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工学倫理講義 第十七回 なぜシュラウドは割れたのか?




なぜ、シュラウドは割れたのか?


 1.東京電力

 事件の発端は2000年7月,当時の通産省に届いた一通の内部告発文書であった.告発者は東京電力など東日本の原子力発電を一手に引き受けているBWR(沸騰水型軽水炉)の開発会社,アメリカのGEの子会社であるGEII社(ジェネラル・エレクトリック・インターナショナル・インク)の元社員で,福島第1原発での自主点検2件についての記録改竄が告発の内容と言われる.

 これを受けて通産省が早速調査にはいり,2002年8月29日に原子力安全・保安院および東京電力から改竄事件が公けになる.・・・1985年から90年代にかけて東京電力の13基の原発で29カ所に及ぶ自己点検記録の改竄があった・・・原子炉では高温の水から蒸気が作られるが,その流れを整えるシュラウドと蒸気から余分の水分を除く蒸気乾燥器などに亀裂が発見されていたが,亀裂が存在することを隠したり,数を減らして報告していた.さらに通産省へ出したビデオでは亀裂が写った部分を削除したり,検査の時に無届で修理した箇所がばれないようにした後を,さらに元に戻すなど内容も作為的で悪質と報道された.

 それだけですめばまだ良かったが,続いて福島第1原発1号炉で格納容器の定期検査のデータ改竄が発覚.10月25日原子力安全・保安院は,「原子炉の重要な安全機能を持つ機器でおこなわれたこの偽装行為は,一連の自主点検記録改ざん以上に悪質」であるとし,東京電力に対し原子炉等規制法違反で1号炉の1年間の運転停止命令という行政処分を出した.営業運転をおこなっている原子炉の運転を停止させるという日本の原子力史上初めての処分に発展したのである.

 この事件は,なんとなく原子力発電に対して胡散臭いと思っていた国民には「やっぱりそうか!」という感じを与え,原子力発電に批判的な人たちには「そらみろ,言わないことじゃない」と受け止められ,そしてこれまで東京電力を応援し、また尊敬していた人には大きな傷を与えた.

 本稿は「なぜ,東京電力のような尊敬すべき,品位のある会社でこのような事件が起こったのか」を材料工学,環境工学,工学倫理の視点から整理したものである.


 2.Marbel

 原子力発電所からは放射線がでる.ウランの核分裂という物理現象自体がそうなのでそれは仕方がない.石炭を炊けば二酸化炭素とか二酸化イオウがでるのと同じである。放射線は人体に危険なので、万が一の時にも放射線が社会に届かないように「多重的な防御機構」をとっているが,発電所内部で働く人たちはどうしても被曝するが、その人たちも人間なので被曝線量を低くすることは原子力発電所全体の安全性にとって大切である.そこで,さまざまな調査や改善がおこなわれてきたが,国や発電所によって大きな差が見られる.たとえば,日本とアメリカでもそこに働く人の被曝線量は雲泥の差がある.1980年台に調べられた調査結果ではBWRの従業員の被曝量が数倍違うことが明らかになった[1].日本人は器用で改善に努めるので,原子力発電の生みの親であるアメリカより被曝量が少ないのも理解できるが,それだけでもない.原因を単なる運転管理に求めるのではなく,システムや材料の改善にも注意が向けられた.

 1986年,W.J.Marbelが原子力発電所の復水器材質と復水浄化系のタイプによって再循環配管の線量率に著しい差が認められることを報告[2],1996年には図1に示すようなきれいな関係が整理された[3].

図1 プラント再循環配管の線量率とZn注入の関係

 何からの原因で亜鉛を含む循環水の発電所(Zinc Plants)の線量率はこのグラフは"Non-Zinc Plants"の発電所に比較して格別に低い。工学を職としているものとしては、「真理は現場に聞け」という「工学」の本質を突いているという点で大いに感激した.

 原子炉は巨大な工学システムだから,顕在化したある現象の真の要因を突き止めるのは容易ではない.気の遠くなるような部品数と1つ1つの部品に使用されている元素類,そして炉内では元素も中性子などの照射によって異なる元素に転換する.超複雑系である.その中で「亜鉛」というものに注目し,それが「腐食」ではなく「亜鉛があると結果的に放射線が低減する」という意外な事実を整理したことに敬服する.

