゃんっ、とアルミホイルを勢いよく丸めるような小気味の良い音がした。


婚后光子は不良の真似事をしていた。もちろん彼女の主観ではの話だ。
彼女の通う学校は学舎の園(まなびやのその)と呼ばれる、近隣の女子校が互いに出資して作った男子禁制の区画の中にある。そこは日用雑貨の店なども全て揃えられた、一通りの機能がそろった一個の街である。そして彼女の寮もその区画内にあった。だから2年になって常盤台に転校して以来、彼女は学舎の園から出たことはなかった。
彼女は良家の子女らしく、小学校を卒業するまでは繁華街を1人歩きなんて選択肢を知りもしなかったし、中学に入って執事を侍らせない寮生活になってからも能力の伸びるのが楽しくて、そんなことを考えもしなかった。
だから、今日が初めてだった。繁華街を1人で歩くなんて不良みたいな行為は。
日直として学舎の園の外にあるほうの寮に住むクラスメイトにプリントを届けた帰り、彼女はまっすぐ自分の寮を目指すことなく、駅近くの繁華街へと繰り出していたのだった。

彼女はツンと済ました顔をしながら、内心でその光景にドキドキしていた。沢山の学生が練り歩き、そのうち結構な割合が男女で連れ添って手や腕を組んでいる。あれがデートなのだろうと光子は考えた。なにせ小学校から女子校通いなのだ。執事のようにほぼ家族である男性以外にも、住み込みの庭師たちやその子息など意外と男友達はいるが、それでも腕を組むなど考えたこともなかった。
道の傍にある広場ではクレープ屋が甘い匂いを放っている。手を繋いだ男女が洒落たテーブルではなく店のそばの花壇のへりに腰掛けてクレープを食べあいしていた。その光景を凝視してしまう。椅子に座らないなんてとても悪ぶった感じがする。品がないとは思うが、たとえば自分にお付き合いをする殿方が出来てあんなことをするなら、それも面白そうだと思った。
いけない、と自分を戒める。そういう不良に憧れる心が堕落への一歩なのですわ。
町を彩るもの一つ一つは安っぽい。良いもので勝負するなら光子の生きてきた世界のほうがはるかに満たされている。だがその雑然とした雰囲気は、明らかに低俗なのに、魅力的で嫌いになれなかった。

もう少し先まで行ったら引き返しましょう、そう光子が決めたときだった。
店と店の間の、小型車量しか通れなさそうな路地から倒れこむように高校生が飛び出してきた。それまでにかなり走ったようで、尻餅をつきながら荒い息をついている。
ハリネズミみたいに黒髪が尖っているが、顔は凶悪そうにも見えない。上背がそれほどないためか、不良というには凄みが足りないように思った。
……と、少し眺めたところで、光子のイメージ通りの不良達が数人湧いて、そのハリネズミさんを囲んだ。そこで光子は状況を理解する。つまり、あのハリネズミさんは襲われている、と。
焦った顔のハリネズミさんに不良たちがニタニタとした表情で何かを言った。そしてそのうち1人が、蹴りのモーションに入るのが見えた。

婚后光子は、箱入りのお嬢様である。繁華街を1人で歩くだけで不良っぽいと思うほど、だ。そして彼女はお嬢様のあるべき姿をちゃんと知っている。
――困った人には、手を差し伸べる。
おやめなさいと言って止まるタイミングではない。だから光子は傍にあった看板に手を伸ばす。木の枠に薄い鉄板を打ち付けてペイントした粗末なものだ。
トン、と光子に触れられたそれは、一瞬の後に不良に向かって人間の全速力くらいのスピードで飛んでいった。


金属板を顔の形にひしゃげさせて、当麻を追っていた男が倒れた。
電灯に立てかける安っぽい看板が、冗談みたいにスーッとスライドしながら不良に体当たりをかましたのだった。人がこの看板を投げたのなら、たぶんブーメランのように緩やかに回転しながら角が不良に突き刺さったことだろう。だが実際には看板の宣伝が書かれた面が不良の顔面を叩くように、看板は飛んできた。
一瞬の戸惑い。そして学園の生徒らしく、当麻はそれが能力によるものだとアタリをつけた。
「おやめなさい! 罪のない市井の人を追い回すような狼藉、この婚后光子の前では断じてさせませんわ!」
「へ?」
当麻と不良たちの声が唱和した。不良に制服を見せた上で名前も教えるとか、この人はどれくらい自分の実力に自身があるのだろう。あるいは、馬鹿なのか。不良たちは気弱い学生と真逆の態度をとるその常盤台の女子中学生に困惑した。
立ち直りの早かった不良の1人がへっへっへと笑いながら光子に近づく。
「昨日に引き続き常盤台の女の子とお近づきになれるなんて幸せだねぇ」
肩でも掴もうというのか、不用意に不良が手を伸ばした。
「おい、やめろ! その子は関係ないだろ!」
当麻は当然の言葉を口にした。昨日、常盤台の女の子を不良から助けようとしてこうなったのだ。その結果別の女の子が被害にあうなんてことは、あってはいけないのだ。
当麻のその態度に気を良くしたのか、婚后と名乗る少女は薄く笑った。
パシン、と不良の手がはたかれる。大した威力はなく、不良は怯むよりもさらに手を出す口実を得たことが嬉しいようにニヤリと笑い、そして。
「イッテェなぁお嬢ちゃんよぉ。このお詫びはどうやってして、っておわ、うわわわわわわっ!」
叩かれた手の甲が釣り糸にでも引っかかったように、不自然に吹っ飛んだ。それにつられて体全体がコマのようにクルクルと回り、倒れこむ。倒れてからもごろんごろんと派手に回転しながら10メートルくらいを転がっていった。
当麻は風がどこかで噴出しているような不思議な流れを肌で感じた。気流操作系の能力か、と予想する。
「手加減をして差し上げたからお怪我も大したことはありませんでしょう? これに懲りたらこのようなことはお止めになることね」
自信満々の態度で、そう正義の味方みたいなことを口にする少女。それをみた不良たちが、目線で示し合わせて当麻たちから離れ始めた。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんこと?」
少女は勝ったつもりでいるらしく当麻に近づき、その身を案じてくれた。だが、当麻はその少女を見ない。こそこそと走り去る不良たちが、携帯電話を手にしたのを見て。
「くそ、やっぱり人を集める気か。おい、逃げるぞ!」
いきなり仲裁に入るのなら、もっと場慣れしていて欲しい。
そう思いながら当麻は目の前の女の子の手を握り、駆け出した。


「ちょ、ちょっと一体なんですの? いきなり手を握られては、わ、私心の準備が……っ」
「やっぱり慣れてないのか! 昨日といい常盤台の子はどういう神経してるんだ!」
「慣れてっ……私がこのようなことに慣れているとお思いですの!?」
慣れてないのかって、そりゃあ慣れていない。婚后光子は箱入り娘なのだ。繁華街で男の人と手を繋いで走るなんて、想像を絶するような出来事だ。
女性と全く触れた感じが違う手、力強くそれに握られている。光子は当麻が喧嘩の仲裁に慣れていないのかと聞いた質問の意図を、完全に勘違いしていた。
「どこへっ、向かいますの!?」
それなりの距離を走って息が苦しくなってきた。よもやこんな手で誘拐されるとは思っていないが、それでも行き先をこのハリネズミさんに預けたままなのは気になる。
「この先の大通りだ。あそこまで行けばたぶん縄張りが変わるからそう簡単に追っては来れなくなるはず! そこまで頑張れ!」
ひときわ強く、ハリネズミさんが強く手を引っ張った。戸惑いと、よくわからない感情で胸がドキリと高鳴る。
周りは自分達のことをどう見ているのだろう、はっとそれが気になって周りを見ると、青髪でピアスをした不良らしき学生が、あんぐりと口をあけてこちらを眺めていた。
やはり奇異に映るのだろうか、自分でも何故走っているのかわけが分からないのだ。


「と、とりあえず、そろそろ大丈夫なんじゃないかと、思う」
「説明なさって。どうして、私を連れて、こんなことを?」
状況確認を行いつつ、先ほどの通りとは別の大通りの隅で荒くなった息を整える。
「いや、だってあいつら人を呼ぼうとしてただろ? 何人来るかわかんないけどさ、1人で崩せる相手の人数なんてたかが知れてるんだ。逃げるっきゃないだろ?」
「この常盤台の婚后光子を見くびらないで頂きたいですわね。私の手にかかれば不良の5人や10人どうということはありませんわ!」
「いやその、君に戦ってもらおうって考えはないんだけど……」
やけに好戦的な女の子に戸惑いながら、当麻はまだ自分が礼も言ってないことに気づいた。
「まあでも、助かったよ。不幸なタイミングでこけちまって、ちょっとやばかったしさ。ありがとな。お礼にジュースでも、ってのは常盤台の子に言う台詞じゃないか」
「お礼が欲しくてやったのではありませんわ。私は私が振舞いたいようにしただけです。ですからお気遣いはなさらないで」
目の前の女の子は荒い息を押し隠し、優雅に当麻に微笑んで見せた。
こうやって落ち着いてみると、実はかなり綺麗な子だった。やや高飛車な印象があるが、肩より下まで伸びた長い髪にはほつれの一つもないし、しなやかに揺れている。色白の肌に目鼻がすっと通っていて、流麗な印象を抱かせる。おまけにスタイルは高校生並だった。吹寄といい勝負をするのではないだろうか。
「いやでも、年下の女の子にあそこまで助けてもらってサンキューの一言で終わらせるのは悪いだろ? そうだ、君はどういう用事で来たんだ?」
「え?」
お礼をするのを口実に女の子を口説くなんてのはありがちな手段だ。だが当麻はそんなことをこれっぽっちも考えていなかった。単に、お礼をしようとだけ考えていた。
その申し出に、光子が視線を彷徨わせた。
「いえその、私」
言ってみれば、彼女は不良ごっこをしに来たのだ。買いたいものがあったわけではないし、行きたいところもない。恥ずかしくて正直に目的を告げるわけにもいかなかった。
「お、もしかしてこういう所、初めてだったりするのか?」
当麻は口ごもるその子の様子を見て、ピンと来たのだった。案の定、女の子は言い当てられて驚き、
「え、ええ。そうなんですの。あまりこういうところは来ませんから……」
「そっか、じゃああの店とか行った事あるか?」
「? こちらに来たことなんてありませんから、当然あのお店なんて存じ上げておりませんわ」
女の子は困惑気味にそう返事をした。当麻は住んでる世界の違いを感じた。なにせ当麻の目の前にあるのは、日本ならどんな田舎にでもあるハンバーガーのチェーン店だ。
それを知らないと彼女は言った。
「よし、じゃあ君、おやつ食べるくらいのお腹の余裕はあるよな? ハンバーガーかアップルパイ、どっちがいい?」
「ちょ、ちょっと。私そのような礼は要らないと……もう、分かりましたわ。殿方の礼を無碍(むげ)にするのもよくありませんし、奢られてさしあげますわ。私、甘いもののほうが好きですわ」
仕方ないという風にため息をついた後、女の子は当麻を立てるように笑い、リクエストをした。
「オッケー、じゃごちそうするよ。あ、食べる場所は店の中か外か、どっちがいい?」
「1人ではお店の中に入るのも気が引けますし、せっかくですから中がよろしいわ」
「わかった。じゃあ、行くか」
昨日みたいに訳も分からず助けたはずの女の子に怒られるようなこともなく、当麻は自然な展開にほっとした。
「お待ちになって。レディをエスコートするのでしたら、お名前くらいお聞かせ願えませんこと? ハリネズミさん」
「ハリネズミって。まあ言いたいことは分かるけど。俺の名前は上条当麻。君は……本郷さん、でいいのか?」
「いいえ。婚姻する后(きさき)と書いて、婚后ですわ。婚后光子と申しますの」
「あ、ごめん。婚后さんね」


騒がしいカウンターで注文と会計を済ませるのを後ろから眺め、差し出されたトレイを持って二階へ上がる当麻について行った。
初対面の相手についていくのは勿論良くないことだと認識してはいるが、目の前の殿方は悪い人に見えなかった。
「まあ常盤台のお嬢様にとっては何もかも安っぽいものだろうけど、これも経験ってことで試してみてくれると嬉しい」
「ええ。そのつもりで街に出てきましたから、私にとっても願ったりですわ」
硬めの紙に包まれたアップルパイを取り出す。思わず首をかしげた。
「これ、アップルパイですの? 本当に?」
「え、そうだけど?」
光子の知るそれと全く違う。家で出されるアップルパイは、シナモンと林檎の香りが部屋中に立ち込めるようなモノだ。パイ生地のサクサクした食感と、角切り林檎のバターで半分とろけた食感の協奏を楽しむものだと思っていたのだが。
一方目の前のアップルパイは林檎が外からは全く見えず、生地もパイ生地ではないし揚げてある。光子は恐る恐る、角をかじった。
生地はパリパリ、そして中はとろとろだった。林檎の香りが弱いのは残念だが、そう捨てたものでもない。
「これをアップルパイと呼ぶのはどうかと思いますけれど、嫌いではありませんわ」
ご馳走してくれた上条さんに、微笑みかける。それを見て当麻もニッと笑った。


「それじゃ、気をつけて」
「ええ、上条さんもお気をつけになって」
ファストフードの店を出て学舎の園の近くまで送り、当麻は光子と何気なく別れた。
自分に自信があり、自慢好きなところもあったが、相手を立てて気遣うことも出来る女の子だった。
「そりゃあんな綺麗な子と付き合えたら幸せだろうけど、上条さんにそういうフラグは立たないのですよ、と」
自分の不幸体質にため息をつき、当麻は今日の晩御飯代が420円少なくなったことを念頭に置きつつ、レシピを考えながらスーパーへ向かった。



これが、当麻と婚后光子の、馴れ初めだった。





[19764] prologue 02: その心配が嬉しい
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:26
ベッドサイドの当麻が眠りだしたのを半目で確認して、婚后光子はそっと体を起こした。
外には夕日。何の飾りもない白い壁と緑のシーツ、そして光子自身は慣れて気づかなくなってしまった薬品の匂い。そこは典型的な病室だった。
当麻はどこにももたれかからず、椅子に座りながらうなだれる様に深く俯いてかすかに舟を漕いでいる。光子は扇子を開き、そよそよとした風で当麻の頭を撫でた。
扇子を返すときに流れが剥離し、乱流にならないよう気をつける。手首のスナップには、光子が遊びの中で培った空力使い特有のこだわりがあった。
弱い風は層流と呼ばれる、整った流れを持っている。そして風が強くなると流れに乱れ、渦が生じ乱流となる。その乱流とならない限界ギリギリの最大風速を狙い、整った流れの中に無粋な渦を生じさせぬよう丁寧に扇子を動かすのが、誰に言うでもない彼女の嗜みの一つだった。
バサバサではなくそよそよ。優雅に揺れる当麻の黒髪が受けているのは、普通の人類が実現しうる最高速度の「そよ風」だ。
もちろんそれを作り出すのには風の流れを読める測定機器や感覚を持つ人間が必要だし、彼女ならば人類には実現できないような風の流れも意のままに作り出せる。だが光子はその特別な力に頼ることなく、扇子で扇ぐ手間すらいとおしいと言わんばかりに、幸せに浸り、可憐な乙女らしい笑顔を顔一杯に咲かせていた。


隣でうたた寝をする上条当麻という人は、巷の言葉づかいで言うところの「彼氏」という人だ。


殊更に幸せを感じる理由は、ひどく心配した顔で当麻が自分の病室を訪ねてきてくれたから。家族に溺愛されてきた光子にとって、大事にされるということはむしろ空気に近い当然のことだったが、想い人の訪れはそれとはまったく別だった。
来てくれないかもしれない、心配されていないかもしれない、そんな不安と表裏一体の来て欲しいという願望。それが実現したときの喜びと安堵は、今まで光子が感じたことのない感情の揺れ幅だった。

もちろん、当麻がひどく心配したのも、面会がかなったその当日に病室を訪れたのも、当然の理由がある。暴漢に襲われた恋人が一週間の面会謝絶となるほどの怪我を負ったというのだ。
彼は毎日学校が終わるとすぐ病院に通っては、落胆と不安を味わうという日々を続けて、今日やっと光子の穏やかな寝顔を見られたのだった。

……というのが当麻の知る状況だったが、実際には光子のほうに色々と事情があった。
一週間前、光子は姿の見えない暴漢に襲われスタンガンにより昏倒させられた。犯人は中学生の女の子だったらしい。怪我らしい怪我もなく、身体的にはとっくに回復している。
問題は眉毛だった。何の恨みか、学園謹製の消えにくいマジックペンで光子の眉毛は太く太くなぞられていた。あらゆる溶剤を突っぱねるそのインクのせいで、新陳代謝によりインクの染みた皮膚が更新されるまでの一週間、光子はとても人前に顔を晒せる状態ではなかったのだった。
そして光子の女心は「今は眉毛が太くなっていますからお会いできませんの」と当麻に告げることを許さず、病院に無理を言って面会謝絶の札をかけさせたのだった。

そしてようやく眉が元に戻ったのが今日。さっそく夕方に当麻が訪れてくれたが、久々に想い人に会えた光子は恥ずかしくてつい寝たふりをしてしまった。
その顔を見て当麻は光子が寝ているものと早合点した。その単純な反応を見て光子は、自分でどんな顔をしているかも分かりませんのに想い人にうかつに寝顔を見せる婚后光子ではありませんわ、と澄ましていた。しかし、医者に面会謝絶と言われる当麻がどれほど不安に思っていたかに気づかず、彼が心配顔で訪れてきたことを素朴に喜んでしまうあたりは光子らしかった。

で、今は元気そうな光子を見てほっと一息つき、彼女が起きるまで待つかとベッドの傍で眠り始めた上条当麻を見て、光子は幸せを噛み締めているという訳である。
明日は退院だから、当麻さんとお買い物に行きましょう。セブンスミストは庶民向けのものが多くて珍しいし、当麻さんにも合うものがあるだろうし、それがいいわね。
そう考えを巡らせながら扇子を畳み、初めて、当麻の髪に触れた。
尖った髪の先の、ツンツンとした感触。整髪料……ワックスというものを使っているのだろう。地毛もごわごわした感じで、自身の髪とはまったく異なっていた。
肩よりすこし長く伸ばした髪を、光子は自慢にしている。お嬢様学校にいることもあって彼女の周りには丁寧に整えられた長髪を持つ少女は山のようにいるが、自分ほど綺麗な髪をしている女はそう多くないと自負している。浅ましいことは分かっているが、髪の手入れが悪い同年代の少女たちに対して優越感を感じていたことも事実だった。
だが、当麻の髪にそういう気持ちは抱かなかった。雑巾を石鹸でゴシゴシ洗ったような艶のない粗い質感の、安っぽい香りのする整髪料をつけた髪だというのに、愛着すら感じる。当麻の髪の感触は面白く、つい、ツンツンと何度もつついてしまう。人差し指で弄んだ後、手のひら全体でその尖った感触を楽しんだ。

それで、調子に乗ったのがいけなかったか。
見えにくい寝顔を覗き込もうと、体をひねって当麻の顔に自分の顔を近づけたその時。
衣擦れの音に目が冷めたのか、んぁと間の抜けた声をだして当麻が目を開いた。
まだ光子は当麻と口付けを交わしたことはない。結婚するまではだめよなんて自分に言い聞かせているものの、その禁を自分で破ってしまうのもそう遠くない気はしているが。
しかし現段階においては、この偶然の一瞬が、当麻ともっとも顔を近づけた瞬間だった。

「あ……」
「え、あ、婚、……后?」

どうしよう、目をつぶったほうがいいのかしら、なんて考えが頭を巡るのとは裏腹に、

「婚后、目ぇ覚めたか! 大丈夫なのか?!」
バッと顔を起こした当麻に肩を掴まれる。真剣なその表情にドキリとする。
「え、ええ。もうすぐにでも退院できるくらい回復していますから」
「本当か? 入院期間だってやたら長いし、医者は大丈夫だとは言うけど、やっぱ顔を見ないと、なあ」
ほっとした顔で『すっかり回復した』光子の表情を見つめる。……そしてパッと肩を掴んだ手を離した。
戸惑いはにかむ光子の顔を見て、自分が何をしているのか悟ったからだった。

「心配、してくださったの?」
「あ、当たり前だろ。メールが丸二日来なかったんだぞ? 今までそんなことなかったってのにさ」
照れくさそうにそっぽを向く当麻に、少し申し訳なく思った。昏倒したその日から電話もメールも出来たのに、ラクガキされた自分の顔を見られたくない一心で面会謝絶にまでした以上、引っ込みがつかず元気そうな便りをあまり送れなかったのだった。
「お見舞いの花とか持ってなくて、ごめんな。初めて来た日は一応持ってったんだけど」
「ううん、そうやって気遣ってもらえるのが、一番うれしいですわ」
さらさらと髪を揺らしながら、首を横に振る。掛け値なしの本音だった。恋心を抱く殿方に真剣に気遣ってもらえる。その人の注意を自分のほうに向けてもらえるというのは心満たされることだった。そう思うのは親元から皆が離れて生きる、学園都市という特殊性も要因の一つだったかもしれないが。
光子の表裏の無い柔らかな笑みに、当麻は思考能力を思いっきり奪われた。
この可愛さは犯罪だろ……やばい、こうやってふんわり笑われるとなんというか。高飛車で我侭なお嬢様だと思った第一印象と全然違ってるじゃないか。と、ついイケナイことをしてしまおうとする邪(よこし)まな考えが脳裏にいくつもマルチタスクで展開されていく。
「それで、退院はいつなんだ」
「明日ですわ。ちょうどお休みの日ですし、買い物に付き合ってくださる?」
二人っきり、それもベッド付きで―――というこの素晴らしい空間を明日にも引き払うというのに内心でかなりの落胆を覚えつつ、同時に感じた安心のほうを顔に出す。
「そっか。かなり治ってるんだな、良かった。あ、でも、痕とか残らなかったか……?」
「ええ、あまり強い電流ではありませんでしたの。使われたのも女性が護身用に持つものでしたから。首に当てられると気を失いやすいですけれど、傷跡が残るようなことはありませんわ」
そう言って光子は耳に掛かる髪を手で留め、後ろ髪を空いたほうの手で集めて首筋を見せた。
傷一つ無いその肌は、病的な白と活動的な小麦色のどちらでもない、自然で暖かな肌色だった。髪を触るその仕草は何気ないのにやけに色っぽくて、母親を除き身近に長髪の女性がいない当麻はそれだけで見蕩れてしまった。
「貴方はこの一週間、どう過ごされましたの? 私ずっとこの部屋におりましたからそれはもう退屈で退屈で」
「あー、まあ学校行って授業聞くかつるんでる連中とバカ話するかして、放課後は病院に顔出して、することっていったらそんなもんだったな」
我ながらつまんねー人生送ってるなと思いながら、当麻は頭をガシガシと掻いた。
「夕方や夜は何をなさるの? メールのやり取りも、電話も無かったからお暇だったんじゃありませんこと?」
「まあ最近無かった感じの暇だよな。テレビ見たりネットに繋いであれこれしてたな。ま、何って言うほどのことでもないさ」
照れ隠しの意味もあって説明になっていないような説明を当麻がすると、光子はやや不満げな顔になった。
「常盤台の女子寮はテレビを部屋に置くことは禁止されておりますし、私テレビはあまり好きではありませんから詳しくはありませんけれど、どういうプログラムをご覧になってるのかが知りたいんですの」
光子の追求を面倒に思いながら、自分の見ていたテレビ番組を思い出す。スポーツ特集のテレビだったり、ドラマだったりするが、どれも毎週見るようなものではなかった。1人暮らしにありがちな、BGM代わりに使っていることも多いからだ。
「適当につけてるだけだからこれを見てる、って言えるような番組は無いんだよな。なんていうか、家に帰ったらとりあえずスイッチを入れるもので、メシ作ってて聞こえないときも付けっぱなしにするようなものというかさ」
当麻の説明に、光子は分かったような分からないようなふうに首をかしげた。
「そういうものですの」
「そういう婚后は何して過ごしてたんだ?」
「私は寮の友人に最近読んでいなかった小説を持ってきていただきましたから、それを読んでおりましたけど――」
そこまで言って、む、と当麻の言葉を聞きとがめ、
「二人っきりでいますのに、名前で呼んでは下さらないのね」
そう、拗ねた声を出した。
「い、いやだってさ! 改めて付き合ってってなると下の名前を呼ぶのもなんか特別な感じがするし……それにそっちだって俺のこと名前で呼んでないじゃないか」
いきなり飛んできた言葉の槍を必死で回避しつつ、質問を投げ返す。
「私のほうから名前でお呼びするのは。その……不躾ですわ。そういうところはリードしていただきたいんですの」
下の名前で呼びあったことは初めてではない。いろいろな巡り合わせがあって、いい雰囲気になったときにこそばゆい思いをしながら呼んだ事は何回かあった。
「光子。えー、あー、」
視線を絡めあう所までは、当麻のレベルではたどりつけなかったが。
「これでいいか?」
「名前で呼んでくれたのは嬉しいですけれど、何も用が無いのにお呼びになったの?」
なけなしの根性をつぎ込んで呼んでみたというのに、からかうようにつーんと澄ましてそっぽを向く光子。
当麻はやけになって、
「好きだ、光子」
言ってやった。
「あ……はい!」
にっこりと笑うその表情の飾り気の無さは、丁寧に仕立てられた婚后光子という女性の容姿や仕草がむしろそれを引き立てていて、可愛いという言葉以外が出てこなかった。
「私も、お慕いしておりますわ。当麻さん」

会話がそこで途切れる。
ふと気づけばぽっかりとあいた空白。
不意に走る緊張感。

以前、名前を呼び合ったときのように、そっと光子の髪に手を伸ばし、軽く撫ぜる。
光子は何かを悟ったかのように、引き寄せられるように当麻の肩に頭を乗せた。
撫ぜていた手がそのまま抱きかかえる手にシフトする。そして少しの間、光子の髪を不器用に撫ぜ続けた。

「光子」
三度目でようやくマトモに呼べるようになってきた。
上目遣いに光子が当麻のほうを見て、そして恥ずかしさに耐えかねるようにむずがった。
そっと光子の双眸が音を立てずに閉じられる。
ほんの少し当麻が首を動かすだけで、"それ"が成される、そのときに。




パタパタと、ナースのサンダルが足早な音を立てて近づいてくるのが聞こえた。




ぱっと寄りかかっていた体をベッドに引き戻す。
期待を裏切られた当麻は情けない顔をしていたが、幸い光子に見られることは無かった。
目をつぶって完全に"待ち"に入った自分の顔がどんなだっただろうと、急速に理性を取り戻させられた光子の側にも余裕は無かったからだ。

二人して警戒したが、ナースはこの部屋には用がなかったらしく、扉についた窓からチラとこちらを見ることすらせずに離れていった。
なあんだと二人で顔を見合わせて、慌てて眼をそらした。光子が咎めるように当麻に囁く。
「もう、当麻さん。そういうことは、け、結婚してからするものですわ。気が早いのはよくなくてよ」
「う、なんだよ。俺のせいか。光子だって、期待してたくせに」
かああっと光子が顔を赤く染める。
「そ、そんなことありません! そんなことを言うんでしたら先日の当麻さんこそ私のむ、む」
「おいおい! だからあれは不可抗力だったんだって!」
街中で出会い頭につまずいて光子の胸にダイブしたのは、断じて当麻の意思ではない。
「とにかく、当麻さんはもう少しエッチなところを自重して下さる? 殿方は多かれ少なかれ、そう言うところがあるとお母様に聞きましたけれど……」
だが光子はまったく斟酌(しんしゃく)してくれなかった。

廊下のスピーカーから、扉越しに蛍の光が聞こえた。
「あ……」
その意味を瞬時に悟り、光子が寂しげな声をあげた。
日本においてその曲の意味は余りにも有名。営業時間の終了、ここは病院だから面会時間の終了をアナウンスしていた。
「もう、帰る時間なのか。ごめんな、長くいてやれなくてさ」
「当麻さんのせいではありませんから……」
語尾を濁す光子の素振りが、明らかにまだ一緒にいたいと告げている。
その顔を見て、当麻は閃く。
うすっぺらい鞄を担ぎ、じゃ、と手を上げた。
「また明日、な」
「え……あの」
去り際に、ほんの少しの触れ合いも残さず立ち去ろうとする当麻の態度に、光子は寂しさを感じた。
「いやさ、光子に触っちゃだめなんだろ? 嫌って言われちゃ仕方ないよな」
意地の悪い顔で当麻がそんなことを言った。
「そんなっ……私、その、嫌だとは、言っておりませんわ」
「俺がエッチだから駄目ってさっき言ったじゃないか」
「もう……当麻さん、嬲るのはおよしになって。去り際がこんな素っ気無いのは、寂しいです」
拗ねたその顔が可愛くて、当麻は満足した。
「光子」
「あ……」
そっと髪を撫でる。光子が嬉しそうに眼を細める。
「これで満足か?」
そう尋ねると、何か物言いたげな顔をして、結局そっぽを向いた。
ちょっと強引に抱き寄せる。
「あ、と、当麻さん。いけませんわ、こんなこと」
光子が当麻の胸の中で慌てていた。しかし、それもすぐおさまる。夕焼けの色が鮮やか過ぎてもう光子の頬の色は分からなかったが、たぶん、当麻は光子の内心を理解できたと思った。

リピートを何度かして、蛍の光がスピーカーから聞こえなくなった。
眼を閉じていた光子が顔を上げ、そして当麻はそっと体を離した。
「名残惜しくなっちまうから、そろそろ行くな」
「はい。仕方ないですものね。その、すごく嬉しかったですわ」
「俺もだ」
二人ではにかみながら見詰め合う。
「それじゃあ、また明日な」
そこではっと気づいたように光子が言葉を繋ぐ。
「あ、いえ、きょ、今日の夜にお電話はできますの?」
「え? ああ、できるよ。いつもの時間にまた掛けるから」
「嬉しい。お待ちしていますわ」
にこりと微笑んで、当麻の退出を見送った。


カラカラと音を立てながら扉が閉じる音を背に受けながら、エントランスへと当麻は向かった。
きっと不幸体質のせいなんだと信じ込むことにしていたが、基本的に自分は自分がもてない男であると、しぶしぶ事実を受け入れていた。
それが今ではひょんな経緯からお嬢様学校の女の子と付き合い始めることとなり、マメにメールや電話をしているのだ。彼女の容姿に文句なんてこれっぽっちもないし、性格もクセはあるが付き合いに慣れればひたすら可愛かった。
どう考えてもこれ幸せじゃね? 何故俺がこんなに幸せに? という不信感がぬぐえないあたり、当麻はまさしく不幸の人だった。
付き合いだしてからも学校帰りに卵パックが割れたり自転車にドロを跳ね上げられたりする程度で、不幸の量は以前と何も変わったところはない。
まあ運が良いことが人生に一回くらいあったっていいだろう。あとは、愛想をつかされないように付き合っていくだけだ。
当麻はそう思いなおし、病院の玄関を潜り抜けた。



[19764] prologue 03: レベル4の先達に師事する決心
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:27
「婚后さん! あたしに空力使い(エアロハンド)の極意、教えてくださいっ!」

どんな心境の変化だったろう。
彼女では足元にも及ばぬような高位の能力者。それも低レベルの自分をいかにも見下していそうな高飛車なお嬢様。
自分らしくない嫌な気持ちが湧いて出るからと、彼女は婚后光子とは距離をとっていたのに。

当麻と待ち合わせをした、学舎の園と普通の区域の境目にて。
時計は無粋だから持ち歩いていない。携帯電話にはもちろん時刻が表示されているだろうが、それに光子が気づいたことはない。
周りに同じような子女が多い環境で育ったからか、周囲を見回せば大概は大時計や花時計が見つかるのだった。
待ち合わせまでまだいくらか時間がある。少し離れた位置にある時計から視線を戻すと、向こうも遊ぶ気だったのだろうか、小綺麗な花を髪飾りに生けた少女と、ごく普通の花飾りで長い髪を留めた少女が歩いてくるのが見えた。彼女達とは、つい先日の水着撮影のときに知り合った。白井黒子の友人らしい。
お互い顔は見知っているものの名前を光子は把握しておらず、簡単な挨拶と名前を互いに教えあったところで、



いきなりあんなお願いが飛んできたのだった。



「え、ちょっと、お待ちになって。一体全体唐突になんですの? 藪から蛇でも出てきそうですわね」
「それを言うなら藪から棒に、ですよ。にしても、佐天さん一体どうしたんですか?」
初春にとっても寝耳に水だったのだろう。友人の意図を量りかねているようだった。
「え、いやあ。アハハ」
いきなり指摘を受けて佐天は視線をさまよわせ、しかしそれでもはぐらかしたりはしなかった。
「あたしの能力、一応空力使いなんです。あ、全然大したことないですけど。それで、伸びない自分から逃げないで、ちゃんと向き合いたいって最近思うことがあったんですよ。知り合いにレベル4の同系統の能力者の人がいるなんてすっごくラッキーな偶然じゃないですか。もちろんご迷惑になるでしょうからそんなに教えてもらえないかもしれないですけど、アドバイスとかもらえたら嬉しいなーって」
光子がどう思うか、それは初春には分からなかった。しかし佐天の自分を茶化したような態度の裏に、いつになく真剣な思いが潜んでいることに初春は気づいていた。
佐天はそこで言葉を切って、真面目な顔で頭を下げた。
「あの、お願い、出来ないでしょうか」
光子はじっとその姿を見つめた。目の前の少女は、直接話したことはほとんどないが、明るくて物事をあまり深く考えていなさそうな子だとしか認識していなかった。
「佐天さん、だったわね」
「あ、はい。佐天……佐天涙子って言います」
「可愛いお名前ね」
「はあ」
佐天は肩透かしを食らって気の無い返事をした。
「もし、軽い気持ちでアドバイスを貰いたいのなら、お断りするわ。能力の伸ばし方なんてそれこそ人によって違うのだから、簡単な助言が欲しいのなら学校で先生に聞いたほうがずっといいわ。私は先生ではありませんから、あなたにとって良くないアドバイスをするかも知れませんし」
それは事実だったし、興味本位にアドバイスが欲しいという程度の安っぽい仕事を引き受ける気は光子にはなかった。
試されているのを感じたのか、佐天は姿勢をキュッと正し、
「あの、答えになってないんですけど、婚后さんは自分のこと、天才だって思ってますか?」
「ええ、勿論。あんなふうに世界を解釈し、力を発現できるのは世界でただ1人、私だけですもの」
即答だった。そして、佐天の返事を聞くより先に言葉を繋いだ。
「でも、努力ならいつだってしていましたわ。そして一切努力をせずにレベル5になれるような人だけを天才というのなら、私は天才ではありませんわね」
その言葉の意味を理解するようにほんの少しの間、佐天は返事をするのに時間をあけた。
「私も、この学園都市に来たからには自分だけの力が欲しくて、でも学校の授業を聞いても、グランドを走っても、能力が身につく気がどうしてもしないんです。それが一番の近道なのかもしれないけど、それも信じられなくて……。だから、努力をして力を身につけた人の言葉が欲しいんです。婚后さんが、学校の授業を真面目に受けるのが一番だって言うなら、それを信じます。いままでよりもっとがむしゃらにやります。だから……」
ふ、と光子は自分の昔を思い出して笑った。それは低レベル能力者が誰しもが感じる悩みだ。かつて自分もそれを抱えていた人間として佐天の思いをほろ苦く感じながら、言葉に詰まった佐天に助け舟を出した。
「私、弟子を取るからには指導には容赦をしなくってよ!」
弄んでいた扇子をパッと開き、挑むような目で佐天を見つめた。
「えっ、あの、助けてくれるんですか?!」
半分、手が差し伸べられるのを信じていなかった佐天はあっさりとした承諾の返事に思わず聞き返してしまった。
「貴女にやる気があるのなら、ね」
「はい! 頑張ります!」
ビッ、と敬礼のポーズをとった。
初めは驚き、ただ話を聞いているだけだった初春も、佐天の少し後ろで安心するように笑った。
劣等感を隠すための強がりとしての明るさと、生来の朗らかさ、その両方を佐天涙子という友人は持ち合わせている。前向きなときも後ろ向きな時も明るく振舞ってしまうのが、気遣いができる彼女の美徳であり短所であった。初春は彼女が前向きな気持ちでこうした話を出来ていることが嬉しかった。能力の話は、彼女が最も劣等感を感じ、苦しんでいる事柄だったからだ。

「そうね、それじゃまず申し上げておきたいことは」
しばらく思案していた光子が言葉を紡ぐ。
「まず、学校のことを学校で一番になれるくらいきちんとやるのは最低限のことですわ」
その一言で、佐天の顔が曇った。『出来る人間の台詞』が第一声に飛んできたからだった。
「別に次の考査で学年トップになれなんて言ってるわけではありませんのよ。ただ、あとで後悔するような努力しかしていなければ、そこから前向きな気持ちが折れていくでしょう? それでは伸びませんわ」
わずかに佐天の表情も明るくなったが、やはりその言葉は聞きなれた理想論でしかなく、彼女の閉塞感を吹き飛ばすものではなかった。
光子も常盤台においては上位クラスに所属するもののその中ではごく凡庸な位置にいるので、自分自身が自分の垂れた説教を好きになれなかった。
「それで佐天さん、あなたのレベルはいくつですの?」
「あ、えっと……ゼロ、です」
噴出する劣等感を顔に出さないようにするのに、佐天は必死になった。ただレベルを申告するだけなら、チラリと顔を見せるその感情に蓋をするだけでよかったかもしれない。だが幻想御手(レベルアッパー)という誘惑に負けた自分の浅ましさは、レベル0であるという劣等感を何倍にも膨れ上がらせ、持て余すほどに堆積していた。
「ゼロ? あの、出鼻をくじいて悪いですけど、本当に空力使いという自信はおありなのね?」
弱い意志が誘惑に負けてズルをした過日の自分を思い出して、ひどい自己嫌悪が蘇る。
「あ、はい! あたし一度だけ力が使えたことがあって、そのとき、手のひらの上で風が回ったんです。先生にも相談したらほぼ間違いなく空力使いだって」
はぐらかす自分も嫌になる。何もかもが後ろ向きになって、思わず光子に謝って今の話を無かったことにしてもらおうかなんて考えすら湧いてくる。
「そう、分かりましたわ。そうですわね……私もこれから用がありますし、この週末に時間をとってやるのでよろしくって?」
「はい、それはもうもちろん! レベル4の人に見てもらえるなんてどんなにお願いしたって普通は出来ないことなんですから!」
彼女は自分の退路を一つ一つ断っていった。それが最善の道だと気づいていた。
「ふふ。じゃあ、宿題を出しておきましょうか」
「え、宿題、ですか?」
光子は頼られるのが好きだった。真面目でひたむきな佐天の姿勢は、先輩風を吹かせたい気持ちをくすぐるものがあった。そして、かつて自分の面倒を見てくれた先生からかけられた言葉を思い出し、それを口にする。
「貴女、風はお好き?」
「え? あの、風って。扇風機の風とかですか?」
その問いはあまりにシンプルで、逆に難しかった。
「扇風機も確かに風を吹かせるわね。もう一度言うわ。風はお好き? それ以上のアドバイスはしませんから、自分でよく答えを考えてみなさいな」
「はあ……」
どうしたらよいのかと思案すると同時に、今までとまったく違ったアプローチで攻められることが面白く思えていた。
「私が自分の力を伸ばすきっかけになった質問ですのよ、それ。念のために言っておきますけれど、ちゃんと考えて答えを出さないと何の意味もありませんからね」
「自分で、ちゃんと考えてみます」
不思議と面白い思索だった。返事をする傍ら、頭の中ではすでにぐるぐると回る風の軌跡が描かれていた。
「そうしなさい。今週末に答えを聞かせてもらうわ」
「ありがとうございます。でも……あの、いいんですか? 自分で言うのもなんですけど、こんな面倒なお願いを簡単に引き受けてもらっちゃって」
「あら、私こう見えても後輩の面倒見はいいほうですのよ? 真面目に何かを学び取ろうとする人は、嫌いではありませんし」
佐天に微笑みかけるその表情は、すでに教え子を見る顔になっていた。





それからもう少し軽い話をして、初春と佐天は学舎の園の中へと向かっていった。
当麻は待ち合わせの時間より5分遅れてやってきた。
遅刻されるのは嫌いだった。相手にも事情があるだろうとか、そんなことを考えるより、自分のことを大切に思ってないのだろうかという不安のほうが先に湧いてくるからだ。そして不安の矢は当麻の側を向いて、怒りや苛立ちに変わるのだった。
「どうして遅れましたの」
最大限に自制を効かせてそう尋ねると、財布を溝に落としたので拾い上げようとしたら自転車とぶつかったとの説明が帰ってきた。当麻は硬貨を、相手は買い物を散々にぶちまけ、さらには外れたチェーンの巻き直しまでしたのだとか。
ひと月に足らないこの短い付き合いですっかり納得させられるのもどうかと思うが、この上条当麻という想い人の運の悪さを光子はよく理解している。だからそんな絵に描いたような言い訳を、それでも疑いはしなかった。なじるのを止めたりはしなかったが。

二人で歩くときは当麻の左を歩くのが、光子の習慣になっていた。
当麻は鞄を右手で持つことが多い。それに合わせて当麻の左手と自分の右手を繋ぐのだった。
「鞄、持つぞ」
自分の鞄を持ったままの当麻の手が、光子の前に伸びてきた。
「お願いしますわ」
ありがとうを言わず、微笑を返した。その気安さが嬉しい。
鞄を持ってもらい、開いた自分の両腕を使って当麻の左腕に抱きついた。当麻が照れるのが分かる。こうしてべったりと抱きつくといつもそうだった。
私も恥ずかしいですけど、でも嬉しいんですもの。当麻さんもきっと喜んでくださっているのよね。
そう光子は納得していた。
自分のプロポーションに自信があるものの、それをダイレクトに感じている男性がドキッとしていることに思い当たらないあたり、光子は初心(うぶ)だった。

「それで、佐天さんに空力使いとしてちょっと指導をすることになりましたの」
安いファストフードの店でホットアップルパイを食べるのが光子のお気に入りだった。初めてそれを口にしたのは当麻と知り合ったその日だから、それは特別な食べ物なのだ。今でもアップルパイとは認めていないが、中身のとろとろとした食感は気に入っていた。
そのファストフード店への道すがら。頼ってくれる人間が出来たことが嬉しくて、すぐさっきの話を当麻にした。
「へえ。そういうのって珍しいんじゃないのか? 能力者が能力者の指導をするなんてさ」
「まあ学校の先輩後輩でなら稀にありますけれど。でもこんな風に依頼されたのは私くらいかもしれませんわね」
「しかも相手はレベル0なんだろ? なんていうか、それで伸びるもんなのかね?」
そこで、光子はハッと息を呑んで、当麻の顔を見た。
彼もレベル0であり、その彼よりも別の能力者の手伝いをすると言った自分の無神経さに気づいたからだった。
自分がレベル0であることに、当麻は全く劣等感を見せない。彼の能力について聞いたのは付き合う前だったから、実はあまり能力の話はしたことがなかったのだった。
レベル4の自分が話を振るのは、すこし怖かった。
「あの、怒ってらっしゃらない?」
「へ? なんで?」
いきなり話が変わって、当麻は間の抜けた顔をした。
急に光子が深刻そうな表情を見せたことが全く理解できなかった。
「その、当麻さんも確か」
「あ、あー。そういうことか。俺もレベル0だ。まああんまり気にしてないけど。右手のせいなのは分かりきってるしな」
「当麻さんの能力は確か、AIM拡散場を介した超能力のジャミング、でしたわよね?」
「へ? なにそれ」
まるで初耳だといわんばかりの顔で当麻は聞き返した。光子は学園都市の言葉で説明のつかないその能力を当麻の適当な説明を聞いて理解していたため、それがもっともらしい理解の仕方だった。
「違いますの?」
「能力を打ち消すところは合ってるけど……。そうか光子はそんな風に解釈してたのか」
ニッと笑い、
「試してみるか」
大通りの隣にある休憩スペースのベンチを指差したのだった。


ベンチに腰掛け、すぐさま『実験』を始めた。
「嘘……なんで、どうしてですの?!」
能力者に特別な準備は必要ない。すぐさま当麻の手を握って、そして愕然とした。
初めは小さな威力で、そしていまや自分の最大出力。台風を優に超える風速と風量で当麻は自分の視界から消えるくらい吹っ飛ぶはずなのに。
当麻の右手には何度やっても風の噴出面を発現させられない。これっぽっちも自分の能力による大気の変化を観測できないのだった。
次にその右手を自分の右手の甲に重ねてもらい、その状態で当麻の鞄に触れる。
「そんな、何も出来ないなんて……。当麻さん、あなた本当にレベル0ですの?」
レベル4の自分の能力を完璧に封じ込めて、それどころかどんな能力で封じ込めたのかすらも悟らせない。
AIM拡散場を介した超能力のジャミング、さっきまで自分がしていた勘違いで説明をするなら、上条当麻はレベル5でなくてはならないだろう。
「誰が好き好んでレベル0なんてランク付けを貰うんだよ。もっと高かったら小遣い増えるのにさ」
カツカツの経済状況をもたらすことだけが、当麻にとってレベル0を疎む理由らしかった。劣等感から道外れた世界へ踏み出す人間が掃いて捨てるほどいるこの都市で、その認識はあまりにおっとりとしていた。
「でも、それならレベル0と認定された能力で、どうして私の能力を無効化できますの? ……自慢に聞こえたら嫌ですけれど、私、自分の能力は非凡なものを自負しておりますのに」
「うーん、なんでって言われてもな。俺の右手はそれが超常現象なら何でも無効化できるんだ。レベル5の電撃でも平気だったし、たぶんレベルは関係ないんじゃないか?」
「あ、あなた、超能力者(レベル5)と能力をぶつけ合ったことがありますの?!」
怪我をさせないようにと丁寧に気遣った自分がバカだったかも知れない。光子はそう嘆息した。レベル5で電撃といえば、やはり常盤台の超電磁砲だろうか。グラウンドから見たあの水柱は、自分の能力で防げるようなものではないように思えた。それを防ぐというなら、自分の能力でも何も出来ないだろう。
「ああ、なんか道端で知り合ってさ、それからアイツがやたら絡んで来るんだよな」
「……常盤台の学生、ですの?」
「お、やっぱりビリビリと知り合いなのか? あいつ確か中2って言ってたし、光子と同級生だよな」
共通の知り合いがいるのかもしれないと思って嬉しそうに話を振った当麻だったが、光子の表情を見て固まった。
「仲、よろしいんですの?」
自分だけの席に、無理やり割り込まれたような気持ち。知り合いというだけなら当麻にも女性のクラスメイトはいるだろうに、同じ常盤台の中学二年で当麻の心許した相手というのが、やけに疎ましかった。
「い、いや。別に、ただ知り合いってだけだぞ? なんかいちいち突っかかってくるから相手してるだけで」
「そうですの」
全然納得してない表情の光子を見て、なんなんだ? と首をかしげる。そしてふと気づいた。もしかして妬いてるのか?
わずかにツンと尖らせた唇は、まさにそれらしかった。そういう機微に気づく当たり、誰とも付き合っていなかった頃の上条当麻とは違うのだった。
ベンチに座ったまま、光子の肩を抱き寄せる。
唇はもっと突き出されてしまったが、照れ隠しなのが見て分かった。
「可愛いな、そういうとこ」
「だって」
抗議するように軽く睨んだ光子に笑みを返した。
夕方までベンチでベタベタとじゃれあう二人は周りにとってはいい公害であり、警備員(アンチスキル)に追い払われるまでこの公園で甘い雰囲気を撒き散らしたのだった。






そして週末。
第七学区の中央近く、小さな公園で待ち合わせだった。
「こんにちは、佐天さん」
「あ、こんにちわです。婚后さん」
姿勢を正して、丁寧に腰を折り曲げる。
「今日はよろしく、お願いします」

「それで宿題はできましたの?」
単刀直入に本題に踏み込んだ。
「あ……はい、一応、考えてきました」
「一応ね……答え次第では今すぐにでも話を終わりにしますわよ? ちゃんと自分で納得した答えですのね?」
短く、そして答えの読めない質問。それ一つで自分を量られることへの不安。
佐天は思い切れないでいた。
宿題をもらった瞬間の、やってやろうじゃん、という気持ちはすっかり萎えきっていた。
数日間自分で悩みぬいた結論。それを自信を持って伝えることが出来ない。
もっといい結論を自分は出せないかと色んなふうに考えてみたが、結局、満足出来るようなものを胸に抱くことが出来なかった。
「……自分で、結論を出しました。精一杯の答えだから、変わったりはしません」
「そう、じゃあ、話して御覧なさい。『貴女、風はお好き?』」
少し前に聞いた問いと、寸分たがわぬ言い回し。

空力使いだというなら、心の底からそれを愛しているのが自然だろうに。
きっと高位の能力者の人たちは、それを満喫しているだろうに。
自分の答えのつまらなさが、たまらなく不快だった。
「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」



[19764] prologue 04: 渦流の紡ぎ手
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:27
「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」
くじけそうな顔をする佐天を見て、どうやら自分の思惑とは違うことになっていることに光子は気づいた。
「そう」
しかし、辛そうな顔の佐天をフォローすることなく、話を続けることにした。
「そのまま続けて質問に答えてくださいな」
返答次第ではその場で教導を終えると言われた佐天にとって、合否が伝えられないのは苦しい。
しかし、有無を言わせない態度の光子を前にして、「私はやっぱりダメですか」とは問えなかった。

「どうして好きになれないの?」
「なんでって……。色々考えてみましたけど、全部、違うなって……。そう思っちゃったんです」
「違う? 説明して御覧なさい」
ためらいの雰囲気。弱いものいじめはもう止めて欲しい、そんな佐天の声が聞こえてきそうだった。
だが、追い詰めないと、また本音を隠すだろう。
前向きになろうという決意と、そういう決意を出来た自分に酔うことが彼女の防衛機制、つまり逃げであることを、光子は漠然と理解していた。
解決できない現実問題に対し、そうした逃げを持つことは誰だってやっている。恥ずべきことではない。実際にはそれで上手くいくこともあるだろう。
だけど、本当の意味で物事を進展させるには、時には追い詰められることも必要だ。
無言で圧力を掛け、光子は佐天が逃げることを許さなかった。
「風が気持ちいいとか、空を飛べたらなあって、そういう風には思うんです。でも、それって特別なくらい好きって訳じゃなくて。水が気持ちいいのと同じくらいにしか好きじゃないし、空を飛べなくても、きっと私は火の玉でも何でも良いんです。超能力を使えれば」
空力使い失格だと、そんな罪を告白するような思いで佐天は言った。
もっと、がむしゃらに一つのことを突き詰められたら良いのに。たとえば尊敬できる年上の友人、御坂がそうであろうように。
そんな佐天の様子に一向に反応せず、光子はさらに質問を投げつける。
「風、といわれて空を飛ぶことを想像したのね。あなたが使う風はどんなだったの?」
「使う風、ですか?」
「空力使いなんて珍しくもない能力ですわ。でも、空を飛べる人はそんなに多くない。レベルの問題ではなく、能力の質の問題で無理な方は多いんですのよ」
そういって光子はすっと手を掲げ、空気に切れ目を入れるように扇子を横に薙いだ。
「カマイタチ、なんてものが古代から日本には伝わってますわよね。空力使いの中にはまさにカマイタチ使いがいますのよ。空間に急激な密度差を作って、その断層でものを切断する力ですわ。そしてその能力者は飛翔には向いていない」
空を飛べない空力使いがいる、ということに佐天は軽い驚きを感じた。だが言われてみればそういうものかもしれない。知り合いに発火能力者(パイロキネシスト)が二人いるが、片方はマッチくらいの火を手の上に出して熱がりもしないタイプで、もう片方は目で見えるところならどこにでも火を出せるがその火に触れることは出来ない能力者だった。そういう小さな差はむしろ能力者にはつきものだ。
「私はコントロールに難ありですが、それでも飛翔は得意なほうでしょうね。それで言いたいのは、空力使いは何も空を飛ぶだけの能力じゃないってことですわ。風にまつわる現象で、あなたが好きになるものがあれば、それがきっかけになるかと思うのですけれど」
「えっと……私が想像したのは、なんか手からバァーって風が吹いていく力とか、腕を羽みたいに広げたら風と一緒になって飛ぶ力とか、そういうのでした」
到底それに及ばない今の自分のレベルの低さを思い出して、嫌になる。佐天は耐えかねて、
「あの!」
思わず声をかけた。
「合格ですわよ。もとから不合格になんてならないと思っていましたけれど」
その声に、少しほっとする。良かった、まだ見捨てられてなかった。
しかし気楽になれはしなかった。自分はどうしたら良いんだろう、その未来が霧中から依然として姿を現さないからだった。
「あの、婚后さんの能力って、どんなのですか?」
「あら、お聞きになりたいんですの?」
光子が良くぞ聞いてくださいましたわと言わんばかりの顔をしたのを見て、佐天は内心失敗したと思った。この人は自慢が好きそうだ。
だが、その思いが露骨に顔に出ていたのか、ハッと光子は我に返り、扇子で口元を隠した。
「参考になることもあるかもしれませんわね。簡単に説明しますわ」
そう言って、佐天の肩に手をポン、と押し付けた。
「え?」
光子は笑って手を放す。そして一瞬の後。
ぶわっという音と共に風が起こり、佐天はだれかに軽く突き飛ばされたような力を受けた。
「うわわ……っとっと。びっくりしたあ」
乱れた髪を軽く直し、肩に触れる。特に変化は見当たらなかった。
「これが私の能力。触ったところから風を出す能力ですわね」
「へえ……」
「まあ出てきた結果は今はどうでもいいですわ。今はそれよりどうやって動かしたかのほうが大事ですわね」
ふむ、と光子は思案して、
「学校で気体分子運動論はやってますの? 統計熱力学でも構いませんけど」
「はい? いやあの、そんな難しいことやってませんよ! なんか名前聞いても何言ってるのか全然わかんないです」
「まあそうですわよね……流体力学も?」
「それってたしか高校のカリキュラムじゃないですか」
学園都市のカリキュラムはきわめて特殊である。能力開発を第一に優先するため、投薬実験(するのではなくされる側になる)という名の授業が普通に存在するあたりが最も特殊だ。だが、目立たないところで都市の外の学校と違うのが、数学や物理といった教科の進み具合だった。
低レベル能力者なら小学校で2次方程式や幾何学の基礎を修め、中学校で微積分やベクトル・行列の概念まで習得し、高校では多重積分や偏微分、各種の変換などをマスターする。高レベル能力者なら各自の能力に合わせ、いくらでも高度な教育が受けられるようになっている。そしてレベルによって受けられる教育の差は外の世界の比ではなかった。それは能力による差別というよりも、高レベル能力者の演算能力の高さに低レベル能力者が全くかなわない、その実力差の一点に尽きた。
光子が修めてきた、そして能力の開発に役立ててきた各種の学問を、佐天はいまだに受けたことがないのである。
「まあ超能力者を輩出しだして10年やそこらの現状では仕方ないかもしれませんけど、もっと世界の描像を色々伝える努力は必要でしょうに」
光子は嘆息した。自分の能力が人より伸びるのが遅かったのもそのせいだといえた。
「どういうことですか?」
「風、というか空気というものはどこまで細かく分けられると思います?」
「え?」
質問を質問で返された佐天は軽く戸惑った。
「風船を膨らませて、その口を閉めるとしますわね。箱の外にも空気はあるし、箱の中にも空気がある。それは自然に納得できることでしょう?」
「はあ、それはそうですけど」
「では、風船の中身を別に用意したもう一つの風船に半分移せば? 当然空気は半分に分けられますわね?」
「はい。……えっと、すいません。あたしバカだから婚后さんが何を言いたいのか分からないです」
「話を続けますわ。風船の空気をさらに他の風船と分け合って……というのを何度も何度も繰り返せば、風船の空気は何百等分、何千等分と分割されますわね。その分割に、限界は来るでしょうか?」
そこで佐天は話の行き着く先を理解した。その話は理科で習ったことのある話だった。
「あ、確か、空気は粒で出来てるんですよね。粒の名前は……量子とかなんとかだったような」
「量子は別物、粒子の名前ではありませんわ。空気の粒の名前は分子。2000年以上前にその概念を提唱されていながら、ほんの150年前まではあるかどうかもわからないあやふやな存在だったものですわね。光の波長より小さな粒ですから、光学顕微鏡ではこれっぽっちも見えませんし」
「へぇー」
確かに、そんな話を授業で聞いた覚えはあった。それも最近のはずだ。
「私は空気というものを連続体として捉えて能力を振るう、典型的な空力使いとは方式が異なりますの」
普通の空力使いは分子の存在を考えない。気体を『塊』として捉え、それを流動させるのである。
光子は足元の石を拾い上げた。
「私の力は、こうして私の手が触れた面にぶつかった風の粒の動きをコントロールするものですわ。私が触れた後すぐにその面には分子が集まって、その後私の意志で分子を全て放出する。そうすれば」
ボッと何かが噴出する音がして、小石ははるか遠くに飛んでいった。
「こうして物体が飛翔するというわけです。文学的な説明をするならマクスウェルの悪魔を召還する能力、とでも言うのかしらね」
「はぁー……。あの、人の能力をこんなにちゃんと聞いたのは初めてなんですけど、……すごい、ですね」
「このような捉え方で能力を使う人は多くはありませんわね。ですから私は自らの能力に自信もありますし、愛着もありますわ。それで、この話をしたのには意味がありますのよ」
自分をしっかりと見る光子の視線に、佐天は姿勢を正した。
「私はこの力を得るのに、人より時間がかかりました。常盤台に一年からいられなかったのも、それが理由ですわね。去年の私はレベル2でしたから」
「え? 一年でレベル2から4ですか!?」
それは飛躍的な伸びといってよかった。レベル0から2とは全く違う。成績の悪い小学生が成績のいい小学生になるのと、成績のいい小学生が大学生になるのの違いくらいだった。
「ええ。そして伸びた、というよりもそれまで伸びなかった理由は、分子論的な、そして統計熱力学的な描像を思い描くことが出来なかったからですわ。能力開発の先生が言うことが、いつも納得行きませんでしたもの。何度ナビエ・ストークス式の取り扱いを教えられても、ピンときませんでしたの」
そして光子は扇子をパタンと畳み、優しげな顔をしてこう言った。
「世界の見方は、目や耳といった人間の感覚器官で捉えられる世界観だけに限りませんわ。貴女の知らない『世界の見方』の中に、他の誰とも違う、『貴女だけの見方』と近いものがきっとあるでしょう。沢山学んで、それを探すことが遠回りなようで一番の近道だと思いますわ。今日の私の話が、その取っ掛かりになれば幸いですわね」
能力開発のためには沢山の知識を授け、よりこの我々の世界というものの描像を正確に伝えてやらねばならない。だが、そのためにはその個人の脳を高い演算能力を持つ脳へと開発することが必要となる。それは開発者たる教師たちを常に悩ませるジレンマだった。
佐天はメモ帳を取り出して、光子の言った言葉を書き込んでいた。気体分子運動論、統計熱力学、流体力学。そしてナビなんとか式。
それらの言葉はやたらに難しそうで、そして自分の知らない世界の広がりを感じさせて、すこしやる気になった。
「それで、もっと詳しく能力を使えたときのことは考えましたの?」
「え?」
「どうして風は吹くのかしら? 凪(な)いだ状態から風がある状態へ、その変化のきっかけを考えることは意味がありますわ。あなたは自分が能力を使って風が吹いた状態になった後を想像されましたけど、その前段階はどうですの?」
そう聞かれて、佐天は自分のイマジネーションの中でそれがすっぽりと抜け落ちていたことに、はじめて気がついた。
「私、頭の中ではいつも風をコントロールできてるところから話が始まってて、どうやって動かそうとか、考えもなかったです」
それは重要なことのように思えた。そりゃそうだ、原因なしに結果なんて出るはずがない。佐天は自分の努力に穴があったことに気がついた。そして、その穴を埋めれば先が広がりそうな、そんな予感がした。
光子も顔を明るくし、アドバイスを続けた。
「大事なところに気がつかれましたわね。レベル0とレベル1を分けるきっかけなんて、そういう些細な事だったりもしますわよ。もちろん、この学園都市の開発技術が及ばないで能力を伸ばせない人もいますけれど」
その励ましにやる気を貰って、佐天は自分なりの風の動き始め、というものを考えた。が、数秒の黙考の後に、
「あー、えっと。さすがにここじゃ思いつかないかもです」
そう光子に言った。部屋にでも帰ってじっくり考えてみたい気分だった。
「まあ、この場で思いつくようなものでもありませんしね」
光子も、今日はこの辺でいいだろうと思った。腐らずに自分に向き合い続けるのが最も能力を伸ばせる確率の高い方策だ。その意欲を湧かせてあげられただけで良しとすべきだろう。
「はい、ちょっと考えてみようと思います。自分だけの風の起こし方って言われても、まだピンと来ないんです。自然に吹く風みたいに、ほら、渦がこうぐるっと巻いて、そこから風になるような感じにはなかなかいかないじゃないですか」
自然とは違うことをしなきゃ超能力とは言わないですよね、と同意を求める佐天に光子は思わず反論をしようとして、止めた。
「自然の風はそうだったかしら。それじゃあ、扇風機の風も、渦から発生してるの?」
「……え? だって、扇風機も回転してるじゃないですか。スイッチ入れたら、クルクル回るし」
佐天は首をかしげた。空力使いの大能力者が、まさかこんな根本的なところの知識を押さえていないはずがない。
「では扇子は?」
「扇子とか、うちわや下敷きもそうですけど、なんかこう、板の先っぽのところで風がグルグルしてるじゃないですか」
ふむ、と光子は思案した。
風は、渦から生まれるわけではない。そもそも風とは渦まで含んだマクロな気体の流れであって、別物として扱いのもおかしな話だろう。
風を起こす元は、地球規模で言えば熱の偏りだ。太陽光を強く浴びる赤道は熱され、光を浴びにくい北極や南極との間に温度差や空気の密度差などを生じる。そしてそれを埋めるように、風は流れていくものだ。そしてこの流れが地球の自転によるコリオリの力と組み合わさり、複雑怪奇な地球の気象を作り出している。季節風でも陸風海風でも、温度や圧力、密度の勾配を推進力(ドライビング・フォース)とするというメカニズムは普遍的だった。
自然界の法則に縛られている限り、目の前になんの理由もなく風が生じることはないのだ。空力使いとは、まさにその起こるはずのない風を起こさせる『こじつけの理論』を持っている人間のことだった。
佐天が何気なく説明したそれは、自然界のルールとは違う。
「ちょっと佐天さん、渦から風が発生するメカニズムを説明してくださる?」
「え? えーと……」
授業中に嫌なところで教師に当てられた学生の顔をした。
「すみません、ちょっと思い出せないです」
「そう、どこで習いましたの?」
「習ったっていうか、たしかテレビの教育番組とかだったと思うんですけど……」
それも学園の中か、実家で見たかも定かではなかった。
はっきりと残るヴィジョンは、床も壁も真っ黒な実験室でチョークの白い粉みたいなものが空気中に撒き散らされている映像。突然画面の中で、空気がぐるりと渦を巻いて、ゆらゆら漂っていた粉が意思を持ったかのように流れ始める、と言うものだった。
きっと、子供向けのなにかの実験映像だったのだろう。別に感動もなく、ふーんとつぶやきながら見た気がする。
それを光子に話すと、何か考え込むように頬に手を当てうつむいた。
佐天が光子の言葉を待って少し黙っていると、意を決したように光子は顔を上げ、こう言った。
「五分くらい時間を差し上げますわ。やっぱり今この場で、風の起こるメカニズムを説明して御覧なさい。分からない部分は、今までにあなたの習った全ての知識を総動員して補うこと。いいですこと? その五分が人生の分かれ目になるつもりで真剣にお考えなさい」
「っ――はい!」
突然の言葉に驚いたが、その目の真剣さを見て勢いよく佐天は返事をした。


渦を考えようとして、まず詰まったのが空気には色も形もないと言うことだった。それは佐天が空力使いとしての自覚を持ってからも常に抱えた問題点。空気はそこにあるという。確かに吸うことも出来れば吹くことも出来、ふっと吹いた息を手に当てれば、どうやら風と言うものがあるらしいというのはわかる。だが、見えもしないし手ですくえもしないものを、あると言われてもどうもピンと来ないのだ。
そこでいつも思い出すのは、あのチョークの白い粉だった。いや、チョークの粉だというのも別に確かなことではない。小麦粉かもしれなかったが、幼い佐天にとって最も身近な白い粉が黒板の下に溜まるチョークだっただけの話。佐天はここ最近まで、あの粉が風そのものだと思い込んでいた。チョークの粉だという認識と、なぜかそれは矛盾しなかった。
その幼い描像に、『分子』という概念を混ぜてみる。
そういえば、名前は中学校で習っていたはずだけど、あたしとは関係ないと思ってすっかり忘れてた。空気は、分子という粒から出来ている、だっけ。
その捉え方はひどくしっくりきた。粒はあるけど、とっても軽いから触ったらすぐに飛んでいってしまう。すごく粒がちっちゃいから、よっぽど視力がよくないと見えない。そう思えば風というものが手にすくえず目にも映らない理由を自然に納得できた。
頭の中にゆらゆらと揺れる空気の粒を思い描く。なぜかは上手く説明できないが、その粒はある瞬間、ある一点を中心にくるりと渦を描き始めるのだ。理由は説明しにくかった。ただ、不思議な化学実験を見せられたときの、不思議だなと思いながらそこには何かしらの理由があるのだろうと漠然と確信するような、それに似た気持ちを抱いていた。


「今、婚后さんも言ったように、空気は粒から出来てるじゃないですか」
五分までにはまだいくらか間が合ったが、佐天が話し出すのを光子は静かに聞いた。
「ええ、そうですわね。つかみ所のない空気は、とてもとても小さな分子の集合なのですわ」
「なんで、っていうのが上手く説明できないですけど、空気の粒がゆらゆらしているところに、自然と渦は出来るんです」
それは確信だった。水が高いところから低いところへ流れることを、理由などつけずとも納得できるように、佐天はその事実を納得していた。
「そこをもう少し上手く説明できません?」
「……なんていうか、粒は止まってるより、動いていたいって言う気持ちがあるんです。それで、一番起き易い動きって言うのが渦なんです」
「そこから風はどう生まれますの?」
光子は矢継ぎ早に質問を投げかけていく。佐天の脳裏にしかないその描像に迫れるよう、必死で空想を追いかけた。
「渦が出来るってことは、周りから空気の粒を引き込むってことじゃないですか、その引き込む流れが風なんだと思います」
「そう。それじゃあ、渦はそのうちどうなるの?」
本人ではないからこそ気になったのかもしれない。渦というものの行き着く先が気になった。
「え?」
「ずうっと空気の粒を引き込み続けますの?」
「えっと……いつかはほどけるんだと思います。膨らませたビニール袋を押しつぶしたときみたいに、ボワって」
「なるほど、わかりました」
佐天はにっこりと笑う光子を見た。よくやったとねぎらう笑みだと気づいて、佐天も微笑んだ。
……次の瞬間。
「では今の説明を、何も知らない学校の先生にするつもりで、丁寧にもう一度やって御覧なさい」
一つレベルの高い要求が飛んできた。

身振り手振りを使ったり、基礎となる部分を必死に説明しながら、佐天は同じ説明をもう一度した。
その次のステップはさらにえげつなかった。学園都市の小学生に分かるように説明しろと言うのだ。
佐天が難しい言葉を使うたびに指摘を受け、何度も何度も詰まりながら、なんとか通しで説明を行った。
特に佐天には語らなかったが、光子の目的は単純だった。佐天が思い描くパーソナルな現実、それを彼女の中で固めるためだった。固まっていないイメージを人は妄想という。それは常識という何よりも強いイメージとぶつかったとき、あっけなく霧散するものだ。常識を身に着ければつけるほど、つまり大人になるほど能力を開発しにくくなる理由はそこにあった。

「さて、そろそろおしまいにしましょうか」
ぱたりと扇子を閉じて光子が言った。
「はあー、えっと、こんなこと言うと悪いんですけど、ちょっと疲れました。ハードでした」
佐天はふうと空に向かって長いため息をついた。
「宿題も出しておきますわね」
笑顔でそう言い放つ光子に、思わず、げ、と言う顔をした。
「あー、はい。がんばります」
「宿題といっても今日の復習ですわ。学校の先生に説明するつもりで、何度でも説明を繰り返してみなさい。イメージに不備を感じたら、そこも練り直しながら」
「わかりました」
真面目にそう返事をする。
「あの、この説明するってどんな意味があるんですか?」
佐天の説明を光子が否定することはなかった。ということは、おそらく自分はちゃんと理科の教科書に載っている正解を喋っているのだろう。それを定着させるためだろうとは思っていたが、説明に乏しくただひたすらあれをやれこれをやれと言う光子に、説明を求めたい気持ちはあった。
「イメージを固めるためですわ。佐天さん、今から言うことは大事ですからよくお聞きになって」
「あ、はい!」
「佐天さんのなさる説明、まったく自然現象からかけ離れてますわよ」
信じられない言葉。おもわずへ? と聞き返してしまう。
「じゃ、じゃあ婚后さんはあたしに勘違いをずっと説明させてたんですか?!」
自分の説明にそれなりに自信はあった。それを、この人は笑いながら何度も自分に繰り返させたのか。
「なんでそんな……」
「どうして、と問われるほうが心外ですわ。あなた、自然現象の勉強をしにこの学園都市にいらっしゃったの?」
佐天の憤りも分かる、という笑みを見せながら光子は佐天の勘違いを訂正した。
「……違います」
「私もあなたも、超能力を手に入れるためにこの都市に来たはず。そしてその能力は、誰のでもない、あなただけの『勘違い』をきっかけに発動するんですのよ」
「あ」
パーソナルリアリティ、自分だけの現実。それはさんざん学校の先生が口にする言葉だ。それと光子の言わんとすることが同じだと佐天は気づいた。そして学校の先生が何度説明してもピンと来なかったそれが、光子のおかげでずっと具体的な、実感を伴ったものとして得られたことに佐天はようやく気づいた。
「さっきの顔は良かったですわ。あなたはあなたの『勘違い』に自信がおありなんでしょう。教科書に載っている正しい知識なんて調べなくても結構ですわ。とりあえず、あなたは今胸に抱いている『勘違い』を最大限に膨らまして御覧なさいな。5パーセント、いえ10パーセントくらいの確率で、それがあなたの能力の種になると私は思っていますわ。充分にやってみる価値はあるはず」
すごい、佐天は一言そう思った。レベル4なんだからすごい人だってのは知ってたけど、あたしが全然掴めなかったものをこんなにもちゃんと教えられる人なんだ!
能書きではなく、佐天は光子のその実力を素直に尊敬した。面倒を見てくれと頼んだそのときよりもずっと、この人の言う通りにしてみようと思えるようになっていた。
「あたし、頑張ります!」


光子に丁寧に礼を言って、家に帰り着くまで、佐天はずっと風の起こりの説明を頭の中で繰り返していた。おかげで買い物が随分適当になった。納豆や出来上がった惣菜を買って、料理のことを今日は考えなかったからだ。
帰宅してからは体に染み付いた動きだけでご飯を炊いてさっさと夕食を済まし、あれこれと考え時には独り言をつぶやきながら、風呂に入った。
説明をしてみると言うのは中々楽しい作業だった。どこでも出来るし、ひととおり筋の通った説明を出来るようになると、自分が物を分かった人間のような、偉くなったような気分になれた。
その説明は世界の真実ではない。教科書に載るような知識とは真っ向から対立する。だが、それ故に、自分が一番納得のいく理屈を追い求められる。
それはおとぎ話を書くような、創作活動に似てるように佐天は感じていた。

風呂上りに麦茶を飲んで、本棚の隅に置いた小さな瓶を手にした。それは週に何度か行われる能力開発の授業で配られた錠剤と乾燥剤の入った瓶だった。
もちろん、それはその授業で飲んでいなければならない代物。だが、佐天はそれをこっそりと持ち帰っていた。
能力開発の授業で飲む薬を、先生に隠れて飲まないままテストを受ける、そういう遊びが低レベル能力者の学生の間で流行っていた。それは教師らへの反抗の一種であり、劣等感から逃避する一つの手段であった。薬を飲んでないから能力が発現するわけがない、そういう理屈をつけて曲がらないスプーンの前に立つ。そうして薬を飲んでもスプーン一つ曲げられない自分達の無能さを紛らわすのだった。
つい数週間前にやったそのイタズラの痕跡を、佐天は瓶から取り出して飲んだ。どうせ湿気てしまえば捨てるだけなのだ、ここで飲んだって損することはない。
そして佐天は紙とペンをデスクの上に置き、椅子にどっかりと腰掛けた。薬が効いてくるまで、今まで散々やった説明を書き出してみるつもりだった。
コツンとペンの頭で、フォトスタンドを小突く。両親と弟と一緒に幼い佐天が写った写真。電話をすればいつでも繋がるし頻繁に連絡だってとっているが、すこし家族を遠くに感じていることも事実だった。
お盆はどうしよっかなー。初春とかと遊ぶ予定も色々立てちゃったし、帰ったら姉弟で遊ぶので時間つぶしちゃうだけだし、ちょっと面倒だな。
左手で頬杖をつき、右手は人差し指だけピンと立てる。真上を指差しているような格好だ。そして佐天は右手首から先だけをぐるぐると回した。綺麗な真円を描けるよう腕を動かすのが、佐天の癖だった。
「あー、思ったより効きが早いなあ」
薬が回ってきたときの独特の感覚に襲われる。食後だからだろうか、あるいは夜だと違うのだろうか。
こうなってから字を書くのはもったいないなと佐天は思った。もっと空想を思い描いたほうが、せっかくの薬を無駄にしないだろう。
「えっとなんだっけ。そう空気がゆらゆらしてて、こう、ぐるんって」
指を回して描いた円の中心に渦を思い描く。まあそれでいきなり渦を巻いたらそれこそ奇跡だろう、と佐天は気楽に笑った。
今度また薬を家に持って帰ろうか、と佐天は思案した。何人も人がいて空気がかき乱された部屋で風のことをじっと考えるのはイライラするような気がした。
「まあ無能力者の言い訳だけどね。……ってあれ?」
佐天が見つめるその虚空に、風の粒が見えた気がした。
この薬を飲んだときには、強く何かをイメージするとチラチラと幻覚が見えることがある。
佐天はいつものことだとパッと忘れようとして、軽い驚きを感じた。普段の授業で見る幻覚は、せいぜい一瞬見えて終わる程度のもの。ぼやけた像がほとんどで、何かが見えたとはっきり自覚するようなものなんて一つもない。
なのに。この指先にある空気の粒だけは、やけにリアリティがあった。
指をすっと走らせると、それにつられて空気の粒もまた揺らぐ。こんなにもはっきりと何かが見えたことはない。普段なら見えた幻覚をもう一度捉えようとしても二度とつかまらないのに、このイメージは眺めれば眺めるほど、自然に見えていく。
佐天は数分間、夢中でその幻覚と戯れた。何か、確信にも似た予感があった。
指でかき混ぜるほどに、漠然としたイメージが丁寧な肉付けを施され、色づけを行われ、さまざまな質感を獲得する。
幻覚というにはあまりにそこに存在しすぎている何か。それを、なんと言うのだったか。





パーソナルリアリティって、自分が心の中に思い描くアイデア、そういうものだと思っていた。
違うんだ。
あたしだけが観測できる、確かに目の前に起こるもの、それのことなんだ。
そしてつぶやく。目の前でゆらゆらと揺れる風の粒は、どうなるのだったか。
「風の粒は揺れていると、自然に渦を巻き始める」
その言葉を口にした瞬間、佐天はあの日一度だけ感じたあの感覚を思い出した。能力を行使したあの瞬間の、あの感覚を。





ヒトの感覚器官の遠く及ばない、ミクロな世界でそれは起こっていた。
約0.2秒、数ミリ立方メートルという、気の遠くなるほどの長い時間・広い空間に渡り、億や兆を超えるような気体分子がその位置と速度の不確定性を最大限に活用しながら、一つの現象を生じさせるように動いていく。
それは確率としてゼロではない変化。1億年後か1兆年後か、遥か那由他の果てにか。それは永遠にサイコロを振り続ければいつかは起こりうる事象。佐天の観測するそれは量子論のレベルで『自然な現象』だった。エネルギーや運動量、質量の保存則に破綻はない。ただ、今ここでそれが起こる必然、それだけが無かった。
途方もなく広い確率という砂漠の中から、たった一粒だけのアタリの砂粒をつまみとる。佐天がしたそれは、ただ、超能力と呼ぶほか無かった。

「あ……あ! これ、これって!!」
言葉にするのがもどかしい。風の粒が自分の意思でぐるぐると渦巻いたのを、佐天は理解した。
規模は大したことがない。なんとなく指の先がひんやりする気もする、という程度。
機械を使っても中々測れないかもしれないけど、風の見えないほかの人たちには分かってもらえないことかもしれないけど……!!
佐天の中に、自分が渦を起こしていると言う圧倒的な自覚があった。誰になんとも言わせない、それは明確な確信だった。
「すごい! すごい!」
世界に干渉する全能感。それを佐天は感じていた。
もっと大きな渦を、と望んだところで渦は四散した。だが不安はなかった。右手の人差し指を突き出し、くるりと回すと再び渦は生じた。
「あは」
馬鹿みたいに簡単に、空気は再び渦を巻いた。何度頑張ったって、痛くなるくらい奥歯を噛み締めて念じたって出来なかったことが、人差し指をくるり、で発現する。
自分の何気ない仕草が始動キーになることが嬉しかった。それは幼い頃に憧れたアニメに出てくる魔女の女の子みたいだった。その幼い憧れはすでに他の憧れに居場所を譲ってしまっていたが、あのアニメも自分がこの学園都市へ来たきっかけの一つだったと思い出す。
その能力で空が飛べるだろうかとか、そんな最近いつも描いていたはずの夢をほっぽりだして、佐天は渦を作ることに没頭した。


二次元的に描かれる渦や、名状しがたい複雑な三次元軌道で描かれる渦、そんなものをいくつも作った。
渦の大きさを膨らませるようこだわってみたり、より粒の詰まった渦を作るようこだわってみたり、遊びとしての自由度には全く事欠かなかった。
個数で言えばそれはいくつだっただろうか。疲労を感じると共にうまく渦が作れなくなってきて、ふと我に返った。
時計は、薬を飲んでから2時間を指していた。とっくに効き目は切れる時間だった。だから大丈夫だと思いながらも、今自分のやったものが全て幻覚ではと不意に不安を感じて、渦を作ってみる。
手元には確かに渦がある。佐天は五感以外の何かでそれを理解し、そして同時に気づいた。これでは誰か初春みたいな第三者に、自分が今能力を使っていることを確認してもらえない。
すぐに佐天はひらめいた。ハサミをペン立てから抜き、目の前に用意した紙を刃の間に挟んだ。しばしその作業に時間を費やし、そして実験を行う。
机の上に集めた小さな紙ふぶき。そのすぐそばで佐天はくるりと指を回す。
ふっと不安に感じて、しかしあっさりと渦の可視化に成功した。紙ふぶきは誰が見ても不自然に机の上で渦巻いていた。
「よかったぁ……」
これが自分の幻覚ではないという保証もなかったが、もしこれが本当に起こったことなら、初春あたりにでもすぐに確認してもらえる。
今から見せに行こうと佐天は考えつつ、ベッドに倒れこんだ。
能力を使うと疲労する、それは学園都市の常識だった。佐天は自分の疲れをきっと能力を使いすぎたせいなのだろうと判断した。
あーこれは寝ちゃうかも。初春のところに行かなきゃと思いながら、佐天の意識は睡魔に奪われていった。
多分大丈夫だと思う感覚と、明日になれば力を使えなくなっているのではと言う不安が脳裏で格闘していたが、どちらも睡魔を払いのけるような力はなかった。





髪を整えていると、けたたましいコール音がした。
「もう、こんな朝から誰ですの?」
当麻の着信音だけは別にしてある。だから、これはラブコールではなかった。
「もしもし」
「あ、婚后さんですか!」
「佐天さん? どうしましたの?」
「あのっ、渦が、渦が巻いたんです! あたし、能力が使えるようになったんです!」
「え――」
興奮した佐天の声を聞きながら、ありえない、光子はそう思った。アドバイスは彼女の役に立つだろうとは思っていたが、そんな一日や二日で変わるなど。
「本当ですの?」
疑っては悪いと思うながらも、懐疑を声に出さずにはいられなかった。
「はい! 昨日の夜に出来るようになって、今朝も試してみたらもっとちゃんとできるようになってて……! 紙ふぶきを作ったら、ちゃんと誰にもわかるようにグルグル回るんですよ!」
紙ふぶきを動かせる規模で能力を発現したのなら、充分第三者による検証に耐えられる。光子が一目見ればそれがどのような能力か、どれほどのものかも分かるだろう。だが、彼女とて学業がある。今すぐ確認しに行くわけにもいかなかった。
「是非、今日の放課後にでも見せていただきたいですわね」
「はい、もちろんです! その、婚后さんの能力に比べたらずっとちっぽけですけど」
それを言う佐天の声に卑屈さはなかった。
「そりゃあ一日でレベル4の私を追い越すなんて事は私の誇りにかけてさせませんわよ。それで佐天さん、一つ提案があるのですけれど」
「はい、なんですか?」
「学校でシステムスキャンをお受けになったらどうです?」
年に一度、学園都市の全学生を対象に行われるレベルの判定テスト。だが少なくとも年に一度は受けなければいけないというだけで、受検の機会は自由に与えられるものだった。
授業を公的に休んで受けることが出来るため、レベルの低い学生達によくサボりの口実に使われていた。受けすぎる学生はコンプレックスの裏返しを嘲笑されるリスクもあったが。
「え……っと、変わりますかね?」
レベル0から、レベル1へ。
「力の有無は歴然ですわ。紙ふぶきで実証できると言うのなら、おそらく問題はありませんわ」
その言葉に佐天は元気よく返事して電話を切った。携帯電話を鞄に仕舞って、朝からふうとため息をつく。
「案外、こういう簡単なことで化けるものなのかもしれませんわね」
そして光子は、学生が派閥を作ると言うことの意味を、ふと理解した。
同系統の高位能力者に指導を受けられることのメリット。それはたぶん、今の佐天でわかるようにとてつもなく大きい。そして光子はそんなことをするつもりはないが、佐天の能力の伸びる方向を自分は左右できる。それは自分の欲しい能力を持った能力者を用意できるということだった。
「そりゃそれだけ美味しいものでしたら、他人には作らせたくありませんわね」
そしてそれ故にしがらみもきっと色々とある。学園内で派閥を作ってみようと考えたこともあった光子だが、浅ましい利害で能力開発の指導をしたりするのは光子にとって不本意だった。自分がやるなら今の自分と佐天のような、他意のないおままごとで構わないと思った。




朝の学校。職員室に行って担任に相談した。そしていつもならうんざりするテストを、やけに緊張して受ける。
低レベルの能力者の集まる学校にはグラウンドやプールを使うような大掛かりな測定はない。小さな部屋で済むものばかりだった。
手の空いた先生が時間ごとに代わる代わる測定に付き合ってくれる。一つ一つの項目をこなすごとに、佐天の自信は深まっていった。
今までとは比べられないくらい、判定があがっているのだ。そこにはレベル1の友達となんら遜色ない数字が並んでいた。
「前回のシステムスキャンから一ヶ月やそこらでこれか。佐天、何があったんだい? 佐天みたいなのは年にほんの数人しかいないね」
「珍しいんですか?」
書類を書きながら笑う担任の若い男性教諭に、佐天はそう質問を投げかける。
「何かをきっかけに能力が花開くってのはよくあるけど、そこからこんなに伸びるというのはあんまりないんだよ。おめでとう、佐天」
担任は、祝福するようににこりと笑って、結果を佐天に差し出した。
「あ……」
佐天の顔写真が載ったそのカードには、レベル1と、確かに記載されていた。



*********************************************************
注意書き

大量にオリジナル設定が登場しているので原作設定との勘違いにご注意ください。
佐天の能力はアニメで手のひらの上に渦が巻く描写がありますが、細かい設定は公表されていません。マンガ版ではどのような能力が発現したかの描写自体がありません。アニメのブックレットにて空力使いと書かれているようですが、空力使いが大気操作系能力者の総称なのかなど、未確定な点は多いようです。
婚后の能力は原作小説には『物体に風の噴出点を作りミサイルのように飛ばす能力』『トンデモ発射場ガール』とありますが、そのミクロなメカニズムについては言及されていません。またこのSSでは噴出『点』と書かれた原作の『点』という言葉の意味を面積を定義できないいわゆる一次元の『点』とは捉えず、単に『スポット』として捉え、正しくは噴出『面』である、という解釈を行っています。
またこの話で出した学園都市のカリキュラムや投与される薬物が幻覚作用を持っていること、パーソナルリアリティの解釈などはオリジナルです。詳細を語らない原作と未だ矛盾はしていないかと思いますが今後は分かりません。

こうした解釈・改変を加えることは今後も充分にありえますが、まあSSの醍醐味の一つと思って許容してくださるとありがたいです。
今後ともよろしくお願いします。



[19764] prologue 05: 能力の伸ばし方
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:28
「さて、それでは始めましょうか」
「はいっ! よろしくお願いします!」
その講義が待ち遠しくて仕方なかったように、朗らかな表情で佐天は返事をした。
常盤台中学の敷地内にある小さな建物、その一室。そこへと光子は佐天を導いていた。佐天が建物に入る直前に見たプレートには流体制御工学教室と書いてあった。そして建物内に入り光子が教師と思わしき白衣の女性に一声かけて鍵を貰うと、この教室を案内されたのだった。
部屋のサイズは学校の教室としては小さく、一般家庭のリビングぐらいだった。お嬢様学校らしい外装とは裏腹に、床はシンプルな化学繊維のカーペットが敷いてあり、壁は薄いグレー、そして厚めの耐火ガラスがはめ込んである。佐天のイメージでは、むしろ企業のオフィスに近かった。
「まずは……そうですわね、今貴女が作れる最も大きな物理現象を見せていただけるかしら?」
涼しい空気に一息ついたかと思うとすぐに、婚后からそう指示が来た。
「はい」
その一言で、佐天は周りの空気の流れを感じ取る。ほんの数日前にはできなかったはずなのだが、今では五感を効かせるのと変わらない。それほど佐天の中で自然に行うことになっていた。
部屋はエアコンが効いているというのに不自然な風を佐天は感じなかった。この部屋は気流に気を使っていて、それが自分をこの部屋に案内した理由なのだろうと佐天は気づいた。
そっと手を胸の高さまで持ち上げ、手のひらを自分のほうに向ける。それをじっと見つめると、手のひらの上でたゆたっていた空気の粒がゆらりと渦を巻く。きゅっと唇を横に引き、鈍痛を覚えるくらい眼に力を入れて、より大きな、より多くの空気を巻き込んだ渦を作るよう意識を集中する。
「あら」
光子は思わず驚きの声を上げた。能力が発現したと電話を貰ったその日の放課後に見た渦より、3倍は大きかった。渦の終わりを厳密に定義するのは難しいが、佐天がコントロールしている渦はおよそ直径15センチ。レベル1の能力としてなら誰に見せても恥ずかしくない規模だった。明らかに、成り立てのレベル1域を超えていた。
「こんな、とこです。あ!」
佐天が光子に何かを言いかけてコントロールを失った。二人とも髪が長く、それらが部屋にはためいた。生ぬるい風が肌を撫ぜていく感覚に、改めて光子は驚きを感じた。
「渦流の規模も大きくなりましたし、その巻きもタイトになりましたわね。貴女、きっと才能がおありなんですわ」
「はい? え?」
才能があるなんて言葉は、佐天は生まれてこのかた聞いた覚えがなかった。
「才能って、アハハ。婚后さん褒めすぎですよ」
「そんなことありませんわ。流体操作系の能力者は低レベルであってもかなりの規模を操れますからレベル2の認定を受けるのには苦労があるかもしれませんけれど、貴女は私と同じでちょっと変わった能力者ですもの。その能力の活かし所や応用価値を正しく理解して申請すれば、レベル3より後はずっと楽ですわ」
「へっ?」
やや熱っぽく褒める光子に佐天は戸惑った。念願のレベル1になれて、佐天は自分の立ち位置に今はものすごく満足しているのだ。もっと上を目指せるといわれても、まだピンとは来なかった。
「あの、能力が変わってると後が楽なんですか?」
「ええ、勿論。その能力の応用価値が高いほどレベルは高くなりますもの。空力使い(エアロハンド)や電撃使い(エレクトロマスター)のような凡百な能力の使い手は、高レベルになるためにはそれはそれは大変な努力が必要ですのよ。その意味で、凡庸な能力でありながら学園都市で第三位に序列される常盤台の超電磁砲は相当のものですわよ」
光子はそう言い、パタンと扇子を閉じた。
「貴女の能力がどのような応用可能性を持つか、まだまだ判断するのは尚早ですわね。どんな風に力を伸ばしていくのか、よく考えないといけませんし」
「はあ」
佐天にとって光子の言は高みにいる人の言うことであり、どうもよくわからなかった。
「では、色々と試していきましょうか。少々お待ちになって」
そう告げて光子は部屋の片隅にあったボウルを手にした。部屋を出て純水の生成装置についたコックに手を伸ばす。気休めにボウルを共洗いしてから、惜しまずたっぷりと2リットルくらいの純水を張った。
部屋に戻り、佐天の目の前の机に乗せる。佐天が怪訝な顔をしていた。
光子は厳かに告げる。
「貴女が空力使いかどうかを、確かめますわ」
「……はい?」
佐天は間の抜けた答えしか返せなかった。
「たまにいるんですのよ、流体操作の能力者には水と空気の両方を使える人が。渦を作る能力なんてどちらかといえば水流操作の分野ですし、試してみる価値はありますわ」
「はあ……」
運ばれてすぐの、大きく波打つ水面を眺める。動かせる気がこれっぽっちもしなかった。
ふと目線を上げると、失礼します、という素っ気無い声とともに白衣の女性が入室し、てきぱきと小型カメラがいくつもついた機械をそのボウルに向かって備え付けだした。
「水流を光学的に感知する装置、だそうですわ。私も水は専門外ですから装置を使いませんとね」
打ち合わせは済んでいるのか、光子が白衣の女性と二三言交わすと、すぐ実験開始となった。


「……ぷは、あの、どうですか?」
光子を見ると、光子が白衣の女性のほうを振り返る。無感動にその女性は首を振った。
「駄目らしいですわね。やっぱり水は無理ということかしら。佐天さん、なぜできないのかを考えて説明してくださる?」
「せ、説明って。あの、私自分のことを空力使いだと思うんです。水は空気じゃないし……」
困惑するように服の裾を弄ぶ佐天を見て、婚后は思案する。
「気体と液体、どちらも流体と呼ばれるものですわ。その流れを解析するための演算式なども、ほとんど同じですのよ。超高温、超高圧の世界では両者の差はどんどんとなくなって、気液どちらともつかない超臨界流体になりますし。ですから、空気も水も一緒だと思って扱ってみるというのはどうでしょう?」
光子は自分自身が液体を扱えないので、想像を交えながら案内をする。師である自分に自信が無いのを理解しているのか、佐天の表情も半信半疑だった。
「うーん……」
佐天もピンと来ないので戸惑っていた。何より、早く別の、空気を扱えるテストに移りたい。
「ああ、そういえば貴女は流体を粒の集まりとして捉えてらっしゃるのでしょう? 水もそれは同じなのですから、その認識の応用を試してはいかが?」
「粒……水の粒……」
あの日、空気がふと粒でできたものに見えた瞬間の感覚を思い出す。水の中にそれを見出そうと、水面をじっと見つめる。
なんとなく、水を粒として見られているような気もする。だが勝手が全く空気の時と違った。これっぽっちも揺らがないのである。佐天にとって空気の粒は『ゆらり』とくるものなのだ。それが渦の核となる。水には、その核を見出すことはできなかった。
ふう、と大きく息をつく。それにつられたのか婚后も軽くため息をついた。
「無理そうですわね。空気と同じようには認識できませんの?」
「そうみたいです。すみません」
「謝る必要はなくてよ。貴女の力の伸びる先を見極めるための、一つのテストに過ぎませんもの。残念に思う必要すらありませんわ。でも、なぜ無理なのかはきちんと言葉にしておいたほうがよろしいわ。そのほうが、自分の能力がどんなものかをより詳しく把握できますから」
「はい。……なんていうか、水はゆらっと来ないんですよ。粒に見えたような気もするんですけど、動きが硬いって言うか」
「圧縮性の問題かしら?」
時々光子は佐天に分からない言葉を使う。それは能力の差というより学んできたものの差だろう。佐天は知識の不足を実感していた。
「圧縮性? あの、どういうことですか?」
「空のペットボトルは潰せるけど、中身入りのは無理ってことですわ。空気は体積に反比例した力がかかりますけれど、圧縮が可能です。しかし水はそれができない。分子はぎゅうぎゅうに詰まっていますから」
その説明で佐天はハッと気づく。
「あ、たぶんそれです。粒が詰まってて、上手く回せないんですよね」
「圧縮性がネック……典型的な空力使いですわね」
光子がやっぱりかと諦める顔をした。パタンと扇子を閉じて白衣の女性を振り返り、ボウルと観測装置を片付けさせた。


「それじゃあ次は何にしようかしら、非ニュートン流体はもう必要ありませんわね。水が無理ならどうせ全部無理ですわ」
また佐天には分からないことを呟きながら、光子は小麦粉を取り出した。
「次のはなんですか? ……なんていうか、あたしが想像してたのと全然違う実験ばっかりでちょっと戸惑ってます」
小麦で何をするというのだろう。思いついたのは小麦粉の中に放り込まれるお笑い芸人の姿だった。もちろん、実験とは関係ないだろう。
「いきなり水でテストして困らせてしまったわね。でも、ここからは多分、得意な分野だと思いますわ」
スプーンで市販の小麦粉のパッケージから小麦粉を掻き出し、机に置いた平皿に出した。ふと思いついたように光子が佐天を見た。
「静電気の放電や火種は粉塵爆発の元ですから危険ですわ。夏場ですから放電は大丈夫として、佐天さん、ライターなどはお持ちではありませんわね?」
「ライターなんて持ってませんよ」
この年でタバコなんて吸わない。発火能力者(パイロキネシスト)の真似をして遊ぶのには使えるが。
「では、これで渦を作ってくださいな」
そう言って、光子はスプーンの上の小麦粉を宙に撒いた。白いもやがかかった空気が緩やかに広がりながら、地面へと近づいていく。
佐天が驚いてためらっているうちに、視界を遮るような濃い霧は消えてしまった。
「やることはわかってらっしゃる?」
その一言でハッとなる。
「あ、はい」
「スプーンでは埒が明きませんわね。これで……佐天さん、どうぞ」
平皿を小麦粉の袋に突っ込んで山盛りに取り出し、光子はそれを高く掲げた。そして皿を振りながら少しづつ小麦粉を空中に飛散させる。
空気中に白い粉体が飛散することでできたエアロゾル。いつか見たテレビ番組と同じシチュエーションだ。
目の前の白い霧はむしろ自分の親しみのあるものだと気づくと、あとは水とは大違いだった。
50センチ四方に広がるそれに手をかざすと、その全体が銀河のように渦巻きながら中心へと向かった。
「すごい」
思わず佐天はこぼす。眼に見えるというのは、すごいことだった。普段だって空気の粒は見えている気でいるが、能力の低い佐天には描けないリアルさというものがある。粉体を使うことでそれはあっさりとクリアされ、いつもよりずっと精密で大規模なコントロールを実現していた。
普段はグレープフルーツ大が限界なのに、今はサッカーボール大の白い塊が手の上にあった。その球の中で小麦粉は勢いよくうねっており、時々太陽のプロミネンスのように表面から吹き上がり、そしてすぐに回収されていく。
「私の予想通りですわね。エアロゾルはむしろ得意分野、ということですわね」
「そうみたい、ですね。ってあ、やば!」
言われるままに渦を作ったが、よく考えれば佐天はいつも制御に失敗すると言う形で渦を開放するのだ。少しずつ弱らせていくとか、そういうことはできなかった。
もふっ、と音がした。隣を見ると光子の制服と顔が真っ白だった。それは、往年のコメディの世界でしか見られないような光景だった。
他人がやっていると笑えるが、まさか常盤台のお嬢様に対して自分がやるとなると、もう冷や汗と乾いた笑いしか出てこない。
「すっ、すみません! ほんとにごめんなさい!」
あっけにとられた光子はしばらくぽかんとして、そしてクスクス笑い出した。
「いいですわ。実験にはこういう失敗があっても面白いですし。それにしても、あなたのその能力、罰ゲームか何かでものすごく重宝しそうですわね」


建物の外に出て湿らせたハンカチで顔をぬぐい、服と髪をはたいている間に研究員が部屋を掃除してくれたらしかった。
「それでは次の実験に参りましょうか。最後に残してあるのはお遊びの実験ですし、これが本題になりますわ」
「あ、はい」
「3つ試していただきたいの。可能な限り大きい渦を作ることと、可能な限り密度の高い渦を作ること、そして可能な限り長い間渦を維持すること。以上ですわ」
「わかりました。じゃあ、大きいのから頑張ってみます」
軽く息を整えて、より大きく、世界を感じ取る。佐天は粒だと思って見えた領域しか集められなかった。だから、渦の規模を決めるのは空気が回ってからではなくて、それ以前の認識の段階だ。
手のひらをじっと見る。その手の上に乗るくらいの塊が、佐天が掌握できる世界だった。
「く……」
もっと大きく掴み取りたい、そう思った瞬間だった、掌握した領域の中心で空気の粒がゆらりと動いて見えてしまった。そして次の瞬間にはもう渦が巻いていた。
グレープフルーツ大、先ほどと同じ程度の渦ができて、佐天の手の上で安定してしまった。
「これくらいが限界みたいです」
出来上がった気流を見せながら、佐天はそう報告した。当然のことながら気流は視覚では捉えられない。だが、二人の空力使いたちは何の問題もないように、気流は見えるものとして話を進めていた。
「今日初めに見せていただいたのよりは、ほんの少しだけ大きいようですわね。でも、あんまり大きいとは言えませんわ」
「うーん……その、渦になる前にどれだけの空気を粒として掴めるかが大事で、それが中々難しいんですよねえ」
二度三度と渦を作るが、いずれも15センチ程度が限界だった。
「成る程……では能力発現前の認識領域を拡大できれば渦は大規模化できますのね?」
「ええっと、多分。そんな気がするんですけど」
自分の能力だが決して完璧に理解しているわけではない。佐天は自信なさげに応えた。
「では先ほどの、小麦粉交じりの空気を使って渦を作る練習が効果を上げそうですわね。ああいった練習を毎日なさるといいわ」
「はい。あの、でも毎日小麦粉を浴びるのは……」
「ああ……確かにそれは難儀ですわ。渦を消失させるところまで上手く制御できませんの?」
「頑張ってみます」
そうとしか言えなかった。ただ、その答えは佐天も光子もあまり満足する答えではない。
「ええ、最後までコントロールしないと能力としては不完全ですからね。……あ、確か繁華街の広場に、水を霧にして撒いているところがありましたわね?」
ふと思いついたように光子が顔を上げる。
「あ! はい。それ知ってます。もしかしてそれを使えば……」
「もとより人に浴びせるために用意してありますし、誰の迷惑にもなりませんわね。水滴は小麦粉と違って合一してしまうのが難点ですからうまく行かないかもしれませんが、お金もかかりませんし試す価値はありますわね」
「はい、じゃあ昼から早速試しに行ってみます!」
初春とデザートの美味しい店でランチをする気だったのだ。そのついでとしてちょうど良かった。スケジュールを簡単に頭の中で調整する。
「ええ、そうされるといいわ。ふふ、そういう貪欲な姿勢、嫌いではありませんわ。さてそれじゃあ、次の課題もやっていただきましょうか。可能な限り渦を圧縮して御覧なさい」
「はい」
休憩も取らず、佐天は一番慣れてやりやすい10センチ台の渦を作る。そして慎重に、渦の巻きをぎゅっと絞っていく。
佐天は呼吸を止めた。渦を圧縮すると内部の気流が早くなり、コントロールが難しくなるのだ。
野球のボールより一回り大きかった渦がキウイフルーツ大になったところで、ぶぁん、と鈍い音がして渦が弾け飛んだ。
佐天は残念そうな顔をしていたが、光子は驚きを隠せなかった。そして頬を撫でる風が生ぬるいことに気づいた。
「んー、これくらいが限界みたいです」
何度か繰り返したが、同程度の圧縮率だった。
「これくらいっておっしゃいますけど、貴女、圧縮率だけならレベル1を軽くクリアできますわね」
光子が少し驚いた顔で、佐天にそう告げた。
「佐天さん、直径が半分くらいになるということは、体積はその3乗の8分の1くらいに圧縮していますのよ。空気は理想気体ではありませんから誤差含めてですけれど、つまり渦の中心は8気圧まで圧縮されているのですわ。普通の空力使いがこのような高い気圧の流体を作ろうと思えば、レベルで言えば3相当が必要になりますわ」
やりますわね貴女と光子が微笑みかけると、佐天は自分を誇れることが嬉しいといわんばかりのささやかな笑みを浮かべた。
「あんまり意識してなかったけど、あたしってこれが得意なんですかね?」
「発現方式が違うから秀でて見えるだけで、それが貴女にとっての得意分野かどうかは分かりませんわ。もちろん得意でなくとも人よりは高圧制御が可能でしょうけれど」
「ちなみに婚后さんはどれくらいまでいけるんですか?」
「私? 私は分子運動の直接制御をしておりますから、圧力を定義するとかなり大きくなりますわよ。圧力テンソルの一番得意な成分でよろしければ、100気圧程度は出せますわ」
自慢げな声もなく、光子の応えは淡々としたものだった。
「ひゃ、百ですか。アハハ、褒めてもらいましたけど婚后さんに比べれば全然ですね」
「比較は無意味ですわ。貴女には私の能力は使えませんし、私が渦を作ろうとしたらあなたより拙いものしか作れませんもの。さて、それじゃあ最後のテストですわ。かなり消耗するでしょうけれど、それが狙いでもありますわ」
「はい、なるべく長く渦を持たせればいいんですよね」
手ごろなサイズの渦を作って、目の前に持ってくる。浅く静かに息をしながら、佐天は渦の維持に努めた。

