2009/8/14
「沈黙のヨハンネス その1」
この記事は作者Wisemenさんの了解を得て転載しています。
キルケゴールの左手著作の第二番目『おそれとおののき』は、第一作『あれか−これか』に続いて、1843年に「沈黙のヨハンネス」の名前で出版された。この書物の題材となっているのは、旧約聖書の『創世記』第22章1−14節に出てくるアブラハムの物語である。初めに、「調律」と題する次のような文章がしたためられてある。
「昔ひとりの男があった。彼はまだ年のいかない頃、神がアブラハムを試みられ、アブラハムがその試みに答えて信仰をもち続け、思いもかけず息子を再び授かったというあの美しい物語りを聞いていた。年をとってからその同じ物語を読んだ時、驚異の心はますます大きくなった。・・・彼の切なる願いは、アブラハムが前方には憂いをもち、かたわらにはイサクを連れてき騎行したあの三日の旅路のお伴をすることだった。彼の願いは、アブラハムが目をあげて遥かにモリアの山をのぞみ見たあの瞬間に、アブラハムがロバを後に残してイサクと二人だけで山をのぼって行ったあの瞬間に、居合わせるということであった。彼の心を占めていたのは、空想の妙なる織物ではなくて、思想のわななきだったのである。・・・」
つまり、沈黙のヨハンネスは、信仰の父といわれるアブラハムと出会うこと、真の信仰と出会うことを求める、というのである。しかし、これはいうまでもなくキリスト教的な宗教的書物ではない。沈黙のヨハンネス自身が「私は信仰をもっていない」と語り、「私は生まれつき鋭敏な頭脳を持っております。すべて鋭い頭脳の持ち主というのは、いつでも信仰の運動をするのに大変な困難をするものです」と言う。従って、この書物は、信仰を持たない沈黙のヨハンネスが信仰に出会うことができるか、理性は信仰を捕らえることができるか、人は自分自身を越えて信じることができるか、より哲学的には、有限は無限を理解できるか、と言う問いに答えようとするものである、と言うことができるであろう。
『あれか−これか』で提示された理想の倫理道徳家Bは、いつも冷静で、平然とし、尊大にAを批判した。Bは、自分が不完全な罪人であることを認めることが重要であるといいながら、自らは満足し、自信に満ちていた。Aは人生の傍観者であり、Bは批評家であった。ちなみに、キルケゴールは、どんなことがあっても批評家にはなるな、と名言を残している。なぜなら、批評家はただじっと座っているだけで、自分自身が生きることをしないからである。しかし、沈黙のヨハンネスは、そこから一歩前に出て、自らが生きようとする。彼はアブラハムについて語るのではなく、アブラハムと出会おうとするのである。知解を求めるのではなく、真実の出会いを求める。沈黙のヨハンネスはそのような人である。
旧約聖書の『創世記』に描かれているアブラハム物語(12−25章)は、実に複雑で、多彩な内容を持つ物語である。
ある日、彼は、一切を棄て、神が示す知に行くようにとの言葉を受け取る。そうすれば、神はアブラハムを祝福し、その子孫は浜の真砂のように、星の数のようになる、と言われるのである。アブラハムは、ただその神に約束の言葉だけを信じ、あらゆるものを棄てて旅立つ。しかし、アブラハムにはなかなか子どもが与えられなかった。神の言葉を信じて出立して数十年の月日が流れた。もはやアブラハムも妻のサラも子をもうけることのできる年令を過ぎてしまった。しかし、その時、ようやく、子が与えられる。アブラハムはその子にイサクと名付け、寵愛する。だが、ある日、神は突然、そのイサクを自分に犠牲としてささげよ、と言うのである。アブラハムは苦しむ。そして、アブラハムは決心し、イサクささげるために、イサクと二人でモリヤの山に向かう。三日の行程の後、モリヤの山に着いたアブラハムは、祭壇を築き、イサクを寝かせ、イサクの生命を断とうと剣を振り上げる。まさにその瞬間、アブラハムは「あなたの信仰はわかった。あなたはその子を殺してはならない」という神の声を聞くのである。
