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東日本大震災:福島第1原発爆発 避難所を転々と 苦しみいつまで--南相馬の男性

福島第1原発の事故を受け、避難先も転々とする山田さん(左)。避難途中に、放射性物質のスクリーニング検査も受けた=福島県二本松市の県男女共生センターで2011年3月14日午後2時15分、太田誠一撮影
福島第1原発の事故を受け、避難先も転々とする山田さん(左)。避難途中に、放射性物質のスクリーニング検査も受けた=福島県二本松市の県男女共生センターで2011年3月14日午後2時15分、太田誠一撮影

 ◇ガソリン尽きかけ到着

 11日の津波で自宅が壊れ、福島第1原発の事故で親族宅を転々とした福島県南相馬市小高区の山田知市(ともいち)さん(44)。それでも、燃料不足に苦しむ被災地のためにと給油所勤務に復帰したが、同原発3号機の14日の水素爆発を受け、住み慣れた浜通り地方を離れた。自家用車のガソリンが底をつきかける中、ようやく避難所にたどり着いたばかりでの2号機のトラブル。自宅に帰れる日はいつになるのか。

 山田さんは、11日夜に「避難指示」が出た同原発の3キロ圏内にある同県大熊町の給油所に勤めていた。地震直後は停電で混乱する中、日暮れまで給油作業を続け、同日夜、自宅に向かった。普段なら片道20分だが、道路はあちこちが地割れしており、2時間半かけてたどり着いた自宅は津波が運んだ泥が床下まで押し寄せ半壊に近い状態だった。

 3キロ圏の避難指示で大熊町の給油所には戻れない。同じ小高区でも山沿いにあった義父母宅に、妻ゆり子さん(40)、小学4年生と1年生の息子2人とともに身を寄せた。

 だが、その後も事態は動いた。12日午後に同原発1号機で爆発が発生し、同原発から20キロ圏が避難指示対象に。義父母宅はその中にあり、20キロ圏をわずかに出た同市原町区の姉夫婦宅に再避難。地域住民のためにと、14日は原町区の系列店に出勤し、灯油販売などを続けていた。

 この日、ゆり子さんと息子2人は、体や衣服に付着した放射性物質の有無を調べるスクリーニングのため同県二本松市に向かった。そして午前11時ごろ、3号機の爆発があった。

 山田さんは車が衝突したような「ドーン」という音も聞いたという。ゆり子さんから「避難して」と電話が入り、避難所への灯油配達などを済ませて、正午過ぎに出発。避難車両で混雑する中、午後2時ごろ、家族と合流できたという。幸い基準値を超える放射線は検出されず、同日夕、二本松市の城山第2体育館にようやく入ることができた。

 同体育館は、原発災害を受けて避難者が増えたため、急きょ避難所として開放された。200人受け入れ予定だったが、14日夕には236人に達し、夜中にも人の出入りがあったという。山田さんと同様にガソリン切れ寸前でたどり着く人も多い。同市職員は「体育館に入れず、駐車場で車中泊される人が出ても、食事や水は提供しなくては。できる限りのことはする」と必死の表情で語った。

 15日朝、体育館には2号機のトラブルを伝える朝刊が配られ、被災者は食い入るように見入った。家族4人、義父母、姉夫婦らと共に3度目の避難先で一夜を明かした山田さん。全員無事なことを喜ぶ。それでも懸念は消えない。「津波の被害だけなら片付ければなんとか生きていける。でも、放射能の影響が落ち着かない限り、自宅には戻れない……」【太田誠一】

毎日新聞 2011年3月15日 東京夕刊

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