VOL.9 7/28号

発売まであと3週間となりまして、収録試合の発表も今週と来週を残すだけとなりました。
しかし、まだまだ「おーーー!これがあったのか!」というラインナップが残っています。
今週も昭和53年から54年にかけての超・貴重な素材が大量に収録決定しましたのでご披露致します。



鶴見五郎 対 ベルモ・サルバトーレ(昭和53年6・26大阪府立体育館)
原 進 対 寺西 勇    (原進デビュー戦 同)
グレート草津、アニマル浜口 対 アレックス・スミルノフ、ミスター・ヒト(IWA世界タッグ選手権 昭和53年7・18岩手県営体育館 3本目のみ収録)
グレート草津、マイティ井上 対 レッド・デビルズ1号、2号(昭和53年10・4札幌中島スポーツセンター)
日本リーグ争覇戦開催の全貌を放送席で発表する吉原功社長(同)
マイティ井上、アニマル浜口 対 上田馬之助、マサ斎藤(IWA世界タッグ選手権 昭和54年4・21 高岡市民体育館)
ラッシャー木村 対 スーパースター・ビリー・グラハム(IWA世界ヘビー級選手権 金網デスマッチ  同  ポニーキャニオンDVDは8ミリ・バージョンの収録だったが、これはテレビ放映されたノーカット・バージョン)
マイティ井上 対 ジャンボ鶴田(日本リーグ争覇戦公式戦 昭和53年11・25 蔵前国技館 =当時の東京12チャンネル・ダイジェスト放送をそのまま再録=約8分)

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まずは原進対寺西勇、原の記念すべきデビュー戦である。結果は15分フルタイム・ドローであったが、既にキャリア12年というベテランの寺西相手に新人とは思えないラッシュ攻撃を見せ、ナンバ府立体育館に詰め掛けた観客を驚かせる。試合開始時はリングサイドのイス席で腕組みしていた吉原社長だったが、試合が白熱するうちにリング下に進み、「残り試合5分!」のアナウンスのあとはエプロンにヒジを置いたり立ち上がってゲキを飛ばしたりで、リング内に負けじと緊迫状態(笑)。いかに原への期待が大きかったかの証明である。
原の入場テーマは「愛の花束」という、全くプロレスの入場テーマにはそぐわないメロディだったが、このDVDでは一切の(当時の)音楽につき再録不可であるため、32年ぶりに聴いていただけないのは残念至極。
ヒトとスミルノフが組んだIWA世界タッグも残念ながら3本目しか残っていなかったが、ヒトさんが亡くなった直後であり、追悼の意味もあって収録させて頂いた。
覆面コンビ、レッド・デビルスの正体はチン・リーとジェリー・クリスチーという前年(昭和52年)に素顔で来た二人の変身だったが、マスカラスやデストロイヤーとは180度違った彼らの「B級感」も、今となっては懐かしい。
このレッド・デビルスのタッグ試合のあとに収録されていた「吉原社長トーク」も貴重なので、そのままノーカット再録した。
吉原社長が日本リーグ争覇戦を前にA・猪木と会談した様子も写真入で語られているが、この日から遡ること11年前、東京プロレスとの「合同興行」という形で国際を旗揚げせざるを得なかったときの「恩讐」を越え、吉原社長が新日本にも選手参加を要請しにいっていたのだ。そして、この「吉原・猪木会談」は、翌昭和54年8・26「オールスター戦」実現の大きな起爆剤となった。そういう意味からも、この「吉原社長トーク」はとてつもなく貴重なフィルムである。
上田馬之助、マサ斎藤のコンビがIWA世界タッグに挑む試合も見所十分。この時点で新日本が主戦場だったフリーの大物二人が国際のリングで如何に存在感をアピールしていたか?特に斎藤の動きが面白い。
同じ日のメインであったラッシャー木村対スーパースター・ビリー・グラハムの金網デスマッチは「東京12チャンネル・バージョン」の初ソフト化(過去に8ミリ撮影バージョンが商品化)。グラハムのベアハッグ対木村の逆エビが真っ向勝負の名勝負だ。木村の金網ヒストリーに絶対欠かせない一戦といえる。
全日本プロレスで馬場と並ぶエースを張っていたジャンボ鶴田対マイティ井上の若さあふれるシングルマッチも懐かしい。

