始めに、三重のお宝は何だろう?と考えるに当たって、3人中2人が四日市寄りの出身だった為か、地元で「日本一やかましい」として有名な、桑名の石取祭がいいのではないか、という案が浮かびました。文化財にも指定されているし、調べていくうちに何らかのお宝性が見つかるだろう、というような安易な考えで決めました。
〈石取祭の概要〉…まず、ここで石取祭とはどのような祭りであるかを紹介します。
桑名の石取祭は、春日大社の一神事で、毎年8月第1日曜を本楽、前日を試楽として行われます。
試楽日の午前零時に神前神楽太鼓を合図に、各町内の全祭車(現在は40台前後)が一斉に鉦・太鼓を叩き出します。その後夕刻より各組内に祭車がそれぞれの町内を連なるように練り廻します。また、午後10時より各町役員が参列して献石神楽が行われます。
本楽日は午前2時の叩出を経て、いよいよ夕刻からは祭の最高潮、春日神社への渡祭(練り込み)が始まります。本楽渡祭は毎年隔年で、南並び(偶数年度)・北並び(奇数年度)に整列して、順番に行われます。(このときの順番は毎年6月はじめに行われる御籤占式で、くじ引きによって決められます。)午後4時半に花車(一番車)が曳き出され、6時半よい渡祭が始まります。御神火が順次受け継がれます。
渡祭後は、第一組内を廻り、田町交差点にて午後8時半ごろ曳別れ(解散)となります。
(基本的には雨天決行ですが、本楽の日だけは延期します。)
だいたいこれぐらいの区域を練り歩きます。
〈石取祭の歴史〉…石取祭の史料のほとんどは戦災によって焼けて失われてしまったために残っていないそうなのですが、わかっている範囲で紹介します。
石取祭は春日神社の二大祭(比与利祭・御車祭)の1つである比与利祭から徳川時代の宝暦年間(約240年前)に分かれて盛んになったもので、もともとは比与利祭の中の一神事にすぎませんでした。この由来は石占の説・社地修理の説・流鏑馬の馬場修理の説などがあり、明白ではありませんが、桑名市の南郊外に流れている町屋川から、徳川初期氏子の人たちが7月7日より17日まで毎日川へ行き、新しい俵に川の栗石を拾い入れて小さな車に載せ、その車に綱をつけて男女子どもまでが曳き、笛を吹き唄を歌いながら奉仕したのが石取祭の原形でした。江戸期にはそれまでの単なる車が山車となり、笛は太鼓や鉦に変わり、町民一年一度の最大の娯楽行事となりました。
その後、明治・大正・昭和とその間多少の盛衰はありましたが、石取の発展も年々すばらしくなり、祭車も大きくすばらしいものになりました。祭車はやがて特有の美麗な三輪祭車へと発展し、上部には万灯以下山形十二張の提灯(人形・屋形の形式もある)を飾り、後部の径2〜3寸の陣太鼓1つと、径一尺3寸位の鉦4〜6個をつけて打ち囃しました。(→「祭車の構造」で詳しく説明します)
各祭車は彫刻・幕・金具・塗りと趣向を凝らし妍美を競い、祭車数約40台の中には、百数十年を経たもの、高村光雲等一流彫刻師により彫刻を施されたもの、祭車に漆を塗ったもの、あるいは天幕に描かれている図柄の豪華なものもあり、芸術的価値も高く、また永く庶民の文化遺産として受け継がれています。
桑名の石取祭は昭和56年3月30日に三重県指定無形文化財の指定をうけており、現在、国の指定文化財にも申請中で、来年あたりには指定をうけるかもしれません。
↑奉納された献石俵 ↑人形を飾った祭車 ↑美しい彫刻 ↑豪華な天幕
(神功皇后像) (岩戸神楽) (橋弁慶)
〈春日神社について〉…町民から「春日さん」と呼ばれ親しまれている春日神社とはどのような神社であるかを調べました。
正式名称は桑名宗社で、桑名首(おびと)の祖神天津彦根命(あまつひこねのみこと)とその御子天久々斯比乃命(あまくくしひのみこと)の二神を祀る桑名神社と、伊勢国造の遠祖天日別命(あめのひわけのみこと)と中古奈良春日大社から勧請した春日四柱神(かすがよはしらのかみ)とを祀る中臣神社の二社から成り、ともに延喜式にその名の見える古社で、110年ごろには、すでに桑名神社を三崎大明神と称し、桑名総氏神として崇められていました。