 しかも、「普通の鋼板と亜鉛」は腐食という点では繋がりやすいが,ステンレス鋼と亜鉛とはあまり縁がない.後にこの現象は,微量の亜鉛が高温水中に存在すると,ステンレス表面の状態が変化し,放射能を持つコバルトがステンレス鋼の中に取り込まれないことが原因していることが判った.モデル的な条件で試験をおこない材料組織を観察すると,ステンレス表面の状態は放射線がない場合と,ガンマ線の照射を受けている場合で全く違う.それを図2に示した.亜鉛が無いとき(図のa)とb))のステンレスの表面にはかなり大きな粒子が観測されるが,亜鉛が高温水中に共存するとき(図のc)とd))では表面はツルツルになる.ガンマ線を照射するとまた違う像(d)で材料表面の状態の変化が見られる[4].


   
図2 1000時間曝露後試験片の表面SEM像
a)非照射,Zn無添加 b)γ線照射,Zn無添加
c)非照射,Zn添加  d)γ線照射,Zn添加

 我々が現在,保有している理論や知識は本当に少ないものだ.金属材料のように材料の中では特別に深く研究され歴史もあり,基幹材料として重要な部材に使用されてきてもこの程度である.金属研究が遅れているということではない.材料工学,いや工学というものがそもそもそのような性質を持っていると考えた方が良いだろう.特に,原子力発電所の内部で使用される材料は強い放射線や高熱に晒される.核分裂によって熱を得るのだから放射線は仕方がないし,熱が高いほど電気へのエネルギー変換効率が高いのだから,これも仕方がない.そして,高温や高温水中で放射線がでるという条件は原子力発電所にほぼ限られるので,研究は限定される.人間は研究によって知識を得ているので,研究が少なければ知識も少ない.設計段階でシュラウドに何時、ヒビが入ることは「判らなかった」.

 原子力発電所は危険を内包しているのに,「判らない」のに運転した!? それは許せない!という考え方もあるだろう.原子力発電所と材料という関係を整理した上で,今回のシュラウド事件の中心であるこの問題を少し広い立場から,事実から離れずに検証してみたい.


 3.永井玄蕃

 嘉永6年6月3日,アメリカ合衆国のペリーが2隻の蒸気船・旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号と,2隻の帆船サラトガ号・プリマス号を引き連れて伊豆の下田に出現した.それは,

「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで,夜も眠れず」

と狂歌に歌われほど日本人にとっては「驚くべきこと」であり,この事件をキッカケに幕末に向かって日本が騒然となっていった.実は,嘉永6年と言えば世界的にはクリミヤ戦争が起こった年で,すでにサスケハナ号のような外輪型の蒸気船は時代遅れになっていたのだが,"世界の田舎"にいた日本人は「黒くて山のような船が風も吹かないのに進む」のにビックリ仰天したのだ.人間は現在の環境と知識の中でしか判断できないという哀しい存在でもある.

 ペリーにビックリした幕府はオランダに助けを求める.そして,同年10月15日には,長崎奉行・水野筑後守忠徳に命じて,長崎出島のオランダ商館長ドンクル・キルシユスに協力と援助を頼んだ.オランダはこれに応じて,翌年8月には長崎に来航したオランダ東洋艦隊の軍艦スームビング号を訓練用に借りた.まことに素早い対応である.

図3 現存するスヌービング号(復元:オランダ人マーティン・ドゥ・フロートが国立アムステルダム海事博物館所蔵の設計図と模型をもとにハウスデン市フェロルメ造船所で建造)

 日本では昔からこの船の名前を「スームビング」と呼んでいるが,別名「スンビン」とも言う.スペルがSoembingだから、どちらが正しいとは言えない. ともかく,排水量400トンで木造,帆もあり蒸気機関も持ち外輪式で動くという万能型軍艦であった(木造バークコルベット外輪汽船.150馬力.8ノット.大砲6門).艦長・ファビウスは,さっそく幕臣をはじめ諸藩の藩士の教育を始める.そして1985年にはオランダ国王ウィレム三世がこの軍艦を幕府に献上して日本発の蒸気船になったのだった.

 当時,長い鎖国時代にオランダだけに通商を許していた幕府にオランダも好意的であった.幕府はスームビング号を「観光丸」と命名すると共に,長崎奉行書の一部に伝習所を造り,これを長崎海軍伝習所とし,諸取締に永井玄蕃頭尚志,ペルス・レイケン元艦長と下士官,水兵,機関兵など22名を教官として雇った.