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この一戦、実は日本テレビの放送ワク(土曜夜8時から)でナマ中継されたため、東京12チャンネルのほうは2日遅れの11月27日に録画放送。日本テレビに「オイシイ生放送」を持っていかれた12チャンネルスタッフは、控え室にテレビカメラを持ち込んで、木村、草津、菊池孝氏の解説付きのダイジェスト中継と凝った(苦肉の)番組構成にせざるをえなかった(日本テレビからダイジェストを強制された由)のだが、この部分でラッシャー木村の話す部分が非常に面白いので必見!このあと昭和56年の「こんばんは」を経て昭和60年から「マイクの鬼」になる「ルーツ画面」が、まさに、これだ。

VOL.8 7/21号

今週は、今までの更新と比較してみても、「最もマニア色の強い」超・渋いカードが続々と収録決定されました(今までも全部そうじゃねえか!と突っ込まれればそうなのですが 笑)。ともあれ、さっそく行ってみましょう!

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原進プロレス転向記者会見(昭和52年11.29高田馬場ビッグボックス)
マイティ井上、アニマル浜口 対 高千穂明久、サムソン・クツワダ(アジア・タッグ選手権 昭和52年11.30 静岡県駿府会館)
マイティ井上、アニマル浜口 対 グレート小鹿、大熊元司(アジア・タッグ選手権 昭和53年1.2 後楽園ホール)
原進、遠藤光男、リング上で正式な入団の挨拶(昭和53年2.26 後楽園ホール)
大位山勝三 対 ジプシー・ジョー(金網デスマッチ 昭和53年4.26 岡山武道館)
マイティ井上、稲妻二郎 対 ミスター・ヒト、ボブ・マーカス(同)
ラッシャー木村、グレート草津 対 クルト・フォン・ヘス、ザ・モンゴリアン〔同〕
グレート草津 対 クルト・フォン・ヘス(昭和53年4.27 津山市総合体育館)

