2009/8/11
「エレシュキゲルの力とイルミナティ」
大多数は悪党であり,すぐれたものは少数。万事にわたり,運命による定めがある。万物は争いより生まれる。ロゴスはこのようなものとしてあるが,人間はそれを理解しない。<弁証法の父・ヘラクレイトス>
For our struggle is not against flesh and blood,but against the rulers,against the authorities,against the powers of this dark world,and against the spiritual forces of evil in the heavenly realms
<EPHESIANS6:12>
「私たちは、常に、エフェソ人への手紙、第六章の十二を思い起こさなければならない。『私たちの戦いは、血肉を備えた物理的存在に対してのものではない。それは、この世の闇の支配者の国や権力に対するものである。それは、高次元での、邪悪な霊に対する戦いである。』」これは1998年アル・オーヴァール博士の言葉である。
御前崎市を中心とした地震はとりあえず浜岡原発を狙って失敗したがカリフォル二アも注意した方がいいだろう。
やはり浜岡原発は被害が隠されていた。
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-753.html
CIAの前身OSSの秘密文書参照
紐付きでないため殺されたJOE VIALLSさんのHP
イルミナティは他人の目を見ることはないという。CISCO WHEELER女史は知り合いの同行者が私であったので目を避けることはしなかった。これはアリゾナ・ワイルダー女史(元イルミナティMother Goddess13位階で本名Jeniffer Green)の話だ。恐らくバビロニアの伝説における冥界の王ネルガルの妻であるエレシュキゲルの力を身につけたイナンナ(INANNA)に由来するものであろう。紀元前3000年,イナンナはシュメールの天国,豊穣,正義,戦争,性愛,治療の女神であり,見つめるだけで殺せるエレシュキゲルの力を地獄からの帰途身につけて戻ってきた。
邪眼(Evil eye)と呼ばれる邪悪な人間の発する力はそれ自体が悪であり,眼の光線を人間や動物に向けることで,世界に破壊をもたらすことが出来るとされる。そのDEMONS(悪魔)の邪眼のギリシャ神話に登場する例がゴルゴーンのメドゥサであり,その恐ろしい眼を見た者は石と化した。
ダンテが「神曲」でDEMONSを表すため,どれほど多くの名前を使用したかはウエルギリスにそれを使わせている。地獄篇第11歌,煉獄篇第12歌,第16歌など悪魔は話し手に応じて変化する。DEMOCRACYという単語があるがDEMONS(悪魔)+CRACY(支配)でありこれが民主主義の正体でもある。キリストは魚座の時代の架空の話であり次の水瓶座の時代にはその姿を消すが悪魔は確かに存在する。ヴェニスの商人アントニオは言う『デヴィルも聖書を引き合いにだすことがあるものだ』
フュースリの絵を基にした版画のこの魔女たちはシェークスピアの「マクベス」に登場する三人の魔女であろう。三人の名前はラケシス(人間に一生の長さを与える),クロト(人間の存在する時間を定める糸をつむぐ),アトロポス(人間の寿命がつきたとき大バサミで糸を切る)となっている。シェークスピア「マクベス」第一幕第一場で,最初の魔女は時間の長さを決め,第二の魔女はいつどこで集まりを持つかを決め,第三の魔女は太陽が沈むことにふれてマクベスの名前をもちだし,未来への言及「すぐにさ」でもって会話を終えている。
マクベス夫人曰く,さあ,短剣をお渡し。眠りこけた人間や死体なんて,絵に描いたものとなんらかわりはない。描かれたデヴィルを見てこわがるのは,子どもだけです<マクベス>
スイスのカトリック教会にあるガーゴィルが女の首を絞める姿を見て道化は言った『そんなにばかにしちゃあいけませんよ。わたしだって,デヴィルが女を食わねえ位のことは知っているよ。女は神様がたの召しあがりものだ。もっともデヴィルが味付けしたのはだめですがね。なにしろデヴィルときたら,女のことで,神様がたにえらい迷惑をかけている。神様がたが10人の女をおつくりになると,デヴィルが5人をきずものにするんだから<シェークスピア・アントニーとクレオパトラ>
ホレーショ:あっ,あれを。