じっと固まった佐天を横目に、光子は温度計を用意した。測定部がプラチナでできた高くて精度のいい温度計だ。携帯電話みたいな形状で、デジタルのメーターが、少数第3位と4位をあわただしく変化させている。
エアコンの設定温度は26.0℃だ。最先端の技術で運転しているそれは、この部屋の温度を極めて速やかに0.1℃の精度で均一にするよう作られている。温度計の数字はエアコンの性能をきちんと保証するように、少数第2位までは26.0℃と表示されていた。
その温度計を、佐天の渦の傍に持っていく。光子とて空力使いであり気体の温度くらいは読み取れるが、他人の能力の干渉領域にまでは自信が無いし、なにより数字を佐天に見せてやりにくい。
温度計が示す直近1秒間の平均温度は24.1℃から25.4℃の間を揺れている。室温26.0℃のこの部屋の、それもエアコンから遠い部屋の中心が設定温度以下と言うのは明らかに不自然だった。その数字は、佐天が周囲の熱をも渦の中へと奪っていっていることを意味する。
……いえ、違いますわね。常温で進入した空気が、外に漏れるときには運動エネルギーを奪われ、冷えて出てきているのでしょう。だから周囲が冷えている。……ということは。
ちょうど2分くらいだっただろうか、佐天が苦い顔をした瞬間、渦はほどけてあたりに散った。その風が温度計のあたりを通過すると、数秒間だけ42.2℃という高温を示した。
佐天がストップウォッチを見て、
「ふう、2分12秒かあ。最高記録はこれより30秒長いんですけどね。すいません、あんまり上手くできなかったみたいです」
「いえ、結構ですわ。この3つのテストは私に会うたびに定期的にやるつもりですから、記録をとって伸びたかどうかを見つめていきましょう。それより、面白いデータがありましたわよ」
「なんですか? ……あ、それ温度計なんだ。ってことは、なんか温度が高くなってたとかですか?」
「ああ、自覚がありましたの」
「はい。空気をぎゅっと集めると、あったかくなりません?」
「断熱圧縮なら温度は上がりますわね。圧縮するために外から加えた仕事が熱に変わりますの。ですが、もし渦の中から外に熱を漏らしていたら、極端な話温度は一切上がりませんわよ。これが等温圧縮ですわね。……あら?」
光子はおかしなことに気づいた。佐天は念動力使いではないから、渦は外から力を加えて作ったものではない。すなわち圧縮は誰かに仕事をされてできた結果ではなく、ハイゼンベルクの不確定性原理を最大限に利用した、あくまでも偶然の産物なのだ。数億、数兆という分子がたまたま偶然に、いっせいに渦を作る向きに動き出しただけ。
そのような不自然な渦がどのように熱を持つのかなんて、光子には理解する方法がない。能力をもっと理解した未来の佐天にしか理解できないだろう。
「……一つ言えるのは、貴女の渦は熱を集める性質がある、ということですわね」
「へー。……言われてみると、そんな気もするような」
「よく熱についても見つめながら能力を振るうようになさい。水流操作系と違って我々空力使いは熱の移動も重要な演算対象ですわよ。圧縮性流体を扱うものの宿命です」
「はい」
「それよりも、面白いのは別のところですわ。渦の周りの温度が下がっていましたの。貴女、これの意味はお分かりになって?」
「え? だから、圧縮で渦が熱を持ったってことじゃ……」
「いいえ。貴女は渦を作るのに仕事を必要としていません。なのに温度が上がるのは渦を作るときに周囲から熱を奪い取っているのですわ。そして、当然周りの温度は下がったでしょう。その時に室温は0.1度くらいは下がったかもしれません。でも2分もあればこの部屋のエアコンは26.0度に戻しますわよ」
「はあ」
光子の説明が学術的過ぎて、佐天は余所見をしたり頭をかいたりしたくなる衝動を押さえつけなければならなかった。
「渦が完成してからしばらくも渦の周りが冷えていると言うことは、その渦は、出来上がったときだけではなく恒常的に、外から入った空気の熱を奪い、漉しとり、蓄える機能を持っているということです。空力使いという名前と渦という現象を見れば軽視しがちかもしれませんが、あなたの能力にとって熱というのは重要な要素な気がしますわね」
「熱を、集める」
「ええ。いい能力じゃありませんか。暑い室内で渦を作って熱を集めて、部屋の外に捨てれば部屋の温度を下げられますわね。人力クーラーといった所ですわ」
「あ、そういうことに使えるんだ。それ電気代も浮くし便利ですね」
そう佐天が茶化して言うと、
「あら、結構真面目に言ってますのよ。能力を伸ばすには色々な努力が必要ですけれど、そのうちの一つは慣れですわ。毎日限界まで能力を使おうとしても、単調な練習は中々続きませんもの。部屋を涼しくするなんて、とてもいい目標だと思いますけれど」
そんな風に、真面目な答えが返ってきたのだった。


ちょっと休憩を挟んで、佐天が連れてこられたのは小さな部屋だった。4畳くらいしかないのに、天井は建物の最上階まで突き抜け、4メートル近くあった。
「これ……」
「燃焼試験室ですわ。私がかかわっているプロジェクトの一つですの。より高性能なジェットエンジンの開発を目指して、燃焼部の設計改善に取り組んでいますの。私の力で時速7000キロまで絞り出せるようになりましたのよ。夏休みが終わる頃には実証機が23区から飛び立つようになるでしょうね」
光子がそう自慢げに言った。万が一そんな飛行機に乗ることになったら中の人は大変なことになるんじゃないかと佐天は思ったが、口には出さなかった。
「えっと、それで何をすればいいんですか?」
「先ほどと同様、私が霧を作りますからあなたはそれを圧縮すればよろしいの」
「はあ、分かりました」
「言っておきますと、結果次第では貴女にお小遣いを差し上げられますわ」
「お小遣い、ですか?」
「ええ。可燃性エアロゾルの圧縮による自然爆発、これはディーゼルエンジンの仕組ですけれども、航空機用ディーゼルは完成して日も浅いですから改善の余地がまだまだありますの。貴女がそこに助言を加えられる人になれば、かなりの奨学金が期待できますわよ。すぐには期待しませんが、可能性のある人として月に1万円くらいなら私に与えられた予算から捻出して差し上げますわ」
「ほ、ホントですか! 現金なリアクションで恥ずかしいんですけど、できればもうちょっとお小遣いが増えたらなー、なんて思ってるんですよね」
恥ずかしげに佐天は頭をかいた。
「協力してくれる能力者の育成と言えば10万円でも20万円でも出ますけど、そうすると成果報告が必要になってしんどい思いをしますわ。とりあえず、貴女の伸びをもう少し見てからそういう話はすることにしましょう。まずは、実験をやっていただかないと」
その言葉に従い、佐天は今いる準備室と思われるところからその部屋に入ろうとした。光子がそれを止める。
「あれ、入らないんですか?」
「貴女がそこに入って実験をすると、爆発に巻き込まれますわよ?」
クスクスと光子は笑う。壁のボタンを押すと、準備室との間の壁が透明になった。
「今から、部屋の内部にケロシン……液体燃料の霧を放出します。手で触れられはしませんけれど、壁が薄いですから操れますわね?」
「はい、窓越しに渦を作ったことくらいはあるんで、何とか……」
「では行きますわ」
光子がそう言うと、密閉された実験室の壁からノズルが伸びて霧を吐いた。さっきも自覚したが、霧は束ねやすかった。渦が手の上にないというハンデはそれでチャラだった。
「なるべく長い時間、なるべく強く巻いてくださいな」
「……」
佐天は返事をせずに、渦に集中する。
1分ほどかけてサイズを半分にしたあたりで、突然、渦が佐天の制御を離れた。いつもの渦の制御失敗とは違っていた。
ボッ、という音と共に渦が爆発する。青白い光はすぐさまフィルターされ、眼を焼かない程度になって佐天達に届いた。
「ば、爆発?!」
思わず佐天は一歩のけぞる。光子は平然としたものだった。
「ええ、燃料は混合比と温度次第で自然着火し、爆発しますのよ。炎の色も悪くありませんし、お小遣いはちゃんとお支払いしますわ。まあ、その代わりにこの実験にはこれからも付き合っていただきますけれど」
「はい。喜んで参加させてもらいます! なんか、嬉しいです。まだまだお荷物なんでしょうけど、自分の能力が評価されるのって、いいですね」
「ええ。私もそう思いますわ」
光子はにっこり微笑んだ。そしてふと時計を見て、
「あら、もうこんな時間ですの。そろそろお仕舞いにしますわね。お昼には私、ちょっと用がありますの」
なんてことを喜色満面で佐天に言うのだった。
「婚后さん、それってもしかして」
佐天は思う。この人は自分の考えていることをあんまり隠せない人だ。こんなお花畑いっぱいの笑顔を見せるって、そりゃあやっぱり、ねえ。
「え? あ、オホン。別に大したことではありませんわ」
「彼氏さんと遊ぶんですか? どこに行くんです?」
「な、どうしてそう思われますの? ……まあ、『光子の手料理が食べてみたい』なんて言われましたから、今からお作りしに行くのですけれど」
しぶしぶなんて態度を見せながらそりゃあもう嬉しそうに言うのだ。
「はー、婚后さんオトナですねぇ」
「お、大人って。私達まだそう言う関係じゃ……」
ぽっと頬を染めて恥ずかしがる光子を見て、この人うわぁすごいなーと佐天は思った。
この人につりあう男の人ってどんな人だろう。あたしが派手だと思うようなことを平気でしちゃいそうだもんね。きっとお金持ちで、心の広そうな好青年で、学園都市の理事長の孫とかそういう冗談みたいな高スペックの人間じゃないとこの人は抱擁しきれないと思う。
「ま、まあ深くは突っ込まないことにしておきます。それじゃあ、あたしお暇します」
そう佐天が告げると光子がはっと我に帰った。
「ああ、ちょっと待って。最後に確認をしておきましょう。よろしいこと? 当面目指すのは三つ。掌握領域の拡大と、圧縮率の向上、そして制御の長時間化。毎日どれくらい伸びたかを記録なさい。当分は家でもどこでもできるでしょうから」
「わかりました」
「掌握領域の拡大に関しては、エアロゾルを使うのが一つの工夫でしたわね。小麦粉を飛ばしたり、広場の水煙などを利用してみること」
「はい」
「そして熱の流れも意識するようにして圧縮を行うこと。貴女は単なる気流の操作よりも、熱まで含めて圧縮などを考えるような制御のほうが向いてる気がしますわ」
「はい」
「そして最後。上級生の補習に顔を出して微積分の勉強をなさい。今はまだ感覚に頼って能力を発現していればよろしいですけれど、それではすぐに頭打ちになりますわ。微積分は流体操作の基礎の基礎ですから、夏休み前半の補習が終わるまでには偏微分までマスターしていただかないと」
「う……」
微積分というのは3週間でマスターできるようなものなのだろうか。佐天は不安になった。
「そう嫌な顔をしなくても大丈夫ですわ。空気の流れを計算できるくらいに慣れてきたら、むしろ面白くて仕方なくなりますわよ」
「あー……、はい、頑張ります」
「よろしい。では、常盤台の外までお送りしますわ」
光子の顔は、すでにこれからのことを考えているようだった。


その頃。当麻はスーパーまで走っていた。エアコンの効いた店内の風が気持ちいい。
部屋の掃除はすでに終わらせた。だが、昨日の停電のせいで冷蔵庫の中身は全滅だ。あと一時間もすれば光子が部屋に来て料理を作ってくれることになっている。だが、ちょっとした食材くらいは余分においておかないと、いざというときに足したり、あるいは失敗したときのフォローがきかない。
「まさか腐って酸っぱくなった野菜炒めなんか食わせるわけにいかないしな」
そんなくだらない冗談を呟きながら、キャベツやにんじん、少々の鶏肉を買い込むのだった。
空は布団を干せばきっとお日様の匂いをたっぷり吸い込むであろう絶好の晴天。そう、今日は記念すべき夏休み第一日目だった。




[19764] prologue 06: 彼氏の家にて
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:28
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
ーーーーいーはーるーぅぅぅ、と続くであろう、佐天の声が後ろでする。
「今日は! 断じてさせません!」
不意打ちで何度も何度もご開帳をさせられてきたのだ。今日という今日はきっちりと防ぎきって、このスカート捲りが好きな友人にお灸をすえてやらねばなるまい。
初春はそう決心し、佐天の手を迎撃すべく両手を伸ばした。素直に自分のスカートを押さえることはせずに。
「ぅぅぅるゎせんがーーーーん!!!!!」
今日の佐天は、今までと違っていた。
佐天が、ついこないだ能力に目覚めたことを初春は知っている。一番にそれを聞き、そして共に喜んだのは彼女だった。だから佐天の行動様式の一つに、能力を使ったものが追加されるのは自然だった。
螺旋丸? と、それが小学生の頃に流行った忍者アニメの主人公の必殺技名だったことを思い出す。
おかしいなと思いながらも、なぜか自分のスカートに手を触れようとしない佐天の腕を拘束したところで、ぶわっとした上昇気流と共に視界が暗転した。

「え、ええっ?」
初春のくぐもった声を聞きながら、佐天は成功しすぎて、むしろヤバッと思った。
人通りの少なくないこの道の往来で、フレアのスカートが思いっきりまくれあがって視界をふさぐ、いわゆる茶巾の状態にまでなっている。初春がワンピースを着ていたせいで捲れるのが腰でとどまらず、おへそどころか見る角度によってはブラまで行ってしまっている辺り、これは大成功と言うより大惨事なのではなかろうか。
「あ、あ……」
何が起こったのかを理解した初春が、眼をクルクルさせながら真っ赤になっている。
佐天はもう笑うしかなかった。
「アハハ、今日も可愛らしい水玉じゃん。その下着、四日ぶりだね。上下でセットのをつけてるなんてもしかして気合入ってる?」
「さささささささ佐天さーん!!!!! なんてことしてくれるんですか!」
テンパった初春の非難をを笑って受け流しながら、佐天はぽんぽんと初春の肩を叩いた。
「やーごめんごめん。今日も婚后さんに色々教えてもらっちゃってさ、出力が上がったみたいだから初春のスカートくらいなら持ち上がるかなーって。そう思うと、やっぱ試したくなるでしょ? 私もやっと夏場の薄いワンピースくらいなら突破できるようになったかあ。冬までには重たい制服のスカートを攻略できるように、頑張るよ!」
「そういう能力の使い方はしなくていいです! 螺旋丸なんて名前までつけちゃって……」
初春が膨れ顔でそっぽを向いた。
「え、でもこの名前あたしは気に入ってるんだけどな。能力的な意味で佐天さんは『うずまき涙子』なわけだし」
アニメよろしく手のひらに渦を作って突き出している佐天を見て、初春はため息をついた。
「確かに、あの主人公も佐天さんと同じでスカート捲りとか好きそうでしたもんね」

佐天の提案で大通りの交差点にある広場にたどり着く。その広場のモニュメントからはシューとかすかに音がしていて、水が霧になって噴出している。デザインはいかにも西洋風のキューピッドなのに、水を流す細いパイプとポンプの動力を得るための黒い半透膜、有機太陽電池でできているあたりは学園都市だった。
「ここで試したら、どれくらいの大きさの渦を作れるんですかね?」
自分のことのように嬉しそうに、初春はそう聞いた。
「やってみなきゃわかんないよ。でもさっきは50センチくらいの塊を集められたからそれよりは大きくできるといいな、って」
どこまでできるか、佐天はワクワクしながら霧の噴出し口に近づいた。近くには小さい子達がはしゃぎ回っていた。
「む……」
今日は風が強い。そのせいか気流がやけに不安定で、霧は5秒もすれば散逸してしまっていた。
「これはちょっと、難しいかも」
「風、強いですもんね」
初春がそう相槌を打つ。
「漂ってる霧を手に取るのが一番なんだよね。吹き出てすぐのは、流れが不自然で集めにくくって」
「こう、綿あめみたいにぐるぐる巻き取るのはどうでしょう?」
屋台のおじさんみたいな仕草で腕をグルグルさせる初春を佐天は笑った。
「初春上手だね、真似するの。……でも、いい案かもしれない」
噴出し口を眺めていると、その流れにはかなりのパターンがあった。そして一定量が継続的に噴出する。
綿あめというよりも、トイレットペーパーを手にくるくる巻き取るようなイメージで、佐天は水霧を巻き取った。
「お、お、お……」
一つの口から吹き出る霧の量は知れている。そのせいか、5秒たっても10秒たっても、佐天はまだまだ集められた。
「すごい! 佐天さん、かなり沢山集められてますよ!」
手の上に50センチくらいの大玉ができた。束ねるのがちょっと危うい感じがしたので、佐天はそこで集めるのを止めた。
「いやー、今までの最高記録の3倍くらいになっちゃった。あ、直径じゃなくて体積なら……27倍?」
佐天の体感では「3倍」だった。どうも、集めた体積よりも集まったときの直径で自分はサイズを評価しているらしい。
「なんかこんなに濃く集めると、霧っていうより雲ですね。触っても大丈夫ですか?」
初春がそんな感想を口にしながら、指を突き出した。
「うん、いいよ。まだあたしの能力じゃ怪我する威力にならないし」
自分でも試したことがあるから知っている。初春の指が流れに食い込むと、その周りで気流が激しく変化した。だが、人差し指をちょっと突っ込んだくらいならなんとかコントロールできるのだった。
「おおぅ、渦がピクピクしてますねー。うりゃりゃ」
生き物を突付いて遊ぶ子どものような感想だった。
「ま、まあこれくらいなら何とか押さえられるんだけど……って、初春、だめ、それ以上は!」
指どころか腕ごとねじ込まれては、さすがにどうしようもなかった。
「ひゃっ!」
渦は佐天の手を離れ解き放たれる。なぜか合一もせず回っていた水霧が、周りの子ども達と初春に水滴となって襲いかかった。
霧のレベルなら服が湿って終わりだったろう。だが、小さくても水滴と呼べるサイズになったそれは、点々と初春の服に染みを作っていた。
「あー、今のは初春も悪いと思う」
「……何も言わないでください佐天さん」
ハンカチを出して初春のほっぺを拭いてあげた。
「うーん、やっぱりコントロールに失敗して終わっちゃうんだよねえ。なんとかしなきゃなぁ」
「でも随分と大きく集まりましたね」
「うん、どうやらあたし、霧みたいなのと相性がいいみたいなんだ」
「そうなんですか。なんか、やっぱり教えてくれる人がいるとそういうのが見つかりやすそうですね」
「婚后さんにはホント感謝してる。教わってまだ一週間ちょいなのに、こんなに伸びるなんてさ」
嬉しそうに鼻をこすりながら笑う佐天。初春は、
「きっと佐天さんには才能があるんですよ」
本心でそう言った。
「もう、やめてよ初春。いくら褒めても何もでないよ」
「でもいつか、アレを動かせちゃう日がくるかもしれませんよ?」
初春はまっすぐ上を指差した。
「アレって……雲?」
天候に直接関与できる能力者は少ない。理由は人間相手に必要な能力の規模と自然現象相手に必要な規模はまるで違う、それだけのことだった。
「いやいや初春、天候操作は大能力者(レベル4)以上じゃないとまず無理って言われてるじゃん。いくらなんでもそれは」
「試してみませんか?」
「え?」
「減るもんじゃなし、せっかくだからやってみましょうよ」
初春がそう進言すると、佐天は黙って空を見た。
雲はあまり高いところにいない気がする。サイズは小さくて、ゆっくりと太陽の方向に流れていっている。
「……いけるかも」
佐天がポツリと呟いた。
「え、ええぇっ?!」
初春の驚きをよそに、佐天は足を肩幅に開き両手を突き上げ、構えた。
すうっと息を吸い、キッと眼に力を入れて佐天が空を見上げ、そして叫んだ。
「この世の全ての生き物よ、ちょっとだけでいいからあたしに力を貸して!」
「え?」
またどこかで聞いたことのあるフレーズだ。思わずポカンとしてしまう。
どうやら、佐天はバトルもののアニメを見て育ったらしかった。
「ぬぅん」
低い声でそう唸って、佐天が上半身を使って腕をぐるりと回した。
雲が、ほんの少し形を変えて、流れていく。
それは佐天の能力が届いたような気が、まあ贔屓目に見てもしなかった。
「……あの」
「っかしーなぁ。みんな力を分けてくれなかったのかな?」
何故失敗したのか分からないといった風に首をかしげる友人を見て初春は叫んだ。
「もう佐天さん! ほんとにできるのかと思っちゃったじゃないですか!」
「いくらなんでもあんな遠いところの気体なんかコントロールできるわけないじゃん!」
大能力者への道は、果てしなく遠い。




ザァザァと水の流れる音がする。
「気体は圧縮で随分と密度が変わりますから、空間中の圧力や密度の揺らぎまで計算に入れるのは意外と面倒ですのよね」
学校に備え付けのシャワールームで、光子は佐天に浴びせられた小麦粉を落としていた。
「その点は空力使い(エアロハンド)は大変ですわね」
「私たちは非圧縮性流体の近似式で取り扱えますし」
ちょうど水泳部が部活上がりなのか、ばったり会った泡浮と湾内の二人と会話する。二人は一年生、つまり光子の後輩だ。先日の水着の撮影に参加したときに仲良くなったのだった。
この二人の後輩と光子の仲がいいのには、もちろん性格の相性が良かったこともあるが、能力の相性がいいことも影響していた。
二人は水流を操作する超能力者であり、光子は気流を操作する超能力者である。
気流と水流は共に流体。そして空気も水も流れを計算するための基礎式はどちらも同じ式。必要とされる知識・テクニックはかなり似通っているのだった。それでいて系統としてはまったく別の、つまり直接のライバルにはなりえない能力者なのである。他の能力者たちと比べて水流と空力の能力者は親近感の湧きやすい間柄なのであった。
「あら、でも水流も精度の高い制御をするとなると色々と補正項を追加しなくてはなりませんでしょう? 水の状態方程式のほうが気体よりずっと複雑ですから、空気を扱うよりむしろ大変なのではなくて?」
「そうなんですの。そこを直してもっとコントロールの制御を上げようとしてみたんですけれど、計算コストが増え過ぎてむしろ制御しづらくなってしまうんですの」
液体は、気体よりも固体に近い属性を備えた相だ。気体の取り扱いは極限的には理想気体の状態方程式という極めてシンプルな式で行える。シンプルというのはPV=nRTという式の単純さと、そして式が分子の種類の区別なく適用できることを意味している。
固体はその真逆だ。分子と分子の間に働く分子間力がどのような性質を持っているか、それに完全に支配される。つまり固体は完全に分子の個性を反映しており、違う物質を同じように取り扱えるケースは少ない。
液体は分子というスケールで見たとき、物質の種類、個性に縛られない気体に比べてずっと取り扱いが複雑なのだ。光子のような流体を塊と捉えずに分子レベルで解釈し能力を振る超能力者にとって、水というのはこの上なく使いづらいものだった。
「本当、水分子は大っ嫌いですわ。空気の湿度が上がるだけでもイライラしますもの。この使いにくい分子間力、何とかなりませんの?」
シャワーから出る水分子を体いっぱいに浴びながらそう毒づく光子。そんな冗談で湾内と泡浮はクスクスと笑った。
水が水素結合という扱いの難しい力を最大限に発揮するのは固体ではなく液体の時だ。光子の言う使いにくい分子間力を制御することこそ、泡浮と湾内の能力だ。
それも彼女達はレベル3。充分なエリートだった。
「あ、ところで密度ゆらぎを考慮するときのテクニックですけれど、私使い勝手のいい推算式を知っていますわ」
「本当ですの婚后さん、よろしかったら是非教えていただきたいですわ」
流体制御は時間との戦いだ。今から5秒間の水流・気流の流れを予測するのに5秒以上かかったのでは意味が無い。だからこそ素早く結果が得られるよう、沢山の近似を施して式を簡単にしていく。だが、同時にそれは嘘を式に織り込んでいくことでもある。そのさじ加減は、いつも彼女達を悩ませるものだった。
「これだけ流体操作の能力者がいますのに、まだナビエ・ストークス式の一般解が導出できたとは聞かれませんね。どなたか解いてくださらないかしら」
おっとりと湾内がシャンプーを洗い流しながらそう言う。
「流体制御系の能力者がレベル5になるにはNS式の一般解を求める必要がある、なんて噂もあながち冗談ではないかもしれませんわね」
それは外の世界でミレニアム懸賞問題などと名前がつき、100万ドルがかけられている世紀の、いや千年紀の大命題だった。




シャワーを終えると、やや遅刻気味で光子は足早に当麻の家に向かった。
上がったことは無いが、近くまで来たことはあったから場所は知っている。部屋番号の書かれた紙をもう一度見直して、光子はエントランスをくぐった。
コンクリートが打ちっぱなしになった廊下や階段。砂埃とこまかなゴミがうっすらと堆積していた。どこか使い古された感じがして、清潔とは言いにくい。
「ここ、ですわね」
エレベータで七階に上がり、教えられたルームナンバーの扉の前に立つ。表札が無記名なのがすこし不安だった。息を整えてインターホンを押す。
ピンポーン、という音がすると、「はーい」という当麻らしい声が部屋の中から聞こえた。
光子はほっとため息をつき、右手の買い物袋を握りなおした。

「こんにちは、当麻さん」
「おう。来てくれてありがとな。ほら、上がってくれ。狭いし散らかった部屋で悪いんだけど」
「はい、お邪魔しますわ」
光子はドキドキした。男性の家に上がるのは初めてだし、そうでなくても彼氏の部屋なんてドキドキするものだろう。
靴を脱いで部屋に上がり、長くもない廊下を歩く。バスルームと台所を横目に見ながら、ベッドの置かれたリビングにたどり着いた。
「これが、当麻さんのお部屋なのね」
当麻にくっついたときの、当麻の服と同じ匂いがした。服は部屋の匂いを吸うものなのだろう。当麻自身の匂いとはちょっと違うしそれほど好きというわけでもなかったが、どこか気分が落ち着いた。
部屋にはテレビがあり、その下には数台のゲーム機が押し込められている。コードが乱雑なのは、普段は出して使っている証拠だろうか。
「ま、まああんまりじろじろ見ないでくれよ。なんていうか、恥ずかしいしさ」
当麻はそう言いながら光子の手にあるビニール袋を受け取り、台所に置いた。
「今日は何作ってくれるんだ?」
「出来てからの、お楽しみですわ」
相手に知られていないものを見せるのは、当麻だけではなかった。光子は料理の腕を、見せることになる。
食事は学園側が全て用意するという常盤台の学生に比べ、三食自炊の当麻のほうがおそらく料理には慣れているだろう。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉のスライス。あとは見慣れないフレーク状のものだが、明らかにカレールーと分かるもの。
……隠すも何も、今日はカレーじゃないか。
勿論当麻は何も言わなかった。
「い、言っておきますけれど、そんなに上手なほうではありませんのよ? 失敗は、多分しないと思いますけれど……」
ちょっと怒ったような、拗ねたような上目遣いで睨まれた。
「大丈夫だって! 光子にお願いしたのは俺だし、楽しみにしてる」
麦茶をコップに注ぎながら、当麻は笑った。
「それに何があっても光子の作ってくれたものなら、食べるよ」
「もう!」
失敗が前提かのような冗談を言う当麻に、光子はふてくされるしかなかった。


テレビもつけず、当麻はリビングのちゃぶ台に頬杖を付く。
常盤台の制服の上から持参したワインレッドのエプロンをつけて、光子がトントンと、まな板を小気味よく鳴らしている。
「……いいなあ」
「ふふ、どうしましたの? 当麻さん」
「彼女がさ、料理作りに来てくれるってすっげー幸せだなー、って」
「それは良かったですわ」
光子は思ったより手際が良かった。カレーなんて失敗するほうが難しい料理だが、危なげなく整った包丁のリズムは安心して聞けるものだった。
その音で今切っているのがにんじんだと当麻は分かった。音が重たいから、たぶん光子は具を大きく切るタイプなんだろう。
「結構練習した?」
「え……ええ。もう、当麻さんは嫌なことをお聞きになるのね。泡浮さんと湾内さんのお二人に手伝っていただきながら、何度か作りましたわ」
光子は自分が好きなものを隠せないタイプだ。仲の良いあの二人には、かなり惚気(のろけ)話をしているのだった。それでも嫌がらないのは、泡浮と湾内がそれだけできた子だということだ。
その二人にお願いして、寮が出す夕食を何度か断りながら、カレーを作ったのだった。
どうしたほうが美味しくなるかをあれこれ談義しながら食べるのは楽しかった。光子は不慣れではあるが、料理は嫌いではなかった。
「当麻さん、フライパンはどちらにありますの?」
「下の扉を開けたところだ。わかるか?」
光子の質問で当麻は立ち上がり、台所に入った。
「こちら、ですの?」
「あ、そっちじゃなくて」
別の扉を開けて、フライパンを取り出した。ついでにサラダ油も。
「ありがとうございますわ……あ」
1人暮らしの台所には、2人で使えるようなスペースはない。恋人の距離を知ってからそれなりに時間も経っているが、改めてこの距離で眼を合わせるとドキリとした。屋外で会うときに比べてこの場所は人目というものがないせいかもしれなかった。
「今からそれ、炒めるのか?」
「ええ。でも当麻さん、完成するまでは見てはいけませんわ。お楽しみがなくなってしまいますわよ?」
「ああ、ごめん」
謝りながら、当麻は立ち去らなかった。光子は隠しているつもりかもしれないが、何を作るかなんてわかりきっている。
光子は斜め後ろに立つ当麻を気にしながら、フライパンに油を引き、コンロに火をつけた。
当麻がカチリと、換気扇のスイッチを押す。
「あ、すみません」
「ん」
うっかりしていた光子に笑い返す。
光子が先ほどまではつけていなかった和風の髪留めで、背中に広げている綺麗な髪を束ねていた。台所はどうしても暑くなるから、うっすらと首筋に汗をかいているのが見えた。
ゴクリ、と当麻の喉が鳴った。
「きゃ、ちょ、ちょっと当麻さん! いけませんわ、そんな……」
火加減を調節したところで、光子は当麻に後ろから抱きしめられた。首筋にかかる当麻の吐息にドキドキする。
「火を、使ってますのよ? 危ないですわよ」
「光子が可愛いのが悪い」
「もう……全然理由になってませんわよ。さあ、お放しになって。フライパンが傷みますわよ」
中火で30秒ではまだまだ傷むには程遠いのを当麻は分かっていたが、意外とあっさり振り払われたのを寂しく感じながら、光子の言葉に従った。
「もう、料理の途中では私が何もできないじゃありませんか。そういうことはもっとタイミングを考えて……」
そこまで言って、光子が顔を真っ赤にした。
「じゃ、またあとでな」
当麻は笑って婚后の髪に触れた。


軽く炒め終わった後、鍋に具を移して火にかける。沸き立ったら火を弱めて灰汁を取り、あとはしばらく待つだけだ。
ベッドに背をもたれさせながら光子と話をしていた当麻の横に、光子はそっと座った。
「台所はやはり暑いですわね」
「だよなあ、この時期は料理が辛いのなんのって」
当麻はその辺に転がっていたうちわでパタパタと光子を扇いだ。エアコンは昨日の落雷で故障してるし、それはもう部屋の中は暑いのだった。
「ご飯もあと20分くらいで炊けるし、ちょうどいいかな」
「そうですわね」
時計は11時30分を指している。朝飯はカップラーメンくらいはあったが、掃除に買い物にと忙しくて抜いてしまった。いい感じに空腹だ。
朝からカレーも平気な当麻にとっては、光子の作っているものはブランチにしても問題なかった。
「はぁー、幸せだ」
ガラにも無い言葉を呟く。
「私も、なんだか夫婦みたいで嬉しくなりますわ」
コトリと光子が当麻の肩に顔を乗せた。
同じ部屋で女の子と過ごす。それは喫茶店で喋るよりも落ち着いた時間で、後ろで煮える野菜とブイヨンの香りなんかですら幸せを醸(かも)し出しているのだった。
土御門は舞夏が料理を作ってくれてるのをいつも見てるのか。そう気づいて、なんとなく隣人をそのうち殴ってやろうと心に決めた。
「さっきみたいには、してくれませんの?」
甘えてくる光子が卑怯なくらい可愛い。当麻はすこし体をずらして、光子を後ろから抱き込んだ。
「ふふ、暑いですわね」
「ああ、暑いな」
真夏にクーラーもつけずに部屋で抱きしめあっているのだ。抱きついてるのが仮に母親あたりであったなら、即刻引き剥がしているところだ。
暑いくらいが、嬉しい。
「ふ、ふふ。当麻さん、右手をお放しになって。くすぐったいわ」
当麻の左腕は光子の胸の上を、右腕はお腹を抱きしめるように回してあった。ちょうどその右手がわき腹をくすぐっているらしい。光子の胸は主張しすぎててやばいので触らないように気をつけていた。触ったら戻れないような、そういう魔力を感じる。
「あはっ! もう、当麻さん!」
つい調子に乗って、わき腹で指を踊らせた。光子が当麻の腕の中で暴れる。腕に豊かな柔らかい感触が当たって、当麻はドキドキした。
「もう、あんまりおいたが過ぎましたら私も怒りますわよ? ……あ」
光子が体をひねって、腕の中から当麻を覗き込む。唇と唇の距離は30センチもなかった。
「う……」
突然の膠着状態。二人ともどうしていいか分からなかったのだった。
「と、当麻さんは、どなたかとキスしたことありますの?」
「ねえよそんなの!」
「じゃあ、初めてですの?」
「……うん。光子、お前は?」
「私だって初めてですわ」
付き合ってそろそろ一ヶ月。いい時期だと当麻も、そして多分光子も思っていた。
普通の基準で言えば遅すぎるのかもしれない。いい雰囲気になっても、屋外ではなかなか進展がなくてモヤモヤしていたところだった。
……い、いいよな?
眼で光子に問うと、そっと、眼をつぶった。
化粧をしていないナチュラルな肌は、それでいてきめの細かさと白さをたたえている。薄く艶のかかった桜色の唇がぷるんと当麻を誘っているようだった。
当麻はつい手に力を入れてしまう。ついに、ついにこの日が来たかという感じだった。
すぐ傍まで当麻も顔を近づけて、眼をつぶった。



――――プルルルルルルル
そんなタイミングで、人の意識を惹きつけて止まない文明の音がした。



ビクゥと二人して体を離す。光子は動転した勢いで後ろに倒れてしまったし、当麻はそれを抱き起こすことを考えもしないで携帯に飛びついた。
「は、はい上条です!」
「こんにちわー、上条ちゃん。どうしたんですか? まさか部屋に女の子なんか連れ込んでませんよねー?」
「ととと当然じゃないですか!」
電話の主がのんきに言った冗談が、まるで笑えなかった。当麻のクラス担任、月詠小萌の声だった。
「それで、何の用ですか? 先生のことはクラス連中もきっと好きですけど、夏休みに会いたいとは多分思ってないです」
「ああ、学校の先生は寂しい仕事ですねえ。私は上条ちゃんもクラスのみんなも大好きですよー。だから上条ちゃん、今日は先生に会いに来てくれますか?」
「はい?」
「上条ちゃーん、バカだから補習ですー♪」
最悪のラブコールだった。今日は光子と過ごすはずだったのに、ガラガラと予定が崩れていく。
「いやあの先生、今日の補習って、初耳なんですけど」
「あれーおかしいですねー。昨日の完全下校時刻を過ぎてから電話をかけたんですよ? 上条ちゃんは出なかったですけど、留守電を残しておいたはずなんですけどねー?」
学生寮の固定電話は停電で逝ってしまった。ついでにちゃんと帰宅してなかったことを把握されてて、微妙に首根っこまでつかまれていた。
「あの、明日からいきまーすとか、そういうのは」
「上条ちゃん?」
「いえなんでもないです」
この小学生並みの慎重と容姿を誇る学園都市の七不思議教師は、それでいて熱血なのだ。逃がしてはくれないだろう。
当麻はどうやって光子に謝ろうと思案しながら、適当に応対して電話を切った。
「光子」
「聞こえていましたわ」
つまらなそうな顔で、光子は拗ねていた。
「昼からは一緒にいられませんのね?」
「……はい」
「明日からも補習漬けですの?」
「……はい」
「いつなら、お会いできますの?」
「……今日日程表貰ってくるんで、それからなら、分かるかと」
「そうですか」
はあっと、光子がため息をつくのが分かった。
「補習って、皆受けるものですの?」
「……いや、ごめん。俺の出来が悪いからだ」
「これまでに頑張ってらっしゃったら、避けられましたのね?」
「……ああ」
むっと、悲しい顔をした光子がスカートを気にしながら立ち上がる。
「そろそろ料理もできますわ。せめて、それくらいはお食べになって」



光子のカレーはよく出来ていた。味付けも火の加減も申し分ない。
「み、光子、料理上手いじゃないか」
「褒めていただいて嬉しいですわ」
これっぽっちも嬉しそうな顔をせずに光子が返事をした。カレーは出来たてなのに、二人の間の空気が冷めていた。
自分が悪いのは分かりきってるものの、当麻はどうしようもなかった。
これ以上謝ったって光子の機嫌は直らないだろう。手詰まりなのを感じながら、自分のとは味の違う、光子のカレーを口に運んだ。

もくもくと、二人でカレーを消費する。

「……当麻さん」
「なんだ?」
「今日はいつ、学校に行かれますの?」
「あー……、時間は聞いてなかった。でもたぶん、昼の1時からだと思う」
登校にかかる時間を考えれば、すでに遅刻だった。
「まあでも今日は時間を知らなかったことにして、少しくらいなら遅刻してもいい、かな」
小萌先生は怒るだろう、だが、光子にもっと構ってあげるのも重要なことだった。
「そうですの。……怒ってもご飯は美味しくなりませんわ。せっかく当麻さんのために作ったお料理ですのに」
当麻を許そうとして、寂しさや不満がそれを阻むような、そんな顔をしていた。
「ごめんな、光子。今日じゃなくて悪いんだけど、ちゃんとこれからスケジュール組んで、なるべく光子といられるようにするから」
「……」
光子はむっとした表情を変えない。
「こないだ言ってた店に買い物に行こう。暑いからプールって話のほうでもいい。なんていうか、今日をどうにも出来なくて、それは謝るしかないんだけどさ、埋め合わせはするから」
「ふんだ。私はそれでつられるつもりはありませんわよ? ……それで、味はどうですの?」
ちょっと不安があったらしい。光子は、ふてた態度にすこし窺うような雰囲気を混ぜてそんなことを尋ねた。
「あ、ああ。美味しいよ。なんてったって光子が作ってくれた料理だし」
「私が怒っているから、お世辞を言っているだけではありませんのね?」
「ちがうって! ……彼女の作った手料理を食べるって、男子高校生にとってどれだけ幸せなことか女の子にはわかんないか。今、スゲー嬉しい思いしながら食べてる」
「自分のほうが上手いと思ってらっしゃるんじゃないの?」
率直に言うと、そういう部分はあった。家カレーなんて慣れたレシピと味のが一番だから、その意味では光子のカレーは文句なしに最高、とは言いがたいだろう。
だけど違うのだ。
「いや。味だけで言えば俺達が作ったのよりも店で1万円くらい出したほうがいいのが食べれるだろ? そういうのじゃないんだよ。誰かが俺のために作ってくれるっていう、そこが嬉しいし味にもなるんだよ」
「ふふ。分かってますわよ。さすがにシェフの作ったものには私のカレーもかないませんわ」
光子が笑った。少しづつ、機嫌は快方に向かっているらしかった。


食べ終えた皿を水に浸し、二人して氷入りの麦茶を飲む。カレーは今日の夕食分くらいはゆうにあった。ご飯もたっぷり炊いてある。当麻は地味にそれも嬉しかった。
「その、光子はこれからどうするんだ?」
言ってから失言だったと気づいた。光子の顔があからさまに不機嫌になった。
「たぶんお友達はみなさんどこかへ行かれましたし、部屋に帰って本でも読むか、1人で町を散策するかのどちらかですわね」
「う……ごめん」
「当麻さんも、あまり長居はできませんでしょう?」
今なら30分の遅刻といったところだろう。
「まあ、な」
「……寂しい」
ぽつりとこぼした言葉は、光子の本音だった。
何日も前から努力して用意してきて、なんだかそれがないがしろにされてしまったような、そんな気分になるのだ。
当麻はもしかしたらそれほど悪くはないのかもしれない。事情はあるのかもしれない。だけど構ってもらえないのは、嫌だった。
また、当麻に抱き寄せられる。当麻の胸に頭をおいて、心臓の音に耳を澄ます。
当麻が髪をそっと撫でるのが分かった。その感触が心地よくて、眼をつぶる。
「何度も言った言葉でわるいんだけど、ごめんな」
「はい」
でも、あと15分もしないうちに、当麻は光子を放して出て行くのだろう。
「光子」
名前を呼ばれた。
「どうされましたの」
「キスしていいか」
「――っ!」
ドキン、と心臓が跳ねた。
そっと上を見上げると、真剣な表情をした当麻の瞳とぶつかった。
心の準備は、ないでもない。当麻の家に来るのが決まったそのときから漠然と予感はあったことだ。
口付けも、それ以上のことも、本来は結婚してからすべきことだろう。まだ、それにはあまりに早すぎる。
当麻が高校と大学を卒業して、いや、しなくても1年くらいなら早められるだろう。それなら、あと6年くらいだ。
……手を繋いだだけであと6年を、光子は待てそうになかった。
「当麻さんの、好きになさって」
恥ずかしくて、それ以上は言えなかった。
「それは嫌だって、意味か?」
当麻は確認もつもりなのかもしれなかった。
「もう、私の気持ち、ちゃんと汲み取ってくださいませ」
こんなに当麻にしなだれかかって、それでノーなんて言うはずが無いのに。
「光子、好きだ」
「私も……」
「私も?」
続きを言うのが照れた。
「当麻さんのこと、すごく大好きです」


呟く光子のあどけない笑顔が、当麻はどうしようもないくらい可愛かった。
はにかんでうつむきがちの光子の頬をそっと手で撫でて、上を向かせる。
光子の体は硬い。きっと、緊張しているのだろう。こちらも同じだった。
当麻は、そのつぶらな唇に、そっと自分の唇を押し当てた。


「ん……」
ぴくん、と電気が走ったようにわずかに光子が身じろいで、あとは何秒間か分からないくらい、そのままでいた。
当たり前のことだが、光子の唇は人肌のぬくもりを持っていて、そしてどんなものとも違う柔らかさを持っていた。
そっと顔を離す。眼をつぶっていた光子がこちらを見つめ、パッと顔を赤く染めた。
当麻の体に腕が回され、ぎゅっと光子がしがみつく。
「嬉しい、嬉しい……」
自分の気持ちを確かめるように、光子がそんな風に呟いた。
当麻はもう一度、いや何度でもキスしたくなった。
ぐっと顔を光子に近づけ、その唇をついばむ。ちゅ、と僅かに濡れたような音がそのたびに聞こえた。
「はあ……」
体を支えるためだろう、光子が背もたれ代わりのベッドの上にあった、掛け布団の端を握っていた。
それを見て、当麻はドキリとした。
「どうしましたの?」
光子は、その意味を考えてないみたいだった。
「いや、光子が……ベッドのシーツ握ってるからさ」
「はあ……って、あっ」
恋人、二人きり、そしてベッド。
二人のすぐ背後には膝くらいの高さの、甘美な台地が広がっていた。
「そそそそんな、私はっ」
「ま、待て待て光子。俺はそんなつもりじゃ」
二人してバタバタと慌てる。まだ恥ずかしくて、そしてまだ早いと二人は思っていた。
「お、俺布団干すわ。ちょっとごめんな」
「え、ええ。仕方ないですわよね」
何が仕方ないのか、光子も言っていることをわかってないだろう。
当麻はこのままだと確実に暴走する気がした。布団さえ干せば、とりあえず何とかなる。
――べつに床でも、って駄目だ! 光子だって嫌がるだろうし……
頭の中で渦巻く馬鹿な衝動を鎮めながら、当麻は足でベランダへの網戸を開けた。
そこで、おかしな光景が眼に入った。
「……あれ? 布団が干してある」
自分で言ってることが変なのは分かっていた。だって、今時分が抱えているものこそ、当麻の布団だ。
勿論1人暮らしだから、これ以外のものなんてない。
「当麻さん?」
怪訝に思ったのだろう、光子が後ろから声をかけた。




ベランダの手すりにかかっているのは、白い服を着た女の子だった。




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あとがき
長い間プロローグにお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回から、原作小説の第一巻の再構成モノとなります。

今回を含め、以降では明示しない形での本編文章の引用を行うことがあります。あしからずご了承ください。



[19764] ep.1_Index 01: 魔術との邂逅
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:29
当麻が切なそうな目でその子を見つめていた。光子が恨めしそうな目でその子を見つめていた。
透き通るような銀髪に緑色の双眼。そして豪奢なティーカップみたいなデザインの白の修道服。
明らかに日本人ではない顔立ちと、学園都市の学生とも思えないような服装の少女は、
「美味しい、美味しいよ!! 空腹って言うスパイスがなくてもこれならまだまだ食べられるくらい!」
流暢な日本語を駆使しながら光子の作ったカレーにがっついていた。


「俺の晩御飯が……」
「行き倒れだという人間をたたき出すほど冷血では無いつもりですけれど、もう少し食べる量を自重してくださいませんこと?」
会心の出来というわけでもないが、光子が生まれてはじめて人のために作った料理であり、大切な恋人に美味しいと言ってもらえた料理なのだ。
どうして誰とも分からない胡散臭いシスターに振舞わなければならないのだろう。それも三皿も。
「あ、ご、ごめんなさい。丸一日くらい何も食べてなかったし、すっごくすっごく美味しかったからつい」
自分の立場を分かってはいるのだろう。しゅんとなってその少女はすぐ謝った。
「なあ光子。今度また、作ってくれるか?」
「ええ。もちろんですわ。もっと喜んでいただけるよう、練習しておきますわね」
光子が嬉しそうに笑った。当麻はガラステーブルをはさんで向かいにいる少女に気づかれないよう、こっそり光子の手を握った。
「で、えーと。一体何が起こってたのか、話してくれるよな? インデックス、って呼べば良いのか」
空腹時に嗅ぐカレーの匂いが持つ威力はすさまじい。それでこの目の前の少女は挨拶も自己紹介もそこそこに食事にむしゃぶりついた。インデックス・なんとかさんと名乗ってはいたが、まるで女性名に聞こえない。
「うん、インデックスはインデックスだよ」
「どうしてこの家のベランダに干されていましたの?」
「干されてた訳じゃないんだよ!」
スプーンを握り締めながらインデックスが抗議する。だが、8階建ての学生寮の7階のベランダにだらりとぶら下がる少女を、それ以外にどう表現すべきだったのか。
「おおかた空力使い(エアロハンド)の能力者に吹き飛ばされでもしたのでしょう」
「エアロハンド? なにそれ」
「何って、気流操作系の能力者の通称じゃないか。いやでもさ光子、それだと吹き飛ばされて怪我一つ無いことの説明ができないぞ」
「肉体操作か念動力系の能力者なんではありませんの? ビルから飛び降りても平気な能力者なんて常盤台なら両手の指の数じゃ足りませんわ。私もその一人ですし」
インデックスと名乗る少女は二人の会話の中身をまるで理解できないように首をかしげた。
「何を言ってるのか分からないけど、私が怪我してないのはこの防御結界のおかげだよ」
スプーンを置いて両手をそっと広げて、彼女は自慢げに修道服を二人に見せつけた。
「防御、」
「結界?」
思わず当麻と光子が顔を見合わせる。
「知ってる?」
「……原理的に難しいですわね。衝撃吸収性の服を着たって、殺せる運動量なんて高が知れています。それにこれ、手触りからしてただのシルクですわ。防御結界というのはどういう原理の対事故安全機構ですの?」
「どういうって、これは『歩く教会』って言って、教会として最低限の要素だけを集めて服に集約したものなんだよ。布地の織り方、糸の縫い方、刺繍の飾り方まで、全てが計算尽くされ尽くしたとっておきの一品なんだから!」
まるでそれは説明になっていなかった。服が教会を模したとして、だから物理法則が曲がるかというとそんなわけはないのだ。そんな科学は常盤台でも当麻の高校でも教えられていない。
「はあ。貴女、ずいぶん歪んだ教育を受けてきたようですけれど、一体どちらの方なの?」
「なんていうかさ、お前、学園都市の学生らしくないよな」
「それはそうだよ。だって私はこの街の住人じゃないもん。私はイギリス清教の修道女(シスター)で、魔術の心得もあるんだよ。それとあなた、歪んだってのは失礼なんだよ! この世の中に相容れない主義主張がいくつあると思ってるの? あなたの知らないものを歪んでるって言っちゃうのは視野が狭いかも」
「仰りたいことはわかりますけれど……その、魔術の心得、ですの?」
インデックスはちっちっちと不遜な顔をするが、光子はその言葉に怪訝な顔をせざるを得なかった。ありとあらゆる超常現象が投薬によって発現し目の前で再現されているこの街において、魔法なんてものは旧時代に超能力を理解できなかった人々が作った不適切な用語でしかないのだ。
「む、まだ信用してないんだね?」
「インデックスさん、この学園都市は超能力開発の町ですのよ? 海を割り雷を落とすような人間が学生服を着てアイスクリームを舐めながらショッピングをしているのに、魔術などというよくわからない言葉を受け入れられないのは自然だと思いますけれど」
「どーしても魔術を信用しないってこと?」
「というか、魔術とあなた方が仰るものは結局複雑な原理で働く科学なり超能力なりではありませんの?」
「なら試してみる! あなたがバカにしたこの歩く教会、傷つけられるものならやってみてよ! それでどうして傷つかないのか、科学で説明できるならしてみるんだよ!」
むすっとした顔でぶんぶんと腕を振り回すインデックスをもてあますように、困った顔で当麻と光子はため息をついた。
「まあ、疑って悪いとは思いますけれど、殊更に否定するつもりはありませんわ。学園都市の超能力とは雰囲気が違うのは事実ですし」
「あなたは結局私の言うことを信じないんだね!」
さらにヒートアップし始めたインデックスの横で、当麻は時計を気にしていた。補習の開始時間である午後1時をとっくに過ぎていた。
「お前これから、どうするんだ?」
「え?」
「そろそろ俺は補習にいかなくちゃなんねえし、これからのことを考える必要があるんだよな」
「そうでしたわね……。もう、10分だけでも二人でお話したいと思っていましたのに」
当麻と光子は憂鬱にうなだれた。インデックスはそれを見てへの字に曲げていた口をきゅっと引きしめ、居住まいを正した。
「あの、お邪魔してごめんなさい。二人にだって予定があるよね。食事を恵んでくださって、どうもありがとうございました。私はそれじゃあ行くね」
「行くって、どこにだよ?」
「イギリス清教の教会。日本じゃ珍しいけど、ないわけじゃないから」
当麻は首をかしげた。おかしい。学園都市の住人以外がここに入るときは、かなり厳しいチェックと内部関係者の身元保証を必要とする。
「お前、どうやってこの街に入ったんだ?」
「どうやってって、普通に歩いて、というか走ってだよ」
「誰にも見咎められずにか?」
「うん、この辺りに来たのは昨日の夜だけど、門をくぐってもなんともなかったよ」
光子と顔を見合わせた。どうやら、昨日の停電のタイミングで上手く切り抜けたのだろう。
「……ってことはこの街の住人用のIDカード持ってないんだな? それで街を歩くのはまずいだろ。……っていうか、なんでそんなことになったんだ?」
「追われてるからだよ」
こともなげに彼女はそう言った。薔薇十字や黄金夜明と呼ばれるような魔術結社に追われている、と。
自分が魔術師だという主張に加えて、さらには魔術結社ときた。それらの単語を、当麻と光子はきちんと理解し受け止める努力を放棄していた。
「その、追われているという貴女を信じないつもりはないんですけれど、どうしても単語が私達にとっては突拍子もなくて……」
「だからさっきから言ってるじゃない。ほら、あなた達も超能力者なんでしょ? この『歩く教会』の法王級の防御性能をそれで確かめてみればいいんだよ!」
「そうは言うけど」
この街の科学は原理すら悟らせないトンデモ現象をいくらでも作り出す。インデックスが魔術だと言い張るものは、おそらく科学でどうにか説明付けられてしまうだろう。
当麻はどうも胡散臭さの消えない彼女の言葉に、戸惑いを覚えていた。
「当麻さん。試しましょう。それで信じられるのなら一番話が早いですわ」
「お、おい光子?」
そう言うと、光子はインデックスのお腹辺りに触れた。
光子は彼女の触れたところに風の噴出面を作り出し、あらゆる物体を飛翔させてしまうトンデモ発射場ガールだ。その能力を利用して、光子は軽い衝撃をインデックスの腹部に打ち込もうとしていた。何も体を鍛えていなさそうなこの少女ならちょっと痛がりそうな程度の強度で。
「……あら?」
光子の触れた部分は光子の支配下となり、気体分子を集積する。そして全ての気体分子を同一方向のベクトルを持たせて噴出することで衝撃を与えるわけなのだが。
それ以前に、そもそも能力の発現面を上手く作ることが出来なかった。
水面のように揺らぎやすい面などに能力発現面を作れなかったことはあるが、服を着た人間という物体を対象にして能力を失敗したことなど当麻の右手を除いて一度もない。そして服に触れたときに感じた、奇妙な圧迫感。そちらは全く初めての感覚だった。
「……」
「ほーらどうしたのかなー? 何かしようとしたんだよね? 私、なんともないんだけど」
もう一度、光子はインデックスに触れた。しっかりと集中して、万が一にも失敗などないように。
だが結果は同じ。光子は内心で混乱していた。能力そのものを封じる素材の服など、聞いたこともない。
「……っ」
本棚から週間少年誌を引き抜いて、インデックスに飛ばす。人間が本気で週刊誌を投げ飛ばしたくらいの速度だった。当たれば当然痛がるだろう。
ところが雑誌がインデックスの修道服に触れた時点で不自然に運動量を失って、彼女の体にこれっぽっちもダメージを伝えることはなかった。衝撃吸収素材だとかそんなありふれたものでは断じてなかった。
「そ、んな。私はレベル4の能力者ですのよ?! どういう原理で防ぎましたの?」
この学園都市の学生らしく、光子は自分の能力に自信を持っている。向き不向きはあるから光子とて出来ないことは山ほどあるが、それでも能力の発現そのものを押さえつけられたことはなかった。さらに、全く別な能力と思われるやり方で、光子の飛ばした雑誌も防がれた。この結果は、光子の知る超能力では説明が付かない。
「ふっふーん。だからさっきから言ってるでしょ? 魔術だよま・じゅ・つ! あなたは自分の力に自信があったみたいだけど、全然何も出来なかったね。魔術だって馬鹿に出来ないものでしょ?」
「く……」
光子は憎まれ口のひとつでも叩いてやろうかと思ったが、そもそも能力を発動させられないのでは負け惜しみにしかならない。完全に敗北だった。
「じゃあ次はそっちの君も試してみる? 君がどういう力を使うのかは知らないけど、『歩く教会』は全てを防ぐんだから!」
光子が何も出来なかったことに驚いていた当麻は、自分に話が回ってきて驚いた。
「え? 俺もやるの?」
「魔術を信じないって言うならやってみるんだよ。それともこっちの人が失敗したのでもう認めてくれたのかな?」
パッと光子が顔を上げた。
「そうですわ当麻さん。当麻さんの右手なら、この子の服くらい突き抜けられるんじゃありません?」
「まあ、たぶん、出来ると思う。それが異能の力だっていうなら、神の奇跡だって打ち破れる」
「……敬虔なる神の子羊に対して、それはずいぶん挑戦的な言葉だね。やれるものならやってみればいいよ!」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
光子が期待のこもった目でこちらを見ていた。勝って態度の大きくなったこのシスターに一泡吹かせたいらしい。
女の子に手を上げるのもなんだけど、ほんの少し痛い程度に体を叩けばそれで足りるかと当麻は意を決した。
その前段階のつもり、とりあえず服の手触りを確かめようと手を伸ばして、肩から足元までをゆったりと覆うその服をつまんだ瞬間。


ばさりというよりもしゅるりという音を立てて、インデックスの肩より下を覆う全ての布が取り払われた。


「――え?」
それは、三人全員の声だった。
インデックスは唐突に布が体を滑って脱げていく感触に、光子は突然に目の前の女の子の肌が露出したことに、そして当麻は自分の手の中に修道服が存在することに、それぞれ戸惑いを覚える声だった。

「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ご、ごめんっ!!!」
体を隠しながらしゃがみ込むインデックスに、当麻は慌ててただの布になってしまったそれを突き返す。
「ばかばかばか! 信じられないんだよ!」
「うわ、ちょっとおい止めろ! いでででで!」
インデックスは布をひったくって体に無理矢理巻きつけたかと思うと、すぐさま当麻に噛み付いてきたのだった。
もちろん服としての機能が失われていているから、それは完全に体を隠したりはしない。チラチラと体のあちこちの見てはいけないところが見えたり見えなかったりして、当麻は直視することが出来なかった。
暴れる二人は、第三者から見ればじゃれあっているように見えた。そう、この場にはもう一人、婚后光子という人がいるのだった。

「あらあら当麻さん? 何をなさっているのかしら?」
「はひぃっ?」

優しい問いかけ声だった。だがそれに当麻はこれっぽっちも抗えなかった。その口調と声色には遺伝子レベルで逆らえないような気がした。
「何をなさっているの、とお聞きしたのですけれど?」
「いや、な、何をって」
「服が脱げてしまったのは、まあ良いでしょう」
「これっぽっちも良くないんだよ!」
「でも私の前で仲良くじゃれあうなんて、どういう意思表明ですの?」
「いや、べつにじゃれあってなんかないだろ? いえ、ないでせう? 当麻さんはこの女の子にただ噛みつかれただけで」
「当麻さん?」
「すみませんでした」
迷わず当麻は頭を地面にこすり付けた。逆らえなかった。
「何を謝っているのか分かりませんけれど、」
光子は冷たい目で平身低頭する当麻を睥睨したあと、傍らで必死に体を隠すインデックスに目を向けた。
「とりあえず貴女の服を何とかしないといけませんわね」




替えを着せようにも当麻の服ではサイズは合わず、それどころか下着を身に着けていないことが発覚して、結局布きれに変わってしまったそれを着なおすことになってしまった。
仕方ないから縫いましょうと光子が言ったものの、一向にソーイングセットが見つからない。
その結果が、目の前の光景だった。
「なんというか、非常にシュールな服装になっていますわね……」
「言わないで欲しいんだよ……」
縫い糸の代わりを何十本もの金属の安全ピンが成している。光子と二人がかりで何とか服の形にまで戻して、もそもそと袖に腕を通す。
「おーい、終わったか?」
玄関で廊下へ続く扉の方を向いたまま、当麻は正座している。裸の女の子のいるところから追い出され、反省を求める空気に負けて正座をしているのだった。
「ええ。当麻さんが引き毟(むし)った服は、暫定的にですけれど形を取り戻しましたわ」
「う。その、ぜひ私めの話を聞いていただきたいのですが当麻さんは決して狙ってやったんではないのですのことよ?」
「狙ってないのにどうしてここまで酷いことをできるのかな……」
インデックスは非常に落ち込んでいた。ずいぶんと愛着のある服だった。信頼もしていた。それが、ちょっと触れられただけで壊れてしまった。
「君はどういう能力なの? 右手で触るだけで霊的守護の行き届いた教会をガラガラと崩壊させる術なんて、絶対に魔術じゃありえないんだよ」
「詳しいことを俺もわかってるわけじゃないんだよな。生まれつきこうでさ、しかも学園都市のあらゆる測定機械で無能力判定だし。……そういや、魔術があるかどうかって話をしてたんだっけか」
よ、と当麻は立ち上がって二人のいるリビングに戻った。カレー皿は片付けられ、光子はテーブルサイドに、インデックスは当麻のベッドの上にたたずんでいた。
「そうだったね。なんか、そこからやけに遠いところにいっちゃった気がするんだよ」
「話を戻しましょう。……そうですわね、魔術はあると、認めざるを得ませんわ。魔術という言葉には抵抗がありますけれど、この学園都市のやり方とは違う超常現象の起こし方がこの世に存在するということは、受け入れましょう」
「……で、その魔術の関係でお前は追われてるんだっけか」
「そうだよ」
「俺達に出来ることって何かあるのか?」
「ご飯を恵んでくれたよね。それで充分なんだよ。それ以上は地獄の底まで一緒についてきてもらわなきゃいけないから。さすがにそんなことはお願いできないしね」
さらりと触れたその言葉は、冗談めかした比喩表現のはずなのにどこか真実味が合って、重たかった。
応えに戸惑って、わずかに会話が止まった。
「これからは、一体どうしますの? IDを持ってないんでしたら交通機関も限られますし、そもそも夕方の完全下校時刻以降は町を歩くこともままなりませんわよ?」
「うーん、まあ何とかするよ。イギリス清教の教会さえ見つかれば保護してもらえると思うし」
不安を気づかせないためなのだろうか、インデックスはなんでもないことのようにさらりとそう言った。
それを見て、光子はふむと考え込んだ。
「インデックスさん。これからその教会くらいまではご一緒しますわ。私と一緒なら怪しまれる可能性も減りますし、貴女と違って町の施設検索なども出来ます。なんだかんだといって広い学園都市ですから、あなた一人が歩いて探してもすぐには見つかりませんわよ」
「だめだよ! あいつらはあなたも私の協力者だとみなして襲うかも知れないし」
「ではあなた一人で目的の施設を見つけられる見込みはありますの? イギリスは確か歴史的にいわゆるカソリックとは異なる派閥になったでしょう? そうした系列の教会が日本にそう多いとも思えませんが」
「う……」
「追われているという人間を放っておくのも寝覚めの悪いものですわ。さっさと街に出てさっさと調べて、私達も安心したいですわ」
光子の言葉を聴いて、少しだけ当麻は納得しないものを感じた。出会って30分やそこらの女の子に地獄の底まで付いていくなんてのは無理だ。だけど、放っておくのも良心が痛む。光子が言い、そして当麻も異を唱えないそれがどこか偽善めいて感じられるのだった。
「危ないんじゃないのか?」
「私を誰だと思っておりますの? この子と同じ服を着ているのなら話は別ですけど、そんじょそこらの暴漢にやられるような実力ではありませんわ」
「『歩く教会』なんて着てるわけはないから、あなたの能力が通じないことはないと思うけど……。それじゃあ、教会の場所を調べるだけ、お願いしても良いかな? ちょっとくらいなら見つからないと思うし、人の多いところを歩いていれば異変はすぐに察知できるから」
「わかりましたわ。さっさと済ませてしまいましょう」
話がまとまって、光子はすっと立ち上がった。インデックスがそろそろとベッドを降り、光子に並ぶ。
「えっと、じゃあ俺も」
「当麻さんは補習がおありでしょう? 大丈夫ですわよ」
手を上げて言った当麻はむべなく断られた。まあ、補習をサボるとなると全ての話がひっくり返るのだ。今日のほんの数時間は光子といられるが、夏休みトータルではむしろ減ってしまう。
「……わかった。授業中でも電話が鳴ったら絶対出るから、必要ならかけてくれ。それとさ、光子」
「はい、なんですの?」
シンプルなキーホルダーが付いた鍵を、当麻が差し出した。同時に自分のポケットからも鍵を出して光子に見せる。
「あ……それ、もしかして」
「ん。まあ、この部屋の鍵だ。元から今日渡すつもりだったんだけどな、万が一何かあったらここに勝手に入って構わないから」
「……ふふ、嬉しい」
付き合っている彼氏の部屋の合鍵を持つのは、学園都市の女の子にとってひとつのステータスなのだった。逆のパターンも時折あるが、それははしたないと言われたりもする。なにせラブホテルの数は非常に限られ、しかも大人のIDを持っていないと入れないのだ。学生たちにとって彼氏の家というのは、色々と深遠な意味を持つ場所だ。そのせいか、合鍵プレゼントは初デートやキスと並ぶ、一つの重要イベントだった。
キーホルダーをおそろいにするという定番までちゃんと当麻が押さえて、初キスと初の彼氏の家訪問をしたその日にもらえたのが、光子にとってすごく嬉しいことだった。
隣ではインデックスがはてなマークを頭に浮かべていた。
「ねえ、もうちょっと待ったほうがいいの?」
「あっ、いえ。行きましょう。それじゃあ、当麻さん、また」
「ああ、なんかドタバタしちまったけど、埋め合わせはちゃんとするから」
「はい」
光子がにこりと微笑んだ。先に進んだインデックスが扉を開けて辺りを見回していた。彼女の視線が、扉によって遮られる。
その瞬間を当麻は見逃さなかった。
「光子。好きだ」
「え? あっ……」
インデックスに隠れてこっそりと、当麻は光子にキスをした。
余韻を楽しむように、唇を離してからもしばらく見詰め合う。
「見つかってしまったらどうしますの」
「別にそれでも問題はないけど、しないほうが良かったか?」
「ううん。すごく嬉しかったです。それじゃあ、行きますわね。当麻さんもお気をつけて」
「サンキュ」
二人が出て行くのを見送って、当麻も軽く部屋を片付け鞄を用意して、家を出た。
「はぁ、どういう言い訳を用意すりゃいいんだ。ありのままになんて絶対話せないしな。不幸だ……」




[19764] ep.1_Index 02: 誰ぞ救われぬ者は
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2010/09/10 21:30
冷房の行き届いた部屋で、ソファにインデックスは腰掛けていた。
目の前のテーブルにはミルク色の飲み物が置かれている。さっきお代わりを貰ったところだ。
味は甘酸っぱくて、ヨーグルトに近い。
涼しげなそれを眺めながら、インデックスはじっとしていた。
「ありませんわね。これで、第一学区から第二十学区までが全滅ですわ」
「他のところもこの調子だと望み薄ですね……」
奥では眼鏡をかけたオドオドした女性と光子がファイルを漁りながら教会を探している。
『昨日の落雷と停電のせいで、警備員(アンチスキル)の詰め所にある施設検索システムが落ちたらしいですの』と光子は言っていた。一言一句は思い出せるものの、その意味をインデックスはさっぱり理解できなかった。
一方、目の前で行われていることはよく分かる。便利そうな機械を使うのを諦めて地図と施設名の一覧をめくっているのだ。
結果は芳しくないらしかった。
「やっぱり調べるときの条件がシビアすぎるんですわ。イギリス清教の系列教会に限定すると、これっぽっちも見つかりませんわね……」
光子がぼやく。さっきから何度も「この教会は?」「そこじゃダメなんだよ」の繰り返しだった。
手持ち無沙汰にソファに腰掛ける風でいながら、インデックスは周囲に意識をやって魔術師の襲撃を警戒していた。
ここはいわゆる警察の交番に相当するような施設らしい。こんなところを襲撃するほど追っ手は過激ではないようで、今のところ何らかの魔術が使われたような形跡を感知することは出来なかった。
インデックスはこの一年、断続的に二人組の追っ手に追われてきた。何度かあったニアミスで相手の手の内はある程度は知っていた。
男のほうはルーン使い。人払いなどの細かい裏作業を担当している。女のほうは長刀を持った東洋人だ。これまでもずっと前衛としてこの女とは何度か相対してきた。女のほうの身体能力の高さはおそらく何らかの魔術による補助を受けたもので、追いかけっこでは絶対に適わないような相手だった。
それでもいつも逃げ切ってきたのは二人が魔術の実力をかなり注意深く隠し、実力を欠片ほどにしか発揮しないでいるからだった。自分達の追う相手が禁書目録である、その意味をきちんと理解しているが故のことだろう。
その実力の程をインデックスは読みきれていないが、本気を出された場合、あっさりと捉えられてしまう可能性と魔術を逆手にとって手痛いダメージを与えられる可能性、両極端な二つの選択肢が転がっていた。
「ふう。これで……全滅、ですわね」
「そっか……」
「ごめんなさいね。時間ばっかりかかっちゃって」
ため息をつき困惑した表情をした光子の隣で、ややいかついジャケットを羽織った大人の女性がインデックスに謝った。
二人を労うよう、インデックスは笑みを浮かべて礼を言った。
「調べてくれてありがとうございました。あなたも、ありがとね。私一人じゃここまで調べられなかったんだよ」
「お役に立てなかったのでお礼を言われると心苦しいですわ。それで、これからは……こちらにいると仕事のご迷惑でしょうし、外で話しましょうか」
「え? うん」
「あの、別にここで相談してくれてもいいんですよ? 警備員の詰め所はそういうことをするためにありますから」
「お気遣い、助かりますわ。でもなんとかするあてはありますから、どうぞご心配なく」
「はあ……」
IDも持たない不法侵入者と一緒に警備員の詰め所で話をするなんてのは論外だった。その辺りの機微をつかめていないインデックスを押しながら、光子は出口のドアを開く。
気弱な警備員で助かった、そう光子は思った。ネチネチと学生に質問をする面倒なタイプの警備員なら、もっと苦戦しただろう。
「暑いんだよ……」
「そうですわね……でもあそこでお話をするわけにもいきませんし」
そして方策を練らねばならない。少女に頼るべき保護者がいないとなると、今後の身の振り方は考えてもどうにかなるものではないかもしれないが。
あっという間に首筋を伝い始めた汗を指で拭っていると、そっとインデックスが口を開いた。
「もう、充分だよ」
「え?」
「これ以上は、どうやっても返せそうにない借りを作っちゃうかもしれないから、ここで別れよう」
インデックスが、その顔に優しい笑みをたたえていた。
「そうは仰いますが、IDも持たない貴女は不法侵入者で、この街はそういった者にひどく厳しい対処をとるんですのよ。ここは外の世界よりも20年か30年ほど進んだ技術を有していますから」
「うん、だからさっきの女の人みたいな人たちにも捕まっちゃだめなんだよね?」
「貴女が企業スパイでないことを示せるのなら数週間もすれば放免されるでしょうが、どこかに拘置されますわよ。貴女の言う魔術がこの街と全く無関係なら、捕まるのもまた一つの手段かも知れませんけれど」
警備員ならそこまで非道なことはしないだろう。そう言う意味で、インデックスは捕まるのもアリなのかもしれないと光子は考えた。
だがそのアイデアは、インデックスが微笑みながら首を横に振った。
「だめだよ。一箇所に留まると向こうにも準備を整えられちゃうから。この街の警備って優秀かもしれないけど、魔術には全然気を使ってないから追ってくる連中には無意味かもしれないし」
「でも、他に貴女をかくまってくれる所はないんでしょう?」
「なんとかなるよ。これでも一年間逃げてる身だからね」
「でも、身を寄せる場所もなく街から外に出ることも難しくって、おまけに夕方以降は外出もままならないのでは、難しいんではありませんの?」
インデックスは、笑みを絶やさなかった。
優しくて、楽天的な印象の微笑。
どれだけ光子が懸念をぶつけても変わらないそれは、光子を拒否する笑みだった。
「ありがとう」
「インデックスさん」
呼びかけても、また笑みが返されるだけだった。
「ずっと追っ手から逃げる旅をしてきたけど、あなたたちみたいに優しい人のお世話になったのは、初めてだったよ」
インデックスが身支度を整えるように、ピンの位置を気にしたり、はだけた裾を直したりした。
「二人には感謝してる。だから、ここでもう、いいよ。これ以上は巻き込めないからね」
これで最後というように、もう一度インデックスがにっこりと笑った。
「追われてるなんてのは、実は嘘なんだよ。友達と鬼ごっこしてるだけだから。だから気にしないで、明日から日常に戻ればいいんだよ。それじゃあ、とうまにもよろしくね、みつこ」
タッと、軽やかな音を立てて、インデックスは通りを駆け出した。
「あ、ちょ、ちょっと!」
制止する間もなかった。運動などあまり出来そうにもない子だと思いきや、意外と足は速かった。
光子は体格で勝る。きっとすぐ追いかけていれば、捕まえられるだろう。
だが、足は動かなかった。
追ったところで、自分に出来るのはせいぜい警備員に彼女を突き出すくらいだ。一緒にどこかに隠れたならむしろ光子が学園中で捜索されるようになる。当麻の家になら匿えるかもしれないが、想い人の家をそのような用途に使うのにはためらいがあった。
「……嫌になりますわね、こういうの」
駆け出していった少女に手を差し伸べたいという善意は、結局不都合を背負ってまで成し遂げたいものでもないのだ。
きっと光子の中で、この後味の悪さは数日もすれば消化されてしまうに違いない。
すぐ手近な路地を曲がってしまったインデックスの姿はもう見えない。光子は、さようならもきちんと言えなかったことを悔やんだ。


光子は一人で街中を歩いた。
目的が曖昧で、足取りは何かが絡みついたように野暮ったかった。
インデックスと名乗る少女が現れなければ、おそらく一人でショッピングでもしていたことだろう。だが今こうして繁華街をうろついているのは、形式上だけのショッピングである。ついさっき別れた、あの奇抜な格好をした少女のことをさっぱり忘れて遊べるほど、光子はさばけた性格でもなかった。
当麻は案の定、電話に出ない。補習中だから当然のことかもしれないが、モヤモヤした気持ちが晴れない。
そして結局買い物を楽しむでもなく、積極的にインデックスを探すでもなく、漫然と足を動かすだけになるのだった。
「あれ、婚后さん? 珍しいわね、こんなトコで会うなんて」
突然、聞き覚えのある声がかけられた。
「御坂さん、ごきげんよう」
光子と同じ制服を着た、常盤台の同級生。御坂美琴だった。光子とソリの合わない白井黒子とは一緒ではないらしく、美琴は一人だった。
片手には本が入っているらしい紙袋を手にしていた。
「婚后さんも買い物?」
「え、ええ。まあそんなところですわ。御坂さんも買い物でしたの?」
「あーうん。ま、ね」
僅かに気恥ずかしそうにするのは、おそらく紙袋の中身がマンガだからだろう。それくらいのサイズだった。
「婚后さんは何買うの?」
美琴とはそれほど親しいわけではない。お友達として付き合い始めたのもつい先月のことだし、美琴も群れるのが好きなタイプではないらしく、学校でもあまり話し込むことはなかった。
「特に何かを買うつもりがあるわけではないんですの。ちょっと遊ぶ予定だった相手が急用でいなくなってしまいましたので、一人でぶらぶらしていましたの」
「それはご愁傷様ね」
同情するように僅かに笑みを浮かべて、美琴は髪を軽くかき上げた。実は美琴も同じ境遇で、黒子と遊びに行く予定だったところを、風紀委員(ジャッジメント)の同僚である初春(ういはる)に奪われたのだった。どうも期限一杯まで放置した始末書を始末するために、今日一日忙殺されるらしい。
――まあ、似たもの同士でこれから夜まで暇な上に、夜になってからだってすることないしね。ちょうど良いからお茶でも誘ってみようかな。
美琴は割と光子を気に入っていた。常盤台のトップを走る二人のうち片割れである美琴は、同級生にも尊敬の眼差しを向けられ、対等に扱われないことがままある。光子は自分をそのように扱わず、ごく対等な感じに話してくれるのでそこを気に入っていた。まあどうやら、美琴が常盤台を代表する超電磁砲だと気づいてないらしいせいなのだが。
「ねえ婚后さん、あのさ――」



そこまで言いかけたところで突然光子の携帯電話が鳴った。ハッとなった光子の表情がやけに輝いていて、綺麗だった。
メロディはリストの夜想曲。『愛の夢』という組曲の三曲目で、一番有名な作品だった。『愛しうる限り愛せよ』なんて副題とあいまって、なんとなく、光子がどのような関係の相手から電話を貰ったのかが予想できた。
「ごめんなさい御坂さん。ちょっと失礼しますわね」
光子が美琴に謝って通話ボタンを押した。そして一歩美琴から離れ、口元を軽く隠すようにしながら話をはじめた。
耳年増なことをするのも悪いかと思って殊更に聞き耳は立てなかったが、光子がやけに嬉しそうで、しかも敬語を使っていながら甘えた感じなのを見て取って、相手が彼氏であることを確信した。
――彼氏から電話があるんなら、私はお邪魔か。ま、しょうがないわね。
光子が気づくように、大きめに手を振る。唇を大きめに動かしてまたね、と伝えると、眉を申し訳なさそうにきゅっと寄せて、光子が目礼を返してくれた。それを見届けて美琴は立ち去る。
「彼氏かー。確か婚后さんてホンモノのお嬢様よね。お嬢様学校に通うお嬢様が彼氏持ちかぁ。許婚とかそういうヤツだったりするのかしら」
光子に聞こえない距離になって、そう独り言をこぼす。とはいえあんまり異性に興味のない美琴にとっては、彼氏がいるとかいないとかはどうでもいいことだった。
……はずなのだが、ふとあのツンツン頭の高校生を、思い出した。
「だーっ、もう、いい加減に忘れろ私! なんでこのタイミングであのバカのことなんて思い出すのよ。へへ変に意識してるみたいじゃない。第一アイツにだってもしかしたら彼女だって――」
誤魔化そうとしてブンブンと振り回した手が、ピタリと止まる。
「ハッ、やめやめ。あの冴えないヤツに彼女なんて出来るわけないじゃない。変な心配してどうすんのよ」
学園で三番目に勉強が出来る人間とは思えないような論理矛盾を放置しながら、御坂美琴は独り言とともに雑踏へ消えていった。



「ゴメンな光子。さすがに授業中には出られなくてさ」
「こちらこそ、ごめんなさい。お邪魔になるのは分かっていたんですけれど、どうしても相談したくって」
光子は立ち去ろうとしている美琴と会釈を交わし、さっき起こったことを報告した。
「……そっか。あの子、行っちゃったか」
「ええ。どうしたらいいか、当麻さんに相談に乗って欲しくて」
「うーん」
当麻は光子から事情を聞いて、頭を悩ませた。悩みの中身は光子と同じだった。探したところでどうにも出来ないし、探すほどの義理があるわけでもない。しかし光子とそう変わらない年の女の子が追われていると言っているのにそれを無視するのは良心が咎める。けれども追われているという説明も魔術という言葉のせいでどうも真実味を感じられない。
しばらく考えて、当麻は決断した。
「光子、この後会えるか?」
「はい。当麻さんこそ大丈夫ですの?」
光子の声が僅かに上向いた。
「ああ。ちゃんと真面目に相談したら、頭ごなしに学生の言い分を突っぱねるような先生じゃないからさ。話せる範囲で事情を説明したら、そう暗くならないうちに開放してもらえると思う」
「嬉しい。……それで、当麻さんと合流できたらあの子を探しますの?」
「だな。捕まえられるならそれが一番だし、完全下校時刻までは歩いてみよう」
「お付き合いさせていただきますわ。でも、あの子と会えたとして、それからどうしますの?」
「うちの副担任に相談しようかなって、思ってる」
「はあ、警備員(アンチスキル)の方か何かですの?」
「ああ。黄泉川先生って言うんだけどさ、たぶん一番頼れる人だと思う」
黄泉川愛穂(よみかわあいほ)は警備員で、いわゆる業界の有名人というやつらしい。豪放磊落な性格で、並み居る不良をバッタバッタと朗らかに殴り飛ばすのだとか。学校でも面倒見がよく親身になってアドバイスをくれるので人気は高かった。スパルタ上等な授業内容にはみんな辟易していたが。
ちなみに当麻のクラスの担任の月詠小萌も学生に人気のある教師で、当麻は誰もがうらやむ『アタリ』のクラスに所属する幸せ者なのであった。黄泉川の警備員としての仕事の激化で担任を受け持つのが困難になったところに、産休で休んでいた先生の予想外に早い復帰が重なった結果らしい。
不幸なことに黄泉川先生も小萌先生も、クラスの問題児上条当麻を非常に愛しており、当麻は仲のいい友人と共に愛の鞭を雨あられと浴びているのであった。
「私には頼れる伝手(つて)はありませんから、当麻さんにお願いしますわ。でも、警備員に相談というのはちょっと気が引けますわね」
「いやでも、ほっとくわけにもいかないだろ? あの子を追っかけてるヤツがいるなら野放しにするわけにもいかないし、それに考えたくはないけど、あの子が俺達を騙してる可能性だってゼロじゃあない」
「騙しているにしては随分と下手な論理でしたけれど」
「俺だってそこまで疑ってるわけじゃないよ」
当麻が声を和らげた。光子も当麻の言いたいことは分かった。
結局は大人に頼らざるを得ない、それはどうしようもないことだろう。インデックスを裏切るようなことになって後ろめたい所はあったが、光子は仕方のないことだと自分を納得させることにした。
「分かっていますわ。補習が終わったら、連絡を下さる?」
「ん。すぐ電話するよ。待ち合わせは駅前か隣の公園か、あのあたりにしよう」
「わかりましたわ」
もうしばらく、近くをぶらつくことになりそうだった。
「それでは当麻さん、また後ほど」
「ああ、またあとでな。光子、好きだ」
「えっ? あ」
照れ隠しだろうか、返事も聞かずに当麻が電話を切った。
「もう、当麻さんたら。私の返事くらい待って下さってもいいのに」
まんざらでもない顔で光子はそうこぼした。つい数時間前に交わした口付けの感触を、光子は鮮やかに思い出した。


夕方といえる時間帯の初めくらい、影が伸びてきて夜の訪れを意識しだすその時間帯まで、光子は街を歩いて過ごした。
本屋に入って料理の雑誌を眺めてみたり、当麻と二人でよく行くファストフードの店で水分を補給したり、インデックスがいないかと通りを端から端まで歩いてみたりと、あれこれと時間を潰してみるもののどうにも気持ちが漫(そぞ)ろだった。
「一人で歩くと、なんだかすごく色あせて見えますわね……」
自販機でジュースでも買えばよかったのに、ファストフードのあの店に入ったのが良くなかった。当麻と二人で過ごしたときの楽しさが、今の寂しさを対比的に浮き上がらせていた。
携帯電話を取り出して時刻を見る。完全下校時刻までには合流すると言った当麻だが、もう大して時間も残っていなかった。
「あまりここから遠くへもいけませんわね」
光子は当麻が通学に利用する駅の近くにある公園に来ていた。
この駅は常盤台からも当麻の高校からも近く、買い物にも適した場所だった。その駅近くにあるこの公園はそれなりの大きさのあるもので、大通りから近い入り口のほうはベンチがカップルで埋まるような場所なのだった。
遊びの時間は盛りを過ぎていて、公園内にあまり人気はない。光子はさすがに疲れてきた足を休めようと、ベンチの並んだ場所へと向かった。
そしてその後の算段を、頭に描く。
もうじき当麻から連絡が来ることだろう。第七学区内だけですらたった二人で探すには広すぎるのだ。完全下校時刻までうろついても、それは自分達への慰めにしかなるまい。
年はそう光子と変わらないだろうが、幼く純真な感じのする少女だった。研究などで大人と対等に接するために、大人びた言動やものの捉え方を光子は身につけていた。成果で大人を凌駕するといえど、その振舞いは子どもが背伸びをしたものかもしれない。だが自分の考えが、あの少女の無垢な笑みを『都合』という言葉で汚してしまっているような、嫌な気持ちになるのも事実だった。
このあと、二人で探して不発なら当麻の学校の先生だという警備員の人間に連絡をして、それで終わり。
ふう、と息をついたその時だった。


茂みの向こうで死角になっていた道から、件の少女、豪奢な修道服に身を包んだシスターが飛び出してきた。
「えっ?」
「みつこ?!」
それなりの距離を走っているのか、インデックスは荒く息をついていた。
「どうしましたの? そんなにお急ぎになって」
「どうしたって、追われてるんだよ!」
「追われて、って」
「言ったでしょ? どっかの魔術結社に追われてるんだって!」
逼迫した目が、真実味を帯びている。訳の分からないリアリティが光子を襲い始めていた。
インデックスは光子の判断が鈍いのに苛立ちを感じながら、逃げる方策を考える。
まだ間に合う。まだ追っ手にみつこが見られていない今なら、きっとみつこを平穏な世界に帰してあげられる。
「みつこ、よく聞いて。みつこは全速力であっちに逃げて。振り向いちゃだめ。様子も見ちゃだめ。電車に乗ったらすぐ家に帰って」
「ちょ、ちょっと。貴女はどうしますの?」
「私なら大丈夫だよ。時間がないから、早く言うことを聞いて!」
「そんなことを仰っても、このような状況で貴女を放り出すことなんてできませんわよ、インデックスさん!」


口論が、余計だった。
追っ手は息一つ切らせず、声はあくまで冷静で、遠くまでよく通った。
「鬼ごっこはお仕舞いですか。……隣の方は?」
身長と変わらないような長刀を手にし、左右非対称な長さのジーンズを身に着けた奇抜な美女。年恰好は20くらいだろうか。
予想外に荒くれても醜くもない追っ手の姿を、思わず光子はぼんやり眺めていた。
隣のインデックスが、舌でも噛み切りそうなほどに後悔に苛(さいな)まれていた。
「ごめんね、みつこ。ごめんなさい……」
この追っ手は振り切るので精一杯なのだ。こうして近距離で対峙してしまっただけでも間違い。肉弾戦で攻めて来る相手には防戦しか出来ないのだ。
そして防戦で頼みの綱となる歩く教会はすでになく、そしてそもそも隣の少女を守るものは何もない。
……巻き込んでしまった。平穏を生きるべき市井の人を。魔術を知らない普通の人を。暖かさを分けてくれた、その人を。
自分の中の10万3000冊を相手に渡すわけにはいかない。そのためには、隣の少女を盾にして逃げることすら正当化されるだろう。だけど、インデックスはそんな選択肢を選ぶつもりは、絶対になかった。
「鬼ごっこはすぐに再開してあげるよ。ねえ、この子は関係ないから逃がしてあげたいんだけど」
「逃げてくれるのなら殊更に追いはしませんよ。我々の目的には確かに関係のない人のようですから」
ほんの一瞥を光子に向け、あっけなくそう言った。
「聞いてた? みつこ。今すぐ逃げて」
「……貴女はどうするつもりですの」
「なんとかなるんだよ! だから」
「何とかなる人はそんなに焦ったりしませんわ」
必死の表情で光子に逃げろと促すインデックスを放って、光子は逃げるつもりはなかった。
「素直に逃げていただけるとこちらとしても随分と助かります。そうしてはくれませんか? その少女をかばい立てするようなら、あなたにも危害を加えることになってしまいます」
インデックスだけが目的である相手にとって、光子は単に障害物なのだろう。追っ手のこの女は光子を路傍の小石程度にしか思っていないようだが、それは過小評価というものだろう。光子が道をふさぐ大石であればインデックスは逃げ切れる。
光子は深く息を吸い、その女をキッと見つめた。
「確認しますけれど、インデックスさん、こちらの方が貴女の言う追っ手ですのね?」
「そうだよ」
嫌な予感に、インデックスは襲われていた。光子が目に強い意思を込めて、周囲を見渡していた。
「みつこ、まさか」
「貴女独りでは、もはや逃げられない状況なのは分かりますわよ? でも、手を合わせれば話は別。二兎を追うおばかさんになってもらえばよろしいわ」
それを聞いてなお、追っ手は無表情だった。刀の鯉口に添えられた左手だけが、そっと臨戦態勢を整えていた。
慌てたのはインデックスだけだった。
「だ、だめに決まってるんだよ! 何考えてるの?」
「もう決断しました。言い合うのは逃げ延びてからにしましょう。それにレベル4の大能力者というものを、貴女は分かっておられませんわ」
レベル4ともなれば、限定的にではあるが天候すら操作しうる規模の能力を発現させるのだ。単独で軍隊を制圧しうると言われるレベル5には及ばないが、それでも対人戦では驚異的な武器を持っていることに変わりない。
「考え直してはいただけないのですか?」
「貴女こそ、ここで考え直してまっとうな人生を送ってはどうですの?」
「残念ですが、それはできません。その少女を逃がすのに加担するというなら、七閃の刃をもってあなたを排除しましょう」
追っ手の女の黒い瞳の中が、光子の問いかけで僅かに色を揺らした。狂信で行動を支えるカルトとは一線を画すらしい。
危険を顧みず、一向に逃げる気配を見せない光子にインデックスは文句の一つも言ってやりたかった。どうして逃げないのか、どうして自分をもっと大事にしないのかと。
だがそこで、茶化して自分が言った言葉を、思い出した。
――それ以上は地獄の底まで一緒についてきてもらわなきゃいけないから。
光子は親切で正義感のある少女なのだ。自分に関わったばっかりに、彼女は地獄に誘い込まれしまったのだ。
「……恨んでくれて、いいから」
最早ごめんなさいと言う事すら、許されない気がした。
「恨むも何も、ここで憂いを絶てばいいだけのことでしょう? 逃げ切ってしまえば、あとはこの都市がよしなにしてくれますわよ。外来の危険人物には非常に厳しい土地ですから」
トントンとつま先で地面を叩いて靴の履き心地を整える。運動に向かないローファーだが、それなりに穿き潰してあるので走りにくいほどではない。
あとは数メートル離れたこの相手に、いつ背を向けるかだけが問題だった。
「私を誰だかご存知ないでしょうね。か弱い相手に暴力を振るう下賎な追っ手さん。この常盤台の婚后光子を相手にした不運を恨むことですわね」
「ご紹介痛み入ります。私は神裂火織と申します。あなたの仰ることは一言一句が正鵠を射ていますので私から言うことはありません。とはいえ行いを改めるつもりはありませんが。それと」
神裂という女が、瞬きをした。ただそれだけのことが合図になった。抑揚に変化なんてないはずなのに、声の強さが変わった気がした。
「私にはもう一つ名乗るべき名前があります。ですが私はそれを名乗りたくはない。どうか、私にそれを口にさせる前に、抵抗を止めてください」
ザリッという音と共に、神裂が一歩を踏み出した。



身構えた光子と対照に、インデックスは身を翻して光子の手を引っ張り、駆け出した。
「みつこ、走って!」
「ちょ、ちょっと」
光子は初手を自分から出す気でいた。空力使いの能力を活かし、相手を吹き飛ばしてアドバンテージを得てから逃げる気だったのだ。
重心を落としていた分体勢を崩しながら、インデックスの後ろを走る。
それを見た神裂また、素早い対応を見せた。
冗談みたいな加速。
爆発するようにトップスピードに乗り、数メートルの距離をあっという間に詰める。
遅滞のないそのリアクションで、二人はすでに追い詰められていた。
光子が、小道の傍らに建つ小屋の壁に手を着く。
数瞬遅れ神裂が刀の柄に手をかける。

ビュアッ、と風が暴れる音がした。
インデックスは弾かれたように後ろを振り向き、驚きに目を見開いた。

こちらをまっすぐ追いかけてきた神裂が、横から誰かに突き飛ばされたように転がっていった。
受身はとっているものの、その表情が驚きの大きさを物語っている。
「これが超能力、ですか。成る程、発動の条件が全く読めないのは厄介ですね」
すぐに体勢を立て直す。だが、距離は20メートル近く開いていた。


「どうしますの? また追いつかれますわよ」
「とにかく全速力、いまはそれしかないんだよ!」
「そうですか。なら、加速が必要ですわね」
「え? あ、わ、うわわわわわわ」
光子がインデックスの背中をそっと撫でた、そのすぐ後だった。
インデックスは背中を何かが押しているような、そんな感覚に襲われる。
一歩一歩のストロークが普段の倍近い。慣れないペースと歩法のせいで足に負担がかかるが、確かにこれは早かった。
光子も自分の背に能力を発動して、加速する。
二人の足の速さは100メートルを10秒台で駆け抜けるレベルだ。
その速さはこの大きな公園でさえ一瞬で走破する。
光子は逃げ切ったことを確信した。

インデックスは慣れない速度に足をとられないよう注意を払いながら、後ろを警戒していた。
相対するこちらが魔術師ではないのだ。敵が飛行魔術でも使ってくればこの程度の速さは問題とならない。
だが、その懸念は無用だった。
「うそ……」
生身の足を使って、神裂は追ってきた。
速度は大差ない。だが、カーブでスピードが全く落ちない。
そして、腕を振らずに刀に手をかけても、その速さが変わらなかった。
「っ! みつこ!!」
名を呼んで注意を促すしか出来なかった。
光子も不穏な気配は感じ取ったらしかったが、瞬間的にとるべき行動を選べるほど、場慣れはしていなかった。

鋼糸で腱を切断しても、おそらく後遺症も残らないでしょう。リハビリは必要でしょうが――
神裂は、二人の数メートル後ろにまで肉薄していた。
この街の医療レベルは高い。取り返しのつく怪我を負わせて、この超能力者を排除するつもりだった。
インデックスが叫んで注意を促すが、もう遅い。

光子の対応が間に合わないことに気づくと、後のことは、条件反射に近かった。
光子と神裂を結ぶ直線状に、インデックスは自分の体を滑り込ませた。
みつこに怪我はさせない。
言葉にならない瞬間的な思いを表すなら、そういうことだった。

好都合だ、と神裂は思った。
七閃を使うのを止め、刀にやった手で柄をしっかりと握る。
霊的守護の行き届いた教会を切断できるほど、神裂の唯閃は強力ではない。
歩く教会を着たインデックスに、気絶程度のちょうどいいダメージを与えるいいチャンスだった。



神裂は流麗な動作で刀を鞘から滑らせ、その勢いを少女を庇うインデックスの背中に向けて容赦なく解き放った。
衝撃を吸収され、そして刀の切れるという特性すら殺されてしまって、衝撃がインデックスを気絶に追い込むだろうと思っていた。
――――だというのに。


ザクリと、刀の先がシルクの白い布に飲み込まれる音がした。
空気とも水とも違う、粘りを感じながら、刀が布を切り裂いていく。
取り返しの付かないところまで刃を沈めてようやく、何が起こっているのかに気づき始める。
「あ――」
途中で一閃を止めることは出来ない。
棍棒のつもりで振り抜いた刃の先は、ぬるりと光っていた。

信じられない、信じられない、信じられない。
歩く教会が機能を失うなんて、何をすればそんなことが起こるのかさっぱり理解できない。
そしてインデックスの身を守る結界が失われていることに気づきもせず、刀を振るった自分が信じられない。

インデックスと目が合う。
倒れ行くその瞬間。傷を負ったことに驚愕しながらも、敵意ある瞳で神裂を見つめていた。
――この人は、傷つけさせない。
神裂を取り巻く事実の全てが、彼女の意思をバキンとへし折った。


「ちょ、ちょっとインデックスさん! 大丈夫ですの! インデックスさん!」
近くて遠い目の前で、誰かの叫ぶ音がする。
「テメェ!!」
遠くて遠い公園の入り口で、誰かの叫ぶ音がする。


神裂はそれらを受け止めることも出来ず、自分がインデックスに刃を突き立てた、そのことに呆然となっていた。



[19764] ep.1_Index 03: 傷ついた者を背負って
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2010/09/14 11:57

「だいすきだよ、かおり」


たとえ彼女が、自らその運命を受け入れたのだとしても。
神裂火織は、インデックスという名の少女の人生が幸多きものになることを願わずにはいられなかった。
――Salvere000(救われぬ者に救いの手を)
それは彼女が自らの魂に刻み付けた決心。


イギリス清教が持つ裏の部分、必要悪の教会(ネセサリウス)。そこが神裂の居場所。
言葉や文化にも慣れてきた頃に上から与えられた使命が、彼女の護衛だった。
完全記憶能力によって優に万を越える魔導書という名の猛毒を頭の中に収め、そしてそれが故に一年ごとに記憶のリセットをしなければならない修道女。はじめてその情報を聞いたときは、なんて苛烈で、敬虔な信仰の持ち主なのだろうかと恐ろしくすら思ったものだった。
だが会って、そして仲良くなるにつれて、分からなくなった。その生き方が、彼女の幸せなのか。
同僚として共に護衛にあたったステイルとインデックスと三人で過ごす日々は、いつだって楽しかった。同年代の、そして対等に接してくれる人たち。
神裂が決別し、故郷においてきた家族とも言うべき人たちは彼女を女教皇様(プリエステス)と呼び、慕ってくれた。だがその在りようは、十を少し超えた程度の少女には軽々に容れられるものではなかった。
未開の国の村々でシャーマンから魔導書を口伝で聞くときも、何が起こるかわからない大英博物館の倉庫を探検するときも、敵意という針で全身を射抜かれるような思いをしてヴェルサイユ宮殿の書庫で魔導書に目を通したときも、いつだって三人には笑いがあった。
ステイルは自分の才を鼻にかけた自慢げなところがあって、インデックスとつまらない張り合いばかりしていた。ティーンエイジャーになる前から煙草に手を出し始めた彼を毎回諌めるのがインデックスの仕事だった。面白い話なんて出来ない性格の神裂はそれを見守りながら、時に話に加わるのだった。
初めの半年は、ひたすらに楽しかったと思う。だが、リセットの日が近づくその足音が聞こえて来る頃になると神裂は失うものの大きさにおびえていた。
彼女と出会ってから学んだ術式。その一つは彼女の記憶を奪うものだった。
インデックスは記憶をリセットしなければ死んでしまう。そんな彼女を『護衛』する任務というのは、襲いかかる敵からその身を守ることだけではなかった。一年ごとに迫ってくる死の淵を遠ざけるために、彼女の記憶を奪う。あるいはそちらこそが、最も重要な任務だったのかもしれない。
自分で学んだ術式だから、神裂はそれを行使した結果がどのようなものかをどうしようもなく理解していた。
二度と、インデックスは自分達を思い出さない。

初めての別離の時には、彼女は幼子のようにインデックスにすがりつき、泣いた。
そしてすがりついたその手で、インデックスから記憶を奪い去った。
それから年に一度、インデックスから記憶という名の幸せを奪い去るのが仕事になった。それが彼女に訪れる最悪の不幸、死を遠ざけるために必要なことだった。
どれほどの非行でも、それがインデックスの幸せに繋がるなら、あるいは不幸せを打ち祓うなら、彼女はためらわずやってきた。
救われぬ者に、精一杯の救いの手を差し伸べているつもりだった。


目の前で、インデックスが倒れている。
他でもない、それを成したのは自らの振るう、七天七刀という名の凶刃だ。
その刃は、救いの手ではなかったか? 何かしらの幸せをもたらすものではなかったか? 魔を退ける聖刃ではなかったか?
よく見れば、インデックスの着る修道服には無数のピンが刺さっており、魔力なんてこれっぽっちも発していない。人よりも優れた身体、あるいは運命そのものを与えられた自分がそれに気づけなかったのは、ミスを通り越して罪だと言っていい。
刃を振るう意味を忘れた自分を呪い殺したくなる。それは切るためにあるものだ。ほんの少しの注意不足で、切るべきではないものを断ち切ってしまう。
刀を手にして救いを口にするものは、その一閃の振るい方を絶対に誤ってはならないというのに。


神裂は振るった刃を仕舞うことも出来ずに立ちすくみ、うずくまるインデックスとすがる少女をぼうっと眺める、それしか出来なかった。




「はぁ。何とか開放してもらえたけど……こりゃ明日からもっと大変になるかもなあ」
当麻はようやく小萌先生に解放されて、電車を待ち合わせの駅で降りたところだった。
改札を出ても、光子は見つからなかった。人で混雑したそこで待ち合わせをせず、デートの時には傍の公園を指定することも多かったから、光子はそちらにいるのだろう、と当麻は考えた。
携帯を取り出し電話をする。だが、10コール待っても光子は出なかった。切ってすぐにメールを送る。到着を知らせる簡単な内容のものだ。
完全下校時刻という、光子を寮に帰してやらねばならない時間はすぐに訪れる。しかし当麻はその後も町を歩く気でいた。当麻にとって、不良に絡まれた女の子を助けた代償に不良から追いかけられ回されて深夜まで町を徘徊する、なんてのは珍しくない。

インデックスという名の少女を見つけられないことを前提に、当麻は黄泉川先生に連絡を取ったときの内容を頭に思い描く。
たぶん、怒られるだろう。不審者にはこの街は厳しい。この街の財産を流出させる人間や、それを助けた内通者は非常に厳しい罰を受けることになる。
純真そうなあの少女がまさかそうした企業スパイだとは考えにくいが、警備員(アンチスキル)である黄泉川先生なら、当麻の判断を良くなかったと評価する可能性は高い。