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昭和52年から53年にかけて井上、浜口が全日本の2チームを迎え撃つアジア・タッグ2試合はほとんどノーカットのロングマッチで、共にナニワ・ブラザースのベストバウトとも言える濃い名勝負だ。解説の芳の里さんが「浜口はプエルトリコとカルガリーの遠征から帰国して、見違えるような選手になったですね〜〜〜」と感嘆するが、確かに「昭和52年の浜口」は遠征前と別人のような自信に満ちた試合ぶりを見せており、特に高千穂との攻防が素晴らしい。高千穂はこの試合の4年後にアメリカでザ・グレート・カブキに変身したわけだが、高千穂時代のベストバウトもまた、この試合だったと思う。アジアタッグは日本プロレスが解散(昭和48年4月)してから3年近く「休眠」し、昭和51年の3月に全日本で復活したが、この国際プロレスとの対抗戦によって輝きを完全復活したベルトだったと思う。
大位山とジョーの金網デスマッチは今でも語り草になっている有名な一戦。ジョーが「金網テッペンからのニードロップ」を大位山に投下しての完全KO勝ちだったが、わき腹にニードロップを食った大位山が、アバラを数本ヘシ折られた衝撃のシーンがこれだ。数ある金網デスマッチのビデオで、最も凄惨だったフィニッシュの一つ。
そして、今年の4月に67歳で亡くなられたミスター・ヒトさんの初登場にも注目。受け身の巧さがヒトの身上だったが、この試合でも名人芸を随所に見せてくれる。昭和48年1月に永源と渡米したヒト(安達)はカンザス、カルガリーでトップを取り、昭和51年に全日本にフリー参戦。そして52年から54年まで国際にフリー参戦し、54年の暮には新日本にキム・クロケイドをブッキング。55年正月の「ダイナマイト・キッド争奪戦」(新日本 vs 国際)のときのキーマンでもあった。59年まで新日本と密接な関係を続けたが、59年暮にキッド、スミスを全日本に移籍させて話題を呼んだ。いずれにせよ、現役レスラーとしてのミスター・ヒトは意外に映像に残っておらず、職人レスラー・ヒトを映像で残した本DVDは非常に貴重だ。今回改めて見て、ヒトは「日本プロレスの匂いが残る」選手だなあ、と強く感じた。
試合フィルムではないが、高田馬場ビッグボックスにおける原進のプロレス転向記者会見には当時(昭和52年)に国際プロレスに所属していた全レスラーにカメラが向けられ、このDVDには試合のない高杉、米村、奄美、ムラサキら中堅精鋭陣や前溝レフェリーの生き生きした表情が映しだされるのも、国際マニアにとっては涙ちょちょ切れ!たまらない特典映像である(まだ菅原、冬木は入門前だったので残念ながら、映っていない)。米村さんとは、国際のモーレツ営業マンだった根本さんを交えて、よく横浜でお酒を飲ませて頂いた。関内にあったプロボクシング世界チャンピオンの花形進さんのお店に行ったとき、花形さんが米村さんの太い腕にびっくりしてたっけ・・・米村さん、お元気ですかあ!
クルト・フォン・ヘス、ザ・モンゴリアン(サパタ・マルチネツ)はかつて新日本に来た曲者で、特にヘスは猪木、坂口を相手に北米タッグ王座を賭けて何度も戦ったことで有名な選手。さすがにかつてのパートナー、カール・フォン・ショッツと見せたようなタッチワークは望むべくもないが、ベテランらしい細かい動きは流石だ。
阿部修レフェリーの引退にともない、昭和53年からレフェリーとして国際プロレスに入団した元ボディビルダーで、ミスター日本のタイトルを獲得した遠藤光男が、リング上で見事なポージングを見せる場面も貴重。「レスラーより腕力の強いレフェリー」として話題となったものである。グレート草津も、ここで初登場。電光石火の4の字固めがクルト・フォン・ヘスに鮮やかに決まるシーンは、いかにも草津らしさ爆発のカッコよさだ。

VOL.7 7/14号

ムシ暑い7月です。国際マニアにとって、なんといっても忘れられない7月といえば、1979年、昭和54年の7月。そう、あの31年前の7月、国際プロレスのリングにアンドレ・ザ・ジャイアントとダイナマイト・キッド(初来日)が同時参加したときですね。その「ビッグ・サマー・シリーズ」の好試合4つを含む8試合の収録が決定しました!

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ラッシャー木村 対 スパイク・ヒューバー(昭和55年7.15 富士市立体育館)
マイティ井上、アニマル浜口 対 ストロング小林、永源遙(IWA世界タッグ選手権 同)
ラッシャー木村、マイティ井上 対 アンドレ・ザ・ジャイアント、アレックス・スミルノフ(昭和54年7.17 北海道・中川町体育館)
マイティ井上 対 アンドレ・ザ・ジャイアント(昭和54年7.19 北海道木古内町公民館)
バトルロイヤル(アンドレ優勝=昭和54年7.21 新潟県村上市民体育館)
阿修羅原 対 ダイナマイト・キッド(WWU世界ジュニア、英連邦ジュニア・ダブルタイトルマッチ 同)
マイティ井上、マッハ隼人 対カルロス・プラタ、エル・ドーベルマン(昭和55年11.1後楽園ホール)
大木金太郎 対 グレート・ムルンバ (同)