 そして,永井玄蕃を諸取締を命じ,優れた若者を伝習生として派遣した.この時の伝習生から後の英傑が輩出する.西郷隆盛との江戸無血開城の談判で有名になった初代海軍卿・勝海舟(林太郎),をはじめ,函館戦役で敗北し,その後,中将で海軍卿までいった榎本武揚,そして,あまり名前は知られていないが,初代海軍軍令部長・中牟田倉之助,大将で海軍卿・川村純義,初代海軍機技総監・肥田浜五郎,初代軍医総監・松本良順らがいる.幕府覇権の若者70人と諸藩の藩士130名の総勢200名余がこのときの学生で,第一期伝習生の学生長が勝林太郎だった.

 かれらにとって,蒸気機関というものが初めてなら,ヨーロッパが大航海時代に築き,その後の世界制覇の過程で改善してきた航海術,運用術,造船術,砲術,船具学,測量術,算術,機関学を全く知らなかった.まして永井玄蕃はいまでいう文化系の人間だから算術もままならない.それでも自分の身の回りに何が起こっているのか,それをどのように解釈すれば良いのかを直感的に理解する能力には長けていた.

 でも,永井玄蕃は優れた直感力を持っていた.軍艦スームビング号の訓練を見ていると,どうも,この真っ黒で強大な力を出す軍艦というものは完成品では無いらしい.その巨大さにおいては奈良の大仏殿のようなものであるが,大仏殿を造ってその中に金属で鋳造した大仏を納めれば,それはそれで終わりである.あとは毎日,その恩恵にあずかり,年に一度,大そうじをして日頃の感謝の気持ちを示せばよい.

 ところが,このオランダの軍艦というものは航海したり,大砲を撃つというような「普通のこと」をするだけでも,絶え間なく起こる破損や故障を直さなければならないことが判ってきた.そこで,まずは修理するための工場がいるということになり,さっそく「長崎鎔鉄所」をつくる.

 それもダメだった.実際に飽の浦に機械工場を造ろうとすると,困難が待ちかまえていた.オランダから主な機械は運んできたものの,日本には工具や補助的な器具はほとんどない.なにか必要なものがあるとオランダまで取りに行かなければならないのであるから,とんでもなく非能率であった.通信手段の発達した今でもオランダから部品を調達するのは大変である.当時,通信手段は人が歩いたり,船でインド洋を回ったりするしかなかった.おまけに,オランダ人と幕府の官吏との関係もままならない.

 まず,必要な工具がないことに気づくと,長崎から飛脚を飛ばして幕府の役人にお伺いを立てる.良しとなると幕府の役人がオランダ人と交渉をする.そんなことをやっている内に徳川幕府自身が終ってしまうという感じである.このような中でも,ともかく日本の重工業は出発した.確かに,やらないよりましで,1859年には観光丸のボイラーの取り替え工事ができるまでになっていた.

 注目すべき記録が造船所を訪れたイギリスの軍医レニーのものとして残っている.

「8月7日長崎の日本蒸気工場を見学.これはオランダ人の管理下にあり,機械類は総てアムステルダム製であった.所内の自由見学を許された我々はすみずみまで見て回ったが,なかなかの広さであった.そして,この世界の果てに,日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造に関する種々の仕事に従事しているありさまをまのあたりに見たことは確かに驚異であった.」

 西洋の文明が届くはずもない,この「世界の果て」にできた日本最初の近代的造船所は維新後,長崎造船所と改称,日本海軍の屋台骨を支えるのだが,日清・日露戦争では間に合わなかった.修理がせいぜいで,戦争で活躍した旗艦三笠はじめ,主要戦艦はすべてイギリスが造った.でも,やがてこの鎔鉄所は栄光の三菱重工業長崎造船所となり,1942年には世界最大の軍艦「武蔵」を生むのである.

 2002年10月1日,三菱重工業長崎造船所で建造中だった世界最大級の豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス号」(11万余トン)が火災事故を起こした.36時間燃え続けてダイヤモンド・プリンセス号はその焼け爛れた姿を栄光の造船所に晒した.じつは,世界一を誇った日本の造船業にかげりが見えてきた1970年,長崎造船所は世界最大の発電用タービン・ローター爆発事故を起こしている.この事故は11トンの巨大な鉄の塊が1500メートルも吹き飛んだ大事故だった.この事故は材料の脆性に関するもので,結晶粒界に不純物が蓄積するという材料として考えなければならない基本的なことが原因だった.なぜ,栄光の歴史を背負った三菱長崎造船所がこのような事故を起したのか,それを知ることも本当は今回のシュラウド事件を理解するのには必要である.事故には「工学の本質的性質」が常に隠されているからである.