←桑名宋社往古の図
(桑名名所図絵所載)
〈石について〉…石取の由来について「日本民族の古からの石に対する信仰から、石を取って奉仕したのでは」という説があったのでここで紹介しておきます。
私たちの祖先は石を生きて生長するものと考え、永遠性を認めたので、神霊の憑依(うつる)すべきものとの信仰を持っていた。神社の原始的形態の石境(いわさか)石座(いわくら)は清浄な岩石を結集して作ったもので石を神体とする神社は今も多い。
比与利祭は桑名の氏人の祖先を祭る大祭であるが、祖先の霊を迎えるのは古来より正月と七月の中旬である。後世の盆の行事も名称や形式は仏教式になっているが、実は日本古来のものであることは早く民俗学者の説くところである。即ち比与利祭を行う為に石取をし、石取をなしてはじめて比与利祭を行い得るといえる。
かく石を献ずる古俗のある地であるから自ら石占の行事もあり、石占の地名も出来たのであろう。社地や馬場に石を敷いたもとのいわれはこんな意味からではないかと思われるが、文献の証拠づけるものはない。
○
川で拾う栗石は御影石
○
奉納された石は半分を境内、残りの半分を本殿の周りに敷いている
↑石のアップです。 ここに敷かれています。↑ ↑ここにも敷かれています。
(境内) (本殿の周り)
〈祭車の構造〉…ここで、祭車の詳しい構造を紹介します。
祭車は、まず鬼木とよばれる台木に破魔(車輪)の小輪を前に、大輪を左右に取り付け、縁板がはりめぐらされています。その上に社殿を模した階段および高欄つきの建築物が載せてあり、上部には山形に十二張の提灯を張り、万灯を取り付け、御幣を飾る。他に人形を載せたものもあれば胴部には彫刻の替りに胴幕・水引幕を飾る祭車もあります。
後部には、太鼓・鉦など囃子をする楽器が取り付けられています。太鼓は直径約80センチの大太鼓1つと、直径約40センチの大鉦を吊り下げています。
太鼓の上部には太鼓掛と呼ばれる横木があり、さらに太鼓の側面には太鼓掛を支える持送と呼ばれる支え木があって共に彫刻が施されています。太鼓後部上方を覆っている幕は天幕と呼ばれます。
明治後期ごろより、階段・三角の下に欄間を一段加えたものが作られるようになり、その後、漸次大形化をし、特に昭和に入ってからの祭車は、その一途をたどりました。
〈囃子について〉
祭には囃子がつきものですが、石取祭も例外ではありません。特にこの囃子は独特のもので、太鼓と鉦とによって打ち囃します。囃子には、五つ拍子と七つ拍子があります。
★ 5月16日に桑名にある石取会館に行き、石取祭を紹介するビデオや以前実際に使用されていた祭車などを見てきました。そこで、祭車に凄くお金がかかっている事や、石取祭が桑名の町の活性化をもたらし、財政を潤しているという金銭面での重要性などを知りました。各町の祭車の写真も展示してあり、すべてを見ましたが、どこの町の祭車もとても美しく、人々がとても大切にしている様子が窺われました。
しかし、町が潤うといえども、なぜ人々がそこまで祭にお金をつぎこむのか、この祭がなぜこんなにも永い間続いてきたのか、またこのような発展をとげてきたのかはわかりませんでした。「きっと、人々の心を動かす“何か”があるにちがいない!」そう考えた私たちは、祭の中心となる春日神社の宮司さんと、祭の担い手である町民の方にお話を伺いにいこうと決めました。
↑石取会館です。 ↑内部に祭車が飾ってあります。
★ 6月9日に桑名市にある春日神社に足を運び、宮司である不破正人さんに石取祭についてのお話を伺い、石取祭についての見聞を広めました。以下にその内容を報告します。
◆話を聞いて分かったこと
○現在の祭は石取祭保存会の人たちが中心となって行っている。
○祭をすることによって得られる事としては、
・町の一体感が高まる事(子供からお年寄りまで、話題がみんな一緒になるから)
・町内・組合の連帯感(寄り合いが年に何度も行われることにより。)