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まずは「鉄槌男」「鉄釘野郎」と言われていたディック・ザ・ブルーザーの息子(娘の婿)、スパイク・ヒューバーが登場。ノンタイトルでラッシャー木村に果敢に挑むも、木村が新兵器の「風車吊り」で返り討ち!この「風車吊り」、入団して間もない大木金太郎が「X固め」なる変形卍固めを盛んに使っていたことに対抗すべく編み出したものだったが、非常に「木村らしさ」が出ていた技で、私は好きだった。この日のメインは、新日本のS・小林、永源組に奪われていたIWA世界タッグの奪還を期して井上、浜口が再合体。井上の気迫が小林を圧倒し、見事ナニワ・ブラザースが雪辱を果たした。3試合目から6試合目は昭和54年7月、ビッグ・サマー・シリーズにアンドレ、ザ・ジャイアント、ヘイスタック・カルホーン、ダイナマイト・キッド(これが初来日)が特別参加したときのもので、当時22歳だった私が「すごい大物揃いだ!ギャラは大丈夫なのか?」と余計な心配までしたことを思い出す。余計な心配だけにしておけばいいものを、9月の「ダイナマイト・シリーズ」前に吉原社長に高田馬場オフィスでお会いした際〔私は国際でアルバイトをしており、よく事務所にもお邪魔していた〕、「社長、クダラナイ質問で恐れ入ります!7月の大物一挙来日のギャラはすごかったと思いますが、大丈夫だったのですか?」と聞いてしまったのだから恐れを知らぬ22歳(笑)。しかし、社長は笑顔で優しく、こう答えて下さった。「7月のあのシリーズは、東京12チャンネルから特別に強化予算が降りたんだよ。それがなければ呼べなかったさ」。ナルホド!そうであったか!一介の学生アルバイトに、ここまで丁寧に「本当のこと」を答えてくださる社長など、日本中どこを探してもほかには絶対にいなかったろう。思えば、吉原功社長は人と話すとき、一度も「上から目線」だったことがない方だった。30年後の今、こうして私が国際プロレスのDVDを後世に絶対に残そうと思うのも、根底は「吉原社長の、あの優しさが嬉しかった。吉原社長が好きだった」からなのだと思う。話がややそれたが、この夏の陣でアンドレ、キッドの見せた動きは素晴らしく、特に「キッド対原」をテレビで見た新日本の新間さんが「こいつは藤波の最高のライバルになる!」と、半年後に2度目の国際来日が決まっていた(当然パンフにも掲載されていた)キッドを「直前に」新日本へ引き抜いた事は、余りにも有名な話だ。キッドのその後のレスラー人生を顧みたとき、あのときの「引き抜き」は多分、正解だったのだろう。タイガーマスク(佐山、三沢)との名勝負もあったし、国際に留まって原とのジュニア抗争を継続するよりベターな選択だと、キッド自身も考えたに違いない。だが、しかし・・・・・である。果たして、本当にそうであったか?この31年前のキッド初来日を見ながら、皆さんはどうお考えになるだろうか?謎かけのようだが、そこが、このDVD-BOXの大きなハイライトの一つに思える。それにしても、この年の原は5月にミレ・ツルノに勝ち、7月にダイナマイト・キッドに勝ち、10月にはマーク・ロコにも勝っている。「年間最優秀選手(MVP)」に選出されても全くおかしくなかった実績だが、この年最大の話題イベント、8.26「夢のオールスター戦」の余波?で、なんとなくその凄い実績を掻き消されてしまった感があった。大木金太郎の相手として登場するムルンバは、この年の4年前(1976年)にタイガー・J・シンのパートナーとして北米タッグ(新日本)にも挑戦したブルータス・ムルンバ。器用な選手ではないが、この大木戦では「それなりに」持ち味を出している。また、大木のテレビ(12チャンネル)登場は、この試合が最後となった(大木は12チャンネルとの半年間直接契約だったため、11月で契約切れ。ただしマスコミには負傷欠場とされた)。

VOL.6 7/7号

さあ、7月!国際プロレス風にいきましょう!「ビッグ・サマー・シリーズ」開幕です!
今週発表分にも極め付きの蔵出し名勝負が一杯です。さっそく8試合、行きます!

