吾輩は猫?である
第1話 『BLEACH』
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吾輩は猫?である。名前は・・・・・・思い出せん。
何故、吾輩が自分が猫であるか疑問に思っているか。それは吾輩の意識が猫でないからに他ならない。
幼少時に親に捨てられたアマラとカマラがオオカミに育てられたという話があるが。アマラとカマラにとって自分達は育て親と同じ狼だと考えるだろう。
しかし吾輩は自分の体が紛れもない猫であると知っていながら、脳裏に思い描く意識は猫ではないと確信している。
言い方を変えよう。
後ろ足二本に体重をかけて両前足を顔の前に持っていくと、前足でしっかりと自己主張している肉球が視界に写る。
見えるのは猫の手だ。肉球がピンク色でそれ以外の毛色は黒、黒猫の前足が見えていた。吾輩は猫であるがゆえにおかしくは無いのだが、私はその自分のモノと思わしき肉球に盛大な違和感を覚えている。
違和感の大きさを言葉にするならば、七曲署の新人刑事が「なんじゃこりゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!」と思わず叫んでしまう程だ。
説明が判り難い? 何のネタか知りたければ自分で調べろ。
少なくとも吾輩は自分の手が猫の手に変わっている事をおかしいと思い、私という個人が確立されているのをきっちり認識している。
そもそも猫はこんな哲学をするだろうか? いや、しない。多分、きっと、おそらく・・・・・・。
実際に猫と話したことはないし、『バウリンガル』などと呼ばれる犬と話せる翻訳機があるのは知っているが、猫のがあるのか知らないのでどうしようもない。もしかしたら吾輩が知らないだけで猫用の『ニャウリンガル』なる物が世の中に出回っているかもしれないが、少なくとも私の人生において猫と話した経験は皆無だ。夢の中ならば合ったかもしれないが、現実では一度もない。断言しよう。
そう―――人生。つまり私には人として生を過ごした経験が存在する。
しかし天寿を全うした覚えもなければ、転生トラックと呼ばれる二次小説お決まりの衝突されれば得体の知れない世界に生まれ変わってしまう奇妙奇天烈な乗り物にぶつかった覚えもない。
神を名乗る正体不明の何者かに出会った記憶もなければ。『貴方は世界に選ばれた戦士です』などと、本当にいたら声をかけられた瞬間に逃げ出す勧誘にも遭遇していない。
大体、吾輩の―――私の―――ええい、ややこしい。私の経験が一人称を『吾輩』などと言った覚えはないので、とりあえず私か俺に統一しよう。そうしよう。
話を戻すが、私の猫としての体は紛れもなく成猫のそれであり、生まれたての子猫ではないのだ。目で見える肉球はなかなかの大きさを誇っている。
憑依という言葉は知っているが、少なくとも私が覚えている人生の中では憑依された覚えも憑依した覚えもないので、本当にこれが憑依という現象なのか判らない。
あえて言うならば自覚した瞬間に私という存在が猫の体で確立された。デカルト曰く、『我思う、ゆえに我あり』だ。
哲学は偉大である。
色々と回りくどく現状を把握しようと努めてきた。そして今の状況を一言で纏めてしまえば―――
よく判らん。
これに集約される。
なに? 今まで色々語っておいて、それは許せないだと? ええい、私が判らないことが他人に容易く判ってたまるか。全く近頃の若い者は容易に答えが得られると思っているし、質問したら答えが返ってくるのが当たり前だと思っている。全く嘆かわしい。
思考が横道にそれそうだったので、これ以上考えるのは止めておこう。大体、私は誰と話してるんだ? おそらく意識化の私が無意識化に分類される『私』に話しかけているに違いない、テレパシーなど受けてないし、頭の中で声がする電波な生き物ではないと固く信じたい今日この頃である。
とりあえず私は思考に没頭することで驚きの大半を消化することに成功した。
考えて。
考えて。
考えて。
考えて。
考えて。
時間を消費して驚きを消し去ったのだ。ブレーズ・パスカルによると『人間は考える葦である』。うーむ、これもまた哲学か。
あ、今の私は猫だった。
よく判らない事態に陥りながら、私は何とか落ち着きを取り戻して声を出してみた。
「にゃにゃ・・・・・・」
猫の鳴き声だ・・・・・・・・・。
完膚なきまでに猫の鳴き声が口から出てきた。
両前足を地面におろした瞬間。これまで感じたことのなかった肉球の感触が伝わってきて感動したが、出てきた声はその感動を一瞬で吹き飛ばす威力を持っていた。
とりあえず私は「本日は晴天なり」とお決まりのマイクテストの一文を言おうとしたのだが、口から出てきたのはただの猫の鳴き声だ。これで「本日は晴天なり」と聞いている奴がいたら私はそいつの頭を疑う。
判った認めよう。というか諦めよう。どうしてこうなったかは知らないが、今の私は猫だ。
人の声帯ではないので猫の泣き声しか出ないのは当然だ。
頭の中は猫と一線を解する人の意識なので正確には『猫?』かもしれないが、体は間違いなく猫だ。
ではこの猫の体で考えている吾輩こと私は一体何者であろうか?
