本と映画と政治の批評
by thessalonike5
アクセス数とメール
今日 
昨日 


access countベキコ
since 2004.9.1

ご意見・ご感想
最新の記事
最新のコメント
最新のトラックバック





























access countベキコ
since 2004.9.1


















仙台
震災発生から1か月になるが、東松島市に住む知人とはまだ連絡が取れない。この1か月のうち、特に後半の2週間、テレビは福島県と三陸方面に関心を集中させ、石巻から南の被災地の報道が極端に少なかった。原発については福島県、津波については三陸地方。同じスポットばかりをルーティンで定点観測する。しかし、最も多くの死者と行方不明者を出しているのは、石巻市から東松島市、多賀城市、仙台市、名取市、岩沼市、亘理郡に至る宮城県の中部から南部にかけての海岸沿いなのである。報道の印象を言えば、被災地全体の南と北ばかりが取材・撮影され、その中間にある広大な地域が忘れ去られている。荒浜や閖上は、震災の初期にマスコミが脱兎の如く殺到し、その後も東京のマスコミが「名所」のように扱う報道を続けているが、そこから南へは焦点を当てようとしない。仙台ではまだガソリン不足が深刻に続いていて、食料等の買い物に市民が難儀している。不思議なのは、そうした苦境について仙台市長が国民や政府に訴えないことだ。震災以来、仙台市長は一度もマスコミに登場していない。県知事と同格の政令指定都市の長でありながら。仙台は東北の中枢である。ここの復興が遅れると、東北経済全体に影響が出て後遺症が残る。仙台が仙台の機能を取り戻さないと、東北経済の自律的な復興と再生は難しい。NHKで報道したとおり、医療もそうだ。仙台に東北の首都機能が集中している。


笹かまぼこの工場が津波で被害を受けた報道があった。西日本の人はあまり詳しくないと思うが、仙台はまさに食の王国で、仙台駅エスパルの地下を歩くと、その豊穣さに圧倒される。駅弁の品数の多さや具材の豊かさの感動は、西日本の都市では経験できないものだ。はらこめし、ホッキめし、かきめし、牛たん弁当。塩竃と三陸の漁港を後背地に持つ仙台は、ひたすら海の幸が豪華で、そこで消費者になる人間を幸福感で満たす。春はホッキ貝の旬の季節であり、親戚から毎年のように送ってもらっていた。ホッキ貝と笹かま、ビールのつまみに最高の二品。仙台の食べ物の特長として、ただ味がおいしいだけでなく、ボリュームがある点が素晴らしい。不足感がない。対照としてわかりやすい比較を示せば、やはり京都ということになるだろうが、京都で口にするものは何から何まで決定的に量が少なく、コストパフォーマンスの悪さに強烈な印象が残る。それと逆の至福と満足が仙台にはある。そして、前にも触れたが、菓子がおいしい。特に白松がモナカのヨーカン。これを井ヶ田の濃い渋いお茶でいただくのが、おそらく日本人の最高の食後のデザートだと私は思う。京都の生菓子(練りきり)と抹茶も悪くないが、白松がヨーカンと井ヶ田の煎茶のセットには敵わないのではないか。私は、あの虎やの羊羹に夢中になる一般人の嗜好が理解できない。どう考えても、白松がモナカのヨーカンの方が絶品で極上だ。リプレイスされるべきだ。

東北は全体に地味だが、仙台だけは垢抜けていて、街が華やかで都会的なセンスが充満している。洒落ている。仙台の和菓子も、洗練された都会文化も、知的な風情も、元を辿れば政宗に行き着く。趣味人だった政宗は詩作する知識人でもあった。大阪が秀吉の人格が体現された町であるように、仙台はまさに政宗そのものが生きている。400年間、解体脱構築されていない。政宗が仙台に安土桃山文化を移植し、江戸期を通じて豪農の文化として発展し続け、今日に至っている。あの白松がヨーカンと井ヶ田のお茶は、貴族ではなく豪農の嗜好の産物である。だから、中間層の人間の毎日の食事のデザートとして最高なのだ。人気を博した1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」では、政宗の腹心として二人の武将が登場した。西郷輝彦が演じた片倉小十郎と三浦友和が演じた伊達成実である。政宗は、信頼できる有能な重臣二人を要害に配置した。片倉小十郎を白石に、伊達成実を亘理に。徳川が江戸から攻め上がってきた有事に備えた防衛拠点二か所である。中通りの白石、浜通りの亘理。伊達にとっての白石城と亘理城は、幕府が島津の北上を睨んで東西二つのルートに置いた岡城と熊本城と同じと言える。仙台駅から常磐線に乗ると、名取駅、館腰駅、岩沼駅と続く。この間、右隣に東北本線が並走していて、高松から善通寺までの土讃線と予讃線の並行を思い出す。冬は、右側(西)の車窓に白銀の蔵王連峰が衝立のごとく見え、一服の絵のように美しかった。