沈黙のヨハンネスが出会いを切望したのは、愛する息子イサクを捧げる決心をした苦悩のアブラハムである。彼はこのアブラハムの姿に驚嘆する。それは、第一に、アブラハムが神の命令に従って自分の愛する息子を殺そうとまでしたことに対する驚きである。通常人は、自分自身の生命を投げうってでも自分の子どもは守ろうとするし、それが倫理的美徳としてたたえられる。しかし、計り知れないほどの無限の苦痛を覚えつつも、アブラハムは無条件に神の命令に従った。その信仰に、沈黙のヨハンネスも驚くのである。そして、第二に、そのアブラハムが、最後に、再び喜びを持ってイサクを神から受け取り直したことに驚く。
沈黙のヨハンネスは、そのようなアブラハムに驚き、そして苦しむ。アブラハムのように神を信じたいが、信じることができない自分を知るからである。彼は、愛する者はもちろん、自分のものを捨てきることができない物欲を持っている自分を知っている。捨てきれない自分の所有物、愛するものが、家が、財産が人を縛る。また、一度捨てた者を再び喜びを持って受け取り直すことができない自分を知っている。彼がその立場にいるとしたら、そこにあるのが冷えきった息子への愛情と後ろめたさだけであることを、彼は知っている。沈黙のヨハンネスにとって、アブラハムのようなあり方は完全に不可能のように思えるのである。彼は、もし自分にこのような命令が下ったなら、家に留まることも、アブラハムのようにゆっくりとでもなく、一刻も早く苦境を抜けだせるようにモリヤの山に急ぐ、というのである。多くの信仰者たちが、この種の不都合な命令(宗教的には神への奉献だが、倫理的に見れば殺人)を、聞かない振りをして平静さを装おうのとは違い、自分は行動するだろう。その点では、多くの欺瞞的信仰者とは異なる。しかし、もし、イサクを再び受けとしたら、当惑し、喜びどころか苦痛のうちにイサクを持ち続けることになる、と考えるのである。
行くも地獄、退くも地獄で、行けば苦痛を得、行かなければ欺瞞者となる。どちらにしても、信じることには到達しない。「現代では、誰が本当に信仰の運動をすることができようか?いや、できはしない」と言う。「有限性のこの世界においては、可能でないことがたくさんある。」そして、有限性か無限性か、この世か神か、の選択を迫られた時、人は有限性を選択する、と言うのである。
しかし、沈黙のヨハンネスは、ここで「無限の諦め」という概念を見い出す。「無限の諦めの中には、平安と安息がある」、「無限の諦めは、信仰に先立つ最後の段階である」と語る。そこで初めて、人は自分自身の永遠の価値を自覚することができるからである。富みも地位も知識も、すべては時間とともに流れ去る。しかしそれら一切を無限の諦めの中に置いた時、そこで人は裸の、何ものにも変えがたい自分自身の固有の価値、永遠に変わることのない価値を見い出す。それ故、「無限の諦めは信仰への最終段階」なのである。アブラハムは無限なものを捕らえるために有限なものを放棄した。そしてそのことによって最も貴重な有限なものを受け取り直した。人は有限なもの、生きるために必要だと思って身につけているもの、職業、知識、財産、家族、友人関係、に固着する。そしてそれらを失う。無限の諦めこそが、実は、最も確実な現実との調和を生み出すのである。それは、真理のパラドックス(逆説)であり、現実のアイロニーである。
沈黙のヨハンネスのこの到達点は、禅の世界そのものと言えるかも知れない。禅の説く「悟り」に近い。彼は『おそれとおののき』の「結びの言葉」で「信仰は人間のうちにある最高の情熱である。おそらくどの世代にも、信仰にさえ到達しない人がたくさんいることであろう。・・・しかし、いまだ信仰にすら至らない者にも、人生は十分の課題を与えてくれる。そして、もし人がこの課題を誠実に愛するなら、最高のことを理解し把握した人たち(真のキリスト者たち)の生涯もまた無駄ではなかったことになるであろう」と述べる。
キルケゴールは、この沈黙のヨハンネスを『あれか−これか』のAやBよりも上位の人間だと位置づけている。自分の楽しみだけを追い求め、結局は根無し草の空しさを覚えるA、倫理と良識、世間の常識に身を縛り、結局は自分自身が生きることを失うB、それらに比べれば、沈黙のヨハンネスは、あらゆる欺瞞や虚偽を排して、徹底して裸の自分を知り、そこから生きようとする。倫理家Bは世の中に生きている自分を知っているし、世間に通用する信仰の理解はもっている。しかし、彼は、神の前での自分を知らない、神への真実の信仰はもっていない。彼が相手にするのは、世間であり、人々であり、神ではない。沈黙のヨハンネスは、自ら信仰が持てないと告白するが、神の前に立っている。それが彼を上位につける、とキルケゴールは考えたのである。しかし、沈黙のヨハンネスは、まだ、そこで無限の諦めを見い出し、思い悩んでいるだけである。彼は思い悩みから解放されることはない。そこからさらに一歩抜け出すこと、これが、キルケゴールの次の著作『反復』の課題となるのである。