 スヌービング号の修理という偉大な歴史を持つ造船所も小さなトラブルや危険が続発する.それは永井玄蕃が絶え間ない故障と戦ったときとなんら代わっていない.それでも長崎造船所の担い手は代替わりした.任務に対する使命感と匠の熟練,そして黙々たる作業は陰を潜め,「マニュアル」と言う名のヨーロッパ流が幅をきかせ始めていたのも考えなければならない.

 脱線はこのぐらいにして・・・1857年4月,幕府が膝元の江戸にも海軍教育機関を設置することになり,スヌービング号の江戸表への回航を命じた.永井玄蕃頭を艦長として103名の伝習生が乗組み,日本人として初めての洋式軍艦による航海をつづけて,無事に江戸に回航した.これは大変なことで,「黒船」にビックリしてから4年,伝習所ができてから僅か2年目に永井と伝習所学生で船を回航したのである.人間の心が,もし毎日の生活の中で作られ,それを信じて生きているなら,「黒船」というお化けのような船を見てから数年は遠巻きにして見るのがせいぜいで,キビが悪くて触るのもイヤ,乗るのはもちろん,まして命のかかわるような航海をするなどとんでもないということになるだろう.

 でも,実際には全く逆で,永井玄蕃を始め,伝習所学生は心血を注いで異国の黒船スヌービング号の回航を成功させたのである.

 なぜ,日本人は黒船を気持ち悪いと思わなかったのか?なぜ,永井玄蕃らは「故障を続けるスヌービング号」を動かし,日本を植民地化から救うという大きな目的が見えたのだろうか?

 新しい技術を取り入れるときの日本人は世界でも希な行動を取るという.このことに関してはすでに多くの検証があるが,それらは「日本という風土は外から来る経験していないことを拒否せずに取り入れ,その中で自分たちの役立つところだけを取る」「好奇心と警戒心を使い分ける先天的能力に長けている」とまとめることができる.外国のものに接した日本人の関心は新しいものの「全体像や概念」にあるのではなく,その中で自分たちに利用できる有益なものはなにか?ということである.だから,全体が気持ち悪くても構わない,そこから有益なものをとって後は捨てれば良いのである.この好奇心と徹底した合理主義が黒船とスヌービング号の関係にも適応された.

 さらに「バテレン(ヨーロッパの異人)の機械は故障する」という原理を瞬時に理解し,その対策を立てたことである.目の前にある新しい船はいかにも高級に見える.江戸時代にはそれは巨大なシステムのように見えただろうし,現代の人が原子力発電所を超複雑なシステムと感じる以上のものだったと思われる.でも故障だらけである.永井玄蕃は「故障する」という不完全さと「この船が日本の役に立つ」ということを別のものとして捉えた.これが後に日露戦争でバルチック艦隊を撃滅した日本海軍の誕生に結びついたのだから,不完全なものを役に立つところまで持っていこうとする努力は,虐げられたものの反発力がなす技でもある.

 現代の私たちも機械が故障するのは当たり前と思う.ビデオデッキはすぐビデオが出なくなるし,昔は故障した自動車が「エンコ」しているのはザラだった.でも江戸時代の日本には故障するような機械を日常的に使うことはなかった.竈(かまど)が時に欠けたり,鍋(なべ)に穴があくことはあったが,囲炉裏(いろり)にしても障子戸(しょうじど)にしても基本的には静的なものであった.それらが壊れる原因はそのもの自体にあるのではなく,台風など外側が原因していた.

 では,遠くはルネッサンスから,直接的には産業革命で誕生した紡績機から発している現代のヨーロッパ型工業システムや製品はなぜ,必ず故障するのだろうか?その理由は近代ヨーロッパ型工業システムが「収益」を中心概念として形成されており,日本型の「職人気質=プライド」に価値をおいていないからと考えられる.産業革命の時に考案された機械の設計基準は「故障や交換も含めて機械やシステムが最大限の収益を上げること」であり,「収益を犠牲にしても使いやすく永代にわたって愛用できるもの」は目標外にあった.その設計思想をもとに部品やシステムが決められた.結果的にはヨーロッパにも職人型の設計基準があったが、主導権を握ったのは収益型であった。

 スヌービング号はアジア・アフリカの諸国を制圧し,植民地にして,そこの富の収奪するために合理的に設計されたものであり,たとえ故障しようともそれを修理した方が有利であれば代々現の能力を発揮するように設計をすることを良しとしていたのである.永井玄蕃が驚いたのはそのことであり,レーニーが感嘆したのはそれを飲み込む国民を目の当たりにしたからである.