アスファルトの黒い道からこげ茶のタイルで出来た公園の道へと、足を踏み入れる。その境界に、いつもと違う気配でも感じられればそれらしかったのに。
公園を照らす夕日も、長閑な声を出すカラス達も、全てが何気ない日常だった。
だから、光子が離れたところにある角から走って現れたときも、鈍い反応しか出来なかった。
「あ、光子」
本人に聞こえるわけもない、独り言。
ついでに光子が先ほどの少女と一緒に走っているのに気づく。
なんだ、見つかったのか。まあその方が説明しやすいし、よかったよかった。
そんなことをぼんやり考える。
二人の表情がやけに強張っているのには気づいていたが、その意味が、まるで頭の中で予想できなかった。

奇抜なファッションの女性が、二人の後ろにいた。手には刀。
そこでようやく、当麻の中の危機感を告げるアラームが警鐘を控えめに鳴らし始めた。

「っ! みつこ!!」

焦りに満ちたインデックスの声。
警鐘は早鐘を打ち出す。
そしてそれでは、遅かった。
数十メートルを隔てたその先。平凡な高校生の当麻にそれを埋める術はない。
刀が水平に薙(な)がれるのを、インデックスが崩れ落ちるのを、ただ眺めるしか出来なかった。
「嘘だろ……なん、だよ、これ」
非日常は、簡単には行動指針を設計させてくれない。
喧嘩慣れした当麻だが、こんな光景は見たことがなかった。

「ちょ、ちょっとインデックスさん! 大丈夫ですの! インデックスさん!」

当麻を始動させたのは、聞きなれた光子の声だった。
刀を持った危険人物が、恋人のすぐ横にいる。
光子が危険に晒されている。
当麻の心は一瞬で気化燃料で埋め尽くされた。
「テメェ!!」
考えるより先に足が動く。
当麻は光子と追っ手の女の間に走りこんだ。



ハッと神裂は、誰かが自分の前に迫っているのに気づいた。
距離は1メートル。
そして手にした七天七刀は2メートル。
もはや振り回して迎撃は間に合わない。
「オォォォアァァァァァァァァッ!!!」
敵意の乗った叫び声をあげる少年。
その拳が、神裂の頬をめがけて飛んできた。
「くっ!」
七天七刀を握った手を引いて、腕でその拳を受け止めた。

体重のよく乗った拳だが、格闘に慣れた神裂にはどうということのパンチ。
暴力に晒されることで、むしろ神裂は冷静になれた。
今すぐあの子を回収しなければ。手遅れにならないうちに。

神裂が感情を自分の中からバサリとカットして、当麻に向き合った瞬間。
手元から、パキンという音がした。
「え――」
七天七刀は、基本的には刃の付いた鉄の延べ棒だ。それを折れにくく、また霊的なものに干渉できるようさまざまな術式で強化してある。
今の音は、そんな術式が剥落する音だった。


「光子! 今すぐその子と一緒に逃げろ! お前の能力だったら、いけるよな?」
「え、あの、当麻さん!?」
当麻は舌打ちする。光子は動転している。
だが刃物を持った相手に当麻はそう応戦できるとも思わない。
「今は俺の言うことを聞くんだ! いいか、その子を連れて全速力で逃げろ!」
光子は力強く断定的な当麻の言葉に、あれこれ反論しようとして止めた。
今は議論をする瞬間ではない。光子は痛みに気を失ったインデックスの手足を整え、背中に触れた。
ぶわりという風をヘリコプターのように真下に吹き降ろしながら、インデックスの体が持ち上がる。
重力とつりあうだけの風力で重みをキャンセルしたインデックスの体を、これまた加速した自分の体と共に運んで、光子は一目散にそこを離れた。
インデックスを当麻に任せて自分があの女と相対するほうがよかったのではとか、他にもっといい選択肢はなかったかとか、不安ばかりが心を蝕んだ。


当麻は、素直に逃げ始めた光子にほっと息をつく。
そして時間を稼ぐために拳を握り締める。
さきほど手の甲が僅かに触れたとき、刀から変な音がしたのが分かった。
右手に備わる幻想殺しが何かを殺したのだと、気づいていた。
当麻の右手を明らかに警戒する動きで、追っ手の女は立ち回る。
表情は焦りに染まっていた。
「一体テメェはなんなんだよおおぉぉ!!!」
あからさまに大声で、当麻は敵に叫びかける。
内容なんてどうでもいい。
ここは開けた場所だ。叫び声で、すぐに誰かの気は引ける場所だった。
当麻は制服を着た男子高校生。
目の前の女は長刀を持った奇抜な格好。
当麻は時間さえ稼げれば自分に分があることを自覚していた。

神裂も短期で目の前の少年を打倒し、インデックスを追わねばならないことは当然分かっていた。
だが、それでも迂闊には動けなかった。
何をされたのかが皆目見当が付かない。
自分の持つ最も大きな攻撃手段が、すでに効力を失っている。
長すぎるこの長刀はそもそも儀礼用で、術式による補強がなければ、堅いものを切れは半ばであっさり曲がってしまうのだ。
主武器は失った。そして他の攻撃手段や、携帯する手当ての護符など、壊されてはインデックスを守り救えなくなってしまうものがいくつもある。
どうやって武器を破壊されたか、それが全く分からないが故に迂闊に神裂は手を出せなかった。

叫び声に触発されたのか、鋭い神裂の耳はいくつかの足音を聞き取っていた。
「……く、あの子を助けなければいけないのに」
ぼそりとそう呟いても、人前から撤退するしか、どうしようもなかった。
心配で押しつぶされそうになる心臓を無理矢理駆動させて、神裂は人気の無い方へと走り去った。





追っ手が姿をくらますとすぐ、駅近くに当麻は引き返して光子に電話をかけた。
喧騒が声を掻き消してくれる所で、当麻は壁を背に周りを窺った。
「もしもし、光子です! 当麻さん!」
「大丈夫か、光子。どこにいる?」
「怪我はありませんの? あの人はどうしましたの? 当麻さんがもし怪我をされたらって私、心配で心配で」
あっという間に、光子の声がくぐもった。ぐずぐずとした音が聞こえて、泣いているのが分かる。
「俺は大丈夫だよ、光子。人が集まったせいであっちはすぐ逃げた」
優しく諭すように、光子に声をかける。不安げな光子の声を聞いて、当麻は冷静さを取り戻していた。頼られているのだという自覚がそうさせた。
「光子。混乱してるのは、わかるよ。でもこういうときだから一つ一つ答えてくれな。まず、あの子はどうしてる?」
「今しがた、目を覚ましましたわ。じっと座っていれば耐えられないほどではないそうです」
「傷は……浅くはない、か?」
「そんな易しいものではありませんわ! だってこんなに血だって出てきて、服が血の色に染まってますのよ!」
ヒステリックな答えが返ってくる。
「そうか。光子、今どのへんにいるのか、教えてくれるか?」
さすがに遠くに逃げることも無理だっただろう。その予想通り、光子が言ったのは近くの路地裏だった。
当麻は走ってほどなく、そこにたどり着いた。人通りのある通りからほんの数歩立ち入ったところだが、死角にあり、人気が少ない場所だった。

「当麻さん!」
救いの主が現れたかのように、ほっとした表情の光子が駆け寄ってくる。瞳が不安定に揺れていた。
当麻は何より先に、光子を抱きしめた。
「あっ……」
「光子。怪我とかは、ないか?」
「私はなんともありませんわ。でもこの子が……私をかばって」
混乱の中に沢山の感情を込めた奔流が、抱擁をきっかけに堰を切った。
こんな光子を、本当なら一時間でも二時間でも抱きしめ続けて、癒してやりたい。だが怪我のない光子よりも、優先すべきはインデックスだった。
光子を撫でて、一度だけ強く抱きしめる。そして、そっと光子から体を離した。
光子もわきまえていたのだろう。不安げな表情をしながらもそれに当麻に逆らわなかった。

「ごめんね……」
インデックスの傍らにしゃがみ込む。まず口にしたのが、それだった。ごく普通の人生を送っていた人たちを、危険な目にあわせてしまったこと。それを悔いていた。
楚々とした白の修道服をどす黒く染めるほど傷ついてなお、最も彼女の中で強く渦巻く感情は当麻たちへの申し訳なさと後悔だった。
「こっちこそ、ごめんな。お前が追われてるって話を、信じてやれなかった」
「いいんだよ、そんなの」
「なあインデックス。応急処置でどうにかなるような怪我じゃ、ないよな。救急車を呼んでいいか」
当麻は一応、尋ねた。怪我の処置という意味ではそれが最良の選択肢だ。
だが、問答無用で当麻が呼ばない理由をインデックスも察していた。
「呼んだら私、捕まっちゃうよね?」
「ああ」
「じゃあ、それは、ダメ。とにかく血を止められれば、たぶん何とかなる、から」
長い言葉は苦しいのか、息が途切れ途切れだった。
「魔術とかそういうので、ぱーっと治ったりってのは、さすがにないか?」
当麻はだんだんと、超能力ではないそれを受け入れ始めていた。
ゲームの魔法みたいに傷を癒す呪文なんてものがもしあるなら、それに頼れるかもしれない。
「あるよ。でも、ここでは使えないかも」
「ここで、ってどういうことだ?」
「お昼に説明したことだけど。私には、魔力がないから。知ってるけど使えないんだ」
「じゃあ、じゃあ私達なら何とかなったりはしませんの?」
光子の悲痛な声が聞こえた。当麻はまだ傷口を直接目にはしていないが、光子は見たのかもしれない。
センチメートルのオーダーで出来た傷はあまりに凄惨で、慣れない人なら動転する。
「それも駄目なんだよ。あなた達は、超能力者だから。別の回路を頭の中につくっちゃった人には魔術は使えないの」
理不尽な事実に、光子は唇を噛んだ。
「能力開発してない普通の人間なら、いいのか?」
「……よくは、ないんだよ」
「インデックスさん?」
「素人に魔術をお願いしてもし失敗したら、取り返しの付かないことになっちゃう。それに成功しても、また、巻き込む人が増えちゃう」
「でもこのままだと、お前は」
「うん……。そうだね。迷惑をかけないようにしたら死んじゃうかも」
インデックスはそれだけ言うと、悔しげにうつむいた。


当麻は携帯を取り出し、電話をかけた。
「当麻さん……まさか」
「救急車じゃないよ」
光子の懸念を否定した。
「土御門か」
『お、カミやんどうかしたにゃー? コッチは今舞夏がすんげー美味そうな晩飯を作ってくれたところぜよ。悪いけど遊びの誘いなら今日は断るにゃー』
「悪い土御門。そういうのじゃない。聞きたいんだけど、黄泉川先生の家の場所とか、電話番号とか、わかるか?」
『……やけに焦った声だな。カミやん。どうかしたのか?』
「ちょっとな。また話すわ。それで、わかるのか?」
『住所録と連絡網を見ればいいんだろ? たしか……』

程なくして、番地や建物名が伝えられる。
ありがたいことに、ここからそう離れてはいなかった。

『にしてもカミやんがまさか黄泉川先生に告白しに行くなんてにゃー。結果は後で教えてくれ』
「違うっての。じゃ、切るわ。ありがとな」


「警備員(アンチスキル)の先生、でしたわよね?」
「ああ。黄泉川先生は、たぶんこういうときに一番頼りになる人だと思うからさ」
時間が惜しい。もう多くを、二人は語らなかった。
当麻はインデックスにそっと触れ、痛みをなるべく感じさせないよう体を起こすのを手伝った。
インデックスを背負い、揺らさないように歩き出す。
「ごめんね」
その一言を、当麻は聞かなかったことにした。空はすでに宵闇。なんとか、通報されずに黄泉川先生の家までたどりつけそうだった。



黄泉川愛穂は完全下校時刻の見回りを終えて、家に帰り着いたところだった。
ザクザクと切ったキャベツと椎茸と鳥の手羽元を少量の水を張った炊飯釜に放り込み、飲み残しの白ワイン少々とコンソメのかけらを入れてスイッチを押す。隣の炊飯器には研いだ米が漬けてあったので、そちらもスイッチを押した。
もうじき風呂も沸くだろう。
「あー疲れた。って言ってもやっぱ夏休みは副担任だと余裕があるなあ」
出勤の時も働いているときも常にジャージ姿の黄泉川は、家に帰っても特に着替えない。寝巻き用のジャージで出かけることは一応控えているが、デザイン自体は同じなのだった。
早めに目を通してしまったほうがよさそうな資料を頭に思い浮かべ、溜めた映画の一つでも見る暇はあるかと思案する。
プルルルと、その思考を遮る音がした。
「はい」
壁に掛かったオートロック解除のモニターに向けて呼びかける。
新聞屋か宅配便かと思いきや、声は聞き覚えのあるものだった。
『黄泉川先生、ですよね?』
「上条? 何の用じゃんよ?」
『追われてます。済みませんけど、匿ってもらえませんか』
緊張したその声でモニターを凝視すると、不安げな常盤台の女子生徒と、そして気を失って当麻に背負われている少女が映っていた。




[19764] ep.1_Index 04: 魔術との対峙
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2010/09/29 12:26

「とりあえず背中に背負った子を見せな」

教職員用のマンションの13階、家族で住むような間取りのそこに通されてまず一声目がそれだった。
リビングにはすでに毛布が敷いてあった。インデックスをそこに、そっと横たえる。
「これ、かなりやばそうじゃんよ。……お前らには怪我はないのか?」
「あ、はい。俺と婚后は大丈夫です」
「そうか」
傍らには警備員(アンチスキル)御用達の救急キットがあった。部分麻酔と銃弾などの摘出と縫合までなら何とかなるだけの、かなり本格的なものだ。
黄泉川がハサミで黒ずんだ修道服を切り広げた。背中から腰や、お尻までがあらわになる。
だが、女性である二人は当然として、当麻もそこに性的な感情を覚えることが出来なかった。
空気に触れて酸化した血で肌がどす黒く汚れている。10センチを越える長い傷が、腰から10センチくらい上を横に走っていた。
これほど酷い切り傷は、当麻だって見たことがない。あまりの凄惨さに、我を忘れそうになって。
「ひっ」
光子の存在を思い出した。振り向くと、光子が引きつった顔をして口元を覆っていた。
インデックスを視界から隠すように、光子に体を軽く触れさせる。血で汚れた手で光子を抱きしめるわけにはいかなかった。

「上条。救急車だ。そこに電話があるから、いやお前の携帯でもいい。ここに呼べ」
傷を明るいところで見ればどう考えたってそれは正論だった。だが目の前で倒れるインデックスには、それを許さない事情がある。
「あ、いや……」
「戸惑ってないでさっさと動け! お前はこの子の傷を見て、医者でもないあたしの手に負えるとでも思ってんのか!?」
うまく黄泉川を誤魔化す言い訳を、当麻は考える暇がなかった。本当はここまでの道中に考えておくつもりだったのに、途中でインデックスが気を失って、それどころではなくなってしまっていた。
当麻が硬直したその一瞬に滑り込むように、無機質な声が発せられた。
「――――出血に伴い、血液中にある生命力(マナ)が流出しつつあります」

あまりの声調の平坦さに、そしてそれを発したのが倒れて気を失っていた人間だということに、三人はぎょっとした。
話の中身は自分の体にかかわることなのに、あまりに事務的すぎる。
「――――警告。第二章第六節。出血による生命力の流出が一定量を越えたため、強制的に『自動書記(ヨハネのペン)』で覚醒めます。……現状を維持すれば、ロンドンの時計塔が示す国際標準時間に換算して、およそ十五分後に私の体は必要最低限の生命力を失い、絶命します。これから私の行う指示に従って、適切な処置を施していただければ幸いです」
うつぶせに寝かされたその姿勢で首だけを動かし、インデックスが光のない硬質の瞳で黄泉川をじっと見据えた。


「先生。その子の言うとおりにしてくれますか」
「はあ?」
「そいつの能力、かなり高レベルの肉体再生(オートリバース)なんです。緊急時には意識がなくてもこういうインターフェイスが立ち上がるようになってて、開発者に手伝ってもらう必要があるらしいです」
「……」
訝しげな黄泉川の沈黙と、当麻のついた嘘に齟齬を生じさせないよう黙った光子の沈黙が交差する。
当麻は指摘を受ける前に、言葉を重ねる。
「他の超能力者じゃ、うまく手伝えないらしいです。だったよな?」
「――――はい。超能力者、特にあなたの能力は私の魔術を破壊する恐れがあります。この部屋を退出していただけるよう、要請します」
「そうか」
当麻は自分ではどうにも出来ない歯がゆさを内心に押し隠した。光子は、不安や悔しさを唇に乗せて、それを噛んだ。
「言いたいことは山ほどあるけど。上条。お前がついた嘘はこの子を助けるのに必要なものだけだな? この子を助けるのに、邪魔になるものはないな?」
学生のとっさの嘘なんて、お見通しなのだろう。だが、それでも黄泉川は当麻がこの子を助けたいと思っていることは疑わなかった。
「はい。インデックスを、助けてやってください。俺は外に出てますから」
当麻に出来るのは、それだけだった。
そっとリビングを離れ、当麻は入り口のドアノブに手をかけた。
すっかり夏めいた、夜になっても生温い風が部屋に吹き入る。その横を通り過ぎて、当麻は部屋を出た。
「……同じフロアでも、まずいかな」
自虐的な思いのにじむ、独り言だった。
右手に宿る幻想殺し(イマジンブレイカー)が誰かの役に立ったことなんて、一体何度あっただろう。
不良の攻撃を無効化するのには役立つ。だが、当麻が自ら路地裏にでも行かない限りそんなものは役に立たないのだ。
当麻の右手には何かを壊す力しかない。治癒なんてのはどうやったって無理だ。それが歯がゆかった。
力なくエレベータに乗り込み、当麻は1階のボタンを押した。



「場所は特定できているのかい? 神裂」
「ええ。13階です。ルームナンバーも把握しています。この街の安全をつかさどる警備員(アンチスキル)という役職に就いた人の家のようです」
「そこで治療を受けている可能性は?」
「低いでしょう。あの傷は皮膚を縫い合わせるだけは済みません。専門の医者を呼ばない限りはあそこでは、あの子は……」
とあるマンションの1階エントランスで最低限の打ち合わせを済ませて、ステイルと神裂は二手に分かれた。
丁寧な下準備を必要とするステイルは階段を上って。そして万が一の逃走経路を潰すために神裂はエレベータで。
中身のないエレベータの前で、ギリ、と神裂は刀の柄を握り締める。剣先についた脂は丁寧に拭い、あの少年に破壊された術式は時間の許す限り組みなおした。
自分のつけた傷だ。程度の酷さは知っている。処置を施さねば、命にかかわるレベルだった。どういうつもりなのか、そんなインデックスを背負った彼らは、病院に運ぶでもなくこのごく普通のマンションへと来たのだった。
ステイルと歩調をあわせるにはしばらく神裂が待つ必要がある。
呼吸を一つ。それで焦りを押し殺した。遠くに聞こえるステイルの足音は今10階にたどり着いたことを知らせている。
潮時か、と左腰の刀に手を添えて歩き出した、その瞬間だった。



タイミングよく降りてきたエレベータの扉越しに、一人の少年と目が合った。
互いに驚きを隠せなかった。
当麻はもはや追っ手がそこまで迫ってきていたことに。そして神裂はインデックスを守る少年が独りでエレベータに乗って降りてきたことに。
日常を象徴するトロくさい勢いで、エレベータは開く。
当麻は何も言わずに閉じるボタンを連打した。
神裂は何も言わずに半開きになったドアを蹴り飛ばした。
扉がゆがんで、エレベータはただの箱になった。

「インデックスを、奪いに来たのか」

少年の、敵意と怒りに染まった目を神裂は直視した。
――奪う? 違います。あの子を救いに、私は来ているんです。
その一言は口には出さない。余計な情報を相手に与えても、何の得もない。
それよりも確認すべきことがあった。
「貴方はどこかの魔術結社の人間ですか?」
「……さあな。超能力者の街、学園都市でお前は何を言ってるんだ」
「では超能力社の何らかの集団に所属していると?」
「お友達グループ同士の喧嘩が随分好きなんだな。そういうのは他人の迷惑にならないところでやれよ。インデックスを巻き込むな」
神裂は、目の前の少年が何らかの組織の意思に基づいて動いているわけではなさそうだと判断した。
厄介なことだった。魔術結社の人間なら、神裂はためらわずに切るつもりだった。インデックスを利用する輩を彼女は救うべき対象とは見ない。
だがもし、彼が善意でこれをやっているのなら、神裂にはこの少年は殺せない。無辜の人を殺めるのは名に反する振舞いだからだ。
「なんと言われようと私は引きません。貴方にお願いがあります。そこをどいては、いただけませんか?」
だから請願から始める。そして従わないなら、少年が戦意を失うくらいの暴力を神裂は振るうつもりだった。
言葉の裏にある威圧感を少年も感じ取っているのだろう。右手をぎゅっと握り締め、足元を固めていた。
「俺がここをどいたら、お前は何をするつもりだ」
「貴方や、貴方のお連れの人には何も。わたしはただ『アレ』を回収するだけです」
無理解を示すぼんやりとした表情。アレ、という響きを少年は理解できなかった。それは人を指す言葉ではない。そして理解したとたん、不快で表情を染めた。
その反応を苦い思いで見つめる。いつから私は、あの子をアレと呼ぶことに慣れてしまったんだろう。
「回収して利用するつもりか。そんなのを、目の前で黙ってはいそうですかって許すとでも思ってんのか?」
「手ひどく扱うつもりはありませんよ」
その言葉は単に信じて欲しいという気持ちの発露だった。誰が可愛いあの子を、酷い目にあわせるものか。
だがそれは、『ついさっきの神裂のしたこと』で神裂を判断する当麻にとって、ブラックジョークにしか聞こえなかった。
「ハッ、お前らの手ひどくってのはどの程度なんだ? 後ろから背中をその刀で切りつけるのは、手ひどくなんてこれっぽっちもないわけか。ふざけんな! あんなか弱い女の子を相手に何のためらいもなく刃物を振り回せるお前みたいなのを信用できるわけないだろうが!」
神裂は自分の言葉が不用意だったことを内省した。目の前の少年の言い分は尤もだった。そして少年の言葉は、神裂が自分自身にナイフを突き立てて作った傷の上に、さらに足を乗せて踏みにじられるようなものだった。
弁明が思わず口をついて出そうになって、それを押し込める。
今すべきことは彼に納得してもらうことではない。インデックスの傷を癒すことだった。
ステイルは先行している。家にはインデックスのほかに最大で2人の女性がいるだろうが、どちらも戦力はそう高くない。
七天七刀をも無効化しうるこの少年を自分に引きつけておくことが一番重要な仕事だろう。
「そうですね。私が交渉のための言葉を持っていないことを、素直に認めましょう。そして改めて問います。そこを退く気はありませんか?」
「断る」
「断られた場合、貴方に危害を加えてでも私はそこを進みます」
「通さねえよ」
それは最後の問答だった。神裂は言葉を片付けて、左腰に差した刀の鞘をぐっと握り締めた。。



光子はエレベータの前に立ち、1階に止まったままいくら待っても動かないそれに苛立ちを感じていた。
インデックスについているべきか迷ったが、結局光子もあの子を救う戦力にはならないのだ。そして当麻に声をかけてあげたかった。
自分は混乱するばかりで、当麻や黄泉川先生の言葉に従うだけだった。当麻だってほんの2つしか変わらないただの学生なのに、沢山の判断を押し付けた。
部屋を出る時の、苛立ちと悔しさのにじんだ当麻の声を聞いて、光子はそれを慰めたいと思ったのだった。
「――もう。なんで帰ってきませんの?」
一向に上ってこないエレベータに痺れを切らして、光子は階段を探した。そう離れていない位置に見つけ、カツカツと段差を降りてゆく。
遠くに夕日がほぼ沈んで、辺りを照らす光は夕日の赤と電灯の白が拮抗する程度。人声はなく、自然音だけが耳に届く。
部屋を出て独りになったせいだろうか。ふと、エレベータが1階で止まったまま動かないのが、先ほどの追われていた焦燥感と結びついた。
――もしかして、当麻さんは襲われてるんじゃ。
不安があっという間に心を埋め尽くしていく。当麻の顔が見たくて、階段を下りる足を速めた。
11階の階段を降りた、その時。

「やあこんにちは。君は、神裂の言ってた子かな?」

男が、下の階からぬうっと現れた。本能的に恐れを感じてしまうような長身。気持ち悪くなるような長髪の赤毛。目の下のバーコード模様のタトゥといくつも耳に空けられたピアスが見る人にあからさまなくらいの警戒感を抱かせる。
どちら様ですの、と光子は問わなかった。必要を感じなかったからだ。
目の前の男が横に咥えた煙草を軽く吸い、煙を吐いた。40センチ近い身長差のせいで煙は光子のすぐ真上を漂い、掻き消えた。
「神裂も相対したんならどんな術式――おっとこの場合は能力って言うんだっけ――それをちゃんと解き明かしておいて欲しいんだけどね。まあ君のほうが油断の塊でアレを神裂の七天七刀に晒したんだったかな?」
「あれはっ! ……貴方に何を言っても詮の無いことですわね」
「うんうん、君はいい子だね。物分りがいい。僕らに話すことはないし、そうだな、見逃しちゃって後で妨害されるほうが困るし。仕方ないね」
斜に構えた態度は地なのだろう。その上に友好的に見えなくもない笑顔を浮かべて、初対面の相手に頼みごとをするときの申し訳なさそうな仕草で、こう言った。
「悪いけど、死んでくれるかな」



黄泉川は、機械的な表情で目の前の少女が行う説明に混乱していた。
仮想人格を構築して能力を他人が間接的にコントロールする技術、というのはおそらく実在する。精神操作系の超能力者によって必要な手段と知識はすでに蓄積があったし、そんな便利な技術を学園都市の研究者達が開発していないと思うのは、希望的観測かあるいは何も知らないだけだろう。
能力開発の最先端、いや最暗部に足を突っ込んでいたこともある黄泉川にとって、人間味の感じられないインデックスの人格は受け入れられるものだった。
問題は、能力を発動させるのに必要なコマンドのほう。
屈折率の小さいアクリルで出来た小さなテーブル。黄泉川はその傍のソファに腰掛け、インデックスはその対岸に敷かれた毛布の上に跪いている。
そのテーブルの上に、血で描かれた五芒星。そこに部屋の家具と同じ配置になるよう救急キットの中身がぶちまけられている。
……いやこれも、まだ許容できる。煩雑な手続きを踏まないといけないようにするのは、いくらか理由をこじつけられる。
だが、「天使をイメージせよ」というインデックスからの要請、これだけは理解できなかった。
精神感応者(テレパス)と肉体再生(オートリバース)の能力は同時に持つことが出来ない。今から目の前の少女は肉体再生をするのだから、黄泉川が頭の中に何を描いたかを読み取ることは決して出来ない。
だから、黄泉川が天使をイメージすることと、インデックスの超能力発動は絶対に関係がない。
――魔術。
さっきからインデックスの使うその言葉が、気になっていた。
目の前の五芒星は、いわゆる魔方陣と呼ばれるものに見える。この少女が成そうとしているのは、超能力と呼ぶにはあまりに儀式的で、神秘的だ。
「――どうしたのですか。あまり猶予がありません。協力を要請します。思い浮かべてください。金色の天使、体格は子供、二枚の羽を持つ美しい天使の姿」

黄泉川は混乱を、捨てることにした。あれこれ判断しようとして手続きを止めるよりも、今は流れに身をゆだねるほうが先だ。
目をつぶる。そして頭の中で、どこかの噴水で仕事をしていた天使の彫刻に金箔を塗って羽を足す。
『何か』で満ち始めた部屋の空気をなんとなく肌で感じながら、黄泉川は祈りに似た仕草で瞑想を続けた。



神裂は最も不要な装備、刀の柄で当麻を殴打した。簡単な強度補強の魔術をかけておいたが、別にこれは破られてもなんら困らない。
数時間前に対峙した時に、目の前の少年は何気なく振るった拳で結界を破壊した。原理はさっぱり不明。だが呪文詠唱や特別な結界を必要とはしていないようだし、そうなると接触式だろうと予想はつく。
こめかみを薙ぎと鳩尾を突き足を払う。それで少なくともこの三点は結界を破壊するような力はないことが分かった。
「ゲホッ、が、あ……」
敵意ある人間に相対しても怯まない程度には喧嘩慣れしているようだが、人間を越える身体能力をした神裂を相手に出来るだけの力はないようだ。
急所を守ることすら出来ずに、地面にうずくまっている。
「そこでそのままうずくまっていてくれるなら、私は何もしませんよ。そのほうが互いにとって有益でしょう」
「ふざ、けんなっ」
神裂は心の中でため息をついた。少年の目は死んでいなかった。
「どうして、それほどアレに入れ込むのです? 我々が見失ってすぐにアレと出会ったのだとして、まだ6時間程度の付き合いだと思いますが」
「時間は関係ない。そんなんじゃねえよ」
「では何故?」
光子はどうかわからないが、当麻はインデックスとそれほど言葉を交わしたわけではない。だけどインデックスは目の前の女に襲われたときに光子を庇った。自らの体を刃に晒してでも他人を気遣えるその少女が、自らの境遇を『地獄』と称する。なるほどそのとおりだろう。これほど危険な女に追われ、このままでは捕らわれてしまうのだから。
そんなものを、当麻は断じて認めない。
「お前らみたいなワケの分からない連中がいることを、理解したからだよ。アイツを、インデックスを『地獄』から引き上げてやらなきゃならないからな」
「……貴方にできるほど、浅い沼ではありませんよ。そこは」
神裂はもう一度跪いた当麻へ鞘を振るった。パキン、と音がして魔術が壊れた。
――当たったのは右手。そういえば先ほども右手の一撃で壊れたんでしたね。
もう一度、魔術効果のない棒切れになった鞘を振るう。今度は何も起こらなかった。魔術破壊は出来ても、それ以上は特に何も起こらないらしい。
あまり少年の立ち位置には気を使っていなかった。ふと見ると、彼は階段を背にして立っていた。エレベータを壊した以上、この階段が上へと続く唯一の道だ。
悪くない判断だろう。たしかに自分の持つ七天七刀は室内で振るうには長すぎる。階段を切り落としては後が面倒だし、唯閃と七閃は使わないほうがよさそうだ。
だが特に、問題はない。鞘で小突いてもいいし肉弾戦で殴り合ってもいい。いや、殴りあうといっても反撃を食らう可能性はゼロだろう。
「13階まで上がらなければなりませんし、あなたを解放するわけにも行きません。一緒に上っていただきましょうか」
「行かせねえよ」
「歩いてくれなくて構いません」
神裂は爆発的な脚力で当麻に迫り、ガードの上から蹴り上げた。
「蹴るなり突くなりで、持ち上げてあげますから」
あとはこの少年が致命的な損傷をする前にギブアップしてくれることを祈るだけだった。



「あああああぁぁぁぁぁっ!」
数歩先にいた赤髪の神父の手に、突如として炎の棒が生じた。およそおしとやかとは言いがたい叫び声を上げながら光子は下がって避けた。
足をすくませてしまわなかっただけでも合格点だろう。こんな荒事をほとんど経験したことのない光子にとっては。
常盤台中学のカリキュラムには護身術の授業がある。混乱で能力を使えないときには、あるいは使えるときにはどう行動すべきなのか。
――まずは逃げながら能力を使えるのか、小さく試す。
直前にインデックスと逃げた経験があったからだろうか、すんなりと足は廊下を蹴ってくれた。
赤髪の神父から逃げる。そして壁に手を突いて能力を発動する。何の問題もなかった。
問題は逃げられないことだ。この階から移動するには神父の後ろにある階段とエレベータを使う必要がある。そこが封じられている以上、いくら逃げても行き止まりが近づくだけだ。
それを神父も理解しているのだろう。急いで追ってくることもなく、悠々と近づいてくる。
近くの家のドアノブに手をかけてあけようとするが、オートロックなのか一つとして開かなかった。
「セキリュティの良いマンションで残念だったね」
いたわるような響き。それが逆に、酷薄な本音を照らし出している。
「……張り紙なんて、何をなさっているの?」
脈絡のないその言葉は、精一杯の強がりだった。声が震えていたかもしれない。
「ああ、これかい? これはルーンを記した符でね」
神父は鷹揚に答え、ぺたり、と手に持っていた最後の一枚を貼った。
そこで思い出したかのように、
「ステイル=マグヌスと名乗りたいところだけど、ここはFortis931と名乗っておこうかな」
そう言って煙草をふかした。
光子もそういう名乗り口上をよくやるほうだ。返礼の一つでも返す余裕があったなら、やっただろう。
出来るだけのゆとりはなかった。
「魔法名ってやつなんだけど、殺し名って言ったほうがこの場合はふさわしいかな」
「気障ったらしい趣味ですわね」
「僕の趣味というよりこれは魔術師の伝統なのさ。さて」
光子は会話をしたことを後悔した。どうして相手に時間を与えるのだ。まさか本当にただの張り紙をしているわけでもないのに。
「それは生命を育む恵みの光にして、邪悪を罰する裁きの光なり。
 それは穏やかな幸福を満たすと同時、冷たき闇を滅する凍える不幸なり。
 その名は炎。その役は剣。
 顕現せよ、わが身を食らいて力と為せ」

理解の出来ない言葉の羅列。そして。
虚空にタールの塊のような黒いどろどろとしたものが表れたかと思うと、それはあっという間に赤々とした炎を纏い、人の形をとった。
その名は『魔女狩りの王(イノケンティウス)』。その意味は『必ず殺す』。




[19764] ep.1_Index 05: 交戦
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/01/17 23:31
赤毛の神父の生み出した人型の炎には、素早さはなかった。
人が歩くのより少し遅い程度。だが、煌々と赤黒く輝く体と対照な瞳の部分の昏(くら)い色は、ジリジリと光子の冷静さを奪い取っていく。
光子は傍においてあった植木鉢をつかんで、投げやすいように構えた。
「――くっ。近寄らないでくださいませ!」
「投げても君の腕力じゃとどかないと思うよ」
何をするでもなく、目の前の少女の足掻きをステイルはぼんやりと眺めた。
『魔女狩りの王(イノケンティウス)』に当たったところでどうもならないし、ステイル自身にまで届くことはありえない。
だが、その予想に反し、植木鉢の軌跡はあまりに直線的だった。
ボッ、という音と、サッカーボールのような弾道。植木鉢はまっすぐに『魔女狩りの王』に突っ込んだ。
「へぇ。それが君の能力なのか。すごいね!」
大げさに、ステイルは驚いてみせる。余裕を感じさせるリアクションだった。
「ただ、僕の『魔女狩りの王』はそれじゃ止められないよ」
赤い炎と黒いタール状の体が無残に飛び散っていた。だが、それだけだ。『魔女狩りの王』はあっという間に元の形に戻り、焦げた植木鉢は廊下に落ちて割れた。
自分の能力が事態を何も好転させなかったことに、光子はじわりと焦燥感を覚えた。

「あまり遊んでられないし、さっさとアレを回収しないとね。死なれちゃ困る」
真面目にやろうという合図だったのだろうか。深く吸ってから投げ捨てた煙草の吸殻が、激しく燃えて消え去った。
「アレ……?」
「君たちが匿っている、あの子だよ。詳しくは言えないけれど、アレはきちんと管理しておかないと大変なことになるんだ。君たちみたいなどこの誰とも分からない人間の手元に置いていいものじゃないんだよ」
神父は知ってか知らずか、光子が聞きとがめた事とはずれた返事をした。『誰』の話をしているかなど、とっくに分かっている。
「訂正していただけませんこと? アレという代名詞は、日本語では人には使わないものですわ」
「知っているよ。そんなに気に食わなかったかい?」
殊更に露悪的に振舞うその神父の態度が、癇に障った。
脳裏を少しずつ恐怖以外の感情が占めていく。あの少女の苦しそうな表情を思い出す。
インデックスは光子を庇って傷ついた。だが、それでも恨み言の一つも言わず、気を失う直前まで光子を気遣ってくれた。

すくんでいた足を、まっすぐ立たせる。
このまま放りだして逃げ出すことの出来ない、そういう理由、いや矜持が光子にはある。
勇敢にとまではなれなくとも、それが光子を奮い立たせる。
少しだけ取り戻した普段の態度で、光子は相手に話しかけた。

「名乗っていただいたのに返礼がまだでしたわね。私は常盤台中学の婚后光子と申しますの」
「ああどうも。で?」
「人と物の区別もつけられないような馬鹿な神父さん。狼藉物の貴方を、成敗して差し上げますわ
この神父の出した炎は、正体不明なせいで恐ろしく感じる。だが、超能力者でも似たようなことは出来る。
そして系統は違えど、自分だって超能力者なのだ。見かけにおびえることはない。いま用意すべきは、何よりも心構え。
ここで引いたら、インデックスと当麻が次に襲われる。それだけは、止めなければならない。

「この街には、発火能力者(パイロキネシスト)と呼ばれる超能力者がいることはご存知?」
「ああ。火を操る異能の力って意味じゃあ、親近感を覚えるものがあるしね」
光子に付き合うのは、あちらにも余裕があるからだろう。いや、余裕を見せ付けあうのも駆け引きのうちだということか。
「特に詳しいわけではありませんけれど、あの方々の能力開発の基礎のとして叩き込まれる知識を、貴方は学んでおられないのかしら?」
「……謎解きをする気分じゃないね。時間稼ぎがしたいだけならそろそろ鬼ごっこを再開させてもらうよ」
光子はもう一つあった植木鉢を持ち上げた。それを、ステイルに向ける。とはいえその間には『魔女狩りの王』が立ちはだかっている。
「燃やす、あるいは熱を伝えて物を溶かすという行動において気をつけなければいけないのは炎の温度でも量でもありません。正解はなんだかご存知?」
胸の高さに置いた鉢の底にそっと触れる。それだけで、植木鉢は砲弾となる。
「対象の熱伝導率と接触時間ですわ」
再び、空気を切る音と共に植木鉢が飛翔した。

光子は加減をしなかった。
見得を切っている数秒の間、植木鉢の底に気体分子を『チャージ』した。蓄えられた推進力は冗談にでも人に向けてはならないレベルだ。
す、と植木鉢から手を離す。
次の刹那、レーシングマシンみたいな加速が始まった。向かうは『魔女狩りの王』。
二酸化珪素を主成分とするレンガの植木鉢、それは金属などとは比べるのも馬鹿らしいほど、熱を伝えない。炎の温度なんてものは気にするに値しない。
光子の能力による飛翔体の航行速度は音速にまで達する。
この短い加速距離ではその四分の一がせいぜいだが、それでもあの炎の塊をぶち抜くことなど0.01秒で事足りた。

「なっ!」
水面を叩いたような、バンという破裂音。『魔女狩りの王』が花火のように飛び散った。
荒れ狂う炎と陽炎の壁。それを突き抜けて植木鉢が、砕けつつもなおミサイルのように飛んで来た。
そして背の高いステイルは立っているだけで大きな的になる。
「く、おォォっ」
ステイルはみっともなくしゃがみ込んだ。
頭を掠めて、植木鉢ははるか先に飛び、ばしゃんという音と共に割れ散る。
視界一杯に広がった『魔女狩りの王』が、人型ではなく火の海を作っていた。少女がいる廊下の先が、全く見通せない。
――直線状の廊下はまずい。
ステイルは防御に関して脆弱だ。それは自らの能力をめいいっぱいに攻性魔術に振り分けた代償。
追い詰めたはずの少女から遠ざかり、階段に身を隠す。
そして『魔女狩りの王』を再構成。視界を遮っていた炎と煙の壁を取り払う。
「なに?」
炎の先に、いるはずの少女が、いなかった。


光子は綺麗な廊下を走る。焦げ目のある荒れた廊下は、ひとつ下の階だ。
ここから階段を降りれば、あの神父に見つからずに攻撃できますわ――!
空力使いの能力の一つの応用例、飛翔。
光子のそれはロケットの射出に近いものがあるが、それを使って光子は神父との間の視界が悪いうちに、一つ上の階に上がっていた。
足音を立てないように進む。弾になるものがなかったので、財布からコインを取り出す。
苦肉の策だ。銃弾にするには光子の能力が出せる速度は不十分だから、出来ればもっと大きな質量のものが欲しかった。
とはいえ、直撃すればそれなりの怪我を負わせることにはなるだろうが。
「ふっ!」
10円玉3枚を、階段から身を乗り出してすぐに放つ。
神父はいなかった。マントの端がかすかに視界に映って、それで敵がさらに下の階に降りたことを悟った。
「お待ちなさい! ――っ!!」
背後に言いようのない圧迫感を覚える。振り返るのと同時くらいで、『魔女狩りの王』がそこに顕現していた。
「きゃあっ!」
無造作に振り下ろされる、真っ赤な腕。レンガは無理でも、人間なら容易に燃やせる炎の塊。
みっともなく階段を滑り落ちながら、光子はそれを避けた。追いかけてこられる恐怖が、頭の中をじわりと支配し始める。
「そんな、自律的に行動しますの?!」
神父はここから見えない階下にいる。目の前の炎の塊は、光子を追ってくるらしかった。
自分は赤毛の神父を追いかけ、そして『魔女狩りの王』が自分を追いかける。
身の危険をチリチリと感じる、鬼ごっこが始まった。


「そろそろ、答えのほうを変えてはいただけませんか?」
「こと……わるっ!」
目の前の少年の意志の固さに、神裂は戸惑っていた。
階はすでに5階にまで達している。それは2メートル近くある1階分の高さを4回も蹴り上げられたことを意味していた。
肉体破壊が目的ではないので毎回ガードはさせているが、それでも気絶くらいはしていいダメージだし、普通の人間ならそろそろ意思が折れていることだろう。
だが、少年の目はまだ火を灯している。
「このままではあなたが蹴られる一方で、状況は何も変わりませんが」
「……」
当麻も、ジリ貧な現状を理解していた。
殴りかかってはみたがまるで歯が立たない。超常現象が一切介在しない純粋なケンカにおいては、当麻は本当にただの一般人だった。
鍛えた人間にはかなわない。
――考えろ。今一番必要なのは、時間を稼ぐことだ。それが足りればインデックスは回復するし、光子や黄泉川先生が帰りの遅い当麻を心配してくれるだろう。殴り合いでは時間が稼げない。接触はマズい。なら。
幸いに、階段の傍には防災設備が備え付けてあった。よろける足を踏ん張って、5階から6階へと、自分で駆け上がった。
「……ご協力に感謝を。自分の足で上がっていただけると助かります」
冷めた口調で、見えない階下からそんな声が聞こえた。おそらく当麻が何かをたくらんでいるのだと、気づいているのだろう。
当麻は意図を見透かされているかもしれないという不安を意に介さず、階段から少し離れた場所にある非常ベルのスイッチを、躊躇わず押した。


ジリリリリリリリリリリ、というけたたましい響きがマンション中に響き渡った。
神裂にとって、勿論それは不都合な出来事ではある。だがあらかじめ予想していた事態でもある。
「困ったことをしてくれたものです。脱出の面倒が増えました。……まあ、もとよりあの子の回収はあと数分で終わる予定でしたから何も変わりはしませんが」
カツカツと少年が待ち受けるであろう6階へ歩みだす。
どこにいるのかと辺りを見回した瞬間。目の前がホワイトアウトした。


消火器の中身を、遠慮なく長髪の女に浴びせかける。粘性の強い、消えにくく熱にも強い泡が階段を立っている女ごと真っ白に染めた。
何秒間でこれをやめるか、そのさじ加減が問題だ。装置そのものは1分間頑張ってくれるらしいが、まさか1分も突っ立って消化剤を浴びてくれる相手ではないだろう。
嫌な予感に背中を押されて、当麻は弾けるように飛びのいた。直後、当麻の頭があった部分を強烈なアッパーが通り抜けた。
テレビのお笑い番組でしか見ないような、真っ白に染まったその状態で、目の前の女は当麻の頭部を性格に補足しているらしい。
「ずいぶんなことをしてくれましたね」
これまでより、一段と声が冷ややかだった。
鋭い蹴りが飛んでくる。消火器でそれを受け止めつつ、当麻は放射をやめなかった。
「残念ですがあなたの居場所は見えずとも分かります。無駄なあがきは……なっ」
攻撃を繰り出そうとした神裂の体が、くらりと揺れた。自分の体が意思に反したような動きだった。
「効いてきたらしいな」
「な、何を……」
「消化剤がお前の周りの酸素を食ってるんだよ。死ぬほどの低濃度にはなりやしないが、お前の周りの酸素濃度じゃ、激しい運動は無理ってことだ」
学園都市謹製のこの消火器は、酸化反応による酸素消費と、並行して起こるポリマーの吸熱熱分解反応による二酸化炭素の放出によって、酸素濃度と物体の温度低下を行う作りになっている。万が一人に向けて使っても死には至らないよう設計されているが、危険なのは間違いなかった。
「小ざかしいことを……っ」
「がっ!」
だが、その程度の支障では女は止まらなかった。手にした消火器ごと、当麻は蹴り飛ばされた。
「成る程、消防団を呼んで時間稼ぎですか。策そのものは賢明でした。ですが私がそれに付き合う義理はない」
五発、六発、と倒れた当麻に重い蹴りが突き刺さる。それを当麻は避ける術がなかった。
「ご安心を。手加減はしましたから病院にいけば回復しますよ。さて、ステイルがそろそろ……ステイル? なぜ降りてくるのですか?」
階段を駆け下りる音はベルの音にまぎれて聞こえなかった。
「神裂! 随分と面白い仮装をしているじゃないか」
「本意ではありませんよ。それより、どうして降りてきたのですか」
「ちょっと梃子摺っていてね。……神裂、空だ! 避けろ!」
「!?」
反射的に長身の二人組みが身を翻した。ほんの少し遅れて当麻が廊下の外に目をやると、光子が上から降ってきた。
手の平からそっと投げられた硬貨が、すさまじい速度で相手を狙う。
「当麻さん!」
「光子! 大丈夫か?!」
「ええ。私は。それより……当麻さんが」
「大丈夫だって。骨は折れてない」
「そんなの大丈夫だって説明になってませんわ!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃ、って光子!」
当麻は光子の後ろの何もない空間に、手を突き出した。いや、当麻が動くとほぼ同時に、そこに炎塊が出現した。
「くっ、おおおおおおおおおおおお!!!!!」
「当麻さん!」
当麻がせき止めた『魔女狩りの王』の傍の壁を光子は手で叩く。
一瞬後に壁から噴出した風が、『魔女狩りの王』を吹き飛ばした。


「……君が何とかしてくれるだろう、という考えはまずかったようだね」
「私もそれは反省するところです。時間も限られています。手荒な方法も致し方ないでしょう。構いませんね、ステイル」
「もとより僕はそのつもりで動いているよ」
「くっ……」
光子と合流は出来たが、事態は好転したとはいえなかった。
こちらは別に戦うことにおいて、タッグを組んだペアではない。一方、目の前の赤髪の神父と神裂という女は、明らかにそういう二人組みだろう。
その二人よりもさらに一枚手前に、あの人型の炎が再び姿を現した。
あれを押し留めるだけなら、当麻にも出来る。だが、光子を守りながらさらに二人組みをどうにかすることは、当麻には無理そうだった。
ジャリっと、神裂という女が足場を固める音がした。もう、躊躇する時間もない。
「それでは、いきますよ」
感慨もなく神裂がそう告げた。その時。
目指す階上で、この学園都市にはありえない、魔術の光が瞬いた。



目の前の光景に、黄泉川は呆然となった。
10枚の羽根を持った金色の天使。明確な感情を表情に載せることなく、アルカイックな笑みを浮かべている。
それを説明付ける何かが欲しくて、ひたすらに頭の中で物理の教科書を手繰ろうとする。
「想像を揺らさないで! ここには確かに、今貴女の目に見えているものがあるのです」
その言葉にドキリとする。そうだ、超能力というのは、まず理屈でなく頭ごなしに受け入れてみることから始まるのだ。
……目の前にあるこの天使についても、その姿勢は流用できる。
黄泉川は自分が物理法則という言葉で語りえぬ目の前のソレを言外に受け入れつつ、インデックスの紡ぐ歌を唱和した。
テーブルの上にはこの部屋の『コピー』がある。上に乗せられた二つの人形が、自分達に同期して歌う。
そして歌のフレーズに区切りがついた瞬間。インデックスを模した人形についていた傷が治癒していくのを黄泉川は見た。
それは生物のプロセスとしての治癒には、お世辞でも見えたとはいえなかった。
むしろ塩化ビニルの高分子が加熱によって溶融し、形の汚くなった傷口を均していくような、そういう物理だった。
向かい合わせで座ったインデックスの背中に起こっていることを、黄泉川は想像できなかった。
「――――――生命力の補充に伴い、生命の危機の回避を確認。『自動書記(ヨハネのペン)』を休眠します」
その一言で、どうやら成功したらしいと黄泉川は悟った。



「そんな、魔術……だと?」
「あの子は使えないはず……いえ、誰かに協力してもらったということでしょう」
「神裂、それは」
「禁書目録を使う魔術師が、上にはいるということです」
「この町を根こそぎ荒野に変えるくらい造作もない魔術師をあと数分で制圧しろ、ってことかい?」
「……残念ながら撤退という選択肢を選ばざるを得ないようですね」
「チッ」
忌々しげにステイルは二人の少年少女を睨みつけた。
「貴方達の健闘は、賞賛すべきもののようですね。我々は今回は時間切れのようです」
ファンファンと警笛を鳴らす車両の音が、もう近づいてきていた。
「これで終わりだとは思わないことだね。……行こう神裂」


切り替えが潔いのもまた、手馴れているということなのだろうか。
光子と当麻は、二人の足音が遥か遠くなってもまだ、体の硬直を解くことが出来なかった。
「行った……のか?」
「……」
落としていた重心を少し上げて、当麻は構えを解いた。
「光子!」
尻餅をつくようにくたりとなった光子を、慌てて抱きかかえる。
「どっか怪我とかしたのか?!」
「ううん。大丈夫です。けど、ちょっと気が抜けてしまったから」
支える当麻に、光子はぎゅっとすがリついた。
「当麻さん」
「ん?」
「よかった、お怪我されてなくって」
「それは俺の台詞だって。光子に怪我させちまったら、ゴメンじゃ済ますことなんて出来ないし」
「もう。それは当麻さんにだって同じことですのに」
ようやく二人は、ほっと息をついた。ざわざわと、マンションに人の気配があるのが無性に心強かった。
「って! そうだ! インデックスはどうなったんだ?」
「そうですわね! 様子を見に行きましょう」
ほんの数階分の高さが、疲弊した二人には辛かった。




[19764] ep.1_Index 06: 黄泉川家
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/01/22 11:40

「……上条? どうした、その格好は」
「えっと、まあ。インデックスを追いかけてきた奴に襲われまして」
「さっきの非常ベルはそういうことか。で、逼迫してるようには見えないし、何とかなったって事でいいんだな?」
「とりあえずは追い返しました」
黄泉川の部屋に帰ると、インデックスは静かに眠っていて、黄泉川が部屋を片付けていた。
当麻と光子が危険な目に会ったらしいと分かると、すぐさま怪我の様子を診てくれた。
幸い、服の汚れはそれなりにあるものの、光子は怪我らしい怪我を負っていない。それは本当に僥倖だったと当麻は思った。
一方当麻も、幸い骨折に至るような怪我はなさそうだった。擦り傷などの手当てはシャワーを浴びてからということになった。
「インデックスさんは、その、もう何ともありませんの?」
「眠ってしまう前に、体力の消耗が激しいだけで傷は完治したって言ってたよ」
「そうですの。……良かった」
「……で、上条。それと婚后だっけ。とりあえず緊急事態は脱したみたいだし、洗いざらい、事情を喋るじゃんよ」
インデックスの傍に座ってほっと息をついた婚后を尻目に、黄泉川はそう切り出した。
当麻とて、ある程度は覚悟してきたことだ。黄泉川は警備員(アンチスキル)でもある。
魔術の手伝いだけしてもらって、何も聞かずにいてくれるなんて事はないだろう。
一瞬の間を空けて、当麻は口を開いた。


「先生。さっき、インデックスの傷を回復させるのに使った技術は、なんだと思いましたか?」
「おかしなことを聞くな上条。あれが超能力以外の、どんな物理だって言うんだ?」
「先生には、あれが超能力に見えたんですか」
とぼけたような当麻の物言いに、同じように黄泉川は答えを返す。
……そんな言い回しを当麻がする理由にも、思い当たるところはあった。
むしろ、ある意味で上条よりもっとリアルに、黄泉川は事の意味を理解していた。
「腹を割って話そう、上条。あの子は、学園都市の学生じゃないんだろ?」
「……」
「ま、黙っててもいいさ。あたしはこの点について確信があるし、警備員の事務所に問い合わせれば一発だしな。それにこの子の使った術は、少なくとも学園都市謹製の超能力じゃないのは確かな事だ。能力開発の専門家として言わせて貰うが、あれはこの街の超能力の系譜をたどってないよ」
「先生は、あの子を警備員として連行する気ですか?」
当麻も、一番聞きたかったことを率直に口にした。インデックスの傍で、光子も厳しい顔をしていた。
黄泉川は二人の様子を見て、苦笑した。この街の生徒のために自分は働いているのだ。学生の幼い敵意を向けられていることに慣れているとはいえ、理不尽だなと思う気持ちもないではなかった。
「言っておくが、とりあえずそれは一番の大正解じゃんよ。不法侵入者は取り締まる。お前らに不利益はないし、あたしにもない。ああ婚后、落ち着いて最後まで話を聞け。とりあえず数日は、面倒を見てやる。この家の中から出ないって条件でだけどさ」
二人の表情が、呆気にとられたようなものとなる。まあ、まさか匿ってくれるとは思っていなかったのだろう。
「あんまり喜んだ顔はするなよ。ちょっと必要な根回しが済んだら、この子にはこの街から出て行ってもらうことにはなるじゃんよ」
匿うことを決めた理由は、宣言通り根回しをするつもりだったからだ。このシスターの能力は、学園都市の多くの研究者にとって、物珍しすぎる。考え無しに事務所に突き出してこの子を拘束し、その後のことに黄泉川が関われなくなったとき、事と次第によってはこの子の『末路』がどうなるのか、想像しても愉快なことはなかった。
経験として黄泉川は知っていた。この学園都市には、学生とモルモットの区別をつけられない大人が、多すぎる。
とはいえ、学園都市から追い出しただけでこの子の幸せを確保できるかどうかは分からない。身寄りがあるのか、ないのか。
「まあ、これ以上のことはこの子が回復してからでもいいじゃんよ。とりあえず上条、お前はシャワーを浴びてこい。その間にこの子の体を拭くじゃんよ」
「はい。その、先生。迷惑かけて、すみません」
当麻と、婚后がそろって頭を下げた。
「何言ってんだ。それが教師の仕事じゃんよ」
お前みたいな問題児にはいつだって手を焼いてる、なんてどこか嬉しげに見えなくもない黄泉川の態度が、無性に有難かった。



あちこちにできた擦り傷が傷むのを感じながら、当麻はざっと汗と汚れとインデックスの血を洗い流した。
風呂場から出てみると、洗濯機が静かに仕事を始めていた。下着を残して、当麻の服はなかった。
「ほれ、さっさと来い。次はお前だ」
「へ? いやあの、服は」
「傷の手当てが済んだらあたしのジャージ貸してやるじゃんよ。とりあえず服を着る前に怪我見せてみな」
信じられない暴挙だった。黄泉川はめんどくさそうに洗面所に乗り込んで、下着一枚の当麻の頭を鷲掴みにしてリビングへと引きずっていった。
「きゃ! と、当麻さん?!」
「……」
光子に見るな、と言うのも自意識過剰の気がして恥ずかしかった。とはいえ、学校の先生に下着一枚の状態で手当てをされるなんて、どう考えても高校生の扱いではなかった。
手当て自体は非常に手馴れていて、あっという間に終わっていく。熱を持っていた打撲箇所にシップを貼られて、ようやく無罪放免となった。
「ほれ、あたしと大して背格好は変わらないし、家の中はこれでいいだろ?」
今も黄泉川が着ている、濃淡三色の緑のジャージ。上条に手渡されたのはそれと同じものだった。作りがシンプルすぎて、恐らく男女の別もないのだろう。
……とはいえ、普段は黄泉川が着ている、つまり女性の服なのだ。豪快すぎて言動からはいまいちピンとこないのだが、黄泉川は着飾って黙っていれば、間違いなく一級の美人だ。そう考えると心なしか服から薄く漂う匂いもなんだか華やかで――――

「あらあら当麻さん? そんなに服を顔に近づけて、何をなさっているの?」
「いぃっ、いえいえいえいえ、なんでもありません。なんでもありませんのことよ光子さん」

速攻で当麻は頭を下げて、そしてなんでもないことのように平静を装いながらジャージに袖を通した。
……サイズが自分に合っているのが、すこしプライドを刺激される当麻だった。
「さて婚后、お前もその服は洗うしかないだろ。上条の制服とこの子の修道服がじきに洗い終わるから、お前もシャワー浴びて来い」
「分かりましたわ。それじゃあお風呂をお借りしますわね。その、当麻さん。私がシャワーを浴びている間に、変なことはなさらないでね」
「変なことってなんだよ。覗いたりなんてしないぞ?」
「黄泉川先生やインデックスさんに、ですわ」
「当たり前だ」
「当麻さんは時々その当たり前が通じませんもの」
憮然とした表情の当麻にそんな言葉を返してから、光子はそっと洗面所の扉を閉めた。
その様子を傍で見ていた黄泉川が、意外なものを見たような顔をした。
「……上条お前、尻にしかれてるなぁ」
「ほっといてください」
「最初は大人しいお嬢様をお前が振り回してるのかとあの子の身を案じたんだが、心配は要らないみたいだな」
「なんですかそれ人聞きの悪い」
「付き合い始めてどれくらいなんだ?」
当麻は突然の質問に思わずむせた。
「副担任がそれを聞きますか」
「だって面白そうじゃんよ。月詠先生に教えたら喜ぶだろうな」
「止めてください。そんなことしたら良い笑顔でしごかれまくるに決まってるんですから」
「でもな上条。本当に良い事だなって思うところはあるじゃんよ。超能力で人を判断すれば常盤台のあの子は間違いなくエリートで、お前はまあ、それほどじゃないだろう。けど、そんなつまらない物差しじゃなくてもっと別のものでお互いを測れてるお前らは、この学園都市の子供らに歪んだ価値観を刷り込んでる大人としては、良いなって思えるんだ」
「はあ……」
別に常盤台の超電磁砲であっても臆さず鬼ごっこをする上条には、その悩みがいまいちピンと来なかった。
「さて、客が増えたことだし、飯を増やさなきゃな」
黄泉川はそう言って、夕食の準備を始めた。



「お、シャワー終わったのか」
「はい……あの! 当麻さん。あまりこっちを見ないで下さる?」
「え? なんで?」
「それはその、秘密です。いいから見ないで下さい」
突然そんなことを言われて戸惑う当麻だったが、2秒で事情を理解した。
洗面所と廊下の間の段差を降りた、光子の胸が。
……いつもよりたゆんって、たゆんって。
「光子もしかして、その下――」
「当麻さんの莫迦! 見ないでって言いましたのに!」
「いや、だって、着けてないとは……」
「違います! ちゃんと黄泉川先生に新品を頂きましたから。でも、その……」
「ああ――」
サイズがね。そうだね。光子もすごいけど、黄泉川先生はね。
つい訳知り顔になった当麻をみた光子の目が、すっと切れ長になる。
「当麻さん?」
「なんでもないです。そして俺は光子に満足してるから、別になんとも思いません」
いつもより脳みそが猿だった当麻に、光子はひたすら莫迦、と呟いた。
「借りておいて文句を言うのは筋違いだって分かっていますけれど、当麻さんにお見せする服がよりにもよってこんなジャージだなんて……」
「まあそう言うな婚后。あたしの勝負服で着飾ったって、しょうがないじゃんよ?」
「先生それ以外に服持ってたんですか?」
「当たり前だ。あたしは警備員だぞ。インナーウェアは自分で洗濯なんだから家に何枚かある」
「先生それ勝負用ってか戦闘用の服じゃないですか」
「まあ、一応何年も着てないスーツと、必要に駆られたら着るドレスくらいはあるじゃんよ」
「どれも着られませんわね」
「そういうことだ。さて、あたしもシャワー浴びてくるかな。お前ら二人っきりだからって変なことするなよ」
「しませんって!」
カラカラと笑いながら、黄泉川先生は洗面所へと消えていった。
「……そりゃあ、こんな場所では恥ずかしくて出来ませんけれど」
「光子?」
拗ねたような顔をして、光子が扇子を弄んでいた。
自分達二人は幸いにしてほとんど無傷だ。だけど、心をすり減らすような出来事に直面して慰めを欲している光子の気持ちを、当麻は少し感じた。
当麻自身にも、触れ合いたい気持ちはあった。
「とりあえず、コイツの面倒でも見てようぜ。っても寝てるだけだけど」
「はあ」
当麻は、静かに眠り込むインデックスの隣に腰を下ろして、隣の床をぽんぽんと叩いた。
その意図を察して、光子は、そっとそこに腰を下ろした。壁と、そして当麻にもたれかかって、そっと当麻の腕を光子は抱いた。
「これくらい、別に良いだろ。先生に見つかったとしてもさ」
「そうですわね。恋人なんだから、こうするのは変なことじゃありませんわ」
光子がそう言って、そっと目を瞑った。
「当麻さんって、暖かい」
「風呂上りだしな。光子も暖かいよ」
「それだけじゃありませんわ。私は、自分で言うのもなんですけれど、我侭なほうだと自覚してはいますわ。そういうのが苦手な方は私と仲良くはしてくれませんし、学校ではつい負けないようにと肩肘を張りますの。……でも、当麻さんには。全部、預けられますから」
「まあ、俺と光子じゃ元からレベルは比べても仕方ないしな」
「そうですわね。レベルなんて、私が当麻さんを好きになった理由とは、なんにも関係ないことですわ」
きゅ、と服がすれる音がした。冴えないジャージ姿の二人だが、おそろいの服を着るなんてこれが初めてだ。なんだかおかしくて、少し嬉しかった。
光子が当麻の腕を抱きしめなおした。ほお擦りをされているのが感触で分かった。
「でも当麻さん。当麻さんの能力は学園都市にも測り取れない、もっとすごい何かなのですわ、きっと」
「光子?」
「当麻さんと合流して、あの炎の巨人から私を守ってくださったでしょう? ……その、すごく、格好よかったです」
「う……な、なんか褒められると照れるな」
「荒事への心構えを持つのも淑女の嗜みと学校の先生は仰いますが、やっぱり、ああいうのは……」
思い出したのだろうか。光子の声に、少しおびえが混じった。
当麻は身を乗り出して、光子の顔を真正面から見つめた。
「これ以上、光子を危険な目に合わせないように、何とかするから」
「ううん。そういうことを言って欲しいのではありませんわ」
「え?」
「当麻さんが行くところへならどこでも、私は付いて行きますから。だから、ずっと一緒にいてくれって、言って欲しい」
光子はそう言って、キスをねだった。
その唇をふさぐ前に、当麻は言った。
「嫌だって言うまで、お前を放す気なんてないよ。光子」
くちゅ、と音が聞こえそうなくらい、当麻は光子に深い口付けをした。
「ん……ふぁぁ」
唇を離すと、光子はぼうっとした様子で当麻を見つめた。
当麻は迷った。光子の態度は、もっとキスをしても拒まないと告げている。
……嫌がられたりはしないよな?
「光子。愛してる」
「嬉しい。私もお慕いしていますわ。……ん」
再び当麻は口付けた。黄泉川が風呂から上がるまで、せめてこうしていようと思ったその時。
「んん……あれ、ここ」
当麻と光子のすぐ横で眠っていたインデックスが、覚醒した。
「イイイイイイインデックスさん?」
「おおお起きてたのか?」
「ふぇ?」
どうやら、そうではないらしかった。二人して、ほっとため息をつく。
そんな二人の挙動不審をこれっぽっちも意に介さず、インデックスは部屋の匂いを嗅いだ。
「おなかすいた。いい匂いがするんだよ」



インデックスが待ちきれないという顔をするので、インデックス用のおかゆを先に食べさせることになった。
だが、どうも自力で動けないくらい、衰弱しているらしい。テーブルの上に立ち上る湯気を爛々と見つめるその目とは対照的だった。
「ほれ、そいじゃテーブル前まで運んでやるから。脇開けろ」
「うん。ありがとう、とうま」
「あっ! 駄目です! 当麻さんお待ちになって!」
「え?」
「どうしたのみつこ?」
毛布から、インデックスの下半身がずるりと引き抜かれた。
インデックスには、黄泉川の服が決定的に合わなかった。それは着るべき下着がないという意味であり、ズボンを穿かせても脱げるという意味であり、別にジャージの上がミニスカート並みの長さになるしズボンはいらないんじゃないかという意味でもあった。
……要は、穿いてない下半身が光子と、そして当麻に丸見えになったということだった。
「え、え、……え?」
「いやぁぁぁぁぁ!! とうまの馬鹿! えっち! 一日で二回目って信じられないんだよ!」
「ご、ごめんインデックス! 悪気はない、悪気はなかったんだ!」
「当麻さん? あらあら、悪気がなければ、許されると思ってらっしゃるのかしら?」
もう今日何度目か分からない気炎を光子が上げる。遺伝子のどこか深いレベルで、そういう怒り方をする女性には無条件に負ける当麻だった。
「許してくれ光子! 悪気がないってことは、わざと見る気なんてこれっぽっちもなかった、つまり悪気がないってことなんだぞ?!」
「とりあえず目を瞑ってジャージの下を取りに行ってくださいませ」
「わ、わかった」
インデックスは本当に力が出ないのか、一回目のときのように噛り付いてくることはなかった。
光子の冷ややかな視線に、上条は本当に目を瞑って廊下を目指した。途中で壁にゴンと頭をぶつけたが、この際それくらいで済んだと思うべきだ。
リビングが視界から消えて、ようやく目を開ける。クローゼットのある部屋の前に進み、躊躇いなくノブをひねった。
「――え?」
いつの間に、風呂から上がったのだろうか。
薄くピンクに染まった肌が、綺麗だった。太ももやヒップ、バスト、そういうところの肉付きが良い。鍛えてあるから筋肉質の引き締まった体だろうに、一番体の外を飾る肉が、たまらなく成熟した女の色香を放っている。
仕草を見れば、何をしているのか予想は付く。自分の下着が、この部屋にあったのだろう。人を呼ぶとこういうときに面倒だ。一人なら廊下を裸で歩こうが何をしようが勝手だし、人を呼んでも普段の生活習慣どおりについ、物事を進めてしまう。。
黒いブラの肩紐を直して、ん? と黄泉川は上条に気づいたらしかった。
「なんだ覗きか? 彼女のいる場所でやるとかお前どういう神経してるんだ」
「あ、いや。インデックスが目を覚まして、ジャージの下が要るって」
「ああそうか。目を覚ましたんなら必要だな。ほれ、これ持ってってやれ」
「あ、どうも」
あれ? と当麻は首をかしげた。ごく普通の受け答えをしているのに、なにか、ひどく非常識な展開のような。
「で上条。今から覗きでお前を警備員の駐在所に突き出して、一晩冷たい床で寝て、反省書と小萌先生の説教と保護者呼び出しのフルコースでいいか?」
「すみませんでしたもうしません悪気はないんですほんとに悪気はないんです!!!!!」
「悪気はないってさっきお前あっちの部屋でも言ってたじゃんよ。ほれ立て。まあ大目に見てやるから」
「ほ、ほんとですか!」
「だから腹筋に力入れとけよ?」
「へ?」
洗練されたモーションのアッパーが、当麻の腹に突き刺さった。目の前で、光子のより激しく、胸が揺れた。
「ゴハァッ!!!!」
当麻は、床に這いつくばった。視界の片隅で、黄泉川がジャージを身に着けていく。
一応加減はしてくれたのだろう。1分くらい悶絶したら、リビングに戻れそうだった。
「あらあら当麻さん? また、ですの?」
訂正。リビングには戻れないかもしれなかった。



夕食を済ませて、当麻と光子とインデックスは、携帯端末から服を注文した。
さすがに下着のないインデックスはジャージの着心地がすこぶる悪いらしく、服を気にしていた。
当麻と光子も、ここを出ることは難しい。事実上の篭城作戦だった。
一人帰すのにも不安があった光子も、黄泉川先生の名前を出すことで何とか外出許可も降りた。やはり警備員の中でも特に信頼の厚い黄泉川の名は、それなりに力があったらしかった。
「ふぁ……ごめん。もうそろそろ眠たくなってきたかも」
「病人みたいなものですものね。インデックスさんはもう寝たほうがよろしいわ。……私たちも、そう遠からず寝ることになりそうですけれど」
当麻はインデックスにあくびを移されていた。今日はゴタゴタが多かった。
「だなぁ。もう寝ちまえば良いんじゃないか?」
「そうしましょうか」
布団はすでに敷いてある。だだっ広い家に見合うだけの客用布団の数があった。
黄泉川とインデックス、光子は当麻と襖を一枚隔てた和室で寝ることになっている。
あたしはもう少ししたら寝るから、という黄泉川を置いて、三人はそれぞれ、床につくことにした。
まだ起き上がるのはしんどいのか、ぺたりぺたりと四つん這いで布団に向かうインデックスを横目に、当麻と光子はこっそりとおやすみのキスをした。
「……ふふ。同じ部屋では勿論眠れませんけれど。眠る直前まで当麻さんといられて、嬉しい」
「俺もだよ。いいな、こういうの」
「本当は当麻さんに撫でてもらいながら寝るのが、一番良いんですけれど」
光子には自覚がなかった。当麻をドキリとさせるくらい、きわどいことを言ったのを。
しばし逡巡して、当麻は冗談めかしてこう言った。
「インデックスが寝た後、俺の布団に来るか?」
「えっ? え、あ……だめです、そんな。私たち、まだ、そんな」
「じょ、冗談だって! それに先生に見つかったらそれこそ洒落にならないし」
「そ、そうですわね。……その、私、ごめんなさい。嫌だとかそう言うわけではありませんのよ。でも……」
「いいから。ごめんな、困らせて」
「ううん。それじゃ、当麻さん。おやすみなさい」
「おやすみ、光子」
もう一度キスをして、光子は和室の布団にもぐりこんだ。
隣では、暑いのとめんどくさいので、インデックスが掛け布団の上にだらりと転がっていた。
仕方ありませんわね、とクスリと微笑んで、インデックスの掛け布団を引き抜いて、足とお腹にかけてやる。
「ねえインデックスさん。必要なことがあったら仰って。寝ていても起こしてくださって構いませんから」
「ありがとねみつこ。それじゃあ、今お願いしても良い?」
「ええ。なんですの?」
「インデックス、って。呼んで欲しいんだよ」
明かりを消して間もないせいで眼が暗さに慣れていなかったが、インデックスが微笑んでいるのが、光子には分かった。
「私はみつこのこと、みつこって呼びたいから。他人行儀じゃないほうが、嬉しいな」
「そう。分かりましたわ。インデックス。おやすみなさい」
「おやすみ、みつこ」
光子はインデックスが眠りにつくまで、そっと頭を撫でてやった。年恰好以上に、なんだか可愛らしかった。



当麻は、隣に随分と暖かいものを感じて、ふと目を覚ました。
「え、み、光子……?」
明らかに、隣に人がいる。真っ暗な部屋で誰かは咄嗟に分からない。
しかし男の上条の隣に来る女性といえば、そりゃあ光子しかありえないだろうと思うのが自然だ。
恐る恐る、隣の子の肩がありそうなところを、触ってみる。
ふにょりと、それはそれは柔らかい感触がした。
「ん……」
もうその声だけで誰か分かった。驚きが自分の頭を占めていく。
なんで、インデックスが、ここにいるわけ? 確かに寝るときは、光子のいるあちらの部屋で寝ていたはずだ。
その疑問をまるで無視して、インデックスは抱き枕みたいに当麻の体に自分の手足を絡めていく。
柔らかくて、いい匂い。当麻の心臓がドクリドクリと強く脈動する。
当然罪悪感も湧いてくる。こんなところ、光子に見つかったら――――
分からない。何故こんなにも今自分が焦りを感じているのか。光子が寝ているうちに何とかすれば良いだけのこと。
なのに。


パッと、部屋が明るくなった。
入り口に、仁王立ちする女性が、一人。
「あらあら当麻さん? インデックスさんと随分仲がよろしいのね?」
ああそうか、と。当麻は納得した。
心のどこかで、こうなると、自分は分かっていたのだ。


当麻はそっと布団から出て、土下座した。
怒涛の一日はまだ、終わらない。



[19764] interlude01: 数値流体解析 - Computational Fluid Dynamics -
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/17 01:17
光子に常盤台で指導を受けてから数日。

「あっ……ホントだ、だいたい合ってる!」
「お、もう佐天には見えるのか。やるなあ」

佐天は、柵川中学のある一室で、先生と一緒に実験器具とパソコンを眺めていた。
目の前には、透明なアクリルでできたダクトがある。縦横は人が一人入れるくらいで、水平には大体3メートルくらいの長さがある。
片方の端にはファンが付いていて、ダクトの中の空気を外に排出している。ダクトの中を定常的に風が通り抜けているわけだ。
ダクトのちょうど中央辺りには、一本だけ、円柱の棒が生えている。金太郎飴くらいの直径だった。
これは、主にその円柱の周りの風の流れを見る装置。
「もう『見えてる』のなら別にいらないわけだけど、一応トレーサー流すから。ちゃんと視覚でも捉えてくれ」
「はい」
先生がそうやって、ダクトの入り口から水か何かを噴霧した。霧を孕んで僅かに白く濁った空気が、ダクトの中に吸い込まれていく。
佐天は霧がなくても流れは見えている。風はだんだんと柱に近づいて。
進行方向から見て円柱の背中に当たる部分で、霧は、くるりと渦を描いた。
「うん。ちゃんと乱れてるね。解析どおり」
「はい。この渦、可愛いですよね」
「……? うん、まあ」
今佐天が実演してもらっているのは、風洞実験と呼ばれるものだ。人工的に風の流れを作り出して、それを可視化する。必要なら温度計や圧力計を設置して、温度と気圧の変化も測る。円柱の代わりに飛行機の模型を置けば飛行機の性能試験になるし、ダクトの代わりにパソコンの筐体を使えばハードウェアの冷却試験もできる。
今日の目的は、この風洞実験の結果と、もう一つ。目の前にあるパソコンで、シミュレーションによって求めた円柱回りの風の動きが一致することを、体感させることだった。
「はぁー、ホントに計算で合うんですねー……」
「そりゃあな。物理ってのは物理法則に従う現象しか出ないんだから。その法則を数式にして、それを解けば当然答えは出るよ。誤差がないとは言わないけど。佐天は計算と合わないって思った部分はあったか?」
「えっと、間違ってるんじゃないんですけど、曖昧だなって」
「曖昧? どこがだい?」
「渦ってもっと中心まで細かく巻いてるのに、ほら、計算結果だと全然そういうの見れないじゃないですか」
「そうだね。有限要素法で解くと、格子の刻み幅より小さい現象は見られなくなるからね」
この世を貫く最も根源的な法則のひとつ、運動量の保存則。それを数式化したのがナビエ・ストークス式だ。式としては古くから定式化されているものの、『解く』ことに関しては、未だ一般的に解析解を得る方法、すなわち解の公式はない。初期条件と境界条件が都合のよい形になっているケースでないと、解けないのだ。
そういう時に、近似解を得る一つの手法として、有限要素法がある。
空間にメッシュ、あるいは格子を規定して、空間を小さなブロックに分けていく。そしてそのブロック一つ一つが、ある一つのベクトルを持つ風であるとするやり方だ。
隣り合うブロック同士には、風のベクトルに見合っただけの運動量のやり取りがある。それを逐次計算していくことにより、風の流れが変化するさまをシミュレートする方法だった。
「じゃあもっと空間の刻みを細かくすればいいってことですか?」
「細かく刻めば細かく見れる。だけど計算時間も膨大になる。計算機の、あるいは能力者の演算能力との相談になるね、その辺は
「そっか……」
「残念なのか?」
「できたら渦をもっとよく見たいなーって」
「うーん、渦はどこまで細かく見ても終わりのないものだからなあ。フラクタルな形状をしてるせいで微分不可能な特異点になるから、中心の点を見る、なんてのは無理だよ」
虫眼鏡で渦の中心を拡大してみても。渦は同じ形の渦しか見られない。そういう、小さく見ても大きく見ても同じモティーフが現れるフラクタルな構造だ。渦は、流れの解析においては少々不便な存在ではあった。
「まあ、佐天の能力は渦に関係しているみたいだし、おいおいそれについても考えたほうがいいだろうね。今日はまだ流体解析のイントロの部分だから、難しいことは後に回そうか。佐天。質問がなければ、演算処理のプロセスの構築をしよう」
先生は、綺麗なトパーズブルーの粉末を薬包紙に載せて、水と一緒に佐天に差し出した。
「これ初めて見る薬です」
「あれ、そうか佐天は飲んだことないか。レベル1用の、計算力開発の試薬だよ」
学園都市の学生は薬の色が変なくらいで戸惑うことはない。だが佐天はコップの水をあおる前に、手を止めた。
「あの先生。質問っていうか、聞きたいことがあるんです」
「なんだい?」
「私に能力が目覚めるきっかけを作ってくれた先輩が、言ってたんです。格子……えっと、格子ボルツマン法っていうのも勉強しろって」
「格子ボルツマン? なんでまた……」
「あの、別に勉強する必要ない……ですか?」
婚后は、佐天にとってとても頼りになる人だ。能力発現のきっかけをくれた人だし、実力が見る見るうちに延びるのは、全部この人のおかげだ。今日、夏休みなのにこうして先生に個人指導をしてもらえるのも、そもそも婚后の勧めで補習に出たからだ。
だが、それでも婚后は学生だ。能力を開発すること自体には、秀でているわけではない。
だから、婚后の勧めることと、学校の先生の方針、それがあまり一致しないときには佐天は戸惑いを覚えるのだった。
「いや、別に不要ってことはないよ。あれはあれで便利な計算手法だしね。ただ、あんまり普通は手を出さないんだよなぁ……ああ。そういうことか。佐天は、空気を粒のように捉えて、動かしているんだったね」
「はい。そうです、けど」
「成る程。それなら、ちょっと考えてみよう。けど今日のところは普通に有限要素法をベースにいろいろやろうか。通り一遍等で良いから普通のやり方にも習熟しておかないと、能力を伸ばせる幅が狭まるからね」
「はい」
そう言って、先生は佐天に薬を飲むよう指示した。効くまでに時間がかかるからだろう。佐天はそれに従った。
「それで、佐天。格子ボルツマンって、意味分かって言ってるかい?」
「えっと、いやー……あはは」
「まあそうだろうね。特別な意図がない限りは、あまり使わないやり方だからね」
「そうなんですか」
「格子ボルツマン法って言うのはね、いくつかの空気分子をまとめて一つの粒として見て、気体の流れをその粒の衝突として捉える方法なんだよ」
「えっ?」
その言葉に、ドキリとした。なんて、分かりやすい考え方なんだろう。
「そして演算に出てくる主要な要素が、有限要素法ならテンソルだけど、格子ボルツマン法ならベクトルなんだよね」
黒板に先生がつらつらと式を書いていく。一週間前ならちんぷんかんぷんだっただろう。今なら、ぼんやりとは意味が分かる。
要約すれば、こういうことだった。
格子ボルツマンで考えるような、単純な球と球のぶつかりあいであれば、受け渡しをする運動量について、
ベクトルのx成分
ベクトルのy成分
ベクトルのz成分
この3個の情報を考えればいい。だが、有限要素法で流体の流れを解く場合、空間には格子が切られていて、それにはいくつかの『面』がある。分かりやすく立方体に切ったのなら隣り合う立方体との間に6個の面を接している。その場合、
x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分
x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分
x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分
y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分
y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分
y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分
z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分
z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分
z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分
この、全部で9個の情報を考えなければならない。ベクトルの個数の二乗を考える、この9個の要素をテンソルと呼ぶ。
有限要素法と格子ボルツマン法、テンソルとベクトル。それらはどちらも同じ自然現象を再現する手法でありながら、演算の体系が全く異なるのだった。
「佐天の演算能力をテンソル系の能力者らしく作るか、ベクトル系の能力者らしく作るかってのは、その後の方向を結構変えていくからね。これは、注意して選ばないといけないんだ」
「へー……やっぱり、私も普通の人みたいに鍛えたほうが良いんですかね?」
「そこが難しいんだよね。……僕の、というかこの学校の先生は皆、能力を発現させられない子や思うように伸びない子が、なぜそういう状態にあるのかを研究して、一人でもレベル0と1を上に上げるための研究が専門なんだ。佐天は、今見てる限りじゃ空力使い(エアロハンド)の中でも多分特殊な能力者になると思う。そういう、個性的な能力を適切に伸ばすってのは、それはそれで難しい仕事になるんだよ。言い訳にしかならないけれど、僕らよりも、佐天の助けになる先生は他にいる気がするね」
「先生、それって」
安楽椅子に腰掛けたまま、佐天は先生の言った言葉の意味を反芻して、動揺を隠せなかった。
「うん。このまま伸びれば、佐天はこの学校じゃ収まりきらない能力者になるだろう。もちろん佐天の意思が一番大事だけど、転校も考えに入れておくと良いんじゃないかと、僕は思う。二学期からにすれば、ちょうどいい区切りになるしね」
その言葉は、今まで羨ましいとすら思った言葉だった。レベルアップによって先生から転校を進められること、それはつまりその学校でトップクラスに優れていたということの証明なのだ。その言葉を贈られた同級生たちはみな、佐天やほかの同級生から見れば眩しいばかりの学生達だった。皆が羨望を持って、そんな生徒を見たものだ。
だけれど。実際に佐天がその言葉を貰って感じたのは、寂しさだった。この学校にいる沢山の友人。それと離れ離れになって、知らない人たちと競争をする。
「皆おんなじ顔をするよ」
「えっ?」
「佐天の知ってる優等生たちも、みんな今の佐天と同じ気持ちだってことさ。でも会社なんかに入れば、佐天が今勧められているものは『栄転』と呼ぶんだよ。学生は友達づきあいだって大切なことだからね、どうしても自分の居場所を変えたくないのなら、それもいい。でも、自分を試すってことも、同じくらい大事だから。よく考えなさい」
「はい」
先生の穏やかな顔に、佐天はすこし心が軽くなるのを感じた。そうだ、今この手に作れる自分だけの世界、それをもっと広げてみたい、可能性を試したいという気持ちもあるのだ。
先生は、深刻になった佐天の顔をほぐすように、冗談めかしてこんなことを言った。
「まあ先生は佐天が能力を伸ばして、高校は霧ヶ丘女学院あたりに行ってくれると鼻が高いな」
「いやいや先生。柵川中から霧ヶ丘なんて聞いたことないですよ」
そこは個性の強い能力者を開発することで有名な、超エリート高校だった。
「だからすごいんじゃないか。……まあでも、いくら特殊でも霧ヶ丘じゃあ空力使いは目立たないかもしれないね。空気を粒のように扱う佐天のやり方も、佐天が初めてって訳じゃない」
「えっ、そうなんですか?」
自分と似た能力を持つ人がいる、というのは驚きだった。何度か婚后や、少ないながら同じ中学の空力使いの能力を見てきたが、自分とこれっぽっちも似ていなかった。
「言ったろう? 空気を粒のように扱うということは、テンソルを使わずに流体を制御するってことさ。普通の空力使いはそんな面倒なことをしないけどね。空力使い以外の、ある一人の高位能力者が、それをやったんだよ。佐天も名前くらいは知ってるだろう」
「はあ」
謎かけをするように、先生はそう言って演習の準備を始めた。薬もそろそろ、効いてくる頃なのだろう。



「君がもしかしたら進むかもしれない一つの道筋。それを最初に切り開いた人はね。
 ――――すべてのベクトルの支配者、"SYSTEM"に最も近い者。学園都市第一位の超能力者<レベル5>、一方通行(アクセラレータ)、その人だよ」



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おことわり
テンソルの説明は厳格なものではありません。格子ボルツマン法の説明は不確かです。
この辺は数学的にきちんとしたことを言うには作者が不勉強なので、分かる人はニヤニヤしながらこいつわかってねーなーと思ってください。
また、小難しい話を躊躇いなく出しましたが、これを理解しないと読めないSSにはまずならないので、深く考えずにさらっと呼んでいただいて大丈夫です。
風洞実験は流体解析の基礎の基礎ですし、有限要素法も格子ボルツマン法も、全て実在している学術用語です。
詳しいことが知りたければ調べてみてください。
それと、一方通行は現象の解析と制御において、テンソルを用いずベクトルで解く能力者である、と本作では設定しています。
かまちーはテンソルを知らないんだと思いますが、その設定の裏というか穴を突いていきたいと思います。



[19764] ep.1_Index 07: 決意
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/02 23:45

「あー、こんなに楽な朝も久しぶりじゃん。それじゃ、大人しくしてろよ。なんかあったらちゃんと連絡入れるように」
「はい。じゃあ先生、いってらっしゃい。小萌先生によろしくです」

ヒラヒラと手を振って出て行く黄泉川を、三人で見送った。
朝食は当麻が作った。四人分、それも健啖家を含めたそれは、これまで当麻の作ってきたどんな食事より量が多かった。
二リットル鍋に一杯の味噌汁や、五合炊きの炊飯器いっぱいの白米。卵も一食で七個も消えた。
思わず食費を計算して、背筋が寒くなった。もちろん当麻が全額出すわけではなく、当麻と光子は実費ということにはなっていたが。
「ごちそうさま、とうま。ちゃんとしたご飯を食べるのは久しぶりだから、すっごく美味しかったかも」
小さななりをして、インデックスは食べる食べる。当麻と変わらない量を平気で平らげた。
「そりゃ良かった。光子の口にもあったみたいでよかった」
「……そりゃあ、美味しかったですし、当麻さんの作ってくれたものですから」
おそらく自分より当麻のほうが料理が上手いことに、少し悔しい思いがあるのだろう。少し拗ねた態度が可愛かった。
「午前中に服は届く予定だし、洗濯はそれからでいいか。掃除は朝ごはんの片付けが終わったらさっさとやろう」
「そうですわね」
光子はお嬢様だからその辺は何も出来ないのかと思いきや、常盤台の寮では掃除などは学生の義務なのだと言っていた。
それも教育の一環ということだろう。雑巾の絞り方の分からないお嬢様、というわけでもないらしかった。
「ねえインデックス。もう体のほうはいいの?」
食後のお茶を淹れた湯飲みをインデックスに差し出しながら、光子はそう尋ねた。
当麻もお茶を受け取って一口啜る。美味い。きちんと手順を踏んで、適切に茶葉を蒸らした結果だから当然ともいえる。料理と違ってこちらは作法の部類に入るからなのか、光子のお茶を淹れる仕草は優雅だった。
「本調子とはまではいえないかもだけど、歩けることは歩けるよ」
確かに、朝起きたときには昨日と違って這いずることはなかった。壁に伝って、独りで起きてきた。
だが、この家から出ていけるほどには回復していない。黄泉川がインデックスの熱を測っていったが、充分に高いといえる温度だった。
「動くにしても、やっぱ明日か明後日か」
「あ、うん……」
インデックスは、何かを気にして言いよどんだ。自分が迷惑をかけてしまったこと、体が回復したらここを出て行かねばならないこと、そういったことを考えてしまったのだろう。
「まあ今はよろしいじゃありませんか。インデックス、冷蔵庫にヨーグルトがありましたわよ?」
「食べる!」
「……あれ先生のだろ」
食料品も配達してもらうので、確かに問題はないのだが。


光子と二人で、掃除を始めた。
食器洗いとゴミの始末を光子がして、掃除機を当麻がかけた。1Kの自分の部屋と違い、3LDKのこの家は恐ろしいほどだだっ広い。
掃除機は三分あれば済むという当麻の常識を覆して、それには十五分くらいの時間がかかった。しかも腰が痛い。
黄泉川愛穂という人は大味なのか、どの部屋もそこそこ散らかっていた。
目も当てられないようなことはないが、女性の真実を見たような、ちょっとやるせない気持ちを感じないでもなかった。
そもそも、本人のいないところで男の当麻が下着と洋服の詰まったドレスルームの掃除をしているのはどうなんだろう。
「こちらは終わりましたわ。何かお手伝いすることはあります?」
「いや、大丈夫だよ。こっちもすぐ終わるから、光子はインデックスの相手でもしてやってくれ」
「すみません。それじゃ、お願いしますわね」
光子は当麻より先に仕事を終えることを申し訳なさそうに詫びた。
「光子」
「あっ……」
ここなら、インデックスの目がない。
当麻は光子にキスをした。
「もう……。急には恥ずかしいです」
「今日、まだしてなかったからさ」
「ふふ。ほんとのことを言うと、私もしたかったです」
もう一度、口付ける。新婚生活みたいで、なんだか心が躍った。


掃除機を片付けて、細々とした仕事を済ませてリビングに戻ると、光子がインデックスに膝枕をしてやっていた。
「ご苦労様でした、当麻さん」
「ありがと。光子もお疲れ。で、インデックス、随分と幸せそうな場所にいるじゃないか」
「んー? あ、とうま」
インデックスが姉に可愛がられる妹、というより飼い主に可愛がられる犬か猫みたいな顔をしていた。
光子の隣に、当麻は腰掛けた。娘と妻がいる男のような、不思議な立ち居地にいる気分がした。
ぺたぺたと、ジャージの上から太ももを触られる。
「とうまのほうが硬いかも」
「へぇ。やっぱり男のほうが硬いとか、そういうモンなのかね」
「えへへー」
今まで枕にしていた光子の膝に体を預けて、インデックスは頭を当麻の膝に乗せた。
当麻と光子、二人並んだ膝の上に体を預けた格好だ。
怪我をしていたインデックスを負ぶさったときには何も思わなかったが、こう落ち着いたときに顔をすぐ傍で見ると、どきりとする。
あどけなさがまだまだ魅力を隠しているとはいえ、インデックスはものすごい美人なのだった。
――不意に条件反射で背筋に冷たいものが走る。隣の光子の顔を恐る恐る見ようとして。
表裏なく優しく笑った光子が、当麻に腕を絡めながら空いた手でインデックスの体を撫でた。
なんだかそれに毒気を抜かれて、光子に軽く体重を預けた。
そして当麻も空いた手でインデックスの頬を軽くつねった。
「痛いよ当麻。もう、なんでいじわるするの? 光子は優しいのに」
「優しいだけじゃ良い子に育たないだろ? 誰かが叱ってやらないと」
「むう、人をお子様扱いして! 当麻だってそんなに大人じゃないし、私と光子はほとんど同い年くらいのはずだよ!」
「そうは言うけど、なあ」
精神年齢が離れて見えて、スタイルが離れて見えるこの二人を同年代として扱えというのも。
「もう、当麻さん。どこを見てらっしゃるの」
「ご、ごめん」
「うー」
二人の差が歴然と現れている胸元。光子のそれを覗いたら、女の子二人ともに怒られた。
インデックスが当麻の太ももに噛み付いた。
「いでっ、痛いって! インデックス!」
「わたしだってすぐに光子みたいになるもん!」
「そう言うのは説得力ってのをよく考えて言うんだな」
「とうまのばか! えっち! 私の裸見たくせに!」
「いやだから、あれは事故だって!」
「二回もやっておいて事故なんて絶対に嘘なんだよ。当麻は絶対にそういう星の元に生まれてるに違いないんだよ!」
「なんか魔術師がそれを言うと妙に怖いんですけど! ……って言うか、『そういうの』ってほんとにあるのか?」
どう考えても他人より不幸な自身のある当麻としては、是非聞いてみたいことだった。
当麻の真意を、光子は察したらしかった。気遣わしげに、抱いた当麻の腕をきゅっと引き寄せる。
とはいえその気使いは無用だ。上条当麻という人間は、降りかかる不幸に心折れることは、ない。
じゃれていたときの甘えた表情を潜めて、インデックスは口を開いた。
「もちろん。生まれたときの星の巡りや、その人の血統、色々なものが影響して決まるものだよ。運のよさなんていう分かりにくいものじゃなくても、貧しい家に生まれるか裕福な家に生まれるかだって生まれる前から決まってるよね。それと一緒」
「なら、俺のこの右手も」
「……それはよく分からないかも」
「え?」
「当麻のその手は、規格外だよ。魔術で人型に組まれた炎の巨人を押しのけた、って。そんなことが出来る右手を生まれつき持ってる人なんて聞いたこともない」
超能力者の街、学園都市ですら上条の右手を理解することは出来なかった。そして、今、世界で最も豊富な知識を持つ魔導図書館がまた、上条の右手を理解できないものだと言った。
「当麻の面白体質は、右手のせいかもね。神様のご加護とか、そういうのを片っ端から消しちゃってるんじゃないかな」
「……最悪だ」
「気にすることはありませんわ。当麻さんのことは、私が絶対に幸せにして差し上げますもの」
何か気に入らないことがあったように、つん、と光子が澄まして言った。
夫婦は苦楽をともにしてこそ。当麻は自分ひとりで背負わなくて良いのだ。もう、自分が隣にいるのだから。
「みつこはとうまが好きなんだね」
「ええ。とっても」
「……いやその、嬉しいんだけど、光子は恥ずかしくないのか?」
「どうしてですの? この子に聞かれても、私は別にどうとは思いませんわ」
そう言って、光子はインデックスを撫でる。
「とうまは光子の事どう思ってるの?」
「……ああもう。好きだよ。すげー惚れてる」
「ふふ。当麻さんの言ったことが分かりました。これ、嬉しいですけど恥ずかしくってこそばゆいですわ」
照れる光子の横で、もう一度、当麻はインデックスの頬をつねった。


「……さて。ホントはもっと早くすべきだったのかもしれないけど。これからの話、しておかないとな」
じゃれあうのが一段楽したところで、当麻がそれを切り出した。
インデックスが、二人の膝を枕にするのを止めて、フロアにぺたりと腰を落ち着けた。
「そうだね。ここもいつまで安全かは分からないし、いつまでも私はここにいられないし」
「あいつらが諦めたって可能性はないか?」
「ないよ。それは断言できる」
甘えているときや、食事をしているときの浮ついた感じの全くない、冷たさすら感じるような断定口調だった。
「どうしてですの?」
「自慢じゃないけど、私の持ってる10万と3000冊の魔導書は、欲しい人たちなら何をしてでも手に入れるくらいの価値はあるから。日本には親を質に入れてでも欲しいって言い回しがあるけど、私っていう『禁書目録<インデックス>』は家族どころか知り合い全部の命を差し出してでも欲しがる人が、いるんだよ」
「10万3000冊って……あの、そんなものがどこにありますの?」
「ここだよ」
インデックスは指でこめかみをコツコツと叩く。そのサインが意味するものは。
「全部、覚えてるっていうのか?」
「うん。私はそれが出来る人間だから」
「それも魔術なのか?」
「んー、ちょっとわからないかも。小さい頃から、こうだったはずだから」
「ふうん」
消えない記憶を持つ人間。それは学園都市の人間にとっては、魔術を信じる人間よりはずっと受け入れやすい生き物だった。
「サヴァン症候群と理解するのも少し苦しい気はしますが……まあ、ありえない話とまでは言えませんわね」
「それで、つまりお前は重要な書物を持ってるせいで狙われてる、ってことか?」
「そうだよ。だから、もう諦めたなんて事は絶対無い。私を匿う人がいればその人を殺すことなんてきっと道端に転がったゴミを踏むのと同じくらい簡単にやるし、手に入るまでに10年でも20年でも、平気で追い続けると思う」
脅すような、芝居がかった口調はなかった。むしろインデックスの口調は淡々としていて、逆にそれが話すこと一つ一つに真実味を与えていた。
恐ろしく長いあの長刀の一閃を、激しく熱いあの炎塊の巨人を、つい昨日覚えた恐怖と同時に思い出す。
人知れず自分の右手がソファの縁をつかんでいることに当麻は気づいた。
「本当に、助けてくれてありがとね。とうまとみつこが助けてくれてなかったら、もう捕まってたかもしれない」
「……でも、私が関わらなければ」
光子が公園でインデックスに再開しなければ。インデックスは今頃、逃げ切れていたかもしれないのに。
「みつこ。それを言い出したら、そもそも二人のいたあの部屋のベランダに落ちた私が悪いんだよ。だから――――」
不意にインデックスが立ち上がった。勢いをつけて、元気そうに。
だが、立ちくらみを起こすくらいに病み上がりなのだ。ふらりと頭が振れそうなのを、隠しているのが二人にはよく分かった。
「朝ごはんまで作ってくれて、ありがとう。もう、一人で大丈夫だから。二人と、あいほにも迷惑をかけないうちに、出て行くね」
ぺこりと、日本人らしくインデックスが頭を下げた。それで前につんのめって、たたらを踏む。
「ちょ、ちょっとインデックス。貴女そんな体で歩けるつもりでいますの?! いいからもっとお休みなさい」
「大丈夫だから。これ以上、ここにいちゃ駄目だから」
優しい笑いは、遠慮の塊。光子の好意を突き放す笑みだ。
「でも! 貴女、まともに歩けもしないでしょう」
「そんなことないよ? ほら」
「ふらついていることも分かりませんの?」
「大丈夫だよ。すぐに良くなるし。心配してくれて、本当に嬉しいけど。大丈夫だから」
「そんなこと――――」
光子より、インデックスの声のほうが切なかった。まるで光子より自分を納得させるための言葉のようだった。
ブチリ、と指の先で音がした。ソファの縁の縫い糸が切れた音だった。強く、握りすぎた。
「ここにいたら、何で駄目なんだよ?」
ビクリと、隣の光子が怯えるように身を固めた。こんなにドスの聞いた声を光子に聞かせた覚えはなかった。
インデックスも怒られた子供のような顔をしていた。
「だって。みんなに……迷惑がかかるから」
「だからどうしたって言ってんだよ」
「どうした、って。死んじゃうかもしれないんだよ? 今日や明日を乗り切っても、これから何年も、もしかしたら一生だって、ずっと何かに怯えることになるかもしれないんだよ?」
「お前が今から一人で行こうとしてる世界が、そこなんだろ? そんな地獄にお前が行くと分かってて、その手前で俺たちはお見送りでもしろってか?」
「で、でも」
「頼れよ」
「だめ、だよ。私は二人に、幸せでいて欲しいんだから」
「お前は幸せに、なっちゃいけないのか? 俺がお前に手を差し伸べたら」
「とうま! ……駄目。それ以上言ったら、私」
否定の声は、弱弱しい。
誰かに助けて欲しい、そんな思いが見え見えだった。そして同時に誰も不幸に巻き込んではならないという強い決意があるのも分かってはいた。
だが、上条当麻は、そのどちらも選ばない。
「お前が独りで抱え込んでるもの、俺にも貸せよ。何でも出来るって訳じゃないかもしれない。けど、俺はお前の不幸を許さない。お前が笑って安心できるようになるまで、絶対にお前を独りになんてしない」
インデックスが僅かに肩を震わせて、顔をくしゃりとさせた。誰かに自分の辛さを背負って欲しい気持ちと、そう思えるくらい好きになった人を不幸にしたくない気持ち、それが危ういところで均衡を保っている。
それを突き崩すように、当麻は言った。
「頼れよ、インデックス。お前と一緒にいることで俺が不幸になるなんてことは絶対にない。そんなつまらない幻想は、俺がぶち殺してやる」


インデックスはしばらく耐えるように当麻の顔を見上げていたが、
ふぇ、と。いきなり、目元から涙がぽろりとこぼれた。


「……とうまは馬鹿なんだね」
その言い方が、甘えた感じで。インデックスが少し荷物を自分に分けてくれたのだと当麻は理解した。
「だってとうまにはみつこがいるのに。みつこをどうするつもりなの?」
「あ……」
隣の光子を振り向くより先に、手の甲にそっと手が重ねられた。
「当麻さん。今から、私に何を仰る気でしたの?」
「えっと、ごめん。光子の話を何も聞かずに、先走っちまった」
「それはよろしいですわ。それで?」
「荒事にもなるから、光子は隙を見て……」
「当麻さんの莫迦」
きゅ、と手をつねられた。つんと尖らせた唇が、あからさまに不満を伝えている。
「私を誰だとお思いですの?」
「……常盤台中学のエース、婚后光子さん、か?」
望まれている答えを、当麻は言ったつもりだった。
「そうじゃありませんわ。私は、その、上条当麻という方の、女です。当麻さんとの馴れ初めだって、あの時当麻さんは不良に絡まれていた方を助けたツケで追われていたんでしょう? あれからだって、当麻さんがこうやって人助けをしにいくところを見てきたんですから。当麻さんていう方が、どういう人かは私が一番知っています」
「光子」
「私、昨日も当麻さんに念を押しました。覚えていては、くださいませんの?」
――――当麻さんが行くところへならどこでも、私は付いて行きますから。だから、ずっと一緒にいてくれって、言って欲しい。
昨日光子は、そう言った。それに対して返した自分の答えも、覚えている。
「後悔しないか?」
「当麻さんに置いて行かれるほうが、よっぽど後悔します。それに、婚后家の人間として品行方正と破邪顕正を体現する義務が私にはありますもの。寮に帰れなんて、言いませんわよね……?」
光子は最後に上目遣いで当麻を見た。当麻の考えを伺う体でありながら、目には意志の強さを表す光があった。
「光子の、意外な面を見た気がする」
「そう? 私、結構我侭なほうですわ。偉そうに言うようなことじゃありませんけれど」
「お嬢様って決め付けはしてないつもりだったけど、もっとこういうときの押しは弱いかと思ってた」
「もう。そういうところ、お嫌?」
「心配にはなるけど、嫌ではないよ。まあ惚れた弱みって事で」
「ふふ」
話は決まった。少しだけ涙をこぼした顔でこちらを見ていたインデックスを、光子が抱きしめた。
「インデックス。今度は貴女を傷つけさせたりはしませんから」
「光子だって危ないんだからね」
「私たちを頼りなさい、インデックス。貴女と一緒にいることで私たちが不幸になるなんてことは、絶対にありませんわ。そんなつまらない幻想は、私たちが打ち払って差し上げます」
格好をつけて臆面もなく当麻の台詞を真似た光子に、当麻は思わず苦笑した。
そして抱きしめあう二人を、さらに後ろから抱きしめた。