キルケゴールの思想を代表する書物の一つといわれる『死に至る病』は、副題に「教化および覚醒のための、キリスト教的・心理学的講話」と掲げられた「建徳的講話」の一つである。これまで「建徳的講話」と彼が呼ぶ「キリスト教講話」は、そのすべてを実名で出版してきた。しかし、この書物は、あえて、アンチ・クリマクス著作、セーレン・キルケゴール刊行 という形で、1849年7月コペンハーゲンにて刊行された。これは、『あれか−これか』などのこれまでの「左手の美的・倫理的著作」と呼ぶものと同じ形式の出版である。
キルケゴールは、先に『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』の中で、これまでの仮名著作が自分の手になるものであることを明らかにしたのだから、通常なら、もはや仮名を使用する理由はないはずである。それにもかかわらず、「建徳的講話」の中に位置づけられるこの『死に至る病』を仮名で出版するということは、この書物そのものが特別の意味をもつことを示しているように思われる。
もしかしたら、この書物こそが、これまでの実名と仮名(右手と左手・人間の救いに関わる宗教的なことと極めて人間的な美的・倫理的なこと)の著作の統合を示すもの、という意図があったのかもしれない。その意味では、本書こそがキルケゴールの思想を代表するもの、といっても良いのではないだろうか。
ここで使われているアンチ・クリマクスという著者名は、明らかに、以前に出版された実存的主体性の問題を取り扱った『哲学的断片』や『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』の著者名ヨハネス・クリマクスに対抗するものであることが意識された名前である。
ヨハネス・クリマクスという名前は、精神の梯子をのぼっていく人間、限界や「破れ」、「罪」を抱えた人間が、自分の地平から真理(救い)を追い求めて行く人間の一人として位置づけられた名前である。これに対して、アンチ・クリマクスは、天の梯子から下ってくる人間である。アンチ・クリマクスは、精神の高みから低いところに向かって出発する人間である。
上に登っていく者と上から降ってくる者、この両者が出会うところ、そこに人間の実存がある。「義人であると同時に罪人(M・ルター)」、「善であると同時に悪」である人間。キルケゴールの思索は、そこでの人間についての思索に他ならない。
通常、「人間」は「人の間を生きる者」と倫理的に理解される。英語の「ヒューマン」も同じ意味である。しかし、人間は、「天と地の中間にある者」、「善と悪の中間」、「聖と俗の中間」の存在という存在論的理解もある。
キルケゴールが『死に至る病』をあえて仮名で出版したことには、こうした「中間存在としての人間」という人間の実存的理解があるように思われるのである。
キルケゴール自身もまた、自分はヨハネス・クリマクスとアンチ・クリマクスの中間にいる人間であると感じていたようである。
彼は、日記の中で、「(ヨハネス)クリマクスは私よりも低い。自分がキリスト者であることを否定している。アンチ・クリマクスは、私よりも高い。彼は異常なまでもキリスト者である」と書いている。そして、人間が「天と地の中間のもの」であるが故に生まれてくる精神の気分、これが「絶望」である。
夢破れ、希望が失われても、なおそれを望まざるを得ないが故の絶望。キルケゴールはこの絶望を見つめ続けるのである。
考えてみれば、ある意味で、キルケゴールは人生に失敗した人間である。成功とか失敗とかは、人生においては、本当は何の意味もないことではあるが、一般的に言えば、彼は、自らの意志とはいえ、愛する女性と別れ、望む職には就けず、多くの誤解と非難を受け、失意の連続の中にあったのである。しかし、それだからこそ彼の思想は聞くに値する。絶望の中での深い思索に意味がある。絶望は人間の根本的気分に他ならないからである。
