福島第1原発の相次ぐ重大事故を受け、福島県内の被災者は避難先を転々としている。雪が舞う厳しい寒さの中、避難指示圏や屋内退避圏から逃れてきた人たちは、行方不明者の捜索が原発事故の影響で滞っていることにも焦燥を募らせる。
原発が立地する「浜通り地方」の北部に位置する相馬市の旧相馬女子高には、津波で自宅を失った人らが当初、避難してきた。だがその後、原発事故で避難を強いられた人が増えている。
原発から10キロ圏の浪江町幾世橋(きよはし)で電気工事業を営む志賀好(よしみ)さん(75)は夫婦で15日、同高に避難した。原発事故の深刻化で避難先を転々とし、ここが5カ所目となる。
別の場所に行くことも考えたが、県境の街にとどまった。後ろ髪をひかれるのは、南相馬市小高区に住む娘婿や中学1年の孫娘ら親族3人の行方が分からないからだ。消防団が担っていた捜索活動は小高区が避難指示圏(半径20キロ)に入り、再開のめどが立たない。
いら立ちをのみ込むように、志賀さんは言った。「身内を捜してもらえないのが一番つらい。ずっと我慢しているが、原発の事故が繰り返されなければ、いろんなことが進んでいるかと思うと……」
南相馬市原町区の会社員、高野操(みさお)さんも原発事故を受けて15日、3カ所目の避難所となる旧相馬女子高に移った。地域住民で行方不明となっている人は多い。携帯電話で自ら撮影した古里の被害の様子を見つめながら「みんな困っている」と漏らした。
同じ避難所に逃げてきた同市原町区高の宮本マツイさん(85)も目尻のしわに涙をにじませて語った。「娘が見つからねんだ。原発のことがなければ、もっと捜せたのに……」
見渡す限りがれきと泥の海になった同区萱浜(かいばま)に住む次女の草野幸子さん(56)とその夫は11日の津波で行方不明になった。家は流され、車はひっくり返った状態で見つかった。キーはささったままだった。「必死で逃げようとしてたんじゃないか」。宮本さんはそう言って声を詰まらせた。
自宅も停電したため、近くの中学校へ避難。避難所を回って幸子さんの名前が避難者名として張り出されていないか探し続けた。だが、15日の4号機での水素爆発を受け、20~30キロ圏に屋内退避指示が出されると、30キロ圏内だった萱浜地区でも、捜索の動きが止まってしまった。【岡田英、太田誠一】
毎日新聞 2011年3月17日 東京夕刊