2009/8/15
「タイタニック号沈没の陰謀」
プロトコールはライオネル・ロスチャイルドが書いたことはその筋の人から確認できましたが上の言葉は大変重要な意味を持つ。つまり前の記事で書いたようにユングの(いう恐怖感という)プシコィド(精神物質)を中枢神経にインプットさせ脳に記憶させるためには人々を一年中不安にさせヒステリー状態にさせておかなければならない。そのためにありとあらゆる手段を使っているわけです。
1983年2月12日プーラン・デヴィは投降しましたが(女盗賊プーラン下巻より)プーラン・デヴィは言います。「ある意味では,みな,怯えながら生きているのだった。だから脅しが一番効く。相手が暴力に頼るなら,こちらも暴力的になればいい」,と。そして言う。「ものごとがよくわかった人たち,読み書きができて,英語がしゃべれる人たちに,わたしは法廷で哂われていた。彼らに比べれば,わたしは獣に等しかった。同じカーストの貧しい人たちがみなそうであるように,わからないことにぶつかるとただ驚き,怯えるだけだった。怖いこと,信じられないことから,ひたすら逃げて身を守ろうとする。無知というのは,飢餓と同じくらい残酷なことだと,わたしはこのとき思い知ったのだ」,と。
フランスの高等教育や米国のウエストポイントに見られるエリート校は中国の「科挙」に基づいている。日本の旧帝大もそれを真似たと思われるが「知識のコントロール」だけの教育は今も昔も変わらない。トインビーの言うように質を上げなければ何にもならない。人材の材は材料の材だが人財とは明らかに違う。日本ではどこへ行っても人災が多いのは絶望的でもある。究極において個を貫けないという要素によるものです。貫けないから相手を裁こうとする。自分を常に安全地帯に置いておく。金になる食扶ちばかり求める。人間が幸福になる,あるいは,立派な社会人になることを阻害している要因を取り除かない。やればできるのに。
国民の魂を救おうとするならば,大衆教育の水準を高めて,それを受けた者が,少なくとも,営利主義とプロパガンダの低級な形態にひっかからないようにすることが,唯一の方法である。<歴史の研究著者:アーノルド・トインビー>
他人に依存した教育はそれはそれですが本当の教養とはそういう学歴とはもっとも遠いところにあるのです。それは自分の過去を常に振り返り自分を変えてゆく,それが教養です。
つまり無知は犯罪に近いものであり人々が獣(ゴイム)にならないために様々な知識を身につければ驚き,怯えることはなくなるということでしょう。そうなればオカルトの悪魔主義者たちの狂気の論理は元々何ら論理的基盤をもっていないためその論理は一切通用しなくなる。カーストの差別は思考原理として脳にインプットされているため彼らを助けることは出来ないことをムンバイ(旧ボンベイ)に行ってよく理解できた。
ムンバイのスラム街での女性。スラムの人たちより低い最下層のカーストかと思いきや彼女は物乞い(この写真は管理人の撮ったものではありません)。こういう男女は山ほどいる。通りかかると手を出し金をせびる。バンコックなどでもライ病患者で地面を這っている物乞いがロビンソンデパートの前を縄張りとしている。ムンバイもタイなども決まった時間にブローカーが連れてきてまたどこかへ連れ去ってゆく。人は同情と哀れみと慈悲の心と優越感から金をくれることを熟知しているかのようだ。
カール・ポパーの言葉「開かれた社会」を思い出してみよう。『智慧の木から食べた者には,天国は失われたのですから,調和のとれた自然状態への復帰などというものありえない。もしわれわれが引き返すならば,われわれは道のりを全部行かなければならない。われわれは野獣に帰らなければならない。
それはどんなにわれわれが真っ向から取り組むのが困難であっても,そうしなければならない問題である。われわれが子供時代へ帰ることを夢見るならば,他人に依存して幸福でありたいという誘惑に駆られるならば,われわれの十字架すなわち人間らしさと理性と責任の十字架を担うという課題にしりごみするならば,勇気を失い圧迫にたじろぐならば,そのときにはわれわれは目の前にある単純な決定を明瞭に理解して,自分を強くするように努めなければならない。
われわれは,野獣に帰ることはできる。だが,人間であり続けたいと望むならば,そのときには唯一の道,開かれた社会への道があるのみである。われわれは安全および自由の両者のためのよい計画を立てるために,持ち合わせの理性を用いて,未知と不確実と不安定の中進み続けなければならない』と。生徒のジョージ・ソロスは米国に渡り成功を収めた。
こういう抗議行動はイルミナティ(ルシファーを崇拝するオカルティスト・悪魔主義者)の存在というプシコイドを中枢神経にインプットするのに役立つ。人々はその闇に畏れ慄くという筋書きだ。
GIGA SCANDAL
消えた200億ドル
英国サザンプトン港を出発直前のタイタニック(Titanic)。1912年4月5日のグッド・フライデイ。(翌週の月曜日はイースター・マンデイに当たる)
タイタニックの所属するホワイトスター社のオーナーがJ.P.Morganと聞いてピーンと来た人は相当な通である。FRB創設者の一人であるからだ。FRBのFederalとは連邦ではなくFederal Expressと同様なんの意味もない民間機関のPrivate Bankである(株主は殆どがロスチャイルド系銀行でロスチャイルドはマネー・サプライをコントロール出来れば世界を支配出来ると考えた)。これに関しては省力する。 彼らはその後スイスのバーゼルに1930年BIS(Bank for International Settlement・国際決済銀行)を創設したが現在国際金融資本家の拠点でもある。しかし将来の世界統一(New World Order=NWO)に備えて1973年5月に欧米15カ国239の金融機関がSWIFT(Society for Worldwide Interbank Financial Telecommunication・国際銀行間通信協会)を設立した(非営利団体)。現在は日本の約42行を含む1000以上の金融機関を結ぶ。本部はベルギーのブリュッセル。