本書の緒論によれば、『死に至る病』という表題は、「この病は死に至らず」という新約聖書のヨハネ福音書第11章のラザロの復活物語の中で言われたキリストの言葉からきている。ラザロという生まれつき病を抱えていた人が手当の甲斐もなく亡くなった。その姉妹のマルタとマリアは、悲嘆にくれていた。そこへ、エルサレムへ向かうイエスとその弟子たちが通りかかると、マルタとマリヤは、イエスに、来るのが遅かった、ラザロはすでに死んでしまいました、と訴えた。そこでイエスは、「この病は死に至らず」と語り、ラザロの生命を取り戻したというのである。
キルケゴールは、この聖書の物語から、人間を「死に至らない病」と「死に至る病」の状態にある者に区別して、究極的な死に至る病としての精神の死、つまり、絶望が究極的なものであることを示そうとしたのである。肉体の死は、それが多くの苦痛を伴うものであれ、まだ究極的な死を意味しない。人はまだ、思いでの中に、記憶の中に生きることができる。「この病は死に至らず」という言葉は、「希望がある」と言うことを意味する。
しかし、精神の死は絶対的である。人は空虚な「無」そのものとなる。だから、絶望は死に至る病である。絶望と無は、相関的に人間の暗闇の淵を無限に開いていく。人は、自分が「無」となることを恐れる。無視されることを最も嫌うのは、その予兆である。それ故、彼はまず、第一部で絶望が死に至る病であることを示そうとする。
以下は管理人注:「或る富める人あり,紫色の衣と細布とを着て,日々奢り楽しめり。又ラザロという貧しき者あり,腫れ物にて腫れただれ,富める人の門に置かれ,その食卓より落つる物にて飽かんと思う。而して犬ども来たりて其の腫れ物を舐れり。遂にこの貧しきもの死に,御使たちに携へられてアブラハムの懐裏に入れり。富める人もまた死にて葬られしが,黄泉にて苦悩の中より目を挙げて遥かにアブラハムと其の懐裏におるラザロとを見る。すなわち呼びて言う,「父アブラハムよ,我を憐れみて,ラザロを遣わし,その指の先を水に浸して我が舌を冷させ給え,我はこの焔のなかに悶ゆるなり」アブラハムは言う,「子よ,憶え,汝は生ける間,汝の善き物を受け,ラザロは悪しき物を受けたり。今ここにて彼は慰められ,汝は悶ゆるなり。然のみならず此処より汝等に渡り往かんとすとも得ず,其処より我らに来たり得ぬために,我らと汝らとの間に大いなる淵定めおかれたり」富める人また言う「さらば父よ,願わくは我が父の家にラザロを遣し給へ。我に五人の兄弟あり,この苦痛のところに来たらぬよう,彼らに証せしめ給え」アブラハム言う「彼らにはモーセと預言者とあり,之に聴くべし」富める人言う「いな父アブラハムよ,もし死人のなかより彼らに往く者あらば悔い改めん」アブラハム言う「もしモーセと預言者とに聴かずは,たとひ死人の中より甦へる者ありとも其の勧めを納れざるべし」新約聖書 ルカ伝第16章19−30
<第一部> 絶望が死に至る病であるということ
アンチ・クリマクスは、まず、絶望を三つの状態に分けて提示する。彼は、その三つを次のように規定する。
絶望は精神における病、自己における病であり、それには三つの場合があり得る。
1)絶望の内にあって自己をもっているということを意識していない場合(非本来的絶望)。
2) 絶望して自己自身であろうと欲しない場合。
3)そして、絶望して自己自身であろうと欲する場合。
つまり、絶望を自己認識の度合いに応じて区別するのである。なぜなら、絶望は自己の気分であり、人が自分をどのように認識しているかによって、その状態が変わるからである。
彼は本文の書き出しを次のような有名な言葉で始める。
「人間は精神である。精神とは何であるのか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身に関わる一つの関係である。」
彼は、人間は精神であると規定する。あるいは、断言するといった方が良いかもしれない。この場合の「精神」というのは、単に、人間を精神と肉体に分けて二元論的に考える場合のような人間の部分としての精神ではない。この場合の「精神」は、人間の全体を意味する。人間の肉体と精神は密接に関連し、人間は原子の集合体の一つであり、人間の意識は原子間のエネルギーの交換である。にもかかわらず、人間は精神である。われわれが自らをさして「人間」という場合、それは、われわれの「精神」を指している。「人間」は全体として「精神」なのである。