 ヒコーキに乗ると変なことに気がつく.機体はアルミニウム合金でできているが,室内で使用されているのはプラスチックや繊維.内張はFRPと呼ばれるガラス繊維強化プラスチックで,座席は柔らかい繊維である.これらのものは燃えやすく,火を付けると燃える.自動車も鉄のかたまりのように見えるけれど,放火や交通事故で自動車が勢いよく燃えている有様がよくテレビで放映される.鉄のかたまりと言われる自動車でもよく燃える.

 もしヒコーキが上空で火災になると止ることもできないので火だるまになる.機内は全滅する.理論的にはとても危なくて民間航空などあり得るはずもない.もし安全審査をしたら座席は全部,アルミニウムで作り,お尻を冷やしながら空を旅することになるだろう.でもヒコーキが火災になったとはあまり聞かない.それはヒコーキに使うプラスチックや繊維は「燃えにくい」という規格で作られるからである.どのくらい「燃えにくい」かというと「スチュアーデスが上着を抜いて叩けば消える」という程度に作られている.この基準は実に面白い.スチュアーデスがその上着を脱いで叩いて消す・・・それができれば安全は確保できる・・・だから煙草を吸っても良いということなのだ.ここにヨーロッパ型機械の安全という基本がある.

 もう一つは「心の収益型」である.

 ジェット旅客機の草分けだった"コメット"が金属疲労で次々と墜落した時代,そして日本でも雫石墜落,羽田沖など連続して空の悲劇が起こったのも,もう昔のことになった.それでも時に御巣鷹山の日航機墜落事故のような悲惨な航空機事故は起こる.だから,みんなヒコーキに乗るときにはある程度「覚悟」をするものだが,なんと言っても便利である.一昼夜かかるところを2時間と言われると「危ないけれど,まあ良いか!」と思ってしまう.

 自動車は年間8000人も交通事故で犠牲になる.一頃よりも交通事故の犠牲者は少なくなったが,それでも現代社会の中では飛び抜けて危険な行動である.それでもみんなは我慢する.雨の日,そして冬の寒い日,とぼとぼと歩いていくことを思うと,少しぐらい危険でも自動車を認めよう!ということになる.ここでも我々は収益型を選択する。

 自動車が日常的な災害の代表的なものであるとすると,長い時間で起こる災害が地震である.地震は天災だから工学の産物ではないと思われるだろうが,この前の阪神淡路大震災で証明されたように,もし現代の工学が地震に対して強い都市を造っておけば地震ぐらいはどうってことはない.もし,高層ビルがなく,二階建ての家屋がなく,道路が地上にだけあり,そして新幹線がなければあの大震災も随分変わったし,そういう都市を造ることはできる.でも,「何でビルなんか立てるんだ!」「高速道路があること自体おかしいではないか!」と文句を言う人はいない.ビルは便利だし,平屋では狭くなる.高速道路も新幹線も欲しい.だから危険を承知で都市を造る.今の東京もそうだ.

 かくして,東海地震が目前に迫り,「数年後に起こることは間違いない」と言い,盛んに家屋の補強に補助金が出ている時節なのに,東海道新幹線「のぞみ」は超高速で東海地方を走る.大地震が来るというのになんと無謀な!危険予知はなっているのか!

 でも,みんなは東海地震が来ることと,「のぞみ」が走ることの両方を認めている.人生にとって確かに安全は必要だ.でも,安全だけで生きているわけでもない.東海地震がこれば新幹線で大きな災害が起こることが判っていても新幹線は走らせる.それがヨーロッパ型工学(収益型)を受け入れた日本国民の合意であり,それは永井玄蕃から始っている.

