「聖書ものがたり・EZRA AND NEHEMIAH(エズラ・ネヘミア記)」
エズラ・ネヘミア記・教団国家の発足
I WILL BRING THEM AGAIN TO THIS LAND.わたしには王とその参事官,そのすべての優れた高官の好意を受けるようにしてくださった。わたしは,わが神なる主の御手の加護によって勇気を得,イスラエルの中でわたしと共に上がって行こうとする頭を集めた。(バビロンから上がって来た人々)アルタクセルクセス(Arutaxerxes)王の治世にわたしとともにバビロンから上がって来た家長と,その家系は次の通りである........(エズラ記第7章27節,8章1節途中)
CYRUS KING OF BABILON(558-529BC)。
主がモーゼによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見いだした。イスラエルの人々は第七月の祭りの期間を仮庵で過ごさなければならず,これらを知らせ,エルサレムとすべての町に次のような布告を出さなければならない。「山に行き,オリーブの枝,野生オリーブの枝,ミルトスの枝,なつめやしの枝,その他の葉の多い木の枝を取って来て,書き記されているとおりに仮庵を作りなさい」(ネヘミア記第8章14〜15節)
彼らは七日の間仮庵(Booths)に住まなくてはならない。The Feast of Tabernacles(仮庵祭)のラテン語であるTabernaclesはVulgate(ウルガタ聖書)をヘブライ語の意味である仮庵と翻訳した。これはモーゼがイスラエルの民をエジプトから連れ出し砂漠を40年間彷徨ったことに因んでいる。「あなたたちは七日の間,仮庵に住まねばならない。イエスの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは,わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したと,彼らを仮庵に住まわせたことを,あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神,主である」(レビ記第23章42節)
SECOND TEMPLE BUILT IN JERUSALEM(516BC).エルサレムの神殿に帰った翌年の第二の月に,シェアルティエルの子ゼルバベル(Zerub-babel・この名前は聖書に23回登場する)とヨツァダクの子イエシュアは彼らの他の兄弟たち,祭司とレビ人,および捕らわれの地からエルサレムに帰ってきたすべての人と共に仕事にとりかかり,20歳以上のレビ人を主の神殿の工事の指揮に当たらせた。(エズラ記第3章8節)
金杯20個1000ダリク,良質の輝く青銅の器(VESSELS OF FINE COPPER)2個,これは金に等しい貴重品であった。(エズラ記第8章27節)(注:レバノンでよく見かけるがパレスチナにはなかった。エルサレムの青銅は(上の写真)その形はヘブライの時代から伝統的なスタイルで出来ている。)
町は二方向に大きく広がっていたが,その中に住む民は少数で,家屋は建てられてはいなかった。.......捕らえ移された先から上って来たこの州の人々は,次のとおりである。バビロンの王ネブカドネツァルによって連行されたが,それぞれエルサレムとユダにある自分の町に帰ったものである。(ネヘミア記第7章4,6節)
絵:Ernest Normand.さてその頃(注:エステルがAhasuerusの王妃になった頃),モルデカイ(Mordecai)が王宮の門に座っていると,王の私室の番人である二人の宦官(カンガン=去勢された役人)ビグタンとテレシュが何事かに憤慨し,クセルクセス王を倒そうと謀っていた。(エステル記第2章21節)
Darius(423-404BC),Artaxerxes(465-425BC),の時代このようなラクダのキャラバン隊が一般的でSUSAは王の道の起点として栄えた。。ネへミァ(Nehemiah)がArtaxerxesの許可を得てスサからエルサレム間をこのようなキャラバンで移動していた様子は想像できる。13マイル半ごとに休憩所や宿泊所があった。
『スーサ(Susa, 古代ペルシア語: Šušim, 聖書ヘブライ語: שושן Šûšan, ギリシア語: Σέλεύχεια, 近世ペルシア語: شوش Shūsh)は、現在のイランの西南部に位置し、エラム王国時代、アケメネス朝ペルシャ時代には、王都として栄えた都市。現フーゼスターン州シューシュ。
スーサは、アクロポリス、アバダーナ、王の都市、技師の都市の四つの遺構からなる。1901年には、ルーブル美術館に保管されているハンムラビ法典碑も発見された。アパダーナは、ダレイオス1世によって建設され、冬の宮と呼ばれた宮殿の謁見の間跡である。