よく、「人間の精神性」とか「精神としての人間」とかいう人間の概念が用いられたりする。その場合に対置されているのは、人間の肉体性である。しかし、「人間は精神である」というこの宣言は、その肉体性をも含めた上での全体としての人間を「精神」そのものとして位置づける、という意味である。
それ故、精神とは自己そのものである。では、自己とは何か。アンチ・クリマクス=キルケゴールは、この自己を自己の関係性において捕らえようとする。
「自己自身に関わる関係、すなわち自己は、自分で自分を置いたものである か、それとも他者によって置かれたのであるか、そのいずれかでなければならない。」
と彼は言う。
人間は自己自身として単独に存在するのではない。もし、自己自身として単独にそれだけで存在しているものがあるとすれば、それは、「自己」という意識を持つことはないし、そのような自己意識を持つことは不可能である。人間は、本質的に関係存在であり、関係の中を生きている生物である。それ故、「自己」というものは、その人間が持つ関係から生まれてくるし、その関係によって明瞭になるのである。そして、人間が本質的に持つ関係は、常に二重である。第一に、人間は自己自身と関係をもつ。内省や意識というレベル以外に、人間の精神は、あたかも自分自身の外に立っているかのようにして、自分自身を眺めることも可能である。
このようにして、人間は「自己」を獲得する。
人間が本質的に持つ関係の第二は、第三者との関係である。
「自己自身に関わるこの関係が、他者によって置かれたものであるとすれば、それは自己自身に関わる関係であるばかりか、さらにこの関係そのものを置いた第三者に対する関係である。」
人間は第三者との関係において、自分がどのようなものであるかを知る。自分と関わる第三者が、自分をどのような人間と見なし、どのように扱うかを知ることによって、自己自身について認識する。
このように派生的に置かれた関係が人間の自己である。それは自己自身に関わるとともに、この自己自身への関係において他者に関わる関係である。そして、絶望とは、この人間が持つ関係における究極的な負の気分である。
絶望は、自己の精神的状態であるから、自己意識のないところでは生じない。自己意識のないところで生じるものは、「不幸の気分」であったり、「悲しみの感情」であったりする感覚である。だから、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、これを「非本来的絶望」と呼ぶのである。「非本来的絶望」は絶望の感覚である。
それに比して、「自己」をもつものは、「本来的絶望」を経験する。そして、人間の「自己」は、まず第一に自分自身と関わり、第二に自分以外の第三者と関わるという二重の関係の中で認識されるものであり、「絶望」がこの関係における究極的な負の気分であるなら、「本来的絶望」には二つの形があることになる。
一つは、「絶望して自己自身であろうと欲しない場合」であり、もう一つは、「絶望して自己自身であろうと欲する場合」である。
自分自身を内省して絶望した場合は、簡単に言えば、自分自身が嫌になった場合は、彼は、今まで生きてきたような自分自身でないことを、自己自身から逃れることを、欲する。彼の自己は、自分自身であることを否定しようとする。内省というのは、常にそうした気分を伴うものであるとは言え、その場合には、絶望して自己自身であろうと欲するなどということはあり得ない。極端な場合は、自己が自己を消滅させようとするか、出口のない自己否定の暗い穴に落ち込んでしまう。もがけばもがくほど苦しみ、彼の自己は自らを傷つける。
では、「本来的絶望」の第二の形である「絶望して自己自身であろうと欲する」ようなことができるのは、いったいどういう場合なのであろうか。それは、自己が自己自身に関係しつつ、同時にその関係そのものを置いた他者に対して関係している場合である。
