2009/7/30
「シンクロ二シティと呪術的思考」
青年,否,人間一般が生涯の各時期に自分を完成したものと思うことができて,真であると偽りであると,貴きと卑しきとを問うことなく,自分に適ふもののみを求める無智こそ幸福である<ゲーテ・詩と真実より>
奴隷制度を批判した建国の父トーマス・ジェファーソンは多くの奴隷をかかえ,しかも白人と黒人の混血であった奴隷女サリー・へミングスとの間に不義の子があったのではないかという疑惑である。長くなるので省略するが,へミングスの子供たちの多くがジェファーソンそっくりであり,へミングスが身ごもった時期と,ジェファーソンがバージニアの自宅にいた時期が一致していた。恐らく彼が今生きていて質問されればこう答えたであろう。『アブラハムよりはましだ』と。(これは「トムとサリー物語」として長く全米で連続テレビ番組として流された。なおジェファーソンはAdam Weishauptがインゴルシュタット大学でCANNON LAWを教えていた時の生徒である)
Adam Weishauptの2000人の工作員の内の一人に,HG・Wellsがいる。SF物や,透明人間を書いたかと思うと,世界文化史(The Outline of the History)のような大作も書いている。余程の資金的バックアップがないと,とても出来る内容ではない。恐ろしいほど正確なのだ。日本では新潮社の文庫本で売っている。(8巻まで)その最後の締めの「人類の前途」でこう,NWOのことを語っている。
人類の運命がどんなものであろうと、社会正義の十分な評価をともない,世界に生まれてくる子供たちの大多数に,健康,教育,機会のほぼ均等が確保される人間の連合体であり,それが歴史に新しい段階を開くような人間のエネルギーの開放と増大を意味することであるのには,問題はありえないであろう。................
過去に現れた超人というものは,自然発生的なものと考えるのでなければ,ぺリクレスのアテネ,メディチ家のフィレンツェ,エリザベス朝のイギリス,アソカ王の偉業,唐や明時代の芸術は,不断の,そして累積的に与えられた安泰の世界がこれを維持したものの一例であると結論ずけても無理ではないであろう。...............
われわれの現在の混迷から,近い将来に正義の新しい世界連邦をつくりあげるという努力への集中を,正しいとするのはじつにそのような考えなのである。
しかし,素晴らしい世界連邦ができあがれば,その最初の成果の一つは,いまの野獣(注:ゴイム=非ユダヤ人:)をより良く保護(注:収容所に入れる:)するようになるだろう,と。
ルソーはテレーズとの間に生まれた子供五人を次々と孤児院に入れてしまった。「告白」で慙愧の念で告白している。アラビアのロレンスは生涯,異性の肌に触れることはなかった。雑役夫に尻を血がでるまで鞭でたたかせ,幸福感を味わった。ベルレーヌは酔って愛人のランボーにピストルの引き金をひいた。オスカー・ワイルドは男色を好んだ。トーマス・マンは「ヴェニスに死す」で同性愛者であることがわかってしまった。マーロン・ブランドの妻は「ラスト・タンゴ・イン・パリ」の試写を見て余りの下品さに驚愕し離婚届を突きつけた。バートランドラッセル卿は80歳で四度目の結婚をし精力絶倫ぶりをみせつけた。へミングウエイは四度結婚し,射精を哲学的願望をもって望んだがかなわず散弾銃の引き金を引いた。アンドレアガシはたった二年間の結婚で女優に慰謝料を20億円をふんだくられた。
どれも生身の人間という神である。人間という者はあらゆる萌芽を内在しておりある時は悪人の顔が,ある時は善人の顔をだす。だからあんなにいい人があんなことをして........などは日常茶飯事なのである。人が生きるとはシェークスピアだけが答えを出してくれる。 人間が人間らしくなって24万年。12時間に短縮すれば,11時50分になってやっとべーコンがでてくる。人の一生を75歳とすれば,わずか7.5秒である。