[19764] ep.1_Index 08: イギリスへ辿り着く道
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/06 20:19

「で。一番大事な方針が決まったけど、具体的なプランはまだ白紙だ。それもちゃんと考えないとな」
「そうですわね。当麻さんには何か妙案がおありなの?」
「いや、それは今からちゃんと考えようと」
今後の見通しが立つから方針を決めたわけではない。やりたいことがまずあるから方策を練るのであって。
だから別に無策なのを攻められる謂れはないと思うのだが、ジト目でインデックスに睨まれた。光子にまであきれたようにため息をつかれてしまった。
「とうま……かっこいいこと言ってたけど、口だけなんだね」
「なにか案あってのことだと思ったんですけれど……」
「いや、ごめん」
「それで、インデックス。私たちはまず貴女の事情を聞いておかなくてはいけませんわね。魔術というものがあることを、私は受け入れますわ。だからもう一度、何故貴女がこうした境遇にいるのか、説明して頂戴」
「だな」
何をどうするにも、確かにそこが出発点だった。インデックスは何者で、何故追われるのか。
ソファに座った光子と当麻の間にインデックスは体を落ち着けて、今は光子にもたれかかっている。
「後悔、しない?」
「確認を取る必要はありませんわ。私も当麻さんも、それは今さっき済ませましたでしょう?」
「うん。ありがとう。……ねえ光子。この世の中には、魔術がありふれてるって言ったら、びっくりする?」
「そうですわね……そもそも、そんなものはあるはずがないとつい昨日まで思っていましたわ。今でも、ありふれているといわれても、ピンと来ないというか」
「普通の人にとってはそうだよね。でも魔術って、世界中のどこの文化にでも存在して、いつの時代も使われてきたんだよ。キリスト教徒もそれを使うし、キリスト教徒に敵対してきた人たちも、それを使ってきたの」
不意に太陽が雲に隠れて、陽気が部屋から遠ざかる。
「邪教なんて言い方をすると一方的だけど、普通の人の知らないところで、私たちは主の教えに従わない魔術師と戦ってきたんだよ」
「……私たち?」
「そう。『必要悪の教会<ネセサリウス>』って呼ばれる、イギリス清教の一番暗くて一番穢れた所」
主の怨敵を払う為。邪教に相対することはおろか染まることですら厭わず、あらゆる仕事を引き受けてきた部署。
自分のいるべき場所を、インデックスはそう説明した。
「私には魔術は使えないけど、代わりに、世界中のあらゆる集団のあらゆる術式に精通してる。どんな魔術師と敵対することになっても、どんな魔術なのか、どうすれば防げるのか、どうすれば倒せるのか、全部知ってる」
「つまりお前は、敵のステータスが細かいことまで全部乗ってる攻略本みたいな存在なわけか?」
「攻略本っていうのがよく分からないけど。私はイギリス清教が誇る最悪の蔵書、『禁書目録<インデックス>』なんだよ。私を手に入れれば、世界中のあらゆる敵を打ち滅ぼせる。だから私を追う人が、後を絶たないんだよ」
「じゃああの二人も、そういう連中だって訳か」
「別に確認してみたことはないけどね。まず間違いないんだよ」
なんでもないことのように、インデックスは淡々と話す。それが逆に背筋を空寒くさせる。いつ終わるとも知れない、いや、いつまでも終わることのない逃避行は、いったいこの少女の心をどれほど蝕んでいるのだろうか。
「ずっと、ですの?」
「え?」
「いつからこういう生活を続けてますの?」
きゅっと、光子がインデックスの頭を引き寄せた。甘えるように薄くインデックスが光子の胸に鼻をこすりつけた。だが、困惑したような、何かをはぐらかそうとするような微笑が、ずっと顔から消えなかった。
「え……っと。一年前から、だよ」
「それまでは、誰かと一緒でしたの?」
「……隠しても仕方ないよね。わからないんだよ」
「わからない?」
「うん。わたし、一年以上前のこと、覚えてないから」
さらりと、そう言った。
理由も分からないまま気がつくと日本にいた。自分が何故ここにいるのか、自分にはどんな知り合いがいたのか、そんなことはすっかり忘れているくせに魔道図書館としての機能にはこれっぽっちの傷も付いていなかった。
そしてそのまま、一年間、逃げ続けた。
……それが彼女の知る彼女の全てらしかった。
「なにも、覚えていませんの?」
「うん。気がついたら日本にいたの。『必要悪の教会』だとか、そういう知識だけはあったけど。それですぐに私を追ってくる敵が現れたから、ずっと逃げてた」
「一年間も、独りで、ずっと?」
光子は言葉を上手く継げなかった。あまりの苦境だと思う。何故この子が、と言わずにはいられない。
そしてそれは、当麻にとっても同じだった。
「なんだよ、それ……」
「とうま? どうして怒ってるの?」
「なんでお前がそんな目にあわなくちゃいけないんだ?」
「きっとそれが、私の決めた生き方だから」
「インデックス」
理不尽を嘆いても、誰も責めないだろう。
この幼い少女がこんなにも追い詰められた生活をしているのだ。嘆くぐらいは許されたっていい。
「何も覚えてないんだろ? 誰かに無理矢理押し付けられた生き方かもしれないじゃねーか」
「確かなことは分からないけど。でもねとうま。私が記憶している10万と3000冊を、他の人には背負わせられないよ。普通の人の普通の幸せを守るために、こんな狂信と敵対心の詰まった本を誰かが引き受けなきゃいけないんだったら、私はそれを引き受けるよ」
それはインデックスの、決意だった。決して人並みとはいえない辛い人生を、すでにインデックスは自分で選択している。
光子も当麻も、それぞれ乗り越えなければならない壁や苦労を毎日背負っている。だが切実さが、比べようもないほどインデックスとは違っていた。
「貴女も、私たちと同じような、平凡な幸せを満喫できればいいのに」
どこか悔しそうな、そんな響きを持った一言だった。
それを見てインデックスは笑う。当麻は怒ってくれた。光子は悔しがってくれた。
短い付き合いでも、そうやって思ってくれる人がいれば、まだ頑張れる。
「とうまとみつこがいてくれるから、これからは幸せだよ。ずっと一緒にはいられなくても、私のことを気にかけてくれる人がいるってことは、それだけで幸せなんだから」
むしろインデックスが二人を慰撫するように、優しく微笑んだ。


「……結局、やっぱりゴールはイギリスの『必要悪の教会』ってことになるのか」
「そうだね。とうまとみつこに一生助けてもらうことは出来ないから。そこまで帰れれば、あとは同じ教会の人たちと助け合えると思う」
「それが、きっと良いのでしょうね」
「うん……」
まだ実感はないが、寂しさがないでもない。それに結局、『禁書目録』という生き方をするインデックスを自分達の世界に引き入れることは出来ないのだ。
「あの、ホントにいいんだよ。私は、とうまとみつこがここで見送りをしてくれても、恨んだりしないし、もう、充分嬉しい気持ちにさせてもらえたんだから」
「それじゃ逃げ切れないって結論が出てるだろ。体調も万全とは言えなくて、しかもスタート地点からすでに相手にばれてるこの状況じゃ」
「それで、やっぱり飛行機でイギリスまで行くしかないということでよろしいのね?」
シルクロードを伝うなんてまるで現実的じゃない。異教の民の渦巻くそのルートは、腹を空かせたライオンの群れの隣を歩いて帰るようなものだ。船も長旅になる。補給も必要で、いつか船に乗り込まれてしまったらそこでおしまいだ。
相手を振り切って飛行機に乗って、そのまま一足で『必要悪の教会』までたどり着いてしまう、それが唯一の方法だった。
「飛行機っていってもな……お前、パスポートとかあるのか?」
「ぱすぽーと? なにそれ」
相手はどうやって日本に来たのかも分からない少女なのだった。
「もしかしてこれかな?」
「ああ、持っていますのね。……って、これは」
懐から取り出したそれは、確かにイギリス国民のパスポート。しかし渡航暦は全くの白紙。
偽造でもないようだからちゃんと渡航はできそうだが、手続きのときに問いただされそうな不安を感じる。
「ま、まあ有るんなら飛行機には乗れるんだな」
「でも当麻さん。この子は学園都市のIDを持っていませんのよ? 外の空港には出て行けないし、中の空港だって、IDのチェックで引っかかってしまいますわ」
「げ、そうか……」
情報の漏洩には厳しいこの街のことだ、こっそり飛行機に忍び込むなんて真似は、絶対に出来ないだろう。
つくづくインデックスがこの街に入ったことは困難の原因だと思う。これでは脱出もままならなかった。
申し訳なさそうに、インデックスがうつむいた。
「飛行機にさえ乗れれば、道は切り開けるってのに」
「そうですわね」
悩んでいる暇も、実はそうない。すぐに襲ってくる素振りこそ見せないが、相手もインデックスを捕まえる準備をしていることだろう。それに、黄泉川が警備員として、いずれインデックスをどうにかすることになる。完全記憶能力を持った少女を学園都市がすんなり開放するわけがない。黄泉川はそれなりに信じられる相手だったが、黄泉川が従わざるを得ない学園都市の意思というのには、二人は信用を置けなかった。
当麻は街の裏路地を歩く程度には学園都市の『表』以外の部分を知っているが、禁止薬物の売買や企業スパイなどとはさすがに無縁だ。
強引にインデックスをイギリスへと飛ばす方法が、思いつかなかった。
申し訳なさそうに、インデックスがうつむく。その頭をぽふりと光子が撫でて、
「二十四日の夜、ちょうど三日後ですわね、第二三学区で新型航空機の、性能実証試験がありますの」
すこし自慢げにそう言った。
「実証試験?」
「中型なんですけれど、戦闘機以外では学園都市どころか世界でも一番早い音速旅客機になりますわ。最高速度は時速7000キロ超。私、この旅客機を撫でる表面流の摩擦低減のための材料開発を担当していましたのよ。材料創生は私の仕事ではありませんけれど、どんな機能や構造を持った表面であれば望み通りの物性が発現するのか、理論的な側面から候補になる新規材料の評価とスクリーニングを手伝ってきましたの」
「光子、それって」
財布から光子が一枚のカードを取り出す。学生証とは別になった、機密の多い第二三学区への入区許可証だった。
「実証試験は、日本イギリス間の往復が課題ですわ。最高速度のベンチマークテストと、振動や騒音などの旅客機としての品質テストをやる予定ですの」
比較的イギリスには学園都市との協力機関が多い。まさかインデックスとはなんの因果関係もないだろうが、その偶然はまさに渡りに船だ。
「部外者が乗れば勿論犯罪ですから、コンテナ辺りに忍び込むことにはなると思いますけれど。それでも普通の空港よりずっと確実でしょうね」
「……いいのか?」
失敗すれば、光子は極めて辛い立場に立たされることになるだろう。上手く行っても、疑われるようなことがあれば同じだ。
はっきり言って、光子にとってはデメリットの多い行いになるだろう。
「あの飛行機はもう私の手を離れていますし。それに開発者としての信用が失われても、別に構いませんわ。そういう生き方をこれからもするつもりじゃありませんもの。ねえ当麻さん?」
「え?」
「こういう逃げ方はよろしくないのかもしれませんけれど。私が一番なりたいのは当麻さんの妻ですもの」
ぱしっと肩を叩かれた。インデックスがニヤニヤしていた。そっぽを向いて頬しか見えないが、光子が真っ赤なのはよく分かった。おそらく、当麻も同じなのだろう。
「そ、それじゃ、光子。いいんだな? そのプランで」
返事をせず、こっちも見ないで光子はコクコクと頷いた。
「それで、その二三学区っていうのは遠いの? この家からそこまでが、一番危険な道のりなんだよ」
「大丈夫ですわ。それにも、案がありますから」
つまりは、妙案を持っているのは完全に光子のほう、ということだった。





「あの子はどうだい?」
「さきほど少し見えました。傷は塞がって、歩けるくらいにはなっているようです」
「そうか。他に誰がいる?」
「あの少年達はいるようですね。それと家の持ち主は朝出かけました。それ以上は分かりません」
インデックスの匿われた部屋は、マンションの13階だ。それなりに高い場所にあるせいで、1キロ以上離れたところにある高層ビルの屋上からしか中を窺うことが出来なかった。
しかも間取りを手に入れたところ、あの家はかなり広い。神裂から見えないところに、5人以上は匿えそうだった。
最悪の場合、あの家には禁書目録を手にした魔術師に加えて超能力者、そして魔術を打ち消す少年がいることになる。その見積もりで行けば、人数でも実力でもこちらを上回る。
カーテン越しに横顔を見るのが精一杯の現状では、相手の会話を拾うことも出来なかった。まさか禁書目録を相手に、魔術を使った盗聴など出来るはずもない。
「……幸せそうですよ、とても」
「……」
ステイルは応えず、カチンとライターの蓋を開けた。くわえた煙草に火をつける。
神裂は憂鬱そうな表情で、カーテン越しにごく薄くだけ見える三人の影を見つめた。
「あの少年達の真ん中に座って、三人で、幸せそうにしていますよ」
「儚い思い出さ。どうせ、あと一週間もしたら、なかったことになるんだ。全部ね」
淡々と、ステイルが紫煙を吐き出す。
神裂はいつも、こういう時のステイルの態度を測りかねていた。強がりなのだろうか、それとも過去の出来事を乗り越えたのだろうか。まさか、どうでもよくなったとか、そういうことではないだろう。
二年。あの子に忘れ去られて、あの子の敵になってからもうそれほどの時間が経つ。それだけの時が流れてもなお、時折この境遇が神裂の心をギチギチと締め上げる。
「かつての自分達を、重ねずにはいられませんね。あの構図は」
神裂とステイルの間に座って、ああでもないこうでもないとはしゃいだインデックスの姿が、今でも脳裏に浮かぶ。
そしてそのヴィジョンにはいつも『最期』の姿がおまけとして付いてくる。誰にも悟られないよう、胸につかえた鈍く重たい何かを、ため息と同時にそっと吐き出した。
――――全てを教えれば、あの二人はインデックスのために泣きじゃくるのでしょうか。
自分達の背負った苦しみを、あの二人にも背負わせてやりたいような、暗い気持ちがかすかに芽生える。
「関係ないよ。僕らはこれからずっと、あの子のためにあの子から全てを奪うんだから」
気負いのない態度で、ステイルはそう応えた。神裂にもその決心はある。だが、きっと飄々とした態度のステイルのほうがきっと、神裂よりも強い覚悟があるのだ。
「それで。準備のほうはどうなっているのですか」
「あのマンションにうっかり焦げ痕を残したせいで、ちょっと近寄りがたかったけど、ようやく落ち着いてきたね」
ステイルは今、あそこに攻め込むのに必要な術式を組上げているところだった。魔術は思い立ったらすぐ、で使えるほど便利なものではない。相手を逃がさないだけの規模の魔術を構築するには、時間が必要だった。
「攻め入るまでに、どれほどかける予定ですか」
「60時間。僕はこれがベストだと思ってる。あっちがどういうつもりで篭城しているのかよく分からないけれど、あの子の回復を待っているのなら、ちょうどそれくらいの時間にあちらも動き出すだろう。未完成でも45時間後くらいで動けるようにはしておくから、何かあれば連絡をくれ」
「分かりました」
そう言ってステイルは、神裂のいる屋上の壁の目立たないところにルーンをぺたりと貼って、挨拶もせずに出て行った。
残り15万枚。マンションの周囲2キロに渡って、ステイルはルーンを刻み歩く。
神裂の仕事は、準備が終わるまで、幸せそうな一つの家庭を複雑な気持ちで眺める、それだけだった。





「おっふろ♪ おっふろ♪ おっふっろー♪」
リビングでインデックスが、そんな歌を歌っている。
昼からも何をするでもなくだらだらと家で過ごし、時刻はもう夕方だった。
インデックスが少し遅めの昼寝をしている間に、光子と二人で野菜や肉を調理して、後は時々灰汁を取れば終わりの段階だった。
作ったのはカレー。光子に無理なく手伝ってもらえるし、分量も稼げるから便利だった。
……まあどこから見ても新品だった鍋を使うのに抵抗はあったが。
台所の横を光子が横切る。和室に置いておいた着替えを持ってきたようだった。
「それじゃ、入りましょうか。インデックス」
「うん!」
「当麻さんは、ちゃんとお料理の様子を見ていてくださいね?」
「あ、ああ。わかってるって」
「別に私達の様子を見にいらっしゃらなくって結構ですのよ?」
「しないって!」
まるで信用されていないことにトホホとなる。
「とうまは全然信用できないもん! ねー光子」
「信じられないなんて言いたくありませんけど、当麻さんは、ねえ」
困りますわよねえ、なんて感じでインデックスと頷きあって、二人はバスルームへ向かった。
「昨日のあれでは拭き残しもあったでしょうし、ちゃんと洗ってあげますわ。インデックス」
「うん。ありがとねみつこ」
ひとりで風呂に入らせるとまだ危なっかしいインデックスに、光子が付き添う。
扉二枚を隔てたその先にお花畑があるのが、ちょっと悶々とするところもある当麻だった。
邪念を振り払いつつ、カレールーのパックをあける。
軽く割ってぽいぽいと鍋に放り込んで、焦げ付いたりジャガイモが煮崩れたりしないように少し注意しながら混ぜて、頃合を見て火を落とした。
ちょうどそこで、鍵がガチャリと開く音がした。
一瞬身構えたが、見知った長髪の美女、この家の家主だと気づいてほっとする。
「ふいー」
「あ、先生お帰りなさいです」
「へっ? ああ、上条いたんだっけか。ただいま。良い匂いがするじゃんよー」
「今日はカレーです」
「いいなぁ。帰ってきたらご飯を作ってくれてる同居人がいるって」
「彼氏作って同棲したらいいんじゃないですか」
「彼女持ちがそういうこと言うとムカつくじゃんよ」
軽く当麻を睨んで、手にしたリュックサックをリビングの所定の位置にやってうーんと伸びをする。
胸の揺れが大胆すぎて、思わず当麻は目を逸らした。まったく黄泉川は頓着しない。
「ご飯とお風呂、どっちにします?」
「ぷっ……上条、お前それ似合いすぎじゃん。それじゃあ風呂に入ってくるかな」
やけに主夫が板に付いた当麻の態度に黄泉川が噴出した。
独り暮らしをしてるんだから学園都市の男子はこんなもんだと思うんだけどな、と当麻は憮然となった。
「あ、先生。いまインデックスと婚后が入ってるんですけど」
黄泉川を当麻は止めようとした。さすがに三人目は入れないだろうし、待つ必要がある。
黄泉川は違う違うといった風に手を振った。
「分かってるよ。手を洗うだけだって」
そしてガラリと洗面所の引き戸を開けた。



「えっ? きゃあっ!!」
「あー、ゴメンゴメン」
「先生早くお閉めになって! 当麻さんに、その、あの……。当麻さん!」
「ごごごごめん!」
洗面所にはブラとショーツだけしか身に着けてない光子が、インデックスに服を着せているところだった。インデックスはすでに服を気負えていたせいで、難を逃れた。
デザインは黄泉川先生並に色っぽい。布地が少ないとかそう言うことはないが、清楚な常盤台の制服の下にあんなワインレッドの下着をつけているのかと想像すると、なんというか、こう、当麻も男の子なのである。
胸を庇うように腕を畳んだ光子が可愛い。スタイルには気を使っておりますし、自信もありますからと豪語する光子だが、さすがに不意打ちは恥ずかしいらしい。
……正直に言って、インデックスや黄泉川先生よりも、光子の体に当麻はドキドキした。



「……当麻さんの莫迦」
「う、でもあれは俺が悪いんじゃないと言いたい」
「間接的にでしたけど、きっと当麻さんが悪いんですわ」
髪を濡らしたまま出てきたインデックスとは対象に、光子はしばらく洗面所から出てこなかった。
唇を尖らせて文句を言う光子の頬は、まだ赤かった。
「でも、下着姿の光子、やばいくらい可愛かった」
「……もう。嬲るのはお止めになって」
「本当だって」
「どうしよう。今つけている下着がどんなのか当麻さんに知られてるなんて。落ち着きませんわ」
ひそひそ声で、二人はそんな会話を交わした。
今回は光子以外に被害がないので、怖いことはないのだった。恥ずかしがる光子がひたすら可愛い。
「あっ。て、天気予報の時間ですわ」
話を打ち切るように、テレビの前にいるインデックスの隣に光子が逃げた。
タオルでさらにインデックスの髪をぬぐいながら、一週間分の予報に耳を傾ける。
「良かった。24日は、夜までずっと晴れですわ」
「この街って天気の予知を無料で聞けるんだね。これって当たるの?」
「予報って言ってくれ。予知だとこの街じゃ別の意味になっちまう。で、この予報だけど、学園都市じゃ的中率100%だ。原理的に外れないんだよ」
「え?」
「お前だって算数くらいは出来るんだろ?」
「当たり前でしょ。馬鹿にしてるね、とうま」
「時速100キロで走る車は1時間で何キロ進むでしょうか」
「引っかけ問題なの? ……100キロに決まってるんだよ」
「なぜそう分かる?」
「なぜって……馬鹿にしてるの? とうま」
タオルをかぶったその顔で、インデックスは当麻を睨みつけた。
「そうじゃねーよ。今のは簡単な算数のレベルだけど、必要な情報をそろえたら未来のことでも分かる、ってのが科学だってことさ。もしこの地球に存在する全ての空気分子の動きを計算できたら、それって未来を予測できるって事だろ? 学園都市の上に浮いてる『おりひめⅠ号』って衛星に積まれた『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』ってスーパーコンピュータが、それをやってるんだ」
「分子? こんぴゅーた?」
「まあ、人間よりも計算の上手い機械に、一から全部計算してもらってるから正しい、って事だよ」
「ふうん。よくわからないけど、信じていいってこと?」
「……当麻さんの言っていることは間違いですけれど。およそ外れない、という意味では信じてよろしいわ」
黙って話を聞いていた光子が、仕方ないというように軽いため息をついて答えた。
そして間違いを指摘する時の先生のような表情で、光子が当麻を見つめた。
「当麻さんのそれ、よく巷で流れている説明ですけれど。そんなやり方で予測をしているはずがありませんわ」
「え……? そうなのか?」
「もう、計算科学なんて基礎の基礎……あ、ごめんなさい。自然科学系の能力者でもなければそうとまでは言いきれませんわね」
光子がタオルでインデックスの髪を拭くのを止めた。そして傍に置いたドライヤーで、髪を乾かし始める。
「たとえばここにある22.4リットルの空気。この中に空気の分子が一体いくついるかご存知?」
「アボガドロ個数個だから、6.02×10の23乗個だろ?」
「そうですわ。その全ての分子の、今この瞬間の情報を記憶するとしたら、どれくらいのデータ量になるでしょうか。仮に16桁の精度で位置と速度のベクトルを記憶したとすれば、三次元空間なら一つの分子につき384ビット、22.4リットルの空気なら2.3×10の26乗ビット、つまり200ヨタバイトくらいのメモリが必要ですわね。ヨタって分かります? 当麻さんの携帯はあまり新しくはありませんからテラバイトくらいのオーダーでしょうね。たった22.4リットルの空気の情報を記録するのに、当麻さんの携帯が1兆個くらい要りますのよ。地球上の全ての空気は、その一兆倍でも足りませんわ」
「えっと……まるで実感が湧かないな」
「ええ。それだけの情報をメモリに保存して、読み書きをするのは大変なことですわよ」
「だから無理、ってことか?」
「無理な理由なんていくらでもありますわよ。空気の流れはナビエ・ストークス式で解くわけですけれど、その微分方程式を解くには初期条件が必要ですわ。つまり、計算の始点になるある瞬間の、世界中に存在する全ての空気分子の位置と速度のベクトルを把握する必要があるということです。そんなこと、超能力者でもなければ出来ませんけど、そんなことが出来る超能力者はレベル5程度ではありえませんわ」
空力使いだから、だろうか。なんだか口調が当麻をたしなめるようで、謝ったほうがいいのだろうかと思案してしまうのだった。
「それにこの世界は量子力学が支配していますから、どこまでも確かなこと、なんて絶対にありませんのよ。過去も未来は一つに定まらない、というのが科学の常識ですのに」
「えっと、その、すみませんでした」
「え? あの。……ごめんなさい当麻さん。口が過ぎましたわね」
はっと我に返ったように、光子が謝った。充分に乾いたらしく、インデックスの髪に当てていたドライヤーを切った。
途中から話についてくるのを完全に放棄したインデックスが、ぽつりと聞いた。
「結局、この人の言ってることって信じていいの?」
「ええ。原理上、100%なんてことはありませんけれど、99.9%くらいまでは正しいですから」
「なあ光子。『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』がそんなにすごいわけじゃないのなら、何で外と違って学園都市の予報ってこんなに当たるんだ?」
「それは私達、空力使いの努力の賜物ですわよ。確かに気象というのは予測のしにくいカオスな所はありますけれど、外の学者はカオスという言葉を言い訳にしすぎですわ。カオスではないものにカオスであるってレッテルを貼って逃げたりせず、真摯に誠実に、空気の流れというものを見つめれば、もっと精度の高い予測モデルを組み立てられる、それだけのことです。この街には空気の流れが『見える』能力者が多いですから、もちろん大きなアドバンテージを持っているわけですけれどね」
「へー……ごめん。完璧には理解できてないかもしれないけど」
「ううん。こっちこそ熱くなってしまってごめんなさい。でも、『樹形図の設計者』は力技で何でも出来る夢のスーパーコンピュータではありませんわ。結局、外から見てもたかだか30年しか進んでいない技術ですもの。分子レベルで世界の全てを演算することなんて、それ自体がこの街の最終目標そのものですわ」
小萌先生が時折口にする『SYSTEM<神ならぬ身にて天上の意思にたどり着くもの>』という言葉。当麻はそれを思い出した。軍事にも民生にもとてつもなく貢献しているレベル5の超能力者でさえ、学園都市にとっては副産物でしかない。神様にしか分からないことを理解するために神様みたいな人間を作ること、超能力者の総本山は自分達のスローガンが神学的なことを、むしろ逆説的に愛していた。


バタリと、そこで風呂の扉が開く音がした。黄泉川先生が広から上がった音だ。
「あ、あいほが上がってきた。ほらとうま、早くおふろ入って。とうまがお風呂からあがってこないと晩御飯食べられないんだから」
「ん。わかった。けど先生がちゃんと出てきてからじゃないと動けないだろ」
「むー。それはそうだけど」
インデックスに苦笑いしつつ当麻は腰を上げる。自分の着替えを整えるためだ。
なんだかんだでインデックスがご飯を待ってくれるのは、実はちょっぴり光子が怖いからなのだった。

***********************************************************************************************************************************
あとがき
工学系の専攻の統計熱力学の授業で、教授が「古典力学、ニュートンの世界では未来と過去は唯一つですが、これに不確定性原理を導入すると未来は一つではないし、過去も一つではありません」なんて言いだしたときにはドキドキしたもんです。量子力学なんて化学反応のためにあるとしか思ってなかったですからね。



[19764] ep.1_Index 09: 鬼ごっこ
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/28 00:46
怪我をしてから、きっかり三日。夕焼けが街を真っ赤に色づけている。その日が落ちれば、動き出すことになっている。
インデックスはこの三日でかなりの回復を見せた。
はじめて見たときと同じ、瀟洒な刺繍の入った修道服に身を包み、頭にフードを載せる。もう一人で歩くくらいは、何の問題もなかった。
とはいえこれから敵に追われてかなりの距離を走るのだ。それには不安がないわけではない。
「もう、走れますの?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃなくても、走ることになるけどな」
「そういうこと。それじゃあ、二人の準備はもういいの?」
当麻と光子は、コクリと頷く。光子がインデックスの服のよれを直した。
「ねえ。もう一度だけ聞くね。本当に、私についてくるの?」
「ああ」
「ええ」
「ここでお別れしたほうが、二人は幸せかもしれないよ」
「それはない」
「そんなことをしたら、ずっと後味の悪いものが残りますもの」
当麻と光子の返事は素っ気無かった。もう決まりきったことだからだ。インデックスは、もうそれ以上は聞くまい、と思った。
もし、本当の本当に危機が迫ったなら、自分が囮になれば二人はきっと助けられる。
一度相手を振り切れば、あとは自分ひとりで何とかなるのだ。これまでもそうやって生きてきたのだから。
今ここで二人と別れない理由は、相手に補足されているからではないと、インデックスは分かっていた。
別れたくないのだ。この数日間が自分にとってかけがえのないほど暖かだったから、それを手放したくなくて、自分は二人の好意に甘えているのだ。
……心のどこかでそう分かっていながら二人を突き放せない。
それは禁書目録を背負う強い少女の、弱さだった。
部屋の明かりはまだ点いていない。いや、今日はもう点ける予定のないものだ。
黄泉川に書置きは残さなかった。保護してくれた人間を振り切って逃げるのに、ありがとうを言う資格はないだろう。
インデックスはついさっきまで、そこにあった穏やかな空気に別れを告げる。真っ暗で人のいないリビングは、何も返事を返さなかった。
「じゃ、行くか」
「うん」
「まずはこのマンションを無事降りるのが一番の仕事だな」
「だね」
当麻が、ドアノブをひねる。
ガチャリというありふれた音が、戦いの火蓋を、切って落とした。


「な、なんか拍子抜けするくらいだな」
「……」
マンションを出てすぐ。
インデックスは廊下をざっと見渡して、あの炎の巨人を呼び出すルーンがないことを確認した。
そしてエレベータが近くの階にいたのを見て、それで降りてきたのだ。当麻と光子にしても三日ぶりの下界だった。
「人が、いませんわね」
社会人の帰宅には少し早い時刻。おかしいとまでは言えない。
「思ったより、速いかも」
「え?」
「もう私たちの動きを知ってて、人払いの魔術が発動してる!」
「っ……走るぞ!」
「はいっ」
目指すは駅。沢山の人を乗せた交通機関に乗れば、相手は手出しが出来ないはずだ。だからそれは相手の最も警戒していることでもあるだろう。
これは鬼ごっこ。
逃げるこちらは三人。そして追うあちらは二人と、そして。
「とうま! 右!」
「くっ、おおおおおおおお!!」
何の拍子もなく不意に現れる、炎の巨人。
発現からノータイムで襲ってくるそれは、インデックスの指示がなければ対応すら出来ない。
黄昏時のなんてことはない道路が真っ赤に照らされる中、当麻の右手が炎と拮抗する。
当麻一人なら、もうこの時点で詰みだろう。
「当麻さん!」
地を走るのが仕事のはずの大型バイクが、滑空する。
鈍重で知性を感じさせない炎の巨人は、ぼんやりとそれを見つめる。
粘性のベシャリという音とともに『魔女狩りの王』は飛び散った。
「光子! 無理するなよ」
「このくらい! 平気ですわ」
「能力は使いすぎると消耗するんだから、光子は温存してくれよ」
「はい。分かっていますわ。でも当麻さんが」
「大丈夫。何とかなる」
「二人とも! もうこっちは終わったから! 行こう」
壁に黄泉川家から持ってきた果物用のペティナイフで何かをガリガリと刻んでいたインデックスが走り出す。
進むにあたってやることは、変わらない。
顕現の前触れをインデックスが読み取って、当麻に指示を出す。当麻が炎の巨人の腕をつかんで動きを止める。
光子がそこらにある何かを投げつけて、『魔女狩りの王』を吹き飛ばす。そしてまた逃げる。それの繰り返しだった。
10メートルに一度、インデックスが壁や木にナイフで何かを刻む数秒と、50メートルに一度、顕現しなおして襲ってくる『魔女狩りの王』をいなす数十秒が、三人の足を止める障害だ。
全力で走っているはずが、結局早足程度のペースにしかならない。
「あっちがこのままだったら、乗り切れるんだけどな」
「うん。とうまとみつこがいればこの術式だけなら楽勝だね。でも」
「もう一人」
インデックスを背後から切りつけた、あの女がいる。あちらにこちらの動きが知られているのは明らかだ。
ものの数分で襲ってくるだろう。駅までは幸い1キロもない。
問題は、そうなる前にどこまで逃げられるか。




「そちらの首尾はどうですか、ステイル」
「予定通りだけど、人払いに忙殺されそうだ」
「では『魔女狩りの王』のみの参戦で貴方は裏方に徹するのですね」
「そうなるね。ま、止めは君に任せるよ」
「誰も死なせる気は、ありませんが」
「そうかい」
通信魔術で二三言ステイルと話をしてから、息一つ切らせず、神裂はビルの最上階から地上までを降り切った。
エレベータよりも自分で降りたほうが早い。その膂力を遺憾なく発揮して、神裂はインデックスたちとの距離を詰めにかかる。
殺したくない、と神裂は思っている。
確証はないがインデックスを匿った少年少女は、禁書目録を悪用する気のある人間に見えなかった。もっと素朴な好意で、匿っているように見えた。
昨日と一昨日の二日間は、チリチリと自分の中の思い出を焦がすような嫌な気持ちを感じるくらい、彼らはごく自然に、仲睦まじく見えたのだった。
自分の直感が正しいのなら、あの二人は自分が刀を振るっていい相手ではない。
――もちろん、インデックスを救うことよりそれは優先しない。
結局、自分は二人を死なない程度に痛めつけることになるのだろう。誰も傷つかないで、誰もが幸せになることはもう、諦めていた。
「お願いだから、あの子を素直に渡してください」
まだ少年たちに対峙もしていない。聞こえるはずのないお願いを誰にともなく呟く。
話し合いの出来る相手であって欲しい。もしそれが叶う相手なら、まだしもましな未来を全員に配り歩ける。

神裂の目が夕闇を走るインデックスを捉えた。純白の修道服はよく映える。
逃げられやすくなるというから不都合なことだが、足取りが確かであることに、神裂は安堵した。
「止まりなさい!」
その一言で、三人がびくりと振り返った。だが覚悟は決めてきてあるのだろう。誰一人、足を止めなかった。
「言い方が悪かったですね。止まらないのもご自由ですが、その子の回収だけはさせていただきます」
ギリ、と自分を睨む少年の顔を見つめ返した。
――と同時にコンクリート辺が、神裂めがけて飛んでくる。
七閃でそれを落とす。神裂にとってどうということのない攻撃だった。
「そちらこそ、言葉一つで説得されてはいただけませんの?」
「申し訳ありませんが、そうもいかない事情がありますから」
意志の強そうな瞳。敵は少年一人ではないことを神裂は確認した。

追いすがる神裂に、もう一片、コンクリート片が飛んできた。
先ほどと同じ。神裂の足を全く緩めさせることのない無為な攻撃だった。
無駄と思いつつも、忠告はする。それで相手の心が萎えてくれればと僅かに願うからだ。
「無駄です。石やコンクリートなど、一瞬と言われる時間に七度は切り捨てられますから」
「じゃあ、炎は切れるの?」
「え?」
久々に、あの子から話しかけられた。不敵に笑った目で、憎憎しげに見つめられながら。
「――――っ!」
呼吸が止まる。瞬間、右に弾け飛ぶように逃げた。
『魔女狩りの王』が神裂のいた場所を抱きしめた。
「まさ、か。もう」
「ちょっと読むのに苦労したけど。ルーンなんて所詮はラテン文字の亜種なんだから。ゲルマン系とラテン系の古語を知ってれば知らない文字があっても読めるんだよ」
神裂は背筋が寒くなるのを感じた。
ステイル・マグヌスは失われたルーン文字を復活させ、新たに力ある文字を加えるほどの術者だ。あの年齢にして、ルーン使いの中ではトップクラス。
そのステイルが己の全てをかけて編み出したのが『魔女狩りの王』だ。
それを、インデックスはほんの一瞥で読み取り、それどころか逆手にとってしまっている。
それは魔術師としての底を見透かされたということだった。
インデックスという少女が蓄えた知識、それが凄まじいものであることは神裂も知っている。
だが、こうまでも恐ろしいものなのか。ここまで読まれてしまうものなのか。
――――手の内を明かしてはならない。
自分が何者なのかを知られればどんな『毒』を吹き込まれるか、分かったものではない。
神裂は、自身の使える魔術はどれ一つとして見せることが出来ないのだと、悟った。

インデックスが何かを呟く。
再び、『魔女狩りの王』は禁書目録の命に従い、神裂に襲い掛かった。
遠隔操作なのがまずい。ステイル本人が目の前にいれば、操作を奪い返すことも出来るだろうに。
「くっ!」
無様に『魔女狩りの王』から逃げる。
防ぐための魔術を使うことが許されない条件では、神裂にもそれしか手がなかった。
いや、唯一手はある。
なんの手加減もせず、全力の抜刀術をもって『魔女狩りの王』と少年達切り殺せばいい。
正確には、何の手加減も出来ないのだが。そうすれば何の障害もなくなって、晴れてあの子を助けることが出来る。
禁書目録は恐ろしい存在だが、単体ならただの非力な少女なのだ。
……だから。三年前、自分は彼女の傍にいたのだ。
「切らなければ、ならないのですか」
神裂は呟く。出来ることなら、と辺りを見渡す。
幸い『魔女狩りの王』は鈍重だ。次に襲い掛かってくるまでに退路を確保しようとして。
『魔女狩りの王』が突然進路を変えて、超能力者の少女に襲い掛かった。


「光子!」
神裂とは違い、あちらの陣営には魔術に対するジョーカーがある。上条の右手が『魔女狩りの王』の身動きをあっさりと封じた。
「そういうことですか。ルーンを書き換えた場所でしか、貴女は『魔女狩りの王』の制御を奪えないのですね」
「とうまがいればそれでも充分だけどね」
「そうですか?」
返事をするのと同時に七閃を繰り出す。
滑空する自転車と、神裂に向かっておかしな勢いで倒れこむ樹木を細切れにした。
どちらもあの少女の能力だろう。それで足止めをする気らしい。
「私の足止めが甘いように思いますが」
「もう終わったけど?」
上条が押さえていた『魔女狩りの王』が姿を消して、また神裂に襲い掛かる。ルーンは木にナイフで刻むもの。習字のような丁寧なものではない。
『魔女狩りの王』が正しくあちらを攻撃するのは少しの間だけ。
「ふっ! ……成る程、厄介ですね」
「当麻さん! 速く!」
「おう!」
三人は住宅街の信号のない道を抜けて、駅前大通りに抜け出た。閑静だった住宅路とは違い、いつもよりずっと少ないものの車の往来がある。
まさに今、人の気配が消えつつある場所のようだった。
「やっぱり。こんな大都市の駅前から五分で人を消すことなんで無理なんだよ」
「ってことは一旦逃げ切れたってことで良いのか?」
「楽観されては困りますね!」
『魔女狩りの王』を避けながら、こちらに神裂が追いすがってくる。もうすぐにあちらも大通りに出てくることだろう。
こちらが開けたところにいて、あちらが隘路にいる。この一瞬がチャンスだった。
「光子」
「ええ。分かっています」
婚后光子の能力は、豪快だった。
本当は繊細な能力の使い方もあるのだが、本人の性格のせいか、とかく『ぶっ放す』ことが多い。
今しようとしていることは、その際たるもの。

神裂はチラリと目の前の少女と目が合ったのに気づいた。
それで、何かを仕掛ける気なのだと看破する。戦い慣れのしない、分かりやすい視線だった。
先手を取られる前にこちらから仕掛ける、そう決めて踏み足にぐっと力を込めたところで。

ぶわっと、足元から突風が吹き出した。呼吸が止まる。
この風速ではフルフェイスのヘルメットでもして口元の風を緩めないと息も出来ない。
体に先んじて吹き上げられた長髪に痛みを感じながら、神裂はなすすべなく大空に舞い上がった。
――――やられた。
神裂は空で自分を動かす方法を知らない。落下までの五秒がひどく緩慢だった。
「凶刃を振るう貴女に、手加減はしませんわ。この子を傷つけたことを後悔なさい」
視界の外から、冷ややかな声が聞こえた。少女の声は、身の危険に戸惑っていた先日とは雰囲気が違っていた。
次の瞬間。
バシュゥゥゥゥゥゥゥゥッッッッ
圧縮空気が激しく空気をかき乱す音と共に、重量1200キログラムのそれが、持ち上がった。
「な……っ!」
「死なないように受身をお取りになることね」
神裂に出来るのは斬ることだけだ。だが切ってなんになる。運動量は切ったところで減りはしない。
目の前に迫る乗用車に対し、神裂に出来ることは何もなかった。

ガゴッ!!

神裂は、時速30キロで空を飛ぶ乗用車に、なす術もなく轢かれた。




ガヤガヤとしたショッピングモールを足早に駆け抜ける。
人払いが全く効いていないのか。それとも諦めたのか。夕暮れ時の駅ビルの中は帰宅中の学生達で一杯だった。
「ついてきていますの?」
「わかんないんだよ。魔術の気配がしないから」
「それは逃げ切れたって意味じゃねーのか」
「探してるのは間違いないから。それに追いかけるのが専門の相手から逃げ切ることなんて簡単には無理」
土地勘のある上条の先導で人ごみを突き進む。
長髪の女に対しては、あれから三台くらい車を住宅路の先にねじ込んで、道をふさいでおいた。
迂回したのか乗り越えたのか、その光景に立ち会うより先に三人は駅前に飛び込んでいた。
今のところ、あの赤髪の神父からもあの女からも、見つかっていないように思う。
もう目と鼻の先には、最上階にあるモノレールの駅へ通じる広場があった。
「まだ走れますの?」
「大丈夫だよ。光子こそ、まだ疲れてない?」
「ええ。大したものは飛ばしておりませんから」
インデックスのしっかりとした足取りにほっと一息をついて、再び前を向いて走り出した時、光子はドシンと人とぶつかった。
「ごめんなさい」
一言謝って、あとは無視する気だった。知らぬ人の心象が悪くなったところで、どうでもいい。
だが、その人から、声をかけられた。
「あ、婚后さん?」
「えっ……佐天さん!?」
「どうしたんですか?」
「いえ、その」
「みつこ!」
「ごめんなさい、今急いでいますの。お話はまた今度」
「え?」
佐天は友達と遊んだ帰りに、駅前をぶらついているだけだった。
急に会って驚きはあったが、できれば光子にいろいろと報告したかった。だが後姿はもう人影にまぎれ始めている。
――知り合いと一緒にいて、やけに焦ってるみたいだったなー。婚后さん。
この時間は五分に一度電車が来る。あんなに焦って一体どうしたのかと首をかしげた。
いや、焦りというよりはむしろ、緊張感に近かったような。
まあいいやと忘れようとしたところで、ふたたび背後からカツカツと足早な音を聞いた。
振り向くと、気持ち悪いくらいの赤髪の、長身の神父がいた。
終日禁煙指定の学園都市の公共スペースでくわえ煙草をするその姿は、衆目を集めずにはいられない。佐天も多分に漏れず、その神父を凝視してしまう。
……と、その神父が辺りを見渡して、光子たちがいる方向に目線を合わせて、すぐさま歩き出した。
直感で、佐天はその神父と光子たちが関係が有るのだと、そう感じた。光子たちは神父にまだ気がついていないように見える。
そして彼らの関係は、きっと平穏なものではない、そう佐天は判断した。
自然と次に佐天が取った行動は、思慮の結果というよりは、直感に近かった。
「婚后さーん! こっち!」
ぶんぶんと、探していた友達を呼ぶように手を振る。
それなりに声を出したから、近くの人たちがいっせいに佐天を見た。
もちろん、光子たちも。そして佐天の意図どおり、佐天以外の誰かを見つけたのだろう。
急に足取りを速めて、その場からいなくなった。
「チッ……」
忌々しそうな目で、神父がたっぷり三秒くらいこちらを睨みつけた。
それに対して目を合わせずに、あれーおっかしいなあ、という態度を佐天は繕った。
急いでいるからか、もとからそれほど佐天には興味がないのか、神父は目線を外すとすぐ光子たちを追い始めた。
そこまでして、佐天は自分の背中が嫌な汗で濡れているのに気づく。さっきの神父の視線は、なにか普通と違う、嫌な視線だった。
もし光子たちが困っているのなら何か手伝ったほうが良いかもしれない。
そう思いながら、しかし佐天は足が前には向かなかった。




「神裂、そっちは?」
「今、駅の改札にいます。彼らは今どこに?」
「間に合ったらしいね。こっちは今から広場に出るよ」
そう言った瞬間に、ステイルは広場に出た。中央のエスカレータを上れば改札だ。
階上にいる神裂と目線を合わせる。距離にして30メートルくらいの二人の間に、ちょうどインデックスたちを挟みこめた。
「悪いね。モノレールの旅はまた今度にしてくれ」
三人に聞かせるでもなく、そう呟く。ここを目指すであることは前日から予想できていたから、ここの地図は完全に記憶に入っている。
この配置で、次に逃げる位置はもう一つしかない。
少し遅れて三人は神裂に気づいたらしかった。慌てて進路を変えたのが分かる。
ステイルも神裂も、すぐには追いかけない。都合のいい方向に逃がしていくのにちょうどいい距離、というものがあるからだ。
逆に言えばそれを測れるだけの余裕があるという意味でもあった。
三人が広場を後にしてきっかり15秒後、神裂とステイルは合流した。
「さて、それじゃあ仕切りなおそうか」
「ええ。あちらも充分消耗してきているでしょう」
「そういえばさっき、随分と外で面白そうなアトラクションが見えたね」
空を飛ぶ車に轢かれるという貴重な体験をした神裂が、ふんと鼻を鳴らす。
まんまとしてやられたのことに少し自分で苛立ちを覚えているらしかった。
「……全身を打ちましたから本調子とは言えないですが、どこかを損傷したということはありません」
「そうか」
別ルートから上条たちを追い抜いて改札に先んじるくらいのことは、出来る状態だった。
神裂の受けたダメージついては、ステイルは問題ないと判断した。
これからは、振り出しに戻る、ということになる。
目の前の通路はエレベータと螺旋階段に繋がっていて、上に行けば袋小路、それを避ければ下に、つまりまた街中へと出て行くことになるからだ。
五分に一度、百人単位で人を吐き出す駅前を無人にすることはかなり無理があるが、人の流れに手を加えることは出来る。
彼らの逃げる先は人のいない、つまり『魔女狩りの王』とステイルと神裂、三人で立ち向かえる場所だった。
「エレベータがちょうどあったらしいね」
「こちらは間に合いませんね」
目の前で三人がエレベータに乗り込むのが見えた。15秒遅れて、ステイルたちもたどり着く。
「そう速くないことを祈るね」
「走って降りても追いつけるでしょう。扉の開閉は時間の掛かるものですよ。……ちょっと待ってください! ステイル」
「どうした、神裂」
ステイルは階段を下りようとして、立ち止まる。
「エレベータは上へ向かっています」
「……まさか、上に逃げたのか?」
このエレベータは一階と、駅のあるこの階と、そしてビルの最上階の展望台にしか止まらない。
つまり展望台に上がってしまえば、逃げ場がないのだ。非常階段で下りることは可能だろうが、それにしたって結局一階まで一本道。
「してやられたね。上と見せかけて下に行ったか」
「あるいは本当に上に逃げていて、こちらの予想を超える手立てがあるか、ですね。混乱をきたして愚策を選んだのかもしれませんが」
「二手に分かれるか?」
「そうですね。ただ、手の内を読まれているあなた一人では苦しいのではありませんか、ステイル」
「……嫌なところを突いてくるね」
「私が上に行きます。ステイルは下を探してください」
「わかった」
僅かな目配せ。マントを翻してステイルがその場をすぐに去った。
神裂は軽く息を整える。上に登りきったエレベータが、もうじき降りてくるところだった。




屋上展望台に出て一息つくほどの暇も与えられないまま、エレベータは再び下に降りて新たに誰かをまた、ピストン輸送してきた。
……いや、誰かとは言うまでもない。心当たりが一人しかいなかった。
「ああ、ステイル。こちらにいましたよ。……ええ」
手にした携帯電話で、ひとことそんな連絡を取る長髪の女。上条たちの後ろに、神裂火織が追いついた。
「それで、どうするつもりなのですか」
大きめの声で神裂が声をかけた。このビルの屋上はかなり広かった。
神裂のいるエレベータ前からここまで、一挙手一刀足の距離とはいかないだろう。
「別に。覚悟を決めてた、そんだけだよ」
「覚悟、ですか。捕まる覚悟をしてくれたのならいいのですが。無駄と知りつつ戦う覚悟でもしましたか」
真っ直ぐではなく、神裂は壁を伝うようにしながら上条たちに近づいていく。非常階段がそちらにあるからだ。
下に逃げられたところでステイルがいるのだが、神裂はもう、ここでけりをつける気でいた。
「ちげーよ」
上条は、不敵に笑った。……正直に言うと、ちょっと恐怖心を隠していた。
インデックスは祈るような仕草をしていた。祈りたい気持ちは、上条には分からないでもない。
そっと目を開いたインデックスが、上条を前から抱きしめた。
唐突の抱擁に、神裂は混乱する。
「……な、何を」
「何の覚悟を決めたかって言うとな」
上条がカチャカチャとベルトを伸ばしてインデックスに巻きつけて、素早く留めた。
二人は屋上の端から2メートルくらい離れたところにいる。上条が端に背を向けて、インデックスがビルの外を向いていた。
そのインデックスの背に、とん、と光子が触れた。
「マジでコレ聞いたときは怖いって思ったし、やっぱ実際にここに来るとビビっちまったんだよ。ちょっとそれで覚悟に時間がかかったんだ」
「酷いですわ。私、100キロ程度の質量を100メートル飛ばす時の誤差は5センチ以下ですのよ?」
「もうなんでもいいから早くして!!」
神裂はその言葉で、むしろ自分達が手玉にとられていたのだと悟った。
ついさっき、見せられたではないか。目の前の少女はトンを超える鉄塊でも飛ばせるのだ。人間など、造作もないことだろう。
「地図を見れば分かることですから、お教えして差し上げますわ。この一体には数キロ四方に渡ってビルが乱立していますの。私達がどれを伝っていくのか、せいぜい頑張ってご推理なさるのね」
「くっ……させません!」
「もう遅いですわ」
神裂は分かっていなかった。光子がインデックスに触れた瞬間から、気体のチャージは始まっているのだ。
常人離れした膂力で神裂が間合いを詰めるよりも早く、上条とインデックスは、空を飛んだ。
「いぃぃぃぃぃぃぃぃやああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
「うわぁぁぁぁ! ってインデックス! 落ち着け!」
「……だから大丈夫だって言ってますのに」
屋上から飛び降りた経験のある人にしかわからないだろう。
掴まるものが何もない空中から、街を見下ろすのがどれほど怖いことかなんて。
三人は、神裂を振り切って、空を伝って逃げ出した。
……あといくつも、これをやらなければならないのかと思うと、上条はゾッとした。




「ただいま。帰ったじゃんよー」
ガチャリと黄泉川は自宅の扉を開けた。
ようやく家に誰かがいて、ただいまというのが習慣になってきたところだった。
「あれ?」
部屋が、暗いのに気づいた。
さすがにもう明かりをつけないとやっていけない時間帯だ。
それに夕食の匂いもしない。こちらから要求こそしなかったが、子供達は毎日食事を作ってくれていた。
「おい上条、婚后、インデックス、いないのか?」
……結果は明らかだった。
きちんと掃除された部屋、片付けられた自分達の布団。彼らの私物は一つもなかった。
ここを出て行ったと、いうことなのだろう。
「あんの馬鹿野郎ども……」
警備員である黄泉川を信じられなかったのか、それとも迷惑を掛けたくなかったのか。
どうでもいい。――――無事でいろよ。
黄泉川は荷物もおかずに、再び街へと駆け出した。



[19764] ep.1_Index 10: ここに敵はいない
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/27 18:35
いくつものビルを飛び越えるうちに、インデックスがぐったりしてきた。
ヴァーチャルリアリティなりあれやこれやで、学園都市の人間は非常識に慣れているほうだ。
インデックスも魔術的な意味では非常識に慣れているだろうが、さすがに人に任せて生身で飛翔するという行為は気疲れするらしかった。
「平気か?」
もうそういう次元じゃないんだよ……」
インデックスは当麻の胸に顔をうずめたまま、もごもごとそう呟いた。
隣の光子の顔を一瞬気遣うが、まったく意に介していなかった。
それもそのはず。光子はそれを気にする余裕がないほど、疲弊していた。
「光子、そろそろ」
「大丈夫です。まだ、いけますから」
「……ん、分かった」
そっと、というには若干重たいどしんという音と共に腰から地面に落ちる。
地面というのは勿論どこかの屋上だ。さっきはビアホールの片隅に下りて悲鳴を上げられた。だんだん、着地の瞬間が荒くなっている気がする。
光子にとって長距離を飛ばすことと落とす場所をコントロールすることは大した苦痛ではない。
ただ、壊れないようにそっと物を「降ろす」には細心の注意が必要で、それが光子の集中力をガリガリと削っていた。
その光子に何もしてやれない苛立ちが当麻の中で募る。
右手はポケットに入れっぱなしだ。空中でうっかりインデックスの背中にでも触れようものなら、その瞬間から垂直落下が始まるのだ。洒落にならない。
「……ごめんなさい当麻さん。これが多分、最後になりますわ。
 これ以上はもう当麻さんたちをちゃんとコントロールできなくなりそう」
「ここまで来りゃかなり引き離しただろ。このまま行けば逃げ切れるはずだ」
「ありがとね、みつこ」
ニコリ、と光子はくたびれた顔で微笑んで、インデックスの背中に触れる。人間二人を持ち上げるだけの力が、その背中に加わった。
またインデックスの表情が苦しげになった。この瞬間は呼吸が止まるからだ。人間の体は瞬間的な力には弱いが、ゆっくり掛けていけばかなりの応力に耐える。
この発射の瞬間も、光子の精神力を削る作業の一つだった。
「――――ぷは」
「うし、これで終わりだな? 外すぞ」
「ん……」
「終わり、ですわね」
最後のビルに飛び移ってすぐ。光子が浅い息をつく。当麻はインデックスから離れて、光子を抱きしめに行った。
顎を伝う汗を指で拭ってやる。
「あ……ごめんなさい」
「いいって。お疲れ、光子」
「こんなの、大したとはありませんわ」
つんと澄まして強がる光子がつい可愛くて、頬と髪を撫でる。
ただ急いだほうがいいのは分かっているから、名残惜しくても慰撫するのはそれで終わりにした。
「とりあえず降りるか」
「ええ」
上条たちがいるのは4階で終わりのビルだ。
狙っていたわけではないが、階段なりエレベータなりを駆け下りるのに楽なビルだった。



下に降りると、幸いに大通りにタクシーがいくつも走っていた。一番先に呼び止められたのが、幸運にも無人タクシーだった。
乗ったのが誰なのか、誰か一人の学生証の提示が必要だが、余計な受け答えはせずに済む。
「お待ちになって。私が先に乗りますから」
「え? ああ」
光子を先に乗せて、奥から光子、当麻、インデックスの順に後部座席に乗り込んだ。
当麻の身分証をかざして行き先を告げると、タクシーは静かに走り出した。緊張をほぐすのに、数秒がかかる。
「なんとか、乗れたな」
「ええ……。当麻さん!」
ぎゅっと、突然光子に抱きつかれる。反対側のインデックスも当麻の腕を抱いて、もたれかかってきた。
「ど、どうした二人とも」
「良かった。二人をちゃんと怪我させずに、運べましたわ」
「ありがとな、光子」
「嬉しい。こんなにも自分の能力が誰かのためになったことなんて、ありませんでしたの。自慢には思ってきましたけど。でも、やっぱり大切な人のためになるときが、一番嬉しい」
「みつこ、ありがとね」
「ふふ。礼には及びませんわ」
当麻の胸の辺りで、二人が見詰め合ってそっと微笑んだ。当麻はそれで心が随分と癒されるのを感じた。
一人じゃないというのは、すごいことだと思う。
どんなに疲弊していても好きな子のためだから頑張れるし、その子が微笑んでくれば、疲れさえ吹き飛んでしまうものなのだ。
それは、絶対に一人では起こることのないサイクルだった。
「どれくらいかかるの?」
「えっと、どれくらいで着きますか?」
誰もいない運転席に向かって問いかける。スピーカーが抑揚のない声で『あと20分程度です』と返事をした。
あと20分は、タクシーに任せて心と体を休めることが出来る。その言葉に上条はほっとした。
上条自身は、出来ることのなど知れていると分かっていても、気を緩める気はなかった。
自分を頼って、安心してくれている二人がいるだけで、充分だった。
……同時に、良くないことだと知りつつ、光子の言ったその言葉に、嫉妬を覚える。
役に立っていないとまでは行かないが、上条当麻がこれまでずっと付き合ってきた、右手に宿る『幻想殺し』は、さっきは光子の邪魔になる存在だったし、刀を振るうことを主体にしたあの長髪の女に対してはまるで無力だった。
別にヒーローになりたいって訳じゃ、ないけどな。そう心の中で呟く。
両手がふさがれているから、頬でインデックスの髪に触れた。さすがに寝てしまうつもりはないのだろうが、かなりリラックスできているらしかった。
それを見て思いなおす。自惚れじゃなく、今二人の女の子が心の拠り代にしてくれているのは自分なのだ。
元から折れるつもりなどないが、それでも、自分が心折れてしまえば、きっと二人も崩れていくだろう。
「光子。好きだよ」
「……はい。ふふ」
「とうま。私にも何か言ってくれてもいいと思うんだけど」
「あー。好きだぞ? お前のことも」
「別に良いけどなんかみつこより言い方がぞんざいなんだよ」
「きっと照れ隠しですわよ。大丈夫。みんなが笑える未来を、手繰り寄せましょう」
「ん。そだね」
再び光子とインデックスが微笑み会う。三人は、じっと絡まりあって、20分の猶予を過ごした。



お金を支払って、タクシーを降りる。
動き出したときには夕暮れ時だったのが、今はもう、夕焼けが遠い空に僅かに残るだけだった。
二三学区そのものはセキュリティの塊なので、車で入ろうとすると厄介だ。だから降りた場所は、二三学区の近くの住宅街。
正規の入り口からはそれなりに離れた場所だった。
「なぁ、これ、乗り越えて大丈夫なのか?」
「ええ。そもそもこの広い学区の全域に監視の目を光らせるのはかなりコストがかかりますから。重要な施設の周りにだけ、重点的に監視網が敷かれていますの」
固体表面における気体分子の物性物理が専門の光子は、航空産業の中心地である二三学区とはそれなりに関係が深く、内情をよく知っているようだった。
常盤台中学きっての空力使い、その面目躍如といったところだろう。
「だから、このフェンスなんていい加減でしょう? 本命の滑走路の近くにはもう一重に険しい障壁が有りますわ」
がしゃ、と光子が金網のフェンスに手をかけた。イタズラをする子供への対策なのか金網の壁に返しがあって、上手く越えないといけない。
とはいえおざなりなものなので、越えられないようなことはない。
「じゃあ、これを登ればいいんだね?」
「そうですわ。あの、当麻さん。絶対にこちらを見ないでくださいね?」
「え? ……ああ、うん。わかった」
「こっちも駄目なんだよ?」
光子の貼り付けたような微笑に戸惑いを覚える。インデックスも光子の言わんとすることを理解していた。
登るときにも降りるときにも、光子の短いスカートは非常にきわどい光景を提供してしまうのだった。
インデックスは長いローブだから見えにくくはあるが、一度見えると胸元まで全部行ってしまう作りだ。
本音は極力出さないように努めながら、当麻は気にしていない風を装った。

ガシャガシャと音を言わせて揺れる金網に精一杯気を使いながら、暗い学区の境のフェンスをよじ登る。
住宅の並ぶ手前とは対照的に、これから行く先はだだっぴろい場所だ。
アスファルトは打ち付けてあるが、ひび割れから草は生えているし、殺風景な印象しかない。
「あの遠くに、機首が見えますでしょう? あれに、忍び込むのが目的です」
三人でフェンスを越えて、フェンス際のライトから遠ざかる。
もう一般人には見つかることのない場所だった。これから見つかるとしたら、学園都市の治安部隊だ。
そしてそれはインデックスと光子の社会的死を意味する。上条は失うものに乏しいのだった。
「見つかれば勿論終わりですわ。あそこに近づいてからは、絶対に私の言うことを守ってくださいね」
「わかった」
「うん」
「それまではどうせ見つかる理由もありませんし、さっさと向かいましょう」
そして、三人は歩き出した。学園都市の掟を破った、その第一歩目はなんてことがなかった。
見つかる心配の低い場所で、緊張感がなかったせいとも言えるだろう。
万が一に備えることは難しいことだが、一番体力のある自分がしっかりしなければと、当麻は言い聞かせた。


何歩目か、両手で足りる程度だろう。歩き始めてすぐの、すぐその時。
――――上条は左足のふくらはぎの辺りに、すっと何かが走る感触を覚えた。紙で指を切ったときに近かった。
「え? あ……ぐ、あああぁぁぁあ!」
「とうま!?」
隣にいたインデックスが当麻の声に不審がるより先に、当麻は足で自重を支えられずに、地面に倒れこんだ。
「不意打ちで恐縮ですが、これ以上先へ行かれると困りますので」
先ほどから、何度も聞いた声だった。姿はほとんど見えないが、誰なのかは聞くまでもない。
その追跡者の体の近くで、糸状の何かが、きらりと瞬いた。
神裂火織と名乗る、魔術師だった。




「当麻さん!」
「いぎ、が……」
熱い。左足がひたすらに熱い。ジリジリと当麻の理性は苛まれて、声は自制と関係無しに漏れていく。
急速にズボンが濡れていく感触がする。なぜ濡れているのか、当麻は察していた。
「心配には及びません。この程度なら死に至るまでには相当な時間がかかりますから。今すぐその子を開放していただければ、後遺症もなく完治しますよ」
「人を……切っておいて言うことはそれなの?」
「……ええ、それが何か」
神裂の反応は鈍かった。冷ややかというには切れの悪い答え。それでもインデックスの心の中に憎しみの炎を灯すには充分だった。
光子は一瞬周りのことを忘れたように当麻さん、当麻さん、と声をかける。
「だい、じょうぶだ。インデックス。いいから光子と先に行け!」
「とうま。それは出来ないよ」
「俺と光子の目的が何か、忘れるなよ。いいからお前は早く逃げ切れ」
当麻は膝を立てて、腰を上げようとした。だが左足に全く力が入らなくて、再び崩れ落ちる。
光子が支えるように体に腕を回す。当麻にじっとしていろとか、そういうことを言わなかった。
それはつまり、当麻が神裂の足止めをするという途方もない無茶を、呑んでいるということだ。
立っているのがやっとに近いが、上条はなんとか、神裂とインデックスたちの間に置かれた障害物になった。
「インデックス。走りますわよ」
「でも」
「でもじゃねえよ。良いからさっさと行け」
「……彼我の脚力差をよく考えてください。この遮蔽物のない場所でどうやって逃げ切るつもりです?」
「なんとでもして見せますわよ」
「やれやれ。神裂は優しいね。好きなだけ鬼ごっこに興じれば良いさ。その間に、僕はこの男を殺すよ。嫌なら逃げないことだね」
カチンと、ジッポを開く音がする。一瞬だけ長髪の赤毛が暗闇に瞬いた。
長い吐息は、紫煙を吐き出しているのだろう。煙草の小さな明かりがゆらゆらと揺れていた。
「とうまをこれ以上、絶対に傷つけさせないんだよ」
「馬鹿、違うだろ」
「違ってない。とうまの命と引き換えで助かるなんて、死んでも嫌」

当麻と神裂の距離は、およそ5メートル。インデックスはその間に、立ちふさがった。

「逃げずに立ち向かう勇気を、賞賛する気にはなれませんね」
「別に、敵に褒めてもらう趣味はないんだよ。そっちの人はルーン使いの十字教徒みたいだけど、あなたも?」
「ええ。……あまり詮索をされても困ります」
「もう充分だよ。貴女がもう主の御名も無原罪の懐胎をした御母の名前も忘れちゃった人たちなのは、分かったから」
「な――」
「ずいぶんと、あっちこっちの宗教を習合しちゃってるね。そっちのルーン使いより分かりやすいよ。貴女がカクレだって」



カクレキリシタン。
長崎の沖に点在する小さな島々にのみ生きながらえた、異質の十字教徒。
教えの記された聖書を失い、マリアという象徴を観音像に秘め隠し、祝詞(のりと)の中にオラショを偲ばせ、彼らはかろうじて信仰を守ってきた。
長い年月を経ていつしか正しい教えは失われ、形式上のみ受けいれたはずの仏教と習合し、もはや、彼らの自覚以外には、十字教徒であることを示すものが何一つない人々。
「なぜ」
「そっちの人が十字教徒なら、貴女もそうでしょ? なのに十字の一つも着けてないし、逆にケガレを忌避するアクセサリを着けてる。それだけ分かればあとは予想は簡単なんだよ。貴女がカクレだってことは。どこの宗派か知らないけど、西洋の教えとコンタクトを取ったのなら、正しい教えに帰依したら? それとも自分たちしか信じてないおかしな形の神様を捨てちゃうと、やっぱり祟りが怖いのかな?」
取り合ってはならない。
世界を殺す毒の詰め合わせ、禁書目録が囁く『魔滅の声<シェオールフィア>』はもう紡がれ始めているのだ。
唇の形すら見てはいけない。それだけで、神裂という一人の信徒の信仰がガラガラと崩壊するかもしれない。

体に繰り返し繰り返し刻み付けた、その挙動だけで刀の柄に手をかける。
鞘から刃は引き抜かない。ホルスターに手をかけて、ぱちんと鞘ごと外す。
刃渡り2メートルに及ぶ七天七刀は、鋭くなくとも長物として充分に役目を果たすのだ。

狙うはインデックスの鳩尾。話すのが困難になる程度に横隔膜を突いてやれば問題ないのだから。
視界から外したつもりで、インデックスの唇がどこかにちらついている。
いつもより切っ先がぶれてしまって戸惑う。もう、『魔滅の声』にやられてしまったのか。
――――違う。それより前に、自分はあの子を傷つけたのだ。
どんなことをしてでも救いたいと願った女の子をその刀で傷つけて、さらにもう一度振るおうとしている。
ちゃんと鞘に刃を仕舞ってあるくせに、ためらいが消えてくれなかった。
それでも充分素早く、神裂は突きを繰り出した。そのはずだった。

バシン、という音と共に鳩尾に目掛けて突いたはずの切っ先がぶれた。
婚后という名の少女が、闇雲に振り回した手に当たった結果だった。
再び神裂は腕を引いて、インデックスに突きの狙いを定める。

「無駄ですわよ」
「な?!」

バヒュッと音がして軌道が逸れた。もう初対面ではない。それで何が起こったのかは理解した。
神裂の手元から離れるように、七天七刀が荒れ狂う。
さして自慢でもない怪力で柄を握り締めていると、やがて鞘だけが遠くに飛んでいった。
神裂は歯噛みした。傷つけずにインデックスの意識を奪う術が、またひとつ失われた。
「超能力ですか」
「ええ」
インデックスが、神裂にだけ分かる言葉を呟き続ける。
意味は光子にも理解できるが、光子には何の意味もない言葉だった。
神裂が一瞬、呆然となった。
その隙を逃さず光子は、神裂の懐に攻め入った。
「やめておくんだね」
「くっ! かは……」
ステイルが横から割り込んで、光子の通ろうとした場所に拳を置いた。
光のないところに『魔女狩りの王』を顕現させて監視網に感知されるのを嫌った苦肉の策だった。
能力で加速していた光子は、腹部にその拳をまともに受ける。
肺からずべて、息が出て行きそうになった。
「光子!」
「あ、ふ……」
「格闘は専門外だけど、こうも見え見えだとね」
光子は渾身の力で腕を振るう。だが手は警戒されているのか、ステイルに当たることはなかった。
場慣れ、体格の差、そういうものを光子が埋めるには超能力しかない。
そして相手に触れるまでが難しいのなら、自分を加速するしかない。
「だから、直線的過ぎるんだよ。君の能力は」
ステイルは加速する光子から体一つ避けて、再び拳を通り道に置く。
根がお嬢様なのだ。なんの捻りもないカウンターで、光子はうずくまるように崩れ落ちた。
インデックスが心配げに一瞥して、しかし言葉を乱さずに、神裂にだけ効く毒を吐き続けた。
「だ、大丈夫、です。当麻さん」
「まあカウンターで沈まれちゃってもね」
「……馬鹿な魔術師さん」
「なに?」
「私に触れておいて平気な顔ですの?」
「何?」
別に光子は、手で触れたものにしか術を使えないわけではない。
経験に乏しい光子がどれほど浅知恵を捻っても、光子の手が届くことはなかったろう。しかし。
手で触ることは能力発動のトリガーとして優秀だが、お腹で何かに触ったって別に能力発動そのものは可能なのだ。
光子は数秒でステイルの腕に充分すぎる気体分子を集めていた。分子の運動速度は、人よりずっと早い。
そもそも空気中で音を媒介するのが分子運動なのだから、音速以上の速さを持っていることは自然と分かることだ。
ステイルの腕にはもう、重みを感じられるレベルの分子が集積していた。
光子は容赦をする必要を感じなかった。だから、人には決して用いたことのない威力のそれを、開放した。


多くの空力使いは空気を連続な塊とみなす。あるいは極稀な能力者が空気を粒の集合体とみなす。
それは神ならぬ人の身では、分子一粒一粒を見つめて制御することなど、到底あたわぬからだ。
だが、光子はそれらのどちらとも違っていた。婚后光子が制御するのは、分子集団の『可能性』。
一つ一つの分子がどう動くか、などという厳密なコントロールはしない。
分子から、好きなように動く、という可能性を奪う。ある一つの場所、固体の表面に留まってしまうように。
そうすれば分子は自然と集積されていく。そして溜めた気体を解放するときにも光子は可能性を束縛する。
ランダムな方向へ飛ぶはずの分子から可能性を奪い、99.99%の分子が同じ方向、個体平面に垂直な方向へと動くように仕向ける。空気の集積とコントロールしつつの開放、それが光子の能力だった。
分子一つ一つを制御せず、状態の出現確率を収束し、可能性を限定する。その可能性の名はエントロピーという。空力使いといえば流体力学の専門家、という常識に全くなじめない、異色の能力者だった。


ステイルがいぶかしんだ直後。
音速を優に超える、秒速500メートルで風がステイルの腕から噴出した。
悲鳴を上げる暇すらない。
ビシリという手の甲にヒビが入る音がステイルの耳に伝わるより先に、その手がステイルの胸元に向かって体当たりならぬ腕当たりをぶちかました。
ガホ、という肺がつぶれる音と共にステイルはごろごろと転がって、暗闇の奥に横たわった。
「……残るは貴女ですわね」
優雅に髪を払って光子は神裂のいた場所へそう宣告した。


ステイルのそれは確かに油断だったし、光子のこれも、油断だった。互いを読み切れない超能力者と魔術師のすれ違いだと、言えなくもないだろうか。
とすりと、傍にいるインデックスの胸元で軽い音がした。
気づけばそこには、長い神裂の髪が舞っていた。
「あ――――」
あっけない音と共にインデックスが気を失う。呼吸を奪って脳髄に的確な一撃。それでインデックスは堕ちたらしかった。
「インデックス!!」
「チ。邪魔です」
当麻が自由の利かない体でインデックスをそのまま奪っていこうとする神裂に抱きついた。
それを振り払う隙に、光子が神裂の体に手を伸ばす。神裂はその手から必死で逃げる。
幸い、インデックスを奪われることはなかった。当麻が精一杯インデックスを庇いながら倒れこんだ。

再び、神裂が二人から距離を取った。
あちらもこちらも、一人ずつがリタイヤ。だがそれは決して痛み分けではない。当麻はもう走れない。インデックスを背負って神裂から逃げ切り、さらには学園都市のセキュリティまでかいくぐるというのは、あまりに無理がある話だった。
「……もう、いいではないですか」
「ああ?」
「どうして、そこまでその子に肩入れするのですか」
「つらい目にあってる女の子を助けるのに、あれこれ理屈をつけないと、動いちゃ駄目なのか?」

馬鹿馬鹿しい。

「俺はてめーがわかんねえよ。どこの誰に命令されたのか知らないが、こんな女の子を酷い目にあわせるのに、どうしてここまでやれるんだ。アンタは、人をいたぶって楽しむような趣味には見えない」
インデックスを横たえて、ずるずると当麻は立ち上がる。
神裂に隙はない。体勢や周囲の状況への気配りだけではなく、意思にも揺らぎを見出せなかった。
ただ、灰色に意思を塗りつぶしたような表情に、すこしだけ物言いたげな色がついた。
「……事情はあるのですが。貴方に説明する必要がありませんね。そこをどいてください」
す、と剥き身の七天七刀を神裂は当麻に突きつけた。
インデックスの前に膝を着いた当麻は、その切っ先が真っ直ぐ上条の額を狙っていても視線をゆるがせなかった。
これまでの疲労のせいか表情に精彩を欠いた光子が、当麻の少し後ろでじっと様子を見ている。
何度か牽制の視線が神裂から飛んできている。不用意に動けば、当麻に危害が及ぶことが予想できて、自分から動けなかった。
「どいたら、どうする気だ?」
「以前も言った気はしますが、あなた方をどうこうする気はありませんよ。その子を連れて帰る気です」
「――――ハッ。連れて帰る、ね。インデックスは俺達の仲間だ。勝手なことをされちゃ困る」
ズルズルと、当麻はインデックスから離れ、神裂に迫る。
左足の痛みが引いている。それはむしろ危険なことで、普段の当麻ならきっと不安を感じたことだろう。
後のことなんて、考えにも浮かばなかった。
神裂火織まで、ちょうど2メートル。これ以上進めば、突きつけられた切っ先が頬辺りに刺さることになる。
す、とその刃を退けようと腕で触れようとしたところで。

ガキィィィン、という音が自分のこめかみの辺りから鳴り響いて地面が急に目の前に迫ってきた。

「当麻さん!」
「ごっ、あ……」
光子は退けられた当麻の代わりにインデックスとの間に割り込もうとして、ギン、と神裂に強い視線で睨まれて、足がすくんだ。
一瞬遅れて、どうしようもなく自分を恥じる。ここで自分が守らねばインデックスが悪い魔術師の手に堕ちると分かっているのに、足が前に出ない。
「彼を痛めつけていることについて苦情を受け付ける暇はなさそうです。ですが貴女とはまだ話が通じそうですね。貴女の感じているものは人として当然の感情です」
それは遠まわしに馬鹿にされているのと同じだった。
婚后家の直系として、常盤台中学の学生として、あるいは上条当麻の隣を歩く人として。正義が為されぬことから目をそむけてはならないと教えられているのだ。
これを不正義と言わずして何が不正義か。見栄とは、こういうときにも張るから許されるのではないか。
「ごめん遊ばせ。私もこの人と、志を同じくする人間ですわ」
「……くだらない面倒を、掛けさせないで下さい」
光子に触れると危険なことを神裂は理解している。だから、光子に近く出来ないくらいのスピードで刀を振るって、こめかみを峰打ちした。
もう一度、先ほどと同じ鈍い金属音が響く。悲鳴もなく、光子は崩れ落ちた。
「……最悪ですね」
皮膚が切れたのだろう。たった今峰打ちで倒した少女の頬にじわじわと血が伝うのが見えた。
少年の左足にはもっと酷い傷を負わせた。どちらの二人も、敵でなかったなら、好感を抱けるいい人たちだった。
インデックスを大切に守ろうとしてくれる、いい人たちだった。それを、こんなにも手ひどく傷つけた。
「本当に、最低の行いですね」
「そう、思うなら、なんで、やめねーんだよ」
「――――」
神裂が動くより前に足首をつかまれた。意識を飛ばすつもりでこめかみを打ち抜いたはずの、少年の手だった。
「魔術師ってのは相当えげつない連中だってインデックスは言ってたけど、アンタ、まともじゃないか。そっちのヤツはどうか知らないが、アンタはちゃんと人の痛みを分かってる。なのに、なんで」



負けられない、と当麻は思った。
常識も良識も持ち合わせたこの女が、一体何に心折れたのか知らないが、自分は折れてなるものか、引いてなるものか。
全く言うことを効いてくれない体をよそに、目線だけは神裂よりも強い意志に輝かせて、神裂を睨みつける。
神裂は無意識に、ほんの少しだけ重心を後ろに引いた。それは当麻には気づけないような極小さな変化でありながら、神裂の意思を押し返したという、大きな意味を持っていた。
「なんで。アンタはこうまでしてコイツを地獄に陥れようとするんだ!」
「……違う! 私はそんなことしてない!」
足をつかんだ腕を、神裂は蹴って振り払う。乱暴なそれは上条を軽く吹き飛ばした。
「私やステイルがどんな気持ちであの子を追っていると思っているのですか!」
「知ら、ねえよ。事情も話さずに切りつけてきたのはそっちだろうが」
「それは……っ!」
「いつの間にか『アレ』が『あの子』に変わってるよな。アンタらがインデックスの敵なら、なんで、そんな呼び方するんだろうな」
当麻は、少し前から感づいていた。インデックスの知識が必要なだけの人間にしては、気遣いが丁寧すぎる。
観念したように、神裂はボロボロの当麻から視線を逸らして言った。
「私達の所属は、『必要悪の教会<ネセサリウス>』といいます」
「それ、インデックスの」
その名は確かにインデックスの口から聞いた。敵対する魔術結社の名前などではなかった。
「ご存知のようですね。そうです、これはあの子の所属する場所の名前でもあります。あの子は、私とステイルの同僚にして――――大切な親友、なんですよ」
「……じゃあなんで、インデックスはお前達をどこかの魔術結社の悪い魔術師だなんて言ったんだ」
「あの子のこの一年を振り返れば、妥当な予測だろうね」
いつの間にか、遠い暗がりでステイルが起き上がっていた。
立つ気がないのか立てないのかは知らないが、足を伸ばして座っている。
とはいえ座っているから戦えないとは限らないのが魔術師だ。立っていても戦えない当麻とは違う。脱臼でもしたのか、不自然に右腕をだらりと揺らしたまま、ステイルは左手で器用に煙草に火をつけた。
「あの子の記憶を消してから一年、ずっと僕らは追いかけてきたわけだし、ね」
「記憶を、消した?」
一年前から、記憶がないと確かにインデックスはそう言っていた。それからずっと追われているとも。
「ええ。この子がそれまで持っていた記憶を、私達と一緒にいたという事実を、この子の頭から消し去りました。私が、この手で確かに」
「なんで、そんなことを」
「まあ、話す義理があるわけでもないけど。その子は一年に一度、記憶をリセットしないと死んでしまうんだよ」
ぷかりと、ステイルが煙草の煙を宙に浮かべる。
追い詰めた側の余裕なのだろう。神裂は少し離れたところに飛んだ七天七刀の鞘を回収しに行った。
「死ぬってなんだよ」
「完全記憶能力、というのがこの子に備わった特殊な才能でね」
「それで10万3000冊、だっけ、訳のわからねーことが書かれた本をあれこれ覚えてるんだろ」
「ああ。そこまで知っているのなら話は早い。この子は、もうこれ以上何も覚えられないんだよ」
「え?」
「あんまりにも沢山のことを覚えすぎて、もう頭の中は一杯。人生、今は70年くらいかな。70年分もくだらないことを覚え続けられるほど、この子の頭に容量はないんだ。だから何かを捨てていかないといけない。魔導書を捨てられないなら、過去を捨てていくしかないよね」
「だから、私は、あの子の記憶を一年ごとにリセットするんです。楽しい思いでも、つらい思いでも、何でも」
再び五体満足な神裂がインデックスを取り巻く当麻たちの前に戻ってきた。それは、確かに絶望的なサインだったはずだ。
だが当麻は意に介さなかった。もっと、問いたださねばならないことがあった。
「親友だって言ったよなお前。自分の親友からそんなにも大事なものを奪って、お前、それで平気でいられるのかよ! 何とかしようとか、そうは思えないのかよ!」
「思いましたよ! この子を助けられるのならと情報を集めましたよ!でも、これしかないんです。この子から記憶を奪っていくしか、方法がないんですよ。この子の中に『溶けて』しまった魔導書は、自分という書物が消えないために、ありとあらゆるプロテクトをかけてしまっているんです。この子から自分の記憶以外のものを奪う気なら、この子と同じ10万3000冊の魔道書を読んだ天才が必要になるんです」
それは自家撞着な結論だった。インデックスを救うには最低限、もう一人の『禁書目録』が必要になる。
神裂は説明が済んだとばかりに、一歩を踏み出した。
「話はもう終わりです。分かっていただけたでしょう。この子を、返してください」
足元のインデックスにチラリと目線をやる。気がつくと、光子がインデックスに覆いかぶさるようにしていた。焦点の合わないぼやけた目で、神裂を見つめている。
「どうして。この一年。インデックスの傍にいてあげませんでしたの」
光子がそれだけ言った。なじる様な一言だった。
後ろめたそうな感情が神裂の表情によぎった。
「何も、本当に覚えていないんですよ。この子は。どれほど忘れがたい思い出を作ったつもりでいても、写真を渡してもアルバムを渡しても、一年たてば、もう絶対に思い出せないんです。申し訳なさそうに、ゴメンとしか言わないんです」
「だから何だよ。また、思い出を作り直せば良いじゃねーか。一年で全てを忘れるんだとしてもそのたびにイチからでもやり直せばいいじゃねーか。それすらせずに何で一年も逃げ回るだけの生活なんてさせてんだよ!全部テメェらの都合じゃねえか! テメェらが勝手に見限って――」
「――うるっせぇんだよ、ド素人が!!」
当麻の言葉は鞘に入れた七天七刀の横殴りで遮られた。
インデックスから1メートル以上はなれた所に倒れこんで、その体に雨を降らせるように神裂が鞘を何度も突きたてた。
「私達がどんな気持ちで、あの子を追いかけているのか。あなたなんかに分かるんですか!? 何度でもやり直せばいい? あの子との別れを経験したこともないあなたにそんなことを言う資格なんてない!! どんな思い出を作っても、あの子はもう二度とそれを思い出せないんです。記憶をリセットする度に、あの子は何度も何度も、幸せを失うんです。一年後にそれが来るのを分かっているあの子に、それでも毎年幸せを与え続けろというんですか? ……私には、もう耐えられないんですよ。あの子の痛々しい笑顔を見ることが」
肋骨が、いくつか酷いことになっている気がする。まともに息が吸えなくて酷く苦しい。
だがもっと苦しいことは、他にある。
「なんで、俺と光子はこんなに殴られてるんだろうな?」
「おいおい、今更命乞いかい?」
神裂が怒りに身を任せている間、ステイルはずっと煙草を吸い続けていた。
足で踏んで火を消すこともしないで、先端がまだチリチリと燃えた吸殻がいくつも足元に転がっている。
ステイルにの気負いのない風を装った態度の奥にはくすぶった思いがあることを、それが告げていた。
突然その吸殻がボッと瞬いて一瞬で灰になる。
冗談めかして命乞いかと聞いたステイルは、言葉の裏で、本気で不愉快を感じていた。
「ちげーよ。そんなことがしたいんじゃない。純粋に聞いてるんだ。この場所に、インデックスを不幸にしたいやつが一人でもいるのか? 敵同士のヤツが一人でもいるのか? 傷つけあわないと幸せになれない理屈があるのか?」
ステイルも神裂も、当麻の言葉に反論しなかった。お互いに、悪意のある相手だという誤解はもう解けたのだ。
当麻は酷く傷ついた、否、傷つけられた体のことなんて忘れて、ただ、真実を告げた。
「ここに、敵はいないんだよ」
「……」
理不尽が苦しい。殴られたことではない。こんな馬鹿馬鹿しい殴り合いしか出来ない、自分達に怒りを覚えた。
「お前らだって、インデックスを助ける方法なんてもう見つからないってくらい探したんだろうさ。けど、人が多ければ開ける道はあるかもしれない。お前達二人が駄目でも、ほかに救い手がいれば、助かるかもしれない。なんでそれを、その可能性を模索しないんだよ。ここは学園都市だぞ」
「学生の貴方達に、何かが出来るとでも?」
「ここの学生は超能力者だ。確かに俺は無能力者だし、光子だって記憶を操るような能力はない。けど例えば光子の同級生には学園都市最強の精神感応能力者がいる。その子なら出来るかもしれない。それにそもそも学園都市は科学技術だって世界最高峰だ。『治療』できる可能性だって有る」
「そんな言葉じゃ、僕らの考えが揺るぐことはないよ。正直に言って、あの子の頭を切り開いて脳を弄るような科学者達に任せる気にはなれない」
「随分と酷い偏見ですわね。……当麻さん?!」
足元の傷とはいえ、失血量はそれなりだ。加えて呼吸がまともに出来なくて、視界が定まらない。
――――くそ、せっかく道が切り開けるかもしれないのに。インデックスの未来を、変えられるかも知れないのに
「救いたく、無いのかよ」
「これまでも救いではあったと、思っていますよ。少なくともあの子を死なせてはこなかったのですから」
「それが救いだって? お前それ本気で言ってるのか? インデックスを救ったってお前胸張っていえるのかよ?! なんでそんなにも力があって、そんなにも強い意思を持ってるのに、可能性をもっと探せないんだよ! アイツを幸せにしてやるために、なんでできること全部やらないんだよ!!!」
答えは無かった。
ふつりと、自分の意識の糸が切れたのが分かる。せめて、傍にいられるようにと、上条はインデックスに向けて倒れた。
光子、ステイル、そして神裂。意識の残った誰かが動くよりも先に。


パッ、と五人を車のライトが照らした。拡声器から音が聞こえる。
『そこにいる連中! 全員大人しくするじゃんよ!』
警備員の服を身に纏った、黄泉川愛穂だった。




[19764] ep.1_Index 11: 反撃の狼煙
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/22 02:31

目を覚ますと、そこは真っ白い部屋だった。窓の外には学園都市が見えている。場所を特定できるような風景はない。
自分が着ているのは、手術服とでも言えば良いのか、緑一色の安っぽい化学繊維でできたローブだった。
「あれ俺、なんで」
まるで何日も寝たように、現実味がない。
確か、俺は二三学区で光子たちと――
「そうだ! 俺はあの二人組と戦って、それで」
二人がいない。
自分がいるのは病院だろう。なら、二人はどうなったのだ。
慌ててベッドに降りようとして、足に包帯が巻かれている感触がするのに気づいた。
自分でも思い出すとぞっとなるくらい、酷い傷をしたはずだ。当麻は恐る恐る、布団をめくって左足を見た。
包帯でガチガチに固めてあった。ただ、指を動かしてみると問題なく動く。足首もスムーズに回る。
そっとベッドから降りてみると、それほど違和感なく左足は仕事をしてくれた。
チクチクとした痛みはあるが、激痛だとか、そういうのはない。
これなら、二人を探しにいける。そう思ってベッドから少し離れた扉に向かおうとしたところで。

ノックもなく、カラカラと音を立てて扉を横に引きながら、光子とインデックスの二人が入ってきた。
二人の顔は暗い。何かあったのだろうかと当麻はいぶかしんだ。
……自分が目を覚まさなかったのが理由だとはすぐに思い至らなかった。
「光子、インデックス」
「えっ?」
「え、当麻さん?」
当麻はすこし気まずかった。なんだかあちらの予想を裏切ったみたいで申し訳ないような気分だった。
光子もインデックスも、一瞬、呆けたようにベッドサイドの当麻を見て。
「当麻さん……!」
「とうま、とうま!!!!」
あっという間に二人に抱きしめられた。そしてそのままベッドに倒れこんだ。
当麻さん、当麻さん、とうま、とうま。
首筋に回されたのがどっちの腕なのかも分からないし、名前をこうも連呼されるとペットの犬になった気分だ。
なんでそんなにも、喜ばれるのかが不思議だった。
「ちょ、ちょっと落ち着いてくれ。なんか俺、死ぬはずの状態から生き返ったみたいじゃないか」
「縁起でもないことおっしゃらないで。当麻さん、どれくらい寝ていたと思っていますの!」
「そうなんだよ! もう、こんなに無茶して、こんなに傷ついて……」
「その、何日寝てたんだ?」
「ほぼ二日、ですわ。もうずっと目を覚まさなかったらって、私、心配で」
枕元にあるデジタルの時計には7月26日と書いてあった。時間は夕方というには少し早い、といった所だろう。
さすがに24時間以上意識を失っていた経験はないので、自分の体に不安を感じないでもない。
……というか、ほんの40時間やそこらで左足のあの怪我がどうにかなってるっておかしくないか?
「怪我のほうは、大丈夫ですの?」
「ああ。なんか、信じられないけど、折れたと思ったアバラもなんともないし、足の怪我もそれなりに治ってるぽいし」
「ここに連れてきてくださったのは黄泉川先生なんですけど、先生曰く、相当の名医だということらしいですわ」
「医者の腕っていうよりこれ物理に反してるレベルだと思うけど……まあ、再生医療の最先端ってこんなものか?」
医療は特許の塊であり、また科学のあらゆる分野の中でも特に倫理・道徳との折り合いが難しい学問だ。
学園都市の人間でも、学園都市の医療がどんな手法で、どんな治療を出来るのかをよく分かってはいなかった。
たいていの怪我と病気が治るので、あまり気にしないのだ。
「ほんとに痛いところとかないの?」
「かなり回復してると思う。それより、光子とインデックスは大丈夫だったのか?」
「ええ。ここの絆創膏も明日には取れるってお医者さんが言ってましたし」
光子がこめかみに貼った絆創膏を指差した。女の子が顔に怪我をしている光景は、なんとも痛ましかった。
そっと傷の近くに触れると、気遣われたのが嬉しいのか、光子が微笑んだ。
「傷、残るのか?」
「お医者さんに尋ねたら、『光学顕微鏡じゃ分からないくらいに修復してあげるから』だそうですわ」
当麻にはよく分からなかったが、要は電子顕微鏡の必要な、分子レベルの誤差で修復するということだった。
「インデックスはどうだ?」
「私は、どこも怪我はなかったから」
罪悪感をにじませて、インデックスはそう報告した。
確かに構図としては、巻き込まれた二人が傷ついて張本人が無傷だった、ということになる。
当麻はうつむくインデックスの頬をつねってやった。
「いひゃいよ、とうま」
「そういうの、気にすんなよ」
「うん……ありがとね、とうま、みつこ」
「それで、これからどうなるんだ? 何か分かるか、光子」
「二三学区進入の件は暴漢に襲われていたから逃げるためにやった、という風に処理したと黄泉川先生が言っておられましたわ。だから私達にお咎めはないんですけれど、近いうちにインデックスはどうにかしなきゃいけないって」
「それって」
「……このままではこの子は、警備員に拘束されることになります。私達は三人とも、病院から出ようとするのは禁止されていますわ。黄泉川先生は悪いようにはならないようにすると仰ってくれていますけど……」
どうにもならない事態に、光子は唇を噛んだ。インデックスは怒るでもなく光子を見つめていた。
「あの二人は?」
「あの場ですぐさま逃げて、それからは知りませんわ」
「そっちも問題か」
「ええ……」
本当ならもっと助かったことを喜び合いたい。明るい明日を、これからのことを語りたい。
丸二日を無駄にして、出来たことは少し事態を悪化させたことだけだった。三人で、晴れやかとはいえない気分で見つめ合った。




コンコンと、扉がノックされた。どうぞと当麻が返事をすると。
――――病院にまるでなじむことを知らない、赤髪の神父と長髪の日本刀美女が、部屋に入ってきた。




「やあ、目が覚めたのが見えたんでね、失礼するよ」
「失礼します」
飄々とした態度のステイル。日本人らしい仕草で目礼をした神裂。
どちらにも、悪びれた風はない。
「何しにきたの?」
三人の誰よりも早く、インデックスはその二人の前に立ちはざかった。
声に憎しみを込めて、目に怒りを灯して、当麻たちと神裂たちの間に線を引くように。
神裂とステイルがそれで怯んだのが分かった。
一瞬の戸惑いを捨てて、再びステイルが軽薄そうな笑顔を浮かべた。
「お見舞いさ」
「ふざけないで。貴方達が、とうまとみつこを傷つけたくせに!」
「下手に動かないことですわね。私たちは警備員の方々に、少々目をつけられていますの。この部屋で荒事があればすぐ面倒なことになりますわよ?」
光子の冷ややかな声がする。相手を自分と同じ人と認めないような、軽蔑の篭もった響きだった。当麻は二人の態度に少し、驚きを感じた。
「別にこちらに争う意図はないよ。ただ穏便に、禁書目録を渡してくれとお願いしに来ただけさ」
「まだ、そんなことを……!」
光子は怒りに言葉がつかえているようだった。その影でインデックスが視線を揺らした。
逃げ延びるチャンスは減る一方で、返すあてのない借りばかりが当麻と光子にたまっていく。
自分が諦めさえすれば、という提案が、魅力的に見えた。
「インデックス」
びくりと、その背中が震えた。上条に釘を刺されたのだと理解したのだろう。
その通りだった。諦めさせてやるつもりなんて、これっぽっちもない。
「光子も。ちょっと落ち着いてくれ。今すぐ戦おうってんじゃないんなら、話もできるだろ」
「当麻さん?! 当麻さんは、あんなにも酷い怪我をさせられて、まだこの狼藉物と話をする余地があると思ってらっしゃいますの?!」
光子の中で、当麻が傷つけられたことは絶対に許せないことだった。
話し合う必然性だとか、歩み寄る余地だとか、そんなものはこちらにはない。
だって、あんなに酷く人を傷つけられる人間と、同じ言葉で会話できるとは到底信じられないのだ。
「光子。あの時、俺は言ったよな。ここに敵はいない、って」
「……」
光子を静かに見る。物言いたげな目で光子は見つめ返したが、当麻の意思が変わらないのがわかって悔しげに視線を逸らした。
こちらの意思はまとまった。当麻は神裂のほうを向いて問いかける。
「それで、あんた達には俺の言いたいことは伝わったのか?」
「……ええ、そのつもりです。だから問答無用にこの子を奪うことはしませんでした」
それも可能だった、と言わんばかりの口ぶりだった。
「僕としてはその必然性を感じなかったけど。どうせ」
「改めてお願いします。禁書目録を、こちらに引き渡してください。貴方なら分かってくれるでしょう。私達はこの子を、悪いようにはしません」
神裂はステイルの言葉にかぶせるように、上条たちにお願いをした。
その言葉に嘘はない、と上条は思った。
そもそも一昨日の話が真実なら、神裂はインデックスの親友なのだから。
「なあインデックス。こいつらが、どこの魔術しか知ってるか?」
「さあ。十字教徒みたいだからローマ正教のどこかの支部だとか、その辺じゃないのかな」
インデックスが興味なさげに呟いた。目の前の二人が、僅かに動揺を浮かべた。
「上条さん、でしたね。その話は……止めていただけませんか」
「断る」
隠したままで、話が進むわけがない。
そしてインデックスを救う気なら、インデックスの敵のままではいけないのだ。
この二人に覚悟がないのなら、こっちから背中を押してやるだけだ。


「インデックス。こいつら、『必要悪の教会<ネセサリウス>』の魔術師らしいぜ」
「えっ?」


ガラガラと、インデックスのこの一年の生き方を決定してきた大前提が、崩れる。
インデックスは一瞬理解が及ばないという顔をして、魔術師二人を見た。
「……そんなはずない! だってそこは」
「お前の所属する教会だ、っていうんだろ?」
「そうなんだよ。とうまが何を聴いたのか知らないけど、この二人は敵なんだから、そんなことありえないんだよ」
「違うんだよ。一年前、お前の記憶を消したのがこいつらで、お前は勘違いでずっと逃げ続けてきたんだって」
「そんなの嘘だよ。だって、この二人には何度も追い詰められかけたけど、一度だって仲間だとか、そんなことは言わなかった! 逃げ場がなくて雨水を飲んだときも、どこかのお店の廃棄物を食べたときも、この二人はずっと敵だった!」
唇を噛むようにして、神裂がいたたまれなくなって目を逸らした。
その態度を、どう見れば敵だと思えるのか。だがインデックスには神裂たちは敵以外の何者にも見えなかった。
「なあインデックス。お前は、『必要悪の教会』の中でも、飛び切りヤバイ存在なんだろ? だから色んな魔術師が追ってくるって思ったんだろ? だったら、なんで肝心の『必要悪の教会』の人間が、お前を一年間もほったらかしにするんだよ?」

……それは、何度も気になったことだった。どうして誰も救いの手を差し伸べてくれないのか。
だけど、もし。ずっと隣にいたのだとしたら?
敵だと思って逃げ続けてきた相手が、実は救いをくれる人だったのだとしたら?

