2009/8/14
「沈黙のヨハンネス その2」
人間は有限と無限の統合である。彼は、自ら有限なものであるにもかかわらず、無限を思考することができるし、ある場合には、「無限の中で生きる」ことさえできる。また、「無限」を追い求める彼は具体的な「有限」な存在に他ならない。彼は有限であると同時に、無限であり、無限であると同時に有限であるのである。
キルケゴール=アンチ・クリマクスは、「自己」をこの無限と有限の統合であると規定した。人間の「自己」の課題は、常に、自分自身となることである。
「自己は、それが現に存在するあらゆる瞬間ごとに、生成の途上にある。・・自己がそれ自身にならない限り、自己はそれ自身であることはない。」
事物は存在をもっているが、人間は実存をしか持っていない。「実存するとは何か」。実存するとは、生成することによってのみ存在することである。事物はどんな場合でも、それがすでに存在するところのものである。しかし、人間は常に、彼が自ら成ることを選ぶところのものでしかない。ヤスパース的な表現をすれば、人間の存在は可能的実存でしかない。
だから、「自己」は、常に、具体的な自己自身となることを欲し、有限性と無限性の間を反復し、その統合を意識的に試みるのである。
それは、自己を無限性の中に置くことによって自己を自己自身から解放すると同時に、自己の有限性を認識することによって自己を自己自身に立ち返らせる。
たとえば、満天の夜空を見上げて、きらめく星座の彼方に広がる宇宙の無限に思いを寄せ、それと同時に、小さな惑星の上に生きている小さな自分を感じる。その時、人は、自分が自己自身であることを感じる。無限と有限の統合は、自己の解放性と自己の限定性であり、そう言うふうに自己が自己自身となるのでないならば、自己は絶望の状態にある。なぜなら、無限と有限の同時性がないときには、人は自己自身を失った状態にあるからである。
この状態の第一は、自己の有限性の認識を欠如させた場合である。これは、自己の有限性を忘れ、空想によって自己を自己自身から解放しようとする者の絶望である。
19世紀、人々は近代科学がもたらすバラ色の未来を空想し、ロマンを謳歌し、人間の可能性が限りなく広がっていくことを信じた。新しい市民社会を形成し、科学技術の恩恵を歌い、経済活動を活発にし、知識を増殖させた。夢(ロマン)と空想はどこまでも拡大し、人間の未来は希望に満ちたもののように感じられた。
あるいは、ここで、一人の将来の希望に満ちた人の姿を思い浮かべてもよい。彼(彼女)は「成功」を夢み、バラ色の人生を空想する。長い間の労苦が実って、収穫ができ、蓄えもたまった。「さあ、これを飲み食いして楽しもう」というわけである。彼の空想はどこまでも広がる。彼はその空想の無限性の中に自己を置く。
しかし、社会にしろ、人にしろ、キルケゴール=アンチ・クリマクスに言わせれば、このような状態は「絶望」の状態である。
社会は、たとえば、突如として地震に見舞われ、崩壊する。あるいは、核爆弾のスイッチが押される。かの人は、今宵、自分の生命が取り去られることを知らない。無限となったところの、あるいはただ無限であろうとするあらゆる人間の実存は、絶望である。彼は自らの具体性である有限性を失うが故に、自己自身を失い、絶望の深淵にのみこまれる。
20世紀の人間の状況は、まさにこれではないだろうか。20世紀の後半になって、人間は自らの有限性を自覚し、その反省を行ったが、この深淵があまりに深かったために、いまだに「出口なし」の状況が続いていると言えるかもしれない。
人間は空想する動物である。空想的なものは、感情や認識や意志にも関係し、一般に無限化の媒介となる。空想は他のいろいろな能力と並ぶ一つの能力というのではなく、あらゆる能力を代表する能力である。ある人がどれほど感動なり、認識なり、意志なりをもっているかということは、結局、その人がどれほど空想をもっているかということに帰着する。
空想は無限化していく反省である。そして、自己とは反省である。そして空想は反省であり、自己の再現であり、それ故に自己の可能性である。だから、すべての人間の能力が空想、つまり、イマジネーションに帰着するということは、言い換えれば、その人の感じたり知ったり欲したりする働きが、いかに反省されているかということに帰着する。
空想は、無限の可能性へと人間を解放する。そして、それだけにまた、空想的なものは、人間を無限なものに連れだし、そのようにして人間を自己から遠ざけ、人間が自己自身へ立ち返ることを妨げるものでもあるのである。かって、「想像力が世界を救う」といった哲学者がいたが、その想像力がどのような想像力かということが、実際は問題なのである。
キルケゴール=アンチ・クリマクスは、それ故、絶望における空想と自己との関係を取り上げる。
空想、あるいは確かな根拠のない曖昧な期待、あるいは一般的に「夢」と呼ばれるものは、人間を無限のかなたへと連れ出す。人はそこで一時的な開放感を味わうだろう。彼の魂は空想の世界を期待に満ちて飛翔する。だが、この開放感は、麻薬のように禁断症状を伴う。彼は、糸の切れた凧のように具体的な現実である自己自身を失う。彼は現実に絶望する。
だから、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、感情、認識、意志、自己の全体が空想的になる場合について、次のように言う。
まず、感情が空想的になる場合というのは、たとえば、個々の具体的で現実的な人間を感じるのではなく、「人類の運命」とか「人間愛」とかいった抽象的な事柄に対して多感な同情を寄せるといったことが行われる場合である。
あるいは、映画やTVのドラマの主人公に対して感情移入をする場合もそうかもしれない。この場合、彼(彼女)が実際に知っているのは、自分が座っていたお尻の温もりと映画館のエアコンの寒さや暑さだけであるにもかかわらず、彼(彼女)の感覚は、映画の一場面やTVドラマの世界にある。
彼(彼女)の現実の自己自身は希薄になる。やがて、映画館を一歩出て現実に引き戻されたときの奇妙な失意感が、彼(彼女)を襲う。
あるいはまた、誰かを愛する思いが、感情的な次元でだけのものであり、それが曖昧な期待の中で展開されるなら、その愛は自己自身を失っているが故に破局へと至る。ただし、愛の場合は、これもまた「愛」と呼びうるものかもしれないが。
次ぎに、認識が空想的になる場合であるが、一般に、認識の度は自己認識の度合いに対応している。認識が増せば増すほど、自己はそれだけ多くの自己自身を認識する。