ハムレット:天使たちよ,守らせたまえ。天の霊気をともなう善霊が,あるいは地獄の毒気をもたらす悪霊か,いったいどうして手厚く葬られた柩を脱け出し,経帷子(きょうかたびら)をすてて地上にあらわれたのか?どこに連れて行こうというのだ?もう先へは行かぬぞ。
亡霊:心して聞け。
ハムレット:聞こう。
亡霊:時間はわずかしかない。まもなく煉獄の炎にふたたびわが身をさいなまれねばならぬ。
ハムレット:おお,気の毒な。
亡霊:憐れみは無用だ,それよりわしの話に耳を傾けよ。
ハムレット:ああ,聞かずにおくものか。
亡霊:聞けば,そなたは復讐せねばならぬぞ。
小田島雄志<シェークスピアへの旅>より
『あらゆる劇は"世界の究極の意味を探る試みであると言える。その場合に、一つのやり方は、人間を超えた絶対的な目、つまり神の目を想定し、その目で見れば世界は隅々まで見えるのだと考えることである"。
"もう一つのやり方は、絶対的な目の存在を認め、しかもそれを人間のものと考えることである"。"我々は歴史の流れの中にある法則性ないし秩序を認め、歴史の目で見れば世界の意味が分るだろうと考えるのである。つまり、人間は歴史に究極の意味の認識を委ねるのであって、いわば歴史が神の代りをするのだと言える"。
"道化の精神はこれら二つのやり方のどちらもとらない"。人間を超えた絶対的な目も、歴史の法則性も否定する。"世界の究極の意味を現在この場で見てしまおうというのだ。道化の立場から見れば、過去と現在と未来との間には何の相違もないことになる。誰が王になろうと、誰が権力闘争から脱落しようと、同じことだというわけだ。人間とは要するに、自らの意志とは無関係にこの世に生まれ、欲望に動かされて生き、何の理由もなくやがて死ぬものなのだ"。
" 道化とは完全な認識を得ようとする人間のことだ"。神にもっとも近づいた時のあり方だが、"しかし、人間は神ではない。賢明な道化はそのことを知っている。だから道化にできるのは、あたかも自らが神であるかのように、あたかも自らが世界の究極の意味を知っているかのように振舞うことだけである。あらゆる道化につきまとう演技性はこうして生まれてくるのではないか。フェステやタッチストーンは、あるいはハムレットやフォールスタフは、愚者ないし狂人を演じているにちがいないが、彼等はまた神をも演じているのである"。(喜志哲雄「シェイクスピアの道化」)』
私は今シューベルトのセレナードの美しい音色のバイオリンを聞きながら書いている。喜志哲雄氏の言葉を引用すれば彼女は愚者ないし狂人を演じているにちがいないが、彼女はまた神をも演じているのである"ということになる。あらゆる人間を含む生き物が子孫を残そうとする手段としての性交渉はごく自然のありかたでもあり決して隠すことではない。パッション(情熱)は悲壮な体験を通してはじめて身につくものである。彼女の肉体はパッションそのものである。 完全な認識は完全な肉体への挿入と射精をもって終わる。それはノーベル文学賞を受賞した「眠れる美女」がヴァチカンによって最も嫌悪されたのと正反対である。観念性の極地はなく欲望の対象が意思をもって性交に応じるからであり性が自由や開放の象徴として表れているからである。性交そのものに嫌悪はなく愛の浸潤は自然であるがこれでは文学賞はとれない。その認識を与えてくれる存在は報酬をもって支えられなければならない。彼女にとって単なる食いぶちではなくサルトルの「存在と無」などに精通していなくてはならない。それだけではない。スタニスラフスキーの演技論にすら精通し「夢中にならずに真に迫る」という困難な命題に挑戦しなくてはならない。杓子定規にエロとかエロスとか言うがそれは形而上学的至高の世界を知らないからだ。へミングウエイは射精を哲学的願望をもっていたが叶わずついに猟銃自殺してしまった。
参考までにこのクラスならシンガポールのゲラン地区では100〜150ドルであろうか
スタニスラフスキー(Stanislavski)の演技論参照
インスピレーションや潜在意識の大切さを伝え、それが「役を生きる(living a role)」ことにつながるといっています。ここで間違えてはいけないのが、「なりきること」が「役を生きること」ではないということです。これが夢中にならず真に迫るということ。
『子どもというのは本当に素直です。妙な偏見に侵された大人たちとはまるで違う。お父さんのペニスが充分に勃起したとき,お母さんのバギナに.......