「こいつらは、お前の記憶を消して、そしてまた一年後に同じことをするために、ずっとお前に付き添っていたんだとさ」
「そんな、はず……ないんだよ。だってそうなら、どうして」
どうして、あんな目にあわせたのか、と。戸惑いのせいで言葉にならなかったそれは、容易に神裂とステイルに届いていた。突き刺さっていた。
記憶をなくしたインデックスに、それがお前のためだったのだ、と言っても仕方がない。
そして、これ以上は心が持たないと、そう思った自分達の弱さと向き合わざるを得なくなって、結局二人は、何も出来なかった。
「一年間、幸せな思い出を作っても、お前はそれを失う運命なんだとさ。けど最初からそんなものがなければ、とびきりの幸せもどん底の不幸もない、そういう生き方が出来る。そういう選択肢を、お前に与えたって事だ。別に悪意じゃない。こいつらなりに考えた結果なんだろうさ」
「知らない。私、そんな一年が欲しいなんて、言った覚え、ない」
受け入れられないと、インデックスは頭を横に振った。二人を仲間だとは、思えなかった。
今はそれでもいい、と当麻は思った。感情的に納得できなくとも、一年で記憶をリセットしなければ生きていけないなんていう、馬鹿みたいな呪いを解いた後に、ゆっくり失った時間を取り戻せばいい。
「事情は、一応これで説明したからな。俺たちは、いがみ合う敵同士じゃないんだ。これから、どんなことをしてでもお前の不幸を取り除いてやる。そのためにはこいつらとも手を組まなくちゃいけないんだ。……だろ?」

当麻は魔術師二人の目を、見つめた。
――――反応は、薄かった。

「……決して貴方の意見を馬鹿にするつもりはありません。ですがもう、遅すぎるんですよ」
「え?」
「あと二日。55時間くらいかな。それがこの子の『タイムリミット』さ」
「二日……だって?」
「一年前に記憶を消したといっただろう。そして一年しかこの子の脳が持たないともね。ちょうど一年まで、あと二日なのさ」
「そん、な」
「貴方の気持ちはありがたく思います。ですが。あと二日でこの子は貴方達を忘れます。二日ではどうしようもないでしょう。静かに過ごしてくれるのであれば、そのときまで私達は身を引きます。ですから、どうか、この子の命が失われてしまうような真似だけはしないで下さい」
当麻は二人が何をしにきたのかを、ようやく理解した。リミットを告げて、諦めてくれと言いにきたのだ。
知らずに逃げて死なせては、それこそ誰の幸せにもならない。だから、お願いをしに、正面から来たのだ。
「ちょ、ちょっと待てよ! 二日じゃどうにもならないなんて保証もないだろ? それに、この二日で無理でも、次の一年があればこの街なら」
「この二日で急ごしらえで対策をするのですか? それが、確かな策になりえると? そして仮に、次の一年をこの街で過ごすとして、あなた方学生にこの子を預ける理由がありますか?」
「……」
「そもそも、我々は『科学』をそれほど信用できません。世界中の魔術を探して、それでもどうしようもないこの子の完全記憶能力を、科学ならどうにかできると? ……この子の脳をクスリに浸して、メスで切り刻んで、機械に犯されても、この子の命を無駄に削るだけに決まってる」

馬鹿馬鹿しい妄想だ、と当麻は言ってやりたくなった。
だが、逆に科学の支配するこの街でどうにも出来ないことがあって、魔術にそれが出来るとして、はたして当麻は魔術を信じられるだろうか。きっと答えは、否だ。
どんな物理・生物的作用を持つのか訳の分からない儀式で、無駄に時間を使うだけだと思うだろう。
咄嗟に言葉を見つけられなかった当麻の代わりに、光子が口を開いた。
「この街は世界で一番科学が進んだ街ですけれど、その中でも一番進んでいるのが人間の脳を開発することですのよ。180万人もの被験者を使って脳のメカニズム解明、さらなる機能開発にいそしんでいます。それと同じことを、魔術はやってきましたの?」
「……」
「それに、随分と貴女の仰る科学とやらは猟奇的ですのね。この100年で生まれてすぐに亡くなる乳幼児の数が半減どころか100分の1にまで減ったことはご存知? きちんと食事を皆が摂れるように、肥料、つまり窒素とリンの化合物を安定供給したのは誰の功績かご存知? それまでの時代に、一体魔術は何をしていましたの? 科学は、人に牙を向くこともありますけれど、使い方さえ誤らなければ、ずっと魔術よりも優しいものですわ」
「……その言葉で、我々の考えを改めろといわれても、できるものではありませんよ」
「なら。この場に要れば良いですわ。私達は今から、あらゆる手を使って、解決策を探しますから。それが貴方たちにとって許せないことだと言うなら、そこで考えれば良いでしょう。……たとえ二日で叶わなくても、貴方達だって、この子を幸せにしてあげたいのでしょう?」
不信感。どちらの陣営もが相手に対して、それを抱いている。
手を取り合えば簡単なことが、往々にして出来ないのだ。人間には。
「とうま。みつこ」
「なんだ?」
「……私、二人のことを忘れるのは嫌だよ」
本音が漏れた、という感じだった。
インデックスは一年以上前の記憶を喪失している。だからこの突拍子もない話にも、リアリティを感じているのだろう。
「そうか。じゃあ、二日で何とかしないとな」
「なんとかなるかな」
「なんとかする。諦めちまえば、そこで終了だからな」
ニッとインデックスに笑いかけてやる。心の中に燃料を投下して、エンジンを回すのが何より重要なのだ。
打開策はいつだって動いているからこそ見つかる。同調するように、軽い感じで光子がそれに応えた。
「……じゃあ当麻さんは、テスト前はいつも試験を受ける前から終了していますのね」
「う、嫌なトコつくなあ光子は……」
「あは」
不安が心を押しつぶしそうな局面だが、インデックスはまだ自分が笑えることに感謝した。
二人がいてくれれば、絶望なんてものと自分は無縁でいられる。その幸福に、インデックスは小さく、心からの微笑を浮かべた。
「……ステイル」
「別に。僕は反対はしないよ。……あんな、微笑みを見るとね」
「率直に言って、私は自分があの輪の中にいないことに、やるせない思いはありますよ」
「そんなものは、過去に捨ててきたよ。どうするんだい、神裂?」
「私ももう、腹をくくりました」
そっと、二人は囁きあう。
もう分かっているのだ。二年前、目の前にある光子と当麻の席は、自分達のものだったのだ。
インデックスという少女の幸せを最後まで担ったのが自分達だったと、自負している。
二日という制約に縛られないほうが良いといえば良いのだ。
唯一つ、目の前にあるインデックスの幸せをまた、取り上げてしまうことだけに目を瞑れば。
――――二人にはそれが、出来なかった。
ステイルが、当麻たちに向かって、一歩、踏み出した。
「やってみろよ。超能力者。けど、この子を弄ぶなら必ず殺す。いつでも殺す。何度でも殺す」
「訳の分からないことを仰るのね。私達がこの子を徒に死なせると? 貴方こそ無理解の果ての勘違いで駄々を捏ねるようなら、容赦なく吹き飛ばしますわよ」
光子が身長差のせいで見下ろしてくるステイルに怯まず、そう言い返した。
当麻はここにいる全員を見た。
わだかまりを抱えていても、ようやく、インデックスを救うために全員が纏まれた。
ここは病院。ならやることはまず、医者に話を聞くことだろう。当麻はベッドサイドにある、ナースコールをカチリと押す。
小さな音で、五人がたたずむ病室に、可愛らしいメロディが響いた。


――――それは、魔術と科学が手を取り合って。
インデックスという女の子の一年に一度全てを失うなんていう幻想<ふこう>をぶち壊す、
そんな反撃の狼煙だった。



[19764] ep.1_Index 12: 黒いマリア
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/27 18:36
「……で、あたしらに情報がないか、教えてもらおうと」
「妥当な判断だね? 人に聞くのを躊躇わなかったのは、正解だよ」
窓際に置物のように立った神裂とステイル、そしてベッドに腰掛けた三人に、黄泉川先生とカエルみたいな顔をした中年の医者が向かい合っていた。
「こう言っちゃ悪いけど、要領を得ない説明だからな。こちらから確認していくじゃんよ」
今は一通り、事情を説明したところだ。先生も隣の医者も、なんだか微妙な表情をして、こちらを見つめていた。
インデックスを救うことが、可能だとも不可能だとも言わない。むしろ、なにか頓珍漢な答えを口にした学生を前にしているようだった。
「インデックスは、10万冊を超える書物を一字一句完璧に記憶している。そしてそれは脳の記憶容量を酷く圧迫する。現状でその占有率は85パーセントで、残り15パーセントを生命維持に使える。そして類稀な記憶能力のせいで、その15パーセントはきっかり一年で消費され、放っておけば死に至る。だから一年ごとに脳の容量を確保するために記憶を消している。なお、書物を覚えた部分の記憶削除は出来ない。……こういう現状を、なんとか改善したい、であってるか?」
ちらりと、神裂たちを見る。コクリと頷いた。
「前提が、ずいぶんとおかしいんだね?」
「どういうことですの?」
困ったというように頭をかく医者に、光子が尋ねた。
ふむ、と黄泉川は嘆息して、腕を組んだ
「婚后、お前常盤台の学生だろうに。まあいい、夏休みだから、今度上条と一緒に小萌先生の補習を受けるじゃんよ」
「はい?」
「記憶野が一杯になるなんてことが有ったとして、それで人が死ぬとお前本気で思うか?」
「……それは。呼吸は出来るでしょうし、食事も摂れるでしょうね」
しばし逡巡して、光子は答えた。
情報を記憶する細胞と、生きるためのプログラムが書き込まれた細胞は別物だ。
生命維持に必要な部分を侵食するような『記憶』行為を、人は記憶するとは呼ばない。
指摘されてみれば、たかが記憶が一杯になった程度で死ぬなんて、おかしなことだった。
「この場合記憶って長期の記憶だろう? 短期、中期的な記憶は保持できるから、ある程度の会話も可能だな。喜怒哀楽を失うこともない。それに今まで覚えたことは忘れないんだろう? ……お前達の言うことを最大限信じたとして、インデックスはそれなりに人間らしい生活を送れるじゃんよ」
ステイルと神裂は、難しい顔をしたまま黙っていた。
科学的にはそれはおかしいことになっている、という議論を、どこまで受け入れるべきなのか。
神裂は、インデックスに一つ、尋ねた。
「……頭痛は、ありますか?」
「さあ? どうかな」
「ちゃんと教えてくれ。……その、どうなんだ」
弱みを神裂たちに見せるのにためらいがあったのだろう。だが今はその逡巡は不要だった。
インデックスは、嘘がばれたような顔をして、一言こぼした。
「二三日前から、時々ちょっと痛む、かも」
「ちょっとどころではないでしょう。一年前も、そうでしたから」
「……」
「あなた方が言うことと、矛盾しているように思うのですが」
神裂がじっと黄泉川先生と医者を見つめて言った。
「矛盾、って言われてもな。そもそも85パーセントって数字の根拠はなんなんだ? 1冊100メガバイトで計算して……10万冊なら10テラバイトか? 記憶できる情報量で言えば、全シナプス数の1パーセントくらいだけどな、それ」
単純なフェルミ推定だ。100メガバイトという値に信憑性があるかは分からないが、テキストデータなら本一冊100メガバイトは見積もりすぎだし、画像データとしてもそんなものだろう。少なくとも、2桁も精度がおかしいことはないはずだ。
「学園都市ですら、脳細胞の何パーセントがどの機能を持つ細胞か、なんてのを完全には把握できてないじゃんよ。それを、お前らの誰が知ってて、誰が数字をはじき出したんだ?」
答えは、なかった。
「おい、答えろよ。魔術師」
「……根拠、と言われましても。我々もこの事実は突きつけられたに過ぎません」
「知らない、ということですの? どうしてそんなあやふやなことでこの子を追いまわして……」
「理屈なんてどうでもいいだろう。……実際一年に一度記憶を失っていて、頭痛で意識さえ保てなくなってくるこの子を見ているのに、憶測でああだこうだと言われてもね」
成る程、現場がまず成すべき仕事は問題解決であって、解決法の改善だとか、そういうのは現場に遠いことだから出来る、というのは事実だろう。
黄泉川も医者も、所詮は他人事だから、まるで現実に即していない憶測をあれこれ捏ね繰り回せる。現場の直感と理論屋の理屈が合わないのは、よくある話だ。
ただ、現場の人間、つまりステイルと神裂が、黄泉川の常識で言ってあまりに経験則に頼りすぎだった。
「別に難しいことじゃないじゃんよ。確かな事実の積み重ねにちょっとした推論を足しただけだろ」
「その確かな、というのがどこまで確かなのかは疑わしいね。科学に基づくと、なんていうと聞こえは良いけど、本当のところはこの子の頭に穴でも開けてみないとわからない癖に」
それは確かにそうだった。ある一個人の特性全てを、あらかじめ知ることは出来ない。
科学が把握しているのは、人間という生き物の平均的な姿と、平均からのずれ方だ。禁書目録と名づけられたある一人の少女のことを、あらかじめ知っているわけではない。
だが黄泉川は科学者の直感として、インデックスがこれまでの脳生理学の常識を覆す、人類初のケースだとは思えなかった。
もっと、これまでの科学が集めてきた経験的事実で、説明付けられるはずだ。
その態度は、科学を信仰する、つまり大概の事実はすでに人類が持っている科学法則で説明が出来ると、そう信じることを意味している。
だから異教徒である魔術師には、その言葉は届かなかった。


「僕からも言わせてもらうとね?」
口を挟んだのは、魔術師でも科学者でもない、医者だった。
科学寄りではあるが、科学が持つ哲学、信仰としての側面には頼らない。
あくまで人を死なせないことに最も重きを置く、そういう職業の人だった。
「考えてみるべきなのは、君たちらしい理屈で言って、この子を一年に一回、記憶喪失にさせるメリットはあるのか、だね」
「……答えにどんな意味があるかは分かりませんが。メリットはあるでしょうね」
「それはどんな?」
「この子を10万3000冊の書庫とするなら、その管理人が必要です。誰か一人がその任を独占してしまうより、一年の任期を与えたほうが健全と言えるでしょう」
「なるほどね。それじゃあ、科学寄りの僕の意見を言わせてもらおうか。記憶能力のせいで余命一年だという説明より、君が言ったような理由で、一年に一回何らかの処理を受けないと死んでしまう体にされてしまった、と捉えるほうがよほど自然だね」
ギクリ、と。神裂とステイルの顔が、はっきりと強張った。
「そ、そんなはずは――――」
「……あの女狐の好きそうなことだね。真実かどうかは分からないけど」
「しかし、我々に嘘をついて何の得が?」
「実に都合のいい存在じゃないか。あの子と仲良くなるのを避けているくせに、どこへ逃げるときにも文句一つ言わずずっと付き従って、僕らはあの子の監視だけをしている」
「それは……そうですが、しかし」
「別にこの医師の言葉を完全に受け入れたわけじゃない。ただ、一理ある、と言っただけだよ」
医者は、納得したように頷いて、もう一言添えた。
「そういう考えを裏付けられそうな方法は、あるかい?」
「裏づけ、ですか?」
「ああ。一年に一度処理をしないとこの子を死なせてしまう魔術がこの子に掛けられている、そういう仮説を確かめられる何かさ」
神裂が鋭い表情で、医者を見た。
「……ずいぶんと魔術に親しみがあるような言い方ですね」
「まさか。僕は医者だよ。人間にはさまざまな信仰を持つ人がいる。命を助けた上で幸せにするのに、必要な方便を沢山知っているだけさ。科学はいつでも人を納得させてくれるわけじゃない」
肩をすくめて、医者はそう言った。
超能力者を開発する科学者、学園都市の高校教師である黄泉川にはその柔軟性はなかった。
人の生死に近いところには、理性でカタのつけられない世界があるのだろう。
黄泉川は医者が魔術という言葉をそういう意味で使っているのだろうと理解した。
「神裂。この子の体に、なにか魔術を施されたような痕跡は?」
「……別にまじまじと見たわけでは有りませんが。そんな目立つものは、見えるところには……」
神裂は何度となく二人でシャワーや風呂を共にしたことがある。そのときに、特徴となるような刺青や聖痕は見なかった。
わざわざ見ないような場所だとか、内臓に直接彫られているだとか、そういうことなら分からない。
光子が医者を振り返って尋ねた。
「レントゲンとMRIは撮れますの?」
「ああ。でもMRIは駄目だね」
「どうしてですの?」
「金属が体に埋め込まれてたら発熱が大変だよ。刺青のインクに金属微粒子が入ってた場合も危険だね」
「何をしようとしているのですか?」
「切らずに体の中を見ようとしているのですわ。それで何か分かるかもしれませんでしょう? 仮にこの子の体に魔術が施されているとして、その場合どんな痕跡があるとお思いなの?」
「……そんなのあるかどうか分からないけど、人に施す術にはやっぱり刺青が多いんだよ」
まさに自分のことなのだ。気味の悪そうな顔をしながら、インデックスは答えた。その答えに光子は考え込む。
MRIは原子の磁化変化を調べることで生体内の様子をイメージングする技術だ。磁化の変化を促す磁場のせいで金属の発熱が促されると、40℃以上の熱に弱い生体に悪影響がある。刺青には発色のため金属粉が混ぜられることがあるから、安易には使えなかった。
レントゲン、X線CTは原理が違うからこの心配はない。超音波イメージングも可能かもしれない。
……問題は、そういった技術でインデックスの体を隅から隅まで調べられるか、という問題だった。
むしろ、まずは触診を行うべきなのだろう。
「まあ、必要なら言ってくれれば用意はするよ。……ところで、この子の上顎、軟口蓋の所に彫ってある魔方陣は、関係あるのかな?」
「えっ?」
インデックスがまず、一番驚いた。それはそうだ。知らないところで、自分の体にそんなものが彫られていたのだから。
神裂とステイルは硬直していた。別に、医者の言い分が正しかったのかは分からない。
ただ自分達が信じてきた前提がだんだんと不確かになって、全く別の可能性が存在感を増している。
当麻と光子は、インデックスを上向かせて口を開いた。医者がペンライトを渡してくれる。
意味など、二人に理解のしようもない。
だが、確かに、そう大きくもない紋章が一つ、インデックスの喉の辺りに、彫られていた。
「なあ魔術師」
「なんだい?」
「お前らならこの紋章の意味、分かるのか?」
「……君と違って、紋章の魔術的な意味を損ねることなく書き写すことは出来ると思うよ。意味を理解することが出来るかは、見ないとわからないね」
「そうか」
「だけどここには、10万3000冊の魔道図書館がある。僕が知らなくても、この子ならわかるかもしれない」
ステイルは、どうせ何も二日では出来ない、と思ったことを自嘲した。
この子を救うのに、あと二日もある。それは、とても希望に溢れた事実に思えた。


ステイルが一歩、インデックスへと踏み出す。
当麻はステイルと神裂に、インデックスに触れさせることを一瞬、躊躇した。
そして当麻以上に、インデックス自身にためらいがあった。
その隙を突くように、部屋にピリリリ、と携帯端末の音が響く。
「はい黄泉川。……また、か。分かったじゃんよ。こっちは人を減らしても大丈夫そうだから、すぐ行く」
黄泉川が事務的な口調で二三言を交わして電話を切った。そしてステイルと神裂を見つめる。
……事情の説明のなかで、結局この二人と共闘することになった経緯が、きちんと伝えられなかった。
「上条。こいつらと、一緒で平気なのか」
「俺たちは一つの目的に沿って動いてます。こいつらは俺を信じてるわけじゃない。けど、インデックスを助けたいってことについてだけは、俺もこいつらも信じあえる」
ふん、と馬鹿にするようにステイルが鼻で笑った。青臭く信じる、なんて言葉を使われたことに対する照れ隠しだった。
「……わかった。それじゃあたしはちょっと地震対策のほうに顔を出す。悪いけど、病院からは出ちゃだめじゃんよ」
「黄泉川先生。また地震ですか?」
一番敏感に反応したのは医者だった。
二日前まで黄泉川家で眺めていたテレビでも、盛んにその件を報道していた。
学園都市の、それも一部だけを襲う地震。震度は大したことがないから大きな問題にはなっていないが、普通の地震ではないことは確かだった。
「ええ。原因は特定されつつあるらしいですけどね」
「困ったな。僕も設備の点検をしておかなくてはならないね」
ここでは体で感じるほどの地震はなかった。だが精密機器の多い病院は、地震に神経質だ。
医者は当麻たちのほうを向いて、諭すように口を開いた。
「君達。何をするにしても、万が一の準備だけはしておくよ? ここは僕の病院だ。死なせないためのあらゆる技術を、ここなら提供できる。かならず相談してくれ」
神裂と、当麻と光子は、部屋を出て行く医者と黄泉川に向かって丁寧に頭を下げた。


「さて。それじゃあ、調べようか」
「……」
嫌味な笑みだとか、そういうのを全部消して、ステイルが酷く真面目にそう宣言した。
手には当麻の手からひったくったペンライト。インデックスが、きゅ、と上条の袖をつかんだ。
記憶を失ってしまった過去に、目の前の神父が仲間だったと言われても、インデックスの警戒感は解けてはくれなかった。
「インデックス」
「わかってる。とうま」
「……こうしましょうか」
光子が、ベッドに座るインデックスを後ろから抱きしめた。
そして当麻が、インデックスの顎に手を添えて、口を開いて上向きにさせた。
ステイルはペンライトを当てて覗き込むだけだ。
「随分と厳戒態勢だね」
「悪く思うなよ」
「別に構わないさ」
胸元からメモ帳のようなものをペンを取り出してから、ステイルはインデックスの喉にライトを当てた。

一瞬の硬直。

周囲の誰しもがその意味を窺う中、すぐさま我に返って、紋章の写しを取り始めた。ステイルは恐ろしく上手かった。中心に一文字あって、それを囲うように円が書かれている。その円はよどみのない真円を描いているように見えるし、円を縁取る細かな文様までも、正確だった。
「……描けたよ」
さして時間も掛からず、ステイルは写した紋章をインデックスの手のひらの上に置いた。神裂が身を乗り出してそれを覗き込む。
「……これで意味が分かるモンなのか?」
「君は黙っていろ。何も期待なんてしていないからね」
当麻は言い返してやりたかったが、全くそのとおりなので黙ることにした。
光子はインデックスを抱いた手を離さず、後ろから眺めた。
「私の知らないルーンが有るね」
「……ははっ」
乾いた笑いが、ステイルからこぼれた。軽薄な響きの癖に、怒りが篭もっているのが分かった。
「どうしました、ステイル」
「いやなに、このルーンは、僕が新しく付け加えた字なんだよ。力ある字を加えるってのは、かなり高度な技なんだけどね。……僕以外にこれを作ったルーン使いがいるとしたら、そいつは僕の読んだ書物なんかを全て知ることの出来る立場にいるんだろうね」
『必要悪の教会』に自分の知らされていないルーン使いがいるのかと笑ったステイルだったが、事態はもっと外道だった。
自分の編み出した術式を、丸ごと盗んで使った術者がいる。そしてそれを可能にする権限を持った人間も関わっている、そういうことだった。
「あの女狐ならやりかねないな」
「こういう手が好きそうだというのは否定はしませんね。……それでステイル。あなたはこれを読めるのでしょう?」
「ああ。当然だね。
 『姉妹よ、救済者が他のすべての女性たちよりもあなたを深く愛しておられたことをわたしたちは知っています。あなたが覚えている救済者の多くの言葉、あなたが知っていて、私達の聞かなかった言葉を私たちに話してください』
 ――――だってさ」
「……どういう意味ですか?」
「福音書の一節だよ」
インデックスが、素っ気無く答えた。ああ、とステイルが相槌を打つ。
「十字架に架けられ墓に埋葬された主が復活するくだりか。……こんなシーンだったか?」
「十二使徒に女性の使徒はいませんが」
原語のまま読めるステイルと違い、神裂はステイルの日本語訳を聞いただけだ。
別段聖書に慣れ親しんでいるわけでもない神裂には、ピンとこなかった。
いぶかしむ二人に、当麻は答えを急いた。
「これ、聖書の引用なのか?」
「……考えているところだ。せかさないでくれ」
「聖書の一節、ではないんだよ。聖書っていうのは、マタイ、マルコ、ヨハネ、ルカ、この四人の使徒が書いた福音書から出来てるの。これはこの四つとは違うね」
「これは外典からの引用なのですか?」
「むしろ偽典と言っていいかも。マグダラのマリアの福音書だね」
「マグダラの……あの罪深き女の守護聖人、ですか」
なるほど、と神裂は思った。あらゆる魔導書を取り込んだインデックスは、キリスト教的価値観から言って、まさに罪深き女だ。
「マグダラのマリアの加護を、利用した魔術なのですね」
7つの悪霊をイエスに追い出してもらい、ほかの婦人達と共に自分の物を出し合って、主イエスにガラリヤから付き従った女。
かつては娼婦であり、知性の足りぬ女という生き物が、それでも改悛をしたという象徴的な存在。
カトリックという教えの中で、売春婦達の心の拠り所であり続けた。
神裂は不愉快を、そっと心の中に押し留める。
誰かが穢れを引き受けなければならないから、それを引き受けただけなのに。
インデックスを罪深き人のように象徴することは受け入れがたかった。
「あなたもカトリックの人なんだね。とんだ勘違いなんだよ。マグダラのマリアが罪深い人だなんていうのは」
「え?」
「まあ、歴代のローマ教皇がそう認定してきたから、カトリックにとっては『そう』なのかもしれないけど」
「どういうことですか?」
いぶかしむ神裂を尻目に、インデックスは光子に問いかけた。
「キリスト教は、その成立時点でかなりばらばらに分かれちゃったんだよ。どうしてだと思う?」
「それは……やっぱり主義主張の違いではありませんの?」
「例えばどんな?」
「例えば……ああ、聞いたことがありますわ。キリスト教はユダヤ教の派生として生まれたわけですけれど、たしかユダヤ教はかなり女性を低く見る宗教だったようですわね」
地政学の授業で聞いた話が、どことなくリンクしている気がした。
「そうだね。礼拝所に女性は入ってはいけない、なんて戒律があったみたいだね。そういう考えが自然な社会に、もし女性の高弟がいればどうなると思う? 今まで皆を導いてきた救済者イエスが人としての肉体を失ってしまった後に」
「……仲たがいを、起こしましたのね?」
「確かなことはもう分からないけど。今のキリスト教を広めた12人の使徒の中に、女性はいないんだよ。聖書に載った『正しい』福音書にはね、マグダラのマリアは、主の使徒に奉仕した女性、つまり使徒の使徒であり、主が復活したときには驚き慌てて、取り乱しながら男性使徒に報告しに行ったって風に書いてあるの」
「マグダラのマリアが書いた福音書ではどうなっていますの?」
光子はそう尋ねた。
聖書に書かれたことは、確かに真実なのかもしれない。
だが、女性とは蒙昧な生き物であるという社会常識が前提となっていたなら? 女性はそのように書かれるべきという考えが普通だったなら?
インデックスは自らが収録した邪教の教えを、次々と明らかにしていく。
「主が亡くなって、教えを広めようとしたときに男性使徒はみんな怖気づいたの。異端の宗教である主の教えを広めれば、弾圧されるから。マグダラのマリアはそんな皆を慰めて、ほかの使徒たちに語られていなかった主の教えを伝えたの。そうしたら、ある男性使徒がこんな風に言ったって書いてある。
 『あの方がわたしたちには隠れて内密に女と話したのか。わたしたちのほうが向きを変えて、彼女に聞くことになるのか。あの方は、わたしたちをとびこえて彼女を選んだのか』
 って」
「時代や風土によって価値観は決まるものですから、悪いとは言えないのかもしれませんけれど。……女は馬鹿だと、そういう前提があるのでしょうね」
「ちなみに、こんなことを言った人のお墓、『使徒十字<クローチェ・ド・ピエトロ>』の上に、ローマ正教の大聖堂は建てられているんだよ」
仕方ない側面はあるのだろう。
水が少ないあの土地では、月に一度、血で汚れる女はさぞかし穢れて見えるのだろう。
日本ですらそうだったのだ。女という生き物がそんな役目を引き受けた『合理的な』理由を考えれば、自ずと女は男より罪深く、劣った存在だという答えが出てくるのだ。
マグダラのマリアと相容れなかったペトロは、その時代のユダヤ教徒の、ごく普通の価値観の持ち主だっただけなのだろう。
そして主に最も愛された女使徒は、いつしか元売春婦というレッテルが貼られ、教皇達によってそれが承認されてきた。
正しい過去は塗りつぶされ、罪深い女になった。
「……つまり、マグダラのマリアの福音書をわざわざ引用したのは」
「私の過去を否定する、そういう意味合いがあるのかも」
「ふうん、気が効いてるね。たとえこの子の紋章を見つけても、今までの僕らなら、この子を保護するお守りに見えたわけだ。本当は首輪なのにね」
面白そうな口調で、ステイルはそんなことを言う。目が全く笑っていなかった。
「それじゃあインデックス。この真ん中の文字は分かるかい?」
「ルーン文字だけど……アルファベットのMの借用文字だよね」
「マグダラのマリアのM、ということですか」
「どうかな。Mに象徴されるのは普通、聖母マリアのほうだろう。……ああ、そういうことか」
「何か分かったの?」
「マリアをルーン文字で、それも黒に金粉を混ぜた墨で書いた意味はなんだろうね。ヒントは、銀髪で分かるように君がケルトの血を引いてるって事かな」
つまらなそうにステイルがヒントを出す。
科学側の二人にも神裂にも分からなかったが、それだけで、インデックスは分かったらしかった。
「黒いマリア」
「ご名答」
「説明してください、ステイル」
「あなたは日本人みたいだから知らないかな。ヨーロッパの各地に、黒塗りのマリア像があるんだよ。キリスト教では黒は死の象徴だから、マリア像に黒を塗るなんておかしいよね」
北西ヨーロッパに黒人などいるはずもない古代。そんな時代から深い森に生えた古木の洞(うろ)や洞窟の中に残されてきた、黒いマリア像。黒塗りの下には金が塗られているものもある。
インデックスに彫られた紋章は、それを象徴していた。
「何故そんなことを?」
「君こそその心境をもっともよく理解する人だと思うけどね、神裂。キリスト教を押し付けられたケルトの民が、マリア像のなかに自分達の女神を隠したんだよ。いや、どこまでその認識が正しいかは君に聞いたほうが早いな。観音様の中にマリア様を隠した君たちは、それでもマリア様だけにすがったのかい? それとも観音様とマリア様、どちらにもすがったのかな」
「……」
「なんにせよ、マリアという存在に塗りつぶされて、ケルトの女神は名前すらも忘れられてしまったんだ。こう言えばもう、言いたいことはわかってくれたかい?」
「ケルト人のインデックスを、この名前すら忘れられた女神になぞらえている、と。そう仰りたいの?」
「よくわかっているじゃないか。全く、よく出来た仕掛けだね。この子を二重にマリアになぞらえる。過去を否定されて、いつしか娼婦になったマグダラのマリアと、過去を塗りつぶされて、いつしか聖母マリアに同化させられてしまった『黒いマリア』とにね。一人の人間からただ過去を奪うだけなのに、随分と凝った術式だ」
そして、術式を発動させるのは神裂火織なのだ。正しい教えから離れさまざまな宗教を習合させてしまった、天草式十字凄教の元女教皇。
これほどうってつけの人材も少ないだろう。
神裂が使ってきたのは、主の教えから遠い天草式が、それでも忘れないで保ってきたマリアの加護、それを利用する術式だった。
正当なカトリックであればあるほど、マリアの加護に頼ることはしない。もともとそれは正しい教えではないからだ。
そもそもマリア信仰は、歴代の教皇達に何度も否定されてきた。信仰の対象は主イエスであるべきで、その生みの母は無価値な人ではないにせよ、注目すべき人でもないとされてきた。
だが、民衆は常にその意に常に反した。なぜなら、マリアは母の象徴だから。子どもを産むという、その行為の象徴だから。
数字を見れば笑ってしまうほど子どもの死亡率が高い近代以前において、最も人が救われない思いをするのはわが子を失ったときだ。
だから、異端とは言わずも正統ではない、と何度教皇がそう認定してもマリア信仰は失われることはなかった。
そしてその信仰の根深さは、異端を取り込むときにも存分に発揮される。
古代ケルトにおいても、そして日本の九州においても、主イエスよりも強い影響力を、マリアという存在は担ってきた。主がその御名どころか存在すら忘れ去られる一方で、カクレキリシタンはマリアを忘れることだけはなかった。
そして今、その信仰の有り様を逆手に取られていた。神裂ならマリアの力に頼ると分かっていたから、マリアの紋章に呪われたインデックスの、記憶消去を託されたのだ。
一人では、神裂はその紋章の深遠な意味に気づくことはなかっただろう。そしてこの事実は、とても大きな意味を持っていた。神裂は、ステイルに問いかける。
「確認をとります。私はこの子の記憶を消しましたが、新しい記憶は何度もそこに上書きされていると思っていました」
「違うらしいね。この術式、『黒いマリア術式』とでも名づけておこうか。これはこの子の記憶を消し飛ばすものじゃない。徹底的に否定して、隠匿する術式だよ」
「つまり、それは」
インデックスが言葉を継いだ。
「この式を正しく解いたなら、私は今までのことを、全て思い出せるんだね」
神裂は、胸を押さえた。とめどなく沸いてくる希望が、胸につかえて苦しい。
ステイルが笑った。いつもどおりの嫌味な笑いを作るつもりだったのに、失敗していた。


言葉に詰まった魔術師二人の代わりに、光子がインデックスに声をかけた。
「上手くいけば、インデックス、晴れてあなたも人並みの生活が送れますわね」
心の中には、チクリと刺すものがあった。
全てを思い出せば、たった一週間を過ごしただけの自分達は、ちっぽけな存在になるだろう。
励ました言葉にキレがなかったことは認めるが、それ以上に、インデックスに喜んだ雰囲気がなかった。
「インデックス?」
「この人たちが私を助けるために頑張った人たちなら、それを忘れた私はどれだけ薄情なんだろうね。そうやって到底返せないような借りを、私は何人の人に対して作っちゃったのかな」
それは迷いでもあった。過去は時に重荷でもある。
人は誰しもその荷を下ろすことが出来ない。しかし換言すれば慣れているという意味でもある。
逆に今から背負わねばならないインデックスにとっては、過去を背負うことは漠然と恐ろしかった。
「……あなたに忘れられた私達ですが、それでも貴女を恨んだことなど、ただの一度たりともありはしません。きっと、歴代の、あなたの傍にいた人たちも全てそうでしょう」
神裂はそれに自信があった。それだけ、愛らしい少女なのだ。
その心に一年間触れた人間が、インデックスを恨むことなどありえない。それは確信できることだった。
「……で、結局なんとかなる、ってことでいいのか?」
「ステイル」
当麻の質問を、神裂はステイルに振った。
「原理は簡単なんだ。『黒いマリア術式』を解呪するには、『黒いマリア』の力を借りればいい。ただ、この便宜的な名前じゃなくて、ケルトの名もなき女神からマリアの要素をちゃんと差し引いた、本来の女神の力を借りられればいいんだ。それも大規模な魔力は必要ない。その女神をその女神として看做す、それだけでいいんだけど」
ステイルがそこで言葉を切った。ルーンやカバラのように、莫大な知識を必要とする術式ではない。そういう意味で簡単な術式だった。
……ただし、マリアと習合してしまう前の、古い女神の本当の姿さえ分かるならば。
神裂がインデックスを見る。インデックスが女神の真名を知っていれば、それで解決する問題だった。
インデックスは静かに首を横に振った。
「知らない、か。……真名に頼れないと長くなるけど、祈祷文を作ってみよう」
祈りを捧げるというプロセスで女神の力を引き出す。英国人には珍しくもない、ステイルもケルトの民の末裔だった。
正しい祈りさえ捧げられれば、力は問題なく発動する。だがその正しい祈りというのが難しかった。
ケルトの民は、大和王権が統一する前の日本のように、似たような原語と文化を持っていながらそれぞれ違う集族として纏まっているような、そういう有り方をしていた。
比較的詳細に史料の残った『トゥアハー・デ・ダナーン<ダーナ神族>』の物語のような、特定の集族のものに頼りすぎれば本質を見逃すかもしれないが、そういう具体的記述に頼らなければ女神の本質に迫ることさえ出来ない。
確実な呪文を構築するのが難しい術式だった。

「なあ、俺の右手で触っちゃまずいのか?」
当麻は、ついそう聞きたい気持ちを抑えられなかった。
「……最後の手段として、決して否定はしませんが。貴方の右手は何もかもを壊します。例えば時速60キロで走る車から、突然エンジンとブレーキを取り外せばどうなります?」
「そりゃ、事故るだろうな」
「貴方の右手がすることは、そういうことです。それでは戻る記憶も戻らなくなるでしょう。下手をすればこの子の命を脅かすことになるかもしれません」
「だから早まった真似だけはしないでくれよ」
「言われるまでもねーよ」
トントン、と地面をつま先で叩いて、無力感を紛らわせる。いま必要なのは不貞腐れることではない。
「いつやる?」
「今日やろう。時間はもう少し遅いほうがいいだろうね」
「インデックス。絶対に……救ってみせますから」
「……うん」
神裂の、万感篭もったその瞳に、インデックスはたじろいだ。それが今の二人の距離感だった。いや、インデックス側の距離感だった。
神裂はしまったと後悔した顔を一瞬見せて、あとは事務的な表情を装った。
「その、こういうのを聞くのはよくないかも知れませんけれど、失敗したらどうなりますの?」
「どうもならないか、正しい記憶封印の術式以外に晒されることでペナルティが発動して、この子の死を招くか、そんなところだろうね。まあこの子に魔力はないから、周りを巻き込むような派手な死に方はしないだろうけど」
「では失敗したら、この街の医療に頼ることになりますのね?」
「……そうだね、魔術で、咄嗟にペナルティを解呪するのは難しいだろうね」
「そう。じゃあ、あとで医師の方に伝えておきますわ」
「頼みます」
「で、場所はどうするんだ?」
「……聞いてどうするんだい?」
「どうするも何も、そこに行くに決まってんだろ?」
「正直、魔術を使う場所に君は必要ないんだけどね。その右手がどんな悪さをするか分からないし」
「……」
そっと、当麻の袖をインデックスが引いた。
「とうまと、みつこに隣にいてほしい」
「魔術には、必要ないだろう? 君だって分かっているはずだ」
「二人がいてくれたほうが、私はずっと頑張れるから」
インデックスに真っ直ぐ見つめられて、ステイルは苦々しげに目を逸らした。
「好きにしなよ。だが上条当麻。君はこの子からちょっと離れていることだね」
「……いいさ。理由は理不尽じゃない。従うよ」
話は、決まりだった。インデックスという少女が、死を迎えるまでにあと2日。
それだけの時間を残して、今日、全ての決着がつく。
みんなが幸せになれる未来が手繰り寄せられるように、当麻はそれだけを決意に。
インデックスの頬をつねってやった。
「むー! いひゃいってば、とうま!!」

****************************************************************************************************************
あとがき
『黒いマリア術式』を考案するにあたり以下の文献を参考にしました。
『マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒』 Karen L. King著 山形孝夫・新免貢訳 河出書房新社(2006)
『聖母マリア崇拝の謎 「見えない宗教」の人類学』 山形孝夫著 河出ブックス(2010)
『カクレキリシタン オラショ-魂の通奏低音』 宮崎健太郎著 長崎新聞新書(2001)



[19764] ep.1_Index 13: ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/28 22:34

おにぎりを頬張る。
時刻はもう夜といっていい時刻だった。今日がなんてことのない平穏な日だったなら、夕食を囲んで談笑しているところだろう。
しかし今は、そういう明るい気持ちにもなりきれなかった。あともう少ししたら、屋上に行くことになるからだ。
星の見える場所で、インデックスにかけられた呪いを解く。そういうことになっていた。今頃あの二人は準備をしているのだろう。
こちら側に出来ることは何もない。せめてその時まで、心を落ち着けて体を休めておくくらいだった。
「みつこ」
「どうしたの?」
「呼んだだけ」
「……ふふ。ちょっと待ってて頂戴ね」
三人は病院の個室にあるベッドに腰掛けて、売店で買った軽い夕食を摘んでいた。
インデックスは自分の分をさっさと平らげてベッドに転がっている。座っておにぎりを咀嚼する光子の腰に腕を回して、じゃれ付いていた。
「ごちそうさんっと」
「とうま」
返事をせずに、当麻はベッドに倒れこんだ。光子に抱きつくインデックスを、後ろから撫でてやる。
猫みたいにインデックスが目を細めた。
「ご馳走様でした。……もう、インデックスも当麻さんもお行儀が悪いですわよ」
そう言いながら、自分もインデックスの腕を解いて、ベッドに倒れこんだ。すぐさまインデックスが光子に抱きつく。
たいして年齢差のないであろう二人なのに、ちょっと年の離れた姉妹みたいだった。インデックスを撫でる光子と、目が合った。
「ほらインデックス。当麻さんが寂しそうですわ」
「ふーん」
「構ってあげたら?」
「やだもん。とうまはすぐほっぺたつねるから」
「照れ隠しですわよ」
「意地悪なだけだと思う」
酷い言われようだった。悪い子は、つねるしかない。
インデックスに手を伸ばすともう当麻の意図が分かっているのか、すげなく手を払われる。
「なんだよ。触ったって良いだろ」
「良くないんだよ。っていうかとうまは男の人なんだから気安く触ってもらっちゃ困るんだよ!」
「まあ、そりゃ俺は男だけど。触っちゃまずいような体か?」
「とうまの意地悪!」
光子より体型が子供なのを揶揄されると毎回ムッとするのだった。
「もう。当麻さん。そういう意地悪は女の子にとっては嫌なだけですわ。こういう時くらい、ちゃんと向き合ってあげればよろしいのに」
「いいんだよ。私にはみつこがいるから」
光子の言葉を受けて、当麻はふむ、と考え込む。
「インデックス。これからのこと、怖いか?」
「え?」
「強がりだって、悪いことじゃないから何も責める気はないけどさ」
「……怖くないって言ったら嘘になるよ。でもね、とうま」
光子に抱かれたまま、インデックスが幸せそうに笑う。インデックスが本音を偽れる悪女なら、相当の手練手管だろう。
本当に幸せを感じてくれている、自分達は幸せにしてやれていると、そう信じてしまう笑顔だった。
「こんなにもみつこととうまが私のことを気遣ってくれるから。それにあの二人も頑張ってくれてる。それを、不幸だとかそんな風には思えないよ」
「そっか。なあインデックス」
「うん?」
「こっち来いよ」
いつも、光子が抱きしめるインデックスを外から見る構図だった。
不用意に光子以外の女の子をべたべたと触るもんじゃないし、それで済ませてきたが、インデックスを、抱きしめてやりたいという気持ちは当麻にだってあった。
腕を開くと、疑うことを知らないインデックスが、ぽふりと当麻の胸の中に飛び込んだ。
「えへへ、とうま」
「インデックス」
ぎゅ、っと。息が苦しくなるくらい抱きしめてやった。
光子より硬い印象のある抱き心地。光子より小さくて、やはり幼かった。
「とうま、力強いね」
「そりゃ光子よりはな」
「ねえとうま」
「ん?」
「大好き、だよ」
ドキリと、当麻の胸が高鳴った。
ほんの一瞬だけ隣に光子がいることすら忘れて、インデックスをもっと抱きしめたくなった。

サラリと、細い指が当麻の頬と首に絡みついた。
光子が、当麻の同意を取ることもなく、いきなりキスをした。
インデックスの見ている目の前だった。

「み、光子……」
「あー、みつこ今、妬き餅やいたでしょ」
「だ、だって。当麻さんは私の恋人です!」
「別にとったりしないよーだ。みつこととうまは、お似合いだからね」
事実、光子の妬き餅は思い過ごしだ。光子と当麻が仲良くしていると、インデックスも嬉しそうだったから。
予定の時間まで、あと20分。互いの情愛を深め合うように、三人はベッドの上でじゃれあった。




医者と簡単な打ち合わせをして、当麻たちは屋上への階段を上る。
扉を開けて、物干し竿がいくつも並んだその先に、ステイルたちの影がうっすら見えた。
今日は晴天。明かりの豊富な学園都市の中だから余り星は綺麗に見えないが、それでも力強い光が、点々と見えていた。
「よう。待たせたか?」
「いえ、定刻までは我々もすることがありません。ちょうど頃合に来てくれましたね」
「もう準備は出来ていますの?」
「ああ。あとはその子に、ここに立ってもらえばいい。それだけさ」
空には月。地には、直径5メートルくらいの車輪模様に敷かれた護符。
「呪文は、もう練れたの?」
「ああ。ゴール語で文章を組み立てるのは無理だし、ラテン語だけどね」
ラテン語はケルトの民を攻め滅ぼした側だが、それは後世に資料を残した本人達だということでもある。
ラテン語から翻訳した英語で唱えるよりは、まだしも原点に近い。
「何かあれば、すぐ行くから」
「……とうまはよっぽどおかしいことがあるまでは、ちゃんとここで待っててね」
インデックスを中心として発動する、車輪の魔方陣よりさらに数メートル離れたところで、当麻はインデックスを見送った。隣に光子も残った。
カツカツとかかとを軽く響かせながら、インデックスは車輪の内側へと足を踏み入れる。そして中心点で、立ち止まった。
「それじゃあ、はじめるよ。だけどその前にもう一度確認しておこう。インデックス。君は今から僕の魔術に、命を託すことになる。失敗すれば死ぬ、と覚悟しておいたほうがいい。それは充分にありえることだ」
車輪のすぐ外に片膝を着いたステイルが、インデックスにそう尋ねた。まるで止めておけというような、否定的な響きさえ感じられる言い方だった。
事実、ステイルに迷いがないとは言えなかった。
後一度、インデックスが全てを喪失してしまうことさえ諦めれば、もっと時間をかけて準備をすることが出来る。
死ぬかもしれないリスクを、冒すべきだと断定は出来なかった。
「あなたは、失敗する気なの? 自信がないの?」
「こんな専門外の魔術に自信を持てというほうが無茶だとは思うけどね。……はは。今の君に言っても仕方のないことだけれど。僕は今この瞬間のために、魔術の腕を磨き続けたんだ。何にでも誓うよ。この命に代えてでも、失敗なんてするものか」
「ありがとう。貴方のことを覚えていない私に、そこまでしてくれて」
それはむしろ謝罪だったと思う。淡く笑って、ステイルはそれには返事をしなかった。
「こんな言い方をすると悪いけど、私は貴方の死を背負いたくはないんだよ。そういう風に誰かの命の上に生きていきたいとは、思えないから」
「こちらとて死ぬ気はないよ。……それじゃあ、やろうか」
「うん。とうま! みつこ! すぐ、終わるから」
「おー、途中で寝るなよ」
「そんな子どもじゃないんだよ! とうまのばか!」
ほっぺたをつねられるのも、こんな冗談を飛ばされるのも、インデックスは嫌いじゃなかった。
落ち込んだときだとか迷ったときに、こういう冗談でいつも気持ちをしゃんとさせてくれるから。
光子はニコリと微笑んで、頷いてくれた。
助かろうと、そう思える。あの二人がいなかったら、自分はこの魔術に頼ろうとしただろうか。リセットされて困るだけの一年になっただろうか。
絶対に光子と当麻のことを忘れたくない、その思いがインデックスを奮い立たせてくれた。

「――――O Fortuna imperatrix mundi」

ケルト、そしてローマの地に繰り返し現れる、出産、生と死、輪廻、車輪、そして運命をつかさどる女神の元型<アーキタイプ>。
一言一言を踏み締めるように、ステイルが祈るように手を組んで女神への祈りを唱え始めた。




ただの黒いインクで描いたルーン文字、それが光を帯びて、金へと変わっていく。
そして青色、赤色を経て黒い光を発し、そして金へと還る。
その中心で、インデックスは手を胸元に組んで、俯くように祈っていた。
朗々とステイルが祈りの文を読み上げる。隣では神裂が目を瞑って、こちらも祈っているようだった。
祈りは救い。どのような身分でもいかなる時でも、人は祈ることが出来る。
科学の言葉で言えば、それは無価値な行いだ。
科学を信じる人にとって、世界を作り変えるのは祈りではない。物質世界への主体的な働きかけだ。
だから当麻たちは祈ることが出来なかった。祈る以外に、すべきことを探してしまう。
当麻と光子は、徐々に光の強さを増していく魔方陣を、じっと見つめていた。

「――――Fortune plango vulnera stillantibus ocellis」

祈りによって熱を帯びた魔方陣が、光で飽和するように、ある瞬間を境に瞬き方を変えた。
地上からでも光が見えそうな、それくらい強い光を発している。
インデックスを含め、全員の顔を昼と遜色ないくらい見分けられる明るさだった。

「――――Ave formosissima, Ave formosissima, Ave formosissima」

車輪の外周に、少しづつ文字が現れ始めた。見た目からしてルーンというやつなのだろう。
はっと、インデックスが驚いたように唇を押さえる。口腔内に彫られた紋章が、反応したのだろうか。
魔方陣に現れた文字は、インデックスに刻まれた紋章を打ち消すものだ。それが完成したとき、解呪の魔術は成される。
再びインデックスが俯いて祈り始めた。

光子は、目の前の出来事に語るべき言葉を見つけられなかった。魔術を見たのは初めてではない。『魔女狩りの王』に何度も追われているのだ。
だが、儀式めいた、魔術らしい魔術を見たのは初めてだった。光を再現する分には、もちろん超能力でも可能だろう。
だが、心のどこかで理解できるのだ。これが超能力ではないことを。
この学園都市のみがたどり着いた一つの答えと、まったく矛盾する存在であることを。

七割、八割、そして九割。
もとより院長に許可を取って、屋上でやっている行為だ。邪魔が入るはずもない。
神裂も当麻も光子も油断はしていなかったが、警戒すべき外乱の影すら見当たらなかった。

――――そして、車輪を縁取るルーン文字が完成した。
魔方陣がひときわ強く瞬く。そしてステイルが何かを一言呟くと、シュン、という音と共に、魔方陣から全ての光が失われた。
成すべき仕事を終えたのか、神秘的だった何かが失われていくのを光子は肌で感じた。

「……うまくいった、のか?」

その呟きが聞こえたわけでもないだろうが、ステイルの目線が一瞬当麻と交錯する。
そして小さな頷きが帰ってきた。
術式そのものは簡単だ。そして手ごたえもステイルの中にはっきりと残っていた。
だから、術式が用を成さなかったという意味の失敗は無いと断言できる。
問題は、解呪が済んだ後のインデックスに、ペナルティがかかるかどうか。

俯くインデックスを四人は注意深く見つめる。
どうなったのか、それを確かめるのが怖くて誰しもが足を進められなかった。
インデックスが組んだ腕をだらりと下ろした。
そして、顔を上げる。

危険な兆候はない。足取りは少なくとも確かだ。
もしペナルティがかかっていれば、もうインデックスの体を蝕んでいていい時間だ。
だからステイルの中の期待が痛いほど膨らんでいく。
その目で見つめて、名前を読んで欲しい。微笑んで欲しい。
それだけで、全てが報われる気がする。

インデックスがまず顔を向けたのは、ステイルのほうだった。
それはきっと記憶を取り戻したからだと、そうステイルは思った。
当麻のほうではなかったことに素朴な喜びと優越感を覚える。
読み取りにくい表情で、インデックスが双眸を開くと。

――――生来の緑を塗りつぶして、血のように紅い魔方陣が両目に浮かんでいた。




「ステイル!」
呆けるステイルを我に返らせたのは当麻の声だった。
咄嗟に体を捻ると、キュッという、自分のわき腹が焼ける音がした。
「が、あああああああああ!!!!」
理解できない。今自分は何をされた?
拳銃でも撃たれたのだろうか。それは酷く納得できる答えだった。
もしかして、なんて自分の頭の中を巡っている可能性に比べれば。
「ど、うして……あの子が、魔術を使えるんですか!?」
それは一番最初に本人から与えられた情報だった。沢山の魔導書を読んだが、自分自身はその力を使えないのだと。
これは、その事実に反している。
そして説明の言葉はインデックスからはなかった。ただ、無機的なアナウンスが口から流れる。

「――――警告。第三章第二節。Index-Librorum-Prohibitorum――禁書目録の『首輪』の消去を確認。10万3000冊の『書庫』の保護のため、侵入者を迎撃します」

突きつけられたインデックスの指から、再び赤い光が飛ぶ。現代で言えば銃弾と同じような、目にも留まらぬ速さだった。
それを神裂は咄嗟に防いだ。
「神裂! ステイル! なにぼけっとしてやがる! どうすればいい? 何をすればインデックスは元に戻る?!」
「――っ! 発動しているのはこの子の緊急時を預かる『自動書記<ヨハネのペン>』です。これを止められれば」
「どうやれば止まる?」
「そんなこと……っ! 考えたこともなかったんです!」
次々と飛んでくる光の矢を、神裂は造作もなく弾き飛ばす。
埒が明かないとインデックス、いや『自動書記<ヨハネのペン>』は判断したのだろう。
ジロリ、と当麻を見つめたのが分かった。

「――――侵入者に対し最も効果的と思われる魔術の組み込みに成功しました。これより特定魔術『聖ジョージの聖域』を発動、侵入者を破壊します」
インデックスの瞳に浮かんだ魔法陣が一気に拡大して、目の前に投影された。直径は二メートル強。二つの魔方陣は互いに重なり合った。
「    、    。」

当麻と光子、いや神裂たちにも理解できない声で、『何か』をインデックスは歌う。
バギン、という空間がきしむような音と共に、黒いひび割れが空を這った。
それはまさしく雷の先駆放電であり、次の瞬間、二つの魔方陣から、黒い雷が奔流となって当麻に襲い掛かった。
「当麻さん!!!」
「お、お、おおおおおおあああああああ!!!」
誰もがその光を、人間など一撃で死に至らしめるものだと理解している。
当麻も勿論知っていた。だから、それに立ち向かう。自分がよければ誰に当たるかなんて考えたくもない。
ごく、手馴れた仕草で当麻は右手を突き出した。自信があった。自分の右手は、それが超常現象なら、神様の奇跡だって打ち消してみせる――――!



「『竜王の殺息<ドラゴン・ブレス>』って、そんな」
「どうしてこんな強力な魔術をこの子が……」

離れたところで魔術師達が呆然と呟いている。隣では光子が余波で尻餅をついていた。
ジリジリと右手が焦げていくような錯覚にとらわれる。秒単位で皮膚が削れていくようだった。
そして受ける圧力は、音速の風でも掴めばこうなるか、というような硬質な流れを感じさせる。
強風にガタガタと音を鳴らす窓のように、骨をへし折りかねない、嫌な振動を指が起こしている。
「おい! ステイル! 神裂! 寝ぼけてねーで起きやがれ!」
「……く! 上条当麻! あの子の紋章を何とかするんだ! 少なくともそれでこの攻撃は収まる!」
「そうは言うけど、これじゃ」
動けない。馬鹿みたいな圧力で、足を踏ん張って立っているのがやっとだ。
「当麻さん! 今!」
気づけば光子が、数十個のコンクリート塊を頭上に打ち出していた。能力で床にヒビを入れ、強引に砕いてはがしたらしかった。
雨の様に振るそれは当然ながらインデックスにとっての脅威。迎撃のために視線が逸れて、当麻は自由になる。
「ステイル!」
「気安く名前を呼ぶな!」
当麻は、ステイルがカバーしてくれることを疑わなかった。
神裂はもう光子の隣に駆け寄って、手ごろなサイズのコンクリート塊を量産している。


神裂火織とステイル・マグヌスは魔術師だ。普通の人が決して背負わぬほどの誓いを、魂に刻みつけた人々だ。
これまでもその名に違わぬよう、道を外さぬよう、精一杯やってきた。だが、これほど、今ほど、魂を震わせてその名を口に出来たことはなかった。
あの子を絶対に救い出す。幸せと笑顔を取り戻す。
「――――Fortis931<我が名が最強である理由をここに証明する>」
「――――Salvare000<救われぬ者に救いの手を>」
二人は同時に叫んだ。
そしてステイルが、胸元からありったけのルーンを取り出してばら撒た。
「顕現せよ、わが身を喰らいて力と成せ。『魔女狩りの王<イノケンティウス>』!」
インデックスに接近する当麻を、再びインデックスが捉えようとする。その刹那。何かに突き動かされるように当麻は頭を下げて転がった。
一瞬後に頭のあった場所を太い『光の柱』が薙ぎ、そしてそれを炎の巨人が受け止めた。

「『魔女狩りの王』の発動を確認。反抗魔術<カウンターマジック>、『神よ、何故私を見捨てたのですか<エリ・エリ・レマ・サバクタニ>』を組み込みます」

瞬時に『自動書記』が対応を練る。
『魔女狩りの王』を一度も見せていなかったなら、もっと時間が稼げたかもしれない。
もし、たら、れば。全部無駄なことだ。現にステイルは、もうインデックスの前で手の内を明かしてしまった。
仕方ない状況があったとはいえ、それはインデックスと対峙する上で最もやってはいけない愚だ。
『魔女狩りの王』が『竜王の殺息』を受け止めて数秒後には、もう、ジリジリと押され始めていた。
「……く。上条当麻! 急いでくれ!」
「――――! 上! 避けてください!!」
相反することをステイルと神裂が叫んだ。
空には幾枚もの純白の羽。直感でそれが酷く危険な、『竜王の殺息』と変わらないものだと気づいた。
それを迂回するように当麻は光子から見てインデックスの反対へと回る。
それはどうしようもない隙だった。視線の外では『魔女狩りの王』とそれを成す全てのルーンが引きちぎられていた。
「こっちですわ!」


光子は歯噛みする。
自分には援護しか出来ない。しかも、援護のためにばら撒いたコンクリートが明らかに危険そうな羽根に変わるのだ。
だけど、数秒でもインデックスの視線を上条から逸らさないと、近づくことすらできない。右手で触れることが出来ない。
病院の床を削られないように、もう一度数十個のコンクリート塊を空に飛ばす。密度がなるべく低くなるように、散り散りに。
インデックスの視線が空をあちこちと掃引した。視界にあったいくつもの雲が引きちぎれる。
学園都市のあちこちで予報から外れた局地雨が振っていることだろう。下手をすれば衛星だって打ち落としそうな威力だ。
神裂の用意してくれる速さより、自分の能力のほうが遅かった。あっという間にこめかみに浮いた汗を袖で乱暴に拭う。
レベル4、学園都市に在籍する空力使いの中でも、ほとんどトップにいるはずの自分の力を持ってしても、

「間に合って! 当麻さん!」

あと50センチが足りなかった。
もう少しなのに。あと少しなのに。
当麻にたった1秒の猶予を与えてあげられれば、それで全てが解決したのに。
奥歯が割れるんじゃないかというくらい、光子は歯を食いしばった。

「おおおおおおお!!!!!!!」

叫び声を上げていなければ押し返されそうだった。拮抗。神裂や光子は、二人の距離が近すぎて手を出せない。
あと5秒あれば、神裂辺りは妙案を思いついて何とかしてくれるかもしれない。
ただ、当麻にその時間がなかった。
ビキ、と小指の骨が割れた音がした。薬指ももう限界だ。
だが当麻は痛みを感じなかった。そんなちっぽけな痛みよりも、もっと救ってやりたい女の子が、前にいるから。

「俺はお前に誓ったよな。インデックス。お前といるせいで俺達は不幸になったりなんてしないって。言っとくけどお前もだぞ。俺たちといて不幸になんてさせるか! 呪縛なら俺が断ち切ってやる! お前が悪夢から覚めないってんなら、その幻想<ゆめ>をぶち壊してやる!!」

さらに耐えたその1秒で薬指が逝った。もう、光の奔流を押さえ切れなかった。
……だから押さえることを、諦めた。

「くっ、曲がりやがれえええぇぇぇ!!」

圧力に負けじと突っ張った体を無理矢理に傾けて、当麻は『光の柱』をいなす。
真横に伸びた巨大な円柱の側面を撫でるように、ザリザリザリと右手が壊れる音を耳にしながら、上条は最後の距離を詰めて、インデックスの魔方陣に手をかけた。
――――学校の宿題のプリントを破るより、軽い抵抗しか手に残らなかった。

「――――警、こく。最終……章。第零――……。『 首輪、』致命的な、破壊……再生、不可……消」

カッと開かれていたインデックスの真っ赤な瞳が、色あせると共に閉じられていく。倒れそうになるインデックスを、当麻は確かに胸に掻き抱いた。
当麻は気づいていた。もう身長と変わらない所まで降りてきた、沢山の白い羽根に。
逃げ切ることは出来ない。右手はピクリとも動いてはくれない。せめて、インデックスに触れさせるまいとした。

遠くでステイルと神裂の叫ぶ声がする。ただそれは絶望的に遠かった。
くそ、こんなところで諦めてたまるか。俺たちはこいつのせいで不幸な目にはあっちゃいけないんだ。
それは、この少女との一番大切な、約束だった。自分のせいで人が傷つけば、この少女はどれほど自分を呪うだろう。
記憶を取り戻して、これから幸せにならなければいけない少女なのだ。
その門出に、こんな理不尽はあってなるものか。
ギリ、と当麻は歯噛みする。諦めることだけは絶対にしない、そういうつもりだった。



「当麻さん! インデックス!」



ハッと周りを見渡す。その声は、やけに近くから聞こえた。当麻はその声を聞いて、ニヤリとなった。
「愛してる、光子」
後で冷静になって考えれば、そんなことを呟く時間はなかったはずなのだ。実際に呟いたのかどうかは誰にも分からなかった。
生身の人間が出してはまずいような神速の踏み込み。
光子は自分の能力に出し惜しみをせずに、死の羽根の舞うインデックスの傍へとたどり着いて、二人を抱きしめた。
そして、えげつない運動量をもってして自分ごと、その場から吹き飛んだ。
後にははらはらと舞い落ちながら消える、羽根だけが残された。








目を開くと、空が見えた。綺麗な星空だ。
体がズキズキする。擦り傷だらけで全身が痛いし、それ以前に右手が怖いくらい腫れている。
直ったと思った左足も筋肉痛を酷くしたような痛みがあった。
「当麻さん!」
綺麗な髪も調えてあった服もをぐしゃぐしゃにして、光子が抱きしめてくれていた。よく見れば隣でインデックスが眠っている。
「……なあ、問題解決ってことで、良いのか? ステイル、神裂」
「とりあえず『自動書記』による迎撃は止みました。というかほとんど『自動書記』自体も破壊したので、再びこの子が襲ってくることはないでしょう。そういう意味で、我々の身の安全はおおよそ確保されました」
煮え切らない言い方だ。それもそのはずだ。自分たちが何故こんなことをしたのか、当麻の頭から蒸発していた。
記憶の封印は、破れたはずだ。まだ目を覚まさず眠っているインデックスが起きたとき、それが本当の勝負なのだ。
「酷い怪我ですわね」
「まあ、あの医者なら何とかしてくれるだろ。それはそれで怖いんだけどさ」
「もうすぐ担架が来ますから」
気を失っていたのは一分やそこらだったようだ。こと頭への衝撃に限れば大したことはなかった。
「ん……」
「インデックス!」
僅かに漏れた声に、一番早く反応したのはステイルだった。
「おーい、起きたか?」
「インデックス?」
「とうま、みつこ……あ」
愕然と、何かに驚いたようにインデックスが目を見開いた。
くるりとステイルと神裂にも向けられて、二人の背中がビクリと震える。
息をすることすら忘れて、泣きそうな顔をして、こらえるように唇を噛んで、インデックスは数秒間、何かを耐え忍んだ。

そして。
おぼつかない足でふらふらと立ち上がり、座り込んだ光子の肩に捕まりながら、
まっすぐ、ステイルと神裂の二人を見つめた。
「ごめんね、って言うのは二人に失礼になっちゃうかな。……ありがとう。かおり、ステイル。ずっと私を見守ってくれて」

ひう、と女々しい吐息がこぼれた。
それが神裂のものだったからステイルのものだったか、当麻は分からなかったことにしてやった。

「インデックス。インデックス……っ!」

どたどたと、普段の足取りの切れの良さなんて微塵も見せないで、
神裂が倒れこむように、膝を突いてインデックスを抱きしめた。
「思い出して、っ……くれたんですか」
「うん」
「良かった。良かった……! ああ……」
ぽろぽろと幼子のように神裂は涙をこぼした。どちらが年上か分からなかった。
インデックスが、自分の知っている仕草そのままに、自分を抱きしめてくれる。
止め処のない喜びが後から後から溢れてきて、どうしていいか分からなかった。
「まったく、一年ぶりとは随分薄情だったね」
「ごめんね」
「……謝ってもらおうと思って言ったんじゃないんだけど」
「うん。ステイルこそ随分と時間をかけてくれたね」
「ごめん」
「……私こそ謝ってもらうことじゃないんだよ」
シニカルな口調が全然似合わない、少年みたいな笑い方だった。
ははっ、とステイルが空を見上げて息を漏らした。上向きは、一番涙がこぼれにくい向きだった。
その光景を好ましく、しかし寂しく光子と当麻は見つめる。
自分たちだけがインデックスの仲間だったついさっきとは、もう事情が全く違うのだ。
これからはインデックスは目の前の二人と歩んでいくのかもしれない。
自分たちは、ほんの一週間の付き合いだから。
「みつこ、とうま」
「インデックス」
泣きすがる神裂に一言ごめんと告げて、インデックスは、当麻と光子にしがみついた。
「約束、ちゃんと守ってくれたね。三人みんなで幸せになるって」
「おーい、体が結構痛いんだけど」
「ごめんね」
「馬鹿。いまのは謝るとこじゃないだろ」
「もう。みんなそれを言うんだから」
優しいインデックスの微笑を、当麻は可愛いと思った。陰影のないその表情を、これからも守ってやりたい。
光子を見ると、同意するように、笑ってくれた。

遠くの扉が開いて、ガラガラとストレッチャーが運ばれてくる。
誰のためかといえば、そりゃあ自分のためだろう。
ああ、さすがに痛くて眠い。
もういいやとばかりに、当麻は自分の意識を放り投げて、幸せそうに笑って、気絶した。

****************************************************************************************************************
あとがき
ステイルの唱えたラテン語は、Carl Orff作曲の世俗カンタータ『Carmina Burana(カルミナ・ブラーナ)』より引用しました。
それぞれ意味は、
「――――O Fortuna imperatrix mundi(全世界の支配者なる運命の女神よ)」
「――――Fortune plango vulnera stillantibus ocellis(運命の女神の与えし痛手を涙のこぼれる眼もて私は嘆く)」
「――――Ave formosissima, Ave formosissima, Ave formosissima(幸あれかし、この上なく姿美しい人よ)」
となっています。



[19764] ep.1_Index 14: 記憶回復の代償、そして未来
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/06 00:21


「部屋を間違えていませんか?」



当麻の第一声は、それだった。
困惑したような表情で、目の前にいる女性にそう尋ねた。
「貴方の容態を私が見に来るのはおかしいですか」
憮然とした神裂がそう返事をする。
実は目覚める直前におでこに手を当てて熱を測ったりなんてしたもんだから、内心では結構、神裂はドキドキしていた。
「いや、なんつーか。最初に見たいのはやっぱ光子の顔かなって」
「起きて最初にすることが惚気話ですか。……脳に障害でも負いましたか?」
「その台詞シャレになってないぞおい」
確証は無いが、光子が助けてくれなかったら、あの舞い散る光の羽根は当麻に何をもたらしただろう。
死か、あるいは四肢の消失や人格の破壊か。本当に笑えない。
今更にちょっと背筋が寒くなるような思いをしている当麻の隣で、これまでと変わった様子の無い当麻に神裂は安心していた。
「それで、インデックスと光子は? ……たぶん、そんなに酷い怪我は負ってなかったと思うんだけど」
「ご心配なく。経過観察――要は湿布の張替えに行っているだけです」
「そっか」
ほっと一息つく。二人に怪我が無ければ、当麻としては万々歳だった。
「そっか、ではありませんよ。貴方がそれほど酷い怪我をしては、あの子達が気を揉むでしょう」
「う、いやまあ、そうかもしれないけどさ」
「本当にもう大丈夫なのですか? 一応私も、治癒のための魔術に心得はあるほうだと自負しているのですが、貴方の体質に対しては全くの無力でして……。その、ここの医者を疑うつもりはありませんが、もう、なんともないんですか?」
ずい、と神裂が身を乗り出してそう尋ねてきた。慌てて上条は怪我をしたところを思い出して、確認していく。
マズイ方向にぽっきり折れていた右手の薬指と小指はガチガチに固められている。感覚が無いので、麻酔を打って手術でもされたのかもしれない。
ほかにも体中に絆創膏が貼り付けてあるが、どれも耐えられないような痛みを発するところは無かった。
「まあ、右手以外はほとんど大丈夫そうだな」
「そうですか」
神裂が、ふう、と安心するようにため息をついて優しく微笑んだ。
ドキリとする。背も高くてスタイルのいい神裂は、これまで当麻の前では厳しい顔や真面目な顔しか見せてこなかった。
よく考えれば、上条より年上の、ちょっと好みのタイプなのだった。
剣を持たず険のある表情を止めて、少し野暮ったい感じの私服にエプロンでもしていたら、見とれてしまうかもしれない。
まあ剣を振るっている時の怖い顔だと好みだと感じることも無いが、優しく笑われると、こう。いやもちろん一番好きなのは光子なのだが。
心の中で光子への言い訳を考えていると、それが届いたのか、当の本人がインデックスを連れて部屋に入ってきた。
「当麻さん! あ……」
「み、光子」
「しし、失礼しました。私はこれで」
「あ、おい」
「落ち着いたらステイルともう一度伺います」
ベッドに横たわる上条へと半身を乗り出していた神裂は、こちらの確認も取らずに、あわただしく部屋を出て行った。
「あらあら、私の知らないところで、随分あのひとと仲良くなっておられたのね?」
「ち、違うんだって光子! 今目を覚ましたばっかりで」
「目を覚ましてすぐに、口説き落とせるんですの? 私も当麻さんの手練手管に引っかかったのかしら」
「だから違うんだって」
「とうま、どういうつもりなの?」
慌てて光子に弁解していると、どうやらインデックスもご機嫌斜めらしかった。
「どう、って。ほんとにどうもこうもねえよ。つーか怒られてたんだよ。お前らに怪我がなくてよかった、って言ったら、俺が怪我してるせいで全然安心してなかったぞって」
当麻としては上手いこと言ったつもりだった。
……逆効果だった。
わが意を得たりといわんばかりに、二人は柳眉をきりりと吊り上げて、心配を不満に変えて当麻にぶつけだした。
「そうですわ! 本当に、本当に心配したんですから……!」
「そうなんだよ! ……私、全然覚えてないし、私が悪いんだけど、でもあんまり無茶しちゃ駄目なんだよ!」
「う、ごめん。いやでも、光子が助けてくれただろ?」
「あんなの、何度も出来る保証有りませんわ! 当麻さんが危ないって思ったら咄嗟に足が動きましたけど……。当麻さんの莫迦。もっとご自分のことお気遣いになって」
「そうは言うけどさ、光子。じゃあ、もう一度あんな場面があったとして、光子はどうする? 次は危ないかもしれないから、インデックスを助けないのか?」
「……当麻さんの意地悪。二回目があったって、そりゃあ、同じことをしますわ、きっと。でもそういうことじゃありませんの! もう、怪我をした人はちゃんと反省してください!」
理屈抜きで怒られた。ただ、自分を心配してのことだと分かるから、嬉しい。
傷つけた張本人が自分らしいと言うのは聞き及んでいるらしく、インデックスは攻める口調を途中からトーンダウンさせた。
そのほっぺたを、つねってやる。
「むー」
「もっと怒っていいぞ。お前はお前に出来る一番の選択肢をちゃんと選んだんだ。いちいち細かいことで気に病むなよ」
「でも、とうまが」
「だーから、いいんだって! ほら、結局、なんとかなったんだし」
「……えへへ、とうま」
「おう」
「みつこも。ありがとね。大好きだよ」
くしゃりと髪を撫でてやる。光子が後ろからインデックスを抱きしめた。
光子と当麻はそっと顔を近づけあって、軽いキスを交わした。
「ん……」
「光子、愛してる」
「ふふ。私もですわ」
「だんだん遠慮しなくなってきたよね、とうまとみつこ」
「だって、あなたの前で隠すこともないでしょう?」
「んー、別にみつこが見られて平気なんだったら私はまあいいけど。でもちょっと目のやり場に困るんだよ。私は一応、イギリス清教の修道女(シスター)なんだし」
目を泳がせながら弁解をする光子に、憮然とインデックスが答えた。
当麻は慌てて話を変える。
「それでインデックス。お前、これからどうするつもりなんだ?」
「あ……」
「やっぱり、あいつらと一緒にイギリスに帰るのか?」
「……」
「当麻さん。そんな急にはインデックスも決められませんわ」
光子にそうたしなめられる。ただ、それも本当にインデックスのことを想ってというより、自分の手元からインデックスが離れるのが寂しい光子自身が、時間を欲しているように見えた。
「ここにいたら、とうまとみつこに、迷惑かかるかな」
「えっ?」
インデックスの言葉は、二人にとっては意外だった。
「迷惑なんて事ありませんわ! でも、よろしいの?」
「うん……。最大主教(アークビショップ)が記憶を取り戻した私をどうするつもりか、分からないしね」
一度は記憶を全て手放す事を受け入れた。それは強制ではなく、禁書目録として生きると心に決めたときに、最大主教に施してもらったのだ。
あの時は、それで良かった。今は、それで良いというには、捨てても良いというには、大切な思い出を貰いすぎた。
「もう一度、記憶を消されるのか?」
「危険な書庫をきちんと管理するには、正しい方法なんだよ。それは」
「だからって、受け入れますの!?」
チクリ、とインデックスの心に光子の言葉が突き刺さる。咎めるような響きがあった。
「それが嫌なら、どうしたらいいと思う?」
「俺たちか、神裂たちか、それ以前にもお前の面倒を見てくれた人がいるんだろ? その、誰かのところに転がり込むになるってことか」
「うん……そういうことを考えたときね、みつこととうま以外に、頼れる人はいないんだよ」
「え? もちろん、私達は全然構いませんけれど、どうしてあのお二人では駄目なの?」
「魔術師だから。いざとなれば私の知識を活かして、危険な魔術を行使できるから」
10万3000冊を自在に使う魔術師、畏怖を込めて人はそれを魔神と呼ぶ。誰しもが憧れ、そして誰しもが恐れる魔術師だ。
イギリス清教の意思より優先するものを持った魔術師にインデックスを託すことは、リスクが大きかった。
インデックスの預け先になるには、魔術を使えないことが必要な条件になる。だから当麻と光子が適任だった。
「じゃあ、決まりだな」
「ですわね。身の振り方を考えませんと」
「え? あの、みつこ、とうま」
インデックスとしては、結構恐る恐る出した提案だった。
当麻にとっても光子にとっても、インデックスはイレギュラーな存在だ。
自分がいるだけで、今までどおりの生活は送れないだろう。それだけの迷惑を、背負わせるのは心苦しかった。
だから、心のどこかで期待していながら、快諾なんてしてもらえるわけがないと思っていた。
「住むところが一番の問題だな」
「学園都市のID発行のほうが大変だと思うんですけれど」
「そっちは神裂辺りに相談してみよう」
「それでなんとかなると良いんですけれど。それで、家のほうは……私は」
「常盤台は全寮制だもんな。そうなると、まあ、俺の家か」
「……」
光子の沈黙の意味が当麻には分かっていた。
光子に会える時間は限られている。もとより学び舎の園という男子禁制の世界で生きている光子だ。
そうなると、当麻は光子の何倍もの長い時間を、インデックスと二人っきりで過ごすことになる。
きっと何事もないだろう、と光子は信じている。だけど、信じる気持ちと疑う気持ちは心の中で同居するのだ。
不安に押しつぶされてしまう不安が、光子にはあった。
「住む場所って、そうだよね、一番大事な問題だよね」
インデックスはてっきり、これからも黄泉川の家で暮らせると思い込んでいた。だがそんなわけはないのだ。あそこはあくまで、間借りしているだけだった。
「……ちょっと、考えがないわけでもありません。でもまずは学園都市のIDが要りますわ。これが無いとどうしようもありませんし、警備員の黄泉川先生と知り合いである以上、インデックスがここで暮らすにはIDを作成するほかないでしょうね」
法の番人とは少し違うが、警備員は規律に厳しく有るべき立場の人だった。なあなあで、インデックスを置かせてはくれないだろう。
「インデックスがここにいるのが一番だって点であいつらと合意が取れたら、やれることも増えるかもしれないだろ。あとでちょっと聞いてみよう」
「そうですわね」
そろそろ昼食時だ。そのうちステイルと神裂は来るだろう。
三人はステイルたちや黄泉川先生が来るのを、上条のいる個室でじゃれあいながら待った。






インデックスがきょろきょろを外を見回している。
まさか高速道路を走る車に乗ったことがないのだろうか。
それについて尋ねると、
「"ハイ"ウェイがホントに高いところを走ってる国なんて日本くらいなんだよ」
とブリティッシュな答えが返ってきた。
ここは黄泉川の運転する車の中。空には茜色がかすかに残る、夕飯時だった。
面会時間を過ぎてすげなく病院から追い出されたインデックスと光子は、今日はまた黄泉川の家に泊めてもらうのだった。なんだかんだで数日振りの部屋だ。
イギリスへと飛んでしまって二度とその部屋には戻れないことを覚悟していたから、三人で幸せに過ごせたあの場所に戻れるのは二人にとって嬉しいことだった。
ただ、上条はいなかった。
「で、婚后。寮にはいつ帰るんじゃん?」
由々しき問題だった。外泊届けは、二日前に期限が切れている。
黄泉川の取り成しで無断外泊という重大な校則違反こそ回避できたものの、寮長に目をつけられているのは間違いないし、一週間くらいは謹慎が出てもおかしくなかった。
親にも怒られるかもしれない。甘やかされて育ってきたから、事実上、人生で一番の親に対する反抗だった。
……そういう現実問題を考えると、ちょっと頭の痛い光子だった。
まあ、一番の反抗は多分、当麻という彼氏と付き合い始めたことなのだが。
「明後日の朝に、と思っていますわ」
「明日はだめなのか?」
「明日の夜が、この子が突きつけられていた『本来の』期限ですわ。あの魔術師も見届けるそうですし、当麻さんも、当然インデックスもいます。そこに居合わせられないのは、嫌ですから」
「そうか。ま、お前の校則違反のレベルじゃ、今更だしな」
「そういうことですわ」
帰り際に、二人はステイル達と会っていた。インデックスの今後について話す為にコンタクトを取って来たらしかった。
当麻の病室で話したとおり学園都市に在留する旨を二人に伝えたところ、ある程度予想していたのか、それを受け入れて早速動き出したらしかった。
そしてその時に聞いたのが、明日の夜の予定だった。インデックスがもともとの期日を過ぎても健在なのを見届けたら、二人は学園都市を去るということだった。
「あの二人、インデックスをあまり引き止めませんでしたわね」
「……そうだね。たぶん、私が決めるべきだって考えてくれてるんだと思う」
あれほどインデックスを救おうと努力してきた二人だ。自分の気持ちを棚に上げて言うと、あの二人はもっとインデックスに傍にいて欲しいといっても許されたと思う。
だが、インデックスが全ての記憶を思い出したのなら、一年ごとに代わったインデックスの保護者全てが、平等なスタートラインに立つ。
だからこそ、インデックスに誰を選ぶのかと委ねたのだった。
「それにしても、魔術って言葉に、えらく馴染んだじゃんよ」
「ですわね」
嘆息する黄泉川に光子はため息交じりの笑いで同意した。あるわけがないと、そう思っていたものが今では自分の中でリアリティを獲得している。
今でも半信半疑なところがある。だが、もう魔術を鼻で笑って無視することはないだろう。
「あとどれくらいでつくの? おなかすいたかも」
「病院食は質素ですものね。あと20分くらいかしら」
「そんなところだろうな。けど晩御飯が出来るまでは一時間以上あるじゃんよ」
その一言でインデックスがげっそりとなった。黄泉川が差し出してくれた眠気覚まし用のガムはおなかの足しにはなりそうにない。
ぐでー、ともたれかかってきたインデックスに膝枕をしてあやしながら、光子は隣に当麻がいない寂しさを感じていた。
……夜、晩餐に当麻がいないときには、もっと寂しさを感じた。






「おはよ、とうま」
「ごきげんよう、当麻さん。お加減はいかが?」
「おはよう。二人とも。まあ手以外はもうほとんど大丈夫だ。手は固められてるからよくわかんねーんだ」
黄泉川家で一晩過ごし、朝一番に二人は上条の病室を訪れていた。
どうせ今日の夜までは落ち着かないし、それならここにいるのが一番だという結論だった。
社会人たる黄泉川の都合に合わせた光子たちも、することがなくて早く寝た当麻も、夏休みとしては充分朝早い時間から、しゃっきりと目が覚めていた。
「悪いんだけどさ、これからすぐに検査があるから、ちょっと待っててくれるか」
「あら、そうなんですの」
「ごめんな」
「ううん。当麻さんのベッドで二人で待ってますわ」
「……あ、うん」
「どうかしましたの?」
当麻が歯切れの悪い返事をした。理由に特に思い当たらない。
座り心地の悪いソファよりはインデックスも自分もこちらのベッドに腰掛けるほうが楽だった。
別にベッドに座られるのが嫌だということはないだろうと、思う。隣のインデックスも首をかしげた。
「ベッドで、彼女が待つってさ」
「え……あっ! もう! 当麻さんのエッチ!」
「とうま何考えてるの……」
「そうですわ! 私達って私言いましたわよね? まさか当麻さんインデックスまで」
「馬鹿! 違うって!」
結構光子はエッチな話に免疫がないのだった。それでいてキスのときとか、表情が中学生と思えないくらい大人びていて、当麻はつい惹き込まれる。
「うー、みつこ。とうまはエッチだからこの部屋にいないほうがいいんだよ。ここにいたらうつされるかも」
「人を変な病原体の保持者みたいに言うな」
「むー! ほっへたはあめあんだよ!」
頬をつままれて呂律が回らないままインデックスは抗議する。
摘んだまま、当麻が手を頬からビッと離すと、歯を見せてぐるぐるとインデックスが唸った。
「とうま。怪我は治ったんだよね?」
「え? 今から検査だけど」
「治ったんだよね?」
返事を聞いちゃいなかった。
靴を脱いだかと思うと、すぐさまインデックスがベッドの上に上がって、掛け布団の上から当麻にまたがった。
ちょうど当麻の腰の上に、インデックスが腰を下ろした位置関係だった。
「お、おいインデックス」
当麻の戸惑いは、インデックスが怒っていることにではなくて、きわどい体位にインデックスがいることに起因していた。
それにまったく気づかず、インデックスはキシャァッと鋭い歯を見せて。
「止めろって、おい、あいででで! 痛い、痛いって!」
「これは仕返しなんだよ! いつもいつもとうまはみつこには優しくするくせに私にはいっつもいっつも意地悪ばっか!!!」
「そ、そんなことないだろ! それに光子は彼女だ!」
「別にみつこといちゃいちゃしてもいいけど私にももっと優しくして欲しいんだよ!」
文句を雨あられと降らせながら、インデックスはガジガジと上条の頭皮を削っていく。
ちょっと健やかなる毛髪の育成が心配になる当麻だった。
「わ、わかったわかった。じゃあ何すればいいんだよ? 光子みたいにキスしろってか?」
「え――――」
勿論、冗談だった。冗談ぽく聞こえるように言ったつもりだった。
だというのにインデックスがピタリと硬直して、さっと頬をピンクに染めて、誰もいない窓のほうを向いた。
隣にいる光子が頬に手を当てて、ふう、とため息をついた。
「あらあら当麻さん。とてもおもてになる当麻さんは、私一人ではやっぱり満足ましていただけませんの? よりによって、インデックスだなんて。むしろ勇気があるって褒めてあげるべきなのかしら」
「い……いやいやいや! 違うんですよ光子さん! 今のは、決して」
「……とうまのばか」
ちょっぴり顔を赤くしたまま当麻のベッドを降りるインデックス。
貼り付けたような朗らかすぎる光子の笑顔が消えるまで、当麻はひたすら謝りとおした。



当麻のいないベッドで、光子とインデックスはごろごろする。
検査のためについさっき出て行ったばかりなので、当麻の温かみと、匂いが残っていた。
インデックスが枕をぎゅーっとしているのが光子は気になった。
それは自分がしたい。というか、まさかとは思うが当麻の匂いを求めて抱きしめてるんではなかろうか。
「その枕、そんなに好きですの?」
「え? 別にそんなことはないけど。光子はベッドで横になると抱きつくもの欲しくならない?」
「いえ、あまり……」
なるほど、と光子は納得した。
寝ている間にインデックスに抱きつかれた覚えが、インデックスと同じ家で寝た夜のと同じ回数分だけあった。
二度ほど、あろうことかインデックスは当麻のほうに行こうとしたこともあった。
どうも悪気がなさそうだったので、あまりやきもきせずにきたのだが、それは当たりらしかった。
まあ、インデックスが本気で当麻に気があるのなら、自分はインデックスと一緒にはいられないだろう。
インデックスは美人だ。あと数年もすれば、きっとすごいことになると思う。そのときに、自分はインデックスよりも魅力的な人でいられるだろうか。
人は外見だけではない。そう思いつつも、焦りが無いといえば嘘だった。
「えへへ、ねーみつこ」
とはいえ、今においては全くの杞憂。
当麻の匂いなんてまるで気にしていないのだろう。ぽいっと枕を近くにおいて、インデックスがぎゅっとしがみついた。
「なんですの? インデックス」
「こうやってだらだらするのもいいね。とうまがいないとちょっと物足りないけど」
「ふふ。でも当麻さんがここにいたら、またほっぺをつねられますわよ?」
「あれほんとにひどいよね。わたし、悪いことしてないのに」
光子は当麻の気持ちが分からないでもない。可愛いからつい意地悪をしたくなるのだ。
当麻のまねをして、インデックスのほっぺたをつまんでみる。
むー、と拗ねる顔を期待したのだが、軽く驚いた後インデックスは笑い返してきた。そして光子の頬をつねった。
別に痛くはなかった。当麻のつねり方はもう少し強いのかもしれない。
「みふこがはなはないほはなひてあげない」
「いんでっくふこそはきにはなひて」
ぷにぷにと頬を上下させながら、わかるようなわからないような会話を続ける。
「正直に言うとね、インデックス」
「なあに?」
「どんな事情であれ、私と当麻さんの所に残ってくれるって決めたこと、嬉しかったですわ」
「……邪魔じゃなかったかな? 私がいなければ、とうまとみつこはふたりっきりになれるし」
「いいんですのよ。あなたがいなければ、黄泉川先生の家であんなに同棲みたいな事をすることも出来ませんでしたわ」
損得勘定をすると、得だったかもしれないとさえ光子は思う。
補習三昧の当麻とは、毎日会える時間も知れているだろう。夏休み前の延長みたいな、そんなデートしかしなかったと思う。
インデックスを間に挟んでだが、当麻との距離がすごく縮まったのを光子は感じていた。
「良かった。ちょっと、邪魔だって思われてないかって気になってたから」
「じゃあこれからはもう気にしないことですわね」
「うん。とうまもおんなじかな?」
「きっとそうですわ。ふふ、気になるなら後で聞いて御覧なさい。きっと、つまんねーこときくな、ってほっぺをつねられますわ」
「うー、それは嫌かも」
心底嫌です、といった顔を作るインデックスにクスクスと笑いかけて、そっとフードや修道服の乱れを直してやった。ついでに短めの自分のスカートも直した。
検査がどれくらいかかるのか分からないが、あまり長いと寝てしまいそうだと思う光子とインデックスだった。






ザリザリという音をさせながら、当麻は階段を上る。
砂とホコリで汚れた階段だ。無理もない。打ち捨てられてそれなりの年月を経たビルだった。
隣には、光子とインデックスと、黄泉川。
「夜の屋上は、やっぱり落ち着きませんわね」
階段を上り詰めて、空を見上げて光子が発した第一声がそれだった。まあ、言いたいことは分かる。
当麻は屋上で重症を負ったし、光子はギリギリのところで当麻の死を回避した。
そしてインデックスは無意識にせよ、それほどの窮地へと二人を追い込んだ本人だった。
階段を上りきると、あの時と同様に、床一杯に張られたルーンと、そして二人の魔術師。
「随分と回復したようだね。上条当麻」
「ああ、おかげさまでな」
「貴方の治癒に関しては、我々は何も出来ませんでしたが」
時刻は午前零時。
インデックスが何の処置も受けなかったらそこで死ぬはずの予定時刻から、ちょうど十五分前だった。
全ては解決したと、おおよそ誰もがそう思っている。だがこの死線を潜り抜けるまでは、安心できない。
何かがあってもいいようにと選んだのがこの廃ビルの屋上だった。
「インデックス。正直に答えてください。頭痛など、体の不調はありませんか?」
真剣な目で、神裂がインデックスを見つめた。
もちろんずっとと奥から見守っていたから、そんな素振りを見せなかったことは知っている。
だが、それでも確認はしておかねばならない。
「大丈夫だよ。体におかしなところはないし、晩御飯も一杯食べたから」
「ふふ。あれは食べすぎです」
神裂がそう返事をする。夕食を一緒にとった覚えはないのだが、どこかから見ていたのだろう。
「育ち盛りだしいいじゃないか」
「ステイル。あれが適正な量に見えたのですか?」
「なんだ。正直に言うほうが正解かい? あれじゃ、太るよ」
「……ふんだ」
思ったより反応が薄いことにステイルと神裂は少し戸惑った。
少なくとも一年前なら、ひと喧嘩やらかすくらいのネタだったはずなのだが。
そうやって、お互いの距離感を測りなおす。
「そうだ、インデックス。これを」
「え? これ何?」
「学園都市のID……ですわね」
「こんなもの、どうやって手に入れたじゃんよ?」
疑うような声で黄泉川がそう尋ねた。当然だ。偽造カードを見過ごせる立場の人ではない。
この場くらいいいじゃないかと、思わなくもなかったが。
「正式に統括理事会、だったかな。この街の上層部から発行されたものだよ。僕ら魔術師は超能力なんてものがこの世に存在するのを認めてないし、同時にこの街のトップも魔術師を認めてない。それが建前さ。だけど、裏ではちゃんと話を通すためのラインが繋がってる。だからむしろ当然だと思って欲しいね。こっちとそっちの上が話し合って、決まった結果がこれだってことさ」
ステイルはインデックスの手のひらからIDを取り上げて、黄泉川に渡した。
偽造技術もレベルの高い学園都市で、チェックを目視でやるのは無意味に近かったが、黄泉川はカードの表から裏まで全ての情報をきっちり読んだらしかった。
「ま、事務所に帰ってきちんと調べるじゃんよ。それで婚后。インデックスがこの街に残るなら、相談があるって言ってただろ。ちょうど暇だ、今でいいか?」
「ええ、私はそれで構いませんわ」
ちらりと、光子が当麻のほうを見た。それに頷き返す。三人で話し合って、決めた結論だった。
とはいえ、結論などと胸を張って言えるものじゃなくて、誰にどうお願いするか、ということなのだが。
「インデックスを誰がどこに住まわせるか、が問題ですわよね」
「だな」
「私達が預かるからこそ、『必要悪の教会』はインデックスの在留を認めたのですわ。ですから、少なくとも私達のどちらかは、この子と同居する必要があります」
「どちらか、な。まあ常識で言って上条はないじゃんよ」
「となれば私が一緒にいることになりますけれど、私は今、常盤台中学の寮にいるのですわ」
「だから、現状では一緒には住めない、と。ここまでは分かってる。で、何が決まったんだ?」
三人はすっと、姿勢を正した。離れたところで神裂も同様にしていた。
「この子と私の二人を、先生の家で面倒を見ていただくことはできませんでしょうか」
「……」
皆、腰をきちんと折って、そうお願いした。
「答える前に質問だ。婚后、それって可能なのか?」
「はい。自律を促すため、という名目で常盤台の学生は学生寮に住むのですわ。もちろん能力者として価値の高い学生を集めていますから、セキュリティ上の都合もありますけれど。逆に言えばこうした問題をクリアできるなら、申請すれば学生寮以外の場所に寄宿することも認められていますの。監督責任者が親類でないこと、信頼できる身分の人間であること、女性であること、といった条件ですわ」
「まあ、あたしは適任って事か。で、婚后。いつまでいる気だ?」
「……短いほうがよろしいのでしたら、他に引き受けてくれる方をなるべく早く見つけるようにします。それと、高校は自由の利くところを選ぶようにしますから、私が卒業するまで、最長で一年半です」
「ほかの引き取り手に心当たりは?」
「……今のところは、その」
「ふむ」
黄泉川の中で、答えはすでに出ていた。実はそれほど抵抗もなかった。たぶん問題のある学生を泊めるのが好きな知り合いの教師の影響だとは思う。
それと、光子の性質もそう悪くはない。調べた限り相当のお嬢様だったが、家事などもそれなりに積極的だった。
甘やかされてはいたのだろうが、他人のために尽くせるいい性根の持ち主だ。
出来の悪い子好みな性分から言えば上条のほうがしごき甲斐があるが、まあ、同居人に求める資質ではない。
「上条」
「はい」
「仮に、婚后とインデックスがうちに住むとして、お前はどうするんだ?」
「いや、俺は男ですし、一緒には無理ですよね?」
「要するに、お前が通い婚をするわけか」
「通い婚って……まあ、会いに行っても良いなら、行きたいですけど」
「そうか」
当麻も、ちゃんと線引きは分かっているらしかった。
なら構わないだろう。
「婚后、インデックス。一年半先までどうなるか保証は出来ないけど、しばらくはウチに来い。面倒見てやろうじゃんよ」
「ホント? いいの?」
「もちろんお客様じゃない。別に楽をしたいわけじゃないけど、家の仕事はきちんと引き受けてもらう」
「当然ですわ。あの、それじゃ、ご迷惑をおかけしませんよう気をつけますので、どうぞよろしくお願いいたします」
再び、光子がぐっと頭を下げた。
当麻とインデックスもそれに習う。黄泉川が神裂に目をやると、神裂も御礼をした。
「無事に決まって、こちらとしても安心しています」
「さて、それじゃあ後はインデックスのデッドラインを見届ければ、めでたくハッピーエンドだな」
当麻は時計を持っていない。
後何分あるかは分からないが、万が一に備えて、治ったばかりの右手を確かめるように握り閉めた。
その当麻を、ステイルが馬鹿にしたように鼻で笑った。
「もう終わったよ」
「え?」
「君たちがお気楽そうに話をしている間に、もう時間がとっくに過ぎてしまったよ」
光子が慌てて時計を見ると、零時十七分を差していた。インデックスを見ると、まるでなんともなかった。
杞憂は、無事に杞憂のままだった。
「さて、それじゃ長居しても仕方ない。帰ろうか、神裂」
「そうですね」
荷物らしい荷物もない二人は、軽く身だしなみを整えるだけで、もう出発の準備を終えた。
当麻は傍らのインデックスを、ぽんと押し出してやった。
一瞬インデックスがこちらを見て、そして神裂とステイルのほうへと歩き出した。
「ありがとね、ステイル、かおり」
「礼を言われるようなことじゃあないよ」
「そうだったね」
その答えに二人は微笑んだ。ずいぶん遠い昔に交わした約束を、インデックスが覚えているという証明だった。
「また、会いに来ます。暇はあまりありませんが、年に一度くらいは、必ず」
「うん。待ってるね」
ぽん、とステイルがインデックスの頭に手を置いた。神裂がインデックスを抱きしめた。
それに微笑を返す。
「それじゃあ、また」
「うん」
別れはとてもあっけなかった。
むしろ隣で見ている光子と当麻、そして黄泉川のほうがそれでいいのかと気にするくらいだった。






黄泉川家に帰ってきて、インデックスは光子たちに気づかれないように、そっとため息をついた。
ようやく、この心苦しさから少し開放された。
それは根本的な解決ではない、というか、解決なんて一生しないものだ。

インデックスは記憶を取り戻した。それは、嘘ではなかった。
初めて神裂とステイルに会ったその瞬間から別れ際まで、時系列に沿って全ての思い出をインデックスは書き出せる。
とても幸せな日々だった。確かに記憶は、戻ったのだった。

でも。例えば。
インデックスにとって、神裂とステイルとの幸せな日々の始まった日は、大好きな『先生』と別れた日でもあるのだ。
『先生』も自分にはよくしてくれた。必ず思い出させてみせると、不幸な境遇から救い出してやると誓ってくれた。
そんな『先生』を、自分は、どれほど恩知らずの恥知らずでもやらないほど完璧に、忘れたのだ。
『先生』が涙して、自分も涙して、お別れをしたその数時間後には、自分は神裂とステイルと仲良くなり始めていた。
そして一年後、自分はまた、『先生』の時と何も変わらず、ただ、隣にいる人だけをとっかえて、泣きじゃくっていた。
次に目を覚ましたときも、神裂とステイルがいてくれた。二人を思い出せない自分に、絶望する顔が鮮明に浮かぶ。
薄情にも許される限度があるだろう。これは殺されていい程度だと、自分でも思う。
二年目の二人は、疲れていくばかりだった。一年目と比較できる今なら、ようやく分かる。
不安と諦めが、二年目の終わりの二人には会った。こんなによくしてくれた人を、よくもここまで苦しめられるものだ。
自分の浅ましさに、窒息しそうになる。
そして、三年目。自分は一体どんな感情を持っていただろう。
勿論それだって覚えている。これは記憶を消されていない部分だから当然ともいえるが。
神裂とステイルに、憎しみを覚えていた。二人は理不尽の象徴だった。
人と関わることを許さないように、つかず離れずで二人はインデックスを追い詰める。
どうして私が、と誰に対しても吐き出すことの許されなかった苦しみを、心の中でインデックスは全て二人に背負わせた。

そんな最低の自分にできることはなんだろうか。
謝ることなんて、もう無意味だ。とても償える額の負債ではなかった。
せめて、喜ぶ二人のために、一年前か、二年前の自分でいてあげようと思う。
確かにそれも、自分だったのだから。

インデックスは一年以上前のことを、確かに思い出した。
ただそれは、記録としての記憶に、アクセスすることが可能になった、というだけ。
記憶を、自分の記憶として引き受けたという、そういう意味ではなかった。
リアリティがないのだ。いつ、だれと、どこで、何をしたのか、それを全て覚えている。
だというのに、それを行ったのが自分だったという実感だけが、得られない。
それは当然だった。ステイルや神裂といた頃の自分は、その時点で持っていた記憶だけを頼りに生きる自分だった。
こんな俯瞰的な視点で過去を見た自分は今までにいない。
今の自分は、もう、いままでのどのインデックスとも別人だった。
救おうとしてくれた人の期待に応えるインデックスでは、ない。
神裂とステイルが愛したインデックスは死んだ。死んで、しまったのだ。

自分にとっての救いは、光子と当麻だった。
彼らに愛されたインデックスは、自分だ。
正しいことは分からないが、自分にとって幸いなことに、自分は光子と当麻が好きなインデックスだという、自覚があった。
だから、こうして、ソファで三人座っている今の時間が、たまらなく幸せだ。
だけどそれは、二人にとっての幸せではない。
あれだけの人に支えてもらいながら、光子と当麻にしか心からの感謝を見出せない自分は、きっと二人にとってもお荷物だと思う。嘘つきだし、不誠実だ。
そんな内面を、二人に説明するのが怖い。
嫌われたら、沢山の人に沢山のものを貰ったはずの自分が、全てを失った人になってしまう。

テレビがよく分からない番組を流している。
画面越しに見る人くらい、自分が空虚になった気がした。
「インデックス。もう眠い?」
「えっ? ……うん、そうだね」
「もう遅い時間ですものね」
明日の朝から早い家主が、一番風呂だった。三人はこれからお風呂に入る。眠くもない目をこすると、光子が布団を敷くといって出て行った。
当麻と二人きりになる。じっと、見つめられた。その視線にドキリとするより、当麻の言葉のほうが早かった。


「お前、隠し事、何かしてるだろ」


答えなんて、言えるわけがない。むしろ指先が震えそうだった。
真夏の、冷房もまだろくに聞いていない部屋で、そんなことになったら怪しまれるに決まってる。
今でももう怪しまれているのだから。
「隠し事、って?」
「あいつらを見送ったとき、お前は何かを取り繕うような顔をしてた」
「別にそんなことはないんだよ」
「あいつら、気づいてたかな」
「……」
「浮かれてたから、そうでもなかったかもな」
インデックスはむしろ、当麻にこんなことを言われていることに驚いていた。
心の機微に気づくなんてことからは、遠い人だと思っていたのに。


「お前、全部を思い出したはいいけど、昔のことを割り切れてないんじゃないか?」


あまりに、核心をついた一言だった。避ける余地すらなかった。
目を合わせられない。糾弾する人の顔を見られないのは、疚しい自分にとって当然だった。
だが、無理矢理にでも目を合わせるようにと、当麻がインデックスの正面に回った。
逃げられずに、目を合わせてしまう。ただその目を怖いとは、思わなかった。意外だった。
優しい目をしているわけではない。ただ、案じてくれて、すがりたくなる、そんな目だった。

「私を助けてくれた人たちのために、私は、その人たちのインデックスでいなきゃいけないんだよ。救ってくれた人に、せめて、それくらいは」
「ばーか」

本当に馬鹿にするように、当麻がそんな返事をした。むっとする。
「救われたのはお前じゃないんだよ。きっと」
「え?」
「お前が幸せでいてくれることで、救われるやつってのがいるんだよ。まあお人よしって言うんだけどな、そういう連中のことは。……そういう連中にとって一番は、今、お前が幸せでいることだろ」
「でも、私、それじゃ何も返せない」
「代償が欲しくてやったと、思ってるのか? そういう側面も有るだろうさ。けど、例えばステイルと神裂にとって、一番大切な目標はなんだったと思う? 自分たちを思い出してもらうことか? それとも、記憶を失うことで不幸になる、そういうお前を救い出すことか?」
「……」
「仮面を取り繕ったって、誰も幸せにはならねえよ」
「そう、だね」
でも、どうすればいいのだろう。もう一度神裂とステイルに会ったとき、落胆させればいいのだろうか。
「また仲良くなれよ。喧嘩でもして仲悪くなったと思えばいい。ただの仲直りだ」
「うん」
「俺たちとだって、そうやってやり直せばいい」
「え?」
「会って高々一週間の付き合いだ。気まずさなんて、すぐ薄れるだろ? だから――」
当麻が思い違いをしていることにインデックスは気づいた。
ステイルたちに疎遠な感覚を覚えてるのとは違って、居心地が悪いのにここにいるわけではない。本心を偽って、ここにいるわけではない。
唯一ここ、当麻と光子の隣は、自分の居場所なのだ。
「光子と当麻には、嘘ついてないよ」
わかって欲しくて、真剣な響きを込めて当麻にそう伝える。だが、これすらも取り繕いだと思われたら、どうしようか。
心に差した不安が膨らむより前に、後ろから声をかけられた。
「じゃあ、一緒にいたいって、本当に思っていてくれてますの?」
振り返ると光子がいた。当麻とは全然違う、優しい顔だった。二人がいてくれて良かったと、インデックスは思う。
過去に向き合う勇気を当麻はくれた。今という居場所を光子はくれた。
「みつこ、とうま」
「ん?」
「なんですの?」
「大好き。すっごく、大好きだよ」
「私もですわ」
「俺もだよ。……言ってて恥ずかしいな」
もう、とたしなめるように光子が当麻に笑う。そして光子と二人で笑いあうと、当麻が髪を撫でてくれた。
「ま、それじゃあこれからもよろしくな、インデックス」
「うん」
あっさりとした、そんな言葉のやり取り。
幸せな日々をはじめるのだと、そうインデックスは笑って誓った。

****************************************************************************************************************
あとがき
これで第一巻分の内容が終了となります。お付き合いくださって、ありがとうございました。
この後は軽い目のお話を少し挟んで、能力体結晶編(アニメ版超電磁砲の後期エピソード)に触れていこうと思います。
アニメを視聴されていない方にも分かるよう、なるべく説明を端折らないようにしながら描いていく所存です。
これからもよろしくお願いします。

さあ、お待ち兼ねの佐天さんが動き回る章に突入です!