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ラッシャー木村、大木金太郎 対 ディック・ザ・ブルーザー、モンゴリアン・ストンパー(昭和55年3.15 越谷市体育館 ポニー・キャニオンには収録されなかったテレビ放映バージョン)
マイティ井上、アニマル浜口 対 モンゴリアン・ストンパー、トム・スタントン(IWA世界タッグ選手権 昭和55年3.21 静岡県浜北市体育館)
大木金太郎 対 ディック・ザ・ブルーザー(『特別試合』 同)
ラッシャー木村 対 スチーブ・オルソノスキー(IWA世界ヘビー級選手権 昭和56年5.16後楽園ホール)
マイティ井上、阿修羅原 対 ポール・エラリング、テリー・ラザン(IWA世界タッグ選手権=金網デスマッチ  同)
ラッシャー木村 対 ジョー・ルダック(IWA世界ヘビー級選手権 昭和54年10.3 青森県黒石市中央スポーツ館)
ラッシャー木村 対 ニック・ボックウィンクル(AWA世界、IWA世界 ダブルタイトルマッチ 昭和54年10.5 後楽園ホール ポニー・キャニオンDVDには収録されていない、当時翌週放送されたテレビ放映ダイジェスト・バージョン)
マイティ井上、寺西勇 対 ストロング小林、永源遙(IWA世界タッグ王座決定戦 昭和55年6.29 後楽園ホール)



60年代から70年代にかけての大ヒール、『生傷男』ディック・ザ・ブルーザーが遂に登場。1929年の生まれなので、この時点で50歳9ヶ月とピークは越えていたが、最後の来日にふさわしい暴れっぷりでファンを魅了(1991年に62歳で死去)。このブルーザー来日の頃、当時22歳の私は国際プロレスに学生アルバイトとして潜入。運よく成田空港へ出迎えに行かせてもらった。入国ゲートから出てきたブルーザーに最敬礼で挨拶を済ませたあと、生傷男が小さなスポーツバッグ一つしか手に持っていなかったことに気がつく。「サー、ところで、スーツケースはいかがされましたか?」と素朴な質問をする私。ブルーザーは潰れた声で「今のシリーズにトム・スタントンって若いのがいるだろ?荷物はあいつに全部持たせたよ」と一喝。うーむ!さすが超がつく大物はやることが違うなあ!と感心。私は国際にきたときのルー・テーズ、バーン・ガニア、ニック・ボックウィンクル、ネルソン・ロイヤル、ジョニー・パワーズ、ジョニー・クインなど何人もの大物の成田空港出迎えにいかせてもらったが、こういう「手ぶら」来日はブルーザーだけ。ここに収録されている大木戦は「大木の国際プロレス入団」を記念してインターナショナル選手権となる予定だったが、インター王座を管理していた日本プロレス関係者(既に日本プロレスに興行能力はなかったが、残務処理中で会社そのものは存在していた)からクレームがつき、残念ながらノンタイトルの特別試合になってしまった。しかし、内容的には迫力ある大一番で、一代の大悪党、ブルーザーの日本ラスト試合にふさわしいこの玉砕ぶり、涙なしでは絶対に見られない。ブルーザーがストンパーと組んだタッグマッチも見所十分で、これが大木の国際プロレスの入団第1戦でもあり、相手チームへの原爆頭突きもさることながら、パートナーである木村との一挙一投足にもライバル意識の火花がバチバチと散っている。
ストロング小林に話を移す。昭和49年2月、突然のフリー宣言をして国際を離脱した小林が登場するIWA世界タッグ王座決定戦は、当時マニアの話題となった。新日本との対抗戦はそれまでにも何度か行われていたが、ストロング小林に対する国際プロレス勢の感情に複雑なものがあったため、対抗戦における小林出場は見合わされていたのだ(昭和53年11.25の国際プロレス蔵前大会に一回だけ出場しているが、相手はフリーのミスター・ヒト)。昭和55年になって、新日本の幹部のなかで「やや低迷している小林の闘志に火をつけよう」的な声があがった。はっきり書いてしまえば、新間さんの提案だった。加えて、このIWA世界タッグ選手権は、もともと昭和44年5月、ストロング小林が豊登とのコンビでフランスから持ち帰ったベルトだったことも、小林のプライドを刺激した。当時このマッチメークを見た私は「マイティ井上とストロング小林・・・・禁断の対決が遂に行われてしまうのかあ・・・・」と複雑な気持ちになったことを思い出す。プロレス界には「組んではならないカード」というのが幾つか存在してきたが、この組み合わせも当時、間違いなくその一つだった。今回ソフト化にあたりじっくり見返したが、小林と寺西との攻防は非常にスムーズなのだが、相手が井上に代わると妙に試合がギクシャク、ギスギスしてしまっている。そのへんの心理的な背景を予備知識として持った上で、30年前のIWAタッグをもう一度見返して頂きたい。国際プロレスの古い素材を扱ったBOX-SETの発売はこれで3つ目で、一作目(2005年、ポニーキャニオン)はTBS放映時代の素材(1968〜1974)だったこともあり、BOXの写真はS・小林のピンだった(バーン・ガニアに波乗り固めをかけている写真)。2作目(2007年3月、ポニーキャニオン)はS・小林が国際を離脱したあとのテレビ東京素材だけを集めたものだったから、BOXの集合顔写真にS・小林の写真は当然、ない。そして3作目、今回の5枚組BOXの中に、S・小林は「新日本の所属選手」として登場してくる。しかも相手は同期のマイティ井上・・・・ともあれ、凄まじい殺気に満ちた一戦を是非お見逃しなく。
もう一つ、渋い試合でジョー・ルダックが木村に挑んだIWA世界ヘビー級選手権にも注目してほしい。

