時は夕刻。全てが赤く染まる頃。美しい黒い髪を持った少女が、誰もいないはずの工事現場の中を歩いている。
少女は学校の制服だろうか、白と黒が基調の服を着、その手には気絶した別の少女を抱えていた。
その姿勢は微塵も揺るがず、足取りははっきりしてふらつく事もないが、どこか悲しげであった。
夕日が少女の横顔を赤々と照らし、黒い少女と、抱えられた少女の顔に影を投げかける。
「――――――お待ちしていました」
その時、孤独に歩む少女に、声がかかる。
声をかけてきたのは一人の男。
年の頃は二十歳を少し過ぎた所だろうか、これと言った特徴がなく、街に出ればすぐに人混みに紛れてしまいそうな風貌だった。
その男は年下であろう少女に慇懃にあいさつをし、あまつさえ頭まで下げている。
安手のジーンズによれたシャツを着たその男は、まるで明日の天気でも聞くかのような気軽さで、少女に問う。
「その様子ではやはり、無理でしたか」
男はやれやれとでも言いたげに首を振り、一つ溜息をつく。
その様子に、少女は歯を軋ませながら、男を睨みつける。
「…………だったら、何故止めなかったの」
少女の口から漏れ出る言葉は暗く、陰鬱としていた。
悔やんでいるかのように、悲しんでいるかのように、声を絞り出す。
しかし、男はそんな少女の様子にも気をとめず、むしろ朗らかささえ感じさせながら答えを返す。
「俺の言葉ごときでは、あの人を止められませんよ。それに、止めようとも思わなかった」
男のその言葉に、少女はむしろ怪訝そうな声音で問い返す。
「………何故?貴方は分かっていたんでしょう?あのまま行かせたら、佐倉杏子は確実に命を落とすと」
対する男はまったく顔色を変えず、ただただ微笑みながら言葉を語る。
「確実に死んでしまう、なんてことは思ってませんでしたよ。ただ、この戦いは今まで以上に厳しい戦いになる、とは予想してはいましたが」
「じゃあ、何故………っ!」
その時、男が少女の瞳を覗き込む。
まるで、何故分からないのですか?と問うように。
その瞳の底知れなさに、少女は一瞬恐怖した。
ああ、この男はもう、狂っているのだ。
「だって、あの人が言ったんですよ。助けに行きたい、って。あの杏子さんが、自らのためでなく、友達のために行きたいと言った。理由なんて、それで十分でしょう?」
「……例えそれが、死を招く結果になろうとも?」
「ええ。だってそれこそが、俺の惚れた杏子さんなんですから」
「っ!」
少女には分からなかった。
何故、惚れているという人が死んだのに、そんなに平然としていられるのか。
そして何故、そんな満足そうな顔をして、笑っていられるのか。
分からない。分からない。分からない。分かってはいけない。分かれるはずもない。
もし、好きな人が死んだのに、満足でいられるのならば。
今まで私がしてきた事は、一体なんだったのか?
彼女の死を否定し、過去をやり直し、運命を変え、彼女を生き残らせるという私の願いは、一体なんだったのだ?