[19764] interlude02: 渦流転移 - Vortex Transition-
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/15 13:50

びっくりするほど、昨日は暇だった。寮の個室で本を読む以外にすることがないのだ。

どうも噂では学び舎の園の外にあるほうの学生寮は鬼寮監がいるらしく、光子のようなケースは厳しい罰が与えられるらしい。
こちらの寮監はそれほど苛烈ではない。男子禁制の空間の中だから緩いのかもしれなかった。
とはいえ、一週間近く外泊をした上、最後の数日は警備員、黄泉川からの連絡で延長したものだった。
夏休みといえど、そして事情があったといえど、慎み深い生活を送ってくださいねと諭す寮監の言葉に、光子はきちんと従わざるを得なかった。
何せ、来週からは黄泉川で暮らすことになるのだ。寮で暮らさないだけで不良みたいな目で見られかねないのに、これ以上学校から睨まれるのは面倒だ。
それで、早朝に黄泉川家から戻って以来、寮内で謹慎していたのだった。
ついさっきまでは。
「大義名分が出来て、本当に助かりますわ」
「いえいえ。っていうか、どうして謹慎なんてことに?」
「こないだ駅でお会いしたでしょう? あのときの関係ですの」
「あー、なんか、その」
「ごめんなさい佐天さん。ちょっと、お話し辛い事情がありますの」
「あ、私のほうこそ変なこと聞いちゃってごめんなさい」
「気になさらないで」
学び舎の園の入り口の程近いバス停で、光子は佐天と話をしていた。
昨日、ちょうど佐天から連絡があって、話している内にまたレッスンをすることになったのだった。
読書にも早々と飽き、暇を持て余していた光子にとっては幸いだった。
そしてやけに歓迎されたことに戸惑いを覚え、佐天は光子が謹慎中であるという事情を知ったのだった。
そして面倒だと思われないのなら、佐天は光子に自分の伸びを是非見て欲しいと思っていた。
光子にとってはまだまだちっぽけかもしれないが、この数日でまた能力が伸びたという自覚がある。
最初に自分の能力を芽吹かせてくれた人だから、報告したかった。
「それにしても婚后さん、ちょっと会わないうちに、なんか雰囲気変わった気がします」
「えっ?」
「なんだか優しくなった、っていうか。あ、すみません。変なこと言っちゃって」
「ふふ。妹が出来たからかもしれませんわ」
「はあ、妹さん、ですか?」
親元から離れている自分たちに年の離れた妹が出来たとして、果たして関係が有るだろうか。
そう佐天が首をかしげていると、光子が訂正するように笑った。
「正しく言えば妹分、ですわ。血縁のある妹という意味ではありませんの」
「はあ、要はその妹さんの面倒を見るようになった、と?」
「そういうことですわ」
笑い方が、前より絶対に優しいと思う。そしていい傾向だと佐天は思った。
初めて会った、一ヶ月ちょっと前と比べて、ずっと親しみを感じる人になっていた。
妹が出来たからだというが、彼氏が出来たからじゃないかとも佐天は思う。
だって、人としての輝き方が、なんだか嫉妬してしまうくらい綺麗なのだ。
「バスが来ましたわ。近い距離ですけれど、お付き合いくださいな」
「はい」
謹慎中で商店街に近づけない光子にあわせて、バスに乗った。
行き先は一度佐天が行ったことのある場所、常盤台中学内の別棟、流体制御工学教室だった。



「お、おじゃまします……」
「そんなに緊張なさらなくても良いですわ。初めてではありませんでしょう?」
おしとやかな女学生ばかりが歩く常盤台中学のキャンパスをここまで歩くと、やっぱり縮こまってしまう佐天だった。この建物は静かだからなおさら緊張する。
「いやー、やっぱりここに来るとどうしても落ち着かないんですよね」
「知り合いが少ない場所ですから、仕方ないかもしれませんわね。コーヒーでもお飲みになる? こないだと違って実験から始める気はありませんから、気持ちをほぐす意味でもよろしいんじゃありません?」
「あ、はい。確かにちょっと喉が渇いちゃったかも」
佐天がそう言うと、光子がまだ行ったことのない部屋へと案内してくれた。扉を開くと、コーヒー豆の匂いが鼻をくすぐる。休憩室なのだろう。
事務的で常盤台にしては質の悪い明るい色のソファと、無機質な感じのするガラスのテーブルが置かれていた。
部屋の端にはコーヒーメイカーとポット、そして個人のものなのか綺麗な瓶に入った茶葉があった。
「すぐ淹れますわね。って、あら、湾内さんに泡浮さん」
「まあ婚后さん。ごきげんよう」
「それに、佐天さんも。どうなさったの?」
対面で全部で10人くらい座れるソファの端に、水着の撮影会で知り合った湾内と泡浮が座っていた。
大き目のポットで二人分淹れた紅茶を、二人で仲良く飲んでいるところのようだった。
ポットとカップ、ミルクサーバーが綺麗な絵をあしらったボーンチャイナで、絶対にあれは高いだろーなー、なんてことを考えてしまう佐天だった。
「こんにちは。湾内さん、泡浮さん。実は婚后さんにちょっと能力のこと、色々教えてもらってるんです。今日も面倒見てもらえたらなって思って、押しかけちゃったんですよね」
「まあそうでしたの! じゃあ、すごく筋の良いお弟子さんというのは、佐天さんのことでしたのね」
「え?」
「ふふ。名前はお伺いしなかったんですけれど、自分のことみたいに婚后さんが自慢なさって、ちょっと後輩の私達が妬いてしまうくらいだったんですよ」
「もう。恥ずかしいですから嬲るのはお止めになって、お二人とも」
コーヒーを二つサーバーから淹れて、光子がソファへと佐天を誘った。
「そう仰っても、私達、婚后さんにお聞きしたいことはたくさんありますのよ?」
「そうですわ! ねえ、佐天さんも気になりませんこと?」
「え?」
「婚后さんの、お付き合いなさっている殿方について、ですわ」
二人ともおしとやかなのだが、やっぱり女の子なのだった。
そりゃあ常盤台という女子校の中にいると、出会いは少ないだろう。そうでなくてもこんな話、盛り上がらないほうがおかしい。
……とはいえ佐天は、気になるけどちょっぴり聞きたくないような気持ちもあるのだった。
婚后光子は、感覚で言うと『師匠』に近い。
彼女もまた人なり、ということは分かっているが、恋愛だとかそう言う浮ついた話と、自分の才能を花開かせてくれたすごい人という感覚が、どうも相容れないところがあるのだった。
とはいえまあ、勿論話は聞かせてもらう気なのだが。
「ちゃんと聞いてなかったですけど、やっぱり彼氏さん、いるんですか?」
「え、ええ……まあ、その。イエスかノーかといわれると、イエスですわ」
「当麻さん、って仰るんでしわたよね?」
「もう泡浮さん! ちょっと名前を漏らしただけなのに……もうお忘れになって!」
「悪いですけど、お断りしますわ。ね、湾内さん?」
「ええ。苗字をお教えいただくまでは忘れようにも忘れられませんわ」
そんなものを聞いた日にはもっと記憶が確かになることだろう。こっそり佐天も心の中にメモをする。
「付き合ってどれくらいなんですか?」
「もう、佐天さん。お答えするの恥ずかしいですわ、そんなの」
「そろそろ一ヶ月半くらい、ですわよね?」
「もう!」
「婚后さん、かなりばらしちゃってるんですね」
「だって、その」
聞かれたらつい喋ってしまう、そういう性格なのだった。光子は。
だって惚気話をするとつい幸せになってしまうのだ。
「初デート前日の慌てっぷりといったら、もう幸せそうで見ていられませんでしたもの」
「ええ、明日友人と遊ぶのですけれどどの服がよろしいかコメントくださる?って」
「女友達とならあんな風に迷ったりなんてするわけありませんのにね」
「ですわよねえ」
光子は顔が火照ってきてどうしていいかわからなかった。
お座なりに佐天に勧めて、自分が先にコーヒーに口をつける。
「婚后さん」
「なにかしら、佐天さん?」
「もうキスしたんですか?」
ぶほ、という返事があった。慌てて光子がテーブルを拭いた。
向かいのソファでは、まあ、という顔で二人が光子を見つめていた。晩生(おくて)の二人には、ストレートすぎて聞けなかったのかもしれない。
「さ、ささささ佐天さん?! なんてことを聞きますの?」
「え、だって恋人同士なら普通じゃないですか? キスくらい」
「そんなことありませんわ! 結婚もしてない男女が、その、そのようなこと……」
常盤台らしい、貞淑な価値観だと思う。光子が口にするのは。
だが佐天は口ぶりとは裏腹に、どうも光子は経験があるらしい、と踏んだ。
「別に恋人同士ならキスくらいは普通だと思いますけど」
「知りません!」
「キスしてないんですか?」
「知りません!」
鋭く突っ込む佐天を、対岸の二人は頬を赤く染めながらわぁぁ、と期待した目で見つめていた。
そこまでは、二人は聞けなかったのだった。佐天はそっと、光子の肩に手をかけて、耳元で囁いた。もちろん全員に聞こえる音量でだ。
「……やっぱりレモンの味なんですか?」
「そ、そんな味するわけありませんでしょう?」
あ、と光子が漏らす。他愛もない。語るに落ちるとはこの事だった。
「じゃあどんな味だったんですか? 婚后さん?」
まさかカレーの味だったというわけにもいかない。
というか、なんでばらしてしまったんですの私の馬鹿、と頬を染めながら自省し、でもちょっぴり話せて嬉しい光子なのだった。
「いつごろ、しましたの?」
「もう、許してくださいな……」
「それじゃあ、いつしたのかだけお聞きしたら、もう止めますわ」
引き際を心得た二人は、そうやってもう一つ余分に情報を聞き出す気だった。
光子は光子で抗えないのだった。
「今月の20日……ですわ」
「夏休み初日ですわね」
「まあ、じゃあ婚后さんは夏休みをキスからお初めになったのね」
「それじゃあ、この先はもっと……きゃあ! 婚后さんってば大胆すぎますわ!」
「ちょ、ちょっと泡浮さん?! 私そんな破廉恥なことしませんわ!」
「そうは仰るけど、だって、初日にキスですもの!」
「ねえ? 佐天さんも気になりませんこと?」
「やっぱりキスよりもっと先の――――」
「もう佐天さん! それ以上言ったら今日はここで終わりにしますわよ!」
それは困る。
まあ、冗談だろうと分かってはいたが、武士の情けで今日はここまでにしてあげることにした。
……先は長い。ここでなくとも、いくらでも、光子をからかう機会はあるのだった。


「そう言えば、お二人はここでどんなことをしてるんですか?」
話が変わってほっとしている光子を横目に見ながら、佐天は二人に質問した。
能力の話をしたことはなかったが、ここにいるということはやはり流体操作系の能力者なのだろうか。
「今日は今開発中の発電システムの改善点の洗い出しに来ましたの」
「私と泡浮さんは他の方と何人かで同じプロジェクトに関わっていますの」
「発電、ですか?」
そう聞くと発電系能力者の仕事のようにしか佐天には思えなかった。
ピンとこないので首をかしげていると、二人は丁寧に説明してくれた。
「海洋深層水ってご存知ですか?」
「あ、はい。化粧水とかに入ってるアレですよね?」
「そうですわ。ちょっと非科学的な宣伝が出回っているせいで誤解もあるんですけれど、基本的には、表面の海水と比べて冷たくて清潔で、栄養分が豊富で、酸素が少ないただの海水ですわ」
「それを汲み上げて、温度差で発電しますの」
表面海水は東京近海なら年間を通して10℃程度はある。一方深層水は2℃くらいだ。冬で8℃、夏で30℃くらいの水温差を利用して、発電を行うのだった。
通常、発電用のタービンを回すのは水蒸気だ。原子力や化石燃料を燃やして作った高熱源体に水を触れさせて蒸気を作り、水が気化するときの膨張仕事をタービンのトルクに変え、電力に変換し、最後に低熱源体で蒸気を再び水に戻してリサイクルする。
水を使うのは量が豊富で安いこと、入手簡単なこと、捨てやすいことなど利点が多いからだ。
しかし湾内と泡浮の携わる海洋温度差発電プラントは、高熱源体に30℃程度の表面海水を、低熱源体に深層水を利用するシステムのため、気化・凝縮のサイクルを繰り返す媒体に、常圧の水を選ぶことは出来ない。
減圧して10℃くらいで水を気化するか、加圧してアンモニアを気化させるか、といったちょっと面倒なコントロールが必要なのだった。
「私は不得意ですけれど、ちょっと気体も扱えますからアンモニアと水の熱機関部の開発に携わっていますの」
「へえー」
おっとりとした湾内が語るその内容が、佐天には眩しく見えた。同時に、すこし嫉妬も感じる。
何かを成した人とそうでない人の差がそこにはあった。だが、能力者を眺める無能力者の卑屈さはなかった。
「私は排水の応用の幅を広げているんです。この間、第七学区でお魚や貝のお祭りみたいなセールをしたでしょう?」
「あ、私行きました。生物プラントじゃない、海水養殖の学園都市産、っていうのが売りでしたよね」
「そうですわ。プラント培養は癌化などの問題を抱えていて、多品種少量生産は苦手ですから。一番確かなのはやっぱり海水を利用した養殖ですのよ」
学園都市に海はない。だから海産物は日本の周辺都市から仕入れるか、生物プラントでの培養に頼ることになる。
だが生物プラントは生物の複雑な仕組みを再現するのは苦手だ。だから牛や豚、鶏のような比較的大きい生物の、ロースやバラ、ももといったそれぞれの部位を培養し、製品化することになる。
生物全体を食べる貝などは苦手な品目だし、内臓で作る製品、イカの塩辛や魚醤のようなものはそもそも作れない。それを打開するのが泡浮の仕事の一つだった。
発電に使った水は、ミネラルを多く含んだ排水とほぼ純水の二つに分かれる。
それらをポンプを使って学園都市まで輸送し、純水は飲料に、ミネラルの多い排水を海由来の肥料としてそのまま利用することで、恒常的に富んだ海を内陸部に作るシステムを構築していた。
「世界の海に温度差が有る限り、無尽蔵にエネルギーを取り出せるシステムですから、 開発する価値は充分にありますわ」
「濃縮海水からは金やウラン、希土類も回収できますから、学園都市が自前で元素を確保する意味合いもありますし」
「はー、なんか、すごいですね」
人の生活に密着したところで、それほどの業績を上げられるのは、本当にすごいことだと思う。
だが謙遜なのか、二人は軽く笑って手を振る。
「でもこれ、外の世界でも、15年位したら普通に実用化するレベルの技術ですの」
「それに熱効率が悪いから、原子力みたいな出力はなかなか得られませんし」
「まあ、私達にはちょうどいい課題、ということですわ」
「それでもやりがいはありますもの」
ね、と二人は笑いあった。
外の世界に持ち出せる程度の技術のほうが儲かり、そしてそういう簡単な技術をレベル3程度の能力者に開発させる。
このレベルは学園都市の、一番の稼ぎ頭なのだった。


「長くお引止めしてすみません。それでは、婚后さんも佐天さんも、頑張ってくださいな」
「また機会があったら一緒に遊びましょうね」
「はい、それじゃあまた」
湾内と泡浮の二人に自分の学校の同級生には見せないような丁寧な挨拶をして、佐天は光子を振り返った。
「それじゃ、レッスンを始めましょうか」
「はい、お願いします」
きゅっと顔を引き締めた佐天の顔を光子は気に入った。学んで自分を伸ばしたいという、前向きな意欲で満ちている。
休憩室から出ながら、佐天の進捗状況を尋ねた。
「微積分の講義のほうはどうですの?」
「えっと、流体力学に使う簡単な微積分はだいたいマスターしました」
「そう」
微積分といっても、応用先は山ほどあるし、数学的に厳密なことを言い出すといくらでも深みに嵌れる。
佐天が今必要としているのは厳密な証明などではなく応用のためのツールとしての微積分だ。
特に流体であれば時間発展の微分方程式を解けることが最重要となる。それに必要な知識は、大体身についていた。
教室に入って、光子は佐天が暗算できそうな問題をいくつか解かせた。
飛行機の翼周りの流れ、湾曲した円管内の流れ、固体表面へと吹きつけた空気の流れ、そういったもの一つ一つに佐天は的確に答え、正解した。
解くのに構築した演算式を聞くとまだまだ計算コストの低い方法はいくらでも考える余地があったが、それはこれからブラッシュアップしていけば良いものだ。
前に会ってから9日、充分すぎるだけの伸びといってよかった。
「満点、ですわね。よく努力されましたわね、佐天さん」
「ありがとうございます!」
「こう言ってはなんですけど、一緒に補習を受けた二年や三年の先輩方より出来が良かったのではなくて?」
「あ、途中から私、担任の先生が付きっ切りで見てくれるようになったんです。だから上の学年の補習に顔を出したのは一日だけで、そのへんはよく分からないです」
「そう。では言っておきますけど、これだけできれば十中八九、佐天さんの学校では佐天さんがトップですわね」
「え?」
「私も去年レベル2であまり上位の学校にはいませんでしたから予想がつきますわ」
誰かと比べてどうか、ということは佐天にはよくわからなかった。
自分が数日前の自分と比べて明らかに伸びたことは分かるのだが。
「そういうの、気にしちゃうと私調子に乗っちゃいますから。あんまり見ないほうが良いって先生も思ったのかもしれませんね」
「違いますわよ。佐天さんほど伸びる学生を他の学生と混ぜてしまっては玉と石を自分から混ぜるようなものですわ。特別扱いは当然のことですから、お気になさらないことですわね」
「はあ」
「それで、計算能力が上がったのは確認できましたけれど、能力そのものの開発はされましたの?」
「はい。うちの学校で扱ってる一番強い薬、貰いました」
「もしかしてトパーズブルーの粉薬ですの?」
「そうです」
低レベルの能力者にとってはきつめの開発薬だ。光子にも飲んだ覚えがあった。
今光子が投与されるのはもっと作用の強い薬になる。レベルが上がるほど、専門の開発官に副作用を細かく管理してもらう必要のある高価なものになっていく。
「それでどんなことを?」
「えっと、どういう方程式の解き方で流体を解くのが一番かっていうのを、相談しながら色々探したんです」
「そう。好みだったのは連続場と粒子場のどちら?」
「粒子場でした」
「やっぱり」
佐天は、空気の粒が見えるといった。そういう世界の描像の持ち主なら、当然の選択だろう。
決まっていないなら、光子もそれを勧めるつもりだった。
「それと、渦を作り方も数式として纏めるようにしたんです」
「あら。今日それをやろうと思っていましたのよ。もう出来てますの?」
「あ、これで良いかは分かりませんけど……」
「どういうものか説明なさって?」
「はい。えっと……」
佐天は説明のために、先生と一緒に勉強した理論の名前を思い出す。
数式ならすぐにでも書けるのだが、言葉にするのがちょっと難しかった。
「ランジュバン方程式に向心力を足した式を解く、ってことなんですけど……」
「ランジュバン? それって確か、コロイドの……ああ、成る程」
「はい。ブラウン運動をランダムウォークで再現したあれです」
コロイド、身近な例で言えば花粉だとか、あるいは牛乳の濁りの元になっている油液滴だとか、そういうもののことだ。
これらは水中で、不規則で無秩序な運動、いわゆるブラウン運動をしている。
この不規則な運動は、分散媒である水分子の揺らぎによって、瞬間的に不均一な力がコロイド粒子に加わることで、酔歩のような、予測できない動きをする現象だった。
「どうしてそんなものが出てきますの?」
それが光子の素朴な疑問だった。
確かに空気の粒という考え方は、確かにコロイドとイメージが近いかもしれない。ただ、あまり空力使いとはなじみのない現象だった。
「えっと、まずはじめに考えたのは、渦を作る式を作ることだったんです」
「ええ、それで?」
「そしたら、中心力を入れようってまず考えるじゃないですか」
「まあ、それは分かりますわね」
中心力は、何かの中心に向かって働く力のことだ。たとえばそれは磁力だったり、静電気力だったり、重力だったりする。
渦の中心に向かって空気の粒を引き寄せるような力を考えれば、確かに空気の粒を回転させたときに生じる遠心力と上手くつりあって渦が作れそうだ。
「でもそれだけじゃ駄目だったんです」
「どうしてですの?」
「星と同じで、綺麗な軌道の粒子だけが残っちゃったんです。後のは全部、ぶつかっちゃって」
「ああ……」
沢山の無秩序に動く粒があって、それがある一つの中心に向かって吸い寄せられる系(システム)。
それは原初の宇宙そのものだった。ブラックホール周りの星系はそんな感じだったろう。
だが今では、天体は、極めて美しい均衡の取れた周期を形成している。
たとえば地球は随分と長い間、他の星と衝突して星の形を歪めるような出来事を体験していない。宇宙には無限に星があって、それらは動き回る上、互いに引き合っているのにだ。
これはお互いにぶつかってしまうような周期のかみ合わせの悪い星同士はすでに衝突を終えて、今我々の目の前にある宇宙は、お互いに均衡の取れた、秩序ある宇宙に落ち着いてしまっているからだ。
向心力によって空気の粒がある一点の周りを回る系を作ると、宇宙と同様にあっという間に粒子が衝突・合一してしまい、鈍重で遅い、綺麗な軌道の渦しか残らないという問題があるのだった。
これでは、渦の演算に使える式ではない。
「それで、お互いがぶつからないようにするのと、もっと乱れた流れを作るために、何かいい方法はないかなって色々考えたんです」
「その結果が、コロイドのブラウン運動でしたのね」
「はい。あれって、なんかすごくイメージに合うんですよね。無秩序に、こう、ゆらゆらっと」
「要は中心力と遥動力で渦を制御する、と」
「あ、はい! そうなんです」
とてもシンプルで、佐天はその結論を気に入っていた。
渦を作る『種』は向心力だ。まるで太陽のように、あるいはブラックホールのように、空気の粒をある一点へと引き寄せる力。
だがこれだけでは渦の軌道が整然とした、逆に言えば内包するエネルギーに乏しいものになってしまう。
だからそこに、揺らぎを加える。
無秩序な揺らぎを加えることで、渦は乱雑で、そして複雑怪奇な軌道を描くようになる。
渦は普通は二次元だ。だが佐天は、この揺らぎによって三次元の球形の渦すらも作り出せる。
そして渦を巻きながら強く強く圧縮された空気の球を作る、それが佐天の得意技だった。
この支配方程式の良いところは、遥動力という唯一つのパラメータでさまざまな渦軌道を作り出せ、そしてその空気玉の規模というか威力を、中心力、まあ言ってみれば佐天の気合一つで決められる、非常に扱いやすい方法論であるところだった。
「えっと、お聞きした範囲では、非常に理にかなっていて良いように思いますわ」
「本当ですか?」
「ええ。何より佐天さんが気に入っておられるのでしょう?」
「はい」
「なら、当面はそれで能力をコントロールすればよろしいわ。ここまでよくまとまっているんでしたら、能力の伸びを再測定して、あとは一番大事なところに手を伸ばせそうですわね」
「大事なところ、ですか?」
佐天は首をかしげた。
どういう演算式で能力をコントロールするか、というのが一番大事なことだと思う。
それ以上のことなんて、あっただろうか。
「ええ。能力解放の仕方、ですわ」
「あ」
渦を作るのが楽しすぎて、暴発でしか能力を終わらせられないことを、すっかり忘れていた佐天だった。
「これまでずっと、発動した能力を終わらせるときは、暴発でしたの?」
「あ、はい。先生もどうしていいのかよく分からないみたいで」
「まあ流体制御の能力者には普通存在しない悩みですものね」
「そうなんですか?」
渦というキーワードが重要となってくる自分の能力は、確かに変り種だとは思う。
とはいえ、そんな根本的なところで人と違うのか、と首をかしげる佐天だった。
「空力使いは普通、気体を『流す』能力者ですわ。自分の意思で空気の流れを作るのを止めれば、また自然な状態に還っていくだけですから、空力使いが能力の終わりで悩むことはほとんど有りません。一方、私と佐天さんは、空気を『集める』能力者でしょう? 集めたからには開放しないといけない、という理屈で、私達は変わり者なんですのよ」
「あー、なるほど。言われてみればそれって確かに変わってますね。……自分で言うのも変ですけど」
言われてみて、確かに気づくことがある。
渦として空気を集める以上、解放しなければいけないのだ。そういう能力を授かった身なら、終わりまでコントロールしきって一人前。
半分しか出来ない自分は、半人前だということだ。佐天はそう、増長しそうな自分を戒める。
その姿勢はもはや無能力者の、そして劣等感に苛まれたかつての佐天とは一線を画していた。
「それで、解放の練習は何かしましたの?」
「あ、いえ。何をしていいのか、全然手がつかなくて……」
「そう。暴発、と表現してきましたけど、まずはそれから見直しましょうか。弱い威力でよろしいから、渦を作って、ここで解放して御覧なさい」
「はい」
光子が指導者らしい口調になったのを受けて、佐天は姿勢を正した。
そして言われたとおり、10センチくらいの小さな渦を作って、光子がじっと見つめているのを確認してからいつもどおりコントロールを止めた。
ボワ、という鈍い音が小さく響いて、風肌を撫でる。光子はその空気の流れをじっと見詰める。
「これはこれで、綺麗ですわね」
「え?」
「かなり等方的、どの方向にも均一に広がっていますのね。もっと歪なのかと思っていましたの。使い勝手は良くないかもしれませんが、これも一つの解放の様式、でしょうね」
「はあ……でもこれ、ただ広がってるだけですよ?」
「その通りですわね。制御が簡単、というか無制御でこうなる分イージーですけれど、その分、利用価値がないですわね。等方的というのはそういうことですけど」
方向によって性質が異なること、異方性というのは重要なことだ。
分子を並べる方向によって光の反射・屈折特性が変化することを利用して液晶ディスプレイは出来ているし、工業的に重要な触媒が重金属に偏っているのは、重金属がd軌道電子という極めて異方的な軌道を持つ電子を持つためだ。
佐天の能力で言えば、佐天が蓄えた100の力を、全ての方向に均一に散逸させれば、威力の減衰があっという間に起こってしまう。
それでは佐天の蓄えた渦という高エネルギー体の利用価値はあっという間に損ねられてしまうのだった。
「えっと、すみません。どういうことを考えたらいいんですかね?」
答えそのものを聞く学生になってしまったことを恥ずかしく思いながら、佐天は光子に尋ねる。
「そうですわね……。私の言葉で言えば、相転移を考える、ということかしらね」
「相転移?」
「流れている渦にこの言葉を使うのは不適切かもしれませんけれど、渦という一つの相(フェイズ)から、全くそれとは別の相(フェイズ)へと劇的に転移させる、という考えですわ。球形の渦が佐天さんにとって、一番自然な相なんでしょう。そこから、不安定だけど利用価値のある相へとガラリと転移させるのですわ」
相転移というのは、気体から液体、あるいは固体といったように相を転じる現象一般を指す言葉だ。
鉄の磁化も相転移だし、ただの伝導体が超伝導体になるのも相転移だ。そういう、ある温度や圧力、磁場強度を境としてガラリと状態が変わってしまうことを相転移という。
『流す』能力者と違って、『集める』能力者は何かをトリガーに劇的に状態を変化させないと、価値ある現象というのを引き起こしにくいのだった。
「相転移、うーん、すみません。ちょっとピンとこなくて」
「私も言葉が悪かったかもしれませんわ。要は、式に入力する値を変えるなどして、全く違った状態に変化させる、という意識を持てということです」
「あ、はい」
「ためしにやってご覧になったら?」
「はい……えっと、パラメータを適当にいじるので、どうなるか分かりませんよ?」
「構いませんわ」
佐天はいつもどおり、渦を作る。そしてしばし眺める。
いい仕上がりの渦だ。一週間前に自分が作っていたものが稚拙に見えるほど、巻きが安定していて、それでいて内部に大きなエネルギーを蓄えている。
その渦の制御式の遥動力の項に、今までに入れたことのないようなパラメータを代入する。
どうなるかはやってみないとわからない。とはいえ、予想はつくのだが。
――――さっきと変わらない、ボワ、という音。先ほどと同じような風が、二人の肌を撫でる。
それだけといえば、それだけだった。
「綺麗に広がった先ほどと違って、今は随分と広がる方向が乱雑でしたわね」
光子は違いに気づいていた。槍の遥に、天上に向かう風が二条、そして足元に向かう竜巻が一つ。
水平方向には大体同じような広がりだった。
「変な値を入れて渦を目茶目茶にすると、こうなっちゃうんですよね」
「簡単なことですの?」
「え? まあ、数字を変えるだけですから」
「……」
考え込む光子を邪魔しないよう、佐天は黙る。
そして同時に自分でも考える。要は、全ての方向に均一に広げなければいいのだ。
それだけでも使い道は生まれてくる。そして、ある方向にだけ延ばすとなると……
「槍みたいに吹き出させれば、いいんですかね」
「あら佐天さん。私と同じ答えにたどり着けましたのね」
軽く驚いたような顔をして、すぐに褒めるように笑いかけてくれた。
「私がイメージしたのはさっき佐天さんの話に出た天体ですわね」
「え?」
「重力崩壊する星はパルサーと呼ばれる電磁波を放出しながら崩壊するのですわ。その放出方向は全方向にではなくて、大体自転軸に近い方向にのみ吹き出しますの。ちょっと試しに、やってくださらない?」
「あ、はい。……どうしたらいいですか?」
「そうですわね、まずは、一つの回転軸を中心に回る渦を作ってくださる?」
「はい」
それは簡単だ。
佐天は手のひらの上に、渦を作る。
水風船を回したときのように、垂直に渦の中心軸が出来るような流れを作る。
「それを上手く変化させて、全ての運動量を軸の方向に噴出させられませんか?」
「これを垂直にですか? それは……えっと」
こんな感じだろうか、とアタリをつけて値を入力し、渦に変化をつける。
再び鈍い音と共に、渦は破裂した。
「うーん……」
「イマイチ、でしたわね」
僅かに狙ったような傾向は見えたものの、結局は全方向に空気が散ってしまった。
「もし代案があれば、そちらを試してもよろしいのですけど……」
「ちょっと、思いつかないですね。すぐには。
 それに狙った変化を起こすのに必要なパラメータが今は予想できないので、なんとも」
「まあ、焦る必要は有りませんわね。毎日意識しながら能力に向き合っていれば、いずれ妙案を思いつきますわ」
「それで、大丈夫ですかね?」
「心配はもっと時間が立ってからされればよろしいわ。佐天さんはたった二週間くらいで、こんなところまで来ましたのよ。まずはもっと喜んで、自慢に思っても罰なんて当たりませんわ」
そういって光子が笑いかけてくれた。
勿論、そんなことは重々承知していた。毎日が嬉しくて、渦を作りまくっているのだから。
「それは大丈夫ですよ! あたし毎日、能力が使えなくなるまで渦を作ってから寝るようにしてるんです」
「いい心がけですわね」
「おかげで長袖のパジャマで寝てるくらいですからね」
「え?」
「渦で熱を集めて窓の外に捨てるって、婚后さんのアドバイスにあったじゃないですか。あれ毎日夜にやってるんです。おかげで今週はクーラーいらずでした」
「ああ。ほら、やっぱりそういう練習が一番続くでしょう?」
「ですね。あはは」
光子に自慢をするつもりで、佐天は手のひらに、一番巻きの強い渦を作り出す。体を力ませないように気をつけながら、全力で。
出来た渦は中心が揺らめいていた。高圧に圧縮した空気の屈折率が変化するせいだ。
それは内包するエネルギーが相当強くなった、三日前くらいにようやく出来た現象だった。
「……ここまで、巻けますの?」
「え?」
驚いたあと、光子は予想に反して少し厳しい目をした。褒めて欲しかったのだが。
「あ、ごめんなさい。すごいですわね。目視で分かるくらい、渦の中は物性が違っていますのね。……とても、レベルが上がってから一週間やそこらの能力者、それもレベル1とは思えませんわ」
「はあ」
「もちろん褒めているんですのよ。ごめんなさい、同じ空力使いとしてつい」
何気に、その反応は嬉しかった。レベル4の光子が遠い存在なのは、勿論分かっている。
だからこそ、その光子が無視できないだけのものを作れた自分が、嬉しかった。




「……ふうっ」
「ここまでにしましょうか」
「はい」
3分間、佐天は散り散りになりそうな渦を耐えに耐えてコントロールした。
平均で直径30センチ、渦をスイカくらいの大きさで30気圧くらいに制御して、それだけの間、渦を崩壊させないで維持したことになる。
規模、時間、あらゆるファクターで一週間前の倍以上をマークした。
「素晴らしい伸びですわね。佐天さんのポテンシャルが、それだけ高かったのでしょうけれど」
「あはは、ポテンシャルなんて。褒めすぎですよ」
「何を仰いますの。短期間でこれだけの伸びを見せるなんて、努力でコツコツとでは得られませんわよ。こういうのを才能と言いますのよ」
佐天は落ち着かなかった。そりゃあ伸びれば嬉しいし、褒められるとついにやけてしまう。
だが、どうも才能なんて言葉と自分が結びつかないのだ。
「まあでも、すぐに頭打ちになりますわ。能力の伸びにまだまだ知識が追いついていませんし、体に染み付けないと、次のステップに進めないなんて事は山ほどありますわ」
光子のその言葉はむしろ佐天を安心させるような言葉だった。
苦労しながら伸ばすのが能力というものだろう。
壁に突き当たれば苦しい思いをするのかもしれないが、順調に伸びていて能力を使うのが面白くて仕方ない今は、そんな困難の一つくらい気合で乗り切ってしまえなんて風に心の中が勢いづいているのだった。
「さて、それじゃあ午前はこんなものにして、お昼にしましょうか」
「はい」
「どちらで摂りましょうか。学外の関係者の方々の利用する食堂があちらにありますけれど、それよりは、私達学生用の食堂かテラスのほうがよろしいかしら」
常盤台女子は男子禁制の学び舎の園の中にある。
しかし、レベル5を二人も要することからも学園都市の最高学府のひとつであることは間違いない。
当然のことながら、学生と共同研究を行う男性の研究者は沢山いて、常盤台の中に来ることもある。
人目に触れないように常盤台の外れに案内されるので大半の人間には気づかれないが、実は結構、常盤台には男性が入ってくることがあるのだ。
そして彼らは食事を摂りに出かけることすらままならない。そういう研究者向けの食堂が、この常盤台の外れに一つあるのだった。
とはいえ佐天は服装以外はここにいてもなんらおかしくない女子中学生だし、
常盤台に知り合いがいないわけでもない。
「あー、視線を集めるのはちょっと嫌なんですけど、初春……友達に、ぜひとも常盤台の皆さんのお食事している場所がどんなのか、その目で見て教えてください、って頼まれちゃってるんで」
「はあ。別に大したものはありませんわよ」
「常盤台でもですか?」
「私達も、佐天さんと同じものを食べる同じ女学生ですもの」
クスリと笑って光子は腰を上げた。佐天と知り合いなのは湾内と泡浮、そして御坂と白井だろう。
湾内と泡浮となら、上手くいけば会えるかもしれない。
居心地が悪いであろう佐天にとっては知り合いが多いほうが良いだろう。
なるべく知り合いを探そうと思いながら、光子は佐天を食堂へ誘った。



[19764] interlude03: 乙女の昼餐(そう淑やかでもない)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/17 01:43

休憩室を覗いて、湾内と泡浮の二人を探す。食事に行ったか、あるいは出かけたか、二人はいなかった。
夏休み中で、昼に学外へと昼食を摂りに行くのもアリだから、そうしたのかもしれない。待っても仕方ないし、二人は流体制御工学教室の学舎を出た。
「あつー……」
「分かってはいますけれど、外はたまりませんわね」
光子は扇子を取り出してパタパタと仰いでいる。渦を作って、佐天も首筋に風を作り出した。
風も生ぬるいので、あまり意味はないのだが。
「冷たい麺類にしようかしら」
「あ、いいですね」
「割とあの食堂の冷製パスタは気に入ってますの」
「パ、パスタですか」
ちょっと予想外だった。てっきり冷凍麺で作った冷やし中華やうどん、そばだと思ったのだ。学食なんて普通はそんなもんだ。
しかし、確かにこの学校の雰囲気にはパスタのほうが合っていた。
「細かく刻んだ蛸の食感とバルサミコ酢のさっぱりした感じが、暑い日には軽くて良いですわ」
「へー」
とりあえず佐天の昼は決まった。具体的な説明があるとつい味を想像してしまう。
聞いたところ材料はそう突飛でもないし、バルサミコ酢は家にないが黒酢ならあるから、家で真似することも出来るだろう。
「おーい、佐天さん! 婚后さん!」
「あら?」
「あ、御坂さん」
「ごきげんよう佐天さん。それと、婚后光子」
「どうして呼び捨てにされなければいけないのかしら? 白井さん」
別の建物から出てきたらしい二人、白井黒子と御坂美琴に返事を返す。どうも光子は白井と反りが合わないのだった。
いや、反りが合わないというか、光子としては普通に接しているつもりなのだが、どこか光子の態度が白井には合わないらしかった。
レベルは同じだが、学年は一つ上なのだ。もう少し態度に敬意があれば、光子のほうから歩み寄る気にもなるのだが。
「これは失礼しましたわ、婚后先輩」
「過ぎた慇懃は無礼と同じ、それくらい学びませんでしたの?」
「私は精一杯丁寧にお詫びを申しあげただけですわ、婚后先輩」
先輩という響きは、あまり常盤台では聞かれない。慣例としてさん付けが多いのだ。
だからその先輩というフレーズを強調する白井が、やっぱり気に入らない光子なのだった。
そしてお姉さまに比べて自分の能力を鼻にかけてお嬢様な態度をとりがちな先輩の婚后が、どうも気に入らない白井なのだった。
「ま、まあまあ。それで佐天さん、今日も婚后さんにレッスン受けてたの?」
「はい。そうなんですよ」
「佐天さんは物凄く伸びがよろしいですわ。二学期が始まる前が大変でしょうね」
「……え? なんでですか?」
「転校されるんだったら、どこに移るかは大事なことだと思いますけれど」
「え? 佐天さん転校するの?」
「え? いや、私まだ考えてないですけど……」
サラリと光子が言ったことは、先生には言われていたが、光子とは話をしたことがなかった内容だ。
突然だったので動揺してしまった。
「今の段階で、通ってらっしゃる中学ではもう一番だと思いますわよ。上の学年も含めて」
「へー! 佐天さんそんなに伸びたんだ。すごいじゃない!」
「い、いや、全然実感がないんで分からないんですけどね」
「今、レベルはいくつですの?」
「まだレベル1ですけど」
「すぐに上がりますわ」
レベルを尋ねた白井に、光子が隣でそう断言した。もうレベル2という評価がすぐ手元に近づいている状況だった。
そしてレベル2なら、中堅の学校を狙う段階だ。支給される奨学金の額が全く変わってくるからだ。
きりもちょうど良いし、確かに順当に行けば転校が自然なことなのかもしれない。
「でも、初春さんと別れちゃうのは寂しいよね」
「そうですね。入学してからずっと一緒に遊んでましたし」
「大丈夫ですわ。あの子は転校したくらいで忘れる薄情者じゃありませんし、風紀委員の支部に来れば毎日でも会えますわよ」
白井と初春の信頼関係は、自分と初春のそれとは違う。
二人がスキンシップを取っているようなところは見たところがない。
なんというか、相棒なのだ。そういう関係が羨ましくないこともなかった。
「ねえ、立ち話もなんだし、さっさと食堂に行きましょ」
「ですわね。お姉さま、今日は何にしますの?」
「んー、麻婆豆腐の気分かな?」
「御坂さん、この暑いのによくそんなもの召し上がりますわね……」
「今日は東洋の気分なのよねー」
「東洋?」
「お姉さまの共同研究先、今回は東洋医学の方々らしいですわ」
「え、御坂さんが医学、ですか?」
発電系能力者というのはそんなこともするのか。佐天は軽い驚きを感じた。
それに美琴が、シュッシュッとシャドーボクシングをしながら茶化して返事をした。
「まあね。ちょっと殺気の感じ方を勉強しようかと」
「え?」
食堂に入る。中はそこそこ混んでいて、僅かに並んだ人の列の最後尾で四人は立ち止まる。
美琴の不思議な発言に、白井が軽く顔を片手で覆っていた。
「変わった依頼をお引き受けになったと思ったら、マンガが動機ですの?」
「別に良いじゃない。それなりに成果をまとめる自信があるから引き受けたんだし」
「西洋医学でも発電系能力者を必要としているところなんて山ほどあるでしょうに」
「そういうところに協力したこともあるわよ。筋ジストロフィーのとか。今回はそういうので見てないところに切り込もうってだけ」
オーダーの順番が回ってくる。佐天と光子は冷製パスタを、美琴は麻婆豆腐、黒子は炊き込みご飯のランチセットを手早く頼む。
「御坂さん、東洋医学と電気、というのはどういう組み合わせになりますの?」
「ん? ほら、人間の体にはツボってあるじゃない? 足の裏のある場所を押すと肩こりがほぐれる、とか。お灸や鍼もあるよね。経験則として東洋医学はこれを体系化してるけど、東洋医学でここにツボがあるっていう場所を切開しても、西洋医学では何も見つけられないんだよね。で、この前黒子に肩揉んで貰ってて、ふと思ったのよ。皮膚の表面電位とツボって関係してるっぽいって」
「お姉さま……もしかして、黒子がお役に立って、いましたの?」
「え? うんまあ、あの後手が急に胸に伸びてこなきゃ感謝しようと思ったんだけど」
「じ、事故ですわ」
「随分と意図的な事故だったように思うけど?」
感極まって目をウルウルさせたかと思うと、一転して冷や汗をダラダラ垂らす白井だった。
「ま、まあそれでさ。考えれば当たり前だなーって。脳は人間の体を制御する重要な部位だけど、国家だとかと同じで、中枢が何でもかんでも裁くわけにはいかないでしょ。細かいことは現場、人間で言えば皮膚が知的な処理ってのを行っててもおかしくないのよね」
空いた席に適当に座って、四人はランチを始めた。常盤台の常識なのか、座ってきちんといただきますを言う三人に佐天も唱和する。
細いパスタ、カッペリーニに黒みがかったソースと蛸を乗せて、口に運んでみた。
「あ、美味しい」
「でしょう?」
「さっぱりしてていいですね」
「辛っ……」
「お姉さま、かなり辛いと書いてありましたの、読みませんでしたの?」
「い、いや学食のメニューなんてもっと万人向けじゃない? 普通は」
「数量限定メニューですわよ、これ」
白井があきれた目で炊き込みご飯をパクつきながら、涙目の美琴を眺めた。



空腹をとりあえず解消する程度まで箸を進めて、軽く落ち着いた辺りで白井が美琴に尋ねた。
「そういえばお姉さま、お昼からはどうされますの?」
「え? 昼から? んー」
「婚后さん、私達は?」
「昼からは佐天さんは猛特訓ですわ。へとへとになって意識が混濁するまで頑張ってもらいますわよ」
「え、意識が、混濁ですか?」
ニコニコとたおやかに微笑む光子の裏に、ゆらっとオーラが見えた。
スパルタ指導者の雰囲気というか、そんな感じだった。
「ええ。昼からは外部の研究者の方もいらっしゃって、航空機のエンジン開発の手伝いをしてもらう予定ですわ。あら佐天さん。そんな顔はおよしになって。新薬の被験者に応募するのの倍くらいはお小遣いが手に入りますわよ?」
「自由になるお金が増えるのはありがたい事ですけれど、そんな直截的な言い方ではあまりに品がありませんわ。裕福な家庭の子女の多い常盤台ですけれど、それだけに成金上がりも多いですから、どうぞ言葉遣いには注意なさったら? 婚后さん」
「素敵な箴言をくださってありがとう、白井さん。でも杞憂ですわ。婚后は旧くからの名家ですし、その子女として厳しく躾けられてきましたもの。私が強調したかったのは、学園都市や両親から与えられたお金ではなくて、自分の努力で手にしたお金が手に入る、ということですわ」
「ああ、そうでしたの。それは失礼しましたわ。婚后さんがそのようなことを仰るとは思い至りませんでしたの」
「分かってくだされば結構ですわ」
ふふふふ、と本音を見せずに微笑みあう婚后と白井を見て、仲がいいんだか悪いんだかと佐天は心の中で呟いた。
「それで、御坂さんは昼から何するんですか?」
「あ、うん。私は佐天さんたちと違ってもう学校に用事はないから、ちょっと出かけようかなって。黒子は確か風紀委員の仕事よね?」
「そうですけれど、それが何か?」
「いや別に、ちょっと確認しただけ」
ちょっと、黒子には聞かれたくないことだった。
だがそれに何か感づいたのか、黒子がクワァッと目を開いて、手をわななかせた。
「おおおお姉さま。まさか、まさかとは思いますが。その……殿方と?」
「へっ?」
「いけません、いけませんわそんなこと!」
「ハァ? アンタ突然何言ってんのよ。私デートなんて一言も」
「デートっ!? お姉さま、今デートと仰いましたの?!」
「だから落ち着け! ったく!」
「これが落ち着いていられますか!」
両手を頬にぎゅっと押し付けてアッチョンブリケな表情をして黒子があとずさる。
傍らには椅子が倒れていた。
「お姉さまは最近、変ですもの」
「へー、御坂さんのそういう話、ちょっと気になるなー。ね、婚后さん?」
「ええ、まあ」
そうでもない光子だった。彼氏持ちの余裕だった。
とはいえここは佐天と白井にあわせたほうが面白そうなので、相槌を打っておく。
「佐天さんと婚后さんまで……もう、別に遊びに行くわけじゃないわよ」
「ふうん……白井さん、御坂さんって気になる人、いるんですか?」
「そうなんですのよ佐天さん! 私というものがありながらお姉さまったら最近はことあるごとに、あのバカは、あのバカなら、あのバカと、なんて『あのバカ』さんの話をなさいますのよ」
「グガホゲホゴホッ! わ、私は別にそんな何度もアイツのことなんか――」
「やっぱりいるんですね! 気になる人!」
「ちちち違うわよ! 大体す、す、好きな人にあのバカとか言うわけないでしょ!」
「好きなんですか?」
「だから違う! 逆、逆よ。大体頼みもしないのに助けてくれちゃったりさ、正義の味方気取りの調子に乗ったヤツなのよ!」
ん? と光子は首をかしげる。なんとなく引っかかりを感じたのだ。
となりで歯噛みする白井と目を爛々と輝かせた佐天が容赦なく追及していた。
「御坂さんが不良に絡まれてるときに、助けに来てくれたってことですか?」
「え、ああ、うん。まあ勿論手助けなんていらなかったし、余計なお世話だったんだけど。……ってああもう! この話はもういいでしょ?」
「分かりました。それじゃあ次行きましょう。どんなところに惹かれたんですか?」
「だーかーらもう、佐天さん! からかわないでよね」
「アハハ。ごめんなさい。でも、御坂さんも可愛いとこありますね」
「か、可愛いって……。そ、それより! 佐天さんはどうなの?」
攻撃は最大の防御と言わんばかりに、美琴が佐天に矛を向ける。
光子は美琴の恋愛事情よりは興味があった。自分の弟子の話だからだ。
「私も聞きたいわ。佐天さんは気になる殿方はいらっしゃるの?」
「え? やだなぁ、そういうの、今はないですよ。今は初春一筋ですから」
「えっ?」
美琴が凍りつく。なにせ、『そういうの』の実例が自分の同居人にして今も隣に座っているのだ。
そういう趣味には見えなかったのだが、言われてみれば佐天はかなり初春とのスキンシップが好きだ。
それも、結構濃くて、初春が真っ赤になるような感じの。
「初春ですの? それじゃ同性じゃありませんか」
「え?」
「? 何か?」
不審な目で白井を見つめた美琴に、不審げな視線が帰ってきた。
自分の普段の行いをまるで振り返っちゃいない態度だった。
「白井さんだって御坂さんのこと好きでしょ?」
「ええ、心の底から体の先、髪の一本一本に至るまでお姉さまのことをお慕いしていますわ」
「気持ちだけなら受け取ったげるから離れろ黒子!」
イカかタコのようににゅるりと腕を滑らせて白井が美琴に絡みつく。
見事な手裁きで美琴の脇の下に差し込まれた腕は、明らかに美琴の慎ましい胸にタッチしていた。
「私も初春のこと、なんかほっとけないんですよね。クラスの男子は皆ゲームだのなんだのってはしゃいでて、あんまり興味もてないし」
「じゃあ佐天さんは年下の男性が好みですの?」
「え? 年下……って私達の年じゃ年下っていくらなんでもピンとこないですよ」
「まあそうですわね」
「婚后さんは年上の人とだからいいのかもしれませんけど」
「婚后さん、彼氏いるの?!」
美琴はこないだ街中で会っているときに彼氏に電話をしているらしい光子に出会っていたから、ちょっと気になっていた。
隣で白井が露骨にありえない、という顔をした。
「えっ? ええ、まあ……」
「あなたに……? まあ、物好きな殿方もいらしたものね」
「少なくとも白井さんに懸想する殿方よりは普通だと思いますけれど」
こんなお姉さまLOVE!という空気を撒き散らす女子生徒に寄り付く男のほうが、当麻よりも物好きだと思う。
「そういえば私も聞いてなかったですけど、どんな方なんですか?」
「どんなって、その、ちょっとエッチですし何かとおっちょこちょいなことをして不幸だなんて呟きますけど、格好よくて、いざというときにはすごく頼りになって、私には優しくって……」
「へー……好き、なんだね」
白井が露骨にイラッとした顔を見せ、佐天と美琴は困ったように顔を見合わせた。惚気話というのはこんなにもめんどくさいのか。
独り者のやっかみかも知れないが、正直長く聞いていたい代物ではなかった。
「そ、それはやっぱりお付き合いしているんですもの。好きに決まっていますわ」
「一応聞いておきますけれど、ちゃんとお相手の方からも愛されていますの?」
「と、当然ですわ! 失礼なこと仰らないで」
「ごめんあそばせ。でもそんな顔をその方の前でされたら千年の恋も冷めますわ」
当麻は光子の怒った顔も結構好きなのでそんなことはないのだが、光子はくっと堪えて自制する。
そしてスカートのポケットから丁寧に鍵入れにしまった鍵を取り出す。
「物で証明するのは浅ましいとお思いかもしれませんけれど。あの人は家の合鍵を、私にくれましたわ」
「おおおおおおおーーー!」
「う、わぁ。それ、確かに常盤台の寮の鍵じゃないよね」
「ええ、それはこちらですもの」
違う寮に住んではいるが、光子の寮の鍵は美琴のと同じ意匠だ。
光子が手にしているのはいかにも下宿の鍵、という感じの鍵だ。それにちょっと劣等感を覚える美琴だった。
光子はまあ、率直に言って相当に我侭なお嬢様っぽい感じがするが、スタイルもいいし間違いなく美人だ。
受け答えも知り合った頃、一ヶ月前より丸くなった気がする。
彼氏に対してあまり我侭を言わないのなら、付き合いたいという男が山のようにいてもおかしくはない。
「はぁー、婚后さん、大人だね。年上って言ってたけど、三年生? それとも高校生?」
「高校一年の方ですわ」
「近くに住んでるの?」
「ええ、同じ第七学区の学校に通っておられますの。寮もこの学区内ですわ」
「じゃあ出会いのきっかけってナンパとか……そういうのですか?」
「違いますわ。その、不良に追われてらっしゃったのを私が助けたのがきっかけなんですけれど」
「あ、それじゃ御坂さんと逆なんですね」
「そうなりますわね」
あれ、と美琴は首をかしげる。そういやこないだ、あのバカを追いかける不良どもを軽く焦がしてやったっけ。
なんとなく引っかかるものを感じた。
「それからどうやって仲良くなったんですか?」
「佐天さん、もうよろしいんじゃありませんこと? 婚后さんが話したくってうずうずされてますわ」
「べっ、別にそんなことは……!」
「惚気たいって顔に書いてありますわよ。まあ、恋人が出来るというのはそういうことなのかもしれませんけど」
「まあいいじゃないですか白井さん。ね、御坂さんも気になりません? 街中で知り合った男の人と仲良くなる方法」
「え? そ、そんなの別に興味ないわよ!」
こういうとき素直になれないのが美琴なのだ。佐天はそれが分かっているから、光子を誘導する。光子も佐天の意図に気がついた。
白井に嫌味を言われたことだし、自慢にならない範囲で美琴のアドバイスになるよう、言葉を選ぶ。
「助けて差し上げた関係で初めて会ったその日に、ファストフードのお店でアップルパイをご馳走していただきましたの。それもあってたまたま街中で二回目に会ったときも、自然と立ち話をできましたの。あと15分で卵のタイムセールがおわっちまう、一人二パックまでいけるんだ、なんて仰るから、つい面白くなってお手伝いしましたの。そうしたらまた同じ店でアップルパイをご馳走してくださって」
「へー、結構家庭的な彼氏さんなんですね」
「そうですわね。私より、料理の腕は確かですもの。ちょっと悔しくなってしまいますわ」
「おー。じゃあ、気になる男の人がいる御坂さんに何かアドバイスは?」
「ア、アドバイスですの? そんなこと言われましても、その方がどんなことか分からないことには……」
面白くなさそうな白井の横で、『わ、わたしそんな話興味ないわよ!』という顔をしながら耳を澄ませている美琴を見る。
露骨に動揺して、『うぇっ、だ、だから好きとかそんなんじゃないって』という感じだった。
「御坂さんも隠すのは得意なほうではありませんわね」
「か、隠すって何よ。私は別に、アイツのことなんか気にしてないし!」
「じゃあ例えば他の女性がその方と仲良くしていても問題ありませんのね?」
「そりゃ、そりゃそうよ。私とアイツはなんでもないし……」
ズズズズガラガラガラガラと氷っぽくなった紅茶を吸い上げて、美琴がガジガジとストローを噛んだ。
隣の佐天がわかりやすいなあ、と苦笑いを浮かべていた。
「その人って高校生ですか?」
「も、もうこの話はいいでしょ?!」
「何言ってるんですかこれからですよ!」
「高校生の方とお見受けします」
「え?」
「ブツブツと部屋で呟いているお姉さまの口の端から聞こえてきた情報ですわ」
「ほっほーぅ、婚后さん、御坂さんも高校生が好きらしいですよ。何かアドバイスを!」
「さ、佐天さん。もう……そうですわね、やっぱり、あまり妬き餅を焼かないことですわね。口げんかをするとすぐに年下扱いされて、同い年ではありませんことを思い知りますの。クラスメイトの女性の方と話す当麻さん……あの人を見たことがありますけれど、やっぱり私では子どもなのかしらって、悔しくなってしまって」
「……」
今光子はなんと言っただろう。ドキリ、として美琴は咄嗟に相槌を打てなかった。
こっそりとネットワークにハックして手に入れたアイツの情報。
名前が、似ている気がした。しかし聞き返すのもおかしいいし、確かめられなかった。
「ですから天邪鬼な態度はお止めになったほうがよろしいわ、御坂さん」
「え?」
「好きなら好きだって言ってくれたら嬉しい、って。あの人とお付き合いする前に言われたことですわ。素直じゃないところも可愛いけど、素直なところが一番可愛いからって」
「はぁー、もうっ! 婚后さん惚気すぎですよ」
「さ、佐天さん。今のはアドバイスであって惚気とかそんなんじゃ……」
「まったく。もうお姉さまを解放してくださいまし。昼休みが終わってしまいますわよ」
「ごめん遊ばせ。御坂さんが可愛らしくて、つい」
「可愛いって、もう、婚后さん」
「ふふ。ごめんなさい。でも御坂さんはお綺麗だし、その方にアタックすればきっと」
「しないって!」
「それでお姉さま。お昼から、その方のところでないのなら、どちらへ?」
「ああ、うん」


急に醒めたように、美琴が浮ついた表情を消して、椅子に腰掛けなおした。


「木山のところに、行ってみようかなって」



[19764] interlude04: 爆縮渦流 - Implosion Vortex -
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/23 01:25

美琴たちと別れ、再び先ほどの教室へと戻る道すがら。
「佐天さん、どうされたの? あまり顔色が優れませんようですけれど」
「あ……」
光子は気がそぞろになった佐天の様子が気になっていた。集中できないとあまりレッスンにも意味がない。
そして佐天は、何気なくであったのに、光子にそう尋ねられたことに息が詰まりそうな思いを感じていた。
「木山春生っていえば、確かあの幻想御手<レベルアッパー>事件で主犯格として拘束された人でしたわね」
「……」
「その方の逮捕に白井さんが関わっている、というのはまだ分かりますけれど、どうして御坂さんが……って、佐天さん? あの」
「ごめんなさい」
唐突に、佐天が光子に謝った。
反射的に問い返そうとして、追い詰められたような佐天の表情に口ごもった。
「謝ってもらうことに、心当たりがありませんわ。嫌ならこれ以上はお聞きしませんけど、もし話を聞いて欲しいなら、いくらでも付き合いますわ」
「……あの、わたし」
右手をきゅっと握り締めて足元を見つめた佐天が、そこで言い淀んだ。
初めてアドバイスをしたときもこういうことがありましたわね、と光子は思い出した。
気を重たくさせぬように微笑んで、僅かな仕草で空気をかき回す。
「婚后さんが今言った幻想御手、私、使ったんです」
「えっ? それって――」
確か、一時的に能力は伸びたが、暴走によって使用者全員が意識を失った大事件だったはずだ。
テレビでそう話しているのを光子は見た覚えがあった。
「前に一度、言いましたよね。私、一回だけ能力が使えたことがあって、それで空力使いだって分かったって。何の能力かもわかんないくらいの無能力者だったのに、いきなり能力が使えるわけないじゃないですか。……幻想御手<レベルアッパー>で、私はズルをしたんです」
「そう、でしたの」
「ごめんなさい」
「どうして謝りますの? それに後遺症とかは、大丈夫でしたの?」
「はい。後遺症とかはぜんぜんなくて……でも、大事なことなのに、婚后さんに黙ってました」
自分から沈み込んでいくように、佐天が懺悔を続ける。
佐天が謝る意味を、ようやく光子は理解し始めていた。
「ずるいやり方で能力を伸ばしたから、私に謝っていますの?」
「……はい」
「別に、気にする必要なんてないと思いますわ。だってそういう人、普通にいますもの」
「え?」
困惑するように佐天が光子を見上げた。
流体制御工学教室、と書かれた見知った建物に佐天と光子は再び入り、二人のために用意した部屋へと戻る。
冷房の行き届いた部屋で汗が引くのを待ちながら、光子が続きを話した。
「私は開発官が勧めてくれた未認可の薬を何度か服用したことが有りますわ」
「え?」
「レベルが2の頃でしたから、今みたいな細かなチェックをしていただけるわけもありませんし、健康に対するリスクから、人数の多い低レベル能力者への投薬を認められていないものでしたわ」
学園都市の大半は、無能力者や低いレベルの能力者だ。そして学生達をチェックする大人の数は、かなり限られている。
その結果、当然のこととして大半の人間に与えられる能力開発の試薬は効き目がマイルドで、安全な物が多い。
能力を伸ばすために高レベル能力者が使う試薬に手を出す、それはある種の禁じ手でありながら、功を焦る開発官と劣等感に苛まれる学生の利害の一致から、しばしば横行する反則技だった。
もちろんそれが反則技になる理由は明快だ。管理できないほどの人数に、強い幻覚剤を与えて安全なことなどあるはずがない。副作用で精神的な障害を負うことだってないとは言えないのだ。
そういう危険を承知で、細かなチェックをすることでリスクを潰しながら、数の少ない高レベル能力者は作用も副作用も強い薬を服用していく。
ぱたり、と扇子を閉じて穏やかな表情で光子が佐天を見つめた。
「皆やっているから、でこういうことを許すのが良いとは限りませんけれど、開発の現場で、反則行為というのは横行しているものですわ」
佐天はその表情の意味を読み取れなかった。
微笑みを浮かべているものの、表れた感情は佐天への同情とも、反則を正当化するような意思とも、いずれとも違っているように見えた。
「あの。責めるんじゃないですけど、そういうことをして、悪いなとか、良くないなって思いませんか?」
「……普段は考えないことにしていますわ。みんなしていることだ、とあの時開発官は繰り返しましたから。それに、身につけてしまった能力は、たとえ私が好まざろうとも、もう私のものですわ。それを間違ったものだといっても、もう、捨てることも嫌うことも出来ません」
「……」
「だから、といってしまうのは浅ましいかもしれませんけれど。どんな方法を使ったにせよ、確かに佐天さんは能力を伸ばしたのですわ。だからもう、それでいいじゃありませんか」
光子の返事は答えというより、正当化の理屈、だっただろう。現に佐天は釈然としない思いを感じている。
言われてみれば幻想御手という反則は、実は気に病むほどの行為ではなかったのかもしれない。
でも、だけど。
「婚后さんはもう、吹っ切りましたか? また勧められたら、またやりますか?」
それを、聞かずにはいられなかった。光子が目を伏せながら笑った。
「勧められたこと、ありますの。でも断りましたわ。当麻さんの顔を思い出したら、やめようって思いましたの」
「彼氏さん、ですか」
「ええ。能力を伸ばしても、あの人に胸を張れないのは嫌ですの。あの人に褒めてもらうのがすごく嬉しくて、今は頑張っていますから」
当麻はレベル0だ。だが、それに卑屈になることのない人だった。
そんな人と心を通わし合えたおかげで、レベルなんてものが、本当の人の価値を測る定規ではありえないことを理解できた。
手段を選ばずレベルを上げるような人間じゃなくて、あの人に尊重される人でありたい。その考え方の変化を、とても光子は気に入っていた。
そしてその理屈は、佐天にとっても、すごく格好よく見えるものだった。
「はぁー……。彼氏さんが出来るって、いいことですね」
「あ、ごめんなさい。また惚気だって叱られますわね」
「でも羨ましいです。そういう風に思える人が隣にいるって」
「恋人じゃなくても、佐天さんの隣には、きっと素敵なお友達がいるんじゃありませんこと?」
真っ先に思い浮かべたのは、初春の泣き顔。佐天が幻想御手の副作用から意識を回復させた後に真っ先に見た表情。
ちょっと鼻水が出てグズグズの情けない顔だったのに、すごく嬉しかった。
頼りなくて涙もろい友達だけど、初春には胸を張って能力を伸ばしたい。
「レベル4の能力者にアドバイスを頼むのも、一応反則技ですのよ?」
「え? そうなんですか?」
「規則としては、開発のサポートは開発官にしてもらうものですから」
「……でも。婚后さんに教えてもらって、私はすごく、嬉しかったです」
「そう。まあ、駄目と規則に書かれているわけでは有りませんし、いいじゃありませんか」
「そうです、ね。もっと、頑張って伸ばします」
「ええ。私も負けないように頑張りますわ。ね、佐天さん」
「はい、あっ……」
不意に、光子に抱きしめられた。いい匂いがして、ドキドキする。
婚后さんってこんな人だったのかな、と佐天は不思議に思った。
こんなにお互いに仲良くなってからも大して経っていないと思うのに、すごく優しい人だと感じる。
ナデナデと頭を撫でて、目の前でそっと微笑んでくれた。
「ふふ」
「こ、婚后さん、あの」
「照れてる佐天さんも可愛らしいわ」
「ちょっと、もう、恥ずかしいですよ……」
「是非常盤台にいらっしゃい」
「えぇっ? いや、いくらなんでもそんなの」
「あら、無理だなんて仰ってはいけませんわ」
「はあ……」
普段は初春に抱きつく側だし、年上の美琴もこういうスキンシップを佐天にとってくることはなかった。
年下扱いも、意外と悪くなかった。
「さてそれじゃあ、続きのレッスンをしましょうか。スパルタで行きますわよ?」
「はい! 望むところです!」
意識を切り替えて、二人は実験室へと向かった。




先日、燃料を爆発させる実験をやったときの部屋の辺りに、佐天は連れてこられた。
実験室は四畳くらいの小さな部屋だったはずなのに、部屋と部屋の区切りが取り払われて、教室二つ分くらいの広さになっている。
そのせいで前と同じところに来た実感をいまいちつかめなかった。
「あちらがこのプロジェクトのリーダーですわ。事実上、学園都市で一番の空力使いです」
常盤台に外部から来ているからなのか、スーツ姿の研究者達がパソコンと向かい合う中、少し大人びた感じのする常盤台の女学生が微笑んで会釈した。もしかしたら三年生だろうか。
佐天もペコリとお辞儀を返した。
空力使いにレベル5はいない。だが、おそらくレベル4の空力使いはかなりいるだろう。
能力の分類でいえば念動力使い<サイコキネシスト>や発電能力者<エレクトロマスター>と同様、カテゴライズされる人間の多い、平凡な能力だ。
「一番ってことは、あの、婚后さんよりも?」
「ええ。数字の上では、私より上ですわ」
向こうがその光子の一言に苦笑いを浮かべた。だが、瞳の中に謙遜の色はない。
事実そうだと言い、負ける気は無いという気の強さを感じさせる目だった。
「ま、このレベルまで来ると比べてもあまり意味がありませんわ。個々の能力に特色がつきすぎて、比較が無理矢理になってきますから」
もとよりこの話は続ける気はないのか、光子が佐天をラボの端の机の島へと案内する。
島ごとにチームが分かれているらしい。
「今日佐天さんがお手伝いするのはここの班ですわ」
「よろしくお願いします」
にこやかに笑いながら、先生とは違う雰囲気を持った大人たちが対等な感じで自分に会釈をしてくれた。
「最初は私もお付き合いしますわ。慣れてきたら私も担当のブースに顔を出しますけれど」
「え? 婚后さんは別のところなんですか?」
「ええ。ここには超音速旅客機をつくるグループが集まっていますけれど、私は機体表面の設計グループの長ですから。エンジン設計のグループであるここは、担当外になりますの」
ここのプロジェクトリーダーは、先ほどの生徒とは別の空力使いらしい。もちろん常盤台の学生だ。
よく見るとちらほらいる常盤台の生徒には皆研究者とは別の大人が付き添っていたりする。一瞬秘書かと思ったが、どうやら先生らしい。
能力的には天才の集まる常盤台であっても、所詮は皆中学生だ。指揮を執る才に恵まれた人ばかりではない。
おそらく、そういう慣れない部分を補佐するために、マンツーマンで先生がついているのだろう。
「婚后さんには先生、いないんですか?」
「私も普段は助けていただいていますわ。今日は非番ですの。一応佐天さんの面倒を見るつもりでしたから」
「あ、なんだかすみません」
「いいんですのよ。メリットを出せるかどうかは佐天さん次第ですけれど、絶対に損をするとは限りませんから」
心臓が緊張に跳ね上がるのを佐天は自覚した。試験などとは違う形で、自分は今、試されているのだ。
うまくやれれば、ここで自分は誰かのために能力を使うことが出来る。
駄目でもともとと思われているかもしれないが、でも、失敗すればお荷物になって貴重な他人の時間を浪費させてしまう。
姿勢を正して、目の前の人たちにもう一度挨拶した。
「出来るだけのことは、やります。よろしくお願いします」



光子が佐天の担当部署の長にあたる1年生らしい人に声をかけ、佐天を紹介してくれた。
そしてすぐさま、仕事を割り振られる。説明は簡素だった。おそらく光子が細かいことはしてくれるとの判断だろう。
「さて、それじゃ始めましょうか」
「あ、はい。えっと、これとあれを比べればいいんですよね?」
「ええ。そうですわ」
手元には、データの入った小さなメモリと数式の書かれた紙の束。そして指差す先には燃焼試験室。
佐天が割り振られた仕事は、その二つを比較してコメントしてくれ、というものだった。
光子が事情を理解した顔をしているので頼ることは出来るだろうが、佐天は何を頼まれたのかよく分かっていなかった。
「あの、比べるって、なんていうか」
「佐天さんはあまりレベルは高くありませんでしょう?」
「あ、はい」
「そういう人が研究開発に従事するとき、まずすることは何かご存知?」
「え? えっと」
下っ端がすることといえば、お茶汲みかコピー取りじゃないのだろうか。あるいは掃除か。
だが少なくとも渡されたデータの重みは、そんなレベルじゃないように感じる。
「測定装置代わりになること、ですわ」
「装置の、代わり?」
「ええ。研究というものは最終的な目標がまずあって、それを達成するために何をすればいいのかを明らかにし、どうやって達成していくか計画を立て、それを実践する、そういう流れになりますわ。でも佐天さんにいきなりその流れに沿って何かをやれといっても難しいでしょう? だからまず、研究をする側の人ではなくて、研究者に使われる測定装置になってもらいます」
「はあ……あの、それはいいんですけど、何をしたらいいんですか?」
「まず、このデータを拝見しましょうか。数式の意味は理解できる?」
「えっと……これがよく分からないんですけど、あとは」
論文というか報告書というか、ファイルになったその紙をめくっていくと、基本的には佐天が慣れ親しんだのと同じ手法で表現された流れの支配方程式が並んでいる。
ただ発熱に関する部分が、化学反応、どうやら燃料の燃焼に関する式で書かれているらしく、そこだけ怪しかった。
「ああ、これは結局、気体自身が発熱するんだと思えばよろしいわ。細かい化学反応の部分は後でも理解できます」
「あ、はい」
「それで、佐天さんはこれを解析できます?」
「……たぶん、なんとか」
じっとその数式群だけを見つめながら、佐天はそう返事をした。扇子で隠した口元で、光子は満足げに微笑んだ。
「ではこれに従って流れを想像して御覧なさい」
「はい」
書かれた式を脳裏に思い浮かべ、数値演算で無理矢理解けるよう、式を変形しながら連立していく。
そして書かれた初期条件、境界条件を丁寧にイメージし、確かな幻を作り上げる。
あとは解くだけだ。集中力はいるけれど、もう不可能なことは何もない。
微積分を習う前には、レベル1になって渦を作れるようになった後でもそれは出来なかったことだった。

ケロシンという揮発性の高い航空燃料の充満したチェンバー。エンジンの心臓となるその空間を、複雑な形状まで注意深く想像する。
演算を開始する。内壁の一部が気体を押しつぶすように内へ内へと向かう。佐天にとってそれは、シミュレーションボックスの端、つまり境界条件の動的変化に相当する。
そしてボックスの圧縮率がある敷居値を越えた瞬間、佐天にとってのブラックボックス、化学反応式がトリガーされる。
暴虐的な熱と運動量が、何もないところから生じる。もちろんケロシン蒸気で満ちているから、何も無いというのは佐天の主観だが。
そして爆発によって起こった気流が内壁を押し返し、その壁が接続されているプロペラを回す。プロペラへ伝わる動力は佐天にとっては抵抗としてのみ意識される。
仕事を終えた内壁が再びチェンバーを圧縮すると同時に、排気とケロシンの再噴霧が行われる。
……これが、1サイクル。
1秒間にエンジンの中では何千回と起こるそれを、佐天はたっぷり1分はかけて計算した。
「……ふぅ」
「どう? 再現できましたの?」
「あの、1サイクルだけ」
「そう。初期条件の人為性を消して、ちゃんと定常状態を計算するには1000サイクルくらいは要りますわよ?」
「そっか。そうですよね。……ちょっと待ってください。色々整理します」
「ええ、どうぞ」
こちらの思考を邪魔しないようにだろう、光子が少し離れた自分のデスクで報告書を読みに行ってくれた。
そう高くもなさそうなコーヒーの香りを味と僅かに楽しんで、頭をスッキリさせる。もう一度佐天は数式から、現実を頭の中に組み立て始めた。

二度目は振り回されない。佐天が解くのは計算機と同じ方程式でありながら、機械と佐天は決定的に違う。
何でも出来る計算機は、特化が出来ない。そして何かに特化すれば、それは汎用性を捨てることとイコールだ。
佐天は違う。経験を元に、この方程式に特化した演算処理システムを作る。そしてそれはいつでも忘れられる。
式の解き方と特化するための方法論だけを記憶して、大掛かりなシステムそのものは忘却できる。それを生かすのが能力者だった。
勿論、佐天が脳内に構築する回路はたとえば光子と比べてまだまだ稚拙だ。
それでも二度目は、1サイクルの演算を20秒で済ませた。1000サイクルを、これなら6時間くらいで計算できる。
現実的か非現実的か、どっちとも断言しづらいギリギリのラインだった。そこまで持っていくのが佐天個人の限界だった。
この計算時間では今日は何も、ここにいる人たちに渡せるものがない。焼け石に水と知りつつ5サイクルを演算。
そこで、佐天は思考を中断した。疲れてそれ以上は上手く出来なかった。
「どう?」
「あ、1サイクル20秒くらいには縮まったんですけど……」
佐天は聞かれるままに、自分の組み立てた解法を光子に伝える。
「佐天さん、その三つの式は対称性がよろしいから、ベクトル化できますわ」
「あ、そうですね」
「それとこの式だけ随分と精度の高い式で解いていますわね。精度は一番悪い式に引きずられますから、この式の精度は落としてもよろしいでしょう。指数関数の展開が簡単になりますから」
「はい」
「それとこの式の展開型、ラプラス変換で一度変換してから戻すと多項式近似で綺麗に近似できますわ」
「おー……婚后さん、すごい」
「そりゃあ、一応レベル4の空力使いですから」
佐天が解釈しなおした式を紙に書き出すと、それが真っ赤になるほどに訂正を加えられた。
知恵熱を出しながら解いたのがバカらしくなるほどの修正だった。
そんな計算コストの削り方があったのかと、目からうろこが落ちるようなテクニックがあれこれと出てくる。
それは宝の山だった。逸る気持ちを必死に押さえる。自分の能力の演算にこのテクニックを応用したら、どうなるだろう。
だけど今は目の前の式を解くのが先だ。


すう、と息を深く肺に溜める。アドバイスを生かして、もう一度初めから佐天は1サイクルを計算した。
正確な数字は分からなかった。だって、1秒以下の時間を正確に測るのは佐天にも難しい。
「1サイクル1秒……!」
「まあ、こんなものですわ。1000サイクルで1000秒、17分ですわね」
それはもはや非現実的な数字ではない。
早速演算をしようとする佐天に、光子が薬を差し出した。こないだから飲み始めた、トパーズブルーの薬。
演算能力を一時的に伸ばす薬だった。
「昨日は使っておられませんわよね?」
「はい」
「なら大丈夫。うちの先生を通して佐天さんの担任には報告しておきます。明日はお飲みにならないで」
「分かりました」
水と共に渡されたそれを、佐天は嚥下した。効いてくるまでの数分間を、座り心地のよいソファに寝そべって過ごす。
これっぽっちも眠くはならない。誰かの邪魔だったかもしれないが、それをあまり気にかけなかった。
薬が効いてきたら、どれほどのことをできるだろうという期待で周りがよく見えていなかった。
「頃合ですわね」
「はい。ちょっと冴えてきた感じがします」
「じゃあ、時間を計りますから。……どうぞ」
さらり、と現象が紐解けていく。そんな流麗な印象を、自分の演算に対して佐天は感じた。
初めて能力が使えたときの、あの爆発的な全能感とはまた違う。
自分の世界が広がっていくような、トロくさかった自分の世界の流れが加速するような、広がりを感じる。
清流の滞りがなきが如く、1ステップずつ、1サイクルずつがさらさらと解けていく。
―――17分と見積もられたその演算、複雑な現象であるエンジン内の爆発現象を、佐天は10分で再現しきった。
「……できました」
「そう。予想よりかなり縮めてきましたわね。さて、正しいかどうかの検証は私達では出来ませんから、データに頼りましょうか」
「あ、そのためにあるんですね」
「そういうことですわ」
言われてみれば当然だが、佐天は自分の演算結果を見える形に表現できない。
可視化できないということは、光子と議論が出来ないということだ。そこでこのデータを使うのだった。
光子が自分の計算機にそれを差し込むと、中には数値のままの生データが入っていた。
カチカチと可視化プログラムにそのデータを投入して、見やすいように色などを調整する。
二人の目の前に1000サイクル分があっという間に表示された。
「どう?」
「……大まかに言うと一緒なんですけど、最後のほうは同じとはいえない感じ、です」
「流れの一部一部が同じでないことは別に構いませんわ。熱量の規模だとか、風の流れだとかは大体合っていますの?」
「それは、はい。だいたい合ってます」
「ならよろしいわ。計算はサイクルが進むに連れて計算誤差の影響を膨らませていきますから、ずれは仕方ありませんし」
労うように光子が佐天に微笑を向けて、リラックスを促すように自分も椅子に腰掛けなおした。
「少し休憩しましょう。それが終わったら、本格的に定常化した流れのデータをお渡ししますから、次はそれで演算しましょうか。それが済んだら実験に向かいますわね」
「はい」
佐天はそれでようやく、自分がかなり汗をかいていることに気がついた。
すこし気持ち悪い。ハンカチで軽く拭くが、乾くまではしばらくかかるだろう。
ふうっ、と息を吐く。頭が熱を持っているような感じがする。
それを冷ますように手近にあった紙束で自分を仰いだ。
「あ。これ、かなり過敏になってるなぁ」
光子がまた自分のデスクに向かっている。誰も自分に注視していないのをいいことに、そう独り言を漏らした。
部屋中の空気の流れを感じる。目を瞑っているのに、全てが分かる感じ。
それを手元に集めればどうなるだろう、という考えに心が惹かれるが、迷惑なのでさすがにやらない。
そのまま5分くらい、佐天はじっとしていた。
「さて、そろそろ再開してもよろしくって?」
「はい。やりましょう」
光子が、膨大なデータを佐天に見せた。16桁の数字の羅列。大体100万行くらいだ。
カタカタとデータを間引きして、読める量にする。さっきの演算とは違い、あらかじめ気流にベクトルが与えられている。
うねる炎の流れを時間ごと止めたようなデータ。そこから演算を始めることで、定常的なエンジンサイクルを再現できる。
佐天はあっさりとそのデータを読み込み、脳内でそのシミュレートを始めた。


どかん、ぐるん、どかん、ぐるん。
爆発とプロペラ回転のとめどないサイクル。それが内燃機関の基本原理だ。
1サイクル1サイクルは微妙に動きが違っている。だが、大きくは変化せず、ある平均的な状態に近いものばかりが再現される。
ようやく佐天は、再現に必死なだけではなくて、それを冷静に横から見つめる視点を得られ始めていた。
「そろそろよろしい?」
「はい。また1000サイクルくらいはやれました」
「あら、また少し早くなりましたわね。それで、余裕は出てきました?」
「かなり。こういう閉じ込められた空間で出来る渦って不思議ですね」
「ああ、佐天さんは制限空間は専門外ですものね。ところで、何か気づいたことはありません?」
「気づいたことですか?」
「ええ。ここで空気抵抗が大きいなとか、そういうことですわ」
ああ、と少し佐天は納得した。それを見つけるのが、自分の仕事なのか。
「排気弁の近くが、流れが汚いって思いません?」
「そう……かもしれませんわね」
「この辺とこの辺の流れがぶつかって渦が出来るんですけど、弁から飲み込むにはサイズが大きいから変にほどかないといけないじゃないですか」
「ああ、言われてみれば」
「だから、弁を大きくするとか」
「ふふ。さすがにそれは厳しいですわ。この形は色々な都合で決まっていますから」
特定の部分、部品に熱と圧がかからないように、必要な出力が得られるように、化学反応で煤が出ないように、なんて風にエンジンには沢山の『都合』が存在する。
そしてそういう都合を全て満たすような答えが、これまた無数に存在する。その答えの中で一番いい答え、最適解がどんなものか、それを見つけるのはとても難しいことだ。
計算機上でエンジンをデザインし、その演算をすることは簡単なことだ。だが、それでは局所解しか得られない。
エンジンと名のつくあらゆる可能な形状の中で、どれが一番優れたエンジンなのかはあらかじめ分からない。
全ての可能性を調べつくすことも出来ない。エンジン設計はアート、芸術の世界なのだ。
だから、新しい風をいつも必要としている。今までの人々とは違うものが見える人を。
もちろん、エンジンに限らずあらゆるものの設計にそれは通じていることだが。
成功するかはさておき、光子は佐天にそういう期待をしていた。
「ここまで出来たら、本題に移れますわね」
「あ、はい」
充分に今までもタフな作業で、それが本題でないことなどすっかり忘れていた。
疲労は充分にある。だが、まだやれる。まだやりたい。
実験を行うチームは他にないのか、燃焼試験室の近くはがらんとしていた。
「あ、これ」
「気づきましたのね。そう、さっきからずっと計算していたエンジンのレプリカですわ」
「えっと、まあ、形は一緒ですけど……」
数値としてのスペックは勿論、シミュレーション条件だから全て佐天の頭に入っている。
だが目の前のそれはどうも与えられた数値よりも小ぶりに見える。
佐天の身長よりも高いはずのエンジンは、腰までくらいの高さしかなかった。
そして何より、エンジンという無骨な響きに反し、それは全ての部品が透明だった。
視界を遮らないいくつかの部品は鋼鉄製なのだが、エンジンの外壁がガラスか何かで出来ていて、中まで丸見えだった。
なるほど、おそらくそれが目的なのだろう。
「流れを見るために、あえてこうしているのですわ。あとスケールが小さいのは小さな熱で済ませるためです。ガラスでも、さすがにエンジン内部の熱には耐えられませんから」
例えば、飛行機の羽根を設計したとして、揚力がどれくらい得られるかを実験するとしよう。
それを試すのに、設計図どおりの大きさに羽根を作り、空を飛ぶときと同じだけの風速を巨大な扇風機で作り、
実機どおりのスペックでデータを得ることも、一つの手段ではある。
だが、それにはあまりにお金がかかるし、スケールが巨大すぎる。気軽にはとても実施できない実験になる。
そこで利用されるのが、実験のスケールダウンだ。羽根のサイズを10分の1にして、上手く同じものを見ようという思想になる。
だがこれには問題もある。羽根を10分の1にしたとき、ほかの条件、たとえば風速はどのようにスケールダウンすればいいだろう。
もちろんそれにも制約があって、レイノルズ数とマッハ数が一定に保たれるように決める、ということになる。
エンジンには燃料の爆発というプロセスがあるから、さらに制約は増える。
中が透けて見えるエンジンを作る、ということはそれだけで大きく困難な現象だった。
「佐天さんが計算したあのエンジンよりも全てが何分の一かの規模ですけれど、現象としては相似なはずですわ。今から点火しますから、よくよく流れをご覧になって、先ほどのシミュレーション結果と比べて頂戴」
「わかりました」
光子が目配せをすると、いつの間にいたのか、佐天の協力部署の人たちが何人か実験の手伝いに来ていた。
コンソールのボタンを押すと、エンジンに付いたピストンが緩やかに動き、エンジン内部に吸気が始まった。
「これを」
光子に暗視用の眼鏡を渡される。
燃焼試験室と測定室の間を隔てる透明の壁は強すぎる光を遮断してくれるのだが、万が一のための保護眼鏡だった。
それをつけると、いきます、と研究員の人が佐天たちに声をかけた。



爆発だから、ドン、と音がするものだと思っていた。
――エンジンなのだから鳴り響くのは唸るような音だった。1秒間に数千回の爆発が起こる音とは、そういうものだった。
「どう?」
「どうって、これ目で追えないくらい早いんですけど」
「そう? 本当に?」
本当だった。視覚はまるで用を成さない。佐天の動体『視力』はそこまでハイスペックじゃない。
だが空気の流れを感じる佐天の第六感は、大量に情報を間引きながらも、その空気の流れを捉え始めていた。
「どこまで真に迫れるか知りませんけれど、可能な限りこの流れを追って御覧なさい。全ての現象の元には、必ず『観測』という行為がありますわ。大きく、詳しく、正しく現象を観測できる人ほど、大きな能力を使えます。世界を観測することと世界に干渉することはコインの裏表、それがハイゼンベルグの不確定性原理が暗にほのめかしたことで、そして超能力の生まれる源でもありますわ」
わかる。光子の言っていることが、佐天には納得できる。空気の流れを感じる時、それはその流れを制御できる時だ。
目の前の超高速の爆発サイクル、エンジンを佐天は掴みきれない。だから操ることは出来ない。
だけど、手の届かないほど不可思議な現象じゃない。

取っ掛かりは、爆発直前の渦。
ディーゼルエンジンに点火部はない。空気と混合した燃料を圧縮することで、自然発火させるのだ。
その基点となるのは、いつも渦だった。一様に圧縮されたエンジン内部の中で局所的に圧力の高まる、流れの特異点。
渦が出来る位置はサイクルごとに微妙にずれはするが、エンジン形状に固有の、渦の出やすいポイントは存在する。
そこのことなら、佐天は誰よりも観測が上手い能力者だ。レベル5相手なら知らないが、光子にだってこれだけなら勝てる。
幾度となく繰り返される爆発を観測し、佐天は脳裏に渦の平均的な姿を浮かび上がらせた。

次は爆発。
渦はその中心に、外へと広がる滅茶苦茶な運動量を発生させる。そしてその高温高圧の空気はあっという間に広がる。
広がるときにも、渦を作りながら広がる。複雑な形をしたエンジンの内壁は、流れを乱す要因になるからだ。
壁の近くに出来た渦のいくつかは、その回転周期と内壁の振動周期を一致させ、ブーンという騒音を発生させる。

「ここ、渦酷いですね」
「え? ……そうですわね、渦が共鳴して、騒音の元になっていますのね」
「これってやっぱり、よくないことですか?」
「ええもちろん。振動が助長されると壊れる原因になるし、騒音公害の元にもなりますから」
渦共鳴は時に冗談にならない破壊力を生み出す。ほんの少しの強風が自動車用のつり橋を壊したことがあるくらいだ。
佐天の指摘した部分は、致命的ではないがこのエンジンが抱える問題点のうち、まだ知られていないものだった。
「まだご覧になる?」
「あ、そろそろ……すみません、集中力のほうが限界かも」
「ふふ。この実験はこれくらいでいいでしょう。佐天さん、少し休憩したら、今みたいな調子でこのエンジンの問題点を洗いざらい書き出してくださいな。他に影響を及ぼさない改善案まで出せればもっといいんですけれど、さすがにそこまでは注文しませんから」
「わかりました」
すこしふらふらする。渦に集中しすぎたせいだろう、小説にのめりこんだ時みたいに、頭の中にぐるぐる回る渦と、眼球が脳に送ってくる情報の、どちらが現実なのかよく分からなかった。




光子は佐天を置いて休憩室に入り、携帯をチェックする。
当麻からの連絡が恋しいこともあるが、もうじき引っ越すさきの家主である黄泉川からも連絡が多い。
「もう、当麻さん」
朝七時にきちんと起きた光子と同様、黄泉川に叩き起こされて当麻も早起きしたらしい。
他愛もないことがつらつらと書かれていた。
返事に、佐天のことをあれこれと書く。別に当麻は佐天のことを直接は知らないのだが、
光子が何度となく話に出しているから、当麻も佐天のことはよく知っている。

すぐにきびすを返して実験室の前のラボに戻ると、佐天がエンジン開発部のメンバーから質問攻めにあっている。
開発部長は確か1年で、そしてレベル3だ。光子に気づいて微笑み付きの会釈をしてきたが、心中は穏やかでないだろう。
レベル1だと聞いているだろうが、佐天のあの結果を、一体誰がレベル1の成果と見ることやら。
常盤台ですらないレベル1の学生に刺々しく当たれば、むしろ自分の株を落とすことくらいは分かっているらしい。
だから指摘が嫌味にならないように気をつけながら、鋭い指摘になりえるものを必死に探しているのが分かる。
「えっと、すみません。これくらいしか、思いつくことがなくて」
大人の研究者達が営業スマイルで佐天を褒めた。よく頑張った学生をおだてることくらいなんでもないし、実際面白い結果だった。
開発部長の1年がやや褒めすぎなのは、複雑な感情の裏返しだろう。
それを裏でそっと笑う自分もまた、同じようにレベルという序列の世界にいることに気づく。
当麻の顔を思い出して、自戒した。優越感は劣等感の裏返しでしかない。
「ご苦労様、佐天さん。皆さんも申し訳ありませんけれど、最後に一つ山場が残っていますし、こんなところで」
「婚后さん」
「休憩はもう充分?」
「え? いやあの、今まで話しながらずっと頭の中で計算してて……」
しんどいという感想を正直に顔に出して、佐天がそう言った。
クスリとそれを笑いながら、光子は休憩はいらないだろうと思った。
最後の仕事は、何かの実験を追いかけるような内容ではない。
「最後のは、佐天さんに渦を作ってもらう仕事になりますわ」
予想通りだった。少し笑ってしまう。その一言で佐天の顔が変わったのだった。
疲れが抜けたのではなくて、疲れていてもなおやりたいという顔に。
「やります」
答えはすぐさま返ってきた。




ようやく試せる、と佐天は胸を高鳴らせた。
別にちょっと失礼と一言言って屋外に出ればいつでも試せたことだが、佐天は渦が作りたくて、仕方がなかった。
だってまた、能力が伸びたことに気づいていたから。これまでとは違う。渦を発現させてみてから能力の伸びに気づくパターンではない。
使う前から、きっと伸びていると確信があるのだ。

感覚が研ぎ澄まされている。もう、空気の粒は見えない。
それは香水の匂いに似ている。匂いは確かにあるが、慣れてくると意識されなくなるのだ。
す、と指で文字を書くように空気をかき混ぜる。それにつられた風の流れを、粒と思うこともなく、佐天は粒として処理した。
「やって欲しいのはこないだと同じ、燃料を渦で圧縮して点火することですわ。エンジンの内部にカメラや温度計を差し込むことは簡単ではありませんから、佐天さんの渦を使うことでその代替をしようという試みですの」
「わかりました。けど、その前に普通の空気でやってもいいですか?」
「ええ、もちろん。納得するまでやってから、声をかけてくださいな」
燃焼試験室は、四畳くらいの狭い部屋だ。それでいて天井は高い。その部屋の中の空気を、余すところなく、手中に収める。
ファンがあって外から空気を取り込めることが感じとれる。たぶん、今までで一番大きな渦になるだろう。空気の量で言えば。
それをどこまで圧縮できるかが、勝負になる。
圧縮すればするほどコントロールが難しくなるから、部屋一杯の空気を、運動会で使うような大玉に出来ればいいほうだろうか。
「とりあえず、作ります」
「ええ。頑張って、佐天さん」
気負いはない。ただ、発動の瞬間にカチン、と頭の中で何かが噛みあったような音がした。
一瞬遅れて、現実にも、音が響いた。

ガッ、という硬質の音。それは佐天が風を集めた音だった。
今までと桁が一つ違う速度だった。稚拙な能力でゆるゆると集めていた頃には起こらなかった空気の悲鳴。
音速の10分の1を超え始めた、突風の音だった。隣で光子が息を呑んだのが分かる。
次は集めた空気をタイトに巻いていく作業だが、これも、あっけないくらい簡単に完了した。
それなりに大きな部屋の空気全てを、一つのスイカの中に詰め込むくらい。
佐天が思ったよりも、それは高圧縮になった。
「……ねえ佐天さん」
「はい」
「何気圧くらい、ですの?」
「100、ってとこです」
「そう」
光子は、佐天に危機感を覚えた1年を笑ったさっきの自分を、笑った。こんなものがレベル1であってたまるものか。
淡々とした佐天の表情がむしろ空恐ろしい。どこまで、上り詰めたのだろう。どこまで自分に追いついたのだろう。
「すみません、なるべく上下に逃がしますけど」
「構いませんわ。好きに解放して頂戴」
顔をしかめた佐天が、渦を手放した。
ボンと鈍い音がしてすぐ、試験室と観測室を隔てるガラス壁がビリビリと音を立てた。
「すごいですわね」
「あ、はい……。それで、実験は」
「ああ、やりましょうか。すぐ用意しますわ」
佐天にも光子にも戸惑いがあった。
あまり喜んだふうに見えない佐天と、素直に喜んであげられない光子。
「それじゃ燃料を噴霧しますから、上手く纏めてくださいな」
「はい」
プラグの先から、霧吹きみたいに燃料が飛び出す。
佐天はそれを苦もなく集めて、待機する。あわただしく周りがカメラやセンサをセッティングしているのが分かるからだ。
「……できましたわ。佐天さん、いつでもどうぞ」
「それじゃ、いきますよ」
佐天はその緩い渦を、握りつぶす。
周りが何を望んでいるのかは知っている。コントロールなんてされていない、無秩序に広がる爆炎が見たいのだ。
佐天はそれに逆らう気だった。そうしたいという気持ちに抗えなかった。

燃料の爆発、それはすさまじいエネルギーを渦の内部に生じさせる。外から取り込むのではない。
佐天はそれを、コントロールできる気がした。そしてするべきだと思った。べきだ、という思いに合理的理由はない。
ただ、心のどこかで気づいていたのだ。
――――あの程度のエネルギーなら、『喰える』と。

慎重に渦を束ねていく。内へ内へと巻き込み、渦を圧壊させていく。
何度かの経験で、爆発限界は肌で感じ取っていた。その一線を、超える。
カッと光が周囲を照らす。佐天はそれを失敗だと感じた。違うのだ、自分の能力は、こうじゃない。
全てのエネルギーを飲み込んで、漏らさない。そんなイメージの渦。それが今の佐天に思い描ける理想だった。
光るということは輻射熱が漏れるということ。それは美学に反している。だから気に入らない。
ある程度エネルギーを散逸させたところで、渦は落ち着いた。渦のままだった。
「嘘……」
「婚后さん」
「あれを、押さえ込みますの?!」
光子の焦りが少し、気持ちいい。師の予想を上回るというのは愉快なことだ。
ようやく気持ちが舞い上がってきた。
そう、そうなのだ。自分の力は、こうなんだ。ベースは確かに空気。だけど、それだけじゃない。
エネルギーを、外に漏らさず蓄えて、そしてさらにそのエネルギーを内へ内へと向かう力に変える。
『爆縮する渦流』、きっとそういうイメージなのだ、自分の能力は。
ただ、爆縮には限界がある。いつかは外へ向かう、いわゆる爆発へと転じなければいけない。
何とか束ねようとして、それには失敗した。


ガウゥゥンンンン!!