「にゃにゃ・・・?」
考え事をするように声にしてみるが、自分の声なので可愛らしさは欠片も感じない。誰かが見たら首をかしげた可愛らしい猫の仕草かもしれないが、自分の声なので何の感慨も沸かない。
自分が人間だった時は猫の仕草に一喜一憂した覚えがあるのだが・・・・・・。
過去を思い出そうとした―――。
経験を思い出そうとした―――。
自分を思い出そうとした―――。
が!! 思い出せん!!
私の頭には間違いなく人としての経験がびっしりと詰まっているにもかかわらず、自分がどんな名前で、どんな人間で、どんな生き方をして、どんな両親や兄弟と過ごし、どんな恋人と付き合って、どんな子供を育て、どんな生涯を生きたのか判らない。
とりあえず男だという事は思い出せたがあまり意味はなかった。日本語を連発しているし、奇妙なネタが頭の端々に浮かんでくるので、多分、日本人だと思うのだが。依然として私の正体は謎に包まれている。老衰で死んだ? それも思い出せん。
私は・・・・・・誰だ?
少し格好つけてみたが、やはり猫なので威厳は欠片もない。
ふ、空しい。
私は自分が猫である事を自覚すると、とりあえず自分がどこにいるかを確かめるために歩き出した。もちろん四本足でだ。
これで二足歩行で歩けば猫ではない何か別の生き物になるのだが、我が体はしっかり猫だったようだ。試しに二本足で立てるか試してみたが、五回ほどやって無駄だと悟る。
トットットット、と軽快に進む我が体。
周囲に見えるのは私の主観で古めかしい日本家屋が立ち並んでおり、時代は昭和かもっと古いのではなかろうか。木造建築ばっかりだし、整備された道路ではなく地面は土だし。例を挙げれば映画の『ALWAYS 三丁目の夕日』が近い気がする。
・・・・・・何故、私は映画の事を知っている? まあいいか。今は周囲のことに目を向けよう。
これで明確に『ただいま何年何月何日です』などと表示されたポスターか看板でもあれば状況把握がかなり楽になるのだが、そういった類の物は見えない。
というか人がいねぇ!!