「ああ、そうだ。杏子さんは最後に、何と言っていましたか?」
そんな少女の内心を慮る事もなく、男は無神経に問いかける。
混乱の最中にありながらも、少女は思い返す。彼女の最後を。最後の言葉を。
「…………彼女は私にこの子を連れて行くよう頼んだ後、貴方に――――」
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。
遠くで鳴った電車の音で、少女の声が掻き消える。
「…………そう、ですか。まあ、あの人らしいと言えば、あの人らしいのでしょうね…………」
そこで男は初めて表情を変え、どこか遠くを見つめる顔になった。
その瞳は今にも泣き出しそうで、しかし、涙が男の頬を濡らす事はなかった。
「ありがとうございます。これで、思い残す事は何もない」
感謝の言葉を返す頃には、男は先程のような、どこか満足したような微笑顔で、こちらを見ていた。
少女は、この場面でそんな表情をするこの男に、少し危機感を覚える。
もしかするとこの男は―――――
「貴方……」
「ああそうだ!これを持っていって下さい。本当は杏子さんが帰ってきたら渡そうと思っていたんですが、残念な事に戻らなかったので」
男は、少女の言葉を大きな声で掻き消し、背負っていたバックパックから一本十円の庶民的駄菓子を取り出し、少女に与えた。
少女はおずおずとその手を伸ばし、駄菓子を手に取り、貰う。
その様子を満足そうに見つめた後、男は口を開く。
「………人は誰しも死ぬものです。それが遅いか早いかというだけで、何の違いも有りはしない。だから俺は思うんですよ。
彼女は、杏子さんは、幸せだったって。少なくとも、自分で満足できるような死に方だったんだって。
杏子さんは最後に友達を救うために行動した。その結果は惨憺たる物だったのかもしれないけど、あの人はそれでも満足していたんだと思います」
どこかしみじみと語る男の顔は、むしろそうあって欲しい、と望んでいるかのようだった。
「馬鹿な話に付き合わせてしまいました。さあ、もう帰った方がいい。その子の両親も、あまり帰りが遅いと心配なさるでしょう」
男の言葉に、少女は腕に抱えたもう一人の少女を見る。
まどか。私の友達。そして、私が死んでも守るべき人。
彼女との約束を、少女は覚えている。
まどかを、キュウべぇ―――インキュベーターの魔の手から救い出す。
それだけが、今の少女の存在意義であり、こんな地獄のような日々を生き抜くための心の支えでもある。
そんな彼女の事を見つめながら、少女は一人、これからの事を考える。
マミは死んだ。さやかは魔女になった。そして杏子は、心中した。
残る魔法少女は私一人。そして一人ではあのワルプルギスの夜を倒すのは難しい。
どうすればいい。この子の笑顔を守るには、いったいどうすれば………。
そこで少女は、はっと気付く。先程までいた男がいない。
ほんの僅かに注意を逸らしただけなのに、男は消えてしまった。
別にいいでしょう。所詮あの男はまどかを生かすための駒の一つに過ぎないのだから。
少女の頭の中で、冷酷な部分がそう告げる。
そう、頭では分かってる。所詮マミも、さやかも、杏子も、男も、そして私さえも、まどかを生かすための駒に過ぎない。
けど、何故こんなに胸が苦しいのだろう。
マミが死に、さやかが狂い、杏子が消えた。それだけの事で、何故こんなに胸が痛いのだろう。
そして今、男も消えようとしている。彼もまた、さやかのように狂っていた。愛に、狂っていた。
だから恐らくきっと彼は、さやかと同じ様に、消えてしまうのだろう。
その事が、無性に悲しかった。
どんなに取り繕っても、この悲しみは消えない。
どんなに取り繕っても、この苦しみは消えない。
ああ、だからせめて、今回で全てを終わらせよう。
この悲しみが消えるように。この苦しみが消えるように。
帰り道、少女は持ち前の鋭い聴覚で、何かが落ちる音を聞いた。
それはしばらく落ち続け、グシャリ、とトマトの潰れるような音をたてた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
男には、この世の中の全て事柄が二つにきっぱりと分けられていた。
即ち、興味のある物と、そうでない物に。
その事を、男は当然の事だと思っていた。
人とは、興味のあるものには熱中し、そうでない物には見向きもしない存在なのだと。
しかし、それは確かに人の一面を表していたのかもしれないが、男のそれは、常軌を逸していた。
夕暮れに飛び回るこうもりに興味が湧けば、学校を休んでまで捕まえ、解剖し、実験し、食べた。
学校に置かれていたホルマリン浸けの脳味噌に興味を持てば、学校から盗み取り、分解し、食べた。
反面、男は興味の持てない物にはとことん無関心だった。
道端に鳩が死んでいた時も、目の前で老人が轢き殺された時も、男は顔色一つ変えることなく通り過ぎた。
目に入らなかったわけではない。悲鳴が聞こえなかったわけでもない。ただ、興味が湧かなかったと言うだけの話。
そうした男の態度は、もちろん周りの人の印象を悪くした。
男に友達がいた事はなかったし、両親は気が付けば消えていた。
しかし、そんな状況は、男に何の痛痒も齎さなかった。
親はなくとも金はあったし、何より男は人に興味を持てなかった。
それは決して虚勢などではなく、男の偽らざる本心だった。
だからこそ男は、彼女と始めて出合った時、驚いた。
見惚れるよりも前に、感謝するより先に、畏れる事も忘れ、ただ驚いた。
何故ならそれは、男が生まれてきて初めて、“ヒト”に興味を抱いたからだった。
別に、容姿に惹かれたわけではなかった。
彼女は美人ではあったが、絶世の美女というわけではない。
別に、その精神性に惹かれたわけでもなかった。
そもそも、相手の精神性を知れるほど、深い仲ではない。
では何故?