ここにはビースト(666)と呼ばれる世界最大のスーパーコンピューターがあり米国のモルモン教会本部とつながっていると元イルミナティから聞いた記憶がある。でも何のために?であるが,SWFTの隠された目的は,世界統一の暁には世界中をWWWする(World Wide Webつまり世界を蜘蛛の巣状にする)ための世界統一通貨の決済機関になる予定だ。米国のモルモン教会内部で行われている悪魔的な儀式の様子は聞いたことがあるが何とも言いようがない。ここはCIAである。その背後にはDVD(DEUTSCHE VERTEIGIGUNGS DIENST)であるGerman Black Intelligenceがいる。本部はミュンヘンのDACHAUである。
ここに世界を破滅に導くDVD本部があるとは信じられない。本部の場所は地図にはない。ミュンヘン郊外の静かな町DACHAU。
左上にあるWestern Sugarの役員にはブッシュSR,コロンビアの麻薬王とされるノリエガ将軍,イラン・コントラ・ゲート事件で知られFEMAの中心人物オリエ・ノースがいる。みなさんグルなのですよ。
Western Sugar はG・W・BUSHからG・WをとりG・W・Sugarとなっている(社名はWestern SugarからGreat Western Sugarに変更)。麻薬取引で得た金はグループでマネー・ロンダリングされる。砂糖袋の中身は何?酒井某夫婦が使用していた合成麻薬はつい最近まで自動販売機で売っていたものだ。ミャンマーと英国王室とのXXの関係も結局は闇に葬られている。スーチーさんが監禁されているのはその闇を知っているからで夫は英国MI6である。
彼らはユダヤ人ではない(では純粋な血統をもったユダヤ人とはモーゼの子孫と言われる。しかしMではじまるマリア,ミトラなど架空の話ですから血統などは信じてはならない)。アシュケナージ・カザール人であり祖先はアングロサクソン(蛮族のチュートン人でアングル人とサクソン人の集合体)系ヒッタイト人と思われる極めて悪知恵のきく獰猛な肉食人種である。表面はユートピアをうたっているが実はそうではないことは何回も記事にした。表のユートピアとは人類に世界的な幸福を与えるというものですが国際金融資本家である彼らの裏にはある潜んだ意図があるわけです。一言で結論づければ神話・宗教を利用し神が全てを支配することで人間の責任を減少させ代わりに醜い犯罪が神の名の正義のもとに正当化される。つまりこれがディアレクティック(弁証法)の正・反・合である。
Mではじまるの解説『(管理人注)聖母マリアとは乙女座の乙女=Virginのことでラテン語では乙女はVirgin(聖母)=VIRGO THE VIRGINという。古代エジプト文字では乙女座はMと記される。だからマリアを含むその他の聖母マイラ(MYRRA)=アドナスの母やマヤ(仏陀の母)MOSES,MANOU,MINOS,MISESなどがいる。そういえばミトラもMだ。また乙女座とは”パンの家”を意味しまたベツレヘムとは”パンの家”という意味である。それは天空の乙女座の場所をさしており地球上の場所ではない。イシスとホロスもシュメール神話からくるおとぎ話だ。その MOSESもおとぎ話であるので正統派ユダヤ人はモーゼの子孫という理屈は成り立たない』。
ロックフェラーセンターにある666のマーク。このブログの読者は666が何を意味するか分かったと思います。実際こういうのを見るとプッW。
またまたプッW.ロックフェラーセンタービルの前にあるプロメテウス像。つまりユングのいうプシコィド(精神物質)を中枢神経にインプットさせようとする魂胆が見えるが当のロックフェラーは100ドルの現金もポケットには入っていない。このビルの56階に入っているクーン・ロエブ商会(ロスチャイルド家の代理人)に財布の紐をばっちりと握られていて気の毒だ。
これもプッWWだな。93歳のパーキンソンの老人の戯言でしょうね。クーンロエブと交渉してお小遣い上げてもらうのが先決でしょうか。自分の持っていた豚の堵殺場を国連本部のために寄付したことは一応評価しましょう。
タイタニックで思い出しましたがWTC7のことです。同じ日の忘れたころに制御解体爆破し莫大な保険金を掠め取ったのは記憶に新しい。さらにその解体業者はブッシュ一族であるというサモシサである。わが国民主党のある愚かな議員が国会で9.11の真相を究明した。かつて沖縄の米軍キャンプ・普天間近辺で少女が米兵に強姦される事件が起こりたった一人の少女のために普天間は閉鎖となり数万人という基地で働く従業員が路頭に迷った。これと同様日米の関係悪化がもしあるのならば路頭に迷う人は天文学的になるだろう。日本の舵取りは現在はこれでよい。一日16億円の海上無料ガソリンステーションは保険みたいなものであり,ノーと粋がって岩手に人工地震(クリック)を仕掛けられた民主党の党首は国益を守るさじ加減を知らない。能ある鷹は爪を隠すである。日本は水爆以上の奥の手を持っている。それは米国債である。うまく米国を脅せばよい。サイクス・ピコ協定のようなものが政治の世界なのである。政治は面子ではないことを知るべきだ。鳩山さんは「政治は愛である」なんて........!!