ロンドンでプレヴユーを見たことがある。これは数日間お客の反応を見て,手直しをしてから,本当の初日(GALA)を開く習慣が欧米にはある。マクベスのプレヴューを見た時の台詞は今でも忘れない。
「明日 また明日 また明日と,時は小刻みな足取りで一日一日を歩み,終には歴史の最後の一瞬にたどり着く。昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す死への道を照らしてきた。消えろ,消えろ,つかの間の燈火!人生は歩き回る影法師,あわれな役者だ,舞台の上でおおげさにみえをきっても出場が終われば消えてしまう。わめき立てる響きと怒りはすさまじいが,意味は何一つありはしない」マクベス
話のついでにトルストイ「復活」59章を思い出した。
『世間に最も広く流布されている迷信の一つは,人間というものはそれぞれ固有の性質を持っているものだということである。すなわち、善人とか,悪人とか,愚者とか,精力的な者とか,無気力な者とかに分かれて存在しているという考え方である。
だが,人間とはそのようなものではない。ただわれわれはある個人について,あの男は悪人でいるときよりも善人でいるときのほうが多いとか,馬鹿でいるときよりもかしこいときのほうが多いとか,無気力でいるときより精力的であるときのほうが多いとか,あるいはその逆のことがいえるだけである。
かりにわれわれがある個人について,あれは善人だとか利口だといい,別の個人のことを,あれは悪人だとか馬鹿だとかいうならば,それは誤りである。それなのに,われわれはいつもこんなふうに人間を区別しているが,これは公平を欠くことである。
人間というものは河のようなものであって,どんな河でも水には変りがなく,どこへ行っても同じだが,それぞれの河は狭かったり,流れが速かったり,広かったり,静かだったり,冷たかったり,濁っていたり,暖かだったりするのだ。
人間もそれと全く同じ事であり,各人は人間性のあらゆる萌芽を自分の中に持っているのであるが,あるときはその一部が,またあるときは他の性質が外面に現れることになる。そのために,人々はしばしばまるっきり別人のように見えるけれども,実際には,相変わらず同一人なのである』と。トルストイの文学的師はルソーだったようですがおそらくルソーの「告白」を読んで我が意を得たりだったんでしょうか。どうか皆さんも人生についてあまり深く考えないように。男と女が勝手に「コウマン」して出来ちゃったのですからね。フランス人はどうにもならない時によく言います。「C'est la Vie」と。人生なんてこんなもんよ,という意味です。なにせ男女にそれぞれ制御不能なものがついているのですから(笑)脇を甘くすれば人は寄ってくる。締めれば人は遠のくが人生はその辺のさじ加減。押してよし,引いてよくても一元論者では孤立化する。莫迦も利口もこちらの味方にすることだ。自我などというつまらないものはさっさと捨て無我になることだろう。パーリー語本「大パリニッパーナ経」の中にブッダの死に至る過程が書かれている。中村元訳本として「ブッダ最後の旅」として岩波書店から購入できる。。
個を貫くことが出来る人はごく限られた人たちであるがゴーギャンなどはその真理が美の追求であったため孤独はむしろ好都合であったようだ。
『サマーセット・モームの「月と6ペンス」にはゴーギャンはストリックランドとして書かれている。「ストリックランドの悲劇 まさしく悪魔にとりつかれた人間だ。世の中には真理を求める激しさのあまり,目的を達することがかえって彼等の拠って立つ世界を,その根底から覆してしまうような結果になる。そういう人間がいるのだ。ストリックランドがそれだった。ただ彼の場合「美」が「真理」に代わっていただけのことだ。私は彼に対して,ただ深い深い憐れみを感じるだけだ」......