認識が空想的になると言うことは、認識が単なる知識となることを意味している。その場合は、その無意味な知識のために自己が浪費されるということになる。
本来なら自己を高めるはずの認識が自己をすり減らすものとなり、知識が増せば増すほど自己は消失し、絶望するという悲劇を生む。この点からいえば、現代の知識教育は、教育によって人を絶望に落とし込むようなあり方をしていると言えるかもしれない。
第3に、意志が空想的になる場合であるが、意志は意志としてのある一定のベクトル(方向性)を持つが故に、無限であると同時に有限であるというような方向を取ることができない。
意志は、常に、具体的であるか、抽象的であるかのどちらかである。そして、意志が抽象的な場合、その意志は、何らの有効なものを持たないが故に、人は現実の具体性の前で絶望する。たとえば、全人類を愛そう、と言う意志は、具体的に煩わしい隣人によって簡単にうち砕かれ、この抽象的な意志の持ち主は、簡単に絶望する。
最後に、人間の全体が空想的である場合、その場合には、人間が空想的なものに積極的に自ら身を投げる能動的なものと、空想的なものによって心を奪われるという受動的なものがあるが、いずれにしても、それは自己の責任において成されるものである。その場合、自己は抽象的な無限の内に、あるいは抽象的な孤独の内にあって、空想的な生存を営む。彼(彼女)は夢みる人である。
しかし、彼(彼女)は、希望や夢を持っているように思えるが、その希望や夢は、単なる空想や曖昧な期待に過ぎない。けれどもそこはいつも自己が欠けており、自己はいよいよ自己自身から遠ざかるばかりである。
こうして、人は、単なる憧憬や空想、期待にひり回される人となり、自己自身を失って自らを絶望の淵に立たせる。
こうして、人はその立っている基盤を自ら失うのである。
これまで、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「有限性を失った絶望」として、自己自身、あるいは自分が生きている基盤である現実を失った絶望について述べた。
次に彼が述べるのは、「無限性を失った絶望」である。宗教的な表現をするなら、「神なき絶望」と言えるかもしれないし、「永遠なき今」と言えるかもしれない。これは、空想も冒険も失った現代の平均的人間の絶望である、と彼は言う。無限性を失った人間は、有限の現実に縛りつけられる。
たとえば、彼(彼女)は、人間が創り出したものに過ぎない社会のシステムに支配される。経済に支配され、政治に支配され、法に支配される。少しでもお金があれば、あたかも自分が豊になったように錯覚して嬉しがり、なければ嘆く。他の人をひれ伏させる権力を手に入れれば、あたかも自分が偉くなったかのように「いい気」になり、なければ悔しがる。誰かに非難されたり、罰されたりすることを恐れる。あるいは、周りをきょろきょろ見回し、自分が流行に遅れていないかが気にかかり、流行を追う。他の人と同じでないことが、ひどく「惨め」なことのように感じられる。あるいはまた、彼(彼女)は科学技術に支配され、自分の有限な経験や知識に支配される。ほんのわずかなものに過ぎないのに、あたかも真理であるかのように自分の経験や知識を語りたがる。
彼(彼女)が病気になったとしよう。設備や機械が整った病院へ行く。そして、病院のベットに寝て、彼(彼女)が見るものは、心臓の鼓動を示すグラフや数字、設置された機械である。有限性に支配され、無限性を失った彼(彼女)は、自分の魂を飛翔させる場所や自由を持たない。彼(彼女)は、有限な肉体に縛りつけられる。
今だけの「快」、今だけの「楽しみ」、今が良ければよい、という者は、ついに深い愛を知ることはない。彼(彼女)は、自らを肉の塊とする。彼(彼女)は、ついに八方ふさがりとなり、行き場を失う。
無限性を失った者は、自らを有限に支配させ、「もの」となり、機械化する。彼(彼女)は、常に集団の中にいて、「自分の決断」を恐れる。なぜなら、彼(彼女)は、ただひとり神のまえに立って自分の決断をするという勇気を、無限性を失うことによって放棄しているからである。
彼(彼女)の決断の基準は世間であり、取るに足りない他人の評価である。
人間は、どこまでいっても有限の生物である。だが、この有限に過ぎない人間が、もし、有限性と同時に無限性の契機を見失わないなら、有限性は決して人間を絶望に陥れるものではない。むしろ人間は、有限性においてこそ自己自身であることができるはずである。
人間の有限性は無限性の中で初めて意味を持つのである。M・ハイデッガーが言うように、生は死によって意味を持つし、愛は無限の愛において初めて愛となるのである。
無限性を失った人間、あるいは、無限性への契機を失った人間は、自らの有限性に閉じこめられ、魂の自由な飛躍をすることもできずに「出口なし」となり、自らの有限性に絶望する。従って、人間は自らの有限性を失うと自己自身を失い絶望し、無限性を失うと、有限性に閉じこめられて絶望する。
これが、「無限性と有限性」という二つの相貌における絶望である。そして、次ぎに、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「可能性と必然性」という相貌の下での絶望について述べる。人間の現実が可能性と必然性の統合だからである。
彼は言う。「何らの可能性をももたない自己は絶望している。また、なんらの必然性をももたない自己も同様に絶望している。(p.52)」
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「何らの可能性をももたない自己は絶望している。また、なんらの必然性をももたない自己も同様に絶望している。(p.52)」と言う。
人間の現実性は可能性と必然性の統合である。人間の自己は、常にこの二つの関係の中に置かれた自己である。たとえば、人が「生きること」の意味を問う時、その問いは、まず、この二つの次元でなされる。
第一に、自分がこうして生きていることの必然性はどこにあるのか、と考える。人は、自分が「生きなければならない」積極的な理由を探そうとする。苦しみのただ中で、自分は何故、何のために、これほど苦るしまならなければならないか、と問う。人生の理不尽さや不条理、あるいは生きることの空しさを乗り越えようとする。その時、人は、自分の生の必然性を尋ね求める。存在の理由を知ろうとする。
この時、誰かに、あるいは何かに必要とされていることを感じることができることほど嬉しいことはない。それは、自己の必然性が実感されるからである。愛は、この必然性の最高の段階でもある。