我がほうの洋上無料ガソリンスタンドに有料で給油するシェブロン
祖先はコイサンマンかホッテントットか知りませんが元シェブロンの重役だったとのことで......この程度で悪魔(DEMONS)の支配(CRACY)する国際社会(DEMOCRACY)とうまくやって行けるのならば安いものです。
サイクス=ピコ協定とは次のようなものである。(イギリス側:マーク・サイクス フランス側:ジョルジュ・ピコが委員として1916年5月16日に成立した)
1.南は今日のレバノンから,ダマスカス,アレッポの線を繋ぎ,さらに北してイスケンデロン湾を囲む地中海沿いの海岸地帯と,奥はティグリス河上流一帯から遠くアルメニアに接するあたりまでを含む地域,これを青色に塗って「青色帯」と称し,フランス統治下に置く。
2.バグダッドの北からペルシャ湾に至るティグリス,ユーフラテス流域,これは「赤色帯」としてイギリス統治に予定された。
3.アラビア半島部に「A帯」「B帯」を設定して,ここにはアラブ人の独立国家を許すにしても,A帯はフランス勢力下に,B帯はイギリス勢力下に,それぞれ置く事を決定した。A帯はアレッポとガリラヤ海をつなぐ線を底辺とし,モズルの東,ペルシャ国境を頂点とする。横に倒れた三角形の地域であり,B帯は西はガリラヤ海,死海,ガザ,アカバをつなぎ,東は赤色帯に接する北部アラビアの大部分を包括する地域である。
4.ところがその後,英仏側はこれをロシアにも示して,その分け前として青色帯の北につらなり,黒海岸のトレビゾンドからグルジア,アルメニアに接する一帯を与えることを約束した。
5.青色帯のアレキサンドレッタ港(現在のイスケンドロン)は自由港とする。
イギリス,フランスは七面鳥の両翼をとり,ロシアは胸をとった。(アラビアのロレンス改訂版47,48,49ぺージ)
「われわれの新聞全体では・・もちろん、憲法が存続する間での話だが・・およそ考 えられるどんな傾向も・・貴族的、共和国的、革命的、さらには無政府主義擁護的な ものまでも・・持っているだろう……インドのヴィシュヌ(VISHNU)神の像のように、これらの 新聞は百本の手を持っていて、その一本一本の手が世論のどれか一つに指を触れる。 脈拍が早くなると、これらの手はわれわれの目的に向って世論を導く。熱に浮かされた患者は理性の判断力を失い、暗示にかかり易くなるのである。自分たちの陣營の新聞の意見を述べていると思い込んでいる阿呆どもは、誰ぞ知らん、われわれの意見や われわれが望んでいる見解をオウム返しに唱えているだけなのである。自分の党派の意見に従っていると虚しくも信じつつ、実際にはわれわれがかれらに広げている旗に従っているだけのことなのである」<シオンのプロトコール第12章>。
アングロサクソン系ヒッタイト人の宇宙観・世界観はインドの古代叙事詩「ラーマーヤナ」に見ることが出来る。
『ラーマーヤナ』(Rāmāyana、サンスクリット:रामायण)は、『マハーバーラタ』と並び称される古代インドの大長編叙事詩。全7巻。「ラーマ王行状記」の意味。サンスクリットで書かれており、その長さは48,000行に及ぶ。ヒンドゥー教の神話と、古代英雄であるコーサラ国のラーマ王子に関する伝説をまとめたもの。活躍する人物は全てクシャトリヤであり当時のクシャトリヤ勢力の台頭を反映している。詩人ヴァールミーキの作とされているが、実際には紀元3 世紀ごろに多くの民間伝承を彼が編纂したものとされる。数多くの絵画、彫刻、建築、演劇、映画、ドラマ、音楽、舞踏などの題材とされており、インドおよび東南アジア一円に深く浸透している。(Wikiから)
古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」((Rāmāyana、サンスクリット:रामायण)は、『マハーバーラタ』と並び称される古代インドの大長編叙事詩)には,アルガタ(地底世界)からの使者の一人であるラーマが一種の空挺に乗って飛来する場面があるが,この空挺はおそらく空飛ぶ円盤であろう。シナの伝説にも,聖なる導師(グル)が空飛ぶ乗り物で現れる話がある。インカ帝国の始祖マンコ・カバックも,地底から現れたと伝えられる。
(管理人注:ラーマーヤナともう一つの叙事詩「マハーバーラタの記述」において、「遠い昔、未知の力、例えば原子力に通じていた文明が存在していたが、使い方を誤り滅んだのだと私は信じている」と、記している。しかし、創作の場合でも登場人物が神だけに核兵器に匹敵する能力が描写されていたとしても不思議は無いというのが一般的な考え方である。 なお、インドには実際に核爆発でガラス化した砂と思われるものが古い地層から見つかっていると主張する者も居る)
タイタニック身代わり説:
J. P. モーガンの子会社である船会社ホワイトスターが、外観が全く同じ新品のタイタニック号と古いオリンピック号をすり替え、経営不振からの脱却のために、保険金入手目的でタイタニック号(実際に「事故」に遭ったのはオリンピック号)を氷山に衝突させ沈没させたという陰謀説。その真偽はともかくとして、陰謀動機と実行可能性、そしてそれを裏付けるかに見えるいくつかの状況証拠は、非常に興味深い
原文はここ
タイタニック号には様々な謎がつきまとう
以上のようにタイタニック号は多数の犠牲者を出し、幕を閉じた。しかし、タイタニック号沈没の影には様々な謎がつきまとっている。ここではその主なものを紹介したい。
タイタニック号の真の所有者「J・Pモーガン」
J・Pモーガンはタイタニック号の真の所有者である。それは、ホワイトスター社が既に彼の子会社として吸収されていたからである。当初、彼はタイタニック号に乗る予定であったが、急遽中止し、船には乗り込んでいない。彼の知人ら55人も同様に直前にキャンセルしている。まるでタイタニック号沈没のシナリオを知っていたかのように…
消えた「双眼鏡」の謎
実はタイタニック号には双眼鏡が無くなるという事態が起こっていた。もし、事故の際、双眼鏡があれば氷山を回避できたはずだったが…
無視された氷山警告
タイタニック号は航海途中、数回の「氷山警告」を他の船から受信していた。しかし、乗船していたホワイトスター社の社長「J・ブルース・イズメイ」はその警告を開示せずに隠していた。彼は事故後、生存者706人のうちの一人となる…
スミス船長の不可解な行動
タイタニック号の航海上の責任者である船長「スミス」は事故後不可解な行動を取っている。それは、特別階級の人々に挨拶に出かけたことだ。スミス船長はタイタニック号沈没に関する重要な鍵を持っていたと思われるが、船長自身は船に残ることを決心した。
救助活動に関する謎
タイタニック号は事故後、遭難信号を発信した。信号は多くの船が受信に成功していた。しかし、実際に向かうことを決めたのは四隻で、救助活動を行ったのは1隻だけであった。実は、救助活動を行ったカルパチア号より早く到着できる船も存在していたのだ。
3.タイタニック号沈没の真相
