2009/8/14
「沈黙のヨハンネス その3」
S.キルケゴールは、多くの仮名著作を書き、これを美的・倫理的段階における「左手著作」と呼び、それと同時に、宗教的段階におけるキリスト教講話、つまり「教化的講話」と呼ぶ右手著作を実名で出版し、著作の出版にも精神の弁証法を用いてきた。後にも先にも、こうした綿密な計画で自らの思想を表明した者は彼以外にはおらず、それだけに、彼の思想の全体像を捕らえるのは簡単ではなく、特に、当時のデンマークの人々も、そしてその後の彼の思想を哲学的に理解しようとする人も、キリスト教講話をあまり顧みることはなかった。
キルケゴールのキリスト教的講話は、全部で86にも及んでいるが、キルケゴール自身、「私は右手で教化的講話を差しだし、左手で美的諸著作をさしだした。−そしてすべての人は、右手で私が左手でもっているものを掴んだ」と指摘している通りである。
右手著作は、彼が実名で出版した著作であり、彼の真意が込められた著作である。だから、彼の思想の全体を知ろうとする時には、右手と左手の両方の著作を見なければならない。従って、たとえば「アンチ・クリマクス」という仮名で出された『死に至る病』は、同年に出版された『野の百合・空の鳥』と表裏一体の関係の中で理解されるべきものである。講話のキルケゴールは、実に、素朴に、そして深みをもって語りかけるキルケゴールである。
キルケゴールの研究家であるラウリーは、「すべての匿名の著作(アンチ・クリマクスを除いて・・というのは、この匿名はキルケゴール自身の立場よりも高いキリスト教の立場に立つ者として用いられているから)が、キルケゴール自身がすでに越えた立場を反映しているのに対して、実名で書かれた場合には、キリスト者になるという途上で、彼がその時々に到達した立場を正確に言い表すように細心の注意が払われている。彼は、実際にはまだ獲得していない結果、あるいは「二重の反省」によって個人的に自分のものになっていない結果を、自分で誇ることがないように細心の注意を払っているからである。
これは、自分の思っている以上のことを言おうとする誘惑に、実際にいつもさらされている説教家たちに推薦されるべき誠実さの一例である。」と指摘する。このラウリーの指摘は、真にその通りであろうと思う。
『野の百合・空の鳥』で取り扱われている2編の『講話』のうち、第一部は、『三つの敬虔なる講話』と題されて、『死に至る病』と同年の1849年に著されたものである。そして第二部は、それより2年早い1847に著されたものである。このいずれも、『マタイによる福音書』に収録されているイエス・キリストの「山上の垂訓」と呼ばれる教えに従って、野の百合と空の鳥を人間の正真正銘の教師として受け取り、それに人生の道を徹底的に学ぼうとしたものである。
キルケゴールがここで取り上げた「山上の垂訓」の一節は、「思い煩い」について語られたもので、「自分の命のことでなにをたべようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(新共同訳 マタイ6章25節)という言葉で始まり、「空の鳥を見なさい。・・・野の花がどのように育つのか、注意してみなさい」と続くものである。そして、この2編の講話の間で、キルケゴールは、1848年の春に『異邦人の思い煩い』と題する講話を出版している。これも、同じ聖書の言葉から、特に、食べ、飲み、着ることを切に求めるものが神を知らない異邦人の願いであるという言葉からの学びである。キルケゴールが『死に至る病』として絶望についての書物を書くことを考えたのが1848年の春であり、これらの講話はそれと同時に書かれているのである。
恐らく、キルケゴールは、1847年から49年の3年間に、一方では人間の精神の絶望についての思索を深めると同時に、他方では「思い煩いからの解放」を示す聖書のこの箇所に強く捕らえられ、このイエスの教えがいかに深い人生の深みを与えるものかを体験したに違いない。
自然は人間の教師である。いや、自然を人間の教師と見なし、ここから何事かを学び取ろうとする者は、魂の謙遜な者である。そして、謙遜な魂をもつ者に謙遜な言葉が響く。イエスは自然を教師として指し示す。そして、この短いイエスの言葉から、キルケゴールは深く豊かな思索を展開する。