人間は自己の存在を確認しつつ生きる生物であり、存在の必然性を見出すことができない時、人は生の意味を失う。
第二に、人は自己の可能性を問う。人間は自分自身と自己の環境を自分で開発していかなければならない宿命を負った存在である。人間の行為は、この宿命に応えようとする行為に他ならない。だから、人は、常に、自己の可能性を追い求める。たとえその可能性が何もないように思われるところでも、あるいは、その生命活動が終わろうとするその最後の瞬間でも、人は自己の可能性を探す。そして、何らかの可能性が見いだせたとき、人は、その可能性によって生きることの意欲と勇気を引き出される。それ故、この必然性と可能性のどちらかが欠落したとき、人は絶望する。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、初めに、「可能性の絶望」について述べる。
「可能性の絶望」とは、文字通りには、人間がもつ可能性が絶望的状態になり、可能性が見いだせなくなることである。未来を失った状態と言ってもいいかもしれない。
彼(彼女)は、自分の将来を悲観する。「夢も希望もない」と言う。「どうしようもない」と嘆く。彼(彼女)は失意の中にある。彼(彼女)の可能性が失われたかに見える。しかし、アンチ・クリマクス=キルケゴールに言わせれば、可能性の絶望は必然性の欠如に由来しているのである。彼(彼女)は、可能性を失っているのではなく、実は、必然性を失っているのである。
なぜなら、可能性は必然性によって抑制されており、自己が可能性と必然性との統合であることを無視して、可能性が必然性を放棄するなら、その結果、可能性の中にあっても自己自身から遠ざかり、再び立ち返るべき必然性をもたないことになるからである。
「可能的なもの」とは、一定の条件、あるいは前提の下で、実現されうるもの、現実的となりうるもののことをいう(I.カント)。この条件、または前提が事実(必然性)に基づかないならば、可能性は単なる空想または憧憬に過ぎなくなる。そして、単なる空想に生きる者が絶望であることは、前に述べたとおりである。彼の可能性は、実は、必然性を失っているが故に、絶望しているのである。彼(彼女)は、現実を見失っているが故に未来を失っているのである。その絶望は、言ってみれば、「捕らぬ狸の皮算用」の絶望である。
また、人は必然性において絶望する。生きている理由がどこにも見いだせない時の絶望である。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、可能性の絶望が必然性の欠如にあるとのべた。つまり、未来が何にもないように思えるのは、自分が立つべき根拠を失っているからであるというのである。今ここに生きていることの意味を見出すことができないものは、未来に絶望するのである。
しかし、それと同時に、人は必然性において絶望する。人は自分が生きる意味を見いだせない。人生を失敗し、あるいは失恋し、あるいは様々なあると思っていたものを失い、期待した報いが得られず、「意味」を喪失する。必然性とは、「他のようにはあり得ないもの」のことであるが、他のものと同じようにあることを考える人間は、初めからこの必然性を失っている。 だが、これは、必然性を失っているのではなく、可能性を失っているからなのである。
「人間的実存がその可能性を欠くところまで来ると、それは絶望の状態にある。しかもそれが可能性を欠いているあらゆる瞬間ごとに絶望である。(p.56)」とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。
可能性、つまり未来がないが故に、彼(彼女)は、今に意味を見いだせないのである。
こういう場合、俗物根性の持ち主は、単純に、「可能性」があれば、立ち直り、息を吹き返して蘇生できると考える。そして、現実に根ざした真の可能性ではなく、空想や曖昧な期待に身を賭けようとする。しかし、それが虚偽の可能性であるが故に、人は簡単に絶望状態へと舞い戻ってしまう。可能性とは、結局は、主体的決断の問題であるにもかかわらず、これを自己自身にではなく、自己自身から遠く離れたどこか他の場所に見出そうとするがゆえに、人は絶望するのである。
結局、人間は、パスカルが言うように、自分が生きている意味などはどこにも見いだせない。「理由がない。誰がここに、この時代に、この状況に私を置いたのか。誰の指図か、誰の命令か、誰によってこのときにこの場所が私にあてがわれたのか。」その理由はないのである。
人間は世界へ偶然に出現し、しかもそれを理由づけることができない。人間は自らが選ぶことができない状況の中に投げ出されている限りにおいて実存する。だからこそ、投げ出されたものであるが故に、自己自身を投げかけるという主体的な決断の行為によってのみ、その可能性を見出すことができるのである。
ここでは、「存在するのではなく、実存する」という決断が必要とされる。そして、その場合においてのみ、人間の必然性と可能性は統合されるのである。キルケゴールは、先に、この主体的決断について『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』で述べているが、絶望においてこそ、これが必要であることをここで考えているのである。
可能性と必然性、つまり、未来が開かれていることと今ここにあることの意味の相貌のもとでの絶望について述べた後、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、人間の意識(自己意識)と絶望の関連について考察する。なぜなら、絶望は意識の産物でもあり、人は自己意識があるが故に絶望するからである。
彼は、「意識の度が増すごとに、その増大に比例して絶望も増す。」と述べる。絶望を仮にaとし、意識の度をnで表すとするならば、絶望の強さはaのn乗anで表される。(p.62)と言う。
ある人がどれくらい絶望しているかは、その人の意識の度合いに比例しているというのである。深い意識を持つものは深く絶望し、絶望する者は深い意識を持つ。それ故、人生を深く生きる者は深い絶望を味あわなければならないが、深い絶望者は、人生を薄っぺらではなく、深く生きる。
