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避難率 厚岸13%、隣の浜中は45% チリ津波の記憶が左右

(04/10 16:49)

「道路が濁流の川になっていた」。津波が自宅まで押し寄せた様子を語る篠原さん=釧路管内厚岸町

「道路が濁流の川になっていた」。津波が自宅まで押し寄せた様子を語る篠原さん=釧路管内厚岸町

 【厚岸、浜中】道内で死者1人、床上・床下浸水760棟の被害を出した東日本大震災。大津波警報に伴う避難勧告・指示に対し、隣町にもかかわらず、避難率が13%にとどまった町と、45%と、道内で3番目に高かった町がある。釧路管内厚岸町と浜中町。住民の対応はなぜ分かれたのか。

 3月11日、厚岸漁港に近い厚岸町若竹地区。漁船修理工篠原勇喜さん(79)は地震発生から約20分後の午後3時すぎ、妻の喜子(きし)さん(83)と車で高台に逃げたが、町指定の避難所には行かず、午後7時ごろ帰宅した。

 「昨年2月のチリ大地震の津波でも津波警報が出たが、たいしたことはなかった。大丈夫だろうと思った」

 しかし、午後9時ごろ、2〜3メートルの津波が沿岸を襲った。篠原さんが夕食のカレーライスを食べていると、家の壁に何かがぶつかる音がした。カーテンを開けると、真っ黒な海水と一緒に、漁船やカキ養殖で使う浮きが押し寄せ、重さ3トンもある庭のプレハブ物置が流されるのが見えた。

 逃げようと玄関のドアを押したが、水圧でびくともしない。「水が入る。開けてはだめ」。背後で喜子さんが叫んだ。ドアの隙間から浸水したが、水は玄関で止まった。「生きた心地がしなかった」と喜子さん。篠原さんは「次に地震があったときは、逃げたら戻らない」と言った。

 「漁船が心配だから、1人で逃げろ」。同じ若竹地区の漁師の男性(79)は妻を避難させ、自宅にとどまった。床上10センチまで浸水したが、津波の情報が気になり、1階でテレビを見続けたという。同地区の会社員尾崎孝さん(51)も「2階にいれば大丈夫だろう」と自宅にとどまった。

 町によると、町内の避難対象者約8千人のうち、町指定の避難所などに逃げたことが確認できたのは1024人。人的被害はなかったが、225棟が床上・床下浸水した。町の担当者は「一歩間違えば、人的被害が出てもおかしくなかった」と振り返る。

 多くの住民や町職員は避難率が低かった理由について、道内の太平洋沿岸で15人の死者・行方不明者を出した1960年のチリ沖地震の津波でも「厚岸の被害は小さく、今回も大丈夫だと思った」と口をそろえる。町史によると、同町の被害は死者・行方不明者はおらず、住宅流失は6戸だった。

 一方、浜中町はチリ沖地震の津波で死者・行方不明者が11人、住宅流失が151棟に上った。今回の津波では対象者3898人のうち1740人が逃げ、町幹部は「51年前の恐怖の記憶が避難率を上げた」と分析する。

 チリ沖地震津波を経験した町琵琶瀬(びわせ)地区の自治会長山平忠歳さん(67)は、妻や親戚と8キロほど離れた高台の避難所に車で急いだ。「揺れはあまり感じなかったが、51年前の記憶があった。地区には高台がない上、川に挟まれ、橋が崩落したら避難できるところがない」と話す。

 今回の大震災で東北地方を襲った大津波では、避難所や高台にいかに早く逃げるかが、生死を分ける要因の一つになった。1度避難した後、自宅などに戻って犠牲になった人も多い。浜中町民が半世紀前の津波を教訓としたように、東北の経験を自分のものとして受け止めることができるかが、今後の道内の津波対策の鍵になる。

 全国各地の沿岸部で津波への防災教育を続け、今回の震災でも東北の被災地を調査した群馬大大学院の片田敏孝教授(災害社会工学)は「防災意識が高い東北ですら、正しい避難行動が徹底されなかった。震災を教訓に、津波から身を守る防災教育を徹底する必要がある」と話す。(東京報道 山岡正和)

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