 ヒコーキ,自動車,新幹線,火力発電所,原子力発電所,雑居ビル・・・・どれもこれも危険だ.自動車事故死・年間8,000人,火災による犠牲者・年間2,000人,原子力発電所関係犠牲者・ほぼゼロ.危険な順序に並べたら,原子力発電所はまだ良い.原子力発電所が現代工学の中では飛び抜けて安全なのに何故,あれほどの糾弾を受けるのか,目の前で自動車の制御系と道路構造に基本的な欠陥があって人が悲惨な状態で死んでいるのに,なぜ原子力発電所の場合にはシュラウドの傷が気になるのだろうか.

 この疑問についてはかなり深い研究がされており,「リスク・ベネフィット関係」で説明がおこなわれる[5].つまり,自動車は利益(ベネフィット)があるから,リスクは社会的に容認され,原子力発電はベネフィットがはっきりしないので,どんなリスクも許容できない,というものである.確かに原子力が無くても遣っていけるエネルギーが豊富で人口密度の低い国では納得性のある論理ではあるが,日本では通用しないように思われるが,現実には通用している.だからさらに「見えないもの(放射線)は怖いが,見えるもの(自動車事故)は怖くない」という心理的要素を持ち込まないとこの問題を論理的に解釈することが難しいし、さらに奥深い人間心理に及ぶことになる[6].


4.フランケンシュタインとフェルミ

 今から200年くらい前.よく知られている怪物小説『フランケンシュタイン』がメアリー・シェリーという18歳のイギリスの女性によって書かれた.メアリーは18歳になった年の2月22日に最初の子供クララを産んだが,不幸にも12日後の3月6日に死んだ.

 そのとき彼女は「夫はほとんど気にとめてくれない.何とか力になってほしい」という手紙を友人にしたためている.夫とは有名な詩人シェリーである.悲嘆にくれたメアリーはロンドンからウィーンに移り,有名な詩人バイロンらとともに新しい生活を始め,その年の秋ごろから執筆したのが名作『フランケンシュタイン』である.

 『フランケンシュタイン』が書かれた時期はイギリスで産業革命が起き,だんだん都市環境が悪くなり,スモッグなどの都市公害も見られるようになってきた時期でもあり,エンゲルスがマルクスが共産主義の理論を作り,マンチェスターやロンドンの貧民窟の状態が描写されていたころでもある.

 メアリー・シェリーは父が無政府主義者,母も今でいえばウーマンリブの闘士だったという家庭環境の中で育ち,本人も大変感受性の強い少女だった.その人が子どもを産み,その子を失うという状況の中でこの小説は書かれた.イギリス文学としても工夫が凝らされている作品だったが,有名になったのは1930年代に作られた怪物映画「フランケンシュタイン」から後であり,文学的な評価としては「女性が妊娠したときの不安感を最初に表現した文学」と言われている.

図4 フランケンシュタインの生みの親・メアリー・シェリー

 有名なので詳細な紹介は不要と思うが,・・・科学者のフランケンシュタイン(ヴィクター)は研究の結果,生命のもとが電気にあることを知り,墓場や大学から人間の体を盗み,それをつなぎ合わせて人工的に生命を作り出す.しかし,作った怪物(この怪物を普通「フランケンシュタイン」と呼ぶのでここでもそうする)はヴィクターの許嫁や父親を殺し,ヴィクターを不幸のどん底に突き落とし,自らも悲惨な最期を遂げる・・・という筋書きである.

 この小説を読むと,現代社会のおける科学と人間という基本的で重要な問題に考えが及ぶ.怪物をつくったのはヴィクターだが,つくられた方の怪物フランケンシュタインは,自分を作ってくれたヴィクターを尊敬する一方,見にくく人間社会にとけ込むことができない自分をつくったヴィクターを同時に恨む.

 フランケンシュタインは周囲から相手にされず孤独で「その苦しみは自分というものをつくったヴィクターにあるのだ」とヴィクターを責め,ヴィクターは自分が創造したものから自分が苦しみを受けているということを強く感じる.怪物フランケンシュタインはヴィクターの恋人を殺し,父を殺し,「私は寂しいから殺すんだ.なぜあなたは私をつくったのだ」と叫び,ヴィクターとフランケンシュタインが最後に山の中で対決するシーンには,まさに今の科学の持つ問題を如実に示している.ヴィクターには「自分が作り出したものだ」という意識が半分はある,しかし「それは怪物自身がやっているのだ」という思いもある.その論理の枠内でヴィクターはフランケンシュタインの攻撃に対して反撃していくが,それがフランケンシュタインにとっては的のはずれた反撃である.ヴィクターは罪の意識はあるがフランケンシュタインの本当の辛さは判らない.