反対に、絶望しない者は自己を放棄したものである。そして、自己を放棄しているが故に、彼(彼女)は自らは気がつかないとしても絶望しているのである。彼(彼女)の意識の度nは0である。しかし、a0=1である。この人は絶望しているのだが、自分の絶望を知らない。この人の生は浮き草の生であり、風に揺らぎ、川面を漂って流れていく。やがてその川が巨大な滝壺へと落ちることも知らずに。この人は、一時的な感性や感情に支配されて生きている人である。熱いものは喉元をすぎればいいわけで、今さえよければよいのだから、この人の人生は、常に一時的なものとなる。
これは、現代人の多くの姿かもしれない。人は、感性の王国である「地下室に住みたがる」のであり、この地下室では、虚栄とうぬぼれが交差している。
たとえばTVのCMに支配された現代、現代青年の多くが追い求める「流行」、それが今の「気分」であるとしたら、たとえそれがどんなに明るく見えようとも、それは「地下室の気分」に他ならない。だから、感覚的な快・不快、虚栄とうぬぼれに支配された地下室の住人である現代人の多くは「気分屋」であり、快・不快や虚栄を提示してくれるものの感覚の分裂に伴って、自己分裂を起こす。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望の最低度、言い換えれば、自分で絶望を知らないが故に浅くしか生きることができない絶望について、この人は自己が永遠的なものを持っているということに無知であると述べる。
永遠的なものを失っているが故に、この人は一時的とならざるを得ないのであり、肉体的、感性的に生きるだけであって、精神とはなり得ないのである。
「自分の絶望について無知であるとき、人間は自己自身を精神として意識することから最も遠く隔たっている(p.65)。」精神が何であるかということは美的には規定されない。従って、美的段階に生きる地下室の住人は、同じ絶望を繰り返すが、決して自己自身を取り戻すことはない。
では、自己の絶望を意識している場合、つまり、自分が絶望していることを知っている場合の絶望はどうか。
初めに、絶望の度合いが低い場合、たとえば、自分が絶望していることは知っているが、どのように絶望しているかを知らないような場合、その場合、たいていの意識は「気晴らし」へと向かう。人間は自分を幸福にさせておくために、辛いことや悲しいことを考えないようにしたい。たとえば、死という自分を無にすることは知っていても、それを考えないようにして、あたかも「明日」があるかのようにして振る舞いたがる。
現代の多くは、この「気晴らし」の行為であり現象である。地下室から、頭だけを出して、「気晴らし」を探す。安酒場で上司の悪口を肴に盛り上がったり、カラオケボックスで自己満足的に歌をうたったり、TVゲームに熱中したり、とにもかくにも「気分を変えること」に情熱を燃やす。
「気晴らしは」、確かに、一つの文化を創る。ファッションというものを生み出す。しかし、そこには精神性が乏しいが故に、いつもくるくると変化していく。ここには、永遠なるものは見いだせない。それ故に、それはまた絶望するのである。
自分が絶望していることを知らないことから、次ぎに、自分が絶望していることは意識しているが、絶望して自分自身であろうと欲しない場合、つまり、絶望して自暴自棄になり、自己を放棄している場合を考えてみる。通常、「絶望的な状態」というときは、この種の絶望を言うのであり、「絶望のあまり死んでしまう」時は、この状態にある。
この状態について、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「この世またはこの世の何ものかについての絶望」と「永遠的なもの、もしくは自己自身についての絶望」の二つに分けて考える。
第一の場合は「世の中への絶望」であり、第二は「自己自身への絶望」である。
初めに、第一の場合であるが、これは、われわれが何かが嫌になるときの絶望であり、多くの人が最初に自分の絶望を感じる場合でもあるので、ここでは、少し長くなるが、キルケゴールの言葉を直接引用してみたい。
「この世またはこの世の何ものかについての絶望」は、全くの直接性の絶望である。絶望は単なる「悩み」に過ぎず、決して内からの行動は現れない。
「直接的な人間は、単に情念的に規定されているだけである。彼自身(彼の自己)は、世間的現世的なものの連関の中にあって、ともにその一環をなしているにすぎず、他の多くの環との直接的な関係においてある。
かくして自己は希望し、欲求し、享楽しつつなどしつつ、直接的にこの世と関係し、しかも常に受け身である。欲求するときでさえ、自己は誘い出され、引きつけられ、束縛されており、従って受け身である。彼の弁証法は快と不快であり、彼の概念は幸、不幸、運命などである。
ところで、この直接的な自己の身の上に何かが起こる。自己を絶望に陥れるような何かに、彼はぶつかるのである。
ここではそれ以外の仕方で絶望が起こることはあり得ない。自己は自己自身へのいかなる反省をももっていないのだから、自己を絶望に陥れるものは外から来るのでなければならない。
絶望は単なる悩みである。直接的な人間が生活のよりどころとしているものが、「運命の打撃」によって彼から奪われたとしよう。彼は、人々がそういっているように、不幸になる。そして、彼の内にある直接性が、もはやそれだけでは再び立ち上がれないような打撃を被るならば、彼は絶望する。・・・
そもそも直接性は、それだけとしてはとてももろいものなので、直接性に向かって反省を求めるような「桁はずれのもの」は、すべて、直接性を絶望に陥れる。
かくして彼は絶望する。ここにいたって、彼が絶望しているということが事実上現れてくる。けれども、彼の絶望は、それ自体がすでに誤解である。
彼は自分の境遇を絶望的なものだと考える。だが実は、そう考えている自分の状態こそが絶望的なのである。
いいかえれば、彼が永遠的な自己であるにもかかわらず、自分の時間的な境遇を絶望だと考えていること、あるいはまた、彼がその折々の現世的な境遇の内にあって、自己の永遠性を頼りに自己を自己として主張するような自己ではないこと、それこそが絶望なのである。彼が現世的なものに絶望しているのは、永遠的なものを失っているがためである。その限りにおいて彼は絶望している。(彼は絶望するにも及ばないものに絶望しているが故に、絶望しているのである。)
かくして直接的な人間は絶望している。・・・もし彼の境遇が変わり、彼の願望が満たされさえすれば、彼は再び生き返り、さらに生き続ける。ただし自分の生命を自分の内に持たない人間としてである。・・・
いつでも手に入れることができるようなわずかばかりの人生の享楽で、彼は満足する。(彼は自己自身ではなく。それを外に求める人間である。)・・