多数の犠牲とともに、多数の謎を残したタイタニック号の沈没の真相には一体何が隠されているのだろうか。実は、タイタニック号は出航前に数回、船内で火災を起こしている。また、先ほど紹介したように船から双眼鏡が消えていたことも不審な点である。最初に紹介した「タイタニック号の軌跡」という内容は生存者からの話からによるものであるが、見張り役の二人はホワイトスター社に買収されていたという説も挙がっている。実際には、30分前には氷山発見の報告をブリッジに対して行っていたというのだ。しかし、これについては真相を確かめるすべはなかった。それは、見張り役が自殺してしまったからだ。また、事故当時、数回の氷山警告に対して、行った行動は、速度を遅くするどころか、最速の速度で航行していたことも大きな謎である。これには北大西洋の最速記録を作りたかったという説もあるが、もともとタイタニック号は豪華客船ということに重点を置いており、設計上、速度を重視していた作りではなかった。事故後、ホワイトスター社は多額の保険金を受け取ることになるが、この保険金に関する話として、もともとタイタニック号は沈没させる計画であったという説が浮上し、注目を浴びた。当時、タイタニック号には姉妹船として内装・食器類までもが全く同じオリンピック号という船が存在した。しかし、オリンピック号は事故を起こし、修復したものの、耐久性能は格段に下がっていた。そこで、経営不振を考えた会社は外観が全く同じタイタニック号とオリンピック号をすり替えたというのだ。これは容易なことで、船名の部分の塗装を変更をするだけで済む作業であった。仮に、これが事実ならば以下のようになる。「タイタニック号の塗装を変更し、オリンピック号と称し、逆に事故を起こしたオリンピック号をタイタニック号とした。そして、経営不振のため、保険金を手に入れるためにタイタニック号(オリンピック号)を氷山に衝突させた。この際に、タイタニック号の真の所有者「J・Pモーガン」は子会社であるホワイトスター社の表向きの社長「J・ブルース・イズメイ」をタイタニック号(オリンピック号)に乗船させ、事故をさせるように仕向けた(J・ブルース・イズメイは救助された)、また、その際に氷山を発見されると計画が失敗する恐れがあるために双眼鏡を隠し(または、見張り役を買収し)、また、真のタイタニック号の所有者「J・Pモーガン」は自分の身の安全を考え、急遽キャンセルした。この際に、同時に知人など55人もキャンセルした」というシナリオが出来上がる。もし、これが事実ならば、単なる大きな事故ではなく、保険金目当ての無差別大量殺人である。
3.不思議なエピソード
実はタイタニック号には幾つかの不思議なエピソード(逸話)が存在する。その中でも特に不思議といわれている一つが「ミイラ」と関係したエピソードだろう。盗掘者達がエジプトのピラミッドからミイラを掘り出し、その最中に多数の盗掘者がもがき苦しみながら死んでいった。記述として「ピラミッドの墓荒らしには神が裁きを下すだろう」といわれている通り、多数の盗掘者たちは「私は神の裁きで呪われたのだ」と叫びながら命を落としていったといわれている。その後、そのミイラの所有者となった者は次々に原因不明の死に至り、最終的には大英博物館が引き取ることになった。大英博物館の館長は呪いを信じておらず、まさか誰一人として死ぬ者はいないと考えていた。そんな最中、館長にある緊急の連絡が入った。それは移送していた船が沈没したという連絡だった。館長は「絶対沈まない船だと言ったじゃないか…」とつぶやいたという。そう、この「絶対沈まない船」というのが今回扱ったタイタニック号だったのだ。そのため一部では、日頃から冷静沈着とされていた「タイタニック号の艦長は呪いにより取り乱していた」と噂されるようになった。そのミイラは海に沈んだタイタニック号から引き上げられ、現在、大英博物館に収められている…
タイタニック (客船)<以下はWiki>より
船歴
船籍 イギリス
所有 ホワイト・スター・ライン
母港 リヴァプール
発注
起工 1909年3月31日
進水 1911年5月31日
命名
処女航海 1912年4月10日
その後 1912年4月15日に沈没
性能諸元
総トン数 46,328トン
排水量
全長 269.1 m
全幅 28.2 m
全高 10.5 m
吃水
機関 スコッチ式ボイラー24基補助5基、
レシプロ4気筒エンジン2基、
蒸気タービン1基、50,000hp(37 MW)
推進器 混成3軸、3枚羽スクリュー推進、
速力 23ノット(42.6km/h)
定員 船客数:1等329人、2等285人、3等710人
乗組員数:899人
タイタニック(RMS Titanic)は、20世紀初頭に建造された豪華客船。
1912年4月14日の深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没。乗員乗客1,513人(※1,490人、1,517人、1,522〜23人など様々な説がある)が犠牲となり、当時世界最悪の海難事故となった。その後、映画化されるなどして世界的にその名を知られている。
概要
タイタニックはイギリスのホワイト・スター・ラインが北大西洋航路用に計画した3隻の旅客船のうちの2番船であった。姉妹船にオリンピック、のちに病院船として運行されたブリタニックがある。トーマス・アンドリューズによって設計され、北アイルランドのベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフで建造された、当時世界最大の客船である。タイタニックの正式名称は『R.M.S.(Royal Mail ShipまたはSteamer)Titanic』。
造船計画
タイタニック号の造船計画は、20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長・ピリーが、1907年、ロンドンのメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ラインのイズメイ社長に大型客船3隻の造船計画を発案したことに始まる。
「不沈船」
建造中のタイタニック号 船尾スクリュー
1等船室用のレセプション
プロムナードデッキ
タイタニック(黒地)と他の乗り物との比較ホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社であった。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。また、安全対策にも力が入れられており、防水区画が設けられていた。
船体は喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっており、隔壁は船橋(ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。そのためタイタニックは「不沈船」として喧伝されていた。実際、船の構造は現在から見てもかなり安全なものである、との指摘もある。しかし、完全密閉された区画でなく、上部メインデッキにおける全区画が吹き抜けでつながっていたことにより、無傷であった区画にまで次々と多量の浸水がおこり、沈没を決定づけてしまったことも事実である。