・桑名の活性化
(2、3年に一度は半纏(浴衣)を新調。+祭車を少しずつ修理し、そのほとんどが桑名市内で調達されている。毎年億という金が動くのではないか。)
・各年齢ごとに団結(石取祭という同じ価値観の下で)
・年長者を敬うこと
・昔から、ハメをはずせる、ストレスを発散できるものという面もある
(無心で太鼓をたたいているから爽やかで終わったあともスッキリ+ストレスがあっても、太鼓を〔叩く〕という原始的な行為をしているうちに全て忘れられる)
等が挙げられる。
○同じ行事を行うのではあるが、他所の町に負けたくないという競争心により、祭車に各町のこだわりが生まれ発展していき、ここまでの祭りになっていった。
○他の行事が廃れていく中で石取祭が今まで残ってきた理由としては、大きく分けて二つある。
@ 自分たちがして楽しむ祭りであり、観光地のような見せる祭りではない。また、御神事と遊びを皆がうまく使い分け、羽目を外すときは外す、しなければいけないことはちゃんとする、というような、折り目きり目・メリハリがある。
A 市民は子供時代から歌を歌い、知らないうちに覚えていく。またお腹の中にいるときから太鼓や鉦の音を聞いているので、祭があって当たり前のような感覚で、どこの祭にもある事かもしれないが、自分たちの祭りが一番だというような、特別な愛着がある。(7、8月になると地球の反対側にいても太鼓の音が聞こえてくるかのような気持ちになるとか、病気だった老人が知らないうちに鉦打ちに参加していた、という話もあるほど)
○祭に反対する人は少なからずいる。受験生を抱えた家庭や、引っ越してきた家庭などは祭りに反対している方もいる、とのこと。役に当たれば半ば強制的に組織に組み込まれる面や、祭りを続けることが財政的に厳しい面もあり、神社の方にクレームがくることもある(面と向かって嫌とは言えないためらしい。)また、家庭の奥さんは夫や子供の世話が大変で、反対もある。これに対し、婦人会のようなものを作り、祭りに参加させ楽しませようとしていて、だんだん協力的になってくれているらしい。
○騒音の件などで、早い時期で終わらせてほしいという要望があったため、祭のための太鼓などの練習期間は7/15〜7/20までに限定した。
○祭りをする上で問題になる金銭面をどうやりくりしているかという事だが、平均的に一つの祭車に35〜36戸だが、町によっては戸数が少なく、資金集めのために、その町の出身者にまで当たって(手紙を出すなどして)お願いすることもある。
※(戦後、祭車が焼けてしまった町は、お金が貯まるまで他の町に借りたりもした。
―→そこまでしても参加したいという祭りに対する想いが強い)
○町内で、一定の年齢ごとに会を結成して積み立てをし、寄り合いなどを開き、様々な役割を担っている。青年会……20〜40歳、大老会……60歳程度、など7、8個の会がある。
※(青年会の年齢が上がってきている。人数不足のため30歳くらいまで→40歳くらいまでに変わってきた)
○町民の氏子としての意識はほとんどないのではないか。そこまで求めるのは難しい。石取祭は祭事を設けるための準備のような前夜祭的なもので、氏子さんとして石に対して畏敬の念を持つ、という事はあまりないのでは。(中には石を持ち帰る方もいらっしゃるが。)
○神事やお祭りだの考える以前に、太鼓や鉦の音で、体が反応してしまうような祭りである。
↑宮司の不破正人さん
★ 宮司さんの紹介により、“茶茂”というお茶屋さんを経営している、石取祭保存会副会長:伊藤博章さんと石取祭保存会青年連盟会長:伊藤公一さんにお話を伺うことができました。以下にその内容を報告します。
◆話を聞いて分かったこと
○今までは桑名総社石取祭として春日神社が運営していたが、他の仕事もあり忙しいので、保存会が運営を受け持つことになった。これが保存会の仕事である。