ソクラテス:えっ,えっ,何だって?
代表(大声で):お父さんのペニスが充分に勃起したとき,それをお母さんのバギナに挿入すると言ったのです。何か?
ソクラテス:いや,僕の耳が聞き間違えをしたのかと思ったんだ。わかった。それで?
代表:それで,お互いの快感が最高潮に高まったときに射精して完了するのが正しい性交の在り方だと教えてあげると,子ども達は目を輝かせて息を呑んで聞いてくれるのです。正と性の素晴らしさに感動しているのですね。このとき私は,自分が性教育に従事していることの歓びに.ああ,恍惚とするのです』<池田昌子・帰ってきたソクラテス>より。
聖霊の名のもとに妊娠するのか??これは精神病院のお話だろうな。
次の文章を笑わずに読めた人は........座布団何枚?
『天使ガブリエルがマリアに近づいて言った。あなたは神から身ごもって男の子を産みます。名はイエスとつけなさい。神である主はその子に父ダヴィデの王位をお与えになります』と。
『おれは一体なんという人間なのだろう。信介の体のなかで息苦しい快感と,真っ黒な絶望感とが同時にふくれあがり,今にも破裂しそうだった。それは彼が性に目覚めた少年時代から,ずっと信介につきまとって離れない,一つの鎖のような絶望感だった。それに突き当たるとたちまち心が醒めてくるのだ。いままでの情熱が,霧につつまれたようにぼんやりと薄らいでゆき,いいようのない脱力感が体の奥までひろがりはじめる。(一匹の黒い犬がおれの中に棲んでいるみたいだ)。その黒い犬は赤い舌をだし,いつも濁った赤い目でじっと信介をみつめていた』。<五木寛之青春の門・放浪篇>より
管理人はこういう話をかっこつけて書くことはありません。男の子を育てているお母さんたちは何にも分かっていないのですよ。
「四人の福音書家」(Book of Kells, ca. 800)
『人、獅子、牡牛、鷹の象徴はそれぞれ福音書家マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに相当する。最近分かったことだがそれらは春分,秋分,夏至,冬至を意味することは書いた。
ヨーロッパにおけるもっとも印象的な中世のガーゴィルは,明らかにパリのノートルダム寺院の塔にあるガーゴィルであって,その大半は13世紀末の様式による。ガーゴィルの一つは錬金術師の像であり,これらガーゴィルが人間の内なる性質を表しているのだという。こうしたオカルティストたちは,キリスト教教義の目的が,人間におけるデーモンの要素をあがなう(変成)ことだとしている。この仮説の観点では,デーモンの形態は人間の諸要素を表し,人間はこうした要素を贖(あがな)われ,天使の堕天を逆転するようなやりかたでもって,天にひきあげられるのである。
ジョン・ミルトンの「失楽園」を飾るギュスターヴ・ドレの木版画。全てのDEMONSがかつて天使であったという神話が表されている。
1667年ミルトン『失楽園』icon第7巻(岩波文庫)
だから、わたしはお前に話しておきたい――思えば、あれは天からルーシファが(そうだ、それが、星の中の星ともいうべきあの暁の明星以上に、かつては天使の群れの中でも最も輝ける天使であった彼の名だ)焔をあげて燃える仲間と共に、混沌の世界を真っ逆さまに己の行く場所へと転落し、御子が味方の天使たちを率いて凱旋されたときのことであった。
『失楽園』iconは現在の反逆天使としてのルシファー像を創り上げた、最高の悪魔文学だが、ミルトンは清教徒革命のクロムウェルの秘書を務めた、れっきとしたクリスチャンである。革命の挫折が、サタン=ルシファーに投影され、力強く美しい滅びの美学が描かれている。<ルシファー研究室>より
ギュスターヴ・ドレによるダンテ「神曲」の挿絵。氷の湖で,地獄の中心で苦しめられる者達を睨みつけるサタン。右手の氷の岩の上に,ダンテと導き手(古代ローマの詩人)のウエルギリスが見える。