1847年に書かれた『第二部』は、三つの節からなっている。第一節では、まず始めに、労せず紡がないにもかかわらず、栄華を極めたソロモンでさえ、その装いが及ばないようにして美しく開く野の百合と、蒔かず刈らず倉に収めないにもかかわらず、十分に養われている空の鳥を直視することを語る。そして野の百合の美しさと空を飛ぶ鳥の姿の背後に、百合を育て、鳥を養われている神の摂理を見出し、これへの驚きが語られる。自然は、実際に人間の教師となる。そして、自然を教師として受け取る魂の謙遜さは、そのまま生の謙遜さに繋がる。小さな野の花や風や夜空の星の瞬きに心を躍らせ、その懐に身を置こうとするとき、人は「思い煩いの日々」から解き放たれる世界の入り口に立つ。ナザレのイエスが人々に「野の花を見なさい」といって、野の花を指し示し、人々の目が野の花に向けられることそれ自体が、もうすでに、解放への入り口に立つことを意味している。
キルケゴールは、そこでの驚きを語る。そして、野の百合や空の鳥と同じように神に養われている人間存在の素晴らしさを自覚して、人間であることに満足するように促す。そして、人間がこの根本的な人間のあり方に気づかず、それに満足を見出していないのは、人間が相互の比較によって、自分の不幸に思い煩うからである、と指摘する。
キルケゴールは、ここで、自分の美しさを忘れて、もっとも美しい百合になろうという思い煩いの中で滅びた一本の哀れな百合や、毎日何不自由なく養われていることを忘れて、将来の生計が保証されている家鳩をうらやみ、それになろうとして殺された一羽の哀れな山鳩の物語を創作し、物語る。
「思い煩い」は、まさに、自分が不幸であるという感覚から訪れる。「足りないもの」を数えるところから訪れる。そして、この不幸の感覚が不幸を生む。キルケゴールは、こうして人間の陥っている思い煩いの空しさを明らかにする。そして、人間であることに満足するというのは、自己が被造物であるということに、つまり、自己自身を自らの手で創造することも維持することもできない被造物であることに満足するということである、と言う。
これは、「もつこと」ではなく「もたないこと」を喜ぶということである。「できること」ではなく「できないこと」を喜ぶということである。これを喜ぶことができる心は、「委ねた大きな安心」の中で生きることそのものを喜ぶ。
現代人は「所有すること」が「豊かであること」だと錯覚してきた。何かを獲得し、何かを得、何かを自分のものにすることを望み、ぶくぶくと肥え太ること、自分が所有したものに囲まれて生活することが「豊かである」と錯覚し、その思いに比例して「思い煩い」も増大させてきた。自己の富・才能・能力に依存していること、それこそが隷属であり、苦渋に満ちた奴隷状態であることを、彼は説く。
第二節は、人間であることの素晴らしさを明らかにする。キルケゴールは、人間であることの素晴らしさは、人間が神の似姿として造られていることに表現されていると言う。百合がいかに美しくても神に似ているのではない。鳥がどんなに空高く飛んだとしても、鳥は神の似姿を取ることができない。百合や鳥に意識があるのかどうかはわからないにしても、人間が神に似るということは、意識を所有していることに現れ、意識において永遠的なものと時間的なものが触れあっているのである。
だから、一面では、思い煩いは、この意識の作用でもあり、それ故、思い煩うことができるということも、人間の素晴らしさを示すものでもある。そして、人間が神に似るのは、「祈り」においてであるという。支配者や王、権力者は、自分の支配が神のようになることを願い、支配者としての神の似姿を取ろうとする。
しかし、支配することによって神に似ようとするなら、人間は自己の富や才能や能力に隷属する奴隷となり、ますます神から遠ざかることになる。人間は「祈り」において神に近づくのであり、それ以外の方法で、人間から神に至る道はない。永遠的なものと時間的なものは、「祈り」において交差する。
そして、「祈り」は、自己自身や他者を支配しようとすることによってではなく、それらすべてを「委ねる」ことによって、「祈り」となるのである。
第三節は、人間が約束されている浄福が問題とされる。人間の浄福は、人間に自由な選択が許されていることに基づいており、その自由な選択による「正しい選択」によって実現される、とキルケゴールは言う。