ー南と東の軽い微風よ
お前らは,もつれあってたわむれ
わたしの顔を軽くなでる。
ほかの島へ打ちつれて吹きよせよ。
その島で
愛しい木陰にすわっている,
私を捨てた人に会うであろう。
その人に
泣きぬれた私を見たと告げておくれ。
ポール・ゴギャン自伝「ノア・ノア」より
こうしてゴーギャンは拠って立つ世界を覆した結果たった一人という「孤独」を知ることになる』と。そのゴーギャンの愛した地「タヒチ」に若い頃二年間駐在出来た経験は管理人にとって幸運であった。
マルキーズ諸島アツオナにあるゴーギャンの墓
フランス第五共和国憲法典72条によれば,共和国の地方団体は市町村(Communes)県(Department)海外領土(Territoires d'outre-Mer)からなっていて,95の県からなるフランス本土とTOM DOMと呼ばれる海外領土と海外県からなっている。タヒチ島を中心とする仏領ポリネシアは日本と南米のほぼ中間に位置し,日付変更線を通過するため日本とは19時間の時差がありシャングリラと呼ばれる最後の楽園でもある。
タヒチ在住のスウェーデンの文化人類学者ベン・ダニールソン(故人)のところへはよく遊びに行った。話しを聞いたり書斎にあった「南の島のポール・ゴーギャン」を読むと案外人生を享受していたようで「月と6ペンス」とはだいぶ違いがあった。デンマーク人の妻と正式に離婚していなかったため ゴーギャンの愛したテフラとの子供エミール・アタイは正式に認可できなかった。アタイは6人の子供を作り,テツアヌイ・ゴーギャンという名の娘がマルキーズ諸島のアツオナに棲んでいた。今頃はきっとアツオナのゴーギャンの墓に一緒に入っているのかもしれない。
巴里で客死した哲学者の森有正氏は「生きることと考えること」の中で恋愛についてこう語っています。
『日本人の経験というものは,分析が本当の個人意識まで絶対に下がっていかないのです。最後のところに「親子」の関係とか,「夫婦」の関係とか,「家族」の関係とか,[友人」の付き合いとか,義理とか,そういうようなものが網の目のようにその中に張りめぐらされてある。
だから少なくとも二人の人間で一つの個性というと具合がわるいが,一つの単位を構成しているというところが出てくる。その場合に,自分の個を貫くために,その結びつきを破るかというと,日本人は破らない。それが日本人の根本的な長所であり,また欠点だと思うのです。
個人意識が大事だということは,最後のところになると親子,夫婦,師弟というふうな結びつきが破れて,それが個々に分離していくところにある。ヨーロッパのばあいは,あるばあいには,ほんとうに親も離れ,先生も離れ,国も離れ,社会も離れ,なにもかも離れて,自分一人になってしまうという経験が,事実そこまで行ってしまうのです。
夫婦でも日本みたいに融合しない。親子でももちろん融合しないし,師弟も融合しない。親は自分の責任を尽くして生きてきたのだから,あとから来た子供は,その子供自身の生活なのだから,その生活を自分で営んで,またその次に出てくる子供から離れて一人で死んでいくわけです。そうであるからこそ,ヨーロッパには本当の恋愛が可能なのです。
日本人には本当の恋愛が非常に少ないということです。すぐに親がでてくる。すぐに先生がでてくる。ことに,すぐ友人がでてくる。そのために本当の恋愛は日本では成立しない。恋愛は男の個と女の個との関係です。ですから,孤独ということがなかったら恋愛なぞ,絶対にありえないのです。孤独において成立したもの以外は,多かれ少なかれ,みんな仲人口です。究極において個を貫けないという要素によるものです。
またフランスの試験制度については,学士になるとか,国家試験などでも,一年前に、試験の範囲が報告されます。例えば,フランス文学史の17世紀なら17世紀を勉強してこいとか,どういう著者を勉強してこいとかの指示があります。そういうやり方を通して,単に知識をコントロール(管理人注:大学の入学試験などでももう一度やりなおせば2/3が入れ替わってしまうような方法は国家に禍根を残すことになる)するのではなく,試験を準備させることによってその人に勉強させるというやり方をとっている。