間延びした爆発音が、試験室を満たす。生じた煤はあっという間に流されて、綺麗な部屋の光景がすぐに戻った。
ほぅ、とため息を一つついたつもりが、膝の力まで抜けてしまう。
「佐天さん!」
「あ、すみません、婚后さん」
「かなりお疲れのようですわね」
「はい、なんか急に、思い出したみたいに疲れちゃって」
光子が咄嗟に支えてくれた。申し訳ないとは思うのだが、抱きついていたい。ちょっと幼い自分の思考回路を佐天は反省する。
「あの、婚后さん」
「なんですの?」
「私今、あの爆発を纏められ、ましたよね?」
半信半疑だった。確信があったはずなのに、渦を消したらなんだか霧散してしまった。
そんな佐天に、にっこりと光子が微笑んだ。棘のない、褒めてくれる笑顔だった。
「ええ、自分でも覚えているんじゃありませんこと? その感触を」
「はい……はい!」
「すごかったですわ。よく頑張りましたわね、佐天さん」
「はいっ!」
褒められて、なんだかじわじわと嬉しさがこみ上げてきた。ようやくだった。
佐天はぎゅっとそのまま光子にしがみつく。ぽんぽんと背中を撫でてくれた。
「あーどうしよ、嬉しくってなんか変です、私。あの、なんだか少しだけですけど、自分の能力がどんなのか分かった気がするんです」
「そう、良かったですわね。少し落ち着いたらまた聞かせてくださいな」
「はい。本当に婚后さん、ありがとうございます」
「私も佐天さんがすくすく育って嬉しいですわ」
「あはは、すくすくって子どもみたいですね」
「あらごめんなさい」
そこでようやく、光子が回りに目で謝っていることに佐天は気がついた。
そりゃそうだ、ここには沢山の研究者がいて、しかも自分は実験中だったじゃないか。
「あ、ごめんなさい! つ、続きを……」
「その様子じゃ無理ですわよ。まあ、初めての参加でここまでやれたなら合格……でよろしい?」
光子がプロジェクトリーダーに話を振った。ええそうね、と気前のいい返事が返ってきた。
「だそうですわ。まあ、これからも参加してもらいますから、覚悟なさって」
「はい! こちらこそ望むところです」
「そうそう、このデータ、あとで佐天さんの学校に送っておきますわ」
「はあ、別にそれはいいですけど」
「明日には新しい学生IDが交付されるでしょう」
「えっ?」
佐天のIDカードは、まっさらだ。なにせ変えてから一ヶ月もたっていないから。
変えた理由は、レベル0から、レベル1に上がったから。飛び上がるくらい嬉しくて、貰ったその日はずっと眺めたくらいだ。
それが、もう一度変わるというのは。
「何を驚いていますの。あの測定値ならどう低めに見積もってもレベルは上がりますわ。システムスキャンなんてする必要もありません」
システムスキャンは、能力者としての実力の測り間違いがないよう、総合的なチェックを行うものだ。
だが、レベルアップの認定にそれは必ずしも必要ではない。
ギリギリレベル2に上がれる程度ならいざ知らず、誰が見てもその規模がレベル2相当だと分かる能力を発動すれば、そのデータをもってしてレベルアップの根拠に出来る。
佐天はすでに、その域にいた。それだけだ。
「えっと、なんか前より実感ないですね」
「ふふ、システムスキャンをしたほうが通過儀礼がちゃんとあって、締まりますものね。でもレベル1と2は待遇が全然違いますから、早めに取って損はありませんわ。夏の間にもっとのびるかもしれませんし、ね」
「やだなあ。これ以上伸びたら、それこそ出来すぎですよ」
「まるで伸びないような物言いね?」

くすりと、光子が笑った。

「ね、佐天さん。もう実験はよろしいですけれど、また休憩したらなるべく皆さんと仲良くなって、顔を覚えるとよろしいわ」
「はい。また勉強させてもらえるんだったら、そうしたほうがいいですよね」
「それもありますけれど、特に常盤台の学生とは、いずれお友達になれるかもしれませんでしょう?」
「はあ、年は近いですけど、私バカだしあんまりお嬢様みたいに振舞えないですよ。雲の上の人みたいに言うと、婚后さんは怒るかもしれないですけど」
「私が言いたいのは、いつか同級生のお友達になる人がいるかも、ということですわ」
「え?」
佐天は、自分が柵川中くらいのレベルに身の丈があっていると思っているから、全く気づけなかったのだ。
周りの常盤台の学生達が、佐天のことをどう見つめ始めているのか。そして、光子がどう見ているのか。
戸惑う佐天に向かって、光子がちょっと挑戦的で、誘うような目を向けた。
きっとすぐだと、光子は思うのだ。

「佐天さん。常盤台の入学基準は品行方正な女生徒、そして、レベル3の能力を有していること、たったそれだけですのよ?」

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湾内・泡浮や美琴の研究ネタを書くにあたり参考にした書籍:
『ブレイクスルーの科学者たち』 竹内薫著 PHP新書(2010)
また渦の破壊力に関してはタコマ橋で検索すると勉強になるやも知れません。



[19764] interlude05: ローレンツ収縮が滅ぼしたもの
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/25 01:31

「ここか」
「……」
「気に入らないか?」
「別に、そんなことないけど、この都市の教会っていうのがどんなものか分からないもん」
当麻は朝から、インデックスと二人である教会までやってきていた。
イギリス清教の主流派、聖公会の流れではなくピューリタン系の弱小会派、ということらしい。詳しいことは当麻には分からなかったが。
「まあそう言うなって。学園都市の住人になるからには学校に通う義務が当然あるし、まさか超能力開発をやる普通の学校には通えないしな」
「それはそうだけど、『必要悪の教会』はカトリック寄りだし、こんなプロテスタント側に寄った学校にしなくてもいいのに……」
まあそりゃあ、不安はあるだろう。聞いたところ、学校に通うのはこれが生まれて始めてらしい。
読み書きは手の空いた修道女達に交代で教えてもらい、算術や暦の読み方など、魔術を学ぶ上で必要となる専門的な素養は『先生』に叩き込まれたのだそうだ。
「とりあえず、中に入るぞ。暑くてたまんねーし」
「うん」
「どうしても嫌って言うなら、まだ考え直せるけど」
「いいよ。これ以上の場所はないのも、分かってるから」
受け入れるように薄く笑ったインデックスを見て、当麻は大仰な扉につけられたノッカーに触れた。
コンコンと音を鳴らして、二人は中へと入った。




「……確かに、イギリスからの紹介状ですね」
「はい。時期的に突然で申し訳ないんですけど、面倒を見てやってくれると助かります」
「我々に拒む理由はありませんよ。ええと、インデックスさん、君が望んでくれるなら」
「……あの、おねがい、します」
教会の長となる司祭であり、また神学校の校長でもある老齢の男性は、頭を下げたインデックスにニコリと微笑んで、立ち上がった。
「今は夏休みで、授業は特に開いていません。本格的に通うのは九月からになりますな。隣の寮に移るのを希望されるのであれば、手配をしておきましょう」
「あっ、あの。ここじゃなくて、今いるところから通いたくて」
「そうですか。まあ、友達を作ったりするのもそれからでいいのであれば、また九月に来なさい。それとも一人で寂しいようなら、毎週の礼拝と、掃除を手伝いに来ても構わないよ」
「はい」
「ああそうだ、せっかくだから敷地の中を見ていくといい。私がしてもいいが、手続きの書類を纏めないとね」
そう言って、司祭は応接に使う木のデスクから離れ、近くにいたシスターに二三言、何かを呟く。
シスターが待っていてくださいねとこちらに告げて出て行った。案内してくれるのだろうか。
ようやく人目から解放されて、当麻とインデックスは辺りを見渡す余裕が出来た。
コンクリート製の建物に、あちこち絨毯が敷かれている。おかげで近代的な建造物の安っぽさは隠れていた。
見渡すところにある調度品には木製のものが多く、これも教会らしさを醸し出している。
だが、いたるところに電源があり、そして無造作にパソコンが置かれている所は良くも悪くも学園都市らしいといえる。
ここはかなり保守的だが、それでも宗教を科学する、そういう教会の一つなのだった。
「案内は君と同じ学生が良いと思ってね、今、連れてきてもらったよ」
司祭がそう言って、一人の少女を紹介してくれた。年恰好は、たぶん光子と同じくらい。僅かにインデックスよりは大人びて見えた。
シスター達と司祭も含め日本人の多い場所にあって、はっと目を引く天然のブロンドと碧眼。
髪に癖は少なく、さらりと肩まで流れた金色が白地のローブと紺のカーディガン・フードで出来た修道服と綺麗なコントラストを作っていた。

「こんにちわ。エリス・ワイガートって言うの。これからよろしくね」

こちらからの挨拶を聞くのもそこそこに、エリスはインデックスと当麻に握手を求めた。
気さくな笑顔の持ち主で、とっつきやすい感じにインデックスも当麻もほっとする。
それじゃあ案内するねと言って扉を開き、教会の敷地、教室のあるほうへと誘った。



「インデックス、って変わった名前だね」
「む。私は気に入ってるからいいの」
「あら、そりゃごめん」
当麻は少し離れて、二人の後を追う。インデックスが作るべき友達関係だし、一歩引いているつもりだった。
だが、エリスも年頃だからか、チラチラと当麻のほうを何度か気にしていた。
「一緒についてきた人、結構カッコイイよね」
「えー、とうまが?」
「あ、とうま、って言うんだ。ねね、あの人、インデックスの彼氏さん?」
え、とインデックスが硬直した。
そしてすぐにブンブンと首と腕を振り回す。
「ち、ちがうもん! とうまはそんなんじゃなくて」
「ふーん? アヤシイなぁ」
「だ、だってとうまはみつことお付き合いしてるし!」
「みつこ? なんだ、もう別の相手がいる人なんだ。じゃあなんで今日は一緒に来たの?」
「え? なんでって、とうまは私と一緒にいてくれるって、言ってくれたから」
インデックスの言い方は、いちいち誤解を招く。
ちょっと心中穏やかじゃなくなった当麻は、口を出した。
「俺と光子って子の二人と、一緒に暮らそうってことになったんだよ。インデックスは」
「あ、そうなんだ」
当麻よりは年下に見えるのだが、エリスは敬語を使わずインデックスにも当麻にも対等な感じに喋る。
「エリスはいつからここにいるの?」
「んと、10年には届かないかなあ、ってくらい」
「へー」
「インデックスはいつから教会暮らしなの?」
「んと、生まれたときから、かな?」
「あ、ごめん」
「別に気にしてないよ」
エリスの謝り方には、引け目がない感じがした。
それはつまり、彼女もまたそういう境遇だということなのかもしれない。
「そういえば。ここは教会だけど、エリスは学園都市の学生だよね。エリスは超能力、使えるの?」
それは素朴な疑問だった。
インデックスにとって教会とは魔術の暗い匂いがする場所だ。正確にはそういう教会にいた。
だから教会に超能力者がいるのには違和感がある。だが同時に、ここは学園都市でもあるのだ。
光子がそうであるように、ここにいる生徒は超能力者のはずだ。まあ、例外中の例外が二人の後ろをのんびり歩いているのだが。
「うん。使えるはず」
「はず?」
「もう何年も使ってないから。大した能力じゃなかったし」
無関心な感じの素っ気無さに、触れて欲しくなさそうな態度が透けていた。
「教会にいる人でも、能力使えるんだね」
「いや、学園都市じゃ当たり前でしょ。というか、どうして教会と超能力が相容れないと思ったの?」
「え?」
確信を突かれた質問で答えに窮した。教会は魔術に通じるところだから、という答えをまさか返すわけにもいかない。
「ま、言いたいことは分かるけどね。ここだって必死に隠してるから。信仰心っていうのがどんな性質を持つ心の働きなのかとか、そういうのを調べる場所でもあるからね。司祭様だって、心理学の博士号持ってるし」
良くも悪くもそれが、学園都市の教会というやつなのだ。


エリスはこぢんまりとした校舎を案内してから、校庭にもなっているグラウンドというには小さな庭へと出た。
小等部と中等部があるらしいが、建物は一緒で、両方あわせても生徒は50人もいないような、小さな学び舎だった。
「さて、とりあえず場所の紹介は全部終わったけど」
「うん」
「これからどうするの?」
「どうするの? とうま」
「お前のことだから自分で把握しとけよ。インデックス。……そろそろ書類もそろってるだろうし、必要事項書かなきゃな」
「だって。ありがとね、エリス」
「うん。頼まれごとだったし、それはいいんだけど」
当然のことかもしれないが、エリスと当麻たち二人は初対面で、互いの間に引いた一線を越えられないまま、他人行儀に過ごしてしまった。
それがエリスには少し、気になっていた。
「せっかくあそこのオレンジが綺麗に生ったからご馳走しようかと思ったのに」
エリスが少し離れた壁際を指差す。深緑で大ぶりの葉をつけた低木が、目にも鮮やかな色の柑橘を実らせている。
教会までと、そして案内で歩いた分、喉はかなり渇いていた。だが剥くのがちょっと面倒くさい。
「食べるなら剥いてあげようか?」
「そ、それはとっても嬉しいかも。施しをしてくれる人を拒むのは良くないって主の教えにもあった気がするし」
「おいおい、食べ物に釣られすぎだろ」
「あはは、気にしないで。水はやってるけど、勝手に生ってるようなものだし。あ、でも結構甘いよ」
「贈り物を断るのは良くないんだよ、とうま。すぐ追いかけるから」
「ちょ、おいインデックス。まあ、いいけどさ」
当麻にもエリスの気遣いはなんとなく伝わっていた。
保護者の自分がいると仲良くもなりにくいだろうし、先に行くかと思案した。……とそこで。
ぐに、と足元の感触が芝生とも石畳とも違う感触を伝えた。ホースのゴムらしい感触だった。おまけに中に水が流れている。
視線の先には、シスターらしい人が掃除に水を撒いているところが映る。
返す刀で、水の根元をたどると。


プシャァァァァァァッッッ


「きゃあっ!!!!」
「ひゃっ! な、何? 水?」
当麻から少し離れた地面、まさにエリスとインデックスがいる辺りでホースが外れて、二人に水が襲い掛かっていた。
白に金刺繍のインデックスと、白に紺のカーディガンとフードのエリス。どちらも、濡れるのに弱い服装というか、そういう感じで。
光子に言われて付け始めたらしいホックなどのないブラのラインが透けたインデックスの上半身と、
こちらはインデックスと違ってホックもワイヤーも入った正規のブラの、あの独特の凹凸をくっきりと再現したエリスの胸元が見えた。ちなみに色は黒だった。
「ご、ごめん。えっと、その、大丈夫でせうか……?」
「とーーーうーーーーまああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「お、おい止めろってインデックス、その、透けて、あいででで痛い痛いって!」
「なんていうか、お客様に文句を言うのはあれだけど、エッチだね」
「いやその、ごめん、悪気は……なっ!!!」
「死ね」
突如、男の声が後ろからして、当麻は反射的に身をよじった。間一髪で、後頭部が合ったところを拳が突き抜けた。


「ちょっとていとくん! お客さんにいきなり手を出さないで」
「だから帝督だって。ちゃんと呼んでくれよ、エリス」
「いきなりそういうのは駄目だよ。垣根くん」
「だからそうじゃなくてさ。まあいいや。ところでエリスの透けた修道服の中を見ようとしたコイツは誰だ?」
「いや、事故だって点ははっきり言わせてくれ。それと、そっちこそ誰だよ」
「俺か? 俺はエリスの彼氏だ」
「ちがうでしょ、ていとくん」
「否定しなくてもいいだろ」
「もう。あ、インデックス。それと上条くん、こちら、垣根帝督くん。高校の名前忘れちゃった」
「構わねーよ。どうせ通ってない。転校三昧だし」
当麻は知らなかった。目の前にいる人が、学園都市第二位の超能力者であることを。まあ言われても咄嗟には受け入れがたかったかもしれない。
当麻より10センチは背が高くシックな服装に身を包んだその垣根という男は、受け取る側に迷惑をかけない程度の数輪の花を持って、エリスに相対していた。
「垣根、でいいか。まあそっちに謝る理由はない気もするけど、エリスに水をかけたのは悪気あってのことじゃない」
「ていうかとうま、私には一言もないの?」
「い、いやそりゃ悪いと思ってるけど」
「お前、名前は?」
「上条だ」
「そうかい、なあ上条。悪気がないんならこれ以上は言わないが、エリスに手を出す気ならまず俺に勝ってからにしな」
「ていとくん?」
「なんだよ。文句あるか」
「私、ていとくんとはお付き合いしないって言ったよね?」
う、と垣根が怯むのが分かった。そんなに惚れているのか。
結構光子の方から熱を上げてくれたので、実は当麻はここまでのアプローチはしたことがない。
「とうまにはみつこがいるから、心配要らないんだよ」
「そういうこと。もう、変な言いがかりはつけないでよね。こっちが困るんだし」
「ふん……」
「エリス。とりあえず着替えが欲しいんだよ」
「そだね。ほら! 上条くんもていとくんも、反省してここにいること!」
「コイツは分かるがなんで俺が」
「文句言わない!」
二人でお互い見せたくないところを隠すようにしながら、室内へと逃げ込んだ。
当麻は垣根と二人、燦燦と太陽の降り注ぐ死ぬほど暑い神の庭に取り残された。


「暑い」
「黙れよ」
罰としてちゃんと日差しの当たるところにいないと後で文句を言われそうなので、当麻はその場で直立している。
垣根は早々に近くの影に逃げていた。
「お前、エリスに惚れてるのか?」
「ああ。それと上条、エリスを下の名前で呼ぶな」
「いやあっちがそう呼んでくれって言ったんだし」
「チッ、それでも気を使えよこの三下野郎」
「はあ? 気を使うってお前にか? 垣根」
「お、やる気か? 誰でも殴るほど分別がないつもりはないが、エリスが絡むなら話は別だ」
「やらねーよ。だからあの子に手を出す気はないって言ってるだろ?」
「ならいい。ま、やる気があってもお前じゃ相手にもならねーけどな」
「だから喧嘩を売るなよ。殴り合いで怪我でもしたら困るのはエリスだろ?」
「俺に傷がつくわけねーよ。悪いが犠牲者はお前一人だろうさ」
「俺が怪我したってエリスは困るだろ」
街のチンピラよりは分別があるのに、垣根の物言いはチンピラそのものだった。
自分は無害な子羊なのだ。何も好き好んで牙をむき出した生き物の近くに寄りたくはない。
「……」
「……」
沈黙が息苦しい。時々牽制のように垣根からきつい視線が飛んできて、当麻の神経をピリピリさせる。
「お前のほうこそ、インデックスに手を出す気はないだろうな?」
「あるわけないだろ。お前こそあんな色気のいの字もないガキにお熱か?」
「ちげーよ、惚れた子は別にいる」
「じゃあ何であのガキと二人でいるんだよ?」
「俺と彼女とで、インデックスの面倒を見ることになったからな」
「ふーん、まあ、刺されろ」
「は?」
「ガキだからいいのかもしれねーがな、女を二人同時に囲うのは男としてよっぽどのクズかよっぽど出来たやつだ」
「囲うって、だからインデックスは違う」
「そーかい」
別に対して興味がないのだろう。当麻の弁解を垣根は適当に聞き流した。
「なあ垣根、エリスのどこが好きなんだ?」
「い、いきなりだなおい」
「別に話したくねーならそれでもいい。暇だから聞いてみただけだ」
「……ほっとけないんだよ、アイツ」
靴の裏にこびりついた泥をこそぎ落とすように石にガリガリと踵を擦り付けながら、垣根はボソッと呟いた。
「どういう境遇か知らないが、人懐っこいわりに最後の一線踏んで立ち入るのは許さないんだよ。そういうの、ムカつくだろ? で、今は追い詰めてる最中だ」
「追い詰めるって、ひでー言い方だな」
「本気で拒まれてるんならとっくに止めてる」
「それにしても、なんでこんなところにいるエリスと出会ったんだ? お前も普通に能力者だろ?」
「普通じゃあないが、超能力者には違いない。にしても上条。大して興味もないのに出会ったきっかけなんか聞くなよ」
「言いたくないなら言わなくていい」
「……あいつ、俺より能力が上なんだよ」
「? ……で?」
結局喋りたいのかよコイツと思いながら、当麻は話を続けさせた。自分も光子の方が圧倒的にレベルは上だし、ちょっと気になったのだった。
それなりに自分の能力に自身のありそうな男だ、レベル1や2ってことはなさそうだが。
「第二位にそう思わせるってのは無茶苦茶なことなんだよ」
「第二位?」
「あん?」
「お前、『未元物質<ダークマター>』の第二位か?!」
「サインでもやろうか?」
「いらねーよ。っていうか、ちょっと待て。第二位のお前より上って、エリスはそれじゃ、あの」
ガスッと、当麻は何かを額にぶつけられた。痛い。
足元を見ると乳白色の玉が合った。ピンポン球くらいだが、金属並に重たい感触だった。
なんてことはない石に見えるが、これが『未元物質』というやつだろうか。
「いってーな、おい」
「なあおい、あのクソ野郎とエリスを並べるとか死刑ものだぞ? ってか、お前もクソつまらねぇ噂を信じてるクチか? あのいけ好かない『一方通行』の野郎が女だとかいうアレをよ」
「いや興味ないから知らねーよ。っていうか、お前の言い方だったらそうなるだろ。エリスが学園都市第一位だって」
チッ、とまた垣根は舌打ちをして、当麻の足元に視線をやった。
そちらを見ると、ふっと雪が解けるように、あの白い玉が消えてなくなった。
そしていつの間にか、垣根の手のひらの上に、それと同じものがある。
「ありがたく思えよ。『未元物質』について俺が直接講義をする相手なんざほとんどいないんだ。俺の能力はこの世にはない物質を生み出す能力だ。素粒子のレベルで全く違う、そういうものをな」
「……で?」
「エリスは俺にも作れない『物質』を作れる。惚れるより前に気になった理由はそれだ」
大して知識もないが、上条は思案する。第一位と第二位は、その特殊さで群を抜いている、というのが定説だ。
この世にない物質を創作する能力なんて、『未元物質』以外に聞いたことがない。
発電系能力者<エレクトロマスター>や空力使い<エアロハンド>とはレア度が違うのだ。
「それって、エリスも相当な能力者ってことじゃ」
「私がどうかした? 上条君」
濡れた服を動きやすそうなジャージに替えて、エリスが当麻の後ろから声をかけた。
後ろには同じ格好のインデックスもいる。学校指定の体操着なのだろうか。
エリスはそのまま近くの物干し竿に二人の服をかけた。この日差しだ、ものの30分もあればカラリと乾くだろう。
「それで何の話をしてたの?」
「垣根のやつが、エリスは自分以上の能力者だって」
「え?」
驚いた顔をして、エリスが垣根を見つめた。
そしてすぐ、申し訳ないような、だけど嫌そうな、そんな顔を垣根に向けた。
「ていとくん。そういう話、誰かにされるの嫌」
「え? その、悪い」
「うん、私の方が我侭言ってるの分かるから、謝らなくていいけど、もうしないで。上条くんもあんまり気にしないでね。別に私、ただのレベル1だし」
「あ、ああ」
お前何やってんだよ、という視線を当麻は垣根に送った。
知るかよ死ね、という視線が返事だった。



「案内してくれてありがとね、エリス」
「サンキュな」
「うん。またね、インデックス」
二度と来んなという垣根の視線をスルーして、当麻はインデックスと教会内へと戻った。
ちなみに垣根が声に出さなかったのはエリスに足を踏まれているからだ。
「……そんなに、気にしてたのか。エリス」
「ていとくんは自分がすごい人だって分かってないよ。そんな人が『俺よりすごい』なんてこと言ったら、私が目立っちゃうし」
「悪い」
「ん」
そんな一言で、エリスは許してくれた。その気安さに救われている自分を、垣根は感じた。
安い同情を買いたくなくて突っぱねているが、学園都市第二位というのは中々に不愉快な立場だ。
友達になれるヤツなんて数えるほどしかいない。だってクラスメイトという概念が垣根にはないのだ。
絶滅危惧種なのに実験動物、垣根は学校にいるときの自分をそう思っていた。
「ていとくんが私以外とあんなにおしゃべりしてるとこ、初めてみたかも」
「そうか? 街の不良相手なら結構喋るぜ」
「上条くんはそういうのには見えないけどなー」
垣根はガラでもない、と思いながら頬が火照るのを自覚した。
安い好意を売りたくないと思いながら、ああいう気さくなヤツが垣根は嫌いではない。
……悟られるのが嫌で、垣根はもう一度、手元に石つぶてを用意して当麻に投げつけた。
相手のレベルなんぞ知らないが、周りの物理を何も歪めはしないただの石だ。
「あっ、もうていとくん!」
「いいんだよ」
ぶつかったって怪我にはならない。それにあっちが切れたって万が一にも負けることはない。反抗の子どもっぽさに垣根は目を瞑った。
エリスが気をつけてと当麻に言うよりも先に。垣根は突然当麻が振り返ったのに気づいた。
そして、当麻の右手が未元物質で出来た石を、軽くはたいた。
「すごーい! 上条くん、背中に目でも付いてるみたい!」
「どうしたの? とうま」
「垣根テメェ! 喧嘩売ってんのかよ!」
「買いたいんなら売ってやるぜ」
「いらねぇよ。馬鹿」
やってられるかと当麻が垣根に背を向けた。隣ではてなマークを浮かべるインデックスを急かした。
「アイツ、自分のことを一切喋らなかったが、なるほどね」
正体は不明。だが垣根の能力を、何気なく消し飛ばした。
燃やしただとかテレポートしただとか、そんなチャチな能力じゃない、もっと何か得体の知れない能力の片鱗だった。
「ていとくん!」
「エリス、いてててて!」
耳を引っ張られた。こういう態度をとってくれるのが嬉しくて、つい露悪的に振舞う。
垣根自身、自覚はしていなかったが、エリスといるときは少し精神年齢が低くなるのだった。
「ああいうのよくないよ。友達減っちゃうよ?」
「大丈夫だ。友達ってのは正の整数しか取れない変数だ」
「え?」
「ゼロから何を引いてもマイナスにはならん」
「友達いないの?」
「この身分と性格じゃ、な」
「そうかなぁ。上条くんは友達になってくれそうだよ」
「はあ?」
「ちゃんと仲取り持って、あげようか?」
「うぜえ」
別にあんなヤツとつるまなくても、エリスがいればいい。それが本音だった。だがさすがにそれをストレートに言うのは躊躇われた。
エリスがトコトコと垣根から離れて、木に生ったオレンジに手を伸ばした。
低いところの実は採りつくしたのか、微妙にエリスには届かない。
「ほら」
「ありがと、ていとくん」
「帝督、って呼んでくれよ。呼び捨てでいい」
「そういうのはお付き合いしてる女の人にお願いしなよ」
「いねぇよ。エリスに、そう呼んでほしいんだ」
「駄目って、前にも言ったよ?」
垣根はもう二度ほど、エリスには振られている。付き合ってくれというお願いにはっきりとノーを突きつけられたのだ。
ただ、一度も嫌いだとか、迷惑だとか、あるいは付き合えない理由だとかを教えてはもらえなかった。
そして垣根がここを訪れるたびに、裏表のない優しい顔で、エリスは迎えてくれる。
「ねえ、ていとくん」
「ん?」
「ていとくんってやっぱり私の体が目当てなの?」

息が一瞬、詰まった。

「俺はエリスの心も体も全部自分のものにしたい」
「……ていとくんは、いつも直球勝負だね」
「変化球のほうが好みか?」
「ううん。直球が一番。ところで私が言いたいのはそういう意味じゃないよ」
体が目当て、というのは色のある話ではない。もっと物理的に直截的な意味だ。
垣根がエリスという人以外にも体そのものに興味を持っていることは知っていた。
初めて会ったときに、垣根がエリスに釘付けになった理由は、それだから。
エリスという女性に、垣根が一目ぼれをしたわけではなかった。
「知りたいって気持ちがないわけじゃないが、エリスに嫌ない思いをさせる気はねえよ。エリスが教えてくれる気になれば、聞かせてくれ。その心臓のこと」
「私は誰かとお付き合いをしたことはないけど、そんな人ができても教えるつもりはないよ」
「それでもいい」
「でも、だめ。好きな人には全部知ってて欲しい」
「じゃあ教えてくれ」
「だめ」
垣根は当麻に、ぼかして話を教えていた。エリスが能力を使うところなんて、垣根も見たことがない。
ただ知っているのは一つ。

――――この世のどんな元素とも違い、そして『未元物質』の垣根にすら解析不能な、そんな元素でエリスの心臓は出来ている。

「なあエリス」
「うん?」
「こないだ誘ったやつの、返事が欲しい」
「うん……」
数日後に第七学区で行われる、花火大会。垣根はそれに誘っていた。
教会の修道女が行くにはいささか晴れやか過ぎるイベントだが、この教会はそういうのに緩い。
エリスの意思以外に、障害はなかった。
「前向きに検討、っていう時期をさすがに過ぎちゃったね」
「本気で検討してくれるんなら、当日の昼過ぎにでも俺はここに来るぜ」
「あはは、それは悪いなあ」
この教会に寄宿してから、かなり経つ。エリスはその間一度もここから出たことはなかった。
買い物にだって、出かけたことはないのだ。それだけは断っていたから。
だから、単純に外が怖い。だけど、外を恐れている気持ちは、理由のはっきりしたものじゃなくて、ぼんやりと抱いた恐怖でしかないのだ。
連れて行ってくれる人がいるのなら、外へと出てもいいのかもしれない。垣根の熱意に絆されている部分も、確かにあった。
あっさりとした決断を装って、エリスは自分にとっての大きな決断を、口にする。
「じゃあ、行こうかな」
「よしっ!!」
珍しく斜に構えていない、本気の垣根の喜んだ顔を見られた。エリスはそれに笑顔を返す。
「浴衣とか、着たいか? もしそれならなんとかする」
「え、いいよ。そんなの悪いし」
「気にするな。どうせあぶく銭が捨てるほどあるんだ。この教会丸ごとかって釣りが出るくらいには」
「もう。お金持ちをひけらかすのは格好悪いよ。……ていとくん、見たい?」
「見たい。死ぬほど見たい。エリスの浴衣」
「……じゃあ、私のことは私が何とかするから」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫。見たいって言ってるていとくんに買わせるのは、私が嫌だから」
「……わかった。ありがとなエリス、それと愛してる」
「莫迦」
垣根は別れの挨拶をせず、ニッと笑顔を見せて踵を返した。エリスはその後姿にまたねと声をかけた。
垣根帝督に夏休みなどない。垣根を材料にした実験は、100年先までやれるくらいのプランが後ろに控えている。
だがそんなことをお構い無しに昼間に時間を作って会いに来てくれる垣根を、エリスとて憎からずは思っていた。
ただ。
「ていとくんは優しすぎて、どうしていいのかわかんないよ……。こういう時、相談に乗ってくれる相手がいればよかったのにな。ね、シェリーちゃん」
胸元に手を当てて、ずっと昔に別れた親友の名前を呟いた。

****************************************************************************************************************
あとがき
タイトルは謎架けになっています。意味が分かるとエリスの秘密がちょっとわかるかも?
ちなみに姓として与えたワイガートは森鴎外の『舞姫』のヒロインから拝借して英語読みに直したものです。



[19764] interlude06: 能力者を繋ぐネットワーク
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/26 01:36

「久しぶりね」
「……ああ、君か。元気そうだな」
「そりゃ夏休みだからね」
「学生はそんな時期になるのか。こう空調が行き届いた場所にずっといると、実感がなくてね」
美琴は窓越しに、そんな言葉を交わした。
目の前にいるのは、美琴の知っている姿と同じスーツ姿の木山春生だった。
「ところで、何の用だい? こう見えて色々と、忙しいのだがね」
「随分と暇そうな場所にいるように見えるんだけど」
「そうでもないさ。以前言った気がするが、私の頭はずっとここにあるんだ。考えないといけないことなんていくらでもある。やれることもある」
気だるそうで何を考えているのかよく分からない木山だが、その瞬間だけ、怜悧で明晰な思考を覗かせた。
「あれだけのことをしても、救えるかどうか怪しいんでしょ? ……その、どうにかなるものなの?」
「君は優れた能力者だが、研究者としての哲学はまだ持っていないようだね。どうにかならないものをどうにかするのが研究だよ。工学とはそういうものだ」
それは答えのようでいて、答えではなかった。
「それで、繰り返しで悪いが、何の用だい?」
「う、いやえっと。アンタの過去を覗いちゃった身としては、あのまま忘れることも、出来なくて」
「ああ、そうだったな。そうか、君は私の教え子の身を案じてくれたのか」
「そりゃあ、ね」
「そして特にそれ以外の具体的な目的はなかったと」
「う」
実のところ、それが実情だった。あのヴィジョンは、生々しく脳裏にこびりついている。
それがずっと気になるせいで、つい話を聞こうと思ってしまったのだった。
「知ってしまったら、忘れて戻ることは出来ないわ」
「君は優しいな、ありがとう」
「何か、出来ることはない?」
「ならここから出してくれないか。君のレベルなら、相当の額を持っているだろう。保釈金が欲しい」
「……それは駄目」
「何故?」
「アンタはまた、幻想御手<レベルアッパー>みたいな方法で、誰かを犠牲にしようとするかもしれない」
「犠牲は出さない予定だったがね。……まあ、あんな予測していなかった化け物を出した身で、言えた事ではないか」
少し前、美琴は木山のやろうとしたことを食い止めた。
幻想御手というプログラムによって、能力者と能力者をネットワークで繋ぎ、それを統括することで巨大な演算能力を手に入れる。
『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』を利用できなかった代わりの、苦肉の策だった。
幻想御手が安全だったという保証は、ない。結果的に後遺症を残した人はいなかった。だけど、あれを使ったことで、傷ついた学生がいたのは確かなのだ。
だから間違ったことをしたとは思っていない。
しかしその一方で、木山が救おうとした教え子達を、目覚めることのない今の状態から救い出すのを阻止したことを、美琴はずっと気にかけていた。
「そういやさ、アレは幻想御手を使った人たちの思念の集まり、だったのかな?」
「データを取る暇もなかったんだ、推察でしかないが、そうだろう。君もそう感じたんじゃなかったのか?」
木山が演算を暴走させた瞬間生まれた、幻想猛獣。
暴走するそれを美琴は打ち抜いた。そのときに、沢山の能力者たちの声を聞いた気がする。
だから、アレが生まれるきっかけが、能力者たちの思念だったことに疑いは持っていない。
しかし。
「ずっと気になってたのよね。幻想御手でネットワークの部品になっていた能力者たちを解放した後も、アレはずっと自律して存在してた。それって、変じゃない?」
「そうか、話す暇がなかったな、そういえば」
「え?」
「虚数学区、五行機関、そういう名前に心当たりはあるか?」
「よくある都市伝説のひとつでしょ?」
脱ぎ女だとか、どんな能力も打ち消す能力だとか、そんなのと同じだ。
……と言おうとして、どちらも真実だったことに思い至る。
「アレがそうだ」
「え?」
「虚数学区という言葉を大真面目に使う研究者達が記した論文にはね、常にAIM拡散力場の話が出てくるんだよ。あの幻想猛獣はそのものではないにせよ、確実にその系譜に身を連ねる何かだ。ふふ、分野はかけ離れているが、その方面の学会で発表すれば最優秀研究者として賞をもらえるのは確実だな。なにせ虚数学区を実体化させた人間なんて、まだいないのだから」
そこまで言って、ピクリと木山が体を震わせた。
そしてすぐ、何かを笑い飛ばすように、ふっと息を吐いた。
「何よ」
「いや、考えすぎだとは思うがね。……私の試みは全て誰かの敷いたレールの上を走っていて、あの幻想猛獣を形作らせること、それを目的にした人間がいるんじゃないか、ってね」
「そんな、考えすぎでしょ」
「そうかな……。だがずっと、私も引っかかっていたんだよ。例えばアレが頭の上に浮かべていたものだとか、な」
「え?」
そう言われて美琴はお世辞にも美しいとはいえない幻想猛獣のフォルムを思い出す。
確か、頭の上には輪っかが付いていた。学園都市には不似合いな特長だった。
何が影響して、アレはあの光の輪を頭にかざすに至ったのか。
「天使の輪、あるいは後光、そういうものは中央、西アジアで興った宗教、つまりゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教あたりには共通して見られる概念だ。そういう意味で、人の集合的無意識が備えている一つの元型<アーキタイプ>だという主張も通らなくはないが」
「気にしすぎじゃない? もうそれで、一応の説明にはなっていると思うけど」
「そうだな。追いかける手があるわけでもなし、保留以外にはない。だが、やはり気になるのだよ。私が構築したやり方では、どんな偶然が起こってもあんな存在は生まれるはずがないんだ。もちろんAIM拡散力場なんて、まだまだ未解明な部分は多くて、確かなことは誰にも分からないのだけれど。原理も分からず振り回す科学者の言い訳かもしれないが、誰かが意図を持って、私のプランに介入したんじゃないか、そんな冗談を吐いてみたくもなるものさ」
ふふっと自重するような笑みをこぼして、木山は足を組み替えた。
仮に、仮に誰かが自分のプランに介入したのだとして、その人間は何故、幻想猛獣を天使に模したのだろう。
オカルト趣味なのか、あるいは、例えば天使は実在する、なんてのが真実かもしれない。
稚拙ではあったが、幻想猛獣は高次の生物的特徴を備え、自意識を持ったAIM拡散力場の塊だ。
人類がこれまで獲得したあらゆる概念の中でアレに最も近いのは、きっと天使だろう。
そんなどうしようもない思考の坩堝に陥ったところで、木山は考えるのを止めた。
ウインドウの向こうで、美琴もまた沈黙していた。
木山は、過去に名目を偽られて、実験に加担したことがある。それで教え子達を、植物人間にした。
それを思えば、そうやって誰かが自分を都合の良いほうに誘導しているのだという考えをを笑い飛ばすことは出来ない。
だが、やはり考えすぎだろうという感覚が一番強いのだ。
学園都市にとってもかなり有益な存在であろう自分の日常に、そんな暗い影だとか、陰湿なものはない。
「幻想御手ですら誰かの手のひらの上だった、なんて。アンタの生徒のことを思えば、考えすぎ……って、言えないのかな」
「私の意思と無関係に、全く別の人間が描いたレールの上を走って、私は教え子を傷つけた失格教師だからな。そういうことに、鈍感ではいられないんだよ」
ふう、と憂いを体の外に吐き出すようなため息を木山はついた。
「まあでも、あんなこと考える無茶苦茶な研究者はそういないでしょ」
「……そんなことはない。あれは、君に教えてもらったアイデアだよ」
「え?」
そんなものを開発した覚えも、提唱した覚えも美琴にはなかった。
木山は驚いた様子の美琴に付き合うでもなく、話をぼかしながら、取り留めなく喋る。
「君は発電系能力者<エレクトロマスター>の頂点に立つ能力者だったな」
「ええ、そうよ」
「ネットワークを構築するものといえば、普通はパソコン、電気で動くエレクトロニクスだ。君の能力は、精神操作系の能力と並んで、ネットワーク構築に向いている。なまじ物理に根ざしている分、扱いやすいくらいだ」
「……何が言いたいの?」
いらだつ美琴に、木山はぼんやりと答えた。
二人の会話に同席している保安員が、ちらり、と木山を見た。
「私は何度も『樹形図の設計者』の使用申請をして、すべてリジェクトされた。一般に募集されている計算リソースの割り当て枠にはいくつかのジャンル、素粒子工学の計算や、天体の多体問題計算、生物工学なんてのがあるんだがね、私は脳神経工学で応募していたんだ。そして、同じ採用枠で競っていつも負けた相手がね」
木山が、透明のウインドウの前の小さな出っ張りに肘を乗せて、美琴の至近距離に迫った。
得体の知れない不安に、背筋が寒くなる。
「『学習装置<テスタメント>を利用した発電系能力者ネットワーク構築のための理論的検討』という題目だよ。よく似ているだろう? 私の研究と。ちなみに主任研究員は長点上機の学生だったよ」
「発電系能力者<エレクトロマスター>の、ネットワーク?」
「ああ。学習装置を利用して特定の脳波パターンを全ての能力者に植え付け、それを使って複数の発電系能力者の意識を繋ごう、という計画さ」
「そんなの、無理に決まってるじゃない!」
それは発電系能力者としての、美琴の正直な感想だった。
「そうだな、もし実行していれば、私と同じ結果になるだろう。そんなことはね、『樹形図の設計者』を使わなかった私でも理解できるし、たどり着ける程度の高みなんだよ。だから私は自分のプロジェクトの優位性を何度も申請書に書いたし、あちらの批判を書いたこともある。率直に言って、あんなお粗末なプロジェクトが一位として採用され続けるはずがないんだ」
「どういうこと?」
「……おかしいと思わないかい? プロジェクトに関わって意味がある程度の、高レベルな発電系能力者は学園都市に一体何人いるだろうな? そして、君を外す理由なんて、あるだろうか?」
それはそのとおりだ。発電系能力者にとってそれほど大きなプロジェクトなら、美琴が関係しないわけがない。
たとえ何らかの理由でプロジェクトから外されても、そういうものがあること自体は、知っていなければおかしいのだ。
「君の知らないところで、有力な発電系能力者を集めることなんて不可能だ。じゃあ、彼らはどうしたんだろうね」
「……」
「一つの答えは、新しく作ればいい、さ」
「作るって、誰にどんな能力が宿るかは、予測不可能ってのが定説でしょ?」
「そうだな。だが、そんなまどろっこしいことはしなくてもいい。例えば、レベルの高い能力者の遺伝子からクローンを作って、ソレに能力を使わせればいい」
「えっ……?」
「再生医療と遺伝子工学、そちらの方面のプロジェクトでも、その長点上機の生徒の名前はよく見たよ。能力者ネットワークの研究と同じ名が名を連ねるには、随分とかけ離れたテーマだがね」
「それって、まさか」
暗に木山が言っていることを、じわじわと美琴は理解し始めていた。
能力者のクローンを作って、同じ能力者を大量に用意する、それは倫理的な問題に目を瞑ればシンプルな思想だ。
そして、サンプルに使う発電系能力者は高レベルなほうがいいだろう。
蓄積されていく事実に、キリキリと美琴の内臓が締め付けられていく。


――美琴は、過去に自分の遺伝子マップを、学園都市に提供したことがあった。



「ああ、そろそろ面会時間が終了のようだ」
「待って! 詳しい話をもう少し」
「悪いね。実を言うとこれ以上詳しいことは覚えてないんだよ」
そう言って、木山はとんとんと地面を叩いた。
ハッと美琴はその意味に思い当たった。正当な方法で得た情報だから、木山はここまで隠さなかった。
そして不正に得た情報を、どうやって得たのか説明つきで語ることは拘置所では到底出来ない。
そういうことらしかった。
「そうそう。長点上機のその優秀な生徒の名前だけは教えておこう。論文を読むといい。勉強になるからな」
「……」
保安員に促されて立ち上がった木山が、別れを惜しむでもなく美琴に背を向ける。
その別れ際に、一人の名を呟いた。
「布束砥信(ぬのたばしのぶ)だ」




拘置所を出ると、夕方というにはまだ早く、夏の日差しがようやくほんの少しの翳りを見せた頃だった。
今から風紀委員の仕事に借り出されている白井のところに向かえば、ちょうどいい時間になるだろう。
しかし美琴は、その足を寮や白井のところへは向けなかった。

人通りは途切れないものの、数は多くなく、また中を覗かれにくい公衆電話を探す。
手ごろなものを一つ見つけて、手持ちの端末を繋いで、ネットワークにアクセスした。
公衆電話からのアクセスで与えられる権限は"ランクD"、これは美琴自身が持っているものと同じだ。
細かな能力開発の履歴を閲覧しないならば、個人情報の取得は一般教師の保有する"ランクB"で事足りる。
指先に意識を集中させる。電磁誘導で端末の回路の一部に、自分の意思を反映した電流を流した。
美琴は電気現象のスペシャリストだが、情報工学のスペシャリストではない。
電流を制御するのは誰より上手いが、0と1で表されたバイナリデータそのものを読む力には乏しい。
だから端末には、普段は使わないデータ翻訳用のコアが積んであった。
ハッキングが違法なのは美琴にとってもそうだから、このコアと搭載した特殊な処理系は完全に自作で、ハッカーとしての美琴の唯一にして最大の武器だった。
難なく、場所も知らないありふれた高校のパソコンの一つにアクセスし、そこのランクB権限を使って、長点上機学園の生徒一覧を参照した。

「布束砥信、長点上機学園三年生、十七歳。幼少時より生物学的精神医学の分野で頭角を現し、樋口製薬・第七薬学研究センターでの研究機関をはさんだ後に本学へ復学」

ありがたいことに、今は名の知れたエリート高で普通の学生をしてくれているらしい。
さらに調べればあっさりと学生寮の場所までつかめた。
「ま、家で大人しくしてるかどうかまでは知らないけど」
カチャカチャと手早くケーブル類を回収して、美琴は布束の家を目指した。思い過ごしであればいいと、そう思う。
木山春生という人間を、自分は半分信じて、半分疑っている。
人並みに誰かを慈しめる人だということは疑っていない。だから好意で美琴に情報をくれたのかもしれない。
だが、昏睡状態にある教え子たちを救うためならかなり手段を選ばないことも、疑っていない。
例えばこうやって美琴を動かすことも、木山の手の一つで、まんまとそれに自分は乗っているのではないか?
そんな不安も、拭い去ることは出来なかった。
「おーい」
電車とバスを乗り継いで、大きな駅前に出る。
長点上機学園は第一八学区にあるから、電車を使ってある程度の遠出をすることになる。
門限破りもありえるが、美琴の足は引き返すほうには動いてくれなかった。
「おーい、って聞いてないのかビリビリー」
「だぁっ! うるさいわね! ビリビリじゃなくて私には御坂美琴って名前が――――って、え?!」
「ん? どうかしたのかビリビリ、じゃなくて御坂。随分暗い顔して」
「……アンタはやけに幸せそうね」
上条当麻が、目の前にいた。




つい昼に、光子や佐天、白井たちとの話で出てきたばっかりの人だから、ドキリとする。
まさか、誰かと噂をした日に会えるなんて。
だがそんな美琴の内心の動きになんてまるで気づかず、当麻は幸せそうにニコニコしていた。
「いやー、さっきショートカットしたら路地裏でマネーカード見つけてなあ。1000円だぜ1000円。人生でお金拾ったのなんかコレで何回目かな。最高金額の記録がこれで10倍になったな、うん」
「ショボ」
「んな?! おい、お前今なんて言った? ショボイとかおっしゃりやがったんですか?!」
「そりゃ1000円拾ったら私だってラッキーって思うけど、アンタ喜びすぎでしょ。カジノで一山当てたくらいの喜び方じゃない? それ」
「人の喜びに水を差すなよ。こんなラッキーなことなんて俺にとっちゃ奇跡みたいなことなんだよ」
「ふーん」
美琴は当麻に、少しだけ苛立ちを感じていた。
悩みのなさそうな明るい顔で、今焦りを感じている自分の気持ちと、対照的だったから。
「おい、御坂」
「――――え?」
「なんかやけに元気ないな」
「別に、そんなことないわよ」
「そうか。なら、いいけど。ところでどこ行くんだ?」
「なんで言わなきゃいけないのよ」
「言いたくないなら別にいいさ。でも軽く聞いたっていいような内容だろ?」
それはそうだ。白井のところに行くのなら、美琴だってはぐらかしたりはしない。
ただ、今はそう納得させる余裕が少し欠乏していた。
「アンタこそどこ行くわけ?」
「どこって、そこら辺のスーパーに行くだけだ」
インデックスは神学校の見学から帰るとすぐに暑さでばてて、『買い物はとうまひとりでがんばってね、応援してるよ』とのことだった。
「そ、じゃあさっさと買い物して晩御飯の仕度すれば」
「まあそのつもりだけど。……俺がイライラさせたんなら謝る。けど今日のお前、なんか変だぞ?」
「変って、アンタに私のことがなんで分かるのよ? 大して会ったこともないくせに」
「回数は知れてるかもしれないけど、夜通しで遊んだ女の子なんてお前しかいないぞ?」
「う」
かあっと顔が火照るのが分かる。コイツの言葉に他意なんてない。
けど、まるで、それじゃあ私が特別な女の子みたいで――ッッ
「……ちょっと人探し」
「人探し? この時間に? 完全下校時刻ももうすぐだぞ?」
「まあいいじゃない。そういうのにうるさく言える立場じゃないでしょ、アンタも」
「そうだな。それで、名前は?」
「え?」
「探してるやつの名前」
ジトリと、当麻を睨みつけてやる。
軽く受け流すようになんだよ、と呟く態度が気に入らない。
「何で聞くわけ?」
「まだ時間はあるから付き合ってやってもいいし、そうでなくても俺の知り合いだったら話は早いだろ?」
「知り合いなわけないわ。レベル0のアンタとじゃ一生接点のなさそうな相手よ」
「そうは言うが、レベル0でもレベル5のお嬢様と知り合いになったりはするんだけど?」
もっともな切り返しに、美琴は口ごもった。
別に、名前ならいいかと思う。長点上機の三年生という点を伏せておけば、それ以上探られることもないだろう。
やましいことを美琴はしたわけではないが、どこか、細かな説明をするのは躊躇われた。
「探してるのは、布束砥信、って人。知らないでしょ?」
「……」
「ほら、さっさと買い物済ませて帰りなさい」
「あの目が……ええと、パッチリしてる三年生か?」
顔写真を見た美琴にも、よくわかる外見の説明だった。パッチリというのは男性の当麻が見せた女性への気遣いだろう。
美琴なら迷わず、目がギョロっとしていると言うところだった。
「……なんでアンタが知り合いなのよ」
「いや、知り合いって程でもないけど、これ絡みで」
「え?」
そう言って当麻が見せたのは、例のマネーカードだった。
「それ絡みって、どういうこと?」
「お前知らないか? ちょっと前から噂になってるらしいんだけど、学園都市の裏通りを歩いてるとマネーカードを拾える、って話」
「知らない」
「……まあ、常盤台の学生ならこの額じゃ小遣い以下か」
「別にそんなんじゃないわよ。噂を仕入れるような情報網を持ってないだけ。その手のソーシャルネットワークサービスとか嫌いだし」
「そっか。ごめん。常盤台だから、みたいな色眼鏡で見てものを言うのは良くないよな」
「う、うん。分かってくれればいいわよ」
まさか謝られるとは思ってなくて、美琴は思わずたじろいだ。
だけど嬉しくもあった。話す前から自分との間に壁を作る人は少なくない。
常盤台の人だから、あるいは第三位だから、そんな風に美琴を遠ざけて話す人は多い。
そんなものを取っ払って、気安く話してくれるところは、とても高評価で。
……そんな思考を振り払うようにブンブンと頭を振った。
「で、マネーカードの噂と布束って人の関係は?」
「これ置いてるのが、その布束先輩だ」
「はぁ?」
「なんかよくわからないけど、こないだ会ったときには街の死角を潰すため、とか言ってた」
「死角を、潰す? 何のために?」
「なんかよく教えてもらえなかったけど、止めたい実験があるんだってさ」
そのフレーズに美琴はピクリと反応してしまった。
起こって欲しくなかったことが、あったのかと、そう疑ってしまうような一つの事実。
「こないだ布束先輩がカードを置いて回ってて不良に絡まれたところに偶然居合わせてさ」
「それじゃあ、もしかして」
「人通りも多かったし、今日はこの辺でやってるのかもな」
「ありがと。良い情報貰ったわ」
近くにいるのなら、取り逃がす前に捕まえるに限る。
美琴は早々に会話を打ち切って、路地裏へと歩き出した。
「で、ビリビリ、なんで布束先輩探してるんだ?」
「……なんで付いてくるのよ?」
「探すなら二人のほうが早いだろ?」
「仲良く歩いてちゃ意味ないでしょうが」
「それもそうだな。じゃあちょっと携帯貸してくれ」
「え?」
「俺のアドレス教えとくから」
「えっ? え、あ……え?」


急にピタリ、と美琴が立ち止まった。セカセカと歩いていたので急変に当麻はびっくりした。
手分けをするのなら連絡先が必要だ。美琴のアドレス帳にアドレスを登録して、自分の携帯には着信履歴を残す気だった。
自分の携帯にはさすがに美琴のアドレスを載せる気はなかった。
可愛い彼女に操を立てる意味も込めて、必要がない限り女の子のアドレスは登録しないようにしていた。
「ちょ、いいの? そんなにあっさり」
「いいのって、そりゃむしろ俺の台詞だろ。お前こそ嫌なら止めるけど」
「だ、大丈夫。私だってアンタに知られて困ることなんて別に……」
「よし、じゃあ貸してくれ」
びっくりするくらいの急展開だった。
アドレスが手に入るって事はつまり、いつでも、寝る前にだって連絡できるし、朝起きてすぐにだって連絡できるし、休み時間のたびにだって連絡できるし、会いたいときにはいつだって連絡できるし、例えば明後日の盛夏祭、美琴たちの暮らす常盤台中学の寮祭に当麻を招待する事だって、できるのだ。
当麻はおずおずと差し出された可愛らしい携帯に何もコメントすることなく、カチカチとアドレス送信の手続きを行った。
処理に問題など生じるはずもなく、上条当麻という登録名のアドレスが、美琴の携帯に一つ増えた。
「……なんだよ、ぼうっとして」
「なんでもない」
「で、お前はどっちのほうを探す? 土地勘あるか?」
「あ……」
そもそもそういう話でアドレスを貰ったのだから今から当麻と離れることになる、ということに、美琴はいまさら気づいた。
そしていきなり心のどこかで、一緒に歩いていても視線が二つになるだけでかなり違うのではないかとか、二手に分かれて当麻のほうが布束に接触した場合、自分が駆けつけるまで待ってくれないかもしれないし、そういえば当麻と布束は知り合いでしかも待ってる間は二人っきりなのかそうなのかと、そんな言い訳みたいななんともいえない思考が沸きあがってきた。
「場所は、あんまりわかんないかも」
嘘だった。風紀委員の白井に付き合ってそれなりになじみの場所だった。
「そうか。……まあ、お前の実力なら危ないトコに迷い込んでも俺より安全な気はするけど、でも女の子がそういう場所にフラっといっちまうのを見過ごすのも嫌だしな。効率悪いけど二人で探すか……って、ありゃ」
「え?」
当麻が突然会話を打ち切って、目線を横に滑らせた。
その先を美琴も追うと、絵に描いたような不良が5、6人と、その真ん中に白衣の女子高生。
耳の下までくらいの濃い黒の髪をピンピンと跳ねさせ、ギョロリとした瞳を揺らすことなく不良に付き従っている。
当麻には会った覚えが、美琴には見覚えのある人が、そこにいた。
布束砥信、その人だった。

****************************************************************************************************************
あとがき
漫画版とアニメ版の超電磁砲の違いについてコメントしておきます。
漫画版では、幻想猛獣を倒してすぐ、木山が警備員に拘束される直前に、美琴に対して意味深な説明をしています。これが布石となって次の妹達編へと進むわけです。
しかしこのSSは基本的にアニメ版に基づいたストーリーとなっています。すなわち、木山は捉えられる直前に超電磁砲量産計画に繋がるような情報を美琴に与えたりはしていなかったため、このSS内で美琴が木山を訪ねて始めて、美琴はその情報を手にしたことになります。
ですので漫画版からすると木山が美琴に美琴の『絶望』について二度喋っていることになりますが、こういった事情があるのだということをご理解ください。
……ただ、多くの人にとっては気にならない程度のことではないか、と思います。



[19764] interlude07: 最強の電子使い(エレクトロン・マスター)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/06 22:07

物陰から、美琴は様子を窺う。
当麻自身が言ったとおり、この場面での実力で言えば間違いなく美琴が最強なのだ。身を潜めるべきは自分じゃなくて当麻だろう。
だというのに。仲の良い知り合いのふりして助けてくる、無理なら布束をこちらに誘導するから適当に逃げてあとはうまくやってくれ、と言うのだった。

「大人しくしてくれりゃー手荒なことはしねぇからよ。ウチのリーダーは女子供に手出すの禁止してるからな」
「砥信! 悪い、遅れた」
「お、にーちゃん彼氏か? こえー顔すんなよ。俺たちがお世話になりたいのはカラダのほうじゃなくてカネだけだ。出すもんだしてくれたらすぐ立ち去るぜ。紳士だからな」
「こっちにも事情があってやってるんだ。悪いけど、これをお前らの小遣いにしたいわけじゃない」
「……いいわ」
ちらりと当麻が布束を見た。布束の首が横に振られたのが見えた。
鞄が不良たちに預けられる。躊躇いなく開かれたそこからは、たった2枚のマネーカード。
「おいおい、コレだけしかないのか? その懐に溜め込んでんじゃねーの?」
「砥信に触るな」
「あぁ? 誰に口聞いてんだ?」
「落ち着けよ、お前こないだ彼女に振られたばっかりでひがんでんのか?」
いきり立つ不良を、格上らしい男が揶揄する。周りがそれで爆笑していた。
「格好良い彼氏君よ、お前がやって良いからポケット全部探りな。手ぇ抜いたら俺らがやるぜ?」
「……ごめん」
「構わないわ」
プツプツと制服の上から来た白衣のボタンを外し、白衣と制服のジャケットについたポケットを、当麻に改めさせた。
「ホントにコレだけかよ。おい彼氏君調べ方が足りないんじゃないか? おい、代わりに調べてやれよ」
「ああ、まー好みの顔じゃねえけどなぁ」
「お前もっとババァでもいけるだろ?」
「ひでー」
そんな下品なやり取りをして布束に手を伸ばそうとした不良の動きを、当麻は遮る。
「触るなっつってんだろ」
「ああ?!」
額をこすり付けそうな距離で、不良が当麻を睨みつけた。
怯まない当麻より先に、不良は脅す視線ににやりと嘲笑を混ぜて、距離をとった。
「大して可愛くもねー女にお前よくそんな惚れてるなあ」
「惚気話でも聞きたいのかよ?」
「面白そうだから言ってみろよ。カラダは悪かねーし、具合がいいんなら俺にもやらせてくれよ。金なら出すぜ?」
「くだんねー話で砥信を汚すな」


イライライライライライライライライラ
当麻はこないだ知り合ったと言っていた。明らかに彼女とは違うような口ぶりだった。
だからこれは演技だからこれは演技だからこれはただの演技。
美琴はずっとそう言い聞かせながら推移を見守っていた。


「砥信、あっちから出れば繁華街に近い。先に行ってろ」
「……それは申し訳ないわ」
「いいから」
そう言って、当麻がこちらを見た。意図は、布束を回収してうまく逃げてくれ、だった。
美琴はそんなお願いを聞いちゃいなかった。
「……いい加減にしなさいよ」
「え、おい、隠れてろって」
「お? 嬢ちゃんがもう一人?」
「なんだ? お前ら、どういう関係?」
「話がこじれたじゃねーか、ビリビリ」
「どうせこの子にも手を出せるわけじゃねーしなあ、サクっと貰うもん貰って彼氏君と楽しく遊ぼうぜ。小銭で楽しく格ゲーでもやろうや」
「ところでお嬢ちゃんは俺らと楽しいことする気はない? 付いてきてくれるならアリだよな?」
美琴が好みなのか、不良の一人がそんなことを言って誘ってきた。
いい加減、我慢の限界だった。美琴のそんな様子を察した当麻が、空を仰いだ。
この結末を回避させてやりたくて、不良のために当麻は努力を尽くしたのだが。
「悪いけど、外野は寝てて」
「あん? っておぎぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
ビリっと一発、人間から人間への志向性を思った放電、道具なしのスタンガンが炸裂した。
「アンタ達、事情はきっちりと聞かせてもらうわよ」
ジロリと立ったままの二人、布束と当麻を美琴は睥睨した。




「アンタ達、どういう関係な訳?」
場所を移そうと提案して歩き始めたばかりだというのに、美琴が待てないのか早速食って掛かってきた。
「どういうって、こないだも路地裏で不良に絡まれてたから、ちょっと声かけたんだよ。それだけだ」
「Don't worry. 私達の関係は誰かが嫉妬する必要のない程度のものよ」
「わ、私は別に」
嫉妬なんて、と続く言葉が口から出なかった。
目の前にいるのが高校生二人組で、子供扱いされている感じがムカつく。
まるで動じた風のない布束に当麻がすみませんねと謝っているのが、嫌だった。
「なんにせよ、まずはお礼を言うべきだったわ。ありがとう」
「先輩、喧嘩慣れしてないんだったら気をつけたほうがいいっすよ。口では金以外に興味はないって言ってたから、助けなくても良かったかもしれないけど、何かあってからじゃ遅いです」
「そうれはそうね。でも、やれることはやらないと」
「こないだも教えてもらえませんでしたけど何やってるんですか? ……ってそういやビリビリ、御坂がなんか聞きたいことがあるって」
「そう……。あなた、オリジナルね」
「え?」
もとより気安い人間ではなさそうな布束だが、美琴に向けられた視線がどこか余所余所しさに欠けるというか、初対面ではないような雰囲気を持っていた。
そして、聞き逃せない単語を、呟いていた。
オリジナル、という言葉の裏には、コピー品かイミテーションか、そういうものの存在を感じさせる。
人間においてコピーであるというのは、それは。
「やっぱりアンタあの噂のこと何か知ってるの?! 教えて!」
「あ、御坂」
返事は鞄の角だった。ガスッと、美琴の頭に突き刺さる。
「いたっ」
「長幼の序は守りなさい。あなたは中学生、私と彼は高校生」
「前回俺もやられたなあ。つか御坂、俺にも敬語使ってくれたって良いだろ」
「ふざけんな、なんでアンタに! って痛い、ちょっといい加減にして……下さい」
「常盤台の知り合いは他にいるけど、そっちは敬語使ってくれるんだけどな」
布束先輩は上条先輩に敬語を使わない美琴もNGらしかった。また鞄の角が振るわれる。
そして当麻は、敬語を使ってくれるほうの子が自分の彼女だとは気恥ずかしくて言えなかった。
「それで話を戻すけれど。噂というのは?」
「あ、その」
話そうとしたところで、隣にいる当麻が気になった。
聞かれたくなかった。気にしすぎだと笑われるのは嫌だったし、自分の懸念が正鵠を射たものだったとして、頼れるわけでもない。
何があったとしても、それは自分が撒いた種で、そして自分はレベル5なのだ。
「悪いけど。ちょっと外して……下さい」
「俺が聞いちゃまずいか?」
「うん。ごめん」
「わかった」
美琴を立てて、当麻は言うとおりに従ってくれた。
そうしたのは美琴のプライドと、それを尊重する当麻の気遣いだった。
廃ビルの小さな階段を上り始めた布束に美琴は付いていき、当麻は表で待つことにした。
「Then, 話を聞きましょう」
「私のDNAマップを元に作られたクローンが軍用兵器として実用化される、なんて噂があるじゃないですか。それについて何か知りませんか?」
コクリと布束が頷いた。それは悪い知らせ。だが、覚悟はしていた。
布束というこの女子高生の専門をくまなく調べれば、薄々分かること。
「噂にはそう詳しくもないけれど、事実についてはあなたよりは詳しく知っているわ」
布束のほうも美琴が自分にたどり着いたことの意味は理解していた。
冗談では済ませられないほど確度の高いソースを持って、事の真偽を、そして真実を求めに来ている。
そりゃあ、自分のことなら知りたいと言う気持ちはあるだろう。それは分からないでもない。
「教えて、ください」
「『妹達<シスターズ>』、私がかつて関わったプロジェクトの名前よ。今ではもう目的も内容も変わってしまったようだけれど」
「それって」
「あまり深追いしないことね。知っても苦しむだけよ。あなたの力では何もできないのだから」
「それはあなたが決めることじゃない」
「Exactly. ……アドバイスはしたわ」
布束は、それ以上を語らなかった。
たとえ御坂美琴がレベル5であっても。レベル6に群がる大人たちにはかなわない。今自分与えた単語で、どこまで辿れるだろうか。
きっと、本当に深いところまでは、来られないだろう。
それで良いと布束は思う。学園都市は御坂美琴そのものは表の顔として綺麗なままにしたいらしいように見える。
それならそれで、幸せを謳歌すればいいのだ。
レベル5であっても、御坂美琴本人はその程度の利用価値だから。
「あまり彼を待たせても悪いから降りましょうか」
廃墟に取り残されたデスクの引き出しから書類を取り出して、火をつけながら布束が言った。
もう話は終わりだと暗に告げる布束に、美琴はこれ以上声をかけなかった。
だって、噂が事実なのなら、あとは全力で探すだけだから。
僅かに焦げ後を残した廃墟から出て、当麻と合流する。律儀に待っていたらしかった。
降りてくる二人に気づいて、表通りまでの近道をナビゲートしてくれた。
「先輩、もうあんまりやらないほうが」
「そうね。今日のも尾行されていたみたいだし、やり方には気をつけるべきね。それじゃあ、私はこちらに帰るから」
「あ、はい。それじゃ」
「どうも」
長点上機の近くに住む布束が真っ先に別れた。
気になっていたはずなのに、あっさり布束を解放した美琴の様子に当麻は首をかしげた。
「いいのか?」
「うん。これ以上は話してくれなさそうだし、自分で調べるから」
「困ったことがあれば連絡入れろよ。まあ、大して力にはなれないけど」
「私を誰だと思ってんのよ、アンタに頼るほど落ちぶれちゃいないわ。じゃね」
「御坂、それじゃな」
「うん」
駅前で、素っ気無く美琴は別れた。
余計な心配をされるのが嫌だったし、別れ際が気恥ずかしかったからだった。
そして、心のどこかで、アドレスを知っているから繋がっているような、そんな思いもあった。




「さて」
スーパーに向かう当麻を見届けて、美琴は町をうろついた。
昼下がりと同じ、公衆電話を探してだった。

目的は一つ、樋口製薬・第七薬学研究センターにアクセスすること。
幼少期なら長年にわたり布束がいた場所だ。『妹達<シスターズ>』という計画に、一番関わっていそうだった。
最低限、場所の見取り図を。そして出来るのなら、全ての情報を。
美琴は直接潜入することも辞さぬつもりで、その前段階として情報を得るつもりだった。
まさか、機密がこんな簡単に手に入るわけはないだろう。

初めから、美琴は全力で逆探知回避の策を講じ、そして私企業のプライベートデータにアクセスできるだけの権限を偽装した。
ネットワークから一切切り離された情報には美琴はアクセスできないから、本当に大事な情報は手に入らないつもりでいた。

「見取り図はこれ、と。意外に緩いわね」

施設として機密性の高いところを探し、潜入すべき場所にアタリをつけていく。
電気的なセキュリティは簡単に無効化できるからあまり気にしない。
警備員の配置についても情報がある。まあ人はスケジュールどおりに動かないものだが、ないよりは良いだろう。

必要な物をそろえた上で、次は研究データの探索に当たる。
これは一番大事な情報だから、当然セキュリティも極端に厳しい。
すべて量子暗号によってデータはロックされていた。

「……バックアップのためにデータが流れてる」

どういう手続きで中身を見るかが問題だった。
誰かの権限を奪って、正規の手続きを踏んで情報を見るのも一つの手だが、その場合閲覧したという履歴自体を消さなければならない。
それよりも、データバックアップのために流れている、暗号化されたデータを傍受するほうが確実だった。
理由は簡単。それは原理上、出来ないことになっているからだ。
光の量子状態を巧みに操って行う量子暗号は、観測に弱い。
それを逆手に取ることで、送り手と受け手以外の誰かが送信されたデータ内容をどこかで傍受、すなわち観測すれば、それによってデータそのものが変質し、第三者による傍受がすぐに検出される。
そういう『理論上第三者による情報の傍受を絶対検知できる』という性質を量子暗号は持っているのだ。
だから、普通のやり方なら、傍受なんて諦めて別のハッキングを試すことになる。

美琴は、だからこそその逆を行く。
光という電磁波を、美琴は制御下に置ける。超能力によって、量子の基本原理すら捻じ曲げて、物理的に不可能とされる痕跡を残さない量子暗号の傍受を行うのだ。
こんな風にはっきりと犯罪に当たる行為に使ったことはなかったが、技術としてすでに美琴はそれを身に着けていた。
そして、コレをやれる能力者は、発電系能力者でもレベル4では不可能だろうと実感している。
つまりこの美琴の破り方を警戒している研究者はいないし、ましてや対策が講じられていることなんてあり得ない。

「何もアラートは鳴らない、わね」

情報を横から掠め取る。傍受はばれるときはすぐさまばれるはずだから、それが無いということは、このセキュリティは美琴にまるで気づいていないということだった。
流れる情報を手元の端末で逐一デコードし、解析にかける。ほぼ全ては無関係で不要なデータだが、美琴が集中している間に、いつの間にか一つヒットしていた。
集中を切らさないよう気をつけながら、そのファイルを開く。
「超電磁砲量産計画、通称、『妹達』……その最終報告書」
タイトルからして間違いなかった。
「あったんだ……噂じゃ、なかった」
カチカチと歯が音を立てたのが分かった。
美琴を対等な一人の人間として認め、腰を落として尊の目線に合わせ、そして握手を求めてくれた、そんな科学者がいた。
美琴のDNAマップを使って研究をして不治の病を治したいのだと、そう言った彼と彼の患者を救いたくて、美琴は首を縦に振ったのだ。
それが、まるで冗談、酷い嘘だったことを突きつけられた。
今日、今も、この町のどこかで御坂美琴の外見をした御坂美琴ではない生き物が、御坂美琴のふりをして生きているかもしれない。
あるいは、美琴を研究するために、非道な実験に使われているクローンがいるかもしれない。
それは、おぞましい可能性たちだった。

真夏の電話ボックス内で、美琴はぶるりと震えた。
誰かに混乱しまくった頭の中をそのままぶちまけたくなる。
始めに思い浮かべたのは何故だか、ついさっき別れたばかりの、当麻の顔だった。
今なら、探せば会えるかもしれない。声を聞けるかもしれない。

「って、アイツに相談したってどうしようもないでしょうが。……悪いのは、私なんだから」

つまらないことを考えた自分の弱気を振り払うように、美琴は髪を掻き上げた。
そして端末の実行キーに、人差し指を触れさせた。ページをめくるのが、怖い。
……アイツは、事情に一切気づいてなかったのに、私のことを気にかけてくれた。
もし、どうしようもないくらい困ったことがあれば、あのバカはきっと、力になってくれる気がする。
いつでも、連絡は出来るのだ。メールだって電話だって、出来るのだ。美琴の意思一つで。
その事実はどうしてか、美琴の気持ちを軽くしてくれた。
どうせ見ずにはいられない資料。不安という名の呪縛を振り払って、美琴はキーをそっと押し込んだ。
カタ、と音を立ててページが送られ、資料の内容が表示される。
「本研究は超能力者<レベル5>を生み出す遺伝子配列パターンを解明し、偶発的に生まれる超能力者<レベル5>を100%確実に発生させることを目的とする。――――本計画の素体は『超電磁砲』御坂美琴である」
イントロダクションの一行目で、美琴は自分の不安がそのまま現実になったと、そう理解した。
ああ、と心の中で声が漏れる。現実が歪んでいく。どうしようもないことを、自分はしたのだと、ようやく理解した。
心の底に降り積もった絶望をさらに追い増しするように、続きを読む。
乾いた笑いすら口からこぼれる今の美琴の心境では、もう、苦痛とすらも感じなかった。
ここまで堕ちれはもう同じ、そんな気分だった。

美琴のDNAマップの入手経路、そしてクローンの合成法、
美琴の成長と同じ年月、すなわち14年をかけずとも美琴程度の肉体にまで急速成長させる方法、布束砥信の作成した『学習装置<テスタメント>』による教育、いや機械的な知能の注入法、そんなエクスペリメンタル・メソッドの説明に目を通す。
これまで、グレイゾーンに足を突っ込む科学者も多い、なんてのを平気で喫茶店で話してきたくせに、完全にブラックな所にいる科学者のことを考えられなかった自分を、美琴はあざ笑った。
よく書けた報告書だ。主観を排除して必要な情報をきちんと列挙した、お手本のような実験手法の紹介。
扱っているのがラットでもカエルでもないこと以外は、至極まっとうだった。
御坂美琴のクローンを作ることが、極めて低コストに実現可能であること、それがよく分かる内容だった。
「それじゃ、学園都市には私の知らない私が歩いてるって、そういうことなんだ。――――あれ?」
それ以上に細かなチューニングには興味はなくて、読み飛ばす。
するといつのまにか、成功物語の報告書かと思いきや、少し違う感じのするストーリーが訪れた。
――『樹形図の設計者』に演算を依頼、『妹達』の能力について計算を依頼。
――その結果として、『妹達』はどのようなチューニングを施しても、レベル2程度の能力しか宿さないことを確認。
「本計画よりこうむる損害を最小限に留めるため委員会は進行中の全ての研究の即時停止を命令。超電磁砲量産計画『妹達』を中止し永久凍結する」
あとはデータの取り扱いの細かな支持だけだった。

周りに、音が戻ってきた。怪しまれないために人通りの絶えない場所を選んだので、それなりの喧騒があった。
長いため息を美琴はついた。額の汗を指で拭う。
「……ったくなによ。ほいほいこんな能力コピーされちゃたまったもんじゃないわよ。ま、レベル2なんて量産する意味、あるわけないし。これで資金に困った研究者あたりが、飲み会の話のネタにでもしたのが噂になって広まった、ってのが実情なの」
ずるずると壁にもたれかかったままへたり込む。もう歯の根がかみ合わないことはなかったが、腰が砕けたように、起き上がる力が入らなかった。
「にしても、あの時のDNAマップが、ね……。過ぎた事は言ってもしょうがないか」
端末を回線から丁寧に落として、ケーブルを回収する。
とそこで、コツコツと外から透明のボックスの壁がノックされた。
外には、豊かな胸元を無骨な警備員のジャケットで覆った長髪の美女がいた。
「おーい、もう完全下校時刻過ぎてるぞ。なにしてるじゃんよ」
「あ、すみません。すぐ帰りますから」
「常盤台のお嬢様がこんなことしてちゃ、寮監が黙ってないだろう」
「知ってるんですか?」
「まあな。常盤台の学生でお前と同じ不良少女を知っているんでな」
「はあ。あの、すみません、帰ります」
「おう、まだ明るいけど、細い道は通るなよー!」
「はい」
足取りも軽く、美琴は帰路に着いた。
自分の犯したミスに、美琴は気づいていなかった。






「麦野ー。持ってきたよ、カーディガン」
「ありがと。まあ、無駄になっちゃったけど」
「え? もう終わったの?」
「ええ。あちらの完勝でね」
悔しくもなさそうに、そう呟いた麦野がうーんと伸びをして自分の端末を閉じた。
胸元は大きいと言うほどでもないが、大人びたルックスとそれに見合うスタイルの持ち主である麦野の、妖艶すぎない、均整の取れた色香に遠目で見ている男達の視線が釘付けになる。
来ているビキニの布地も、面積は少なめだった。冷たい無表情で男を見返すと、皆目線をすっと外した。
「終わったんなら麦野も泳ぐ?」
「当然。滝壺は……プールは浮いて遊ぶところだって言ってたけどホントにあの子浮いてるだけなのね。絹旗は?」
「さっきまであっちのプールサイドで昼寝してたみたいだけど」
「ふうん」
滝壺はクラゲそのものと言った感じで、色気のないスクール水着みたいなワンピースを着て、髪を広げながら水面に浮いている。
絹旗は中学生にはちょっと早いんじゃないかというデザインのビキニ、目の前のフレンダは逆に、ちょっとメルヘン過ぎるくらいの可愛いフリルが着いたビキニだった。
ちなみにそんな装いなのに四人で歩くと一番視線を集める胸は滝壷の胸なのだった。
楚々とした女の子ほど狙いたくなるのが男の性かもしれないが。

手元のジュースに口をつける。氷が解けて味が薄くなっているのに麦野は顔をしかめた。意外と、集中していたのだろう。
ここのトロピカルジュースとスモークサーモンのサンドイッチはお気に入りだったのだが。
外はかなり暗くなって、窓の外には光の海が広がっている。
この一体で一番高いビルである超高級ホテルの、最上階のプール。麦野たち四人はそこで遊んでいた。
いや、許しがたいことにリーダーである麦野沈利にだけ、仕事が割り振られたのだった。
「それにしても、麦野にそんな仕事を頼むなんて変な仕事だったねー」
「そうね」
「結局、どうなったの?」
「ん? さっきも言ったでしょ、あっちの勝ちだって。全部情報は取られちゃったし」
フレンダは首をかしげた。麦野沈利という女が、負けてこんな態度のはずがない。
そしてそもそも、電脳戦で負けるなんてことがあるはずがない。仮にもレベル5の発電系能力者が。
その表情から言いたいことを汲み取ったのだろう、超然とした微笑を麦野は浮かべた。
「負けたのは私が加担した側ね。私個人では、勝ってるわよ」
「なんだ。まあ当然だよね。結局麦野が一人勝ちって訳ね」
「結果はそうだけれど、なかなか面白い相手だったわ」
「へえ」
麦野にそう言わせる相手は、遊び相手として面白いくらいの実力があって、そして麦野に完敗した相手だ。
電脳戦そのものにはそう強いわけでもない麦野だが、ひとつだけ、専門があった。
「発電系能力者<エレクトロマスター>ってのは電子や光子一粒、ってくらいの世界になると、途端に甘さを露呈しだすのよね。まとまった流れが無いと扱えないのかもしれないけれど」
「ふーん?」
「あれ、麦野、終わったんですか?」
「ええ。絹旗は泳いでいたの?」
「来たからには超泳いでおかないと損ですから」
こちらに気がついたのか、フラフラと滝壺も漂いながらこちらに近づきつつある。
麦野はちゃぷ、とプールサイドで水を掬って、自分の足にかけた。
もとから体を濡らしていた三人はすでにプール内で待っている。
軽くだべりながら、ビニールの玉でバレーもどきの遊びをするつもりだった。
太ももに塗り、胸にかけ、足を浸す。四人ともそうだが、真夏にこの長い髪は暑いことこの上ない。
じゃぽんと音を立てて水に入って、髪を濡らすと気持ちよかった。

麦野が引き受けた仕事は、今晩、ハッキングされるかもしれないある研究施設を、監視することだった。もちろんネットワーク上で、だが。
つまらない仕事のつもりだったから、わざわざプールサイドにまで出てきて、せめてもの慰めにするつもりだったのだ。
だが、意外な収穫があった。
たぶん、自分が今日情報を抜き取っていく様を眺めていたその相手は、御坂美琴。
最強の発電系能力者だ。

麦野は自分を発電系能力者だと思っていない。電子に関わる能力でありながら、麦野は電流操作なんてほとんど出来なかった。
電磁場の制御なんて、きっと麦野は御坂に逆立ちしたって勝てないだろう。
それを悔しいとは思わない。魚に嫉妬する水泳選手がいないのと同じだ。

ただ、唯一の自分の土俵で、麦野は勝った。
仮に麦野がレベル4ならあちらには勝てないだろうから、自分の土俵といっても相手が何も出来ないほどの場所ではない。
その土俵というのは、量子的な情報の盗みの上手さ、だ。

この世に存在するあらゆるものは波でありそして同時に粒である。
観測によって粒らしさ、波らしさのどちらの特性を発現するかは決まるが、観測されない限りはそれは『未定』なのだというのが、いわゆるコペンハーゲン解釈だ。
麦野はそんな物理の常識を超越する。人間の五感、理性においては矛盾するはずの二つの特性、それをコントロールするのが最も上手い能力者が、麦野沈利だった。
御坂美琴とて相当の手練であり、実際研究所のセキュリティはまるでハッキングに気づいていなかった。
だが、その美琴に、自らが監視されているのを気づかせないだけの実力が、麦野にはあった。
「ねえ、例えば、自分のクローンが突然目の前に現れたら、どう思う?」
「気持ち悪ーい」
「超嫌ですね」
「私は、あんまり気にならないかも」
返事はどうでも良かった。一番聞いてやりたい相手は、御坂美琴だったから。
美琴がひったくったものを、麦野もこっそり閲覧していた。
学園都市の『闇』の中でもトップクラスに生ぬるいプロジェクトの、最終報告。
ハン、と麦野は笑う。超電磁砲がアレで満足したんなら本当に脳みそお花畑だ。
学園都市が、まさか超能力者のモルモットを簡単に手放すわけがない。
レベル2程度だろうと、どんなことをしてもどこからも文句の出ない能力者で、しかも何でも好きに教えこめるのだ。遊び甲斐なんていくらでもある。
「そんなのがもしいたら、ちゃんと本人には伝えてあげるのが、優しさよね」
店先でお気に入りのおもちゃを見つけた、そんな顔を麦野は見せていた。
ニィ、と嬉しそうな笑顔を浮かべて。
学園都市最強の発電系能力者<エレクトロマスター>は御坂美琴だ。
だが、量子の風の使い手、『電子使い<エレクトロン・マスター>』としては、第四位、『原子崩し<メルトダウナー>』麦野沈利のほうが上、そういうことだった。



[19764] interlude08: 電話をする人しない人
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/01 01:22

「これとこれは、もう要りませんわね。勿体無いですけれど、仕方ありません」

確認するように光子は自室でそう呟く。
もうじき黄泉川家へと引っ越すので、その荷造りの前段階、要らないものを捨てる作業に入っているのだった。
光子に割り当てられたスペースは今いる寮の自室の半分くらいだ。それなりに私物は捨てるなり、実家に送るなりしなければならない。
「せっかく揃えましたのに……。飾るスペースがないのでは仕方ありませんけれど」
大きな棚を埋め尽くすように静かに座った西洋人形たち。光子の部屋にはもう一つ棚があって、そちらには主に文学小説が並んでいる。
棚の端っこには漫画がある。当麻に借りたものと、話を聞いていて気になったものだった。当麻と同じ物語を共有したのが嬉しくて、ここ最近で一番読んでいるのはこの漫画だった。
この棚の半分以上は実家に送らないと、黄泉川家には入らない。
一番広い部屋を貰えたとは言え、黄泉川家は庶民向け家族用マンションだ。
そんなところペットのニシキヘビ、エカテリーナのための巣箱とエサ用冷蔵庫、さらには勉強机まで置こうというのだから、すでにそれだけで手狭だ。
ちなみに光子はベッドも入れようとしたのだが、計画段階で黄泉川に駄目出しをされてしまった。
常盤台の寮で使っているベッドは光子の実家から持ち込んだもので、ゆうにダブルベッド級のサイズだから部屋に入りきるはずがない。
ではどうすればいいのかと聞くと、カーペットが敷かれただけの床に直接布団を敷いて寝るべし、とのことだったが、布団は畳に敷くものという常識を持っている光子には仰天モノだった。
そのアドバイスに従うことにしたのは黄泉川の一言のせいだ。
曰く。『下宿暮らしなら珍しいことでもないじゃんよ。それに、上条はお坊ちゃんじゃないぞ? あいつと暮らすならこれくらい慣れとかないといけないじゃんよ』
だそうだ。その一言で光子の腹は決まった。
将来、婚后の家が当麻を応援すれば、光子は今と同じ暮らしをずっと出来るかもしれない。でも、そういうものがなければ、財閥の令嬢の暮らしをきっと当麻は維持できないと思う。若くて収入がないっていうのは、きっとそういうものなのだ。
惨めな暮らしをしたくないとは思う。本音としてそれはある。だけど、いつか迎えたい当麻との未来において、あれこれと文句を言うだけのお嬢様になんて、絶対になりたくない。できるなら当麻と苦楽を共にする、パートナーでありたい。
部屋が狭いくらいで、床に直接布団を敷くくらいで、文句を言うようじゃきっと駄目なのだ。
……ファミリータイプのマンション暮らしよりも新婚生活は貧しいであろうことまでは予想の埒外だったが、光子はそういう決意を持って、黄泉川家に引っ越すのであった。


捨てるものをまとめて、部屋の隅に置く。時計を見ると、いつも当麻と電話をする時間だった。
電話は何時間でもしたくなるけれど、大体20分から1時間くらいと決めていた。
会えなかった日は必ず、どちらからか電話をする。デートをした日も今日の楽しかったことを二人で思い出して、短めにかける。
当麻と同じ屋根の下で暮らした日々のギャップで、一人でいることがいつもに増して寂しかった。
今日はインデックスの通う学校に挨拶しに行ったはずだから、それも聞いておきたい。
光子は鞄に入れてあった携帯を取り出し、慣れた手つきで当麻に電話をかけた。
「もしもし」
「あ、当麻さん。私です」
「おう。元気してるか、光子」
「はい」
受話器の外の喧騒がいつもと違った。アニメらしい爆発音や女の子の声がする。
この時間のアニメではないから、録画だろうか。
「もしかして黄泉川先生のところにいますの?」
「よくわかったな」
「後ろでカナミンの音がしますもの」
「あー、なるほど。いまインデックスが必死だよ。いけーだのやれーだの」
そんなこといってないもん! という声がうっすら聞こえた。
「でも当麻さん、こんな遅くに先生の家から帰るのは危ないですわよ」
「大通りならまだまだ人はいるけどな。でも今日は泊まることになるかもな」
「え?」
「こないだから地震多いだろ? それも不自然なのが。そのせいで対策会議だの資料作成だのが大変らしくて、まだ先生帰ってきてないんだよ。インデックスを一人にするのも良くないしさ、帰ってくるまではいようと思って」
「そう、ですの」
「光子?」
「当麻さんは、インデックスと二人っきりですのね。まだ私だってそんなことしてませんのに……」
「い、いや仕方ないだろ? それにインデックスといたって何もないって」
「それは、信じていますけれど」
「だって考えてみろよ。光子と俺が二人っきりだったら、俺は理性保てない自信がある」
「えっ? も、もう! 当麻さんの莫迦。エッチなことばっかり仰るんだから」
「へー? 具体的に光子はどういうこと考えたんだ?」
「知りません! もう」
ちょっと声が大きくなったのを自覚して、光子は慌てて布団にもぐりこんだ。
顔までシーツをかぶって声を漏らさないようにする。
「インデックスに替わろうか?」
「あ、はい。でもカナミンに夢中じゃありませんの?」
「今終わったところだよ。ほれ、インデックス」
途中から当麻の声がインデックスに向けたものになる。
「あ、みつこ?」
「元気にしてますの? インデックス」
「うん。っていうか一昨日まで一緒だったんだからそこから急に変わるわけないよ」
「風邪でもひいていたら話は違うでしょう?」
「風邪とかは大丈夫だから。ねえねえみつこ」
「どうしたの?」
「今日、とうまと一緒にこれから私が通うっていう学校に行ってみたの」
「そうでしたわね。どうでした?」
「学校を経営してる教会は胡散臭すぎてちょっとどうかと思うけど……。でも司祭様もシスターの人たちも、あと友達になったエリスも、みんな良い人だったよ」
「もうお友達が出来ましたの?」
「うん。校舎を案内してくれたの。あー、それとね! 聞いてよみつこ! 当麻が水道から出たホースを踏んだせいで私とエリスの服に水がかかったの!」
「あら、それは災難ですわね」
「私もエリスも服が透けてきちゃって、とうまがジロジロ見てくるし」
「あらあら。当麻さんはやっぱり、当麻さんなのね。どこに行っても、何をしても」
お、おいインデックスと当麻の戸惑う声がする。光子は当麻への恨みを書いた心のノートに、この一件をしっかり記録した。
いずれ、電話ではないところできちんと問い詰める必要がある。
インデックスが話してくれた続きを聞いて、再び電話を当麻に替わってもらった。
「当麻さんのエッチ」
「む、替わってすぐがそれかよ」
「だって。一緒にいられないときに当麻さんはすぐそうやって他の女の人と仲良くするんですもの」
「そんなことないって」
「じゃあ今日は他の女の人とは会いませんでしたの?」
「ないない」
「もう……疑いだしたら切りがありませんから、これくらいにしておきます」
この流れで、当麻は布束先輩と美琴に会った話をする勇気はなかった。
実際、別にナンパだとかそういうわけではなかったのだし。
「光子は、今日は何してたんだ? たしか昼過ぎにはあの佐天って子の面倒を見てるってメール見たけど」
「ええ。今日は朝から佐天さんにお会いしていましたの。あの子、今日また一つ、レベルが上がりましたのよ」
「へぇ。たしか一ヶ月前にはレベル0だった子だろ? すごいな、そんなに上がるものなのか」
「才能がおありなんですわ。私と違って」
「そう言う光子はレベル4だろ?」
「……たぶん、レベル3もすぐですわ、あの子。私と肩を並べることも充分ありえると、最近思いますの」
今日佐天は、簡易検査でレベル2認定を受けた。
それは、幅広い知識を身につけ自分の能力を最適化することや、反復練習によって能力をより深く体に刻み込むことなしに、とりあえずで取れる点数がレベル2クラスだったということを意味している。
能力を使えるようになって一ヶ月どころか、まだ三週間にも満たない。『慣れ』という最も強い武器を未だ手にしていない佐天が、あと一ヶ月でどこまで伸びるか。
レベル4に届かないでいて欲しいと、そう嫉妬する自分がいるくらい、佐天は先が知れなかった。
「あの子みたいな方を、たぶん、天才というのですわ」
いい師だと自画自賛するのは気が引けるが、おそらく、彼女は指導者にも恵まれたのだろう。
ほんの少しの間に学べたことが、あれもこれも、能力を伸ばすのに活きている。
同時に心配の種でもある。これからは、むしろ花開くまでに時間の掛かる知識を詰め込む作業になる。
今までの伸びが急激なだけに、伸び悩みに屈しない気持ちの強さを持てるかどうか、それが問題だった。
「天才……か。そう言うって事は、光子もライバルって意識し始めてるのか」
「そうかもしれません。最近、私自身は伸び悩んでますの。だから余計に」
「そっか。ま、能力は人それぞれ。誰かと競争するものじゃないしさ、あんまり気にするなって」
「ええ。そうですわね」
それで良いと思う。光子も最近気づいたのだが、よく考えれば光子は誰とも競ってなどいないのだ。
自分の能力、可能性を広げたい、その思いでこの街にいるのだから、他人は関係ない。
学園都市は競争原理を持ち込んで能力者の開発をしていて、小さい頃から先生に誰彼より上手い下手だなどと言われなれているせいでつい引きずられてしまうが、仮にレベルが0のままだったとして、別に、誰かより劣るなどと考える必要はないのだ。
本当にこれっぽっちの劣等感も感じさせず、レベルで人を測らない当麻を、光子はとても尊敬していた。自分には中々それが出来ないがゆえに。
「俺もレベルが上がれば生活は楽になるから、それだけは羨ましいんだけどなあ」
「ふふ。でも当麻さんみたいな『原石』の方には、レベルという概念自体が無意味なのかも知れませんわね」
「原石?」
「そういう名前が付いていると、常盤台指定のヘアサロンで耳にしましたの。学園都市に来るより前から、何らかの能力を身につけていた人のこと、らしいですわ」
「へー。たしかに俺、その定義のとおりだな」
「私達が養殖で育った能力者で、当麻さんが幻の天然超能力者、ということなのかしら」
「なんかそれ全然嬉しくないぞ。ブリか鯛みたいだ」
「ごめんなさい。でも、原石なんて意味深ですわよね」
「え?」
「だって、磨けば光る、ということではありませんの? 当麻さんの能力も、もしかしたら」
「んー……、別に、昔っから何も変わらないけどなあ」
あまり興味なさそうな当麻だった。
電話している時間はかれこれ20分くらいだろう。
布団の中に篭もっている光子のほうが、実はいつも先に眠くなるのだった。
当麻の声を聞いた後、そのまま眠るのが習慣になっていた。
「ねえ、当麻さん」
「どうした? 光子」
「明日、お暇はありますの?」
「特に予定はないけど、宿題やらないとな」
「もし、よろしかったらですけど、常盤台の寮祭にいらっしゃいませんこと?」
「寮祭?」
光子は、今日佐天に言われて思い出したことを、当麻に伝えた。
盛夏祭は学び舎の園の外にあるほうの寮でやるイベントなので、あまり興味がなかったのだ。
だが、当麻に会える唯一の手段となれば話は別。
「私も忘れていたんですけれど、明日は寮を外部の方に公開する日なのですわ。インデックスも暇でしょうし、それに」
「そこなら、俺と会える?」
「……はい。当麻さんの顔が、見たくって。来てくださいませんか?」
「勿論。俺も、光子に会いたいからさ」
「当麻さん」
光子はベッドの中で目を瞑る。布団の暖かみを当麻の抱擁に重ねて、抱きしめられているときを思い出す。
「好きだよ、光子」
「私も。大好きですわ、当麻さんのこと」
「じゃあ明日はデートするか。常盤台の寮で」
「はい、恥ずかしいですけれど……。そこでしか、会えませんものね」
「佐天って子も来るのか?」
「ええ。時間があったら紹介いたしますわね。あと、湾内さんと泡浮さんも」
「おー、話にしか聞いてなかった光子の友達と会えるんだな。楽しみだ」
「私じゃなくて、私のお友達の女性と会えるのが楽しみですのね」
「光子が一番なんて、言うまでもないことだろ? 受付なんだったら、出会い頭にそこでキスでもしようか?」
「だ、駄目ですわ! そんなの恥ずかしすぎて死んでしまいます! 大体当麻さんだって、恥ずかしくて出来ないくせに」
「さすがに人前ではなぁ。だから光子、人のいない場所、探しといてくれよ」
「え?」
さらっと言った当麻の一言が、光子の胸を高鳴らせた。
「会ってキスの一つもできないんじゃ、寂しいだろ?」
「……はい。わかりました」
「ちなみに人前で手を繋ぐのは?」
「あの、ごめんなさい。先生に目をつけられると、困りますから」
「そうか、それじゃあ、人前ではあんまりそういうのできないんだな」
「ごめんなさい」
「いいって。光子、声がだいぶ眠たそうだけど、もう寝るのか?」
「あ、はい。もういい時間ですし、このままがいいです」
「そっか」
当麻が歩く音がした。ガラガラとベランダの窓を開く音がして、家の中の音が遠ざかった。
理由はなんとなく分かった。きっと、インデックスに聞かれるのが恥ずかしいのだろう。
「光子」
「はい」
「愛してる」
「ぎゅって、してください」
「ぎゅーっ。……はは、光子可愛いな」
「当麻さんのためだったら、いくらでも可愛くなりたい」
目を瞑って、当麻に抱きしめられているつもりになって、話をする。
話の中身だとかには僅かに差異があるが、この中身のないピロウトークはほぼ毎日の、寝る前の儀式なのだった。
「こないだ町で俺の同級生に会っただろ? アイツ、あれから羨ましいしか言わねえんだよな」
「そうですの」
「正直、光子と付き合ってなくて、光子みたいな可愛い子の彼氏やってる友達見たら、羨ましいしか言うことないと思う」
「嬉しい。もっと褒めて、当麻さん」
「光子は最近可愛くなった。なんか、甘え方が上手になった気がする」
「ふふ。ずるくなったとは言わないで下さいましね?」
「ずるくても可愛いからいいよ」
「じゃあ、もっとずるくなりますわ。……ねえ当麻さん、外は暑いでしょう? そろそろ私は寝ますから、当麻さんも部屋にお戻りになって」
「ああ、じゃあそうするな。光子、お休み」
「キスして、下さい」
「ん」
ちゅ、という音が耳に聞こえる。キスを聞かせるのが、互いに随分と上手くなった。
「光子も」
「はい」
耳に当てていた携帯を目の前において、音の受信部に口付けをする。
自分の気持ちが全部、当麻に伝わるようにと願いながら。
「光子、愛してる」
「私も。当麻さん、愛してます」
「それじゃあ、おやすみな」
「はい、おやすみなさいませ」
電話を切るのは、いつも当麻のほう。寂しくて切れない光子のかわりにやってくれる。
もちろんそれは寂しいことでもあるが、光子はいつまでも余韻に浸っていられる。
寝る準備は、もう済ませてある。
光子はベッドの中から出ることなく、リモコンで明かりを消して、眠りに付いた。
当麻が傍にいてくれる光景を、心の中に浮かべながら。






あと、1プッシュ。それで届く。

美琴の携帯電話のディスプレイに映るのは、
『今日はありがとね。あなたのおかげで、すぐに布束さんが見つかったし、問題も解決しました。お礼って程じゃないけど、もし明日暇なら、常盤台の寮祭に来ませんか? もしよかったらだけど、来てくれたら案内くらいはします』
というメッセージ。ホントに、ガラでもない。
アイツに敬語なんて使ったこと、一度も、いや、布束に言われたとき以外にはないのに、なんでこんな丁寧な表現のメールにしたんだか。
理由は、今日の夕方のやり取りだった。アイツには、常盤台の知り合いが他にいるらしい。
その子はきちんとした言葉遣いで話すらしい。まあ常盤台ならそのほうが普通だ。年上の男の人なんだし、生意気にアンタなんて呼ばれてうれしい事は無いと思う。
だから、お礼のメールくらいはちゃんとしたほうがいいのかな、とか、でもいつもとギャップがありすぎたら絶対笑われるし、本音の部分では軽く見ているのだと思われるのは嫌だなんてあれこれ考えてしまう。
黒子にばれないようにコソコソ何回にも分けて推敲を重ねたのに、送らないのも勿体無いわよね。
……まあ、あのバカに寮祭なんてそれこそ勿体無いかもしれないけど。お嬢様の多い場所で鼻の下なんか伸ばしたら承知しないんだから。
ルームメイトの白井は、今ちょうど入浴中だ。何をするにも、今ならばれない。
扉の向こうの音は、ちょうど髪か体を洗い流しているらしいシャワーの音を立てていた。
「やっぱり、電話にしようかな」
誰にともなく、そう呟く。電話なら言葉遣いで戸惑うことなんてない。いつもどおり喋ればいい。
頭の中で会話をシミュレートする。
『もしもし』『御坂美琴です』『おうビリビリか』『今日はありがとね。ねえ、明日うちの寮に来ない?』『え? 何しに?』『寮祭があってさ、その、案内くらいはするから』
「ああもう……。お礼に寮祭って絶対変じゃない。別に来てもらったって大してお礼は出来ないし。ってかアイツにお礼するほどのことしてもらってない!」
それならそもそも当麻を誘うという発想自体が要らないのだが、その考えに美琴はたどり着かない。
そして悩んでいるうちに、だんだんメールの内容まで陳腐に見えだして、送信ボタンを押す勇気がまた萎えてしまうのだった。
「『ウチの寮祭に興味ある?』って書くのは……なんか『はい』って言われても下心が見えてイヤ。かといって明日寮に来なさいって命令するのは全然話が通ってないし……」
ごろごろとベッドの上を転がる。
『明日よかったら、ウチの寮祭に来ない? 案内するから』ではどうだろう?
「駄目駄目。こんなんじゃ私がアイツに来て欲しいみたいじゃない。――――そんなわけ、ないんだから。っていうか、私の誘いなんか、むしろ断るほうが普通よね。追い回してばっかりで、仲良くなんてしてこなかったんだし」


断られたときをシミュレートしようとして、1ケース目で挫折した。
『よかったら明日、寮祭があるから来て』『悪い、忙しいんだ』『そっか、ごめんね?』『おう、じゃ』
この反応ならいいほうだ。せっかく誘ったのに、断られたら怒ってしまうかもしれない。
『来て』『忙しい』『せっかく誘ってやってるのに何よその態度!』『はあ?』
……こうなるとお終いだ。次に会ったときにもうこれまでどおりには話せなくなる。
電話をするからには、疎遠になんてなってはいけないのだ。
「やっぱりメールにしようかな……。でも、男の人にどれくらい顔文字とか付いたメール送っていいかわかんないし。それに黒子とでも内容の取り違えで喧嘩するんだから、アイツとならなおさら……。よし、腹をくくれ御坂美琴。ただ電話をちょろっとかけるだけじゃない。ハッキングと違って、緊張なんか要らないのよ」
メールを保存して、アドレス帳を開く。上条当麻という名前の検索は10回以上はしたので、慣れたものだ。
あとは、これまた1プッシュで当麻に電話が繋がる。

押せ押せ押せ押せ。あとそれを押したら、もう後はなるようになるに決まってる!
たかが寮祭にちょっと誘うだけじゃない! つまんないことでウジウジするのは私らしくない!
ほら、さっさと指、動いてよ! 動けっつってんのよ!