「オリンピッククラス」
先述通り、タイタニックには1年先立って竣工した姉船・オリンピックと、妹船・ブリタニックが存在した。これはドル箱航路であり、他社との競争も激しい北大西洋を航海する際に1隻では賄いきれない為、最低2隻を常に交代させる必要があった為である。客船3隻の先駆けとしてオリンピックの造船が開始され、ほぼ同時期に2番船タイタニックが、少し遅れて3番船ブリタニックの造船が開始された。
ブリタニックはタイタニック沈没により大幅に造船が遅れ、安全面も大きく見直され再設計されるものの、第一次世界大戦勃発により病院船として徴用、商船として一度も使われないまま沈没した。一方オリンピックは輸送船として徴用されたが、無事戦火を潜り抜け客船として復帰、1935年まで現役を勤め引退する(詳細はオリンピック (客船)とブリタニック (客船・2代)を参照)。
タイタニックはオリンピックとほぼ同時期に造船が開始された事もあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室のサービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つであった。映画「タイタニック」では、まるでタイタニックのみが最も巨大な船であるかのように演出されていたが、当時はオリンピックがその代表であり、タイタニック、ブリタニックという2隻の姉妹船を含め「オリンピッククラス」と呼ばれていた。その為、タイタニックの写真としてオリンピックが使われる事が度々行われていた。つまりタイタニックは二番煎じであり、当時はオリンピックの陰に隠れた存在であった。
オリンピックとの差違点
しかし、先立って運行されていた一番船オリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックとは多少異なってきた。例えばAデッキの一等専用プロムナードデッキ(遊歩道)の窓がオリンピックは全体が海に対しベランダ状に吹さらしとなっていたのに対し、タイタニックは、中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取り付け半室内状にした。これは北大西洋の強風から乗客を守る為であり、結果タイタニック号はオリンピック号よりもすっきりとしたスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となった。
他にも、オリンピックはBデッキの窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックの設計図からはBデッキのプロムナードデッキが廃止され、代わりに窓際全体に1等船室を新たに設けるように変更された。その結果、1等船室の数がオリンピックとは比べられない程増え、オリンピックには無い専用のプロムナードデッキがついたスイートルーム(映画「タイタニック」のヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設計される事になった。
「世界最大の客船」
当初両姉妹船の重量は同じになる筈であったが、客室の数が増えた為に最終的にタイタニックの重量はオリンピックの45,324tよりも1,004t重い 46,328tになった。厳密な意味で言えばタイタニックはオリンピックを越し、当時確かに世界最大の客船であったと言えるだろう。しかし、陰に隠れていたタイタニックの知名度が上がるのは皮肉な事に沈没事故の後であり、悪い意味によるものだった。
タイタニックの遭難地点 1912年4月15日
タイタニックと接触して沈没の原因となったと考えられている氷山。タイタニックの破片と同じ赤い塗料のようなものがこびりついていた。氷山の規模は写真からは分からない
船体(hull)と氷山(iceberg)の衝突状況
衝突しそうになったタイタニック、ニューヨーク1912年4月10日、イギリスのサウサンプトン港からタイタニックは処女航海に出航した。その際、タイタニックのスクリューから発生した水流によって、客船ニューヨークと衝突しそうになった。E・J・スミス船長以下乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せていた。フランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウンに寄港し、アメリカのニューヨーク港に向かった。
ただし出航の際、双眼鏡の収納ロッカーの鍵の引き継ぎがなされないまま鍵を持った船員が退船してしまったため、ロッカー内にある双眼鏡を取り出せなくなった。そのため、双眼鏡を使わずに肉眼で見るしかなくなった。これがのちに致命的な影響をもたらす一因となる。
同日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニックは4月14日に6通の警告通信を受理している。しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、タイタニックの通信士たちは旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。
4月14日23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。ただし前述の通り、双眼鏡は使えなかったので、発見したときには手遅れだった(タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。氷山はその10% 程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い)。
回避行動
タイタニックは22ノット(約40.7km/h)という高速で航行中だった。氷山の発見後、同船は回避行動をとりまず左へと舵を切ったが、衝突までには40秒とかからなかった。
このとき、左へ舵を切ると同時にエンジンを逆回転に入れ衝突数秒前船舶の操船特性である「キック」を使うため右へ一杯舵を切る。ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。「速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」という説もあるが、あくまで結果論である。そもそも衝突時にはかなりの速力が出ていたことが予想されるため、舵効きに影響はなかったようである。船首部分は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。氷山は右舷にかすめ、同船は停船した。
衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず船体の傷はせいぜい数インチ程度で、損傷幅を合計しても1m²程度の傷であったことが後の海底探索によって判明している。
だが、右舷船首のおよそ90メートルにわたって細長く生じた損傷は船首の5区画に浸水をもたらした。これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ、船首から船尾に向かって浸水が拡大、同船は船首よりゆっくりと沈没をはじめた。
沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。もしタイタニックが氷山に正面から衝突していた場合、浸水した防水区画は一部の狭い範囲にとどまる(タイタニックは船体を区画分けして、その4区画までの浸水では沈没しない設計になっていた)ことになり、沈没を免れた可能性もある(結果的には衝突を回避しようと舵を切り中途半端に方向を変えたことが仇になった)。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で分かっている。
タイタニック船長・スミスは海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、ほぼ効果なく徒労に終わった。日付が変わった4月 15日0時15分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか20kmほどの距離に停泊中の貨物船・カリフォルニアンがあったが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。およそ90km離れたところにいた客船・カルパチアが応答し全速で救助に向かったが、船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没後の4時であった。もし、スミス船長が機関停止せずにカルパチアに向けて航行する決断をしていれば、実は沈没前に両船は会合することが可能だった[要出典]、とも言われているが、船体に穴が開いた状態で航行を続ければ、抵抗で破損部がめくれあがって浸水量も増え、より早く沈没しただろう。
ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中からCQDに代えて使用したが、SOSを世界で初めて発信したとする説は誤りである(1909年6月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。
脱出・救命
沈没するタイタニック Willy Stöwer画
カルパチアに近づく救命ボート沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。しかし、当時の英商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要が無く(規定では978人分)、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。また定員数を乗せないまま船を離れた救命ボートも多く(定員65人乗りのボートに、70人乗せてテストしたという説があり、その結果浮いてはいられたが推進もバランスも不安定というデマが乗員の間に流れていた)、中には定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。
結局、多くの乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音と共にタイタニックの船体は2つに大きく割れ(海中で3つに分裂)、ついに海底に沈没した。沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側にしがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった1艘しか溺者救助に向かわなかった(左舷14号ボート)。そのボートは救助に向かう為、再編成をしたロウ5等航海士が艇長のボートであった。しかし、彼が準備を整えて救助に向かった時は既に遅かった。結果、海に投げ出された人々は気温、海水温が低かったため、低体温症などでほとんどが短時間で死亡したと考えられる。低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したとする意見もある。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。
影響
最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると、この事故での犠牲者数は1,513人にも達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。
この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加、「1914年の海上における人命の安全のための国際条約」(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)として採択された。また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。
沈没したタイタニック 2003年6月、ロシアのMir I潜水艇の外部カメラによる画像唯一の日本人乗客
タイタニックには唯一の日本人乗客として、ロシア研修から帰国途上の鉄道院副参事であった細野正文が乗船していた。鉄道院副参事はおおむね現在の国土交通省大臣官房技術参事官に当たる役職。細野は音楽家・細野晴臣の祖父にあたる。
なお、細野について、1997年、ジェームズ・キャメロン監督の映画『タイタニック (1997年の映画)』公開前の、産経新聞10月29日夕刊において、以下のような捏造とも言える間違った報道がされ、その内容が広く世間に流布された。
有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長い間着せられた。このことは「恥ずべき日本人の行為」として第二次世界大戦前の日本の小学生向けの教科書にまでも取り上げられたが、細野は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。
死後の1941年になって、本人が救助直後に残した事故の手記が発見され、その後1997年には細野とその白人乗客が別の救命ボートに乗っていたという調査報告がなされたため、名誉回復されることになった。
だが、ジャーナリストの安藤健二が一次情報から再調査すると、上記の内容はまったくの間違いで、この件に関して欧米人からの人種差別的中傷は無かったことがわかった。(『新潮45』2007年3月号に発表。のちに、安藤の著書『封印されたミッキーマウス』(洋泉社 2008年5月刊行)に収録。)