夜なのだから当たり前といえば当たり前だが―――。
そう、今は夜だ。真っ暗だ。灯りが殆どない。
細かな時間は判らないが、太陽は完全に隠れて月光が空から降り注いでいる。藁人形に向かって五寸釘を突き刺す丑三つ時だろうか? 猫はどうだから知らぬが、人の意識を持っている私には少々怖すぎる時間である。
夜の一人歩きはしない方が安全だ。うん。
ただ、嬉しい発見もあった。それは猫の体で夜目が効き、瞳孔が開いた目は人だった時よりもよく見えるという事。
だから誘蛾灯の名が示すとおり灯りに吸い寄せられる蛾のごとく、人工の光を求めてうろうろするのは本能が成せる技だと思う。
光はどこだ? こっちには無いぞ。
光はどこだ? あっちにも無いぞ。
光はどこだ? あそこにあるぞ。
私は猫の体になって初めて全力疾走した。
太陽ではなく、人工の光だったとしても光は嬉しいのである。吸い寄せられても決しておかしくない。頭の片隅で『それは死亡フラグだ!!』と突込みが生まれるが、とりあえず無視。
私は四本足で走った。
そして光に近付くにつれて、食べ物の匂いがそこから漂ってきた。
よく考えてみたら、私は人から猫に変わってしまってから何も口にしていない。食料はおろか水の一滴に至るまでこの猫の体に取り込んでいない。
それだけ驚きが強かったということだが一度意識してしまうと体は空腹を訴える。
腹減った、ああ腹減った、腹減った。
思わず川柳を読んでしまう私。
けれど四本足は走るのを止めず、あっという間に私を人工的な光の下に運んでくれた。更に腹が減った気がするが、これも無視だ、無視。
そこで私は人を発見した。
そして私は敵と出会った。
人がいたからとりあえず得体の知れないどこかに放り込まれたんじゃなくて良かった。とか。
暖簾に書いてある文字が日本語だったのでとりあえずここが日本だと確認できて良かった。とか。
光を出していたのはどこかの居酒屋だったらしく、匂いはそこから出ていたと判った。とか。
そう言った類の安堵やら安心やら納得やらが一瞬で吹き飛ぶ敵がそこにいた。
猫だ。
猫の体になってしまった私と全く同じ目線。人の意識で思い出せば確実に猫だと見て取れる生き物が私の目の前にいた。
これで私の体が人のそれであったならば愛おしく思い、可能ならば近付いて撫でて毛の感触と生き物の暖かさを楽しんだだろう。私は猫をいじめて楽しむ性質は持ち合わせていない。
だが今の私は猫だ。殆ど同じ体格、むしろあちらの方が少し大きいのではなかろうか。
人であった時も子供をほほえましく思ったことがある。つまり、自分より小さい生き物ならばそう思えるのだが、これが自分と同じかより大きい生き物で愛おしく思えるほど私の器は大きくない。
数は三匹。
どうやら彼らは、皿に盛られた食べ物を貪っている所だったらしい。良い匂いが漂ってくる居酒屋の余り物か、はたまた客の厚意によるものか。一瞬で事実に至るまでの原因を探るのは難しい。
そして私が良い匂いのする場所に更に近付くと―――三匹の猫がいっせいにこっちを向いて毛を逆立てて牙をむき出しにした。
「にゃ・・・・・・」
どうやら私はそこにいる猫達から見たら余所者のようで、自分達の食べ物を奪いに来た敵と認定されてしまったようだ。
『お魚くわえたドラ猫 追っかけて~~』などと、宇野ゆう子が歌っているが。お魚くわえた美味しい状況など全く無いということがよく判る。食べ物の取り合いは戦いだ、戦争だ、骨肉の殺し合いだ、弱肉強食だ。
怖い。
ものすごく怖い。
この瞬間、私は猫となる前の人間としての経験に『ヘタレ』を付け加えた。どうやら私は喧嘩が苦手だったらしい。争いが苦手だと言い換えても良い。まあ、とにかくそういう事だ。
そして猫達が威嚇の体勢を取った瞬間、私は四本足を全て使って後ろに三歩ほど跳躍した。これまで前方に向かって走っていた勢いがそのまま真後ろに切り替わってしまった。
ついでに言えば、跳躍中に視線の先にいる猫の口から出てくるのが猫の鳴き声だったことも教えておこう。
今の私は猫なんだから相手の猫が何言ってるか判ってもいいじゃないか。なのに私の目の前にいる猫は「シャ――!!」と毛を逆立てて威嚇しながら、出てくるのは猫の鳴き声そのままなのだ。
不条理だ。
我が身は人の意識を持った猫であるが、猫のことが人以上に何かわかるぐらいの特典があっても罰は当たらないと思う。
いや、むしろこの身は猫であるが人の意識を保ったままの弊害がここに来て出てきてしまったと言うのか? 私が生粋の猫ではなく『猫?』だから同族と思わしき生き物も言葉も判らないのか?