図5 エンリコ・フェルミ,1942年12月2日シカゴ大学で現代のフランケンシュタインを創造

 原子力発電所は現代社会が生んだ.1942年にファシズムから逃れてイタリアからアメリカに移住してきたエンリコ・フェルミらによってシカゴ大学の原子炉に灯がともった.それから20年程度は「原子力は人類の希望の星」だった.石油石炭はどうせ化石時代の太陽の光が生物の体を経て蓄積したものだから,やがて限界が来る.そうしたら私たちの子孫にはエネルギーが残せないと心配していた人たちに取っては人類が太陽自体を手に入れた喜びは大きかった.「これでエネルギー多消費型のヨーロッパ文明を継続することができる」と思ったのだ.もちろん,原子爆弾は問題だったが,自動車は戦車になったし,ヒコーキは1945年3月10日の東京大空襲で10万人を殺害した爆撃機でもあったから,間違って使うことは同じだ.でも,原子力発電所だけは人類は嫌いになった.

 いったん,嫌いになると際限がない.まず,原子力発電の運転に「絶対安全」を求めた.故障しない原子力発電所・・・でも,ヨーロッパ現代工学の産物にそんなのはあるはずもない.著者はある時期,地方の原子力施設の責任者をしていた.その時,大新聞の記者が来られて「この施設は絶対に安全ですか?」と聞いた.当時,そういう質問が"はやり"でもあった.私は「絶対安全ではない.事故は起こる可能性は高い.ただ,私たちはここで働いているし,私たちにも愛する妻子はいる.だから職業上の危険を冒しても良い程度には安全だ.また,市民には施設の情報を提供するから社会がこの施設の安全と必要性を判断して決めて欲しい」と言った.翌日の新聞には「この所長は冷静」と出た.施設には事故が起こるが,その原因の1つは施設自体であり,第2の原因が不完全な人が運転したり,保守したりするというところにある.不完全の2乗だから,事故は起こる.

 事故が起こるとさらに2つに発展する.1つは施設の内にも外にも人的被害がない場合,2つ目は犠牲者が出る場合である.「絶対に事故は起さない」ということは不可能だから,「必ず事故は起こる」ということを前提として「絶対,犠牲者を出さない」ということは試みとしてはできる.原子力発電所で採用している「多重防御」という思想がそれである.この考え方はかなり有効で,犠牲者を減らすことが可能であり,また日本の原子力発電所ではそれが歴史的にも実証.されている.

 5.オルテガ・イ・ガセット

 永井玄蕃は黒船を嫌いにならなかったが,2000年における日本国民は原子力発電が嫌いだ.それが今回の隠蔽の遠因となったと考えられる.つまり原子力発電所でシュラウドや配管の亀裂,運転のミスなどが起こったとき,それを社会に公表しても社会から糾弾を受けなければ東電は隠蔽しなかっただろう.常に「絶対安全ですか?」と問われ続け,少しでも事故が起こるとそこに関係している人の一生を台無しにする恐れの中で起こったことである.

 このことをジックリと考えてみるとオルテガ・イ・ガセットにぶつかる[7].

 彼が「大衆の反逆」を出版してからすでに70年が経っているが,産業革命と資本主義は徐々に大衆を「王侯貴族」にし,その大衆は自らが主人公であると宣言し,行動するだろうという趣旨である.そのこと自体は「自由民主」ということを意味するので正しいとされているが,その結果もたらされる社会的変化は十分に咀嚼されているわけではない.

 ヨーロッパ型技術の取扱いという面から見ると,永井玄蕃は大衆が反逆する前であり,東京電力は大衆の反逆後である.故障ばかりしているが役には立つという対象物を前にして,それを是とするか否とするかを判断する手続きが「大衆化」の前後で大きく変化したことを意味し,それにもかかわらず,原子力行政は同じ手続きを踏んできたと解釈される.
 原子力発電所は必要である,安全上の実績は他の工業システムより高い,ヨーロッパ型の技術だから故障は当然である,という論理は大衆の反逆以後は通じなかった.それが歴史的事実である.つまり大衆は 1)必要である 2)安全である 3)故障が起こる という原子力発電所の3つの状態を同時に容認しない.一方で,1)必要である 2)危険である という自動車は容認する.

 このことに関して,著者は次のように考える.