しかしそれでもなお、不幸が次から次へと重なるならば、彼は二度と再び彼自身になることができないという悲しみから逃れて、むしろ自分とは違った別の人間になりたいというような願望へと飛躍する。
(彼は自分の生命を自分自身にもつような自己になるべきであるが)彼はそんなことは考えていない。
彼はただ、境遇の点で自分をもっと都合のいい関係におくことができるような別の人間になりたいのだ。
従って、本質的に見れば、ただ彼がこれまで生きてきた生活をさらにそのまま続けるに過ぎないような別の人間に、彼はなりたいのだ。(その場合の別の人間というのは、彼自身ではあるが自己ではない。)
直接的な人間は常にその絶望の中で自分を誤解しているのであるから、そのような人間の絶望は、もともと無限に喜劇的である。(白水社版『キルケゴール著作集』p.75−78)
以上で展開された「この世への絶望」についての考察には、大変興味深いものがある。多くの人が絶望だと考える「この世への絶望」は「喜劇的である」という。
真にその通りかもしれない。
人は、この世またはこの世の何ものかについて絶望する。しかし、その絶望は無限に喜劇的である、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。
彼(彼女)はこの世にまたはこの世の何ものかに対して幸・不幸の概念を持って直接的に望み、希求し、そして、奪われ、自分の境遇が不幸になったことで絶望する。彼(彼女)は、自分が直接的に生活の拠り所としていたものを奪われ、立ち直れないと感じて絶望する。
だが、これは、キルケゴールにいわせれば、まだ絶望ではなく、単なる「悩み」にすぎない。もし、彼(彼女)の境遇が変わり、彼のあの直接的な願望が満たされさえすれば、彼は生き返り、わずかばかりの人生の享楽で満足する。あるいはそれがかなわぬと知れば、彼(彼女)はただ、境遇の点で自分をもっと都合のいい関係におくことができるような別の人間になることを望む。
そしてこのことは、度々繰り返される。失業、失恋、喪失、不信でさえ、この種の絶望を生む。彼(彼女)は、再び、この世またはこの世の何ものかの中から代替え品を探し出そうとして苦闘する。その種の代替え品は、安価な慰めであり、安っぽい「癒し」であり、かくして彼(彼女)は、再びこの代替え品に絶望することになる。
だが、これは喜劇的である。なぜなら、彼(彼女)は、絶望するに値しないものに対して絶望しているからである。それらのものは、本来的に「過ぎ去るもの」にすぎず、代替え品によって生き返ったように感じるのは、「ぬか喜び」にすぎないからである。
彼(彼女)は、得ようとして失うのである。「人が、たとえ全世界をもうけても、自分の命を損したら、それはいったい何の得になりうるだろう。」
彼(彼女)が失っているのは、実は、この世もしくはこの世の何ものかではなく、自己の永遠性であり、自己自身に他ならないのである。直接性において絶望する者は、このことを知らないが故に、喜劇的であり、それゆえにまた絶望なのである。
「彼が現世的なものに絶望しているのは、永遠的なものを失っているがためである。」彼(彼女)は失ったものをあれこれ数えて喪失感をもつが、彼(彼女)が失っているもののうちで最大のものは、それを数えている自分自身である。
「彼は自分の境遇を絶望的なものだと考える。だが実は、そう考えている自分の状態こそが絶望的なのである。」
ここでは、まだ、「絶望者は、まだ、いわば自分の背後に起こっていることに気づいていない。」「彼はこの世の何ものかについて絶望しているつもりで、いつも自分の絶望している当のものについて語るが、その実、彼は永遠なものについて絶望しているのである。なぜなら、彼がこの世に対してかくも大きな価値をおくということ、それこそがまさしく永遠なものについての絶望である。
ところで、この誤解が絶望者にとって明らかになってくると、新しいいっそう高度の形の絶望の可能性が生じてくる。(p.88)」
それは、絶望者が自己自身を閉じ込めていくという形である。彼(彼女)は自らをこの世から隔絶しようとする。それは、絶望して自己自身であろうとすることではなく、自己自身であることを放棄した姿である。世間の内にありながら、この絶望者は孤独であり、「よそ者」である。自分自身の内に閉じこもっているこの種の絶望者は、行為について恐怖を抱く。彼(彼女)が行動しなければならないとき、彼(彼女)はそこに誤謬と後悔の原因をしか見ない。彼(彼女)は、後ろしか見ようとしない。
だから、彼(彼女)は行動することができない。彼(彼女)の自己は絶えず自己自身の上に戻ってくる。内省ではなく不安が支配する。夢によってかき立てられながらも過度の分析によってすり減らされ、思想において勇気づけられながらも、実践において気後れする。
だが、やがて、彼(彼女)は自己自身を取り戻そうとする。自己自身でありたいと欲する。
人は、自分自身に対して絶望する。
まず始めに、この世もしくはこの世の何ものかについての絶望がある。次に、永遠なもの、もしくは自己自身についての絶望がある。絶望は、一般に現象的には、この世、あるいはこの世の何ものか(この中には、当然、ある人に対する絶望といった他者をも含んでいる)についての絶望から、自分自身への絶望へと向かうが、自分自身に絶望している者は、自分で自分が嫌になっているのであるから、自分自身であろうなどとは欲しない。
しかし、この絶望がもう少し進み、何故、自分自身であろうと欲しないかという理由を問い始めると、事態は一転して、「傲慢」が現れてくる、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは述べる。
彼(彼女)には、自分で自分が嫌になるもう一つの「自分」がある。その「自分」は、たいていの場合、自己が理想として夢想した「自分」である。その夢想され、想定された理想の「自分」から見て、自己自身がはるかに遠くにしかあり得ないことを知り、自分自身に絶望するのである。ここに、現実に存在する自己自身をないがしろにしようとする傲慢さが登場してくるのである。ここには、自己否定をしようとするもう一つの自己を肯定してしまう傲慢さがあるのである。
この絶望では、自己の傲慢さが最も端的に現れる。彼(彼女)は、実は、自分自身であろうと欲するが故に、自分が嫌になり、自分自身であろうと欲しないのである。