人間は、神か富かを選択しなければならず、この選択に、思い煩いから解放されるのか、それとも、いつまでも、思い煩いの中に留まるのかがかかっている。思い煩うことができるということが人間の証であると同時に、そこからの解放の道を選択することができる自由も、人間には与えられているのである。自由を、「肉の働きの機会」とするのではなく、「自分の救いの機会」として用いること。これこそが自由の本来的意義であるに違いない。
1849年、つまり、『死に至る病』と同年に書かれた第一部は、「第二部」として先に書かれたものと同じ聖書の言葉を取り上げながらも、さらに思索が深められて、ある意味で透明化しているとさえ言えるものである。キルケゴールの本領は、ここにあるのかもしれない。ここでキルケゴールは、野の百合と空の鳥から、「沈黙」と「服従」と「歓喜」を学ぼうとする。
第一節は、「思い煩うな」という教えの後で語られている「先ず、神の国とその義を求めよ」という聖句が問題とされる。「神の国とその義を求めることは」、彼に言わせれば、職を求めることでも、貧しい人たちに持ち物を与えることでも、伝道に赴くことでもなく、神の前に無となること、すなわち沈黙することである。
通常、人が求めることは何だろう。居・食・住、つまり生活に関係すること、美味しい物を食べ、住み心地の良い家に住み、きれいに着飾ること、経済的な安定と快適な暮らし、人から良く思われ、自分を愛してくれる人がいること、あるいは愛する対象があること。私たちは何を求めているだろうか。たとえば「神の国」や「天国」、「あるべき社会」や「理想」、「ユートピア」も、私たちはその延長で考える。だが、まず求めるべきこととして示された「神の国とその義」は、「沈黙」である、という。これは、キルケゴールの深く鋭い認識である。
もし、神と人間が語りうるとしたら、ちょうど神の顕現に接したモーセが、おもわずひれ伏して恐れたように、畏れとおののきの中でだけ起こることである。そして、「聖なるもの」への畏れとおののきは、声を殺して沈黙させてしまうものである。人間のいっさいの思いと言葉と行いは、ただ「沈黙」の中に置かれる。
正しく祈る者はそのことを知っており、こうして祈りは沈黙に帰着し、さらに傾聴へと深められる。祈りは沈黙の瞬間である。
「沈黙」は、ただ単に言葉を発しなかったり、黙ることではない。黙っていても心の中で饒舌であるものを「沈黙」とは呼ばない。あるいは、沈黙は何も考えないことでもない。沈黙は、いつでも、「受け入れること」と忍耐の中で自分を無化することである。キルケゴールは、野の百合や鳥の姿は、この沈黙の姿を私たちに教えると言う。
どんな嵐や苦難の中にあっても、野の百合は沈黙している。(もちろんこれは物理的なことを言っているのではなく、思索的な象徴としての「野の百合」のことである。)沈黙している百合にとっては、苦悩はそれがあるがままに留まっている。だが、人間は語り、語ることによって、その苦悩を無際限に大きくしてしまう。
人間が語る言葉は、沈黙に比べると、何と曖昧であることか。それは、まるで拡声器のように苦悩を増大させ、それによって希薄化しようとする。そして、薄められたものは、もはやその本体の一部しか含まない。そしてさらに、キルケゴールは、野の百合や鳥の沈黙は神への畏敬を現し、それが畏敬であり、祈りであるからこそ、沈黙は荘厳なものとなると言う。
この沈黙を人間が学ぶとき、人間は一個の被造物として自己を神の創造の秩序の中で見いだすことができ、自分の名ではなく、「御名をあがめさせ給え」と祈り、自分の計画の実現ではなく「御国を来たらせ給え」と祈り、自分の意志ではなく「御心を成らせ給え」と祈ることに至るのである、と語るのである。
人は、自分の意志や思いを通そうとして無理をし、自分の計画を実現しようとして焦り、自分の名を高めようとして大切なものを失い、「思い煩い」、こうして饒舌になり、無駄話とおしゃべりの虚構の中で自分を失う。
沈黙をすること。それは自分を無化することによって、自己自身となること、自分を取り戻すことである。キルケゴールは、教師としての野の百合と空の鳥から「沈黙」を学び、次に、「服従(委ねること)」を学ぶ。
『野の百合・空の鳥』の第一部第二節では、野の百合と空の鳥のもとにある沈黙には、「あれか−これか」が存在していることが語られている。多くの場合、人の思い煩いは、「あれか−これか」の選択の思い煩いではないだろうか。人生は選択の連続であり、「あれ」を選択しても思い煩い、「これ」を選択しても思い煩う。そして、たとえ小さな選択であれ、その選択によって人生は決定的に変わってしまう。