中学校などでも哲学が必須で徹底している。デカルト,パスカル,カント,ハイデッカーなど学校用のテキストを正確に読んでおかなくてはいけないわけです』と.................しかし一般の善良な民は永井荷風や森氏のような真似は決してなさらぬように。しかし個を貫くということはえてしてエゴイズムと同一視されるがそうではない。「人生の後半で......余剰もなく不足もなく,必要なだけがそこにあり,必要なだけ使うという自己形成の完了はエゴイズムでは得られない感覚でもある」それは仏教用語で「足るを知る」ということでしょうか。
さて前置きが長くなったが本題に入ろう。量子力学(ブランクの量子則とハイゼンベルグの不確定性原理から発展した理論)の世界ではフラクタルなカオスという混沌状態のなかでも,ある秩序があるという命題を追っています。
シンクロニシティとは呪術的思考とも言われるが,事象の生起を決定する法則・原理として,因果性とは違う原理としてカール・ユングによる概念で共時性とも言われる。
カール・ユングの「心理学と錬金術」参照
チューリッヒ湖畔のボーリンゲンに彼が建設した家
ユング研究所
二つの事象がイメージにおいて類似性を備える時,この二つの事象が三次元の空間と一次元の時間を瞬時に埋めるという不思議な時空間として現れることがある。
その時空間の秩序であてはめられている中で,因果性では関係ないと思われる場合でも随伴して,現象として起こる場合これを「シンクロニシティ」の作用という。
ユングと超心理学(Wiki)
遠く離れた出来事が,物理的な因果関係で結ばれることなく相関性を持ち得るのは,量子力学の相関関係において表されている。衆生にとって肉親が死んだ時に,いわゆる「虫の知らせ」という精神波動が必ず起きることは知られている。この精神波動は一億光年先もわずか一秒で到達する。
Carl Jung的概念
こうした特別の精神波動を常にもっていた人がエドガー・ケーシーであり,ルドルフ・シュタイナーなどの人たちである。そしてアカシャの名簿に連ねるのである。次のアカシャは誰なのか,興味のあるところである。
下の二つの写真をよく見ていただきたい。上の写真の前列左で斜めになっている人は福田定一(司馬遼太郎)青年である。大阪外大内陸アジア専攻。人数を数えていただきたい。全く一致する。前列左で右手を右ひざにのせているのが司馬さん。空間の秩序であてはめられている中で,因果性では関係ないと思われる場合でも随伴して,現象として共時性(シンクロ二シティ)が起こったと考える他に理由は見当たらない。また同じ日に同じ人に何度も会うという現象〜例えば昔京都にある会社の面接に行ったとき行きの新幹線の斜め横にある婦人が座っていたが帰りの新幹線でも全く同じ位置にその婦人は座っていたことがあった。面接は失敗だったが「人間万事塞翁が馬」である。その後貿易会社のタイでの支店長の職を得た。
同じく下の写真の左で斜めになっているのがこのブログの管理人である。おなじく右手を右ひざにのせている。東京外大内陸アジア専攻。人数を数えていただきたい。こういう現象は記憶のテレポーテーシオンと呼ばれ,因果性では関係ないと思われる場合でも,魂が随伴して現象として起こる,つまりこれが「シンクロニシティ」なのである。多賀千明氏によると私たちの次元で昨日起きたことは,別の次元(四次元)でそれと全く同じことが起きている。私たちの次元で明日起きるはずのことが,四次元で起きているという。今日このユングの記事を書こうと思っていたら知り合いの女性からスイスのユング研究所の近くで泳いだとのメールが届いた。不思議な現象は沢山ある。皆さんは「虫の知らせ」と言っている現象は実は「中有」と言って人間だけが持っている精神波動でとくに身内が亡くなったような場合に知らせてくれる。この速度は光の速さの一億倍にもなるという。私はとくに敏感に感じる。
矢印が管理人で20歳の頃。後ろの女性はOBで旺文社に入社し我が家の庭のように取材しこの写真も当時の「蛍雪時代」に載った記憶がある。
一つ上の写真は埼玉県戸田市にある戸田漕艇コースにある東京外大ボート部の合宿所である。ケンブリッジ大,オックスフォード大との交流試合に備え練習中のこの写真は旺文社の「蛍雪時代」や「百万人の英語」に掲載された。合宿所には水死した部員の写真が飾られており,近くには精神病院があった。この日一人の精神病患者が窓から身を投げたと伝えられている。恐らくIQが200を超えるアカシャであろう。このアカシャがあの写真の「仲介」をしたに違いないと想像するのは被害妄想か。
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