エリファス・レヴィはこの像を「メンデスのバフォメット」あるいはサバトの山羊」と呼んだ。バフォメット(BAPHOMET)はモハメットの語呂からではないかと想像されるがテンプル騎士団のなかにあらわれるようになった事実はこの由来を支持でき,いかにしてこのバフォメットが異教信仰と結び付けられ,この言葉を使う者たちの心にDEMONS信仰の恐怖を引き起こしたかを説明づけるだろう。これらは単なる想像の産物である。
今はキリスト教徒である元イルミナティ11位階の<暗黒の母>であったCiscoさんはこう言います。「神秘的なエジプトは悪魔主義の母体です。エジプトは何世紀もの間,実際は何千年もの間,オカルトの中心でした。エジプトにその知識を伝えたのはアトランティス人であるとオカルトの世界は信じています。私たちのシステムを作った人間はアトランティスの高僧でしたから,当然,彼らのオカルティズムもエジプトを手本にしていました。イルミナティの幹部の多くはグレイト・ピラミッドまで巡礼の旅をしています。
フリーメーソンのオカルト知識はエジプトを模範にしたものです。それについては,C・W・レッドピーターが著書「古代の神秘儀式」で古代エジプトの神秘宗教が今日のフリーメーソンに持つ意義について語っています。またデーヴィッド・キャリコの最新書は,今日の悪魔主義の儀式を詳しく調査し,SRA(悪魔の儀式での虐待)とエジプトの「死者の書」(Pert Em Hru)には一体一の対応があることを論証しています。また,モナーク・マインド・コントロールを行う集団の一つが,「セト神殿」と呼ばれている。
エジプトのオカルティズムがヘルメス魔術やフリーメーソン,悪魔主義にそれほど大きな影響を与えているとすれば,私たちのシステムがエジプトの影響を受けていても,別に驚くべきことではありません。私たちの中にはナイルのクイーンと呼ばれる人格がいましたし,ナイル川もありました..........猫はオカルト世界では重要な役割をします。エジプトでは猫は神だと考えられています。イルミナティは何年にもわたってエジプトの魔術を行ってきました。猫を崇拝し大切にすることはイルミナティの理事会への忠誠の証でした。エジプトでは猫を殺せば死刑に処せられました。この法律は数世紀にわたって実施されています。ペルシャ人が戦闘でエジプト人を打ち負かしたのも,エジプト人が戦えないように猫を抱いていったからです。
ローマの神サートウルヌス(土星)が何千年もの間,世界的に人々の中心的な崇拝対象であったという事実はほとんど知られていません。「サートウルヌス神話」という本は,内々ではあるが広範に行われてきたこの世界的なサートウルヌス信仰について詳細に検討しています。太陽信仰もサートウルヌス崇拝も悪魔崇拝と結びつくものです。両者とも悪魔崇拝の姿を変えたものにすぎません。オカルト世界はこのことを知っていますが,それ以外の世界ではほとんど知られていません。ローマはサートウルヌスの都であり,何世紀もの間,悪魔主義とその神秘宗教の重要な中心地でした。悪魔主義者の指導部は九つの評議会と13人大ドルイド評議会(カウンセル),その他多くの下位集団で構成されています。血の人身供犠を定期的に行うイルミナティの幹部は,善と悪を超越した生きた利己的な神です。悪魔は,悪霊ベルゼブルを片腕に,悪霊にも位階制度を設けました。オカルトの考えは「悪魔の狂気の論理」以外には全く論理的基盤を持っていません。
世襲される悪魔主義は少数独裁制に基づいています。英国の王室も彼らの親戚のヨーロッパの王族達も,悪魔主義者の血を引く家系です。デンマーク王はひそかに儀式に参加しています」と。
ありとあらゆる陰謀の影には彼らの末裔たちがいる。
ボルシェビキ革命時代,CHEKAの拷問部屋にあった「ブルジョアに死を」と右手にメンデスの山羊が見える。(写真提供:クリストファー・ストーリー氏)
ゴヤ作:魔女たちのサバト。おそらくバフォメットを意味しているのだろう。<上の記事はフレッド・ゲティングス「悪魔の事典」より一部要約・解説ETCです>
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