そして、この「あれか−これか」の選択の究極のものは、あるいは、いつも最終的に繋がっていくのは、宗教的な表現をすれば、「神か、それとも他のものか」という選択である。だから、キルケゴールは、「あれか−これか」の選択は、すべてのことにおいて絶対的に神に与するか、それとも神をないがしろにするかの、少しの妥協も許さぬ二者択一である、と言う。そして、真の沈黙が神の前で自分自身を委ねる時に起こるとしたら、沈黙は神へ与する行為であり、自己を委ね、神の意志へ服従しようとするの第一条件となる。
自然は沈黙し、自己を委ね、絶対服従の姿を持つ。そのため、自然においては神の意志が直ちに成る。たとえば、百合はどんな不幸な場所におかれても、従順に自己の運命に服して、美しさの限りを尽くして、その花を咲かせる。百合や鳥は服従以外に何事もなしえない。人は、この百合や鳥の姿から、服従、すなわち自己を委ねる道を学ぶことができる。
だが、人間は自ら意志を持つが故に、自らこの「委ねる道」を作り出すのに成功しなければならない。動かすことのできぬ神の意志に、絶対的に服従して、そこで「委ねる」行為によって、神の意志が成るような「徳」を作り出すように努力せよ、とキルケゴールは言う。沈黙し、委ねることによって神の意志が成る。「私が弱いときに、神は強い(強く働く)。だから、誇らなければならないとしたら、自分の弱さを誇ろう」そのような「徳」を作り出すこと。これこそ、常に「あれか−これか」の前に立たされる人間の謙遜な姿であり、自らの宿命を自ら引き受けていく人の姿に他ならない。
野の百合と空の鳥は、「どうすることもできない自分自身と現実」を自ら引き受けることを、その沈黙の姿のうちに教えている。
第三節では、百合と鳥が「歓び」の教師として注目される。
歓びを教えるのに最もよい教師は、自ら喜んでいる者である。感動か感動によってしか、喜びは喜びによってしか伝わらない。だから、キルケゴールは、野の百合と鳥の歓びを実に美しく描く。
鳥や百合は、さえずり、美しく花を咲かせることで、絶対的無条件に喜んでおり、歓びそのものに化している、とキルケゴールは見る。それは、明日に対する思い煩いがないからである。沈黙と服従を守る彼らには、今日という日が存在するのみで、明日は存在しない。明日という不幸な日は、饒舌と不従順が見出すのである。
歓びは、人が真に自己自身に対して現在的である時に訪れる。「今を生きている」という実感が訪れるときに、人は「生きていて良かった」という深い喜びに満たされる。だから、キルケゴールは、沈黙と従順の中で、「今、ここで、存在する」ということの深い真理を明らかにしようとする。
もちろん、自然は「はかなさ」に支配されており、世界はその餌食だと言える。しかしなお、百合と鳥は絶対的に喜んでいる。なぜなら、「汝らのすべての思い煩いを神に投げよ」というペテロの言葉を、実践し、その運命と宿命を引き受け、その「はかなさ」の思い煩いからさえも解放されているからである。
絶対的歓喜とは、神による歓喜に他ならない。その時、「国と力と栄えとは汝のものなればなり」という祈りが自分のものとなり、「汝、今日、パラダイスにいるであろう」ということが真実になる、とキルケゴールは説く。だから、沈黙は、委ねることを生み、委ねることは引き受けることを生み、引き受けることは喜びを生む。
キルケゴールは、自己のいっさいを委ねようとする。委ねきることができず、耐えず思い煩いに引き裂かれるとしても、その道へと自らを向けようとする。
路上で倒れ、その命の息を引き取ろうとするとき、キルケゴール自身が、この道を進んだのかもしれない。彼は、まだ途上ではあったが、すべてをなし終え、力の限りを尽くしたかのようにして息を引き取った。
「私は語らなければならない 。」キルケゴールは1848年4月19日付けの日記に新しい決意をそう書き記す。
キルケゴールは、この年、驚くべき分量の執筆をした。彼は、何かに追われるようにして執筆に執筆を重ねていたに違いない。彼は、この年、2月か3月に『死に至る病』の構想を考え、翌年には出版し、同時に、キリスト教講話である『野の百合・空の鳥』を書き、『キリスト教の修練』の大半、『危機および一女優の生涯における一つの危機』などを次々に書き上げていった。そして、この年の春から晩秋にかけて、彼は、自らの著作活動を振り返って、その位置づけを明確にしようする『わが著作活動の視点』と題する書物を執筆した。もともと、キルケゴールの執筆量は、想像を絶するくらいの量ではあったが、1848年は、彼の生涯の中でも格別の感がある。