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木村のスリーパーの前に血ダルマ失神KOで敗れはしたものの、国際のリングでルダックらしさが最も発揮された試合と言える。
井上、原が金網デスマッチでエラリング、ラザン組からIWAタッグ王座を奪還した金網デスマッチも名勝負だ。東京12チャンネルが金網デスマッチを放送したのは(シングル、タッグを問わず)これが最後だったが、まさにオーラスにふさわしい大流血試合も、絶対に「見届けて」頂きたいのだ。

VOL.5 6/30号

6月最後の更新です。先週の26日にはディファ有明の「ラッシャー木村さん お別れの会」に行き、木村さんに感謝の合掌をしてまいりました。元レスラーの方としては、弔事を読まれたアニマル浜口さんのほか、ザ・グレート・カブキさん、北沢幹之さんが来ておられました。浜口さんの弔辞には涙を流してしまいましたが、国際で一緒だった浜口さんならではの、温かい弔辞は素晴らしかったと思います。DVDのほうも発売日まで、あと1ヶ月半と迫りましたので、この「収録決定試合発表」のほうも少しピッチを上げて書き込みしていきたいと思います。
先週から昨日までに収録終了したのは下の9試合です。
(なお、先週、『上田馬之助は昭和54年が国際参加ラストイヤー』と書きましたが、昭和55年10・4に一日だけ再び国際のリングに上がっていました。お詫びして訂正いたします)
さて、ラインナップいきます!

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アニマル浜口、鶴見五郎 対 上田馬之助、ヤス・フジイ(昭和54年11・13 三条市厚生福祉会館)
マイティ井上 対 モンゴリアン・ストンパー( 同 )
ラッシャー木村 対 バーン・ガニア(IWA世界ヘビー級選手権 同)
ラッシャー木村 対 アレックス・スミルノフ(昭和54年11・14 長野県諏訪湖スポーツセンター)
寺西勇 対 モンゴリアン・ストンパー(同)
阿修羅原 対 バーン・ガニア(同)
アニマル浜口、マイティ井上 対 上田馬之助、ヤス・フジイ(IWA世界タッグ選手権=金網デスマッチ 同)
上田馬之助、M・ストンパー、鶴見五郎 対 A・スミルノフ、ジプシー・ジョー、キューバン・アサシン(昭和54年11・16 和歌山県体育館)
ラッシャー木村 対 バーン・ガニア(IWA世界ヘビー級選手権 同)