この「人間存在の本質的関係性」を認識している彼が絶望している場合、彼の絶望は単独の自分自身からだけではなく、第三者との関係におかれた自分自身、もしくは第三者との関係そのものから生じたものである。そして、人間の存在は、たとえたった一人で生きているように思えたとしても、本質的に、このような関係性の中に置かれているのだから、あらゆる絶望は、この「本来的絶望の第二の形」、つまり、「絶望して自己自身であろうと欲する場合」に帰着していく。
ただし、この絶望は単に自分自身から生じたものではないのだから、自分自身で絶望を取り除き、平安や平静に到達することはできない。絶望者が、どんなに全力を尽くしても、自分だけで絶望を取り除こうとするならば、なお絶望の内にあるのであり、自分ではいかに絶望に対して戦っているつもりでも、ますます深く絶望の淵に沈むばかりである。
だから、絶望における分裂は、決して単なる分裂ではなく、「自己自身に関わりつつ、同時にある他者によって置かれている関係の中での分裂である。」(20〜21ページ)。
ここから、「絶望が完全に取り除かれた場合」を考えることが可能である。それは、自己が自己自身に関係しつつ、同時に第三者と関係している中で、なお、自分自身であろうと欲する時の状態に他ならない。
絶望してなお自分自身であろうと欲する者は、この関係性の中で、自分の存在の根拠を見出すのである。これがここから考えられうる「絶望が完全に取り除かれた状態」である。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「絶望してなお自分自身であろうとすること」について、「存在の根拠の発見」ということで述べた。だが、それは可能なのだろうか。人はどこに自分の存在の根拠を見出すことができるのだろうか。「人よ、あなたはどこにいるか。」
自分自身に絶望している者は、自分自身に自分の存在の根拠を置くことはできない。具体的な他者との関係において絶望している人間は、他者との関係に自分の存在の根拠を置くことはできない。だとしたら、人はどこに自分の存在の根拠を見出すことができるのだろうか。人は、生きている限り、自分の存在の根拠、あの「生きていてよかった」という実感を伴った根拠を求めざるを得ない存在である。
だからこそ、人は自分自身と関わり、他者と関わる。だが、その存在の根拠はどこにもない。ここに、もう一つ深い絶望が横たわっているのである。
そもそも、人は、何故、絶望するのか、絶望はどこからやってくるのか。この問いに対して、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、「絶望の可能性と現実性」という観点から論じようとする。
「可能性」と「現実性」という言葉は、アリストテレス以来、現実の状態を示すために用いられている概念である。「可能性」とは、「ありうる」「できうる」ということを示し、「現実性」とは、「ある」「・・・している」ことを示す。
たとえば、家の柱となりうる木とすでに柱である木。視力を持っているが、今は目をつむっている者と現に見ている者。ある像となりうる大理石の固まりとすでに彫刻されて完成している像。一方は可能性においてあり、他方は現実性においてある。通常、「可能性」から「現実性」への移行を「生成」と呼ぶ。
しかし、「絶望の可能性(絶望できるということ)」と「絶望の現実性(現に絶望していること)」との関係は、通常の生成の場合と異なっている。普通なら、可能性から現実性への移行は、存在可能なことから存在へと至る上昇と考えられる。しかし、絶望の場合には、可能性から現実性への移行は、存在から非存在への下落となる。
なぜなら、現に絶望していることは、絶望することができるという可能性すら失っていることであるからである。絶望は、あらゆる可能性の否定であり、非存在へと向かう精神の運動に他ならない。そこでは現実性は、無力な否定された可能性である。
人間は自己であり、精神であるからこそ、絶望することができる。人間の自己は絶望する可能性を無限にもっている。もし、「自己」をもつあなたが自分は絶望などしていないと思ったとしよう。しかし、それがただ単に絶望していないというだけのことであるなら、あなたは、やはり、絶望しているのである。
絶望していないということは、絶望することができるという可能性を全面的に否定することであり、それは「自己」というものを失っていることを意味する。そして、「自己」を失っているのであるから、それは絶望に他ならない。