○昔は一年間石取祭のために働いたと聞いた。今はいろいろな遊びができたが昔は太鼓を叩くことしかなかったから、一年間が石取り祭のことしかなかった。今でも年開けると石取りの話をする。不景気を吹き飛ばし町の活性化にもつながっていて、実際、石取祭で酒屋は年間の売り上げの半分も売れるそうだ。
○石取祭によってかかる財政の負担はとても大きい。石取祭に参加していないところだと町費が一月300〜500円の町もあるが、石取祭に参加している町だと町費は一月4000〜5000円ほどで、桁が一つ違う。石取祭は一町内でだいたい100万〜150万使うから町費はほぼ石取祭に使われる。
○実際のところ反対する人もいるが、これはあくまで御神事だからやるやらないは考えるまでもないため、投票などはした事がない。町内で大惨事があったり、祭車の修理などがあったりした場合は一年休祭するが、基本的に石取祭はやるものだとしている。
○不良行為の取り締まりに関して、会合を開いたりして対策をしている。懲罰委員会というのもあり、ひどい場合は休祭処置をとることもある。だが、各町ごとのちょっとした小競り合いはその町どうしの話し合いなどで済ませることが多い。
○各町の町民だけで参加していると思われがちだが、他の地域からの参加者も多くいる。友達から友達へと輪が広がっている。今は町民だけで参加しているところはほとんどなく、三分の一か多くて半分くらいは他の地域の人を入れているのではないか。しかし、入る人もきちんと規律を守ってもらわなければ困るので、入るためには保証人が要り、町民より会費も高くなっている。
○みんな気が付けば参加している。生まれて、たまたまそこに石取祭があって、物心が付く頃にはすでに参加しており、子どもは子どもなりに楽しんでいる。そして大人になるにつれて御神事であることなどを知り、奥深さを感じたりと子どもの頃とは違う思いで楽しむ。だから子どもと大人では祭りに対する意識が異なる。年齢が上がるにつれて今度は町として、ひとつのチームとして考えるようになる。
○町全体がひとつの体育会系の様なものであり、今まで挨拶もできなかったような子が祭りに参加して、終わった頃にはきちんと挨拶ができるようになっている。そういうしつけもあるからかなり上下関係は厳しい。つらいこともあるが、最低限のルールがあって、その中で最大限に楽しもうというのが本当の楽しさだと思う。そういう意識を、石取祭を通じて桑名の人間は持っている。仕事じゃないから力一杯楽しめるが、あくまで御神事だからある程度の緊張感は常にもって、真剣にやらなきゃならない。ただ、ハチャメチャに楽しむのとは違う。だから他の地域から参加している人にも、まずそういう教育をさせる。
○たとえ、仲のいい人とでも石取祭により町が別れたら敵同士。「自分たちの町が一番」「自分たちの町が一番」となり、祭車も豪華絢爛になっていき、競い合っていく。祭車はそれだけで価値があるものであり、値段は付けられないものである。
○今の時代、祭りが無ければ隣近所などと付き合いはなくなってきているが、石取祭があるから少なくとも一年に一度は顔を合わせる。それが東京へ行っている人でも会社に勤めている人でも石取祭になったら桑名に帰ってくる。だから古い友達にも一年に一回は会える。
○みんながひとつの目的に向かって準備を進めだんだん人が集まってくるといった、みんながひとつになれるようなことは、石取祭の様な祭りが無ければはなかなかない。
○そもそも祭を見に来た人に対してではなく、御神事として神に対して行っているので知っている人も少ないが、40町弱もの町が参加してこれだけ盛大に執り行われるのは日本でも数が少ないのではないか。
↑伊藤博章さん ↑伊藤公一さん