命を救われたから?その在り方に、好意を抱いたから?それともただ単に、女なら誰でもよかった?
否、否、否!そんな単純な理由では決してない。そんな下らない理由では断じてない。
そう、男は――――――――――。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
うららかな午後の日差しの中、一人の少女が歩いていた。
その少女は、少々丈の短い短パンに、袖の長いパーカー、実用性だけを追い求めたようなロングブーツを履いている。
そろそろ春になるとはいえ、さすがに寒いだろうに、その少女の顔は楽しそうに笑っており、その目は食べ物に向けられ、どれを食べようか迷っているようだった。
少女はしばらく歩くと、ある店の前で立ち止まる。
そこは、その地方の名産品を扱う中でも、特に美味しいと言われている店の一つだった。
少女はその店に狙いを定めると、何の躊躇もなく店の中へと入った。
「いらっしゃいませー」店員が挨拶を投げかける。少女はその言葉を受けながら、店の中を見る。
丁度人の居ない時間帯なのか、少女の他に客はいない。別に、他に客がいた所でやる事は変わらないが、いなければいない方がいい。
そう思い、少女はショーケースを覗き込む。ショーケースの中には、赤や白、緑に黒なんて色もある。その鮮やかな色合いに、少女は目を奪われた。
欲しい。特に赤だ。シンプルな白も捨て難いが、やはり初めては赤だろう。
そう思い、少女はショーウィンドウに手を伸ばす。
しかし、ショーウィンドウは客側に開いておらず、店員側に開いている。
つまり、店員に呼びかけなければ、品物を手に取ることは出来ない。
ならば何故、少女はショーウィンドウに手を伸ばしているのか。
そう、まるで少女は、ガラスの壁などないかのように、無造作に手を伸ばす。
その手は、年頃の女の子のように、白く、綺麗で、華奢だった。
しかし、その手がショーウィンドウに届く事はなかった。
何故ならば、その綺麗な手を、中空で掴む者がいたからだった。
手を掴まれた少女は、突然の事態に身を強張らせる。
それは、彼女にしては珍しい事だった。
どんな時でも冷静に対処し、時に緻密に、時に大胆に行動してきたからこそ、彼女は生き残ってこられたのだ。
その彼女が今、ほんの僅かな時間とはいえ、硬直した。
これがもし実戦だったのなら、恐らく彼女は命を落としていたことだろう。
彼女の住む世界は、そんな隙だらけの者が生き残れるほど、甘い物ではない。
油断していた、と言えば油断していたのだろう。“アレ”の存在を知らない者が、どうして自分を止めれるだろう、と。
そして、その油断を突かれた。
男は硬直する少女の手を掴んだまま、店員を呼ぶ。
「すみませーん」
少女は逡巡した。
手を振り払い逃げるか、それとも“アレ”を使うのか。
しかし、現在余分なグリーフシードは少ない。余計な事に使うのは、あまりにも愚策。
ならば手を振り払うか。そう思い、腕に力を込めようとしたその瞬間、男は予想外の行動に出た。
「この、赤い奴と白い奴、一つずつ下さい」
男は少女の腕を掴んだまま、何事もなかったかのように店員にういろうを頼む。
「はーい」という店員の声を聞きながら、少女は考える。
まさかコイツは、あたしが目当ての物を買いそうだったから、手を掴んで止めただけなのか?