だから、絶望することができるということは、「自己」、あるいは「精神」をもっているということであり、これは人間がもっている無限の長所である。
しかし、「現実に絶望するということは、最大の不幸であり悲惨であるばかりでなく、実に最大の堕落である」のである。なぜなら、絶望は自己自身を失うからである。この絶望は、人間が、自己そのものであると同時に、自分自身に関わるという二重性の統合的な存在であるところからやってくる。人間は無限と有限、時間と永遠、自由と必然の統合である。
この統合のバランスを失い、自己自身に対する関係の内に分裂が起こることが絶望に他ならない。人間の二重性の統合は、その内に分裂の可能性を内包している。
そして、この統合の分裂を引き起こすものは、あくまでも「自己」であり、それ故、絶望は自己の自由な決断によって、自らが招き寄せたものに他ならない。
絶望の責任は、どこまでも自分自身が負わなければならないものなのである。
絶望は「死に至る病」である。
しかし、この「死に至る」という概念は、絶望したことの終わりが死というような意味ではない。確かに、絶望状態にある人は、肉体的にも精神的にも疲労困憊の状態に陥るが、絶望という病で、人は肉体的な死を経験するのではない。「絶望のあまりに自殺する」ということもあるが、その場合、自分で自分の生命を断とうとする人は、その最後の瞬間には、まだ「自分(自分の生命を断つことができる自分)」というものがあり、自分に対する信頼は、「死ぬことができる」姿で残されている。
絶望は、その自分自身に対する信頼さえ失うことであるのだから、「絶望の苦しみは、まさに死ぬことができないという点にある。」のである。
死は過ぎ去ったものであるか、これから来ようとするものであるかのどちらかである。もしそこに苦痛があるとすれば、これから確実に来るものに対する不安から生み出されたものである。しかし、「死に至る病」の内には、過ぎ去ったものも来たらんとするものもない。そこにあるのは、常に現在的な苦痛である。絶望者にとっては、死ぬことができるという希望さえも失われるのである。
絶望は「最後の希望である死さえ来ないほどに希望が絶たれているのである。」(P.27)「絶望とはまさしく自己自身をすり減らすことである。けれどもそれは自己自身をすり減らそうとする情熱だけであって、自己自身をすり減らす力は持っていない。しかもこの無力感が新たな倍加された絶望の原因となる。」(P.27)
絶望者は何ごとかについて絶望する。一瞬、それはその通りである。だがそれは一瞬だけのことであり、本当は自己自身について絶望したのである。
「『カイザル(皇帝)か、しからずんば無』を標榜している野望家が、カイザルになれないならば、彼はそれについて絶望する。だが、その真の意味は別の所にある。
彼はカイザルになれなかったために、自分自身であることに絶えられないのである。だから彼は本当は自分がカイザルになれなかったことに絶望しているのではなく、カイザルになれなかった自分自身について絶望しているのである。
・・・この自己が今では彼にとって耐えがたいものなのである。・・・カイザルになれなかった自己自身から逃れられないことが、彼には耐えられないのである。」(P.28)
「だから、何ごとかについて絶望するのは、まだ本来の絶望ではない。それは絶望の始まりである。
「若い娘が恋故に絶望している。彼女は恋人を失ったこと(彼が死んだとか、彼が彼女を裏切ったとか)について絶望している。彼女の絶望はまだあらわになってはいない。
本当のところは、彼女は自己自身について絶望しているのである。彼女のこの自己、もし彼女が彼の恋人になっていたら愛情を込めて逃れることができたであろう彼女のこの自己が、今では彼女にとって悩みなのである。
それはいまでは「彼」のいない自己であらねばならないからである。彼女にとって宝ともなったであろうこの自己、それが彼が死んだいまとなっては、いとうべき空虚となった。あるいは彼が彼女を欺いたことが思い出されるがために、この自己が嫌悪すべきものとなったのである。」(P.29〜30)