やはり不条理だ。
どうやら私を取り巻く世界は敵だらけらしい。
仲良くする為にあえて近付いていけ? 無理だ。
力で屈服させて上に立て? それも無理だ。
大体、人の戦いは徒手空拳の場合は手足を使った攻防が主体となる。それがいきなり四本足で爪と牙を使った戦いになって、いきなり慣れろと言われてもそれは無理だろう。
無理だ。色々と無理だ。
跳躍を四回ほど続け、トンットンットンッ、と軽快に目の前の敵から遠ざかる私。気がつけば猫達からかなりの距離を取っているのに気がついた。
ついでに言うとそのまま踵を返して逃げてしまう。
生存競争に放り込まれていきなり逃げ出した私を誰も攻めないでほしい。いや、ほら。何せ、判らない事だらけなので・・・・・・、そして私は猫である。
「にゃぁ・・・・・・・・・」
自分の口から出てくる弱弱しい猫の鳴き声に悲しくなった。
あまり思い出せない人生では、常に明るさと一緒に過ごしていたと思う。しかし猫になってからは明るさに誘われれば危険に近付くのと同義だと言うことがよく判った。
力なき生き物は灯りの傍に近付くことも出来ない。
人として生きている間はお天道様の下を意気揚々と歩いていた私だが。どうやら猫の体になってからは日陰者の暮らしをするしかなくなったようだ。
何? 日陰者の意味が違う? なんとなく雰囲気が伝わればそれでいいのだ。バカボンのパパも、「それで、いいのだ。」と言っているし、それでいいのだ。
まあ、兎にも角にも食料を手に入れられなかった状況には何も変化はない。再びあの猫三匹がいる場所に近付く勇気が無く、私は人が確実にいる場所から遠ざかるしか出来なかった。
ほんの僅かな勇気が本当の魔法だと、どこかの魔法先生が言っているが。勇気が出せる人もいれば出せない人もいるのだ。そして私は出せない猫だ。
とぼとぼと夜の街を歩いてた私こと猫。
グルルルルル―――・・・・
唐突に獣の唸り声を感知した。
気のせいだと思いたい。しかし私の耳ははっきりとその音を聞いてしまい、一瞬で危険信号を頭の中で鳴り響かせた。
前には何者もいない。
右にもいない。
左にもいない。
残るは後ろだけ。私は急いで振り返り私を見下ろしている巨大な生き物を見てしまった。
さっきの猫より大きい敵だ。
しかも明らかに警戒の雰囲気より攻撃の雰囲気の方が多い、危険な敵だ。おい、いつの間にそこに現れた? 警戒してなかった私が悪いのか? 振り返るまで後ろにいるなんて全然気づかなかったぞ!
何となく心の中だけで敵に対して突っ込みをいれてみたが、状況は変化しない。
そこにいたのは犬だった。
かみ締めた牙を並べ、そこから僅かなよだれを落としつつ、危険を振りまいている。
そうだ―――たとえ人として生を謳歌していた時でも、通り魔に会う可能性は0ではないし、何らかの事故に巻き込まれる危険は常にある。
たまたま運良く事故に巻き込まれずに済んできたが。ニュースで報じられる被害者達の列に自分が並ぶ可能性は常にあるのだ。
一応自分が加害者の立場になる可能性もあるが。属性の一つに『ヘタレ』が追加された私にはそんな大事は出来ないと思っておこう。そうしよう。
とにかく世の中には危険がいっぱいだ。そして私は自分が猫になっている以外の事を殆ど判っていない初心者だ。人で言えば何が危険で何が安全か判っていない赤ん坊と一緒だ。
そんな私が後ろから迫りくる危険を察知できるだろうか? 出来るはずがない。
私は自分の体が驚きと恐怖のあまり硬直してしまうのを認めていたが、同時に頭の中で『この場から逃げなければならない』と明確な答えを導き出していた。
よく考えなくても今の状況は果てしなく危険だ。そして私には敵と対峙した時に攻撃に出れる勇気はないし、方法も全く判らない。ならば選べる方法は逃亡しかない。
逃げろ。
逃げろ!
逃げろ!!