だとすれば、なんたる勘違いをしてしまったのか。これは少し恥ずかしい。自分一人だけ少しシリアスぶってしまった。
しかしまあ、考えてみれば当たり前の事だった。
“アレ”の存在も知らない者が、ショーウィンドウに手を伸ばしている者を見ただけで、何かをやっているとは思わないだろう。
みっともない勘違いを犯した事を内心恥じながら、少女は男に言う。
「あのさぁ、この手、放してくんない?」
男は少女の言葉を受け、視線を少女に戻す。
その顔はとてもにこやかで、とても先に買ってやったぜ、と自慢するような顔ではない。
少女がその事に違和感を覚える前に、男が少女に話しかける。
「ああ、これは失礼しました。でも、この手を離したら、貴女はどこかへ行ってしまうでしょう?」
男のその言葉に、緩んでいた少女の意識が引き締まる。
今この男は、少女がどこかへ行くことを心配している。
つまりこの男は初めから、食べ物ではなく少女自身を狙っていた、という事だ。
「なんだ、ナンパかい?」
軽口で時間を稼ぎつつ、少女は頭を高速で回転させる。
どうしてあたしに声をかけてきた?ただのナンパか?いや、それにしてはタイミングがよさ過ぎる。
もしかしたらコイツもアタシと同じ――――いや、コイツは男だ。それはない。
「ははっ。まあ、そのような物です」
男は少女の軽口を軽く受け流し、少女に一歩近付く。
何の敵意も殺気も感じないが、その異様な雰囲気に少女は僅かに後ずさる。
「こんなところでは何ですので、向こうのカフェでお茶などいかがですか?」
男は少女の手を掴んだまま、店の外を指差す。
その様子を見ながら、少女は考えをまとめる。
いまここで逃げ出す事は容易だ。男の力は特別強いものではないし、魔力が有るようにも感じられない。
しかし、こいつが何らかの理由でアタシの邪魔をするのなら、話で解決するか、最悪コイツを消すしかない。
とりあえずはコイツの来た理由を聞こう。ただのナンパなら無視すればいい。
そう少女は結論付けると、男に返事をかえす。
「………ま、いいけどさ。もちろんアンタの奢りなんだろうな」
「もちろんですよ。どれだけ高い物を注文してもらってもかまいません」
男は少女の答えを聞き、笑みを浮かべながら答えを返す。
その笑みは、少女の予想に反して、とても暖かな物だった。
それは、宗教家の娘と長年蔑まれ、最後には父にも裏切られた少女にとって、久しぶりの事だった。
「819円になります」
少女が驚き、放心したその時、ようやく店員が品物を取り出し、レジに並べる。
男は少女から目線を外し、ポケットから黒いエナメルの財布を取り出す。
その財布は分厚く膨れ、傍目にも多く入っていることが予想される。
男は財布の中から一万円札を取り出し、レジへと置く。
店員は少し嫌そうな顔をするが、すぐに笑顔に戻し、にこやかに対応する。
「以上でよろしいでしょうか」
「お願いします」
男は店員から品物を受け取ると店の扉を開け、さもレディーファーストです、と言わんばかりに少女を促した。
その様子に、少女はフンッと鼻を鳴らし、開けられた扉を通り抜ける。
そこには女性らしいか弱さなど微塵もなく、むしろ通ってやる、と言わんばかりの覇気に満ち溢れていた。
少女のその様子を見、男は笑みを深める。ああ、素晴しい、と。
「それで、アンタは結局何がしたかったのさ」
少女は大きなパフェを切り崩しつつ、男に向かって話しかける。
男は片手にコーヒーの香りを燻らせつつ、少女の質問に答える。
「もちろん、貴女とこうして話したかったんです」
その言葉に嘘はない、とでも言うように、男はずっと話をし続けた。
貴女は覚えていないかもしれないが、自分は貴女に救われた事がある。
一週間ほど前、カエルのような化物に捕まった時、化物をぶち殺したのが貴女だった、と。
しかし、少女はそんな男の話よりも、目の前にあるパフェに意識が向いていた。
甘く、冷たいシャーベット。口に入れれば蕩けるチョコレート。そして甘みを抑える為のおいしいフルーツ。
どれをとってもここのパフェは美味しかった。
少女はパフェを夢中で頬張り、食べつくす。
その様子を、男は話しかけながらも、微笑ましそうに見つめていた。
プハァ。と少女は漢らしく息をつき、パフェの容器を置く。
その中は既に空になっており、少女の健啖さがうかがえる。
男は、少女の食事が終わった時を見計らい、声をかける。
「それで、お願いがあるのですが」
「言うだけ言ってみな」
一応少女としても、奢られたという事は理解していた。
話を聞くぐらいだったら聞いてあげてもいい、と思えるくらいには、少女は男に感謝していた。
「貴方の旅に連れて行ってください」
「却下」
しかし、それを叶えるとなると話は別だ。
少女の旅には危険が付き物で、足手まといを連れて行けるほど甘い物ではなかった。
少女はこれで話は終わりだ、と言うように席を立ち、店の外に出て行く。
