31日
木曜日
藤原モカ・マタリ
喪中につきシャレは他人様の代行(ちえ様、ありがとうございます)。昨日の日記の記述から引き続き、なをきに確認の電話し、10時に羽田の航空券販売所で待ち合わせ(10時40分札幌発JAL)と決め、とりあえず朝食のみとり(ヨーグルトとリンゴ)、それからやらねばならぬこと済ます。K子も仕事場へ出かける。まずフィギュア王の原稿ナオシ(400字詰め5枚見当)をなんとか片付け、先日のエニイクリエイティブのインタビュー原稿にチェック入れて返送。打ち合わせ関係のところにあやまりの連絡。シャワー浴び、喪服などを用意。豪貴の携帯にK子が電話したら、病院の霊安室で、後ろで母が大声で“いえいえ、警察なんてとんでもない!”と病院側とやりあいをしている声が響いていたとか。
9時、タクシーで羽田まで。空港でなをき夫妻を待つがなかなかやってこない。K子への携帯で、原稿をアゲるのが遅れて、今タクシーで代々木あたり、という連絡が入る。この時点で10時。いま赤坂、いま霞ヶ関、と逐次報告は入るが、どうもギリギリになりそう。仕方ないのでわれわれのみチケット受け取り、彼らが間に合えば乗れるし、遅れれば次の便に変更できるよう頼んで、先に乗り込む。結局、乗れたかどうか確認できずに(カラサワさま、という機内放送はあったが要領を得ず)札幌まで1時間20分。到着して出ようとしたら、ギリギリで間に合っていたなをきたちが駆けてきた。本当のギリギリであったが、乗せてくれたという。空いている時期だったからだろう。原稿を抱えてタクシーに飛び乗ったそうで、空港内の郵便局でそれを出し、札幌行きのライナーに乗り込む。中で駅弁。フィギュア王から携帯に電話、なをきとの対談のチェック送ったんですけど見ていただけたでしょうか、というので、事情を説明し、実家の方にファックスを送ってくれるよう頼む。
親父の2年間の闘病、つらい苦しい2年間ではあったが、考えようによっては、本来、最初に倒れたときかつぎこまれた病院で、先生から“一生植物人間になります”と断言された者が、母と豪貴の必死の看病で意識を取り戻し、あれだけ楽しみにしていた豪貴の結婚式にも、自分の半生かけたJPSの全国総会にも出席できた、その時間を最後に与えてくれた2年でもあったのである。本来死ぬべき人間に、神(を信じているわけではないけれど)が心残りをこの世に置いていかぬために与えてくれた時間ではなかったか。そう考えればなんと幸せな一生であったかと思うし、その奇跡の起動力となった母が、先日の日曜の電話では、そろそろ気力の限界という感じであった。ひょっとして親父もそれを察して、いつまでも母に甘えて一緒にいたいという未練を断ち切って、じゃあ先にいってるぞと、あの世へひと足先に旅立ったようにも思える。いい夫婦だったのではないかな、と思った。……まあ、こんなことは今、日記を記している時点で考えたことで、実際はとにかくあわただしくいろいろな眼前の雑事に終われ、悲しんでいる暇などまるでなし。
タクシーで家までかけつけると、ちょうど、母が弔問客を送って外へ出たところ。親父は鼻の管も取れ、薄目を開けて、なにか前より健康そうな顔で横たわっていた。(病院は母のケンマクに恐れをなして変死扱いはせず、ちゃんと死亡診断書を書いてくれた)一応枕団子、ロウソク、線香立てと葬儀屋が揃えていたが、母曰く、 「パパほどそういうものが似合わない人もいないので、お経も唱えてもらっていないし、経かたびらも着せないで、スーツ姿にするつもり」 だそうだ。豪貴と葬儀屋さんが日程のことを打ち合わせていたんでそれを確認。丁度14日が友引にあたるので、その日が通夜、翌15日に葬儀、ということになる。FABの舘さんから心配そうに電話あったが、13日のコンテンツ・ファンドは何とか大丈夫、ただし15の井上デザインのパーティは無理か。16日の中野武蔵野は行けますので。
薬局・薬業関係の弔問が次々来るが、すでに私にはほとんどわからない。豪貴にまかせ、こちらの対応に終始。通夜は斎場に泊まり込みになるので、その間の留守番を古書すがやの奥さんに頼むことにする。K子は喪服をじゃんくまうすさんの奥さんに借りるという。とんだところで古本コネクションのお世話になる。と学会の植木不等式大兄から電話、と学会から弔電を打つので、とのこと。そんなこと、いいですよといかけて、イヤこれはネタになるかも、と思い、受けることにする。雑文書きのサガ。あと、講談社、海拓舎はじめおつきあいのある出版社から次々メール。井上デザインから連絡が行っているらしい。沈痛な文面、悲痛な文面もあり、ドタバタの極地で笑いまでもれている“現場”とはかえって不釣り合い。