スーサの歴史は古く、アクロポリスからは紀元前4000年にまで遡る神殿跡が発掘されている。紀元前30世紀から紀元前7世紀に跨がるエラム王国の首都であったが、紀元前644年にアッシリアによって破壊された。しかし、アケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世が王宮を置き、王の道の起点として再び栄えた。アケメネス朝ペルシャ崩壊後は忘れ去られ、歴史の表舞台から姿を消した。
ヘブライ語ではシュシャンとなる。伝説的人物であるダニエル書の主人公ダニエルの墓とされるもの(シューシュ・ダニエル)がある』(Wiki)
The Dung Gate was repaired by Malkijah son of Recab,ruler of the district of Beth and Hakkerem.He rebuilt it and put its doors and bolts and bars in place.(糞の門を補強したのはべト・ケレム地区の区長レカブの子マルキャである。彼はそれを築き上げ,扉と金具とかんぬきを付けた)(ネヘミア記第3章14章)
古代エルサレムはオフェル(OPHEL=The City of DAVID)に立っていた。人々はモリア山に建てられた頂上の寺院まで歩いてゆかなければならなかった。このジャングルのような道はTyropoeon,あるいはValley of Dungと言う。Ophelの西に少し行ったところにDung Gateはある(現在の写真はここ)。これがネヘミア記で書かれている門であるが現在の門のロケーションとは異なる。
ハマン(HAMAN)がエステルのいる長いすに身を投げかけているところへ,王宮の庭から王が酒宴の間に戻って来た。王は言った。「わたしがいるこの宮殿で,王妃にまで乱暴しようとするのか。」この言葉が王の口から発せられるやいなや,人々はハマンの顔に覆いをかぶせた。(エステル記第7章8節)
またそのころ,ユダで,人々が安息日に桶の中でぶどうを踏み,穀物の束をろばに負わせて運んでいるのをわたしは見た。また,ぶどう酒,ぶどうの実,いちじく,その他あらゆる種類の荷物も同じようにして,安息日にエルサレムに運び入れていた。そこで,彼らが食品を売っている日に,わたしは彼らを戒めた。(ネヘミア記第13章15節
Ramlehの近く聖書的な場所であるLODは熟練工の住むところでもあり,LYDDAの人口のほとんどがムスリムである。
ベニヤミン(BENJAMIN)の一族が住んだのは,ゲバ,ミクマス,アヤ,べテルとその周辺の村落,アナトト,ノブ,アナネヤ,ハツォル,ラマ,ギタイム,ハディット,ツェボィム,ネバラト,ロド(LOD),オノ,ハラシムの谷である。レビ人のうち,ユダにいたある部分は,ベニヤミンに移った。(ネヘミヤ記大11章31〜36節)
ヨセフス(YOSEPHUS)はエズラが死んでエルサレムに埋葬されたとする立場をとるが,ユダヤ人の古い伝説ではバビロニアに戻され,そこは,ティグリス,ユーフラテス川の流れるところであるとされる。「エズラはイスラエルの神なる主が授けられたモーゼの律法に詳しい書記官であり,その神なる主の御手の加護を受けて,求めるものをすべて王から与えられていた。.....諸王の王であるアルタクセルクスは,天にいます神の律法の書記官,祭司エズラに心からの挨拶を送る。(エズラ記第7章6,12節)
Jaffa Gateから歩いて寺院街に行くとそこはダヴィデ通りである。この写真はイスラエル建国前であるが車類は一切いない。
アケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世の王宮跡。
エステル(ESTHER)が王妃についた記念碑入り口。XERXES(Ahaasuerus)がPersepolisの神殿の入り口前に造ったとされる。
民は皆,水の門(Water Gate)の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは(注:モーゼの)書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーゼの律法の書を持ってくるように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持ってきた。そこには,男も女も,聞いて理解することのできる年齢に達したものは皆いた。第七の月の一日(ついたち)のことであった。(ネヘミア記第8章1〜2節
ネヘミアがこの再建された地に住んでいたころ商人はロバの背中にに魚,衣類,果実にいたるまで一杯背負ってエルサレムに売りにきた。
(エズラがモーゼの律法を読み上げるとネヘミアは大衆に言った)『行って良い肉を食べ,甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には,それを分け与えてやりなさい。今日は,我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ,あなたたちの力の源である。』(ネヘミア記第8章10節)

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