昭和54年11月の「デビリッシュ・ファイト・シリーズ」の中で行われた好試合の中から9試合をセレクト。なかでも注目すべきは「AWAの帝王」バーン・ガニア。これが国際へのラスト登場だったが、53歳のこの来日で木村を破りIWA世界ベルトを奪取した試合と、リターンマッチで敗れた試合が収録されている(このあと1年2ヵ月後、昭和56年1月に全日本へ来て馬場とシングルで戦ったシリーズが、現役として最後の登場)。スリーパー・ホールドの切れ味は全く衰えておらず、この木村との戦いの半年後にはシカゴでニック・ボックウィンクルを破り、AWA世界王座にも最後の返り咲きを果たしているのだから、凄いというほかはない。阿修羅原とのシングル戦でもガニアの本領は随所に発揮されており、(パワースラム気味の)ボディスラム一発でスリーカウントを奪っているのが、非常に新鮮な感じで説得力も抜群!プロレスラーとしてまだ1年5ヶ月しか経過していない時期の原に「やたらと大技を連発しちゃ、だめだよ」といわんばかりのボディスラムは非常に奥が深く、木村を破ってIWA世界ベルトを奪取した試合よりもガニアらしさが出ている感じだ(ガニアは1949年5・10のプロデビューなので、この時点でキャリア30年半)。ガニアの国際プロレス登場は昭和45年2月、昭和48年9月、昭和49年11月に続いて4回目(この間、昭和51年3月に一度だけ全日本に来てジャンボ鶴田試練の10番勝負初戦の相手になっている)だったが、技の連携、試合運びの巧みさという点では一番輝いていた時期かもしれない。いずれにせよ、このガニア3試合は見所がタップリ。記録的にみると、木村がIWA世界ベルトを奪われたのはこのガニア戦が最後で、老獪なガニアから「どのようにベルトを奪い返したか」、にも注目してほしい。
ガニアに続いての大物登場は『踏み潰し野郎』モンゴリアン・ストンパー(アーチー・ゴルディー)。日本プロレスに昭和46年に初来日(馬場のインターナショナル王座に挑戦して1‐1の引き分け)。昭和47年11月に日本プロレスに再来日し、そのあとカルガリーとアラバマでトップを取った実績を引っさげて、なんと7年ぶりの3度目の来日、しかも国際初登場がこのシリーズだったわけである。1936年の生まれだからこのシリーズ参加時点では43歳となっていたが、驚くべき肉体美で木村、草津、井上、寺西らをストンピングで散々苦しめた(ちなみに、私のアメリカの友人によれば、ストンパーは74歳の現在も、あの肉体美を保っているそうだ)。井上、寺西とのシングルマッチを収録したが「マジで頭部が踏み潰される!」と感じさせる凄まじい必殺技「ストンピング」のド迫力をとくとご欄頂きたい。私には、やたらと「フットスタンプ」を相手の胃袋に投下する今のプロレスへの「警鐘」にも見える。
金網タッグ・デスマッチによるIWA世界タッグ選手権は大流血の壮絶な結果となるが、マイティ井上と同期で国際に入門し(1967年3月)、渡米してフリーとなった挑戦者チームの一人、ヤス・フジイに注目。井上と藤井の仲については、このDVD冒頭の鼎談で井上本人の口から詳しく語られている。「国際の厳しい練習に音をあげて海外に逃げだしたビッグマウスの藤井に、実力差をみせつけてやる!」といわんばかりの井上の攻撃は、ガイジン選手相手に見せる気迫の何倍も凄まじい。そこをじっくり見て頂きたい。このシリーズからヒールに転向した鶴見五郎の暴れっぷりも見事で、それまではアマレス出身のテクニシャンというカラーで売っていた鶴見が180度の方向転換を図ったのがこのシリーズだった。上田、ストンパーと組んでジプシー・ジョー、スミルノフ、キューバン・アサシンと対戦する6人タッグが収録されているが、誰が敵だか味方だか全くわからぬ支離滅裂なマッチメークもマニアックで、国際マニアにはたまらない一戦だ。
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