西日本の土地は、どこも低い山がやたらせわしくあるが、東北の風景はそうではない。山は山、平野は平野で空間が豁然として、どっしりと構図が落ち着き、眺望が雄大に開けている。北海道の自然景観に近い。つまり、西日本と北海道の中間の形状をしている。会津と磐梯山、仙台と蔵王、庄内と鳥海、盛岡と岩手山、津軽と岩木山、どれも同じだ。山が大きく、シンボリックで、景観が見事な絵になる。常磐線の館腰駅は、空港アクセス線の鉄道が開通するまでは、仙台空港への最寄り駅だった。駅前に降り立ったとき、本当にこの先に空港があるのかと思うほど、何もなく殺風景で心細かったことを覚えている。仙台の人々は、昔はあまり空港を利用することがなく、空港に関心がなかった。交通の主役は東北新幹線であり、行き先は、目的地も中継地も東京だったからだ。人の少ない安閑とした空港から仰ぎ見るところの、雪をかぶって仙南平野を睥睨する蔵王連峰が、本当に美しく印象的で、何という贅沢な景色の独り占めだろうと思った。この情景は一般によく知られていない。今回の震災の映像でも、NHKは積極的に紹介しなかった。岩沼駅を過ぎると、東北線と常磐線の二手に線路が分かれ、東北線は阿武隈川の左岸を山に入り、常磐線は川に架かった鉄橋を渡る。東北線は小十郎の白石へ、常磐線は成実の亘理へ。鉄橋を超えた左手に大きな大昭和製紙の工場があり、嘗てはそのパルプ臭が凄まじく、車内にも暫く悪臭が漂ったものだった。あの工場は無事だっただろうか。

東北の人はよく我慢をする。不平不満を言うことが少ない。万事控えめで、辛抱強く、自己主張をしない。忍耐強さと粘り強さが東北人の身上である。震災の直後、海外で報道され称賛されたところの、苦難の中を冷静で礼儀正しく行動し、何時間も灯油やガソリンの行列に立ち並び、秩序を乱さず、各自が自己犠牲して扶助し合った人々の美質なるものは、日本人の美質ではなく、東北人の美質であり気質である。東北人の共同体の精神特性だ。日本人一般、特にわがままな東京人を始めとする現代日本人一般のそれではない。震災から1か月、そうした東北人の粘り強さの特性に触れたのは、クローズアップ現代に一度だけ出演した内橋克人だけだった。この間、いろんな避難所や病院で、NHKが中継のカメラを(ネタ的に)向け、「今、必要なものは何ですか」と欺瞞的な放送を繰り返したが、出て来る石巻や三陸の人たちは、行政や報道の非情や冷酷に対して憤りをぶつけることはなく、苦情をストレートに口にすることはなかった。しかし、カメラを見る目は、NHKと政府の欺瞞を告発していた。「ガソリンは至急届けます」、「医薬品が届く仕組み作りを」、「ボランティアが入れる仕組みを」、「仮設受託を緊急に」。毎日毎日、「仕組み」だの「態勢」だの「前向き」だの、うわべの繕いだけを政府と報道が言い、嘘の皮ばかりが並べられる。騙されても、騙されても、善良な東北の被災者は堪えて待ち続ける。東北人の傷つけられた心は、これからどうなるのだろう。精神の美質と特性は不滅に生き続けてくれるだろうか。

被災した東北の人たちは、この辛苦の中で人間の美しさを見せているのだ。素朴な人の心を、人間の気高さと誇り高さを、われわれと世界の人々の前で証明しているのだ。われわれはその真実に気づく必要があり、彼らの姿に感動を覚えなければならない。心が衝き上げられるものを感じ、コンパッションを表現しなくてはいけない。窮極に追い詰められた生存環境の中で、努力と勇気と忍耐と献身の限りを尽くし、人はいかに生きるべきかを教えているのだ。先週、TBSの歌番組に坂本冬美が出演して、被災地に向けて言葉を送る場面が放送されていた。いい感じの挨拶で、見ながら安心させられた。こういう挨拶ができる内面があるから、再現芸術である歌謡曲の歌唱で一回一回の感動を媒介できるのである。そう納得させられる。こういうとき、何を言うか、どういう表情と態度を見せるかは大事な問題で、残念なことに個人差があり、無自覚で非常識で論外と思える事例が無数にある。被災者の痛みを自分の心の痛みにできず、届ける言葉と響きを知らない者が多い。否、そればかりが横溢している。マスコミだけでなくネットの中もそうだ。坂本冬美は、「自分の方が勇気をもらっている」と正直に語った。その素直な感覚を実感として持てている者が、Twitterで原発問題に興じている(左系の)東京人のうち、果たしてどれほどいるのか、私は疑わしく思う。原発事故は重大な問題に違いないが、なぜ苦境にある東北の人々の姿に目が向かないのだろう。報道も、視聴率が取れるから、メインは原発の話題にする。が、半分は被災地の報道に当てる。