なをきと二人、フィギュア王の対談に手を入れる。親父の遺体の脇で兄弟二人、やれウルトラQのキングギドラのという文字をいじくるなどとは、因果というか何というか、と二人で笑う。なをきは自分が手を入れた原稿を奥さんにチェックさせるのが習慣らしい。母とときどき、親父の死顔をのぞきこむ。“まだ生きて息しているみたいだわ”と母が言ったとたん、上にかけていたふとんが少しフワ、と動いた気がしてギョッとした。それからも、ときおり、フワ、と幽かに布がうごく。不思議に思ったら、葬儀屋さんが遺体に抱かせていたドライアイスが蒸発して、そのガスのせいで微動するのであった。あと、死後硬直が少しづつ解けていくというのもあるだろう。
おふくろはさすがに目を泣きはらしているが、一番よく働いて、よくしゃべり、弔問客にヤキソバまで作っていた。知り合いが来るたびに、急逝の模様を一条の物語りにしてしゃべる。 「もうねえ、これまでちょっと熱が出てたり、痰がひどかったのが、今日に限ってすごくいい調子で、気持よさそうにしていたの。夜中の2時ころにね、あたしが台所の仕事すませて、一眠りする前に顔をのぞきこんで、あら、おかしい、と思ったときにはね、唇の裏側がもう真っ白だったのよ。“あ、死んじゃった!”と直感して、すぐ病院に電話しようとして、“待てよ”と思ったのよ。……もうねえ、どうせ、これから集中治療室入れられて、どう手当されようと、これはダメだな、と。パパが機械につながれて生きていて、そのスイッチを誰かが切るなんて絶対に許せない、と思ってね。だから、救急車も、出来るだけゆっくり呼んで、ね、パパ、いいわよね、今までずっとがんばったんだから、もう、無理に助けたりしないからねって、腕に抱いたまま話しかけて……」 と、途中に嗚咽をまじえて語る。わきでなをきと“さすがにうまいねえ”と感心。そのことを台所に引き上げてきたおふくろに言うと、 「あれよ、何度もやってるともう慣れてきて、客の親疎とか急ぎようによって、ロングバージョンとかサワリだけとか使い分けられるようになったわよ」 と変な自慢をしていた。台所でアハハと笑っていても、知り合いが来ると 「あら〜、○○さん〜、もう、突然で、私、なんにもわかんなくなっちゃって〜。ねえ、見てちょうだい、まだ生きているみたいでしょう。私一人残されて、どうしたらいいのか……」 とスイッチングする。泣かせどころをちゃんと作っているのが見事である。 「のぞきからくりの口上もできると思うわよ、私は」 といばっている。もちろん、悲嘆もお芝居ではない。本当に悲しがっているのは当然のことである。しかし、この葬儀の主役として、客が来ると、その悲嘆に何パーセントか、自己演出が入るのである。わが唐沢の一族(と、いうかウチの親子)には、どうもそういう大向こうウケをねらう部分がある。
「不思議なもので、生きているときは“この人が死んだら私も死ぬ”と思ってたけれど、死んでみると“この人のためにもできるだけ長生きしよう”と思うようになるわねえ」
と、言ったのを聞いて、ホッとした気になった。それを一番心配していたのだ。一番母がガックリくるのはこの大騒ぎが終わって一週間くらいしてからだろうが、まことに幸いなことに、その時期に私がオタクアミーゴスでまた札幌へ来る用事がある。それまでは体は疲れても、とにかくドタバタとしていた方がいい。母と息子たち三人揃って、遺産関係の話。すでに薬局は豪貴名義にしてあるので問題ないし、この家と土地も、今の評価額から言って、母と我々の分割相続扱いにすれば、控除内でおさまるだろうと話す。よしこさんはなをきの家を建てるにあたっての法律関係でそういうこと全部勉強しており、詳しいくわしい。
あわただしい中、官能倶楽部はじめ、各所属団体にメール。古い番頭さん、私の大学時代の薬剤師さん、店員さんたち、いろいろな応対で、さすがにバテてくる。弔問は9時くらいまで、というのが礼儀だろうが、仕事持っている人たちはそうもいかない。母が、“それでもねえ、ウチは一族の嫌われものとか、骨がらみに仲たがいしている親戚とか、一人だけ落ちぶれている兄弟とかがいないから、こういう時に楽だわよ”と言い、言ったあとで“あら、そう言えばうちの兄、来るのかしら。みんなに見せるのは恥ずかしいわ”などとヒドいことを言う。
11時過ぎ、さすがに疲れ切ったか、母はソファでごろりと横になり、眠る。私たちも風呂を使わせてもらい、私は応接間のソファで、みんなは二階に引き取って、休む。明日からのダンドリが頭の中をうずまいていた。