絶望者は、自分が欲しない自己であることを強いられる。自分が欲しない自己であらねばならないことは、彼にとっては苦しいことである。絶望は、最後の砦ともなるべき自己を空虚なものにし、無と化する。だからこそ、絶望は「死に至る病」なのである。
そして、この病は普遍的である。「普遍的」といのは、誰もが、たとえ、自分は絶望していないと思っている人がいたとしても、自らのうちにこの病を抱えていると言うことである。
つまり、人間は「絶望する動物」に他ならないのである。
人間は「絶望する動物」であり、「死に至る病」としての絶望は普遍的なものである。つまり、人間は絶望しつつ生きているのである。「何らかの意味で絶望していない人間はひとりもいないと言わざるを得ないだろう。」(P.33)とアンチ・クリマクスは言う。
彼によれば、「絶望についての通俗的なありきたりの考察は、外見だけに捕らわれたものであり、皮相的な考察である。」(P.34)それは、自分は絶望していると表明するものを絶望していると見なし、絶望していないと言う者を絶望していないと見なすだけである。
人の姿の表面を見て、元気も生気もなくしているとか、悲しげな表情をしているとか、辛そうだとか言うだけで、その人が絶望していると言うなら、それはあまりにも皮相的である。人は明るい相貌の下で深い絶望を抱えて生きているのである。否、明るければ明るいだけ、その人は深く絶望しているかもしれないのである。
そしてまた、「自分は絶望などしていない、自分には希望がある」と思っている人もまた、自分で気づいていないだけ余計に絶望の根は深いのである。
だから、アンチ・クリマクス=キルケゴールに言わせれば、「絶望していないこと、言い換えれば自分が絶望していることを意識していないことも、まさしく一つの絶望の形」なのである。
通俗的な絶望についての考察は、絶望が自己認識によるものとの皮相的な理解しかしていない。自己が認識しない深い絶望が存在する。絶望は精神の「気分」であり、自己の分裂によって自分自身を見失ってしまうことであるから、自己の認識よりも深い存在の次元に根づいているものである。絶望を皮相的にしか考察しないものは、絶望の深み、ひいては人間をその深い次元において認識することができないのである。
また、通俗的な絶望についての理解は、精神の病といわれる絶望が、弁証法的なものであることを見逃している。
人間の精神は常に「あれか−これか」の選択と決断の危機の中に置かれており、精神はいつでも絶望に直面し、絶望の中に置かれる。「あれ」を選んでも、「これ」を選んでも、人間の精神は、そこに「自己」というものが存在する限り、絶望に直面し、絶望の中に置かれる。絶望は「無」であり、この絶望を認識する主体は「有」であり、絶望は、この無と有の弁証法の中にある。
生きることは矛盾に満ちている。絶望の弁証法を理解しないものは、この矛盾に満ちた人間の実存を見損なう。
それ故、キルケゴール=アンチ・クリマクスは、ここでは、再三に渡って、人間の自己というものを、二つの対立する契機(無限と有限、可能と必然)の統合として捕らえることを主張する。そうすることによって、絶望の様々な形が見えてくるからである。
そして、それによって、たとえば、ある絶望と他の絶望との差異が、絶望が意識されているか否かによって構成されている、ということがわかる。
一般に、自己にとっては、意識(自己意識)が決定的なものであり、意識がませばますほど、それだけ自己が増す。意識が増せば増すほど意志が増し、意志が増せば増すほど自己が増す。意志を持たない人間は、なお人間であることに変わりはないが、決して自己ではない。従って、自己の差異は意識の差異であり、絶望の様々な形はその意識の差異と相関的なのである。つまり、絶望の様々な姿は、その人の意識に従って段階をたどっていくのである。
アンチ・クリマクス=キルケゴールは、こうして、人が絶望を意識する度合いに応じて変化していく絶望の形態を考察しようとする。
まず初めに、絶望が全く意識されない場合であるが、この場合は、問題はただ二律背反する(それぞれに対立している)無限と有限、可能と必然の契機だけとなる。この場合、絶望は全く感覚的に捕らえられたものとなる。絶望は、ただ「気分」として理解されるだけである。
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