彼がこの年にひたむきに執筆した理由は、いろいろ考えられている。第一に、この年、デンマークはついにプロシアとの戦争を開始し、敗戦し、混乱の中に陥り、社会体制も、独裁君主制から立憲君主制へと変化するという激動期の社会的混乱の中にあった。時代は大きく変わろうとし、人々の精神は不安定となり、拠り所を求めて彷徨い、自己中心的で保身的となり、むき出しのエゴイズムが支配的となる。
感性の鋭いキルケゴールは、こうした人々の精神状態に危惧を感じていたに違いない。特に、何の指針も示すことができないデンマークの知識人や指導者層の人々のあり方に、彼は大きな問題を感じていた。
第二に、彼自身の個人的な事情も、かなり切迫していたものになっていた。彼のこれまでの生活を支え、執筆と出版を支えてきた父の遺産も、そろそろ底をつくようになり、経済的な不安が重くのしかかり始めていた。その善後策のために4月に転居したトーネブスケ街の家は、住み心地が悪く、加えて、長年彼の日常の世話をしてくれていたアナースが都合で暇をとって、彼の日常的な孤独はますます深められていった。
また、キルケゴール自身、この年にひどく健康を損ね、これから先、もうあまり長く生きられないのではないかという予感を抱くようになっていた。
「私は語らねばならない。」キルケゴールは万感の思いを込めてそう記す。
だから、彼は、この時期、言葉を吐き出すようにして書き続けた。そして、これまで多くの誤解を受けてきた自分の著作活動の真意を書き留めておきたいと願ったのである。
『わが著作活動の視点』は、この理由で書き始められているのである。キルケゴールは、この書の執筆を、迫り来る自分の死を予感しつつ、自らの遺書を書くような思いで書いたに違いない。
だが、彼のような人間にとって、このような書物を公刊することはできることではない。何度かの逡巡の後、彼はこの原稿を自分の「秘密の記録」として残した。この書物が出版されたのは、彼の死後の4年後の1859年、後世への遺言として、兄のペーターによってである。
キルケゴールは、自らの思想と人生を率直に語ろうとする。そして、多くの研究者たちはこの書物によって、彼の著作の二重性の真意を初めて知ることができたのである。
遺書のような思いで書かれた『我が著作活動の視点』は、それまで仮名の著者によって書かれた一連の「美的著作」と呼ばれるものと本名で公にされた「宗教的著作」の二重性の意味を明らかにしようとする。ここで彼は、真理の伝え方の二重性を語る。つまり、彼の二重性は、真理の伝達の方法の二重性によるというのである。真理の伝達の方法の二重性とは、真理を真理として直接伝える方法と、真理を間接的に伝える方法である。
これは、おそらく、キルケゴールが『あれか−これか』を出す以前の修士論文としてソクラテスを取り上げた『イロニーの概念』以後のキルケゴールの認識だったのではないかと思われる。そこでは、真理が非真理の前では常にイロニーであり、逆説であると主張されているが、それは、真理の伝達がただ間接的にのみ行われることを意味しているからである。
人がいかに大声で真正面から真理を語っても、その声を聞く人が「欺瞞とうぬぼれ」で眠りこけている以上、いつしかその声は抹殺され、無視され、最後には真理を語る者を、ただ、変人のように思うのが、せいぜいである。だから、たとえば、デンマークのようなキリスト教世界に、真実のキリスト教を提示するようなことは、ただ、間接的な伝達によってしか可能とはならない、とキルケゴールは考えた。
それは、生きて存在している人々に人間の実存の真理を語る場合も同じである。実存している者に実存の真理は、ただ、間接的にしか伝えられない。この間接的伝達を、キルケゴールは「反省における伝達」とも呼んでいる。
この「反省」は『哲学的断片における結びとしての非学問的後書き』で語られた「主体的内省」でもある。それは、美的段階から、倫理的段階、そして宗教的段階へと至る「内省」である。
それ故、美的段階(感覚や欲求の段階)にいる人々に、その美的段階の何たるかを示すために、また、そこからさらに高度な段階を示すために、「美的著作」を生みだした、とキルケゴールは語る。彼によれば、いささか自虐的ではあるにしても、たとえば『あれか−これか』のような「美的著作」は、世間を欺くためのものであり、自分自身を世間の目から隠し、そこで、人々の動きを観察し、彼らがその撒き餌に飛びついて宗教的方向を見いだすようにするためであったのである。