★ 不破さんも伊藤さんも、お忙しいにもかかわらずそれぞれ1時間ぐらい私たちのために時間を割いて、石取祭について詳しく教えて下さいました。話を聞いているうちに、聞いているこちらまでワクワクしてくるほど、祭の楽しさが伝わってきました。杖をついてしか歩けなかったおじいさんが、太鼓を叩かせてもらっているうちに自然と杖を離して歩き出していた話や、シベリアに行っていても、祭りの時期になれば頭の中で鉦や太鼓の音が鳴り響いてくると話した男性の話、桑名は正月や盆ではなく石取を中心に1年がまわっているといった話、祭の期間中は酔っ払ってダウンした人がそこらじゅうに転がっているといった話などを聞き、祭に対する町民の方々の思いや、町のいきいきとした様子がジンジンと伝わってきました。そして、3人のお話から、私たちは石取祭のお宝性といえるものを見出しました。
〈桑名の石取祭のお宝性〉
桑名の石取祭のお宝性として、私たちは以下のような点から、その<土着性>にこそお宝性があるのではないかという結論に達しました。
まず、桑名の人々は祭があることにより、市民が一体感を持ち、共通の目的で一緒に楽しめているという点があります。このように町全体で団結して、しかも同時にストレス発散も行えるような行事は今ではほとんど失われていっているのではないかと思います。
次に、町内の連携や協力が密接なものであり、目上の者や下の者と自然に接していけるという点があります。今の世の中では隣の家の事もよくわからないような所が多いですがが、桑名ではそれがなく、町全体の姿勢が違うのだな、という事が分かりました。
また、地元の方々は祭に対する誇りや愛着のようなものを深く持っていると感じました。生まれる前から太鼓や鉦の音を聞き、祭はあるのが当然で無くなるなんて考えられないという話などから、祭を大切にしていこうという気持ちがよく伝わってきました。
このような強い<土着性>は、他地域にはなかなか見られません。今の日本では、かなり貴重なものになっていると思います。そのような点からも、お宝といえるのではないでしょうか。
〈おわりに〉
最近のニュースなどでは、人間関係の希薄さが原因ではないかと思われる事件が目立ってきています。これは、インターネットや携帯電話などの情報メディアの発達によって、人との直接のかかわりを持たくともコミュニケーションを図れる(もしくは図れているつもりになっている)環境ができ、そんな環境に私たちが順応してきたことが原因であると思われます。桑名の石取祭のように世代を超えた人とのつながりや地域内の団結といったものの重要性を皆が再認識すれば、犯罪も減少し、より良い社会が作られていくのではないでしょうか。
〈参考文献(写真・資料引用)〉
「石取まつり」 不破義幹著 (桑名宗社社務所 発行)
「天下の奇祭 桑名の石取祭」 (桑名夏まつり推進協議会事務局 編)
「くわな石取祭」 (石取祭保存会 編)
〈取り組みを終えて…〉
稲葉 正洋
初めこの授業で三重のお宝を探るということになり、元々三重県出身じゃない私は、調べていこうと思えるネタが思いつかなかった。石取祭を調べていくことになっても石取祭のことを一切知らず、どうなることかと思った。だがその反面、石取祭は三重の無形文化財に指定されているなど、お宝要素がとても高そうな祭りなのでこれなら簡単かな、と思い気楽な気持ちでした。
しかし実際はそう簡単には行かず、石取祭の史実は戦災でほとんどなくなってしまっていたり祭が受講している間に行われなかったりと、色々大変なこともありました。なによりお宝性を考えるのは本当に苦労しましたが、石取祭に関わっている桑名宗社の宮司さんや石取祭保存会の副会長や青年連盟の会長の方のお話を聞くことができ、桑名の石取祭を行う地区の人たちの祭にかける情熱や愛着を知ることができました。今回のルポルタージュはこれらの方々の話なしでは成しえなかったと思い、ルポルタージュを作成する際のインタビューの重要性を痛感しました。また、知らない人にアポをとり、取材しに行くといったことなど初めての経験だったので、とてもいい勉強になりました。
梶浦 彩