外国人の著作で、細野を非難している表現はみつからなかった。産経新聞の報道では、「ローレンス・ビーズリーの手記で非難されている」とあったが、その手記が収録されている本、ジャック・ウィッカー編『SOSタイタニック号』(恒文社)のビーズリーの手記の原文にそのような記述はなかった。また、「週刊大衆」1970年2月12号に「ウォルター・ロードの本で細野が非難されている」という記事が掲載されているが、該当書、ウォルター・ロード『タイタニック号の最期』(ちくま文庫)の原文にも、細野への非難はなかった。
また、上記「週刊大衆」の記事では、細野の「名誉回復」運動をしていた子息の細野日出男が、「アメリカ留学をした際に、大学図書館などでタイタニック関係の記事を徹底的に読んでみたが、日本人を非難する記述はみあたらなかった」とある。
なお、「1997年の調査で、ビーズリーと細野が別の救命ボートに乗っていたという調査報告」は、ほぼ事実だと考えられる。
「細野を非難した日本の教科書」も発見されなかった。安藤は、日本有数の教科書図書館である「東書文庫」で、当時の教科書をしらみつぶしに見たが、細野を批判しているものは、みつからなかった。また、図書館職員に尋ねると「以前もそういう問い合わせがあって、調べたのだが、みつからなかった」という回答だった。唯一みつかった教科書では、「タイタニック号の沈没」という文章があり、船に残った者たちを褒め称えていたが、細野に関しては「日本人も一人いたが、これが幸いにも助かった。鉄道員の官吏だということである」と、あっさり触れているだけだった。
安藤がさらに国会図書館でしらみつぶしに調べると、1916年に新渡戸稲造が細野を批判した文章、木村毅が洞爺丸の事故直後の1954年に、細野を批判した文章がみつかった。つまり、「細野を批判したのは日本人のみ」であり、外国人からは細野は非難されていなかった。なお、新渡戸も木村も、「男性であったのに、甲板から救命ボートに飛び乗る」という、「非武士道的な行動」を非難していた。
なお、海外視察を終えたばかりのエリートである細野は、帰国の翌年に鉄道院から免官され、嘱託になっているのは事実である。安藤は推測として、新渡戸や木村のような「非武士道的な行為」という批判が多かったのだろうと、書いている。
なお、細野の日記によると、「女・子供優先であるため、自分も死ぬものと覚悟していたが、たまたま、目の前のボートから『2人分の空きがある』と声がかかった。男性が一人飛び込んだため、闇夜だから男女の区別もわからないだろうと、銃で撃たれる覚悟で、自分も続いて飛び移り、助かった」とある。つまり「自分がルール違反を犯している」という自覚が細野にはあった。
『SOSタイタニック号』では、細野が乗船していたとされる10号ボートについて、「婦人から、船底に男が二人いると告げられ、二人をつかまえて、一人をひきずり出すと日本人であった」という記述があるが、他の東洋の国の人間の間違いなのは明白である。また、『タイタニック号の最期』によると、男性生存者は欧米人であっても帰国後、「卑怯者」と非難され、ブルース・イズメイ社長は妻から離婚されている。
また、『タイタニック号の最期』によると、「卑怯なまねをしたのは、中国人、日本人、イタリア人、フランス人、アルメニア人だった」という生存者の証言があったことが記載されているが、著者のロードはそれを「疑わしい」と書いており、「”アングロサクソンの勇気”という偏見が、この事故により姿を消した」と書いている。つまるところ、ロードによる人種差別的な記述は一切ない。
また、安藤の取材では、1997年の「産経新聞」の記事は、映画『タイタニック』の話題づくりのために、制作会社FOXから持ち込まれた「美談」であった。あらかじめ映画会社側から結論ができていたため、記者は「一次情報」にあたることなく、「二次情報」と1997年当時の関係者に取材して、記事が書かれた。
なお、細野が救助直後に残した事故の手記はタイタニック号備え付けの便箋に書かれたものであり、沈没後に残された数少ないタイタニックグッズとして第二次世界大戦後に欧米のコレクターの間でかなり評判となったが、細野の遺族は譲渡の申し入れを丁重に断っている。
一等特別室は、6日の航海の費用4,350ドル。
オルゴール
タイタニックにはオーケストリオンと呼ばれるオルゴール(複数の楽器の音を出し、オーケストラの様な演奏を行うオルゴール)を積み込み、使用する予定だったが、製作が出航に間に合わなかった(代わりに楽器奏者が乗ることになった)。タイタニックで使用されるはずだったオーケストリオンは現在、オルゴールの森美術館(山梨県富士河口湖町)に展示されている。
沈没後のタイタニック
1985年9月1日、海洋考古学者ボブ・バラード率いるアメリカ海軍の調査団は海底3,650mに沈没したタイタニックを発見した。このとき同軍は沈没した原子力潜水艦スレッシャー (USS Thresher, SSN-593) とスコーピオン (USS Scorpion, SSN-589) の調査が主目的であった。2004年6月、バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としている。
海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第三煙突の真下当たりで引き千切れており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて確実に立証された。深海はバクテリアの活動が弱い為船体の保存状況は良く、多くの木彫り内装が残っていると思われていたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為バクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。
しかし当初船体は叩きつけられるように海底に落下し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラス全てが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っていた。また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いていた。
客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップは沈没時の衝撃や90年以上の腐食に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれている。この事から船首部分は海底に叩きつけられたのでは無く、船首の先端から滑る様に海底に接地したと思われる。一方船尾部分は海底に叩きつけられ、大きく吹き飛び見る影も無い。なお、現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化され、2100年頃までに崩壊消滅する見込みである。