もし、人々が間接的伝達によって伝えられる真理を見いだすことができれば、人々は、自らの主体的決断によって、さらに高度の段階へと進むことができる。それ故、彼はここでは、全くの裏方、黒子として自らを封じ込めたのである。
その際、彼は自らを宗教的著作家と呼ぶ。それは、宗教的著作家が美的著作を生み出すことを示すことによって、この意図を明瞭にするためである。
彼は、こうした間接的真理の伝達を試みる一連の仮名による美的著作と同時に、真理の直接的伝達を試みる宗教的著作としての『キリスト教講話』を出版した。それは、キリスト教の真理を伝えることは「真理を証をする」ことであり、真理の証しは直接的に伝えるべきことであると考えられたからである。宗教的著作は、たキリスト教の真理を直接伝えることを目指している。だからそれは、常に「講話」なのである。
ここではあらゆる粉飾は不要である。何らかの装いをすることは害を及ぼす。だから彼は素顔で自分を現す。取るに足りない人間が謙遜に神の言葉を聞こうとする姿を示す。 こうした二重の著作活動を貫くために、彼自身の実人生も二重の色彩を帯びている。著作の背後には、もちろん、人間キルケゴールがいる。
1841年、キルケゴール28歳の時、愛するレギーネ・オルセンとの婚約を破棄し、類い希なる精力的な著作活動を開始し、2年後の1843年に『あれか−これか』を仮名で出版して以来、彼は、意図的に、美的著作と宗教的著作を平行させてきた。そして5年後の1848年の『わが著作活動の視点』の時点で、彼は、この二重の著作活動に対応して、自らの生き方を変えてきたことを語る。
たとえば、『あれか−これか』を執筆していた当時、彼はいかに世間の目をくらまして自分自身を隠すことに苦心したかを語る。美的著作の著者は、いまだに準備の段階にいる人間であり、表に出て注目を浴びてはならないのである。
彼は、この書物がどんなに世間の評判を得ても、自らを隠しつづけた。キルケゴール自身は、ひどい仕打ちをして婚約を破棄した破廉恥な男、という風評の中を黙々と歩み続けた。
しかし、これとは反対に、大衆紙の『コルサール誌』が彼の肉体的欠陥をあげつらい、揶揄し、彼の思想を物笑いの種にしようとした時、彼はこれまでの美的著作家の仮面を捨て、俗悪なジャーナリズムの矢面に進んで立ち、人々と真顔で向き合ったと語る。これは、この後で全デンマークのキリスト教界を相手にキリスト教の真理を巡る闘いに入ったときも同じ姿勢であった。
彼の意図とは反対に、美的著作は脚光を浴び、宗教的著作は顧みられないどころか非難の対象となった。そして、美的著作では自らを隠し、宗教的著作では人々の前に自らを現した。だから、彼の生活は、表面的には誤解と中傷の中で営まれ、彼はその中で、自らの思想の浄化だけを目指して黙々と歩み、執筆を続けた。
そして、彼は、『わが著作活動の視点』において、彼の人となりに深い影響を及ぼした父との関係、青年時代、レギーネとの出会いと別離、コルサール事件、などの出来事が、彼を一人の著作家に仕立て上げる神の計らいである、と言う。彼は、今、自らの人生のあれこれを「神の計らい」として受け止める。それが失敗であるとか成功であるとかの視座ではなく、そんなことが少しも問題にならない地平で、自らの人生を受け取り直す。
キルケゴールは、確かに、美的著作と宗教的著作の二重の著作活動を行い、これらを明瞭に区別し、位置づけてきた。しかし、恐らく、最初から自分の計画に従って、自分の全著作を計画し、その通りに、意志強固に計画を推進させてきたのではないだろう。
『あれか−これか』に始まる一連の仮名の美的著作は、最初から彼の使命を行う戦術として、真理を提示する間接的手段として、あるいは、キリスト教界にキリスト教を導き入れるための手段としてあったわけではない。おそらくは、彼の内的必然性が、彼をこの類の著作に進ませ、自らの体験に基づいて執筆の情熱を傾けたのではないかと思える。
そして、それと同時に、彼自身があるべき姿として描いた宗教的著作を、美的著作で取り上げた問題を別の角度から語る視点として提示したのではないかと思う。
それだからこそ、彼は自分の生涯と著作活動を「神の摂理」として受け止めようとしたのではないだろうか。