逃げろ!!!
逃げろ!!!!
私は懸命に自分で自分に言い聞かせ、震える四本の足を動かして駆け出した。
一秒でも早く犬から遠ざかるための。私の体躯より十倍は大きいんじゃないかと思える巨大な生物から逃げる為に必死に走り出した。
とにかく逃げろ!
何も考えないで逃げろ!
犬が入ってこれないような小さな場所を見つけてそこに逃げろ!
だが現実は非情であった。
猫の体である私から見たら巨大な体躯の持ち主である犬だが、決して動きが鈍重な訳ではない。むしろ私が必死で四歩駆け出す距離を犬は一歩で詰めてしまう。
私には犬から振り返って逃げる無駄が合った。そして犬はただ前に出て攻撃すればそれでよかった。
犬にしてみれば自分より小さい生き物に八つ当たりしただけかもしれないし、あるいは私の事を食べ物だと思って食ってしまう算段だったのかもしれない。ただ、どんな意図を持っていたにせよ、私は犬の右前足で力強く叩かれてしまった。その事実は変わらない。
これは起こるべくして起こってしまった現実だ。
下から上に持ち上げる力強い一撃は私を空に飛ばした。
痛い、ごっつう痛い。
「知らなかったのか? 大魔王からは逃げられない。」
どこからともなく聞こえてきた声は間違いなく幻聴だ。吹っ飛ばされた私が空を飛ばされながら聞いた幻聴だ。
そのまま横にあった壁に叩きつけられるのではないかと思った私だったが。事態はもっと悪い方向に向かっていく。
なんと私の視界は向かっていく壁から突き出る小さな小さな釘を捉えてしまったのだ。人ならば爪楊枝程度の代物で、ぶつかっても致命傷にはならない。
しかし我が身は猫である。勢いがついている今の状況で壁から突き出た釘に刺さったら確実に痛い。
避けろ。
根性だ。
気合だ。
体の向きを変えて四本足で壁に着地しろ!
無理でした。
ブスッ!
痛い、更に痛い! 口から「ふぎゃぁぁぁぁぁ!!」と猫なのか赤ん坊の泣き声なのかよく判らないものが出てくる程に痛いぃぃぃぃぃぃぃ!!。
私はわき腹の方から壁に激突し、釘はそこからしっかりと私に突き刺さって痛みを倍増させてくれた。
激痛だ。劇痛だ。字を変えても結局痛い。
壁に衝突した衝撃が余りにも強かったので釘に支えられて壁に猫の死体を晒すような状態にはならなかった。だが、私は体に穴が開いた状態で地面に落下していった。
普通なら猫の体は危険を察知して足から地面に降り立つだろう。けれど私は『猫?』なのだ。猫としての俊敏な動きは望めず、ただ痛みに硬直した体で釘が刺さった方とは逆のわき腹から地面に叩きつけられた。
痛い。また痛い。
それにしても運が悪いにも限度があるだろうよ。
私が自分が猫になっているのを自覚して二時間も経ってないのに、いきなり命の危機ってどんだけ!? 物語で言えば今はプロローグだろう、なのに状況はエピローグっぽいぞ、おい。
しかもなんか体が冷えていくような、夢の中に落ちていくような真っ暗などこかに引きずり込まれるような、お近づきになりたくない感覚が私を襲っている。
釘が刺さった場所からは紅い血がどくどくと流れ出て地面に垂れてるし、私を吹き飛ばした犬の唸り声が近付いているような気もする。
打ち所が悪かったのか、それとも体に突き刺さっている釘が生きていく上で必要な臓器を傷つけたか。骨と肉と臓器によって構成されている人の構造なら少しは知っているが、あいにくと猫の構造がどうなっているかは知らん。
まあ物を食べるんだから胃が合って、空気を吸うんだから肺はあると思うが、その程度だ。考えてるんだから脳味噌もあるよな?
とにかく痛くて痛くて動けないんだよ!!