「絶望して自己自身であろうと欲するには、無限な自己についての意識がなければならない。しかるにこの無限な自己は、もともと自己の最も抽象的な形、その最も抽象的な可能性に過ぎない(p.97)」
この抽象的な自己、抽象的な可能性を求めるが故に、彼(彼女)は自己自身に絶望するのである。そして、絶望しながらも自己自身を思いのままに支配しようとするのである。彼(彼女)は、絶望のうちに自分自身を造り出そうとさえする。
人間は自分の自己を、自分がそうありたいと思うような自己に仕上げようとし、自分の具体的な自己の中でもちたいものともちたくないものとを規定しようとする。自分の中の気に入った部分と気に入らない部分を区別させ、自分の欲する通りの自己を自分で造り出すために、気に入らない部分を何とかして捨て去り、それらの規定から自己を解放しようとする。こうして、彼(彼女)は、自分を一つの全体として捕らえることができずに、分裂する。
現代は、この抽象、理想化された人間像、しかもテレビドラマやCMで演じられるような安っぽい人間像が幅を利かす時代である。髪型、ファッション、スタイル、お化粧、持ち物、あるいは思想まで。人間とその生活が仮想の映像として映し出され、人はそれにあこがれる。現代の分裂病はこうして着々と進攻してきた。
この種の絶望をさらに立ち入って明らかにするためには、絶望している自己が行動的である場合と受動的である場合を区別し、いかに自己が自己自身に関係するかを示すのが最も好都合である、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。
絶望は精神の分裂である。人は、絶望してなお自己自身であろうと欲して分裂する。この世、あるいはこの世の何ものかに目を注いだり、耳を傾けたりしては分裂し、自己自身に目を向けては分裂する。彼(彼女)は、結局のところ、全体的で統一のとれた自己自身であることはできない。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、この絶望の最後の段階に近い人間を、絶望している自己が行動的である場合と、絶望して受動的である場合に区別して、絶望の姿を明らかにしようとする。
「絶望している自己が行動的である場合」というのは、絶望の中で、なんとかして自分を取り戻そうとしたり、今までとは違った何かある新しい自分になろうとして、あれこれと試みる場合である。
この場合、自己は自己自身の絶対的な支配者になろうとするのである。自分自身を自分でコントロールしようとする。彼(彼女)は、絶望しない新しい自己を思い描いて、そこに近づくことを試みる。彼(彼女)が思い描く「新しい姿」は、絶望の度合いによって変化し、その度に応じて、彼(彼女)が求める姿は変わる。しかし、どの度合いにおいても、彼(彼女)は自己の絶対的支配者であろうとするのである。だが、絶望の中で何かある新しい姿を思い描いて、それに近づこうとするのは、常に実験的に自己自身に関係するにすぎない、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。
彼(彼女)が試みる自己の絶対的な支配は内実をもたない。絶望している自己は絶えず空中楼閣を築き、空を切るのみである。彼(彼女)が思い描く「新しい自己」は、絶望に耐え、絶望を乗り越えた輝かしい外観を呈しているが、それは、絶望している自己自身を否定したものの上に築かれるが故に、常に、「砂上の楼閣」でしかない。
それ故、これはいつも「実験」で終わる。だから、自分で自分をコントロールし、自己の絶対的な支配者なろうとすることには、「真剣さが根本的に欠けている」とアンチ・クリマクス=キルケゴールは指摘する。
人は、自分でどうにかできる部分もあれば、どうすることもできないことも抱えて生きている。そして、どうすることもできないことの中で、人は歯を食いしばって自分の人生を歩んでいる。自己の絶対的な支配者であろうとするものには、この人生への真剣さが欠けているのである。人には、「今ここで生きている自分」しかない。この「今ここ」への真剣さが欠落するのである。
たとえばニーチェの「力への意志」や「超人の夢」、あるいはニヒリズムには、この「真剣さ」がない。「絶望している自己が受動的である場合」というのは、自分の絶望的な状況を「仕方がない」といったような諦めをもって、自分でそれを引き受けようとする場合である。
彼(彼女)は諦め、自分で自分の絶望を引き受けようとする。自らに刺さった肉の棘を引き受けようとするのである。しかし、そうすればそうするほど、自分に刺さった肉の棘はますます食い込んでくるので、ついには、その棘に憤りを覚え、棘を機縁として存在全体に憤りを覚え、存在全体に対して反抗的になり、存在全体に逆らい、存在全体に立ち向かおうとする。彼(彼女)は、まるで苦痛に耐え忍ぶ英雄のように、自分の苦悩に誇りさえも感じながら自己を保とうとする。彼(彼女)は、苦悩に耐え忍び、すべての存在に立ち向かう英雄となる。だから、彼(彼女)は他からの救いの可能性を欲しない。「他の人に助けを求めるということはどんなことがあってもしたくない。(p.102)」のである。
自分自身に絶望していながら自分自身だけに頼ろうとし、反抗的に自己自身であろうと欲し、自己の絶対化を生み、さらなる絶望の深みへと墜ちる。かくして、絶望は究極に達する。自己絶対化は悪魔的な絶望である。
こうした自己の絶望に受動的である場合の最高度の絶望の哲学を、カミユやサルトルの無神論的実存主義の文学思想や虚無主義(ニヒリズム)に見ることができる。カミユの『異邦人』やサルトルの『嘔吐』は、その典型的な例である。
こうして人は自己意識を上昇させ、ついには自己絶対化にまで行き着こうとして、その度合いを深めていくのである。そして、自己絶対化こそが「罪」である。従って、絶望は罪であり、死に至る病は罪そのものなのである。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望が自己を絶対化するがゆえに罪である、と述べた。「罪」は、法に触れるような犯罪を犯すことではなく、宗教的・存在論的概念である。英語表記でも、法に触れる犯罪は crime(クライム)、宗教的・存在論的概念である「罪」は sin(シン)として区別する。それは、人間が本質的に「欠けた」存在であることを意味する。あるいは、人間がその本来の姿を失って、関係を破綻させた姿を意味する。
