<検証>
東日本大震災発生から1週間。菅直人首相は官邸に泊まり込んで「戦後最大の危機」の陣頭指揮を執った。18日の記者会見では東京電力福島第1原発の危機を乗り切る「決死の覚悟」を強調した。だが、官邸が24時間態勢で原発対応に追われる中で、実態がなかなかつかめなかった被災者支援が後手に回る事態へと陥った。
首相退陣論も広がる中で明けた11日朝、首相の外国人献金問題が発覚。政権の致命傷につながりかねない政治的危機は間もなく発生した大震災でいったん棚上げになったが、国全体が原発事故の大惨事に見舞われた。
「逃げるな!」
首相が怒りを爆発させたのは翌12日午後。同原発1号機の水素爆発から1時間以上たって東電から通報が届き、首相は電話越しに東電幹部を怒鳴りつけた。「こんなことをやっていたら会社がつぶれるぞ」と責任の共有を求めたが、その後の対応は「専門家の東電に任せる」(首相周辺)という判断をした。
だが、事態は好転するどころか、水素爆発は3号機でも発生し、惨事の連鎖が始まる。同原発からの「全員退去」を打診してきた東電に首相が乗り込み、統合連絡本部を設置し「日本と東電の運命は一体」(政府筋)の態勢を構築したのは発生から4日たった15日。与野党から「対応が遅すぎる」との批判が上がった。
首相は16日、面会した笹森清内閣特別顧問に「福島原発が最悪の事態になったときは東日本がつぶれることも想定しなければならない」と語り、首相として原子力事故と戦う巡り合わせへの思いがしばしば「歴史的使命」という言葉となって首相の口をついた。
しかし、思いだけでは組織は動かない。首相が局面の打開を託したのは北沢俊美防衛相だった。
北沢氏が首相からの電話で呼び出されたのは16日午前、防衛省での記者会見中。大量の物資輸送作戦に加え、爆発事故が相次ぐ中、3号機の沸騰状態の使用済み核燃料プールの冷却化に自衛隊が上空から散水する作戦が検討された。
「やらせてください」。17日、防衛省作戦センター・中央指揮所にいた折木良一統合幕僚長が北沢氏に電話で伝え、間もなくしてCH47Jチヌーク2機が史上初の「原発冷却作戦」へと飛び立った。放射性物質との戦いという危険な任務だったが、「危険を顧みずというのが我々のスピリットだ」と自衛隊幹部は決意をにじませた。
だが、18日、東京消防庁や東電との統合作戦を率いるに至って自衛隊には不満も漏れた。自衛隊は作戦の指揮拠点となる「最終調整所」を現地に設けることを決定。しかし、具体的な協力態勢は定まらず、自衛隊に明確な「指揮権」はないままだ。統幕幹部は「最後は自衛隊が泥をかぶれということか」と憤った。
原発事故対処に振り回される政府の危機管理に懸念を持った民主党は手薄となった被災者支援へと動いた。
「枝野(幸男官房長官)さん、疲れているね」。17日の政府・民主党連絡会議で輿石東参院議員会長は話しかけた。原発と被災者支援の2正面作戦が官邸の能力の限界を超えているとの危惧があり、「秘策」を披露した。
「仙谷由人代表代行を官房副長官にしてはどうか」。官邸も提案を受け入れ「首相は原発、仙谷さんは被災者支援に特化する」と役割分担した。この官邸増強策を政府関係者は「官房長官2人体制だ」と漏らした。
対応が遅れた背景には府省間の調整不足も目立ち、民主党政権が掲げる政治主導の機能不全も指摘された。枝野氏は18日、大震災発生後初めて各府省の事務次官を集め、連携して被災者支援に取り組むよう指示した。【須藤孝、犬飼直幸、坂口裕彦、吉永康朗】
毎日新聞 2011年3月19日 東京朝刊