「・・・・・・・・・・・・にゃ~」
救いを求める声は弱弱しい泣き声になってしまい、夜の闇の中に溶け込んで消えてしまう。
何やら「うるさいぞ馬鹿犬!」「どっか行きやがれっ!!」と罵声が聞こえてくるが、薄れ行く意識では何が起こっているかを理解するには至らない。
近所で評判のうるさい犬。夜中に吼えて追っ払われていた。傍で息も絶え絶えな私には誰も気づいてくれない。そんな所か? 確証は無いが。
不条理だ。
不幸だ。
人生って何?
あ、私は猫だった。猫生って何?
上条当麻よ、今なら君が常日頃から『不幸だ』と言っていた気持ちが少しわかる。
世の中の理不尽さに唾を吐いた所で私の意識は完全に消えてしまう。
死んだな、こりゃ―――。
畜生。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
一匹の猫が犬の攻撃によって命を落とした時より少し時間が経った後。猫が命を散らした場所に二人組みが姿を見せた。
片方は褐色の肌をしたグラマラスな女性で、もう片方は飄々としていて真面目なのかふざけているのか判別が難しい男性だ。二人は道の隅で地面に膝をつき、動かなくなった猫を見つめている。
どうやら犬に殺されても食われる事態にはならなかったらしい。
「因果の鎖は無く、魂魄も近くにありません」
「現世に来て早々、生き物の死を見取るとはのう・・・・・・・・・」
二人の関係がどういうものかは不明だが、少なくとも道端に転がっていた猫の死を悼んでいるような雰囲気は両者に共通していた。
女性の方が手を伸ばし、もう動かなくなった黒猫の毛にそっと触れる。
すると男性の方は立ち上がり、おもむろに周囲を見渡して相手に告げた。
「――平子さん達との合流地点から少し離れてます。夜一さん、急ぎましょう」
男性が立ち、女性は地面に膝をつく。そのまま沈黙が二人の間を行き来して、十秒ほど時間が経過した。
神妙な空気が二人の間を通り抜け、周囲を巻き込んでお通夜のような粛々とした状況を作り出す。
しかし、唐突に猫に触れていた方の女性の顔が変わり。『良いことを思いついた』と言わんばかりに笑みを作り出していく。
「おお。そうじゃ!」
「夜一さん?」
「喜助。お主確か、人型の義骸以外にも別の生き物に似せて義骸を作っとらんかったか」
「・・・・・・あれは義骸に魂魄を収める方法とは違う、単なる擬態ですよ? 涅さんから役に立たないって怒られました」
「じゃがお主ならこの黒猫を基にしてその擬態を義骸にまで引き上げるのは不可能ではなかろう?」
さっきまで二人の間にあった雰囲気はどこに行ってしまったのか?
子供が新しい玩具を前にして喜びを隠せないような、あるいはバトルジャンキーが好敵手を前にして戦わずにはいられないような、理性で押し留めても全く当てにならない空気がそこに生まれていた。
夜一と呼ばれた女性は猫に触れていた手を猫の下に持っていき、そのまま動かなくなってしまった猫を持ち上げる。
生命活動を停止させてしまったそれは単なる死体なのだが。夜一はとても良いモノであるかのように、喜助と呼ばれた男性に向かって猫の死体を突き出した。
「今必要なのは霊圧を完全に遮断する義骸なんですけど――」
「完成するまでは義骸に入るから心配するな。猫に姿を変えるのも一興じゃ」
「夜一さん。アタシら、尸魂界と死神達に追われてるって、自覚してます?」
喜助は突きつけられた猫に不快感を露わにしなかったが、夜一を見ながら呆れるような疲れたような、そんな視線を向ける。
だが夜一はそんな視線を真っ向から受けながらも、全く気にせず堂々と言い放つ。
「長い人生、一度ぐらい猫になるのも面白かろう。追っ手の目を眩ます役目もあって一石二鳥じゃ」
「・・・・・・・・・・」
夜一の言葉を聞いた次の瞬間、喜助は何を言っても無駄だぁ、と達観した哀愁を漂わせて小さくため息をついた。
一匹の猫が死んだ。
しかし彼の体は土に返らず。四楓院夜一が擬態する姿として生まれ変わった。
これは黒崎一護が空座町で死神代行になる110年も前の話である。