アンチ・クリマクス=キルケゴールが「絶望は罪である」というときの「罪」は、もちろん、宗教的・存在論的な概念としての「罪」である。従って、彼が「罪」という言葉を用いるときは、「神の前での自己」ということが語られているのである。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、『死に至る病』の第二部で、この「罪」の問題と取り組む。それは、絶望が罪であるなら、罪とは何か、と問い返す形で、絶望と救いの問題を捕らえようとするからである。
彼は、第二部の最初で、「罪というのは、人間が神の前に(もしくは神の観念を持ちながら)絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは絶望して自己自身であろうと欲することである」と罪を規定する。すでに見てきたように、絶望して自己自身であろうと欲しない場合と絶望して自己自身であろうと欲する場合は、共に、自己を失っていることを意味する。
従って、「罪」とは、神の前で自己自身を失っている状態を意味するのである。 自己自身を失っている人間は、神の前に立とうとしないし、まるで、ヘビの誘惑に負けて、「してはならない」と言われていたことをしてしまったアダムとイヴのように、神から身を隠そうとする。
「人よ、あなたはどこにいるか」と問われても、彼(彼女)は答えることができない。神の前では、自己を失った姿がもっとも明瞭に現れるのである。
それ故、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、これまでの『死に至る病』の第一部で述べてきた絶望における自己意識の上昇についてが、単なる「人間的な尺度」における上昇に過ぎないことを明瞭にする。
自己意識は、自己自身であろうとすることによって、何らかの「永遠的なもの」へと上昇していく。しかし、これは、「人間的な自己」、あるいは、「人間が尺度であるような自己」という規定の内部で起こった上昇にすぎない、と彼は言う。
「自己をはかる尺度は、常に、自己が何に対して自己であるのか、というところにある。」(p.114)その基準が、世の中や周りの人々であれ、あるいは自分自身であれ、その基準は、常に、「人間的な自己」である。
絶望の度は意識の度に従って強くなる。そして、意識の度は、自己をはかる尺度に従う。その自己をはかる基準が、「人間的な自己」である場合、人は絶望の堂々巡りを始める。彼(彼女)は、この世あるいはこの世のものに絶望する。そして次に自分自身に絶望する。自分自身に絶望した者は、その自己意識の故に、さらに深い絶望へと向かう。そして、絶望の故に、彼(彼女)は、この世もしくはこの世のものにいっそう絶望し、そこからまた、自己自身を失って絶望する。
ところが、自己をはかる尺度を「神」に置いた場合、彼(彼女)は「神の前に立つ」のであるから、自己自身を無にすることができないし、彼(彼女)は神に対する自己を意識するのであるから、自己の度は無限に強くなる。ここにおいて、2つのことが明瞭になる、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。それは、「罪」と「信仰」である。
彼は、「罪とは、人間が神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは神の前に絶望して彼自身であろうと欲することである。信仰とは、自己が自己自身でありまた自己自身であろうとするときに、同時にはっきりと自己自身の根拠を神の内に見出すことである。(p.118)」と述べる。
自己の根拠を自己自身に見いだそうとするものは、遅かれ早かれ絶望の罠に捕らえられ、自由を失い、自己の根拠を神の内に見いだすものは、自己自身を委ねることによって、自己自身であり続ける。
人間の目が、全くの暗闇しか見ないところで、信仰は神を見る、のである。
こうして、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望からの一筋の道を「信仰」に見いだそうとする。人間は神を必要とする。ただし、ここでいう「信仰」とは、キルケゴールの場合は、キリスト教信仰であるが、彼のキリスト教理解は、通常言われるような「宗教としてのキリスト教」とは異なる。
彼は、その晩年、「宗教としてのキリスト教」に闘いを挑み、孤軍奮闘して、その生命を終える。彼が求めたキリスト教について、第1章の『付論』で、「キリスト教には躓きの要素がある。それはキリスト教があまりに高く、用いる尺度が人間ではなく、人間を人間が理解し得ないものにしようとするからである。」と述べる。
絶望は罪である。なぜなら、絶望は、いずれにしても自分自身を失っており、この失った自分を世間や他の人に求めたところで、その得られるものは空虚な「偽り」でしかないし、根本的に自分自身を失っている状態や「偽り」に身を委ねる状態こそが罪に他ならないからである。
絶望は罪を明瞭に示す。
ソクラテスに言わせれば、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは、第2章で「罪のソクラテス的定義」を述べる。ソクラテスに言わせれば、「罪とは無知」である。ソクラテスは、「知は徳」であると考えた。正義や思慮、勇気、美などのいろいろな徳も、すべて「知識」に基づくのであり、何が正しいかと言うことを知る者が正しいことを行うと考えたのである。「徳」を知る者が徳を行うことができ、「愛」を知る者が愛することができる。「徳を知らない者」は、ただ、動物的な感性と欲求だけで生き、「愛を知らない者」は、自分を真実に愛するものに気がつかないし、肉欲を愛とすり変える。また、「自由を知らない者」は、束縛のない状態を自由と勘違いする。
現代のように「知」と「徳」とが分離してしまった時代は、知の不幸である。ソクラテスは、むしろ、知が徳であるような知のあり方を求めた。しかし、知が徳であるような知のあり方をする人とめったに出会うことはない。現代ではなおさらである。近代人F.ベーコンは「知は力」と言った。現代人は「力」としての「知」を求める。しかし、かつては「力」は「徳」の一つでもあったのである。現代では、力と徳は完全に別のものになってしまった。
ソクラテスは知者を捜し求めたが、ついにこれと出合うことはなかった。そして、知が徳であるような知のあり方を自らに課した。知の究極の目的は徳を知ることなのである。徳なき知は、人間にとって無意味なものに過ぎない。
