「歩いて帰ろう」のがよくね?

Apr-10-2011



 「反原発ソングがアップされて話題になっているのだが、見た目がもうおまえさんにしか見えない」というメールを、僅か3通頂戴しまして、すわ、物まね芸人のホリ氏が久しぶりで行動に出たか!それにしてもまさか反原発ソングとは!すげえ!!で、誰の物まね???と思い、クリックしてみたら何とシンガーソングライターの斉藤和義さんで、ワタシの見立てでは、斉藤和義さんはブルージーでエロい大槻ケンヂさんなので、これはもう無茶苦茶カッコ良いのであって、要するにぜんぜんワタシに似ていない訳です(過去、「記憶喪失学」のジャケットの壁画がダイアモンドユカイ氏に似ている。という指摘もあり、これは「あ、氏には失礼ながらちょっと似てるかも(笑)」と思いましたが)。

 コメント欄。みたいなのを拝読すると、これが延々と長く(連日冗長な長文を書いているワタシが言えた義理ではありませんが・笑)、とはいえ面白いのですっかり読んでしまいまして(震災以来、テレビとパソコンにへばりつく時間が増えて、マジで困っています。体重がどんどん増えて行く)、これぞロックだとか、いや売名行為だとか賛否両論の嵐でありまして、そもそもロックに疎く、ロック的という勘所がまったく掴めないワタシとしましては「えー、これ、立派な<日本の社会派ロック>じゃないの?この感じ」とか、足下おぼつかない考えが巡るばかり、とてもコメントなど出来る立場にはありませんけれども、唯一、ロックファンの皆さんが誰一人として、資生堂さんにお気遣いなかったのが残念でありました。

 資生堂になど気を使わないのがロック魂なのかも知れず、言うだけ野暮かも知れませんが、とはいえワタシが申し上げたいのは、この曲が資生堂のIN&ONという製品のコマーシャルソングであって、タイアップ契約を結んだだけと言えばそれっきりとはいえ、自社製品、しかも化粧品という清潔で健康的なプロダクツのイメージに選んだ歌を替え歌にし、「クソ」とか「黒い雨」とかいった言葉を、知らない悪いヤツにならいざしらず、タイアップのお金を支払った(結構な高額だと思われます。うらやましい!!)アーティスト当人にあてられてしまった資生堂さんとCM関係者の心中を思いやってあげてつかあさい。大気汚染も海水汚染も問題ですが、イメージ汚染だって問題ですよ〜。といった事では全くありません(それも若干問題だとは思いますが、まあ、それによって資生堂側の誰かの首が飛ぶとかでもなさそうですし)。

 それよりも、ワタシが申し上げたいのは、こうして、この曲が資生堂のコマーシャルソングであったが故に、この歌で最もストレートにDISられたのが東電でも原燃でも政府でも、原発設置によっていくばくかの利益を得た地域住民にでも、それらを緩く許容した、斉藤さんご本人を含む、都市民総てでもなく(それらに対しては、言うまでもなく、こんなにもストレートな物言いでは、複雑に屈折してメッセージの攻撃力が飛散してしまうのは避けられないので)、何と資生堂になってしまうのである。という事実に対してもっと目を向けて頂けたらなという事です。この構造が、なんちゅうか勢いとノリみたいな事によって問題視されないとするならば、それは原発が勢いとノリみたいな事によって安全視されたりしていた事と同一化、つまり、ボケーっとした話に鳴ってしまいます。敵は己の中にあり。と言いますが、ロックの闘争というのは、そうしたアンヴィバレンツを含むものかも知れず、とまあ、ちと、やはり勘所が解らないので、発言の勢いに欠けるきらいがありますが。

 あと、これは、論文や新聞記事でもあるまいし、歌の歌詞に文句を言うのも野暮ですが、「黒い雨」というの言葉のチョイスにも基本的な問題があります。これも「広島と長崎の方々の気持ちを考えろ」といった意味ではなく(そこにフォーカスを当てる方も当然いらっしゃるでしょうが)、それよりも、そもそも斉藤さんご本人が、「黒い雨」というものを「原発事故等で空中に飛散した放射性物質が上空に滞留し、自然発生した雨雲と合流する事で、自然発生する降雨に、結果として放射能汚染が生じる事(なので、世界中のどこでも降り得るもの)」だと思われている節があり、それが概ね間違いであるからです。

 「黒い雨」は、そもそも俗語であってテクニカルタームではありませんが、現在の所の、やんわりした定義では、原子爆弾の爆発、或は大規模な核実験によって急激に発生する、高濃度の汚染を帯びた上昇気流が、あたかも自然雨のような格好で、投下直後に爆心地近隣に降り注ぐもの、あるいは二次的に、爆弾投下によって発生する大規模な火災(もの凄い大規模。それによって雨雲が発生するほどの)によって生じる上昇気流によって発生する以下同文。であって、いずれにしろ「不自然降雨」とでも言うべきものであり、自然発生した雨(原爆投下があろうとなかろうと、降る予定だった)との諸関係については、実のところ余り良く解っていない筈です。

