2011年4月10日18時12分
津波は街も人々のくらしも一瞬にして流し去った/3月18日、岩手県大槌町(photo 朝日新聞社・安冨良弘)
応援医師に状況を説明する白石吉彦医師(左)/3月20日朝、岩手県藤沢町(photo 外岡秀俊)
水に流された車は、凶器となって家にめり込む/3月22日、岩手県大船渡市(photo 外岡秀俊)
■寒い体育館に咆えるように泣く女の子の声が響いていた
3連休明けの午前5時46分に起きた阪神大震災では、ほとんどの人が自宅で寝ていた。生死にかかわらず、家族の安否はわかった。今回の震災は、午後2時46分。人が活動し離れ離れになっている時刻に起きた。
「お年寄りや子どもを避難させようと車で家に向かい、渋滞に巻き込まれて押し流された人が多い」
と内藤医師は言う。
地震から津波襲来まで約30分。それだけの時間があったのに、なぜこれほど多くの人が犠牲になったのか。
私も被災地に来るまで、疑問を抱いていた。だが内湾から深くV字に切れ込む奥の高台まで、大人が全力で走って30分。
首都圏で今回の地震を経験した人なら、3度の大揺れで10分近く、なすすべもなかったことを思い出してほしい。まして親や子を救おうとすれば、自らを顧みるゆとりはなかった。
避難所の壁に、そうして生き別れた人々が安否を問い、無事を知らせるメモがはってある。
――寛子へ 母は助けられ、大沢にいます
――小野寺寛和、真喜代、しづかを探しています
――愛は元気でケー・ウエーブの駐車場にいます
――中華・高橋水産で働いている方、みんな無事ですか? 心配です。いる人は下記へ名前記入して下さい
その伝言板の傍らで、被災後に再会した人々の声が弾む。
「だいじょうぶだったか、おめえ」
「や、あいつもやられたか」
そんな声に交じり、寒い体育館に喉を嗄らし、咆えるように泣く女の子の声が響く。髪や頬が、小麦粉をまぶしたように白く、埃だらけの顔で放心している男性。髪がほつれ、虚脱したように毛布にくるまったままの女性。疲労やひもじさより、愛する人々の喪失で、体の芯が抜かれてしまったかのようだ。
■地獄に行ったことないけど、地獄よりひどい
丘の上にある避難所から、長い坂を歩いて市街地に出る人が多い。ガソリンがないため、肉親を捜して、安置所や他の避難所を訪ね歩くしかないのだ。
この日、私たちと医療救援に入った三阪高春医師は、奥さんが気仙沼市近くの出身だった。給油所で働く義理の弟は、やはりガソリンがなく、仕事場までの17キロを、自転車をこいで通勤しているという。
避難所で、気仙沼漁協水揚計算課長の吉田教範さんと会った。地震の時は、内湾に近い漁協ビル2階で仕事をしていた。大津波警報の放送を聞いてすぐに屋上に逃げ、夢中で避難する人々を誘導した。
「私たちは、津波ではまず内湾の水が引き、すっかり底が見えると聞かされていた。実際には、引ききらないうちに押し波が来て、渦になった。遠洋延縄船や大型の巻網船などが次々に押し寄せ、タンクも流された」
夕方、流れ出た重油に火がついた。津波は100波以上も寄せては返し、そのつど、燃える船が陸地に火をつけて回った。気仙沼は大火に包まれ、震災、津波に次ぐ追い打ちをかけられた。
吉田さんは自宅、娘夫婦の自宅、父親が住む実家のすべてを失った。父親は今も行方不明で、毎日安置所を歩いて回る。家族全員、身一つで逃げ、財布以外はすべて失った。全壊しても家財道具を取り出せた阪神大震災とは、そこが違う。被災者は、文字通り無一物なのだ。
昨年12月、『津波災害』(岩波新書)を出した河田惠昭・関西大学社会安全学部長によると、津波は陸地にぶつかって複雑に反射し、繰り返す。深さ50センチの波打ち際にいて50センチの津波が加わると、速さは毎秒2メートル。体に0.3トンの力が加わり、立っていられない。東北大の調査では、今回の津波の高さは平均して10メートル。
「水面全体が10メートル上がり、堰きとめられると、運動エネルギーが位置エネルギーになって、水が一気に駆け上がる。局所的には高さ50メートルに到達してもおかしくない」
その言葉に納得するような光景を見た。気仙沼市唐桑地区。平地から二十数メートル高台の電線や木の梢に、浮きのガラス玉や海藻がぶら下がっていた。近くの大型スーパーの屋根には、海の怪物が運んだかのように、黄色い乗用車が載っていた。
近くを、杖をついたお年寄りが通りかかった。梶原寿子さん(77)。「あそこにおったの」と、数キロ先の高台を指した。
「すぐ近くまで黄色い水が押し寄せてきた。すぐ後ろを青い水が追ってきて、大きな家や施設があったのを、静々と持っていったの。大東亜戦争の時よりひどい。地獄に行ったことないけど、地獄よりひどい」
東京から持参した物資はすぐ尽きて、毎朝、後背地で果物や食料を仕入れ、避難所に届けるのが日課になった。(つづく)