はじめに『三重のお宝 パートU』をやると聞いて、「先輩方が以前に取り組んだもの以外、三重にお宝になりそうなものなんてあったっけ??」と思い、正直なところ、テーマは本当にただ「日本一うるさい」「天下の奇祭」という売り文句だけで桑名の石取祭に決めてしまいました。とりあえずテーマを決めたのはいいのですが、誰も実際に祭を見たことはなく、また、どんな祭であるかも全く知らなかったため、まず石取祭というのはどのような祭であるかということから調べなければなりませんでした。その上、日程の関係上、祭を実際に見ることができないという問題点も浮上しました。ひとまず桑名の石取会館に足を運び、祭のビデオや実際に使われていた祭車を見ましたが、どうもピンときませんでした。
「実際に見ることなしに、石取祭のお宝性なんてみつかるのだろうか…。なにか体験をしなくては…なにか体験したい!!」
焦った私は、とりあえず桑名の友人に、「祭車が保管されているところを見てみたい、できれば実際に鉦や太鼓をたたいてほしい、さらにできれば私たちにもたたかせてほしいのだが無理だろうか」という要望をしました。この時、私は祭車が町民の人たちにとっていかに大切なものであるかなど、全く知らなかったのでこんな無茶な要望をしてしまいました。(町民の人たちですら、祭車に触れるときには手袋をして細心の注意を払うというのに、石取のことをほとんど知らない私たちが、祭車にさわれるはずがありません。)今思うと、とても恥ずかしいです。
そんな私たちが石取祭のお宝性を見出す事ができたのは、春日さん、茶茂さんのおかげだと思っています。忙しい中、日程をあわせていただき、様々なことを丁寧に説明していただきました。また貴重な資料も数多く提供していただきました。春日さん、茶茂さんで石取祭について伺う事ができなければ、このお宝性は発見できなかっただろうと思います。石取祭のことを話す時のキラキラと輝いた目がとても印象的で、そこからも祭に対する熱い思いを感じました。私の住んでいる住宅街は、人口が多めなせいかやっぱりそれほど近所付き合いもさかんではなく、町内のお祭へ行っても、あまり知っている人には会いません。せいぜい同級生ぐらいです。なので、今回桑名の町の様子を伺って、とてもうらやましく思われました。
今年は、祭がテスト期間と重なるため、おそらく実際に見に行くことは難しいと思われますが、やはり実際に見てみないとわからないことも多いと思うし、茶茂さんも実際そうだ(それも、3日とも見てみないと本当の良さはわからない)とおっしゃっていたので、今年は無理でもいつか必ず見に行って、発表はできなくともさらなる発見をしに行きたいと思っています。
最後に、この取り組みを通して、普段見えていないような部分をあの手この手を尽くして探るという貴重な体験をさせていただけて、とても良かったなあと思いました。この経験は、後々に必ずやプラスに働いてくると思います。これからは物事の表面だけを見るのではなく、物事の本質を見抜けるような力をつけていきたいと思います。
前田 光彦
私がこのルポに取り組んで1番良かったと思うのは、歴史や伝統といったものの凄さに少しでも触れられた事だと思います。
最初は安易な動機で調べ始めたものでしたが、インターネットで調べるだけでは、何故石取祭がここまで大きな祭になったのか、地元の方々にとってどんな祭なのか、といった事は分かりませんでした。しかし、現地に向かって、資料館や宮司さん、保存会の方々などのお話を伺うにつれ、少しずつその魅力、愛着のようなものに触れる事ができていったのではないか、と思います。資料では感じられないような、彼らの祭にかける想いこそがこの祭をこれまで守ってきた1番の要因なのではないか。そんな風に思います。
桑名の地元では石取祭は日常的なものであり、あって当然のもの。価値観は違っても、祭を好きな気持ちは一緒。そのような根底の部分が共通している限り、桑名の石取祭は、これからもずっと残っていくんだろうな、と思います。
机に向かっているだけでは分からないような新鮮味があり、このルポ作成は大変だったけど楽しいもので、やりがいがありました。また、貴重な話をしてくれた、春日神社の宮司である不破さんや保存会の茶茂さん(伊藤さん)に感謝しています。