「神の摂理」という言葉で、彼はそれらのものの必然性を自覚するのである。ここに、これまでのあれこれの事柄を謙遜に受け止めようとするキルケゴールの姿がある。
こうして、彼がたどり着いた地平が「単独者」の地平である。それ故、キルケゴールは本書の付録として「単独者」という一文を収める。
神の前で一人の主体的実存者として立つ単独者の姿こそ、人生のあれこれを神の摂理として謙遜に受け止めて、その摂理の課題を黙々と果たそうとするキルケゴールそのものに他ならない。「人々からでもなく、人によってでもなく、神によって立てられた人間」(新約聖書『ガラテヤの信徒への手紙』1章1節)としての自覚、それが単独者の自覚なのである。
1813年、デンマークの近代化が推し進められようとする時代に生を受け、精神的放浪を続け、特に1843年以降、次々とその思索の跡を、全精力を傾け、まるで魂を注ぎ出すようにして書き続けたS.キルケゴールは、晩秋の色濃いコペンハーゲンの町で、42年という短い生涯を閉じた。
1855年11月11日のことである。彼の最期を看取った甥のルンは、キルケゴールが深い安息に入ったことを実感したと言う。
しかし、実際には、彼はまだ途上の人であった。生涯の夢であった牧師になることも、大学で哲学と神学を講じることも、彼は諦めていたのではなかっただろうし、死の直前の数年間、問題にしてきた「キリスト教会への批判」もまだ完成されたわけではなかった。
彼は、残りの数年間をキリスト教のあり方をめぐってデンマークのキリスト教界を相手に死闘を繰り返した。キリスト教界を相手にするということは、当時のデンマークの社会の精神的指導者層、あるいは常識的知識人、そして社会全体を相手にするということを意味していた。
彼は、残りの資産のほとんどを使って自らの論を張る雑誌を刊行し、「これだけは言わねばならぬ」の思いを持って「キリスト教を信じることが何を意味するか」を論じた。
そのため、彼は「すべての牧師の敵」という汚名を着せられた。もちろん、このような場合の一般的な傾向の通り、キリスト教側からの正当な反論はなく、ただ汚名だけが彼に残された。
かつて自ら婚約を破棄したレギーネ・オルセンとの関係も、破廉恥な行為として個人的なスキャンダルになった。
だから、彼の葬儀を引き受ける教会は、どこにもなかった。彼が生涯をかけ信じたいと願ったキリスト教を具現するはずの教会は、自らの体面を保つためと、伝統的な教義を保つために、彼を否み、死者にまでむち打ったのである。
彼の死は、その途上で訪れたのである。彼は路上で倒れ、そのまま病院に担ぎ込まれた。
しかし、1843年の『あれか−これか』から、48年の代表的な著作である『死に至る病』まで、精力的な執筆を続けたキルケゴールは、健康の衰えと資力の乏しさ、そして何より、『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』や『わが著作活動の視点』などにもかいま見られるように、一応、一通りのことは語ったという思いなどもあったに違いない。
1848年以降はほとんどまとまった著作をすることなく、協会側との論争に時を過ごし、恐らくその時期から死の予感を抱いていたと思われる。とは言え、散歩と思索に明け暮れる彼の日常が変化したわけではなく、彼自身は変わらず思索の人であり続けた。
キルケゴールは、ただ一人真理を求め続けた孤独な魂の痕跡を残して、静かに息を引き取った。彼の葬儀は、牧師であった兄のペーターによって執り行われた。長い葬送の列ができたと伝えられている。しかし、その葬送の列には、キリスト教界の人々や知識階級と呼ばれる人の姿はなく、ただ、コペンハーゲンの町の貧しい人々の姿だけであったといわれる。
彼が示した主体的実存のあり方は、その後、自由や存在の意味を求める人々にとって根本的な視座を提供するものとなった。それ故、人はその思想を指して実存主義と呼んだ。
彼は、決して体系的な思想を展開したわけでもないし、人間の精神を体系化することに「否」を語り続けた。だから、彼の思想は、完成された完全な思想ではないし、またその思想の本質から言って、思想の完成などあり得ないものである。だが、もし人が、その人生の挫折や絶望の中でなお、自分が生きる意味を見いだそうとするなら、「主体的に決断せよ」といったキルケゴールの言葉が響くのではないだろうか。
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