この店は中々美味しかった。機会があればまた来るのも良いかもしれない、などと思いながら。
そこで少女は、男の事を完全に意識の外に出した。
何も危険はないと判断したし、奴が声をかけてきた理由も把握した。
意見は却下したし、これでもう男とは会う事もないだろうと思ったからだった。
しかし、その考えが甘いと少女が気付くのに、たいした時間は必要ではなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
暗く、入り組んだ路地の裏。日中なのに日も差さない暗黒の中で、赤を基調としたノースリーブのドレスのような服を着ている少女が、荒く息をついていた。
少女は、その身には少し大きい槍を、杖のようにして姿勢を保っている。
その足は僅かに震え、ほんの少しの衝撃にすら倒れてしまいそうだった。
少女は疲れを回復させながら思う。油断した、と。
どこのどいつだ。まだ魔女になって日が浅いから、今回は楽勝だ、なんて楽観視していたバカは。
だが、いまさらそんな事を言い出しても仕方ない。
今はまず体調を回復させないと……。
「はい、杏子さん。スポーツドリンクです」
「ん。ありがと」
少女は、差し出されたスポーツドリンクを掴むと、勢いよく蓋を開け、ラッパ飲みする。
少女は自らの白く綺麗な咽喉をゴクゴクと上下させながら、スポーツドリンクを飲み干す。
それを見届けた男は、どこからともなくお菓子の箱を取り出し、少女に渡してくる。
「トッポもありますよ?」
「……………プハァ。いや、それはいいよ。アタシ、ポッキー派だし」
それより今は、またパフェが食べたい気分だ。
冷たく甘いあのパフェで、疲れた気持ちを吹っ飛ばしたい。
でも、たしかこの前食べたあのパフェは、人に奢ってもらったんだった。
変な男で、そう、今となりにいるコイツみたいに――――――――――。
「――――――って、なんでアンタがここにいるんだよ!」
少女はようやく隣にいた男を認識する。
あまり特徴がなく、簡単に人に紛れてしまいそうなこの顔。
昨日パフェを奢ってもらった、あの男だった。
「ノリツッコミですか杏子さん」
男はどこか嬉しそうに笑いながら少女―――杏子に話しかける。
その様子に害意はまったく感じられなかったが、少し聞き捨てならないことがあった。
「やかましいわ!って、それよりなんでアタシの名前を知ってんだ!」
男は何の動揺も見せず、さも何でもない事のように返事をする。
「何でって………そんなの、金を払って調べさせたに決まってるじゃないですか」
「ストーカーだ!ここにストーカーがいるぞ!」
「いやだなぁ、ストーカーなんかじゃありませんよ。俺は愛という名の狩りに勤しむただの狩人です」
「同じ事だよ!むしろ悪くなってるよ!」
杏子の声が路地に響き渡るが、当然の事ながらこんな裏路地に誰もいるわけはなく、ただ辺りをむなしく木霊するだけだった。
「さて、冗談はここまでにしておいて」
「全部冗談だったのかよ……」
掴めない男だ。杏子は心の底からそう思う。
この男がどう出るのかまったく分からない。
昨日だってそうだ。突然出てきて、パフェを奢って、頼みごとをしてくるし、しかもその願いが、アタシの旅に同行させて欲しい、だ。
間違いなくコイツは変人で、その変人に纏わり付かれている自分は、もしかしたら不幸なのかもしれない。
「もう一度言います。俺を貴女の旅に同行させて下さい」
男の強情な態度に、杏子は溜息を漏らす。
どうやって説得しようか。それとももう面倒くさいし、さっさと逃げ出してしまうか。
いや、でもここで逃げても男はまた追ってくる。そんな予感がする。
そう思った杏子は、面倒臭げに男と対峙する。
「アタシは言ったはずだよな。アンタを旅には加えない、って」
「金なら有ります」
「金の問題じゃない」
「邪魔はしません。こうやって、終わった後に差し入れを持ってくるだけでいいんです」
こいつは頑固だ。
魔女に近付く事の危険性を説いて聞かせようとも思ったが、コイツは既に一度魔女に捕まっているというのだから、その恐怖を知った上でお願いしている事になる。
そういう奴に対して何か言っても無駄だ、というのは経験則上理解していた。
端から何かを信じ込んでいる者の説得は難しい。とりわけ、自らを正しいと思い込んでいる奴には。
宗教家というだけで爪弾きにされ、何を言っても信じてもらえなかった父。
そして、宗教家の娘として、偏見に満ちた目で見られ続けたあの日々。
そんな日々を思い出し、思わず顔をしかめる
「あのさぁ―――」
杏子は苦々しい顔つきで、吐き捨てるかのように言う。
「もし、アタシがアンタを助けに行った、何て考えてるんなら、そいつは勘違いだ。アンタはただ偶々アタシの魔女狩りに遭って、偶々命を拾っただけの話だよ」
「そんな事は関係ありません」
「はぁ?」
杏子は、男が何を言っているのかわからなかった。
お前は、命を救われたからアタシを助けたいと思ったんじゃないのか?