左系と思われる政府批判のTwitter族が、被災地の人々について何か言うことはないのだ。その問題に関心と感動を持つことがない。視聴率オリエンテッドはマスコミと同じであり、マスコミ以上にその傾向が強い。自分がフォローしている情報系の関心が自分の関心であり、そこで乱発されタイムラインに浮遊する罵倒や扇情が自分のツイートのエンジンになる。そして、巨大な拡散の渦になり濁流になる。140文字の羅列だから、そこには理性的判断とか論理的検証の契機はない。思考する必要がない。辺見庸は、朝日ジャーナル(3/15号)に寄せた「標なき終わりへの未来論」の中で、ネット・アナキスト批判を論じていたが、辺見庸の言う「ネット・アナキスト」とは、こういう種類の者たちを指すのだろうか。今回、FC2の障害について、心配してくれる読者からメールが多く届く。お気遣いはありがたいのだが、私がこの件を話題にしないのは、そこで口を開くと、権力による言論弾圧の陰謀が云々という、ありきたりのTwitter族(ネット・アナキスト)と同じ言葉が並びそうだからである。この地獄の境遇の中で、行政や報道にどんな酷い仕打ちをされても、不平不満を一言も言わず、体力と気力の極限で周囲を助けて奮闘している被災地の人々がいる。大事なことは、自分の些細な問題ではなく、津波災害と原発事故なのだから、FC2が潰されても、Exciteに避難すれば記事の発信はできるのである。家族を失い、家を流された人々の苦しみ悲しみに比べれば、ブログの破壊など取るに足らない。一からCSSのコードを書き直せばよいだけだ。だから、FC2の障害は話題にしたくないし、話題にされたくもないのである。天皇陛下は、国民一人一人が、被災した各地域の上に心を寄せよと言っている。

天皇陛下の言葉に従いたい。



by thessalonike5 | 2011-04-10 23:30 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://critic5.exblog.jp/tb/15229258
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前 :
URL :
※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。
削除用パスワード 
< 前のページ 昔のIndexに戻る 次のページ >

世に倦む日日
Google検索ランキング


下記のキーワード検索で
ブログの記事が上位に 出ます

NHKスペシャル 激論2009
竜馬がゆく
花神
世に棲む日日
翔ぶが如く
燃えよ剣
王城の護衛者
この国のかたち
源氏物語黄金絵巻
セーフティネット・クライシス
本田由紀
竹中平蔵
皇太子
江川紹子
G20サミット
新ブレトンウッズ
スティグリッツ
田中宇
金子勝
吉川洋
岩井克人
神野直彦
吉川元忠
三部会
テニスコートの誓い
影の銀行システム
マネー敗戦
八重洲書房
湯浅誠
加藤智大
八王子通り魔事件
ワーキングプアⅢ
反貧困フェスタ2008
サーカシビリ
衛藤征士郎
青山繁晴
張景子
朱建栄
田中優子
三田村雅子
小熊英二
小尻記者
本村洋
安田好弘
足立修一
人権派弁護士
道義的責任
古館伊知郎
国谷裕子
田勢康弘
田岡俊次
佐古忠彦
末延吉正
村上世彰
カーボンチャンス
舩渡健
秋山直紀
宮崎元伸
守屋武昌
苅田港毒ガス弾
浜四津代表代行
ガソリン国会
大田弘子
山本有二
永岡洋治
平沢勝栄
偽メール事件
玄葉光一郎
野田佳彦
馬渕澄夫
江田五月
宮内義彦
蓮池薫
横田滋
横田早紀江
関岡英之
山口二郎
村田昭治
梅原猛
秦郁彦
水野祐
渓内譲
ジョン・ダワー
ハーバート・ノーマン
アテネ民主政治
可能性の芸術
理念型
ボナパルティズム
オポチュニズム
エバンジェリズム
鎮護国家
B層
安晋会
護憲派
創共協定
二段階革命論
小泉劇場
政治改革
二大政党制
大連立協議
全野党共闘
民主党の憲法提言
小泉靖国参拝
敵基地攻撃論
六カ国協議
日米構造協議
国際司法裁判所
ユネスコ憲章
平和に対する罪
昭和天皇の戦争責任
広田弘毅
レイテ決戦
日中共同声明
中曽根書簡
鄧小平
国民の歴史
網野史学
女系天皇
呪術の園
執拗低音
政事の構造
悔恨共同体
政治思想史
日本政治思想史研究
民主主義の永久革命
ダニエル・デフォー
ケネー経済表
価値形態
ヴェラ・ザスーリッチ
李朝文化
阿修羅像
松林図屏風
奈良紀行
菜の花忌
アフターダーク
イエリネク
グッバイ、レーニン
ブラザーフッド
岡崎栄
悲しみのアンジー
愛は傷つきやすく
トルシエ
仰木彬
滝鼻卓雄
山口母子殺害事件
ネット市民社会