力の入らない親指を、コールボタンの上に乗せた。あとはぎゅっと押し込むだけ。左手を上から添えて、出力不足を補う。
これを押して、アイツを誘って、寮の中を案内したりお昼ご飯を二人で食べたり、その後のヴァイオリン独奏を聞いてもらったりするだけじゃない!
別に変な意味なんてないし、さっさと電話すればいいのよ!
「もう一度息を吸ったら、ボタンを押す!」
それは自分への宣言だった。残った息を肺から追い出す。
急に仕事をしだした心臓に苛立ちを覚える。なんで緊張してるみたいにドクドク言うのだ、今このタイミングで。
スゥゥゥゥゥ、と美琴は息を吸い込んだ。
もうどうにでもなれ、と思いながら親指にグッと力を込めて――――
「ああ、いいお湯でしたわ。お姉さまも早くお入りになったら……って、床に転げ落ちるなんて何をしていおられましたの?」
「なななななななんでもない! 別に何もしてない! ちょっと携帯弄ってたらベッドから落ちただけ!」
「だけ、って。それは充分おかしなことだと思いますけれど。それでお姉さま。まだ入られないんでしたらお風呂のライトを消しますわ」
「入る入る! すぐ入るからそのままにしといて!」
「はあ。……まあ、言われた通りにはしますけれど」
テンションが高いというか、やたらめったらに慌てている美琴にいぶかしみながら、黒子は体を流れる水の雫をぬぐった。
美琴は開きっぱなしの携帯をベッドに上にぽんと放り出して、パジャマと下着の準備を始めた。


「もしもし? なあ、返事してくれビリビリ」
返事がない。ただのいたずら電話のようだ。
……とはいえかけてきたのが御坂美琴なのは電話番号で分かっているので、いたずらなのかもよく分からない。
何かの緊急事態かとも一瞬身構えたのだが、後ろで、『お姉さま、ご一緒させていただきますわ』『黒子アンタいま入ったところでしょうが!』
なんて平和な声が聞こえるので、どうもそういうわけでもなさそうなのだ。
「ねーとうま。またみつこから電話?」
「いや違う。光子は寝たからな」
「それじゃ、あいほ?」
「いや、先生もいい加減電話くれても良いと思うけど……今のは違う」
「じゃあ誰」
「まあ、知り合い、かな」
「女の人だよね」
「え?」
「とぼけても駄目だよ」
インデックスに、なぜか睨まれている。
それなりに遅い時刻に女の子から電話を貰ったというのは光子になら謝らなければならないような気もするが、インデックスには、こう言ってはなんだが関係ない。
「言っとくけど、俺からかけたんじゃないぞ。それに御坂のやつ、かけてきた癖に出やがんねーんだよ。わけがわかんねえ」
「ふーん。……浮気じゃ、ないんだよね」
「当然だ。ってかあっちも俺のことなんて別に気にしてないだろうさ」
「ならいいけど」
「俺と光子が喧嘩したら、心配か?」
インデックスの髪を撫でてやる。お風呂上りだからか、乾かしたものの僅かに湿りを帯びて、柔らかい。
「当たり前なんだよ。みつこは、とうまに嫌われたら絶対に落ち込むもん」
「いや、俺も光子に嫌われたら本気で落ち込むけど」
「とうま、やめよう。そういうの考えるの嫌だよ」
「だな」
くぁ、とあくびしたインデックスが、ソファに座った当麻の隣に腰掛け、そのままぽてんと倒れた。
「眠いなら布団に行けよ」
「まだ起きてる。あいほが帰ってこないし」
「そう言いながら俺の膝を枕にするな」
「しらないもーん。とうまだからいいの」
腰に手が回されて、ぎゅっとインデックスがしがみついた。
テレビの音量を落として、髪を梳いてやる。ものの数分でインデックスは落ちたようだった。
まるで子供をあやしながら夫の帰りを待つ主婦みたいだな、と自分の境遇を自嘲しながら、当麻は黄泉川を待った。






「佐天さーんお邪魔しますよー、って、寒っ!! なんですかこれ?!」
「あ、ういはるー。いらっしゃい」
今日は、七月の終わり。冷房のない外はうだるような暑さで、当然のことながら初春は半袖のシャツとスカートという夏向きの軽装である。
ところが初春を招いた佐天はと言うと、モコモコの半纏を着て、季節外れのコタツに入っているのだった。
「なんでコタツが出てるんですか……」
「え、なんでって。鍋にはやっぱコタツでしょ?」
「そもそもこの季節に鍋っていうのが分からなかったんですけど」
初春はさっき電話で、鍋するからうちにおいで、と佐天に誘われてきたのだった。
突拍子もないことを考える友人なのは知っていたから、夏に鍋ということはさては相当辛いヤツで汗だくになるイベントか、と覚悟していたのだが、どうやらおかしいのは鍋じゃなくて室内温度のほうだった。
電気代が、すさまじいことになっていると思う。
「エアコン何℃にしてあるんですか?」
「ふっふーん、エアコンは切ってあるよ」
「え? じゃあ」
「うん。窓から熱だけ追い出してる」
窓を見ると半開きになっていて、それをハンパにふさぐようにダンボールが目張りされている。
窓の上下二箇所が開いた状態になっていて、どうやらそこから換気扇みたいに空気をやり取りしているらしい。もちろんファンなんてどこにも見えないが。
「片方の口から部屋の中の空気を追い出して、もう片方から外の空気を入れてるの。んで、外の空気は取り込むときに熱だけ私の渦の中に溜めておいて、熱が一杯になったら外に捨てるって訳」
「こないだも人間エアコンやってましたけど、なんか随分性能上がりましたねー……」
この前は、室内で渦を作って、佐天が窓際に歩いていって渦を捨てる、という動作を必要としていた。それで普通の冷房並みの温度に保っていた。
今日はどうやら、窓のところに定常的な渦を作って、それを制御しているらしい。
ぶるりと初春は体を震わせた。エアコンの設定温度なんてどれだけ頑張っても20℃くらいのものだが、この部屋の温度は、どう考えてもそんなレベルじゃなかった。
「ほら見て初春。なんかキラキラして綺麗でしょ?」
「え、ちょっ……佐天さん! それダイヤモンドダストです! 冷やしすぎですよ!」
「え? ダイヤモンド?」
知らずに作っている同級生に初春は頭痛を覚えた。
道理で寒いはずだ。まさか、氷点下とは。高い湿度、緩い風。確かにダイヤモンドダストができる好条件は整っている。
すでに準備が終わっているらしくコタツの上にはガスコンロと切った野菜、そしてお肉が並んでいて、電灯付近でキラキラ瞬く細氷のせいで文字通り肉が霜降りになりかけていた。
ここで夏服の自分が過ごすのは、どう考えても無理というか無茶苦茶というか。
「ほら初春。そんなカッコじゃ風邪引くよっ」
「あ、ありがとうございます。じゃなくて佐天さん! 何もこんなに冷やさなくても」
「え、でも今からお鍋だよ? 寒いほうが美味しいじゃん」
「やりすぎです! 佐天さんのご実家だって、まさか氷点下の室内でお鍋なんてしないですよね?」
「当たり前でしょ。それに空気は冷たいんだけど、床とかが全然あったかいんだよね。だから大丈夫」
「あ、ホントだ……」
佐天は空気なら冷やせるが、他のものは間接的にしか冷やすことが出来ない。
真冬の建物は真冬並みの温度になっていてすこぶる冷たいものだが、ここはそれとは違い、地面なんかは真夏の温度から冷えていっているところなのだ。
地べたに座り込んでも、腰が冷えるような感覚は覚えなかった。
……意外と、いいかもしれない
「じゃ初春、さっさとご飯にしよっ。私のこの能力も、長くは持たないし」
「あの佐天さん、食べながらコントロールするって大変なんじゃ」
「んー、でも毎日やってるからね。もう慣れたかな?」
佐天は今月の電気代を見るのが楽しみだった。
エアコンを自分が肩代わりすると全くといっていいほど電気が要らないので、恐らくは春先よりも電気代は下がるだろう。自己最安値を更新するだろうと見込んでいた。
エアコン修行は、何気に一番お気に入りの修行だ。
帰宅から就寝までの5時間くらい、常に冷やさないとあっという間に室温は上がるし、お風呂上りを涼しくしたいなら入浴中も能力を保たないといけない。
そして渦の形や熱吸収の効率など、工夫するポイントはいくらでもある。
……それが本当はレベル1の能力者にとってどれほど過酷なはずの修行なのか、あっさりと今日、レベルアップを果たした佐天にはまるで分かっていなかった。
「実用性のある能力が使えたらレベル3って言いますけど、佐天さんってもうその域にあるんじゃ」
「うーん、でもエアコンのほうが疲れないわけだし、実用性って言われると微妙じゃない? あ、でも、ほら」
佐天は財布からIDカードを取り出した。光子は交付は明日だと言っていたが、面倒見のいい担任が、今日のうちに認可して、カードを作ってくれたのだった。レベル2と刻印された、佐天のカードを。
「えっ? レベル……2?」
「うん。今日、上がったんだ」
「すごい! すごいじゃないですか佐天さん! こんなにあっという間にレベルがまた上がるなんて。これちょっとした話題になるレベルですよ!」
「あは。ありがとね、初春」
「ゆくゆくは御坂さんを超える逸材に……」
「ちょっと、それは無理だって。御坂さんレベル5だよ?レベル2になっても大人と子供くらいの差はあるんだから」
「じゃあ白井さん超えで」
「いやレベル4もあんまかわんないでしょ。そういうことは、もっと伸びてから言わないとね」
謙遜する佐天を初春は見つめる。レベル4の白井に並ぶことを、無理とは言わなかった。
さすがに学園都市で7人なんていう超エリートは見据えていなくても、佐天は今、とても高い場所を見つめている。憧れではなくて、手の届く場所として。
そんな風に親友が前を向いてくれてるのが嬉しかった。
「佐天さん。お腹すきました。晩御飯食べましょう」
「だね。じゃあ、ささっと用意するから」
足が冷えてきたのでコタツにもぐりこむ。
真夏に半纏とコタツで鍋をする、というのも、意外と悪くないものだと初春は思った。



[19764] interlude09: 盛夏祭開始!
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/04 23:42
「光子」
「当麻さん! 会いたかったです!」
「俺もだよ」
「おはよ、みつこ」
「インデックスも来てくれましたのね」
「とうまが遊びに行くのにおいてけぼりはやだもん」
昼前の、常盤台中学女子寮。
二つあるうちの、光子たちが今いるのは学び舎の園の外にあるほうだ。
普段光子が暮らしているのはこことは別で、美琴や白井が住む場所となる。
今日は盛夏祭、つまりこの女子寮の寮祭で、一般に対して寮が開放される日なのだった。
光子は朝から、入り口で受付の仕事をしていた。当麻が来るというので急遽引き受けた仕事だ。
ここなら絶対に当麻に会えるので、好都合だった。実際、一目見ただけで光子は心が躍るのを感じていた。
「あの、こんにちは」
「ええと、ごきげんよう」
光子はインデックスと当麻に満面の笑顔で挨拶をして、そして二人の後ろからおずおずと出てきた女の子に、
お互い戸惑いながらの挨拶をした。光子の知らない、金髪の少女。
「昨日知り合ったばかりなんですけど、インデックスが遊ぼうって言ってくれたからついてきました。この子が二学期から通う学校の生徒で、エリスって言います」
「インデックスがお世話になりますのね。こちらこそよろしくお願いしますわ。私の名は婚后光子と申しますの」
「はい、お二人から色々伺ってますよ。上条君の、彼女さん……なんだよね?」
「ええ、そうですわ」
にこやかに会話をするエリスと光子の隣で、当麻はぶるりと震えた。
いつもの五割り増しで愛想を振りまく光子の顔が、明らかに怒っている時の笑顔だった。
「まったく当麻さんたら。初対面の私達をほったらかしにして他の女生徒に目移りなんて、よっぽど私じゃ退屈なのかしら」
「えぇっ? いや、そんなことないって!」
「……ふふ。上条君は婚后さんに頭上がらないんだね」
「う、茶化すなよ、エリス」
「あはは。ごめん」
「……本当、当麻さんはどこでも女の人と仲良くなってくるんですから」
面白くなさそうに光子が呟いた。
「本人の前でいうのもアレだけど、エリスとはなんでもないって。第一、エリスには惚れてる相手がいるし」
「もう! 上条君、ていとくんのことを言ってるって分かるけど、そういうのじゃないよ。私とていとくんは」
ちょっとエリスは光子に申し訳なく感じていた。そりゃあ彼氏が知らない女と一緒に歩いていれば気に入らないだろう。
エリスが同伴した理由は、第一には教会に取りに来てもらう予定だった書類を届けることになったついでだからというのと、本音としては垣根と二人で夕方の街を歩く前に、女の子の知り合いがいるところで、日中に出歩いておきたかったから。
垣根には悪いが、一番初めが男の子と二人っきり、というのはやっぱり怖いのだった。その点、インデックスとは話しやすいし、同伴の上条は彼女持ちだからエリスをそういう目で見ない。
そんなこんなで、急遽、光子には不本意であろう形で話が決まったのだった。
「みつこ。その、エリスは私が連れてきただけだから。今回はとうまは悪くないんだよ」
「もう。みっともないって分かりましたから、あまりフォローをしないで頂戴」
エリスに嫉妬して当麻と光子の空気が悪くなったのを気にしたのだろう。今回に関してはその一因を担っているインデックスが、一言挟んだ。
その状況を察してか、エリスがインデックスに声をかけて、当麻から少し距離をとるようにしてくれた。
「当麻さんの莫迦」
「む、俺は光子以外の女の子に愛想振りまいたりなんてしてないぞ」
「じゃあどうして女性の知り合いが増えますの?」
「どうしてって、たまたまだよ。……ところで光子、受付、しなくていいのか?」
「えっ?」
名前くらいしか知らない、受付担当の生徒達が興味津々と言う顔で光子たちのほうを見ていた。
慌てて光子は当麻と距離をとった。


「じゃあ、光子が仕事終わるまで、適当に見て回ってるよ」
「はい、時間になったら、待ち合わせ場所にすぐ向かいますから」
「おう」
当麻の後ろにも入場希望者が集ってきている。インデックスとエリスはすでに先行して、敷地内をふらふらしているようだ。
迷惑にならないようにと当麻が光子の傍を離れようとしたところで。
「ごきげんよう婚后さん」
「お勤めご苦労様ですわ」
「ああ、湾内さんと泡浮さん」
光子の友人である二人が、校舎のほうから歩いてきた。
わざわざ受付に来たのには目的があるらしく、どう見てもそれは視線の先にいる、当麻だった。
「あの! もしかして、こちらの方が?」
「えっ? ええ……はい。そうですわ」
茶色がかったふわふわした髪の女の子と、清楚な感じのストレートな黒髪の女の子。
どちらも穏やかな顔をしていて、当麻の知っている二人の常盤台の女の子、光子と美琴のどちらよりもとっつきやすい感じの女の子達だと思う。
その二人が、光子への挨拶もそこそこに、興味津々と言う顔で当麻に近寄ってきた。
「あの! お名前でお呼びして不躾ですけれど、当麻さん、でいらっしゃいますか?」
「あ、うん。そうだけど」
「はじめまして。私、婚后さんの後輩で、湾内絹保と申します」
「私は泡浮万彬と申します。婚后さんにはお世話になっています」
「あー! 光子のよく話してくれる二人だな。俺は上条当麻だ。俺が言うことじゃないかもしれないけど、光子と仲良くしてくれてありがとな」
「お名前を存じ上げていなくてすみません。上条さん、でいらっしゃいますのね」
「本当に婚后さんにはお世話になっていますし、その、失礼ですけれど上条様のお話も、いつもとても楽しく聞かせていただいておりますわ」
「いつもって、光子はどんな話してるんだ……?」
「上条さんとどこへデートで行っただとか、どんなふうに髪を撫でてくださったかだとか、あとは、その……ね?」
「ええ、これはご本人の前では言えませんわ」
きゃっと頬に手を当てて、二人で恥ずかしがりながら微笑みあう。
つい昨日、ファーストキスの日付をばらしてしまった光子は、二人の反応の意味を理解して真っ赤になった。
「み、光子。別に話されて困ることはないけど、さすがにあんまり詳しくは……」
「ご、ごめんなさい。でも私だってなるべく惚気話なんてしないように気をつけていますのよ」
「まあそうでしたの? 婚后さん。私達も楽しみにしていましたけれど、婚后さんもそうとばっかり」
「もう! からかうのはおよしになって! 当麻さん、受付の仕事もしなければいけませんから、そろそろ中にお入りになって。交代の時間になったら、待ち合わせ場所に伺いますから」
「お、おう。そうだな」
女子校で自分の彼女と、その彼女から色々聞いた女の子達に囲まれる。
なんというか、ちょっと嬉しいところもあるのだが、動物園の動物になった気分だった。
さっさと退散してインデックスに合流するかと当麻が思ったところで。
「もしよかったら私達が案内しますわ。上条さん」
「え?」
「あら、湾内さん、積極的ですわね」
泡浮が少し驚いた顔をした。湾内は女子校育ちで、学校の先生のような人を除いて、基本的に男の人が苦手だからだ。
たぶん、分類で言えば当麻は苦手な部類に入るはずだ。
「心配してくださらなくて大丈夫ですわ、泡浮さん。知らない殿方にはやっぱり怖い感じを受けますけれど、なんだか上条さんは大丈夫ですの。婚后さんに優しい方だと聞いておりますし、今お会いして、そのお話に間違いないように思いますから」
ね、と微笑んでくれる湾内に当麻はドキッとした。
年下の子の年下らしい可愛らしさというのはこういうものだと思う。
光子よりはストレートに可愛らしい感じだ。もちろん、惚れてるのは光子にだが。
「あらあら当麻さん。鼻の下がずいぶん伸びてらっしゃいますわ。治してさしあげたほうがよろしい?」
おっとりと困ったわねえ、という表情で頬に手を当てて光子が首を僅かにかしげる。
遠めに見るとホントにちょっと困ったという感じの態度のお嬢様にしか見えないのだが、ゆらりと立ち上る気炎はぶっちゃけ当麻にはよく見えるしちょっとドス黒い感じなのだ。
「そそそそんなことないって!」
「鏡なんて当麻さんはお持ちでないし、気づかれないんでしょうけれど。本当に伸びてますもの。もう、どうしたら当麻さんはこの病気を治してくださるのかしら」
「だから別に鼻の下なんか伸ばしてないし、光子以外の女の子に気持ちが行ったことなんてないぞ」
「……もう」
周りを気にして当麻が小声でそう伝えると、まだまだ言い足りなさそうな顔をしながら、光子はしぶしぶと引き下がった。
受付の仕事を再開しないと、受付に人が並んでしまいそうだ。
「それで、話を戻しますけれど。もしよかったら私達でご案内しますわ」
「あ、ああ。連れが他にいて、そっちもまとめてでお願いしたいんだけど」
「承知いたしました。それでは参りましょうか……あっ、湾内さん」
「えっ?」
そこで。突然泡浮に呼ばれた湾内が、振り返った。事情は当麻にはよく分からなかった。
ただ、湾内は当麻の横を抜けて先導しようとしたところであり、呼ばれた自分ではないのに当麻も振り向いてしまったことで、自分と湾内の位置関係があやふやになったのは確かだった。


ふよん、と手の光に柔らかい感触が乗ったのを、当麻は感じた。


「へ?」
「あっ……えっ。あの」
お互いになんだか分からない顔をして、至近距離で湾内と当麻は見つめあった。
湾内にとって、人生で最も男の人に接近された経験だった。恋人との距離、と言える短さだ。
一瞬の無理解が生んだ空白を経て、湾内はさあっと頬に血が上って行くのを自覚した。
初めて、男の人に胸を触られた。
「ごめんっ!」
すぐに当麻が真剣な顔をして謝った。湾内もショックだったが、だけど嫌悪感のようなものはなかった。
事故だとすぐに分かったし、謝ってくれる態度が誠実だったから。
動転しながらも赦す笑みを返すとほっとしたように当麻が笑い返してくれた。やっぱり優しい方だなと湾内は思った。
……そして、気づけば満面の笑顔の光子に睨まれていた。当麻だけじゃなくてどうやら自分にまで笑顔の矛先が向けられていた。
「こ、婚后さん、お許しになってあげてくださいな。上条さんは悪気はありませんでしたから。私も、すこしはしゃぎ過ぎてしまって」
「……当麻さんはこういう人ですから、湾内さんもお気をつけになって。それで、大丈夫でしたの? 湾内さん」
光子の怒りがおおよそは当麻に行っているのにほっとしながら、湾内は自分の男性恐怖症を気遣ってくれた光子に微笑を返す。
「はい。上条さんにでしたら、私」
「えっ?」
「わ、湾内さん?!」
上条さんは婚后さんの彼氏さんですから心配していません、と伝えたはずだったのに、酷く光子と泡浮に驚かれた。
それで自分の言った言葉を反芻して、やけに深遠なことを言っているように取れることに気がついた。。
「ちち、違いますの! そういう意味ではなくって、婚后さんのお付き合いされてる男性だから、気にならないというだけですの! 別にその、婚后さんがいま思い浮かべてらっしゃるようなことじゃなくて!」
真っ赤になった湾内が、弁解という名の泥沼にはまるのを、一緒に溺れながら当麻は優しく見つめた。
この先どれほど当麻に問題がなかろうとも、湾内が余計なことを言うたびに、光子の沼が深くなるのは確定なのだった。






当麻の後姿が建物の中に消えたのを確認して、光子はため息をついた。乙女の園、常盤台中学に当麻を呼んだのは浅はかだったかもしれない。
学校に来る前から知らない女を連れてきた。そして建物にも入らないうちから、あんな風に湾内と仲良くなった。湾内もあんな思わせぶりなことを言わないでくれればいいのに、と思う。
心の中にわだかまるモヤモヤしたものを顔に出さないようにしながら、笑顔と元気よい挨拶をして入場者を迎えていく。
多くは来年常盤台に入るつもりらしい小学生の女の子達や、その保護者らしき人。そして同年代であろう女子中学生たち。
……その中に、見知った顔があった。うち一人は寮など見ずとも、つい昨日常盤台の敷地にいたくらいだ。
「ごきげんよう、佐天さん。それと、初春さん、でよかったかしら」
「は、はい! ご、ごきげんよう、婚后さん」
「その挨拶、初春が真似しても全然しっくりこないね。こんにちは、婚后さん」
昨日もそうだったが、街中で会うよりも佐天の装いが良家の子女らしい感じになっている。
襟付きの白いシャツの上から紺のカーディガンを羽織り、ベージュのパンツを履いている。パンツの裾が短くサンダルを履いているのは夏らしかった。
初春のほうも、薄手だが長いスカートを履いていた。いつものことながら、髪飾りに生けた花が可愛らしい。
「昨日は寮祭のこと、思い出させてくださって助かりましたわ」
「どういたしまして、って……もしかして、婚后さん?!」
佐天が寮祭のことを話に出してくれたおかげで当麻と会えた。そのことに礼を言うと、目を煌かせて佐天がこちらを見た。
まあ、言いたいことは、分かる。
「……ええ。お呼びしましたわ。だって、会いたかったですもの」
「おおおおおおおおおお!!!」
「え? どうしたんですか?」
話を聞いていないらしい初春が、困惑しながら光子と佐天の顔を往復で見た。
「婚后さんの彼氏さんが、今日ここにきてるんだってさー!」
「ちょ、ちょっと佐天さん! 声が大きいですわ。先生方に見つかったらなんて言われるか……」
「あ、すみません。でも気になるよね初春っ! ……初春? ちょっとどうしたの?」
「婚后さんのお付き合いしてる人……はぅ。どんな人なんでしょう。やっぱり婚后さんに釣りあう人ですから、いいところの育ちで、すっごく紳士な感じなんでしょうか」
「聞いてないや、こっちのこと」
「もう……変な想像はしていただいても困るんですけれど」
普段の言動から佐天にはなんとなく初春の脳内のイメージ図が予測できた。
おそらく白馬にでも乗っているのだろう。あと歯はキラリと輝いているはずだ。
初春の想像図の雰囲気は察せた光子は、なんともいえない気持ちになった。
残念ながら当麻は光子の、というか常盤台の学生にふさわしい印象の生徒ではないだろう。
客観的に見てそうだということは、分かっているのだ。だけど勿論、当麻のことが大好きだ。
もし、初春が当麻を見てがっかりしたりするなら、それはすごく嫌だなと、光子は思う。
落胆されるようなところなんて、当麻にはないのに。
「それで、お二人の待ち合わせは……ああ、ちょうど来ましたわね」
「あ、ほんとだ。おーい御坂さん、白井さん」
自室から直接来たのだろうか、寮祭で公開されてない建物から二人は出てきた。
白井が挨拶をすると同時に、あきれたような顔になった。
「ごきげんよう、佐天さん。それと初春……の燃えかすですの? これ」
「燃えかすって酷いですよ白井さん!」
「初春さんなんか考え事してたみたいだけど、どうしたの? あ、おはよう」
ジト目の白井の一歩後ろから美琴が挨拶をした。
聞いてくれとばかりに、佐天が情報の売り込みにかかる。
「聞いてくださいよ御坂さん! 婚后さんが彼氏さん呼んだらしいですよ」
「へぇー! そ、そっか。やっぱそういう子もいるのよね。それじゃ仕事終わったら会うの?」
「え、ええまあ。呼んだからには会いますけれど」
努めて素っ気無い態度を光子は取るものの、彼氏持ちを羨む周囲の視線にちょっと優越感を感じる光子だった。
ケッ、という擬音がふさわしいような態度で、白井がそれに冷や水をかける。
「寮祭でカップルがイチャつくというのは随分と斬新ですわね」
「別に二人っきりで会うわけではありませんもの。私達の共通の知り合いも含めて案内するのですわ」
「そうですの。良かったですわ、婚后さんが破廉恥なことをなさる学生でなくって」
「ええ、貴女とは違いますもの。良識くらい、わきまえていますわ。白井さん」
カチンときた白井が光子をにらみ返す。
人のことをアレコレいえるほど、白井は常識人ではないだろうと光子は思うのだが、白井は白井でおかしいのは光子だけだと思うらしい。
「私が非常識なような物言いですわね」
「違いますの? 御坂さん」
「う、私に話振っちゃうか。……悪いけど黒子、フォローはしないから」
「そ、そんなっ! お姉さまの露払いとして恥ずかしくないよう、精一杯振舞ってきたつもりですわ」
「ああそう。アレが、そうだったのね」
ジットリと睨みつけられた白井が怯んだ。
いつものやり取りらしく佐天と初春は苦笑いで見ていたのだが、ハッと気づいたように佐天が美琴のほうを向いた。
「そうだ! 御坂さんは気になる人、呼んだんですか?」
「へっ? い、いやそんなわけないじゃない!」
「えー、呼ばなかったんですか?」
つまらない、と佐天は口を尖らせる。面白くなさそうに白井がそっぽを向いて嫌味を言った。
「昨日もお会いしておりましたのに?」
「ぅえぇっ?! 黒子なんでアンタ……!」
「お姉さま、まさか」
がばりと振り返る。ちょっとカマをかけただけだったらしい。釣れると思ってなかった大物が釣れてしまったようだ。
過剰反応する美琴を見て、白井が絶望的な顔をした。
「べべべべつに会ってなんかないわよ! それに別に誘うようなヤツじゃないんだから! あんなヤツここに来たらどうせ女の子みてヘラヘラするに決まってんのよ!」
「……」
ちょっと共感してしまった光子だった。まあ、殿方というのはそういう生き物なのだろう。
自分とて、きちんとした服装と仕草を身に着けた好青年と、だらしない青年なら、どちらに愛想良くするか。
おそらく平等には扱うまい。そういう論理で納得は出来ないが、そういうものなのだろう。
「それじゃ、時間も勿体無いですからそろそろ行きませんか?」
「そうですわね。初春が待ちきれないようですし」
「だってせっかくの常盤台ですよ! 今日はは最初から最後までリミッター解除ですから!」
ふんす、とこぶしを握り締めて初春が鼻息を荒くした。
「彼氏さんをまた紹介してくださいね、婚后さん」
「え、ええ。まああの人に佐天さんは紹介してくれって頼まれていますから」
「へっ?」
「よく私が佐天さんの話をしますのよ」
「あー、あはは。なんかちょっと恥ずかしくなってきました」
「それじゃあね、婚后さん」
「ええ、御坂さん。独奏頑張ってくださいね」
「うん、ありがと」
彼氏を呼んだ光子を羨ましそうな目で一瞬見つめてから、美琴は白井を連れて二人を案内しだした。






はしゃぐエリスとインデックスを後ろで見守りながら当麻が歩いていると、後ろから歩いてきた集団に見覚えのある女の子がいるのを見かけた。
案内役らしい常盤台の女の子が一人、私服の子が二人。大きな生花の髪飾りをつけた子に見覚えがあった。向こうも気づいたらしい。
「あっ。こんにちは」
「おう、こんにちは。たしか風紀委員の」
「初春です」
「ああそうだ、下の名前は覚えてたんだけど」
飾利という名前は髪に付けたアクセサリとよく対応しているからだ。
だがそれをどうも気障ったらしい意味合いに受け取ったのか、隣の常盤台の女の子が不審げな顔をした。
「初春。こちらは?」
「えっと……上条さん、でよかったですか?」
「ああ」
「こちら、固法先輩の中学時代のお知り合いの方で、上条さんです。春先くらいに町をパトロールしてるときに、ちょっとお世話になったんです」
「固法先輩の?」
「なんか親しそうだったんで固法先輩の好きな人だったりしないかなーって思ってたら、上条さんから固法先輩の本命の相手を教えてもらっちゃったんですよね」
「……初春。その話は後でじっくりしましょうか」
「いいですよ、白井さん」
ニヤ、と二人で笑ったところを見ると、どうやら常盤台の女の子、白井のほうも風紀委員らしい。
固法も大変だなあと当麻は心の中で思った。一昔前はワルの側にいてうるさいことは言わなかったのに、進学校に行って風紀委員になってからは固法はどちらかというと会いたくない相手だった。
「そういやさっき固法のやつをチラッと見かけたな」
「あ、そうなんですか。ところで上条さん、今日は誰に誘われたんですか?」
うっ、と当麻は初春の興味津々な態度に怯んだ。
あまり物怖じしない子だなとは以前会ったときにも思ったことだが、誰に誘われたのかを話すのはちょっと恥ずかしい。
入場チケットは当然、常盤台の生徒から貰っているはずで、それが誰かといえば、彼女からなのだ。
「あーうん、まあ。常盤台の知り合いからさ」
「知り合いじゃなくて彼女でしょ、とうま」
「イ、インデックス」
離れていたはずのインデックスが引き返してきて、女の子と仲よさげにしている当麻を睨みつけていた。
光子以外の女の子に光子を彼女ではないかのように説明するのは、インデックス的にはアウトなのだった。
それは、浮気である。
「上条さんって常盤台の彼女さんがいらっしゃるんですか?!」
「あ、ああ」
「あの! もしかしてそれって、婚后さんて人だったりしませんか?」
「へ? なんで……」
黒髪の可愛らしい女の子が、光子の名前をスバリと当ててきた。思わず怯む。
「私、佐天涙子って言います」
「お! それじゃ光子の教えてる子って」
それで当麻にも合点が行った。えへへ、という感じで佐天が頭をかく。
「はい、私です。白井さん! この人が婚后さんの彼氏さんみたいですよ」
「どうして分かりましたの?」
「いまそっちのシスターの子が、下の名前呼んでたじゃないですか。それで」
佐天と白井がインデックスのほうを見つめると、むーーっ!!と敵対的な目でにらみ返された。
連れと思わしき金髪の女の子が一歩離れて苦笑していた。
「とうま。この人たちとどういう知り合い!?」
「どういうって、初春さんは友達の後輩って感じで、佐天さんは光子がアドバイスしてあげてる子だ。言っとくけど疚しいことは何もないぞ」
「……まるで彼女に弁解するような口ぶりですわね」
光子の彼氏であるはずの当麻がインデックスの尻に敷かれているのを見て、白井は困惑していた。
「コイツはインデックスって言って、今度光子が一緒に暮らす相手だ」
「暮らす? 常盤台の学生は全て寮暮らしですけれど」
「あれ、知らないか。光子は今度寮を出て、インデックスと一緒に別のマンションで暮らすんだよ」
「そうなんですか? 昨日婚后さんと会いましたけど、そんなこと言ってませんでした」
微妙に佐天が悔しそうな顔をした。佐天は光子の弟子、インデックスは光子の妹。
ちょっとポジションがかぶってお互いに面白くないのであった。
「にしても。婚后さんとお付き合いする殿方にしては、いささか普通の印象の方ですわね」
「ちょ、ちょっと白井さん」
白井がストレートな感想を当麻の前で臆面もなく吐き出したのを見て、初春が焦った。
自慢が多く高飛車な婚后光子の事だから、彼氏もさぞかしお高く留まったお坊ちゃんだろうと思っていたのだ。
それが意外と、率直に言ってみずぼらしいどこにでもいそうな高校生なので、拍子抜けしたのだ。
「まあ、言いたいことは分かるけどな。光子がお嬢様なのは確かだしさ。でも光子は裏表のあるタイプじゃないしさ、うまいこと付き合ってやってくれるとありがたい」
「……ええ、そうやって頼まれた以上は、ある程度は応えますけれど」
軽く頭を下げた当麻に、白井は困りながら応えた。
あまり好きではない相手の彼氏だが、普通の感覚を持った人間のようだし、頭を下げられたのを無碍に扱うのは常盤台の学生としての沽券に関わる。
「これからどちらへ行かれますの? よろしければご案内しますわよ」
「ああ、ありがとう。でももうじき光子と合流できるからさ、大丈夫だ」
「そうですの」
エリスが頭を下げ、インデックスが不満げに佐天から視線を外す。
光子に嫌な思いをさせそうで湾内と泡浮の案内も断ったので、白井の申し出も同じ理由で遠慮した。
待ち合わせ場所は食堂だ。少し早いが、混む前に食べたほうがいいだろう。当麻は軽く手を上げて、佐天たちから離れた。
後姿を見つめる佐天が、耳打ちするように白井に呟いた。
「後で御坂さんにも教えてあげなきゃいけませんね。婚后さんの彼氏って、結構いい人みたいでしたよって」
「別に私はどちらでもよろしいですわ。どうせそんな話をしたら、上条さんなどそっちのけで、ご自分の気になる『あのバカ』さんのことでお姉さまの頭の中は一杯になるのですわ」
ふんっと詰まらなさそうに白井がため息をついた。美琴は午前に割り当てられた雑用をこなしているところだった。






「ごちそうさま、っと」
「よく食べましたわね、当麻さん」
「バイキングだとやっぱな。……まあ、あっちには到底かなわないけど」
「当麻さんより食べるって、どういうことなのかしら」
光子と合流して、当麻たちは昼食を摂り終えたところだった。エリスとインデックスは当麻と光子から離れ、料理に近い場所に席取っている。
エリスがこちらに遠慮をしたのもあったし、インデックスが料理に心奪われたのもあった。
ようやく二人っきりになれて、光子は食事をしながらチクチクと当麻に恨みつらみを吐き出していたのだが、お腹が一杯になって怒りも収まったのか、ようやく態度が柔和になってきたところだった。
……のだが。
「あれ、舞夏か」
インデックスの席に近づくメイドが一人。当麻のクラスメイト、土御門元春の妹の舞夏だった。
光子はいつもなら瞬間的にさっと嫉妬の炎を燃え上がらせるものだが、余りにも今日は回数が多いので少々反応は鈍かった。
はあっとこれ見よがしにため息をつく。嫉妬の火種が深いところまで浸透しているので、完全な沈火はいつもより大変そうだった。
「当麻さん。次は誰ですの?」
「い、いや。クラスメイトの妹だよ。兄貴が寮の隣部屋に住んでてよく飯を作りに来てくれてるらしい」
「そうですの。それはそれは、当麻さんとも仲がよろしいんでしょうね」
「そんなことないって。第一、舞夏に手を出したら土御門のヤツに殺される」
「そのわりには下の名前でお呼びになって」
「それは兄貴と区別するからで」
「じゃあお兄さんのほうはどうして苗字なんですの?」
「男同士で下の名前で呼ぶのはないだろ」

当麻が必死に光子をなだめているのを横目に、インデックスは舞夏に問いかけた。
「それで、あなたは何をしにきたの? バイキングだし、沢山食べて怒られるのは納得行かないんだよ」
「怒ってはいないぞ。料理の責任者だから、食べてもらえて勿論嬉しいからな」
「じゃあ何?」
「まだ食べるのか聞こうと思ったんだ。それなら用意しなきゃいけないからな」
「んー、もう八分目だし、あとはデザートかな。エリスももういい?」
「私はもうとっくにおなか一杯になってるんだけど……」
初めてみたインデックスのすさまじい旺盛さに引きながらエリスは半笑いになった。
清貧を旨とする修道女として、この食べっぷりはどうなんだろう。
というか同じ学校で同じ釜から食事を食べる身になったらどれだけ大変なのだろう。
「にしてもちっこいのによく食べるんだな」
「む、そっちだって小さいくせに」
「名前はなんていうんだ?」
「インデックス。……名前を聞くんだったらそっちから言うのが筋だと思うけど」
「これは失礼した。私は土御門舞夏である」
「つち……みかど?」
「どうかしたのかー?」
「もしかして、まいか。にゃーにゃー言う変な日本語のお兄さんがいたりしない?」
「兄貴はいるけど、もしかして知ってるのか?」
「なんでもない」
まさかそんなわけはない。土御門元春は陰陽師の大家で、事情があって『必要悪の教会』に入った男だ。妹が超能力者の街にいるなど、冗談が過ぎる。
……あやうくおかしな日本語を教え込まされかけて、身に付く前に神裂に訂正してもらった身としては、土御門元春には恨みのあるインデックスなのだった。
なんにせよ、知り合いのほうの土御門と目の前の舞夏は似ていないし、人の良さも違う。
「デザートってあれだけしかないけど、出てくるの?」
「うん。昼食にはまだ随分早い時間だったからな、デザートの配膳は今からだ」
「よう舞夏」
インデックスが詳しくデザートの話を聞きだそうとしたところで、当麻が横から割って入った。
舞夏が気安い感じで、おやっという顔をした。
「あれ、上条当麻じゃないか」
「エリスとインデックスに何か用か?」
「大した用事はないぞ。というか知り合いなのか?」
「ん、まあな。そういや土御門のやつは来てるのか?」
「チケットは渡したし、昼ごはんを食べに来るかもなー」
「とうま。まいかとどういう関係?」
またか。またなのか。
いい加減にして欲しいとため息をつきながらインデックスは当麻を睨む。
光子のほうを見ると、向こうもこちらを見て頷いた。女二人の意図はよく一致している。
エリスもなんとなく当麻という人間が分かってきたのか、苦笑いの中に咎めるような雰囲気が混じった。
「上条君。彼女さんを大事にしてあげたほうがいいよ」
「え? なんだよ急に」
「女の人の知り合いが多いって、それだけでも不安になると思うけどな」
「……って言われても、なあ」
ちらと当麻が光子のほうを見ると、あからさまに視線を逸らされた。光子はこれからまた一度仕事に戻る。
そのあとはインデックスとも離れて本当に二人っきりになる予定なのだが、この調子ではそのときに機嫌を回復させられるかどうか。
「女難か? 上条当麻」
「ほっといてくれ」
世の男性の恨みを一身に集めそうな贅沢な悩みを抱えて、当麻は不幸だとため息をついた。






「ちょっとトイレ行ってくる」
「うん、ごゆっくり。光子によろしくね」
「……おう」
昼食後に軽くぶらついた後、トイレを装って自然に席を外す予定だった当麻にインデックスがにっこりと笑みを返した。
となりのエリスがクスリと笑う。インデックスにも内緒で光子に会う気だったのが、バレバレだったらしい。
場所は中庭。先ほどまではオークションが行われていたらしいのだが、次は何かイベントに向けて準備中だった。。
特に興味はなかったが、なにやら人が多いのと、あらかた見回ってしまった都合もあって、光子を除いた三人は並べられたパイプ椅子を確保していた。

校舎に入って、周囲を見回す。待ち合わせ場所は確かこの先を曲がったところのはず。
……だったのだが、光子はいない。そして初めてきた場所だということもあって、なんとなく自分が場所を間違えたのではないかという気もしてくる。
どうするか。待つか、探しに歩くか。
昼ごろから機嫌の悪かった光子だ。ここでさらに待たせると、謝っても簡単には許してくれないかもしれない。
結局、間違ったところで待っているのが一番機嫌を損ねるだろうという判断から当麻はとりあえず足を動かすことにした。
1階で待ち合わせておいて階段を上り下りするほどの方向音痴ではないが、学校というのはどこの廊下も似たような作りで、しかも曲がりくねっているからなかなか把握しづらいのだ。
ぐるっと歩いても光子どころか人影も見当たらないし、待ち合わせの場所だったような気がする場所が二箇所になって、どうしたらいいものか当麻は途方にくれてしまった。
……ようやく、人の影を捉える。当麻はほっとしてその子に声をかけた。



「やだもう、へんな汗でてるし。なんでこんな……胸がドキドキしてんのよ」
昼食後、初春と佐天の案内から離れて、美琴は着替えを済ませていた。
そして自室で弦を拭き、弓に松脂を塗り、軽くヴァイオリンの音出しをする。
プログラムには明記されていない、本日の最終イベント。御坂美琴によるヴァイオリン独奏がこれからあるのだった。
別に、美琴の腕が学園一というわけではない。下手なほうではないと思うが、上には上がいるものだ。
なんとなく、音楽の実力以外の要素のせいで、客寄せパンダに任命されたような居心地の悪さがある。
それなのに白井はおろか、初春や佐天も期待してます、なんて目を輝かせて言うものだから、なんだかいつもの自分らしい調子というのが狂って、落ち着かないのだった。
手にしたヴァイオリンもなんだか心もとない。一通りチューニングは済ませたが、昼下がりの日光に晒されるあんな環境で弾けば、すぐにまた音程は狂ってしまうことだろう。
もしかしたら真夏の炎天下を嫌って常盤台きってのヴァイオリニストたちは辞退したのかもしれない。
そんな考えが、ぐるぐる美琴の頭の中で渦巻いていた。

近くのパイプ椅子に楽器を置いて、ため息をつく。
この校舎の扉を開ければ、すぐステージ裏だ。もう五分もしたら、そこで待機しないといけないだろう。
――これって緊張? いやいやいや、私に限って、そんなまさか。
軽く息を整えてみる。だけどそれも上手く定まらなくて、気持ち悪い。
「ああもう、しっかりしろ!」
自分の頬をぴしゃんとやって叱咤するのに、一向に気分がいつもどおりにならない。
そんな風に戸惑う美琴の傍に、不意に人が近づいてきた。それをふと見上げて、美琴はカチンコチンに硬直した。
「あのう。お取り込み中すいません。実は……って、あれ、ビリビリ?」
「へっ?! あ、が、う……?」
信じられない。この、タイミングで、なんで、コイツが。
そんな美琴の態度にまるで頓着しないで、このバカは淡々とした態度のままだった。
「ちょっと知り合い探してんだけどさ、悪いけど教えて――」
「――んでここにいんのよ」
「へ?」
「なんでこんなトコにいんのかって聞いてんのよ!」
があーと美琴が吼えた。ちなみに顔は真っ赤だった。
「な、なんでって。招待状もちゃんと持ってるし」
「人の発表を茶化しにきたわけ? 慣れない衣装を笑いに来たわけ?!」
「い、いやちげーよ、ってか普通にきれ」
「ばかー!!!!!!!!!!」
「うぉわ、落ち着け、落ち着け御坂」
「何よ何よ何よ! 見てわかんないわけ? コッチはいま取り込み中!」
「いやこっちも困って、ってだから落ち着け! その綺麗な格好見たらお前の事情は大体分かるから!」
「えっ?」
きれ、い?
絶賛爆発中だった怒りを全て萎れさせてしまうくらいの破壊力が、その一言にはあった。
振り上げていたパイプ椅子を、美琴はそっと下ろす。
「落ち着いたか? 落ち着いたな? お前あれだろ。今から何かやるんじゃないのか?」
「……うん」
「そのヴァイオリンか?」
「……そう。私より上手い人がいるってのに、何で私が」
「まあ、お前レベル5だろ? この学校の顔じゃないか」
「それとヴァイオリンは関係ない! こんな歩きにくい格好までさせられちゃってさ」
スカートの端を摘む。サマードレスだから暑くはないのだが、汗が気になる服だった。
髪飾りも、いつもよりもずっと大仰で、視界にチラチラ入って鬱陶しいことこの上ない。
「そうは言うけど、よく似合ってるぞ」
「馬子にも衣装って分かってるからそれ以上言わないで」
「そんなこと言ってないだろ。ってか、褒められるのがイヤか?」
「え?」
「普段のお前と違って、やっぱり女の子らしい格好すると映えるもんだな。……まあなんだ。別に自分で駄目だと思う必要なんてねーよ。自信持っていけ」
「ア、アンタに言われたって嬉しくないんだから」
「ところで下に短パン履いてるのか?」
「このドレスでんなわけあるかあっ!」
顔が火照って、胸がさっきとは違うドキドキで満たされて、全然コントロールが聞かない。
指摘されてスカートの下がいつもよりスースーするのが気になってきて、落ち着かない。
そんな美琴を見て当麻は、さすがに履いてないか、と心の中で呟いた。
とはいえ見えるわけでもなし、さして興味はなかった。なにせ、自分が一番可愛いと思う女の子は美琴じゃなくて光子なのだし。
もうちょっと後になったら、相対してるだけの美琴とは違って、光子の体に触れ、唇を啄ばむ気なのだし。
「ところで話戻していいか? 実は知り合いとの待ち合わせ場所がどこだったか迷っててさ」
「あ」
誘ってなかったのに、当麻が来てくれた事に色々と感じ入っていた美琴が、そこでようやく、とても大切なことに気がついた。
ここに当麻がいるということは、この学園の誰かが当麻に招待状を送ったということだ。
白井に当麻のことは知られていない。だからどういう思惑にせよ、白井が当麻に送った筈はない。
だから、当麻に会いたいと思った女の子が、きっとこの学園に、いる。
そしてコイツは、その子に、会いに来たんだ。
「……アンタ、誰に誘われてここに来たの?」
「へ? 急になんだよ」
「なんでもない。ごめん、変なこと聞いた」
それ以上、問い詰められない。だって何でそんなことを尋ねるのかと問われても、何も言い返せないから。
質問を無視された形の当麻と、質問を投げつけておいて横に捨てた形の美琴の間に、沈黙が流れる。
それを破ったのは男の声だった。
「おーいカミやーん。本番前の女の子をナンパするなんて、ほんと困ったヤツだにゃー」
「げ、土御門」
「また会ったなー。上条当麻。御坂も元気してるかー?」
「……何、アンタ土御門と知り合いなの?」
咎めるような美琴の声に、当麻は戸惑った。
当麻が呼びかけた兄、土御門元春と親しくしていて怒られる理由が分からない。
……そうか、御坂は兄貴を知らないのか。
「御坂。コイツ、土御門舞夏の兄貴だ。俺のクラスメイト」
「あ、どうも」
「どうも妹がお世話になってますにゃー」
「なあ舞夏、ちょっと聞きたいんだけど」
なあんだ、と美琴はほっと息をついた。
舞夏が自分の兄とクラスメイトに招待状を送ったのなら、別にいい。
見てても当麻と舞夏の間におかしな空気はない。
……って、何を安心してるのよ私は! どういうことよ。
「あれ、やっぱあそこで合ってるのか」
「待ち合わせなら早く行ってやれよー」
「おう、そうするわ。御坂。それじゃ悪いけど俺行くから」
「あ……うん」
「演奏、頑張れよ」
「言われなくてもいつもどおりやるわよ、バカ」
「ん。もう大丈夫そうだな」
最後に微笑んで踵を返したその当麻の表情に、美琴は胸が高鳴るのを感じた。
バカみたいに突っかかって喧嘩をしていた以前には、一度も見せてくれなかった、こちらを気遣う優しい顔。
いつの間にか、心の中のパニックが嘘のように引いていた。
熱を散々放出してクリアになってきた頭の中と、そして胸の中にだけ、ぽっと灯った静かな高揚。
一番、自分がノッているときの状態だった。



[19764] interlude10: キッス・イン・ザ・ダーク
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/06 22:31

「ごめん! 光子」
「……」

うつむいて、光子はその場に立ちすくんでいた。遅れたことに関しては、光子の側が悪かった。つい服装に乱れはないかと、わざわざ遠回りしてトイレの鏡でチェックして遅れてしまったのだ。
そして、当麻に落ち度がないことも分かっていた。目と鼻の先で、御坂美琴や土御門兄妹と話をしていたのも、そもそもは自分を探してのことだった。
「光子がいなかったから、場所間違えたのかと思って、つい」
「……御坂さんと、仲がよろしいのね」
「え?」
知らなかった。自分は莫迦だ、と思う。
常盤台中学どころか、学園都市をも代表するのが七人しかいないレベル5の超能力者たちだ。
そのうち2人までもがこの学園にいるというのに、光子は今まで、その顔と名前をきちんと覚えてこなかった。
当麻の言うところの、レベル5の『ビリビリ』。彼女は何度も折に触れて話にのぼり、当麻の影にチラチラと映る嫌な存在だった。
それがまさか、自分の友人だったなんて。
鉛を飲み込んだような、重たい感覚に体が支配されている。
だって御坂美琴は、自分とインデックスを除いて今まで一番当麻と親しくしてきた女だから。
知り合いの女性の多い当麻の口から、今まで一番多く出てきた人。
自分と会う直前に美琴に見せた当麻の笑顔に、光子はじわりじわりと心の中に嫉妬という毒を振りまいていた。
「み、光子?」
「朝はエリスさんを連れてきて、湾内さんに破廉恥なことをして、さきほどは白井さんや佐天さんや初春さんに会ったといいますし、繚乱のメイドともお知り合いのようですし。それで、挙句の果てに御坂さんですの」
なんだ、と馬鹿馬鹿しくなってくる。呼ぶんじゃなかった。こんな場所に。
自分が大して愛されてもいないんだって、思い知るような結末なら、いらなかった。
「……光子以外、見てなかったよ」
「嘘。当麻さんはいつもデレデレしてましたわ」
「そんなことないって。……見つかるとまずいだろ? 移動しよう」
「見られたら困ることでもありますの?」
「俺にはない。なんなら御坂の前でキスでもしてやろうか? 言っとくけど、ホントに光子と二人で会えるのを楽しみで、ここに来たんだからな。……ほら、見つかると、これから先デートがしにくくなるだろ? 行こうとしてた場所に、案内してくれよ」
僅かに目線を下げて、高さを光子に合わせてくれた。
そして髪を撫でられる。この状態でも先生に見つかったら大問題だ。
これくらいでは納得も出来ないし当麻を再び信じることも出来ないけれど、貰った優しさを動力に、光子はとぼとぼと逢瀬の場所を目指した。
「ここ……」
「人来ないのか?」
「調理室の火が落ちましたから。夕方までは誰も来ませんわ」
夏にはほとんど用のないボイラー室、そこの鍵を開けて光子は中に当麻を案内した。クーラーの効いていないそこは、二人でいればすぐ蒸し焼きになりそうだ。
でも、誰も来ず、安心していられる場所は少ない。外から見えにくい場所の窓を申し訳程度に開けて、当麻は光子に向かい合った。


「当麻さんが……悪いんですわ」
いきなり、ほろりと光子の瞳から涙がこぼれた。
泣かせたことは、あんまりなかった。
「み、光子?!」
「昨日の夜、当麻さんをお誘いしてからずっとずっと、楽しみにしていましたのに。朝来る前からもう、私以外の女の人と一緒にいて、さっきだって。私と待ち合わせをしているときに、御坂さんと会わなくたっていいでしょう?」
「……ごめん」
「仕事をしている間も、ずっと不安で、イライラして」
「ごめん」
「こんな嫉妬深い女なんて嫌われるってわかっていて自己嫌悪もしますのに」
「いい。光子ならなんだって可愛い」
「でも、当麻さんが他の女の人と親しくしているのは、嫌なの」
「光子と光子以外の女の子は、ちゃんと分けてる。もっと光子にも伝わるように、努力するから」
ぎゅ、と光子は当麻に抱きしめられた。安心する。だから余計に涙が出てくる。泣くのは悲しいからではないのだ。
自分が悲しいということを、当麻が分かってくれると思うから当麻の胸で泣くのだ。
ぐずぐずと鼻を詰まらせながら光子は当麻に自分の涙をしみこませる。
「光子」
「……御坂さんとは、いつからのお知り合い?」
「光子とはじめてあった日の、前の日から」
「私が追い払った不良は、前日御坂さんを助けたときに絡まれた相手でしたのね?」
「そうだ」
「……莫迦みたい。当麻さんの特別な人になれたと思っていましたのに、私は、御坂さんのおまけでしかありませんでしたのね」
「光子は莫迦だな。俺が光子を、どれだけ特別だと思ってるかわかってないよ。……こんなに好きな女の子、光子が初めてなんだからな。まあ、初めて付き合った子だし」
「嘘」
「嘘じゃねえよ」
「じゃあどうして、御坂さんにあんな甘い顔をしますの?」
「してたか?」
「していました! 私にはそんな顔、ちっとも見せてくださいませんのに」
「そんなことないだろ? つーか御坂のやつにどんな顔したかなんて思いだせねーよ」
「私が一番なら、もっとそういう態度、見せてください」
拗ねた光子が今までで一番可愛かった。やっぱりかなわないな、と当麻は思うのだ。
だって、こんな顔を見せられたら。惚れ直さないわけがない。
気丈な光子が涙で僅かに目を腫らし、幼さを感じさせるような上目遣いで、こちらを見ているのだ。
抱きつかれたときにほつれた髪を、そっと直してやる。
「キス、するぞ?」
「……どうしてお聞きになるの?」
「今までより激しいの、するから」
「えっ? あ、ん……」
薄暗がりの中、唇で唇に噛み付くように、当麻は光子に口付けをした。
驚いて少し腰を引いた光子を捕まえる。腰にぐっと手を当てて、自分の体に密着させる。
「ん、ん、ん」
「光子、可愛いよ」
「ふあっ」
光子の目が大きく開かれた。当麻が、キスをせずに光子の唇を舌で舐めたから。そのまま光子の下唇を、噛んだり、舐めたりする。
しょっぱい味がした。残念なことに自分のこめかみから流れた汗の味だった。
「ごめん、光子。汗が」
「ううん。気になさらないで。私もその、汗はかいていますし。それに当麻さんのなら私、気にならない」
「そっか」
「だから、その」
もっとして欲しい、という言葉は言わせなかった。言われなくても分かっていたから。
「ん、ちゅ、あ……」
当麻は、舌を光子の歯と歯の間にねじ込んだ。噛まないようにと、光子が慎重にキスに応じる。
よく分かっていないせいか動きの緩慢な光子の唇に強引に自分の唇を押し当てながら、光子の奥深くへと舌を滑り込ませ、蹂躙していく。
「あっ! あ」
ガクリと、光子の膝が落ちた。
抱いた両腕でそれを支える。むしろその方が良かったのかもしれない。
ぐいと引き上げられて、光子の唇が、より当麻に接近した。
光子の瞳の中から強い輝きが失われた。代わりに艶のある、にびた光がとろんと浮かぶ。
当麻を求めてくれているのだと、そう感じさせる瞳だった。
「光子、愛してる。俺が見てるのは、光子だけだから」
「……当麻さんは誰にでもそんなことを言いますの?」
「そう思うか?」
「知りません。だって、光子はいつも、当麻さんに騙されていますもの」
「騙してなんかないよ。むしろ、俺がどれくらい本気で光子の事好きなのか、分かってくれてないみたいで悔しい」
「わかりませんわ。だって、当麻さんはいっつも、あ、ん、だめ、だめ……」
嫉妬をくすぶらせる光子が可愛くて、つい、当麻は耳を噛んだ。
そのまま舌でつつつ、と耳をなぞると、ピクンピクンと光子が震えた。
そして耳の裏へ舌を滑らせ、汗を舐めとる。
「あ! 当麻さん! そんなの、いけません。汗なんて」
「いいって言ったの、光子だろ? 俺は全然気にならないよ。しょっぱくて、光子の匂いがする」
「あ、汗の匂いなんて駄目ですっ! 匂いなんて嗅がないで……」
「いい匂いだけど」
「そんなはずありませんっ! もう、やだ……あ! だめ、です。当麻さん」
調子に乗って、当麻は耳の裏の髪に隠れた辺りを強く吸った。
「痛……えっ? 当麻さん、いまのまさか」
「おー。痕、ついてるな」
「嘘、嘘! 当麻さんの莫迦。私、この後皆さんと片づけをしますのよ?! そんなときに見られたら……!」
「困るのか?」
「困るに決まっています! だって、見られたら当麻さんと何をしていたのか、皆さんに」
「今、何をしてるんだ?」
「えっ?」
「光子は今俺に、何をされてるんだ?」
「……莫迦」
上目遣いの瞳が、可愛い。
「耳噛まれたり、首筋にキスされるの、嫌か?」
「……そんなことはないですけれど、でも、恥ずかしい。それに力が抜けてしまいます」
「じゃあもっとすればいいんだな?」
「当麻さんの、好きになさって」
ぷいと目を逸らして素っ気無く光子は言った。
その口元が、期待に緩んでいるのを当麻は見逃さなかった。
「光子、舌、出して」
「え? んん、ちゅ……」
当麻の舌が、再び口の中に入り込んできた。
ゾクゾクする。背骨に沿って、得体の知れない感覚がぞぞと這い上がってくるのだ。
快感というには、まだ、光子の体がそれを受け入れられていなかった。
おずおずと、光子は舌を当麻の舌に絡める。舌と舌で互いを撫であうような、不思議な感覚。
当麻の鼻息が頬にかかってくすぐったい。でも、自分のだってきっと当麻にかかっていることだろう。
息苦しくて、吐息を気遣う余裕はなかった。
「ん?! んーっ」
突然、舌を当麻に吸われた。当麻の舌と唇で、光子の舌は愛撫される。腰の辺りがじわりと重たくなるような、不思議な反応を体が見せ始めた。
体つきは大人びているが、自分の体が当麻に与えられる刺激でどんな風になるのか、光子はよくわかっていない。
知識としてはいろいろなことを知っていても、経験で言えば、光子はインデックスと代わらない、初心な少女なのだった。
「どうだ? 光子」
「ふぁ……おかしく、なりそう」
「次は逆に、俺のも吸ってくれよ」
「当麻さんはエッチですわ」
「え?」
「どこでこんなこと、覚えてきましたの?」
「覚えてって、俺も初めてだよ。だから光子に嫌な思いさせてないか、ちょっと不安だ」
「……なんでも、してください」
「え?」
「当麻さんのなさることで、光子の嫌なことなんてありませんもの」
光子を見つめると、優しく微笑んでくれた。
暑い。それは気温のせいでもあるが、たぶん、高ぶってきた自分の気持ちのせいでもある。
光子の後頭部を抱きかかえるようにすると、じわりと汗で湿っているのが分かる。
「ん、あ」
鼻にかかった声が光子から漏れて、それがたまらなく当麻をくすぐる。
光子のほうからも舌を積極的に出しはじめて、キスにぴちゃりぴちゃりと水音が混ざる。
腰砕けになった光子はすっかり当麻に体重を預けていて、豊かな胸のふくらみが当麻の胸板でつぶれていた。
「光子」
「はい……ん」
キスで口の中に溢れてきた、自分と光子の唾液が混ざったものを、掻き出すように光子の口に中に注ぎ込む。
驚いた顔をした光子。キスを止めずに、口付けたまま至近距離でずっと見つめてやると、コクンと、それを飲み込んだ。
ほう、と蕩けた様なため息を漏らした。
「味は?」
「当麻さんの莫迦。味なんてしませんわ……」
「嫌だったか?」
「当麻さんのですもの」
軽くキスをしてやる。そして口付けたまま動きを止めると、光子は一瞬戸惑った後、口を動かした。
そして、おずおずと光子の唾液を返してきた。
「んッ」
強く吸い上げて、光子の口の中から残さず唾液を搾り取る。そして当麻も飲み込んだ。
ぼんやりとよく分からないといった顔をした後、光子がじわじわと喜びを口元に表した。
「ちょっと、光子のほうが冷たいかな」
「当麻さんのは、熱かったです。どうしよう……こんなことされて嬉しいって、私変なのかしら」
「俺も嬉しいよ」
「じゃあ私は変なのですわね」
「俺は変態扱いかよ」
「だって、当麻さんはエッチですもの。あっ!」
エッチなんていわれたら、期待に応えるしかない。
光子のお尻から15センチくらい下、太ももの裏に、当麻は手のひらを当てた。
そうしてすうっと撫でながら、手を上に滑らせていく。
「あ、あっ、あっ……当麻さん駄目、それ以上は」
「止めて欲しい?」
「だ、だって。スカートが」
常盤台のスカートは短い。こんな風に太ももから直接撫で上げていけば、それは当麻の邪魔をしないのだ。
つまり、スカート越しじゃなくて光子の履いた下着に、直接触れることになる。
優しい肌触りの布の縁に、当麻の指がかかった。そこは太ももの終わり、お尻の始まり。
当麻はキスをする。そうして顔をどこにも逸らせなくなった光子の、真っ赤になった顔を眺めながら、当麻は下着の上からお尻に触れた。
「ああ……駄目って、言いましたのに」
「柔らかいな」
「莫迦」
女の子のお尻だった。ぷっくりと丸くて、柔らかい。
泣きそうな顔の光子が可愛くて、つい、お尻を撫でたまま強引なキスをした。






美琴は舞台に立って、お辞儀をした。足元の座席には、白井と初春、佐天がいる。
うっとりした表情の白井にイラッとし、同じ表情の初春には苦笑してしまった。佐天と目が合うと、微笑んでくれた。
それらを落ち着いて眺めながら、もう一度楽器のチューニングをする。
寮祭はそれほど大規模ではない。おそらく、この時間には展示を見るのにも皆飽きてきたのだろう。
人は結構多くて、色んなところから見ていてくれる。自然に辺りを見回しながら、美琴は一曲目を奏で始めた。
「ああ、御坂さん……なんて美しいんでしょう」
「初春があっという間にトリップしちゃった。白井さんはいつもだけど……」
「お姉さま、ああお姉さま、お姉さま」
実際、美琴の演奏は上手かった。
佐天はクラシックに造詣などないが、器楽を専門にしていない一人の中学生の演奏としては、なによりまず、堂に入っていると思う。曲の世界観をちゃんと表現できていた。

演奏しながら、美琴には余裕があった。
あ、湾内さんと泡浮さんだ。婚后さんは……仕事だっけ。アイツが見えないのよね。でも、この場にいてくれた。
土御門の兄あたりと遊んでいるのかもしれないわね。こういう音楽に興味がありそうなヤツには見えなかったし。
だけど構わない。たとえBGMでも、自分の音は、きっと当麻の耳に届く。
自分が立っているのが舞台だなんてことを忘れて、美琴は気持ちの乗った演奏を続けた。
結局当麻に連絡を取れなかった昨晩からついさっきに至るまでの、どんよりした気持ちは吹き飛んでいた。
音を奏で、届けたい人に届けられることが楽しかった。






「あ……」
遠くで、ヴァイオリンの音が聞こえ始めた。優しい音色が、二人の熱気と荒い吐息で満たされたボイラー室にまで届く。
すぐに光子が窓を閉めた。聞こえる音量はそれで半分くらいになった。もう耳を澄まさないと聞こえない。
光子の、それは妬き餅だった。
「当麻さん、大好き……」
「俺も好きだよ、光子」
「もっと……ああ」
腰ではなくて、下着の上から鷲づかみにしたお尻をぎゅっと持ち上げて、光子を自分のほうに引き寄せる。
窓を閉めてさらに部屋は暑くなった。密着した二人の頬で汗が交じり合って、光子の胸元へ滴っていく。
光子、と耳元で吐息混じりに呟いて、じっと目を見つめた。
「とうま、さん」
真剣で、燃えたような当麻の瞳に見つめられて光子はクラクラと眩暈を覚えていた。
心臓が痛いくらいにドキンドキンと鳴っている。
なにか、重大な言葉を告げようとしているのが、光子には分かった。
「もっと触りたい。光子に」
「……」
「胸に触っても、いいか?」
答えられなかった。イエスと言うべきなのかもしれない、だけど、答えはノーだから。
「光子が嫌なら、絶対にやらない。でももし、望んでくれるんだったら」
「……嫌いにならないで、くださいませ」
「え?」
「怖いの……」
遠まわしに、気持ちを伝える。告げた言葉が全てだった。
当麻を怖いと思ったことはない。手つきはずっと優しかったし、体が目当てなのではないと、光子の心を欲してくれているのだとも分かっていた。
だけど、あまりに深い関係は、光子をひどく不安にしてしまう。
一度越えてしまえばもうきっと戻れない。容易に失ってはならない純潔を、流されて、捧げてしまいそうになる。
それではいけないとも、光子は思うのだ。当麻のためにも。
当麻にも光子にも、将来を添い遂げる覚悟はない。いや、覚悟をしたくても幼さがそれを許さない。
だから、怖い。
「怖がらせてたんなら、ごめん。光子が可愛いからさ」
「ううん。当麻さんが怖いんじゃないの。だけど……。ごめんなさい
もう一つ、光子には怖いものがある。
遠くから聞こえてくる、この曲。御坂美琴という友人の気持ち。
常盤台の生徒にしてはざっくばらんな性格で、好ましく思っていた。面倒見が良くて、いつも大人びた感じのする同級生だと思っていたのだ。
だけど、当麻に見せた顔は、光子の知らない顔だった。本音むき出しで、すこし幼さすら見せる感じで。当麻という人に、甘えているのがよく分かった。
それを当麻も自然と受け止めていて、すごく、お似合いな気がした。
高飛車で我侭で、当麻を困らせてばかりの自分より、美琴のほうが当麻も好きなんじゃないかと、そんな後ろ向きな気持ちが、心の片隅にずっと引っかかっているのだ。
「光子」
「えっ?」
さらさら、と髪を撫でられた。
優しい当麻の笑顔に、無条件に安心してしまう。
「なんか今日は変だな」
「そうですか?」
「……俺が色んな女の子と喋ったからか?」
「だって、嫌ですもの。御坂さんとだってあんなに仲良く」
「んー、光子が何で御坂をそんなに気にするのかがわからないんだけど」
「……」
「う、ごめん。泣くなよ」
「泣いてません!」
ちろりと目尻を当麻に舐められた。
女の涙腺は一度緩むと、止めどがないのだ。
「よくわかんないけど、光子が嫌なら、御坂のやつとは距離を置くようにするから」
「嫌な女ですわ、私。そうして欲しいって、思ってしまったの」
「光子が他の男と仲良くしてたら、俺だって絶対にそうなるから。だから気にするな。光子、キスするぞ。分かってもらえるかわからないけど、俺が惚れてるのは光子だって、教えてやるから」
「はい……」
光子が、当麻の頭を抱くように手を伸ばした。
耳にかかるように置かれた光子の手のせいで当麻は美琴の音楽を見失って、光子の甘い吐息だけに集中した。
「ん! ふぁ……あ、あん」
耳を噛み、首筋を舐め、唇と舌でぐちゃぐちゃに光子の口内を犯す。
壁に光子の体を押し付けて、さらに自分の体を押し付ける。二人が一つに溶け混じりそうだった。

美琴の演奏が終わって、中庭に喧騒が戻るまでの間、二人はそうやってキスを続けた。






日もまだ翳るには早い夕方、当麻とインデックスはエリスを送って教会の前にまで来ていた。
「今日はありがとね、インデックス。それに上条君も」
「また今度ね、エリス
「次は夏祭りだな」」
「うん、ありがとう。それじゃあね」
数日後の夏祭りでまた会うから、挨拶は軽いものだった。
あの後、当麻と二人で過ごしてかなり機嫌の回復した光子は、エリスともある程度打ち解けてくれた。
インデックスに加えてエリスの浴衣の着付けまで引き受けたようだった。
……実はエリスが垣根と逢瀬をするつもりなのだとわかって安心したから打ち解けたのだった。
光子もエリスも、そういう事情を当麻にはわざわざ教えなかった。
扉を閉めるまで手を振ってくれたインデックスに笑顔を返して、エリスは中庭へ出る。
「お帰り、エリス」
「あ、ていとくん……」
いつもどおりの態度で迎えてくれた垣根が、どこか拗ねているのに雰囲気で気づいた。
ちょっと後ろめたく思った自分の態度が、垣根の本音をうまく説明している。
形として、エリスはデートに誘ってくれた垣根を差し置いて当麻と遊んだことになるから。
「ていとくん。今日のこと、話すね」
「いいよ。……そういうので怒るほど、了見は狭くない」
「私が嫌だから、話をさせてほしいんだ」
「そうかい。ならまあ、聞くけど」
そっぽをむいた垣根の唇がわずかながらに尖っている。妬き餅を焼かれるのは、嬉しい。
良くないことと知りつつ、垣根に好意を向けられるのを喜ぶ自分がいた。
「今日は常盤台の寮祭に、インデックスと一緒に遊びに行ってたんだ。ていとくんが怒ってるように、上条君とも一緒だったけど」
「へー」
「上条君の彼女さんに怒られちゃった。もちろんインデックスも一緒だったけど、上条君とも一緒にいたから。でも彼女、婚后さんにも悪いから、上条君とは一度も横に並ばないようにしてたよ」
「並びたかったんなら、並べばよかっただろ。あのヤロウの彼女がどんなもんか知らないが、エリスより可愛いことはない。すぐに追っ払えたんじゃないか?」
「ふふ。そんなことするわけないでしょ。上条君はいい人だけど、別になんとも思ってないし」
「なんとも思ってないのは、アイツだけじゃないだろ?」
フンと自嘲めいた笑いをこぼす垣根に、心が引っ張られた。
違うんだけどな、と心の中でエリスは呟いた。
「ていとくんは、特別扱いしてあげてるよ?」
「そうなのか?」
「……もう。夏祭りの約束、忘れちゃったほうがいい?」
「上条とでも行くんじゃないのかよ」
「あ、ていとくん。今の妬き餅の焼き方、好きじゃない」
「別に妬いてねーし」
「上条君は彼女さんと一緒だし、そうじゃなくても、一緒には行かないよ。私を誘ってくれたのは、ていとくんだったし」
「そーかよ」
ずっとエリスを直視しないその横顔が僅かに緩んだのを見て、エリスももう、と笑った。
当麻はたぶんいい人だが、インデックスがいつも間に挟まるために、すこし遠い人だった。
光子がいなくても、たぶんその次はインデックスに遠慮していただろう。
光子がいない世界がもしあるなら、インデックスと当麻はもっと恋心を抱きあうような関係になっている気がするから。
「ね、ていとくん。私のお小遣いそんなに多くないけど、それにあわせてくれる?」
「別にいいぜ。全額出すくらいのことはなんでもないけど、それが嫌なら、エリスにあわせる。夜店で遊んで晩飯食えるくらいはあるのか?」
「うん。でも品数はあんまり揃えられないし、半分こしよ?」
「お……おう」
「あーていとくんがデレた」
予想外の反応。ストレートなお願いに、垣根が戸惑っていた。可愛いと思う。
しかしすぐさま気を取り直して、また気障を装った。
「なんなら全部口移しでもいい」
「いいよ? じゃあそうしよっか」
また、照れさせるつもりでエリスはそんな冗談を言った。
これで垣根が真っ赤にでもなったら、とても楽しいと思う。
だけど、垣根のリアクションは真面目だった。
「本当に、いいのか?」
「えっ……?」
「そこまで俺に踏み込ませて、いいのか?」
「……」
それは垣根の気遣いだった。
三度も垣根の告白を拒み、あと一歩の距離を譲らなかったエリスが見せた油断に、つけ込まなかった。
「……ごめん」
「いつでも本気にしてやるから、その気になったら言ってくれよ」
「ねえ、ていとくん」
「ん?」
「そういえば、私が何歳かって、ていとくん聞いてきたことなかったね」
「どうでもいいからな。エリスが何歳でも、エリスはエリスだ」
「もしかしたらていとくんよりおばさんかもしれないよ?」
「そうは言うけど年上の余裕を感じないぞ? エリス」
「むー」
垣根はそれで悟った。おそらく、エリスは自分より年上なのだろう。
冗談めかした言い方に、真実を混ぜている味がした。
でも、本当に関係ないと思う。だって本当にエリスは可愛いくて、そして自分が好きだと思っている気持ち以上に重視すべきことはない。
「ね、ていとくん。オレンジ剥いてあげるよ」
「ん、サンキュ」
「でも届かないから……手伝って」
「……いいぜ」
垣根は能力者だから、手の届かないところにあるオレンジをとる事なんて、工夫次第でなんとでも出来る。
だけどそれを言い出さなかった。エリスが望んでいるのはそういうことではないと思うから。
かがんで、エリスの腰を抱く。突っ張った態度の裏で、とんでもないくらい垣根は動揺していた。エリスの優しい匂いに、クラクラする。
悟られないように足を踏ん張って持ち上げると、抱いた手に、そっとエリスの手が重ねられた。
「ありがとう、帝督くん」
「エリス、重いから手早く頼む」
「もう! ていとくんのバカ!」
ずっと抱きしめていたいけど、そんな気持ちを悟られるのが嫌で垣根は意地悪をした。
エリスはそんな垣根の態度も、分かっていた。そして自己嫌悪にそっと蓋をする。
こんな風に好いてくれる人を弄んでいる自分は、なんなのだろう。
ずっと一緒にはいられないと分かっている癖に。自分の事情に未来ある人を巻き込んではいけないと分かっている癖に。
当麻が悪いのだ。あんなに、恋人との幸せそうな光景を見せ付けるから。
人とのつながりが、ぬくもりが、エリスは恋しかった。






「こんなトコ、かな」
美琴は自室の脱衣所件ドレスルームに備え付けの大きな鏡の前で、軽く髪を手でほぐす。
別になんてことはない。演奏が終わったというのに着替えもさせてもらえず、挨拶ばかりやらされていたのがちょうど終わって、ようやく制服に戻れたところだった。
いつもどおりの制服に戻った、ただ、髪飾りは元のヤツに戻さなかった。白い小さな花をふたつあしらった、可愛らしいデザインの物を身につけた。
「まあ前のもこれもママがくれたヤツだし、世代交代しても文句は言われないわよね」
ちなみにこの髪留めを渡した当のママ、御坂美鈴は美琴に向かって、恋するお年頃なんだからアクセサリくらい気を使ったら、と言っていたのだが、当麻と知り合う前だったので聞き流してしまって覚えていないのだった。
自分が髪飾りを替えようと思った心境を、美琴はちゃんと把握していなかった。
綺麗だと言ってくれた当麻の、その言葉が引き金だった。
白いサマードレスは着替えざるを得ないけれど、青リボンをあしらった花飾りを取る段になって、いつもの素っ気無い髪留めに戻すのが味気ないと感じたのだった。
とはいえドレスに合わせた髪飾りは実用性が低いし、これだけ目立つと寮監のチェックが入る。
そう思って、アクセサリーの入った小箱から取り出したのが、この髪留めだった。
「ま、これなら別に誰にも何も言われないでしょ」
白井は当然出会い頭に大仰に驚くのだが、そこに美琴は気が回らなかった。
そろそろ、戻らなければならない。片付けはそこかしこで行われているから手伝わなければ。
美琴は疲れもあまり感じていなかった。大仕事としておおせつかったヴァイオリン独奏が会心の出来で、楽しんでいるうちに終わってしまったから。
歩きつかれた客が休憩するのにちょうどいい程度の時間でプログラムは終わったし、まだまだ手伝える。
「土御門が皿洗いやれってうるさかったし、あそこに行けばいいかなっと」
足取りも軽く、美琴は自室の扉を開いた。
今日は一日、楽しい盛夏祭だった。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 01: 乱雑解放(ポルターガイスト)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/13 22:23

「あの子たちに鎮静剤を。大至急だ」
「わかりました」
時刻は日付の変わる少し前。
医者であっても当直や救急でなければとうに仕事を終えている時間に、カエル顔の医者は病院の廊下を早足で歩いていた。
向かうは地下、一般の患者の立ち入りを禁じた一区画に、医者は少年少女たちを寝かせている。
学園都市に捨てられた子供たち、いわゆる置き去り<チャイルドエラー>であり、施設で育った子たち。いずれも目を覚まさない。
医者の超人的な力を持ってしても、回復の見込みそのものが立っていなかった。
子供たちのいる治療室に入り、医者はバイタルデータ、心拍数や脳波と、AIM拡散力場の変位測定装置を見る。
この異常事態において、脳波はむしろ正常だった。普段の植物状態で示す異常値に比べて、ずっと波形が覚醒した人のそれに近い。
そしてAIM拡散力場は。
「……木山君は、明日保釈か」
解決策に最も近い、頼みの綱の知人の名を呟く。覚醒を始めた子供たちを、再び眠りに引き戻すことしか出来ないことを憂う。
だが、こうしなければ、危険なのも事実。
「今日の乱雑開放<ポルターガイスト>が小規模だといいが」
木山に依頼をされて、初めてこの子達を覚醒させようとしてから数ヶ月。
だんだんと、薬で沈静させるのが難しくなりつつあった。覚醒の周期も早まっている。
いつしか止められなくなる日が来る。それは、もう遠くない未来だった。
それでも医者は絶望しない。希望を捨てず、淡々と意欲的に、解決策を探す。
無痛針をカシン、カシンと押し当てられていく子供たちを見つめながら、医者は考え続けた。






カタカタカタカタと家具が揺れる音がして、光子は読みかけの本から顔を上げた。幸い、身の危険を感じるほどの揺れではなさそうだ。
「地震? そう言えば黄泉川先生が地震がどうのと言っておられたけど……」
とはいえ地震など珍しくもないのが日本だ。
よくあること、と自分を納得させ、紅茶に手を伸ばす。さあっと陶器が木の机をすべる音をさせて、紅茶が逃げた。
「えっ?」
読書用のデスクに置いたカップに、光子はナイトキャップティとして薄く淹れたアールグレイを注いでいた。その紅茶はカップの中で激しく揺れ、いくらかこぼれていた。
自分の手でカップを突き飛ばしたかと、一瞬疑う。だがそんなことがあれば気づくだろう。
元の位置より10センチは動いていると思うから、こんなに動くくらい手を当てれば痛みの一つも残っているはずだ。
「……気のせいかしら」
そう呟くのと同時くらいで、カタリと音を立てて、棚に座らせた人形が一体、床に落ちた。
「誰ですの?!」
飾るくらいに人形の好きな光子だ、こんな風に情けなく倒れ落ちるような座り方はさせていない。現に人形が落ちたことなんて今まで一度もなかった。
そしてデスクを離れたとたん、今度はカップががしゃんと、床に落ちて割れた。これはもう、怪異というほかない。
「私を常盤台の婚后光子と知っての狼藉ですの?」
一番に警戒したのは、自分の姿を隠せる能力者。
一ヶ月ほど前に実際に襲われた経験があるので、常盤台にそんな能力者が侵入するわけがないと一蹴は出来なかった。
だが返事はない。人の気配も感じられない。
先生を呼ぶべきか、と考えたところで、ふと自分自身に違和感を感じた。
能力使用中に動転してしまった時のような、力がコントロールを外れる感覚。それを光子は感じていた。
その感覚が光子の混乱をさらに呼び、その混乱が光子の感覚をさらに乱す。

背中に視線を感じて、光子は部屋の中で大きく振り返った。
人などいるはずもなかった。代わりに、いつの間に動き出したのか、お気に入りでコレクションした西洋人形達が、覆いかぶさるように重なりながら、ガラスの目で光子を見つめていた。
普段人形を愛でる光子を、恐ろしいという感情一色で染め上げるほどにそれは、シュールな光景だった。
「いや……っ、いやあああぁぁぁぁぁぁ!!!!」
その日の夜、学び舎の園は、同系統の能力者たちが上げた悲鳴でちょっとした騒ぎになった。
だがそんなことは教職員が多く住むファミリータイプのマンションの中で、携帯を耳に当てながらどっかりとソファに腰を下ろしたレベル0にはまるで関係がなかった。
「……光子、出ないな」
「光子に愛想尽かされちゃったの?」
「そんなはずはない。寮祭のあとは、ちゃんと仲良くやってるし」
「ふーん。まあそうだよね、あれからみつこの機嫌はよかったもん。とうま、何したの?」
「何って……そのまあ、キスをだな」
「とうまのえっち」
聞いてきたほうのインデックスがむしろ顔を赤くして、当麻から離れた。






朝、初春はいつものようにざっと食事を摂って髪を整え、制服に着替えた。
風紀委員をしている限り、夏休みでもこうやって制服で仕事をしに行くのは普通のことだから、寝坊もせず定刻どおりに起きて生活することは、初春にとって別段大変なことでもなかった。
とはいえ今日は、風紀委員の仕事とは別だ。担任の先生から呼び出されたのだ。
頼みごとがあるとのことだった。
「失礼します」
「ああ、おはよう、初春」
「おはようございます、先生」
そこは初めて入る部屋だった。教室や職員室ではなく、応接室。
掃除当番で入室する生徒もいるようだが、ほとんどの生徒にとっては卒業まで縁のない場所だ。
「座ってちょっと待っていてくれるかい?」
「はあ」
担任は、つけ始めてすぐで慣れないのか婚約指輪を気にしながら、そんなことを言った。
ますます初春には事情が分からない。
「そういえば昨日、地震があったみたいだけど君の寮はどうだった?」
「大丈夫でした。こっちは全然揺れませんでしたから」
「そっか。不思議だね、同じ第七学区でも揺れた場所と揺れなかった場所があるなんてさ」
「そうですね。……何か、普通の地震とは違うんでしょうか」
「地球科学は僕の専門外だからなあ。ところで初春。佐天とは確か、仲良かったよね」
「あ、はい」
「来月からのこととか、何か聞いてないかな?」
「え?」
佐天とは夏休みに入ってからもほとんど毎日一緒に過ごしているが、改まった話をした覚えはない。
いつもおやつの話だとか、テレビの話だとか、宿題の話だとか、そんなのばかりだ。
だけど先生の言うことに心当たりはあった。佐天はもう、柵川中学では並ぶものがいないレベルの能力者だ。
「それって、佐天さんが転校するかも、っていう話ですか?」
「話をしているのかい?」
「いいえ。佐天さんからは何も。でも、あれだけレベルが上がったらそのほうが自然ですよね」
「そうだね。もっと高みに上れる人は、上を目指したほうがいいとは僕も思う。ただ、そういう話を進めてみたはいいけど、佐天のほうから音沙汰がないんだよね」
良かれと思ってレベル2のIDをすぐ発行し、そのときにも改めて聞いたのだが、それから数日たっても何も言ってこなかった。
親友と離れがたいのが一因かと思い探りを入れたのだが、そのあたりは初春の反応を見てもよく分からなかった。
「まあいいや。今日は転校は転校でも別件でね」
「はい?」
ちょうどタイミングよく、コンコンと扉がノックされた。入っておいで、と担任が言うと、控えめな感じに扉が開かれた。
現れたのは初春と同じくらいの体格の少女。柵川の制服を着ている。髪の一房をゴムで縛って触覚みたいにしてあるのが可愛らしい。
大人しくて優しそうな印象の女の子だった。
「新学期からの転入生の子だ。実は君のルームメイトになる」
「へ、えぇっ?」
「いやーごめん、急に決まったことでさ。こういうとなんだけど、わが校の風紀委員として、この子の力になってあげて欲しいんだ」
「あ……はいっ!」
そうやって任されるのは、初春とて悪い気はしなかった。
少女に向き合うと、緊張した面持ちで、ぺこりと頭を下げてくれた。
「春上衿衣(はるうええりい)……なの」



唐突に春上を紹介されて数時間。すっかり日は真上まで上り詰めて、お昼時を示していた。
二人は今、初春の自室の前、これから春上にとっても自室となる寮の扉の前で立ち尽くしていた。
「ちょ、ちょっと佐天さんに連絡とってみますから! 白井さんも来てくれると思うし、そうすれば」
「はいなの」
慌てて携帯を耳に当てる初春を春上は戸惑いながらぼんやり眺めた。二人の目の前には、うず高く積まれた春上の私物。
引越し業者のダンボールに詰められたそれは、扉を開けられないように置かれていた。
見慣れないマークの引越し業者で、信じられないような対応の悪さだった。
事の次第はこうだ。
朝一番に春上の紹介を受けた初春は、大急ぎで帰宅して片づけをした。なんでも今日の昼に引っ越してくるらしかったからだ。
そして引越しのトラックとは別にやってくる春上を駅まで向かいに出ている間にトラックが着いたらしく、信じられないぞんざいな対応で、荷物をごっそり扉の前においてさっさと引き上げた、ということのようだ。
動かしてもらおうにもその業者の電話はずっと通話中で、まるで当てにならない。
「あ、佐天さん? 今どちらに……あ、はい。わかりました」
電話を切った初春が春上のほうを見て、にっこりと笑う。
「力持ちが来てくれそうなので何とかなりそうです」
「力持ち?」
「まあ、力を使わずに物を運べる人なんですけどね、正しくは」
白井を自分の住む寮に招いたことはなかった。
だが、転校生の話を聞いた佐天が白井と美琴を迎えに行ってくれているらしい。
「ういはるーぅ。お待たせ」
「あ、佐天さん。それに白井さんと御坂さんも」
「やっほー」
「ごきげんよう……で、コレはなんですの」
「引越しの業者さんが置いて行っちゃったんですよ。春上さんを駅に迎えに行ったのと入れ違いで。 ……あ、それでこちら、新入生の春上衿衣さんです」
「はじめまして、なの」
「んでこちらが私達と同じ柵川中学の佐天さん、それと常盤台中学の白井さんと、その先輩の御坂さんです」
よろしくねと笑いかけた美琴に春上は微笑を返す。
その隣ではこれ運ぶの大変なんですよー、と白井の眼を見つつ初春が言ったのに、白井がため息をついていた。
「お昼も近いことですし、さっさと運びませんとね」
そっと白井がダンボールの山に手を触れる。ただそれだけのことで、目の前から荷物が文字通り消えた。
白井の能力、空間移動<テレポート>が発現した結果だった。この程度の重量と距離なら、白井にとっては造作もない。
「白井さん、助かります!」
「おおぉ~」
春上が口を可愛らしく開けて驚いていた。それを見て、素直な賞賛に白井は気を良くした。
「これだけのことができる空間移動能力者はそうおりませんのよ?」
「とってもすごいの」
「さて、それじゃあパッパと済ませちゃいますか」
初春が扉を開いて五人は荷物の整理に取り掛かるべく、靴を脱いで部屋に上がった。



春上の荷物をてきぱきと仕分けし、新しい居場所であるこの部屋に仕舞っていく。
重い荷物は白井がささっと移動させてしまうため、非常に手早く済んでしまった。
ぱんぱんと服の汚れを払いながら立ち上がった佐天がにこっと笑って春上を見た。
「これでおしまい、でいいのかな?」
「うん、これで終わりなの。皆さん、今日は手伝っていただいてありがとうございました。とっても助かりました……なの」
「どういたしまして。それにしても、おなか空いたわね」
「朝もあれだけ召し上がりましたのに、もうですの?」
「あれだけって、いつも通りじゃない。それにもうお昼摂ったっておかしくない時間でしょうが」
「皆さん! これから一緒にランチしましょう! 春上さんはこの辺りのこと良く知らないし、懇親会もかねて!」
文句を言い合う白井と美琴をよそ目に、初春がそう提案した。
春上はよくわかっていないのか、ぼんやりした顔をしている。佐天がそれを見て微笑みながら、賛成と手を上げた。
しかし白井があきれた顔で初春を見つめた。
「初春、忘れましたの? 私達は午後から合同会議ですわよ?」
「へ? あっ……。そうでした」
「合同会議? 誰との?」
「風紀委員と警備員の、ですわ。このところ地震が頻発していますでしょう? その関連だそうですわ」
「地震で、風紀委員と警備員が合同会議?」
議題がピンと来ないのか、美琴が首をかしげた。実際、白井と初春にも趣旨が良く分かっていなかった。
せっかくのランチ計画が、とうなだれる初春を見て、もう、と佐天が笑った。
「それじゃあお昼はうちで冷や麦にしましょう」
「え?」
「テーブルが足りないからちょっとお行儀悪いかもしれないですけど、いいですよね」
頭に買い置きの薬味を思い浮かべる。しょうがとすりゴマは常備しているし、タイミングよく大葉と茗荷もあった。冷や麦は実家から大量に送ってもらったから問題ない。
佐天の家でなら移動の時間は掛からないし、麺類ならすぐ作れる。ちょっとドタバタするが、これなら全員で親睦を深める暇もあるはずだ。
「賛成! 賛成です! 佐天さんありがとうございます」
「いいってことよ。初春のルームメイトなんだから春上さんは私にとっても親友候補だもんね」
「ですよね! クラスメイトとして仲良くやっていきましょう!」
「あ……」
「えっ?」
急に、佐天の勢いがしぼんだ。それで初春はハッとなった。春上のタイミングがやけにおかしいだけで、転校シーズンはむしろこれからだ。
夏休みを使って転校先を探し、二学期から編入というのが王道のパターン。そして、佐天はそうやって栄転する可能性の高い、そういう立場にある人だった。
「ご、ごめん。雰囲気悪くしちゃったね。さっ、うちに行きましょう! 早速準備しますから」
佐天自身も、未だ身の振り方を決めあぐねている、そんな段階だった。
まだ一週間くらいは、何も動かなくても間に合う。そういう考えに佐天は甘えていた。






「それではこれより、風紀委員と警備員の合同会議を始める。あたしは警備員の黄泉川だ。 今日の議題に関しての担当になる。……前置きは別にいいだろう、それでは早速説明を始める」
アンチスキル第七学区本部第一会議室、会議室というには大きく、演壇とそれに向かい合う沢山の座席からなるホールであるそこに、初春と白井を含めた風紀委員の学生、および警備員を務める教職員が集まっていた。
少なくとも風紀委員の側は、地震に関する議題だとは知っているもののそれ以上の情報は与えられていないらしく、皆一様に落ち着かないような、そんな雰囲気だった。
「このところ頻発している地震について判明したことがある。結論から言えば、これは地震ではない。正確には、これはポルターガイストだ」
「ポルターガイスト……?」
「普通は家具が宙を舞うようなものですわよね」
白井と初春が小声で会話する。その声が演壇上の黄泉川に聞こえるはずもなく、淡々と説明が進んでいく。
「地震は波動の伝播メカニズムの違いにより、P波とS波という伝播速度の異なる波を必ず生じる。だが一連の揺れにはこれがなく、またその発生地域が極めて局所的だ。この点で所謂地震ではないことが分かる。また地震、というと語弊があるがこの現象は全て学園都市内でのみ起こっている。この事からも、この学園都市に固有の事情でこの揺れが生じていると見るのが自然だ。こうした事実から我々はこの揺れがポルターガイストの一種であると仮説を立て、調査を行ってきた。その結果先日、この仮説が実証された。今日はその仮説の中身について説明していく。調査と実証の手法についてはレポートにまとめてあるから興味のあるものは各自読んで、提供できる情報があるならあたしの所まで連絡をくれ」
黄泉川はそこまでを通しで喋って、舞台袖をチラリと見た。
そちらと目配せで情報をやり取りしてから、再び聴講しているこちらへ体を向けた。
「この現象、地震にも似た局所的な揺れは、端的に言うとRSPK症候群の同時多発によって引き起こされたものだ。詳しいことは先進状況救助隊のテレスティーナさんから説明してもらおうじゃん」
黄泉川が舞台袖に体を向けて、壇上中央に招くように手を差し出した。
それに答えるように、カツカツと小美味いい音を立てて、スーツ姿の女性が姿を現した。
年は二十台半ばくらい。理知的な印象を与える丸い銀縁の眼鏡と、ピンできちんと留められた髪。
ヒールを履かずともそれなりに背丈もあるところは異なるものの、髪の色や毛先をカールさせているところは白井に似ていなくもなかった。雰囲気はかなり違うが。
テレスティーナが黄泉川からマイクを受け取って、息を整えた。
「先進状況救助隊って……白井さん、知ってました?」
「いいえ。まあこの手の研究機関は山ほどありますし、その一つではありませんの?」
「えー、ただいまご紹介いただきました、先進状況救助隊のテレスティーナです。RSPK症候群とは、能力者が一時的に自律を失い、自らの能力を無自覚に暴走させる状態を指します」
スクリーンに『Recurrent Spontaneous PsychoKinesis(反復性偶発性念力)』という名称が示される。
この症候群そのものは、割と学園都市では有名だった。というのも能力発現とこれは裏表の関係だからだ。
超能力は普通の現実から人を切り離すことで発現する。
例えば佐天が能力発動に至った鍵である幻覚剤の投与、他にも五感の遮断などによって学園都市は超能力を開発する。
そして、これとは違う現実からの切り離し方として、子供にトラウマを植え付けたり、安定した庇護を受けられない環境に追いやりストレスを与えるといった行為が挙げられる。
このようにして不安定かつ暴走的な形で能力を発現させた子供の例は学園都市が出来る以前よりしばしば見られ、RSPK症候群の一種、いわゆるポルターガイストを発現させることが知られていた。
児童虐待と能力開発の関係は、反面教師として教職員には周知であり、また学生達も能力開発史の授業で学ぶことだった。
「RSPK症候群が引き起こす現象はさまざまですが、これが同時に起きた場合、暴走した能力は互いに融合しあい、一律にポルターガイスト現象として発現します。さらにこのポルターガイスト現象がその規模を拡大した場合、体感的には地震と見分けが付かない状況を呈します。これが今回の地震の正体ということになります。RSPK症候群が同時多発した原因については目下調査中ですが、一部の学生の間ではこの現象を具にもつかないオカルトと結びつけ、それによって集団ヒステリーなどが起き、被害が拡大することも考えられます。今回風紀委員の皆さんに集まってもらったのは、そのような噂を学生達が面白半分に広めないよう、注意を促してもらいたいからです。私からの発表は以上となります」
「今日の内容を後で各自の携帯端末に送っておく。風紀委員の皆にはそれを熟読してもらい、学生への周知を図ってもらいたい。……風紀委員の皆への用件はこれで終わりになるじゃんよ。何か質問はあるか?」
テレスティーナからマイクを受け取り、黄泉川が皆にそう尋ねた。
終わりとばかりに腰を上げ始める白井の隣で、一緒に座っていた固法が首をかしげていた。



「思いのほか、早く終わりましたね」
「警備員はこの後もミーティングなんですって」
会議室から退出した白井と初春、固法は各自の端末に届いた今回の一件の報告書にざっと目を通しつつ、外へと足を向けているところだった。
注意喚起は受けたものの、することは別段これまでと変わらない。受け持ちの場所のパトロールやその他の雑務をするだけだ。
「白井さん、これからどうします? 私、春上さんと佐天さんと御坂さんに合流しようと思うんですけど」
「私もご一緒しますわ。どうせ今日は非番ですし」
うーん、と白井が伸びをしたところで、視界の端に二人の男女が映った。
風紀委員の腕章をつけていないし、そもそも今退出を命じられた会議室のほうへと逆行している。
それを奇妙に思ってまざまざと観察すると、つい先日見覚えのある、ツンツン頭の高校生と修道服の少女だった。
「あれは……」
「え、上条君?」
「固法! ちょうど良かった。警備員の先生達ってこの先か?」
「え、ええ……。でもまだ会議は続くわよ」
「こんにちは上条さん、風紀委員の退出に合わせて短い休憩を取ってますから、今なら大丈夫かもしれませんよ」
「そうか、サンキュ」
当麻にとっては固法はそれなりに久々だったし初春もいたのだが、急いでいるらしく挨拶抜きの対応だった。その後ろをインデックスがペコリと軽く頭を下げながら追いかけていく。
事情をつかめない三人が怪訝な顔をするのを後ろに放っておいて、当麻とインデックスは黄泉川のところを目指した。
幸い、タバコを吸いに来た黄泉川を二人はすぐに見つけることが出来た。
「先生!」
「上条。どうした? 早く婚后のところに行ってやるじゃんよ」
「いや、光子の入院先を教えてくれてないじゃないですか」
「しまった、すまん」
合同会議もあってうっかりしていたのだろう。端末を取り出してサッと当麻に転送する。
「みつこ、大丈夫なの……?」
「先生はさっき別条はないって言ってましたけど」
「ああ。まあ……あんまり研究者の都合をぶっちゃけてしまうのもアレだけど、この一件でポルターガイストに巻き込まれた被害者は全部経過は良好で、最近じゃ入院なんてさせてないんだ。ところが婚后のやつがレベル4なのを知って病院側が目の色を変えてな。だから本人は元気そうだったじゃんよ」
「そうなんだ」
当麻の伝聞だけでは落ち着かなかったのだろう、黄泉川の説明でようやくインデックスがこわばった顔を緩めた。
「それじゃ、悪いけどあたしはもう戻るじゃんよ」
「忙しいとこすみません。ありがとうございました」
「おう」
休憩中に一服できなかったことに僅かにイライラしつつ、黄泉川は再び会議室へと足を向けた。
ぽん、と優しくインデックスの頭を撫でながら、当麻はすぐに光子のいる病院への経路を頭に描く。
『先進状況救助隊本部・先進状況救助隊付属研究所』という病院らしくない響きの施設に、光子はいるらしい。
「あの、上条さん。どうかしたんですか?」
「え? ああ、初春さん。いや実はさ、昨日の地震……っていうかポルターガイストなんだっけ、これ。とにかくそれが原因で光子のやつが入院してるんだ」
「ええっ? 婚后さんがですか?」
「ああ、それで見舞いの場所が分からなくて、聞きに来てたんだよ」
「警備員の先生に、ですの?」
「光子は来週から黄泉川先生の家でこいつと一緒に暮らす予定だからな。それで知ってるんだよ。……それじゃ悪いけど、早く見舞いに行きたいし、俺たちはもう行くわ」
「あ、はい。婚后さんによろしく伝えてください」
「ありがとう。それじゃ」
挨拶もそこそこに、二人はまた足早に、建物の外へと出て行った。
婚后光子とそりの合わない白井がふんっと息をつきながらこぼした。
「……いい殿方ですわね。肝心の付き合っている相手は好きになれませんけれど、上条さん本人の態度には好感が持てますわ」
「そうね。……にしても意外。上条君が彼女作って落ち着いちゃうとはねぇ」
「はぁ、よく女性にモテる人だったんですか?」
「うん。けどまあ、朴念仁だったからね、彼は」
過去を知る固法が嘆息した。






暇を持て余した病室で光子がまどろんでいると、不意にコンコンと扉が鳴った。
「光子、入るぞ」
「あ……」
夢と現の境目にいたせいで弱弱しい返事しか返せなかったが、当麻はこちらの反応を待たずに扉を開けた。
ベッドの背を高くして本を読めるような姿勢にしていたから、そのまま当麻と目が合う。
当麻が痛ましそうな目でこちらを見つめた。
「みつこ、みつこ……っ」
当麻の影からインデックスが飛び出してきて、ぼふりと光子の胸に飛び込んだ。
何も言わないインデックスに、そのままぎゅっと抱きしめられる。少し遅れて傍に立った当麻が、光子の頬に触れた。
「大丈夫か……?」
「あ、はい。その、別に何ともありませんのよ?」
「無理しなくていいんだぞ」
寝起きの頭を必死にしゃっきりさせようとしているのを、強がりと取り違えられてしまったらしい。
いつになく優しい手つきで、当麻が抱き寄せてくれて、おでこにキスしてくれた。
なんだか贅沢をしているような嬉しい感じ。だが同時に、どうも分不相応というか、自分の現状から乖離した余計な心配をさせているように思う。
「あの、寝起きでちょっとぼうっとしているだけですの。ごめんなさい」
「やっぱり昨日は、眠れなかったのか?」
「事情、お聞きになったの?」
「ああ、黄泉川先生からの又聞きだけど、ポルターガイストに巻き込まれたって」
「そうですわ。でも、他の人もそうですけれど、何ともありませんのよ」
「そうは言うけど……無理しちゃ駄目なんだよ、みつこ」
「ありがとう、インデックス。でも、今日は退院できませんから、インデックスの楽しみにしていた浴衣は着せてあげられませんわね。あと、エリスさんにもご迷惑をおかけしてしまいますわ……」
今日は予定では、光子と当麻、インデックスは夏祭りに出かける予定だったのだ。
インデックスには光子のお下がりを、そしてエリスは持参した浴衣を、それぞれ光子に着付けてもらう予定だったのだが、それも光子が入院となっては無理な相談だった。
ちなみに常盤台は夏祭りに出かけられるような門限にはなっていないので、黄泉川に監督を委任しつつも常盤台の寮に部屋を残した期間、要は引越しの猶予をちょうど今日からに設定していたのだった。
「仕方ないよ。みつこがこんなところにいるのに、お祭りになんて行けないし。エリスには連絡して、何とかしてもらうようにするから」
「ごめんなさいね。インデックスはお祭り、初めてなのにね」
「今日はずっと、ここにいるから」
絶対に離れないといわんばかりに、インデックスが光子の胸の中でそう宣言した。
それを可愛く思って微笑む。そして髪を梳いてやりながら、困ったことに思い当たった。
「あの、気持ちは嬉しいけれど、夕方になったら検査なんですの。それなりに時間がかかるそうですから、お二人を待たせてしまいます」
「そうなのか。それって夜まで会えないのか?」
「いえ、ここの面会は結構遅くまで大丈夫のようですから、夜にはお話できます。それに合わせて黄泉川先生は来てくださると仰っていましたけれど……」
「んー……それじゃあ、もしかしてちょうど夏祭りに行ってれば暇を潰せるのか?」
「ああ、言われて見ればちょうどその時間ですわ」
「よし、それじゃ晩飯はそこで摂ることにするよ。光子の分まで楽しんでくるから、申し訳なくは思わなくていいからな。まあ、俺たちが遊んじまった分の恨みは、後で聞くし、埋め合わせもするから」
「ふふ。私そんな狭量な人間のつもりはありませんわ。しっかり楽しんでいらして」
ちょっぴり保護者っぽい微笑を二人が交わしたところで、光子の携帯が音を立てた。
誰でしょうかと思いながら、光子はディスプレイに目をやる。佐天らしかった。
「もしもし、婚后です」
「あ、婚后さん。……その、電話大丈夫ですか?」
「ええ」
「昨日の地震で入院したって聞いたんですけど……」
「あら、情報が早いのね。お恥ずかしながら、そのとおりですわ」
「お体は大丈夫なんですか?」
「なんともありませんわ。医師の方が酷いことを仰いますのよ。レベル4でのポルターガイスト発現例は珍しいから調べさせてくれですって」
「はあ。それじゃホントに元気なんですか?」
「ええ。外因性のもので、私自身が心的ストレスを感じてポルターガイストを発現したのではありませんし、体調不良もありませんもの。病院食が美味しくないというのは本当につらいことですわね」
「よかった。元気ならそれが一番ですよ。それで、もし婚后さんがお暇だったら、みんなでお見舞いに行こうかって話になってたんですけど、どうですか?」
「暇……まあ、取り急ぎの用事はありませんけれど」
言葉を濁したその返事に、佐天はピンと来たらしかった。
「彼氏さんが来てるんですか?」
「え、えっ? あの、どうして」
「やだなー、素敵な彼氏さんだって婚后さん言ってたじゃないですか。もしかして今も隣で抱きしめてくれてたりするんですか?」
「そそそそんなわけありませんわ! もう、嬲るのはおよしになって」
思わず当麻のほうを振り返ると、はてなマーク付きの表情だった。今は当麻とのスキンシップは控えめだ。
だがそれはインデックスが抱きついているからであって、二人きりなら佐天の言に図星だったかもしれない。
「それじゃあ、夕方くらいに皆で行ってもいいですか?」
「あ、五時から検査ですの。ですからその前なら……」
「五時ですね。わかりました。そのときにみんな、ええと、私と初春と白井さんと御坂さんと、あとうちに転校してきて初春のルームメイトになる春上さんを連れて行ってもいいですか? 婚后さんに失礼かとも思うんですけど、転校したての春上さんを放っておくのも悪いし、それにお見舞いのついででアレですけど、夏祭りに行こうとも思ってて」
「かまいませんわ。佐天さんのお友達なら、またご縁もあるでしょうし」
そこで、ふと思い至る。
光子が元気そうだから気を使わないでくれたのか、これから夏祭りに行くことを教えてくれた。
それなら頼みごとを聞いてくれるかもしれない。
「そうそう、佐天さん。夏祭りって、服はどうされますの?」
「え? 浴衣をみんなで着ようかって」
「皆さん着付けられますの?」
「ええと、分かりませんけど私と御坂さんは大丈夫です」
「そう。……あの、お願いがあるんですけれど、着付けを二人前ほど追加で引き受けては下さいませんこと?」
「それは構いませんけど、誰のをですか?」
「私の連れのインデックスと、その友人のエリスさん……たしか盛夏祭でお会いしたんではありません?」
「あ、はい。わかります」
「あの二人の着付けをお願いしたいの」
「いいですよ」
良かった、と光子は安堵した。インデックスには最悪謝ればすむし埋め合わせも出来るが、連れのエリスは当麻以外の男性と逢引と聞く。
さすがにそんな一大イベントを控えた女の子に事情があるとはいえ断りを入れるのは心苦しかった。
もう二三言交わして、光子は佐天との電話を切った。
「浴衣、着付けてくれるって?」
「ええ。助かりましたわ」
「だな。エリスに申し訳ないと思ってたところだし。集合場所はどうしたらいいんだ?」
「ここは中心街から遠いですから、駅前のほうで都合をつけるのが良いと思います。佐天さんたちがここに来たら、当麻さんは落ち着きませんでしょう? その、追い出すようなつもりはありませんけれど、入れ違いでインデックスの服を取りに行ってくださったら……」
「わかった。気にしないでいいよ、光子」
優しい手つきでまた当麻が頭を撫でてくれた。
目を合わせると、軽いキス。
突発的な入院のせいで夏祭りデートは中止になってしまったが、心の寂しさは埋められた光子だった。






インデックスの浴衣を取りに黄泉川家へ戻ったあと、エリスと合流して当麻たち三人は光子に聞いた場所を目指す。
「ごめんね、上条君。彼女さんが大変なのに手間かけちゃって」
「いいって。浴衣着れなかったら垣根のヤツが可哀想だしな」
「む、私のためじゃないんだ」
「いや、そういう言い方するとアレだろ?」
エリスのために都合をつけた、という言い方をするとむーっと怒る女の子が二人ほどいるのだ。
現に隣で咎めるように当麻を見る銀髪の女の子と、ただいま入院中の当麻の本命が。
「ふふ。尻に敷かれてるね、上条君」
「それくらいがいいんだよ。俺と光子は」
「とうまはすぐ他の女の人と仲良くなるんだもん。怒られて当然なんだよ」
「ひでえ。そんなことないだろ。……っと。ここらしいな」
柵川中学の学生寮。どうやら目標はここのようだった。詳しい場所は分からないから、当麻は光子に教えてもらった番号に電話する。
「はい、もしもし」
「あ、佐天さん、かな? 上条だけど……」
「こんにちは。もうこちらに来てらっしゃるんですか?」
「ああ。寮の目の前にいる」
「ちょっと待ってくださいね。……あ、いたいた、こっちです。おーい」
途中から声が電話じゃなくて直接聞こえるようになった。見上げると浴衣姿の佐天が手を振っていた。髪を結っていて、可愛らしい。
……もちろん当麻はそんなことを口には出さないが。
佐天は身軽にタタッと階段を下りてきてくれた。
「鏡があるし、私の部屋に案内しますね」
「サンキュ。それじゃあ、二人は着替えてきてくれ」
「はーい。とうま、変な人に声かけられちゃ駄目だからね」
「ふふ。インデックス、彼女さんみたいだよそれ」
「ち、ちがうもん! 私はみつこの代わりに怒ってるだけ」
「それじゃ、あの、佐天さん。着付け、お願いするね」
「よ、よろしくおねがいします……」
「はい。任せてくださいな」
フランクながら丁寧な感じのするエリスのお願いとは対照に、インデックスのは敬語慣れしていない子供の挨拶みたいだった。
それに苦笑いしつつ、当麻はインデックスに浴衣とインナーの入った手提げを渡してやった。
「そういや他の子はいないのか?」
こちらの女子メンバーも光子の見舞いからもう帰ってきているはずだった。
「あ、白井さんと御坂さんは寮の門限をこっそり破るらしくて、今は一旦帰ってます」
「こっそりって、大丈夫なのか? 常盤台なんて厳しそうだけど」
「白井さんはレベル4の空間移動能力者<テレポーター>ですからね」
「へー」
「あと、初春と春上さんって子は自分たちの部屋にいると思います」
「そうなんだ」
盛夏祭で会いはしたが、肝心の演奏はほとんど聴いていなかったので美琴とは微妙に会いづらい。
というか、先ほどの光子が受けた電話の辺りで、ようやくこのメンバーと美琴が知り合いだと知ったところなのだった。
またいずれ、きちんと自分が光子の彼氏なのだと、一応言っておかねばなと思う当麻だった。
もちろん美琴に対してではなく光子に対しての気遣いとして。

佐天に連れられて階段を上るエリスとインデックスを見送る。さすがにこの距離なら変なアクシデントも生じない、と思った矢先。
慣れない荷物のせいでつま先を階段に引っかけて、すってーん、とインデックスがこけた。
当麻も何度も見た事のある、白い綿のパンツが夕日に照らされた。
……何度も見たことがあるのはその、偶然と不幸の成せる技であって決して自分に負い目はないと当麻は思っている。
「とーーーうーーーーまーあああああああ!! ばかばか! こっち見なくていいんだよ!」
「す、すまん!」
……つい見てしまうのは実は当麻のスケベ心のせいなのは、当麻自身気づかないようにしていることなのだった。


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