ならば何故?どうして見ず知らずのアタシのために、こんなに執着するんだ?
その杏子の問いは、すぐに返ってきた。それも、杏子の予想しない形で。
「命を救われたのはただのきっかけに過ぎません。俺が貴女に興味を持ったのは、ただ貴女の姿が目に入ったから……………………俗に言う、一目惚れって言う奴です」
……………………………………………………………………。
瞬間、静寂が場を支配する。
永遠にも思える一瞬の後、ようやく男の言葉を理解した杏子が、顔を若干赤らめながら突っ込む。
「な。な、ななななな何言ってんだテメェ!そ、そういう恥ずかしい事を、真顔で言ってんじゃねぇよ!」
「ははっ。すみません。でも、事実なんです。心の奥から溢れ出すこの想いは、恋と言う他ありません」
男は照れた様子もなく、ただ朗らかに笑いながら返答する。
その笑顔が、ずっと日陰を歩いていた杏子には眩しくて、目を逸らした。
それは、もう向けられる事のないと思っていた笑顔。こちらの事を、温かく見守る笑顔。
だが、だからこそ杏子は、男の行為を見過ごした。
「――――――――だから、断られるなら、俺は今ここで死にます」
男はいつの間にか手にしていたナイフを、自分自身の首に向けていた。
その切っ先からは少し血が出ていたが、男は頓着する様子を見せない。
痛みを感じていないわけではないのだろう。しかし、自身の痛みに興味を持っていない。
その興味は、ただ杏子にのみ向けられている。
そこで杏子は、ようやく男の気性の一端を理解した。
コイツは、狂ってる。
「…………………そんな事が脅しになると、本当に思ってんのか」
「いえ、脅しだなんてそんなつもりはありません。ただ、貴女のいない世界に、もう興味が湧かないだけなんです」
その言葉に、杏子は驚愕を通り越し、怒りを通り越し、ただ呆れた。
この男の身勝手さに。そして、そいつに振り回されている自分自身にも。
「……アンタ、バッカじゃねぇの?」
「ええ。バカです。アホです。大間抜けです。そのバカで、アホで、大間抜けな俺を、お供に加えてはくれませんか?」
杏子は顔を上へ向け、一つ嘆息する。
ああ、アタシは何て変な奴に絡まれたんだろう。
「………しょうがねぇなぁ」
「本当ですか!」
「まあ、アンタを巻き込んじまったアタシも悪かったし、断って自殺されるのも後味悪いしな」
「ありがとうございます!」
「ただし!」
そこで杏子は言葉を区切り、ビシッと音が聞こえそうなほど、見事に指を突きつける。
「アタシの言う事は絶対に従う事。絶対に魔女に関わらない事。そして金はアンタが払う事。アンタは、これを守れるかい?」
「喜んで」
そして男は、杏子に向かって跪く。
その口元は、獰猛に笑っていた。
ここで男の運命は決定付けられてしまった。
逃れる事のできない、破滅へと。
だから後は、突き進んでいくしかない。
彼女が死ぬまで。彼が死ぬまで。
物語が、終わってしまうまで。