陰謀説
「船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めた」とする「陰謀説」がある。
説の「根拠」として、タイタニック号を管理していたのはホワイト・スター・ライン社であったが、その事実上の所有者はホワイト・スター・ライン社に出資していた国際海運商事の社長であるJ・P・モーガンであった。そのモーガンはタイタニック号のスイートルームに乗船予定だったが、直前に病気を理由にキャンセルし、代わりに別の大富豪の夫妻が乗船することになったがこの夫妻もキャンセルし、結局ホワイト・スター・ライン社の社長であるブルース・イズメイ氏がこの部屋に収まった。しかし病気のはずのモーガンは、同時期に北アフリカからフランスにかけて旅行をしていたことが後になって判明しており、しかもキャンセルした客の中にモーガンと非常に深いつながりがある人々が数名いることも判明しているため、「モーガンはこの処女航海中に何か起こることを知っていたのではないか」とするものである。
また、モーガンはタイタニック号で運ぶはずだった私的な貨物も、直前に運ぶことをキャンセルしている(「タイタニック号は沈められた」より)。しかし本人が乗船をキャンセルしたこともあり、それに伴い私的な貨物を同時にキャンセルするのは当然であるという意見もある。また、乗船キャンセルの原因となった「旅行」の目的自体が何であったかは明らかになっていない上、上記のように、この事故はスピード記録の達成を狙ったスミス船長の無理な運航と見張りの不徹底による予知しようのないものであったことから、この「説」は「陰謀説」の域を出ないものである。なお、タイタニック号への乗船を直前にキャンセルしたのは50人を越すとされているが、これを証明するものはない。
他にも「運んでいたミイラによる呪い説」も有名で、生存した船員が『船長はいつもと違い氷山の警告を無視した。性格も変貌し、船のスピードアップに躍起だった』と「スミス船長に異常があった」と証言しているが、これについては「ミイラの呪い」との関連性を証明するものは何もない上、スミス船長の態度がいつもとは違うのは、「処女航海で大西洋横断のスピード記録を出すためであった」という説が有力である。
乗組員
タイタニックの主な乗組員
船長:エドワード・ジョン・スミス - この事故により没(自らの意思により船と運命を共にする)。
航海士長(副船長):ヘンリー・ティングル・ワイルド - この事故により没。
1等航海士:ウィリアム・マクマスター・マードック - この事故により没(実際は乗客を撃っておらず、自殺もしていない)。
2等航海士:チャールズ・ハーバート・ライトラー - 転覆したB号ボート→12号ボートにより生還。
3等航海士:ハーバート・ジョン・ピットマン - 5号ボートにより生還。
4等航海士:ジョセフ・グローヴス・ボックスホール - 2号ボートにより生還。
5等航海士:ハロルド・ゴッドフリー・ロウ - 14号ボートにより生還。
6等航海士:ジェームズ・ポール・ムーディー - この事故により没。
機関士長:ジョセフ・ベル - この事故により没。
バンドマスター:ウォレス・ハートリー - この事故により没。実際は乗組員という身分でなく、2等船客として乗り込んだ。
乗客
イジドー・ストラウス(犠牲者の一人、アメリカの実業家)
ジャック・フットレル(犠牲者の一人、アメリカの小説家)
ベンジャミン・グッゲンハイム(犠牲者の一人、アメリカの実業家)
ハリー・エルキンズ・ワイドナー(犠牲者の一人、アメリカの図書収集家)
ウィリアム・トーマス・ステッド(犠牲者の一人、イギリスのジャーナリスト)
細野正文(生存者の一人、日本人唯一の乗船者)
フレデリック・キンバー・スワード(生存者の一人、アメリカの弁護士)
ミルヴィナ・ディーン(唯一現在存命の生存者、最年少の乗船者。遭難当時2ヶ月)
バーバラ・ウェスト・ダニントン(2007年没。最後から2番目の生存者。遭難当時11ヶ月)
リリアン・アスプランド(2006年没。事故の記憶のある最後の生存者で、最後のアメリカ人生存者。遭難当時5歳)
エヴァ・ハート(1905年〜1996年 生存者のうちの一人。遭難当時7歳)
ルース・ベッカー・ブランチャード (1899年〜1990年 生存者のうちの一人。遭難当時13歳)
モリー・ブラウン(1867年7月18日〜1932年10月26日)生存者のうちの一人。コロラド州 実業家の妻 キャメロン映画ではキャシー・ベイツが演じた。第37回アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたデビー・レイノルズが 「不沈のモリー・ブラウン」で同婦人を演じた。<WIKI>より
Quai d'Orsayにあるフランス外務省。この写真は記事には関係ありません。
『おれは一体なんという人間なのだろう。信介の体のなかで息苦しい快感と,真っ黒な絶望感とが同時にふくれあがり,今にも破裂しそうだった。それは彼が性に目覚めた少年時代から,ずっと信介につきまとって離れない,一つの鎖のような絶望感だった。それに突き当たるとたちまち心が醒めてくるのだ。いままでの情熱が,霧につつまれたようにぼんやりと薄らいでゆき,いいようのない脱力感が体の奥までひろがりはじめる。(一匹の黒い犬がおれの中に棲んでいるみたいだ)。その黒い犬は赤い舌をだし,いつも濁った赤い目でじっと信介をみつめていた』。<五木寛之青春の門・放浪篇>より
子どもは性について親に話はできない。親だからこそである。松下幸之助や本田宗一郎などは学校へ行っていない。成功したのはそれだけ早く性と向き合い目覚めたからであろう。小人閑居して不善をなす,では駄目なのよ。 しかしこれならいいでしょう。ただし13歳未満閲覧禁止。。ストリップでもスッポンポンになったら後は見るものがないのと同じです。本当の教育は知ること。モザイクでは駄目です。そういう困難なハードルを乗り越えてこそ,その結果高い精神性が得られるのです。なんでもそうでしょうがこれは永井荷風の論理でもありかつてのフランスの文部大臣アンドレ・モローの哲学でもあるのです。。表面は奇人変人を思わせていただけです。
サルトルとボーボワールの「別れの儀式」やサルトルの「存在と無」は性という命題に向き合ったものです。
フランスではその気がないのなら男性からの夕食の誘いを受けてはいけません。また自宅に男性を入れて犯されたといって訴えても裁判所は相手にしてくれません。 性に偏見をもっていますとEMANCIPATEDな人間には絶対になれません。EMANCIPATEとは感覚の封印が解け自己を開放するということ。
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