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2011年4月11日(月)付

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被災地1カ月―息長く、支えてゆく

この街にとって長い、長い、長いひと月が過ぎた。岩手県陸前高田市。先週金曜は、県立高田高校の久しぶりの登校日。水没した校舎に代わって、避難所にもなっている中学校に集まった[記事全文]

被災地1カ月―コンクリ防災の限界

見渡す限りのがれきの野に、防潮堤の巨大なコンクリートブロックが倒れ込んでいる。大津波で壊滅した岩手県宮古市の田老(たろう)地区だ。明治、昭和の津波で大きな被害を受け、高[記事全文]

被災地1カ月―息長く、支えてゆく

 この街にとって長い、長い、長いひと月が過ぎた。

 岩手県陸前高田市。先週金曜は、県立高田高校の久しぶりの登校日。水没した校舎に代わって、避難所にもなっている中学校に集まった。2年の和田萩(しゅう)君は「仲間に会えてうれしい。でもばあちゃんが見つからないと勉強も何も前に進まない」。安置所を捜して回る毎日だ。

 被災地の中ではいち早く仮設住宅36戸が完成した。震災前の人口2万3千の街で、避難所にまだ7千人余りがいる。千人を超す行方不明者の捜索も続く。

 津波に壊された市中心部。ぽつ、ぽつと、何かを探し求めて来る人がいる。がれきの撤去はなかなか進まない。例えばスーパーや町工場の撤去は経営者負担か、行政が費用を出すのか。保管場所はどうするか。

 被災市街地を国が買い上げる案を民主党は検討中だ。「じゃあ、水に漬かった土地を昔の値で買ってくれるのか」。見通せないことが多すぎる。

 4月に入り、従業員解雇に踏み切る会社が増えている。売り上げゼロ、失業手当で何とかやってくれ。支給要件は緩くなったものの、雇用調整助成金は手続きが煩雑だ。

 政府が繰り出す支援策や政治が打ち上げるアイデアは、ちぐはぐで、遅い。実情に合ってないように被災地からは見える。

 東京の築地市場で高値がつくカキ、ホタテ。就業人数は多くはないが、養殖漁業が経済を下支えしてきた。カキいかだ54台が全滅した佐藤一男さんは「街に欠かせぬブランド産品。夏にはなんとかブロックといかだを整備し、10年で元をとってみせる」と、避難所で話した。

 市職員の4分の1が死亡・行方不明となった。臨時市役所は連休明け、大きめのプレハブに移る。戸羽太(とば・ふとし)市長は「目の前のことに追われるだけでなく、これからの街づくりの話し合いを始めたい」と言う。

 悲しみの傍ら、再建への小さな半歩。足元には解決すべき問題がいくつもある。先週は、悪夢に引き戻すような余震が襲った。3月11日からの時の歩みは複雑で書きつくせない。それはどの被災地も同じだ。

 1カ月を過ぎて懸念されるのが心の問題だ。多くの人が過酷な離別を経験した。助けられなかった自責の念。「がんばらねば」という高揚感が途切れ、不眠など体の変調に表れる人が増えている。

 喪失感に包まれる街と人。その再生の長い過程を支え続け、孤立させまい。ひと月ひと月を積み上げてゆくしかない。

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被災地1カ月―コンクリ防災の限界

 見渡す限りのがれきの野に、防潮堤の巨大なコンクリートブロックが倒れ込んでいる。大津波で壊滅した岩手県宮古市の田老(たろう)地区だ。

 明治、昭和の津波で大きな被害を受け、高さ10メートルで2重という「世界唯一」の大堤防を築いた。しかし、堤防間際まで民家が立て込んだ街は、その堤防が破れると弱かった。

 50キロほど南、同県釜石市の港には、国が30年がかりで1200億円を投じた、世界最大の湾口防波堤があった。しかし、これも大きく壊れ、中心市街地が津波の直撃を受けた。

 この大震災で私たちは、自然の外力の圧倒的な強さと、人間の力の弱さを痛感した。

 伊勢湾台風(1959年)の高潮、チリ地震(1960年)の津波被害がきっかけになり、全国で海岸堤防の建設がすすんだ。しかし、設計をはるかに超える津波により、甚大な被害を出してしまった。

 むしろ、堤防への過大な信頼が、安全な街づくりや避難の足を鈍らせていなかったか。

 それは河川の堤防やダムをめぐる議論と同じだ。強度を高めれば一見、安全だ。だが、それには限度がある。震災を機に、構造物に頼る街の弱さこそ、見直すべきなのだ。

 復旧をどうすすめるか。

 これまでなら、同規模の津波に耐える堤防を築くところだ。今回の津波は20メートル級だった。そんな高さの堤防を何百キロと築く費用は賄えない。海辺の景観も環境も破壊されるだろう。

 やはり、高台への集落移転を考えたい。高齢者が増える時代だ。逃げなくてよい場所に住めれば、被害を確実に減らせる。

 基幹産業の漁業のため、車や徒歩で港へ通いやすい環境を作ることが必須だ。明治や昭和の時にも移転しようとしたが、不便で戻ってしまった。

 平野部はどうするか。河田恵昭(かわた・よしあき)・人と防災未来センター長は海沿いにがれきを集め、高台を造成することを提案している。

 どうしても海沿いの街を選ぶなら、学校や老人施設、役場は高台へ、海に近い建物は高層にし、街角の随所に避難タワーを造って逃げやすくする。

 どこにどんな街を再生させるか。国や県だけで決めず、被災者を交えて構想を作ろう。伊勢湾台風の後、名古屋市は港近くの木造建築を条例で禁じ、今も維持しているのは参考になる。

 東海地震をはじめとする他の巨大地震の切迫もいわれて久しい。いま、ここで安全な街を考え抜くことが、私たち、そして次の命を守ることになる。

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