それゆえ、ソクラテスに言わせれば、人が不正をなすのは、正しいことが何かを真実に知らないからであり、無知であるか、誤った知をもっているからである。誤った知は、結局は、そのものについての正しい知識をもたないのだから、無知そのものである。だから、「知っている」と言いながら罪を犯すものは、実際は、無知そのものに他ならず、彼(彼女)は自分の無知にも気がつかないほど無知なのである。その無知から罪が生まれ、罪は無知そのものである。彼(彼女)は、まず第一に、自分自身さえ知らないし、知ろうとしない。そして、絶望は自分自身を失うことであるから、「無知」そのものに他ならないことになる。
ところで、とアンチ・クリマクス=キルケゴールは言う。
キリスト教的に言えば、罪は自由な意志に関する問題である。善を欲することも悪を欲することも、またそのいずれかをも欲しないことも、ただ人間の自由な意志の決定に委ねられている。誘惑者にさし出された見るに麗しい「木の実」を食べるかどうかは、イヴの決断に委ねられている。そこに自己の行為の責任がある。どんなに巧みな言葉が並べられ、さし出されたものがよさそうに見えようとも、それを食べたのはイヴの意志である。彼女はその意志の結果を負わなければならない。彼女はエデンの園を追放され、愛する者との関係の断絶を負わなければならない。悪を欲することの容易さに比べて善を欲することの何と難しいことか。
意志とは、その人の思いが向かう方向を意味する。イヴの思いは、神でも、もっともよきパートナーでもあったアダムでもなく、誘惑者の方向へと向かったのである。
従って、「無知」であるかどうか、絶望するかどうかは、その人の思いが向かう方向と大きく関係している。真実の知に向かうかどうか、真実の愛に向かうかどうか、自分自身から始まる確かな希望に向かうかどうか、そこに絶望からの回復のカギもあることになる。
もし、悔い改めがこうして始まれば、彼(彼女)の絶望からの救いが始まる。キルケゴールはここに一縷の望みを託す。ここで、罪の弁証法、絶望の弁証法が始まる。そこでは、絶望は積極的な意味をもつのである。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、前回までで、絶望が罪であり、罪はソクラテス的理解に従えば、「無知」、キリスト教的理解に従えば、意志が本来のものに向かわない姿(「罪」を意味するギリシャ語のハマルティアは、もともとは「的はずれ」を意味する)である。
そのいずれにしても、罪は消極的なものとして理解されている。そして、罪が消極的なものである以上、絶望もまた消極的なものとなる。
しかし、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、罪を人間の弁証法的契機として位置づけ、それによって絶望も精神(自己)の弁証法的契機として位置づける道を探ろうとする。彼は、罪を全面的に消極的・否定的なものと見なすのは、本来のキリスト教的な罪の規定とは相容れないものであると言う。
彼によれば、「罪を消極的否定的なものと見るのはディオニシウス・アレオパギタいらいの神秘主義思想の特徴であり、この思想は近世の思弁哲学によって受け継がれた。罪は非存在であり、無である。従ってネガティヴな規定をもつものに過ぎないとされる。」ことになる。
これは、罪が否定的・消極的なものであるという理解を完全に否定しようと言うのではない。罪を否定的・消極的なものだけに限定することに対しての批判である。
罪は否定的・消極的なものである。しかし、罪の役割はそれに留まるのではない。簡単に言えば、人は罪を自覚することによって悔い改めへと導かれる。罪は悔い改めの契機であり、救いの契機でもある。罪がアダム以降の人間に本質的なものであるとすれば、罪はこれを消すことができないし、これを否定したからと言ってどうなるものでもない。罪はこれを犯すまいとすることによってではなく、これを救いへの弁証法的契機として位置づけることによってはじめて乗り越えられるものである。
同様に、絶望もまた人間精神(自己)にとって、自己が自己を意識する限りにおいて必然的に立ち現れるものである。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、これまで、絶望が絶望として意識されない絶望、絶望が意識されるが、絶望して自己自身であろうとしない絶望、そして、絶望して自己自身であろうと欲する絶望、について述べてきた。それは、絶望が人間精神の自己意識にとって必然的なものであることを意味している。
だとしたら、絶望は、絶望している自分を否定することによってではなく、あるいは絶望しないように細心の注意を払ったり、絶望した精神を他の何らかの気分とすり変えたりすることによってではなく、ただ、人間が真実の希望を持って生きることへの弁証法的契機として位置づけられることによって乗り越えられるものである。絶望は希望への契機であり、人間が自己自身となるための契機に他ならないのである。
人は、罪の赦しや自己自身の契機としての絶望に「つまずく」。そして、そこでまた、つまずいて信じる気力を失った絶望と躓いて信じようと欲しない傲慢の絶望の中に陥る。
キルケゴールに言わせれば、「キリストが罪をゆるそうとしたことに、人は躓く」のである。「神と人間との間に無限の質的差異があるという点に、除きがたい躓きの可能性が存する(p.182)」のである。
だが、「自己が自己自身に関係しながら自己自身であろうと欲する時に、自己はこの自己を躓いた力の内に、はっきりと自己自身の根拠を見出す」(p.188)のである。
だから、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望を乗り越えるもの、絶望を自己の精神の自己自身への契機として位置づける信仰を絶望からの救いの道として位置づけようとするのである。まさに、「信じる者は救われる」のであり、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」なのである。
人は、自己自身を意識すればするほど絶望する。だが、絶望を本来の自己自身への弁証法的契機とするものは、その契機とすることの中に自己自身の根拠を見いだすことができる。様々な精神的遍歴を重ねたアウグスティヌスは、「神の内に安息を見いだす」と語ったが、そのような「安息」がそこに訪れるのである。
そして、そこから、自律した自由な精神の持ち主である単独者の歩みが始まるのである。
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