 ヨーロッパ型技術が故障続きで不完全なものであることは日常的にビデオデッキを使い,自動車を運転している大衆は全て知っている.そして原子力に発せられる「絶対安全ですか?」という問は大衆から専門家への踏み絵である.もし,「原子力は安全ではない」といえば信用しようという踏み絵なのである.

 我々が運転免許の更新の時に悲惨な自動車事故の状態をいやと言うほど見せつけられるのと同じように,もし原子力が事故を起したときにどのような悲惨な状況になるかを示してくれと言ってくれれば,信用するのだ.自動車が容認されているのは,「こんなに危険だ」「こんなに悲惨だ」と繰り返し聞かされることであり,それは我々の心の中に平衡感覚を呼び起こし,永井玄蕃になるのだ.その点で,自動車会社はじつに偉い.

 あれほど繰り返し自分たちが作っている作品が欠陥だらけであることを宣伝されても,それにストップさせようと圧力をかけたという報告はない.自動車会社がこれほど繁栄している背景にはやはり偉大さがある.

 大衆の反応は大衆の反撃が始る前の論理では説明できない.1つ1つのことをそれまでの論理構成でくみ上げ「シュラウドの亀裂は安全には無関係」といくら主張してもその論理はまったく聞いていない.大衆はシュラウドの亀裂事件を非難し,「なぜ,こんなことがおこったのか!」と問うが,それは具体的な回答を求めているのではないだろう.

 密かに作られた怪物が,「絶対安全」を繰り返し,しかも何をしでかすか判らないのでは,それがどんなに有用であり,どんなに安全かもしれないが信用はしない.それはまた当然の論理であり,それが大衆の論理である.
 シュラウドの事件は実に奇妙な事件である.まったく安全には無関係と言っても良いほどの微細な故障であり,東京電力という日本でもっとも品位が高く信用できる会社が虚構を演じたのである.この奇妙さはもう一つ重大な秘密が隠されている.それは「会社は悪、庶民は善」という定義の中で、「大衆」を含めた人間社会が深い意味での「誠実」を失っているということである.

 「不名誉な者として判定された者が,たとい財宝をもっていても,そんな財宝は社会的にはなんの価値も認められない,また所有主である本人自身が一人前の人間としては通用しないのであって,社会的には全く「生けるしかばね」以上の何物でもない・・・あらゆる名誉は誠実に由来する[8].」

 これは中世ゲルマンの掟だ.そして,このように誠実を重んじるゲルマンの文化はわが国でも同じであり,江戸時代の借金証文には,

「万一,拝借した金子をお返ししえないような節は,拙宅の前に来てお笑いくださっても構いません[9].」

と書かれている.つまり誠実を失うことは生きていくことを拒否されるという規範は洋の東西に因らず厳然と存在したのだ.

 もし,原子力がこの些細で重大な事件を教訓にすることができたら,原子力が「故障は続きます.事故が起きます」と宣言すると思う.そして事故が起こったら,周りの人が死ぬかどうかも明らかにするだろう.

それには難しい専門用語より平易な言葉と誠実な態度だけが勝負である.

名古屋大学 武田邦彦


参考文献

[1] S.Uchida, M.Miki, T.Maeda, H.Nagao, K.Otoha : "BWR plants with low shutdown radiation level" J. Nucl. Sci. and Technol. Vol.24, 593(1987)
[2] W.J.Marble : "BWR Radiation-Field Control Using Zinc Injection Passivation" EPRI NP-4474, Project 819-2, Final Report March (1986)
[3] B.Stellwag, W.Ruehle, U.Staudt : "Overview of the VGB project activity buildup in LWRs" International conference on water chemistry of nuclear reactor system 7, BNES, London, Vol.2, p544 (1996)
[4] 萩沼真之,武田邦彦ら,「亜鉛イオン共存下の高温水中におけるSUS304鋼の腐食およびCo蓄積に及ぼすγ線照射の効果」,日本原子力学会誌,vol.40 (1998), 397-406
[5] 秋山 守,「リスクと不安」,学際,No.7, (2002, Dec.) 4-8
[6] 武田邦彦,「一般工学倫理と原子力の複合ストレスの影響」,原子力学会誌,vol.41, no.8 (1999) 875-880
[7] オルテガ・イ・ガセット(訳:桑名一博),「大衆の反逆」排水社(1991)
[8] 淡野安太郎,「社会倫理思想史」 剄草書房 (1959)
[9] 源 了園,「義理と人情」 中公新書 (1969)

武田邦彦



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