 そして、福島原発事故の直後に、例えば建屋の水素爆発の際の爆風の勢い等によって急激に上昇気流が巻上がり、爆発直後に近隣に降雨があったという事実は一切報道されておらず、前述の通り、斉藤さんが単に語義の間違いをしているのであればともかく、もしこれを、「報道されていないだけで、実際に福島に黒い雨が降った」とするならば、斉藤さんは大変なジャーナリストもしくは被害妄想という事になってしまいます。要するに、どちらにせよ、揚げ足取りをされてしまう可能性を残しています。

 言うまでもなく、ワタシは勘所が悪いだけで、ロックの社会派メッセージソングに対して何の異論もありませんし、斉藤さんの音楽はかなり好きですし(あの、風俗嬢の歌とか、泣いちゃいますよね)、それより遥か以前に、誰が何を歌おうがまったく構わないのですが、もし「歌の力」というものを、「歌詞という言葉に混めた力」に還元し、それによってファックな奴らを撃つ。という構造で捉えるのであれば、これはのっぴきならない戦闘ですから、脇は固ければ固い方が良いと思われ(そうでもないのかも知れない。過去の反戦フォークとかロックとかをざっと聴く限り。というか音楽による社会的メッセージ、なんて、どれも脇が甘いのが魅力なのかも。少なくとも<ジャズの社会派>に於ける歌詞に、左翼的/半体制的に有効なものなどひとつもなく・笑・例えばミンガスの有名な「フォーバス知事」なんて、汚い言葉を怒鳴り散らしているだけで、どちらかというと、面白いです・笑)、そしてそれは、意図的/効果的にやろうと狙う限りにおいて、もの凄く難しい事だと思います。

 そして何よりもですね、何かを撃つ本質的なポエジーの力において、老婆心ながら、わざわざこうして中指を突き立てた替え歌を作らずとも、斉藤和義さんには「歩いて帰ろう」というとてもステキな曲がありまして、これ<ポンキッキーズ>という児童向け番組の(確か)挿入歌ですが、これをそのまま、まったくじらずに歌った方が、現状に対する、痛烈な批評として、遥かに強い力を発揮したのに。と思うばかりですね。





歩いて帰ろう



走る街を見下ろして 
のんびり雲が泳いでく
誰にも言えない事は どうすりゃいいの?おしえて

急ぐ人にあやつられ 右も左も同じ顔
寄り道なんかしてたら 
置いてかれるよ すぐに


嘘でごまかして 過ごしてしまえば たのみもしないのに 同じ様な朝が来る
走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく

;だから歩いて帰ろう 

今日は歩いて帰ろう




嘘でごまかして 過ごしてしまえば
たのみもしないのに 
同じ様な風が吹く 急ぐ人にあやつられ 言いたい事は胸の中 

寄り道なんかしてたら 置いてかれるよ いつも 

;走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく 僕は歩いて帰ろう 

今日は歩いて帰ろう





 如何でしょうかこれ。「ずっとウソだったんだぜ」とか「ずっとクソだったんだぜ」よりも、こっちのが遥かに手厳しい。ちゃんと政府と東電にストレートなパンチが入っていますし、それに支配される、ご本人も含む市民社会に対してもパンチが入っています。何せ「帰宅難民」「被災者」という社会現象も扱っており、しかもそれらすべてが、「そんなつもりで書かれた訳ではないのに」という、強いイメージ喚起力、つまり批評の力を持つと思うのですが、と、誰に届く訳も無い問いかけですけれども。

 チャーミングな斉藤さんですから、ファックのフライングもまた魅力のうち。しかしダーティーダズン(知力を使った罵りの技術)としては図らずも自爆してしまった格好で、しかしまあ、それもまたよし(フロイト的に言えば、斉藤さんは、「歩いて帰ろう」の、あまりに痛烈な批評の力の発生を抑止しようとして、がむしゃらにファックを投げつけた。という事が可能です)。これで改めて斉藤さんを嫌いに成った。などと言う人は、これがなくともいずれ嫌いに成っていたか、やがて許す人でありましょう。しかし、ワタシが「普段通りの音楽を続けるのが一番のメッセージである」「平時から、芸術というものは、有事の備えになっているべき」というのは、例えばこういう事なのです。平原綾香さんの「ジュピター」が、事前にではなく、震災後の復興の歌としてわざわざ作曲された物だったとしたら、売れると同時に、ネガティヴジャッジは<チャーミングなフライング>程度では済まされなかったでしょう。