東日本大震災の発生当日の11日、福島第1原発で働いていた4人が、毎日新聞の取材に当時の恐怖を語った。停電で暗闇の中、サイレンが響き、脱出を求めるアナウンスと怒号が飛び交った。巨大地震は「安全神話」を誇った施設で働く人々をパニックに陥れていた。
5号機の原子炉建屋で管理区域内から搬出する物品が放射性物質に汚染されていないかを調べる作業を同僚としていた20代の会社員男性は突然、大きな横揺れを感じ、立っていられなくなった。
停電し、真っ暗な中で何かにつかまった。サイレンが鳴り「地震です、建物から退出してください」とアナウンスが流れた。急いで外に出ると道路がえぐられていた。所々に段差ができ、車が走れる状態ではなかった。
5号機から約100人が一斉に事務本館へ走った。本館から荷物を持ち出し、構内にある10メートル余の高台を目指した。いつもは静かな海が、遠くの方から白波を立てて向かってきた。到達するのを見届ける余裕はなく、走って自分の車に戻り、西門から逃げた。
「それ以降の原発構内の状態がどうなっているかはわからない」
3次下請けの男性社員も5号機にいた。翌週から始める機器点検の準備を終え、現場を離れようとした時だった。建屋の出口に向かう途中、ぐらっときた。立ち止まって様子を見たが、ひどい揺れだった。電気が落ちて非常灯がつき、砂ぼこりが舞った。原発施設内から出る際は放射線量を測定しなければならないが、地震で機械が止まり、作業員らが足止めされていた。「早く出せ」という怒声が飛び交ってパニックになり、警備員も止めることはなく、急いで出口へ向かった。
5号機と6号機の間にあるサービス建屋を出ると、地割れで40センチの段差ができ、配管のつなぎ目から水が噴き出していた。津波が来る前に現場を離れ、ほどなく県央の避難所に駆け込んだ。
1号機西側に隣接する廃棄物処理建屋の1階で放射線管理をしていた協力会社の30代の男性社員は、同僚ら十数人とともに揺れに見舞われた。仮設の足場が崩れ、蛍光灯が激しく揺れた。「放射能漏れの恐怖を感じた」
逃げ出そうにも物品用搬入口はシャッターが下り、2号機側につながる通路にも煙が充満。ようやく違う出口から外に出て正門前に避難する際、従業員用グラウンドが液状化現象でドロドロになっているのを見た。
4号機近くの原発敷地内で金属加工作業をしていた富岡町の会社員男性(47)は地面のゆがみと波打つような揺れに襲われた。揺れが収まり下請け会社の事務所へ逃げると、窓が割れ、棚も倒れてめちゃくちゃで、仲間とともに近くの駐車場で待機した。それでも自分も仲間も「大丈夫だろう」と思っていた。
建屋から出てくる大勢の従業員を見て異変に気付いた。建屋外に出る際に返却する簡易線量計を身につけた人が多かった。同僚を見かけ、線量計を持って出てきた理由を尋ねると、同僚は「順番待ちなんてしていられない。出口は長蛇の列でパニックだ」と言った。
翌日、テレビで水素爆発を知り、14日夜の放射線量の数値を見て避難を決意。母(76)と妻(49)、娘(17)の家族4人、車で南を目指した。「いつか故郷に戻れる」
東電によると、地震後、地下で作業中だった20代の社員2人が行方不明となっている。【岡田英、袴田貴行、神保圭作、太田誠一、駒木智一】
毎日新聞 2011年3月20日 東京朝刊